近藤芳美





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「思う」

必要があって短歌の雑誌などを見ることがある。また、送られてくる歌集なども、一通り目を通すことにしている。そうしながら多く抱く感想は同じである。それぞれにうたうことに苦しみはあるはずながら、一様になぞみなが似たようなことをうたい、似た素材を繰り返しているだけでいるのであろうかと思うことである。多くが自分のことであり、その日常体験、またその間の感情の起伏である。それに日常周辺の自然、ないしその季節の移りへの関心が交じることもある。そうしてその間に、大体に似たような旅行作品がはさまる。無論、それをうたう作者の個性は、それぞれに異なろう。

そうしてその範囲で、数多い短歌作者が作歌という営為をつづけている。その上で、現代短歌の世界がわたしたちの周囲にある。否、わたし自身、その中にいるものと知らなければならない。

短歌を作ろうとするとき、次に何をうたうかという壁のようなものを前にしてつねに苦しまなければならない。何を素材としてうたうかということである。短歌一首の成立が素材だけであるはずはないとしても、つねに素材に変化を求め、新しさを求めていくことの大切さは、わたしたちがお互いに長く実作の上に知って来たといえるのであろう。

しかし素材をわたしたちの生きていく上の周辺に求め、日常の生活、ないしはその関心の範囲で求めていこうとするかぎり、それが互いに類似し、その一様の繰り返しにおちいっていこうとするのは仕方がないことでもある。それに安住することを別として、やはり心ある作者はその脱出を思うのであろう。脱出のためつねに素材の新鮮さを思い、多くの場合、それが返って来る失望をもまた絶えず知っていくのであろう。

わたしたちのような老齢の場合、次に何をうたうかという、素材への不安ともいうべきものがつねに制作にまとう。一つは、その多く、すでにいつかうたったのではないかという思いのためである。素材の類型化というこであろうし、それは人が長く生きるかぎりまぬかれ得ないことなのかもしれぬ。だがそれ以上、厳然としてい知らなければならないことは、老年と共に狭まる日常と、その出合う体験の範囲なのであろう。そうすることにより、わたしたちは否応なくうたうことのなさをも知っていくのであろう。

そうした、日常の出合いの狭さと反比例して、わたしたちに残されているものが「思う」ということなのではなかろうかということを、しばしば書いてきた。老年という、人生を長く生きて来たことによって知るものは、人間を思い、人生を思い、いのちを思い、ときとして広く歴史を思うことではなかろうか。そうしてその地点に、本当は人間の老年の上にうたわなければならないこと――素材が展けるとおもわなかればならないのではなぁろうか。(2000年8月)

「詩」の現実

NHK学園の全国短歌大会というのが東京渋谷のNHKホールを会場として毎年行われ、今年――平成十年もその選者を委嘱された。集った多数の作品の中から、わたしが特選とした一つの一首があった。

九百日この街死守せし人びとの老いて物乞ふペテルブルグに

ペテルブルグはかっての旧ソ連のレニングラードであり、第二次世界大戦の中で侵攻して来たナチスドイツ軍に包囲されながら、窮乏に耐えて市民らは防戦し、九百日に及んで戦い勝った。その市民らが今は老い、共産主義国家崩壊後の長い経済不安の中で苦しみ、街に物乞いをするのを見るのか。旅の途次の所見であろうと思った。それでありながら、うたわれているものは作者も同じように見て来た歴史への思いといえるのであろう。岡崎つぎみという人の作品である。

大会で選者らは壇に並び、特選歌を中心に座談会風に講評するのが例である。席上、わたしのこの特選歌に対し、同じ選者のひとりであり、そのとき司会者でもあった篠弘君が次のような感想を付け加えた。ペテルブルグの街の、エルミタージュ美術館の前で物乞いをしているのは事実だが、それらは必ずしも市民ではなく、外国人ともいう。そうであれば、それをこの一首に対し、どう思うかという質疑めいた発言である。篠君は最近その街を旅して来られたはずであり、そのことを実見されたのであろう。

そのことに対し、わたしは「詩」としての現実が、必ずしも事実としての現実ではなくてもよいのではないかと答えて一首を弁護しておいた。作者がそのときそう思い、そのことによって「詩」を思い、ないし契機としたのであれば、たとえ事実とは異なっても、それは作者にとって「詩」の現実であり、それでよい。作者はそう思うことにより、それを「詩」とし、そこにある事実としての現実を「詩」の現実に昇華したと考えてよいのであろう。そうしてそのことを無論篠君も十分知っていて、司会者としてあえてわたしに語らせようとしてのであろう。

そのペテルブルグがレニングラードといったころ、わたしも旅した思い出がある。1961年、スターリンが死に、フルシチョフの時代、ソ連は明るい希望と愛国心に満ちていた。

父ら母ら街守り死し幼きは雪野さまよいき通訳ナターシャ

わたしの旧作である。戦火を逃れて疎開し、雪野をさまよったという「通訳ナターシャ」も生きておれば老い、見て来た歴史変動の中でどうして生きているのだろうか。

作者、岡崎つぎみさんはかって長くその国にあり、その上で最近ペテルブルグに旅されたことを後に教えられた。(1999年2月)

「何のために」

よく、どのくらいの数の作品があるのかと問われることがある。正確に数えたことはないが、『早春歌』以後、歌集に掲載したものに限っても、多分、一万二千首ぐらいになるのではないかと思っている。『早春歌』は昭和十一年の歌から始まっている。すでに六十年を越える作歌生涯となる。その上でまだ歌を作っている。なおうたわなければならない切迫のようなものが先に向かって広がっているようにも思えるし、作歌もやや自在を得ているのかとも気づく。むしろ、いくらでも歌が出来るという気持を、極力おさえていかなければならないと、どこかで思っているのかもしれない。

わたしたち歌人の営為とは、無論、一首一首の作品の製作であり、その完成のためへの全身全霊を尽くしての作業なのであろう。しかし同時に、そのトータルとしてのも一つの仕事を、生涯かけて完成していくことではないかとひそかに思っている。すなわち、一首一首はその部分であり、その累積の果てに、わたしたちは全生涯の上での今一つの作品を完成させていく、そのような営為が残されているのではないかということである。

ひとりの作者がその作品生涯において何をうたったかを問われる。たとえば、斎藤茂吉という歌人が、ついにその生涯において、何をうたおうとして生きてきたかを問われる。或いは土屋文明だってよい。そうして、一方においてそれを問われない、問うことをなし得ない多くの短歌作者がいる。問うものとは何か。割り切っていえば「思想」ということであろうか。歌人茂吉の思想であり文明の思想である。ひとりの歌人はその思想であるものを生涯にわたって完成させていくために、営々と苦しんで日常の一首一首の歌を積み重ねていくのではあるまいか。

そのことを、歌を作りだしていく或る時期に自覚するかしないかということがある。自覚することによって、それは短歌とは何かと思うものと、思わないものとが分かれる。そのようなことがあるのではないか。そうして、そのことを気づくのはいつごろであろうか。最初、そんなことを思って歌を作り出しているわけではないし、多くのみなさんも同様であろう。わたしの場合は多分『埃吹く街』のころであり、それは敗戦の荒廃の中、いかに生きるかの問いがそのまま日々の歌であるほかなかった時期である。そうしてその上に、ついに今日までの一万首を越える作品があったといえる。

そのことを今からでも見定めてよいのではないかと思っている。人生の老年に向かわれる方、ないしは向かった方である。何のために歌などを作るかという思いを、たとえ遅きに過ぎる時期に思ったとしても、それは自らの作品製作の意義を見つけることであり、励ましともなっていくのであろう。(1998・10)

「発見について」

初心者ともいうべき人たちにむけて講演をしなければならないことがある。そのようなとき、茂吉のいくつかの歌を引用するのを例とする。たとえば、次のような一首である。

  畑中に人を葬るさまが見ゆ馬ひとつ其処に佇み居りて

歌集『連山』の中にあり、昭和五年の作である。「満州遊行」とあり、その年茂吉は当時満州と呼んだ中国東北部を旅し、最後に北平、いまの北京に至る。そうして帰路につく。歌はその帰路、大陸鉄道の車窓の所見であろう。昭和五年は「満州事変」発生の前年、旅は平安であったかもしれないが、そこには戦争の時代を直前する予感ともいうべきものがすでにあった筈である。

ともかくも、長い旅を終えた後の帰路につく。車窓に見えるものは、華北にひろがる原野、或いは畑。その荒寥としたながめであろう。その中に、茂吉は農民たちによる葬式を見る。馬車に積まれた柩が野中の道を運ばれ、そこで飾りの品々と共に火葬とされるのであろうか。もしくは土葬なのか。

しかし茂吉は「馬ひとつ其処に佇み居りて」とここでうたう。柩を運んできた馬が、馬車から解かれ、葬の行われている間、やや離れて所在なげに佇んでいる。そのことを見逃さず、そのことを具体として一瞬にとらえる。その彼方にひろがるものは広大な大陸の曠野、そこでいとなまれ、繰り返される農民の生死のこと、生活のこと、更にはそれへの茂吉自身の嘆嗟といえるのか。いずれにせよ、そのことをうたうことにより一首は「詩」として成立し、一結晶世界を形成する。歌を作ることの中にある「発見」である。茂吉自らはそれを「写生」という。もしくは、「無くてかなわぬもの」という言葉で語ろうとする。

短歌の作り方には、その根底のところに「定石」ともいうべきものがある、と茂吉は記す。ちょうど、絵画にデザインがあり音楽に基本があると同様である、とわたしはこの例示の一首から語り出すことにしている。その上で無限の変化があるのであろう。そうしてそのことを「発見」という言葉でも初心者のみなさんに語ろうとする。

その「発見」のなさを、周囲の方々にも語りたいと思う。みなさんの作られる歌には「発見」がなく、「発見」の新しさがなく、「発見」の新鮮さがない。あるものは、ありきたりの世界であり、素材であり、それをめぐる「ことば」だけである。或いは「ことば」だけの説明であり、饒舌であり、虚飾でもあるものなのであろう。

みなさんはやはり何をうたうかの「対象」、ないし「素材」の「発見」に立ち返るべきではないのか。その、どこをうたうかでもある。いずれにせよそのことの貧しさが、気付かないまま広がって来てはいないだろうか。(1998・9月)

「詩と非詩」

作品評価の基準を、それが「詩」であるかどうかに置く。「詩」の反対は散文である。「詩」の感動と、散文――おはなし、の違いである。なざなら、と問うなら、いうまでもないことである。短歌は「詩」の一世界であるからであり、むしろ、醇乎として「詩」そのものであるべきだからである。

「詩」を定義することはほとんど不可能かもしれぬ。しかも、「詩」はあるはずのものである。「美」と同じである。同じく、「詩」を非「詩」であるものと並べて考えることが出来る。わたしは心のゆらぎ、ということばで語っても見た。わたしたちの心に、何らかのゆらぎをもたらすものである。繊細であり、かそかであり、ほとんどとらえ難いような感動かもしれない。或いは、悲しみに似た、一瞬のかげのようなものかもしれない。

わたしたちはその「詩」を心に抱くことにより短歌を作り出し、多くの場合、いつかその「詩」を見失っていくともいえる。年齢と共に、ともいえるものかもしれぬ。或いは、作歌の間にさけ難く来る、馴れのあいだに、といえるかもしれぬ。始めに、何らかの「詩」をうたった人たちが、やがてその「詩」を失い、いたずらに散文の饒舌の世界に迷い込んでいく事例を周囲につねに見て来たといえるかもしれない。

「詩」を見失っていくのを、わたしたちの日常の間、日常の常識の間に、戸もいう事が出来る。はてないその煩瑣と退屈と、その間の、感動であるものの消耗と思ってもよいかもしれぬ。いずれにせよわたしたちはその歩みをなぞらなければならないかもしれぬ。その中で短歌を作っていくことは何なのか。それは、詩人とは何なのかの問いになるのかもしれぬ。

「詩」を失わないで生きていくこと、「詩」を生涯として生きていくことを、わたしたちは短歌を作る限り思わなければならない、そのために、心を老いさせてはならない。心を日常の中に埋没させてはならない。日常の常識の間に、という。わたしは、女なら少女のように、男なら青年のようにとも思っている。たとえ肉体は老いても、詩人とは少女と青年との心を一生どこかに秘めて持ち続けるものではなかろうか。

歌を作ろうとするとき、むしろ作ろうとして出来ないときに、よい音楽を聞くのがよいと書いたことがある。よいクラシックの音楽である。或いは、平常から馴れ親しむのがよいのかもしれぬ。それと、絶えずあらゆるものに生き生きとした関心、感動を持ちつづけることかもしれぬ。青年のような関心、感動ともいえる。わたしの場合は人間の歴史のことかもしれぬ。それは人間というものの嘆嗟でもあり得る。(1998・4)

