近藤芳美





近藤芳美著『新しき短歌の規定』よりNO.2

「自己追求の詩―人事詠の課題」
「『新しき丘』の世界」 「把握と具象性」 「定型と文語」 「歌壇の生態と定型」 「白痴美の歌」 「過剰表現の歌」 「歌集『遍歴』」「用語と声調」 『丘の上』を読みて 「若き歌人らに」 「真の抒情の為に―写実と抒情に関して」 「何のために歌を作るか」 「短歌をつくる心」「作品の問題性―「アララギ其一欄」に関して」「戦後短歌の図表」 「相沢正の歌」

近藤芳美著『新しき短歌の規定』よりNO.1


「相沢正の歌」

(一)

相沢正、昭和六年「アララギ」に入会、昭和十九年中支で戦病死した。三十三歳であったと思う。歌壇的にはほとんど知られる事もない生涯であったが、彼の独自な才能と詩性豊かな清新な歌風はアララギの内部で早くから注目され、特に僕らはぼ同時代に学んだものの間では、何と言っても早く死んでしまった事が悲しい人であった。

僕は彼との個人的な関係が少なく、其の生涯を語る立場に居ない。そうした事は将来彼の歌集が出た時に樋口賢治だとか小暮政次の如き人々によってなされるであろう。又彼の歌の本当の評価は、もっと多くの時を透さなければ出来ない事でもあろう。

では何故僕は彼の作品をとり上げて感想を書こうとするのか。正直なところ今彼の遺稿を読みかへして、かっての如き感動は受けなかった。何といっても僕らは長い戦争と敗戦の日々を生きて来、それ以前の時代との間に一種不透明な垣を作ってしまった。

戦争以前の抒情はすでに今日の吾々の抒情ではない。一種もどかしさを何と形容すればよいのか。かって吾々が集り酒をのんで悲しみ合った事が今は白々しい。彼の歌から受ける感傷も一応はこの類であった。

だがやはり僕は彼の歌をもっと人々に読んで欲しいと思う。特に僕らより五年なり十年なりあとの人々に知って欲しいと思う。こうした一つの青春が、わずか数年前迄あった事を知ってもらいたいのだ。

彼の作品を語ることは同時に吾々の青春の時期を語ることかもしれない。

(二)

あらはなる浜の家居よ夕餉する家の庭をも通り抜けにし

昭和六年六月号の「アララギ」に出た歌で、おそらく最初の歌であろう。年齢は二十歳であったのか、この幼い出発にはたれしも一種のなつかしさを感じよう。たれも皆似たような稚い、しかしどこか清新な抒情で歌をはじめたのではなかろうか。だが若し更に僕が何か言わなければならないのなら、「あらはなる浜の家居」「夕餉する家の庭」あたりに、後の日の相沢正の心にくいばかりの詩の把握の萌芽がある事を考えよう。

  時雨ふる浜の夕に貝殻を敷きたる道はぬれ光りつつ

之も同じ時の作だ。稚いながら、そうして現実を見てのそのままの素材ながら、何か言わば「此の世ならぬ」一つの世界があるではないか。

後年の作、

  水際にしばしためらふ蟹の子のすきとほりつつ砂(いさご)をわたる (昭和十六年)

  むしあつき三崎の磯の夕なぎに来りて一人潮を浴みをり       (昭和十七年)

等に相通う、現世に居て現世ならぬ相沢正の世界が早くもここにあるのではないか。

(三)

白々とテニスコートに降る雨を話尽きたる吾は言ひ出す

ゆるしてくれと前置きしたる我の友の話は階段を降りつつ聞く

さびしさは秋と言ひ来し吾が友のわざとらしさを感じつつ居り

同年の作である。この瑞々しい若さを今日の学生らはどう受けとるであろう。「ゆるしてくれと前置きした」このかっての僕たちの青春の語勢をどのように彼らは理解してくれるであろうか。

感傷的でありながら感傷のいやみのない歌も一つの特長であった。感傷を一種淡々として白い自己の世界に醇化してしまふ、一つの詩の世界の中に再現する才能がこのころの作にさえすでにあった。

  ひろびろと部屋にすまむち妹は窓口たかく本を積み更ふ

昭和七年の歌、兄と妹と下宿ぐらしを重ねて其の折々の心理をうたった作品はづっと後年迄くりかえだれ彼の歌の一つの特長となした。部屋を広く住もうと言う妹のことばと、それを聞きとめたこの若い感傷の世界が淡々としてまとめられて居る。こうした心情のかそかな一屈曲を把えるうまさは後年に及び、次第に独自のものになって行ったが、今は其の点にふれない。「彼と妹」の歌が後年どのように変わって行ったか。遺稿の先の頁をくって見よう。

  黒髪の房なすをとめ今日来り妹にヘアアイロンかけしむ     (昭和十三年)

  白飯に目差を焼きて食はむなど今朝妹に吾が言ひしのみ     (昭和十四年)

こうして生活のかげが彼の年齢と共にいぶしのように二人の生活の間にかけられて行く。もしこの「彼と妹」の歌だけを抜書きして行っても一つの人間の世界の展開が描けよう。

彼の妹さんは今の小暮政次夫人杉子さんである。杉子さんの事を思えば酔っぱらい樋口賢治の善意にみちたおせっかいの一挿話を思い出し、同時に浅草喜久屋で共に酔った相沢正を思い出す。すでに取り逃がしてしまったような悔のみ残る僕達の「一時期」であった。

(四)

相沢正の歌は昭和九年に一つの進展を見せて居る。同年一月「アララギ」の歌に次の作がある。

  冴えざえと夜半に目覚めて吾が恋ふる魚食ひ足りてゆきし荒磯を

勿論之は製作年度から言えば前年昭和八年のものであり、明確な線を昭和九年に引くわけに行かないが、とにかくこのあたりからの彼の作品は、明るい稚い少年期作品から転じて、

一種の模様化とも言うべき独特の技巧を得てようやくユニークな詩の世界に入ろうとして居る。

同年十月には次の如き一連の作品があり、前者と似たような世界ながら、更に一段と高い芸術性を加えている。

  砂(いさご)吹く荒磯のうへをたづさはり来しくもしるし遠き白波

  かがやける今日の入日は潮けぶる伊豆の磯わの上にたゆたふ

  白波の騰(あが)る沖より船着きて生きる魚が砂につまれぬ

高々と照れる月夜の白むまで目ざめて居りぬ海のやどりに

吾々は今されにしてこのうまさに驚く。「潮けぶる伊豆の磯わ」と言い「白波の騰る沖より」と言い端的な把握とともにこの極度に無駄を技を省いた技巧をいつのまに彼は自分のものにしたのであろうか。よき師とよき先進との間に早くから交わり、言わば羨まれてよい出発をした彼が、三年目にようやく自己の詩の世界を展開しようとして居る注目すべき一連ではなかろうか。

(五)

僕は上京したのが昭和十年であるから、このころの彼をしっているわけだ。手もとに年譜の様なものが無く、正確にはわからないが多分この年ぐらいに法政大学を卒業したのではなかろうか。青白い眼鏡をかけた顔がいつも少し微笑して、歌会の席上よくバットの箱か何かに鉛筆で歌を書いて居た。細いすき透る様な手がいつも少しぶるぶるして居た様だが此の印象は正確であろうか。小暮さんなり樋口さんなりに聞いて見たい。まだ戦争なども無く、僕は人見知りをする大学生であり、俊秀な先進としていくらか畏怖の念をもちつつ彼と隣り合って歌評会の席等につらなって居た。

昭和十年にも注目すべき作が多い。

コスモスのうらがれながら咲く見れば日のくれぐれに蜂の飛び来ぬ

しろしろと波立つ磯わ暮れゆきて島山見れば高き星空

荒磯辺に心静かに居らむにも我をめぐりて濁る波かも

松蔭に丹色冱えて立つまんじゆさげ人下りゆきて刈り始めたり

(六)

  朝より空気こもれる室の中にマスクをかけて事務とる吾は

  心なじまぬ主任に今日も物を聞くマスクはづして臭ふ空気に

こうした歌になると彼のもろい弱々しい性格がそのままに出てあわれである。恐らく実務の人ではなかったのであろう。類型の多い歌ではあるが彼の性格の純粋さ故にうじうじとした澱みがない。

  間借りしてかくある吾にふみ寄せて驕りいましむる国の人々

  青山に移り住みつつ夜々の月目隠し窓のうへに照るかも

  酔ひしれて寝ざめしはずみに思ひ出づズボンに押しをして寝ることを

彼もこうして社会の中に生き苦しまなければならない。しかしここに歌はれて居るのはいまだ其の時々の感傷である。進んで生活の泥にまみれようと言う意思的なものでもなく強い批判も抗議もない。むしろ受身な、場違いな立場に自分を発見したものの当惑したような弱々しい微笑の詩だ。

  仕切られし池水に波たて榜ぎあそぶ著ぶくれし紳士が女を乗せて

強い風刺ではない。作者は弱い肯定の微笑でこの社会の片隅の小世界を見ているのだ。此の生活なり社会にたいしての受身の弱さは、年齢の陰翳を加えつつそのまま後年に及んで居る。

  砂ほこりあげつつころげゆく球をみつつ声あげぬ老いし紳士が

同年の、前後した相似た作品である。

(七)

かやつり草茂る空地の夕暮れて花環を造る君と居りけり

昭和十年の作品のなかにこんな相聞歌が交って居る。どんな事であったのであろうか。おそらく微風の匂いのように彼の生活をよぎった恋愛とも言い得ないような面影なのであろうか。

しかし相沢正と恋愛の問題を語り得るのも僕ではない。僕は相沢正とほとんどこのころ生活を共にしていた樋口さんや小暮さんに聞く立場にある。ほしい儘な青春の日を生き、或る意味では幸せであったとも言える彼も対女性の問題では余りめぐまれた青春とは言えなかったのであろうか。

いずれにせよ、この童話めいた一恋愛詩を僕は愛惜すると共に、かかる歌の生まれ得た十二年前の吾々の世界をもはや別個の世界のように今は考えるのである。


(八)

さまざまな術語を軽々と言ひながら吾が前を過ぐ若き技師たち

昭和十一年の作。ちょうど新橋渋谷間の地下鉄が施工中であり青山通りは工事現場であった。夜おそい歌評会の帰りなど工事現場の赤い灯や、カンバスを覆ったさまざまな機械などに僕たちは淡い感傷をもった。相沢正は青山発行所の近くに間借りして、「アララギ」の発行事務にいそしんで居た。

  幸うすき家族の中に吾等二人間借りをしつつ幾年を経ぬ

  次々に運ばれ来る校正刷につぶやきながら一日むかひぬ

  かがやきて装ふ少女ら入り来り夜半ながながと物を喰ひつつ

  言毎に声あげ笑ふ老人が人押し分けて電車を下りぬ

夫々に都会生活への感傷が淡々と行きとどいて居るではないか。怒るでもなくにくむでもない作者の弱々しい抒情と諦観とが一つの世界を作っている。人或いはこの弱さ、淡白なタッチに飽き足らないかもしれない。戦争の時期をへだてしまって僕たちはかろうじた都会性をもはや遠いものとしか考えられないようになってしまった。

(九)

  水底のまなごにしづく白飯をうばひあひつつ蟹のいさよふ

相沢正の好んで取扱う主題に虫魚の生態がある。いづれも器用な把みかたで、きはどいタッチで巧みにこの小生物の生命を描いている。之等の題材にかぎらず、こうした小品的作品世界に一種の才能を持つ作者であった。

  掬ひ上げし真名子の中に河鹿の子たゆたひながらしばしとどまる

  ふかぶかと底(そこひ)に沈む著く水草にひそまる虫の常ならなくに

しかしこうした歌は後年に至り何か瞑想的なかげを加えて行く。一種の象徴世界を作りなす。後年の作をみよう。

  室すみの埃にひそみ棲む虫の心たゆたひ過ぎし幾日        (昭和十六年)

  水際にしばしためらふ蟹の子のすきとほりつつ砂(いさご)をわたる ( 同年 )

殊にあとの歌は僕の忘れ得ない愛誦歌である。

(十)

この年の「アララギ」十一月号、十二月号にのった、旅行詠は共に佳作であった。数首をぬいて見よう。

  夕かげの藤原に道ふた分れ宝川いづこ荷を負ひてゆく

  秋くさの茂れる中に道かよふゆきゆきて今日のやどりいづくぞ

  山水の押し流したる石村を人らわたりて浅貝に越ゆ

  残りたる燻製をまた荷に収め幾日はるかに行く吾等かも

  鉄気しるき土の窪みの溜り水昨日の如く三人のみ合ふ

いつのまにか彼は之等の技法を身に具えた。言わば古典的な技法でもって描かれたこの新しい旅愁を当時の僕たちは如何に感傷したであろう。彼としてもようやく油の乗り切ろうとした時であり、とにかくお互いに夫々のたのしい生活を持ち得た時期であった。今日の事態にまで来たったその萌しも、いまだ吾々には直接には知り得なかった。

(十一)

当時の吾々の同業者のうち彼は最も近代的な意味での詩をもって居た。樋口賢治は之に比べると、くらく田園的であり、小暮政次は批判的であり峻烈であった。相沢正の詩の世界はいつも瀟洒で淡白で巧みなタッチと空白とをもって居た。対象の核心に全身的に喰ひ入ると言ふよりはあるへだたりをおいて一つの画面を作って行く行き方であった。抒情の過剰から来る野暮ったさなど彼の場合には見られない。反面こうしたところにあき足らなさを感じられよう。

十二年の作、

酔ひしれし一夜の明けに恋ひ思ふ何か青々と流るるものを

白百合のはやしなへぬとをとめごの告げ来るさへなよなよとして

草花の此室にては保たずと甚(いたく)色白き処女答へぬ

(十二)

丹念に見て行けば十二年には更に注目すべき作品が多い。其の淡白なタッチのためともすれば見逃すのだが、僕は一首一首にあらためて其のうまさに驚くのだ。

  日没(い)りてなほ耀きし白雲が夜(よは)の間もたゆたひにつつ

  傍らに席をとりたる船員が毒づきながら給仕を呼びぬ

  ゆふかげに草ごもる如く人のゐて向かはりたる凧の糸繰る

  汗ばみて立ちゐる吾のかたはらに時おきて噴く通風孔あり

凧の糸繰ると言い時おきて噴くと言ひ、唯の技巧ではない。抜きさしならぬ把握がある。

  たちまちに衰へしるき君がへをやや離れつつ稚子あそべり

かかる作品になればすでに淡白だとか瀟洒だとか言って簡単に片付けられない物がある。彼の作もこの前後から更に生活の段階をもう一段下へ下りて行こうとする。

(十三)

昭和十三年の作品、やゝ意図的に連作された作品が二つある。一つ三月号に出た労働者をあつかつた五首、他は五月号の宗教的一場面を材題とした七首である。

  一日の仕事わりあつる声の前に人突きのけて行く老人夫

  仕事を割当ててゐし声やめばもだもだとして引きかへす群

  頑丈なる老人夫の傍にものを言ふ声しはがれし少年人夫

それぞれにたしかな把握があり、一応作者のものとして整理されてはゐるが、やはり彼全体の作品から見れば一級のものとは言えない。こうした素材を生活体験として受け入れ得なかった性格的な限界があるのであろう。

常に自分の立場からしか作歌し得なかった事は、結局彼の作品乃至素材に一つの好みを作って居た事になり、其の範囲で次第に深いかげをつけて行った事実を、彼の短歌生涯史として見て行かなければならぬ。

ひそひそと吾に寄りそふ如くにして外国人が冊子をくれぬ

  告白して下りし男のかたはらに次の少年が答へて立てり

  己罪を告ると立ちたる少年の声がはりせし語調ひびきぬ

  体裁なく亢奮しつづけし一人をば思ひ出しつつ吾はにくしむ

比較して一連の方が、作者の心理が其の場面に強く出て居るだけよいと思う。習俗に対するこうした生理的嫌悪は、普通其の怒りを諦感乃至微笑の形で自己の内にむける事により処理して居た作者だけに、かかる率直な表白は材料が材料だけに異様である。

(十四)

しかし相沢正のよさは、かかる意図的なものを離れた、其の時その時の生活感情のかすかなうごきをさらりとすくい上げたような小品一首のうちにあるのだ。

  うらみわびその時々に酒をのみたまゆらに湧く自負になぐさむ

  冬著すと取出したる著物みな酒をこぼして汚染つきて居ぬ

  襖障子(からかみ)の白菊模様冱えて見えいたく落着く一時があり

こうして自分だけの世界に立ちむかった作品を彼は次第に深めて行く。夜半唯一人部屋を閉じている、作者の見る白地に銀色の菊模様は、其のまま相沢正の世界の象徴とも言い得よう。

  くぐもれる渚を連れてゆくふたりいたく離れて見ゆる一とき

  落畑村ゆうべやさしく鐘を打つそこばくの柿?ぎて人去る

新鮮な詩の世界を、この軽いタッチで描き出して居る。かかる作品を見るとき競いたった今日の吾々周囲の作品群が、如何にやぼったく手際の悪く見える事か、詩に於いて表現は最小限であるべき事を、この作者はほとんど潔癖な迄にまもって居た。

(十五)

