中原中也の詩

渓流」 「汚れつちまつた悲しみに…」「湖上」 「生ひ立ちの歌」 春と赤ン坊」 「夏の夜に覚(さ)めてみた夢」 「妹よ」 「夏の日の歌」「老いたる者をして」  「六月の雨」「正午」「失せし希望」「わが半生」 「サーカス」 「月夜の浜べ」    


「渓流」    

 

渓流で冷やされたビールは、

青春のやうに悲しかった。

峰を仰いで僕は、

泣き入るやうに飲んだ。

 

ビショビショに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、

青春のやうに悲しかった。

しかしみんなは「実にいい」とばかり云った。

僕も実は、さう云ったのだが。

 

湿つた苔も泡立つ水も、

日蔭も岩も悲しかった。

やがてみんなは飲む手をやめた。

ビールはまだ、渓流の中で冷やされてゐた。

 

水を透かして瓶の肌へをみてゐると、

僕はもう、此の上歩きたいなぞとは思はなかつた。

独り失敬して、宿に行つて、

女中と話をした。

 

「汚れつちまつた悲しみに…」   

 

汚れつちまつた悲しみに

 

今日も小雪の降りかかる

 

汚れつちまつた悲しみに

 

今日も風さへ吹きすぎる

 

 

汚れつちまつた悲しみは

 

たとへば狐(きつね)の革裘(かわごろも)

 

汚れつちまつた悲しみは

 

小雪のかかつてちぢこまる

 

 

汚れつちまつた悲しみは

 

なにのぞむなくねがふなく

 

汚れつちまつた悲しみは

 

倦怠(けだい)のうちに死を夢む

 

 

汚れつちまつた悲しみに

 

いたいたしくも怖気(おじけ)づき

 

汚れつちまつた悲しみに

 

なすところもなく日は暮れる…

「湖上」   

ポツカリ月が出ましたら、

舟を浮かべて出掛けませう。

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

 

沖に出たらば暗いでせう、

櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は

昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、

―あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

 

月は聴き耳たてるでせう、

すこしは降りても来るでせう、

われら接吻(くちづけ)する時に

月は頭上にあるでせう。

 

あなたはなほも、語るでせう、

よしなしことや拗言(すねごと)や、

洩らさず私は聴くでせう、

―けれど漕ぐ手はやめないで。

 

ポツカリ月が出ましたら、

舟を浮かべて出掛けませう、

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

「生ひ立ちの歌」  

T

幼年時

私の上に降る雪は

真綿(まわた)のやうでありました

 

少年時

私の上に降る雪は

霙(みぞれ)のやうでありました

 

十七〜十九

私の上に降る雪は

霰(あられ)のやうに散りました

 

二十から二十二

私の上に降る雪は

雹(ひよう)のやうでありました

 

二十三

私の上に降る雪は

ひどい吹雪(ふぶき)と見えました

 

二十四

私の上に降る雪は

いとしめやかになりました……

 

U

 

私の上に降る雪は

花びらのやうに降つてきます

薪(たきぎ)の燃える音もして

凍るみ空の黝(くろ)む頃

 

私の上に降る雪は

いとなびよかになつかしく

手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は

熱い額(ひたい)に落ちもくる

涙のやうでありました

 

私の上に降る雪に

いとねんごろに感謝して、神様に

長生(ながいき)したいと祈りました

 

私の上に降る雪は

いと貞潔(ていけつ)でありました

春と赤ン坊   

菜の花畑で眠つてゐのは……

菜の花畑で吹かれてゐのは……

赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴いているのは、電線です電線です

 

ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です

菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自転車々々々

向ふの道を、走つてゆくのは

薄桃色の、風を切つて……

走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)

――赤ン坊を畑に置いて

「妹よ」   

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、

――かの女こそ正当(あたりき)なのに――

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、

  もう死んだっていいよう……といふのであつた。

 

湿つた野原の黒い土、短い草の上を

  夜風は吹いて、

死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、

うつくしい魂は涕くのであった。

 

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに

  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた…

 

「夏の夜に覚(さ)めてみた夢」

眠ろうとして目をば閉ぢると

真ッ暗なグランドの上に

その日昼みた野球のナインの

ユニホームばかりほのかに白く――

 

ナインは各々守備位置にあり

狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず

お調子者のセカンドは

相も変らぬお調子ぶりの

 

