フランス歌日記(「婦人通信」より転載)
  
                  美帆シボ 

1.言葉という樹1月号より    

2.内なる鬼(2月号より)
     

3.村に満ちたフランス(3月号より)

.市場(マルシェ)を詠う(4月号より)

5.マラコフの春(5月号より)

6.アルデッシュの山間より(6月号より)


アルデッシュの山間より

 

                                                              

 

 パリから車で南に走り続けて七時間後、新緑のアルデッシュ地方に入った。夫、息子、娘にそのフィアンセも加わり、家族そろっての旅である。目的地は夫の姪セシールと恋人のクロードが棲む、地図にない集落だ。まずはティンという十件ほどの村落を目指し、それからさらに奥まった細い道を辿って谷底の家に到着した。

セシールは二十五人の親戚を三十歳の誕生パーティーに招待していた。すでに到着していた人々と、頬にビズ(軽いキス)を右左に四回くり返す挨拶を交わした。頬を寄せて、口をちゅっと鳴らす程度だが、全員に四回すると計百回になる。ビズの数は地方の風習によって異なり、二回の人や三回の人もいるので、四回する地方の人がもう一度顔を差し出すと、相手にそっぽを向かれることもある。

 セシールもクロードもこの土地の生まれではない。パリ郊外にエンジニアの子として生まれたクロードは、夏のバカンスをアルデッシュで過ごし、幼いときから自然に親しんだ。しかし、両親はまさか息子が農業に従事したいと言い出すとは思わなかったらしい。

 一方、経済学博士号を習得して研究者になったセシールは学生時代に、夏場だけ観光地としてにぎわうアルデッシュに働きに来た。そのとき知り合ったクロードは十四才も年上で離婚協議中、二人の大きな子供がいた。才媛の誉れ高いセシールがなぜ、と失望したのは両親だけではない。しかし、セシールはクロードと過疎地に住んで、栗の加工業を営む選択をした。娘の決意にとうとう親も従った。棲家に親戚を集めるのは、二人の愛を認知させる行為だ。

この日のために、羊を一頭捧げ、草地で丸焼きにした。長時間かけて焼き上げる羊を囲み、燃え盛る火を見ているうち、一族結束の契りを結んでいるような気がした。

 食後、夫と散歩していると、老人がひとり向かいからやって来たので、挨拶をかわした。かつてこの集落に棲んでいたという。

「昔はなあ、このお屋敷も立派なものじゃったが・・・・」となつかしげに叢の館をみつめた。

 

万緑のアルデッシュの谷おりゆけば崩れ屋敷に石の十字架 

 

 山間の不便な土地に移り住んで、段々畑を築いた民には、十六世紀の宗教戦争を逃れてきた人々が多かったという。旧教といわれたカトリックが勢力を高めれば、虐殺を逃れて新教(プロテスタント)の人々が、また新教が強い土地からはカトリック教徒が来て身を潜めた。のちには蚕の養殖も取り入れられ、お蚕御殿ができた時代もあったという。だが、繁栄の時期は短く、今では蚕用の桑の木が雑木に混じってあまり目につかない。

「果物の収穫時には、娘らが平地の農家に出稼ぎに行ったものだ。だが、行き先で余裕のある農家の息子と結婚したり、町中に仕事を見つけたりして、帰ってくる娘は少なかった。村を守って残るのは男たちばかりになってなあ……」

 フランスでも農家に嫁が足りなくて、外国人の嫁探しをしたことがある。それでも、この老人はまだ恵まれていたのだろう。年老いて、娘の家に引き取られ、たまに故郷の空気を吸いに連れてきてもらうという。

 あちこちに残っている家のいくつかは都会に住む人々が別荘として買い求めたが、夏場や連休のとき以外は雨戸が閉まったままだ。また、蔦に覆われた無人の家の多くは、遺産相続問題でもめて、誰のものとも決まらないうちに崩れかけている。一旦、家が売りに出されれば、最初に飛びつくのは、ドイツ人、イギリス人、オランダ人だ。太陽を求めて南欧に家を夢見る北国の人々は、中流フランス市民よりずっと多額の金を積む。そのため、フランスの田舎でも不動産が高騰して、ますますフランス人の手に届かなくなってゆく。

 この谷底から山道を登ってゆくと、五月の蒼穹に挑むかのごとく、山を覆う金雀枝(えにしだ)が光を放っていた。かつて屋根を葺くために植えられた植物を、もはや刈る者はいない。

