異文化コミュニケーション(3)
ぺりーの子孫了仙寺に集合

2005年5月20日、24名のペリー提督ならびにその兄弟の子孫が了仙寺に集結しました。今回了仙寺に集まったのは、ペリー提督の直系の子孫12名とその家族7名、ペリー提督の兄弟の家系の子孫1名とその家族4名の合計24名です。前年から直系子孫の一人、ニコルス氏と連絡を取り合うようになったのが縁で、このペリーの子孫のツアーが企画されることになりました。2004年は1854年に横浜で日米和親条約が結ばれて150周年にあたり、その時最初の開港場となった下田は開港150周年の記念の年になりました。下田はもちろん日本とアメリカで様々な事業がおこなわれました。その中の一つに3月に行われたハワイ・ホノルルフェスティバルがあります。このイベントは十数年前から行われていたものですが、2004年は日本開国150周年の記念事業として行われました。そこにペリーの直系子孫を代表して招待されていたのが、ニコルス氏でした。そこで日本から招待されていた日米協会の会長・専務理事が私を紹介したのが、私とニコルス氏の関係の始まりです。

ニコルス氏は下田の黒船祭のことを聞いていて是非それに子孫を募って参加してみたいと言ってきました。私もそれは良いことだと、できうる限りの協力を約束しました。そして下田市の関係者、旅行業者などとも相談し、ペリー子孫ツアーの内容が決定しました。旅行業者は私が連絡をとるまでは、日本でペリーゆかりの地をまわる一般のアメリカ人の団体ツアーと思い込んでいたようです。横浜や横須賀は周遊型のツアーで特別な企画は当初なかったのですが、日本経済新聞でペリーの子孫一行の来日が報じられると、横浜市から申し出があり、急遽横浜グランドホテルで中田市長を表敬訪問することがセットされました。グランドホテルには「ペリーの間」という大きな宴会ホールがあり、このホテルの関係者が旅行業者と横浜市に連絡して横浜市が公式行事として、このペリーの間でペリーの子孫一行を受け入れることになったようです。

ペリー子孫の団体の来日は各方面に反響を呼びました。その中でペリー・黒船の現代の日本でのイメージを表すことがありました。ある新聞社の記者から電話取材がありました。そこでその記者は「ペリー一行来日の目的は何ですか。強引に日本を開国させたことへの謝罪ですか。」私にとっては思いもかけぬ質問でした。聞かれた一瞬、冗談かと思ったくらいです。現在、「黒船」という言葉は「外圧」の代名詞として使われています。またペリーというと「強引」「高圧的」というイメージを持つ人も多いようです。そこからこのような質問になったと思います。下田にいると、「黒船=外圧」という負のイメージはほとんどありません。おそらく日本で唯一「黒船」という言葉から「外圧」を連想することのない町が、下田ではないでしょうか。150年前開港された下田では、アメリカ人に「遊歩権」すなわち街中を自由に歩く権利が与えられました。下田湾の中心にある小島から半径7里、すなわち約28km以内であれば、アメリカ人は行動の自由を認められました。街中を歩くアメリカ人は下田の町民とそこここで交流し、その様子が日米双方で描かれ、現代に伝えられています。横浜や久里浜では国対国の外交交渉の中で語られる黒船ペリーですが、下田ではアメリカ人と下田人という人間の交流が中心でした。そのため、下田で黒船と言うと今でも、「外圧」ではなく、「交流」が前面に出てくるのです。その感覚を持つ下田人である私には「ペリーの子孫は謝罪に来るのか」という記者の質問には驚きました。

遠く広島県の福山市からも提案がありました。ここに蒸留酒などを製造する岡本亀太郎本店という酒造メーカーがあります。このメーカーが保命酒(ほうめいしゅ)という酒を造っています。この酒はみりんに16種類のハーブを混ぜて造る一種のリキュールで、食前酒として飲むのに適しています。実はこの保命酒、ペリーが来た時に日本側が接待の宴席で提供したものなのです。なぜ、福山の酒がペリーに出されたか。歴史を知っている方は黒船来航と福山でピーンときたのではないでしょうか。福山藩と黒船来航とすればもっとわかるかもしれません。そうです、黒船来航のときの老中が福山藩主・阿部正弘でした。阿部老中はペリー一行の接待に自分の藩の地酒を使ったわけです。そのときと同じ酒が150年を経て、ペリーの子孫一行に振舞われることになったのです。

2000年に下田でペリー艦隊乗組員の接待料理の再現を試みた時、食前酒としてこの酒を出しました。今回、ペリーの子孫一行にその再現料理を試食してもらう企画を考えていましたので、このメーカーに協力をお願いしようと思っていたところ、先方からペリー一行の来日を知り、連絡をいただきました。連絡をいただいたのは、同じ福山市で食品卸業を営み、岡本亀太郎本店の保命酒の企画を立案している中島商店の中島基晴専務で、ぜひ下田の企画に参加したいという申し出でした。こちらも渡りに船と是非お願いする旨を伝え、協力を請いました。


