食うべき詩

石川啄木


石川啄木について(後藤人徳)歌のいろいろ(抜粋)

短歌鑑賞(後藤人徳):「東海の…」たはむれに母を…」 「ふるさとの訛り…」
「はたらけど…」再び「はたらけど…」


まずは、核心部分から転記いたしました。(人徳) 

食(くら)うべき詩    石川啄木

…(略)

そうしてこの現在の心持は、新しい詩の真(まこと)の精神を、初めて私に味わせた。

(5)

「食うべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、仮に名づけたまでである。

謂(い)う心は、両足を地面(じべた)に喰っ付けて歌う詩という事である。実人生となんらの間隔なき心持をもって歌う詩という事である。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然(しか)く我々に「必要」な詩という事である。…こういう事は詩を既定の或る地位から引下す事であるかも知れないが、私から言えば我々の生活に有っても無くても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定する唯一の途である。

以上の言い方は余り大雑把ではあるが、二三年来の詩壇の新しい運動の精神は、必ずここにあったと思う。否、あらねばならぬと思う。かく私の言うのは、それらの新運動にたずさわった人達が二三年前(ぜん)に感じた事を、私は今始めて切実に感じたということを承認するものである。

新しい詩の試みが今までに受けた批評について、二つ三つ言って見たい。

「『なり』と『である』若しくは『だ』の相違にすぎない」と言う人があった。しれは日本の国語がまだ語格までも変わる程には変遷していないという事を指摘したに過ぎなっかった。

 人の素養と趣味とはひとによって違う。或る内容を表出せんとするに当たって、文語によると口語によるとは詩人の自由である。詩人はただ自己の最も便利とする言葉によって歌うべきである。という議論があった。一応もっともな議論である。しかし我々が「淋しい」と感ずる時に、「あゝ淋しい」と感ずるであろうか、はたまた「あな淋し」と感ずるであろうか。「あゝ淋しい」と感じた事を「あな淋し」と言わねば満足されぬ心には徹底と統一が欠けている。大きく言えば判断=実行=責任というその責任を回避する心から判断をごまかして置く状態である。趣味という語は、全人格の感情的傾向という意味でなければならぬのだが、往々にして、その判断をごまかした状態の事のように用いられている。そういう趣味ならば、少なくとも私にとっては極力排除すべき趣味である。一事は万事である。「あゝ淋しい」を「あな淋し」と言わねば満足されぬ心には、無用の手続きがあり、回避があり、ごまかしがある。それらは一種の卑怯でなければならぬ。「趣味の相違だからしかたがない。」とは人のよく言うところであるが、それは、「言ったとてお前には解りそうにないからもう言わなぬ」という意味でない限り、卑怯極まった言い方と言わねばならぬ。我々は今まで議論以外もしくは以上の事として取り扱われていた「趣味」というものに対して、もっと厳粛な態度を有(も)たねばならなぬ。

 少し別な事であるが、先頃青山学院で監督か何かしていた或る外国婦人が死んだ。その婦人は三十何年間日本にいて、平安朝文学に関する造詣が深く、平生(へいぜい)日本人に対しては自由に雅語を駆使して応対したという事である。しかし、その事は決してその婦人がよく日本を了解していたという証拠にはならぬではなかろうか。

(6)

 詩は古典的でなけらばならぬとは思わぬけれども、現代の日常語は詩語としては余りに蕪雑である。混乱している。洗練されていない。という議論があった。これは比較的有力な議論であった。しかしこの議論には、詩そのものを高価なる装飾品の如く、詩人を普通人以上、もしくは以外の如く考え、又は取り扱おうとする根本的な誤謬が潜んでいる。同時に、「現代の日本人の感情は、詩とするには余りに蕪雑である、混乱している、洗練されていない。」という自滅的な論理を含んでいる。

 新しい詩に対する比較的真面目な批評は、主としてその用語と形式とについてであった。然らずんば不謹慎な冷笑であった。ただそれら現代語の詩に不満足な人達に通じて、有力な反対の理由としたものが一つある。それは口語の内容が貧弱であるという事であった。

