角川短歌賞受賞作品

乱反射(小島なお)

角川短歌賞予選通過作品

会社倒産(後藤人徳)

仮眠する夜警を四時におこしたり資金繰りにて夜を明かしつつ

はばからず休日なるも出社する社長に就業規則なければ

使用人の後で食べろが家訓なりわが給料は五ヶ月遅れ

われの分家族の分を棚上げしかつかつ払い終えたる給料

止めるなら止めてみろよと思えども水道料も五ヶ月未納

人件費設備維持費や光熱費経費かさむも客足は減る

保証人、担保、黒字を必須とす中小企業救済融資

虐待死する幼子の記事を見る零細企業の倒産のごと

四ヶ月五ヶ月溜まり六ヶ月となる未払の動かしがたし

資産価値五割を割れる土地の上(へ)に六階建てのホテルが揺れる

あてのない金繰りに夜は更けゆけりカナブンひとつ飛ぶを眺める

自殺せしはた夜逃げせし同業者われはいかなる道を選ばん

古時計の修理に時を費やせり金繰りのこと忘れ夜更ける

中庭に椿咲かせて廃業となりたる宿に人影のなし


病む母は見舞いのわれの姿見て管のままにて起きあがりたり

道端に捨てられている扇風機寒風に向き激しく回る


風化する巌になおも生える苔添い生きゆくか疑いもせず

藤の蔓古木を巻きて登りゆく自ずとものに添いて生きいる

力こぶして懸命に生きている生きものなんだ銀杏もわれも

青雲の志もて日に向きし向日葵ひとつ頭を垂れる

葉も茎も枯れて夕日に立ちており添木支える向日葵一本

胃の全摘、前立腺肥大の話題われらはすでに六十と知る

一時間友と語りしひとときは六十分なり三千六百秒なり

わが性(さが)の暗さを言いて叱りたり友の言葉を思い出しおり

米国の国花といわれる花水木黒船祭の会場に咲く

自らを卑しめしはて身投げせしお吉ヶ淵を見下ろしている

玉泉寺境内狭く日本初屠殺場跡と立札記す

牛乳を病めるハリスに飲ませしと牛乳発祥碑文のお吉

この道をハリスとともに歩みしか廃れし庭に薔薇の咲きいる

法外なる召使解除給金の受取に残るお吉の署名

髪結業、芸妓、女将と移りゆき物乞いをもて終えしお吉か

渦なかの一葉のごと揉まれしや酒に溺れて果てしお吉は

お吉呑み命奪いし深淵も護岸工事によりて痩せたり

芸妓らのお吉供養の行列を痩せし川面は映し流れる

身投げせしお吉ヶ淵を旧名に門栗ヶ淵と呼ぶ人はなし

砂浜の砂の一粒われなるか露の宿りて輝くものを

わが体作れる水よ道端の水溜りさえ天を写せり

稲の虫駆除せんとして農薬が青田の風に乗り入(はい)りくる

輪投する老人会の憩いの場農薬散布の白煙覆う

休耕の荒草のなかに曼珠沙華いよいよ咲きてさらに寂しき

街角の最後の一夜灯し終え電話ボックス今朝撤去さる

癖を持つ鍵の施錠に手間取ると夜警初日の日誌に記す

巡回に各階巡る午前二時猫か鼠か物陰に去る

今日は今日の闇に向わん夜警われ懐中電灯ひとつ頼りに

身を虫に刺され作歌をせし茂吉夜警詰所に赤光を読む

一筋の光となりて伸びゆけり懐中電灯に夜空を照らす

灯すなく今日を終えたる客室の闇に懐中電灯向ける

白みゆく外の空気を吸込みて今日の最後の巡回終える

歌のことどれほど深く知りえしや六十歳にならんとするに

何故もっと深く知ろうとしないのか啄木が言う子規が頷く



乱反射

牛乳のあふれるような春の日に天に吸われる桜のおしべ

ギリシャの神話の裸婦を思わせ林の奥に美術館あり

ダリの眼に映る天地は狂気なり世界は透みて『聖アントワーヌの誘惑』

たくさんの蟻群がれるその中に美少年なるダリの悲しみ

足長象と燃えるキリンを描きたるサルバドール・ダリはマザコンなりき

十七歳で母を亡くしたダリのこと人を殺した少年のこと

東京の空にぎんいろ飛行船 十七歳の夏が近づく

中間試験の自習時間の窓の外流れる雲あり流れぬ雲あり

はつなつの若楓(わかかえるで)のきらめきてその下通る人ら美し

エタノールの化学式書く先生の白衣に届く青葉のかげり

講堂の渡り廊下に藤棚のこもれび揺れて午後がはじまる

なんとなく早足で過ぐ陽差し濃く溜まれる男子更衣室の前

五月闇ひとびとの肌仄白くそのひとびとのまなざし遠し

黒髪を後ろで一つ束ねたるうなじのごとし今日の三日月

バス停やポストや電柱ひびき合い痛いくらいに夜は澄みゆく

海亀が重たきまぶた閉じるごと二つ雫のコンタクトはずす

むせかえるような匂いを放ちつつだんだん小さくなった石鹸

銀色に朽ちてゆく竹現われぬ祖父の入院聞いた今宵は

われのまだ幼き頃の思い出は紫陽花の花群れいる蒼さ

霧雨のあたたかく降る夜ふけてわたしの体かぐわしくなる

三階の一番隅の教室で英語の虹の詩を読む六月

かたつむりとつぶやくときのやさしさは腋下にかすか汗滲(し)むごとし

制服のわれの頭上に白雲は吹きあがりおり渋谷の空を

噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし

靴の白 自転車の銀 傘の赤 生なきものはあざやかである

やわらかく白い体をひるがえしゆっくり沈む水槽のエイ

ほの暗き水槽の壁にたくさんの吸盤つけて蛸、瞑想す

維管束もたぬ海藻揺らめいて海のからだをひきよせている

妹が叱られている雨の午後こぼれ落ちゆくアロエの果肉

まだ染めぬ黒髪香る妹は首のうぶ毛をそよがせて寝る

曇り日の母の碧のワンピースぼんやりとして少しかなしい

手回しのオルガンまわすてのひらのなかいくたびも耳が咲(ひら)けり

日光を浴びることなく食われゆくホワイトアスパラガスあくまで白し

台風の目に入りたる青空に胸の艶帯びからすは光る

台風の過ぎたる今日は夏めきて教室のなか陽の斑がゆれる

聖書読む時間はいつも眠たげなり眼鏡をかけた先輩の顔

蛇口からこぼれる雫 キリストの出現前のヨハネの涙

図書室の窓より見れば緑蔭のベンチに友がひとり座しおり

たくさんの眼がみつめいる空間を静かにうごく柔道着の群れ

黒々と垂れるぶ厚い雲の下地(つち)より生える二本の鉄棒

特急の電車ぐわんとすぎるとき頭の中でワニが口開(あ)く

梅雨の夜は重たくあかく濡れている小さき球のさくらんぼ食む

生ぬるいシャワーを浴びて出でくれば雨ののちなる空潤えり

首長く夜空へ伸びてこっくりと満月を包むきりんのまぶた

母親に抱かれ静かになりし子の眼は深みどり深夜のバスに

はるかなる遊牧民のはるかなる歴史を思う人は孤独なり

ひと吹きの音遠くのび麦笛は太古の風の韻(ひびき)とおもう

水面を揺らす金魚の淡き鰭ゆうべの時間あかあかとして

公園の電灯強き土の上花火のあとを甲虫這う

ベランダに風呂桶置いてめだか飼い知らないうちにいなくなった夏