異文化コミュニケーション(2)
今回は温泉に関する論文集『伊豆の国−温泉』第2集に寄稿した小論文を掲載しました。

外国人の見た日本の銭湯 =異文化理解の難しさ=
1854年3月、相模の国、横浜村で、米国東インド艦隊司令長官マシュ−・カルブレイス・ペリーと日本全権林大学頭との間で、日米和親条約が締結された。この条約により下田は外国船の補給港として開港され、外国人が上陸し、通りを自由に歩くことを公式に認められた日本最初の町となった。そして外国人が一般民衆と接触することを許された下田の町では、いたるところで異文化接触が起こり、双方の異文化コミュニケーション能力の不足から、異文化に対するさまざまな誤解と偏見が生まれた。
『ペリー提督日本遠征記』(1856年)より「下田の公衆浴場の図」
ペリー艦隊は1854年4月から6月まで約2ヶ月間、下田に停泊し、上陸しているが、その間のアメリカ側の記録はアメリカ合衆国議会に提出された『ペリー艦隊日本遠征記』に、克明に記されている。その中に「下田の公衆浴場」と題された石版画がある。それは男女混浴の浴場で、現在でも湯治場などでは見かける風景である。現代の日本人がこれを見ても、猥褻性を感じるようなことはないようなものであり、まして当時の日本人にとって、(特に下田の住民にとっては)ごく当たり前の光景であったと思われる。ところがこの絵はペリーを初めとするアメリカ人にとっては「許し難い」「恥知らずの」光景であるとして、日本人の民族としての放蕩性を示す資料とされてしまった。そのためこの絵は『遠征記』の第2版である普及版では本から削除されてしまうのである。『遠征記』では次のように述べられている。「裸でも気にせずに男女混浴をしている公衆浴場を目のあたりにすると、アメリカ人には(下田の)住民の道徳性について、さほど良い印象は持てないだろう。」この記述はかなり控えめであるが、艦隊の士官の記述では嫌悪感を直接的に表現し、「みだらで」「吐き気を催すような」光景であると酷評している。そしてこの記述により「日本人は混浴が好き」と言う情報は、日本人のステレオタイプを形作り、世界中に広まった。そのため、ペリーの後から来日した外国の使節の報告書にも「日本の混浴の風習」に対する記述がたびたび登場するようになる。
ハーバーシャム『北太平洋岸調査航海記』(1857年)より「下田の公衆浴場の図」
たとえば、ペリーの直後に日本を含む北太平洋に遠征したリングゴールド提督率いるアメリカの艦隊の一員であるハーバーシャムが出版した『北太平洋岸調査航海記』では下田の公衆浴場の混浴について「ふしだらで」「堕落した」風習であり、日本人の「放蕩性」「わいせつ性」「道徳性の欠如」を表すものであると述べている。

この「日本人=混浴=淫蕩」という図式は、当時日本社会に広まっていた浮世絵の春画が外国人の目に触れることによって一層増幅された。18世紀後半から19世紀前半にかけての日本では男女の色事を描写した枕絵と呼ばれる浮世絵木版画が流行した。元禄時代の江戸を中心に庶民文化が花開き、「性」を美的に表現する枕絵をほとんどの浮世絵師が描いたと言われている。その流れはペリーの来航した嘉永年間まで続いていた。その枕絵がペリー艦隊の乗組員の手に渡り、「インテリ・アメリカ人」が日本人の非道徳性を糾弾する際の格好の材料とされた。

このような混浴や浮世絵についてのアメリカ人の価値判断に対し、日本人はどのように応えていたのであろうか。伝えられるところでは、混浴の風習についてアメリカ人から尋ねられた時日本の役人は「このような混浴の風習は下田のような田舎で見られるが、江戸のような都会では見られない。」と説明したという。つまり下田という町を日本の中で特殊化し、一般の日本人から切り離したのである。そしてそれによって「日本人=混浴=淫蕩」という図式の中から「日本人」を取ろうとしたのである。しかし「混浴=淫蕩」については何も言っていない。このように文化的な価値判断を避け、事実をうやむやにして言いぬけようとする態度は現代の日本人にも通じるものがあるが、いずれにしても異文化コミュニケーションという点では好ましいやり方ではない。逆に相手の誤解を正当化し、増幅させるだけである。相手に文化的な差異を意識させなければ異文化の間でコミュニケーションは成立しない。しかし、たとえ日本人と文化について議論をしたとしても、19世紀アメリカの「ビクトリア朝式」の表面的な道徳主義にどっぷりと浸っていたペリーを初めとする米海軍インテリにとって、自文化の価値に疑問を持つなど考えられないことであったろう。ましてペリーに対し弱い立場にある当時の日本の役人が自文化の価値観を主張するのは難しかったろう。