岡本亀太郎本店: 
広島県福山市にある保命酒のメーカー。ペリーが飲んだお酒が今も販売されています。
中島商店: 
保命酒を使った様々な商品を作っています。保命酒のアイスクリームに保命酒をかけると辛党の方も結構いけます。

さてニコルス氏から来日するメンバー表が送られてきました。それを見てまず不思議に思ったのは、姓にペリーという名前のついている直系子孫がいないことです。その人たちの家系図を見てもペリー姓の人が見当たりません。そのことをニコルス氏に聞いてみると、現在のペリーの直系子孫はペリーから数えて5代目から7代目にあたるそうですが、代が進むうちに女系となり、ペリー姓がなくなってしまったそうです。ペリー一族というとアメリカ海軍草創期の名門で、日本開国の英雄でもある祖先を持つことから、ペリー姓を守る中心的な家系があると思い込んでいた私には非常な驚きでした。男子の直系親族を中心に作られる日本の家系とは異なるアメリカの家系と家族形態に対する考え方を痛感しました。ちなみに今回のツアーにはペリー提督の兄弟の子孫が参加していましたが、こちらはペリー姓でした。

かれらペリーの子孫はペリーから伝わる宝物をそれぞれが持っていました。その一つが銀の杯で、写真を見せていただきましたが、葵の紋所が入っていました。聞けばペリーが幕府からお土産としてもらったものでそうです。幕府からアメリカ側へのお土産の中にはペリー個人に贈られたものもあります。この杯もその一つだと思われますが、はっきりとはしていません。ただ、その家系の中で日本との接点がなかったことを考えると、幕府からペリーに贈られたものである可能性はかなり高いのではないでしょうか。この他にも、「私のところには当時ペリー家で使用していた家具や食器がある。」「ペリーが使っていた海軍の装備品がある。」などペリーの遺品は子孫の人たちに分散して受け継がれていました。

2005年5月20日、ペリーの子孫並びにその家族19名とペリーの兄弟の子孫家族4名の合計23名が下田に到着しました。一行は下田市長を表敬訪問した後、ペリー上陸記念公園でのペリー上陸記念式典に参加しました。式典ではペリー一族の出身地アメリカロードアイランド州ニューポート市の代表団、そしてペリーの子孫が始めて顔をあわせ、参加する中で行われました。その後、ペリーの子孫たちは了仙寺に移動し、書院で了仙寺が収集してきたペリー関係の資料を閲覧しました。了仙寺では1980年ころから集中的にペリー・黒船関係資料を中心に、16世紀から19世紀までの日本の異文化交流に関する資料を収集してきました。現在黒船関係の資料では国内最大のコレクションとなっています。その中からペリーの直筆の私文書やアメリカ出港前日に出した公文書、大統領との間の通信文、ペリー日本遠征石版画集、日本人がペリーを描いた肖像画十数点、久里浜・横浜・下田でのペリー艦隊の様子を伝える黒船来航絵巻数巻・肉筆画十数点など50点ほどのペリー黒船関係資料を子孫たちに見せました。。

数ある資料の中でもペリーの人柄がわかる手紙を見た時は、全員の顔がほころびました。その手紙はペリーからある医者に対して出されたもので、内容は次のようなものでした。ペリーの部下が病気にかかり、その医者の世話になっていたようです。その医者に対しペリーは次のように言います。「この男は体が弱く、病気に疲れているようです。私は彼の家族とも相談し、兵役を引退させようと思っている。」というものでした。ペリーには「熊おやじ」というニックネームが部下たちからつけられていましたが、そこには怒ると怖いが、頼りになるというペリーのイメージが込められています。生粋の軍人で、規律を重んじ、そして部下の面倒をよく見るというペリーの人柄がよくわかります。公文書では軍人そして官吏としての能力はわかりますが、その人柄まではわかりません。私文書ではそれがよくわかり、子孫たちにとっても自分の先祖がそのように情感あふれる人間であることを知ることができるのはうれしいことのようです。

また当時の日本人絵師がペリーを描いていますが、了仙寺にある十数点のペリーの肖像画を見た時も座が沸きました。天狗のようなペリー、鬼のようなペリー、西郷隆盛そっくりのペリー、刀を持った全身像、コートを着たペリーなどこれだけ自分の先祖が日本で描かれていたのかと感心していました。日本の歴史で最も有名な外国人というとペリーの名前があがることを言うと、さらに驚いていました。もちろん、日本人の中でのペリー・黒船のイメージはどちらかというと好意的に見られるものではないようです。しかし、開国の後に続く、幕末明治の日本社会の激変と発展を考える時、ペリーの黒船来航による開国はその価値を認められなければならないでしょう。そして、特に下田は横浜・横須賀と異なり、外交・政治面から見た黒船=外圧というイメージではなく、黒船=交流という文化的な見方が強いことから、ペリーに対する印象は日本の他の地域とは全く異なります。ペリーの子孫たちには、そのことを認識してもらうことができました。それが今回のツアーの目的でもありました。