 しかしその事はもはや彼此いうべき時期を過ぎた。

 とにもかくにも、明治四十年代以後の詩は、明治四十年代以後の言葉で書かれねばならぬという事は、詩語としての適不適、表白の便不便の問題ではなく、新しい詩の精神、即ち時代の精神の必然の要求であった。私は最近数年間の自然主義の運動を、明治の日本人が四十年間の生活から編み出した最初の哲学の萌芽であると思う。そうしてそれが凡ての方面に実行を伴っていた事を多とする。科学の実行という以外に我々の生存には意義が無い。詩がその時代の言葉を採用したという事も、その尊い実行の一部であったと私は見る。

 無論、用語の問題は詩の革命の全体ではない。

 そんなら(一)将来の詩はどのようなものであらねばならないか。(二)現在の諸詩人の作に私は満足するか。(三)そもそも詩人とは何ぞ。

 便宜上私は、まず第三の問題について言おうと思う。最も手っ取り早く言えば私は詩人という特殊なる人間の存在を否定する。詩を書く人を他の人が詩人と呼ぶのは差し支えないが、その当人が自分は詩人であると思ってはいけない。いけないといっては。いけないといっては妥当を欠くかもしれないが、そう思う事によってその人の書く詩は堕落する…

我々に不必要なものになる。詩人たる資格は三つある。詩人はまず第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなれればならぬ。第三に「人」なくてはならぬ。そうして実に普通の人の()っている(すべ)ての物を有っているところの人でなければならぬ。

 言い方が大分混乱したが、一括すれば、今までの詩人のように直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望も有っていない…飢えたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探している詩人は極力排斥すべきである。意志薄弱なる空想家、自己および自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避している卑怯者、劣敗者、劣敗者の心を筆にし口にして僅かに慰めている臆病者、暇ある時に玩具(おもちゃ)(もてあそ)ぶような心をもって詩を書きかつ読むいわゆる愛詩家、および自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、ないしはそれらの模倣者、すべて詩のために詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。無論詩を書くと言う事は何人にあっても「天職」であるべき理由がない。「我は詩人なり」という不必要な自覚が、いかに従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」という不必要な自覚が、いかに現在において現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつつあるか。

 即ち真の詩人とは、自己を改善し、自己の哲学を実行せんとする政治家の如き勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家の如き熱心を有し、そうして常に科学者の如き明敏なる判断と野蛮人の如き率直なる態度をもって、自己の心に起こり来る時々刻々の変化を、飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告するところの人でなければならぬ。

(七)

 記載報告という事は文芸の職分の全部でない事は、植物の採集分類が植物学の全部でないと同じである。しかしここではそれ以上の事は論ずる必要がない。ともかく(ぜん)言ったような「人」が前言ったような態度で書いたところで詩でなければ、私は言下に「少なくとも私には不必要だ」と言うことが出来る。そうして将来の詩人には、将来の詩に関する智識ないし詩論は何の用をなさない。…譬えば詩(抒情詩)はすべての芸術中もっとも純粋なものであるという。或時期の詩人はそういう言をもって自分の仕事を恥ずかしくないものにしようと努めたものだ。しかし、詩は総ての芸術中最も純粋な者だということは、蒸留水は水の中で最も純粋な者だと言うと同じく、性質の説明にはなるかも(しれ)ぬが、価値必要の有無の標準にはならない。将来の詩人は決してそういう事を言うべきでない。同時に、詩および詩人に対する理由なき優待を自ら峻拒すべきである。一切の文芸は、他の一切のものと同じく、我等にとっては或意味において自己および自己の生活の手段であり方法である。詩を尊貴なものとするのは一種の偶像崇拝である。

 詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。従って断片的でなければならぬ。...まとまり(。。。。)があってはならぬ。(まとまりのある詩即ち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末もしくは年末の決算との関係である。)そうして詩人は、決して牧師が説教の材料を集め、淫売婦が或種の男を探すが如くに、なんらかの成心を有っていてはいけない。