「万葉集を読む」

作歌に行き詰まったなら、万葉集を読むとよい――

万葉集のも、つまらない歌がある。しかしそのどれも、今の、わたしたちの作品よりは優れている――

斎藤茂吉と土屋文明との交す会話を傍で聞いていた記憶がある。歌会の席だったか、或いは「アララギ」発行所の、校正か何かの合い間だったのか。戦前、わたしはまだ一大学生だったのであろう。まことにおぼろな、その場かぎりの会話の記憶であるが、このようなことも書きとどめて置いた方がよいと思っている。なぜなら、その二人の先進歌人を同時に見、記憶するものもすでに少なくなって来ているからである。わたしの知る範囲では仙台の扇畑忠雄さん、「アララギ」の小暮政次さんぐらいになってしまったか。その「アララギ」も終刊号というのが送られて来た。

「アララギ」に入会し、地方歌会に出席し出した最初に、周囲の先輩から、先ず三つのものを身近に置かなければならないことを教えられた。『大言海』と、牧野富太郎の植物図鑑と、今一つ、『万葉集古義』全十冊である。著者鹿持雅澄は幕末の国学者。多分当時、最もすぐれた全釈書と吾々の間ではなされていたのであろう。今でも書棚にあり、取り出してみると、表紙は変色、或るものには釘の跡が残る。転々と持ち歩き、そのために蜜柑箱に詰めて運んだ名残りである。そうして、その日から時あるごと、「万葉集」を読んで来たといえるかもしれない。

或るカルチャー教室の、短歌の講座の中で、今またその「万葉集」を読み返すことを続けていると記したことがある。わたしの講座は「万葉集」の一首一首の読み方とか注釈のようなものは大体すっ飛ばしている。柄ではなく、そのようなものは、辞書とか注釈書を読んで下さいということにしている。何を話すのか。作品と、作者と、それらが生まれた日の、背後の世界であり、歴史への関心である。

岩波新書『日本の誕生』というのがあり、その巻頭に、著者吉田孝氏が万葉集の山上憶良の一首「いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」の「日本」を、万葉学者が「やまと」と読ませているのに疑問を出し、「日本」と読ませるべきだという根拠を書いている。「日本」という国号の発生とからんでの説であるが、そのことを遥か早く、同じく一学生として「アララギ」発行所に出入りした日に、土屋文明先生の口から聞いたことがある。戦争前、先生の説はむしろ直感の域ではあるが、先取りであり、『万葉集私注』においてもそれが繰り返されている。すなわち、そこに背景の世界と歴史とを置いた場合、「万葉集」には別の読み方があり、それは今日わたしたちが歌を読むことと深く関わると、今になって知るともいえるのである。(1998・2)

 

「詩人の位置」

すでに、遠いことともなる。トルコかどこかのたびの帰路、オランダに立ち寄り、アムステルダムの観光に、その町の歌人であるモーレンカンプふゆこさんが案内かたがた同行してくださったことがある。ツアーのバスである。ダイヤモンドの工場か何かに連れられていたいだい、そのバスの運転手がふゆこさんに問いかけた。今のかたは普通の人とは思えない、どのような人なのか。ふゆこさんは答えたそうだ。あの人は日本で「タンカ」という伝統的な詩を作る、有名な詩人である――オランダ人である運転手はしばらく感嘆し、ついでに、結婚したばかりの妻が詩の愛好家であるというお惚気をも付け加えたそうである。

敗戦のとき、かっての「満州」でどこかの工事の現場監督をしていたわたしの間接的な友人が、現地に召集され、旧ソ連の捕虜となった。ソ連軍の審問を受けたとき、彼は建築の現場監督であったことと共に、俳句を作ることも告白した。そうして、それを通訳が、建築家であり、詩人でもあるとロシア語に翻訳した。途端に、審問にあたっていた将校の態度が改まった。彼は現地招集のいち補充兵でありながら、捕虜のあいだ将校の待遇を受けた。ヨーロッパ伝統の中で建築家であること、詩人であることは共に尊敬されるものとされる。日本では必ずしもそうではない。

わたしが海外の旅をし、何かの機会に紹介される時、「詩人」として呼ばれ、日本の「タンカ」もしくは「タンカ・ヴァース」という伝統的詩型による詩人と告げられ、彼らはそれをそのまま了承する。そこでは「歌人」などという言葉は通用しない。ついでにいえば、彼らは日本の詩歌としての「和歌」ないし「短歌」さらには俳句に、わたしたちが思う以上に知識を持ち、関心を抱く。繰り返せばそれが日本の文化伝統における、まぎれもない「詩」ということにおいてである。

そうして、そのことの意味はむしろ日本において忘れられようととしている。「詩」とは、一国の文化伝統の中においてつねにその核であったものであり、和歌ないし短歌も同様であったはずだが、それはそうではない。何よりもうしなわれてしまっているものは、今日の短歌の世界において、短歌が「詩」であり、歌人が醇乎として「詩人」であることの自覚であるのかもしれない。

みなさんの作品の選歌をしていながら感じるのは、みなさんが「詩」というものを見失っているのではなかろうかという危惧である。みなさんは短歌というものを、その最も基本のところで「詩」であると考えてはいらしゃらないのではないかと思うことがある。短歌は短歌であり、それはそれだけでいいのではないかという居直りがもしどこかにあるとしたら、それは退廃につづくことなのであろう。(1997・12)

「文学の血」

昭和九年五月五日、中村憲吉が尾道市千光寺山腹の病気療養のために借りて住んでいた寓居で死去する。その家が長く荒れたままとなっていたのを市が補修、「憲吉終焉の家」として公開、保存されることとなった。たまたま、わたしの八十四歳の誕生日であもある。家は千光寺に登る急な坂と石段の途中にあり、尾道水道を眼下に見下す。「千光寺に夜もすがらなる時の鐘耳にまぢかく寝(い)ねがてにける」の歌碑が地元の人らによりすでに建てられている。四女の裕子さん、五女の礼子さんも参加され、共にテープカットをした。山はつつじが咲き盛っていた。
式の後、市の小会館の一つで記念講演をすることとなっていて、そのために、久々に憲吉の全作品を予め読み返す機会を持つこととなった。そうして、そのようにしながら、わたし作品生涯に、憲吉の歌の影響というべきものが、最も底のところで意外に深く滲透しているのを、改めて気付くことともなった。わたしが「アララギ」に入会したのは昭和六年末、憲吉選歌として作品がその誌面に掲載されたのは翌七年二月号のころだったであろうか。その最初の師でもあるべき憲吉は間もなく病状悪化のため選歌を止め、九年には死去する。わたしが実質的に師事したのはそのわずかな間だったが、わたしの作品の最低辺のところに今もある影響とは何なのか。そのことを思い、歌集を読み返し、一種の感慨を抱いてその日の小講演の壇に立った。その『馬鈴薯の花』から『林泉集』『しがらみ』『軽雷集』から遺歌集『軽雷集以後』に至るどれも、歌を作ろうとする初心の日に傾倒として読んだものとして、わたしの今日に至る全作品の原型とも知らずなっていたのであろう。
その一つが、対象を、その微細な部分においてうたい把える技法の機微ともいうべきものではなかったろうか。それを「写生」ということばで憲吉は語らうとする。「散るときも牡丹の花は美しき一日のうちに重なりて散る」の「一日のうちに重なりて散る」の部分である。最初の師の憲吉の死後、わたしはわたしなりの作品生涯をたどり、わたしの短歌世界は憲吉のそれと大きく隔たるものとなったと人は見るかもしれないが、そのことと別に、抜き難いまでに受け継いで来たものがあったはずである。
「文学の血」としてかって書いたことがある。わたしが憲吉から承けたその「文学の血」であるものを、今、有難いものとして思い返そうとする。あわただしい日程の中、尾道の町に出掛けた思いもその中にある。わたし自身はその憲吉に連なる最も末端の門人のひとりでもあったのであろう。(1997・7) 

「赤彦の骨格」

小さな文章を求められて書くことがあり、そのために、久々に島木赤彦の歌集を読み直す機会を持ち得た。『馬鈴薯の花』『切火』『氷魚』『太?集』ないしは遺歌集『?蔭集』などがあるが、赤彦独特の世界が確立していくのは『氷魚』以後、むしろ『太?集』『?蔭集』の時期と思ってよいであろう。わたし自身の回想をいえば、それらの歌集を、遠く少年期、短歌という一詩型を文学として知っていく最初の日に啄木や茂吉らのものと同様に読み、そのことをわたしの短歌生涯の出発点ともした。否、今さえ、赤彦の短歌は遥かな時を隔てて、わたしの短歌の、抜きがたい原点の一つともなっているのではないかとさえ思っている。

その久々の歌集を読み返しながら思ったことに、短歌の「骨格」とも呼ぶべきものがある。赤彦の晩年の作品にかけて形成されていく、その「骨格」の意味である。三十一音律の一詩型の上に、作品一首、ゆるぎない完成のことであり、「骨格」の正しさ、「骨格」の厳しさ、ないしはそこに自ずから具わっていく気韻ともいうべきものであろうか。それを知り、それを求めて晩年んかけての赤彦は「写生」ということをいい、「鍛錬道」ということをいい、あるいは「寂寥所」「寂寥相」などということをいい、そのためにまた周囲に誤解と反感を生みながら孤独な求道者としての一短歌作者であることの道を自らに課し、自らに律し、『太?集』『?蔭集』の諸作品をわたしたちに残した。

その赤彦の作品世界は、その日において、言い換えれば日本の近代短歌史の大正から昭和初期にわたる時期にかけて、一つの典型ともされていき、やがて、読むことがやや忘れられかけようとしているともいえる。それら峻厳な自然詠、人生詠が、同時に免れ得なかった自己限定の狭さともなり、その死後において、わたしたち読者の側も昭和初期の歴史激動を見て生きなければならなかったためもあろう。わたしの若くして所属した「アララギ」内部においても、土屋文明を中心において、かって赤彦、ないしは赤彦によって統率された歌風に対して批判、反撥がひそかにあり、そのことが、自ずからな評価の仕方ともなっていったことがあったのではなかろうか。それは短歌の世界全体にわたって、同じくひそかに、今日に続いているともいえる。

だが、そのことと、赤彦作品に具わる、短歌一首完成のために求道者のような厳しさのうえでの「骨格」の意味とは違う。わたしたちはすでに赤彦のように湖の氷の上の三日月の峻厳世界はうたえないのかもしれないが、そこにあった短歌一首完成、ないしその「骨格」ということの示すものを、やはり学び、自らの作品のこととして見定めておかなければならない。(1996・8)

 

「観念世界の開拓」

この文を書いている今日は一月十三日、1996年の新年の後である。そおうしてわたしはこの年、八十三歳になろうとする。すでに人生の老年であるのはまぎれもない。

その1996年新年詠として朝日新聞に次のような歌を作っておいた。

風に立ち掌に包む小さき炎とも英知を思え生き向かう未来

このときに世界史を思う無明より人間が見て来し「知」の信頼に

「ケ」と「ハレ」ということがある。新聞などのために作る新年詠などはその「ハレ」の歌であるべきだというわたしの考えがある。そうしてそのことの上にひそかにうたい続けようとするものがあることはかって旧著「歌い来しかた」のおいて触れておいた。

その上で、このような歌を観念の歌、観念世界の作品というのであろう。新年詠にかぎらず、わたしの作るものにそうした作品が多くなろうとして来ていることは、たとえば若い加藤治郎なども指摘してくれている。ひそかに、そのことを意図しようとしているといえなくもない。

一つには、老来、いきて触れていく世界がしだいに狭くなろうとし、逆に、関心の範囲が自らの内面に向けられていくのが多くなろうとしていることがあるであろう。それを「思想」と呼ぶことばでいっていいのかもしれぬ。うたうべき表現の衝迫の世界が、しだいにそこに向かおうとしているのを、わたし自身は長く生き、長く歌を作って生きたことの上の自然な方向のようにも思っている。

その上で、その方向に、まだほとんど未開拓な、一つの歌の世界が切り拓かれていけるのではないかとも思っている。観念世界の歌であり、「思想詠」であるべきものと思っている。それは今までに、近代短歌の先進らによりうたわれることが少なく、むしろ、うたうことが避けられていた領域だったといってよい。

あまり人の作品を読むこともなくなった中で、「アララギ」の、小暮政次さんの最近の歌に注目している。たとえば、

  敢てねがふ尚しばし間の安らぎとその安らぎを包めるものを

などがある。小暮さんはわたしより五歳年長、夫人をもなくされた。その歌はしだいに自分の内面とだけ向かい孤独な自問自答を繰り返しているようなものになろうとしている。いわば、外部世界を絶った観念の歌であり、わたしたちの先進によってはうたわれなかった領域ともいえる。

すなわち、老年の先に、まだまだそのような世界が未開拓の荒野のように残されているということを、同じ「未来」の、老年を迎えようとするみなさんにも思ってもらいたいことである。何も観念の歌、思想詠に限らない。(1996・3)

「重ねていく」

「未来」も四十幾巻かの誌齢をすでに重ねて来た。そうして、それぞれに参加して来られたみなさんの多くも、誌齢と共に自ずから年齢を重ねて来られた。わたしも無論である。さいわい、わたしたちの雑誌には絶えず若い作者らが加わり、それがつねにみずみずしいエネルギーを満たして下さって来ているのも事実だが、同時に、長く共に歌を作って来た人らが、老いを増していかれるも止むを得ない。