 

屋根をふく金雀枝(えにしだ)を刈る人絶えて眩しかりけりティンの山肌

 

(フランス平和自治体協会顧問)

 

l          上記の連載エッセイは「婦人通信」六月号に掲載されています。七月号は2000年度の朝日歌壇賞をいただいた歌にちなんだ「人を恋うロバ」です。購読、宣伝誌をご希望の方は下記にご連絡ください。

5.マラコフの春

                                             

 

 大河は都市を生みだす。

その例にもれず、セーヌ河に浮かぶシテ島とサン・ルイ島も河船運輸の拠点として発展し、パリ発祥の地となった。  

ノートルダム寺院がそびえるシテ島を核として、外へ外へと拡大したパリは、その都度、周囲の地下を貪り、採りだした石を地に高く積んでいった。こうして出来上がった「花の都」の下には、巨大なアンダーグラウンドの世界がある。見事にはり廻らされた下水道のみならず、採石によって生じた迷路や大空洞があり、骸骨の並ぶカタコンブ(地下墓地)に利用されたり、第二次大戦のナチス占領下には、レジスタンス(対独抵抗運動)の総司令部が置かれたりした。

貪欲に膨張する大都市の牙は、石を求めて、郊外の地中も深く噛み砕いたから、現存の建物の下に採石場の空洞があってもおかしくない。古い家や土地を購入する前に、その有無を調べておかないと、後悔することがある。地下に空洞があると、建物を改造して重量が増した場合に、陥没のリスクが生じるから、元採石場を自費で埋めなくてはならないのだ。

 パリ南西のマラコフ市も場所によってはその要注意地帯である。マラコフの石がどこに持ち去られたのかと思えば、ルーヴル宮、つまり、現在のルーヴル美術館だ。なんとも華麗なる変身を遂げたものである。一方、採石した分できた空洞では一時期「パリのキノコ」(マッシュルーム)が栽培され、決して無駄にされなかった。

 ところで、このマラコフ市はたかだか百二十数年の歴史しかない若い町である。かつてはヴァンブという町の一部でプチ・ヴァンブと呼ばれた。当時はまだ郊外とパリ市は城砦で区切られていて、パリに入る飲食物は課税された。当然、パリ市内の飲食は高くつく。そこで、一八五六年に、シュヴロと言う人物が、プチ・ヴァンプに安い飲食店を並べたレジャーセンターを作ろうと思い立った。時はクリミア戦争直後、フランスはロシアのマラコフで勝利を収めたばかりであった。戦勝で高まった知名度を利用して、構築されたセンターは「マラコフの塔」と名づけられたが、プロイセンとの戦争で標的となるのを避けるため、フランス自ら塔を破壊した。

しかし「マラコフ」は塔のあった地区の名として残り、やがて町の名になったのは、ヴァンブからプチ・ヴァンプが独立した一八八三年のことである。無産者階級が多かったプチ・ヴァンプの住民は結束を強め、自分たちの理想とする市制を目指した新しい町をマラコフと命名した。福祉政策に力を入れ、一九二〇年代には三十キロ離れた土地にある城を購入して、子供たちのバカンスセンターを実現している。しかも、女性に選挙権がなかった一九二五年に、女性の市会議員を選出したユニークな町だ。残念ながら、国の法律は女性議員を認めなかった。

 一九六〇年代、高層団地の建設がこぞって行われたころも、町中を高層建築で埋め尽くすことを避けた。おかげで、パリに隣接していても、マラコフ市に着くと、静かな町のゆったりとした雰囲気に心がなごむ。町中には規模の小さい公団がいくつも建設された。低所得者のために、町の住居の四十パーセントは賃貸しの公団になっているが、小さな庭のある家も多く、春になると、路地にはリラの香が漂い、藤の花が咲き乱れる。この季節になると、夕暮れの小路をそぞろに歩く楽しみがつきない。

 

むらさきの藤の花房まとい立つ人無き家の香に誘われつ 

 

 そんなマラコフの評判は口から口へと伝わり、次第にさまざまな雑誌にも紹介されて、今やあっという間にアパルトマンや家が売れてしまう。マラコフに住み着いた人々は、人と人とのつながりが少ない都会の暮らしに対比して、気安く言葉を交わせる村のような人間関係を誇りに思うとき、自分の町をマラコフ村と呼ぶことがある。春ともなれば、マラコフの村人が路上で話しこむ姿がよく見られる。花薫る季節はとりわけ立ち話の時間が長くなるようだ。

