了仙寺の宝物館には、黒船やペリー、幕末を中心とした異文化交流についての資料が多数所蔵されています。ここではその中のいくつかを紹介しながら、日本の異文化交流を振り返ります。年数回の展示替えを行います。

1854年3月、神奈川で日米和親条約が締結され、下田と函館の開港が決まり、その直後からアメリカの軍艦が次々と下田港に入ってきました。下田では了仙寺で、ペリー提督と日本側全権林大学頭との間で、条約の細かい取り決めが討議され、5月日米下田条約が締結されました。条約の中でもっとも重要なことはアメリカ人に日本の中を自由に歩ける権利「遊歩権」が与えられたことです。これにより、下田は、日本で初めて外国人が自由に歩くことを公式に許された町になりました。町中を自由に歩くことを許されたアメリカ人は、下田の町民といたるところで、小さな文化的な衝突を体験しました。了仙寺では異文化交流の中心となったことから、現在も「日本人から見た外国、外国から見た日本」をテーマに資料の収集を続けています。

左:四十二カ国人物図(江戸時代中期)   右:萬国人物写生図(天保12年)
江戸時代、鎖国の中で日本人は外国人の絵を描きました。ただし、絵師によって情報量に差があり、描かれた外国人は正確なものから、荒唐無稽なものまで実に様々でした。右の2点は江戸時代後期に長崎の絵師によって描かれた外国人、左が「大明人」(中国人)右が「イスパニア人」(スペイン人)です。写実的で、細部にいたるまでかなり正確に描かれています。鎖国というと、日本には外国の情報が全く入らず、日本人は外国について全く知らないと思っている方も多いようですが、長崎の出島を通じて、日本人はある程度の情報を知ることができました。左の2点は江戸時代中期に描かれた外国人の絵です。前述2点と異なり、荒唐無稽な想像上の外国人が描かれています。私たちから見ると、妖怪や宇宙人といったところでしょうか。つまり、当時の日本人にとっての外国人とは今の私たちにとっての妖怪や宇宙人のような存在と考えてよいでしょう。「外国人を見た」「外国へ行って外国人にあってくる」は「お化けを見た」「宇宙人のいる宇宙へ行ってくる」と同じです。l江戸時代の日本人と外国との距離は私たちが想像するより、はるかに離れているようです。

「下田の婦人異人をなぶる」『米利幹人下田湊入津の図』(嘉永7年)より
江戸の海の玄関口として、風待ち港として栄えた下田にはたくさんの船宿がありました。船を下りた船乗りたちはそこで遊んだそうです。「下田湊に長居はおよし。縞の財布が軽くなる」とうたわれています。しかし、黒船が入ってくると様相が一変します。日本の船が怖がって入ってこなくなってしまいました。船宿にすれば、商売上がったりです。とすれば、後ねらうのは黒船の外国人です。絵巻には、黒船の外国人が船宿で遊び、かなりぼったくられたと記述されています。そしてその中の一人が、遊ぶ金が続かなくなり、船の備品を持ち出してそれで遊ぼうとして、そのことが発覚し、処罰されたと書かれています。遊ぶ金欲しさに、会社や役所の金を持ち出すことは現代の日本でもよく聞くことですが、当時も全く同じことがあったようです。洋の東西を問わず、また昔と今を問わず、男の考えることは同じなのでしょう。

武州横浜於応接所饗応之図(安政元年頃) 手彩色木版画
嘉永7年、ペリーの2度目の来航の時、幕府がアメリカ側を接待した様子を、その献立と一緒に記したかわら版です。横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後に、日本側がアメリカ側に昼食を出しました。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作ったそうです。酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで百を超える料理が出されました。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になります。さぞかしすごい料理が出されたのでしょうが、ただアメリカ側には余り評判は良くなかったようです。濃い味に慣れているアメリカ人には、だしを利かせた薄味の日本料理は合わなかったのでしょう。ちなみにこの時、「九年母」というみかんがデザートの一つとして出されていますが、このみかん、今でも地方に行くと目にすることが出来ます。ただし、商品として栽培されているわけではなく、農家の庭先などに残っています。食べてみると、あまり甘くありませんが、香りは今のみかんよりも強く感じます。これを甘く感じる昔の人と比べると、私たちの舌は強い味に慣れてしまっているようです。

