土屋文明







近藤芳美著『土屋文明』「短歌鑑賞篇」『ふゆくさ』より 『往還集』より 『山谷集』より 『六月風』より 『少安集』より 『山の間の霧』より 『韮菁集(かいせいしゅう)』より 『山下水(やましたみず)』より 『自流泉』より 『青南集(せいなんしゅう)』より 『続青南集』より 『続々青南集』より


『ふゆくさ』

この三朝(みあさ)あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず  (明治四十二年作)

 

この三日ほどの朝ごと、美しい、可憐な花を装うように咲かせていた睡蓮が、今朝はもはやひらこうとしない。はかない、つかのまに過ぎて行く花のいのちである。そのような感傷を歌った清純な作品である。睡蓮は「ひつじぐさ」科の水草。園芸植物として池や水盤に栽培され、夏から秋にわたって水面にさまざまな色の花を咲かせる。その花は毎日開閉をくりかえし、数日でしぼむ。

この歌は「日に恥ぢてしぼめる花の紅(くれなゐ)は消え失するがに色沈まれり」「あくがれの色とみし間も束の間の淡淡しかり睡蓮の花」「今朝ははや咲く力なき睡蓮やふたたび水にかげはうつらず」などと共に処女歌集『ふゆくさ』の巻頭に出ている一連の作品の中に一首であり、「アララギ」の第二巻第一号に発表されたものである。文明は群馬県の中学を終え、伊藤左千夫を頼って東京に出て来たばかりの、まだ二十歳の少年であった。

 

楢原(ならはら)の春の若芽に灰ふる日木の間にうすき影をふみつつ   (明治四十五年作)

 

春の若芽の萌えはじめた楢の木の林に、遠い火山灰が降っている。空を黄色く覆った火山灰の中に、昼の日がうすくさす。林の道にはおぼろな枝々の影が落ちているのであろう。それをふみながら一人歩いている。孤独な逍遥のひとときである。青春の感傷が静かに歌い出されている作品といえよう。「灰をかぶり林いづればうすら日に桃あかあかと咲ける原あり」という歌と共に並んで歌集『ふゆくさ』に掲載されている。明治の終りから大正にかけてのころの土屋文明の青春作品の一つである。

まだ第一高等学校の生徒であった土屋文明は、「いたづらの此のエピソウドの鳥のやうにいたまし思ひの人のあるかや」とか、「おぢもだしひとり滅(ほろ)びの闇を行く君とあるなら泣かましものを」とかいった、甘美な、西洋象徴詩風な歌をこのころしきりに作っていた。そうした若々しい作品にまじる一首なのである。

 

山の上は秋となりぬれ野葡萄(えび)の実の酸(す)きにも人を恋(こ)ひもこそすれ  (大正二年作)

 

山の上はいつか秋となっており、木々にからむえびづるに黒紫色の小さな実が色づいて来ている。その実をとって歯に噛むと酸い味がする。小さな山の草の実の味に、しみじみと遠い一人の人を恋い思っている。そういう意味の、淡々しい相聞の作品なのであろう。野葡萄は「えびづる」と呼ばれている「ぶどう」科の野生植物のことをいっているのであろう。夏に淡い黄緑色の花が咲き、秋が来ると小さな漿果を結ぶ蔓草の一種である。

「山上相聞」と題した『ふゆくさ』の中の一連の作品の中の一首。「榛の葉のうら葉しらじら吹く風にさすや夕日のともしきものを」「霜ふれば霜に枯れゆく山の上に濃き紫のりんだうの花」「紅葉する谷にひそかに澄む水の吾が恋ならずつつましきかな」などという清純多感な恋愛歌がこの前後に歌われている。大正二年。土屋文明二十四歳。一高を終えた彼は東京帝国大学哲学科に入学し、やがて芥川竜之介らとの交友が始まって行く。

 

西方に峡(はざま)ひらけて夕あかし吾が恋ふる人の国の入り日か    (大正二年作)

 

山峡が西の方にむかってはるかにひらけ、そのはての空に、赤々と夕空が映えている。自分の恋人の住む地のはてに、今夕陽は沈もうとしているのだ。この歌も前の一首と同じように若い大学生土屋文明の恋愛作品である。『ふゆくさ』では「山上相聞」と題した連作の中の一つとして掲載され、「夕されば牛の仔群れて鳴くなれど黒きみづうみの水は動かず」などという歌と共に並んでいる。又、この年に「夕されば牛の子群れて啼くなれどうれひの水の動かざるかも」「白楊(どろ)の花ひそみ咲く木にゐる鳥の影はさしつつ鳴かむともせず」などという、やはり恋愛感情を背後にした多感な作品を彼は作っている。いずれも、その抒情の世界は西洋詩の色彩に濃く色どられたものといえよう。それと同時に、このころの歌が美しい、音楽的な旋律で歌われていることも注目される。土屋文明は本質的にこのような繊細な心の抒情詩人なのである。

 

夕べ食(を)すはうれん草は茎(くく)立てり淋しさを遠くつげてやらまし (大正五年作)

 

夕餉の皿のほうれん草はうすい紅色に茎立っている。ひとり食っているものうい食事なのであろう。そのようなとき、よりどなく心に湧くこのさびしさを、遠く告げてやりたい。遠く恋い思う人に告げ訴えたい。そういう気持の作品なのであろう。「春宵相聞」と題する中の一首。「ふる里の春の林の白楊(どろ)の花かなしとはみて幾年を経し」「みなぎらふ光のなかの白楊(どろ)の花ひそけきからにかなしく思ほゆ」「春といへど今宵わが戸に風寒しわがこころづまさはりあるなよ」などという歌があとにつづいている。いずれも憂愁感を霧のようにただよわせた、若々しい恋愛抒情詩である。

『ふゆくさ』の相聞歌に共通するものはこの淡い、清潔な憂愁感というべきものだろう。それは与謝野晶子の『みだれ髪』の激情とも異なり、茂吉白秋らの夢幻陶酔のエロチシズムとも異なるもの…その一時代後の白樺派の理想主義の匂いと通い合うものなのであろう。

 

夕ぐるる丘の野分は草吹きて榛(はん)の木をふきていづくともなし  (大正五年作)

 

夕くれの丘にはげしい秋風が吹きあれる。その風とともに丘の草が吹きしない、丘のふもとの、榛の木の木立も枝をしなわせる。そのようにして吹き立つ風は、はるかな野をいづくともなく遠ざかって行く。野分と云うのは晩秋のころに吹く疾風のことである。したがって、この作品に歌われている風景も、くらい空のくもりに覆われた、すべてのものの枯れようとする秋の終りの曠野の姿と考えてよいのであろう。吹き荒れてどこともなく去って行く風…という表現に何か暗示的象徴的なものを感じさせる。大正五年の作だが、その年に土屋文明は東京帝国大学哲学科を卒業している。一時共に小説を書いた「新思潮」の仲間とも離れ、再び短歌の世界に帰って行く時期である。大学は出たが仕事はなかった。そうした日の重苦しい思いが一首の背景をなしているのであろう。榛の木は山野の、主として湿地に生えている落葉樹である。水田のあぜなどに植える地方もある。

 

(つづく)

潮路(しほぢ)作(な)す朝開(あさけ)の海よみなぎれるそのくぐもりに吾が堪へざらむ    (大正六年作)

潮路とは海の面の、潮の流れる筋をいう。潮の満ちているときにはっきりと見える。その潮路のながれている朝明けがたの海よ、潮のみなぎっている海面のふかい曇りに、自分の気持ちは何故となく堪えがたく苦しくなって行く…そういう意味だろうか。
大正五年に土屋文明は大学を出た。しかし、しばらく定職もなく、翻訳や夜学の教師や筆耕に類した仕事などもしていたらしい。そうして、一人の女性を心にいだくだけの恋愛にも青年らしくなやんでいたのであろう。そのような青春の一時期を背景にして、この憂愁感に包まれた、瞑想風な作品がつくられたのだといえよう。二十八歳の年齢の時の作ではあるが、「潮路作す」などという、かなり技巧的な表現も用いられている。
「声ひそめなぎたる海の面ふくれ光れる潮のわれにせまり来」「ありつつも移る潮路のわかれつつひびのほ遠く流れ合ひたり」などの作が並んでいる。「大井の浜」の歌。

霧あめのしぶく軒うちに妻に別る森林の吏(り)は木箱負ひ居り                    (大正六年作)

山深い家に住んでいる営林署の役人か何かであろう。霧雨の降りしぶく軒の中で、木箱を背負いながら、これから山を下(くだ)ろうとする男が妻に別れを告げている。何か小説の一節のような場面である。「富士見原の茶屋」と題する一連の作品の最初の歌であり、このあと「霧こごる朝を別れてゆく夫(つま)の林の道はめぐりくだるも」「人の夫(つま)は遠くみえなくなりにけり雫ふる垣にあかきみねぞう」などという作品がつづく。実際に作者が見た情景なのであろうが、それが情緒的に歌われているのが後年の彼の人事詠などと異なる。このころの土屋文明の作品には同系列の、小説的発想のものが少なくない。一時期彼が芥川竜之介らと「新思潮」により小説の筆をとった影響なのであろう。「われをみしは造兵廠の職工か目もあわただしゆきすぎにけり」「たらの芽の重き負はせて芝山をいそがせし姿目につきて去らず」などという歌も前後にある。同じような種類の叙事作品である。

(つづく)

造り岸(ぎし)さむざむ浸(ひた)しよる潮のかわける道にあふれむとする              (大正八年)

白い、乾いた道路が海岸をはるかにつづいている。その道路に、満ちて来る潮がしだいにたかまり波の穂を打ち上げて来る。空は暗く曇っているのであろう。人かげ一人見えない寂しい風景である。「寒潮」と題する連作の最初の一首。このあとに「満ちきりし潮はふくれて高高とわがゆく道に襲ひ来らしも」「ほこりまじる潮香はうとし広き海に面は向けず吾は歩めり」「造り岸立ちゆく少女石落し青きうしほは泡立ちにけり」「ひとすぢに南に向ふ白道をわれは歩めりゆふべといふに」などという作品が並んでいる。造り岸というのは積石か何かで築いた護岸のことなのであろう。叙景歌であるが、作者は単なる風景以上のもの…作者自身の心象世界のようなものを歌い出そうとしている。そうした意図がいくらか早急にあらわれている点がないではない。若い土屋文明が、何かを切り拓こうと懸命に苦しんでいる時期の作品である。

夜おそく湯槽(ゆぶね)を払ふ放ち湯の落ちゆくかもよ地下に音して                (大正八年)

大正七年、土屋文明は新しい妻をともなって女学校教師として長野県上諏訪に赴任した。上諏訪は諏訪湖の岸の温泉町。彼らの借りて住んだ家にも温泉が引かれていたのであろう。その家の湯槽の放ち湯が、地の下に音を立てて流れ行く。異郷の町の妻と二人だけの家に、その音を夜ふけて聞くことが何か彼にとって寂しい思いだったのであろう。「国とほくここに来りて妻とわれ住む家求む川にのぞみて」「「温泉(いでゆ)わけば借りてわが住む家の前をのろく流れて行く衣渡(えのと)川」「朝な朝なつなげる船に米洗ふ向うの人等いまだ馴れずも」「並ぶ町大戸おろせば上諏訪のゆうべの道は凍りて寒し」などという歌が前後に作られている。
このころから土屋文明の歌に、初期の甘美な抒情性がしだいに影をひそめ、重厚な現実感ともいうべきものが加わって行くようになる。実人生の中に生きて行くものの文学となって行こうとするのである。

(つづく)

馬の腹にひたひたとつく湯の湛(たた)へ底の石みな青光りせり                  (大正九年)

「新潟」と題する一連の中の作品。馬がはいるための湯の池のあるひなびた温泉場の風物詩であろう。呑気そうに腹に波打たせながら湯にひたっている馬。底の石の透いて見えるほどに青い澄んだ湯のたたえ。湯の池をめぐる岩の上には青葉が濃くしげっているのであろう。そのような情景が目に見えるような牧歌的な歌である。「馬の湯に居る馬七つ日照雨(ひでりあめ)に背のかけむしろみなぬれてあり」「首筋を流るる雨におどろきてからだ動かす馬いとけなし」「馬の湯に今朝ゐる馬は一つなり湯の中に楽楽尾をふり遊ぶ」などといった同じ材料の作品が並んでいる。
この一連も前にかかげた「富士見原の茶屋」などと共通する、どこか物語めいたものを感じさせる短歌である。平明であり、印象的なものもこの時期の作品に共通する性格であろう。

旱(ひでり)つづく朝の曇(くもり)よ病める児を伴ひていづ鶏卵(たまご)もとめに        (大正十三年)

雨の降らない夏の日のつづく、うつうつとした曇りの朝、病みむずかる吾が子の手を引いて卵を買い求めに出かける。きっとなじみのない村の道を、どこかの農家にでも卵をもらいに行こうとしているのであろうか。わびしい、生きて行くことに疲れたような思いがそれとなくまつわるこの作品である。
この年土屋文明は足掛七年のあいだつとめた長野県の教師の生活をやめ、家族らを一時足利にあずけたまま上京した。「暑中休暇には足利に落ちついて居る家族と共にくらし、病後の幼児夏実を伴って妻の生家に託してある荷を解いて、アララギ中から自分の歌を書きぬくために出かけた」という文章(『ふゆくさ』巻末雑誌)にある、その時の歌なのであろう。『ふゆくさ』の終りに近いこの歌は、もはや淡い美しいだけの小抒情詩の世界のものではない。後年の彼のきびしい人生作品がこのころから作られ出している。

(つづく)

『往還集』より

休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす                    (大正十四年)

冬の休暇を妻子らのもとに帰ることもなく、わびしい下宿生活をしている。ある夕ぐれ、気がついて見ると下宿部屋の思いがけない奥まで西日がさしこんで来ている。日にあせた畳の上に射す、淡い、ひとときの都会の夕日の色である。それだけの事を無表情なことばで歌った作品である。しかしそのことばの中に私たちは生活に疲れた孤独な一人の男の吐息のようなものを聞き得る筈である。そうした吐息さえ文学であり詩である筈である。生きて行く共通の思いであり嘆嗟であるといえる。土屋文明の歌は『ふゆくさ』の時期を過ぎ、大正末年から昭和初年にかけて著しい変貌をつづけて行く。生活詩、あるいは人生詩ともいうべきものに変わって行く。この一首なども其の過程上の作品である。「冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ」「夕されば自炊の客の焼く鮭の湯の空腹に応へてにほふ」「むれくさき塩引きの香のただよひてわが生ひ立ちの日を思はしむ」など、同じころの歌がつづく。

ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交(まじはり)絶てり                 (大正十四年)

ただ一人だけ自分より貧しい友であった。その友とも、金銭のことが原因となっていつか友情を絶ってしまった。歌われている事はそれだけである。しかし、このつき離したような作品からも、何か索寞とした感情をうけとり得る筈である。現実の社会の中に生きて行くとき、私たちがいだく感情である。土屋文明の歌はその感情を非常なことばで歌おうとする。金銭がこのような形で歌われた事はそれ以前にはほとんどなかった。啄木の貧乏の歌もこの文明の作に較べてまだ感傷のヴェールにいたわれ包まれていたともいえよう。
「吾がもてる貧しきものの卑しさを是(こ)のひとに見て堪へがたかりき」「かにかくにその日に足れる今となり君をしばしば吾れ思ふなり」「電車より街上の姿を君と見しが近づく人は君にあらざりき」などの作品がこのあとに並んでいる。ほとんど散文となってしまう、一歩きわどい地点で作られて行く短歌である。
   
(つづく)

夏の光するどく空にうづまけり崩れ著(いちじる)き十津川の山                   (大正十五年)

大正十四年に土屋文明は比叡山で行われた歌会に出席したあと、斎藤茂吉らと共に紀伊半島の熊野地方を旅行した。そのときの作品の中の一首である。十津川は大和の山中に源を発し、熊野川となって新宮で熊野灘にそそぐ川。目もくるめくような夏空の光の下に、赤々と山肌を切り崩しながら十津川の渓谷はうねり流れている。その遠望の歌なのであろう。するどい力強い筆で画き上げた油絵を見るような色彩の鮮烈な作品である。表現がきびしく、簡潔であり、たるみがない。この旅行の時の作品には今見ても評価にたえ得るすぐれたものが多い。
「たたなはる山のはたてを限りたる大和十津川の赭き山くえ」「真ひる空晴れ極まりて白雲は崩れいたましき山につきをり」などの歌がこの一首と並び、前後には「ほのぼのと明け来る山にかかりたる滝遠白く見たるあはれさ」「筏くむ人と語りて足袋洗ふ夕谷川の音のさやさや」などの格調高い歌が相つづいている。

青だいしやう追ひ込みし崖には線香を立てさせて又昼寝せむ                   (大正十五年)

長野県の学校教師をやめ東京に出て来た土屋文明は、大正十四年、友人芥川竜之介の世話で田端に家を借りて住み、足利に置いていた家族らをも呼び寄せた。この歌はその田端の家で作られたものであろうか。庭に這い出して来る青大将を崖の石垣か何かに追い込み、再び出て来ないように線香を家族に立てさせ、自分は昼寝をつづけようとする。暑い、ものうい夏の一日である。日常生活の瑣末事ともいうべきものがほとんど無感動な、無愛想な表情で歌われている作品であるが、読後、それだけで終らないものが胸にからむように残る。重苦しいその感情は何であろうか。索漠とした生を重ねる事を知る焦燥感のようなものだろうか。「ともしき朝水を風呂に汲みつくす水道技師も罷められたらし」「借り家のさ庭の植木かげを疎(あら)みからび果てたる苔もすべなし」等の歌と並ぶ、「銷夏雑詠」と題した作品の中の一首である。

(つづく)

友死にて夜半(よは)にきこゆる鳥がねは子供の時の如くに寂しき             (昭和二年)

友の一人の死を知った夜半、ふと空を渡る鳥の声が聞こえて来る。その声が遠い子供の日のように今自分には寂しく思われる。夜半に鳴いている鳥は何であろう。五位さぎかなにかだろうか。又、死んだ友とはだれの事だろうか。この年の七月二十四日、田端の家で自殺した芥川竜之介の事を指しているのであろうか。
「死ぬとふことを思へば夜ふけて幼児の如くわれおそれ居き」「やぶからし茂り荒々し朝(あした)より暑き荼毘所に余熱(ほとほり)のして」などの作があとにつづいている。また「人々の喪に」と題したこれらの作品のすぐ前には、「姑の訃に故里にかへりて」という、同じように人の死を歌った一連の作品が並ぶ。芥川竜之介の自殺したことはこの年には、「アララギ」のかっての同人古泉千樫も死んでいる。島木赤彦が死んだのは一年前である。「死」という事への思いが、このころしきりに彼の作品に歌われて行く。

今日もまた昼寝つづけつ午後となり人とぶらひに出(い)でゆかんとす            (昭和二年)

前に記した歌と共に「人々の喪に」という題の作品の中の一首であり、その背後に昭和二年七月に自殺した旧友芥川竜之介のこと、および翌八月十一日死去した古泉千樫の事があったと考えてよい。
暑さのつづく夏の日、今日もまた昼寝をしたあと、ものうい、何故となく疲れたような思いをだきながら旧友の告別式に出かけて行く…そういう意味の歌なのであろう。「死」にたいしていだく哀傷とか感傷とかのようなものと無縁な、一見無感動ともいえる発想で歌われた作品でありながら、その奥に、何か悽然とした作者の心の世界を感じさせるのは、一首のきびしい現実感のためなのであろう。
この年に台湾銀行の取付問題から金融恐慌が生じた。思想の嵐が日本をゆるがしていた。そのような時代を背景とした作品である事も考えるべきである。

(つづき)

地震すぎて衢(ちまた)の上にありきとふ醜(みにく)き死(しに)を思ひつつ寝る      (昭和三年)

地震がすぎたあと、街上に死者がみにくく横たわっていた…そういう話を何故となく心にとめて寝ようとする。自分にとって今関わりのない死である。しかしその関わりもない死の事が眠るまで心を離れない。
「春のゆき夏来る」と題する作品の一首。「池鯉のここだく死にて浮べるは雪代水にうたれしならむ」「春の水みなぎらひつつゆく時に死にたる鯉はかたよせられぬ」「汗ばみて夜中の地震(なゐ)に覚(おどろ)きし吾は宿屋にとまり居しなり」「面倒を言ひつづけ居りし午(ひる)すぎは思ひつきたる胃の薬のむ」「戸を閉めて物の香こもる宵ころを下水にあつまる蛙うるさき」などという歌が前後に並んでいる。すべて、重苦しい思いを突き離したような言葉で歌った作品である。三・一五事件で共産党の大弾圧があり、治安維持法が改悪され、戦争につづく暗い時代が迫ろうとしていた。そのような日の、一人の市民の心の独白ともいえよう。

大川は水上(みなかみ)ながら夕しほのこの水門に来たりいきほふ             (昭和三年)

大川と云うのは、この歌では東京の隅田川のことを指している。その水上の水門のあたりまで河口から海の夕潮がさかのぼって来て、あらあらし逆流の波をあげている。そうした情景の作品なのであろう。題材の中心となっている水門は新荒川大橋という、赤羽から川口市の方にむかう橋の下流に見えているものであろう。その水門で調節されて上流の水は隅田川と荒川方水路とに流される。東京附近ではいくらか珍しい、広茫とした風景の一劃である。
「水上ながら夕しほの」とか、「この水門に来りいきほふ」とかいう、行きとどいた、無駄のない表現技巧にこの歌の場合も注意すべきである。そうした技巧の上に立つ清潔な抒情の世界を味わうべきである。このような清新な叙景詩も『往還集』の中に決して少なくはない。「水の上はさへぎりもなき山彦は鉄の扉のひとところより」「さし来る夕ぐれ潮に水門を漕ぎ去(い)にし人は草がくれたり」などの歌があとに並んでいる。

(つづく)

遠々(とほどほ)と来て診(み)たまへる君がまへにくどくどと病(やまひ)を云ふ父を聞く   (昭和四年)

遠いところからわざわざ来て診察してくれる君を前にして、おろかな言葉で、いつまでもくどくどと自分の病気のことを訴えている父の声を聞いている。そのみにくい病床の父を自分は見守っている、という意味の一首である。死を前にした父を、作者はここでも突き離したような目で見詰め、一片の感傷をまじえないきびしい態度で歌っている。非常のリアリズムは父の病床の辺でも持し貫かれている。しかしそのために深い人間の悲しみのようなものが作品の奥から浮び上る。憎しみとさげすみの奥に、逃れ得ない血縁の関わりを知る愛情ともいえよう。
作者の父は事業に失敗した後、故郷の村を捨て、東京の下町の一隅の「震災バラック」で年老い、病床に臥していた。「親しからぬ父と子にして過ぎて来ぬ白き胸毛を今日は手ふれぬ」「病む父がさしのべし手はよごれたり鍍金(めつき)指輪ぞ吾が目にはつく」などと同時に作られている。

父死ぬる家にはらから集りておそ午時(ひるどき)に塩鮭を焼く                (昭和四年)

死が迫ろうとして病床に父は昏睡をつづけている。貧しい東京下町の震災パラックである。その家に兄弟たちは集ってくる。みな、それぞれの生活にかかずらい、平常は会うこともない兄弟たちである。父の命終を待っている彼らは、塩鮭を焼きながらおそい昼餉をとろうとする。たがいに妻子を持ち、異なった半生を離ればなれに生きて来た兄弟らは今何を語り合おうとしているのであろう。「六月二十六日」と題した作品。夏の近づこうとする、むしろあつい空梅雨のつづく季節なのであろうか。
「むれくさき塩引きの香のただよひてわが生ひ立ちの日を思はしむ」「かぜひきて食欲のなき夕食に塩鮭を買ひ焼くをたのしむ」などと、彼は幾度か塩鮭のことを歌にしている。生い立ちの思い出のまつわる、わびしい食物なのであろう。「酔ひしれてかへり来りし暁に仏のふみよむ何故(なにゆゑ)となく」という歌が同じ時に作られている。

『往還集』はこれで終り次は『山谷集』となります

(つづく)

『山谷集』より

代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき                  (昭和五年)

代々木野とは東京渋谷の代々木練兵場のこと。その練兵場の草原で、朝早く騎兵の一隊が演習をしている。馬をつらねながら一心な表情で訓練をうけている、みな若い、少年のような騎兵たちなのであろう。それを見ながら、作者は「戦争」ということを考えている。彼らの真剣な訓練は「戦争」と云う目的一つのためである。だが、「戦争」とは一体何なのであろう。
昭和五年という時点で、この土屋文明の、「戦争といふは涙ぐましき」と歌った言葉の意味は「アララギ」の彼の周辺でさえ理解されなかったらしい。ある歌会の席上で同人の一人高田浪吉が「こんな弱い心持ではいけない」などといった批評をし、それに文明が反論した文章が書かれている(「アララギ」昭和六年四月号「高田波吉氏の歌評に就いて」)。その翌年に満州事変がはじまる。やがて幾百万の日本の青年たちを死に追いやった戦争のかげが、すでにこの歌に不安な予感のように呟かれている。  

暑き夜をふかして一人ありにしか板縁の上に吾は目覚めぬ                  (昭和五年)

「八月十六日」と題する作品。この一首は次の歌などと共に連作として味わうべきものなのであろう。「見覚めたる暁がたの光にはほそほそ虧けて月の寂けき」「ふるさとの盆も今夜(こよひ)はすみぬらむあはれ様々に人は過ぎにし」「暁の月の光に思ひいづるいとはし人も死にて恋しき」「有りありて吾は思はざりき暁の月のしづかにて父のこと祖父のこと」「空しらみ屋根の下なる月かげや死のやすけさも思ふ日あらむ」「たわやすく吾が目の前に死にゆきし自動車事故も心ゆくらし」「安らかに月光させる吾が体おのづから感ず屍のごと」「争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ」。
暑い夏の夜、ひとりまどろんでいた板縁の上に眼覚める。空にはあけがたの月がほそぼそとかかっている。今日はふるさとの盆の夜だったのだ。それからひろがって行くさまざまな思い…とりわけて人の「死」の思い。それが主題となって行く一連の人生詩である。

地下道を上り来たりて雨のふる薄明の街に時の感じなし                    (昭和六年)

「三月三十一日」と題した一連の中の作品。地下鉄道の階段を上って舗道に出たのであろう。薄明りの空にはいつかこまかな、霧のような雨が降りしきっている。空しい、何か時間の感じが失われたような都会の夕昏のひとときである。そうした感情がいくらか素気ない表現によって歌われている。都会生活者の孤独な感情である。
「ふりいでし雨の中には春雨とは吾にはうとき言葉と思ふ」「三月尽くらむ今日を感じ居り学校教師となりて長きかな」などの作品も同時に作られ、同じような索漠とした心の世界が呟かれている。
こうした歌集の背後に、満州事変発生前のうっとおしい時代のかげが感じられる。昭和四年の不況の日からそのままにつづく時代である。
満州事変は昭和六年の夏に生じた。その日から昭和二十年の敗戦まで、長い戦争の時代を彼もまた生きて行く。

物食ふは吾に楽しき血を瀉(くだ)し死にたる友の百か日頃か今日は            (昭和六年)

血をくだして死んだ一人の友の死のことをとりとめもなく思いながら食事をしている。それkだけの事の歌われた作品である。しかしそれだけとはいえないものが作品の奥にある。「物食ふは吾に楽しき」という言葉にまつわる生々しい人間の体臭である。それを受けて「血を瀉(くだ)し」死んだ友という、強い現実感をともなった表現がつづく。そうして、その友の死の「百ヶ日頃か今日は」という、突き離したような冷たい感慨が最後に呟かれる。作品の奥にあるものは人間の「死」を対称とした「生」への暑苦しい執着ともいうべきものなのだろうか。非常な表現の中に虚無感のようなものが包まれている、ともいえよう。
「地下道を上り下りて雨のふる薄明の街に時のかんじなし」「細々とふるは三月の雨ながら寒き夕風のあらあらしけれ」「打ちかへし靴底そぐは舗道ゆき何をか吾の食はむとすらむ」などという作品が同時に作られている。

(つづく)

力及ばぬ過ぎにし世をばなげき来ぬ吾が父も吾もわが子等はいかに          (昭和六年)

無力であった、過ぎ去った日々だけをなげきながら生きて来た。自分の父も、自分も又そうであった。そうして、自分の子供たちの生涯はどうなのであろう。彼らも又同じように生きて行くことの無力さをあきらめながら一生を終えるのであろうか。そうではなく、未来の日に、彼ら自身の運命を切りひらいて行くのであろうか。
「己が生(よ)をなげきて言ひし涙には亡き父のただひたすらかなし」「幼きより朗けき世を知らず来て子供に向う時にけはしく」「堪へしのび行く生を子等に吾はねがふ妻の望みは同じからざらむ」「うつりはげしき思想につきて進めざりし寂しき心言ふ時もあらむ」などという作品が連作のかたちで前後に並んでいる。「力及ばぬ過ぎにし世」という考えは彼の作品中に底流するように、このころからしきりに歌い繰り返されて行く。それがあるときはひそかな怒りとなり、或る時は消極の保身の姿勢をとって行くのである。 