 

立ち話 子は子に見入るリラの下

 

l          上記の連載エッセイは「婦人通信」五月号に掲載されています。六月号は南仏の「アルデッシュの山間より」です。購読、宣伝誌をご希望の方は下記にご連絡ください。

「婦人通信」編集部 電話03−3401−6147 fax 03−5474−5585

 

.市場(マルシェ)を詠う                                               

 短歌をはじめたころ、私は五句三十一音の韻律にのせる素材を思い浮かべ、ひねくりまわしていた。だが、所詮、それは言葉の遊びの域を出ない。まもなく嫌気がさし、もう短歌は止めよう、と思ったが、秀歌を味わう楽しみは捨てがたかった。と、ある日、栗尾根文子さんの歌に出会った。

 

おぎろなき空と大地の間(あはひ)にて風を聴きゐる鹿たちの耳

 

ケニアの広大な自然の中で一見のんびり構えながら、鹿は身の危険を感知すべく耳を風に向ける。栗尾根短歌の数々は『サバンナの歌』と題するエッセイのなかに珠玉の輝きを放っていた。「人間もとどのつまりは……牙も角ももたない最も弱々しい動物」と自覚し、まぶしいほどの生命力と凄まじい死の連鎖を詠みあげた彼女の歌に誘われて、私は短歌の世界にとどまった。

しかも、『サバンナの歌』が掲載された同人誌「欧州短歌」は、ロンドンの金融界に勤める歌人・渡辺幸一さんが発行したものだった。以来、人種問題や政治的な素材を鋭く詠んだ渡辺さんの歌から、「社会詠」や「時事詠」を学び、今まで目をそむけていた実生活を歌の素材として、じっくり観察するようになった。その最初の対象がフランスのほとんどの町にあるマルシェ(市場)であった。

新鮮な食料を手にいれるために、マルシェは欠かせない。私が住む町では、日をたがえて二箇所で市が立つ。私の住居にもっとも近い市役所前広場のマルシェは、日曜日ともなれば隣接したパリからも客が来るほど人気がある。 

 大きな広場に週三回、午前中だけテントを建てた店が並ぶほか、広場前の建物の一階は百店舗が入る公設市場である。魚肉類、野菜・果物を売る店のほかに、チーズや香料の専門店、花屋、雑貨屋、靴屋、ときにはベッドや家具の店も出るし、口上巧みに客寄せをして、台所用品や家事一般の新製品を売りさばく者もいる。

 そんな賑やかなマルシェも、雨の日は人足が遠のく。広場に立てたテントは数えるほどで、雨をしのぐ建物内の店にも活気がない。くさりきった表情の店主も手持ち無沙汰だ。ところが、よく透る声で、かろやかに歌う人がいた。自家栽培の野菜や果物を直売している八百屋のおやじさんだった。短い髪はくるくるカールして、小さく青い目がいつも笑っている。

 

とりたての野菜をならべる巻き毛のジャン歌えば雨の朝市はなやぐ

 

 そのころは、気づかなかったが、私の夫が余暇に野菜づくりをはじめてわかったことがある。雨が降ると、夫が「天の恵み」と喜ぶようになったのだ。それまでは、青空ばかり望んでいたというのに。もしかしたら、あのジャンが客足の遠のいた雨の日にも陽気に歌っていたのは、農業者として雨を喜んでいたのかもしれない。

私は一人納得して、その後もたびたび彼の店に寄った。ある日、長い客の列に加わって待ちながら、並べられた野菜、ハーブ、切花から卵までじっくり観察した。大量生産の農作物を売る店と異なって、蕪だけでも三種類あり、今ではあまり手に入らなくなった野菜も売ってい。ようやく、私の隣の人が注文する番になった。七十歳くらいの品の良いご婦人だ。

「まだモナリザがあるかしら」

問われたジャンの奥さんが、何キロ、と聞きながら手にしたのは、じゃが芋だった。シャルロットという女性の名前のじゃが芋は美味で、私もよく買うことがある。けれども、モナリザというのは初耳だった。誰だって、思い浮かべるのはダヴィンチの絵だ。