昭和十二年にはじまった戦争は吾々の世界をどのように変え、吾々の生活にどのように影を落としてきたであろうか。近代教養の中に育ち、当時すでに陰惨な一面だけであったが吾々の知識の形として一応吾々――作者相沢正をふくめた吾々の世代の中に生きて居た世界観は、この戦争をどのように受けて行ったであろうか。

相沢正の作品は直ちにこの答えを出して居ない。昭和十三年にヒットラー、ムッソリニをあつかった作品があるが之はむしろ軽いカリカチュアとして彼らを見て居るだけである。

昭和十四年五月に、

  妹君いたくやさしく坐りゐて戦に行かむ君をぞ送る

と言う一首があるが、彼の所謂事変詠は、終に一貫してこの一線に止まって居た。体験を通じて以外に戦争を解釈する事を拒んだ態度は、彼の作歌態度として解する以上に吾々の世代の良心の清冽さとしてたれか一度取り上げて言ってくれてもいいのではなかろうか。

  今夜また酒に酔ひつつ一人ゆきありし木立のなかに眠るかな

時代の予感におびえつつ、粗雑な暴力的な声の中に生きつつ、こうしたせいかつをし、こうした作品を残して来た事実に、僕らは抗議以上の物を感じる。僕らはとにかく彼の時代にこの清冽な詩を身をもって作って来た。吾々の世代の絶望の戦争の前夜とも言うべき時代をどのように生きて来たかを、この一首は或いは端的に説明してくれるのではあるまいか。

(つづき)

(十六)

  うつうつと吾がをる路地に人の来て束ねられたる鶏を置きぬ

  縁とほき吾が妹を今朝もかも言ひつつ母の髪くしけづる

  白飯に目差を焼きて食はむなど今朝妹に吾が言ひしのみ

  ただ一人疑ひ易くもろくして其のをりをりに堪へ来し涙

すべてしみじみとした作者一個の世界である。習俗を嫌悪しつつ、だが彼はいつも市井の中に生き其のいとなみを愛惜した。路地と、間借と、妹と、目差と、こんな生活の四囲を、常に彼は淡彩なリリックな芸術に仕上げて行った。

僕は相沢正をユトリロとくらべて考えた事があった。市井にあり、市井の生活を愛惜し、何かこの世ならぬ世界を其の中に掴んで来ようとして行き方に、どこか一点共通した作品の性格があるのではなかろうかと考えたのであった。

(つづき)

(十七)

歌の新しさが何であるかを説明するのは困難で、抽象的な言葉でこれを究明することはほとんど不可能とも云える。詰りは其の時其の時の作品一首に当ってゆかなければならない。だが相沢正の場合、かなり明らかに其のいくつかのカテゴリーを見出しえる。彼の作品に翻訳文学的世界の匂いが強く、それがよく消化されて居て、一つの新しさになって居る事も、作品に当って見て行く場合すぐに感じる事である。

  外国人ら相連りて波越ゆる眼鏡落しし吾がかたはらを

  時おきて篠懸の葉におこる風恋ひつつぞ食ふ鹹きマカロニ

吾が立つる食器の音にふり向きて表情つくる混血児をり

時過ぎし地下食堂に入り来り酔ひし紳士に今日も逢ふかな

ユーカリ樹聳る丘が見えつつぞ煙の如き一日の空

これ等はすべて昭和十四年末より十五年にかけての作品である。いづれも何か瀟洒で、じめじめしたところがない。高度の文学教養を裏付けにしたこの軽いさりげない筆触は心にくいばかりだ。

それとは少し世界が異なるが、相前後して次の如き作もある。これも一種の詩の教養の裏付けなしには近づけない世界である。

 酸漿市けふ立つみ寺をろがみて氷食ふこそしたしかりけれ

(つづく)

(十八)

昭和十五年初期の作品相聞の一連がある。

  逢へる夜の時じくの雪顔伏せて歩める汝が額ぬれつつ

  ホットレモンのみて出でたる道のへに雪解けの水澄みて湛へつ

だがかかる作になると僕らは彼の淡々とした描き方に少しいらいらとする。何故もっと捨身に当って行けなかったのか。何故この薄絹のような美しさに作者は止まってしまったのか。

現身(うつしみ)のかぐろき髪に吹くほこり遠くかそかに人をこそ思へ

たしかに此の世界はあはれであり美しい。

ほとんど他人の追従をゆるさない境地である。しかし僕は相沢正の限界が何だか見えるような気もする。これから先をかき分けて行かない、血を出すことを物憂がる彼の白い細い指を見る気がする。

この事は相聞歌だけにかぎらない。

  をりをりの雨にいたみて傾きし簾を巻きぬ吾が部屋の秋

たしかにうまい作品である。だが、之はあやうく支えられた境地の美しさである。何か読者に背を向けた作者の寒々しい姿だと思う。

(十九)

十五年十六年あたりから歌の数も少なくがって居る。一つには紙の制限もあったのだが、やはり何かしら歌の作れない時代になって居た。すべてが不愉快で、酒でものむか古典でも読むか、仕方のない時代になろうとして居た。

このころの彼の歌は、巧みな、手放れのいい作品がある一方、かなり調子の低いなげやりな作品が少なからず交じる。

  室すみの埃にひそみ棲む虫の心たゆたひ過ぎし幾日

  はにかみて席に著きたるたわやめの物食ひ終へて口紅を引く

  雨もりの痕いちじるき吾が部屋に何時の頃よりか鼠絶えたり

いずれも昭和十六年の歌だが、一体このころの作は彼としては平凡と言えようか。どんな生活をして居たのであろうか。僕は戦争に行く前日、十五年の秋、偶然丸ビルで彼に遇い一緒にお茶をのんで別れたが、其の時は中央公論社につとめて居、都会の事務家らしいきびきびした態度であった。僕が次に東京へ帰った時は、すでに入れかわりに彼は中支に行って居た。

(二十)

十六年末太平洋戦争になった。十七年はじめの「アララギ」に彼の戦時詠がいくつかのって居る。

  突きすすみ機翼をかへす吾が二機の姿も永久(とは)にとどめたりけり

と云うごとき歌である。之らの感じは冷静であり、がさつな興奮を見せて居ない。しかし結論から言えばいずれも高度の作品と言えなかった。むしろこのころ歌を多く作らなかった事に、僕らはそのままの彼を理解して行こう。

同じく八月号に、

むしろあつき三崎の磯の夕なぎに来りて一人潮を浴みをり

淘げたる米の中にていつまでも死をよそひゐる虫をぞひろふ

夜はやく帰らぬ吾にをりをりに巡りをへをる回覧板あり

の三首がのって居る。この歌以後に作品はなく、翌十八年四月召集、中支に行って戦死した。

三首いずれも佳作であるあ特に最後の一首は絶唱と云えよう。孤独の果てに立った一個の人間像が、悽然として浮き上がる。

(つづく)

(二十一)

昭和十九年に、彼は中支で戦病死した。一度彼の戦地詠が「アララギ」にのったが、それは私信のかたちで小暮政次に送られたものと聞いて居る。

彼の戦地での事、最後の事はほとんどわからない。何かわすられたような死であった。

土屋文明先生は支那旅行中であった。『韮菁集』の中に「相沢正君戦死の報」一連の作品がある。

   思ひつつ朝(あした)渡りし水上(みなかみ)にすでになかりしかああ相沢正

   酔ひすぎる君を或る時は怒りにきしみじみとして今朝一人思ふ

 (付記)この文章は二十二年一月から十月迄、五回に分け、其の時々に書いた。僕の相沢正への評価も其の都度に変わって一貫しないものになってしまった。だが本当の評価は、も少し時をおかなければ出来ないであろうし、或いはもっと冷静に第三者の立場にたてる人でなければ出来ないかも知れない。

 相沢正は不遇な歌人として早く終ったが、又、一つの時代にほしいままな青春を生きたとも考えられる。そんな所迄になるともはや僕には分らない。

 この文章中に彼の相聞歌としてとり扱った歌が事実そうでなかった事をあとで知った。しかし今はそれをもそのままとして置く。(1947・10)

 

「戦後短歌の図表」

(三)

だが本論にもどろう。

瓦礫の街に、地を這う同胞の生活の中に始めは唯直写して居たものを、吾々は更に何か美しいものを、光の来るものを見ようとした。

そうして、其のため、いつかしら、二つの道が自らにわかれて取られるようになった事を、大雑把に僕らは見てもよいと思う。

それは、一つは、この暗い現実の中に、夢をさがし、夢を描き出そうとする方法であり、瓦礫の一かけら、人心の一片から、再び美しい夢を構成して行こうとする方向、豊かな心象の世界を、作品の中に作り成そうとする方向であった。作品としての可能を信じようとし、も一度美しい芸術の世界を打ち立てようとする。

それに対して、別の行き方は、瓦礫の街とさまよう人々を正視しようとする。そうして其の中に身をもって生きようとする。それは決して明るい生き方ではなく、時に、かぎりない深淵をのぞく事もある。だが、とにかく、現実を現実として受けとり、其の中に生き、その生き方の果てに、人間の美しい世界を求めようとする。其の場合作品は、自らの生の軌跡として、はるかに明るい美しい世界を指さして居ればよい。

無論この二つは相互に重なり合う。一人の作品の場合に於いてもそうだし、一つの作品すら同時に二つを重ね得る。

だが、大雑把に言って、戦後の短歌が次第にこの二つの方向に別れつつある事は、一応明らかであろう。そうして、前者が抒情派だとか芸術派だとか言われ、後者が写実派とか人生派だとか呼ばれる事は、ここでもあらゆる文芸分野に於ける分けかただが、同じようになされるだけである。

この分岐点はあるいは僕と大野とのフィクション論争であったかもしれない。だが大野には素朴な抒情と常に明るいヒューマニズムがあった。しかし一つの波は常に次の波を呼ぶ。大野の線が肉体短歌などと言う肉体のない虚構芸術につづいて延びて行った事を彼は苦笑して居よう。

後者も又一つの類型を作った。小市民的自己批判がまるで細菌分裂の如く安易に歌壇にひろがって行った。

しかし、しばらくそうした派生現象を気にする事を止めよう。

(つづく)

僕はこの二つの方向が、今如何になりつつあり、将来どうなって行くかを考へたいと思う。

結局前者はメタフィジックなものを追って行くようになるのであろうか。それは今迄にもしばしば試みられたかも知れないが、戦争が見せつけた一種の虚無感は、今度はそれが本物であるために、一人の心象の世界を内へ内へと追ってゆく事が、今度は本物として出来て行くのではなかろうか(吾々より更に若い多数の作家がこの方向に自分の行き方をとって居る事実を、吾々は考えなければならないと思う。)

だが、僕にとって今大事なのは第二の道だと思う。僕は三たびともす灯だと言った。第二の道こそそうなのだと言いたいのだ。

僕らは今日の現実の中に身をもって生き、自らの生き方を作品に軌跡づけて行こうとする。しかし、現実は平坦な道ではない。僕らは其の障害を打開し打開し生きて行かなければならない。そうして其の障害が、人間自己の外にある場合もあり、内にある場合もある。内にあるものとは矛盾をはらんだ自分の生き方だ。其の場合吾々はそれを正視し、それを克服するために作品として白日の下にさらけださねばならない。其の為にこの方向の作品はいつもきれい事を言ってばかりは居られない。しかしそうする事によって自ら描かれる作品の軌跡線が、吾々の生き方の何処をさして居るかを結果的に示す筈だ。

ともかく、戦後の新しい一つの波は、今や二つに別れようとして居る。前者は芸術主義的と言えるし、後者は写実主義を通過して結局文学の政治主義に行ってしまうのであろう。つきつめて行けば其処に行ってしまうのであろう。そうして、この二つの分化は、所謂新歌人集団系の作家にはいまだ著しくなく、彼らが其の二つものを自己のうちに同時に持って居る場合が多いのに対して、其のも一つ次の層の作家群にはかなり著しい現象となって分かれているという事実も、今は明らかに指摘出来るであろう。

この事は更に二十代と称する無名歌人群に至って、ほとんど典型的分化をなして居る。

之が僕の描く戦後歌壇の図表線なのだ。そうして、更に言えば、僕は今だまってこの二つの流れを眺めて居る分けでは無く、僕自身何らかの決をとらなければならない気持になって居るのだ。

それは僕らが一人の人間として、今日一体一人の人間としてだけで居られるかと言う問題になって来るのであろう。内に内に自ら切り込んで行った果てに吾々は其処にだけ小さな世界を作って居るわけには行かず、自ら外との関連につき当らねばならないそれを社会と言ってもよいし政治といってもよいであろう。吾々の問題ははては皆其処につきつめ当ってしまうのだ。

かって守ってきたヒューマニズムの灯を今又どこに灯すべきか。かってファッシズム暴力であり戦争の暴力であったものが一体何に当るのであろうか。それはすでに短歌だけの問題ではないかもしれない。

ともかく、かって吾々の短歌が否でもそれに正面しなければならなかった問題があったが如く、今吾々の短歌が行き当らないでは居られぬ問題が今日の現実の中に吾々の短歌が何物であるかを考えれば、では吾々は二つの内のいづれを選ぶべきかと言う作品の方向も自らに決まって来るのではなかろうか。(1948・12) 

二)

だが、それにもかかはらず、事情は図式のように簡単ではなかった。新人の姿態も多様であり、作品其の物も決して大野誠夫などの言うようなヒューマニズムとだけで簡単に一括し得る類似品ではなかった。

濠から這い出たとき、戦地から荷を負って帰ったとき、日本は焦土であった。どこに行ってても瓦礫の累々とした荒野であり、かって同胞はぼろをまとった野獣であった。其の地点に吾々は立ち其の現実に立ち対ふことによって戦後の作品は始まった。

その当時、小暮政次が、今は歌はスナップショットであるべきだと僕らに語ったことを記憶する。生起する現象、取りまく現実を忠実に作品に具象して行くべきだと言う、彼のレアリストらしい言葉であったとも思う。しかし彼の言葉を待つ迄もなく、最初に吾々の歌は多く其のようにして始まったのであった。

其の意味で彼の歌集『春望』の初期の作品は記憶されるべきのものであり、更に、大野誠夫の初期作品なども、僕らはもう一度思い返してよいのではなかろうか。

しかし吾々がカメラではなく、吾々の眼がレンズではない以上、否、吾々が唯其のために長い暗い時代を一個の知識人として生き耐えて来たのではない以上、吾々は唯冷たく周囲を見てなど居られるものではなかった(そんな愚論が吾々に向けて、今なおくりかえされて居る。幼稚な歌壇だ)。

吾々は常に何かを見ようとし何かを希おうとする。焦土と闇市と群がる貧しい人々の中に、吾々は常に吾々の心を投写して行こうとする。

   夜更けし町裏の溝白く光りそこより湧くかこの恐怖感

が常に、

   誠実に彼あり彼を支へたる民衆の素直を信ぜむとす

のやむにやまれない己れのつぶやきと共に相重なり合って行く。之は大野の古い作だ。だが、それはあらゆる戦後作家の例でもあるのだ。

瓦礫の街、瓦礫の心の中に、吾々は暗い空虚を見ると同時に、何かの救いをも見出そうとする。かって暴力の中に、戦火の中に見失なわなかったものを、今、祖国の荒廃の中にも一度確認しようとする。

それが今日につづいて居るのだ。三年の間それは様々に遷移したけれど。

そうしてそれをヒューマニズムだと一括して居るのだ。戦後の歌に本当の意味の暗さはなかった。この点は創作の世界などとは異なって居た。どんな暗い世界、どんなきたない世界をも歌いながら短歌は本質的には決して暗さはなかった。歌壇の戦後作家は本質的にオプティミストであった(左翼評論家の如何なる分類の努力にも関らず)

何故なら、くりかえすように、彼らは(吾らは)、三つの時代に常に心に灯を守って生きて来たからだ。常に良く生きようとして現実の中に耐えて来たからだ。時代の重圧の中に、常に如何に生きなければならないかを考え、其の生き方の軌跡を自らの作品として来たからだ(吾々はも一度吾々が戦前の選歌欄作家であり戦時の前線作家であった事、個々の事実は別であっても、質的には同一人である事を繰り返えそう)。

だから僕らの歌は、旧歌壇の歌とは別の波としてたかまって来たのだ。別な底から次第にたかまって来た波なのだ。異質の波である事を僕は言いたいのだ。かれらは同じ地点に生き時代の推移の中に生き其の中に己れの生き方を求めて行ったのだ。

(つづく)

(一)

戦後短歌が戦前に比べてかなり異質的なものであり、しかもそれを推進した一群の作歌の大半が、戦後作家と言われるように戦争の体験を最も生々しく身に持って生き抜いて来た年齢の層から出た事は、文壇と非常に類似して居ると思う。

しかし歌壇には歌壇なりの変移と発展があった。戦後三年を過ぎたばかりの今、混沌としていまだどこに行くともわからぬように見えて、しかも自ら其の推移の軌跡はたどる事が出来る。

其の間に何が生じ何が消え何が残ったか。しばらく僕はあまりにもあわただしかった三年何ヶ月かの「一時期」を考えてみよう。

戦前平和の歌壇を構成し、其の詠歎を己一人の生理より外に知る事の出来なかった既成歌人は、所謂大詔奉戴の場合にも、己れの生理以上に悲しい事を知らず、敗戦の現実の中にさらし出されても遂に一個の善人以上に生きる方法を知らなかった。