扨(さて)、待つてゐるヒツトは出なく

やれやれと思つてゐると

ナインも打者も悉(ことごと)く消え

人ッ子一人ゐはしないグランドは

 

忽(たちま)ち暑い真昼(ひる)のグランド

グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は

蒼々(あおあお)として葉をひるがへし

ひときはつづく蝉しぐれ

やれやれと思つてゐるうち……眠(ね)た


「夏の日の歌」   

 

青い空は動かない、

雲片(くもぎれ)一つあるでない。

  夏の真昼に静かさには

  タールの光も清くなる。

 

夏の空には何かがある、

いぢらしく思はせる何かがある、

  焦(こ)げ図太い向日葵(ひまわり)が

田舎(いなか)の駅に咲いてゐる。

 

上手に子供を育てゆく、

母親に似て汽車の汽笛は鳴る。

  山の近くを走る時。

 

山の近くを走りながら、

母親に似て汽車の汽笛は鳴る。

  夏の真昼の暑い時。

「老いたる者をして」  

老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ

そは彼らこころゆくまで悔いんためなり

 

吾(われ)は悔いんことを欲す

こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり

 

ああ はてもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ

父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く

はたなびく小旗の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき

海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

 

反歌

ああ 吾等怯懦(きょうだ)のために長き間、いとも長き間

徒(あだ)なることにかからひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……

「六月の雨」   

またひとしきり 午後の雨が

菖蒲(しやうぶ)のいろの みどりいろ

眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)

たちあらはれて 消えてゆく

 

たちあらはれて 消えゆけば

うれひに沈み しとしとと

畠の上に 落ちてゐる

はてしもしれず 落ちてゐる

 

           お太鼓叩いて 笛吹いて

           あどけない子が 日曜日

           畳の上で 遊びます

 

           お太鼓叩いて 笛吹いて

           遊んでゐれば 雨が降る

           櫺子(れんじ)の外に 雨が降る 

「正午」

丸ビル風景

ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口

空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃(ほこ)りも少々立つてゐる

ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きいビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

「失せし希望」   

暗き空へと消え行きぬ

  わが若き日を燃えし希望は。

 

夏の夜の星の如くは今もなほ

  遐(とほ)きみ空に見え隠れる、今もなほ。

 

暗き空へと消え行きぬ。

  わが若き日を燃えし希望は。

 

そが暗き思ひいつの日、

  晴れんとの知るよしなくて、

 

溺れたる夜(よる)の海より

  空の月、望むが如し。

 

その浪はあまりに深く

  その月はあまりに清く、

 

あわれわが若き日を燃えし希望の

  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

「わが半生」   

私は随分苦労して来た。

それがどうした苦労であったか、

語ろうなぞとはつゆさへ思はぬ。

またその苦労が果たして価値の

あつたものかなかつたものか、

そんなことなぞ考へてもみぬ。

 

とにかく私は苦労して来た。

苦労して来たことであつた!

そして、今、此処、机の前の、

自分を見出すばつかりだ。

じつと手を出し眺めるほどの

ことしか私は出来ないのだ。

    外(そと)では今宵、木の葉がそよぐ。

    はるかな気持の、春の宵だ。

    そして私は、静かに死ぬる、

    坐ったまんまで、死んでゆくのだ。

「サーカス」

幾時代かがありまして

  茶色い戦争がありました

 

幾時代かがありまして

  冬は疾風吹きました

 

幾時代かがありまして

  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り

     今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り

 

サーカス小屋は高い梁(はり)

そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

 

頭倒(さか)さに手を垂れて

  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと

ゆあーんゆよーんゆやゆよん

 

それの近くの白い灯が

  安値(やす)いリボンと息を吐き

 

観客様はみな鰯

  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と

ゆあーんゆよーんゆやゆよん

 

    屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)

    夜は劫々(こふこふ)と更けまする

    落下(らくか)傘奴(かさめ)のノスタルヂアと

    ゆあーんゆよーんゆやゆよん

「月夜の浜べ」

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際(なみうちぎわ)に落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと

僕(ぼく)は思つたわけでもないが

なぜだかそれを捨てるに忍びず

僕はそれを、たもとに入れた。

 

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際(なみうちぎわ)に落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと

僕(ぼく)は思つたわけでもないが

       月に向かつてそれはほうれず

       波に向かつてそれはほうれず

僕はそれを、たもとに入れた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは

指先に沁み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?