新しき国の主(あるじ)にゆく人の紅よそほしく立つとふラヂオ                (昭和七年)

満州を武力侵略した日本の軍部および政治家たちは昭和七年三月「満州国」を中華民国から独立させ、清朝の最後の皇帝溥儀を執政に押し立てた。天津にかくれ住んでいた廃帝は日本人たちにともなわれて新しい国都「新京」にむかった。その時のことを歌った作品なのであろう。「紅よそほしく」という言葉が私にはいくらか分りにくいが、執政溥儀の化粧の事だろう。しかし、そうした作品の事実を別にして、私たちは一首の間に漂うものを読み取る事は出来よう。歴史と人間の運命との底に流れる悲劇の音楽のようなものを、作品全体の声調の中に聞きとめればよいであろう。「目の前に亡ぶる興る国は見ぬ人の命のあまたはかなき」「新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな」などという歌がこの時に作くられている。「亡ぶるよりもあはれなるかな」と昭和七年に文明が歌った「満州国」は、昭和二十年に日本の敗戦とともに消滅し去った。「執政」の運命も同様である。

(つづく)

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町(しじつちやう)夜ならむとす        (昭和八年)

「城東区」と題した連作の中の一首。「短歌研究」昭和八年新年号に発表された作品だから実際につくられたのはその前年である。東京が周辺地区を併合した事を記念して歌壇作者たちの競作をこころみた時の作品であった。城東区もその時に編入された新市内の地区である。低い埋立地の町に、うすよごれたトタン屋根の中小工場の寄り会う風景は、そのころも今もあまり変わっていない。そうした小工場のひとつから、しきりに青い酸素溶接の光がひらめき立っているのであろう。砂町は東京湾につづく城東区の一地劃の地名。夜は遠い海の方から昏れようとしている。「木場すぎて荒き道路は踏み切りゆく貨物専用線又城東電車」「夕靄は唯とどろきてうなり立つ蒸気ハンマーの音単調に」「松のある江戸川区よりくれゆきて白々広し放水路口」など、同じ連作中の作である。この一連は発表された時、大胆な即物的表現のためさまざまな批評を呼んだ。新しい開拓の世界だった。

横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ              (昭和八年)

「鶴見臨港鉄道」と題した連作の中の歌。横須賀軍港で軍艦などを見、戦争が機械化されて行くきびしさを今更のように知ったことがある。その戦争機械化の事実の前に、人間一人の存在というものがどのように微小なものに思えただろう。そうして今、自分は鶴見埠頭に来て立って居る。埠頭には大工場が並び、クレーンの音が重々と響きあっている。かつて横須賀軍港で見たときより以上に、ここで個人の存在を思うことは陰惨でさえある。そういう意味の作品であろう。
「吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は」「無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ」などという作が前後に並んでいる。即物的表現という意味では前の「城東区」の連作よりさらに一歩前に出たものであろう。あらあらしい歌い方が、歌われている素材と内容とにふさわしい。

(つづく)

夕雲に青清山(あをすがやま)の見えにしをいづくの山と夜半(よは)に思ひつ       (昭和八年)

夕雲にたなびく雲の上に、ふと青い清らかな山の形が見えていた。あの遠い美しい山は一体どこの山だったのであろう。夜中に眼ざめて、ひとりそのような事を思っている。「吉野上市」と題する作品。上市は奈良県の吉野川上流にある地名。その付近に古代の吉野離宮のあとなどがあり、土屋文明はしばしば訪れている。もっとも彼は万葉時代の天皇らの行幸した離宮の地を通説の場所より下流に想定している。いずれにせよその万葉のあとをたずねての旅の時の作なのであろう。簡素な、すがすがしいこの自然詠は私のひそかな愛誦歌の一つでもある。「くもり夜の月あるごとく思ほゆれしらじらとして川遠くゆく」という歌が同じ旅の日に作られている。
『山谷集』の中にもこのような自然詠は決して少なくはない。『ふゆくさ』から一貫して文明作品に底流する清冽な抒情世界のうたである。

人よりも忍ぶをただに頼みとすわが生(よ)ぞさびし子と歩みつつ               (昭和九年)

一首の意味はほとんど解く要はないであろう。たれよりも物事に耐えしのび得ることだけを頼りにして生きて来た半生であった。子供と歩みながらその半生にふと寂しさが湧いて来る、という気持なのであろう。わびしい小市民の感慨である。「気力なきわが利己心はいつよりかささやかにしのび身を守り来し」と云う同じ心境の歌が並び、又、「弟の死にたるも遂に見ざりしが今夜の夜半に思ひかなしも」「蘭が欲しと病の如くきざすだにあはれ衰ふる吾の意欲か」「夕ぐれてかをりをさまる蘭あれば吾はわが家を出でず居るべし」などという作品がその前後の時期に作りつづけられている。昭和九年は土屋文明四十五歳の年。満州国の殖民地建設とともにファシズムの暗いかげがしだいに日本を覆おうとしていた。そうして同じ時期に、遠いヨーロッパでもヒットラーが総統に就任、全欧州に戦争の到来の恐怖がひろがり出していた。そのような時代の中の作品である。

(つづく)

柵あり牧舎あり烏なきて声はこだまに帰ることなし                        (昭和九年)

海につづくゆるやかな牧場の丘陵の風景である。放牧の柵が立ち、牧舎が建ち、どこかで烏が鳴いている。はるかな海にむかって消えて行く声が、こだまとなって帰らない。北海道の根室での作品。淡い霧の絶えずただよう海のはてには択捉島も見えているのであろう。「納沙布(のさつぷ)の岬の方は低くして海が見え択捉(えとらふ)の島が淡々と見ゆ」「きこえ居るうしの幾つかの長きこゑ丘を渡りつつ海の上に消ゆ」「草の葉は照る日鮮かにそよぎつつ吹きゆく霧の粗きを感ず」「吹く霧は水滴あらく吹き居りて牧場の丘のとほくまで見ゆ」などという作品が並んでいて、その広茫としたさいはての地の情景を私たちの閉じた眼に思いうかばせてくれる。
土屋文明は『山谷集』の時期に昭和五年と九年とに二度北海道旅行を行っている。そのいずれにも数多いすぐれた叙景作品が作られているが、なかでも「根室港」と題する前掲の作品群が、異郷の旅の感傷をたたえて美しい。

切株の高き新墾(あらき)に朝居りき父と子見ればあはれなるもの                (昭和九年)

前の歌同様に「北海道雑詠」の大連作中の一首。北端の港町、稚内にむかう旅の途中の作品なのであろう。列車は朝の原始林の中の、まだ新しい開墾地を縫って北にむかう。開墾地の畑の高い切株の間に父と子が二人だけ鍬を振っている姿を見ることもある。それが何かあわれに感じられる。しかしそうした情景も、たちまち車窓に過ぎてしまう。
「石狩の国の夕映はてしなく天塩の国をこころざしゆく」「入日さしかがやく雲にふかぶかとみゆる碧(みどり)も心ひくべし」「ほのぼのと朝あけゆきて水を見ぬ天塩の川か海かとも思ふ」などという歌がつづき、列車は稚内につく。「稚内港に汽車はてたれば下り立ちぬ次の汽車にてかへる吾等も」「町を出でてなほ広々とゆく道のはてむ岬は朝霧らひたり」「軍用の山の麓を引きかへし朝の市場にしじみ売りて居り」などが稚内の町での作である。どの歌にもしずかな旅愁がまつわり漂っている。

(つづく)

『六月風』より

背くものは九族をつくして軍の統制を保ちし世さへありにけるもの                (昭和十年)

九族とは高祖、曾祖、祖父、父母、自己、子、孫、曾孫、玄孫を指すともいい、又父族四人、母族三人、妻族二人を指すともいう。裏切りそむくものはその血縁のすべてを殺戮して、戦争のため、軍の統制を保った世さえあったものだ、という作品の大意である。「銷夏読戦史」と題する一連の中の歌であり、具体的にその読んだ戦史が何であったかわからないが、戦国末期、信長、秀吉らの制覇の時代が主題となっているのであろう。「一瞬に移る戦機を或る者は見或る者は見ずしてこと定りぬ」「援兵の請をしりぞけ己が最後の戦(いくさ)を待てり甲斐の老将は」などという歌があとにつづく。土屋文明がそのころしきりに戦史類を読んでいた事を私も知っているが、この歌を単なる銷夏のひまの愚作だとは思わない。彼が作品の中にひそませて歌っているものは戦争前夜という時代に対する感慨である。永田事件が生じたのは昭和十年の夏。陸軍の一将校が軍務局長を白昼斬殺した。それはこの作品が作られた時期と重なる筈である。

まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに  (昭和十年)

「某日某学園にて」と云う連作の中の一首。一人の少女が、素直な、純粋が気持ちのまま新しい未来の世界を夢見、思想運動の世界の中に身を投じて行った。非合法の、マルキシズムの世界だったのだろう。そのはてに彼女はとらえられ、獄死した。五年ほどのあいだであったのだ。作品の大意はそういう事なのである。そうして、文明が「まをとめ」と歌うこの少女は、彼が上諏訪の女学校の教師をしていたころの教え子だったという事も、連作の他の作品から知り得る。清純な魂ゆえに世の不正を怒り、思想犯の名のもとに獄につながれて行った青年たちを、彼は無数に周囲に見ていたのであろう。そのひそかな悲しみが共感と共に歌われた作品である。しかしそのことより大切な問題は、「某日某学園にて」という一連の歌が、昭和十年に作られているという事である。官憲の弾圧下に、マルキシズムが息をひそめてしまっていた日に歌われた作品であるという事である。

(つづく)
 
赤熱(しゃくねつ)の鉄とりてローラーに送る作業リズムなく深き息づき聞ゆ         (昭和十一年)

製鉄所の溶鉱炉の前の作業の情景なのであろう。炉からとけ流れ出る赤熱の鉄をとってはローラーに送る作業が、まるでリズムのないように重々としてつづけられる。その作業の中に、深い息づきが聞えくるようである。黙々と働く裸体の男らに溶鉄の光がてりつけ、それは息づまるような労働の雰囲気である。そうした世界の中から土屋文明は自分の感動を歌おうとする。「走り来る丸鋼の赤く焼けし残像がまたよみがへるごとし今宵も」「引きずり出す鉄板の見る見る黒く冷えゆくをたたき折りぬ」などの作が同時に作られている。このような生産の世界…とりわけて近代重工業の世界を歌にした歌人は文明が最初であった。
しかし、彼がそれよりはるかに数多く歌う農業生産の世界の場合と比較して、一つだけ大きな相違がある事も感じられる。ここではほとんど人間が歌われていないという事である。彼は巨大な、非情な世界を前に息を呑んで立っているだけである。

大陸主義民族主義みな語調よかりき呆然として昨夜(きぞ)は聞きたり           (昭和十一年)

一人男が来て、昂然と時代を論じて行った。大陸主義とか民族主義とか、すべて語調のよい、いさぎよい言葉ばかりである。しかし其のことばの奥にある、何というむなしい思想なのであろう。それを気押されるような思いで、昨夜自分は呆然と聞いてしまっていた。そういう意味であろう。あるいはこの解釈を、作者がどこかによばれて時局講演か何かを聞かされたという風にしてとって見てもよい。自嘲をまじえたひそかな一人の忿怒が呟きのように語られている。四十六歳の大学教師土屋文明の作品である。「交りはいよいよ狭くなり来りこもりて怒る家人のまへに」の一首がすぐ前にある。
この年に二・二六事件があり右翼青年将校の一群がクーデターを企てた。クーデターは失敗したが日本は一途ファシズムへの道をあゆみつづけた。空虚な呼号のみに覆われた狂気の日が来ていたのである。

(つづく)

降る雪を鋼条(こうでう)をもて守りたり清(すが)しとを見むただに見てすぎむ吾等は  (昭和十二年)

この歌の背後にあるものは昭和十一年二月二十六日の、二・二六事件と云われている青年将校らの右翼小革命の一事件である。その朝東京には深い雪が降りつもっていた。兵をひきい重臣らを暗殺し、日比谷の一帯を武力占領した彼らと、彼らを反乱軍とよぶ政府部隊とは相対峙し、鉄条網をはり、銃剣をかまえて市民の通行を遮断した。そのひそかな雪の街を、清しとだけ今見ていよう。ただそう見て過ぎさろう、自分たち市民は。そういう風に解釈すべき歌の意味なのであろう。結句は無論反語として語られており、激しい忿怒がこめられている筈である。「よろふなき翁を一人刺さむとて勢をひきゐて横行(わうかう)せり」
「話すみし電話にはげしく聞え来ぬ今日をいきどほり言へる君が息」という歌が同時にあるが、「よろふなき」の歌は「六月風」には省略されている。電話でいきどおって居る声の主は斎藤茂吉だろうか。私は何となく今までそう考えて読んでいたのだが。

上海を気づかふ吾等のラヂオの前柔毛(にこげ)汗あゆる西洋婦人             (昭和十二年)

「金剛山数日」と題する一群の作品の中の一首。朝鮮の金剛山で行われた歌会のあと、彼はその主峰を越え、内金剛に下って長安ホテルに一泊した。五味保義、土屋夏実及び筆者らが同行した。そのホテルの夕食後のロビーのラジオの前で、上海事件の発生をつげるラジオ放送を聞いた。勢いこんだアナウンサーの声の伝わるロビーのラジオの籐椅子に、外人の避暑客らは豊な体臭をただよわせながら思い思いの姿勢に凭れていた。大陸にひらがろうとする戦争は、まだかれらには関わりはなかったのであろう。そのときの作品である。戦争拡大を憂慮する複雑な思いが、異郷のホテルの雰囲気とともに重苦しく歌い出されている。
「異国の人は眠のまどかにて或る部屋は扉ひらき白きベッドみゆ」「さ夜中と澄む天の川松の間に癒えし吾が子とならび寝るかも」の二首がその後に並ぶ。多彩な金剛山連作の最後をかざる作品である。

(つづく)

興亡は潮のごとく国ありき名をうしなひて群がる古墳(ふるつか)              (昭和十二年)