 粗雑な言い方ながら、以上で私の言わんとするところは(ほぼ)解る事と思う。...いや、も一つ言い残した事がある。それは、我々の要求する詩は、現在日本に生活し、現在日本語を用い、現在の日本を了解しているところの日本人に依て歌われた詩でなければならぬという事である。

 そうして私は、私自身現在の諸詩人の詩に満足するか否かを言う代わりに、次の事を言いたい。...諸君の真面目な研究は外国語の智識に乏しい私の羨みかつ敬服するところではあるが、諸君はその研究から利益と共に或禍いをうけているような事はないか。仮にもし、独逸人は飲料水の代わりに麦酒(ビ−ル)を飲むそうだから我々もそうしようというような事...とまでは無論行くまいが、些少でもそれに類した事があっては諸君の不名誉で在まいか。もっと率直に言えば、諸君は諸君の詩に関する智識の日に日に進むと共に、その智識の上に或る偶像を(こしら)え上げて、現在日本を了解することを閑却しつつあるような事はないか。両足を地面(じべた)に着けることを忘れてはいないか。

 又諸君は、詩を詩として新しいものにしようという事に熱心なる余り、自己および自己の生活を改善するという一大事を閑却してはいないか。換言すれば、諸君のかって排斥したところの詩人の堕落を再び繰返さんとしつつあるような事はないか。

 諸君は諸君の机上を飾っている美しい詩集の幾冊を焼き捨てて、諸君の企てた新運動の初期の心持に立還って見る必要はないか。 

 以上私が抱いている詩についての見解と要求とを大まかに言ったのであるが、同じ立場から私は近時の創作評論の殆んど総てについて色々言って見たい事がある。


石川啄木「歌のいろいろ」より(抜粋)

…略…

(2)

○大分前の事である。茨城だったか千葉だったか乃至は又群馬の方だったか、何しろ東京から余り遠くない県の何とか郡(こほり)何とか村小学校内何某とう人から歌が来た。何日か経ってその歌の中の何首かが新聞に載った。すると間もなく私は同じ人からの長い手紙を添えた二度目の投書を受け取った。

○其の手紙は候文と普通文とを捏(こ)ね交(ま)ぜたような文体で先ず自分が「憐れなる片田舎の小学教師」であるという事から書き起してあった。そうして自分が自分の職務に対し兎に角興味を持ち得ない事、誰一人趣味を解する者なき片田舎の味気ない事、そうしている間にかねがね愛読している朝日新聞に歌壇の設けられたので空谷の蛩音と思ったという事、就(つ)きては今後自分も全力を挙げて歌を研究する積もりだから宜しく頼む。今日から毎日一通づつ投書するという事がかいてあった。

○この手紙が宛名人たる私の心に惹起(ひきおこ)した結果は、蓋(けだ)し某君の夢にも想わなかった所であろうと思う。何故ならば、私はこれを読んでしまった時、私の心に明らかに一種の反感の起こっている事を発見したからである。時や歌や乃至は其の外の文学にたずさわる事を、人間の他の諸々の活動よりも何か格段に貴い事のように思う迷信...それは何時如何なる人の口から出るにしても私の心に或る反感を呼び起さずに済んだことはない。「歌を作ることを何か偉いことでもするように思ってる、莫迦(ばか)な奴だ。」私はそう思った。そうして又成る程自ら言う如く憐れなる小学教師に違いないと思った。手紙にはかな違いも文法の違いもあった。

(3)然しその反感も直ぐと引き込まねばならなかった。「羨(うらや)ましい人だ。」というような感じが軽く横合いから流れて来た為である。此の人は自分で自分を「憐れなる」と呼んではいるが、如何に憐れで、如何に憐れであるかに就いて真面目に考えたことのない人、寧(むし)ろそういう考え方をしない質(たち)の人であることは、自分が不満足なる境遇に在りながら全力を挙げて歌を研究しようなどと言っている事、しかも其の歌の極(ごく)平凡な叙事叙景の歌に過ぎない事、そうして他の営々として刻苦している村人を趣味を解せぬ者と嘲(あざけ)って僅(わず)かに喜んでいるらしい事などに依(よ)って解った。己の為(す)る事、言う事、考える事に対して、それを為(し)ながら、言いながら、考えながら常に一々反省せずにいられぬ心、何事にまれ正面(まとも)に其の問題に立ち向って底の底まで究めようとせずにいられぬ心、日毎日毎自分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾を発見して、そうして其の発見によって却って益々自分自身の生活に不合理と矛盾とを深くして行く心...そういう心を待たぬ人に対する羨(うらや)みの感は私のよく経験する所のものであった。