選歌をしながら、そうした長い作者らが、作品としての低迷を見せていくのに気付くことがある。この人もうたうことを失って来ているのではないかと思うことがある。うたう世界を失っていること、うたう感動を失っていくのではないかと思うことがある。うたう世界を失っていること、うたう感動を失っていることといえるのか。ないしは「詩」であるものの枯渇といえるのか。作歌者として長く生き、老いというものがそれだけのことであったなら寂しいではないか。

老いとは、世に長く生きてきたことであり、世に長く生き、その間にさまざまな人生を重ね、それをくぐって来たことでもある。そうして、とりわけてわたしたちが生きた人生とは、戦争と戦後激動とをはさんで、わたしたちの前に生きた人らも知らず、わたしたちの後に生きる人らも知るはずのない、大変な歴史の時でもあったとも思ってよい。その中でわたしたちには生きてくぐって来たことがあり、見て来たことがあり、知って来たことがり、当然、それらの上に思ってきたこともあるはずである。思ってきたものの上に抱かれるものが「思想」でなくて何か。

それをうたえよ、といっているのではない。だが、みなさんの短歌が何らかの意味において自己表現であるならば、みなさんのうたうもののすべての底に、そのようにしてくぐり、そのようにして見、そのようにして知り、更には思いとして来たはずのものを、つねに、ひそかに重ねていくことを思われてよいのではなかろうか。

ひそかに重ねていくことを、といった。ひそかに重ねていくために、そこにはみなさんの日常があり身辺があり、それら小些事の世界があるのであろう。否、老年というのは、しだいに世との関わりを絶って自らの周辺にのみこもっていくことであり、うたうことのすべて、いに世との関わりを絶って自らの周辺にのみもっていくことであり、うたうことのすべて、その範囲になっていくことを逃れ得ない。それにも拘わらず、うたうものが自分ひとりの個のことであるなら、自分ひとりの個の心の世界が必ずあるはずであり、自分ひとりの個の思いの世界が必ずあるはずである。その心であり思いであるものの底に自ら重ねるべきものが何かをわたしはいってきた。

それは容易とはいえない。だが、容易でないからこそ、立ち対うに値するものなのであろう。老いの歌というなら、わたしたちにおとってもまだまだ未達成の世界である。(1995・12)

「二首を一首に」

月々の幾首かの作品を作ろうとするとき、それらが自ずから連作のかたちをとっていくのは、そのことを意識するかしないかは別として、今日では普通のことなのであろう。事実、連作という手法を用いて、短歌という小詩型のうたい得る世界が広がったことだけはいえるのであろう。

何かで小説である人の、小説の書き方とでもいうべき文章を読んだことがある。小説を書き終えた後、その原稿の、書き出しの数枚と、書き終えるあたりの数枚を削除するという勧めである。そのことは短歌の一連の作品を作るときにも同じくいえる。みなさんはそのようにして短歌を作ったときに、少なくとも最初の一首か二首、ないしは終りのあたりの作品を、割愛することを試みられるとよい。そうした作品にはしばしば、全体の一連のための、説明だけであるものあが交じりがちである。それは一連の完成のために無駄な部分であり、連作の効果のためには弛緩の箇所となりがちである。

皆さんの作品を見ていく場合、とりわけて、終りの方の一首か二首、むしろ無い方がよいのではないかと思うことが多い。それらのさくひんにはどうしても理が入りがちになるものでもある。文章でもそうである。文章もまた、いかなり筆を終えるというのは大事なことでもある。延々と一文の総括などをするものではない。

その一連の作品を作り終えた後に、見直し、二つ並んだ作品を併せて一首としてしまう、といった配置も必要である場合がある。たとえばその一首の上の句と、それにつづく作品の下の句とをつなぐ、といった工夫である。なぜなら、いくつかの歌をつづけて作ろうとする場合、それぞれの作品が、辻褄が合ってしまったものになるというのがしばしばであるからである。そうした作品には理が入り、作品一首であることの緊張感ともいうべきものが希薄となりがちである。二首を一首としてしまうことにより、むしろそれによる作品の辻褄が合わない何かが詩としての面白さとなっていくことが、よくあるものである。

こんなことを書くとみなさんは、それでも少ない作品がますます少なくなっていくのをなげかれるのであろう。だが短歌とは、そのような少ないことばとしてのかたちに、自らを攻め、自らを攻めして作っていく、そのような詩のかたちのことであるべきなのでもあろう。

そのようにして作った作品を、書きとどめ、書き綴り、手もとにおいてつねに読み返していく。そうしたときに、たちまちに思い浮ぶ一首がある。一瞬に生まれる一首といってよい。わたしの場合、自ら満足する作品は、そのようにして生まれたものの方が多い。そうであればやはり一連の歌のためにかける或る一定の時間というものはどうしても必要なのであろう。(1995・11)

「水脈の名残」

歌舞伎というものなど、ほとんど見ることもなくなってしまったが、その歌舞伎のことで、一つの文章に出合った遠い記憶がある。名優と呼ばれる、ひとりの女形の役者がいた。或る舞台で、その女形が出演した。それは舞台の上手から出て、下手に入る、ただそれだけの役であった。そうでありながら、科白一つなく、仕草一つあるわけでなく彼が歩み過ぎた後に、舞台にはしばらく水脈のようなものが漂い残り、観客は息を呑んだ。それだけのことであった。何の舞台であったか。何という女形だったのか。ないしは書いた劇評の文章はだれのものであったかもすべて忘れてしまった。

そうして、わたしたちの短歌において、「詩」というものも、そのような水脈の名残のようなものではなかろうかと言う感想を、同じ遠い日に、わたしもまた書いたことがあったと思う。それは一首読んだ後に残る、何かかたちないかげのような何ものかであり、かすかなそのゆらぎともいえるものなのであろう。わたしは陰翳ともいうことばでそれを語ろうとしたこともある。

すなわち短歌一首の「詩」ともいうべきものは、そこにうたわれている事柄にあるのでなく、ことばことばにあるのでなく、ましてその意匠などの範囲にあるのではなく、一首そのものにある。たとえばひとりの名優の女形が幕のかげに消えた後に舞台に漂い残る水脈の名残のようなものであり、かすかな陰翳のようなものであり、その感動であり心ゆらぎであるべきものなのであろう。短歌一首作るとは、それらをどのように一首の後にうたい残していくかということなのでもあろう。

そのためには、作品がどのように寡黙であるかが大事なのであろう。むしろ、つつましく、さりげないままであるべきなのであろう。いたずらに「詩」らしい事柄を連ね、「詩」らしいことばで飾り立てるのとは別のことなのであろう。舞台を過ぎていく女形はその間何の科白も語らず、何の仕草も残さなかったといった。やたらに飾り立て、やたらに饒舌なのは田舎廻りの役者のすることともいえる。

更に、同じく短歌において、その作者がプロかアマかを分けるのもそのことにあるのであろう。すなわち、たとえば茂吉などの場合において、何とつまらないことをうたっているのだろうと思って読んでいって、あとにいいようなく胸にからんでいくかすかな感情を知っていくことがある。心のゆらぎ、とわたしはいっており、それを「詩」と呼ぶものと思っている。繰り返せば短歌を作ることとはその「詩」を一首の中にうたい秘めていくことであり、プロとは、そのことを知って歌を作るもののことであろう。或いは、そのことの技法であり秘密であるものをひそかに秘めて、といえるかもしれぬ。(1994・12)

 

「長塚節を」

七月末、宮崎まで講演に出掛けた。台風七号が南九州沖に滞ったまま動かず、その間、わずかに通う空路を頼るかのような旅であった。宮崎空港に伊藤一彦さんらが出迎えられ、そのまま青島の対岸に連れられた。台風の沖の曇りに打ち上げる潮のしぶきに濡れ、島に通う橋も行き来が絶たれていた。その対岸の浜の熱帯植物園に長塚節の歌碑があり、わかりにくい場所なのを伊藤さんが探し出してくれた。「とこしへに慰むる人もあらなくに枕に潮のおらぶ夜は憂し」の歌であり、歌碑の裏に一自由労働者が之を建つ、といった意味のようなことが彫られていた。死を前にして節はこのあたりを旅し、連日の時化に遭い、漁村の宿で呻吟している。日豊線など当時なく、乗合馬車と船との旅であった。来て見て作品の背後にあるものを実感とする。

そのこともあったわけではないが、歌会の席その他で、長塚節の歌あたりから読み直すことのすすめを、最近繰り返すことが多いのに気付いている。或いは、東京歌会でも出席者を前にそのようなことをいったのかもしれない。今、つづけているわたしたちの短歌の上に、一度、その原点であるべき何かに立ち返るために、或るいは、それを自分のうちに見定めることのために、という意味でもある。

創作とは、つねに限りない変化を求めていく営為であり、短歌もまたその例外であるはずはないが、同時に、その底に、短歌というものの原点、ないしは原型ともいうべきものを絶えず見据えておくことを忘れてはならないのであろう。何が短歌かという自らへの問いつづけでもある。それを見失うと、短歌という一定型詩型、一抒情詩型はとめどなく拡散し、糸の切れた凧のように風のまにまに飛び散ってしまうかもしれない。少なくとも自分のこととして、意欲的な作者ほどそれは自分のうちに知っておかなければならない。すなわち、繰り返せば、短歌がどのように多岐なひろがりを持とうとも、つねに、それが短歌であるという、何か原点であり原型であるものがあるはずなのである。その意味では、定型詩型というもの自体、まことの脆い、相互容認の上にある小文芸世界であるしかない。

その原点、原型をどこに求めるかは再びまた定めがたいが、わたしたちの場合、一応万葉集などの古典と思ってよい。しかしそれより、直接の実作のために、近代短歌のどこかに見ていくことがよく、さしあたり、わたしは今、長塚節あたりをじっくり読み、それを見定めておく必要をみなさんを前にして繰り返している。理由は、わたし自身の気持として、という以上はない。

その上で、近代短歌を一つの歴史の継続としてしっかりと自分の内に畳み込んでおく作業が必要なのであろう。それをかってしてなかった人らの仕事の脆さを知って、ともいえる。(1994・11)

「素材のパターン化」

五月中旬、十一日間の中国の旅をして来た。すなわち、北京に向かい、さらに洛陽、西安をめぐり、上海を経て帰国した。中国は四年ぶり、北京は一九八九年の天安門事件直前に訪れてから五年ということになる。ひそかにその後の中国を知りたい思いもあった。平安であり、街が豊かになった印象を抱いて帰ったともいえる。旅自体のことはここではふれない。

帰ってきて、たまっていた「未来」の選歌をしなければならなかった。そうして、みなさんの作品の中に、例の南アフリカの選挙のことをうたったものが少なからず交じっているのにやや気付いた。黒人の指導者、マンデラが大統領になったことなどである。平常、そのようなことをうたわないはずとおもっていた作者までが、一様といってよいまでに同じことをうたっていた。南アフリカの選挙の黒人勝利がニュースとして伝えられたのはわたしの旅以前であり、事実を知らないわけではなかった。

そうして、それらみなさんの、相次ぐといってよい同じ素材の作品を、わたしは選歌しながら多分ほとんど落としたのではなかったかと思っている。理由、一様に短歌一首として水準が低いとしたからである。みなさんの作品はその素材への関心に拘わらずはぼ一様に同じ事実、同じ感動を申し合わせたかのように同じパターンとしてうたっており、そのための常識的という水準を越えられなかった。

なぜなら、それらはすべて新聞で読み、テレビで見た感動の範囲でうたわれていたからである。作品の感動はその範囲のものであり、それはどの作品にも一様に、その範囲の程度において分けられているということになる。常識的な範囲ということに結果はなるのであろう。詩としての、作者ひとりの「個」といい「内面」というものの不足である。ないしは作者ひとりの「思想」であるものである。

時事詠ということばがある。わたしはそのことばを嫌うが、たとえばかっての戦争の日に、斎藤茂吉は新聞や当時のニュース映画を見ては激しいその日の時事詠、戦争作品を作っている。そうしてその多くに、わたしは優れたものがあると思っている。なぜなのか。茂吉はニュース映画などを見ながら、それこそのめり込むような感動としてそこで見たものをうたっている。戦争は茂吉にとり、全身全霊としてのものであり、単にそれを見て知った感動という程度のことではなかったのである。みなさんは南アフリカの選挙を、どの程度に全身全霊のこととしてうたわれたであろうか。

それにも拘らずわたしたちは、もしそれが心の関心であり感動であるならそれをうたうことを避けてはならないものとも思わなければならない。なぜなら、それもまたわたしたちの生きる現実であり、ついには「個」の「内面」のことでもあるからである。(1994・8)

「軽すぎないか」

選歌と言う仕事が、やや重労働に思えるようになって来た。そうして、この「机辺私記」がそのわたし自身の選歌の後の疲労の上に書くのを例となって来た。選歌の間の感想であると共に、疲労に伴う不機嫌が、多分みなさんに気付かれているのであろうと思うことがある。

