近藤芳美歌集「早春歌」


 近藤芳美歌集「早春歌」(1)

昭和十一年

「製図室」

(一)

落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に

寂しがりて言ふ友をさそひ食堂に行く古本を売りし金がまだ少しあり

聖書欲しとふと思ひたるはずみよりとめどなく泪出でて来にけり

たかぶりて言ひしが夜更け帰り来てオーバーのまま夜具しきてをり

ほしいままに生きしジユリアンソレルを憎みしは吾が体質の故もあるべし

しきりにラヂオの告ぐる一日を部屋の中におどおどと居き百円札もちて

消えかかりし喫茶店のストーブにあたり居て靴の疲れを見せ合ひにけり

肥えたまふ父を思へば吾が一生父ほどの俸給をとる事もあるまじ

大き蛾の翅をひろげて死に居しがなほ一人行く枯薄野を

(二)

朝光の明るき部屋に寝ぬる友顔被ひ居る手の白きかな

指さして人をののしりたりしさへ夢の如しもよべの記憶に

汗くさき夜具しく夜毎吾が部屋に小さき百足の這ひ出でて来つ

窓の隙より雨しぶき入る部屋に又しめる製図紙のピン押し直す

なげき居し友の帰りて行きしあと製図板に又紙をはりつく

製図台に胸おしつけて線引けば幾度もゴムを床に落せり

計算器廻しひたすらなりし友なげき言ひ出づ灯(あかり)ともれば

(三)

吾に金を借りて出で行きし弟は麺麭を買ひておそく帰り来ぬ

この夕べかまきりの子は幾匹も屋上園の芝に生(あ)れ居き

資本論よみつぎ行きし幾日かの亢れる感情もはやうとましき

蚊取香のむれて匂へる部屋の中寝間着の祖母は気短かに言ふ

怒りつぽき祖母が手水鉢に飼ひ居たる錦魚は白くなりて幾年も生きぬ

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(2)

「父母の家」

朗かにふるまふ妹の日記には嫁ぎて行きし友を嫉める

読みて行く妹の日記他愛なきにある時にはげしく父を怒れり

妹の日記をあけて読み居しが又下りて行く暗き階段

葉かげより出でて来りし大き蜘蛛乾きし土に尿(ゆばり)落せり

何時の頃よりかならむ紙幣の匂ひ父の体臭を聯想する如くなりぬ

「那須」

山頂の硫黄堀場に立つ息の夕映せるもひとときにして

硫黄坑より山下る空中索道は薪木をつみて動きはじめぬ

廃坑に硫黄を採りに来りける坑夫の一団と谷に出会ひぬ

吹く風は尾上の荒き岩群の石の間に鳴りて止まざる

空気冴えて夕づく庭に芝草の四角に切りし苗つみてあり

昭和十二年

「大岡山」

(一)

機械の如くに製図つづけつつ過ぎ行く日々に何願ふにや

言ひ出づる友の願ひよ就職してただベットあるアパートに住みたし

連行されし友の一人は郷里にて西鶴の伏字おこし居るとぞ

兵となり満州に行きたしと言ふ友よかつてマルクスを説きあかざりき

昼すぎよりおびただしき天道虫がとび出でて廊下にいくつも踏みつぶされぬ

思ひもだへし記憶は早もうすれ行けど其の夜より吾日記をつけず

手さぐりに灯をつけし机の上に又妹より手紙が来て居ぬ

酒に酔へば新しき世を言ひ合へど白じらしさははや意識せり

若かりし父の書棚にベルグソンのありたる事も吾は記憶す

ふかぶかと体の沈む椅子が欲しとこの幾日ただ願ひ居たりき

(二)

抱き合ひてちまた行きしか靴の泥今朝は拭きつつ思ひかなしも

何事もなかりし如く朝は出づズボンにつきし泥も拭はず

消残りし雪は夕早く凍るらむ石炭殻しく枯原の道に

心怒りてあゆみ行く吾のうしろより妹は靴のつめたきを言ふ

もつれ合ふ如くになりて妹ら夜霧の中を歩み行きたり

妹が日記の間にはさみ持つ手紙を吾はひそみよみにき

髷とけてデパートの中行きたまふ母を老いたりと思ふときのま

物音なきひとときなりき夕光さし枯木皆同じかたに傾き立てり

(三)