昭和十二年八月、朝鮮の金剛山で開かれた歌会に出掛けたとき、土屋文明は慶州をも訪れた。慶州は新羅王朝の古都の地。新羅は四世紀から十世紀にかけて栄えた朝鮮半島南部の一王国である。この歌はその時の作である。
歴史の興亡はあたかも潮のように、さし満ちて来、たちあちに引き去って行く。その歴史の中に国のつかのまの隆昌と衰滅とがあったのだ。国が亡び、そのあとにたれの墓とも知れない無数の古墳が、いたずらに草に埋れながらむらがっている。かって権勢をほしいままにした王たち、貴族たちの墓のあとなのであろう。そういう意味の作品である。ここにもほそかに作者自身の歴史に対する感慨が歌われている。それは同時に今の時代をも深い眼で見詰め、歌っている事なのであろう。「古墓の木戸開く手に銭を受く亡びし民か亡ぼしし民か」などの作が同じ旅の日に作られてりる。

『小安集』より

人すてて去りたる炎守りつつ時ありき潮(しほ)の高くなるまで               (昭和十三年)

磯の岩の上に、たれかが焚火をしていた。その男が残して立ち去った炎を守りながらしばらくうずくまっている。曇りのふかい冬の海べなのであろう。いつの間にか岩によせる潮も高くなっていた。そういう意味の歌である。「十二月某日」と題する『少安集』の巻頭の一連の作品の中の一首。孤独感ともいうべきものが重々しい抑揚で歌い出されている。
「黒ずみてふかき陰もつ黄土(はに)の崩れ曇はなべて海陸(うみくが)のうへに」「大きなる崩れの上の小竹(ささ)の葉のなびかふ辺より陰はふかしも」「岩の間に小さき炎人去れば見つつ居りたる吾よりゆきぬ」「火をまもり渚にひろふ芥よりある時の香(か)は幼き記憶にかよふ」「いく人(たり)かかげさして人の過ぎたりと思ふ心の乱ることなし」「砂つみて去りゆく舟の上にして炎は人の間よりみゆ」などの、格調の高い、情感の深い作品が同じ一連の中に並んでいる。彼の作品はこのころから目だって重厚なものを加えて行く。



桂の葉吹かれてふたつ空にあり黄にひるがへる伴ふがごと                (昭和十三年)

谷の空に、桂の落葉が風に吹かれて漂っているのであろう。今二枚の落葉が、あたかも相呼ぶように、相ともなうように明るい秋の光に黄にひるがえっている。清澄な作品である。
桂は山地に自生する落葉喬木。その葉は広卵形をしている。「桂黄葉」と題する歌。「いづくにかよせむ思を歩み来てこの長谷(ながたに)の立つ岩の前」「巌には夕べと思ふかげくらし昼なかばなる天(あめ)の光に」「虫が哭(ね)は夜なく虫のこゑにしてひるの光にとぎ澄まし鳴く」「さはさはに靡くいはほの上にしも木草(きくさ)の色のはやひとつならず」などの作品が並んでいる。いずれも均整のとれた、古典的な格調をもった歌である。表現は細部まで繊細な神経が行きとどき、余剰の枝葉をとどめない。その清潔さは同時代の歌人中にほとんど類を見ないほどだともいえる。土屋文明の作品を論ずる場合、この精緻な表現技巧の一面がとかく忘れられがちである。一首の完成のための深い用意が見逃されがちである。彼の短歌には数学者の計算がある。

(つづく)

病みて死にし助手の君らは数ならず彼等が二年前の物言ひを見よ          (昭和十三年)

「解良富太郎歌集によせて」と題された作品。解良富太郎というのは若いアララギ派歌人の一人で大学の助手か何かをしていたが早く死んだ。その遺歌集のための作品であろう。若いその当時の知識階級の一人として、青年もまた思想の苦しみを味っていた。マルキシズムを一度通過して来た純粋な学徒だったのであろう。世をあげて移るファシズムの思潮の中に、彼は自分の言葉におびえ、その悲しみを歌によみすがって生きて来ていた。
しかし君らの言葉などは物の数ではない。彼らを見よ。彼らの二年前の言葉と今日のしらじらしい変説とを見よ。世にこび、時代にこび、国家革新を叫ぶ彼ら大学教授らの厚顔と無恥とを見よ…そういう意味の作品であろう。彼らとはいちはやく時代の波にのる世の学者ら、教授らの事であるのは無論である。「説を更へ地位を保たむ苦しみは君知らざらむ助手にて死ねば」のすぐあとの一首がこの歌の理解を助けてくれる。

砂曇沖(すなくもりおき)とほくいでて吹くかれ居りわが立つなぎさただに澄みつつ  (昭和十四年)

風の吹き上げる海浜の砂が、遠い沖まで暗い鉛色に覆いなびいている。しかも自分の立っているなぎさの空は澄み切っている。眼前の海は冬の太平洋なのであろう。荒涼とした風景の歌いとられた一首である。
この歌は「虎見崎」と云う連作の中の作品である。虎見崎は九十九里浜から見える岬の名。伊藤左千夫に「天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り」「春の海の西日にきらふ遙かにし虎見が崎は雲となびけり」などという歌があり、それを意識において詠まれた歌なのであろう。「遙かにし靡(な)み伏す低き国の崎(さき)海につきむと水くぐり見ゆ」「国の上に光はひくく億劫に湧き来る波のつひにくらしも」「たのまきはる君がよは知らず立ちかへりひとり声よぶ枯草の崎」などの作品が前後につづいている。その一首一首、重く沈んだ詩情が、格調の高い表現で歌い出されている。

(つづく)

松脂(まつやに)のしたたりはやく止(や)むことをいきどほりつつ人の働く        (昭和十四年)

松の樹幹に、斜めに傷をつけて滲みしたたる樹脂を容器にうける。集めた樹脂はテレピン油などに精製する。しかし、そのようにして採取し得る量はごくわずかなものである。それをいきどおりながら人は働いている。「八月十六日伊良湖」と題する作品。伊良湖は愛知県渥美半島の突端の岬の地名である。文明は万葉地理研究の旅をつづけてこの地をも訪ねていたのであろう。「神島はけはしく陰(かげ)の強ければ畑の見ゆるところ親しも」「いのち惜しみなげきていにしへの王(おほきみ)の山松のこりたり」「松山にほてりし幹を傷けてしたたり乏し受けたる見れば」などの歌が同時につくられている。
昭和十四年はすでに大陸戦線の膠着状態となっていた時代である。それと共に物資も乏しくなり、乏しい物資を集めて日本の為政者らは軍需生産の拡大に狂奔した。松脂採取なども苦しい銃後の生産と関わりがあるのだろう。そうした一時代を背後にしている作品である。

意地悪と卑下をこの母に遺伝して一族ひそかに拾ひあへるかも               (昭和十五年)

死んだ母の骨を兄弟たちが集って拾っている。火葬場の状景なのであろう。黙々と灰の中の骨を拾う兄弟のたれも、この母に「意地悪と卑下」の性質だけを遺伝されて生きて来ているのだ。みな貧しい日本の農民の女の子供たちなのである。
「擬輓一連」と題する作品の中の一首。十五年一月に発表されているから製作はその前年である。「この母を母として来たるところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして」「年若き父を三人目の夫として来たりしことを吾は知るのみ」「父の後寛(ゆた)かに十年ながらへて父をいひいづることも稀なりき」「この母あり父ありて吾ぞありたりし亢(たか)ぶり思ふべきことにもあらじ」「吾を待ち待ちつつ言(こと)に言はざれば待ち得て次の夜(よる)にむなしも」「葡萄をばよろこびとりて惜しみつつ西瓜おきたるを長くと思ひき」「枕なほれば歌をえらみて夜(よ)を通す弟三人酔ふにもあらず」などの作が並ぶ。冷厳な写実の奥に中年の作者の人生の感慨が揺曳している。

(つづく)

痛みあり触れしめぬ左手も柔かに終りしさまを来りて見つつ                  (昭和十五年)

さわれば痛むため自分には触れさせなかった左手も、今は柔らかになり安らかに死の床についている伯母である。それを来て見守っている。「伯母のぶ」という作品。
土屋文明は幼いころ一時、伯父夫妻の家に引きとられ養育されたことがあった。弟が生まれ、糸繰りに忙しい母の手を省くためだったという。伯父たちは両親以上に彼を愛してくれた。その伯母の事なのであろう。「触れしめぬ左手」という言葉の中には、遠い幼い日の思い出が畳みこまれているのであろう。それが、「柔らかに終りし」という風につづく表現のあたりに、血の通うような愛情の実感がただよう。「吾がためにありし尊き幾人(いくたり)かの一人の命今日ぞ過ぎ去(ゆ)く」「この病める腕(かひな)も未だ若くしてはぐくまれし幼き日ぞかへり来る」「右乳の下を撫でよと吾に言ふ吾は撫づ五つ頃の心になりて」などと歌う作者は五十一歳。肉親の死にも、淡い悲しみをいだくだけとなった年齢である。

骨多き魚(いを)になづみて箸をふるふ燭(しょく)の短くなりゆく時に             (昭和十六年)

燭と云うのは蝋燭のことを指しているのであろう。しだいに短くなり、炎の赤くゆらぎ始めている蝋燭の光の下で、多い小骨を箸でとりのぞきながら魚を食っている。貧しい漁村の旅館の食事なのであろうか。『少安集』に「き旅五十三首」として出ている中の作品であるが、自選歌集「ゆづる葉の下」では能登岬の歌である事が記されている。この時期にしきりにつづけていた万葉紀行の旅のあるときである。その前に「物乏しき国を来たりて踏むものか夕べかげ立てる空地の冬くさ」などという作もある。陰鬱な北国の冬を背景にした孤独な旅行者の言葉であるが、作品の暗い、重苦しい雰囲気は旅の地の風景だけのためではあるまい。大陸の戦争もすでに足掛け五年。非常時の呼号を聞きながら民衆は乏しい食生活に耐えていた。米の供出と切符制とが前年に制定されている。そのような戦争の時代のかげがこの一首をも覆い包んでいる事も感じる。

(つづく)

磯の上に鯨屠(ほふ)りてくれなゐに血ぬりしところ潮の近づく                 (昭和十六年)

前掲の作品と同じように「き旅(きりょ)五十三首」の連作の中の一首である。北陸の海岸であろう。磯の砂の上に屠ったばかりの鯨の血が赤く流れている。その近くまでいつか海の潮が満ちたかまり、打ち寄せて来ている情景を想像しよう。船影一つ見得ない日本海に、冬のくもりは鉛のように重く垂れているのであろう。悽然とした一首の世界は、そのまま作者の心の世界だったのかもしれない。
「波の来るしばしの間耕してすべりひゆの朱(あけ)の茎のこりたり」「国ひくく沈むが如く海に入るうらがれし草や冬萌ゆる草や」「一椀にも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも」「海の上に冬いなづまのしきりにて磯波くれし道は遠しも」などの作品が同じ一連として並んでいる。いずれも格調の高い、深い内容の歌である。文明文学には『六月風』と『少安集』との間に一つの断層と深化のある事を私は感じている。

幾年ぶりか歌を作りていで立ちき敵前上陸にはやく戦死す                   (昭和十六年)

召集令をうけ、戦地にむかって発つときに、幾年ぶりか、珍しく歌を作って送って来た一人の門人があった。それが間もなく戦死した。どこかの敵前上陸で戦死したのである。一首の意味はそれだけであるが、作者の感慨が短い、呟くようなこのことばの中に歌いこめられている。それはきっと妻も子もある、平凡な一人の小市民であり、平和な一生活者だったのであろう。幾年も歌を怠っていた理由も、その小さな、片隅の幸福な生活の安堵のためだったのであろう。戦争はそのような個人の運命を無惨に狂わせてしまう。幾万、幾十万の、たれにもかえり見られない悲劇の累積が戦争の真実である。それを悲しみ怒って文明は歌っているのであろう。「やさしかりし青年君のいで立ち永久(とは)なる国の命(いのち)をぞ生く」「諸人(もろびと)とぬかづく時も吾が目にはありありと見ゆ亡き友四人」などの歌が昭和十六年に作られている。太平洋戦争勃発の前である。

これで『少安集』は終り次は『山の間の霧』となります

(つづく)

『山の間の霧』より

事しあれば先ず閉づる艦の区劃(くくわく)にて君がなすことを君は語りき          (昭和十七年)

昭和十六年十二月八日、日本海軍は真珠湾を強襲、太平洋戦争の火ぶたが切られた。それにつづく一連の海戦を終えて帰って来た艦隊の士官の一人が、或る日作者を訪ねて来たのであろう。思いがけない訪問に青年は言葉少なく答えるだけである。話題が戦争の事になる。万一砲弾をうけてとき、浸水による沈没を防ぐため先ず艦内の区劃区劃を閉じなければならない。その閉ざされた持場の中で続けなければならない任務の事を静かに士官は語る。生死を超えた淡々とした言葉である。
「たかぶりし吾に応(いら)へも静かにて海のつとめに帰り給ひき」「恙(つつ)みなく帰るを待つと送る吾に否(いな)まず肯(うべな)はず行きし君はも」の二首が前後に並ぶ。青年は再び軍港に待機する自分の艦に帰って行く。そうして翌日はまたはるかな海洋の戦場にむかって発って行くのであろう。戦争の悲哀を深く包んだ作品である。

言ふよりは容易ならぬ道君立てば頭(かうべ)をふして吾は送らむ              (昭和十七年)

「南行を送る」と題した作品。前の歌と同じように、南方洋上の戦地に発って行く一人の友人のことを歌った作品なのであろう。別れを告げに来て、淡々とした言葉でこれからおもむく戦地の事を彼は口にする。しかしそれは、口でいうよりははるかに辛苦に満ちた任務であり道程である筈である。「頭をふして吾は送らむ」と作者は呟くように歌う。このようにして門出を送った青年たちのどれほどの数が、銃火の下に死し、無言の死者となって帰って来たのだろう。その悲しみが敬虔な思いと共に表現されている。
戦争中土屋文明は数多い戦争歌を作った。しかし、彼の戦争歌はほとんどこのように一人の人間の運命への関心を通して歌われていることに特長を持つ。その事が彼を最後まで狂信的な戦争賛美の御用歌人とはしなかったといえる。輝かしい緒戦の勝利を告げられ日に、文明は戦争の中の個人の生死を常に悲しみの眼で見詰め、歌っていた。

(つづく)

芝の上に子を抱く兵多くして君若ければこともなく見ゆ                     (昭和十八年)