○私はとある田舎の小学校の宿直室にごろごろしている一人の年若き准訓導を想像して見た。その人は真に人を怒らせるような悪口を一つも胸に蓄えていない人である。漫然として教科書にある丈(だけ)の字句を生徒に教え、漫然として自分の境遇の憐れなことを是認し、漫然として今後大いに歌を作ろうと思っている人である。未(いま)だかって自分の心内乃至(ないし)身辺に起こる事物に対して、その根ざす処如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考えて見たことのない人である。日毎に新聞を読みながらも、我々の心を後から後からと急かせて、日毎に新しく展開して来る時代の真相に対して何の切実な興味をも有(も)ってない人である。私はこの人の一生に快よく口を開(あ)いて笑う機会が、私のそれよりも屹度(きっと)多いだろうと思った。

○翌日出社した時は私の頭にはもう某君(ぼうくん)の事は無かった。そうして前の日と同じ色の封筒に同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本当に毎日投書する積もりなのかと心持眼を大きくして見た。其の翌日(あくるひ)も来た。其の又翌日も来た。或る時は投函の時間がおくれたかして一日置いて次の日に二通一緒に来たこともあった。「また来た」、私は何時(いつ)もそう思った。意地悪い事ではあるが、私はこの人が下らない努力に何時まで飽きずにいられるかに興味を有(も)って、それとはなしに毎日待っていた。

○それが確か七日か八日の間続いた。或る日私は、「とうとう飽きたな。」と思った。その次の日も来なかった。そうしてその後既に二箇月、私は再び某君(なにがしくん)の墨の薄い肩上がりの字を見る機会を得ない。来ただけの歌は随分夥しい数に上ったが、ただ所謂(いわゆる)歌になりそうな景物を漫然と三十一字の形に表しただけで、新聞に載せるほどのものは殆(ほとん)どなかった。

○私は今この事を書いて来て、其の後某君(なにがしかくん)は何(ど)うしているだろうと思った。矢張り新聞が着けばただ文芸欄や歌壇や小説ばかりに興味を有(も)って読んでいるだろうか。漫然と歌を作り出して漫然と罷(や)めてしまった如く、更に又漫然と何事かを始めているだろうか。私は思う。若(も)し某君(なにがしくん)にて唯一の事、例えば自分で自分を憐れだといった事に就いてでも、その如何に又如何にして然るかを正面(まとも)に立向かって考えて、そうして其処(そこ)に或るうごかすべからざる隠れたる事実を承認する時、其の時某君(なにがしかくん)の歌は自ずからにして生気ある人間の歌になるであろうと。

