近藤芳美歌集「埃吹く街」


近藤芳美歌集『埃吹く街』(昭和二十二年)(1)

「雨の匂ひ」

いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ

世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ

苦しみし十年は過ぎて思ふとき思想偽るにあまり馴れ居ぬ

吊皮に皆モノマニヤの目付きして急停車毎よろめきてをり

かぎり無き蜻蛉が出でて漂へば病ひあるがに心こだはる

コンパスの針をあやまち折りしより心は侘し夕昏るる迄

夕ぐれは焼けたる階に人ありて硝子の屑を捨て落すかな

焼け落ちし建物の一つある日より高き窓より木の桶を下す

墨入れて心落着く昼すぎは椅子も机も白く光りぬ

淡あはとなべてに落つる夕光橋に向かひて人は乏しき

街川に筏は長く流れつつしばらくの間に夕映えは過ぐ

売れ残る夕刊の上石置けり雨の匂ひの立つ宵にして

排土機はやや遠きへに作業止め均せる土に立つ明き霧

砂利の堆(つゐ)を幾度も上る排土機が逆光を吐き夕闇の中

あたたかき霧立つ夕べ菜園の杭をうたむとたづさはり出づ

「あらき時雨」

さながらに焼けしトラック寄り合ひて汀のごときあらき時雨よ

降り過ぎて又くもる街透きとほる硝子の板を負ひて歩めり

焼けし家群するどく空に影立ちて舗道の白く乾きたるとき

夕ぐれは舗道の上に湧く水の白じら光り風過ぐるらし

服の袖鉛筆の粉によごれつつ昼は日のさす窓にあつまる

計算器まはりて清き鈴の鳴るくりかへす音に心恋ほしく

セメントの袋を絶えず焼きすてて淡き炎よ機械のかげに

骨折れし蝙蝠傘をさげながらい行きて今日も図面引くべし

昼過ぎの画廊を出でて雨に遇ふしらじらとしていさぎよき雨

水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中

宿直室に音せる鼠あけがたにドアより出でて行きたり

手拭を首にまきつけ帰り来し弟と駅の人ごみに会ふ

朝鮮に産を失ひ帰り来し父と住み合ふ冬を越すべく

近藤芳美歌集『埃吹く街』(2)

「運河のくもり」

運河の霜のくもりに行く舟の岸に寄せつつ海苔を掻き行く

鉄屑のいたくなだれしきは立ちて運河は白き波がしらあぐ

海のかたにオートジャイロはたゆたひて風荒あらし格納庫の道

夕べとなりスクレーパーははるかなる枯草原の東にたまる

泥深く行きし排土機夕昏れて作業を止めし位置のまま立つ

おのづから媚ぶる心は唯笑みて今日も交はり図面を引きぬ

ストーブの煙は部屋に吹き入りてDraftsmanと呼ばるる夕べ

乗り換ふる支線を待てば降り出でて空しと思ふ今日の一日も

夕ぐれは埃の如く立つ霧に駅より駅に歩む労務者

つらなりてあかり灯れる陸橋を歩める中に義足踏む音

列つくる地下食堂のかたはらに扉ひらきて映画がうつる

くもり日の或る日足場を掛けて居ぬ青錆色のドームの上に

冷えびえと設計室のかげり来て靴より出づる釘ひとり打つ

夜おそく設計室に来し妻と床の電熱器ともしてあたる

鉄を截る匂ひなまなまと立つ夕べ心疲れて運河に出でぬ

「橋の上」

幾区切舗装を終へし堤の道白じらとして運河に添へり

灯をともし来たるトラツク橋のへにたまりたる時夕日は低し

ことば解らず一日交りて働けばストーブの湯に手を洗ひ合ふ

川風に防空頭巾かぶりつつ仕事分けられて居る労働者

橋の上に査証を出して帰るとき鉄工場の匂ふしぐれよ

「低き灯」

草の上の揚水塔に垂氷あり影長々と吾が歩み立つ

ゆりかもめ白じらとしてかぎりなく氷のとぢし沼にむらがる

逆光の中に立ちたる?土機の土を落してしばらく揺るる

灰皿に残る彼らの吸殻を三人は吸ふ唯だまりつつ

言葉知らず働き合へばはかなきに出でて共産党宣言を買ふ

あかあかと装飾燈をかざるバスホテルを出でて霧ににじみぬ

夜ふかき列車ホームに人待てり雪降るべしとたれかつぶやく

乗りこみし復員兵の一団はつつましくして上野に下りぬ

足あれて来りし妻の身をよせて風の落ちたる夜をいねむとす

明けがたにありたる火事よ出でて行くつとめ思へばすでにはかなく

青白く昏るる焼あとの町行くにあかりはなべて低く灯りぬ

近藤芳美歌集『埃吹く街』(3)