「そのモナリザ、おいしいの」

ジャンの奥さんに聞いてみた。

「火を通すと崩れやすいから、ポタージュやマッシュポテトにするとたまらなくおいしいのよ」

と、にこやかに教えてくれた。

 売り子が客との世間話や軽口話に興ずることもあれば、客が気安くなった売り子を指名することも珍しくない。友人とばったり出会うこともよくある。マルシェに根強い人気があるのは、人と人とのふれあいの場だからである。

 

モナリザといふ芋を売る春の市

l          上記のエッセイは「婦人通信」四月号に掲載されています。栗尾根文子さんの「サバンナの歌」はこのサイトの「詩歌のシンフォニー 1」に抜粋を紹介しましたので、そちらをご覧ください。五月号は南仏の「アルデッシュの山間より」です。購読、宣伝誌をご希望の方は下記にご連絡ください。

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3.村に満ちたフランス    

 世界でもっとも外国人観光客が多い国、それはフランスである。一年間の観光客の合計はフランスの人口約六千万人を超えてしまう。

 日本の視察団のお手伝いをする機会があると、私はフランスをよりよく理解していただくために、クイズ式の遊びをすることがある。

「フランスの国土は日本の何倍かご存知ですか」

前もって知識を仕入れている人は別として、多くの人が五倍くらい、と答える。一・五倍ですよ、と言うと、たいてい驚かれる。

「それでは、日本に比べて、市町村の数はどれくらいでしょう」

 この問題を出すと、しーんと静まり返る。フランスはともかく、自国の市町村の数を知っている日本人はあまりいない。

 フランスには三万六千五百六十七のコミューン(市町村)がある。だから、市町村の数は日本の十倍以上だ。この数はフランス革命の後、つまり十八世紀の終わりころから、ほとんど変わっていない。だいたい、フランス人は合併を好まない。日本も明治時代までフランスに勝るとも劣らぬたくさんの市町村があったが、合併に合併を重ね、大幅に減少した。ということは、日本人はフランス人と正反対で合併好きということだろうか。    例えば、人口二十四万人もの清水市と静岡市の合併などはフランス人にとって理解しがたい。

「清水の次郎長が静岡の次郎長になったのなら、森の石松も危ないでしょうか」

 私は気になって、パリ在住の日本人ジャーナリストにたずねた。

「日本政府が合併を強要していますからねえ。で、森は市ですか、町ですか、村ですか」

 逆に聞かれて、たしか、町だったような、とおぼろげに思った。だいたいが、フランスには市町村の区別がない。市も町も村も、みんなコミューンと言う。コミューンの長はメールと呼ばれる。だから、日本人にメールの肩書きを持つフランス人を紹介するときに困るのだ。市長と訳すべきか、それとも町長なのか、村長か、区別のしようがない。フランスでは人口の数によってコミューンの表現を変えるという格付けをしない。

あえて、日本式に人口5万人以上を市とした場合、フランスで市に該当するコミューンは百十二だけで、コミューン総数の〇・三パーセント。一方、六九九人以下のコミューンは六七・六パーセントを占める。

フランス人は自己紹介をするときに、どんなに小さくても、まず自分のコミューンの名前を誇らしげに告げる。それから、どの地方の、どの辺りにあるのか説明する。合併して、自分のコミューンの名前が消えることなど、とても我慢ならない。合併しなくても、小さなコミューンで出来ない公共事業や行政は、その目的ごとに隣接のコミューンと共同企画をして解決する方法があるではないか、と考える。

合併どころか、フランスには、たった百年数年前に、分裂して出来た新しい町さえある。その若い町にさえ、町の名の謂われがあり、語りつがれている歴史がある。それなのに、なぜ日本ではかくも容易に市町村が合併するのか。

村が消え小さき町の名も消えて謂われも消ゆる我が母国とや 

 

私が生まれた町も、川向こうの市に吸収されてしまうと言う。帰郷のおりに、様々な人に質問してみたが、「上の人たちが決めたことだから、仕方ない」という返答が大半だった。問題意識そのものがないようにも感じられた。住民が参加できるもっとも身近な政治形態が市町村だ。その地方自治に無関心であったら、国の政治に対してさらに人任せになってしまわないだろうか。

市町村の数が少ない方が、国は統治しやすい。しかし、国民には必ずしも有利ではない。合併によって、まず議員や職員の数が減らされる。公共サービスは減少し、民間委託が増えるだろう。その分だけ住民の声は届きにくくなってゆく。フランス人の多くはそれを自覚しているようであるが、果たして日本人はどうなのだろうか。

