異文化コミュニケーション(1)

「顔を持てない日本人」
昔「ここが変だよ、日本人」という番組がありました。日本にきている外国人の人たちと芸能人の人たちが日本の文化、社会、価値観について討論する番組です。何回か見ましたが、お互いに的外れな主張をしているのが気になりました。コミュニケーションになっていないのです。お互いが自分の文化についての理解が不十分であるため、相手の文化を攻撃することで自分の価値観を守ることに終始していました。よく「国際化」「国際人」という言葉を耳にしますが、「異文化コミュニケーション」についての理解の不足が、日本人を誤った形の国際化に導いているように感じます。私はここ十数年、在日の外国人を対象とした仏教セミナーを開いてきましたが、出席者の多くが言うことは「日本人に日本の文化について質問しても百人中九十九人まではまともに答えられない。」でした。先日、日本のガイド通訳の方々とお話した時、日本の文化について外国人の方から質問された場合、それを単に「習慣」であるとか「しきたり」であるとか、極端な場合は「意味のない繰り返し」であるというような答え方をしていると聞いて、愕然としました。地域に文化として根づいたものには、それなりの意味が必ずあります。自分のしていることに意味がないと思うことは生きる哲学を持たないということです。自分の文化を理解しないということは自己理解の放棄につながります。自己理解の不足を、他人を攻撃すること、無視すること、迎合することで補っていこうとしているのが現代の日本人ではないでしょうか。自らの生き方のすべてに意味を探していく、異文化コミュニケーションの本来の意義はそこにあるのではないでしょうか。

「議論する」「討論する」を「けんかする」と同じと考えている日本人がかなりいます。
自分の言いたいことを言うことは悪いことではありません。問題はそれが相手との相互理解を前提としているかどうかということです。石原都知事が選挙前に「各党の政治家とどんどん議論していく」と言い、選挙後に「協力していく」といったことに対し、矛盾しているのではないかと指摘したテレビのインタビューアーがいましたが、それに対し石原都知事が「議論とけんかは違う」と言ったのは、まったく当を得た発言でした。その一方で、本来コミュニケーションのプロであるべきマスコミの人間の多くがコミュニケーションについてまだわかっていないのだなと落胆もしました。 自己主張するためには、自分のことがわかっていなければなりません。Debateという言葉があります。最近日本語でディベートというと相手の弱点をついて言い負かすというような意味に使われることが多いようですが、自己理解ができていなければ最終的に自分の思うことを相手に伝えることはできません。表面上議論の中で相手を屈服させても何も得るものはありません。絶えず自己に疑問を投げかけ、意味の探求をすることで相手に納得してもらえるようなコミュニケーションが成立するでしょう。 自己理解の不足は自己否定につながってしまいます。日本を知らない自称国際人の日本人がよくやることですが、日本の文化そのものを否定することがあります。ある時、アメリカの都会のレストランのウェイトレスのぶっきらぼうさを「何もかまわないところが彼らのサービスで、これが本当の意味でのサービスなのだ。それに比べ、日本はべたべたしすぎでこれはサービスではない。その意味で日本人はまだ甘えの構造があり、それに対しアメリカは自立している。」など単なる「無サービス?」を相手に迎合する形で、勝手に付加価値を与えているのです。異文化に抵抗の無くなった者がいわゆる国際人と思い込んでいるわけですが、これは国際人と言う名前の迎合主義者にしかすぎません。このような迎合主義は自己表現能力の貧困さから、言いたいことが言えずに引き下がり、非は自分の側に有ると思い込もうとすることにその原因があります。そして自己表現能力の貧困さとは自己理解の欠如から来るものなのです。自分のことを聞かれて答えられないため、相手に迎合することでしか、コミュニケーションを持つことのできないのが今の日本人ではないでしょうか。「顔を持てない日本人」なのです。