しかし、それと同時に、敗戦と共に、戦場から、焦土から、戦争の体験を生々しく身につけて多くの人々は敗戦の現実の中に立ち帰って来た。戦争以前に己れの知性を持ち、戦争の中に己れの火を守り、敗戦の中に再び生きようと決意した人たちである。そうして、戦後の歌壇は、この一群によってしばらく推進された事をすでに短歌史は誌し残すであろう。

戦後歌壇は一転したと言う。新しい一時期を劃したとも言う。すでに其のことばは半ば回顧的に語られようとして居る。一転した事は事実であると同時に事実のすべてではない。戦後の短歌が何であるかをしばらく論じない事として、僕は戦争のはじまる直前に於いて、すでにファシズム一色に塗りつぶされた新聞雑誌その他見るもの聞くものあらゆる暴力的人間否定の怒号の中に、唯一かそかなヒューマニズムの声、良心の最少限の声が残されて居た世界が、僕にとっては「アララギ」の選歌欄であったと言う一人の記憶をしるしておきたい。其処にだけ、かそかながら本当の庶民の抗議の声がつぶやかれて居たと言う僕一人の思い出を記しておきたい。

しかも、それが決して「アララギ」一個だけのことではなかったと言う事も無論僕は知っている。と同時に、今日新人と云われ戦後作家と言われる人々の大多数が、其の「選歌欄」を構成して居た層より育ち、戦争の中に生き残って来た人々であると言うことも改めて考えて見たい。

更に僕は前線作品の華やかだった一時期をも想起しよう。あらゆる制約のなかから、如何にヒュウーマンなさけびが我々に伝えられて来たか、戦地詠の重要な意味を、我々はも一度考えなければならないのではないか。そうして、戦後新人が実はこの二つの線の延長に過ぎないのだと言う事、否、質的には同一人なのだと言う事を僕は改めて考えたいのである。

だから、戦後歌人にとって、かっては戦争が常に己れの問題であり荷重であり、如何に生きるかの苦しみであり、如何に己れの火を守るかのはてもないたたかひであったのだ。文報などでお祭さわぎをして居た既成歌人とは全く別な地の底の生き方を其の間に生きて来たのだ。

そうして彼らは敗戦の現実の中に生き残ったのだ。戦争が生きて行くための常に最も重大な抵抗であったように、敗戦の日本が今はそうなのだ。身をもって生きようとする事はまっすぐに現実に立ち向かって行こうとする事なのだ。

だから、戦後作家の問題は、敗戦の現実の中に立ち、個人の詠歎のみをくりかえして居ることではなかった。とにかく其処で己れの生き方を確立し、かってのように――戦争前のように前線詠のように、三たびここにヒューマニズムの灯をともそうと言う切実ないとなみであったのだ。

具体的には、それが旧歌壇に対して異質的な新人の輩出であり、新人集団の自然発生であり、花壇自体の大きな自転なのだ。

(つづく)

「作品の問題性―「アララギ其一欄」に関して」

数名の作者の作品を例外として、「アララギ其一欄」の歌はほとんど今愚劣と言ってよいのではなかろうか、そう言い切って悪ければ、之ら大半の作品から、作品としての巧拙は別として、ほとんど何らの問題を引き出し得ないとは言えるのではなかろうか。

問題の無い歌、と言うことを感じる。如何に巧みであろうとも、如何に一つのものを写しとっていようとも、それのよって作者が何を言おうとして居るのか、更に、それにより作者は、今日如何に生きようと苦しみ、その苦しみを作品の裏に滲ませているのか、それがない歌と言うのは文学としてはつまらないものなのではなかろうか。

之はわかり切った議論である。歌と言うものは実際にはいろいろの場合があると言う事も無論僕は知っている。又僕は概論だけをくりかえして居るのであろうか。

しかしこうも言える。僕らは一体何のために歌を作るのか。結局それは、吾々が一番言いたい事を其の時その時に詩型として残して行く事なのであろう。一番言いたい事、自分にとって一番切実な事をのがして他の事を言う事は、文学を遊戯に持つて行ってしまう事なのであろう。

そうして、吾々の一番言いたい事、一番大事な事が何であるかと言えば、それは吾々の今日生きて行く事実、生きて行くいとなみだと言い切ってよい筈だ。しかも、吾々は結局、一人の人間として生きていると同時に、社会の連係の中、多数の中に時代を同じくして居るのだと言う事を考えれば、我と他と、個人と民衆と、個人と社会と、更に言えば個人と政治との問題は、常にめぐって吾々作歌の切実な問題とならなければならぬ筈だ。それが「一体」の型をとるにせよ「相克」の場合をとるにせよ、吾々の生への追及は、常にそれらの形をとって吾々の正面に立ちはだかるのではなかろうか。

そうして、そこに一人一人の解決を求めて行く事、その自分だけの解決の模索と苦しみとが、結局は一人の人間の詩情として、水脈のように作品のあとに残って行くのではなかろうか。

だから、吾々がだれかの作品を読んで行く場合、其の作品の累積の中に、何らかの意味で彼の問題彼の生き方の問題を見て行こうとする。一首一首では不可能でも、本当はどこかで彼の自分の生き方の問題を語って居なければならない。

しかも、その問題が、決して神秘なものでなく、幽玄なものでもなく、本当は、今日今、どのように吾々の四囲の世界に処して行かなければならないかと言う低いところで切実な問題であるという事ももう言い切ってよいと思う。

(つづく)

もっと端的に言えば、吾々に今一番大事な問題は一草一花の中に造化の神秘などを感じる事ではなく、吾々の今生きて居る四囲、社会、政治の中にあり、作者自身とそれらのからみ合ひの場合場合にあるのだと言える。

無論すべての歌がそうなる筈はない。そんな公式論で文学を律し切れない。吾々は草に花に託してそれをいう事も出来よう。だが、どこかで、吾々は止むに止まれない言葉をじかにつぶやいていなければならないと思う、否、そしなければならないほど、本当は吾々は今日四周に追いつめられているのだという実感を人々は、「其一欄」の作者等は、持たないのであろうか。例えば今日戦争の予感ともいうべきものが、大気の気候の如く今日の時代の気候となって居るという事に、何故吾々のうたがもっと反応しないのであろうか。又二つに別れた世界が、中国にも朝鮮にも生々しい血を流して居る今日、吾々の歌が何故いつ迄も私の哀歓のみをくり返して居るのであろうか。

僕は、「アララギ其一欄」を考えるとき、常に対比的に「其二欄」を考える。

そこには常に生き生きとした庶民とも言うべきものがある。この欄には常に健康な庶民性と云うべきものがある。生活といつわりない民の声とも言うべきものがある。この事に関して僕は戦争前の選歌欄を思い出す。新聞も雑誌も、すべて思想の制服を着たとき、最後迄本当に戦争を憎み平和を望む声は「アララギ」選歌欄に繰り返えされた。其の健康さは今日も変わって居ないと思う。

僕はこの欄の健康な庶民性を、土屋文明自身のたくましい庶民精神と常に併せて考えて居る。土屋文明の選択と言う事を見逃してはならないと思う。

僕はこの欄の庶民性を高く考えたい。しかし、同時に、もし吾々がそれだけに足って居るとすれば、やはりいけないのではないかとも考える。結局それは、常に受動的な、事に会って受け身な生き方の態度であり、其処からの声、其処からの抗議であるからだ。

だからもし吾々が本当の文学と言うものを考えようとするなら、僕は「アララギ其二欄」的なものに対しても、一つの立場、一つの批評を更にもって居る必要があると思う。

僕らは其の庶民性を大切なものであると考えると同時に、それだけではならない物を知って居なければならぬ。

それをどう説明してよいか解らぬが、或る場合庶民性よりも、孤絶した孤高な自分だけの立場を持つことなのではなかろうか。

つまりそれは、たれよりも早く時代の物音を聞く耳であり、たれよりも丈高く時代の中に己れの生き方を生きて行く事なのであろうか。

そうして、「アララギ其一欄」に何らか意味があるとすれば、そうした作者だけの作品によって形作られる事であり、とにかく一つの作品により、一人の孤高な時代人の生き方が読み取られ、其の作品から、其の生き方から、何らかを教えられる、そうした作品によって形作られることであろう。今日の時代に処し、如何に生きなければならないか、一人の苦悩が高い精神として貫かれ居る、そうした作品によって吾々読むものは何らか自分の生に確信を持って行く事が出来る、そのような作品と作者により形成されるべきであろう。

しかし、僕は先走って空論をつづけるのではない。実際の問題として、「其一欄」の作者が、この欄の作品がどんなに退屈で無意味で無問題であるかに気付き、自然観照と身辺詠のマンネリズムをのみくりかえすことを止めて、も少し作者自身の生々しい問題を語り得る作品を見せてくれる事を望む。(1948・11)

 

「短歌をつくる心」

若い人たちが僕のところに短歌を作って送って来る。ほとんど始めて歌を作って見た人たちである。そんな人達の作品を見て居るとたいてい似通って居る。一言で言えば、短歌らしい短歌、短歌らしい気持とか世界とかを歌った短歌なのだ。

今手もとにあるそのような作品の例を書いて見よう。

初恋の炎にも似たるその花のあまりに赤し庭の鶏頭

秋雨のしとしとと降る療庭の桜紅葉の音なく散りぬ

歌でわかると思うが、之は長い療養生活をして居る若い青年の作である。さびしい一人の生活に秋の雨はことさらに淋しい。

初恋の炎と見た鶏頭への感傷も、若い美しいものがあると思う。だが、この作品は短歌らしい作品なのである。作者はこの歌を作るまでにかなりの人の作品を読み、そうしてそれらの歌を見て居るうちに何となく自分の気持ちを歌にして見ようと思い始める。その事自体は決して悪いことではない。僕自身、十幾年か前、そうして歌を作りはじめたのだ。

このような人達の作る歌は一応歌となって居る。こうして作って行く作品は、歌壇的ないやらしいよごれが無く、初々しく美しくさえある。

だが、その人達は間もなく自分で困ってくる。一年なり二年なり、こうして、ほとんど自分だけで歌を作って居るうち何となく自分で困って来る。

歌では、本当の自分の気持ちは言い現し得ないのではなかろうかと言うことに、何となく自分の疑問をいだき始めるのである。

この事は次のようにも言える。庭の鶏頭、秋雨の桜紅葉に哀愁を感じて居る自分の気持ちが、実は何かに把はれて居るのではなかろうか。すでに自分で何か枠を作って居るのではなかろうか、と言う事だ。僕らはそれを短歌的抒情と言って居るが、つまり、こうした作品は、何かすでに予定された抒情、一種の規格品的な物の感じ方に、自分の感情を限ったせまい作品にほかならない事なのだ。それに、ようやく身動きならぬものをうすうす感じて来た不安なのだ。

こうして人々は次第に歌を止めて行く。歌では本当に自分の言いたい事、自分のぎりぎりのはての感情は言い表せないのだと思って。

だが、歌とはこのようなものであろうか。鶏頭とか桜紅葉とかに、ひそかな己れの青春の感傷だけをうたひ出す、そんな弱々しいあわれな文芸なのであろうか。僕らがようやく己れの感傷の世界に飽き足らなくなって来たとき、すでに吾々の枠となるような詩なのであろうか。

僕はそんな不安に行くあたった人たちに、歌とはそんなものでは無いとい事を教えて居る。吾々が感傷をうたおうとする、そのせまい世界だけが歌の世界ではない。歌になし得る世界ではない。あなたがたが、歌では言いあらはせないという気持、そのものを、歌にする事が本当の短歌であると言う風に教える。すなわち、吾々の一番言いたい事、それを、吾々の短歌の知識、常識などに頼らず、大胆にずばりと表現する、それが本当の歌であると教える。

本当の歌は、既有の短歌の常識には把はれぬ。自分の一番言いたいことを、端的に、率直に、一番普通の吾々の言葉で、投げ出すように三十一字にすればよいものだ。

(つづき)

では、吾々の一番言いたい事が何であるかを考えよう。すでにそれが己れ一人の感傷でないとするなら、一体何なのであろうか。

吾々は、それがもっと思想的なものであるとも感じ、もっと吾々の身近な生活感情だとも感じる。すくなくとも、鶏頭や桜紅葉に型通りの涙を流す事ではない。

僕はそれを、生の追及と言う言葉で一括して居る。別な言葉で言えば、如何に生きなければならないかと言う、すでに型通りの短歌的感傷では律し切れない、吾々の一番切実な問題なのではなかろうか。

吾々はとにかく今日生きて居る。どんなに孤独であり孤高であろうとも、吾々が社会と言う連帯の中に、時代と言う大気のなかに、人と共に生きて居る事実をぬきにする事は出来ない。とにかく吾々は同じ生活基盤に立ち同じ苦しみを時代の苦しみとして居る。

その中に吾々は生きようとする。生きようとする事は、如何に生きなければならないかと言う問題を、常に己れにむけて行くことなのだ。吾々が一番言いたかった事はそれなのではなかろうか。狭い短歌的感傷のくりかへしに、それでいいのであろうかと不安を持つ其の原因が之ではないのであろうか。

だから、吾々の歌が、まっすぐにその問題を把えて行けばよいのではなかろうか。

吾々今日の時代に、いかに生きなければならないかと言う一番切実な問題を、吾々の作歌の第一のテーマとすればよいのではなかろうか。

そうである。そうしてそれが本当の短歌なのである。

しかしそんな事が一体できるであろうか。

思い、たった三十一文字だけの、一見古風なこの詩型に、そんな大それた事が出来るのであろうか人々は疑問を持つ。短歌などは、つまり鶏頭と桜紅葉の、狭い日本的感傷を繰り返して居るだけの文学なのではなかろうかと人々はつぶやく。

そうで無い。僕はそうではない事を僕自身の作品でもって証明してさし上げる事が出来る。

だが、今はそれには触れない。短歌が、何故吾々の生の追及と言った問題を内容とし得るかを考えよう。

吾々は思想と言い、「如何に生きるか」と言う。そうした問題は実は決して純粋な思想乃至思考として吾々のうちには生じない。実は常に、必ず何らかに突き当った生活の事実として、我々の間に生起する。言いかえれば、思想は常に吾々の生活の其の時其の時として、必ず形を持って我々に表れる。思想は吾々の生活の事実として具現する。

如何に生きなければならないかという事は、吾々の生活の、其の時其の時に当って、たとえば電車に乗るとか田を耕すとかハンマーをふるとか、そうした事実の間に本当は表れて来るものなのだ。少なくとも文学の対象としてはそうなのである。

(つづく)

そうして、例えば吾々が田を耕して居ると言う、それだけの事なら歌にする事が出来る筈だ。空は夕焼けが長く、山々はすでに暗い。遠い川堤を牛が帰って行く。そうした風景の中に、田を耕して居ると言う気持は歌になるであろう。それには人々はうなずくであろう。

しかも、吾々の農業が、決してそのような平和な感傷の面だけでないことは、農を業とする人自身がたれよりよく知って居よう。田を耕しつつ、稲をかりつつ、もっと切実な大事な問題が、そうした生活の中に生起している事を、あなた達はだれよりもよく知っていよう。

そうした生活のまわりには、土地改革の問題もあろうし、農村の恐慌の問題もある筈だ。

夕焼けの下に田を耕す事が歌に出来るというなら、

   農地法はあれど税故に耕作権を売る一人あり

と云う事だって同様に歌になり得るのであるし、

   カリエスにて常臥す君と貧農の吾と同級にて村に残りし二人

   吾家一軒アカハタ読む事が村の人の憎しみとなり居るを今宵知りき

と言う別の吾々の生活の面だって歌になるのだ。そうして之らの歌が、決して農地法だとかアカハタだとかの、唯の事実だけを歌って居るのではなく、そうした事実を歌としてとりあげた事に、すでにそこに作者の批判なり主観なりが加わってをり、この作者の批判なり主観なりが加わってをり、この作者の批判なり主観は、そのまま一つの情熱として、必ず読者に何らかの訴えをなして居る、と言う事を、あなた達は知るであろう。そうして之らの歌から訴えるものは、すでに抒情などと言う言葉では言い表せない。

で、もし、これらの歌に抒情がない、など思うなら、僕はそれでもよいではないかと言うのだ。とにかく一人の人間の気持なり思想なりを、そのまま一つの感動として他に伝え得る事が出来たなら、詩とは、それだけの事で充分なのであるし、本当はその感動が抒情の本物なのだ。

吾々が漠然と感じて居る抒情などは、人々が何度くりかえしたあとの感動の類型でしかないのだ。

つまり、吾々は吾々の眼を、吾々の生活のうちにまっすぐに向かって行けばよいのだ。在来のありきたりの短歌的感傷に把はれる事なく、生活の其の時其の時の心の動きを把えて行けばよいのである。

そうして、その生活が、決して自分一人だけの生活ではなく、吾々の其の中での心の動きがいつも常にもっと広い世界と、よい世界への希求とにつながって居るなら、吾々の生活の中での言葉は、どこかで吾々の生の追及の問題と結びついて行き、そうした歌の累積の中に、吾々は如何に生きなければならないかの問題が自らかたられるであろう。(1948・11)

