2日目・FUJIYAMA組(その2)
帯屋町演舞場が終わり菜園場競演場に来るとけっこうな数のチームが待機していた。
幾らか長い待ち時間になりそうだったが、帯屋町が終わった後だけにちょうど良い休憩時間になった。 一日目の帯屋町筋でのみんなの様子を聞いていたので、倒れる人が出るのではないかと心配していたが、2回目の今日はみんな元気に帯屋町筋を踊り抜いた。

「FUJIYAMA組」の踊り子達には、それぞれの生き方があって、いろいろな想いが積み重なって今日のこの日を迎えていた。

ある踊り子は、踊り続けたい気持ち一つで、それこそ着の身着のまま単身名古屋から沼津に移住し、エアロビクスのインストラクターをしながら十年の月日を重ねた。今でこそ踊りに少しでも興味を持つ者ならば、この地域では知らないハズのない存在になった彼女も、当初はプロとして続けていく為に何度も壁ぶつかりながら苦悶の日々を送ったと聞く。その彼女からすれば、それこそ静岡の代表とも言うべき各々のチームのトップダンサーを率いた”FUJIYAMA組”の先頭で踊るということ、この高知で踊るということに言い得ぬ想いがあったと思う。

ある踊り子は、物心がついた子供の頃から成人するまでバレエを習い続けて、22才の時に渡米した。 ニューヨークの舞台に立ち、様々な師に出会い、経験を積み重ね、踊ることだけにすべてを掛けた人生だったが、踊りが上手なだけではトップダンサーになれない複雑なプロの世界の矛盾を知って帰国した。 帰国してからの彼女は、”よさこい”を知るまで”踊り”に興味を示すことは全くなかったが、高知で踊ることになってからは一心に練習を重ねてきた。その彼女の目にこの高知はどんな舞台に映っていたのだろう。

ある踊り子は、今までの自分の人生を振り返れば、いつでも夫と子供の用事に追われるばかりで自分の事を考えているヒマがなかったと云う。子供も高校を卒業する年齢になり自分の時間を持てるようになって誘われるまま”よさこい”の練習に参加した。今になって考えてみれば自分の意志で自分の時間を使ったのは”よさこい”が初めての事だったのではないかと思うと言っていた。その彼女は、今、この高知でどんな想いで鳴子を握っているのだろう。

それぞれの踊り子から話を聞けば、それぞれが様々な想いを持ってこの高知に来ていた。

菜園場競演場は、”高知市役所”の踊り子達が踊りだした。
踊り子達の背帯には、先ほど配った伊豆半島で開催されている”新世紀創造祭”のカエルのウチワが挟まれていた。何だかボクたちが高知の人たちに受け入れられたような気がして、その踊り子達の背中のカエルをうれしく思いながら見ていた。

次には、”高知クラブ”が控えていた。
国籍に関係なく、民族も関係なく、肌の色も関係なく集まったチームだった。 控えている間に何人かの踊り子と話をした。ある踊り子は「シンガポールから来た。とても遠いところから来た。踊るのは楽しい。シンガポールでも同じ。」と言っていた。
”踊り”というのは、面白いモノで言葉が判らなくても、何も言わなくても、心の内にあるモノが伝わってくる。彼等は彼等の想いを込めて踊りながら過ぎ去っていった。

地方車からチャッキリ節が流れ出し”FUJIYAMA組”の踊り子達は踊りだした。頬にも首筋にも汗が光って流れていた。満身の力を込めた腕を全員が揃って振りだし鳴子を鳴らす。一歩進んで、また一度鳴らす。
鳴子が鳴る度にそれぞれの踊り子の一つ一つの言葉を思い出す。この高知で踊ることは、どの踊り子にとっても人生の大切な句読点に違いなかった。

中ほどまで踊ったところで踊り子達の最後尾に居たフラフが垂直に立ったまま止まってしまった。持ち手を見れば全身が汗で濡れたその上から、さらに頬を伝う汗がカラダ中を流れて落ちていた。竿を持つ手を何度も持ち替えて手の汗を腰で拭いながら何度か竿を握り直すが、疲れ切っって小刻みに震えたカラダには垂直に持っているのが精一杯の事だった。今度フラフを傾ければ、たぶん二度と垂直に立てることは出来ないだろう。それでも表情には気力を見せて何とかフラフを振ろうとしているのが良く伝わってきた。自分の意に反して動かなくなったカラダで踏ん張りながら踊り子達の動きに合わせ少しづつ足を運び進んで行く。
そんなにまでして進み続ける彼にはどんな想いがあったのだろう。


 駿河屋市辺衛
surugaya@po2.across.or.jp 

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