近藤芳美





近藤芳美著『新しき短歌の規定』よりNO.1
癩園の愛情(1951年4月)新しき短歌の規定(1947年4月) 『早春歌』(抜粋) 「転期に立つ」 「幇間の如く成る場合」「福田みゑの歌」 「新しき歌壇の生成」 「短歌の封建性」 「批評への不信」 「作品とする技術...批評の規準に就いて」 「短歌と生活」 「短歌の作り方に就て」 『韮菁集』私感 「短歌の救い」 短歌の近代性に就いて」 「歌のわからなさ…局外批評に答えて」 「人民短歌に就いて」 「物」への驚き―『赤光』を読みて 「虚構の美」―大野誠夫小論

近藤芳美著『新しき短歌の規定』よりNO.2


 

癩園の愛情(1951年4月)  (注:原文のまま載せてあります。)

 

伊藤保の『仰日』は最近まれに見る美しい歌集である。ほとんど非売品の形で発行されたこの地味な小さな歌集が、意外な範囲によまれ、評価されて居るのを僕はうれしく思っている。伊藤保は長い癩園の患者である『仰日』の作品はすべて其の病者詠である。その事だけでも云わば必死の作風であり懸命の歌集である。しかしそれだけの意味なら之迄にも癩園の文学はあり短歌はあった。否、今日と云えども、各地の療養所に多くの歌誌が出され、多くの歌人が深い悲しみをこの詩型にかけて居ることを吾々は知って居る。其の中で伊藤保の作品の持つ意味は、作品の個々がすぐれて居ると云う事と共に、ここには、不思議な、稀に見るような美しい癩園内での愛情の生活が歌われて居ると云う事である。

 

み教にも心浄まる日なしとてわが処女ひたすら受洗こばめる

看護(みと)られてさきに逝き得るをかたみにも祷りて契る病む吾と妻

此の部屋にひとり乱れて祷りにきけふ妻とある幸思ひしむ

五日目の今朝は聖書をまつる棚つくるに妻が足台ささふ

癩園内の恋愛と結婚とが、ここではこのような異様な美しさで始まって居る。かかる歌から『仰日』の歌ははじまって居る。

「看護(みと)られてさきに逝き得る」をかたみに祷りながら二人の生活が今結ばれようとする。このような文字通り必死な愛情がここから始まろうとする。見究めた己れのいのちのはてに、一つの愛情を相たしかめ、育み合おうとする。

「肉の絆を絶った私達は、こうして看護され看護しつつ互いに契合って夫となり妻となり苛酷な運命を縋り合い励まし合って生きて行こうとするのであります。しかしそれは世の厳しい批判が加えられる事でありましょうが、決して世の人々が考え得る夫婦生活ではありませず、私共が共に暮したのは十ヶ月ばかりで、私が静養病室に移って寝台に仰臥の儘の生活を続けるようになってから、妻は比較的健康である為に園内作業に従事しつつ婦人寮から私の看護に通ってくるのであります。こうして七八年を経過しました私共は苦悩を越して自ら精神的な結合へと向うべき道を歩こうとしております。」(注:原文は文語)

後記の一節をやや長いが書き抜いて見た。人はこのつつましく耐えた作者のことばから、吾々の知らない、吾々の間の隔絶社会にいとなまれて行く美しい人間愛情のあわれな決意とも云うべきものを聞き得るであろう。

文字通りの精神苦、肉体苦のはてから、作者がいとなんで行こうとするこの愛情の関係は、はじめから浄化されたものとしてあわれなまでに純粋である。

寝台の下に茣蓙(ござ)敷きて寝入る妻の稚(いとけな)ければ限りなく思ふ

 

髪結をして妻のいささか得し金を今夜臥床に敷きて眠れる

 

このような歌がある。すでにこのとき作者は病臥して居る。だがまもなく

 

七月にて生れて拳(こぶし)がほどの生子いくらも泣かず死にゆきにけり

 

病める身を諾ひて神に縋るわが妻に身ごもる子をおろさせぬ

 

等の一連をも吾々は見なければならぬ。

 

たまゆらは息深く吸ひしみどりごを生くると思ひて抱(いだ)き上げにき

 

おろせる子、生くると思いて抱き上げる子、つつましく、最小限のこの表現の中に、どれだけの事を作者はたくして居るのか、吾々は深くよみ取らなければならぬ。

 

療院に十四年棲まふとひそやかに妻と語りつつ蕪漬けをり

 

土入れして我妻(あづま)がゆけばいくたびか義足憩はせ吾は麦踏みぬ

 

ここに来るともはや何らはなやかなもののない、いぶし銀のように美しい、長い日を耐えた愛情の詩である。「手を引かれて」と云う一連がある。

 

棕梠の下の池に白蓮ゆらぎをり妻に負はれ来て野のうへに立つ

 

子のごとく労(いたは)られ父のごとくに傅(かしづ)かれ妻よ仰臥す身の生きてゆく

 

も悲しいばかりに手ばなしの美しさである。

 

仰臥してけふも歌詠み麦踏みより妻が帰れば辞書引きもらふ

 

祷りつかれいまは呆けて妻が髪胸はだきつつ聖歌聴きをり

 

古来病臥の歌は少なくなかった。しかしここに至ってこれだけの男女の愛を抱こうとした歌はどれだけあったか。癩院の中故にすさまじい愛撫だと僕は思う。

 

響(とよも)して地震(なゐ)すぐるとき標本壜に嬰児ら揺るるなかの亡き吾子

 

この歌を直視し、この一首の中に圧縮された一人の人間の悲しみを聞くとよい。標本壜の中の吾子を見て居るこのあやしいほどの詩を見逃さないでほしい。

 

見る目なきいのち互(かた)みに看護(みとり)合ひ浄けき臨終(いまは)を妻も願ふらし

此身退(ひ)かば妻に幸せの待ちゐむと深くも思ふ病みて老いつつ

 

愛しさにむせぶ妻をも臥す吾の衣を一重(ひとへ)へだてて抱ける

 

生きてゐて下さるだけでいいわと祷るがに妻が言へれば生きて来ぬ今に

 

「七八年を経過しました私共は苦悩を越して自ら精神的な結合へと向うべき道を歩こうとしております」と後記に記す。苦悩を越して云々の告白も、どれだけ深い意味をたきして居るかを知る。それは恐らく僕ら癩園の外の人間には知る事の出来ないほどの地獄と、それを越えようとする精神意志の美しさなのであろう。

 

病む身契りて看護りあひつつ睦めればわが主イエスの許し給ふべし

 

ほとんど僕らには恥ずかしいほどの確信の表現である。苦しみの後はじめて至る浄い、くもらない愛情のことばであると思う。

 

黐(もち)の花青き実となる下にきて汝が手をとれば烏啼きてゆく

 

「病みて老い」ゆくものの、実に純粋な相聞歌だと思う。『仰日』の愛情はこの美しさに至って居る。

歌は今日、このようないのちのはてからさえ作られて居る事を知ってほしい。そうして僕が云いたい事は伊藤保と同じような運命に耐えて、同じように美しい歌を作って居る歌人が、何人となく居ると云う事である。人はかかる歌をよみ、かるがるしく今日の短歌に唾棄の一言を吐く事をつつしむべきである。ごみごみとした歌壇の歌などが決して今日の短歌のすべてではない事を知るべきである。


『早春歌』(抜粋)

 