「何のために歌を作るか」

吾々は何のために歌を作るのであろうか。そうした問題に吾々はつき当らないだろうか。この際、吾々は吾々の先人が苦心して答えてくれた解答を別にして、やはり吾々自身の解答を一応持とうとしなければならないし、そうすることにより始めて、自分の作品の打開を常につづけて行くことが出来るであろう。僕らはどんなにぶざまでも滑稽でも、自分で問題につきあたり、自分自分の解答を作ってゆかなければならない。

僕たちは、短歌が抒情詩だと教えられる。

そうして、抒情と言うことに一応の解答が得られる。何か自分の気持ちを、心のうごきを、訴えて行こうとするそうした大雑把な言い方をしてもよい。

しかし、抒情と言うことは、本当はこうした言葉と一部分重なっても、」言葉とは別の平面にあるものだと言うことを考える。つまり、言葉では把えられない、言いかえれば説明出来ない何かがあることを吾々は簡単に了解する。

つまり、詩とは、何か言葉では言えないものを、何か吾々の使い得るかぎりの言葉の、も一つ先のものを追って行くいちなもではなかろうか、と言い得るのである。

吾々は弱年にして作歌をはじめる。そうして其の際、吾々は抒情と言う事にほとんど問題を持たずにすむ。何かの意味で、青春の齢は詩人の齢である。抒情が青年の或る意味でもある。抒情が青年の或る意味でもある。たれも処女詩集を持つ事が出来ると言われる。 

しかしこうした抒情性はやげて失われる。吾々歌を作るものが、歌を作りはじめて何年目かに、必ずこの事に気がつくのではなかろうか。もう歌がつくれない、もう歌うことがないと言った不安が来るのではなかろうか。

その時に吾々は、いやでも何のために歌を作るのであろうかと言う問題に直面する。

吾々は唯漠然と、或る意味で自ら知って居た「抒情の意味」を、改めても一度知らなければならない時に至る。

茂吉の「生」の意味が、この場合一応端的な答えとなる。何が実体の奥のもの、何か現実のも一つ先にあるものと言えよう。対象の核心と言ってもよい。この「生」が含む意味のものを追い求め、さがし求めて行くことが、詩を作る意味なのではなかろうかと考えて来る。

しかも、何らか「生」を求めることは、別の側から言えば、自分の生を求めること、追及することと言える。だから、吾々は、「生の追及」という言葉を使ってようやく抒情の実体、少なくとも歌の作る意味をさぐり得たところ迄来られるのではなかろうか。

も一つ功利的に言うと、このことを知ることにより、吾々は一度不安に逃しかけた「抒情」を、も一度吾々の詩歌に把え得るのではなかろうか。つまり詩とは、何かを希求して行く心の活動とも考えられよう。

(つづく)

そうして、この希求が、つずまりは、形而上的なものへの希求であることは、茂吉の「生」の場合でもそうであるし、西洋文芸を一貫した主題がすべてそうであったと考えてよいのである。

西洋文芸に於いて常に何らかの意味で神の問題があつかわれて居るのは、結局其処に「生」の意味が行ってしまった、つまり、如何に生きなければならないかの問題が常に神に迄、形而上的なものへの希求まで行ってしまったとも言えるのである。

短歌の場合でも同様で、亡びる亡びると言われた小詩型が、とにかく文芸として今日生きて居る一つの理由は何人かの作者が、この詩型によい何らか「生の追及」に苦しんで来て、其のあげくの作品を残して来たからなのである。

しかし、問題は決して之だけでは片付かない。

僕はさっきから形而上とか神とか、意味の把えられない言葉を簡単に使って来たが、今迄の歌人(詩人)が、そうしたものに何か自分の生き方の地平線を感じて居たことは言える。結局其処に何か救いがある事を考えて居た、とは言える。そうして其の地平へたどって行く希求のようなものが詩歌の抒情性であったと迄考えられる。

だが、問題は今の僕らに移る。僕らの本当は神とか形而上的なものとかを、何らかの意味で吾々の救いと考え得るか、吾々の生の希求の地平と考え得るか、少なくとも如何に生きなければならないかの問題を、そんな処に結びつけて説明し、納得し得るかと言う事だ。

吾々の生が、吾々の場合もっと下界的であると言い得るし、もっと下界的であるが故に、更に吾々には痛切であるとも言える。

少なくとも吾々が吾々の時代に於いて追い求めて行く生はそのまま生活と言い代えた方が適切であるように、もっと下界的、現世的なのだ。

だから茂吉の場合、或いは西洋文芸の場合「神」であったものが、吾々の場合は少し変わって来るのではなかろうか。孫悟空が、世界を何万里か走り廻ったつもりで居ても、結局はそれはお釈迦様のてのひらの上を走りまわって居たに過ぎなかったと言う寓話のように、吾々は結局同じ「神」のこと同じ「生」のことを言っているにすぎないとしても、吾々の一番大事な問題がもう形而上学的な言葉では云えない、もっと下界的な言葉、大雑把に言ってしまえば、それは「政治」と言う言葉でつくし得るのではなかろうか、と言う事を、この論の結論とすると共に新しい論への提議とする。(1948・10)

「真の抒情の為に―写実と抒情に関して」

抒情とは何であろうか。結局感情による、主観による自己表現であろう。しかし、吾々は冷たい講壇の分類をして居るのではない、吾々が実作者として抒情の問題を考えて行かなければならないかぎり、こうした「言葉」による説明は更に次の説明を呼ばなければならず、吾々はいつまでも言葉の実体を把えることは出来ない。

では吾々は抒情と言う言葉をどのように受け取っ居るのであろうか。

例えばそれが何か優しい情趣とも受け取る場合、或いはもっと激情的なものと感じて居る場合、吾々は抒情と言うことを、単に漠然とした言葉の意味、概念として考えて居るのではなく、又単にそれはかかるものであろうと吾々の側から予想して居るのでもなく、実はもっと具体的に知って考えて居るのではなかろうか。たとえ意識しては居なくとも、実はもっと何かよるべき規範を持って抒情と言う意味を自分で知って居るのではあるまいか。

もっとはっきり言うと、吾々は抒情の在り得る場合を、漠然と、例えば芭蕉の抒情として、リルケの抒情として、茂吉の抒情として、或いはフランス象徴派の抒情として受け取って居るのではなかろうか。つまり吾々が抒情と言うことを実作者として考える場合、決してそれを言葉の意味として居るのでなく、抒情のあらゆる場合場合として理解をしており、しかも、其のあらゆる場合場合、吾々は常に吾々の過去の作品と詩人とを常に同時に考え、同時に考えることを抒情と言う言葉の生きた理解として来て居るのではなかろうか。

否たとえそれほど明確でなくともよい。何かしら吾々の心のうちに詩の感動をおぼえる場合、実は吾々はすでに詩の世界と言うものをそれ以前に於いて何となく予定してかかって居るのではなかろうか。

例えば俳句の場合を考えて見よう。俳味とか俳境とか言うことばが適切であるかどうかは別として、この内容とする意味は一つの特殊な抒情であるに相違ない。しかしこの俳句的抒情の境地がたとえどのように意味づけられようと、俳人自身は常に過去の俳句作家の業績と、つみ上げて来た作品群から引き出して来た一つの感動の世界として感じて居るに相違ない。少なくとも大多数の俳人は俳句の抒情をそのように漠然と予想して実作を重ねて居る。

それは次のことからも明らかだ。かって久保田万太郎が草田男の作品を評して、日本舞踊の舞台で西洋の舞踏を試みようとして居るようだと言ったそうだ(この引用は正確ではない)。つまり万太郎は日本舞台でおどるべきものを俳句の過去の中に知って居る、其の個々の俳句から理解して俳境と言うべき抒情を理解して居るのだ。

この事は、短歌でも詩でも同じであろう。

吾々が短歌の作者として抒情と言う意味を考える場合、吾々は常に万葉だとか中世の作家、或いは明治大正の作家と作品を常に内に用意することによってはじめて理解して居るのだし、更に或る場合多くは其の上に西欧の詩人と詩の歴史とを知ってかかって居る。

(つづく)

吾々が作歌にあたり其の抒情性を考える場合に、吾々はかうして理解した抒情をはじめに用意してかかっては居られないであろうか。吾々は何か抒情の尺度、抒情の規範とも言うべきものを予め持って居るのではなかろうか。

例えば俳句の場合、結局あらゆる俳句的抒情はどこかで芭蕉の詩の世界に返って行くのであろう。俳句的な美しさは、結局芭蕉の詩の美しさを源として居るのだと思う。

「さび」だとか「侘び」だとか言う。だが、はたして芭蕉が吾々の考える俳句的抒情を一体予想して自分の詩を作って行ったのであろうか。否、芭蕉にかぎらない。吾々の知り得るかぎりの抒情を自ら作った詩人たち歌人たちが、はたして彼らの抒情を予想して抒情の美しさを計算して彼らの作品を作って行ったのであろうか。

そうでないと思う。彼らの抒情性は彼らの作品の結果である。結んだ果であり果実の放つ匂いである。彼ら自身ほとんど知らない作品群の自ら放つ微光である。彼らは作品の微光を計算して作品を作って来たのではなかった。抒情の微光は彼らがして来た仕事のあとに放つものである。

では彼らは何をしようとしたのか。言う迄もない。彼らは彼らなりに身をそぐような生の追求をなそうとして来たのだ。彼らなりに、時代と境遇に於いて彼らなりに自らいかに生きるべきかの問題を追及して来たのだ。

芭蕉の場合もそうであろう。一筋につながる命と云って結局は孤独と寂寥の中に詩を求めて行ったが、それは孤独の感傷への逃避ではなく、あの時代に於いて自らを孤独の境に立たせることによって自らをたしかめて行こうとした一つの生き方の追及に他ならない。石に自らを打ち捨てる程のひびきがそうでなく何処から出て来よう。蕪村など後世の俳人らとは明らかに別つべきものを持って居る。

そうしたあげくの彼の抒情の微光である。

そうして、其の抒情の安易な類型化が、今日漠然として考えられる俳句的抒情である。

久保田万太郎の言う日本舞踊である。

吾々の場合も同様である。万葉の作者なりに、子規は子規なりに、節は節なりに自らの生き方を作歌の上に追って如何に生きなければならないかを彼らなりに求めて行った。それが自然詠であったか相聞歌であったかは知らない。少なくとも吾々の周囲に見る「歌らしい歌」とは別にたつものである。

この事は西洋詩の場合も同様であり、もしそうでない作者があれば、それはつきつめた批評には立ち得ない、例えば芭蕉に比べたとき蕪村の如き者であると言い得よう。

極言すれば彼らは抒情を求めたのではなかった。彼らは彼らなりに生き方の自己追求を試みた。其の後に於いて、彼らの抒情が彼らを包んだのであった。

吾々は安易に彼らの抒情を考えて居り、予想してかかって居るのではなかろうか。少なくとも「短歌的抒情」と言う言葉を出させるだけのものを、今迄の短歌は持って居るのではなかろうか。少なくとも、吾々の考えられるかぎりの抒情の姿は、いづれはどこかに其の出場所があり、従って常に何らかの意味で月並みであり手あかがついて居るとは考えられないであろうか。否、清潔な良心をもった作者は、其の程度まで抒情の古さを恐れて居なければならないのではなかろうか。

(つづく)

短歌は抒情詩である。だが、吾々が一応抒情を拒否してかからなければならない理由がここにある。

吾々は本当の抒情を否定するのではなく、其の前の安易な抒情の類型を否定するのだ。先ずもたれかかろうとする他人の抒情の安易をきびしく自己の内に否定することにより、自らの抒情の発光を待とうとするのだ。

其のために吾々が如何なる態度をとればよいかと言うことを吾々は過去の真実の詩人に学ぼう。彼らが詩を追うより先に生を追った事実を考えよう。

吾々が安易な抒情へのもたれかかりを拒否するてだてとして、写実を考え得る。すべての抒情の粉飾を捨てて、吾々は地道にあるままの自己と現実を認識することにより、吾々自己の姿を具体として把え、さうする事により自己の生をたしかめて行こうとする。そうした結果に於いて、一人の人間の捨身な自己追及が、言葉としてでなく情感として多くの人々の心情の共振を呼び起すならば、新しい一つの抒情がすでに其処に自らに生まれ出て居ると言えるのではなかろうか。

僕は詩に於ける写実の意味をこのように考える。そうして短歌に於ける写実派作家の仕事を其の為に高く評価する。

茂吉は写生と言う言葉を用いた。写生と言う言葉は写実と言う言葉で表し得るも一つ先の事まで言って居る(茂吉は少なくともそう言おうとする)。写実による自己追及の果てに、何かしら形而上的なものを求めようとする(彼は生と言って居る)。一人の人間の追求のはてに神とも言うべきものにつながって行こうとするいとなみを、苦行のごとくこれまでの詩人は求めた。西洋では神であり、日本ではもっと虚無的な意味での神であったのであろう。

一番大事なもの唯一のものを其処に求めようとした。高い抒情が其の希求の中から生まれた。だから彼らの写実の対象は、すべてそれがどこかに於いて形而上的なもの、神へつながって居た。それが彼らなりの、如何に生きるべきかの追求であったのだ。

だが、僕らの場合は少し違ってくる。僕らはすでに自己及び自己の四囲に生起するすべての現象の中に神などを見ない。少なくとも僕らの関心、僕らの今一番大事なものは、生き方の追求の果てに神を見て行く事ではない。もっと身近なもっと大切なものがある。其のために吾々は自分の生き方を考えなければならないのである。この場合の生き方を考えなければならないのである。この場合もはや追及などと言う事とはちがって居る。いやでも対決して行かなければ今日生きては行けないものなのだ。それがかっての神に代わろうとして居るのだ。

それは政治であり社会であり、もっとじかな言葉での人間である。神に近づこうとし神から離れようとしたかっての詩人の苦しみが、今吾々には政治として代わって現れる。

あらゆる吾々の生活、自己をふくめてのすべての四囲が直ちに政治とつながって居る今日、僕らは自己の生の追求、如何に生きなければならないかの問題が、そのまま直に政治にむけられなければならない事はすでに否定し得ぬ。

茂吉の「生」はすでに形而上的な神ではない。吾々はもっと直接な大切なものを考えなければならぬ。少なくとも写実の意味は、いくらか違った風に吾々の問題となって来るのではあるまいか。

其の時に生まれて来る抒情は、当然又いくらか違って来るのではあるまいか。安易な類型的抒情にいつまでも、恋々たる所謂抒情派歌人に、それは奇異なものであるかも知れないが。(1948・7)

「若き歌人らに」

歌を作るものの生活は硝子ばりの中の生活である。

ここではすべての姿がむき出しである。すべての姿がむき出しであると共にすべての姿をかくすことが出来ない。ここでは嘘が言えないと同時にあるままの真実以上が語れない。

吾々はこうした点に立って作歌している。歌とはそう言う文学である。

もう少し考えて見よう。言う迄もなく短歌は型のきまった小詩型である。吾々の先人はこの詩型の中であらゆる事をこころみた。この中に虚構を盛ろうとした事もあれば、何か空想的な夢の世界を持ち込もうともした。あらゆる文学のイズムがこの詩型でこころみられた。明治以後の短歌史だけをふりかえって見てもよい。

そうして、其の場合何が出来たのか。すべてが今はほろんでしまい、忘れられてしまった。何故であろう。いかなる試みも、この短詩型では、きざと言う手痛い報復をして来るからである。

他の、あらゆる文芸型式にもまして、短歌ではきざであることが致命的である。きざであることが作品の生命をきめてしまう文学なのである。

何故なのであろうか。答えは堂々めぐりをするがたった三十一音の小詩型だからだ。それは人間の生命のある頂点に於いて、感動を短く切り取る文学であるからだ。せっぱつまった声を、そのまま切りとる文学であるからだ。

言いかえればここでは一人の人間の生ま身な声の直写しか行い得ない。これほど作者と作品のぢかな文学はない。

文学としての営為は、感動のどこをいかに切りとるかと言うことと、とにかくそれを定型詩としてまとめるだけである。

それ以上のことはすべてこのぢかな精神営為の間からはみ出してしまう。少しの不純、少しのみぶりもここでは作品からみにくくはみ出てしまう。それが作品のきざとなるのだ。

だから吾々は硝子ばりの中に立って作歌の生活をしている。吾々のあらゆる生き方は四方から見すかされている。

ここではよけいな身ぶりが、すぐしらじらと見られてしまう。必要以上のみぶりが、ただいやみとなるだけである。

だから、歌はどうであらなければならない、歌はどうしなければならないかと言うことは、歌ではどう言う事しか出来ないかと言う問題になって来る。

つまり、歌とは、ぢかに吾々の生につながっていなければならない、吾々のいのち、吾々の生き方の、ぢきうつしの文学なのである。せっぱつまった時に、吾々の生の感動が、なまみな生き方から、作品に一転する、其の間に一髪を入れない詩型である。そうして、其の間に少しの作為が交れば、それだけ其処に間隙が出来る文学であり、それだけ其処にしらじらしい壁が出来る文学である。