一票をパリで投じるその刹那ぬばたまの夜の祖国(くに)を思へり

 

l         上記のエッセイは「婦人通信」三月号に掲載されています。

四月号は私が住む町「マラコフの春」です。

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2.内なる鬼    

フランスの祭りにはキリスト教に関わるものが多い。しかし、そのほとんどが自然現象に大きく左右された農耕社会の慣習を取り入れたものである。例えば、イエス・キリストの復活を祝う復活祭は、かつて「春分の日」の祭りであった。この時期には、街角のパン屋や菓子屋にはウサギ、魚、鶏などの形をしたチョコレートや、卵型のお菓子があふれて、子供ばかりか大人もつい見とれてしまう。いずれも生殖能力が旺盛な生き物を象ったものだ。

復活祭の日には、華やかな紙に包まれた小さなチョコレートの玉子を袋に入れて、庭の草むらのあちこちに隠しておく。すると、子どもたちが目を皿にして探す楽しい遊びもある。

クリスマスはノエルといい、語源は「(太陽の)生誕」を意味する。もともとは、冬至の翌日から日照時間が長くなる現象を喜ぶ祭りだった。ノエル前夜は家族が集まって、フォア・グラ、生牡蠣、エスカルゴなどの美味・珍味のほかに、栗を添えた七面鳥などの料理を味わい、最後は薪型のケーキを分けあう。その後、子供も大人も居間に飾ったモミの木の下に自分の靴(または靴下)の片方を置く。子供がベッドに入って眠ったころを見計らい、大人たちはそれぞれのプレゼントを出して、靴の周りに並べる。翌朝、子供たちがはしゃいで包みを開く。今では、家族大集合のための祭りになっている。

 私にとって、もっともなつかしい日本の祭りは桃の節句である。娘が生まれた時、私の雛人形をフランスに持ってきたいと母に告げたが、すでに消失していた。昔は川に流し、今では雛人形を集めて焼くという。私は唖然とした。雛人形の顔は時代によって変わるという。古いものを大事に保存するフランスでは考えられないことだ。

 一方、私が長い間忘れていたのは節分である。たまたま手にした新聞の「節分」という文字が目に飛び込んで、はっとしたのは四十代の終わりであった。

 思えば子どものころ、画用紙に鬼の顔を描いて顔につけ、大きなビニール袋を片手に夜道を歩きながら、兄やいとこたちと家から家をまわったことがあった。どの家も綺麗に掃除したお座敷に子ども達を招きいれた。家の主がいり豆とお菓子を混ぜた籠を片手にかかえ、一握りずつ「鬼は外、福は内」と叫びながら、ばら撒くと、子鬼らは四つん這いになって必死にかき集めたものだ。

フランスに来てから、私はいつも福を呼びつづけたが、鬼を追い出すことをすっかり忘れていた。

 

いつしかに節分もわすれ我が内の鬼をあやして異国に暮らす

 

 フランスにも鬼(オーグル)という言葉がある。「フランス人にとって、鬼ってどんなものなの」と夫にたずねると、「恐ろしい姿形の男女で、子どもを食べるのさ」と答えた。フランスの鬼の存在は小さい。ちなみに、「鬼ごっこ」の鬼はフランスでは猫だ。「鬼のいぬ間に洗濯」も、「猫が去って、鼠が踊る」と言う。「鬼が出るか蛇が出るか」は、「美女が出るか、野獣が出るか」になってしまう。

フランスに比べて、日本には「鬼」にまつわる表現や、鬼をテーマにした民話・創作が多い。しかも、日本の鬼は恐ろしいだけでなく、時にはユーモラスで、滑稽で、物悲しい。いつからか、日本の鬼には、人の心が投影されるようになったらしい。

 ある冬の夜、眠れないままじっと横たわる私の耳に、遠くから低く鳴る雷が聞こえてきた。起き上がって窓辺に立つと、薄暗い路を黒い影がよぎった。犬か、人か、それとも……。

 

寒雷や身を起こしたる我の鬼 

 

 この句を作って九ヵ月後、私は「新緑に消えた鬼」の歌に出会った。私の敬愛する歌人、島田修二先生が三十代に詠まれた歌である。

 

はるかなる新緑の中に妄想の鬼一匹を見失いたり

 