方眼紙に数字うめつつ過ぎし今日と変らざるべし明日の一日も

才能を疑ひし計算にも馴れ行きて定るならむ吾の一生も

数字写して今日も過ぎぬと机の上の紙片をまとめて鞄にしまふ

たどきなく昏れ行く部屋に居たりしが本を二三冊トランクに入れぬ

舗道の上につみし芥に雨の降る朝の銀座に出て来にけり

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(3)

「冬浜」

砂浜のただひそかなるくぐもりに行きて埋れしレールふみこゆ

砂浜は再び淡き光さし錆たるレールよぎりなほ行く

枯れ枯れし木立に煙たちのぼり唯たどきなし彼方の岸の

冬枯れし果実園の上幾筋かけむりの如きものが立ちをり

枯れがれし木立に白き塔が立ちソヴィエート国の旗をかかげぬ

「千束のころ」

(一)

照りつくる日がただ続き梅の木に瓢虫の蛹は羽化しつづけぬ

久しぶりに来し花畠に実をうけしチユーリツプ醜く長けて居たりき

ダイス買ひて来葡萄酒買ひて来かにかくに楽しき日々と言うべし

職につかば青山あたりに行きて住まむとそれのみなりこのごろの吾の願ひは

吾が父は会ふ人ごとに無器用に吾の就職たのみ居るらむ

汗かきて醒めたる夜半に月光は窓に著しく位置移り居ぬ

まれに早く帰りし夜は吾が部屋に昨年のあまりの蚊遣香たく

(二)

夕べの光ははやく昏れ行きて草より白き蛾は立ちつづく

炸発のけむりつづけて立ち上がり時にかそかに音ひびき来る

吾が隣に坐りし少女たじろがず手相を見ると吾の手をとる

席上の女一人を意識して饒舌になり行く主人公を何かに読みぬ

きびしく光照りたる舗道の上大き切石を釣り上げてをり

歩み来し歩道のまとも足場高く煉瓦を負ひて人上り行く

吾がむかひ行く建物のうしろより夕べの光微塵の如し

灯つきし窓の中に見ゆる階段を次々に人の来て上り行く

(三)

国論の統制されて行くさまが水際立てりと語り合ふのみ

一筋にかつての時は抗ひき驢尾につきてと今人に和す

戯言の如くに吾ら言ひ合ふとも来たる時代をはや疑はず

まだ職のきまらぬ友らそれぞれにコンツエルン読本など買ひて読み居るらし

張り出さるる採用申込みにはや友ら牽制し合ふ如く物言ふ

明るき店に無花果をしばし選りぬ帰ればなほ履歴書を書かねばならぬ

かそかなる事とし言はむ国こぞる消費統制に就職のあて失ひ行く吾ら

年稚き受験者おとなしく居るに交り吾はつづけて煙草を吸ひぬ

送りかへされ来し履歴書の皺つきしに鏝あてて又封筒に入る

ときどきに向変へては寝床しく事が吾が生活にいくらかの変化となる

人中にいぢけて居しが夕づきて日の照る真菰に沿ひ行きにける

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(4)

昭和十三年

「卒業前」

(一)

いつとなく涙ぐましき地の中に二つの虫の鳴き交し居て

電車にて朝々通ふ人らの中吾は人よりいくらか背高し

帰り行くとき建物のある入隅に空気のぬくもり残り居たりき

はるばるとたづさへて来し紹介状幾通も父は吾が前に並ぶ

妹の事吃りながらに言ふ父の或るはずみに事務とる時の口調になる

幕間を来し食堂にすぐに酔ひてしきりにビールをこぼす吾が父

荷作りをすませる部屋に坐り居てとれしボタンをいくつか縫ひぬ

(二)