当時の欧米諸国には、西欧近代中心主義的な近代科学思想に対する絶対的な自信から、文化を超えたあらゆる事物の説明・解釈ができるという思い込みがあった。そして経済的に貧しい国に「未開発」「後進国」「非文明国」というレッテルを貼り、欧米的価値の無条件的な受け入れによる「近代化」を絶対善とした。このヨーロッパの文明人対アジアの野蛮人という二極構造からなる欧米の自文化中心主義はペリーにもよく見られる。ペリーは日本人に対する記述の中で、「子供のように」という表現をよく使う。これは欧米人を大人に見立てていることが前提となっている。つまり子供である日本人は大人である欧米人からものを学ばねばならないということである。軍人にありがちな文化的植民地主義がペリーを初めとする艦隊兵員にもしみついていたのであろう。
アンベール『幕末日本風俗図絵』(1870年)より「公衆浴場の図」
これに対し、幕末に来日したスイス全権大使のアンベールでは、異文化に対する姿勢がだいぶ異なってくる。アンベールは1863年(文久3年)、スイスの対日修好通商条約の首席全権として来日し、約10ヶ月間日本に滞在した。そしてその間の日本観察記録として1870年にパリで『幕末日本風俗図絵』を発刊した。この本に見られるアンベールの日本の風俗・社会に対する観察眼は客観的で、その時代の日本を鮮明に伝えている。その本の中で混浴の風習について次のように言及している。「このような(混浴の)風習がわれわれにとってどんなに奇異なものと思われても、ヨーロッパ人が到来する以前には、日本人は自分達の風習に非難されるべき一面があるなどとは、明らかに誰一人疑っていなかった。それどころか、それが家庭生活の慣例と完全に調和を保っており、その上、身体を清めるという宗教的・衛生的義務と関係ない、あらゆる偏見を排除し、道徳的見地からしても申し分のないものと思っていたに相違ない。一方、ヨーロッパ人は、日本人が自負している偏見のない現実と事象を抽象的に考える能力が日本人にあることを信じたくはなかったのである。」アンベールの場合、日本文化に対する感情移入の強さから、全体的に日本の風俗を尊重する記述が多い。外国の風俗・習慣を自国の文化のそれと対比させながら、その違いを認め、それぞれの相対的な価値を認めて行こうとするのは西欧の自文化中心主義から脱却しようとした試みであった。それは文化相対主義と呼ばれ、文化人類学の学問分野の発達の中で高い評価を受けた。

アンベールの日本文化に対する態度も、この文化相対主義の範疇に入るものである。混浴という風習を日本文化の枠組みの中で捕らえ、その中での意味を認めようとした態度は、自文化の価値観に何の疑問も差し挟まなかったペリーからすると、かなり進んだものといえるのではないだろうか。

ただし、アンベールの文化相対主義は、理想ではあるが、自文化絶対主義に対した時、相手の自文化絶対主義を受け入れることが、自らの文化相対主義を守ることになるという矛盾を持っている。19世紀、民族文化間の距離が保たれていた時は、その矛盾が表面化してこなかったが、地球上のすべてがつながっている現代社会では、自文化絶対主義は争いに、文化相対主義は孤立に直結する。そのような多文化共存を模索する中で出てきたのが、「多様性における一体性の追求」である。すなわち、世界中を行き交う情報の天文学的な増大がそれらを整理することのできる一元的な価値を要求する。それに対して、固有性を評価しようとする動きが生まれる。相互に刺激を与えあうような異文化コミュニケーションの中で、一元性と多様性を求める相反する力が作用しあうのが、現代における異文化接触の理想とされてきている。コミュニケーションが、連続的で相互作用に基づくものであることを考えれば、それは当然のことなのであるが、そうご理解への努力と年対を要することから、近年まで誰も積極的に主張しなかったのである。特に日本人にはもっとも不得手な分野であった。ペリー来航から1世紀半、そろそろ多様性と一元性のバランスのとれた異文化コミュニケーション能力を確立し、自己主張することが日本人に要求されているのである。

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