葛原妙子

葛原妙子 秀歌50首 選    森岡貞香 選


わがうたにわれの紋章のいまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる    「橙黄」

初期の代表作のひとつ。自らに独自の文体を希求する嗟嘆のこえの中に青春性を見せている。

クリスチナ・マヌエラと云ふ汝の教へ名うるはしみ思へかかるゆふべは 

クリスチナ・マヌエラ、をこえに出してくりかえすと、何とない雰囲気があって下の句へ誘われる。汝は娘。

朱の色の青草に飛ぶことなきや飛天のくちびる彩られをり         「縄文」

飛天のあかいくちびるの色もその姿態もろとも天空をゆく。ふと青草に映るその色。思いは自在に虚の界をゆく。

傳(かしづ)きし唇赤き少年を打ちしことありやレオナルド・ダ・ヴィンチ

これ以後もしばしば同質のエロチシズムを感じさせる作品がある。打ちしことありや、はここでは打つ側に傾いている。

ガラスの鐸(すず)鳴らし家族を食事に呼ぶはかなかる日のわたくしごとと

「飛行」

日常の中の哀感がゆるやかな形で伝わる。見えてくるのは家族よりも作者の個のこころ。

有限者マリヤの肌を緑色(りょくしょく)に塗りつぶしたるはシャガール あはれ

有限者たるマリヤと作者を、重ねているようなところがある。

ずり落ちしこころ高みにのぼらむにつめたき汗のしたたる夜半ぞ

生そのものの実体のくるしみが紡ぎ出されている。

寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず  「薔薇窓」

後記より。一耽美者の悲願として信仰とは無縁なのだと。この薔薇窓の美しさを仰ぎこの下をくぐる者は心虔しからぬと。

うたびちは蹌踉たりし さうらうとしづけきをゆるせしぞ むかし    「原牛」

歌の流れは美しい古歌をその地下に浸透させている、と室生犀星は評している。

赤ん坊はすきとほる唾液垂れをり轉がる玉を目に追ひながら

想像や観念で置きかえられない実際であるために、気がついたことで不思議なものを見る感じ。

人に示すあたはざりにしわが胸のおくどに青き草枯れてをり     「原牛」

人、或る一人を規定して相聞にかようところがあるが相聞歌ではない。独り言の歌が美しいとは妙子の言葉だ。

風媒のたまものとしてマリヤは蛹のごとき嬰児を抱(いだ)きぬ

初出。「灰皿」1957年夏・創刊号。信仰者ならぬ者の歌。蛹のごとき、と、風媒という言葉は関わりをもつ。

黒峠とふ峠ありにし あるいは日本の地圖にはあらぬ

黒峠という言葉の誘き出す不可思議さを妙子は語った日があった。

ばりばりと頭髪を盥に硬ばらせ死海より生まれきし若者のむれ

高層の林立する市街に見る若者たち。若者の名のもとに彼等は永遠に若いのである。

水邉の暗きに立ちをり身に負へる水の怨恨 草の怨恨

軽井沢の奥谷川の崖を下る。流水に枝の影と山草の影が入りまじる中に人の影が入りまじった。そこから虚の世界へ入っていった。

夜半ふいにわれに向きたる汝のめがねいぎりすの古き修道院より

カトリックであり英文学者の長の娘、汝との時空を越えた目線の衝突。妙子作品に見る文芸としてのカトリシズムはこの汝の教養を享けている。

明るき晝のしじまにたれもゐず ふとしも玻璃の壷流涕す    「葡萄木立」

壷は透明ゆえに薄光りして泪を流す気配も見せる。たれもゐず、と人に視られていない流涕である。

スクラムを揺りつつうたふ揺りうたふあなほのぼのと揺ることのあらむ

労働者群が歌っている。スクラムの中で闘志は高揚しスクラムはより揺れる。陶酔が普遍性なものとして現れている。

傳はるは未聞(みもん)のをとめの死なりしか土足の下よりあらはれにけり

樺美智子の死の受難のいたましさを記憶とし、滅びない文芸の世界が展かれている。

水中より一尾の魚跳ね出でてたちまち水のおもて合はさりき

水のおもて合はさりき。気がついてみると、気がつかないでいるほうが恐いことのようでもある。

飯食(おんじき)ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し  「葡萄木立」

日常が深められて、卓上の空壜は日常茶飯の情景だが、遠き泪の潤み、という。

うすらなる空気の中に実りゐる葡萄の重さははかりがたしも

はかりがたしも、と言うとき、経験として感傷ではなくて、目の前のことで空気薄く葡萄の実りは重々しい。

みぎひだり人限りなくならびうる空間ありて獨り雪の夜

人限りなく並び得る、という限定がある。限定したことで自らの内面と外面は相通じあう。

洗ふ手はしばしばもそこにあらはれたり眩しき冬の蛇口のもと

蛇口のもとの手、というだけのことであって、それだけではない。手だけがしばしば出てくる。意識した時不思議になる。

音盲なるわが耳にひと夜聴こえゐたり「左手のための最弱音(ピアニシモ)」