夜半すぎて靄のなづさふ舗道にし地下の作業の光洩れ来る

枯枝の影をふみつつ歩み行く吾の今宵を知る人はなし

たのむなき往き来なれども意識して胸はり歩む時折があり

夕されば広場よぎりて帰る人ら同じ歩調をしてあゆみ行く

このひとときとはに思へとノートのはしに記してあり何時の日の事ぞ

引きさきて吾捨てにける写真故青き底より魚浮きて出づ

自慰と言ふべし人一人意識してあはれ若き時過ぎ行かむ

はやはやも朝の光に咲きそろふと言ひ来し故(から)に図鑑引きて見つ

いつよりかあかりつきたるちまた来て人らの列のうしろに並ぶ

軍歌集かこみて歌ひ居るそばを大学の転落かと呟きて過ぎにし一人

無表情に吾が尺取り居し洋服師がある欄にすばやく猫背と書きとめぬ

立てつづけに葉書かきしが出づる時幾枚を撰りて火鉢に燃す

喰ひ残せるパンを机の下に置き又むかふひろげし方眼紙に

淡々と立木の上を流れ行くけむりの如きかげが久しき

「麻浦現場」

ののしり合ひ煉瓦つみ居る人らの上時に呆然となり吾が立てり

計量をごまかせりと見てより行けば金属光る歯をむきて笑ふ

つきつめてははや疑はずこの幾月吾が語彙いくらかは変りたるらむ

寄り行きて人夫を詰る吾の声ひとりごと言ふ如き吾が声

もてあそび居し蛇を人夫ははふり投ぐ影のびて来し草原の中に

馬車馬の疲れて倒れ行くさまを吾は見てをり詰所の中に

人墜ちし其のときの吾が錯覚にゆらゆらと上着か何か落ち来し

わづかなる日かげに食事する見れば黒き飯に水かけて食ふ

罵りて入り来るに対ひ立てるまもすばやく指導者と覚しきを求む

朝より飯を食はぬと言ふ声の巧みあんる日本語なり怒号の中に

そこばくの金に執拗に居たりしか帰り行きぬ小学生の如き署名して

青写真の裏打ちして居し少年はいつか小声に聖書をよめり

かにかくに職工よりは好かれ居ると思ひつつ吾がなぐさまむとす

疲れつつ今日も乗り帰る電車の中蝿を払ひて座席に坐る

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(5)

「山上にて」

バルコンに二人なりにきおのづから会話は或るものを警戒しつつ

吹き流るる霧も見えなくなり行きて吾らのうしろにランプ消されぬ

岩の上にいつまでも手を振る吾を西洋人は見て居たりけり

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき

海の上の雲の朝焼け移るまも舟は出で行く暗き入江を

「京城に住む」

一日のなかばも過ぎし思ひにてベットの上にあぐらかき居る

電話にて女に応ふる落ちつきし声アパートの昼のしづかなる時

ウヰスキー飲みて出で来し昼の街信号に従ひ歩み行く

くまもなくベットの上に月させば鍵を閉ざしてしばらくを居む

はるかなる物恋ふる如暖房の通ひ始むる音聞きてをり

吾が服に鏝押す妹ポケットより幾枚も幾枚も銅貨さがし出す

拡声機に風のまにまに聞ゆる声父が三十年勤続の答辞よむ声

片眼閉ぢて壁の歪みをためし居きあはれ映画館のくらがりの中

「ベッドの部屋」

(一)

国防服着よとし言へば吾ら着つうなじ寒むがる老人社員

声に出でて固き引出しを怒るときおどおどとをり吾のしりへに

たえまなく煤のかたまり吹きあたる一つの窓にまなこをあぐる

テーブルの明るき間縫ひ行けばいつかよりそふかばひ合ふ如く

風邪気味に顔ほてらせてありし夜に始て人の美しかりし

見送りの中悪びれず君ありき妹と並び小さかりける

枕べのあかり消したるしばらくを何の光か壁にゆらげる

窓の下を花輪はこびて行きにけり雨となりたる五分ほど前

鍵かけて一人し思ふつづまりに額の硝子にくちびるを押す

夜となりての行動が少しづつ違ひ居て幾日分の日記を書きぬ

(二)