落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に

聖書が欲しとふと思ひたるはずみよりとめどなく泪出でて来にけり

ほしいままに生きしジュリアンソレルを憎みしは吾が体質の故もあるべし

物音なきひとときなりき夕光さし枯蘆木皆同じかたに傾き立てり

国論の統制されて行くまでが水際立てりと語り合ふのみ

枯枝の影をふみつつ歩み行く吾の今宵を知る人はなし

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき

テーブルの明るき間縫ひ行けばいつかよりそふかばひ合ふ如く

鍵かけて一人し思ふつづまりに額の硝子にくちぶるを押す

蘆原の上にたゆたひありし日の落ちたるときに燃ゆる火の如

吾が今日の作業よ杭を打ち行きて沼土深く岩に触るる音

落葉松の芽ぶきの匂ひ吹きて来る風を作業衣にはらませて出づ

枕べの匙にむらがり居たりける夜中の蟻を吾は殺せり

果物皿かかげふたたび入り来たる靴下はかぬ脚稚(をさな)けれ

壊れたる柵を入り来て清き雪靴下ぬれて汝は従ふ

近々とまなこ閉ぢ居し汝の顔何の光に明るかりしか

あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと

手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来りぬ

裾ひろくクローバの上に坐り居る汝を白じらと残して昏るる

魚の腹の如き腕とさびしめど起きざまに吾が作業衣を着る

機関車が捨てたる灰に夜をこめて枕木ひとつ燃え居たりしか

貼られ来るかそかなる青き切手さへ何にたとへて愛しと言はむ

果てしなき彼方に向ひ手旗うつ万葉集をうち止まぬかも

鴎らがいだける趾(あし)の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる

政治など専攻せざりしを幸と思ふと言ひ合ひし後を共に寝つかれず

髪切りて幼き妻よ衛兵交代の列のうしろを行きかへれかし

降り包む高き屋上の監視哨(かんししょう)汀(みぎわ)の雨の如くにわびし

行く君と話少なしなほ生きて世の移るさま見たしとも思ふ

「転期に立つ」

吾々はここ数年「聖戦の完遂」と云う枠の中にすべての思考を封じてしまはなければならなかった。戦意の昂揚、生産意欲の増強、銃後の明朗化といふ上からの指令の線にあらゆる芸術は生彩を失ひしかも戦争の末段階に至るにつれて国民の懐疑と不安とは逆に、唯空虚の呼号をくりかえし、不潔不快、心ある者をして私かに面をそむかしめたもの、あながちに短歌のみにかぎらなかった。

かうした情勢の中に迫真を文学理想とし、個の内面へのあくなき追及を生命とする「アララギ」の歌風が萎靡しない訳がない。もしたれかここ数年の雑誌を再びよまなければならぬとするなら或る退屈感に先ずとらわれるのも当然と言えよう。わずかに兵卒として第一線に赴き生命の不安と戦争への懐疑とのさ中に立ち、厳しい制圧の隙からぎりぎりの声を訴えて来た前線作品の無名の一群の外に、ここ数年「アララギ」は乾ききった短歌作品の堆積であったように思われてならない。読み返すたびに僕はいつも朝鮮とか中支とかの内陸を終日車窓から見ながら旅行したあの頭痛を覚えるような倦怠感を聯想する。そこには少しの瑞々しさがなく、乾き切って磊々とした自然と、無限の大陸的虚無感があるだけであった。

真実に触れ真相を写す事が許されず、しかも作歌を続けて行くには吾々には二つの方法以外に取る道は無い。すなはち実相に立ち入る一歩前で作品を作るか、又は之を避けてあたりさはりの無い材題に向かうかである。前者であばつまりは概念の歌となり、後者をとれば逃避の作となる。しかも吾々は戦争の継続の中にいつか知らずあまりにも安易にこの概念と逃避の道を取って来、無反省であり無批判に相互に許し合ってきたのではなかろうか。

しかし終戦以後此の事情は一変し、文学としては当然であるべき指針以外に吾々の上には何らの制圧も至上命令もない。しかも吾々は転換と脱皮とのあらゆる混沌の中に開放されて立つ。明るみに出された生々しい人間性、社会不安、ぎりぎりの生活問題、そうして之らを同時に押し流して居るかに見える思想の浪、之が吾々の立つ現実である。この現実をじかいうけとる身をもっての苦しみこそ今吾々に与えらえた作歌の素材であるべきで、今の一つ一つの事実、其の中に立つ一個の苦しみ、そうして其のぎりぎりの懐疑と解決の問題、すべて其のままが生々しく作品として掲示されるべきではなかろうか。

では具体的には如何なる作品が、吾々の「アララギ」から生まれつつあるだろうか。僕の手もとにとどいて居る「アララギ」は十二月号迄であってまだ一般の選歌を掲載していない。所謂大家の作品以外は「アララギ」の中堅の層の人々であり、「アララギ」の動向を指示すべき一群である。之等の作品はいかに生々しく、今日の現実に苦しみ、現実を把んで居るだろうか。かうした期待を一応吾々は持つ。しかしながら、

戦いのつひの終りに村肝を揺りてくだりし大みことのり

戦はかくの如くに果てにきとわれの涙のとどまらなくに

斯くまでに民を憐みおぼし召す大御心を忘れておもへや

爾臣民ト共ニ在リとみこと宣り給ふ大きみめぐみ光の如し

一千万の飢餓出づるとも伝はりて心はくらしこのあけくれの

之等の如き夫々に作者の練達と或る情熱を感じ得るにしろ、つづまりは戦争歌以来安易にたどった概念歌の方向ではなかろうか。

進駐の兵士もまじりて人たかる焼残る街に夏帽子売れり

焼跡ににぎはふ人ら土のうへに枝豆もりし皿ならべ売る

ま夜中に道具とり出し進駐軍迎ふる町に大工立ち行く

新しく起る思想をたのみまつ夜々がありて幾らか楽し

なるほど之等は今日の現実かもしれない。しかしまるで作者は傍観者の如くよそよそしいではないか。

あまりにも安易に今日の現実に対して居るではないか。かくのごとく、「アララギ」の中堅作者の動向は必ずしも戦争より引続く彼の不振をふり捨てて居るとは言いがたい。いまだ現れるべきものは現れて居ない。現れるべきものとは何か。僕はそれをはっきり表現し得ないが幾度か繰り返す如く、すくなくとももっと今日の現実の中に苦しみ、そこからの迫真、もっと痛々しく身をくねられた、はげしい写生であるに相違ない。こうして吾々の写生は今一転期に立とうとする。それが具体的に何であるかと云うことは吾々「アララギ」の若い層が今後身をもって苦しみ会得し現示して行く以外に知る方法はない。吾々は写生の転期を予感すると共にそれを担うべき若い人々の層の奮起を期待する。(1946・2)

「幇間の如く成る場合」

賀茂真淵の歌に、

下野や神の鎮めし二荒山二度とだに御世は動かじ

と言う一首がある。御世は動かじは無論徳川の治世の意味であり、真淵の作歌態度がいかに誠実であり軽薄でないとしても、吾々はもはや一種の批判を持たないままこの歌に純粋に対する事は出来ない。一首の価値とは別に、封建の時代に生き、其の枠の中につづまりは市民的安堵に生きた一種の悪気なき卑屈さと言うか、吾々の感覚はこの限界に対してもはや素直ではあり得ない。其処を唯に笑ってすごせない何か怒りさえ感ずる。

そうして、この問題は直ちに吾々の今日の問題につながる。思って見給え、この十年の過去の日々の吾々の作歌なり言動なりに、ほろ苦い悔いを、若しくは言分けを持たないと言い切り得る歌よみが何人居る。

吾々は市民的善意にこの間を生き、吾々の作歌は其のかぎりで戦局を題材とし、時には戦争をも賛美した。かれもかく言う、しかし、今日かく言うことさえすでに吾々は早くも言訳けをして居るのではないか。たとえ善意であろうと、よき市民として生きた事であろうと、其の限界は真淵が「二度とだに御世は動かじ」と信じ安んじた程の善意の、内に含むみじめな小ささと相通ずるものではなかろうか。