今回選歌をしながら、みなさんの作品の中にしきりと擬声語とでもいうべきものが交えられているのが気になった。雪が「ほっかり」と積むとか、子供が「ピチピチ」と跳ねるように、といった例である。それらの多くは一種の幼児語であり、それらを交えることは作品を当然に幼いものとする。ある種の軽み、ともいえるかも知れないが、やはり基本的において、不用意に用いるべきでないということを承知しておくべきであろう。少なくとも、わたしたちはそうしたことを最初にだれかに教えられてこの世界に入った。今はそれが何か恰好がよいものだという程度に受けとめられ、流行を生んでいるのであろうか。

そうしたことを含め、みなさんの作る作品が一体に軽々しく、上すべりになって来ているのではないかと思うことがある。軽々しいちょっとした体験の上にうたわれ、ないしはその上の機知の範囲で作られている作品が、しだいに普通となっていると気付くことがある。否、わたしたち周囲にある短歌世界はほとんどそうしたものばかりとなって来ているのを知っている。わたしの選歌欄はそうであってはならない、というのが選者であるわたしのひそかな願いであるぐらい、気付いていて欲しい。

旅行詠というものがある。物見遊山の程度でそれを作るものでない、と一度書いたことがある。その意味は旅行詠だけにかぎらない。すべてにわたっていえる。今回選歌で気付いたものに、内閣改造や福祉税の怒りの歌が少なからずあったことがある。それらの多くが新聞報道ならびにテレビ解説の範囲でありその繰り返しであったりする。むかし、床屋政談という言葉があった。物見遊山の時局詠版であってはならない。

一体に歌が軽々しくなって来ているといった。わたしたち自身のすべての日常が、そうした間に過ぎ、そうした中に生きていることから来るものといえよう。それが「当世」的であるぐらい、知らないわけではない。

しかし、わたしたちが短歌を作る地点とは、それとはやや違うのではなかろうか。その「当世」の中に生き、しかも今短歌を作ること自体、或る意味では一種の愚直ともいうべきものへの敢えての選択ではなかろうか。なぜなら「当世」と言う板一枚底に、本当は今日の現実が渦巻き、その歴史現実の渦流に恐れ戦くことを知るのみが、本当は愚直の言葉を吐き、詩人である他はないといえるからではなかろうか。(1994・5)

「高年の人へ」

広島の一旧制高校生として「アララギ」入会の手続きをしたのが昭和六年暮、考えて見れば十八歳、ずいぶん若かったなと今ではおもうのだが、当時、わたしの周囲を見渡しても文学に入る年齢、ないし短歌を作り始める年齢は大体にその程度が普通であり、少なくとも戦後しばらくの時期まではそうであった。すなわち、文学、とりわけて短歌は、十代の終りから二十代にかけて始めるべきものであり、それを過ぎての人など、まれであり、例外のことでもあった。

そうして、そのことが今ではやや変って来た。わたしの周囲において、そのような若さで歌を作り出す人は無論あり、それは当然よいことという思いは変らないが、それでも、それを過ぎた高年齢で短歌を作り出そうとする人が多くなり、それがいつからか一般的なことのようになってしまって来た。ことに「未来」の、わたし自身の選歌欄にかげっていえば、男性のかたで、六十代、ないしは七十代、人生の一定の時期を生きた後になって作歌を思い立ち、入会して来られる方がしだいに目立って来たように思われる。女性についても、いわゆる子育ての年齢を過ぎ、何らかの内的遍歴を経て歌を作ろうと考えられ、集って来られた方が多い。そうしてそれは、良いこともわたしは今は思っている。

なぜならそれは、定年後ないし老年期の趣味ないしは老化防止の程度に思って始められる少数の人を別にして、それぞれ文学をかなり深いものとして知り、自己表現の世界と考えられている人が一般である。或いは、かってあった青春の日に短歌を作ろうとはしなかったことへの、一種の悔恨を秘めえ始められる場合が多い。当然作ろうとなさるものには、その間の人生経歴ないしは思想の厚みともいうべき何かが、若く始める人にはないものとして加わっているはずであり、その作品世界の深さともなっていくのであろう。

ただしそのような人らには、反面、ほぼ共通して或る盲点があるとも思われる。自分自身の短歌への、最初から何らかの思い込みであり、そのために、作り出す短歌にあるその思い込みの範囲を頑として出ず、作品を独善のものとしていることである。短歌とは、そうした思い込みの範囲の世界のものではないことを早く知り、それを一度捨て切ることが大事であろう。

カルチャー教室などでそうした人が加わって来られる場合、わたしは最初にそのことをいう。それまで持っていた何らかの短歌への知識を一度捨て、白紙の状態から出発することである。若くして歌を作り出す人には最初からその白紙がある。白紙だから彼らは次々に吸収し、その上に自分の文学を築いていく。一定の年齢の上に短歌を作ろうと思われる人には共通して必要なのはその白紙の意味であろう。自分の作品が相当なものであるなどという思い込みを、先ず捨ててかかることである。(1994・3月)

 

「じたばたするな」

東京歌会などでみなさんの作品の批評をしているうち、ふと、そうした作品とはなれて何かいおうとすることがある。同じ歌を作る仲間だおいう気安さもあって、ときとして、どうしても聞いておいてもらいたいと思うようなことを口にすることがある。先日の歌会もそうであった。だれかの一首に対してものをいっているうちに、本当はそんなことでなく、もっと多くの「未来」の会員の皆さんに向かって聞いてもらいたい言葉を、思わず激して語っていると気付くことがあった。

それは、私たちが今なんのために歌などを作っているのかという、一番あたりまえのことの問いなのであろう。わたしたちは今生き、そのことの上に短歌などに関っている。そのことは、わたしたちのただ一度の生涯の上に、そのただ一つの自己表現のてだてとして短歌を選び、それに関わって生きていることなのであろう。或いは、それしかわたしたちの手元には自己表現の方法がないということなのであろう。

なぜに短歌などを作るようになったのであろうと思ったことがある。少年のころ短歌というものを共に知り、共に稚い啄木などを真似て短歌を作り合った友人らが、間もなく短歌を小文学として軽蔑し、他の世界に立ち去っていくのを羨望しながら、それでなお短歌を唯一の自己表現として選択し、かつ、それにすがって来たわたくし自身の人生遍路、ないしは文学遍路ともいうべきものはわたしの文学自伝「青春の碑」などにすでに記した。それでありながら、短歌にあき足らず、ひそかに小説などを書こうとした淡い悔恨は、多分わたしだけのものではないのであろう。しかも、その上に短歌作者である生涯に執した。短歌を唯一の文芸とし、自己表現のことばとして選んで来た。芭蕉にいう「終に無能無芸にして此の一筋につながる」であったのかもしれない。

いずれにせよ、そのことの上になお短歌を、というのは、それに今すべてを賭けて、ということおであり、賭ける他はない、ということなのであろう。そのの上で、唯一の選択である短歌が、わたしたちの生きる唯一の「生」の上に何であるかという問いを、ときとして自分に向けることが大切であり、ひそかに自分の作歌の上に見定めていくことが大事なのであろう。

歌を作るのが楽しければよいのではないか、という方があろう。だが、楽しいことなら短歌以外にいくらもある。どう考えたって、たかが三十一文字の短歌など、あまり楽しいはずもなく、格好のよいものではない。無論、世俗の報いなどを期すべくもない。その上でわたしたちが短歌作者であるとしたなら、わたしたちの作る短歌が何であるべきかは自ずからさだまっていくのであろう。じたばたするな。その上に、自分の短歌を見定めよ、ということである。(93年10月)

「才能について」             

「未来」を長く続けて来たと共に、選歌ということをも長く重ねて来た。それはつねに、心の重い仕事であったと思わないわけではない。わたしにとり、今にいたるまですべて無償の行為でもあったことも記しておく。そのような中でただひとつ喜びはひそかに新しい才能の芽を見出し、それを見守っていくということといえる。そうしてまた、「未来」からは、その歴史の上に絶えず新しい才能が生み出されていったとも思ってよいのであろう。

ただ、そのようにしてひそかに見出していったはずのさまざまな才能の芽が、必ずしもすべて花開くまでに至らなかったのも知って来た。或るものは咲き切らずして萎れ、或るものは早く枯れていく。短歌の上でいうなら、或る作者は才能であったものをいたずらな自己模倣とし、あるものは晦渋な迷路遊びの中のものとしていく。最も多いのは、その作者の年齢の重なりと共に、作品に無感動な日常茶飯の中のものとしていく歩みである。若い作者がいつからか人生に疲れ切った普通の人になっていく場合をわたしは周囲に無数に見ながらみなさんの作品に接してきたといえなくはない。

せっかく見出した一つの才能は早く停滞していく理由を、その作者の、基礎的なものの欠落、ないしはそれをなす時期の時間的空白とわたしは思っている。たとえばバレリーナがいる。ひとりのバレリーナがそれになるため、幼い少女のときからどのような基礎訓練を重ねていくかわたしたちは知っているはずである。文芸の「芸」という意味では、短歌もまた本当は同様な世界ではないのか。バレリーナなどと違うのは、それは幼いときからなすものではないし、人に教えられるのでもない代わりに、作歌の出発と共に、ひそかに自らの作業として自分に課していくものということになるのであろう。

それを、デッサンということばで語ったこともある。画家を志すものが最初にしっかりとデッサンを重ねることが大切であるように、短歌にも同様なことがあり、それが自ら、一人の才能がそのままどこかで終るか、ないし長い成長への道を分けるにかかわっていくのであろう。但し短歌の場合、デッサンであるべきものはいろいろにあるし、それを自分で見出し、自分に課していくものということになるのであろう。

周囲の若い、初心の人に、たとえば、長塚節を読むようにすすめたことがある。長塚節あたりからしっかりと読み込むようにという気持である。そこにはやはり近代から現代に至る短歌というものの最も原型・原点ともいうべきものがあると思うからである。そうした原型・原点であるものの上に足をつけて短歌へ歩み出すということが最近忘れられているし、デッサンという意味でも、それは本当に大事なことなのであろう。(1992・12)

 

「批評の前に」

雑誌などで人の作品を批評することがある。或いは、歌会などで同じく人の作品を批評することがある。わたしたちは短歌作者なので、いわば初めからその世界に浸り、其の世界のならわしになじみ、そのの世界でなされている作品批評であるものを当然と考えるといえるが、他の世界ではどうであろうか。たとえば俳句とか詩とか小説の世界では、それはどのようになされているであろうか。短歌に近接した世界である俳句のことは、幾分か知らないわけではない。それでは美術の世界はどうなのか。或いは音楽の世界はどうなのか。多分、そうした世界でも仲間たちが集って作品とか演奏などの相互の批評がなされることがあるのであろう。それは、どうようにし、どのような考えでなされているのであろうか。

わたしは短歌の場合においても、それは何よりも先に、一首の「詩」としての享受があった上でなされりべきものと思っている。すなわち、そこに、その作者は作品一首としてどのような「詩」を告げようとしているのか、そのことを先ず享受することから批評もまた始まるべきものと思っている。それが詩なり文学なりの読み方の当然の出発であり、批評というのはその次に来るものなのであろう。

みなさんの書かれた批評を読んだり、また歌会の席での発言などを聞いていると、そのことが抜けているのではないかと思うことがある。そこで何がうたわれようとし、どうような「詩」がつげられようとしているかを理解せず、また理解しようとせず、作品の部分部分をあげつらうことをもって批評と考えられておられるのではないかと思うことである。それがだれであろうと、人は短歌一首を作ろうとするときに、心の中にあるもの、ないしは「詩」であるものを、何らかの程度に告げ伝えようとしているはずである。それを最初から聞こうとせず、理解しようとしないまま、文学の批評などあり得ないのであろう。

わたしがまだ若く、一大学生として、東京青山の「アララギ」発行所の歌会などに出入りしていたころ、歌会の席にはしばしば斎藤茂吉も加わっていた。そうして時として、その茂吉の作品が批評の対象となろうとするとき、彼は批評の順にあたった当日の不運な出席者に向かい、君、僕の作品はもっとゆっくり読んでくれたまえ、としきりに注文をつけた。ゆっくりと読み、その一首全体の調べと共に作品全体を理解した上で批評をするように、というのであろうか。今日でこそ茂吉は短歌の神様のように思われているが、生前でもあるその当時、茂吉は歌壇のさまざまな批判にさらされ、一無名の少年会員のわたしさえなぜ彼の作品が本当に理解されないかと悔しむことがしばしばだった。同じ思いは、歌会の席でも茂吉の心を占め、愚かな批評への悲しみを抱かせていたのであろうか。(1992年9月)

「だれがうたうか」

戦後、「新歌人集団」の会合を持ち、東京の、戦争で焦土となった中の朝日新聞社屋の一室で集っては短歌の議論をしていた日に、或るとき先輩の歌人である土岐善麿さんをお呼びしたことがあった。わたしたちは多分、その日も、「何をうたうか」ということと「いかにうたうか」ということを論じ合っていたのであろうか。つまり、文学における「内容」と「方法」の問題である。その、まだ若く未熟であったわたしたちの議論をしばらく寡黙に聞いておられた土岐さんが口をはさまれた。もう一つ、大事なものがあるではないのか。それは「だれがうたうか」ということではないのか…

