**北丹鉄道**

当初、福知山線福知山から由良(宮津線丹後由良付近)を結ぶ鉄道として北丹軽便鉄道が設立、第一期工事線を福知山〜河守、第二期工事線を河守〜由良とし建設を開始、大正12年に福知山〜河守(こうもり)間を開業した。
しかし、二期工事線の河守〜由良間は、資金難と宮津鉄道の認可計画線(宮津〜河守)と重複することから、中止となった。
宮津鉄道は開業時に北丹鉄道に買収される事を条件に認可を受け、測量を開始したが、大江山を貫くトンネルに莫大な資金が必要になり、結局会社設立に至らなかった。
戦後、宮津への直通計画が再燃し、沿線市町村や北丹鉄道・丹後海陸交通などにより、宮津鉄道建設促進期成同盟会を設立、国鉄に北丹鉄道の編入と河守〜宮津間の鉄道建設の請願運動を行い、昭和28年に国鉄の建設予定路線に宮守線(宮津〜河守間)が組み込まれる事となった。
北丹鉄道の経営は苦しく、モータリゼーションの影響と沿線の過疎化から益々業績は悪化、また由良川の河川敷に軌道線が有ったため、頻繁に水没し経営を圧迫していた。
昭和41年に宮守線が着工されるが、44年に河守鉱山が閉山、由良川の堤防建設による軌道線問題も浮上し、昭和45年に会社解散を決定する。
宮守線の福知山延長運動のかねあいから、廃止はせず昭和46年2月で休止。福知山延長の目星がついた3年後の49年2月28日に正式廃止された。
翌年、宮守線は宮福線(宮津〜福知山)に計画を改め、さらに第三セクター宮福鉄道(現、北近畿タンゴ鉄道宮福線)が建設を引き継ぎ、昭和63年に福知山〜宮津間を開業することなった


<路線図>
   福
 福 知 下 上 下 公 蓼 河
 知 山   天 天
 山 西 川 津 津 庄 原 守
 ○−○−○−○−○−○−○−○
 ふ ふ し か し ぐ た こ
 く く も み も じ で う
 ち ち か あ あ ょ は も
 や や わ ま ま う ら り
 ま ま   づ づ
   に
   し


戦前の入場券。軟券というよりは、和紙のような券紙に印刷されている。
上天津停留所の券(右)の様に「停留所」と表記された入場券は珍しい。


戦中の小児常備乗車券。福知山西の券は影文字入りだが、河守の券は印刷簡略化のため影文字が省略され黒で印刷されている。



戦後の半硬券乗車券。赤地紋は初期の券、青地紋は末期の券。


二等級制時代のD型補充片道乗車券。補充券は晩年まで硬券が使用されていた様である。


Aがた鉄道省・国鉄連絡乗車券。下天津の券は戦前の券で、着駅丹波市(たんばいち)は天理市を経て現在の桜井線天理。
河守の券は戦後の券で、着駅尼崎港は福知山線の支線で、昭和56年旅客廃止。


A型往復連絡乗車券。連絡の常備往復乗車券は珍しい。


下天津からの省線連絡準常備乗車券。この画像では解りにくいが、D型券より若干縦長のサイズである。


特別乗車券。株主優待乗車券などのように頒布された物と思われる。


車内乗車券。簡素な活字で造られた地図式の券である。


終戦直後の省線からの連絡乗車券。和田山の券は戦時特別運賃表示がある。
宮津の券は、大変遠回りな連絡券である。


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