この数年の作を抹殺したいと思う。歌よみにかぎらずこの悔いはたれしも大なり小なりいだく。だが其れが、若し敗戦の現実だからと言う理由のみなら、唯己れより他への理由であって、己れへの内への深い反省ではない。問題は左様に簡単ではない。何か。それは彼の「御世は動かじ」の是非ない卑小さ、市民的善意の卑小さであり、早くも時代の往き過ぎに批判されようとする吾々歌人群の知性の卑小さなのである。

軍の暴政を怒り、故無き戦いを憂い、しかもつづまりは日々の小生活に安堵し、其の限りでの智慧を出づる事なく、一喜一憂、智慧の世界性に出でようとした事のなかった、歌人群の救いがたい市民根性の故であるのだ。

代用品の鉄兜をかぶり、バケツリレーの尻に加わり、しかも結局己れを大してみじめと感じなかった歌人らの、彼の生活日常吟をも一度見るがよい。私は印刷所の活字のなくなる迄卑小さと文字をくりかえしてもあき足らない。

だがもう過ぎた事を言うのは止そう。私は過去の反省を其の儘将来へ反転させようとするあり来りの論法を綴るために、少しくどくどと書き過ぎた。

土屋先生の作に次のようなのがある。

歌よみが幇間の如く成る場合場合を思ひみながらしばらく休む

之を先生には失礼して都合よく私流に解釈しながら、取って以って題目とした。歌よみは素朴であり善意であったかも知れない。しかし其の限り於いて歌人群の過去の態度が無知にも時代の幇間でなかったとどうして言えよう。善意と言えば幇間でさえ自分の生き方には善意であり、其の故に幇間性の卑小さは少しも減じない。

吾々は今日民主主義の日本に生き残った。吾々歌よみも一応の言論の自由を得て、幾分まぶしそうにこの明るさの中に出た。短歌雑誌の氾濫と共に、少したより無いながら再び文運は栄えようとする。歌よみがよほど頑迷でないかぎり、ようやく来た時代の明るさに救いを感じただろう。或る者は過去を忘れたように、在る者は過去をとりもどしたように自由の世をたたえる。こうして歌壇は再び善意に満ちた肯定にあふれる。

しかし、この善意が、過去十年の彼等の生き方の裏返しの善意でなければ幸いだ。朗らかにたたいている太鼓が、やはり昔と同じ太鼓であるとしたら吾々は歴史に対して限り無く同じ悔いを繰り返す事になるであろう。

歌人らは今日の自由を、再び市民の卑小さをもって、あけっぱなしに受け入れようとして居るのではなかろうか。歌よみは安直に再び時代の幇間となろうとして居るのではなかろうか。

結論へ私の文章は飛躍する。何故なら之はささやかな歌論であるからだ。歌人は卑小な身辺の智慧より、智慧の世界性へと出でなければならない。之迄吾々はあまりにも世界の田舎者に安んじて居た。

たが、あゝ吾々は皆なんとのどかな顔つきをして居るのであろう。(1946・4)

「福田みゑの歌」

忍耐強く見て行けば無論夫々の性格なり心情なりに由来する無限の様相と色彩とが有り得るにしろ、大雑把に言って飛びぬけた才能なく歌の世界に這入って来た人々の作品と言うものは大概似たような世界を似たような技巧で出入りして居る。言わば誰かが何処かで作ったような、「歌らしい」世界を、其の人は其のひとなりの貧しい精一杯の力量で自分の詩帳に写し取って居る、と言えよう。彼等は既製の蒼白の世界を唯一の歌の世界と思い込み、教えられた見方を唯一の手がかりとして、其の世界に参入し此所に法悦を見出すことを一生の念願として疑わない、幸せとも言えよう、貧しい一作歌者としての生涯を送る。

僕の漠然と抱いて居た福田みゑへの概念も此の種類に他ならず、改めて数回歌集を読み返した後の感想も結局根本的にこの先入観を覆す程のものでは無かった。所詮は茂吉とか文明とかの巨大な文学の波にかそかな共振を受けた、才乏しいつつましい一女性の魂の一つの場合に過ぎないのであろう。そうして其の限りに於いて清し慎ましと言い独自の境地に達したと言う土屋先生の序文中の評言は深くいたわった最終の言葉ででもあろう。唯、言わば受動的に作歌への方向を与えられ、言われたままの写生道を歩いた一茎の雑草の開花の如く慎ましい地味な福田みゑの歌の或る時期に、何か内に耐えがたいものを持てあます如く、自らの力で何かを開放しようとした一つの季節があった事を興味深く感じる。官能の開放と言えばこの人にあまりにそぐわない。僕は感性の開放と言うことばを此処で用いよう。

夕餉の膳に向へるわれに妹はから元気出してゐるのかと問へり

夕ぐるる野路の枯芝赤ければ去年のおもひのよみがへりくも

きりぎしに淡々として咲き垂るる白き花を何かと思ひき

昭和十四年の歌である。発想の手法に四囲の影響があるにしろ、何かをさらけ出そうとした作者の覚悟があり、つづまりは深く根ざした自己の「慎ましさ」への、思えば之は弱々しい一つの抗議であったかも知れない。かく考えつつ歌集を繰って行けば昭和十五年十六年に次の如き作を見出す。

やせ細る体真直に芝生よぎり歩み来し姿まなかひに見ゆ

細々と稲葉のつゆは早くおき竹の葉の露は昏れてよりおく

夕ぐれと蒼みくる時に羽ばたきぬ山鳩はなほ棟に籠りて

こうした歌に、僕はもはや清さだとか慎ましさだとは言い切れない一種のくぐもりを内に孕んで居るのを感じる。之は漠然と吾々のきめてかかった福田みゑの世界ではない。淡々しさだとか清しさだとか、少なくとも今迄彼女が信じて歩いて居た道とは見当ちがいな草深い路だ。

だが福田みゑの生涯は之で終って居る。この事は彼女の早い死と其の生涯の意味では無い。たとえあと幾十年生きたにしろこの人は多くの作歌者がそうであったような安全な完成への道を結局においてつつましく内股に歩きつづけて行った人であろう。

こうして僕は又いつものようないら立たしい疑問の網目に脚をとられようとする。つまり何が本当の文学であり短歌であろうか。しかも僕の覚悟は何故例えば福田みゑ等の歩いた道を一断にして斯くかくと言い切り得ないのであろうか。僕の批評はだんだん関係の無い事に外れて行く。(1946・7)

「新しき歌壇の生成」

終戦以後の一年、はたして短歌の世界に何らかの新しい動きがあったであろうか。吾々はとかく早急に問題を見つけ出し、結論をさがし出そうとする。民族の文学である短歌は、民族の悲劇の今の現実を如何に把握し如何に表現し得たであろうか。この盛んな短歌雑誌の新発足乃至復刊はそれ自身内に已むに已まれない何らかの意味を持ったものだろうか。

更に、過去一年に提出されたおびただしい歌論等は如何。「歌壇民主主義建設論」(尾山篤二郎、「短歌研究」四月号)等ととなえられながら果たして歌壇の所謂元老制度が崩れ新人が進出してきたであろうか。「人々よ本音で歌はう」(坪野哲久、同上)とさけばれながら、一体俺の歌はあれは本音ではなかったのかしらと気がついた歌人があったのであろうか。或いは「封建制打破」と云い(敗戦と短歌、同上座談会)或いは何々と言う、はては斉藤瀏の如きが民主主義を一席やり出す時代であって見れば、一体この騒然たる歌壇の声をどのように考えればよいのであろうか。かうした言はば旧き衣を脱がそうとするが如き歌論の裏に、一体短歌は、一体短歌は如何に変貌しつつあるのか。

例えば今手もとに「国民文学」の八月号がある。村松英一からはじまって菊池庫郎、谷?等々と、吾々が十年二十年なじんで来た人々の名前が並び作歌が並んで居る。

あらかじめ今日に備へて賢しきが米を食ふとよ世になき米を         村松英一

所所焼焦のあとを残しつつここの生活もいたづらに過ぐ           菊池庫郎

年ふけて耕すわれを去年まではゑがき見ざりきゆうべは思ふ         谷  ? 