文学における「何を」「いかに」の問いに加わるべき「だれが」ということを「内容」「方法」に対する「主体」というように考えてよいのかもしれない。土岐さんは戦争の日、みずからの思想をわずかに守り貫いてうたい生きられた少数の歌人ともいえた。うたうべき「主体」こそ「内容」や「方法」より先にあるその日にひそかに考えられていたのであろうし、その日に、そのことをわたしたち若い歌人に告げようとなさったのかもしれなかった。

短歌のような小詩型を生涯の文学として思おうとするとき、わたしもまた、「何を」「いかに」ということと同時に、否むしろそれらより先にあるものとして「だれが」の問いを深く自分のうちに見定めておかなければならないものと思っている。うたう「だれが」であり、うたう「主体」であるべきものなのであろう。すなわち、それはついにうたう「ひとりの人間」を離れてあり得るべきものでなく、同じくまた最後に、うたう「ひとりの人間」に行き着いてしまうはずのものなのであろう。

それをわたしは「全人間」ということとして考えている。すなわち短歌は、究極には「全人間」としての文学だということである。「内容」とか「方法」とかいう問題に先行して、作者である「全人間」があり、そのことによって決せられていくものだというように思っている。

すなわち、茂吉により、その生涯に上にうたわれたものはついに茂吉という「全人間」だったということである。文明の百歳の生の上にうたわれたものは、同じくその「全人間」だったのであろう。

単に歌人であったことを別にして、茂吉といい文明といい、彼らが生きた一時代において、やはり巨人といってよい人々であったのであろう。すくなくとも、第一級の人々だったのであろう。

逆に、小さな、つまらない人間であるなら、作品もそれよい出ることはない。つまり、短歌とはついにそのような文芸なのであろう。(1992・2月)

「こころの茂吉」

短歌指導のための或るカルチャー教室で、作品批評と共に近代古典としての歌集を読むことを続けている。文明を終えて今は茂吉。テキストに岩波文庫版の『斎藤茂吉歌集』を用いている。最初から読み出し、先週、「石泉」の終りにかかっていった。昭和七年、たとえば「春より夏」と題し、

なかぞらに音する雨はまたたくまに羊歯のしげみに降りそそぎけり

などと共に、

心中とふ甘たるき語を発音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす

といった歌がある。昭和七年、わたしは一旧制高校生の少年として「アララギ」会員となっている。そうしてその前年、いわゆる満州事変が発生、日本が十五年戦争の暗い歴史に歩み出そうとしてもいた。

その文庫本において、選集であることのため同じ「春と夏」において次のような作品が脱落している

コスモポリイはさもあればあれ心もえて直に一国を憂ふる者ぞ

この歌のことは『青春の碑』その他において幾度となくわたしひとりの追憶として記した。歌を作り出したばかりの当時のわたしにとり、短歌というものが自ら生きることを思おうとするために、それを表白となし得る文学であることを知った最初の一首だったともいえる。

同じよううに、

街上の石だたみが朝ぎりにしめるころ既に剽悍の目附きしてあるき居らむか

譬へていはば精子のごときか目に見えぬ個の生滅ののちあたらしき国は興らむ

などが並ぶ。繰り返せば、わたしは短歌を自らの青春の最初の自己表現として選択していった日に、茂吉をこのような作品の作者として知り、ひそかに師ともした。いわば、ここにわたし自身の作品の原点があり、さらに、今日に至るわたしの短歌生涯の根拠があるともひそかに思っている。もしこのような茂吉の歌と出合わなかったら、わたしは短歌などもっと早く捨て去っていたであろう。

同じく昭和七年、それらよりやや前に『石泉』には次のような歌もある。

空にひびきてニコライでらの鐘鳴るを旅人のごとくわれは聞くなり

選集としての岩波文庫版にはそれらがすべて抜け落ちている。なぜといえるのか。

カルチャー教室の講義のあと、それを聞いていたひとりの友人が、茂吉を今まで古いと思っていたが、そうでないと知った、むしろ文学の現代性というものを知ったという感想を告げた。生き生きとして今読むと耐える作品であり作者ということなのか。少なくともわたしのこころの中にある茂吉はそうである。(1991年5月)

「トータルの世界」

短歌という一民族詩型が、かって、どのように発生していったかは本当には知り得ないことなのであろう。しかし、それが六世紀から七世紀、万葉集の初期成立の時期とほぼ重なると考えてよいはずであろうし、またそのころの中国詩の影響も、わたしは必ずあったことと思っている。いずれにせよ同じ日に古代歌謡であったものが詩歌となり、さらに長く、日本の文芸の根幹をなして来たことは記すまでもない。それは万葉集、王朝和歌を経て自らの歴史を重ね、その間に一文芸世界を展開して来た。今、どのような批判があろうと短歌はその歴史の事実、ないしは文学伝統であるものを背後にし、その上にあることは間違いない。

そうして、わたしたちがどう思うと、現在、短歌を作ることに関わるかぎりそのことから逃れるわけにはいかず、その背後にあるものを負わないわけにはいかない。歴史であり伝統であり、その間に、無数の作品として蓄積されて来たもの、ないしはそれらすべてのトータルの世界でもある。古典、と呼ぶことばがある。短歌を作ることとは、初めからその古典に連なることを自らに負うことでもある。

そうであれば、短歌を作ることは、ただ三十一文字で何かいえばよい、というだけのものではないはずである。若い日にわたしもまた歌を作り出し、はじめ、そのことを軽蔑し、そのことに反抗した。短歌の新しさはそれら伝統の意味と断ち切るところから始まるものとも思ってみた。だが、そうではないのであろう。

石田波郷さんという俳人がいた。作家の横光利一のもとに若く出入りしていた。或るとき、俳人として生きる決心を告げた。それに対し、利一は、古典と競い立つ、ということばを告げ、励ましたという。波郷はまだ少年、新しい俳句を志して気負っていたのであろう。そうして彼は、それをはなむけのことばとして最初の日に刻んだものであろう。

わたしがまだ初心であり、東京の一大学生として青山の「アララギ」発行所に出入りしていたころ、土屋文明先生による月一度の万葉集の会があった。歌会と違って集るものも少なく、いつも十名足らずの小集会であったが、大学生である間、わたしは熱心な出席者であった。当時、退屈でもあり、あまり面白いとも思わなかった先生の講義は、後に万葉集私注の労作として結実したはずである。

わたしの万葉集の知識、ないしは古典の勉強はすれからあまり出ていない。みなさんに古典を読めなどとあまりいえた義理ではないが、それでも、それは読み、それをひそかにつねに内面に積み重ねおく必要は自分のこととして知っておかなければならない。無論、万葉集にかぎらない。(91年3月)

「皓とした一点」

わたしたちの「未来」も来年で創刊四十年を迎えるという。記念事業、ないし記念パーティを行う計画が運営委員会を中心に進められている。それはみなさんと一緒によろこぶべきことなのであろう。

ただ、ひとつの文芸運動、ないし短歌の場合その一結社誌が年を重ねることは、それだけそこに集り寄るものも年齢をかさねるはずとなろう。創刊初期からの参加者はいうまでもなく、後から加わられた人も多く同様といえる。ひとりの作者が、自らの制作の上に長い歳月を重ねることはその作る世界の厚さ深さを加える意味で大事といえるが、一面そうではないものをも加えることとなる。作者の年齢的老いと比例する停滞であり沈滞である。それは自ら知り、自ら警めていなければならない。

わたしの選歌という作業を通して見て来たみなさんの作品について多くの同じことがいえる。若い日に歌を作り出し、それぞれに何らかの才能、あるいは詩のきらめきともいうべきものを見せてくれていた人々が、長い作歌経歴の上にいつからかそのきらめを失っていく例が少数とはいえない。それは人ごとではなく、わたし自身についても絶えず振り返っていかなければならないことなのであろう。

ひつとは生活を負う、その単調な繰り返しの中にいつか磨耗させていくものともいえる。男は家庭を持ち、家族を育てるために仕事を持ち、仕事の日常の中で自らを鬱屈させ自らをすり減らし、ないし自らを常凡な位置に置き、やがて詩であるものを見失っていく。女も同様である。結婚し育児に追われ、さらに日常の常凡に追われ、感動のない鈍い眼をしただけの主婦ないしは母親となっていく。少なくともそのことを自覚せず過ぎゆく場合、作りつづけようとする短歌もまた何かを失ってゆく。

だが、わたしたちは多く、そのようにして生きなければならず、よほどの特殊な生を生きるひとでないかぎり、世間ともいうべき荒涼とした世界の中に人生の或る時期必ず歩み入っていかなければならない。その中でもし歌を作りつづけるとしたら何なのか。もし歌をすり減らさないとしたならどうすることなのか、絶えず自らに問い重ねていなければならない。

それには、かぎりもない生活の日常への埋没の中で、ついに見失ってはならない何かを見守りつづけていくことなのであろう。何か。自分が「詩人」であることのひそかな自覚であり自恃なのであろう。たとえどのような日常の常凡にまみれようと、皓とした一点を目守り続けることである。そのために、自らをつねに励まし、背を屈めることなく、また老いることなどなく生きることでもある。(90年9月)

「それから先にある世界」

河野愛子さんがまだ若かったころ、作歌が行きづまったからといって訴えに来られたことがあった。それに対し、西洋史と、西洋思想史との勉強をしてごらんなさいとお答えをした記憶がある。やや咄嗟なわたしの答えをどのように受けとめられたかは知らないが、その帰りに、彼女はどこかの大学に寄り、聴講生の手続きをとられると共に、何かの講座本を買い求めて家に帰られたということを聞いた。それからどうなったかということ、ないし、それが彼女の文学のゆきづまりにどのように役立ったかということぉわたしは知らない。

作歌の、或る地点まではどのように作るかということが大事であろうし、作歌自体の勉強も当然に必要であろう。技法のことである。しかし、文学とはそれから先に遥かにある世界なのであろう。そうであれば短歌の勉強とは、或る地点から先、短歌を越えて遥かにひろがっていくものなのであろう。それをどのように自分のこととして思っていくかというはすでに作者ひとりひとりのことなのであろう。

選歌という作業をしながら多くの作品に接して来た。多くの作者に接して来たということにもなる。そうしながら、みなさんの多くが、うたおうとされる世界が貧しいのではないかと思うことがある。うたおうとされる、人間ひとりの内部世界のことである。どのように歌一首の技法を繰りひろげようと、貧しい内面のせかいからは豊かな作品は生まれることはない。

短歌は、究極において「全人間」的なものなのであろう。表現とは最後にはその「全人間」に関わっていくことなのであろう。なぜなら、短歌に関するかぎり作品とはぎりぎりのところ直接表現という意味において作者自身に一対一で関わっていくものだからである。繰り返せば、それはどのような技法でもごまかすことは出来ない。

その「全人間」であるものを、つねに深め、つねにひろげていく、ということをしないかぎり、わたしたちの作るものは行きづまる。なぜなら、作品とはひとりの作者の「全人間」を逃れようなく露呈していくものだからである。そうであれば、短歌をつくること、ないし、短歌を作って生きることは一種の追っ駆けっこである。つまり、作品と、作品をうたう作者自身の「全人間」であるものとのしのぎ合いでもあろう。

「全人間」であるものを深め、ひろめる世界は実人生であると共に、わたしたちの場合やはり、読み、知り、思うということをかぎりなく重ねて生きていくことだと考えておいてよいのであろう。遠い日の、河野さんに対するわたしのやや思いつきのサゼッションはそのことを告げたかったのかもしれぬ。 (90年3月)

「プロの集団」

まだ「未来」の初期のころ、或る夏の大会で、「未来」が短歌作者の、プロの集団でありたいと語ったことがある。まだ会員の数も少なかったはずである。それを聞いておられた幾人かの人が、大会が終った後に退会を申し出て来られた。自分はプロの歌人であろうとは思わないという理由であった。わたしもまた、今の「未来」についてそのようなことを無論思おうとはしていない。今の「未来」はその当時よりはるかに大きくなり、もっと広い、さまざまな思いを抱く多くの会員を擁しているからである。それでありながら、やはりいくらかの人に、そのようなことをもひそかに心の底にたたんでいて欲しいと望まないではない。この場合、プロであるということは、短歌を、短歌以外のすべての価値より優先してみずからの実人生の上に位置づける、そのような生き方の選択のことなのである。

わたしが短歌を作り出した一少年の日、「アララギ」の先輩歌人の中に五味保義さんという人がいた。五味さんは秀才であり、京都帝大の国文科を出られたあと、舞鶴にあった海軍機関学校の教官となられた。当時、それは他に羨望されるべき職であり、地位でもあったのであろう。だが五味さんはその職を捨てて上京された。東京に出て、茂吉や文明のいる歌会に加わらなければならないと突き詰めて思ったからである。そのことは五味さんの処女歌集の後記にも自ら記しておられたと思う。

