「天城越え」
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| 旧天城トンネル | 天城の道 |
下田街道は東海道の三島宿を基点に南伊豆の下田に至ります。天城を越えて半島を南北に縦断しています。古くは下田往還と呼ばれました。街道というと賑やかなイメージがありますが、それは平野部の中伊豆まで。奥伊豆の天城山中は「けもの道」と大差のない山道でした。標高1400m、年間降雨量3000mm、天城は高温多湿の山です。人の歩く道は草木がすぐに覆い隠してしまいます。切り立った岩の間を這うように進む道は「天城越え」と呼ばれ、人々から恐れられていました。
南伊豆の下田は帆船の寄港地として栄えた町です。どこかに行くなら海路の方が便利です。また奥伊豆(湯ヶ島付近)からは平野部の中伊豆に出る方がずっと簡単です。伊豆半島は古来から天城によって分断されていたのです。このような地理的事情もあって伊豆は陸路の整備が進まず、下田街道に人馬中継所ができたのは江戸中期の頃といわれます。幕末期に異国船に対する防衛のため幕府老中の伊豆巡見が行なわれ、これを契機に街道の整備が進み始めました。
安政年間、下田にアメリカ領事館が開設されると江戸〜下田間を外交使節団が往来するようになりました。初代アメリカ領事ハリスも陸路を使って江戸に向かったと記録にあります。下田街道は日本開国の道でもあったのです。その時の彼の日記には「天城にさしかかると垂直な崖に道が作られ、所々に岩を刻んだ階段がある。路は狭く、鋭角になっていて馬のひづめを置く場もない。これは道路ではなく、通路である」と記されています。幕末期においてさえ天城越えがいかに大変だったか想像できます。
天城越えのルートは時代によって何度も変わりました。幕末の頃は二本杉峠を越えだようです。吉田松陰もハリスも、唐人お吉も二本杉峠を越えました。南伊豆への物資輸送はもっぱら海路を利用していたのですが、明治中期に東海道線が開通すると状況が変わってきました。鉄道が物資輸送の主流になり、海上輸送が衰退してきたのです。こうなると鉄道に通じる道がどうしても必要です。南伊豆の人々にとって天城を越える道路の建設が死活の問題になりました。住民たちはこぞって「天城新道路建設案」を県庁に申請しました。ところがこの案は二度にわたって県議会で否決されてしまったのです。
下田の県議、矢田部強一郎は短刀を懐に県議会に向かいました。そして演台に短刀を突き立て「もし、この工事に反対する者があれば、本職はこの場で刺し違えて死ぬ覚悟である」と宣言しました。他の議員たちはみな呆気にとられ、”一瞬のうちに”道路建設が議決されたという話が伝わっています。こうして明治38年、13年の工期を費やした石造りのトンネルが完成しました。これが旧天城トンネル(天城山隧道)です。このトンネルが南伊豆の発展に果たした役割ははかり知れません。
昭和45年に新天城トンネルが開通すると天城越えのルートは現在の国道414号線に代わりました。ループ橋を利用すれば15分ほどで天城を通過できます。旧天城トンネルは65年間にわたる役目を終えたのです。下田街道という名称も今はなくなってしまいました。旧道を通行する人はもう誰もいません。しかし、ここを訪れる人は今も絶えることがありません。
天城を最初に有名にしたのは川端康成の「伊豆の踊子」です。戦後の小説では松本清張の「天城越え」でしょう。どちらも映画化され天城のイメージを人々に植えつけました。また「踊子」や「天城越え」などの歌謡曲も天城のイメージ作りに一役かっています。一度も伊豆を訪れたことがない方でも、「天城」という地名に自分なりのイメージを持っておられる方も多いのではないでしょうか。そういう意味で天城はイメージの山といえるかもしれません。
「天城越え」という言葉の重さはもうわかりません。しかし天城のイメージは私たちの心に焼き付いています。天城を訪れる人々の多くは、ご自分のイメージを確かめに来ているのではないでしょうか。
ちなみに旧天城トンネルは現存する石造りのトンネルとしては我が国最長だそうです。国の重要文化財にも指定されています。
なお本来の天城峠は旧トンネルの真上にあります。
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文豪がつづる「伊豆の魅力」
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| 修善寺には静かな寂びがある・ | 南伊豆の海。冬でも明るい・・ |