 

「苦しきとき」

又何か仕事もくろむ弟のおそく帰りて二階に上る

つつましく米残す妻つきつめし餓は吾らに来じとぞ思ふ

古き土器窓に並べてこもりつつ苦しき時もすぎて行くべし

かがまりて櫛買ふ妻よ吹き出でし日ぐれの風に吾は疲るる

弁当を屈りひらく日本人彼ら昼餐に立ちたるあとを

古き墳あばく如くに競ひ言ふ追ひ及きがたく時代移りぬ

酔ひたるあとを必ず苦しみてつぶやき帰る明るき月に

心あらく飲みたる酔もさめてをり月に明るき文字板の下

「吹雪」

雪深く庇につもる飯場より丸鋸の歯を負ひて出で行く

機械立てて測量師らは飯を食ふ吹雪となりし詰所の中に

窓の外は吹き行く風にいくたびか海猫の声さわぎ近づく

水引かぬ土に混凝土を打たしめぬ乾きてか居む暗く吹く風

つれられて種痘にい行く労働者呼び合へり風の吹く作業場に

意地きなき老いし通訳きらはれて一人現場をよぎりて帰る

灯りともして帰る排土機つらなりて吹雪となりし作業場を出づ

舗装路は鉄橋のへに高くなる行くトラックのただ小さくて

英和辞書ポケットにして出でて行く朝より侘し街の曇りに

地下室に息立つ麺麭を運べるを見て帰り行く霧の降る夜を

「堤の道」

水引かぬ道に蜆の殻散れり今日も仕事に疲れて帰る

鉄道の争議もいつか久しとぞ濁るともしの下に思ひつ

自らの意志を持てよと説くことの唯おどおどとして理解せず

排気あらく銀座を行きて行きなづむ開拓局の牽引車なり

はるかにしスクレーパーを牽きて行く枯草原の明るき霧に

「春を待つ」

生きて行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも

手洗場に入りたる妻を待てる時遊歩路の灯の一つづつ消ゆ

手をつなぎ窓に近づく幼児にチウインガムか何かを投ぐる

夜すでに空ける電車に目立ちつつ蹲るもの一人二人ならず

朝寒きホームに出づる一団が朝鮮の旗立てて行きける

朝鮮の旗をかかげて乗り合へば貧しく自ら一団をなす

堤遠く発破をかけて淡あはと立てる煙よ春のにごりに

近藤芳美歌集『埃吹く街』(4)

 「青き桜」

ホテルの灯夜更けの如くともるとき高架線の上傾きとまる

建物の二つ並べるあはひにて雨を吹く風吹き変わり居る

弟は見本を持ちて家出づる互ひに生活に立ち入る事もなく

貧血をおこし机に伏す父を出でがけに吾が見下ろして立つ

焼けあとの空は黄色くにごりつつしばらく塀に添ふ道があり

作業場に朝とくる雪新しき排水溝に音立てて行く

ひといろに青みを帯びて咲く桜夕べとなりて見通す街に

うるしの如くかがやく黒雁はしばらくゆるく風の中を飛ぶ

空港のただ明るくて昨日も今日も重油に燃ゆる日本の航空機

癖となりし朝の頭痛の癒ゆる待ち癒えたるあとに体は冷ゆる

妻のため注射針煮る電熱器しばらくあればいたく輝く

「桐の葉」

再びを桐の葉おほふ庭の濠いだきひそみし事も過ぎにき

濠の中にをさまるほどの家の財あかとき待てばあはれなりしか

暁の空のしらむを待つ記憶ブザーの音に今もをののく

朝鮮の父とも早く便り絶え彼のころよ唯死ぬを恐れき

二十代はさらにはげしと君は告ぐ気弱くなりぬ世の思潮にも

「立川にて」

日本はすでに用無き戦闘機低くすわりて草に埋るる

残りたるフライス盤も草深く早く朽ち行く工場に来ぬ

空港よりきびしき風は捨てられし機体の鈑をはぎ取らむとす

丈ほどの草に埋れし変圧器なべていづこと無く風は鳴る

「行き交ひ」

焼けし樹に饑うつたふるビラを貼る白じらとして雨いたる街

みすぼらしく赤旗を守る男女らを人は行き交ひに振返りつつ

睦み合ふ幾組か立ち替りつつ白き汚れし卓につくかな

青き紗は画面の上に閉ぢながら人らは立ちて帰りをいそぐ

近藤芳美歌集『埃吹く街』(5)

