*相模鉄道創設から現在までのあゆみ*

相模鉄道創設から現在までの歴史を簡単にご紹介します。

目次
1・相模鉄道設立から開業まで
2・全線開業を目指す
3・黄金期から混乱期へ
4・国有化、無煙化、民営化そして電化

前ページに戻る。


1・相模鉄道設立から開業まで
明治43年に「軽便鉄道法」が施行された。「軽便鉄道法」は従来の「私設鉄道法」よりも条件が緩く短距離・小規模でも認可を受けることが出来たため、各地で軽便鉄道建設ブームがわき起こった。
そのブームのさなかの大正4年、茅ヶ崎町長の伊東里之助らによって茅ヶ崎を起点とした「相模軽便鉄道」が計画された。これが今日の相模線の根幹である。
当初は東海道本線茅ヶ崎〜河原口(海老名市)〜久保沢(城山町)〜中央本線八王子を結ぶ計画であったが、のちに茅ヶ崎〜横浜鉄道橋本(現、横浜線橋本)間に修正して申請、大正5年正式に認可されることとなった。
翌6年12月に「相模鉄道株式会社」が設立、測量・用地買収を開始するが沿線の反対に遭い手間取り、着工区間を当初の予定だった茅ヶ崎〜厚木から茅ヶ崎〜寒川に短縮、大正8年11月にようやく着工にこぎつけた。
大正9年には、当初より副業として計画されていた相模川砂利採取の便宜を図るため、専用の側線として寒川〜川寒川間の認可も受ける。
大正10年5月に晴れて試運転を行うに至るが、先年に起こった金融恐慌が深刻な資金難をもたらした為、鉄道開業8日前に社長以下全役員が辞任する騒ぎもあったが、大正10年9月28日茅ヶ崎〜寒川〜川寒川間が遂に開業する。

【開業時の路線図】

           (貨)
  茅 香 寒   寒 川
  ヶ         寒
本 崎 川 川 側 川 川
  ○−○−○   ○−○
線 ち か さ 線 本 か
  が が む   線 わ
  さ わ か   よ さ
  き   わ   り む
          分 か
          岐 わ

2・全線開業を目指す
開業にこぎ着けたモノの業績は芳しくなく苦しい経営が続いていたが、大正11年に寒川〜四之宮の貨物線を開業させる(後の通称「西寒川支線」、
「廃止国鉄線研究室 相模線西寒川支線」で詳しく解説していますので、ここでの説明は割愛します)。
そんな中、大正12年に「関東大震災」が相模鉄道を襲い、1ヶ月間の運休を余儀なくされた。
しかし、耐震性の強い鉄筋コンクリート建築が注目を集めるようになり、砂利の需要が爆発的に急増すると、その需要に応えるため砂利採取船を導入し需要に応えたが、累積赤字の解消はままならなかった。
大正14年に南俊二が社長に就任すると、合理化で経営を立て直しつつ、橋本延長へむけて本格的に計画が進められるようになる。
ひとまず厚木延長を目指し、大正15年1月に起工式が行われると工事は急ピッチで進み、4月には寒川〜倉見間が開業、7月には厚木まで開業させてしまった。厚木では神中鉄道(現在の相模鉄道本線)と接続した。
厚木延長時に新造客車を4両増備したが、将来の電化を見越し電装品を付ければ簡単に電車に改造できる構造をした特殊な車両を導入している。

砂利輸送はさらに活況を呈し、昭和恐慌とも無縁であるかのように業績を伸ばしていった。
昭和4年には厚木〜橋本間を着工、急ピッチで工事が進められたが、相模横山駅(現、上溝)の北側で立体交差することとなっていた建設中の相武鉄道(渋谷〜鶴川〜淵野辺〜上溝〜愛川を結ぶことを目的とした鉄道、未開業のまま倒産した)と折り合いが付かず頓挫、紆余曲折の上、鉄道省監督局に調停してもらいようやく工事が再開したのは昭和5年の2月であった。
翌6年4月29日に遂に茅ヶ崎〜橋本間が全通、沿線はたいへんなお祭り騒ぎであったという。