…略…

石川啄木について  後藤人徳


頬(ほ)につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人をわすれず

わたしは、啄木が好きでなかった。小学生の時学校で連れられて行って見た啄木の映画は、ただ暗い記憶

しか残らなかった。しかし、福沢諭吉の映画は、振り返って思えば伊豆の天城山の麓に育った少年に何か

を与えたように思える。中学となって、短歌を、啄木を口にする同級生がなくはなかったが、彼らは自分

とは世界を異にしている人種のように思えた。四十過ぎから短歌を始めた自分にとっていまさら啄木もな

いだろうと深く接触せずに今日に至ってしまった。しかし、蟹の歌を作ったことによって、俄然啄木が先

輩としてわたしの前に立ち現れた。『東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる』「蟹とた

はむる」。蟹は、身を硬い殻でおおい、そして大きな鋏を誇示する。われわれから見れば滑稽にさえ思え

るその仕草に自分を重ねたとき、いままで見えなかったものが、蟹をとおして見えてきた思いがした。

「身を硬い殻でおおっている蟹と、何らかの挫折を味わった青年が戯れる。その孤独感のようなものが、

ひしひしと感じられるのだ。決定的だったのは「一握の砂」だった。啄木は、あるいは、いや多分一攫千

金の志を持って東京に来たのであろう。しかし、思いに反して、挫折を味わったのだ。ぎりぎりの生活苦

から得たもの、悟りに近い心境(とわたしは思うのだが…)。生活苦で得たものは、一握りの、何の価値

も無い砂ではなかったのか。そんな、一握りの砂に価値観を持った。恥も外聞も無く、頬に伝わる涙もぬ

ぐおうともせず…、わたしの持てるすべてと言っているように、わたしのこれがすべてと言っているよう

に、わたしの短歌はこれだと言っているように、わたしの人生はこれだと言っているように…。金ではな

く、とるに足らない一握りの砂に価値観を見出した。そして歌にした。「一握の砂をしめしし人を忘れ

ず」と。啄木の、あの若さでそこまでたどり着いた心境に、わたしは脱帽せざるをえません。この一握り

の砂を示している人こそ啄木自身とわたしは思う。これこそ啄木が挫折の後にたどりついた短歌観であ

り、人生観であると思う。啄木はこれで永久(とわ)の眠りにつく準備ができたのであろうか。

短歌鑑賞                    

 

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる

                  石川啄木

 

啄木は一晩に百首、百五十首と多作したことで知られています。この作品もそういった折の一首と聞いています。ですから多分に空想で作っているきらいが

あると思われます。あるいは過去の記憶と空想で作ったと言ったほうが良いかもしれません。

この歌を読んだとき「磯の白砂」が気になりました。「浜」でなく「磯」というとわたしにはどうしても岩場、石の多いところというイメージが浮びます。「磯の白砂

」という表現がどうしてもぴんとこないのです。しかし、ここで大事なのはやはり白のイメージでしょう。小島の小も必要な要素と思います。つつましい感じを出し

たかったかもしれません。しかし何と言いいましても、海水にぬれるのではなく泣きぬれるという表現、若い女性や友人ではなく身を硬い殻に閉ざした蟹とたわ

むれると結んだところに天才の面目躍如たるものを感じます。

失恋をした青年でしょうか。あるいはなにかに挫折をしたのでしょうか。そんな孤独な青年を彷彿とさせ、切ない気持ちになります。 

啄木のこと    (二)   

 私は、啄木の歌集を持っていません。四十過ぎより短歌を始め、いまさら啄木でもないだろうというような理由でした。

… 中略…初めて啄木の詩歌集を借りて…(略)

 我々は学校で色色なことを覚えさせられました。教えというのは理解させることと思うのですが、とにかく分からないことを分からないまま覚えさせられたように感じます。

 これは昔からの教育の仕方なのでしょうか。分からないことをまずは覚える。そして自然に理解するようになるのを待つ。

(略)…「あこがれ」など、詩のほうはさっぱり分かりませんでしたが、…(略)…短歌の方も一部分かりにくいものがありますが、大方理解できたように思います。ただ間違って覚えていたものが何首かありました。

 

たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

 

わたしはこの歌をずっと、 「三歩歩めず」と覚えていました。
母というものは子供にとっては、常に大きい存在(重い存在といったほうがよいかもしれませんが…)です、またそうあってほしい存在です。その母を背負えるほど大きくなった、大人になったということを見せたかったのかも知れません。もうお母さんを背負うことができるよと気負っていたのかも知れません。子供の頭の中では母の存在は知ず知らずのうちにに現実以上に大きくなるようです。それで、甘えすぎるようにもなるのかも知れません。

 頭の中で作り上げていた母親像と現実との格差が余りにも大きかったのでしょう。「泣きて」は非常に複雑な心理のように思えます。親不孝を詫びる涙もあったのではないでしょうか。こんな軽い母にいままで自分はなんと大きな、重い荷を負わせてきたのだろうかというような悔いる気持ちがあったと思います。