「地平の雲」

おのづから切れし電熱器又ともり淡あはとしてフラスコを煮る

幾度かに地平の雲の色移り実験衣脱ぐ一人なる部屋

青色に暴れる空に立つ鳩の投げたる灰の如く飛び立つ

恋ひて来し敷石の道なまなまと細き雄蕊は散りたまりつつ

つづまりは科学の教養に立つ自己を恃みとなして対はむとする

毀れたる樋より落つる雨水が光りて高き壁を流るる

地下道に足場を組みて塗装せり片すみを暗く人らはつづく

しばしありひとり夜具しく妻の声吾が生活のはや怒りなく

「あめのあくる日」

薔薇の花磁器の如くに色冴えて一つは咲きぬ夜の雨ののち

雨ながら明け方の月おのづから鳴れる時計に妻は起き出づ

わづか出る瓦斯を喜び又夜は米に換へむと縫ひていそしむ

髪乱れ月に照らさるる妻のへにひそかに寝ねて又明日は来む

相会ひて早き十年よ思ひ出の清きが中に先生の事

なべて世の心けはしと人は言へ愛さるる事をのみ妻は知る

アカシヤのしろがね色の光遠くすがすがとして雨のあくる日

「遠き稲妻」

硝子板に熔きたる試料乾きつつしきりに遠き稲妻は立つ

光りつつ並ぶ背革の文字の下テーマ疑ひ今日も何もせず

寄りつどふトラックの群雨に烟り一人溶接の火を持ち歩く

窓の外の非常階段に光あたり風鳴れば唯心さわぎぬ

少女らが立て来る赤きプラカード現実は皆喜劇めきたる

戦線を結成せよと言あぐる空転をして果てぬ言葉は

壁の屑音あらく木の桶を落ちくりかへしつつ夕昏となる

聖ルカ病院の窓ことごとく灯りつつ雨に昏れ行く街の上にあり

近藤芳美歌集『埃吹く街』(6)

「死ぬる虫」

一人うつヴィタミン注射ひえびえと畳にたるる夜ふかくして

くすりまきし部屋を這う虫灯の下の畳の半ばまで行きて死ぬ

汗あえしあとたはやすく引く風邪に梅雨に入るべしうつうつとして

待ち得たる時代とも或いは思へども疲れやすし単純な思考にも

霧深き朝の交叉路よぎらむとして幼き婦人警官ありき

からたちに紅色の蜘蛛ひそみつつ秋の如くに風は明るし

隧道を出てななかまど咲く駅よ其の日に帰る旅もさびしく

「梅雨のころ」

蛍光の色にともれる街路燈傘さげながら人らは帰る

白き鳥相へだたりて遠く飛ぶ曇りに立てりレーダーの塔

海猫は曇りを飛びて疾風の来たらむとする低きとよみよ

裏川の昼の或るとき幕はりて榜ぎ来る船に楽団が乗る

塗り赤き郵便車よりエンジンを釣り出だしたり舗道のかたへ

梅雨の雨降り止みながらうつうつと風にめぐれる回転扉あり

日本にて出し得る木材とセメントと数字の前に今日も言葉なく

つつましき保身をいつか性(さが)として永き平和の民となるべし

「月の夜半」

遠くまで蛍光の如明き道出で来てひとり街路樹に凭る

幌深くかけてトラック過ぎたればたまゆら淋し寄りそへる妻

月の夜の街路樹の下にある噴井武昌の街を過ぎし思ひぬ

幾年か或いは十幾年か後にしてこの平和さを何と思はむ

「街の鐘塔」

昼を打つ銀座教会の塔の鐘舗道の上にただにひびきぬ

海の霧いつか細かき雨となる窓に蓆を垂るる倉庫群

疑ひをうたがひとして死に行きし若きいのちらに継ぐ命あれ

戦争は又あらざらむ片言にまつはりて行く幼きものよ

いち早く傍観者の位置に立つ性に身をまもり来ぬ十幾年か

朝鮮の旗立つる一団は土工らかしみじみと吾が声かけたきに

酒吐きて歩み行くときポケットに手触れて居たり鋼の巻尺

「横断路」

橙色に褪せし窓掛あらはなるダンスホールをのぞく少年たち

たてに見えて遠き舗道ようつうつと独立祭の祝砲の音

石だたみ割れて舗道に長けし草広き四つ辻のところ迄来ぬ

朝のまに黄に塗られたる横断路霧晴れ行けば何かはかなく

製図椅子のベアリングの球外るるを拾ひ引出しの小箱にたむる

「銀の箸」

苦しみて負ひ帰りたる荷の中に父は持つロータリー会員の匙

日曜なれば家をあけよと言ひて来む虚勢はれる父と吾と弟

新処置の其の時どきにとまどひて吾が二人持つ郵便通帳三通

父と弟とは蚊帳つる前の虫を掃く干渉するなと諍ひながら

部屋の中の虫しづまりし夜ふけに机の上に銀の箸あり

夜おそく腿に注射をうちて居る妻のうしろに吾は立ちたり

(つづく)