「見立葛の葉英国人の図」(文久元年頃) 彩色木版画
安政6年横浜が開港され、外国人の居留地が出来上がると、外国に関する情報を求めて多くの日本人が集まってきます。その中に江戸の浮世絵師たちがいました。彼らは貿易に活況を呈する横浜の町の様子や外国人達の生活を描き、そこから作られたおびただしい数の錦絵は横浜絵と呼ばれて、全国に広がっていきました。本作品は諷刺を利かせた珍しいもの。イギリス人が口に筆を加えて何か書いています。中央には「恋しくばたづね(訪ね)きてみよわが国は日本人のうらむ(恨む)いぎりす(イギリス)」と書かれています。これは浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』の「葛の葉子別れの段」から題材をとっています。人間の姿をした白狐が人間との間に子をもうけながら、白狐の化身であることがわかってしまい、姿を消すというストーリーだが、この作品ではイギリス人を狐に仕立てています。

ペリー来航かわら版より「平身低頭するペリー」 嘉永7年ころ 無彩色木版画
圧倒的な武力を背に高圧的な態度で幕府に開国を迫るペリー。何とか結論を先に延ばす「ぶらかし戦術」をとる幕府。どうも交渉においてはペリーに分があったようです。庶民は幕府の弱腰を非難し、責任者の阿部伊勢守を腰抜け老中とののしりました。これに対し、水戸斉昭は「異人は踏み潰せ。戦になれば神風が吹いて日本は勝つ。」と危ない主戦論を展開し、庶民の人気を集めました。このかわら版はそのような庶民感情を表したものの一つ。日本の奉行から三宝にのせた贈り物がペリーに渡されています。ペリーはそれをもらって平身低頭、手を合わせてお礼を言っています。「さんちょろ、さんちょろ」、おそらく「サンキュウ、サンキュウ」の意味でしょう。後ろの副官は涙を流して喜んでいます。対する日本側は奉行がごう然とペリーを見下しています。庶民の希望と幕府に対する諷刺が入り交じった当時の黒船に対する社会感情がよくわかるかわら版です。

アンベール「幕末日本風俗図絵」より「寺子屋の図」 1870年 無彩色銅版画
幕末日本に来航したスイスの対日通商条約交渉全権大使アンベールは日本の社会・風俗・文化についての詳細かつ膨大な資料である「幕末日本風俗図絵」2巻を1870年に発刊しました。その内容はすばらしく幕末の日本についての紹介本では最高のものと言えます。さてこの図は「日本の寺子屋風景」。先生の周りを囲んで、まじめに話を聞く子供、廊下で遊んでいる子供、机の上に頭をのせて居眠りをする子供。おしゃべりをしたり、犬まで持ち込んでいる子もいます。何か現在の日本の小学校の授業風景を見ているような図です。しかしこの寺子屋、教育システムとしては当時の世界のトップクラスでした。ペリーを初めとする外国人達は皆一般の日本人の教育レベルの高さに驚き、「将来この国は必ず欧米諸国を脅かす国になる」と述べていました。そしてそれは今現実となったのです。

「ペリー提督日本遠征記」より「横浜蒸気車の図」 ハイネ筆 1856年
ペリーは日本来航の時、多くの贈り物を日本に持ってきました。その中に蒸気車がある。これは蒸気機関車の4分の1の大きさで、実際にレールの上を走るものでした。横浜での日米和親条約交渉の後、会見場の近くで実際に走らせ、日本側の度肝を抜きました。
しかしそこは好奇心旺盛な日本人、侍の一人が客車の上にまたがり、レールの上を走る汽車の上で完成をあげたと言われています。その姿を思うと何か遊園地のおサル汽車の上にまたがる大人のような気がして笑いが込み上げてきます。さて図の中に電信柱が描かれているのがおわかりでしょうか。「江戸時代に電信柱」。奇異に思われますが、これもペリーの贈り物、電信機です。こちらも実際に披露されました。1マイル先に電信の発信機を置き、そこからメッセージを送ります。日本側は同時に同じ内容の手紙を持って馬を走らせ、どちらが早いか勝負したといいます。勝負は歴然。しかし日本側、懲りずに3回もやったというから、その研究熱心さには頭が下がる思いです。

