「ペルリ像」(嘉永7年)
●ペリー
本名はマシュー・カルブレイス・ペリー。1794年アメリカ・ロードアイランド州サウスキングストン生まれ。父や兄も海軍の軍人だった影響から14歳で海軍の士官候補生になります。1821年に初めて艦長の任につき、1833年から数年の地上勤務の時に、蒸気船を持たないアメリカ海軍の海軍力の弱さを指摘する論文を海軍に提出し、1839年にアメリカ海軍の実験蒸気船フルトン号の初代艦長となりました。その後アメリカは蒸気軍艦を次々と建造し、海軍力はイギリス・フランスと肩を並べるまでになって行きます。蒸気船の海軍への導入に功績を残したペリーは「アメリカ蒸気海軍の父」と呼ばれています。1864年のメキシコ戦争では、ペリーはメキシコ湾艦隊司令長官として活躍し、占領地の民政まで行い、アメリカの大勝利の立役者となりました。


「ペリー艦隊出航図」(1852年)
●ペリー日本来航
1852年ペリーは当時のアメリカ大統領フィルモアから東インド艦隊司令長官を命じられ、同年11月24日アメリカ東海岸ノーフォークを出航し、日本に向かいます。当時アメリカではカリフォルニアに金鉱が発見され、西海岸が開拓され、さらに捕鯨業がさかんになってきたため、太平洋の重要性が高まっていました。北太平洋の要衝に位置する日本との国交はアメリカにとって欠かすことのできないことでした。ペリーは当初、12隻の大艦隊で日本に圧力をかけるつもりでした。ところが、故障する船や予定の立たない船が続出し、さらに旗艦として考えていた最新鋭の蒸気船は完成が遅れ、出航に間に合わなくなってしまいました。ペリーは仕方なく海軍最初期の蒸気船ミシシッピー号に乗り、日本に向かいました。アメリカ東海岸から大西洋を南下、アフリカの喜望峰を回り、インド沖から東南アジアを通過し、中国広東に寄港し、蒸気船2隻・帆船2隻からなる艦隊を編成し、日本に向かいました。そして途中琉球・小笠原諸島を経て江戸湾三浦半島の浦賀沖に来航したのは1853年7月8日のことでした。


「久里浜日米会見の図」(1856年)
●日米和親条約
久里浜で日本側に日本に開国を提唱するアメリカ大統領の親書を渡したペリーは翌年の再来航を約束して、いったん中国上海に向かいます。そして再び浦賀に来航したのが、1854年の1月。そして3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が横浜で締結されます。その中で決まったのが、下田と函館(当時は箱館)の開港(箱館は翌年の開港)とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障などです。


「蒸気船の図」(嘉永7年)
●ペリー下田来航
日米和親条約により開港された下田には、ペリー艦隊の船が続々と入港してきました。ペリーを初めとするアメリカ人たちは下田湾の美しい風景に簡単の声を上げたと言われています。時は春、海から見た桜の満開の下田港はさぞきれいだったことでしょう。またペリーは下田の町がきれいに整備されているのに驚きました。特にペリーが感心したのは、下水が川に直接流れ込まないように川の脇に下水溝が作られていたことでした。日本でしかもこのように小さな町で、西洋の中心都市にあるような下水溝の設備があるなど、彼らの常識では考えられないことでした。


「ペリー陸戦隊了仙寺調練の図」(1856年)
●日米下田条約と了仙寺
横浜で締結した日米和親条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入りました。その場所となったのが了仙寺です。十日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれました。この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられました。これは一種の交流権ともいえるもので、黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。詳しくは下田幕末タイムスリップのページを見てください。了仙寺では、下田の町民たちを対象としたコンサートがアメリカ海軍の軍楽隊によって開かれました。これが日本での最初の洋楽のコンサートです。


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