そのことは同じく羨望を交えた美談としてわたしが出席し始めたころの「アララギ」地方歌会でも語り合われていた。短歌を作るためにはそのくらいの覚悟が必要だということである。一少年、一旧制高校生としてそれを歌会の片隅で聞きながら、わたし自身はそれを美談でも何でもなく、当然のことと思っていた。「アララギ」に加わり、短歌を作ろうとするとは、当然、何かを賭けての選択であったし、そのためには職をすてても茂吉や文明のいる東京へ出るべきものとごくあたりまえに思っていた。後に、わたし自身上京する。上京の理由のすべてがそのことではないとしても、ひそかに、五味さんが抱いたのと同じ青春の思いはあった。

だから、とこれを読まれるすべてのみなさんにいっているわけではない。無論ながらその日と今とは違うし、何も東京の歌会に出ることが短歌を作ろうとすることの選択のすべてであるはずはない。しかし、かって、短歌作者であろうとしたものに、その初心の日に、それとほぼ同じような気持は一様にあったのではないかというようなことはひそかに知っていて欲しい。それがその人の負う実人生の上に、出来たかできなかったかということとは別である。(90年1月)

「潜勢力」

斎藤茂吉の歌論の一つに「作歌実語鈔」というのがある。昭和十七年から二十一年にかけて雑誌「アララギ」に連載された。茂吉の、老年に向かう時期の仕事であり、「アララギの初学会員に読んでもらひたいとおもつて書いた」と記す。戦争と、その敗戦に向かう時期であり、読み返しながらわたし個人としてさまざまな追憶が重なる。茂吉にとっては或いは一種の焦慮もあって書き出した文章なのかもしれない。つまり、周囲の門人たちに対して抱く感情なのか。ようやく生涯の文学の頂上に至ろうとする時期にそれは孤独な、あまり気の乗らない執筆だったのかもしれない。

その「作歌実語鈔」の最初に「定跡」ということで読み出して、何だそのことであったかと失望を抱いた私自身の当時の記憶がある。本当はもっと大事な何かかと思ったためである。だがわたしもまた今、その茂吉の老年の歌論集をみなさんに今一度読んでもらいたいと思う焦燥を抱かざるを得ない。今年の、四国の大会から帰って来てからの感情でもある。

茂吉は「潜勢力」ということばでそれを語っている。あるいは「潜勢力の蓄積」という。歌会の集りというものは、その「潜勢力」をつくる場ということである。作歌実行上の、目に見えない何かなのであろう。歌会に出ないものにはこの「潜勢力」の蓄積がない。蓄積がない場合、どんな有名な歌人でも、どんな老大家でも駄目になるものであると茂吉は記す。何とつまらないことを書いているのであろうと思うみなさんもいるかもしれないが、同時に、ここに遥かに高いところを歩み、周囲に向けて彼が抱く忿怒と焦慮の感情をも読みとれないではない。

次のようにもいう。「歌会の席上でぼろ糞のやうに自作を評せられたりするよりも、一人しづかに自作を反省し、自作を楽しむ方が好いとおもつたりするのは君子の考えのやうで一応はうなづけることばであるが、実際からいふと、時間をつぶしてつまらぬとおもはれるやうな歌会に出席し、無理にも題詠の歌をつくり、自作への悪評に耐忍してゐたりしてゐる」うちにその蓄積はなされていくものと説く。今の場合、その引用だけをしておく。

わたしはそれを、作品が痩せるか痩せないかで考えている。つまり、歌会のような機会を持たず、一人だけにこもって作歌をつづけていく人の作品は多くの場合、或る時点から痩せ、作品の豊かさを失っていく。そうして、それを気付かない。個人的事情はさまざまにあろう。そのことを自分に知って、この茂吉の文を何をつまらないことと思わず読まれるとよい。(89年12月)

「連想」

カルチャー教室というのがあり、その短歌講座のいくつかにわたしも関わっている。そうして、その中からよい作品を見せる短歌作者もまた生まれて来ている。他の、小説などの世界も同様らしい。今日、短歌という一領域において、そのような作歌習練の場がある事実はもう無視し得ないかもしれない。

そうした教室で作品指導ないし批評を行なう場合に平凡、平板という言葉をよく用いたりする。多く、作品の素材が平凡なときである。鮮度が足らないともいう。料理を作る場合に、料理する材料が単調で新鮮でなければどうにもならないといったりする。カルチャー教室の受講者の大半が主婦である人だからでもある。

そのようなときに、では平凡でなく、新鮮な材料をさがし出すにはどうしたらよいかと逆に質問を受けたりする。素材というべきであろう。初心者といえる人のまじる講座でときとして、意表を突くかのように作歌の根本に関わるかのような問いを端的に突きつけられたりすることがある。

それがわかっているのなら誰も苦労はないのであろうと一応答を逸らすことは出来るが、そのことに付け加えることはある。素材の平凡とは、それが特異であるという意味だけではない。作歌の素材は何も特異なものだけをさがさずとも、わたしたちの身辺に無数にあるはずともいえる。ことに、受講者の多くは普通の主婦であったり、そうでなくとも似たような生活を繰り返しているだけの人が大半であろう。身辺にある日常、ないし日常に生起消滅するよろこび悲しみの事実も、それをうたう作者の側に新鮮な感受ともいうべきものがあるなら一つ一つが新鮮なものとしてよみがえっていくのであろう。

そのためには、作者の側に、つねに新鮮な感受を持ちつづけて行く、ということとなる。年齢と、さらに生活とに磨耗されることのない感受である。あるいは、詩というものに感動を知り短歌というものに表現のよろこびを知った少女と少年の日のままの感受の世界といってもよい。日常と世間知とでそれを摩り減らしたものが歌人などでありえるはずはない。

それをわたしは連想ということばでも説明することにしている。そのことに、どれだけにたとえば身辺の花一つ、ガラスのコップ一つ、そのことをどれだけの詩の連想として見えるかという意味んもなろう。

そうであれば、その連想の世界をみずから豊かにする、というわたし自身の生き方ともいうべきものを求めなければならない。ないし、求めて生き続けなければならぬ。それは繰り返せば日常と世間知の範囲の生き方のことではない。(89年6月)

「デッサン」

みなさんの作品を月々見ながら、短歌一首の表現ということの、一番基本的な技法ともいうべきものがこのごろうしなわれてしまったのではないかと思うことがある。表現ということの、正確さ、ないしは微細さといってもよいかもしれぬ。そういったものの心くばりがいつのころからか失われ、失われた上に、何となく思ったことを思った通りに三十一文字でいえばよいだろうといった程度で作られている作品が多い。あるものはその作者の器用さで、あるものはその作者の腕力の範囲でともいえる。表現の粗さともいえる。それは器用とか腕力とかでごまかし得るものではない。

それよりも、一番基本的な技法、といったが、そのようなものがあることを、多分、思ったこともない人が多いのではなかろうか。しかし、短歌が芸術表現の一世界である以上、それはあるし、さらに短詩型という、他に増して純粋と醇化の上に表現をもとめなければならない詩歌の一領域である以上、他に増して厳しくそのことは考えられなければならない。

そらを短歌一首表現のためのデッサンということばでわたしは幾度となく繰り返して来たはずである。その一首に、表現のためのデッサンがなされているかどうか、ないしはデッサンが行きとどいているかどうかである。ちょうど、たとえば絵の世界に、すべての絵画表現の一番底にデッサンの厳しさがあるかどうかが問われると同様に、短歌一首の表現にもそれが問われることを、少なくとも制作者として自らは知っていなければならないのであろう。

それをわたし自身は、短歌を作り始めた最初の日に「写生」ということで教えられたと思っている。昭和初期の「アララギ」という一結社の中である。「写生」ということばは当時いろいろに語られ、歌壇の嘲笑にもさらされ、また、今あまり語られることもなくなってしまったが、その一番根底に、わたしがここでいおうとするデッサンの意味がひそかにあったものとわたし自身はずっと思って来ている。「写生」がはやらないというなら、それを他のどのようなことばでいってもよい。

それはうたうべき対象の核心であるもの、機微であるものを把え出し表現としていく技法のことであると共に、そうすることにより、対象の襞々にひそむ、感動の陰影ともいうべきものを、一瞬に一首のことばの間にひそませていく秘密のようなものともいえる。それを告げ出そうとして、もしその技法を知らないままであるなら、たとえ何千言の饒舌を重ねようともそれは饒舌だけに過ぎない。「詩」は…少なくとも短歌一首における「詩」は饒舌とは関わりない世界のものであろう。(89年4月)

 

「生」、内面世界

みなさんはどのような思いで短歌を作り出されたのであろうか。それぞれの理由でそれぞれの経緯があろうが、その初めに、きっとうたいたいもの、表現を求めたいものが心に鬱屈し、それが短歌などを作ろうと思い立たせたに違いない。しかし、しばらくそのようにして短歌を作り続けていって、間もなくうたうものがなくなってしまっていくのに気付かれるのも初心と呼ばれる人たちのあいだに共通する。そうした訴えを聞くことこともあり、そのときに、本当はそれから先に短歌を作るという、ないし制作という営みの意味が始まっていくものなのだとお答えしているが、それだけでみなさんの不安を除くわけにはいかない。

制作とは何か。それは、制作すべきものを次から次へ求めていくことでもある。短歌もそうである。短歌を作るということは本当は、うたうべきものを次々に求め探していくことであるともいえる。うたうものは決してそのへんに満ちあふれ、むこうから集ってくるものではない。短歌一首作るごとにもううたうべき何ものもないという絶望に立ち、その絶望の彼方からなお次のものを求めて歩み出していくこと、ないしは分け入っていくことなのであろう。

どこに歩み出していくのか、どこに分け入っていくのか、そこらにある花であったり景色であったり、もしくは日常であったりするかもしれないが、究極はわたしたちの心の内面…内面の世界であり、さらに「生」と呼ぶべきものなのであろう。そこに次々にうたうものを探し求めて分け入っていく、ということは、同時に、そこにますます深い、部厚い世界を形成し続けていく営為と表裏しよう。他のあらゆる制作の行為…創造のいとなみと共に、短歌もまた別なものではない。

わたしたちの周囲に、若い日に一度いい短歌の作者でありながら、長く作り続け、老年に近付くにつれて作品が瘠せ、貧しくなっていく人たちが多い。詩の貧しさであるが、同時にそれは、うたうことの貧しさであり、ひいてはうたう作者の内面世界の貧困に関わるのであろう。

同時に次のようにいえる。わたしたちが青春と呼べる或る一定の年齢の時期を過ぎた後、わたしたちの内面世界とは、その内面の思想のこととほとんど言い切ってよいはずなのであろう。それが貧しければ作品もまた貧しいものであるほかはない。そのことは、わたしたちが一定の人生年齢に入る日において、生きて来た人生体験とか、ないしは人間ひとりの持ち味といった範囲でごまかし得ないのではなかろうか。「詩」が究極においてその意味のものであることを、早く知るか、知らないかは、やはり大事なこととわたしは思う。(89年2月)

「人よりも深く」

少し古いことになったが、或る小演劇の舞台で次のような場面を見た記憶がある。宇宙人が地球を訪れて来た。地球は原子力発電所の事故で放射能の覆う廃墟の世界である。宇宙服を脱いだあとの宇宙人はなかなかの美女でもあった。それを、地球のひとりの詩人が出迎える。詩人と聞いて宇宙人は賛嘆する。宇宙では詩人という職業がどうように尊ばれているか。それを聞いて詩人は悲しんで告げる。この世界では詩人は一向に尊敬されないのです。むしろ余計な人間としてあわれまれているのです。…舞台の詩人はいかにもあわれまれるにふさわしい、弱々しいなさけない風体であった。

短歌が「詩」であり、「詩」のうち醇乎とした抒情詩の一型態に過ぎないことを時々思い出す必要がある。そうであればわたしたち歌人は「詩人」である他はない。そうして、「詩人」であることとは何かを同じように時として考えて見る必要がある。舞台の詩人のように、それは弱々しい羞恥なくしていえないことばであるが、忘れてしまうと一番大切なものを見失ってしまうことがある。

短歌の世界でもいろいろの人が短歌を作り、また、さまざまな作品が試みられている。むしろ、新奇を競うことがつねになされてやまない。また、そのどれもが、ともかくも短歌として許されていくものがこの世界にはある。短歌が定型詩であるということの表裏両様の側面のためである。わたしたちはそれが短歌という型式をとっている場合、一応短歌として受けいれてしまうのが普通である。そうしてそのときに、それが「詩」であるかという今一つの問いはあいまいにしがちである。

なぜなら、「詩」というものの知り難さといえる。わたしたちはついに「詩」ということの意味を説き明し得なくても先験的に知り得るものである。それが知り得なくなるのは、わたしたち短歌作者がそのすべての先において「詩人」であるのを忘れてしまうときである。

小説家が職業であるのに対し、「詩人」であることは生き方の謂いであるといったひとりの詩人がいる。若干は、小説のように金にもならず、世の名声と遠い彼らの開き直りも含めているであろうが、根本のところでわたしもまたそう思う他にない。繰り返せばそれは人間ひとりの生き方のことである。ないしはそのための、生来の資性につながっていくものなのであろう。