何かしらけし今の感じにて脱ぎおきしチヨツキがベッドの上に小さし

眼閉ぢて凭るるはつとめ人らにて一時来りてそれぞれに立つ

賛美歌のレコードかけて燈けせばいだき合ひぬ一隅に西洋人同志が

いつよりかベッドの下に忘れ居し古きノートの束を思へり

たちまちに雪に吐きたる酒の上燐寸をすりて血の痕を見る

雪深く街路にたちし夜半にして青き光を放つ窓あり

ひそかなるさまに電話が鳴りて居き明くともれる硝子窓のうち

ポケットがふくれてあはれなるかなと思ひたりしが又出でて行く

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(6)

「浅春某日」

板囲ひが風音立てて居る下を双手を垂れて歩みゐたりき

かにかくに忘れてありし一日の夕かたまけて歯がいたみ来ぬ

あはれ君はよき新妻となりたまへ夜を徹さむ今日の作図に

腕時計の幾日忘れてありし巻く今は苦笑み似し思ひのみ

ひやびやとデスクマットの温りもつを朝の小さきたのしみとなす

「竜岩浦」

(一)

蘆原の上にたゆたひありし日の落ちたるときに燃ゆる火の如

蘆原に口笛に似て呼び交す声聞きしのみ堤を帰る

遠く来てなほ野のくぼに村はあり教会一つかこむ如くに

作業衣を壁につるせば部屋くらし独りの床を吾はしきたり

眼鏡ふみし事もしきりにわびしくて夜中に酔のさめて居たりき

在りありし三年は遠き日にも似つ君が歌読めば吾が歌のごと

くらくなれば急に不機嫌に皆がなる薬罐に酒をあたためながら

空洞の如きさびしき音のする吾がうつしみを掻きて居たりき

草がくる杭一つをば測量儀のレンズの中に吾は見て居し

吾が今日の作業よ杭を打ち行きて沼土深く岩に触るる音

(二)

鶴嘴を打ちこむ見ればよろめきてつぶやくほどの掛声をあぐ

鶴嘴もつものは鶴嘴をただに打てり時にわづかに位置移りつつ

鶴嘴を己れ影に打ちつづくきびしき西日となりたる中に

おし照す下広々と土を均すあなしばらくも止まるものなし

自らはなれ土掘る鮮人人夫と苦力の人種意識もあはれ

人夫らのため濾過槽一つ作らねばならぬと説き居るうちに雄弁になる

土つみしトロリー押して行き過ぎぬ苦しき表情舌いだしつつ

土深くあかりを持ちて吾はをり苦力の居たるにほひ漂ふ

水平儀の気泡移すとひそかに居る吾をめぐりて罵り合ふ声よ

コンクリートのへどろの上に浮く水のときに漣なして流るる

夕べの風にヘルメット帽に鳴りこもる枕木ふみて帰り行くかな

(三)

落葉松の芽ぶきの匂ひ吹きて来る風を作業衣にはらませて出づ

朝すでに白き光よひしひしと鞭ちながら馬車を引き入る

青写真日に白じらと曝れ行けば一人の如き吾の思ひか

鱗雲鉄塔の上にひろがれり滑車一つが音立つるのみ

虫うごかず草の葉に居るを見てそれより測量儀のレンズを移す

夕雲の静かなるとき鉄塔に人のぼり行く這ふ如くなり

ひとりなる畳の上に伏すときにポケットより落ちぬ印と財布が

酒強くなりたるかなとつぶやきてしばらくあれば涙が湧きぬ

寂しくて老いゆく父母を吾は思ふすがるかた無く居る汝を思ふ

畳のすきにこほろぎ鳴きて居るときに隣の部屋に声をかけたる

枕べの匙にむらがり居たりける夜中の蟻を吾は殺せり

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(7)