【全通時の路線図】
(停)は停留所、(貨)は貨物駅。※宮山・門沢橋・本座間は同年7月開業

       (停) (停)   (停)(停)座       相(停)
  茅 香 寒 宮 倉 門 社 厚 上 本 間 下 原 上 模 作 橋
  ヶ         沢     今 座 新   当   横 ノ
本 崎 川 川 山 見 橋 家 木 泉 間 戸 溝 麻 溝 山 口 本
  ○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○
線 ち か さ み く か し あ か ほ ざ し は か さ さ は
  が が む や ら ど ゃ つ み ん ま も ら み が く し
  さ わ か や み さ け ぎ い ざ し み た み み の も
  き   わ ま   わ     ま ま ん ぞ い ぞ よ く と
            ば     い   ど   ま   こ ち
            し     ず           や
                  み           ま
   (貨)   (貨)(貨)
  寒 川   寒 東 四
    寒     河 之
支 川 川   川 原 宮
  ○−○   ○−○−○
線 本 か   本 ひ し
  線 わ   線 が の
  か さ   か し み
  ら む   ら か や
  分 か   分 わ
  岐 わ   岐 ら

3・黄金期から混乱期へ
全線開業を果たしたが、その建設費は予想を遙かに上回るものだった。
折り悪く砂利業にも陰りが見え始め、昭和6年11月には寒川〜川寒川の支線を廃止する。
昭和7年なると近隣のバス会社・藤沢自動車(後、数社と統合して神奈川中央交通となる)が橋本を起点に厚木・八王子に大型バスの運行を開始すると、本数で上回るバスに旅客が流れかなりの打撃を受けることとなる。
対抗策として、蒸気機関車より加減速が良く小回りの利くガソリンカーを導入し列車の増発と「円蔵」「中新田」「上磯部」「大河原」などの停留所の新設などを実施した。
しかし経営は欠損続きで苦しく、昭和10年には相模川で大水害が発生し砂利採取場が被害を受け大幅な減収となった。
そんな中、日本初の電気式ディーゼルカー「キハ1000型」を導入、省線八王子まで乗り入れ茅ヶ崎〜八王子間を最短1時間12分で駆け抜けた。
昭和12年には陸軍士官学校が市ヶ谷から座間新戸駅付近に移転されると「座間新戸」を「陸士前」に改称する。日中戦争の拡大で軍人や公務の乗客が増加し鉄道事業は持ち直し始める。
翌13年には茅ヶ崎〜円蔵間に沿線に進出した日東製鉱所の請願で「日東」駅(当初は従業員専用、昭和15年に正式駅となる)を開設、貨物扱いもおこなった。
昭和14年になると、四之宮に進出していた昭和コンツェルン系の昭和産業により相模鉄道の株が買われ、役員も昭和産業一色になったが、昭和15年に昭和産業の社長が客死すると、あっさり相模鉄道株は放出される。
そこに目を付けた東京横浜電鉄(現、東京急行電鉄)の社長・五島慶太により全ての株が買収され、五島は昭和16年に相模鉄道の社長に就任し、忽ち東京急行の傘下となってしまった。
その後、戦争の激化に伴い軽油・ガソリンの入手は困難となり、日車から横流しを受けた蒸気機関車で気動車を牽引するようになると、八王子直通列車の運行も廃止される。
一層、戦時色が強まった昭和18年、軍事輸送の強化のために始まった私鉄の国家買収に対抗するため、小田原急行鉄道(現、小田急電鉄)・京浜電鉄・湘南電鉄(共に現、京浜急行電鉄)・京王電気軌道(現、京王電鉄)などの東急への統合の一環として、相模鉄道と神中鉄道が合併、それぞれ相模鉄道相模線・神中線となる。
しかし、沿線に軍事施設の多かった相模線は昭和19年6月1日に国家買収され、省線(当時は運輸通信省)の一員となった。
残された、相模鉄道神中線は東急とは合併せず終戦を迎え、現在に至っている。

【買収直前の路線図】
(停)は停留所、(貨)は貨物駅。※円蔵・香川台・中新田・上今泉・上磯部・作ノ口は昭和18年から休止中。

     (停)(停)   (停) (停) (停) (停) (停)相(停)       (停)
  茅 日 円 香 香 寒 宮 倉 門 社 中 厚 上 入 本 武 上 下 原 上 本 作 相 橋
  ヶ     川         沢   新   今   座 台 磯   当   上 ノ 模
本 崎 東 蔵 台 川 川 山 見 橋 家 田 木 泉 谷 間 下 部 溝 麻 溝 溝 口 町 本
  ○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○
線 ち に え か か さ み く か し な あ か い ほ そ か し は か ほ さ さ は
  が っ ん が が む や ら ど ゃ か つ み り ん う み も ら み ん く が し
  さ と ぞ わ わ か や み さ け し ぎ い や ざ ぶ い み た み か の み も
  き う う だ   わ ま   わ   ん   ま   ま だ そ ぞ い ぞ み く ま と
        い         ば   で   い     い べ   ま   み ち ち
                  し   ん   ず     し         ぞ
                          み     た         
    四(貨)
  寒 之 四 
    宮 之
支 川 口 宮
  ○−○−○
線 本 し し
  線 の の
  か み み
  ら や や
  分 ぐ
  岐 ち