近藤芳美歌集『埃吹く街』(7)

(昨日よりつづき)

「一年の後」 

あらはれし吾らが中にみにくさも一年を経ぬ相責め合ひて

苦しむもを互ひに責めながらつづまりはたれの言葉も同じ

リリー颱風近づくと言ふ日々の記事人らは何か希望ありて生く

聖書など持ち込みて来る妻のへに癖となりつつうつぶせに寝る

起き出でて農家のものを縫へる妻朝けの雨に鐘ひびきつつ

「風はらむ窓」

明るさの落着かぬかなひろげたる土工図よりパイプは風に落ちて

今しばし夕日の淡き窓に見え高き海面を出で行く汽船

昼まにビルデイングにありし小さき火事空澄みながら夕べとなりぬ

静かなる研究室をよろこびて来てしばし居る女事務員あり

この友は引出しに胃薬の瓶たむるつづまりに研究と言ふ事のはかなさ

おのづから風はらみ居る窓硝子街行く群集の歌を吾は聞く

一しきり息づまる如風鳴ればかかへし洋書床の上に置く

旧き権威亡び行くとき今に学び君ら思想の陰惨を知らず

惨めなる中より生きむ今にして亡ぶ事なき血を信じつつ

記憶にがき過去に互ひに触れながら言ひたき事も言ひ尽されぬ

連翹の咲きし社宅の一区劃また帰るなき小さき平和よ

疲るると言ひて出で行く朝々の父は吾より小心にして

部屋別けていつか関りなき生活に夕餉を終へて早く寝る父母

一日の風の落ちたる夕昏を帰り来て水に胸を洗ひぬ

「街の幻燈」

街々に明るき霧は立ちながら遠き月島の草淡き色

指にてもろく崩るる試験片かたづけて机の上かげり来る

鉛筆に汚れしシャツに上衣着てしばし一人なり光あらき道

手すり無き橋を人らは帰り行く芥寄りつつ高くなる潮

川へだてて灰色に闘争本部ありいつか人らの関心もなく

狭き貧しき国にて共に苦しまむ沁む思ひあり朝鮮の記事

じめじめと畳にひくく坐りつつ幾世代にか成せる文化よ

見本鞄持ち倒れ居し弟の浮浪者かと思ひいたはられしとぞ

青々と映し出さるる幻燈が広場の壁にありしひととき

夜の街に幻燈の映る遠き壁妻は疲れてホームにかがむ

「沼津にて」

赤さびし工作機械にやすりかけて幾人もあらず少年工のほか

うすぐらき雨の降る日の原寸場少年工は塵取と飯台を作る

一様に迷彩汚れし工場の一つのかたにひびく機械は

少年工の病む幾人か残る部屋広き廊下に障子ひらきぬ

誘蛾燈まぢかに青き一夜寝て用無き朝の詰所に坐る

(つづく)

近藤芳美歌集『埃吹く街』(8)

(昨日よりつづき)