「秋になりて」

女さび行くを目守る如吾ありて鏝あてたりし夜をも記憶す

果物皿かかげふたたび入り来る靴下はかぬ脚稚(をさな)けれ

育て来し草の匂ひに寄るときに二人の秘密たのしむごとし

霧にぬるる床にとりかぶとを打ち捨てき彼の別れをば思ひ出でつも

支那事変ひろがり行くときものかげの遊びの如き恋愛はしつ

昭和十五年

「結氷期」

作業場の裸線にふれて落ちし雁を今日も合宿にさげて帰りつ

凍死せる苦力は昼迄に埋められて今日もありきただ枯色の窓の中

忘恩なる懶惰なる個人主義なる中日本人よ涙ぐましき

粗朶くべて不機嫌に居る二人より立ちて寒暖計読みに出づ

コンクリートの面にひそかに刻みおきしイニシャルも深く土おほはれつ

「地階の部屋」

寂しき時は停車場にひとり来て雑踏に吾がまぎれたりしか

静かにし家並みの裏を過ぎ行きぬ食堂車はゆたかに窓くもりつつ

行き過ぎし列車に関りなき如く窓鳴りつづくしばらくおきて

畳の下に時にうつろに反響する何かがありととらはれて居る

「早春」

壊れたる柵を入り来て清き雪靴下ぬれて汝は従ふ

近々とまなこ閉じし汝の顔何の光に明るかりしか

手をとりて出でし舗道はあかあかと灯し居き車なきガラーヂが

立ち上る汝の帽子の羽根鳴りてものうかりけりこの木下道

すなほにし眼(まなこ)閉ぢ居きへなへなと紙片の如き幾重の意識よ

在(あり)ありて遂げしささやかなる恋愛よ罪悪視さるる中に吾等育ちて

靄の中行けばいつよりか寄りそひて私(ひそ)かに重たさを吾感じをり

あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと

なほ佇てる汝の周囲にしらじらと路上の靄はあかるかりしか

手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来りぬ

手巾などよごれしものを出し並べあはれまれをり病(やまひ)の汝に

あるときに吾が掌を吹く如くあつき呼吸を汝はつづくる

鈴ふりて其の母君を呼び居たるやさしさにしも吾がこだはりき

細き月汝の位置より宵々に見ゆべくなりて吾が旅立たむ

(つづく)

「癒え行くへに」

かたへなる脣(くつびる)を紙に描写していつか一途に書きけして居る

肉厚く敷布の上にひらきをり女(をんな)にはてのひらにも表情あり

美しく癒えたる汝とともなひて花残し居る菫に屈む

裾ひろくクローバの上に坐り居る汝を白じらと残して昏るる

遠き窓青々としてひらめけりまともに童女の眼を見上げ立つ

「竜岩浦再び」

魚(さかな)の腹の如き腕(かひな)とさびしめど起きざまに吾が作業衣を着る

或るときに屋根の上ひくく鳴き過ぎて風のひびきの如き雁の声

青写真たたみて吾の居し時に入日ありありと硝子にうつる

砂利掬ふ音が歯切れ悪く聞えつつ恋文一つ吾は書き上ぐ

月光になべてしづめり盛られたる川砂よりは川匂ひつつ

月光の中にしひそひそと音立ててコンクリートは水吸ひて居き

肩のあたり黄色くてらし居たりける光も消えて再びねむる

機関車が捨てたる灰に夜をこめて枕木ひとつ燃え居たりしか

栗の木は吾にひとりに匂ふ如海霧(がす)の中にし吹きなびき居き

線路ふみ帰り行くかな暗闇に靴の鋲より火花蹴りつつ

工学士と言ふ語がときに向けられて虚をつかれたる如吾は居つ

ポケットの重たきズボンはくときのすでにやりどもあらぬ怒りか

あしたより風鳴る音に吾が坐る広告郵便来て居たりける

作業今吾一人などに関りなしたれも彼も怒りし如き横顔が照る

「内金剛ホテル」

一つある椅子に上着を脱ぎ掛けて妻とし対(むか)ふたどきまきまま

傍(かたはら)にねむりたるとき頸筋にはかなきまでに脈うちて居き

にごりつつ水栓出づる山水に妻のタオルをひたしてやりつ

外人ら体臭立ち集ふ中洋装貧しく吾を待てり妻は

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(9)

「新潟一夜」

吾が妻を健気と思ふ感情のしばらくにして又混濁す

胸にうづめて嗚咽して居し吾が妻の明るき顔をしばしして上ぐ

いつよりか移りて居たる月光に顔の隅濃く寝ぬる吾が妻よ

白じらと月に片頬をてらされて吾が眼覚むるを待ち居しらしき

汀には打上ぐるものもあらざれば吾が上着きて立ちたる妻よ

昭和十六年

「湖北」

(一)