だから、写実以外のあらゆる行き方がこの詩型では失敗した。本音をそのままはく以外にこの文芸型式に方法はないからだ。

世に所謂歌論を一先づおいて彼らの作品をそのまま風にあててみるとよい。一人よがりといやみときざな姿態を、作品を通して彼らの生ま身な人間まで見てしまいはしないか。

だから、世の若き歌人たちに告げよう。この文芸に意図をもって立ち向かってはならぬ。すべては鏡の如く報復されるみにくい自己のみぶりとして、いやみだけがうき上がって来る。

まっすぐな、素直な態度だけがこの文学型式におさまり得るのではあるまいか。何らたくらみのない直写の態度だけが、成功する詩型なのではないであろうか。

(つづく)

 「若き歌人らに」

このごろの新しいとする人々の一部の作品に不信をもたないか。彼らのいやみ、みぶりに対して不信をいだかないか。一人よがりを感じないであろうか。

では、、短歌には何も加える所はないのであろうか。直写の態度はすでに短歌には一つの常識である。リアリズムは主流である。今さら加えるところがないとすれば若き歌人たちは旧人のあとを追い彼らの作品のヴァリエーションをつづけて居ればよいのであろうか。

そうであるとも言えるし、そうではにとも言える。

リアリズム以外に短歌のとる態度はない。それ以外のこころみは短歌を吾々の生き方と間接な二義的なものにしてしまう。あそびにしてしまう。歌をあそびと考えることは自ら第二芸術性をみとめるだけである。

歌は人間とぢかにつながった文学である。これ以上にぢかな血の通う芸術は他に無いとも言える。ほとんど人間の生と表裏あをなす文芸である。

だから写術主義は歌を生かす唯一の方法である。しかも之は今日すでに常識であれば、あと若き歌人たちに何がのこされるか。

いやみとか、みぶりとか、消極的ないましめ以外に何が残るか。

それは、歌われて行く主体の問題である。今までの短歌にほとんどなかった事、それは一人の人間の生き方の意味である。

こころみに一人の歌人を考えて見たまえ。彼は恋を歌い花の美しさを歌う純情な青年歌人として出発した。やがて中年になり、彼の作品はややしぶくなり落着いて来たが、こんどはかっての瑞瑞しさを失い、彼は日常生活を歌い子を歌い、配給をかこつ。やがて彼は老大家になり、歌はますます面白くなく枯れていまし、たれも似たように山水と孫を歌う。吾々は一人の市井の凡人の一生を見て来ただけである。気の弱い善人の一代を見ただけである。

吾々はそこから何も教えられず、吾々は彼の一生から何の生の鼓舞をもうけとらない。そうした文芸が一体何のねうちがあるのだろうか。

一人の生きた生き方の歴史がそれ程ねうちのないものであろうか。否、たとえ彼がつづまりはつまらない一人の凡人であったとしても、もしも何か生き抜くために苦しんだとしたなら、そうして其の苦しみといとなみとを短歌作品の上に打ち出したなら、吾々の感動はいま少しちがひ、吾々はとにかく其処から何か教えられ、たとえ失敗の一生であっても吾々は其の人から、とにかく生きることはたのしく、かつ価値あるものだと言うことを教えられはげまされるであろう。文学とは其のようなものではなかろうか。

ゲーテの文学が価値あるのはとにかく其の一生に一つの世界が形成されて行って居るからだ。ロマンローランの場合もそうである。一人の人格の成長がみられるからだ。だが、吾々は彼らの如き大を望まなくてもよい、いかにかそれかであろうと、とにかく己れをかけた生のくるしみといとなみが短歌にそのまま打ち出されて居ればよい。それすら一つの尊い生の記録である。

今迄の短歌になかったのはこの「生の追及」である。言いかえれば、一人の人間の、如何にいきなければならないかの苦しみと解決とである。其のはてに於ける一つの世界の形成である。僕がかく言とよく反対された。そんな事はたれも知り切った常識でると。

だが、たれが、如何になしたか。

今さらふれられるのも苦しいであろう。あの戦争に、敗戦に、歌人は如何なる態度、いかなる自分だけの態度を持したか、いかに生きるかの問題が、戦争となぜぶつからなかったか。もし僕の言が常識なら、彼らは戦争に常識以上の自己を持した彼らの作品にをもって答えて見よ。

僕の言はむとする点は明らかになった。世の若き歌人に告ぐる一点も明らかになった。君たちは君たちなりの生き方を賭けよ。如何に生きるかを、今日今の時において、君たちの世代として短歌にぶちまけたまえ。もしそれが僕らの生き方と異なって美事作品に結晶されて行ったなら、その時にいくらかだらしない僕らの世代に対して君たちの世代を昂然と主張したまえ。(1948・7)

 

『丘の上』を読みて―五島美代子小論 

 芽ぶきたつ木々に近づけばここの空気はわが子の息のにほひがする

  苺たべて子のいき殊に甘く匂ふ夕明り時を母に寄り添ひ

  この日頃うるほひ深む吾子の瞳にをとめうごきてあやふきものを

  突くが如く寂しといひてすがりくる娘のこころには手もふれがたし

旧い言い方ではあるが「女性」の心と体とは吾々にはほとんど神秘である。そうして五島美代子は今日稀な「女性」の作家である。これらの歌から僕は五島美代子の「母」としての姿以上の「女性」を感じ、むしろ其のなまなましさにまぶしいくらいである。

  持たせやる吾子がねまきの縫上げをせめて解かむと起き上りつつ

  わが身ゆすり力張りくる胎児の脈まさにうつつにきこゆるものを

  乳呑子と百日こもれば小刀の刃にもおびゆるこころとなれり

「せめて解かむと起き上りつつ」「小刀の刃にもおびゆるこころ」。すべて之は女の肉体の声であり、いきなり白日の中にたたきつけた脈打つような生き物の言葉でつづられた詩である。それだけで他に何も言わなくてもよい、いのちと直かにつながる詩ではないか。

  眼おほふ黒きまつげに吸入のしづく光らせ吾子の臥れる

  あけて待つ子の口のなかやはらかし粥運ぶわが匙に触れつつ

こうした把握も吾々には実に不意であり、それだけになまなましい。そうして、ここではすべてを打ち込んで居る母性としての姿が描かれて居る。だが、

  母われと一夜眠りてききたきことありとひそかに娘のいひに来し

  ある日より魂わかれなむ母と娘の道ひそひそと見えくる如し

  情念鋭くなれるわが娘にくきやかに映らむ影の母われを畏る

作者は次第に「娘」の中に自分と同じく、そうして自分とは全く別の「女性」を見せられて行く。之は「吾が娘」の成長であると共に作者の「母」としての成長である。ここではすでに、すべてを打込んだ、言わば動物の姿のような生々しい愛情は見られない。「吾が娘」は母の批判者として、別な「肉体」として「母」に直ちに鏡の面をさしむけて来る。

  二人子に生命ほとほと傾けつつなほ残るものか吾を燃えしむ

この一首などもそうした或るときのふと自らもらした「母」の孤独なためいきなのであろうか。

(つづく)

しかし僕たちはこのとき平和な生物として岩の間の日なたに生きて居たのではない。すでに歌集のこのあたりは昭和十五年十六年である。吾々のあの不幸な時期に、この作者はどのように生きて来たのであろうか。この美しい「母子像」がどのように描き変えられて行ったであろうか。

  言潔(きよ)く涙たたへし瞳(め)の深み育て上げし子を捧げむとして

  二人の子生命またけく生き継がばわれらは吾らの時代(とき)に死ぬべし

  親は子に男女(をとこをみな)は志ふかき方より食をゆづりしと

  きびしさの極みの時におほけなし娘に学問を許させたまへ

ぼくはこの「母」のさまざまな姿態を興味深く読む。あるときは石に或る時は左に、おびえ、決心し、あきらめ、生に執着し、そうして「母」としてある日に処して行った、一人の人間像として、この種の歌をいくつも抜き出すことが出来るであろう。

そうして、この間にも作者の「娘」は「母」の成長と相交錯しつつ、作者と別個に成長して行く。一個の人格として成長して行く。

  学校道具は皆リュックサックに入れて持つ娘この頃とみに眸ちららあり

  中等学生の任務ありといひ切る娘の前に母われの思ちひさくなりぬ

「思ちひさく」ならなければならない母は、

  眼のしたの隈ふかき翳におどろきぬ朝あさしるきわが憊(つかれ)なり

  呆けはてこのまま起ちえぬわが身かもいまひとりのわれは静かにみつむる

  落ちぎはを一きは冴えて明るめる木々の黄葉(もみぢ)は何か切なく

こうした自らのつぶやきに、独りの自画像を描いて行く。

僕は『丘の上』を一つの愛情の生態史として読む。作者の愛情はほとんど自らの肉の一片に打ち込んだような愛児への愛情から、ようやく一個の人格となり、「女性」として「母」に切り返して来る成長した「娘」への何か不安な切ない愛情に遷移して行く。そうして今ははげしい戦争の時代に生きて行こうとする作者に、更に次の如き作品がある事を面白く感じる。

  まこと傾けてをとめらは嫁ぎ年まねく傷つきゆくをあまた見て来し

  をみな子の幸はみじかしまれにして生命光る妻は見つつたふとき

  をとめらに火をつけあるき一せいの聖火のなかに吾は死ぬべし

この場合「をとめ」はすでに自分の「娘」ではない。作者の「女性」は「娘」と離れることにより、かって純一な、だがいささか生物じみた愛情を、今も一つ広い世界に拡張させて行く。歌はれて居る事実は、狭い作者の周囲かもしれない。しかしこの愛情の拡張は、一人の「女性」の成長の、大きな意味の一つの具象なのであろう。

(つづく)

  護りをほせん低学年学徒らわれにあり待避見とどけて子により添ひぬ

やや異なるがこうした一首もある。

昭和二十年は「屈辱」と云う一連より始まる。僕はしばらく一人の人間の生活のある時期をたどって来た。僕は今同じ時代に立ち同じ土地に立って居る作者を見る。

  失ひしもののすべてにいやまさる玉のみ声を聞きまつるかも

これ以後につづく今日の時代の多くの作品を、率直に言って僕はあまり高く評価しない。一体に言葉が目立ち、観念が先立って居る。意味の難解と言うよりは、表現の難解ともいうべき作品が多い。内容の抵抗であるべきものを言葉の抵抗にすりかえて居る歌が多い。

だが、僕は作者の今の場合がわからないでもない。何を言おうとこの人が苦しんで居るかがわからない事はない。

  この人らと共に行かむの願ひ熱し埃まみれて足引く歩み

  この国の人のこころに流れ入るひそけきものを夜半さめて思ふ

  目には見ぬ天体の動き時に鋭(と)く心に翳し明暗さだでめず

何か現象以上のものを、作者は言葉にさぐろうとする。往々にそれが観念としてしか表れないことがあっても。しかし、僕はこの作者の観念を希求とも言い代えられると思う。そうして更にも一つ大胆に飛躍して言い切ってしまえばこの希求は作者の今日迄に遷移させて来た「愛情」―何か明るい救ひへの希求なのではなかろうか。そうして作者は其の希求を、単に己れの上にのみでなく、四囲の世界を拡げようとする。

 唯其の時に、作者の希求は、

  血の色に沈む夕日は知りつくす国土あてなく癒えむ足掻きを

  ほのぬくみ吾とわが身にたしかめてあたためあはん同胞をおもふ

の如き作品によっては成功せず、

  壕舎に住み眸明るい女生徒幾人成績上りて年を越えたる

  白パンの肌やはらかしかかるものありと知らざりし子に切りてゐる

の如き、地道な具体的把握と、平易な率直な表現に於いて成功して居る事に意味を見つけなければならぬ。そうしてここには相変わらず、「白パンの肌やはらかし」と言った「女性」だけの持つあの鋭くして柔軟な感受力が、「苺たべて」子の息の殊に甘いと感じた魅力的なまでに生々しい若い母の詠歎につながって居る事を、吾々読者も知らなければならないが、其れ以上に、作者自身が知らなければならぬ大事なことだと思う。

僕は五島美代子を今日稀な「女性」の作者だと言い、歌集『丘の上』一巻、一人の女性の愛情の遷移と拡張の歴史である事を言った。そうして作者の愛情がなお今日の日に、もっと広い作者以上の世界―社会とか人間全体とかに其の形を取ろうとして居る。そのためのカオスの状態として、今日の彼女の作品に対する不満を納得させようと思って居る。(1948・6)

「用語と声調」

少し逆説的な言い方をすれば、僕は用語に苦労すべきではないと考える。少なくとも積極的な苦労はしないほうがよいと考える。

僕らは短歌に出来るだけ普通の言葉を、出来るだけ吾々の周囲の言葉をそのまま用いるのがよいのだと考えている。

この事を無雑作すぎるとか、詩に対する無感覚とか考えてはいけない。短歌が詩であり、吾々が言語の芸術家であるかぎり、当然言葉の選択取捨はなされて居る筈だ。唯、僕はこの選択取捨は吾々の生な感覚でもって詩を把み取る一瞬においてなされるべきであり、ほとんど本能的反射運動的になされるべきであり、其の意味に於いて、吾々は言葉の選択について特に積極的な苦労はしないがよいとされるべきであり、其の意味に於いて、吾々は言葉の選択について特に積極的な苦労はしないがよいと考えるのだ。

例えば窓を?と書いて見たり、日を陽とかいて見たり、または翳影と書いて「かげ」とルビをふって見たり、僕はそうした所作が嫌いだ、そう言った苦労でかえって一首の中にグロテスクな節が出来、一首が変な白粉のむらになってしまう事が多い。僕はさっき言葉に対して苦労するなと言ったが、之は無雑作であれと言うのではなく、言葉に対してもっと素直であれと言う事を言いたかったのだ。

吾々の平常の言葉を、吾々の間で息の通って居る言葉を、清潔に感受して行きたいと僕は考えて居る。

僕は大気のような歌を作りたい。吾々の間の言葉で、普通の言葉で歌を作りたい。

唯、歌が吾々の言葉の切り取りでなく断片でなく、何か一つの感動のまはりに凝結して行く言語の結晶であるが故に、つまり詩とは常に流れて止まらない言葉の、結晶化であるが故に、たとえ用語用語が吾々周囲の吾々の言葉であるとしても、一首の中ではすでに言葉自体の別のひびきを持って居なければならぬ。凛然として弦のように一首の中に張って居なければならぬ。

声調の問題は自ずからこれとからむ。

一首の中に取捨されたことばは吾々の普通のことばであっても、それは作品一首としてゆるぎなく結晶していなければならぬ。土塊の歌ではなく水晶の如き歌でなければならぬ。

僕は一首の張りと言い、ひびきと言う事をいつも考える。

短歌の声調は、張って居り、たるみがなく、凛としてひびき渡って居なければならぬ。そして其の中に自らなゆらぎと流動があるものでなくてはならぬ。一首の清潔感はそれから生じる。そうでない歌は老人の肌の如くうすぎたない。(1948・4)

「過剰表現の歌」

新しそうな歌、新しさを意図した歌の正体はたいてい気障かいやみかである。多弁饒舌な作品である。吾々はその事に眩惑されてはならない。本当の新しさとはそんな点にあるのではない。気障だとかいやみだとかの正体は、感動の過剰表現である。十の感動を十二か十三かに表現することであり、従って剰った二か三が手ぶり身ぶりとなる。歌の場合必要以上に目立った文字、言葉、表情になる。

新しいセンスとはこの過剰表現を嫌悪するセンスである。真実以上の表情に眼をそむけようとするセンスである。

洗いさったはてに本当の美しさがある。吾々はあらゆる過剰装飾を消して、否定して、洗い去った後の最後の一線の美しさを本当の美しさだと感じる。之は絵の場合、彫刻の場合、建築の場合そうであるように、短歌の場合にも言える。

それ以上の装飾性、言葉の装飾性に平然と対い得るようなセンスは、泥くさい時代がかったセンス、にぶいセンスだと言ってしまえる。

いるだけの表現、必要であり充分である最小限の表現。僕は短歌の表現の美しさを、この単純さと、緊張性の内に感じる。これが短歌の新しさの実体の一めんである、すくなくとも今日本当意味で新しいと歌の性格の一部である。

ところが歌壇はそうではない。気障、いやみ、饒舌、すべて新派芝居を出てない表情がさもそれが新風か何かの如く考えられ、はびこって居る。僕はこんな新しさに泥臭さをしか感じない。

無論、芸術の時々の波として、例えばかっての表現主義の如き場合が考えられるであろう。所謂僕の泥臭さを感じるセンスを、こんどは逆に否定してかかる態度もあろう。

しかし、それにしても歌壇の気障な作品の氾濫は、それを新しさだと感じ、まねて行く無反省な彼らのエピゴーネンのやり切れない泥くささとにぶさだけに、僕は之を今は指摘しなければ居られないものを感じる。

今ラジオは、ラジオドラマの番組である。怒号と絶叫と悲鳴との連続である。

もし実際の社会がこんなものなら僕らは本当は一日も生きて行けない。考えて見れば狂者の世界である。

僕はたってスイッチを消してしまいたい程いらいらするのだが僕の家族はそれ程には感じないらしくラジオドラマの世界をたのしんで居る。終ってモツアルトか何かが始まるとプツリと消してしまう。