 「歩めず」あまりにも哀しくてとても三歩も歩くことが出来なかった。というように私は理解していたのですが、実際は「歩まず」でした。

 「歩めず」とすると感傷に浸っている、まだ甘い、精神的に幼い啄木像となるでしょう。「歩まず」は違います。自分の意志で歩まないのです。もはや単なる感傷家の啄木ではなく、一人の人間としてありのままの母親を見つめる、真の意味で大人となった啄木、一人の精神的にも独立した人間啄木が誕生したと思えるのです。ですからこの歌は啄木にとっても重要な、一人の人間として目ざめた画期的な歌とわたしには思えます。

啄木のこと    (三)   後藤人徳

 

ふるさとの訛なつかし

 

停車場の人ごみの中に

 

そを聴きにゆく

 

 もう二十年ほど前になりますか、短歌を初めて作り、五首原昇先生に送りました。いま思うとなんとなく啄木のように、いわゆる別ち書きをして送りました。そこで初めて短歌は一行に書くこと、文字を離さず書くことを教えられたのでした。

 啄木の歌集を読んでいて、そんなことを思い出しました。啄木の歌集の特色はまずこの三行の別ち書きでしょう。

 あらためて、一行目の「ふるさとの訛なつかし」を読むと、これだけでいろいろの思いが浮んできます。「ふるさと」それも「訛」がなつかしい。なにか机に頬杖をしていろいろ思いを巡らしている啄木の姿が浮んできます。そして、やおら腰をあげて、以前聞いてなつかしかった思い出のある駅の、しかも雑踏の中にわざわざ出掛けて行くのです。訛を聴くために。

 別ち書きをすると、()が生じ、一行一行に独自の意味合いが自ずと生じるように思われます。逆に一行書きにすると全体がひとつの塊となり、ことばの意味も当然のことに互いに緊密になるように思えます。ですから、一行の方が感情が直接表れるようにも思えます。

 「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と一行書きで読んだ時、まず駅の雑踏を思い浮かべました。まさに駅の雑踏のなかで、「ふるさとの訛なつかし」の思いが浮んだように思われました。実際は机に向っていたとしましても。

 原 昇先生もよく内部衝迫を歌にしなさいと教えられました。この内部衝迫を表すのには一行書きが適しているように思うのです。「歌」の語源が「訴ふ」にあるとすれば、なおさらのこと、一行書きのほうが別ち書きよりも叶っているように思えます。

 別ち書きをすると一行一行のあいだに、いわゆる詩的ふくらみが増すように思います。ですから、より詩的であり、文学的あるいは芸術的になるのかもしれません。しかしながら、一行書きにみられる直線的な力強さ、ストレートに感情表現が出来る利点が失われようにも思います。そして、これこそが日本古来から連綿と続いているこの短詩型を他のものと区別するものかも知れません。

 短歌には文学以前の要素がかなり色濃く反映しており、またそれが第二芸術などと呼ばれた所以かもしれないと思います。

 啄木は、短歌を文学に、より詩的にしたかったのかもしれません。しかし、短歌の不思議な魔力のようなものには勝てなかったのか、別ち書きを継承しているグループなり結社なりを今のところわたしは知りません。

 啄木の歌集を読みながら、別ち書きと一行書きをいまさらのように考えさせられました。

啄木のこと    (四)   後藤人徳

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり

ぢっと手を見る

 

さて、啄木の歌集を読んでいるのですが、啄木の三行の別ち書きのことが大変気になりました。それと同時に短歌を始めたとき教えられた一行書きについても同様で、なぜ一行書きなのだろうかとの疑問が非常に湧きました。

 短歌革新は明治に始まり、戦後にあっても前衛短歌が一時期風靡しました。しかし、考えて見るといままでこんな肝心なこと、別けて書くのか一行にかくのか、なぜそうなのか、啄木の別ち書きを一般の結社なり、歌人はどうみているのか、などについて明確な見解を残念ながら知りませんし、入門書にもあるいは雑誌等でも読んだことがありません。