白々とトーチカのあと並びたる沖を来りて錨おろしぬ

川のぼりすでに幾日ぞ腕時計狂へるままに日を重ね行く

シャツ脱げば皆背にかけて入墨す吾におとなしき分隊の兵

兵ら苦力ら入り交り叫び合へる中整列を了へぬ看護婦の一隊が

高々と屯営は垣をめぐられば幾たびか雁空を鳴きすぐ

鉄道隊の運転し行く汽車なれどあかときがたにひびきわたりつ

弾のあとはなべて雀の巣となりて疑はざらむ吾ら行くとも

貼られ来るかそかなる青き切手さへ何にたとへて愛(かな)しと言はむ

薔薇の門は荒るるままに荒れてああ動くものなき明るさよ

止りたるままなる時計が吾が腕に或る夜十分ばかり進み居き

舗装路を武装よごれて行くところ一匹の驢馬かこむ如くして

たくみに船のあひだを操りて野菜屑を拾ひつつ

川をこめて土色の靄立つ中をああ鳴りわたり故国にむかふ船

(二)

果てしなき彼方(かなた)に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも

釣鐘の如く凍りし外套を立てかけおきて翌る日に着つ

遺骨に裸の缶詰を供へたりいつ迄も暁の如き時間が移る

燈火なき街なりしかば蚊柱の如く吹かれて鴉とび居き

二十時を過ぎたるころは言絶えて隊伍わづかにゆれつつ進む

こぼれたる籾青々と芽ぶきつつ桟橋一つ浮き流れ居き

苦力らを叱るにもあらず交り居き補充兵と見ゆる幾人

渡し終へ又トラックのうしろに乗り行きぬ丈高き一人補充兵か

砲艦は手旗うちつつ行き過ぎぬああ清き日本語にて

鴎らがいだける趾(あし)の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる

葦群とおぼしき中より明滅すモールスを打つ青き光が

(三)

立哨して居しは衛生兵なりき別れ来りぬ粉雪散る中

トラックの上にこぼれしもやしをばつぶして居たり傷のいたきに

血のつきし吾の軍衣をさきながら鋏はしばし音を立てつつ

たちさきし軍衣も共に包む如白き病衣はうちかけられつ

ポケットのものを包みし軍帽を持たされたれば運ばれて行く

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(10)

「兵站病院」

きこえ来る今宵は演習の音ならむ起き居て繃帯のゆるみを直す

繃帯のゆるみしはずみに眼覚めたれば赤味がかれる月夜なりし

つぶやくは生なましき戦ひのことばなり病室はひそけき寝息の間に

胸の上に軍医の袖の匂ふときねむりに落つる如き安けさ

申告して原隊復帰を告ぐる声あはれほがらかに今朝もきこえ来

若き兵ら早く癒えつつ帰り行く皆名の知らぬ其の警備地

足音の如く落葉のする中に白き病衣のひざいだき居ぬ

たどきなくをれば時来て枕べに雨に濡れたる飯くばり行く

マラリヤ熱出づる時間の近づくとあたり整へ居る初年兵

宗教を教養とせぬ世に育ち戦ひ行けば何信じけむ

帰還する日の近づくと帰り行く仕事のなきをさびしみて言ふ

食器さげ列に並びて居る吾が一人背高く硝子にうつる

ひとつ立つ老樹のうれは紅(べに)の花を空よりうすき色に咲かせぬ

朝明に山鳩鳴きぬ街空にあるかなきかにこだまかへりつ

近藤芳美歌集「早春歌」(11)

「病院転々」

(一)

広々と窓をとりたる白き室吾は戦ひの傷見せむとす

 

こみかみにおくるる脈よ昼の静臥を終りし吾に

 

今日一日妻の手紙ゆジャスミンの匂ひは立ちぬ吾の枕べ

 

何の砲と早く聞きわけて病兵らめざめて居たりしばらくの間

 

政治など専攻せざりしを幸(さち)と思ふと言ひ合ひし後を共に寝つかれず

 