「くらき壁」

壁くらき机の前に背を曲げていつか諦むる生活力よ

革命などすでにあらずと言ふ安堵貧しき生活を吾らはまもる

幾日かかり数式を作り居る友は虫眼鏡にて計算尺を読む

水圧をかけて機械をしたたれる水さむざむと機械を濡らす

溝川にしづむ丸太を引きあげて人は働く石垣の下

青々と影立ちながら昏れ行けば屋上に出てサキスホンを吹く

季節移るときを必ず吾が病めば妻といたはり合ひてたつ日々

胸を下に寝ぬれば月の清くして一人の如くつぶやける妻

「秋の蚊」

早く寝て本を読まむと訴ふる汝がやさしさにいたはられ居む

弱り居し布団の布地横に裂け妻と吾とは背を合わせ寝る

早く寝る妻と二人の枕の間細ぼそ鳴いて蚊はただよへり

寝返りをすれば切れ行く布団の地妻もいつからか目をさまし居て

つぶやきて粗朶の濡るるを言ひ出づる朝明の雨に又ねむるべし

パジャマにて屈り朝の火をつくるさびしき事を吾に見するよ

休一日本を売り又本を買はむ生活を清しとも思はねど

「記憶」

支那留学生一人帰国し又帰国す深く思はざりき昭和十二年

移動刑事おそれて共に帰郷せる鮮人の友を思ふこの頃

眼鏡光り吾ら学生をしらべ歩く帰郷に暗き記憶のみあり

「某印刷工場にて」

輪転機にたえず起れる風ありて吾は疲るる昼の時間を

単色に刷り出ださるる紙幣ありいたくひそかに刷りたまりつつ

濡れし紙長々として流れつつ窓にさしたるうすき日のかげ

刷り急ぐXマス版の表紙など紅鮮けし刷られしインキ

おのづから錘に閉る木の扉活字を拾ふ音静かにて

静止して奥に並べる鋳字機に灯るあかりか夕日かと思ふ

活字金熔くる匂ひのしばしして用無き職場にある孤独感

写真製版紫いろに光る室人かげの無き幾室を過ぐ

ひびき無き昇降をするリフトより網目の光階段に落つ

煉瓦壁のあはひを食堂に通ふ群濁りし蒸気立ち流れつつ

(つづく)

近藤芳美歌集『埃吹く街』(9)

(昨日よりつづき)

「製陶工場」

煉瓦の炉扉ひらかぬ前にして素焼を高く積む車あり

土色に並べる皿は一かたにコンベヤーの上かぎり無く流るる

二時間ほど乾燥室を廻り来て此処を流るる色無き陶器

うはぐすりかけたる皿は青白く並び流るる昏るる窓の下

焔紅き中を流れて行く皿がことさらにして白く見え居る

牛の骨陶土に交へ焼くことも沁みて吾が聞く技術の事は

磁器の上に絵をぬる作業の幾ながれすでに夜に入る灯をともす

戦ひのときに作りしグラインダー高く積むかげをしばらく歩む

「月食の前」

ものぐらく人行く上に降(ふ)りて居る鉄切断の音無き花火

トラックのこぼせる灰の淡あはと紅き色せり夕やみの街

吾があたり寒き埃は立ちながら寝させて置けと言う声を聞く

月食の始まる前の明るくて酒吐けば又少し行きて蹲る

襖なければ互ひに壁のかげに寝る裸になりて薬塗る父

かたへにて吾の煙草に咳きて居し妻の寝入りて冴し夜となる

炭もちて手術に行きし弟に母はつき行き一と月を経る

「黄色き柵」

操車場の燈冴えざえともりたる夕かげの中宮廷車あり

歩道の上再びたまる人むれにガス切断の火花は暗し

黄色き柵は日本人を入らしめず表情固き女士官たち                                                            

ジープより投げきたる小さき箱をかかへしばらく両手にいただく

グルカ兵吾よりも丈高からずすれ違ひ行く吾は襟立てて

加構計算机の上に乱れつつ窓にくれなゐに灯る時計塔

震度計狂へるままに机上にありきびしく冴ゆる夕昏のとき

六階の室にありたる火事のあと人来て焼けし硝子を落す

時々に茶をかへくるる少女と二人今日も計算を重ねて過ぐる

いつよりか露を結べる床の上クリスマスの樹ホールに灯る

追放にもならず壇上に立つ姿油ぎりて説く青年の虚無

何をして生きて行くかと思ふうち大衆を嫌悪し青年を嫌悪す

「冬の日に」

頬紅をさせよと云ひてつれ立ちぬ荒れたるままに冬枯れの芝

ショールして汝が行く方に槐ありまつはる如き芝原の霧

耳のうら接吻すれば匂ひたる少女なりしより過ぎし十年

赤きコート又着る事もあらざりき吾らに長き戦ひのとき

枯草の夕日に立てり子を産まぬ体の線の何かさびしく

さむざむと白粉の浮くほほをして芝原を行き帰らむとする

「歳末の街」

朝(あした)よりしぐれもとする道の上人は片寄り富籤を待つ

舞台より吹き通り来る風寒く声あげ笑ふ吾があたりにて

時計塔くれなゐ色に灯りつつ止む事もなき夜の雨となる

月青き石だたみの上に一人酔ふポケットに買ひし栗こぼれつつ

上野駅の夜の半ばごろ浮浪児らは踊る少女をかこみ集る

(つづく)

近藤芳美歌集『埃吹く街』(10)

(昨日よりつづき)