召集令が来て日本人たちは次々に大陸と南方の島々の戦場にむかって発って行く。この歌もそのような或る時の応召兵らの姿なのであろう。一人の友人を作者は兵営に送って行く。練兵場の芝生には、在郷軍人服を着、祝出征のたすきをかけた新しい兵たちが、それぞれに吾が子を抱いて家族らと別れを惜しんでいる。一人一人明るい笑顔をうかべていても、心には泣きたいような複雑な思いを耐えているのであろう。その中で作者の見送る青年だけは、いつもと変わらない、こともない表情をしている。若いため、悲しみわかれるものもないためなのであろう。そのことが何かあわれである。
「送別二人」と題する作品。「雪のある山より春の時雨来て練兵場に皆傘を立つ」「いで行くに思ひ思ひのまどゐせり雨には妻と傘に入りたまへ」などの歌がつづく。鋭い焦点がそれぞれ歌うべき対象にむかって合わされている。

飛ぶ蜂はあざやかにとぶ見えて蜜柑の山の色づきそめつ                   (昭和十八年)

秋の蜜柑山の風景。あくまで澄み切った空の光の中に、あざやかな影となって飛び交っている蜂も見える。鮮明な印象の作品世界である。
「山辺の道」と題する連作の一首。「道の辺の勾(まがり)の岡をすぎゆきて衾田(ふすまだ)の陵(みささぎ)は松青き山」「しばし間を息(いこ)ふも汗は流れつつ要(かなめ)の秋芽朱ぞかがやく」「いにしへの長屋の原を見むとして山辺の上の道たどりゆく」「鳥が音(ね)は天のいづらそ引手山に秋づくははそ見すぐしかねつ」などの作品が相並んでいる。勾の岡、衾田の陵、長屋の原、引手山など、それぞれに万葉集にゆかりのある古い地名か地名のあとであり、山辺の道は大和の北部から南部に通う奈良盆地の東山添いの古道の名である。長屋原は奈良県山辺郡朝和村の地。土屋文明は昭和十八年十一月四日、その付近をたずね歩き『続万葉紀行』中の「引手山と長屋原」の一文を書いている。このころも彼は一人万葉地理調査の旅をつづけていた。

(つづく)

君の身は国の柱としづけるかまた飄々(へうへう)と帰りたまへよ             (昭和十九年)

「波多野土芝君」と題する作品。波多野土芝というのはアララギ会員の一人の名で船員であった。戦争と共に徴用された彼は、御用船か軍需輸送船の乗組員として、潜水艦の出没する南方海洋を休む間もなく航海し、そのあいまに原稿をたずさえて飄然とした姿を土屋文明の家にあらわしていた。しかしその快活な船員の青年も戦死した。戦争も末期に近づき、制海権を失った洋上の航海で、魚雷か何かの犠牲となったのであろう。君の体も、ついに国のみ柱として海の底にしずんだのであろうか。波多野土芝よ、又いつものように、思いがけない時に立ち現れるように、飄々とした姿で帰って来たまえよ。一首はそういう意味なのであろう。惻々とした悲しみが、死者にむかって呼びかけるような声で歌い出された作品である。
「波多野土芝いづくの海ぞ十度百度行き来せし海を帰り来ざるか」という歌がその前にある。この歌も同じように悲しい。

待ち待ちし工場の一日(ひとひ)母の知らぬバイトなどいふ語も覚え帰りぬ      (昭和十九年)

戦争がしだいに末期に近づき、学生らは次々に戦場に駆り出される。それと共に軍需工場への徴用も強化される。学徒動員として、女子学生らは学業を捨て、工場に配置されて行く。純情な少女らは、国のためと一途に信じて工場に通う日を待っている。はじめて通った工場で、バイトなどという、母の知らない言葉を覚えて生き生きとした表情で家に帰って来る。モンペをはき、セーラー服に防空頭巾を肩にかけた、空襲下の日本の少女らの、悲しい青春の姿である。バイトとは金属切削用の刃物工具の名。「二三日指にささりし切粉をば抜きすてて清々しく朝いで立つ」などという歌も同時に作られている。
昭和十九年は敗戦の前の年。その三月ごろから女子挺身隊、中学生の勤労動員などの制度が次々に実施され出した。七月にはサイパン島が陥落。心あるものは敗戦の日の来るのをすでに知り始めていた。そのような日の作品である。

これで『山の間の霧』は終り次は『韮菁集』です

(つづく)

『韮菁集(かいせいしゅう)』より

方を劃(くわく)す黄なる甍の幾百ぞ一団の釉(うはぐすり)熔けて沸(た)ぎらむとす  (昭和十九年)

昭和十九年七月六日、東京駅を発って大陸戦線視察の旅に出た土屋文明は朝鮮半島を経由して先ず北京に最初の旅装を解いた。盛夏の一日である。その時感動の作品。方を劃す、というのは旧王宮紫禁城の壮大な一劃の状景なのであろう。緑の老樹のあいだあいだに黄の釉の瓦屋根が幾百となくひろがりつづいている。その瓦の釉薬が、あたかも溶けてたぎるかのように夏の大陸の陽は炎々と降りそそいでいる。『韮菁集』巻頭の雄大な作品である。黄色の瓦は帝王の宮殿の象徴。樹々の緑と空の青さとの中に、その鮮やかな色彩は印象的である。
「紫禁城を除きて大方木立しげり青吹く桜門浮かぶ」「はていしなき青き国原四方を限り城門あり北京あり」「城門より遙かにしてなびく煙一つ風は通州に到るなるべし」などの作品がそのあとにつづく。同じように古都北京を正面から描き出した、対象にふさわしいスケールの短歌である。

園二つ荒れたる方に心寄せ泉を掬ふ日本の吾等                       (昭和十九年)

北京の城内かあるいはその近郊の、ふるい王宮の庭園をたずねたときの作品なのであろう。二つの庭園の一方の方がことに荒れて夏草が手入れされることもなく生い茂っている。その草の中に清らかな泉も湧いているのであろう。自分たち日本人が心を寄せて行くのは、むしろその荒廃した園の方である。そういう気持ちで歌われている作品なのであろう。
「浮びたる一片の紅に及かずとも力を集め雲に入る塔を起す」「泉の草夏に衰ふるありさまも小さき水田も心親しも」「園廃れかがやく丹青塔にあり辺(あたり)かまわず玉蜀黍きび栗を植う」などの前後の歌は同じ王園の事が歌われているのだろうか。この例歌にも見られるように、大陸の旅の作品には破調のものが多い。作者の気負いがその破調の中に感じられるほどである。その中で「園二つ」の歌は珍しく整い、静かな言葉で綴られている。静かな抒情感の漂う作品である。

(つづく)

煤(ばい)を挽くうさぎ馬も馬を追ふ者も洗はれて清々し雨後(あめあと)の今朝(けさ)  (昭和十九年)

煤とは石炭のことである。うさぎ馬はろばのこと。石炭をつんだ車をひくろばも、馬方も、いつもはよごれて黒い姿をしている。それが明け方の雨に洗われて、今朝すがすがと街につらなっている。明るい、まぶしいまでに澄み透った雨後の街である。
北京滞在中の作品の一首。異国の習俗に対する旅行者の感興が弾むような思いで歌われている。
土屋文明はこのほかにも、石炭を運ぶろばの事を何首か歌っている。その可憐な、いくらかユーモラスな姿に興味をいだいたのであろう。「うさぎ馬煤を車し来るなり煤より黒くして眼あるもの」「車よりこぼるる煤は煙に立ち鞭と声とは驢のしり打つ」などの北京での作品のほか、大同でも同じような街頭風景が歌われている。作者の中国に対する愛情のようなものがほのぼのと感じられる小品である。

乾きたる草野(くさの)に濁りまはる間(あひだ)列車とどまり減水を待つ         (昭和十九年)

七月の末、文明は北京を発って蒙疆の旅にむかった。まず張家口をめざした。これはその途上での作品である。列車ははてもない夏の草原を西北に向ってはしる。野のはてを激しい雷雨が過ぎ、川をあふれた雨水が、見るまにそれまで乾ききっていた草原を一面に漬して行く。その濁水の引くまで、しばらく汽車は停車をつづける。いかにも大陸らしい、茫々とした状景のひとときである。
「山下の県城めぐる雷雨の川高き濁りは火車をさへぎる」という一首がその前にあり、私たちの理解を助けてくれる。火車とは云うまでもなく汽車の事である。とどまる列車を下りて作者は草野の中に立つ。「止まれる列車を下り草村に蜜蜂を打つ支那少年と」「すばやく藁をかへして虫をとる少年白皙(はくせき)の面よごれたり」「雨すぎて蜜蜂ひそむ棗原甲虫一つ飛ぶ夕日の中に」などがこの時につくられている。

(つづく)

道のべに水わき流れえび棲ば心は和ぎて綏遠(すゐえん)にあり            (昭和十九年)

張家口、大同を過ぎ、文明は厚和に着く。そこはもはや内蒙古、綏遠省である。市街の道の辺に清らかな水が湧き、そこには小さな海老さえ游いでいる。そのような事も作者の感傷となる。はるか蒙古の地まで旅して来た事の感動である。
盛夏の八月ではあるが、朝々はシャツを着重ねなければならないほどに肌寒いのであろう。「鶏頭の朝々さゆる八月にシャツを重ね著て東京を思ふ」の一首がその前に並んでいる。
「なれて巻く朝の脚絆の整ふを喜びとして遠く到りぬ」「立秋の前の日の風野分だち幼児を毛布に包む婦人等」「西吹きし一日の後燕飛ばず綏遠鼓楼静まりて立つ」「澄みきはまり黒ずむまでの天の下花みな碧き陰山を越ゆ」「文化なき終に亡びし幾民族其の地に来り聞くは身にしむ」「蔵文の聖教一枚手にとりて又屋根土の落ちし上に置く」などの歌がこの地で作られている。いずれも旅愁の思いを濃く漂わせた集中の佳作である。

オルドスを来りし駱駝荷をおろし一つ箱舟の渡す時待つ                (昭和十九年)

オルドスは内蒙古南西の地名。高原の砂漠地帯である。その地方から駱駝を引いた隊商が黄河の岸までやって来る。岸に駱駝の荷をおろし、一団となってうずくまりまがら彼らは大河を渡る唯一艘だけの渡舟の着くのを待っている。このような状景を思いうかべてこの一首を味わえばよい。
「黄河の賦」という、二十四首からなる連作のなかの作品。『韮菁集』の中の、最もすぐれた部分の一つである。「ほこり立て羊群うつる草原あり黄河の方はやや低く見ゆ」「ああ白き藻の花の咲く水に逢ふかわける国を長く来にけり」「青き国に岸なき水のよどみたり光かすかに夕べの黄河」「近く来てゆるやかなる流れの音きこゆ瀬波に入りし島んごとき芥」などという作品から、しだいにたかまる波のように歌われて行くこの一大叙景詩連作は、大陸の茫洋とした自然と作者の全身的な感動とが相競い、相打つようである。

(つづき)

蘭州より少し減り来る水嵩(みずかさ)も流木を見ずといふも心うつ          (昭和十九年)

蘭州は甘粛省の都市。崑崙山脈にみなもとを発した黄河は蘭州から北に屈曲し、万里の長城を越えて内蒙古を流れ、さらに南下し、西安のやや東方で渭水と合し、東流して遠く渤海に注いでいる。作者が今いるのは内蒙古の包頭鎮附近の岸辺なのであろう。そこから蘭州は一千粁近い上流にある。崑崙山脈の雪どけの水は蘭州まで来て少し水嵩が減るという。またそのはるかな水流に流木がないという事も聞かされる。そのような事にさえ何故か心がうたれ、みなぎり流れる眼前の大河に佇っている。そういう意味の作品なのであろう。前の歌と共に「黄河の賦」の一連をなす一首。大自然を前にした作者の深い吐息を聞くような短歌である。
「七月に雪水到り甘粛の雨水は至る九月なかばごろ」も類似作品。「かもめと思ふ鳥一つ舞ひ暑き日を限りなく流す黄なる河波」「ま近くに黄河見え居る曹達(そうだ)の原色づく草に今朝はおどろく」などの歌が前後に並ぶ。

鋤一つ並び曳きゆく牛と馬互に目がくしはてしかく行く                  (昭和十九年)

包頭鎮から大同、太原を経て河北省河南省の平野を南下する。列車は再び黄河の流れに近付こうとする。その途上での車窓の嘱目詠なのであろう。はてない平原を農夫らは耕している。一つの鋤を引きながら牛と馬とが並んでいるのに作者は感興を覚える。牛と馬とは互いに目かくしされている。そのような事すら異郷の思いが胸を打つ。
「耕せる国平かに野の花の目に立つものもなくなりにけり」「或る所は見ゆる樹もなし高梁の一色のただ遠くして」「赤き旗白き旗して追ふ見れば蝗この国食ひ入らむとす」「高梁に粟に一葉の残るなし目の及ばざる涯につづけり」「小さなる布振り或るは畔に踏む国を食ひつくす蝗を追ひて」などの諸作品が前に並んでいる。作者は野を食いつくす蝗害のさまも実見したのであろう。このような歌をよむとき、しばらくそれが戦場の地であるという事を忘れさせる。農夫らば戦火の過ぎたあと、黙々とまた大地を耕しつづけてえいる。

(つづく)

沙丘(さきう)あり幾重かの古き堤防をよこぎりて行く黄河渡るべく           (昭和十九年)

前の歌と連作をなしてつづく作品。列車は黄河にむかって南下して行く。近づくにつれ、砂丘があり、古い堤防が幾重にも幾重にもつづく。渡るべき黄河の流れはいまだに見えない。その大きな国土、大きな自然の姿が歌われた一首である。この歌にも孤独な一旅行者の感傷の思いがただよう。波打つような詠嘆がそのまま作品のリズムを作っている。
「やうやくにギヨ柳(ぎよりう)の楚樹(しもと)目につきて黄河の沙丘に進み入りたり」「なびき合ふ柳の白き夕風に黄河を南に渡らんとする」「草生ひぬ長き堤にそひ行きてつひに何方に黄河をわたる」「堤防を切通し入る黄河跡豆のしげりははてし無く見ゆ」「小沙丘瀬波のあとを見るごとし黄河本流全く涸れて」「沙の波川上遠くつづきたり夕日は靄にひくくして」「川下もまた限りなし暮色のこめたる方に沙の波つづく」「旧黄河渡り終わりて水溜るひる藻の花も夕影ひけり」などの歌が互いに連作として並んでいる。

泰山(たいざん)を朝の光に見し時もこの夕時も空はただ澄みに澄む        (昭和十九年)