感傷ということばがある。ものに感じ、心を傷ましめることと字典では説明される。人より深くものに感じ、人よりたやすく心傷ましめる人間だけが持つものが「詩」の資性なのであろう。その上での生き方のようなものが「詩人」なのであろう。時々、わたしたちはそこに一度立ち返っていく必要がある。(88年12月)

「切り捨てて来たもの」

いわゆる会社勤めというのを止め、すでに十五年になる。そうして、その日の夢を今も見ることがある。みなとりとめもない夢ともいえるが、その中でくちびるを噛むような孤独感、屈辱感だけがある。多分、心の一番底にそのようなものを秘め持って生きて来たためなのであろう。会社勤めをしながら歌人であろうとしたためである。会社を止めた後十一年ほど大学の先生をした。その方は夢に見ることはない。ちょうど大学紛争のつづいた日であったが、心充ちた時期でもあった。

歌を作ることで後ろ指を指されるような社員ではあるまいとわたしながら心に決めて生きて来たつもりである。会社勤めの中で研究者ないし開発技術者としての生き方を選んだのもそのためであった。それなりに、あいつは歌などを作る奴だからなどといわれない人間として勤めおおせて来たはずである。しかしながらそれでいて、今に夢にみてくちびるを噛むような思いがあったのであろう。

短歌だけで生きていけない以上、わたしたちは別に何か生きる方途を持たなければならない。「未来」のみなさんの大半も同様であろう。会社勤めをしたり、商売をしたり、何らかの実人生を別に生きなければならない。女性なら主婦業であり、子育て業なのか。いずれにせよ、それらがぎりぎりのところ文学と両立しないはずであることは、日常、痛いほどに知る。しかも、その上で両立させなければららないし、歌を作り続けようとすればそれ以外の生きようはない。わたしもそのようにして生きて来たし、みなさんもそうなのであろう。その地点で崩れてしまうなら、短歌にとっても敗北である。

そうでありながら、同時に、やはりひそかに知っていなければならないものがある。わたしたちが歌を作って生きることとは、つねに、そのことのために何かを心の中に切り捨てていかなければならないということである。わたしたちは出来るならすべてを両立させ、巧みに生きた方がよいにきまっているが、同時に、いよいよの地点でどうするかは知っていた方がよい。

世の絆、ともいえるのか。歌人であろうとすることは、それら生きていく日常の上にまといつくものを、最小限に切り捨て、切り払っていくべきであろう。少なくともそう知っているべきである。それはどこかで、よの関わりを捨て、世の栄達を捨てて生きる、修道僧か何かのような生き方の選択に通うものと知っておかなければならないのかもしれない。

しかも、それでありながら、長く短歌を作って来てよかったという思いは、年ごとにわたしには増す。それ以外にわたしの生涯はなかったのであろうという思いと共に、歌人として生きたことでわたしが切り捨てて来たものは何であったかと思うことがある。(88年4月)

「余剰なるもの」

このところ、いくつかの会で、感想を語らなければならないときに繰り返しわたし自身の思いがあった。それは、わたしが七十歳を過ぎる今日まで長く生き、長く短歌を作りつづけて来たことの上に、ようやく今、歌人であったことがよかったと知る意味であった。歌人である以外の生き方は、振り返ってみて考えられなかったのであろう。

遠く少年の日に短歌を作り出して以来、わたしもまた周囲の少年と同様に短歌というこの古風で不自由な定型詩型を幾度となく疑い、或るときは近代詩を作ろうとし或るときは小説を書かなければならないものとした。否、少年の時期を過ぎ、わたしが歌人として生きなければならなかった長い日にも同じである。わたすが『青春の碑』その他の散文を書き続けたのもそうした気持ちが絶えず心のどこかにあったゆえとしなければならない。そうした上で結局短歌だけを最後に作り、歌人であることをみずからの生涯として生きた。寂しみもしたが、それでよかったという思いは老年と共に濃い。

理由は一つだけである。文芸がもしひとりの人間の「生」と呼ぶべきものの自己表現であるなら、短歌とはその最も直接であり端的である意味での自己表現の型式以外の何ものでもなかったということである。すなわち、そこにはその間に介在する余剰のものは何らない。むしろ、何らないことの上に成立する文芸である。そうして、わたし自身幾度か迷い選択をしようとした他の文芸型式には、それぞれにその何らかの余剰を交えなければならない。そうではないだろうか。そとえば小説という型式の場合、そこには物語ともいうべきどれほどかの設定が必ず入り込んで来なければならないのではないか。そうして、それらのすべての介在を余剰と思う年齢がわたしたち人間に至るのではないだろうか。それは老いの衰えということは別である。

それにも拘わらずわたしは作歌と共に絶えず散文の仕事をも重ねてきた。ことに、『青春の碑』を書いたことの上に一つの仕事を通して重ねて来た。今度の『歌い来しかた』もそのひそかな継続と思っている。短歌を詩と言い替えるなら、わたしはわたしの散文を詩を作ることの中のものであるとも心の中に考えている。或いは、詩を作って生きることの上に、といってよい。

一面議論めいた文章のむなしさをいつからか思って来た。歌論といってよい。それにも拘わらず求められては書かなければならなかったものがあり、いつかその切抜きが溜ったままとなった。整理して歌論集としたい気持があるが、つい後廻しとなって来ている。多分、三冊ぐらいあるだろうか。そのうち誰か手伝ってもらってと思っている。読み返せばそれぞれに何らかの愛惜がないわけではない。(86年9月)

「作品の屍体解剖」

たとえば歌会などでみなさんの交わす作品批評を聞いているとき、みなさんは、作品のための批評をせず、批評のための批評をしているのではないかと時におもうことがある。作品のための批評とは何か。ないし、批評のための批評とは何なのか。

作品のための批評とは、まずその作品を理解し、その作品の「詩」であるものを受けとめることから始まる批評である。ないし、すくなくとも、理解し受けとめようとすることから出発する批評である。そうでなくて、最初からそれを否定してかかる批評は、批評のための批評であり、文学の場合不毛の営為でああろう。

詩歌というものは一種の言語による音楽でもあるはずである。あるいは、「詩」というものの本質が音楽の本質に通うものと思ってよい。そうであれば、短歌においても、短歌一首の享受とはまずその一首の音楽でもあるべきものを聞こうとすることから始まるはずであり、批評もその上のことであろう。批評者に必ずその思いがなければならないはずである。その思いがない場合、評者はいたずらに批評する作品の細部にこだわる。こだわって、作品をばらばらにしてしまう。わたしはそれを作品の屍体解剖と思っている。屍体解剖がどのように厳密であろうと、作品一首いのちを見失っては何にもならない。

先ず、大きく作品の一首を受けとめることである。ないしは、それを「詩」としてこころに受けとめることである。さらに、どのように幼い拙い作品であろうと、そこに作者ひとりの何らかの思い、何らかの「詩」が告げようとなされていると、少なくとも最初にそう思って対い会うことである。

それを「共感」といってもよい。「詩」への「共感」である。はじめからその「共感」を拒否してかかった批評などを批評とは思わないことである。

そのような評者は批評する作品を切り刻むことによってしだいにそれを一方的に自分の作品に変えていこうとする。ないしは自分ひとりの短歌への考え方を狭量に他に強要しようとする。そうであってはならない。批評は評者の短歌観の押し付けではない。繰り返せば、それは基本的において作品享受であるべきはずであるし、そのことを大きく逸脱し得ないはずでもあるべきである。

今一つ、作品技術批評を文学批評と分けて知っておくべきである。少なくとも技術批評を文学批評のすべてと考えないことである。さらに、技術批評はどのような場で、どのような関わりの上でなされるべきかをわきまえておくべきである。やたらに人の歌を直すなどということを安易に批評と思わない方がよい。短歌の世界固有の、おかしな錯覚でもあるらしい。(86年5月)

今日の「個」

例年のように、新聞の、新年詠などを作らなければならない日が来る。その新年詠を考えているうちに、四十年、ということばがふと心を占めた。戦後とよばれた日から四十年が過ぎたという思いである。あるいは、日本が、「大日本帝国」の滅亡ののち「日本国」と生まれ替ってからといえるのか。その間、わたしたちはこの国に生き、その時代を生きる時代とし、さらに、短歌作者であるために、その生きる時代の上に短歌を作って来た。歴史ともいえるし、短歌史ともいい得よう。

そのわたしたちは、第二次世界大戦というわたしたちのすべてを巻き込む戦争を歴史体験として生きて来た。戦後四十年とはそういう意味である。その体験の上に、人間は何かを知ったはずであり、すくなくとも内面の何かを否応なく変えていったものと思ったことがあった。戦後の廃墟の上に生きて立った日であった。同様に文学も変わると思った。否、変わらなければならない切迫の中に立ったと思った。何か。戦場の生死の極限に立たされて知った人間の「個」の孤絶世界の意味と共に、その「個」が、もはや人間ひとりの「個」ではあり得るはずはなく、それは組織とか国家とか政治とかないしは歴史という外部世界とのがんじがらめの関わりにある運命的なものであると逃れようもなく知ったことであった。戦後の文学はその地点から始まり、その意味でのみ戦前の文学と隔絶するはずであった、と、少なくともその日にだれしも思った。短歌もまた、もし第二芸術論などにいう如く滅亡する運命のものではないとしたら、同様な意味を担ってのみ戦後短歌としての歴史を歩むのであろうとひとしく人は考えたはずである。

そうして、そうはならなかった、と今ではいわなければならないのであろう。短歌も、否、文学全体も、かって一度担わなければならないと知ったものの意味を急速に見失っていくことにより今日に至る歩をたどってきた。今日、短歌でうたわれているのは相変わらず小さな周辺の世界の中での「わたくし」だけであり、その哀歓の範囲をうたい繰り返しているだけでは戦前の短歌とは何か一つ変わってはいないのであろう。否、もし何かが加わっているというのならそれは意匠だけであり、本質は、ひたすら過去への回帰をつづけているのではないのか。

わたしはかって「実存的人間」と、「歴史的人間」ということをいい、その限りない内面葛藤を内にすることにおいてのみ逃れられない今日の「個」がある意味を繰り返し書いた。すなわち、短歌が今日の文学とするなら、うたう「個」とはその謂いだけであろう、四十年の歴史はそれを見失う過程であったというのである。では、「未来」はどうだったのか。その反省をだれかがじっと続けていて欲しい。そうでなければ、一体「未来」はそのあたりの結社雑誌とどう違うか。(85年2月)

「高安君の訃報」

七月三十日。未明に高安国世君が死去された。同じその夜明けの、京都の河野裕子さんからの電話で知った。高安君とは七月はじめ、米田律子さんの出版記念会があったときに京都まで出掛け、席上でお会いしたばかりである。すっかり白髪となり病後の憔悴はまぎれなかったが、会を中座されて帰るとき自分で愛車のハンドルを握られた。大丈夫かというのを笑み返して別れた印象が今になって悲しみとなる。わたしの短歌の、出発の日からの同志であり、わたしの作品をたれよりも理解してくれるはずのひとりであった。その死のことを、すでに幾箇所かに書かなければならない。このところ、わたしは先に死ぬ友人のことばかりを追悼の文として書きつづけている。

「未来」をはじめたとき、杉浦明平君と共に高安君もまた喜んで参加してくれた。やがて京都で「塔」が出るようになったが、「未来」との関わりはその後も変わらなかった。その「塔」の三十周年の記念号がでたが、高安君の文は孤独と心の寂しさとを告げていた。そのようなことも久々に逢って語ってみたかったが、語る機会は永遠に失われた。「塔」に残された諸君もまたどうなっていくのであろうか。

高安君の訃報を受けとる前後、わたしの家では老母の危篤の状態がつづいていた。九十一歳であり、病院に入れておいたが病状が悪化した。そういうわけで、三十一日、京都で高安君の葬儀があり、出掛ける用意をしていたのを取りやめなければならなかった。暑い一日の葬儀であったとその夜東京から参列だれた川口美根子さんの電話があった。

わたし自身はほぼ健康といえよう。月に二度、女子医大病院まで通って定期診断を受けているが、血圧もこのところずっと正常である。ただ、これも高安君の死のしらせの前夜、足指の炎症がつづき、しばらく杖をついて歩まなければならなかった。例の中国旅行以来の痛風と思っていたが、医師は、痛風と症状がやや違うようだとも首をかしげている。杖をついて歩むというわたしのしばしの作品を老衰と誤らないでいただきたい。

その足指の痛みのあいだ選歌をした。選歌の作業をしているあいだいろいろと言いたいことが胸の中に鬱屈するのであるが、終るころは大概忘れてしまう。ただ、「未来」で歌歴が古い作者の全体の低迷が気になる。作歌を日常の常凡の間に埋没させてはならない。「詩」という自覚をつねにみずじゃらびはげましとして置いておくこと。今一つ、作者名のない歌稿が今月も三通あった。それらは選歌不可能である。