何故こんな事を書いたと言うと、無論短歌の過剰表現の正体を指摘するためである。

何か、僕らのまわりの新しい歌と称するものが、―特に、「アララギ」の歌風に異を立てる事を意識した新しい歌と言うものが、このラジオドラマの絶叫であり、彼ら歌人のセンスが、この程度の泥くさいセンスなのではなかろうかと思うからなのである。(1948・3)

「歌集『遍歴』」

『遍歴』の時期は大正十二年七月から十四年一月まで、茂吉四十二歳から四十四歳の間。今から四半世紀の過去である。

維也納を去った作者はミュウヘンのシュピールマイエル教室で「初学者のごとき形にたちもどり」業房の日々の生活に入る。それより一年後巴里を過ぎて、東京に帰りつくまでの日々の日記体の歌集である。

ミュウヘンにいまだ落着かないあわただしい作者のもとに老父の死去の報と、東京の震災の報が相ついでもたらされる。はるかに伝えられる東京の惨事に、作者は不安な思いを妻子の運命の上にはせなければならない。しかしそれすら、「騒動の町に起臥」する生活の中に、故郷のこともしばし忘れなければならない日々が過ぎる。

大正十二年はドイツの大インフレーションの年である。一ポンドが五ミリオンになり十八ミリオンになって行く現実の中に、作者の一留学生としての生活がつづけられて行く。其の前年十一年にはイタリアにファシズムの勝利があり、同じ欧州の別の舞台でコミュンテルンの第四次大会がひらかれた。十二年の九月にはルールの拠棄があり十一月にはミュンヘン市に於いてヒットラー一味の革命企図がある。ヒットラーが政権を把る十年前の事件である。

陰鬱な山の街ミュンヘンの秋の日、或る時は「紅色の旗かざし進みゆく群集」を街上に見、或る時は又別の群集の「鬨のもろごゑ」を戒厳令下の夜の街々に聞く。

翌十三年にはレーニンが死に、コミュンテルンが第五次の大会をひらいて居る。すべて嵐をはらまむとする、第一次大戦の後の不安の日々である。

歌集『遍歴』はかかる一時代と環境の中にあり、それを一東洋の留学生の生活として描き出して居る特異な歌集である。

無論この歌集に対し今からいくつかの不満をあげる事は出来る。たとえば日々生起する其の時代の事件に対して強い激しい作者の側の批判なり主体なりと言ったものが見えない。どちらからと言えば善良すぎる弱気な立場のみが訴えられて居る。又或る作品に対しては燃焼の不足から来るあまりにも手記的な無雑作をも見出し得る。否むしろ一首一首について言えば、吾々は作者の其の後の『寒雲』とか『白桃』とかの高さを先にみて居る故に、何か物足らない感じが先に立つ場合の方が多い。

だが、とにかく一冊の歌集として考える時に、一人の中年の留学生としての作者の生活が、郷愁と孤独感とを基調とし、それが南ドイツの風物と一つの不安な時期を自ら背景として描き出されて居る点、多くの歌集と比べ特異な性格を持った歌集と言うことが出来よう。

(明日につづく)

「歌集『遍歴』」

(昨日よりつづき)

  いつしかも時のうつりと街路樹(がいろじゅ)が青きながらに落葉するころ

  一人してAlzbergerkeller(アルツベルゲルケレル)とふ処にて夕食したりまづしき食店(しょくてん)

はるかなる国とおふに狭間(はざま)には木霊(こだま)おこしてゐる童子(どうじ)あり

ミュンヘンの生活のはじまるころの歌である。いづれも深い作者の感傷があり、豊かな詩情をたたえて居ると言えよう。だがかかる歌の間に、

  ながくつづく悲哀(ひあい)の楽(がく)は寒空(さむぞら)にあたらしき余韻二たびおこす

  おもおもとさ霧こめたる街にして遠くきこゆる鬨のもろごゑ

の如き作品も交る。こうした時代の中に、作者の学究としての生活がつづけられて行く。

  実験の為事やうやくはかどれば楽しきときありて夜半(やは)に目ざむる

  クレペリンの後を継ぎたる一代(いちだい)の碩学(せきがく)としてこの講堂は満つ

かかる歌も、僕は何か見過ごせないような気がする。

この時期、作者は小さな旅行をしばしばして居る。「ドナウ源流記」があり、「山の旅」があり、「ガルミツシュ行」がある。作品として完成されて居るものは、かかる一連の中に多い。

  足許(あしもと)のするどき水の激(たぎ)てるはとほくドウナウに入りてしゆかむ

  うみ囲む高きいはほに子を率(ゐ)つつ羚羊(かもしか)が見ゆ湖(うみ)のしづかさ

  みづうみに吹く角笛のつぎつぎに移ろ谺(こだま)は峡(かひ)の奥ゆく

  この島の畑(はた)に小さき林檎(リンゴ)成り尼修道院の鐘の音(ね)湖(うみ)わたる

こうした作品は、それ以後の例えば『寒雲』『白桃』あたりの自然詠にそのまま移って行くのであろうか。すでに他の追従を許さない詩の世界である。

少し色彩が異なるが其の後の「独逸の旅」の一連から次の如き作品をさがし得る。

  けさの朝け街上(がいじやう)にして同胞のふたりに会ひぬ彼等も旅びと

  この村の林檎畑に入りくれどあやしまむとする人ひとりゐず

一見平凡のようであるが読み返せばあわれである。

(明日につづく)

「歌集『遍歴』」

(昨日よりつづき)

作者は大正十三年七月ミュンヘンを去り巴里にむかった。歌集は後半に移る。

巴里について二日目にヴェルダンを訪れて居る。これも作者らしい。

  互(かたみ)なるたたかひは命(いのち)のかぎりにて善悪喜怒のさかひにあらず

  ここに来て見るは遊びのためならずヴエルダンはなほ息づくごとし

こうした作品も当時の歌壇にはなかったのではなかろうか。ただの旅行詠風に終らない。作者の側からの批判と叫びがある。

「欧羅巴の旅」の一連最もすぐれた箇所は、アルプスの歌、スイスの旅の前後であろうか。

  角笛のわたらふ音は谷々を行方(ゆくへ)になしてすでにはるけし

  かなたには雪原(ゆきはら)となりつづけるに巌のうえに羚羊(かもしか)ひとつ

イタリアには次の如き作がある。

  ミラノ派の末流(ばつりゅう)の絵(ゑ)もあまたあり力のかぎり画(か)きたるらしも

下半句の表現も端的で面白いと思ふ。

すでに歌集は帰途について居る。十一月二十六日夜パリーを出発す。十一月三十日マルセーユ出帆などのことば書きが見える。

  月明(げつめい)になりぬといへばわが船はせまき運河をとほりつつ居り

こうした一首にも何かしら旅愁とも言うべき哀感がある。

『遍歴』は特異な歌集である。欧羅巴のある不安な一時期が、一留学生の生活の中に描き出されて居る其の特異な性格の面白さである。

其の意味で、たとえ作品一首一首として、例えば先にあげた小旅行中の自然詠とか、アルプスあたりの風物詠の方に完成されたものがあるとしても、僕は歌集の前半の、やや無雑作であり素気ないようであるが、ミュンヘンの業房での生活の、其の時々のよみ捨てられたような作者の生活詠の方に其の背景と、それを歌わなければならなかった作者の何か不安めいた気持の方に、より多い共感と評価とを持ちたいのである。(1948・5)

 

「白痴美の歌」

俳句のいろいろな切実な問題を語り合った後に、では結局はたれが一番よい作家なのかと云う事になると、やはり虚子ではなかろうかと云う事になった。彼らは一様に俳壇中堅作家と云われ、有力な一群の人々であった。結局は虚子の作って行く美しい芸術世界に何か俳句文学のふるさとを感じるのであろうか。苦しんで居る作家であればあるだけ、切実な実感なのであろう。

しかしそれは同時に吾々の間でのひそかな「いつわらない感想」でもあろう。事実、いらだったようなこのごろの作品が一体どこに行くのであろうかと云う感じにたれしも時々とらはれるし、更にそれが自分自身の作品であると、一種の自己嫌悪が、自己批判をも一歩飛びこえる。

あたかもそのすきを知ってのように若い一群の作家にむかってこのごろの批判はつめたい。

僕たちはいろいろな雑誌の隅に、ふと書かれたような小さな文章に、しばしば白い眼を感じる。彼らは其の反証として古い作家、更に古い作家のあとを追う多数の作家を引き出す。職人めいた眼と技法が、何かオルソドックスが其処にあるかのように云う。僕たちは其の場合やはりいくらか痛いと思う。

何か一心に突っかかろうとして居るものが、短歌の場合見当違いであり、ふと自分から流したみずからの血を、しらじらしく感じることがある。

例えば「短歌研究」二月号を見よう。

コップの冷たい酒を君に分ける君をみる皺少しある眼じり        加藤克巳

むさぼりて啖ひ汚れて襟のあたり拭へば胸を噛みにくる絶望       織部伊衛

背をまるめ寒き巷を彼行けど闇に儲けし金やいくばく         松本千代二

泣きただれわれの寒き夜くりかへす女うじうじときたなきいのち     山田あき

結局僕らはもう止せ、と云いたくなる。之らは僕たちの作った歌の世界である、と云ってわるければ、敗戦以後の歌人が作って行った作品の典型であり類型である。もっと云えば、僕はふと僕自身の歌の幽霊を見る。否、吾々は皆、お互いに自分の幽霊を、お互いの作品の間に感じあって居るのではなかろうか。

ここに何か形をとり切らない自我がいらいらとさまよって居る。

そうした後で例えば吉井勇の作品を見て行こう。八幡俚謡と云う一連。

牛劼?来ぬとき告げゆく人のこゑ聴こえずなりて露霜の来る

いちはやく山越え往にし牛劼?はや河内路に入りにけれしも

昨夜(よべ)もまた狐鳴けりと妹言へどわれはも聴かず耳疎にして

もの書く手悴かみ来れば霜に鳴く狐のこゑも待たで寝むとす

かかる作品を読むとやはり何か息がつける気がする。何か「歌らしい」世界がここにあると云う感じである。

ついでに「短歌雑誌」第五輯に出たやはり吉井勇の作品「宝青庵朝夕」から抄出して見よう。

  今朝もまた鶲は庭の石にありわが起き出るを待つがごとくに

  三越路のさすらひの塵なほありやふとしも寒し今朝の畳は

  昨日今日山茶花垣に来て鳴くは声いたいたし青鵄ならむか

  冬ちかく夜霜はいまだ降らねども裏山狐すでに鳴くとふ

僕が例を吉井勇にとったのは、彼が敗戦以後一つのカムバックをジャナリズムになしたと云うだけでなく、本当のところ僕自身こうした彼の最近の作品にひかれるものがあるからである。

何度も繰返すようにここには歌―少なくとも「歌らしいもの」がある。なにか苛立ったようなひとつの類型が出来かけて居る今日の短歌作品と並んだ場合、ここには安心し得るものがあるような気がする。「歌らしいもの」と云う感じ方の例として、例えば歌人以外が短歌をどう考えて居るのかを同じ「短歌研究」の江口渙の作品から見れば更に明らかになる。

  行き暮れて山路たどればしば橋や河鹿鳴くなり水明りして

  岩走る水の光りの暮れ残る峡の門高く河鹿鳴きつつ

  屋根高き杉生がもとに振りかへり吾子が振る見ゆ赤き帽子を

吉井勇などに比べて更に一層古く、月並みではあるが、とにかく例えば彼などの如き小説家を安心させる「歌らしさ」が「行き暮れ」た山路にあり、「水明り」に「河鹿鳴く」ところにある、とだけは言いえる。吉井勇の場合、「夜霜」に「裏山狐」が鳴き、「山茶花垣に来て青鵄が鳴くのと、ほぼ同一の世界、安心し得る歌の世界である。つまり、歌人以外が、一応かかるものを歌として考えて居ると大雑把に云えるし、僕なども、或いは其の素朴な理解に立ちもどらなければならないのではないかと、時折考えるのである。

しかし、無論この吉井勇の今居る境地は、彼一人で至ったものではない。例えば鶲が庭の石に来た一つの詩境さえ、之を短歌の安心し得る世界とするために、何人かの先人の仕事が重ねられて居る。だから吉井勇を考えることは彼一人を考える事でなく、彼に線を引く作家、彼の歌の世界の円と相重なる作家を考える事であり、このことは、僕らより以前及び同時代の作家を考えることでもある。

だが、そうした完成が一体何なのであろうと云うも一つの考え方が成り立たないのであろうか。一つの詩境と心境とをもって作り成された美しい世界が、一人の作家によって次々に展かれて行くのを、たのしいとは思うが、僕らは間もなく其の美しさに不安になる。例えば吉井勇の世界にしろ、彼が周囲に作り成して行くこの美しさが、何かにかけて居る事を感じる。美しいけれど白日夢めいては居ないだろうか。

そうした時僕はふと、「白痴美」と云う言葉を感じる。大戦前であったか、或る種の日本の映画女優に加えられた美しさの形容であった。美しいけれど何か其処だけに終ってしまい、其の先の精神性を感じない。

歌の場合精神性と云う言葉は少し不当である。モラルと云おう。作者の追及して行く生き方なのである。僕がすでに何度か繰り返した作者自身の如何に生きるかの問題である。

一つの短歌的美の世界を例えば吉井勇で考えた場合、その美しさの中に作者自身の問題が語られて居ない。作者の生き方が作品として具現されて居ない。それ以外の世界に求められた美しさである。美しさの「白痴性」である。

吉井勇の世界は白痴美の世界である。その事は、彼をもって一応代表せしめた現歌壇大多数の既成作家の白痴美の短歌世界の問題である。自己の問題が語られて居ない、自己の生き方が賭けられて居ない、精神的空白の上に作りなされた美しさである。

僕らは文芸をあそびとは見ない。短歌をはかない詩型だとは思うが、とにかく僕らはそれによって自分を語ろうとする。自分の問題を、自分の生き方の追及を、短歌として具現しようとする。そうしてこそ一首の芸術性を問題にし得るのではなかろうか。其の一点に立ってこそ一人の作家を否定し肯定し得るのではなかろうか。

勿論吉井勇の場合彼の問題が作品に全然無いとは一概に云い切れぬ。其処には一首の仏教的な哀愁感がある事を否定し得ない。やや類型的な虚無感が語られて居るとも云える。だが、僕たちはその哀愁感なり虚無感なりが、彼の場合すでに一つの予定された境地として作品に先行して居る一つの心境世界を予想して彼の作品が作られて居る事を見なければならぬ。作者自身の捨て身な追及が無く、自分の体を賭けた痛々しさが見られない。

今は僕は吉井勇のことなどを既に言って居るんではない。この安心し切った哀愁感、淡い虚無性はほとんど現在のすべての歌人のごく自然な習性とも考えられるからだ。この作られた型にあぐらを組む安易さが、其処に安心し切って抒情を寄せて行く安易さとなり、それ以上に自分の血を流さない作家としての職業的怠惰となり、つづまりは作品の場合の精神的空白となるのである。

この場合無論僕は短歌の所謂自然詠を否定するものではない。吉井勇の「夜霜」おと「裏山狐」を、江口渙の「しば橋」と「河鹿」を否定するものではない。を否定するものではない。そんな概論的否定を考えて居るのではない。

裏山狐に、しば橋に、河鹿に、作者のどれだけの生が賭けられ、それにどれだけの自己が語られて居るかを見ようとする。其の差を見て行こうとする。自然を受身としてとるか積極的に其の中に自己を語らせようとするかの差を考える。其の意味で僕は赤彦の自然詠を対比させる。赤彦はとにかく全身的に自然と取組み、其の中に自己を語らせようとした。

ここにして遥けくもあるか夕ぐれてなほ光ある遠山の雪

にしても、

  この山の杉の木の間よ夕焼の雲のうするる寂しさを見む

にしても、何かそれが自然詠だけに終らない一種の力線で貫かれて居る。この痛々しい程の迫真が、結局は其のままの作者の生への追求であり、自然をして語らせようとする作者自身の生き方であった。赤彦の場合彼がオルソドックスとして後世に受けつがれた事は作家としての不幸であったと云える。エピゴーネンを多く持った事は彼自身其のためどれだけ歪められて考えられて来たか知れぬ。僕は赤彦を特異な作家だと考える。自然詠自体を僕は短歌のオルソドックスとは考えない。

赤彦と他の作家を、自然詠に限定しただけの範囲で比較すれば、僕の今の問題は一層明らかにされると思う。赤彦の良い歌には一点の趣味性もなかった。前の吉井勇に代表させた例の如き、吾々が一応ひきつけられるのはその趣味性故の一種の安堵感なのである。

しかし、実際は自然詠の占めるパーセンテージは今日の作品群の中それほど大きくないかもしれぬ。そうした点になると歌人と云うのは割りに敏感なのかも知れぬ。それに代わって一種の都市風俗詠が流行の様を見せて居る。

だがそれにしても、

  金属の軋む音靴底に感じつつゆく凍てし舗装路            巻 敏馬

  いくたびかのがれ浮浪を恋ひやまぬ地下道少年に心ぞひかる      村野次郎

  路灼くるひる衢来て愛欲を思へるまなこ据ゑてあゆめり        竹内英一

等と言う今日の作品例を見て行けば、その言葉の強さにも関わらず作者が割りに安易に早くから一つの世界にもたれかかって居る点、はげしく自分だけの世界を拓いて行く捨身が見られない点本質的には吉井勇の狐などと差はないのではなかろうかと思う。