南京、および江南各地を遍遊した土屋文明は再び華北にむかう列車に乗った。南京対岸の浦口から天津にむかう津南鉄道である。「たたなはる草野はてなく白き馬草のいろはやや秋ならむとす」「丘の間に稀々に澄める川ありて鶏(とり)の血のごとく紅葉する草」「藷の葉に霜の来りて魯の国のはてなく乾く野に麦を
蒔く」などという途中の歌があり、もはや草が色づき、藷の葉などに早い霜がおりるような秋の季節が来ている事で知られる。
北行する列車の窓に一日泰山の姿が見えている。朝の光の中にはるか行くてに見えていた時も、くれて行く夕日をうけて背後に遠く見えているときも、大陸の、空はあくまで澄み透っている。そういう意味の作品なのであろう。「頂(いただき)の廟のかげりの見ゆるまで澄める空気の中にいかしき泰山」の二首が前後んごにつづく。泰山は中国の名山の一つ。山東省にある。清澄な旅情の作品である。

(つづく)

茶を売るに莫談国事(ばくだんこくじ)といましめて駱駝追(らくだおひ)も洋車引(やんちょひき)も休み処(ど)となす   (昭和十九年)

天津から大東亜文学者会議出席のため南京に下った文明は、また北京に帰り、日本に帰る日を待ちながらしばらく滞在をつづけた。いつか初冬となっていたのであろう。「黄なる葉にやや沙を吹く風立てる北京街城にかへりつきたり」の歌がある。
この歌は北京市街滞在中の一首。駱駝ひきや人力車夫などが集る貧しい茶館の壁に「莫談国事」…政治を語ってはならないという布令のビラが張りつけてあることに、作者は一旅行者としての感傷をいだいているのであろう。ただそれだけの作品であるが、この背後には戦争が最後の段階に至ろうとする、ただならない時代のかげが感じられる。一見平和な古都の街にも、戦争の危機感はひそかに迫り寄ろうとしていた。レイテの敗戦がひそかにささやかれ、サイパン基地から敵機の日本飛来がはじまる。そのような事に敏感に気づいているのは、「莫談国事」の布告の下に集る黙々とした中国の民衆たちだったのだ。

三寒の今日ははじめの沙の風青きももみぢも槐(ゑにし)の落葉         (昭和十九年)

前の歌と同じく北京逗留中の作品。三寒四温といって、大陸地方では冬期、三日寒い日がつづき、四日ほどあたたかい日がつづき、それが繰り返されると一般に考えられている。その四温の幾日かが過ぎ、今日からきびしい三寒の日が始まる。昨日とは打って変わって街には砂をまじえた朔風が吹き荒れ、舗道には一面に落葉が散り敷いている。その落葉に青い葉ももみじもまじる。みな槐の葉である。長い冬をむかえようとする、大陸の旧都の清澄な朝の情景である。
『韮菁集』の最後の一首。「君が家もいまだ焚かねば外套著て日本と支那のこと語り合ふ」「古(いにしへ)を語らふ時にあひ通ふ心も今の時に少しくけはし」などの歌が前に並んでいる。東京に帰る日を待って、彼は北京の文学者たちとも会っているのであろう。夏の日以来長途の旅をつづけて来た感傷と、時局に対するひそかな不安の思いとが、相まじってこれらの作品を霧のように覆っている。

これで『韮菁集』は終り次は『山下水(やましたみず)』となります。

(つづく)

『山下水(やましたみず)』より

山のうえに吾に十坪(とつぼ)の新墾(あらき)あり蕪(かぶ)まきて食はむ餓ゑ死ぬる前に  (昭和二十年)

昭和十九年十一月、土屋文明は大陸戦線視察の旅から東京に帰った。日本にはすでにサイパン島からの編隊空襲が始まっていた。翌年五月、青山の家も焼けた。彼は一家と共に群馬県吾妻郡原町川戸に疎開した。川戸は吾妻川の渓谷に添う山深い農村である。そこで乏しい疎開者の生活をつづけた。「朝よひに真清水に採(つ)み山に採み養ふ命は来む時のため」という歌もある。彼は疎開地の山に十坪ほどの畑をひらき、蕪などをまいて餓えに備えようとしていたのであろう。沖縄も陥落し、米軍上陸と共に関東平野が決戦場にあんるといううわさも、もはやうわさとしてだけ聞きすごしておれない状況に立ち至っていた。そのような時、そのような生活の中の作品である。
「七月二十三日上村孫作君の来信に酬ゆ」と題した一連の中の作。「打ちつづくる海の上の砲に目ざめても月没りしかば起くることなし」という一首もある。

出(い)で入りに踏みし胡桃を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた      (昭和二十年)

八月十五日、日本は降伏した。満州事変の勃発以来、十四年にわたる長い戦争の年月であった。敗戦の報を土屋文明は疎開地の川戸で聞いた。彼は今は家と家財を失った幾百万の戦災者の一人である。敗戦の日の後も文明の生活はかわらない。彼はひとり疎開地の家を出で、山に拓いた畑を耕しに山に向う。家を出るたびに、その門口に立っている胡桃の木の実を拾い集める。今日もその実が十五もたまった。それだけの事さえ小さなよろこびであり、孤独な生活の中の変化なのである。そういう気持ちの歌われた作品なのであろう。
「ひねもすに響く筧(かけひ)の水清み稀なる人の飲みて帰るなり」「はしばみの青き角より出づる実を噛みつつ帰る今日の山行き」「谷せばみふたげるごとき浅間嶺(あさまね)の上なる空もこほしきものを」などの歌が同じ一連をなしている。亡国の民として歌う静かな悲歌の旋律が、これらの作品の中から聞こえて来るようだ。

(つづく)   

夕のかげ早く及べる谷の田よいなごも乏し青きにすがりて            (昭和二十年)

せまり合った谷に、山の夕影は早く這い寄って来る。峡の田の、稔りのおそい青い稲にすがっているいなごの数も乏しい。この疎開のむらにはもはや冷えびえとした秋が来ているのであろう。
前の歌と同じく、「川戸雑詠」と題する作品群のなかの一首。敗戦後間もない時期の作品である。乏しいいなごが「青きにすがりて」いる、という把握がするどい。その一点に集点のしぼられて行くような表現技巧が効果的であるといえる。それと共に、この歌からも亡国の日本に生きる民の一人の悲しみのようなものを感じる。読後、静かな悲哀感が、作品の背後にしだいにひろがって行くようである。
「いそしみて蒔きたる蕎麦の大方はこほろぎ食ひきそれも憤らず」「片よりに野分は吹けり庭草の茎を透きたる日の光もよし」などの歌が並んでいる。日本人みな虚脱した顔をして、食を求めて焼あとの街をさまよっていた時代である。

この谷や幾代の飢えに瘠せ瘠せて道に小さなる媼(おうな)行かしむ    (昭和二十年)

土屋文明が疎開した川戸という部落の様子は、戦後しばらく「アララギ」に連載された「日本紀行」という文章に語られている。榛名山の背後の、吾妻川渓谷の奥の貧しい農村である。村民たちは渓谷に棚田を作り稲をうえた。しかし山水に頼るだけの棚田は冷害を受けやすく、敗戦の年も、ほとんど一粒も稲の稔らない田さえあったと彼は記している。そのようなわずかな土地にすがり、農夫らは幾代も幾代も飢餓に耐えながらこの渓谷に生きてきたのであろう。作者は田の畦をたどたどと歩む一人の老婆の姿を見送っている。その老婆の姿に農民たちの苦渋の人生を感じている。
「苦しみて柄鍬に弾かれし記憶さへ農の君等に語るはたのし」「麦ふに代へてローラー引き給へ少しは君の安からまくに」などの作がある。彼自身が農民であった。そのことの共感が疎開地の生活からしだいに歌われて行く。

(つづく)

この者もかく言ふ術(すべ)を知れりしか憤るにあらず蔑(さげすむ)むにあらず  (昭和二十一年)

この男も、このような物言いをする事を知っていたのか。それを今の自分は憤るのでもなく、またさげすもうとするのでもない。
敗戦の虚脱の中からデモクラシーの声が湧き起こって行く。赤旗にかこまれて、徳田球一らの共産主義者らが釈放され刑務所の鉄門を出る。新しい時代が始まろうとする。だが、その時代の中に、昨日までファシズムをたたえ、民衆を叱咤しつづけていたものが、いちはやく口をぬぐったような物言いを始め出す。恬然として彼らは自由を説き、亡国の苦渋にうなだれるものを眼下に見下す。この国の学者たち、指導者たちである。それをつめたい目で歌い、片隅の一人の憤怒に堪えている。二十一年のはじめの歌。その前に文明は戦争中の首相近衛文麿の自殺の事を歌っている。激しい変転をつづけて行く歴史の中で、彼は老リベラリストとしての自分の姿勢を守りつづけている。

走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日(いちにち)のうち         (昭和二十一年)

走井は山の泉の流れなのだろう。その清らかな水に小石を並べ、流れ道を変えようと作者はひとりうずくまって働いている。はかない、孤独な一日の労働である。そういう気持の歌われた作品なのであろう。語り合うものとていない、流離の老歌人の感慨が独語のように呟かれている。
「霜いくらか少なき朝目に見えて増さるる泉よ春待ち得たり」「尾長一群去りたる後に起きいでて昨日より温かしと思ふ楽しも」「こひねがひ向へば今朝は緑ある土に靄のごとく降る雨」「枯草の中の一こゑを蛙かと思ふ午すぎ出でつつ採めり」などの歌がある。山深い疎開地にもおそい春の来ようとする季節である事が知られる。「春待ち得たり」ということばにも、敗戦の年の苦しい冬をようやくに生き得た思いが深くこめられているのであろう。その実感の背後にある作品である。

(つづく)

北支那より帰りし君を伴へど雪の下には採(つ)むべきもなく             (昭和二十一年)

北支から帰還して来た一人の青年が突然に雪に閉ざされた疎開地をたずねて来る。敗戦とともに幾百万の前線の兵らは、あるいは追われ、あるいは捕えられ、屈辱と困苦の日を重ねながらかろうじて祖国に帰りついていたのだった。その祖国さえすでに廃墟であり、人々は飢餓の中にさまよい生きていた。渓谷の奥の疎開地まで会いに来ることさえ容易ではない時代だったのである。
たずねて来た青年をともなって彼は山に登る。青年は汚れた軍服を着、長い戦場の苦労に頬もこけている。生死さえ本当はわからなかったのだ。山はまだ雪が深い。雪のため採もうとする山菜もない。
戦死した青年らの消息もしだいに伝えられて来る。「君をも還らぬ数にかぞへむか二三日こらへ遂にかなしぶ」「亡き数にかぞへむとする面影の逞しくして吾
に堪へずも」などという歌も、同じころに作られている。

蟹ひとつ形のままに死にたるも沈みて春の泉は増しつ                   (昭和二十一年)

疎開地の峡村にもおそい春が訪れて来る。「石の間にめぐる泉に朝ごとに目にたつ緑来りつつ踏む」…草の緑の色がしだいに深くなるころ、緑にかこまれた山の泉の水もしだいに増して行く。その清澄な水の底に、蟹が一匹、生きた時のままの形で死んでいるのも透いて見えている。春のめぐって来たよろこびをしみじみと知る季節である。
するどい把握の眼と、それにともなう細緻な言語の斡旋を感じさせる、清潔な作品である。文明の歌が前歌集『韮菁集』以後、再び技法のの巧みさを加えて来ている。
「掬ひ飲む泉からだに染(し)みとほる健やかなればそれのみたのし」「目の下に釣橋ひとつ見え居りてただ世の中につながりをもつ」「一ところ白くかがやく枯草を韮野生地と気づくよろこび」「青き時青きよろこび黄なる時黄にしたしみてこの畦を行く」などの作品が「泉頭?」という題で並んでいる。

(つづく)

風なぎて谷にゆうべの霞あり月をむかふる泉々(いづみいづみ)のこゑ       (昭和二十一年)

夕ぐれの谷に、静かに白い霞が立ちこめている。東の方の空が赤いのは、やがて月が上ろうとしているのであろう。その月が上ろうとしているのであろう。その月の出をむかえ待つかのように、山の泉々はさやかなせせらぎの音を立てている。そういう情景の作品なのであろう。美しい、夢幻の世界を思わせるかのような一首である。「月をむかふる泉々のこゑ」という擬人的表現は西洋語法のようであるが、本当は漢詩の表現法から来ているものなのであろう。その前にも「道に小さなる媼行かしむ」などと云う語法が用いられている。漢詩的発想を使いこなした技法は、『韮菁集』前後から土屋文明の作品にしばしば見出される。
「谷をふく風に舞ひ来る雪幾片とけて柳の花のうるほふ」「春の日に白髭光る流氓一人柳の花を前にしやがんでゐる」「耕さむ山は広くもつらなるにかへりみてはや手に力なし」などの作も同時の歌。「柳の花」という題の一連である。

戦死せる人の馴らしし斑鳩(いかるが)の声鳴く村に吾は住みつく          (昭和二十一年)

斑鳩は鳥の名。いかるという。すすめ科の鳥で、鳴声が月日星(つきひほし)というふうに聞こえることから三光鳥とも呼ばれる。その、いかるの声が毎日のように狭の村に聞え来る。それは、出征し戦死した一人の青年が生前に飼いならしていた小鳥なのである。
「鳥籠に寄り立つ人の父を見る万の戦死者の親かくありや」…いかるの鳥籠の前に立っている青年の父親を見ることもある。放心した老人の顔は、戦争に吾が子を失った幾万、幾十万の父の顔である。或る日老人は籠の小鳥を空に放す。しかし鳥は再び帰ってくる。「君が為放ちし飼ひ鳥帰りぬといふをし聞けば吾も嘆かむ」「今日もかも春日に歩む父を見る南遠く子を戦死せしめたり」「百どりの競へる中にひびきとほる斑鳩の声に村は静まる」…
敗戦の悲劇を正面から歌った、土屋文明にはやや珍しい小説風の作品である。「斑鳩」と題する五首からなる連作である。

(つづく)

にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華(あづまいちげ)の花も閉ざしぬ   (昭和二十一年)

