●了仙寺の歴史
了仙寺は寛永12年(1635年)、第2代下田奉行・今村伝四郎正長によって創建されました。

大阪夏の陣の時、目に病を持たれた徳川家康公は、家臣の勧めにより、当時目の神様として崇められていた身延山久遠寺第十一世の行学院日朝上人に病気平癒の願をかけられました。その祈願が成就したため、徳川政権安定の時に寺を建立することを約束されました。

今村正長公によって創建された了仙寺には、当時の幕府の将軍・徳川家光より朱印状によって領地が与えられ、家康公の祈願成就に奉じました。従って、了仙寺の寺紋は徳川家の紋である三つ葉葵です。

1854年、日米和親条約が締結され、ペリー艦隊が開港された下田に入港すると、了仙寺はペリー一行の応接所兼幕府との交渉場所となり、和親条約の細かい取り決めである下田条約がここで結ばれました。


●下田奉行・今村伝四郎正長
今村伝四郎正長は三河以来の徳川家の旗本です。父今村重長が徳川秀忠によって下田の奉行に任じられると、老齢の父に代わって職務を代行し、1672年に3代将軍徳川家光の明によって第2代下田奉行となりました。正長は下田奉行在任中、長崎奉行も兼ねるなど幕府の中でも重要な位置にありました。

江戸時代、奉行所が置かれた下田は江戸の海の玄関口でした。江戸に入る船は皆、下田港に入り、調べを受けることが義務付けられました。そのため、下田には毎日膨大な数の船が入り、それらを効率よく調べるため、正長は廻船問屋を作り、奉行所の仕事の一部を任せました。今で言う行政サービスの民間委託です。

奉行となった正長は、下田港に自費で防波堤を造って入港する船の安全を確保し、荒れた山に植林することで下田湾に入る河の水を浄化し、また了仙寺と八幡神社を創建するなど下田の繁栄の土台を築きました。その功績は下田の歴史の中でも並ぶものがなく、下田の小学校の校歌にも歌われています。


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