窪田空穂



窪田空穂 百首選


窪田空穂百首選(1)   武川忠一選

野に遠き葦の小笛よこの宵を聴きて覚め来む魂もあるべし         『まひる野』

夏に見る大天地はあをき壷われはこぼれて閃く雫

ふるき嘆き忘られかねて幽囚(とらはれ)の身に似るわれぞ雲よ照れかし

頭うづめ花と花とのさゝやきのありやと思ふ静かなる夜(よる)

たとふれば明(あ)くる皐月(さつき)の遠空にほのかに見えむ白鴿(しろはと)か君

生きてわれ聴かむ響かみ棺を深くをさめて土落す時

鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか

われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦みし生命(いのち)も甦り来る

雪ついばみ低くも歌ふ鳥とこそ雪深き野に生れぬる身の

御嶽颪(みたけおろし)荒きがうちに亡き父のと息まじりてわれに聞ゆる

一片(ひら)の雲や片方(かたへ)は白う照り片方は黒く動き去りけり     『明暗』

唐黍(もろこし)の焦げしを噛めば幼き日幼きかをり胸に湧きくる

大海(おほうみ)の底に沈みて静かにも耳澄ましゐる貝のあるべし

くらやみのとある路より蹌踉と酔ひたる男あらはれきたる        『青みゆく空』

沈黙の底よりふとも洩らしたる冷たき息の夜の銀座吹く。

忘却の界(よ)にや朽ちけんものどもの、よみがへり来て我に呟く。

 

 窪田空穂百首選(2)   武川忠一選

冥府(よみ)の界(よ)の黒き閾(しきゐ)もそぞろかに踏みにけるかな、餓ゑにしこころ。

蒸れくさる蠶糞(こじり)のにほひ、ものうげの馬の嘶き、村は夜に入る。

わが指の高き節見よ、世に経るは難しといひて手を見せし人。

わが重きこころの上によろこびのまぼろしなして燕飛べるも        『濁れる川』

つばくらめ飛ぶかと見れば消え去りて空あをあをとはるかなるかな

をどらざる胸持つ日ともなりにけるわれに五月の青くかがやく

基督の前につどへるガリラヤの漁師思へば嘆かるるかも

げにわれは我執の国の小国の小さき王胸おびゆるに肩そびやかす

真黒なる被衣(かつぎ)裾ひき西洋の尼あゆみゆけり日の照る道を     『鳥声集』

うつし世の生きの苦しみいと深き三十路(みそぢ)をわれの行きなづみつも

青海にわが身浮かべて遥かなる天(てん)に一つの日を見たりけり

湧きいづる泉の水の盛りあがりくづるとすれやなほ盛りあがる      『泉のほとり』

巷にと出て行く自分を、妻は子を連れて送って来、暫くを護国寺の側の草原に遊んだ(三首)

ここにとて子を坐らする冬の日のさし来て光る枯芝の上に

冬空をあふぎし我眼移し見れば妻もあふげりこの冬空を

われ呼びて追ひ来(こ)し妻はかがまりて裾より取りつ草の枯葉を

秋空は澄みかがやけり伏見のや菅原寺はくづれむとす

 

窪田空穂百首選(3)   武川忠一選

臨終(長歌一首、反歌一首)                     『土を眺めて』

その小床(をどこ)取囲みては、看取(みとり)する家族(うから)が顔を、恋(こ)ほしさに燃ゆる眼むけて、次ぎ次ぎに見つつ云へらく、ちちの実の父のみことも、遠く来てかくはあはせり、ははそ葉の母のみことも、添ひつつも久しく坐(いま)す、懐かしや我が背の君、みぐしきや二人(ふたり)の我が子、残し行く事の惜しけき、二人(ふたり)子もかくし揃ひて、我れ囲み看取(みとり)はすなり、懐かしき人に目守(まも)られ、死に行くは嬉しと思へ、今は我れ何を望まむ、嬉しやと繰返しつつ、其命死なむ際(きは)にも、静かにも云ひにけるかも愛(は)しき若妻。

その命死なむ際(きは)にも我が妻は常に見し如ありにけるかも

逢ふ期(ご)なき妻にしあるをそのかみの処女(をとめ)となりて我を恋はしむ

其子等に捕へられむと母が魂(たま)蛍と成りて夜を来たるらし

諸手して眼(まなこ)は掩へ手間(たなまた)ゆひそかに見るや隠るる友を(子等の遊ぶを見る)                                『朴の葉』

米高く買ひはかぬなり我が子等は大河の辺(べ)に行きて水飲め      (物価高し)