伊豆をテーマにした文学はいろいろあります。川端康成の「伊豆の踊り子」、井上靖「しろばんば」、松本清張の「天城越え」などが代表的な作品でしょう。伊豆は多くの作家に愛されました。人々を惹きつける伊豆の魅力とは一体何でしょうか。文豪たちがつづった伊豆の魅力について紹介しましょう。
川端康成は「伊豆序説」の中で、伊豆の魅力を次のように述べています。「伊豆は海山のあらゆる風景の画廊である。伊豆半島全体が一つの大きな公園である。一つの大きな遊歩場である。つまり伊豆半島のいたる所に自然の恵みがあり、美しさの変化がある。」「修善寺付近には静かな寂びがある。熱海付近には花やかな明るさがある。伊豆山から伊東にかけての海岸線は、南欧を思わせて伊豆の明るい顔である。」
風景の変化については井上靖も同じようなことを述べています。「伊豆の西海岸の海の色は若者たちの心を多少感傷的にし、文学へ駆り立てるだけのものは持っていたようであった。そこへゆくと東海岸の海はずっと明るい。」「半島の突端部の石廊崎へ行くと、ここはもう伊豆の海ではなく、全く太平洋の荒さと大きさを持っている」。そして「伊豆の旅の楽しさは海の変化の楽しさである」。井上靖は天城湯ヶ島で育ちました。自身の幼年時代を題材にした「しろばんば」は当時の中伊豆の風物を生き生きと現しています。
芹沢光冶良は少年期を沼津で過ごした人です。後年パリに留学した時、景色の美しいブルターニュにぜひ行きなさいと勧められ、ある年の9月に2週間の旅をしました。「しかし、私はブルターニュを旅行しながら、伊豆の風景ばかりを思い出した。フランスで最も美しい海岸だというが、伊豆の海岸のほうが風景に変化も多く、光が多いような気がした。」
3人の文豪に共通しているのは「風景の変化」です。つまり伊豆の魅力は特定の一ヶ所にあるのではなく、半島全体の風景、それも一コマごとに変化する風景だと言っているわけです。川端康成は伊豆が「詩の国」であると言っています。井上靖も伊豆の風景は若者を「文学に駆り立てる」と述べています。どうやら「風景の変化」と「ロマン」が共通項のようです。南国的風景、寂びの風景、明るい風景、荒々しい風景、さまざまな風景が半島の中に連続しているのが伊豆の魅力ではないでしょうか。
伊豆には大きなテーマパークもありません。歴史といっても源平以降のものばかりです。にもかかわらず多くの人々を惹き付けるのは、伊豆が「風景の画廊」だからなのでしょう。画廊であるならば絵画を鑑賞しなければなりません。気に入った絵を見つけたら立ち止まってしばらく鑑賞し、そして次の絵に移ります。隣りにはもっと素敵な絵が掛けてあるかもしれません。
あなたが、いい伊豆と出会えますように・・。
「子供と遊ぼう伊豆」について
我が家は伊豆の真ん中に住んでいます。家内と娘の3人家族です。娘がヨチヨチ歩き始めた頃から伊豆半島を徘徊するようになりました。発端は子供を野外で遊ばせるためでしたが、そのうちに親の方が夢中になってしまいました。遊び場を探して歩くうち、あらためて伊豆の魅力にハマってしまったのです。
春は花、夏は海水浴、秋は夕陽、冬の木漏れ日、私たちはそれぞれの季節の中で遊びました。そして伊豆の自然に圧倒されたのです。海中で見た色とりどりのサカナ、山奥の保育園に咲いていたひまわり、イチョウの落ち葉でグランド一面が黄色くなった小学校。伊豆は四季折々に姿を変え、私たちを迎えてくれました。
ここでは私たちが実際に訪れた遊び場を紹介しています。しかし、そこでどんなふうに遊んだかは記していません。というより書けなかったのです。書いても意味がないと思いました。その場で思いついた遊び、ふさけっこ、笑い合った冗談など、それがどんなに楽しかったとしても、それは家族だけに通じるもので他人様から見たら面白くもおかしくもないことだと思えるからです。
「観光」とは光りを観ると書きます。伊豆では風と光りが明るいのです。いいものに理屈はいりません。「いいものはいいね」です。私たち家族は同じ光りを見、同じ風を受けて遊びました。娘も今では小学3年生になりました。そろそろ自分の世界ができつつあります。少し寂しい気もしますが、それは自然なことだから仕方ありません。むしろ幸せな時間を持てたことを娘に感謝しなければなりません。
子供は遊びを通じて成長します。親のほうも子供と遊んで成長するのかもしれません。子供が喜べば親もうれしいのですから、これほど幸せなことはありません。究極のハッピーといえるかもしれません。しかし残念ながら一緒に遊べる時間には限りがあります。子供はやがて成長するからです。あなたも究極のハッピーを味わって下さい。
それでは、いい旅を・・。