4・国有化、無煙化、民営化そして電化
買収時には大幅に駅名・停留所等の整理が行われ、加減速時の燃料消費を軽減するため昭和18年10月から休止していた停留所全てと本座間停留所は廃止、日東→北茅ヶ崎・上溝→番田・本上溝→上溝・相模町→南橋本への改称、東急の「河原口」(現、小田急厚木)と「厚木」が離れていて乗換が不便な為、乗降場のみ河原口駅横に移設(この際「河原口」は「厚木」に改称)し乗換の便宜を図る等が行われた。
支線の四之宮口〜四之宮間は廃止、四之宮口は移設され西寒川と改称している。また、昭和21年に山王原信号場が開設されるが、昭和24年に廃止されてしまった。
※註:厚木駅は乗降場のみ茅ヶ崎よりに移動しており、交換設備・駅本屋は一切移動していない。(海老名駅開設以前は厚木駅本屋で列車交換を行っていた。上り列車に乗ると乗降場手前で待ちぼうけを喰わされる羽目になる)

【国鉄設立時(昭和23年)の路線図】
(信)は信号場※(乗)厚木(乗降場)と(本)厚木(本屋)は同一構内の同一駅。

    北            (信)(乗)(本)  相
  茅 茅 香 寒 宮 倉 門 社 山 厚 厚 入 武 下 原 番 上 南 橋
  ヶ ヶ         沢   王       台   当     橋
本 崎 崎 川 川 山 見 橋 家 原 木 木 谷 下 溝 麻 田 溝 本 本
  ○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○
線 ち き か さ み く か し さ あ あ い そ し は ば か み は
  が た が む や ら ど ゃ ん つ つ り う も ら ん み な し
  さ ち わ か や み さ け の ぎ ぎ や ぶ み た だ み み も
  き が   わ ま   わ   う       だ ぞ い   ぞ は と
    さ         ば   ば       い   ま     し
    き         し   ら       し         も
                          た         と
  寒 西 
    寒
支 川 川
  ○−○
線 本 に
  線 し
  か さ
  ら む
  分 か
  岐 わ

昭和26年にはディーゼルカーが導入され、昭和28年には夏臨として八王子直通列車(後年には快速「かっぱ」の愛称を付けていた年もあった)なども実施され活気を取り戻していく。
昭和35年には西寒川支線の旅客営業が復活(昭和29年から休止していた)、昭和40年には無煙化を達成し近代化が進められていった。
しかし、昭和59年に西寒川支線が貨物輸送廃止のあおりを受けて廃止されるという暗い話題もあったが、昭和61年3月に「相模線塗装」と呼ばれるクリーム色に青帯の新塗色気動車が登場し、イメージが一新される。
昭和62年の国鉄民営化直前には厚木〜入谷間に海老名駅が開業相鉄・小田急海老名駅との乗換も実現する。
そして、平成3年3月16日、相模鉄道以来の宿願だった電化を達成、相模線用の新車205系500番台が用意され、定期列車の八王子直通も復活した。
だが貨物営業は最後まで残っていた米軍の燃料輸送が平成11年に廃止され、相模線は通勤・通学路線としての使命を帯びてゆくこととなった。

【現在の路線図】
※(乗)厚木(乗降場)と(本)厚木(本屋)は同一構内の同一駅。

    北            (乗)(本)    相
  茅 茅 香 寒 宮 倉 門 社 厚 厚 海 入 武 下 原 番 上 南 橋
  ヶ ヶ         沢       老   台   当     橋
本 崎 崎 川 川 山 見 橋 家 木 木 名 谷 下 溝 麻 田 溝 本 本
  ○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○−○
線 ち き か さ み く か し あ あ え い そ し は ば か み は
  が た が む や ら ど ゃ つ つ び り う も ら ん み な し
  さ ち わ か や み さ け ぎ ぎ な や ぶ み た だ み み も
  き が   わ ま   わ           だ ぞ い   ぞ は と
    さ         ば           い   ま     し
    き         し           し         も
                          た         と

前ページに戻る。