なるほど之等は今日の時代の歌だ。二合一勺で皆が生きて居る訳を考えれば、共産党ならずとも吾々はこのくらいの憤慨には共感するであろう(それにしても賢しきとはいささか古風で困るけど)。又畳の焦げあとも之は一つの現実に相違ない。更に谷?の生活詠も、一応は万人に通ずる生活詠であろう。

次に同様に「水甕」八月号を見よう。

財産の申告調べ細々と書きたる妻の吾にしも見よとしいだす説明を

妻に聞きつつ思ひみる年のはるけさ…

之は長歌で更に続くのだが煩を省くため途中で切った。つまり財産申告の歌で、省略したところをつづめれば歌よみの常の貧を愧ずるところがあろうかと言えば妻もうなずくと言った一つの感慨である。又次に牧暁村の歌がある。

老いづける気力悔しめかにかくに唐藷腹は減りの早きを

臭みもつ代用食は団栗の粉ならむといふに話おちつく

之もわかる。いや吾々歌人ならずとも唐藷腹の減りの早いのには同感しよう。

歴史の古いものばかりではない。ここに再発足の「覇王樹」がある。

揉みぬかれ踏みたくられて乗る電車やるせなければある日はゆかず      臼井大翼

味噌無し十日余りもあはれつけき汁を吸ひゐる家族らあはれ         松井如流

立腐れの樹木の如く無感覚に若き者らの在るは許さじ           金子信三郎

僕はことさらに一つの傾向の歌を抄出して居る。何らかで今日の現実に触れたものを。更に新しく発足した雑誌の中で手もとにある「都麻手」七月号を見れば、

馬鈴薯の花咲く丘を朝行きてわれの心に濁りあらすな            大橋松平

蛙鳴くしづけき村に住みこらへ生き堪へゆかむいのちを思ふ         神原克重

後者の歌は遺骨帰還の連作の一首である。

更に視野を広くするために「短歌研究」七、八号の作品のはじめの方から読んで行こう。

屋上の高きゆ見れば東京に焼け残るビルのなほあまた在り         岡野直七郎

蓋あけて見れば驚く大賭博無知といはんかわれら国民            村野次郎

何処よりか来り身にしむ豆を炒るにほひの中に心恥ずをり          中島哀浪

疎開先における御生活の有様を細々と順氏が吾に聞かする          山下陸奥

たたかひに敗れしもののみじめさをわれ今更に嘆きいはめや         片山広子

うづたかく書はも積みて其がなかに念ひ足りゐし時早や過ぎつ        中村正爾

一番終りに佐々木信綱の作もある。

からうじて乗り得し貨車の一隅に身をよせてあふぐ春の夕雲

之はさすが夕雲などを仰いで悠々とあせらない。

長々と引用した。いづれも吾々の周囲の世界であり、とにかく身につまされる事ばかりである。そうして以上の人々が今日の歌壇において、まづ一通り名の通った作家であって見れば、かかる歌を代表的な例として今日短歌の敗戦一年後の展望を試みてもよいであろう。

だが一言にして言えば、どの歌も体に力がないような気がしないか。せい一杯の詠嘆がどうも飲食から来て居そうに思われるが如何。之はあながちに食糧関係の歌を多く引用したからではなさそうだ。東京の焼け残るビルを詠嘆した歌も、大賭博に驚いた歌も、更には省線に乗って足を踏まれる歌も、其の由って来たる所の詠嘆が、現実を肉体に力が乏しいことで体験する程度に終っていはしないだろか。省線に乗っていると時どきサラリーマンと人の好さそうな老紳士とが、「いや戦争はもうしたくないものですなあ。」と詠嘆し合って居る。あの程度の詠嘆では無いのであろうか。生活を歌うのもよい。吾々の周囲より歌因を見出して来るのもよい。闇大根の買出しに出掛けることにしても無論一首のうちに充分に生き得よう。しかし歌人が市井に生きて居る事と、作品が市井の詠嘆を出でないこととは別である。前述の作品に一貫するものは何か。それはどれも之もあまりにもお人好しな歌よみの表情である。にくめない市井の人々の心情である。全体主義から民主主義の時代に変わっても、そのまま順応しつつ生きて行こうと言う、宿命的な歌よみの人の好さ、気の弱さ、更に言えば精神の希薄さである。思想とか精神とか言うことばはあまり用いたくない。しかしそれにしても彼等が思想のようなものを之等一連に見出し得ようか。生活の現実のぎりぎりの所から発光する精神の微光のようなものを如上の作品に見出し得よううか。食を求め右往左往し、或いは敗戦の現実にめんくらって居る善人の心情以上に、何か一听でも精神の重量を感じとれようか。

(明日につづく)

前大戦後敗戦の苦しみ、戦禍の悲惨を体験そた欧州諸国から多くの芸術運動が起り、思想が生まれた。今にしてわれわれはその意味を理解する。吾々日本の現実はそれ以上のものであろう。そして今後この現実の底から生まれて来る運動なり思潮なりは、前大戦の後に生まれたものよりもっと重々しい精神の重量を予想し得る。しかも、今度は現実からは再び足をふみ外さないものでは無いかとも感じられるのである。

いづれにしても、吾々の短歌形式ははたして此の重量に耐え得るかどうか。幾度も引用して例にひいた人々には気の毒であるが、前述の例示の短歌の如きが、かかる精神重量にどうぢて耐え得よう。三合配給すれば、さしあたり歌の材料も種切れになりそうな人の好い詠嘆が、斯うした現実と生活と思想とを如何に受け入れようとするのだろう。否、受け入れるのではない。作歌することこそ、今日の現実と其の奥のものに挑んで行く精神かつどうであり、短歌作品そのものこそ血にまみれた精神活動の記録であるべきだ。僕の文章は美文調に流れかけようとする。しかし之だけの事を言はないと何も言わない事になってしまう。

更に元に帰ろう。一体之等の歌が面白いであろうか。お互い顔を知り合って居る同志、或いはエピゴーネンの盲目的感動以外に、何らかの感動を人々に与えるであろうか。僕は手取りばやく之等の作品を名を伏せたまま、文壇、画壇、楽壇その他知識人百名ばかりに見せて、面白いか面白く無いかの返事をもらってとうけいをとって見るがいいと思う。否、もっと広い民衆の間に答えを求めるべきかも知れない。

小説を作り、外国文学も少しは読んだような若い友人が、短歌を少しもおもしろがらない(そのくせ油絵を理解し音楽を理解して居ると言った)。こうした例をよく見る。之は嘘である。読ませるだけの魅力の無い短歌は幾百作られようと、それだけの事で意味をもたない。この反対の例が斎藤茂吉の歌である。如何なる茂吉嫌いであろうと、非常に広い範囲に、歌壇とか文壇とか言ったまがきとは関係なく茂吉の愛好者が居ることはかくれも無い事実として認めなければならぬ。本当の芸術とはかかるものだ。之だけの魅力の無い歌が何にあろう。この魅力と関係なく如何に音韻をととのへ字くばりを考えても何にもならぬ。歌は読者を予想するものであり、従って読むに耐えるだけの面白さを考えて居なければならぬ。僕がこんなわかりきったことを言い出したのはそれほど今日の歌が面白くもおかしくも無く、生活に疲れはてた中年男の表情のように、まるで魅力が無いからだ。