山に来て拓いた畑は彼は野菜の種をまいている。にんじんの種だけが今日はまきおくれた。さあ、にんじんは明日蒔くことにして帰ろう。日も昏れ、峡の流れの上には夕霧もただよい始めた。草のまに可憐に咲いていたあづまいちげも、いつか一日の花を閉ざしてしまった。
東一華はうらべにいちげともいい、キンポウゲ科の山地の植物。淡白色の花を夏咲かせる。ひとり呟いているような自然な発想の中に、作者の孤独な生活と感情とがおのずから語り出されている作品である。
「甘草も未だ飽かぬに挙(こぞ)り立つ浅葱(あさつき)の萌えいづれを食はむ」「浅葱の群がる萌に手を触れて春ぞ来にける春ぞかへれる」「折りて来て一夜おきたる房桜うづたかきまで花粉こぼしぬ」「刈りてゆく鎌に触れつつかをる木も茨も惜しも今芽ぶきの時」などの作品が相つづく。作者は今は山中の一農夫である。

彼の岸に旗なびくメーデーの行進も釣橋よりは渡ることなく             (昭和二十一年)

疎開地の村々にもメーデーが行われる。敗戦の翌年である。赤旗をなびかせながら対岸を歩むその一団も、はるかに見えている釣橋を渡って、自分のいる山の方にはやって来ない。
貧しい峡の村の、貧しい村民たちのメーデーなのであろう。はじめて許された自由に、彼らはとまどいながら赤旗を立てて集っているのだろうか。そうした時代ともかけ離れた自分の生活である、と、土屋文明は歌おうとしている。「この者もかく言ふ術を知れりしか」とか、あるいは「怒りわく夜には来り腰おろす草こそしたし土こそしたし」などといった、そのころの作品にひそかに共通する憤りと孤独感が、この作品にも流れている事がいえよう。
「青き谷」と題した作品。「青き谷の上にいつしか月はあり光をもちて黄昏ながし」「鳥が哭(ね)のつひの一声しづまるにこぞる下谷の蛙等のこゑ」などの歌が、一人の世界を守るように歌われつづけている。

(つづく)

遠き島に日本の水を恋ひにきと来りて直(すぐ)に頬ぬらし飲む (昭和二十一年)

闇市の立つ焼けあとの街に赤旗がはためき、国民たちは憑かれたような眼で民主主義を口々に叫ぶ。「米よこせ」と書いたむしろ旗を立てて宮城へデモの列が押し入ろうとする。全国の失業者百六十万。米の遅配欠配がつづく。そのような日本に前線各地から武装解除された兵たちは引きあげてくる。遠い南方の島々からも俘虜なままの姿で送り返されて来る。
その一人が疎開地の土屋文明の家を訪れる。やっとたどりついたような汚れた軍服に戦闘帽の姿である。彼は来るなり頬を濡らすようにして泉の水をのむ。日本の清い水だけを恋い思いながら、はるばると帰って来たのだとその青年は告げる。
「亡ぶとも湧く水清き国を信じ帰り来にしと静かに言へり」「夜もすがらひびく水の音近々にかなしき日本に吾は目覚むる」と文明は歌っている。敗戦翌年の、「かなしき日本」の歌である。

相抱(いだ)ける二人海に向き石をなぐ吾より四十米かなたの世界(昭和二十一年)

「熱海にて静臥数日」という題の中の作品である。熱海に旅行したとき体を悪くし、数日病院に入院した。作者にとって、思いがけない、静かな病床の幾日かであったのだろう。病室の窓から海が見えており、互いに抱き合った若い男女が、沖にむかって石を投げながら遊んでいる。恋人同志なのであろう。二人は病床から見ている作者には気づかない。遠い世界の物語りの中のような彼らの姿である。
それだけの事を歌った作品であるが、それを歌う作者の一種清らかな感動が、読むものを抒情の世界に誘いこむ。作者の感動は、昭和二十一年という、敗戦のあとの荒涼とした一時代を背景として浮び上がってくるものなのであろう。「宵々におくるる月を待ちこふる海の上にをどるはつか紅(くれなゐ)」「立ちかはり来りて触るる少女等の手の下に老いしからだ横はる」などの作品も同時に作られている。

(つづく)

木ずゑ吹く朝の野分に目をあきてすぎし人すぎしこと残るいまの我    

(昭和二十一年)

木ずえを吹いている朝の野分のかぜが見えている。目をあきて、とあるから、作者は目ざめた床の中から風にふきしなう冬枯れた木群の枝を見ているのかもしれない。野分は秋の末から冬のはじめにかけて吹く疾風のことである。死に去った人々のこと、過ぎてしまった遠い日々のこと。作者はおもうともなく思い出している。そうして、一人だけ今生き残っている自分の事をも…。

「浅間温泉懐旧」と題する作品。浅間温泉は長野県松本市の北郊にある温泉場のことを指しているのだろうか。彼はかって松本で教師をしていた事もある。「衢にも面知る人の少なくなり安けくさびしく一日ゆけり」「相共にさらばふまでに老いぬれど語らひつぐはうれしくもあるか」などの歌がある。作者は五十七歳。敗戦の日の後まで生きて来たことの哀愁感が静かにただよう作品である。

初々(うひうひ)しく立ち居(ゐ)するハル子さんに会ひましたよ佐保の山べの未亡人寄宿舎        

(昭和二十一年)

「再報樋口作太郎君」と題された作品の中の一首。ハル子さん、というのはその「再報」する相手の人の不幸な肉親の女性か、あるいは肉親である人の未亡人なのであろう。無論、この場合そのいずれであるかという事の詮索は作品の鑑賞とは関わりはない。「ハル子さん」と作者の呼ぶ女性は戦争未亡人であろう。作者は奈良の佐保山のふもとの寄宿舎にその女性を訪れる。「未亡人寄宿」である。不幸な今も、悲しみにけながに耐えて、むかしと少しも変わらずういういしく立ち居する「ハル子さん」に会ってきましたよ、と土屋文明は告げようとする。呼びかける肉声のままの、感情にあふれた短歌である。

「世の中の苦楽を超えて君ありとも君の涙がいくらか分る」「折あらば奈良にゆきハル子さんを見たまへな藷うゑ静かな寄宿舎なり」の二首がそのあとにつづいている。口から語り出される口語がそのまま自然に定型の中に生かされた、やさしい作品である。

(つづく)

『自流泉』より

前山をこえて白根の見ゆるまで上り来りぬ炭を負ふべく

(昭和二十二年)

炭を負うためにひとり山に登って行く。いつか山を越えてはるかな白根山が見えはじめる。白根山は群馬県と長野県との県境の山。雪に包まれて静かにそびえているのであろう。単純化された内容と表現の作品であるが、孤独な老年の感慨が作者の息づきを身近に感じさせるかのように歌い出されている。「炭を負ふべく」というのは山深い炭焼き小屋まで炭を求めにでも出掛けようとしているのであろうか。米も炭も乏しい敗戦後の日本であった事を思い出せばよい。その中でも、疎開者の生活は想像以上に苦しかったに違いない。

「冬枯れし各々の樹は美しくその持前(もちまえ)の幹を立てたり」「春にならば楓の樹の水とらむなど思ふもあはれこの美しき木よ」「炭がまの前に炭木を積みかさね炭木のにほひしたしかりけり」「夕日おちし白根の山の紫の雲の光はわれにさし来る」などという作品が並んでいる。同時に味わうとよい。

ゆふ闇は谷より上るごとくにて雉子(きぎし)につづくむささびのこゑ

前に記した歌につづく一連の中の作品である。あるいは同時の連作なのかもしれない。

作者は山の上に立っている。山をめぐる谷々から、這い上がるように濃い藍色の夕やみが迫って来る。その夕闇の中にするどい雉子の声がきこえ、つづいてむささびの鳴く叫びが聞こえて来る。すべてのものの凍るような静寂の世界が今作者の四囲を包もうとする。そのようなひとときの作品なのであろう。むささびは齧歯目の小獣。股間の皮膜をひろげて木から木に滑空する。夜間活動する動物である。「浅間嶺は西の光に立ちたればその白雪を玉となげかむ」「浅間嶺のはれて匂へる夕空にいまだ見るべき月なかりけり」「この山に月てる夜をただに待つある夜なきたる狐こひしく」などの歌が相つづいている。疎開者の生活もすでに三年となった。その孤独感がしずかににじむ独詠である。

(つづく)

灯(ともし)赤く食ひものを売る春の夜も日本の雨のじめじめとふる

疎開地の村を出て、土屋文明は時々上京をした。そのようなときに作られた作品なのであろうか。空襲の廃墟のままの都会にはバラックが建ち、暗い灯をともした闇市が並んでいた。闇市には一袋十円の落花生とか、烏賊の煮付けとか、進駐軍の闇物資とか、貧しい食物ばかりが商われていた。そうした街に春の来る夜の雨が梅雨のように降りしきっていたのであろう。市民たちは放心したように雨の中をさまよい歩いていた。

「夜の雨の上りし衢(ちまた)の春の泥蹴てゆく中に老いし吾あり」「ハルサメといふ日本語を喜べる時代にも階級にもなじみ難かりき」などという作品が同じ時に作られている。それと同じような感情の歌が、もっと早く『山谷集』の中に次のように歌われている。「ふりいでし雨の中には春雨とは吾にはうとき言葉と思ふ」。土屋文明はそのようなじめじめした、日本人の宿命的感性を嫌悪していたのであろう。

(昭和二十二年)

泥の如き箱車(はこぐるま)の中は鯨肉(くぢらにく)橋にかかり馬の鈴の音ぞする

(昭和二十二年)

昭和二十二年の夏、土屋文明は妻を伴って北海道に旅立った。「さすらひて家なきことも安けしと吾ははやく寝る旅行まへ二三日」という歌が出発の前に作られている。彼にとって、三度の北海道旅行である。

この歌は「網走にて」と題された作品の中の一首。箱車の中に泥のように鯨肉をつんだ馬車が、鈴を鳴らしながら橋を渡ろうとしているのであろうか。網走市中の情景なのであろう。北国のさびれた港町の旅情のようなものが、暗い色調で歌い出されている。

「谷地だも防雪林監獄の煉瓦塀今日また見れば今日又かなし」「丘にかくれてゆくを見送る静かな水網走の湖に幾度もあふ」などの歌もこの時に作られている。北海道が文明にとって特別に印象の強い土地である事はすでに記した。昭和五年、および昭和九年の旅の歌に較べ、安らかな感傷が今回の作品全体に流れているといえる。

 (つづく)

潮を煮る小屋掛も多く捨てられぬ集めし薪乾く午(ひる)ごろ

(昭和二十二年)

「土佐雑詠」と題されている。二十二年の秋、土屋文明は高知県に旅行した。そのときの作品であり、高知から室戸崎にむかう途中の土佐湾の情景によって作られたものなのであろう。海岸のなぎさには潮を煮る小屋掛けがいたるところ朽ち傾いて残っている。戦争末期から戦後にかけて、そのようにして塩を得ようとした貧しい営みのあとである。平明な叙景歌であるが、作者が歌おうとしているのは単なる風景だけではない筈である。荒涼とした世界にむかう寂寥感が、沈んだことばでうたわれている。

「敗戦の話はここもあはれにて盗みて逃げし隊長にくむ」「若き兵死地にむけたる士官一人土橋にかくれ生き居りし話」などの歌も同時に作られている。日本のどこに行っても、敗戦の悲しみはまだなまなまとした現実として生きていたのであろう。そのような日を背景にした作品として味解すべき一首である。

 

朝(あした)来て夕べ又来る泉の上月のあたりは白きうす雲

(昭和二十二年)

朝来た泉のそばに、夕方またたずねて来る。峡の空にいつか出ている月に、白いうすぐもが静かにひろがっている…

疎開生活も足掛け四年に入る。「疎開人かへりつくしし春にして泉の芹を我独占す」などと歌われているように、狭い谷の村に幾人か住んでいた疎開者らも、いつか次々に立ち去り、残るのは自分たちだけになっている。「食ふなき韮を惜しみて分たざる村人を憎まむかはた肯ふべきか」と歌うように、今の生活が必ずしも満足なものではない。しかし、東京に帰るべきあてもない。そうした感慨が静かな述懐として歌われた作品である。どこといって目立ったところのない歌であるが、その表現技法に行きとどいた配慮がなされているのは他の場合と同様である。「おそれつつ冬すぎにきと登り立つ楚(しもと)光りてつばらなる芽ら」などの地味な秀歌がこの前後には多い。

はる山に相よろこべる鳥の声その世界にもはや入りがたきかな

(昭和二十三年)

春山に嬉々としてさえずり合っている小鳥らの世界にも、今は無心なよろこびで入り得ない自分の齢である…そういう気持ちを歌った作品なのであろう。

老年の悲しみを呟く歌であるが、それが一種甘美な感情と重なり合っていることに気づく。「はる山に相よろこべる鳥の声」という上句の表現のためである。一歩あやまると甘く流れる表現を、わずかに支えているような技巧の老練と、その老練の上に立った放胆さを感じさせる。伊藤左千夫に「天地のなしのまにまに黙し居る山もはれては笑める色あり」という作があるが、その下句などと通うもののある表現といえよう。

「こころひそかに求(と)め来りつつ再びの木の芽にたふるあはれなりけり」「ゆふ山に青葉くぐれるいかるがのするどき声は吾をおそれしむ」などの歌が並ぶ。いずれも、悲哀感がほのかな明るい色彩の中に歌われている心境作品である。

いかにありし我とその夜を思ふにもああをとめらの一人だになし

(昭和二十三年)

その夜、どのようにしていた自分だったのであろうかと思うにつけても、あゝ、その時の少女らの一人すら今いない…

「或る追憶」という小連作の中の一首。「しらじらし月は出でむと夜ふけたる柵の上にはふるる露あり」「たれもたれも幼き声のたかぶりにとりとめのなき時のすぎにき」「絶えて見ぬ四十年なれば目につきて我に思ほゆにこ毛たつ手の」「すがすがと老い来りしにあらなくに顧るはあやふき細道なすよ」「玉かぎる風のたよりといふことも心にぞしむいまは亡きかも」「道の上のゑまひもとはと言ふならばわが目の前の山の間の霧」などという作品が互いに並んでいる。どのような事実がこの追憶の連作の背後にあるのだろうか。それはもはや作者だけが知っている事であり、心に固く秘めているだけのものなのであろう。四十年の過去の思いを歌うこの一連の作品の中に珍しく作者のたかぶりの感情が読みとれる。

蚊帳(かや)の中に衰ふる我を襲ひたる虻(あぶ)を刺客(せきかく)の如くに憎む
(昭和二十四年)