先生に再びお目にかかることが出来るものなら、この歌の話を伺いたかったが、ふいに世を去られた。見失った鬼を追い求めるかのように。合掌。

 

l       上記のエッセイは「婦人通信」二月号に掲載されています。三月号は日本とフランスの市町村の合併問題にふれた「村に満ちたフランス」です。

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「婦人通信」編集部  電話03−3401−6147 fax 03−5474−5585

l         なお、馬場あき子先生の名著「鬼の研究」がちくま文庫から出版されていますのでお勧めします。島田修二先生の歌集「渚の日日」も短歌新聞社から文庫として出版されました。


1.言葉という樹

 異国で長く暮らせば暮らすほど、その国の人になってゆく、と私は思っていた。
ところが、日本で生まれ育った歳月とフランスでの生活が、あと数年で半々になるという頃、それまで覆われていた私の日本人の芯のようなものがむき出しになってきた。よく言えば迅速、悪く言えばせっかちな日本人気質では、おおらか過ぎるラテン系フランス人の仕事ぶりに苛立つことが多い。
 しかも、私の内に聳え立っていた日本語という樹が、一枚ずつ葉を失い、ふたたび芽吹かなくなったかのように、母国語の衰えを感じはじめた。
 当時、日仏交流や平和会議のために飛びまわっていた私の生活は、傍目には充実したものに見えただろう。しかし、そのさなかに焦燥感が募っていった。
 ある日、パリの日本人向け情報誌に掲載された「オランダ歌句会」会員募集が目にとまった。およそ短歌や俳句に関心のなかった私が、フランスから通信会員として、おずおずと加わったのは1998年のことである。
 外国生活が長引くと、一般的に母国語は衰えてゆく。私の場合、まるで現代日本語の学習過程を遡るかのように、まずカタカナの外国語、次に漢字からなる熟語を忘れはじめたが、器の底を覆うようにしっかり定着しているのは平仮名で書く言葉であった。
 日本に行っても、次々新しい言葉が生まれていて、今浦島になった思いをしたことがある。日本で生まれる造語はフランスより多いような気がする。日本語が造語を作りやすいだけでなく、より速く、より遠くへと経済活動を優先する社会の賜物かもしれない。情報と交通手段の発達はよくも悪しくも都会と田舎の差をなくした。

帰るたび知らぬ言葉が増えている行く街角に田舎の駅に

 たとえば、リストラという新語をはじめて耳にしたときは、思わず意味を問い返したものだ。それが英語を略化した言葉であると知り、直訳すれば再編成か、と納得した。が、その途端、じゃあ合理化とどう違うの、とまた疑問がわく。造語によって、現実感を伴った言葉を葬り、意味をあいまいにすることもできる。「臨時雇いです」というより、フリーターです、と言うほうが、現実の惨めさに鈍感でいられる。
 そうした新しい言葉に追いついてゆく困難さは、日本国内に住んでいても変わらないだろうが、外国からたまにやってくる私には、それだけ印象が強烈だ。
 では、短歌によって、どれだけ私の内なる日本語の樹が蘇ったのか、と問われても、自分で評価はできない。少なくとも、短歌をはじめたお蔭で、数々の秀歌にめぐりあい、それを呪文のように口にする喜びを知ることができた。
 それまで、フランス語の流麗な詩や滔々とした演説に比べ、母音の多い日本語の響きが硬く思われたが、五七調の韻律がかくも日本語を美しく引き立てることを、異国でようやく発見したのだった。だが、その韻律はあまりに魔術的であるゆえに、五七調にのせさえすれば、素晴らしい歌ができたような錯覚に陥ってしまうことさえある。できたての歌に浮き浮きして、一夜明け、覚めた頭で読み返すと、自作の歌の拙さが目についてしまう。がっかりしながら推敲をはじめれば、今度は言葉のひとつひとつが疑問の種になる。この言葉の本来の意味はなにか、こんな使い方をしてもよいのだろうか、という具合に。
 そこで、広辞苑をどおんと机に置いて、調べはじめる。すると、時代とともに変わってきた言葉の意味や、使い方を引用文のなかに見つけて、私はいつの間にか遠い時代に思いを馳せているのである。

母国語のひとつ言葉の源をたどりて我は「時」をたびする
                                                       (フランス平和自治体協会顧問)

l       上記のエッセイは「婦人通信」一月号に掲載されています。二月号は日本とフランスの行事や慣習にふれた「内なる鬼」。

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