では何故面白くないのか。僕は前記の歌が代表する現歌壇の大多数の歌を常に予想して論を進める。第一に歌よみのいかにも稀薄な精神性の故である。吾々は歌人を隣組の常会の席上に見出して何等奇異を感じない。この市井の匂いこそ如何に短歌を毒してきたか(吾々は市井と民衆との語は峻別しなかればならぬ)。この事は前に論じた事のくりかえした。第二に一列づらりと並んだ中途半端な写実主義である。たれか「アララギ」に異を立てよ。こんな半端な写実主義より其の方がどれだけ清々しいかわからない。所々焼焦げのあとを残したと言うのは吾々の云う写実では無いのだ。「東京に焼け残るビル」があまたある事と吾々との目標は少し異う。第三に把握の弱さだ。僕は之を写生として教えられて来た。しかし今写生などと言い出すのは場違いかもしれない。だが、少くとももっと端的に対象のふところに飛び込めないものかと思う。

以上の三つをつづめて言えば、今日の歌人は少し疲れて居るのではなかろうか、長い間の作歌生活に少し疲れて居るのではなかろうかと思う。表面如何に波立つたように見えようとも、底にある歌壇其のものは相変わらず戦前からの疲れ澱んだ歌人の世界ではなかろうか。歌誌を発行し善男善女たる会員をあつめ、いつか小宗匠たるに諦めようとする人々の世界でなければ幸いだ。もしそうであれば尾山篤二郎が如何に「歌壇民主主義建設論」などと音頭を取って見たところで、そんな疲れた歌人の間からあまり景気のよい反響も無いであろう。

僕の結論を早く言えば、かうした永い作歌生活に疲れきった既成歌人はそっとそのままにしておいて、新人よ出よと言う、又之も言い古るされた結論になってしまう。茂吉、白秋、啄木等の輩出したころの歌壇には一種新鮮な魅力があった。しかし今日の澱んだ歌壇に石を投じたところで、其のば切りの波紋以外には何も期し得ぬ。もっととらはれないフランクな立場から歌を考えよう。さうして少なくとも歌壇以外に愛好される、もっと問題を把えた歌を作ろう。いかにも今日生きて居る人間らしく、今日の現実に身をもって対し、思考し、生活し、其のぎりぎりのものを端的に把握しよう。出来た歌はもっと生々しく肉体の声である事にしよう。対象の核心に入り大胆に虎児をとらえよう。とらえた対象を、新鮮に驚き、詠嘆し愛惜しよう。

歌壇の沼臭のしみ込まない二十代三十代の層に吾々は期待する。そうして之等新人が所謂之迄の既成歌壇の新人の如く、いつか歌よみの臭気で鼻もちならぬものにならぬよう警戒しよう。もし歌壇と言うものが之等の人々の間にどうしても必要なのなら、全然之迄のものと別個に、新しいも一つの歌壇の形成を考えて見ればよいではないか。もっと清潔でフランクで、少なくとももっと文学と詩のある歌壇と言うものを、新しい世代の間に生成させなければよいではないか。

因襲と情実でいつか身うごきの出来なくなった旧い歌壇はそっとしておこう。そうして自然の解体と交代とを待てばよい。それでいいのではないか。

終戦以後一年、結局今迄の歌壇は、歌よみの一人一人が何か騒然とうごきながら、実質はかきまはした泥土のようにいつか又重たく沈んで行く姿だ。しかし新しい世代はいかなる時にも期し得る。まして今日の如き現実に於いては。僕はもっと具体的にこの世代を把えたい。(1946・9)

「短歌の封建性」

歌壇の封建制が外部から指摘されると一応吾々は弁明の位置に立つが、本当のところ鼻持ちならない事はだれよりも痛切に吾々自ら知って居る。例えば歌会などでもそうだ。先生が上席に座り門流がづらりと両側に居流れる。こんな世界から生まれる文学がどんな文学であるか、あえて批評家の言を待つ迄もない。文学の精神は一言にして云えば俗流への反逆抗議の精神である。吾々は今自分がどんな顔をしてどんな格構をして歌壇の座に坐って居るか切実な反省をなさなければならぬ。

今手もとに北陸アララギ会の「柊」三月号があるので、ちょうどよい例だと思って次の文を引用する。いずれも若い純真なアララギ会員である。

「アララギを見てすでに一年近くになっていたし茂吉先生のお言葉など絶対的に信じて居たけれど(後略)」

「入会し先生方の御指導を仰ぐことになったが、一向に上達しそうもなく((後略)」

否、人ごとでなく僕自身こうした言葉で短歌の世界にはいって来、こうした言葉の流通する世界で育てられて来たのである。

「何々先生を神と信じ」

「終生アララギを信じて疑わなかった」

こうした言葉が吾々の四周でくり返されて居るのである。こうした吾々同志には至極普通な吾々の用語が、外部に如何にとられるかをやはり考えて見なければいけない。

吾々がかかる語彙に馴れ切って居る其の事自体が何を意味して居るのか考えなければいけない。こうした表現方法が純真で素朴だと言う。心からのことばだと言う。人々は僕を極端だとなすであろう。だが僕は純真だとか素朴だとか云う在来の馴れ切った用語自体さえこのごろくさくて仕方がなくなって来た。

短歌の素朴の世界はまだ広いと思う。吾々は簡単に斎藤先生の歌が極北だなどとは云いきれない。むしろ残された領域の広さにとまどいするくらいである。しかし吾々が其処に切り込んで行くときに在来の用語の範囲での「純真、素朴」などあまりにもあわれな歌人の武器ではないか。嬉々として先生の語に眼を輝かすような純真さは、一体これから吾々が

切り拓いて行こうとする短歌の世界に、どのように持ちこたえ得るであろうか。

短歌をやる人間が今迄普通だと考えていた心の持ち方に対して、今僕は安易な様式化のポーズを感じる。短歌の世界とは数名の真実の作家の周囲を、こうした月並み純情派がとりまいて居た世界ではなかったか。こうした月並み姿態が五十になってひげをはやして歌人の名を壟断し歌壇を形成して居たのだ。

封建性と呼ばれる歌壇の風俗習慣はかかる無為無用の歌壇人によって作られて来た。要は吾々が短歌世界の当然事だとして居る吾々歌詠みの習俗にも一度疑問の眼をむけることだ。歌壇の習俗に対し吾々は嫌悪するべきものを今はっきり把まなければならぬ。

僕は先日次のような話を聞いた。ある有名歌人が女弟子にこう言った。お前の歌集を今度出してやるから何がしかの謝礼金を発行費と共に提供せよ、と。こうした事が事実として行われて居る以上、吾々若輩が如何に歌壇の非封建性を強弁しようと何もならなぬ。幸いにして吾々の今居る「アララギ」にかかる習俗はない。封建的だなどと簡単に片付けられる「アララギ」は実は最も封建的でないと云うことを僕はこのごろ知って来た。そのくらい歌壇と言うところは思いもよらぬいろいろな事が行われて来て居るのである。

こうした習俗の中なら本当の文学がそだつわけはないであろう。吾々は身にしみて居る歌壇の習俗をお互いに指摘し合って清潔にならねばならない。第二芸術だなどと言われて居る間はまだよいのである。

具体的な結論へ行こう。吾々はたれかえれの区別なく先生にしてしまう習俗を止めよう。文学の師は一人か二人あればよいのだ。同時に、たれかれの区別なく先生になる事を止めさなければならぬ。

更にわれわれは選歌中心主義の短歌雑誌なるものをも一度考えて見なければならぬ。付随して結社の問題も考えなければならぬ。自分の結社だけに秀才が集って来ると信じるような迷信はもう止めなければいけない。