一時期に手というものは歌に多く現れる。なぜ、でなくて歌われるという事実だけがある。或る左手を感じている。

荒れし庭よぎる者なきひとときを模造真珠の小日輪

注・虔しい女/オディロン・ルドン、の絵に付す一首(短歌と歌論、律三号)絵を見ずとも言葉のひらく荒庭がある。

小さなる心臓燃えて赤子はあらしの夕(ゆうべ)母に抱(いだ)かれぬ

ひっしに泣いていた赤ん坊がその母に抱かれたとき。美しい歌だ。

水底の朽ちたる木の葉にとどくさまおもむろにして春の落葉  「朱靈」

水底の朽ちた木の葉と新しい春の落葉と、古い記憶が目覚めはじめるようである。

なにぞそも長(をさ)のむすめは母なるわがまへにきはめてしづかにわらふ

長女というものが持つ一つの力に気付かされるとき、なにぞそも、なのである。

あまやかに匂へるものはまろびゐつ 密毛ふかき青き桃 白き桃

桃であって桃以上。匂い、まろび、密毛をもつもの。

疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ      「朱靈」

切れ切れのこえの表記の、ひらがな、が疾風の中を流れている、様式美をも包蔵して。

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆうぐれの水

絵空ごとのように夕ぐれの水溜りを見ているうちに曖昧模糊たるものを構成している核のようなものが見えてくる。

暴王ネロ石榴を食ひて死にたりと異説のあらば美しきかな

異説のあらば、は仮定なのだが、異説以上に開示されて愉しむ。独りごとの言葉のおもしろさ美しさ。

ヴェネティア人(びと)ペストに死に絶えむとし水のみ鈍く光りし夕(ゆふべ)

過去の時間を思い描いているのだが、旅人の眼にうつる水路の光は時間を自由にうごかして体験させる。

ゲーテは大き寝台に死にしかないますこしひかりをなどと呟きて

いかにも真実らしく、真実以上の趣を見せる。或るドイツ文学者を驚かせた虚の歌。妙子の歌のありようを見せている。

雁を食せばかりかりと雁のこえ毀れる雁はきこえるものを

カ音のかさなりに毀れる雁がきこえるところに、きこえるものを、がある。

走りくる空車を透かし見ることありま青にそらの晴れしゆうぐれ

妙子に「ゆふぐれ」の歌は多い。くうしゃを待っているか通り過ぎたのか。むなぐるま、とよむほうが私は好ましい。

人のこゑ絶ゆる日なかの流れぐも天涯をゆくうすみづごろも  「鷹の井戸」

雲の流れとともに飛天も思われる。衰の見えるような飛天。古歌の落着きのもつ美しさがある。

小心臓さながらに芽立ちくるすみれ一粒(りふ)の砂を巻きて萌えけり

すみれの芽生え、見えてきた形なのだが作者の気取りも見せている。

なめたけといふきのこ晝の餉(け)に傘あるものを食ひつつ怪し

傘あるもの、という言葉のもつ妖しさを実感させる力を持っている。

ほのぼのとましろきかなやよこたはるロトの娘は父を誘(いざな)ふ    「鷹の井戸」

一語一語はさして官能性をもたない。この創世記の物語から出た新しい羽ばたきは様式美の中にエロチシズムを感じる。

午前一時加賀落雁の紅色の粉をはらへる紙薄じろし

和菓子の持つ彩や薄紙の優美さが、午前一時加賀落雁という言葉と関わって新しい形の下に表れている。

障子戸を染めし楓(かへるで)さにづらふわが紅葉賀(もみぢのが)きはまらむとす    「をがたま」

さにづらふ、は紅葉の枕ことばのようであり、上の句と下の句に橋かけている。源氏物語など思い吾庭を眺めている。

花帽子冠りし老畫家アンソールほの暗き日蝕の街をよぎりぬ

自画像「花飾りの帽子をかぶったアンソール」からはみ出してきた老画家を日蝕の街で見かけたのは妙子の視たもの。

青白色(セルリーアン) 青白色(セルリーアン) とぞ朝顔はをとめ子のごと空にのぼりぬ

セルリーアンの語感をかさねて朝顔は空へ上ってゆく、セルリーアン、は「をとめ子」をよび出す。

自轉車に乗りたる少年坂下る胸に水ある金森光太  

金森光太は実際の少年の名であるのだが、虚実ないまぜにこの名は生き生きした存在だ。

翅萎えてもとほりけらし冬天使 一夜にかほをうしなひし薔薇

上の句の想像における非現実性は下の句では現実そのものなのである。

龜の道けもの道よりほそぼそとかつ岐れゆく水ある方(かた)へ

現実が幻のような感じだ。けもの道と岐れ水ある方へ消えている。ここから物語がはじまるような一端だ。

膽すなはちにが玉といふ臓器ありつねなる苦汁われにしたたる

作歌という作業ににがじるをしたたらす日日は、膽という臓器の存在がしたたらす苦汁といりまじる。

あくがるるが樂天(がくてん)刺繍の断片は木枯とともにひるがへりたり

奏楽の飛天の古い残欠が黄や紅や枯葉とともに寒い風の中でひるがえっている。晩秋に体験し得るそれは美しい。

(完結)