 あるいは短歌以前の問題かもしれない、別ち書きや一行書きの問題を考えることは、案外短歌の核心に迫ることであり、短歌の本質に迫ることであり、実はいま一番必要なことのように感じる次第です。

 そうした問題をはっきりさせるためには、唯一(と私は思うのですが)別ち書きをしている歌人啄木を避けては通れないように思います。

 いま少し啄木と関わってみたいとそんな風に思う今日このごろです。

 掲題の歌を、NHKのアナウンサーが朗読するのを聞いた。いいなあとうっとりと聞きほれた。ただ、いま考えると「はたらけど、はたらけどなおわがくらしらくにならざり」「じっとてをみる」と読んでいたように思う。これは何度も読んだので間違いないところです。じつは初句の「はたらけど」で間を置くことに、あるいは啄木の思いがあるかもしれないのです。

 NHKといえば、投稿歌を五行書きにしています。またはがきなどで書く場合そのように指示してあったように記憶しています。これなども、それでいいのであればそのように、いけないのであればいけないとはっきり権威ある歌人なりが言うべきと思います。NHK歌壇をささえているのは、そうそうたるメンバーですので…。

 わたしは、NHKを非難しているのではありません。NHKにはごく親しい友人が勤めていますし、わたくし自体じつはかの有名な紅白歌合戦を行うNHKホールの雛壇に列する栄誉を得た身であるのです(昭和61年度全国短歌大会、佐々木幸綱選にて)。ですから、一行書き、多行書きの問題をはっきりしてもらいたいと思うのです。

啄木のこと    (五)   後藤人徳

再び

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり

ぢっと手を見る

NHKのアナウンサーが「はたらけど、はたらけど」と続けて朗読したことは前回話しました。啄木の意図とは別に、そのように読むこと自体わたしはむしろ賛成したいと思います。畳みかけることによって、生活苦が一層強調されると思います。そして、間をおいて「ぢっと手を見る」となるわけです。その手を見る行為が、生活苦と直接的に関係するのか、あるいは人間のある理由の無いように見える行動として「手を見る」のかは作者に聞かなければ、真実ははっきりしません。解釈はかなり読者にゆだねられるように思います。そして、何故そこで行を変えたのかにもかかわってくるように思えます。

 しかし、「はたらけど、はたらけど…」とつづけて読むのであれば、二行書きでよいではないか、なにも三行書きにする必要はないだろう、という批判がおこるでしょう。

 ここで、いっそのこと一行書きにしたらという意見もあるかもしれません。「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」ただ、一行にするとやはり歌のニュアンスがまた若干異なるでしょう。「ぢっと手を見る」にしても、前述のような生活苦との関係というより、手そのものに視点が移るような感じがします。「荒れ果てた手」、「あかぎれの手」、そういった、いたいたしい手への直接的な思いを感じます。間をおかず、一気に詠みきった作者のせっぱ詰まったような、一直線の思いが強調されるのではないでしょうか。一行書きにすることによって、芸術だとか、文学だとかいうことではなく、泥まみれに働いても、働いても、手から血を出して働いても、例えば一向に借金が返せない、そういった実際の作者自身の絶望感が伝わるように思うのです。ただそれを啄木は避けた。なぜか避けているのです。東北出身の、明治生まれの啄木がかたくなに、茂吉がしたように直接的な思いを表現することを避けた。ここにわたしの啄木にたいする謎を感じるとともに魅力も感じるわけです。

 最後に、三行書きの場合の、「はたらけど」についてちょっとふれましょう。啄木は初句の「はたらけど」で切っています。「はたらけど」は独立の一行です。「働いたけれども」とまずは、言っているのです。遊んでいたわけではない、実際に働いたけれどもと言ったことでしょうか。誰かにぶらぶらしていないで、働きなさいと忠告されたのかもしれません。そして、二行目の「はたらけど…」になります。

この「はたらけど」の繰り返しは、三行書きの場合は、強調というよりは、一行目の働きかたが不十分と思い、あるいは誰かからそう言われ、いっそう熱心に働いたけれども一向に生活は楽にならない、というようなふうに思われます。