更に、短歌には短歌によってしか把え得ない世界がある、短歌の材題は自ら範囲があるなぞと言う教則の中に安堵して居てはならない。人が苦しんで作った何々主義の中に安易にあぐらを組んで居てはならぬ。もっと吾々の場合を具体的に云えば、何でもかんでも「写生」で結論して疑わない吾々内部の善男善女根性を見つめなければならぬ。「写生」などと言うことばさえ、エピゴーネンの舌の上を転々として居る間に如何にうすぎたなくなって来たか、だんだんに似も似つかない鬼子になって次々の世代に伝えられて行くかを知らなければならない。

しかし指弾される歌壇の封建性、短歌の封建性の真の意味はもっと吾々歌人自身の中にある事なのだ。歌壇の臭気をうすうすとは知りながらなおこの封建的な習俗に一種の居心地よさを感じて居た歌人の俗物根性こそ封建性の根元である事を僕らは結論として指摘しなければならない。短歌が文学として自立し得る世界はかかる俗物の世界ではない。

(1947・3)

「批評への不信」

批評に対して不信を持つ。この今の僕の気持に同感していただけるかどうか。

つまりここに或る作品があり、これの相反する二つの批評が出たとする。良しとし悪しとする評価の語彙は大概きまりきっていて、恐らく百を以って数えるにも足らない程度であろう。その程度の語彙で作り上げた批評其のものは吾々自身の作品判断を一応除いて読むときに、いづれも実に完備し肯定させる批評で、批評其のものに対して何ら附加するものもない程である。

同様の事が最近の歌誌の氾濫現象の上にも言える。多くの頁を批評にさき、さかんに新人をこのために動員して居る。いづれの批評もそのかぎり立派であって、一応皆肯定せしめるに足る文章なのだ。

だが、この完備した批評が一体どうだと言うのか。誰にも言え誰にも出来ると言う批評が一体何を意味するのであろう。こうした批評を十ばかり読んだあとに感ずる批評自体に対する不信の念、嫌悪の感情を僕は如何にしても表白せずに居られない。

少しばかりの才子であり、十か二十の語彙さえ知れば批評は出来る。つづまりはたれが批評しても同じだと言う程度の批評自体に対して、吾々は殆んど吾々の主観以外に判断の規準が無いと言える。主観と言っては言い過ぎかも知れない、もっと具体的に言えば吾々の作歌体験がいつか作り上げたところの芸術観...芸術信念...とも言い得ようし、或いは一つの作者群が相互に影響し合いつついつか作って行った芸術信念とも言えよう。しかし、それがあくまで自己の力量に根ざした信念であったとしても、それだけに常に吾々は其の逆の立場をも同時に知らずには居られないのだ。

僕は作歌生活の殆んど初心からアララギ派の内部に育ち、従ってアララギ内部で長い間育成されて来た批評規準を身につけてきた。率直に結論を言えば僕はこの規準を相当高程度なものだと今でも考えている。其の証拠の一例として、他派で用いて居る批評の語彙がアララギ的批評語彙そっくりの例が多いと言うこと、それも数年或るは数十年前流行した語彙を使っていると言うことだ。無論無意識ではあろうが。だがこれは他事ない。僕の場合の事を今言っているのだ。最近僕はかなり広くアララギ以外の若い作者と会う機会があり、従って相互の歌の意見を交換する場合が多くなった。そうして其の時どき、批評の規準と言うものが如何に相通じにくいものであるか、いかに相互に理解しにくいものであるかを思わずには居られない。僕はさっき信念と言うことばを用いたがこの字はきらいである。だが結局吾々相互の規準が相通じないとすれば信念なる言葉を用いざるを得ない。

だが、相通ずるものが果たして無いのであろうか。僕はもうすでにある人々の冷笑を感知して居る。彼等はこう言おうとしている。こんなもってまわった懐疑など小市民性の故である。作品を判別すべきものはなにか。判断すべき規準は何か。それはその作品が社会性をもち進歩的な側に立つか否かと言う事だと、大体こんな表現であろう。僕もそうだと思う。だが同時にそれでは何もかも言ってしまったつもりで居る彼ら一群の芸術不感症に対してはいつもかまって居られない気もする。

それだけでは何も解決していない。進歩的な側に立とうと立つまいと、優れた作品としからざる作品とは別個に実在しているという素朴な事実になると彼らは唯自己の立場を強弁するだけの醜さを僕らは長い事見て来た。

つまりこうした見方で、しかもなお解決されない事が芸術の世界にはあるのだ。故にこそ吾々は批評へのふしんをさまざまに取り上げなければならないのだ。

だが僕は又してもいつか主題を拡大し逸脱させてしまった。問題は「批評」の域を超えて短歌の根本的問題、芸術の問題迄行ってしまう。問題を「批評」にだけもって来なければいつまでも果てしないであろう。

結局十か二十の語彙を知っていれば出来るような批評に対して吾々は判断の自由を保留しなければならない事、更に判別の立場を何に置くかと言うこと、その場合吾々は作家信念或いは世界観などと言う一応の尺度にのみ安住し切って居ては事実は何も解決されない事、こう整理した上で批評自体をも一度考えて見よう。

第一に、われわれは批評の処女性に対してもっと敏感でなければならない。之は批評自体へ対しての判断だ。どこかでたれかが言ったような批評の不潔さに対してもっと潔癖でなければならぬ。例えばこのごろの佐藤佐太郎がいい例だ。小暮政次が佐太郎調だと言う批評を作って以後の雷同批評ぶりは一体何という醜さであろう。しかも之はありふれた一例にすぎぬ。かかる独立性の無い批評は幾百あったって何もならぬ。批評は一度あればよいのだ。

第二に、自分で物を言えと言うことだ。之は第一の問題ともかさなるであろうし、更にすぐ尺度を借りて来る安易な態度にも言える。

第三に、それはどこに批評の立場を求めるかと言うことになる、僕は結局長々とこの問題を逃げながら文章を書いて来たが自分自身はっきりと把めないのだ。批評への不信も結局僕自身への不信の問題になるかも知れない。だが何か自己の解決の方向らしいものがあるとすれば、批評の立場は自己作品の立場である、と言う点で、そうして作品の立場は結局如何に今日の現実と対決し、対決自体を具現して居るかと言う点にあるのではないか、今の僕にはこの程度しか言えないのである。(1947・3)

「作品とする技術...批評の規準に就いて」

中野菊夫君。この小文は先日の朝日新聞社の座談会席上、いつか会話が作品批評の規準の問題に移っていった。それに関連しての感想であります。

少数の優秀作品と共に無数の愚劣作品が毎月歌壇の場所を占めて居る。やりばの無いような僕の怒りは、この事実と共に、更にこの二つを判別する尺度が無いと云う事にむかって行きます。いつもの事ながら吾々はあらゆる歌論の末に作品批評の規準が結局打ち立てられて居ないと言う問題に突き当って、説明しがたい焦燥感にとらはれます。

一つの作品がある。之に対して同時に全く相反する二つの評価が、いづれももっともな言葉を組立てて成立する。しかも結局僕たちには之を裁断する尺度が無い。また僕が一つの歌論を立てて行く。僕は常に反対論をも同時に書かない事には嘘を書いている事になる。かくて僕らは時どき自分自身をふくめて批評なるものに不信を投げ付けずには居られないのです。

だが、それにも拘わらず批評する事を吾々は知って居る。つまり吾々の批評する方法に何らかの納得を与えて行けば、吾々はともかくも批評の規準のようなものを作り得るのではなかろうか。僕らはさっき批評の規準が無いと書いてしまったがそう迄はやらなくたってよかった。一応規準の如きものはあり得るし、また吾々は何とかして吾々の間で作ってゆかなければならないと痛感して居ます。つまり今批評の規準を立てることは同時に今後の吾々の作歌態度を明確にうち立てて行く事ででもあるからです。