つまりここには語ろうとする作者の自立が無く、作者の問題がなく、生き方が無い点、あるともし言うならそれは先行者によって型をつくられた生き方である点、通俗的見解にしかすぎない点、僕には別のものと思われぬ。

僕はも少し自分でだけの言葉なりモラルがあっていいのではないかと思う。

問題を混乱させないために結論をつけて行こう。僕たちはいかに美しくあろうと、その中に作者の問題が―如何に生きるかがかたられて居ない短歌を「白痴美」の歌と考える。

白痴美とは精神的空白の上に作り成された美しさであり、それは短歌の趣味性とも表裏する。

そうして、もし今日短歌の新しさ古さを分つなら、もしわれわれの短歌と彼らの短歌とを分つなら、作品における作者自身のモラルの追及、自己を賭けた生き方の追及の有るか無しの点によってでなければならぬ。この場合はじめから一つの思想の類型に安住した作品は問題になり得ぬ。

吾々は安易に短歌の救いだとか美しき嘘だとか言う事を考えてはならぬ。文学は遊びごとではないからだ。

吾々は如何に今日の現実の中に生きなければならないか―短歌は僕ら歌人にとって唯一の其の果てしない追及の具である。(1948・3)

「歌壇の生態と定型」

今日毎月どのくらいの作品が作られて居るのであろうか。

僕などが目を通す短歌雑誌すら十数種を下らず、其の作品を読んで行く事はほとんど苦痛とも言える。其の歌論評論のはなやかなのにも関わらず、作品の一様さ、この短歌と言う一見安易な詩型が、今横と縦にひろがるほとんど無限な連続の世界を考えると、雑誌は無論短歌其の物をも抛棄し去ってしまいたい苛立たしさを感じる。

定型への愛情は定型への嫌悪と交互する。

この定型と狎れ合った詩の蕪雑さと職業めいた怠惰な精神は所謂中堅作家以下、群少同人雑誌の主宰同人と呼び合う一群に著しく、もし僕たちが彼らの作品を一様に並べた場合、其の相互の作品にほとんど個性的差別を立て得ない事に気付くであろう。

この事は之を精神の空白と呼ぼう。

自ら拠るところなく、常に人の言葉、人の指示を待たなければならない精神の空白性なのではなかろうか。

この事に関して僕は言いたくてならない事が二つある。いつかは僕は吾々の周囲の歌壇と言うものに言ってしまはなければをさまらない気持ちがあったのだ。

其の一つとして小煩わしい駁論の流行と言うよりは氾濫である。このことは僕の如き片隅の立論からも経験した。

例えば僕は一年前に「新しき短歌の規定」と言う小文を書いた。言っている事は当然なる常識事であるが、とにかくあの中に僕は今迄歌壇で一度も言い出されなかった事をいくつか考えて言った。少くともあれは僕だけが苦しんで言った事だ。

だが、其の後僕はいつ迄もいつ迄もあの文章の駁論を読まなければならなかった。無論僕は其のいくつかに正しい論理の反駁を感じた。そうしたものはいかにはげしい語気であろうと素直に読み、教えられた。しかし、そうで無い多くが、其の一文字一語句の勝手な抜き出しであり、其の勝手な歪曲と解釈であり、其のあとにくだくだと書かれた彼自身の見解であり、其の結論において新しい歌などだめだという感情的駁論である。

では何故彼らははじめから自分で言い出さなかったのか。何故僕の文章の一文字一章句から取り掛からなければならなかったのか。無論僕は一つの理論がそうする事によって成立する事は知って居る。新しい学説がそうした方法によって打ちたてられてきた歴史は、マルクスとかエンゲルスの仕事をあげる迄もなく明白であるし、もっと身近に斎藤茂吉の写生論確立を見ても、彼の業績ははげしい論争の間に築かれて行った。

僕はそんな事を言っているのではない。横丁のくらやみから出て一寸足をすくって見たり帽子をとってみたり、そんな果もない小駁論の安易な継続である。つまりこうして一度人の立場に凭ってしか自分の物が言えない歌人大半の精神空白の事である。はじめて言ったものは、たとえ其のロジックにぶらさがりまつはって居るものは、僕には二流品としか思われない。だが之が、今日の歌論と称するものの大部分の実体ではないか。

しかも、それに拘らず新しいものに喰いついて行く短歌の流行の早さを驚く。僕の抗議の第二である。

さっき立論の事で僕の場合の例をあげたから、ついでにも一度僕自身の事を言わせていただきたい。

僕はしばらく前いくらかまとめてやや概念歌じみた作品を作った。思想と言えば大業である。思惟を一つの実体として其の過程を其のまま詩として把握して見ようと考えた。肉体があれば具体となり得ると考えたのである。

無論之は何も僕自身の発明でも何でもない。

例えば僕は柴生田稔の過去の作品を直接に意識して居たし、更にさかのぼれば文明の業績、茂吉の思想詠があり、又善麿とか啄木の古典的な仕事が僕らの前にある。

更に、当時競って居た新歌人集団相互の一つの風であった事も事実だ。

又、僕は今日の現実と其の中に流されようとする吾々の生き方を歌はなければならないと考えた。無論この事を正しいと思うし、僕は今たれもそうすべきだと信じる。だが、信じ願うことと、其れが安易に流行になる事を嫌悪する気持とは別である。

故に、例えば、

  おどおどと昨日より来て湯を浴めど消しがたき負担と疑惑を負ひぬ   野本郁太郎

  常識に生きねばならぬ教員と結論らしく思ひけふ終る          中村俊文

  インフレの世のなりゆきを憂ひたる頃は来む世に夢をつなぎき      山本康夫

の如きになればすでに之は月並み流行である事を悪む。流行でなければ例えば万葉集の一つの歌の世界がくりかえされ芸術作品から類型化され歌謡化されて行く過程である。直接性の喪失と、月雪花的月並みへの過程である。

先日の「アララギ」歌会で「苦悩」云々と言う歌がいくつかあり、あとで小暮政次が「苦痛よ」と言うのは「梅が香や」と言うのと同じことだと警句を吐いて笑い合ったが、こうした新しい月並みの風潮は「アララギ」のみにかぎらず著しい。

ついでに僕はも一つの傾向をあげる。それは大野誠夫の一面の世界の流行である。僕はかって「大野誠夫小論」をかき彼の虚構性を指摘したが、それにも関わらず短歌に一つの世界を拓いた仕事には尊敬をおしまぬ。

それは都会の谷間の世界であり、小さな悪徳と「小悪魔」と「天使ども」の世界である。

彼が合憎其処の住民でなかった事が彼の作品の弱身であり、常に複製版的小詠歎と感傷を出られない限界なのだが、少なくともいち早く其の世界に短歌の素材を見出した「仕事」は大きく買われなけばならぬ。そして其のかぎり美しい。だが例の如く、

マフラーと口紅と赤くはなやげどこの娘子は足ることなけむ        鹿間義之

のごときも一歩先の便化がいくつも拾える事になると問題は別だ。

以上の例を比較的無名な人々についてあげて見た。僕は今日通用する大半の歌人にほとんど何も言う希望を持たないからだ。

だが、僕は何を結論しよう。ここもより以上に安易な世界ではないか。

先ず、今日の作品が、かなり明白にいくつかのカテゴリーに分類できると言うことである。

何々式又は何々型作品と分類する事が割りに簡単に出来ると言う事だ。

次に、其の便化が、類型固定化が相変わらず止む時なく続けられて居ると言う事だ。

この事は、有名歌人よりも無名歌人に著しく、中央雑誌より地方小雑誌に著しく、投稿歌作品等を見ればそれのみと極限し得る。

短歌はこうしていつも果なく月並化されて居る。

一人の有為な作家の一つの仕事が、たちまち模倣され流行され、荒されて行くこの勢いとも言うべきものを、現代の歌壇の生態として、僕らは嫌悪なしに見られぬ。ここでは一つの才能がたちまちにあらされて行く。この勢いこそ小悪魔じみているではないか。

僕は作品の模倣と類型化の傾向を指摘した。そうした相互関係に立って今日の短歌の世界の大部分が出来上がっている事。

そうして、この事すべてが結局は歌壇を形成する歌人個々の精神に空白、自ら拠り自ら考え、自ら語るべきものを何ら持たない、と言う、根本的空白に起因して居る事を、逆にはじめに於いて説明した。

もし僕が局外者であったら、ここで再び定型の問題をくりかえすであろう。この空白と安易はいくつかの方向から「定型との狎合」に其の説明を結び付け得る。

先ずはじめに、小野十三郎の所謂「奴隷の韻律」なる表現を利用しよう。短歌が奴隷の韻律であるかどうかと言う問題はしばらく措く。僕は歌人が定型に対して奴隷的服従をしてうたがはない事を言いたいのだ。至上命令としてはじめから短歌詩型を受け取って居る。

先ずこの方法への安易無反省な信仰からだ。

定型をうたがはない其の故に、自ら其の限界をたしかめようとする労をしない。どれだけの事が出来るかと言う積極的な試行を自分でなさない。

作家としての自主性の欠如が歌人について言い得るとすれば、それを定型への反省なき服従の習俗の故だと説明されても仕方がないではなかろうか。この安易な流行性短歌が自主性欠如の例として出されるとき、局外者の定型拒否を、今度は歌人は如何に反駁するか。

この事は短歌的詠歎の習俗性と言うの問題とも関連する。

歌人は短歌的詠歎の方法を習俗的に知っている。何ごとでも一応の抒情詠歎で始末をつけ得る一種の「泣き女」的習性、職業的詠歎性を持つ。それは、定型自体が詠歎型式である事、更に考えれば、定型詩自体の歴史的な一種の詠歎への連想とも説明されたであろうか。吾々は割に労せずして一応の素材を、一応の抒情、詠歎として処理し得る。定型のプラスの面が、この意外な素材の包容性にある事を僕はかって指摘したが、其の事は同時に安易な習俗を作るマイナスの面でもある。

職業的詠歎が精神の抵抗の形をとらないで一応可能である事は、そのまま吾々の精神の空白性ともなった。今日の短歌の大半が複製品めいて居る原因が、この安易な詠歎のくりかえしによる事は明らかである。

歌人は比較的自ら苦しまないで一応の詩人たり得る。この事はやがて歌人を一種の精神無能力者とする。すくなくとも、精神的な無能力者をも歌人として生存せいめ得る。

事実は、この大多数の月並み作家の間に、少数の真実の作家が居る。そうしてこの少数の作家が常に定型の限界に挺身することにより無限に短歌の世界を拡張し、自らの精神的苦渋を賭ける事により、又常に短歌的抒情を新たにして来た。そうする事により、この定型詩が常に文芸として支えられて来た。

定型の限界へ挺身する事は定型に常に疑惑する事である。

人の苦渋のあと、人の開拓のあとにたちまち月並みの根をはる大多数の歌人的生態とは別な態度である。

短歌性の否定と云い短歌的抒情の否定と言う事も、この点で究明すべきであり、真実の作家は常に自らのうちにある出来上がったこの抒情性を否定し嫌悪することにより更に高次の短歌性を創り出した。短歌への狎れ合いを常に月並みとして軽蔑した。

たちまちに喰いあらされる己れの抒情から更に逃れて高次の短歌性へ至る、そう云う何人かの作家を歌壇月並み歌人と別けて居なければならぬ。短歌を論じる場合に別けて見て行かなければならぬ。局外者の否定論が時々この点で喰いちがった。

僕は短歌を嫌悪すると云った。もしそれが定型であると云う宿命のためなら定型をも嫌悪しよう。

しかし、定型とはそれだけのものであろうか。僕ははじめに定型への嫌悪は定型への愛情と交互するとも云った。

僕は自ら好んで短歌作者となって居るのであり、文語定型詩を自身の場合の文学表現の方法として居るからだ。僕は定型を理論としてのみ受け取って居ない。

茂吉だとか節だとか啄木だとか、赤彦だとか何人かの真実の作家の仕事として同時に受け取って居る。

僕は短歌を文学の一隅の、更に詩の一隅の、文語詩型であり、それ以上でもなければそれ以下でもないという事も知って居る。定型詩を結局は詩の一隅における約束型式だと考える。

定型詩を必要以上に意味づけてはならぬ。少なくとも現在吾々に於いて一つの習慣的約束形式以上のものではない。三十一韻と自ら定める事に短歌性とも呼ぶいろんな性格が出来て来たが―だがそれらは二次的なものであろう。

吾々は定型の意味を正しく認識する事のために、一応短歌の外部より短歌を見なければならぬ。そうすることにより、定型から歌壇の習俗性をきびしく切り捨てなければならぬ。

其の後に今一度僕らはこの定詩型を愛惜し得る。文学型式とは形骸の事でなく、作品と作者とを常に生きた内容とするものである故に。(1948・2)

「定型と文語」

歌人詩人俳人の合同座談会というのに僕は昨日出席した。この速記は多分「短歌研究」に出るであろう。僕はこの会でいろいろな事を考えさせられた。詩人北川冬彦だとか、壺井繁治だとか、そう言った人の側から所謂自由詩の何らかの定型への模索とも言うべき切実な自己告白を聞いたことも有益であったが、それと同時に彼らからもっとも素朴な形でなされた質問、なぜ吾々歌人俳人が今日の吾々の間での言葉―口語を使用しないか、そうして古い定型に立ちこもろうとして居るのかを改めて考えなければならなかった事も、僕には有益であった。素朴の形での質問と言ったのは無論彼らの質問が素朴であると言う意味ではない。最も大事な問題を一応素朴にかえして提出させられた事なのである。

しかもこの時はすでに答える時間を与えられず会が進められて居た。

だが、ぼくたちはこの問題に答えなければならない。僕らは其の際やはり素朴に答えて行かなければならない。

それは、僕らが自ら撰って定型詩人として立って居ると言うこの事実である。僕らは好んで、たとえ理由と言訳はどうあろうとも、伝統詩の定型の荷を負ってたって居ると言う素朴な事実である。この事実を伏せて吾々の解明は成り立たない。ここを素通りにしてどんな新しい短歌への開拓の道もたどれない。

僕たちは或る意味で責められる立場にある。

会の後俳人の加藤楸邨氏が僕のところへよって来てこの事をしみじみともらした。自由詩人が何らかの定型への模索を告白するように、吾々も定型詩人としての自らの自由の範囲をも率直にかたらなければならない。

だが、では何故に吾々は短歌などと言う定型詩に自らの世界を守って居なければならないのか。この事は同時に用語の問題ともからみ合う。何故に、或いは将来吾々の間から忘れられてしまうかもしれない文語を、吾々の詩の用語にしなければならないのか。当然其のことからさけ得られない古さを自らの宿命としなければならないのか。

僕らは今又素朴にこの事に答えよう。僕らは自ら一定の約束を守って立つ定型詩人であることを。

すなわち与えられた短歌と言う約束型式をそのままにふんで行く詩作者である事を。

では、何故短歌と言う型式を撰ぶのか、同時に、何故文語を用いるのか。

それは、短歌と言う詩型式が、吾々の間に現にあるからだと答えよう。将来は知らぬ、だが今、吾々の民族詩型として、吾々日本人のたれもの胸中に短歌と言う型式が、吾々が今考えて居る其のままの形であると言う事を考えよう。吾々は、其の詩型に、取り合えずと言えば誤解されるかも知れない―よって立って居るにすぎない。吾々皆が最も単純に知って居る文芸型式としての短歌を吾々の抒情の型式として居るにすぎない。

其の安易を人は責めるであろう。だが、僕たちはとにかく短歌と言う詩型式を、これほど迄に強く吾々の間に生きて居る言わば民族的精神財産の一つであると率直に知れば、それを自らの定型詩とし、其の中にあって之を更に吾々の間に文学として高めて行こうとする定型詩人の立場をも同時に知り得られなければならぬ。例えば将来滅びなければならぬ人類であっても、そのために吾々はよりよき社会への意志を今捨てるわけにはいかない。将来或いは吾々の言語の変革とともに滅亡するかも知れない詩型であっても、今現に吾々民衆の間にこれほどに熟知した形で存在した形で存在し生きて居るこの一つの詩型を、自らの詩型として高めるべき吾々の立場は、一片の概論的文学論などで抹殺されるほど薄弱なものではないと思う。

文語の問題も同様である。将来は知らず、今はやはり一つの美しいプラスとして、この特殊な国語は吾々共通の民族財産の一つである。口語とは別な緊張感をもったもう一つの言葉として、とにかく今吾々は之を所有して居るのだ。文語的なよさは将来の口語の形成に何らかの形で加わって行かなければならぬとさえ思って居る。吾々の定型詩は其の上に立って居る文学詩型である。

だが、無論其のために吾々は自由詩の立場をどうと言うのではない。口語の上に立つ自由詩が、口語を浄化しつつ自らを高めて行く事を希うだけであり、否、本当のありかたを言えば吾々定型詩人は同時に自由口語詩をも作ってゆかなければならない事を、当然事として考えなければならない。僕らはもっとフランクにこの二つの間の事を考えるべきであり、そのかぎり日本人的なせせつこましい苛立った自己主張を捨てなければならぬ。