疎開生活五年目の歌。蚊帳の中に衰えてこもる自分を刺しに来る虻がいる。その虻を、まるで刺客か何か

のように今憎悪している。そう作者は言っている。刺客は暗殺者の意味。いくらか誇張したユーモアのあ

る表現だが、作品の中に組み込まれたその言葉の効果は、ユーモアなどではなく、もっときびしい、険し

い作者の感情の表白となっている。険しいまでの孤独感である。

「鰌一疋つかみ静子が帰り来ぬ川人足を吾に代りして」「亡き母を言ひつつ食ふもあはれかな妻の買ひ来

しなまり一節」「伐りし木の朽ちて木の子の生ふるまで此の山下に住みとどまりし」などという歌がこの

ころに作られている。彼の『万葉集私注』は二十四年から相次いで出版され始めた。文明は新しい万葉注

釈の原稿を書きながら、なおしばらく不自由な山村の生活をつづけなければならなかったのであろう。


子供等に遠き老妻の歎(なげ)かひの今日しも我の怒(いかり)をさそふ

(昭和二十四年)

子供らと遠く離れて住んでいることを妻がなげく。その老妻の愚痴に、今日だけなぜか激しい怒りが自分
の心中に湧き立って来る…

それだけの意味の、一見単純な述懐の作品であるが、「今日しも我の怒りをさそふ」という下句の表現に

複雑な心情が、屈曲し、たたみこまれている事を感じる。単に妻の言葉に怒っただけではない意味を読み

取らなければならない。不意に耐えられない怒りをいだく作者自身も、妻以上に孤独を心に感じているの

であろう。


「夜寒くなりまさるなり手づからも虎子を清めて冬をまつべし」「眉一つ落ちては何の徴標ぞ自嘲滑稽の

域にはあらず」「敗戦を予期して我等より強かりき高島翁も今は世に無く」などの作品が同じ連作をなし

ている。二十四年の冬。疎開地の谷の村で土屋文明は六十歳を送ろうとしている。

 (明日につづく)

(昨日よりつづき)

草をつみ食(く)らひ堪へつついきにしを流氓(りゅうばう)何に懼(おそ)れむとす

(昭和二十五年)

流氓は他国に流離する民の意。ここでは無論長い疎開者の生活をつづけている土屋文明自身のことである。草をつみ、それを食って戦争と戦後の歳月を生き耐えて来た自分であるのに、今ふたたび何をひそかにおそれようとしているのであろうか、とこの作品は歌っているのであろう。

しかし、何を懼れるというのか、それは具体的には語られていない。それは作品の背後に暗く包みかくされている。作者は何に重苦しい不安をいだき、その不安を暗示的な言葉で歌っているのであろうか。

わたしたちは昭和二十五年六月、朝鮮戦争が発生したという歴史を思い出すことが出来る。それと同時に日本の戦後史が転換期に立った事をも思い浮かべ得る。この作品に「懼れ」という文字で表されている感情は、その歴史と重なり合うものではなかろうか。

吾がために君が買ふ朝の海老五疋(ごひき)虹のごとくに手の上にあり

(昭和二十五年)

「再三河幡豆」と題された作品。幡豆は愛知県の渥美湾にのぞむ地である。作者は万葉集の安礼の崎や四極山などの地名をこの附近に想定しようとして昭和十九年にも旅行した事が『続万葉紀行』の中に記されている。

一首の意味は説明を加えるまでもない。友人が自分のため買い求めた海辺の海老が、虹のように美しく輝きながら今手の上にある、ということである。「虹のごとくに」という形容がこの場合鮮明な印象となって作品を引き締めている。「朝の海老」という言葉の感覚もさわやかである。

「此のあした老いしあふちに吹くあらしただ暫(しばし)なる吾がしづ心」「雨の中に散るははかなき楝の葉いにしへ人も見たりや否や」などという歌も同時につくられている。古典への傾倒を背後にした格調の作なのであろう。

(つづく)

此のあした雲を抱ける青谷(あおたに)や行かば一日の息(いこ)ひあるべし

(昭和二十五年)

この朝、青葉の茂り合った山の谷間に、白い雲が沈んでいる。まるで谷が雲を抱きかかえているようである。そのはるかな谷まで登って行けば、きっと今日一日の静かな心の休息があるであろう。

川原湯温泉での作という。川原湯温泉は作者の疎開地吾妻川渓谷のさらに上流にある。「雲抱ける青谷や」という擬人法の表現も巧みだが、それ以上に下句の「行かば一日の息ひあるべし」という淡々とした叙述に自然な、老練なものを感じる。

「天を限る青き菅尾に次々に朝のしら雲あそぶ如しも」「谷の奥草原に黄なる朝日さし菅尾の雲はやうやく高し」「浴みつつ青葉に眠る夜々を何にうながし止まぬ瀬音ぞ」「燕(つばくら)の峠に見下ろす谷の道雲より遥かなりふるさとの方は」などが一連をなしている。六十二歳となった土屋文明の抒情作品の世界である。

戦ひて敗れて飢ゑて苦しみて凌(しの)ぎて待ちし日と言はむかも

(昭和二十六年)

昭和二十六年九月八日、講和条約が結ばれ、同時に日米安保保障条約も調印された。戦争による占領はそれで形式的には終ったかもしれないが、日本は米国の従属国となる運命をも同じ日に選んだ。その時の作品である。「講和を迎へて」という題であるが、記念のため雑誌か何かに求められて作った一連と記憶する。

「よろこびを知らざる国の八年にかにかくにして今日の日到る」「日本に帰らむと食を断つといふ島をこぞりて悲しみに居る」「ひよろひよろと立ち上りたる如くにていづ方に頼り行かむとすらむ」などが前後に連作風につづいている。講和条約の締結されたとき、土屋文明のこの一連の歌の暗い、重苦しい調子は、新しく結ばれた条約の正体と日本の運命とを静かに見詰めている眼を物語る。

 (明日につづく)

『青南集(せいなんしゅう)』より

慰めむ味噌汁を吾が煮たりしも口がかわくと歎きつづけき

(昭和二十八年)

慰めのため、その人に味噌汁を自分は煮た。だがその人は一夜、口が渇くと言ってかなしみ歎きつづけた…

何があったのか。ただそれだけのことが追憶のようにうたい告げられている。しかもそこに孤独な思いがこもる。人の傍らに、味噌汁を煮たという事実だけがしだいに背後に繰りひろげていく心の世界である。

「追悼斎藤茂吉」と題される。「死後のことなど語り合ひたる記憶なく漠々として相さかりゆく」「近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして」などという作品と並ぶ。

斎藤茂吉の死は昭和二十八年二月二十五日。文明にとっては「アララギ」の同行者であるとともに眼前の巨嶺のようにそばだつ文学の先進であった。険しいリアリズムの世界を拓くことをみずからに課した彼の文学生涯は、茂吉の存在を併置せずしては考えられない。

だが、ここにうたわれている悲しみは、同時に茂吉という人間自身の悲哀を伝える。

白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか

(昭和二十九年)

白き人間…白人が先ずみずから滅び、さらに、人類のすべてが死に絶えたあと、地上には幾億とも知れぬ蝸牛が生き残って這いはびこるのであろうか…

殺しても殺しても庭に増え、草木と野菜を喰らい荒らすかたつむりを憎みながらも抱く空想である。そうして、その空想を作者に抱かせるものは何か。

「庭草むら」と題される中の一首。昭和二十九年「短歌」七月号に掲載。その年三月、太平洋のビキニ環礁でアメリカは水爆実験を行う。それより先、二十八年夏、ソ連は水爆実験の成功を伝えている。人類の死滅への不安を余所に、核兵器の開発がしだいに競い合われようとする。

「苔に降る雨の中には伸び々と角をふり行く蝸牛ども」「人間の恐るる雨の中にして見る見る殖えゆく蝸牛幾百」などの作品が先行する。人間の恐るる雨…ビキニ環礁の実験のあとその放射能を含む雨が日本をも降り覆うとも噂された。暗い憤怒の歌。

 (つづく)

足袋を買ふ妻につれ立つ港の夜路地には鰯を割き鯵を割く

(昭和三十年)

足袋を買うという妻と連れ立って、港の夜の町を歩く。漁港であるその町の暗い路地路地に、人はうずくまって鰯を割き、鯵を割いている。

「日向油津」と題される、三十五首に及ぶ連作の中の一首。油津は宮崎県日南海岸にある。妻を伴ってはるかに来た旅の思いが、暗い侘しい漁港のたたずまいとともに作品にうたい告げられる。旅愁、と言えよう。

だが、一首においてそれは何から告げられていくのか。町の路地の、鰯を割き鯵を割くという、その見たままの事実である。そのことがしだいに事実の彼方に繰りひろげていくものを、私たち読者は「詩」として受けとめる。さらに、ここでは、伴い歩む妻が、「足袋を買ふ」妻である意味も大切である。異郷の旅の先の町で、そのようなものを買おうとする妻である。おのずから伝え出されていく旅愁は、そこからも広がろう。「南の国いまだ蚊の飛ぶ十月に売る白菜は信濃より来るとふ」などの歌が同じときにある。   

 

『青南集』はこれで終り明日より『続青南集』となります

 (つづく)

『続青南集』より

 

(昨日よりつづき)

寺を出でて冬の日しづかに歩みゆく妬(ねた)みも無けむ生きてゐることは

(昭和三十七年)

寺を出て、冬の日の街を歩む。人の追憶を抱いて訪れた一日の帰り路である。人は死に、みずからは生き残る。老い、生きて今、妬みであるものもいきていることの中にはないのであろうか…

「浅草懐旧」という。「童馬山房主人十年忌の為に」と傍題される。「童馬山房主人」とは斎藤茂吉である。斎藤茂吉の死は昭和二十八年、その十年忌を前にして浅草の或る寺を訪れる。そこには「彫らしめし石の前に立ち自らもここに入るべく言ひにしものを」「身のまはりのことは語らぬ君にして何にかかはりし幼み霊のうへ」とうたう、茂吉にまつわる作者ひとりの追憶がある、と解釈してよいのであろうか。あまりに知られてはいない茂吉の生涯の或る部分であり、それだけに一人の面影を彫り深く伝え出していく。

ただし、ここにうたわれているのはその事実を含めての茂吉に対する彼の思いとしなければならぬ。「妬み」ということばに包まれている感情もそうなのであろう。

或る夜の槐(ゑんじゆ)のうれの星屑の落ちて空しき一生(ひとよ)とおもへや

(昭和三十七年)

或る夜、槐の木の梢に無数の星がひかりきらめいていた。今に残る、遠い追憶がある。その星屑が地におちて消え、過ぎ去ったあとに、同じように過ぎた生涯があった。それを「空しき一生」と思えるのだろうか…

「左千夫先生五十回忌」と題される。「五十回忌集る百五十人その人を知るは四人となりたるかなや」「まだ石の取り残されし津軽屋敷見下して此の駅に降り立ちき」などという、事実に拠った作品の並ぶ最後に、突然この心象詠とも呼べる一首が置かれる。一首にこもる豊かな浪漫性は、七十歳の老歌人文明の、端倪すべからざる一面を見せているとも言える。

うたわれているのは彼の師、伊藤左千夫への遠い追憶であるが、その左千夫に、「世のなかに光も立てず星屑の落ちては消ゆるあはれ星屑」などという歌がある。そうした作品をも記憶において発想されていると考えてよい。槐の木が左千夫の住んだ家の庭前の実景であったことをも文明の回想に記している。

 (つづく)

九月二十七日初め静かなる鵜飼の火さびしき終り目のあたりみつ

(昭和四十一年)

岐阜県の、長良川の鵜飼を見に来る。鵜匠に操られて、川にうかぶ鵜は懸命に鮎を取ろうとする。それを舟のかがり火が照らす。

だが、そのかがり火は初めから何か寂しげであり、静かでもあった。そうして、それはやがてひそかなまま終りになろうとする。火は消され、鵜飼を見る人々は散る。「さびしき終り目のあたりみつ」と作者は一夜の歓楽とも言えるものの過ぎるときを見てうたっている。

「美濃懐旧懐古」と題する一連の中にある。四十一首の大作である。製作は前年、四十年、すなわち七十五歳の歌と考えてよい。芭蕉に「おもしろうやがてかなしき鵜舟かな」があり、無論それを知った上での一首であるはずであろう。うたわれている哀愁は芭蕉と通い合い、しかもそれより心の内面にこまかに屈折を重ねていく。「「さびしき終り目のあたりみつ」の伝える部分といえる。それだけ人間心理に向っているともされるのか。

「伝へ来て玉の泉の清ければ楽しくゆき交ふ今年子のうぐひ」などが同じ時にある。

『続々青南集』より

目の前の谷の紅葉(もみぢ)のおそ早もさびしかりけり命それぞれ

(昭和四十三年)

目の前に谷が迫る。その谷の木々もすでに紅葉しようとする。谷を埋める木々の或るものはすでに紅葉が深く、或るものはまだ紅葉に早い。それと同じように、人のいのちもまささまざまである。死んだもの、生き残ったもの、さまざまないのちがここに来て心を去来するのであろう。

「布野また湯抱」とある中の作品。布野は同じ「アララギ」の歌人中村憲吉の故郷、広島県双三郡布野村であり、湯抱はかって茂吉が柿本人麿の死の地として探したずねたあとである。島根県の、江の川上流にある。昭和四十二年、七十八歳の文明はそうした地をたどって幾度目かの旅をする。

「命それぞれ」には、そのような故人らへの追憶と感慨がうたいこめられているのであろう。「悲しみの後三人越えき憂ひごころ人麿に寄する君を中にし」「浮き浮きと声はづませて我が妻の手をさへとりて導きましき」などと並ぶ。鴨山をそこと定めた茂吉生前の風貌へのなつかしみである。

 

老い朽ちし桜はしだれ匂はむも此の淋しさは永久(とわ)のさびしさ

(昭和四十四年)

老い朽ちようとしてしだれ桜の花が咲きさかる。その淋しさを、今、永久のさびしさと思おうとする…

「森田草平先生伊那谷疎開跡二所」とある。森田草平は文学者。法政大学の教職時代を通して深く関わった。その戦時中の疎開のあとを訪れる。「人居らぬ庵は兎も犬もさびし犬の子は我等の足にまつはる」などとともに老年の哀愁を伝える。七十九歳の日の作である。

それにしても、この作品を含めて、文明の老年の世界に加わっていく一種の甘美さ、ないし浪漫性とも呼ぶべきものは何であろうか。すなわち、ここでは老樹でありながらしだれて咲きさかる桜の花であり、それを受けての「此の淋しさは永久のさびしさ」という、奔放とも見えるまでの主観の表出である。すでに、写実主義などという一定の規範では律し得ないものがあるとも言え、その意味は、遠く師であった伊藤左千夫の晩年の世界とどこかで通いあうとも考えられる。

(つづく)