これを書きかけていた間にわたしの老母が死去した。八月二日。数日、そのために疲れきったままである。私事であるが記しとめておく。(84年10月)

『中国感傷』

『中国感傷』という、わたしの新しい著書が多分、この号の出るころには出版されているはずである。昭和五十六年から五十七年にかけ『人民中国』という雑誌に「一歌人の中国紀行」と題し、十五回にわたって連載した文を加筆して一冊としたものである。「人民中国」は中華人民共和国の政府の対日宣伝誌である。昭和五十六年五月、その招待で中国各地を約半月にわたり旅行した。執筆の約束の上であった。雑誌の性格の上で書くことにある種の自己規制を考えなければならない場合もあったが、その部分はやや加筆によって補足し得た。本当はまだまだ書かなければならないことがあったような気がする。

「造形センター」の藤山さんという人が一生懸命になって本にして下さり、そのため、贅沢な、高価なおのとなってしまった。「造形センター」は本職の出版社ではなく、中国の近代画を日本に紹介する、一種の画商なのであろう。藤山さんはそうしたことを通しての日中友好を念願されている、長年の、中国理解者である。わたしの旅行も当初から尽力して下さった。

その藤山さんと出会ったのは銀座のN画廊で開かれた丸木位里さん、俊さんのギリシャの旅の絵の個展のパーティの席であった。丸木夫妻の賛美者でもあったが、かって、戦争直後、「新読書」という読書雑誌があってそこの編集長をしていた。わたしも依頼され何か書いたことがあったらしいが、忘れていた。戦後共産党の情熱的な闘士であったが、早い時期に離党していた。ついでに記せば、わたしの旅に同行してくれた小林氏も、またそのN画廊の社長も同じ経歴を持つ。長く戦後を生きて来たわたしの周囲に同様な過去の人が多い。

『中国感傷』はわたしの中国紀行文であり、それを今更ながらと思わないわけではない。だが同時に、わたしにとり、中国は単なる異国の旅の地ではなかった。私はその地でかって「侵略者」であり、「侵略者」の兵のひとりであった。そうした過去を内面のものとしての旅であり、紀行の文でもあるはずであった。わたしとしては苦しんで書いた仕事の一つとだけは言って置きたい。高価なことだけが申し訳ないが、歌集、ないしは創作の類と同様に『未来』のみなさんには読んでいただきたいと思う。

書き終えた後に一時血圧が高くなり、また、眼も弱って来た。やはり体を虐げたのであろう。眼の医者は若干白内障が来ているという。短歌制作に増して散文の仕事は体の負担となるが、それでもなお、いくつか書いておきたいことがある。その一つが、やはりヨーロッパ古代の紀行を通して、人間文明と、さらに人間自体とを考えてみる課題である。それと短歌とどう関わるのか。短歌が詩歌であるならわたしはやはり深く関わるものと思っている。(84年8月)

憲吉の五十年忌

わたしの最初の短歌の師である中村憲吉先生は昭和九年五月五日に死去された。その日から五十年になり、五十年忌の歌会が広島で開かれることとなった。その会に、生存しているかっての憲吉門下のみなに参加してもらうようにという御遺児の安田良子夫人の意向があり、会の世話役をしている河村盛明君から出席依頼の来信があった。昭和五十九年の五月五日であり、わたしはその日に満七十一歳となる。やや感傷的な気持ちもあり、誘われるままに旅立った。五月の連休の人込みの中を旅行するのは久々である。「アララギ」を中心にした会であったがかって短歌を作り始めた日に知った憲吉選歌欄のわたしの先輩にあたる人々ともお逢いする事が出来た。その間に、半世紀という歳月が過ぎ、わたし自身を含めて人生変転と老いの相貌をひとりひとりが重ねていた。

五月六日、会の翌日、河村盛明君の案内で、憲吉先生の墓参のためその生地である上布野を訪れた。河村君のかっての「フェニキス」の同志であった清水君も同行された。広島市中心にあるバスセンターから赤名峠を越えて松江に向かうバスに乗る。晴れわたった初夏を思わせる日射しとなった。道々、迫って来る中国山地の山の重なりの若葉が明るく、山藤のはながその間に淡く咲きさかっていた。

憲吉の葬儀の日、わたしはひとりの高校浪人の少年として欝屈の感情を持てあましながら上布野の生家まで出掛けた記憶を持つ。そうして、その日に、同じように葬儀に参列した壮年の斎藤茂吉、土屋文明らに出会っている。わたしの自伝小説『青春の碑』にそのことは書いておいた。ひとりの生涯を決していくものは何なのか。ためらいためらい重ねていくそうした日常の小さな出来ごとの生起の間のものなのか。憲吉の生家も、生家につづく峡村の街道も、『しがらみ』の数々の作品を生んだ生家の裏の渓流も、そのころとあまり変わっていない。ただし、上布野には数年前、三次に講演に来たときに一度訪れている。

墓参を終え、河村君に伴われてやや離れた丘にある歌碑を訪れた。「満月は暮るる空より須臾に出てむかひの山を照りてあかるし」の歌が彫られている。わたしたちを見たのかひとりの老人がどこからか近付いて来て話しかける。広島からやはり憲吉研究の高校の先生かなにかが歌碑を訪れて来て、「須臾」とはどの山の名かと聞いたという。村人が碑を立てようとしたとき、未亡人はこの歌とするのをあまり賛成されなかったとも老人は告げた。五月の空の澄む新緑の山々に、おそい山桜がなお咲き残っていた。

会では十分ほど、憲吉の思い出を語ったが、あとで、言い残したものがあるのが気になった。すなわち、憲吉にはもっと別な読み方があるのではないかということである。わたしの遠い文学の出発の日の師であり、わたし自身の文学のこととしてもさらに考えてみたい。(84年7月) 


「怒り」の切実

飯田に講演に出掛けたとき、「未来」会員のひとから、たとえば「短歌研究」新人賞などでわたしの推す作品が、なぜ「朝日歌壇」の場合と異質なのかを質問された。「朝日歌壇」でわたしが採る歌が多く生活の歌、ないしはときとして「社会詠」などと呼ばれる者であるのに対して、そうした新人賞の場合、それらとは違い心の内面だけをうたおうとする、いわゆる心象作品であることが多い。なぜなら、そのような作品ばかりが集ってくるからだよ、と答えておいたが、彼はなお不審そうな顔をしていた。事実、生活歌などという種類のものはほとんどなく、あっても一様に平凡な生活報告の域をでない歌ばかりである。ついでに記せば質問者は農民であり、「未来」でも今は少数となった農村生活詠、労働詠の作者であった。

同じ現象は、何らかの程度に今日の短歌の世界一般にもひろがっているのではなかろうか。すなわち、生活の歌、生活者の歌の衰退ということである。たとえばわたしなど、ときとしていくつかの労働組合の機関紙か何かの選歌を依頼される場合もあるが、そこでうたわれなければならないはずの生活詠ないし社会詠の無気力が著しい。少なくともかっての…敗戦の後の時代のような文学エネルギーはそこには今見られないと言える。

現実をうたえ、生活をうたえといわれて来た。そうして、それらはなおうたいつづけられているに拘わらず、しだいに、かっての一時期の生彩を失って来ている。いつのころからなのか。日本が繁栄と平和の幻影の上に保守化への歩みをたどり出した、そのこととパラレルなのか。それでは、わたしたちの「未来」はどうなのか。

わたしはそうした種類の歌の衰退の理由の一つに、そこから、しだいに「怒り」の感情がうしなわれていったことを考えている。詩の衝迫の一契機であるべき、人間ひとりの心の内面の「怒り」の切実である。それが生活詠を無気力な単なる生活日常の報告の歌、ないしは愚痴だけの世界とし、社会思想詠と呼べるものを形骸化させて来た。「怒り」だけが抒情の契機ではないとしても、今のような日に、その喪失の事実はやはり知って見ていなければならない。

短歌は本来何々詠と呼んで分類すべきものではない。だがその上で、わたしたちの「未来」に、現実をうたう、生活をうたうということは一文学集団の理念を負うためにも持ちつづけられていなければならず、社会詠思想詠とされるものも同様である。ただ、それらをうたうことの根底に見失ってはならないものがある。人間ひとりの「個」であり心の内面である。「怒り」の意味もそのことの外ではない。(84年6月)

「菊池十ニ朗さん」

菊池十二朗さんという古い「未来」の歌人がいる。死亡されたという通知を年が明けて間もなく受け取った。「未来」の、初期のころからの会員の方々なら、その人を記憶しておられるであろう。長く病んだまま、今年も年賀状がとどいており、それを出した後の死であっただろう。

豊島園にわたしたちが移って来てしばらくしてからでなっかたろうか。突然リヤカーを引いた屑屋さんが庭に廻って来た。家の表札を見て、「朝日歌壇」の選者の歌人ではないかと思ったが、あまり貧弱な表札なので迷ったらしかった。「朝日歌壇」に、

リヤカーに花一杯積みて売り歩く日を幻に屑買いつづく

などという歌を投稿していた。今ではリヤカーを引いて歩く屑屋さんなどあまりいない。

そうして、それからもよく仕事の途中に訪れて来て長く話し込み、やがて、わたしの家で行われる「未来」の会にも顔を出されるようになったか。歌は半田良平さんの門人であったが、過去には屈折した人生を経て来た人らしかった。年齢はわたしと同じであったが、老人とひとは思ったであろう。

或るとき、やはり「朝日歌壇」にリヤカーを引いて歩く歌が出て、菊池さんはわざわざその今一人の屑屋さんを東京中から探し出し、わたしの家に連れて来た。須藤政雄さんといい、菊池さんが誘ってやがて、「未来」の会員にもなられたが、いつからかやめ、病死された。一時期わたしの家には二人の屑屋さんが出入りし、妻は古新聞などの処理に困惑したのであろう。

菊池さん自身もまた病み、帰郷し、それから長く病床の生活をつづけられた。宮城県のどこかの療養所と思う。病んで、一時休んでいた作歌に立ち帰ったが、老いと、気力の衰えが作品にうかがわれた。孤独な晩年の人生であることもそれらを通しうかがわれた。晩年の菊池さんの消息を知っていたのは「未来」の菅野はつさん、内山久子さんであったのだろう。

死なれたことを知らせて下さったのは菊池さんの実子の嫁にあたる人であった。実子と云う人は生れたまま同じ東北の、どこかの村の、寺に養子とされ、父を知らず育った。その嫁という女性も、菊池さんの死までそうした事情を知らなかったらしい。だれにも言わなかった人生が彼にもあったのだろう。

「未来」というつながりで、さまざまな人らの人生に触れ、あるいはその死をも見て来た。菊池十二朗さんの場合もそのひとりなのであろう。その人を記憶していて、わたしと同じような寂しさを抱かれる古い会員の方々がいるだろうと思って書きとめておく。(84年4月)

「作歌とは」

わたしはかって、わたしたちの「未来」を、短歌作者としてのプロの集団と思っていると言ったことがある。少なくとも、短歌を作ることにおいてプロであろうとするものの集団と考えたいと思ったはずである。現実にその言葉はやや修正しなければならないかもしれないが、「未来」という一小雑誌をつづける根底の気持ちにおいては変わらない。言い替えるなら、そのような気持ちをどこかで持っているはずの人たちが拠って来る場所と思っているし、わたしもまた「未来」会員のひとりひとりをそうした人たちであるものと考えている。そうではない、ただのたのしみ、ただの勉強のための雑誌なら他に無数にある。わたしにはそうした人らに割く人生の余裕などはない。

そうであれば、会員のみなさんにもっと懸命な制作への打ち込み方を要望しなければならない。全身全霊をかけての作歌をもとめなければならない。歌が出来ないとか、歌を作る時間がないなどという言訳はプロの世界のものではない。或いは、プロであろうとするものの言葉ではない。すれは上手とか下手、ないし初心とか練達ということとは別である。

同じ意味で、もっとていねいに、大事に考えて歌を作ってほしい。作りっぱなしの作品、書きなぐりの作品と思われるものが多い。自分のことをいうので具合悪いが、わたしはたとえば「未来」の毎月十首の作品を作る場合、作り替え、書き替え、2百字詰の原稿用紙のほとんど一帳を使いきってしまうのを例としている。一つの文字、一つの言葉への配慮の過程である。そうして、制作とはそういうことではないか。

乱暴な歌稿の例として、作者の名前のないのがある。あとから歌が出ていないなどと文句を言って来られる。わたしも困るのである。

作品の高低、深浅は、最終的にはその作品の作者の持っている世界の高低、深浅に関わろう。その作者の内面の世界、精神世界と言えよう。作品の高さ、深さを求めるには究極には作者が自身の内部においてそれを高め、深める生涯の営為を重ねていく以外にはない。取敢えず出来ることは何か。少なくとも、みなさんはもっと本を読まなければならない。あまりにも心が貧しく、世界が狭くはないか、と選歌をしながらふと思うことがある。

この「机辺私記」を書き始めて、いろいろと言いたいことがあるに気付くようになった。わたしが老年になったためかもしれない。筆の走り過ぎはお許し願いたい。(83年3月)