「世代」

守り得し彼らの理論清しきに吾が寝ねられぬ幾年ぶりぞ

臆しつつ伏字よみたる十年(ととせ)前今臆しつつ若き世代に対す

在るままにあらき時代(ときよ)も受け行かむ其の限りを吾が良心とせむ

はてしなく陸橋を行く人の音石垣のかげにもたれつつ聞く

押され合ふ吾ら一瞬しづまれば何かさけべる鋭き英語

一しきり声なきままにひしめきて吾らは歩む黄の柵の外

みじめなる思ひ重ねしはてにして今かぎり無く日本を愛す

おどおどと伏せる眼(まなこ)にいつの日にも真実を見て居し民衆よ

「地下の作業」

なほ深き地底に杭を圧し行く水圧機をかこみ灯(あかり)はともる

丹色して灯(ともし)に照れる水圧機音或るときはためらふ如く

もの暗く横たはる鉄梁五十瓲を超え行く水圧機の浮力を受くる

深く立つ杭を灯はてらしつつおのづから湧く地下の霧あり

あらあらしく水吹く機械の下にして見えつつ白き杭沈むかな

水圧機しきりに澄める水吹くに小さき焚火を床にまもりぬ

青白く地上より来る光あり鉄鎖に巻かれ横たはる杭

ガスバーナー霧をてらして近づくにきびしき声を出す者もなし

水圧機丹色に照れる奥がより光は床に壁に定まらず

記号して並べる杭に光寒し地下の作業場を一人出で来つ

長き杭舗道の上に横たはるくもりの深き地上に出づる

作業場の外の舗道はくもりつつオーバー色淡くゆく外人ら

音もなくしぐるる建物のかげにしてミルクの罐をおろすトラック

舗道の上しぐれていまだ明るければ一人計算を持ち帰り行く

「雪の街」

東京に帰りたきかな雪の街赤旗を捲きて帰る幾群

ゼネストを罵る事も諦めてうづくまり朝の改札を待つ

淡々と降りたる雪の凍る街駅より起きて行く幾人か

興るべき新しさとは何ならむなべて貧しく生きしぬぐ日に

二人とも傷つき易し子が欲しと言ひし事より小さきいさかひ

常に怠り合ふかな誰もたれも小さき煙草捲器を引出しに持つ

「あけくれ」

木綿糸あて無く売りに出でし母を憤りつつ吾らは待てり

舌を刺す鰯を分けて喰ふ夕餉妻にたぬしき事もなからむ

眼鏡割り帰り来りし弟は部屋すみにして早く寝むとす

一日を炬燵に伏して居し父のいたはる母に声をあららぐ

酒に酔ふ吾がため妻は床しければ体ごと今動悸して居つ

飯盒を長く洗ひて人去れば今宵もおそく帰る電車待つ

故障せる電車を降りし人ごみに咳き止まず居る父に会ひたり

靴の糸綻びて居し昨日今日春来むとしてにごるちまたよ

むらがりてたゆたふ鴎窓に見え今日も朝より眼は充血す

起重機の並ぶ地平に上る月とび色をして浮き上りたる

(つづく)

近藤芳美歌集『埃吹く街』(11)

(昨日よりつづき)

「或る会合」

言ふ事のはや無視されて新しき在りかたを説く老いし博士ら

マルキスト君ら交れば今日の会いくらか媚びし結論に至る

この老いし歌人の説を読みたりき無視されて今日の会より帰り行く

唯一つ拠るべきものを戦争の中に見て来し三十代よ

この詩型に新しき生を賭け得るや連れ立ち帰る家低き街

「街川岸」

いつよりか来てかがまれる女あり黄色き柵の中のベンチに

階段をすべり背中を打ちし男しばし歩みて人にまぎるる

街々の焼けたる土をはこび来て川を埋め行くしぐれ降る中

朝より鴎は飛びたゆたひてにごれる空の白色のドーム

不幸なる結婚に別れ来し汝の吾を吾が妻をさけむとぞする

「四囲」

亡びし如く見えし一年いち早く態勢を変へ来る彼らあり

解し得ざる迄の憎悪は擬態し擬態し今も吾らに来らむとす

言ふ事の目立たざらむとつとめし事今にして惨めなる悔悟のみ

主義に拠りし唯一度だにあらずして守り得し小さき生活よ之は

誠実に生きむとしたる狭き四囲技術家なれば生きる道ありき

ためらひなく民衆の側に立つと言ふ羨(とも)しきかなこの割り切りし明るさも

まして歌などこの現実に耐へ得るや夜を更(ふ)かし又耳鳴りがする

蝋燭を灯すテーブルに寄り合へど痛々しかりき君の孤独も

交叉路にたちまちにして白き雪君との道も別れ行くべし

表情なき黒き外套の朝の群押しながら行く黄の柵の間

「三月詠」

襟立てて一人出で来る昼休みカナリヤの鳴く売場を歩く

指の爪そめたる少女たどたどとかたはらにして烏口とぐ

鴎らは常に海より漂ひて黄色き霧は街の上に立つ

海の上黄ににごりたる嵐見ゆ映写を終へて開きし窓に

「友ら」

会ひて唯たのしかりしをさまざまに誤解され行く吾らのことば

コミユニスト君の言葉も懐疑多く珈琲店をいくつかめぐる

つづまりは吾を育てし古き組織守らむとする争ひをせむ

今にして罵り止まぬ彼らより清く守りき戦争のとき

降り出せば明るくなりし夜の街軒をつたひて吾らは帰る

(つづく)