それでは一体どのように規準を打ちたてて行くか。この点貴兄らは一応の立場を持っているように思います。

吾々歌人は現実に恐れず立ちむかい現実を歌わなければならない。しかも其の場合吾々は正しい歴史観に立って現実の正しい方向をつかんで行かなければならない。つまり吾々の作品によって把えられが現実は、正しい歴史観によって把えられなければならない。と。

表現にはいろいろなヴァリエーションがあるにしても、君がたの強調される要点はこのようなものであると理解します。そうして、其のかぎり僕もそのままに同感します。作品が正しい歴史観に立ったものかどうか。僕はたしかにそれは正しい一つの尺度であると思います。

だが、それにもかかはらす貴兄がたの説明は短歌を作ること自体に何らの説明を行って居ない。僕は君の美事なこの一応の説明に感動しつつ、改めて僕たち前のカンバスをみなおさなければならない。カンバスには何も書かれていない。相変わらずの白い生地のまま、吾々はいまだ一点も筆を加え居ない。僕はいつも君たちの確信のある語気に感動するものの、しかしその説明から一首がどのように作り成されるのか、之を説明せずして歌論が成り立つのか、否、批評の規準にまで進めて行けるのかを不安におもいます。つまり君たちが常に言う、吾々はどうあらなければならないかと言う事と作品自体との間にまだ埋めなけらばならない問題がありはしないか。ここを君はどのように説明して行きますか。この空間を埋めるだけの理論が出でなければ批評規準としては安心出来ないのではありませんか。

勿論作者の生き方とか考え方とか世界観は、作品の内容を決定する筈です。作者の世界観を云々する事は作品に盛られた、乃至は滲まされた内容を問題にする事であり、批評の大きな部分を占めています。

しかし僕はこのように考えます。短歌は短い詩型である。従って作歌と言う吾々の精神活動にはほとんど労作と言うべきものはない。更に言えば、短歌の製作はほとんど一瞬にしてきまる。

一首の成立は瞬時の問題であり、一首の成功不成功はほとんどこの瞬時に賭けられて居ると思います。しかも吾々が一首の成功を偶然的なものだ等と考えない以上、素材を作品に転じる一瞬の場面を何とかして正確に見極めなければならない。何とかしてこの一点に納得出来るような説明を加えなければならない。中野君、僕は此処らあたりにも一つの「批評規準」に押しひろげて行ける一首の「制作の秘密」が見出されはしまいかと思うのですが。

つまり僕の言おうとすることは、短歌を批評する場合には、それが短詩型であると言う特殊性の故に他の芸術に比して、より以上に、何が歌われて居るかと言うことと同時に如何に歌われて居るかと言う事が評価の大きな部分を占める。しかも如何に歌われて居るかと言うことはそのまま一首が如何に作られているかということであり、之を進めて行けば、素材が作品に移転する一点を問題にする事である、と言うことになって行くわけです。

従って、素材から作品へ成立を問題にせずして歌論を立てて行く事は、事短歌に関するかぎりいつまでも問題を把え得ない空論になってしまいはしませんか。千万言くりかえして結局一つの大事な事を逃してしまう事になりませんか。ここを見極めない批評の規準は僕は不充分だと考えます。

問題をここ迄持ってきた行きがかり上、僕は何とか所謂「この一点」を説明して見なければならない。結局僕は素材(世界観でもありえるし思惟の場合もあってもよい)の中にアクセントの部分を、或いはヤマを巧みに見出し、端的に作品に把みとる一つの技術ではないかと思う。吾々は写生と云う言葉を慣用して居ますが、本当のところ僕はまだこの言葉だけでははっきりした説明を与え得たとは思って居ません。

僕は少し力を技術の問題、如何に作られて居るかに向けすぎましたが、それは中野君あたりがどうも実作では苦労して居るくせに公式の場面に立つと巧みに其処を飛ばして堂々の論陣を張るのに、少々不満だったからです。

だが繰返すように、この一点を見極めずに批評の規準を作ることは重大な誤りをおかす事であると思います(たとえどんな世界観に立とうとうまい作品とまずい作品とはそれに関わりなくある。僕はいまだこの問題に中野君の解答を聞かない)。ある時代一つの批評方法を打ち立てることは多分に協同作業の意味を持つと思います。その意味で僕は僕からの問題を提出しました。中野君らの御検討を願います。(1947・5)

「短歌と生活」

議論はつくされてしまった。では短歌はこれからどうしようと言うのか。

大正初期、茂吉、白秋、啄木らが斉出して開花した歌壇は、其の後数人の作家がほとんど孤高な位置で着実に短歌自体を高めて行った他、多くの二流三流歌人は結社し、会合し、右往左往、俗社会の一隅に埃っぽい歌壇なるものを今日迄残して来た他、一体如何なる作品を残して来たであろうか。短歌否定論がかかる作者にむけられ、かかる作品に向けられるかぎりに於いて、吾々は如何なる弁護も要しない。

芸術短歌、新現実派、新浪漫派等々。それぞれの議論が空転し、いたづらに鋳型から打ち出されるごときはかない作品類が、今かびくさい古本屋の棚に二十円か三十円の価で埃によごれて居る事実から吾々は如何なる教訓を引き出させばよいのであろうか。

もし、まだ短歌を信じ、再び文学の高さに高め得ると信じて居る吾々が、何か方向をきめ、今後の行き方、所謂新しい短歌なるものを見究めようとするならば、之ら過去の作品を、どこに病源があったか、も一度検討してみ見なければならない。

つまり、現実から浮き上がった理論からは、何ら作品としての結実を期し得ないという事である。新しい短歌、新人としての方向の取り方は、決して奇異狂態なものであってはならない。正しい写実派の本流を行き、現実をよりどとし、真実を立場とすべき地道な追求のみが吾々の指針である。

だがしかし過去に於いても所謂写実派は歌壇の多数派であった。そうして彼らの作品が同様愚劣で無気力、徒らに類型的作品を堆積させて行った事実は、之も同じく病源をさぐりあてなければならぬ。何故写実派と称する作品に生動と活力とがなかったのか。人を引きつけて止まない魅力がなかったのか。

写実派と称しながら彼らは現実をどこかに見てよいのかわからなかったのだ。眼に見えないものを現実とはしんじない、この子供じみたかたくなな素朴さが今に至るまで歌人特有の心理を形成して居たのだ。

現実は吾々の生活のなかにある。吾々の肉体が立って居る生活の中にある。吾とめ々の生きて居る社会の具体としての吾々の生活の中にある。写実派が此処を突き止めない限り、写実すべき相手を何処に見出しようも無い。

吾々が生活の中に写実し、写生すべきものを見出さないかぎり、短歌はいつ迄も歌人と称する特有な心理の持ち主のみの相互相聞の範囲を出でず、一草一花に深刻な表情をして居る吾々は、所謂民衆から別人種として奇異の眼もって見られるだけであろう。

この一音に無限の神秘不可思議がある、この一花片に微妙ないのちが宿る、さう言った感じかた、表現のしかたを、今一応素朴な処にもどし、この神がかりから覚めないかぎり、そうして吾々自身今立って居る生活こそ唯一たしかな事実である事に思いいたらないかぎり、写実派短歌はいつ迄も、之又浮き上がった文芸の片隅にすぎないであろう。

