アメリカ人は日米和親条約により、下田で遊歩権、つまり街中を自由に歩く権利を公式に与えられました。これにより下田は日本で初めてアメリカ人が一般の日本人と接触することを許された場所になったのです。つまり日米の異文化交流が下田から始まったのです。ここでは、ペリー来航時の下田を日本人と外国人の目から見てみましょう。
■黒船来航絵巻(米利幹人下田湊入津の図)(嘉永7年)■
●下田港の黒船
下田港に停泊している黒船の図です。湾口が狭く、内に広い下田港は天然の良港でした。現在でも同じ景色を下田のロープウェイの山頂展望台から見ることができます。

●異人魚を採るの図
黒船のアメリカ人たちは下田湾にいるときも、食料は自分たちで調達しなければなりません。下田湾の柿崎海岸で彼らは地引網を打ち、魚を採りました。赤い色の魚は今売れている金目鯛でしょうか。

●異人洗濯の図
アメリカ人の生活の場が下田の街中にありました。アメリカ人が洗濯するのを見ていた下田の子供が、固形の洗濯石鹸をもらいました。そして一口「ペロリ」となめてみたそうです。

●異人餅つきの図
餅つきをするアメリカ人。びっくりして逃げる下田の女性。手を伸ばせば、アメリカ人に触ることができる。当時の下田の人達は外国に最も近い日本人でした。

●異人写真を撮る。
写真の日本人。左右逆のいでたちです。銀板写真用の服装でしょう。下田の人達は写真のモデルになるのを皆嫌がったそうです。当時、写真を撮られると魂を取られると考えられていました。それにこの服装、棺おけに入る時の格好です。嫌がるわけです。

●下田の婦人異人をなぶる
「なぶる」とはもてあそぶということ。下田には当時、船宿が十軒ほどありました。黒船のため、日本の船が全く入ってこなくなって、商売上がったりの船宿が狙ったのが黒船のアメリカ人。引っ張り込んで、身包み剥いで放り出したといわれています。さしずめ、横浜の敵を下田で討つといったところでしょうか。

■ペリー日本遠征石版画集(ハイネ筆、1856年)■
●八幡神社の図
写生をしているアメリカ人に話しかけているのは、赤ん坊を背負った下田の女性。周りには「何かくれよう」と子供たちが群がっています。それを必死で追っ払う日本の役人。付回す役人に怒ったペリーは一度に数百人を上陸させ、付回すのをあきらめさせたと言われています。

●了仙寺の図
山の手から見た了仙寺。ペリーを初めとする士官たちの休息所兼日本側との折衝の場となりました。「会見の時、本堂の中の仏像などは取り除かれていた。僧侶たちは気の毒に見えた。」と『ペリー日本遠征記』に記されています。

●弁天島の図
黒船のアメリカ人たちは小型のボートで上陸していました。その上陸場所がこの弁天島の海岸。吉田松陰はこの島の祠に隠れて、黒船への乗船の機会をうかがっていました。

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