(昨日よりつづき)

「こぶしの門」

乗用車青しこぶしの匂ふ門媚びて過さむ今宵幾時間

意志なくて共にしたりし行動の惨めになりてつき歩みける

髪白き妻の事ふる清き書斎時は此の人をも忘れむとする

高き知性高き作品を生(な)さざりき若い世代を愛(いつく)しみたまふ

新しきものを素直に信じつつ妻は行く今宵協同組合の会

「未来」

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

生き死にの事を互ひに知れる時或るものは技術を捨てて党にあり

言ひ切りて民衆の側に立つと云ふ君もつづまりに信じては居ず

技術インテリゲンチアを組織せよと説く立つ時君の懶き姿

にえ切らぬ口の表情昼来れば髪乱れつつ銀座をあゆむ

街川の岸につなぎて毀つ船黒き油を流し出だせり

たえず眼鏡うごく如くに物見ゆと母は訴ふ人を呼びつつ

「夜の時報」

酒のめば口きく事もなくて伏す卵が立つと云ふ今日の記事

鮮人に媚びて物喰ふ少女あり時報は街のいづくかに打つ

「雨のころ」

霧雨に吾らは濡れて帰り行く立場があれば君いさぎよく

乗りこえて君らが理解し行くものを吾は苦しむ民衆の一語

民衆を憎むと云ひし吾が一語速記され居て彼らは読まむ

民衆とも或いは吾らとも言ひかへて浮き上りたる言葉のみなり

互ひに言ひつくしつつ理解せず雨滴は青し窓を流れて

屋根のなきコンクリートの家の露地占ひの灯に人は集る

降り出でて曠野の如き雨の中堀りし街路樹の根株は並ぶ

言訳けを重ねて吾は生きて来ぬ拠りゆくものに君強きとき

守るべきつづまりに無し其の時どき迫る勢ひに反撥しつつ

灯ともして東北線の過ぐるとき埃はあらし陸橋の上

「くもり日」

諍ひしあとを互ひに寝る家族小さき地震を弟は言ふ

くりかへし音階を習ふヴァイオリンはかなき事に怒り合ひつつ

病めば又家出づる事もなき母が注射の針を煮つつこもれる

昼おそき食事して居し製図室赤きコートをきて汝は来ぬ

昼の休み来りし汝とともなへり汝の日傘を吾はさげつつ

かぎりなく夕べの雲のひろがればこぶしの花片拾ひて帰る

(つづく)

近藤芳美歌集『埃吹く街』(13)

(昨日よりつづき)