5月21日、午前10時から駐日アメリカ大使を迎え、記念式典が行われました。ペリーの子孫たちも参加し、代表してニコルス氏が献花を行いました。その後、11時からは記念パレードが行われ、全員パレードに参加しました。ペリーの子孫がパレードに参加するのは初めてのことで、沿道の人たちも150年の年月を越えて、下田が開国の町であることを実感していました。そして12時半からは下田条約調印の再現劇を見て、劇の終わりには全員舞台に上がり、ペリーや林大学頭役の出演者たちと一緒に観客の声援に応えていました。

再現劇の後、了仙寺の書院でペリーを接待した時の料理が再現され、その試食会を行いました。まず食前酒として前述の保命酒が出されました。岡本亀太郎本店の保命酒と中島商店の保命酒を使ったジェラートが出され、その後試食会になりました。市内の料理屋『呑久利』のご主人が当時のレシピから、その食材を使い、情報が足りない所は想像力を働かせて、当時の接待料理を再現しました。どれも日本料理独特のだしを効かせた料理で、薄味ですが、素材の良さが活かされていました。子孫たちは150年前に自分たちの先祖が味わった料理を体験して感激していました。夜は下田日米協会、下田ニューポートクラブ主催のさよならパーティーにニューポートからの使節団とともに参加し、下田の人たちと親交を深めていました。

5月22日は午前中、子孫たちは個人個人で下田の街中を散策し、昼の電車で帰途に付きました。今回ペリーの子孫一行の下田訪問では了仙寺にとっても、下田にとっても大きな収穫がありました。まず第一にペリーの子孫一行がツアーの中心に考えたのが、横浜でもなく、横須賀でもなく、下田であったということです。現在日本の歴史の中で最も有名な外国人がペリーであると言われています。しかし有名ではありますが、その印象は必ずしも良いものではないようです。黒船と言うと、前述のように外圧の代名詞として使われていますし、ペリーも傲慢な外国人というイメージがあるようです。前述のように「黒船」「ペリー」に悪いイメージが付きまとわない日本で唯一の町が下田であるということです。これはアメリカ人が街中を歩くことを公式に許された日本で最初の町が下田であるということだけでなく、下田が開国以来の日本の歴史上、開国関連の町の中で政治の世界から切り離されていた町であったということにも起因しているでしょう。ペリーが最初に上陸をした久里浜、停泊していた浦賀のある横須賀市にはアメリカの軍港があります。長崎は佐世保を抱え、新潟はロシア・中国との窓口となり、函館は政治的に微妙な状況にあるようです。横浜も東京圏内であるため、政治の影響をすぐに受けるようです。開国関連の町はこのように政治的に微妙な町が多いのが現状です。その中で下田だけが戦後の日本の政治の舞台に上がることはほとんどありませんでした。2月7日の北方領土の日だけは下田の中に政治色が持ち込まれることもありましたが、冷戦が終わったころからはさらに外交政治の色が下田から薄れていきました。中央から離れた小さな町であるため、下田は激しく変動する外交・政治の舞台に上ることがありませんでした。それが幸いして、下田は外交・政治の駆け引きの場として利用されることはありませんでした。そのため、現在下田は「黒船」「開国」という政治的な意味を持たされやすいテーマを持ちながら、政治的イデオロギー論争に巻き込まれることなく、国際交流の町として名を知られています。ペリーの子孫一行がツアーを組んだ目的地が横浜や横須賀ではなく、下田であったということは、従来のワンパターンの「黒船」のイメージとは異なる意味を探すことが現代の日本人に必要とされていることを暗示しているのではないでしょうか。

2004年の日米和親条約締結150周年の年には下田は下田開港150周年の記念事業を行いました。テーマは「交流」、黒船来航の時、外交交渉とは別に進行した異文化理解と交流の大切さを下田がこれから国際化の時代に主張していくべきとの考えに基づいたものです。外交・政治だけで外国との交流はできません。外交や政治は利害関係や一時の感情に影響されて、良いにつけ、悪いにつけ、極端に走りやすいものです。爆発しそうになる外交関係の熱を冷ますのは、民間の地道な相互理解の努力でしょう。下田は今後、「異文化交流・開国の町」として、政治に巻き込まれることなく、外交・政治の基盤を作る民間の地道な相互理解の場を提供することをやっていくべきでしょう。ペリーの子孫一行の下田来訪は150年経って黒船の意味をもう一度私たちに検証し直す機会を与えてくれました。


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