「ペリー陸戦隊了仙寺調練の図」
ハイネ筆 (1856年)彩色石版画 84cm x 62cm
5月13日、ペリーは日米下田条約締結交渉のため、下田に上陸し、了仙寺に入りました。そして日本側との交渉に入る前に、境内において大砲や楽隊による観兵式並びに戦闘訓練の様子を披露しました。その近代的な装備や一糸乱れぬ訓練を見て日本側に戦意を喪失させようとしたものであったといいます。またこの訓練の様子は下田の一般の町民も見ることを許され、了仙寺は黒山の人だかりであったといわれています。また下田における米海軍の楽隊の演奏は、一般の町民を対象として行われました。これが日本最初の洋楽のコンサートです。この図は黒船の従軍画家ハイネの絵を特大版の石版画にしたものです。境内で訓練する米海軍を本堂の縁側の上から見物する日本幕府の高官とペリーを初めとするアメリカの士官たちが見られます。驚く日本側を見てペリーはさぞ御満悦だったでしょう。

「ペリー日本遠征石版画集」より「下田八幡神社前の図」
ハイネ画 1856年 彩色石版画
嘉永7年下田に入港したペリー艦隊の乗組員たちは続々と下田の町に上陸ましした。彼らは下田湾の中央にある犬走島から7里四方自由に歩く権利「遊歩権」を日本側から認められました。そして下田の町のいたるところを歩き、下田の町民と接しました。つまり下田は日本の民間異文化交流の発祥の地であると言えます。ペリーの従軍画家ハイネは下田の町を多く描いていますが、本作品はその中の一つ。八幡神社の前で一人の外国人が写生をしています。それを周りで珍しそうに眺めている日本人たち。赤ん坊を背負い、子供の手を引いた婦人や、ものをねだっている子供、それらを追い払おうとしている日本の役人が描かれています。ハイネの描いた図で日本の一般庶民が描かれているのは下田だけです。久里浜や横浜では役人しか描かれていません。そしてハイネ自身もそのような絵を描きたかったようで、彼の残した作品でも下田の図が圧倒的に多いことからもわかります。この図は黒船の町下田ならではの作品です。

「蒸気舩図並ノリ組人物」 紙本彩色 嘉永7年頃
黒船やペリー、乗組員を描いた極彩色の肉筆画です。描かれているのはペリー艦隊の旗艦「サスケハナ号」です。ここでは「シュスケマンナ号」とされています。長さが四十五間(約80m)、乗員300余人と書かれていますが、これは正確な数字です。しかし船の形がまったく違います。前と後ろに人の顔がデザインされ、その他非常にきらびやかな装飾が船全体に施されていますが、実際は装飾を省いた威圧感のある船でした。ペリー(「水師提督マツラウセペルリ」)にひげがありません。実際のペリーはこのようにひげを生やしていないのですが、日本人の描いたペリー像の多くがひげを生やしています。やはり当時の日本人にとってペリーは怖い存在だったのでしょう。その点このペリー像は本物に近い姿をしています。通詞役(通訳)や測量役、軍船の大将や楽人などかなり細かく描いています。人物の正確さと船の不正確さがアンバランスで、面白い作品です。

大阪城の図」 モンタヌス作 1680年 銅版手彩色
アムステルダムで発刊されたモンタヌスの『日本誌』の挿絵。モンタヌスは日本に来たことはありませんが、イエズス会やオランダの出島の商館等からの情報をもとに日本関係の書籍を数点出版しています。この大阪城の図は豊臣秀吉が建造し、大阪夏の陣で徳川家康によって解体される前の大阪城です。堀が二重に造られ、天守閣の屋根は金色に光り輝いています。実際の大阪城はこれよりもはるかに巨大で、城下町も回りに広がっていたわけですが、モンタヌスは実際には見たことがないので、緑の森に囲まれたヨーロッパの中世の城のイメージで描いたのでしょう。

東アジア図 リンスホーテン作 1596年 銅版手彩色
オランダの航海者リンスホーテンの『東方案内記』の中の東アジアの地図。左上に見える緑色のえびのような形をした島が日本列島です。下にのびている部分が中国地方。右に折れ曲がっているのが紀伊半島です。真ん中の細長い島が四国。下のほうの入り組んだ地形をしているのが九州です。つまり東日本がまったく描かれていません。当時、東日本にはポルトガル人宣教師たちがまだ入り込んでいなかったため、情報がまったく伝わっていなかったようです。それに比べて九州はかなり詳しく描かれています。同じ日本でも、世界との距離がこれだけ違うということでしょう。また日本の下にある丸い島は朝鮮半島です。16世紀後半のヨーロッパでは東アジアはまだまだ未開の地だったことがよくわかる地図といえるでしょう。

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