私物いくつ捨てて命令を待てるとき妻は日食を見よと言ひ来ぬ

 

命ぜられて遺書を書きたる記録すら友とありつつたのしかりき

(二)

いつよりか静かに居たるとなりの兵いつ癒ゆるかと吾に問ひたり

列なして桟橋の白き上をふむ荷物持ちてやれと鋭き声よ

病衣の肩に図?のずりやすく倉庫の道を歩み従ふ

争ひて塩買ふみれば高く居て鞭ふる巡警も共に貧しき

朝ひととき内地後送を呼びゆけば又静かなり廊下ぬれつつ

捕ふればとらへられしままに居る草かげろふの紅色の眼よ

ひそかなる租界へ通ふ舗道にて鶺鴒が来ぬ落葉の霜に

夜おそきニウスに集ふ病兵の間看護婦は階級章を縫ひてをり

いますでに遠き記憶の如きかなあくがれ学びし建築学も

三十年の生涯に大学も出でき重ねし懐疑も今日あるために

胸しめて重き図?よいづくにか戦ひあらむ隊を追ふため

 

近藤芳美歌集「早春歌」(12)

「上海を過ぐ」

新しき軍靴に縄切れを巻きつけて舗道の片寄りに一隊が居き

鉄柵を立てし彼方にひしめける支那街を見き小路小路に

堂々に欧文布告貼られし下あはれ明るき列なせるかも

銀行の前に並べる表情に犬をいだける女ありにき

昭和十七年

「宇品にて」

新しき戦場にてはいらざらむよごれし真綿妻につつます

やや青くうなづきたばかり居る妻よパーマネントがいたく乾けり

髪切りて幼き妻よ衛兵交代の列のうしろを行きかへれかし

営庭は夕潮時の水たまり処女(をとめ)の如く妻かへり行く

独逸語を学べと言へば楽しみて帰り行きしかな其の父のもとへ

近藤芳美歌集「早春歌」(13)

「病みて帰る」

戦ひに病みて帰れば物乏しき街々よ弱き妻思ふかも

病室の中に先生と仇名され窓拭くときに窓ふきに立つ

たかずなりしストーブの錆匂ひつつ小さき胸痛がくりかへすらし

雨の中に焚口の灰落したりかたへに黙し初年兵をり

初年兵を野戦へ送る万歳と聞き居るうちに涙ぐみ来る

いさごの上にマストを塗り終へぬ夕べに音を立てつつ乾く

岸にかけて重油の綾のひろがれば其の下を波ゆるる青き潮よ

赤々とひととき吾の皮膚てりて浮標も沖に見えなくなりつ

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(14)

「病室詠」

夕暮は静臥椅子より吾がたたむ毛布に足の皮こぼれをり

又たれか家に争ふに双眼鏡を持ちて逃げ来む屋根裏の窓あり

孤独なる性(さが)に互ひに育ちしが妹は女ゆゑあはれなり

いつの間にか出でて映画に行きたらむ父を夕餉に吾らは待たず

傷つきし爪生ひ更りととおへばなべて其のままの過去となりにし

侘しわびし体温計を又わりて半紙の上に置きならべをり

足もとまで水銀を散らしすべなきを妹が来て怒りて集む

生活の怠りの如はかなくて体温表を幾日なまけつ

病室に入り来し父がしばし居て妻の写真を枕べにかざる

山鳩には何か孤独の影そへりたぐひて池に来る事あれど

蔦の花咲き散るときをすでに過ぎて夜毎に雨の如き音を聞く

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(15)