「埃吹く街」

操守せる言葉を聞く夜孤独にて宿直室の布団にねむる

きびきびと決め行く語気を憎む時守る一つさへ吾があらざりき

言訳けの如き自嘲はあるままに彼らの側に分類されむ

さげすみの怒りに移る一人のとききたれも反動と呼ばれたくなく

まだ其処に居たのかと責めて来る言葉おどおどとしてそれにさへ拠る

知りつくす言葉互ひにしらじらし吾ら世代を同じく生きて

地下道の床に光れる夜光標背を曲げ歩み人を追ひこす

ののしりてホームの床にまろび居し男をかかへ去る雨の中

押され合ふ事のみ怒り人は歩む足場の下に雨しづくして

霧ながら照明燈にてらさるるスタヂアムあり木立の奥に

埋めし芥ものぐらくして影立てる川下遠き電光ニウス

青々と灯にきらひつつ降り出でし雨に露店を仕舞ふひととき

夜の公孫樹輝くばかり青くして一人となれるときを帰りぬ

漂へる珈琲の香をともしめりアーチの奥に白き夜霧に

唯一機ひびきは地平のかたにしてうす赤色に映ゆる夜の空

ささやける人の噂におびえつつ夜間飛行の飛ぶ夜を帰る

中国にギリシャに戦ひ止まぬ事切なく今日の思ひ離れず

曝れし旗はためき止まぬ今日一日人は静かなるメーデーと告ぐ

この窓に聞え遠ぞく労働歌聞きておびえし日より一年

昼までにすみし今年のメーデーに吾らはかなしき迄に順応し行く

いち早く移る情勢の中にして又まざまざと己れ守る見む

街川に上る白波去年の如く何にたかぶり今日の街を行く

傍観し得る聡明を又信じふたたび生きむ妻と吾かも

一人清く過ぎ来し事も白じらし常にうたがひ生きて来し事も

日の白き屋上に縄飛びをする少女ほしいままなるに泪ぐみにき

金あつむる声乱れつつ呼ぶ中に病衣よごれし一団を見る

松葉杖に病衣の一団が街に立つ彼らあはれみを乞ふ声ならず

日の入りの埃吹かるる橋の上いだかれて立つ表情もなく

幾組か橋のかたへに抱かれて表情のなきNOを言ふ声

街の勢ひ負ひて選挙に立つものを憎しみは唯ささやきとなる

街空は吹ける埃ににごりつつ富籤に寄る少年のむれ

さいさいと廻りてやまぬ鳩の群塔も垂れたる雲も蒼くして

仮面つけし如き思ひにつとめつつつく溜息を人は聞きとむ

(つづく)

近藤芳美歌集『埃吹く街』(14)

(昨日よりつづき)

ただ一人酔はざる吾に挑む言葉桜の下に過ぎし彼の日に

橋わたり狭き街あひに入りて行く緑のバスを見下ろして居る

遠き火事再び炎あげむとす雨とならざるまま長き午後

煙草の灰床に散して働くをきらはれながらすぎし一日か

たはやすく諦めによる心をば君にまねびて杜甫を読まむとす

常に一人妻は吾がためかなしとぞ図板の上にさめしまどろみ

影の如煙を吹ける牽引車褐色の野を行きてとどまる

足場の灯あはあはとしてともりつつ夕日の縞は吾らをてらす

故障せる電車の床にかがまりて煙草を吸へりたれも醜く

顔青くなる迄製図して帰る傘さげて妻は今日も駅に待つ

茂り合ふ木下の路の水たまり固くあれたる掌をとりて行く

帰り来て踏まれし靴を拭くときに吾が背に妻はいだかむとする

かぎりなく音階を弾きくりかへす降る事もなき夜のくもりに

何もなき畳の上に弟は手拭ひを眼にまきて早く寝る

熱のあるひたひを妻にあつるとき冷えびえとして小さき体よ

えにしだの花しだれたる夜の部屋ふすまも壁もただ白くして

埃づく髪をすきつつ折れし櫛地を匐ふ如き日を生くるにや

「草野」

息づく如き野の上の夜霧おのづから影なす丘へ手をとりて行く

草の上に高くつみたる芝の苗なほ行きて黒き切通しあり

子の無きを又言ふ事もなくなりし妻をいだきて行く浅き芝

空低くめぐりて止まぬ一機ありあらあらし妻は吾に抱くとき

稲妻のあはあはとしてはためける地平に低くなる機翼の灯

「歌会のあと」

終るころの今日の歌会に来し妻の少女の如く一人交りぬ

歌会より帰りは常に二人にて夕日に霧の立つ広き坂

青く灯る時計映画館の軒にあり雨しげき街又妻と行く

舗道より車庫に入り行く幾台か光さびしき石だたみの雨

雨の音きこゆる地下道の喫茶店分け合ふパンを夕餉としつつ

「ささやく声」

にぶき音くもりの下にひびく夜をささやく如き声街にあり

ウラニウム出づる地帯を争ひて戦ひありと今日も告げたる

昼ながらライトを灯す軍用車長々として街をすぎにし

立つ兵の何か呼び吾が髪を引く数歩をあゆみにやにやとする

自動扉に打たれし胸が痛む日々妻と注射を打ち合ひて出づ

愛撫長くベンチを去るを見送りて吾ら貧しき一団となる

戦ひの終らむとする前にして長安を恋ひ行きたまひける

戦ひ来て正常さなき感じ方彼らの軽蔑の中に交りぬ

おどおどと交る学生の批判の中彼らより善く生きむとしたりき

通ひ合ふもの無き事も知らむとし若き批判の中に交りぬ

「野の雨」

草のあひ小さき馬鈴薯の畑まで夕べかたみに手をとりて行く

草原に昏るる霧雨次々に落つる雲雀に妻とたちたり

おくれ毛のさびしき迄に齢過ぐ草野は昏るる沢の光よ

耐へて来し過ぎし七年いつの日にも少女の如く装はしめき

唯夜の二人の時を待つ如く過ぎ行く日さへ淡あはとして

 

埃吹く街   終