夏の夜の空のみどりにかぶりつつはろばろしもよ月ひとつ渡る        『青水沫』

槍が岳そのいただきの岩にすがり天(あめ)の真中(まなか)に立ちたり我は

今日(けふ)よりは旅びとならずいとし子のなつ子が墓をここにし持てば

この父を怠けものとぞなしはててわが子のなつ子墓にかくるる

我が行くは真日照りひかる白き路しばしたたずみ眼をつみりなむ        『鏡葉』

鳴く蝉を手握りもちてその頭(あたま)をりをり見つつ童(わらべ)走せ来る

くれなゐの若葉しげらす低楓(ひくかへで)手のべて撫でぬやはら若葉を

雲海のはたてに浮ぶ焼け岳の細き煙(けむり)を空にしあぐる

人の為に人は生れずその人をよしとあしきとわが為にいふな

星満つる今宵の空の深緑(ふかみどり)かさなる星に深さ知られず

低き星高き星とのへだたりの明らかに見ゆ緑の空に

 

窪田空穂百首選(4)   武川忠一選

秋の日の光に酔へる夕雲か沈みて光る屋並の果てに            『青朽葉』

覚めて見る一つの夢やさざれ水庭に流るる軒低き家           『さざれ水』

さざれ水昼をさす日に織る綾の底の真砂ときらめきかはす

言ひぬべき何のあらむや一にこれ我が性格を遂げしめしなり

まことにも我を愛すかと押し返し問はしし基督の心に泣かる          『郷愁』

交るに難しと我の避けをれば世に富人(とみびと)はあらざるごとし

かへり見る離合のあとの怪しさよ縁ありて逢ひ尽きて別るる        『冬日ざし』

三界の首枷といふ子を持ちて心定まれりわが首枷よ

咲くやがてこぼるる萩の白き花石にたまりて空曇りたり

ものいはぬこのまらう人(ど)の気やすさやゐる忘れしに見れば髯振る

薄霧をとほしてはさす冬の日のにじみて赤き光に歩む

白菊の咲き極まれり静かにもみなぎるものの人狎(な)れしめぬ        『明暗』

最終の頁(ぺーぢ)となりて一字毎ねんごろに読むこころといはむ

夏の月すずしく照れりわれは聞く云はぬこころの限りなき声(戦けはし)         『冬木原』

隠者(いんじゃ)ぞとおもふにたのしかくしあらば老のこころに翅(つばさ)の生ひむ (職を退かむとす)

いきどほり怒り悲しみ胸にみちみだれにみだれ息をせしめず (「子を憶ふ」より四首)

湧きあがる悲しみに身をうち浸しすがりむさぼるその悲しみを

ひよつこりと皆帰りたり帰り来む必ずと聞くに親はおろかに

いさぎよくあれよと云ふにいらへせず常の目もちてただ聞けるのみ

歎き余り肩もてはげしく息しつつ静御前のわれをば恨む  (操人形)   『卓上の灯』

独われ笑み顰(ひそ)みしてゐる机家の者らもここには寄るな

天地はすべて雨なりむらさきの花びら垂れてかきつばた咲く

夢を食ふ獏むさぼりて地の上のたのしき夢を食らひつくしき

卓上の書(ふみ)を照らせる深夜の燈澄み入るひかり音立てつべし

 

窪田空穂百首選(5)   武川忠一選

わがもてる好悪(こうを)の感のいぶかしも善悪をしも超えて執ねき     『丘陵地』

命一つ身にとどまりて天地(あめつち)のひろくさびしき中にし息(いき)す

人おのおの無意識にしも演じゐる性格悲劇のその齣齣(こまごま)を

天地の寄りて開ける饗宴につらなる我かめでたき果実(このみ)

しみじみと身をば厭へる時ありき厭はじとしも抗(あらが)ふに老ゆ

平安のをとこをんなの詠める歌をんなはやさしきものにあらず       『老槻の下』

平安のをんなが見たる夢の跡散り敷くさくら積もりて深き

しろじろと咲き照るさくら涯(はて)しなく音の絶えたる幻の園

生来の孤独に徹し得たるとき大き己れの脈うちきたる

枝高く群れて黄に咲く蝋梅のほのかなる香よ木(こ)したにくだれ

はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬことのごとくに

わが愛を遂げむとすれば身を縛(しば)る悩みはたのし自由とは何

雲しろくこむるにいよよ色まさり庭の若葉の蒸せばせんとす       『木草と共に』 

晩年のわが二十年奮ひける怪異(もの)の爪あと今年は癒えよ

闘志なき我ぞと人言ふ闘志をば我に向くればはてしあらぬを

欲望を籠めし袋の我なりし袋うつろに老いし骸(から)あり        『去年の雪』

うれしかりし事みな父母につながりて長かりしかなわが少年期

時として重き唸りを牛はする鳴くにはあらず自己意識のこゑ

しきりにも瞬(まばた)きをする翁ゐて鏡の中より我を見おろす

寒つばき深紅(しんく)に咲ける小さき花冬木の庭の瞳のごとき

奉仕をば道とする世に生きて老いわれはわが身に奉仕しにける

世の屑(くづ)と我を認めてねんごろに人知れぬ屑つもらせにける

天も地も真青き五月ふかみゆく今日のこころよ翳りのあるな

桜花ひとときに散るありさまを見てゐるごときおもひといはむ       『清明の節』

わが地球子午線に入らむ歓びに三菩堤の仏鐘つきやめず

四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し

まつはただ意志あるのみの今日なれど眼つむればまぶたの重し

(完結)