先日、韓国で反日の映画が封切られ、大ヒットをしているそうです。内容は日本が韓国と北朝鮮の統一を妨害し、それが国際紛争に発展するというものです。ただその手法が、映画の空想の世界の中に、現実の日本を挿入し、映画の中で悪者に仕立てた日本があたかも現実の日本であるかのように、観客を洗脳するような形をとっています。案の定、これを見た韓国人は「日本はなんて悪い国だ。」とインタビューに答えていました。恐ろしいのは、これを子供に見せて、現実とはかけ離れた世界を現実と思わせ、子供に憎しみを植えつけていることです。これは一種の洗脳映画で、韓国の政府がこれに協力しているということは、韓国の政府と一部の映画関係者・マスコミが共同して、韓国の国民を洗脳し、日本に対する敵意を煽り立てようとしていることになります。これは許しがたい行為で、本来ならば日本政府そして日本のマスコミ・映像関係者から抗議の声が上がっても良いのですが、まったくありません。自己理解ができていないため、相手に対して一言も言えず、罪は自分にあると思い込もうとしている日本人の姿がここにあります。抗議をすることはけんかをすることではありません。コミュニケーションを知らない相手方の誤りを指摘することです。不思議なのは、日本国内でこの種の事件が起こると目くじらを立てるマスコミが、外国からいわれると急に押し黙るということです。やはり日本のマスコミはまだコミュニケーションの何たるかを知らないのだなあと実感させられました。この韓国映画を扱ったあるテレビ番組で、芸能人のコメンテイターが、「ここは何も言わずにいたほうが良い。それが大人の対応というものだ。」と言っていました。この「大人の対応」と言う言葉、日本人が相手に対して主張・抗議が出来ない時にそれを隠すためによく使います。ただ、ここでの「大人の対応」は「相手から何を言われても、相手にならずに、相手がその非に気付くまで何も言わずに、冷静にしていましょう。」というものです。しかし本当の意味の「大人の対応」とは「自分の考えを述べ、相手に非があれば、それについて相手に質問をし、また相手の質問にも答える」というものです。マスコミの言う「大人の対応」は、現実にはただ問題から逃避しているだけでしかありません。この韓国の反日洗脳映画に対しては、日本政府とマスコミ・映像関係者はしっかりと抗議すべきでしょう。そしてそれを巡って議論が起これば、とことん話し合うこと、それが「大人の対応」です。

自分の文化を理解し、主張するということは、それを相手に押し付けることではありません。「文化」と言うと何か高尚で博物館にでも展示されているものと言う印象を持っている人たちがいますが、人間が活動しているところ、そこはすべて文化なのです。したがって文化は変容します。伝承される文化は新しい文化として絶えず生まれ変わりを繰り返しています。まったく変わらないのは骨董品です。それは既に出来上がっているものだからです。伝承芸能と呼ばれるものも少しずつ周りの変化を受けながら、変容してきました。まちづくりで、昔の町並みを再現することが行われています。しかしそれは今の人々の生活と実際に結びついていなければ、単なる張りぼて、映画のセットにしかすぎません。文化はその時代の人々と絶えず結びついていなければなりません。文化は旧いものを指すのではなく、常に生まれ変わりを繰り返しているものです。新しい刺激を受けながら、旧いものを再構成して向上していくのが文化ではないしょうか。ただし旧いものの価値が正しく理解できていなければ新しいものとの望ましい形での融合ができないことも否定できません。その意味で従来の文化的な価値を捨てるのではなく、正しく理解することが、これからの日本人に要求されているのです。「顔を持った日本人」とは、新しいものと古いの双方を正しく理解し、それを自分の世界観の中で、価値観として確立できる人であると考えます。 異文化コミュニケーションにおける最適な能力とは、人が新しい文化また外国文化と従来の文化または母国文化のどちらかにどれだけ巻き込まれるかを自分で統制できることだと言われています。今後このページを使って、異文化コミュニケーションを仏教との関連の中で述べていこうと思います。ご意見がありましたら、拝聴させてください。

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