吾々は自ら撰って伝統詩によって居るのである。其のための制約は当然否定し得ぬ。

短歌が長い歴史の間に自然に身をつけて来た一種の哀愁感、短歌的抒情性とも言うべきものを吾々はやはり時として一つの制約と考えずに居れない。吾々が何かもっと力強いものに立ち対ってゆかなければならないと考える場合、この制約はたしかにマイナスである。だが吾々がこの制約を逆にとってもって自らの抒情ともなし得る事をも考えよう。この短歌的哀愁感からのがれようとする意志自体が、いつか又短歌的抒情の形をとる。こうして吾々の短歌は其の抒情を次第に深めひろめて行くのではなかろうか。

山口誓子の第一句集『凍港』の序文に高浜虚子が、辺疆に矛を進める者と言う言葉を使って居たのを記憶する。吾々は短歌の世界から敢えて辺疆に立ち対おうと意志しつつ、すでに其の事が短歌抒情自体となって居ることに気付く。こうして短歌の世界は、定型の枠の内にありつつ拡張されて行く。

定型詩と言うものはこう言った一面をもつ。功利的な別な言い方をすれば、吾々はかなり大胆な取材をしつつ、定型詩であることによりいつかそれが一応の抒情の中におさまって行くという事である。

短歌が伝統詩でありながら常に新しく生き得るかの問題は、この性格からも別な一つの答えが出して行けよう。

だが、その事は同時に定型詩の弱点でもある。何でも一応の抒情性を与えて行くことは簡単に類型をくりかえして行く事にもなる。

僕たちは其のためにも短歌―定型詩のあらゆる性格を常に見きわめて行かなければならぬ。

定型詩と自由詩の問題を考えて見よと思ったのだが、僕は定型詩の性格迄考えなければならなかった。いつも、僕はこんな事をかんがえると、問題の多いことをなげくだけになるのだ。(1947・12)

「把握と具象性」

もし吾々―「アララギ」の作品を他の作品と区別立てるなら、其の一つの特長として、一首の中に対象を的確に把へて居る事を言い得るであろう。吾々は写生と言う言葉で、言わば教えられたままに之を実行し、先進の方法をそのままうけ入れ学んできたが、それでは何故短歌に其の事が必要なのだろうかと言うことは、比較的に考えなかった。否考えたにしろ、吾々は常に子規、左千夫、赤彦、茂吉らの其のとき其の時の歌論で、結局は彼らの考えを方を自分のものとして納得して来た。

 だがこの事は、吾々の短歌の特長であるだけ、もし何故にそうならなければならないかと言う疑問があらためて提出された場合、答えるだけの、自分で苦しんだ自分の答えを持って居なければならぬ。

短歌の世界は広く、そこではいろんな主張と態度が並存して居る。作品として対象を切り取って居ると言うことが、結果として彼らの作品にも見出し得るとしても、言葉として駁論として、吾々は之に如何に答える用意を持って居るだろうか。

僕は最近ある詩人と歌のことについて話し合った時、短歌のこの特異点を如何に説明すべきかの困難を感じた。

短歌になぜ具体的把握がなければならぬか、否、短歌以外の文芸にも其の事はあるだろうが、何故短歌に限ってこの事を特に強調しなければならないのか。(僕は俳句の事も言うべきであった。俳句は更にこの点を考えなければならないであろう。)

僕らはいろいろな角度から考えて見なければならぬ。短歌が抒情詩である事を本質とし、抒情すべきものが結局は作者の強い主観である事を知りながら、何故主観をそのありのままに作品一首とせず之を物とし具象し、言わば、一応客観として写生しなけらばならないのか、こう疑いを出してゆかなければならぬ。

主観は一応具象としてしか文芸作品の内容にならぬと言う事は初歩の芸術論であり当然であるが、それだけでは吾々の答えになり切らぬ。之はなにも短歌だけに限った事のない概論だからだ。

やはり短歌の規定された枠、短詩型であることと、韻律が一応初めから与えられている定詩型である事から考えて行かなければならぬ。

吾々は作品以前の素材―具体としての主観―を、如何に作品一首にするかと言う問題に先ず出会う。この事は何も短歌にかぎらぬ。すべての芸術についても同様である。しかし吾々ははじめから自分の枠を持っている。自分の容器を用意してかかって居るために、吾々は短歌のために如何にこの素材を取り込まなければならないかを、当然別に考えなければならない。

他の文芸では、素材のどの範囲をどの時点で切り取るかと言う重要さと同時に、切り取ったものを如何に今度は作品として組み立てるかと言う事が、之におとらず重要な仕事である。この事は比較的に自ら枠を持って居る自由詩とて同じであろう。

しかし、短歌では、はじめから自ら狭めた詩型の枠と、更に韻律にもある程度のおのずからの枠を持っているために、あとの仕事、一応把えたものを作品に組み立てるという事が、比較的重要でないだけ、否、この点で自ら自由さを制限しているために、更に前者、素材のどの点を如何なる範囲で切り取って来るかと言う労作の部分が重要になってくる。つまりこの的確さと機敏さが、そのまま一首の作品自体の内容の躍動と生気とになってくる。

無論素材とは作者の具体である故、主観の希薄さはいかに的確と機敏とをもってしても如何にもならないだろう。しかし又いかに高揚した主観でも、短歌では―定型であり短詩型であれば、この把握の的確と機敏とを欠いては、今度はまた作品の希薄さをまぬかれない。

対象の核心に入って之を把える事をしばしば先進は教えている。何を核心と見るかは、言ってしまえばそれは写生の「生」であるかもしれないが、何をどの点で、どの範囲で、又、如何に切りとるかの一首の高度の技術―労作とも一面では説明し得るのではなかろうか。

実際の場合として吾々はこの労作を明らかに労作としては意識しない。又意識した場合には往々作品としての弱さをもたらす。この辺の微妙さは充分に説明し得ない。

素材―物を把えなければならない。物とは詩としての主観の具体である。把えるときには一種の労作がなされる。この労作の巧みさ鋭さが、とにかく作品の一首の厚み、立体性をもたらす。吾々はよく作品の平面性と言う事をある一群の作者に指摘する。

又作品の多様性と言う事を考えよう。

はじめからかぎられた長さと型式をもってかかるため、早く類型を作ることも短歌の特長である。このため吾々は他のぶんげいにもまして作品の多様性を常に考えなければならない。しかしすでに述べたように、表現技術としての短歌の幅は、比較的に狭い。無論言葉或いは表現技巧では無限の変化が可能と言えよう。しかし類型は技巧の変化だけで免れる事は出来ぬ。そのためにも吾々は一首の素材の多様性を常に求めて居なければならぬ。

短歌が他の類型にもまして物を追い具体を追うのは、一つにはこの多様性への為とも言えよう。

も一度いえば、短歌は、小定型詩としての宿命のため、其の類型を免れるには、表現技巧、アイデイアの変化、言葉の変化だけではどうにもならない。其のため吾々は常に一首のテーマとも言うべきものの変化を追わなければならない。常に素材の新鮮さ多様さを求めなければならない。

短詩型が他の詩型にもまして「物」へ執したのはこの類型の問題からも当然取った方向であったと言えよう。

「アララギ」の一部の作品に最近この具体性がすくなくなった、少なくとも実作に於いて具体性云々を無視し出したと言う論をしばしば聞く。

この場合吾々のある種の作品、思想的とも言うのか、かなり概念的語句を用いた作品を論者は考えて居る。しかし無論之は彼らの誤りである。吾々は具体とか客観とか言うものを何も吾々の外部にのみは考えぬ。吾々の思惟思想とても、其のある場合を一つの具体として自ら把み得るのではなかろうか。もし其の事の中に一つの情感がありと感じとった場合、僕らは之を自然山水人事と区別して考えなくてもよいのではないかと思う。

短歌に具象性―「物」の把握と言うことは重要な事である。しかしこの事を意識的に考えたのは正岡子規からであった。正岡子規はこの事を意識する事により、短歌を古今以後の類型性から解放した。

子規は俳句からこの考え方を移して来た。特に蕪村の作品を考えてもよいであろう。「アララギ」の作品はとにかくこの血を引いて居る。僕らはもっとこのへんの事を考えて見なければならぬ。子規が短歌を、単に俳句の長いものだと考えなくなった事も考えなければなるぬ。

僕の論は当然子規にも彼と俳句にもさかのぼるべきであった。次の機会を待ちたいと思う。

(1947・11)

「『新しき丘』の世界」

小暮政次は昭和五年に「アララギ」に入会、僕は七年であった。しかしはじめ彼は大阪にあり僕は広島に居たので、発行所の会などで会うようになったのは昭和十年ごろからであった。僕よりは五年の年長者でもあり、彼から見れば僕などは少し生意気な行進者だったのかもしれないが、僕は僕なりに彼を一つのライバルと目し、常にマークして勉強をして来た。其の意味でも『新しき丘』からうける感慨は、僕なりに深いものがある。

歌集にまとまって見ると、其の時其の時の「アララギ」誌上での作品から受けた感じとは、又別な印象を僕は感じる。それは、全体に、やはり完成して居り、意外にものやはらかな純粋な詩情をたたえていると言う事である。

小暮政次はどちらかと言うと理知的な作家であり、理知で構成された世界を先入感として僕は常に彼の作品に対して来た。意外と言うのは、僕が彼の歌を常に意識的にマークするのあまりに、心にくいほど技法だとか、機敏な対象の整理に其の時々に気をとられて、其の反面の平淡な詩情を割合に見のがして居たのではなかったかと言う事だ。

  淡々しき映画の記憶進軍の笛の余響をかなしみしのみ

  わびわびて雨ふる中に電車待ち今朝もすばやく座席をとりぬ

  来り立ち涙さしぐむ人あればただに懼れて吾の構ふる

  貧しきいとなみの中に寄り合はむ汝を思ふ胸いたくなりて

  吾が庭に木の芽吹きおとすみなみ風たどきなし吾が幸の中に

  小松菜の二葉は庭のいづくにも生ひ妻は籐椅子を願ひやまぬかも

  蚊屋の中に暁ちかく目覚め居り吾妻は夢にいたくののしる

  空たかく吹きゆく風のしづまりに吾が妻に甘えゐる猫の声

前半に於いて印象に残った歌を抄き出して見た。例えば六首目の小松菜の二葉の行きとどいた取り入れ方に僕らは先ずこの作者のよさを感じると共にそれより更に下半句の目立たない軟らかな抒情を見て行かなければならなかった。歌集の一時期をなす一群の相聞歌も、すでに物に激さない作者の年齢の成熟とも関連して他に見ない、底にたたえたものの深い美しさがあると思う。

この作者の数多い生活詠或いは時事詠等も一見ふてぶてしいように見えてすぐに何か弱きであり、受身であった。河村盛明君が「中途半端なニヒリズム」として「冷たさと空々しさ」と「フエニキス」六号で評しているが、僕はそうした言葉からの感じとは別の、もっとあたたかな血のある生きた人間の弱気であり受け身な「生き方」の場合を感じる。僕はそれでよいのだと思う。短歌でうそは言えない。生ま身な人間が、生きた四周境遇の中でどれだけの事をなしたかと言う事を吾々は批評の場合に見て行くべきであり、あの時にどうすべきであったと言う後からの批判は、結局はしらじらしい表面的な概論批評に終っていますのではないか。

『新しき丘』は北支百首で作者の世界に一つの転移を見せて居る。多彩になり、屈曲を増して居る。だが、それにもかかわらず彼の抒情はものやわらかで美しい。例えば土屋先生の『韮菁集』の作品に比べるがよい。

  白き馬は白き馬と相寄れり緑いちじるくなりし木の中

  埃吹く風にたじろぐ馬群ありくれなゐ滴る落日の中

  石臼をめぐりめぐれるうさぎ馬いさごは遠く空にまじはる

少し美しすぎると思うくらいだ。僕の今度の歌集の中にも中支の作品があるが、僕はこうした態度で大陸の自然を見る気持になどなれなかった。

僕はも少し感傷的であり、いらいらと自分の事ばかり歌って居たと思う。

  黒き青き衣は清潔の感じにて眼は憎悪か知性の光か

  清き水ひねもす上げて働けば幼き力におびえても思ふ

これらはすでに美しい抒情とのみは言えない。作者の側からの批判があり、思惟を作品として支えるだけの主体がある。

唯、こうなると少し気持が整理されすぎて居ると言う不満がやはり僕には感じられて来る。

この事は他の場合についても言える。

北支百首のあとに更に現在の吾々の世界につながる彼の作品がつづく。

外套を紺に染めむといふこともはかなくなりぬ街ゆきしとき

狭き部屋に鰊焼きゐる妻見れば其の兄相沢正かなしも

清くただ清くありたしと既に反動に似し考へか

電車二つ乗るのみにただ疲るればまつはる如し咎の軛の

最近ほとんど無暴とも思える程の多作をつづけて居ながら妙き出せば一首一首かく美しく完成されて居る。何もかも予め計算して居るようなさりげない表出である。その事だけでも彼は吾々周囲での実力作家だと思う。唯これらの作品はそのまま今日の作品につづいて居る。『新しき丘』の終結は少し突然であった。僕は次の歌集を見なければこのあたりの作品について言うことは出来ないとも感じる。

更に僕は後記に一括して残された「『新しき丘』以前の作品に興味を感じる。所謂三段組の、お互いの習作時代の作品であろう。すべて僕になつかしい作品でありそれだけに、わざと後記に出しておくと言った小暮政次らしい「手」に感心すると共に、僕は本当はも少しそんな手を用いない方がよかったのではないかと言う気もする。(1947・11)

「自己追求の詩―人事詠の課題」

歌は境遇の詩である。僕らの如く都会に育ち、都会に生活し、社会の動きが其のままじかに吾々の日々の喜憂ともなる生活環境にあって、僕らの最大の問題は、一義的な関心事は其の中での自分一個の生き方であり、境遇の中に如何に自分の生き方をたしかめて行くかである。歌を遊びと考えないかぎりどうしてこれ以外に歌うべき問題があろう。一番大事な問題を外して何処に短歌の取材の世界があろうか。僕はかく考えて居る。

歌を自己に取材し、又自己を中心とする対人的な関係に取材して行く。人事詠と言って居るが、こんな言い方も曖昧である。

もし僕が農村に生き田野に働いて居るなら、僕は其の位置に取材するであろう。本当は自然詠とはそんなものである。生活を離れた自然詠はつづまりは遊びであり風流事にすぎない。遠足に行って山水を詠む態度を僕は排斥する。節の自然詠でも赤彦の自然詠でもそんなものではなかった。とにかく其処に何かを賭け捨て身なものがあったと思う。狭義の「生活」と言う言葉では説明し得ないとしても、何かそれでなければならないと言うぎりぎりな、捨身な作者自身の問題が其処にあった。

唯、僕の場合、もっとじかに僕自身の問題に関心をもつ。自己と、自己の立つ四囲としての社会である。僕の歌はもっと一人称的である。

僕は戦争中、所謂銃後詠なるものを作らず、もっぱら之を軽蔑した。この事は今度出る歌集に見てもらえばわかる。作者が其処に居ない世界などに興味がなかったのだ。作者が舞台裏に引っ込んで居るような如何な感動も興味がもてなかったのだ。

この事は今日の問題についても言える。僕は作者が舞台に立って居ない所謂民主主義の芝居などに何ら興味はない。作者に説明してもらう民主革命も赤旗行列にも僕は今さら感動しない。

僕は其処で作者が何をして居るかを見たいのだ。作者がその問題を如何に担って居るかに関心を持つのだ。

僕の作は人事詠と言うなら、僕の覚悟は前述の事を逆に自分の事にして言えばよい。

僕は自分の居ない世界などを歌にする興味はない。自分を中心にしない四囲に関心を持てない。思想歌の類も同様でどこ迄も自分の肉体の中に、如何に受け入れて居るかを洗い出さなければならぬ。

僕は歌を自己追求の詩と考える。歌はかなり独語的な詩である。ぽつりともらしたつぶやきのような詩である。この事は独断的な定義だが、定型の短詩型と言う本来の性格もつきつめて考えていけば、何か其のへんに必ずしも独断ではない、筋立った説明が引きだせるのではないかと考えて居る。

ともかくも、短歌は常に眼をうちに向けて行く詩だと思う。常に自分だけを見つめ、自分だけを追求し洗い出して行こうとする文学ではなかろうか。

ただ、そのために一体何処に行ってしまうのであろうかと言う疑問を感じる。遂には唯作者一人の孤独な肖像画が出来てしまうのではなかろうか。

僕はそれでもよいのではなかろうかと思う。吾々はたとえ一個の人間像でも、それが性格に描ければよいのではないかと思う。正しくみつめられた一個の人間の像は決してそれだけで円を閉じてしまうものではない。僕はそれがもっと普遍的なものにつながって行くと思う。言いかえれば、今日と言う時代を何らかの意味で担った一人の人間の像は、それを正確に描くことにより同時にあらゆる同時代の生き方を像に描くことにもなると思う。

そうする事により一つの時代なり思想なりは作品として固定されるのではなかろうか。

人事詠の課題をこうよう考える。(1947・10)