「妻と居て」

妹の部屋に寝に行く吾が妻が溲瓶を置きてしばらくをりつ

紅の羽織着し妻夕暮の雪堀りほそき大根を掘る

昭和十八年

「又或る日に」

吾は吾一人の行きつきし解釈にこの戦ひの中に死ぬべし

妻の写真持ちて行かむをためらへり奉公袋ととのへ終へし夜半

奉公袋一つにまとまりし清しさに下帯かへてひとりねむとす

今さらに言ふ事なしと思へども今宵のみ厨に長き妻かも

「癒ゆるとき」

街の煤は枯芝の上に降りてをりベンチに脈をしづめて帰る

何もなき広場にひびき公園のラヂオは鳴りつ時おきながら

うつうつと雨にならむとする曇すきかへしつつ砂利を洗へり

一人来る金網の前海猫は吾にむかひていたく鳴き立つ

白々といちごの花の昏れ残り妻はほしいままに夕空あふぐ

カナリヤの籠にむかひて椅子があり明るき午後に吾はめざめぬ

病みやすき妻を労りこもらへばはや訪ひくるる歌の友もなし

三十分おきて勤めに出づる父も弟も鳥の餌ありやと吾に言かく

くれぐれを舗道匂ひて降る雨にこまかに妻の髪ぬれて行く

かそかなる怒りを妻にいだく日は病むカナリヤを窓の上に置く

かくしつつ吾は病ひになれ行くか妻が訴ふるはかなき事も

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(16)

「十月上京」

一人なる部屋を閉ざせば音もなし舞台に靴をそろへて寝ぬる

諍ひて出で来し事も悔となるごみを拾ひて廊下行く音

窓一つ露にぬるる夜いねむとす吾に放恣の性あらざりき

くもりつつ明るさたもつたそがれに赤き灯を置く木橋渡る

昭和十九年

「心暗き日々に」

(一)

写図一つなせるばかりに吾は立つ吾が窓のかど風切りてをり

いつしかに夕ぐれてあり部屋の一人螺子を落ししと床を掃く

あらはなる西日となりし中に立つ吾の図面のいたくよごれて

部屋深くさし居し夕日消え行けば手を冷し来て夜業にむかふ

きほひ立ち若きゆけど苦しみし短きことば汝は告げ来ぬ

残る日をうち克つべきに打ち克ちて心清々とゆけよ弟よ

いくたびか音なく雨の降り出づる窓の低きにいたく疲るる

夜業よりつづきし仕事昼となり吾は小椅子を寄せあぐら組む

ポケットの中しめりつつ耐へがたしと思ひ居る時私語しげくなる

昏れて行く中に居たりきうすきスリッパ製図台の下に重ねて帰る

たまたまにかく会ふものか行く君に仕事を終へて集ひ来る友

淡々と野菜の皿に蚊は寄りて妻と二人の食事を終ふる

降り包む高き屋上の監視哨汀の雨の如くにわびし

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(17)

(二)

木炭車の尻より火がらこぼせるを見下ろして居つ雨となる前

口かけし土瓶より湯をつぎ合へば暗さつぶやき製図台にもどる

手巾はかそかに石鹸の匂ひして仕事しまふ明るき夕ぐれよ

汐時の水上る道一日の採りし試料をつつみて帰る

濃き線を出さなと吾は思ふのみ来る日来る日のたかぶりもなく

待避室を出づる階段を上り行く舌あれて吾は人中にあり

遮光せし駅の広間の石だたみマスクをはめて又歩み出づ

照らされてB二十九は海にのがれ高きホームに省線を待つ

(つづく)

近藤芳美歌集「早春歌」(18)

昭和二十年

「南風」

焼けあとの匂しみたるオーバーよ今日も図板に灯をひくく下ぐ

かもめらは川の上なる何に群る心落ちつかず昼の濁りに

砂町の燃えつぐ煙窓に見て一日なりきデータを綴づる

つづまりの事信ずれば言葉なく椅子を砕ける焚火をかこむ

行く君と話少なしなほ生きて世の移るさま見たしとも言ふ

美しき高射砲に昏れ行けば吾等立ちあがる田辺教授室

南風の音にこもりぬたまたまに映る影あり吾が青ざめて

「荒針村」

杭深くたがねを焼ける光りありいづくともなく声に呼び合ふ

灯を置きて働く群れよ地下深き氷の層につるはしを打つ

赤々と詰所の庭に風呂立ちぬなほいくつかの機械ひびきて

鈍色の雲幾筋かたなびきて山下る馬車詰所にとまりぬ

雨あとの廃坑いくつしらじらと霧湧きながら夕昏るるかな

 

近藤芳美歌集「早春歌」完結