しかし、再びここで議論はつくされてしまった。では、この唯一の事実である生活は、一転して如何に短歌の一首として結実するのであるか。つまり歌は如何にして作ればよいのか。この素朴な質問をどのように答えてくれるのであろうか。この点について僕は短歌評論の系統の作者が如何に無力であったかを想起すると共に、現在人民短歌あたりの作者が、派手な歌論に於いて常にこの一点を避けて通って居る事について不満でならない。秀歌と凡作とは作られた時の偶然によってわけられるものではない。彼らの言う世界観の正しさ云々と別途に、良い歌と愚作との区別は単純に実在する。言いかえれば一首の評価の規準は、世界観とは別個である。

では生活を立場として、一首は如何に成り立つのか。吾々の生活に如何に一首として言わば瞬間を永遠なものに結晶せしめ得るてだては何か。

短歌と言う小詩型が宿命として対象を其の一断片でしか把え得ないとするならば、吾々はこの一断片を対象の何処に見出せばよいのか。正岡子規は取捨選択と言う単純明快な言葉で之を説明して居る。吾々は対象の最も鋭角的な一点を一瞬にして選択しなければならない。この鋭角点を見逃さない機敏さにこそ作品の良否を分つ鍵がある。

だが生活の何処にこの一瞬があるのであろうか。生活其の中にどの点で把えたらいいのであろうか。この事は依然作者の問題としてのこされよう。しかし少なくともこれだけの事は言い得る。ただ生活を愛し、誠実に生きようと意志する者のみ、次第にこの鋭角の一瞬を多く見出し得るようになるのではなかろうか。問題は「如何に生きるか」の選択に移される。(1947・5)

「短歌の作り方に就て」

(一)   書店の店頭に又短歌入門書類似の本が出て来だした。そんな物を見た時僕は一種言い知れぬいらいらした感じになる。同様に、僕は短歌の作り方などと言う言葉に吐き出したいような嫌悪感をおぼえる。

この感情は、更に、短歌の作り方などちゃんとあって不思議でも何でもない今の歌壇...短歌世界への嫌悪感に通じる。

「初めて歌を作る人のために」「短歌の作り方」。こんな言葉から僕はいつも昔少年雑誌の広告で見た「ヴァイオリン独習書」「尺八独習書」などの文字を連想し、思春期の少年が下宿の窓でセレナーデか何か弾いて居る歯の浮くような俗悪な世界を連想する。

しかも、短歌の作り方を教えようとする入門書なり先生がたなりがあとを断たない事実は、この種の俗悪さが今日の歌壇に何らかの形で根強く存在して居る事を示すのか、又多くの作家及び初心者の気持のどこかにこの俗悪さを容れ得る短歌への安易な馴れ合いがあるのではなかろうか、と僕は憂鬱な気持になって行くのである。

端的に言えば短歌に作り方などは無い(之は僕の先生土屋文明説でもある)。少なくとも僕らの考えて居る短歌の範囲に作り方など存在せぬ。僕らの考えている短歌は、短歌入門などによって簡単に入門し得る短歌を嫌悪する所から、創作をなして居る。

「小説の作り方」を読んで名を成した大作家が居る事を聞いた事は無い。「油絵の描き方」を読んで世に名をなした大画家のことを聞かない。短歌とて同様である。しかし小説の入門書があり読者がある事を見ればやはり文壇でもどこか片隅にそんな世界があるのであろうか。ところが短歌ではこの現象が片隅だけですんで居てくれないのである。

こんな稽古事めいた物の考え方があまりにも広く歌壇全体を覆いすぎて居た。安易に短歌を教える態度、安易に作ろうとする態度、「作り方」があると言う事実がどれほど短歌自体を俗悪化して来たか吾々は反省して見なければならぬ。

同様の事が歌集や作品の評釈書乃至解説書の氾濫についても言い得る。何々歌評釈の類の如き、このごろの本の外観の安っぽさと連想が重なり合って、僕は肉体的な不快感を覚える。何故短歌所学者にかぎって親切に評釈してもらはなければならないのであろうか。何故原典にとりついて行こうとしないのだろう。否、何故原典へいきなりぶつかって行こうとしないような精神薄弱者一群を吾々は短歌の世界の初心者として考えなければならないのであろうか。

「教える」「指導」「作り方」「味わい方」「新人育成」。僕はかかる一群の語感を一応嫌悪し憎悪し拒絶してかかる所から改めて短歌の世界を考え直して行かなければならぬ事を痛切に感じる。

(二)

歌に作り方など無い。と、僕は言い切った。少なくとも、「作り方」などでのこのことはいってくる安易な世界ではない。文芸の世界はもと捨て身な悲劇的な世界である。突っ放されたら血まみれで更に切って行くべき世界である。「作り方」などで甘やかされ手を引かれようなどと考える場ではない。

之は僕自身の覚悟でもある。従来の「作り方」的な歌壇用語一切から清潔になりたい僕自身の気持である。

だが、この僕自身の嫌悪乃至覚悟とは別個に、僕は本当に短歌を愛し、むしばまれない若々しい抒情を短歌に托そうとする、かっての日の僕ら自身の姿ででもある若い人々の事を考える。「作り方」を突っ放す僕の気持は、かかる若い人々を突っ放すという事とは別である。

僕はかかる人々と、本当に短歌一首をどのように作るべきかと言う事を一緒に語り合って見たい。とにかく短歌を文芸として考える場合いまだ顔を赤らめる事なくすむ、うら若い人々と一緒に考えて見たい。僕らの考えを聞いてもらいたい気持は別個にあるのだ。

(三)

僕はこんな人々に先ず、「生活を歌え」とすすめて居る。もっと言えば「自分自身の生活から歌え」更に「それを自分自身の声で歌え」という事だ。

だがこんな付加的形容を重ねて行けば再びつかみどころのない「作り方」になっていまう。

いろいろな指導用語を重ね上げて結局どうしろと言うのかわからなくしてしまっている之までの「作り方」独習書と何ら変わらないことになってしまう恐れがあるから、僕はやはり端的に「自分自身の生活を歌へ」とだけ言って主題を進めよう。

吾々は或いは工場に、或いは教室に、農村に、吾々だけの各々の生活を持って居る。そして吾々お互いの生活を最もよく知っているものは自己自身だ。自分の生活を最も深く知り、把握しものは得る自己以外にないとすれば、吾々は吾々の生活の中に最も有利な短歌の素材、少なくとも人の知らない、人からは手をつけられていない一首の素材が残って居るわけだ。

又、言い方を変えればこの素材は吾々の生活自体である。今日の現実に対決し、とにかく生き抜くべく自分自身を賭けて居る、吾々の生活の生々しい一断片である。更に同時に、吾々の生活が自分一個の生活のみで終るべきものでもなく、常に社会とか、時代とか、或いは人間であるとか、もっと大きな普遍的なものにつながって居る事実を考えた場合、吾々の生活の中に把握したこの一断片と言えど、之を取り上げて短歌の素材とした場合、決して自己一個の表現で終ってしまうものでなく、其の一首に盛り得た抒情なイデーなりは、同時にもっと広い世界に普遍して行く筈である。

だから吾々が誠実に自分一個の生活をそのまま歌にして行けば少なくとも二つの点で思いがけない程の高度性を持ち得るわけだ。一つは、素材的に作者だけが切り下げ得る独自のものである事、も一つは常に其の一首が普遍的なものへつながって行く事。社会へ、時代へ、人間へつながって行く事である。この二つはそのまま短歌の文学的な深さ其のことだとも言い得る。

(四)

先ず生活を歌へ。之は作歌の初歩であり同時に一生の仕事だとも云える。生活と言う言葉は或る場合は生命とも、自然とも、拡張して考へることが出来る。しかし少なくとも自己の生活、狭義の生活の立場から作歌すべきだと思う。作歌の生活とは一生かかって吾々の生活の其の時どきうたい一個の私小説を一生かかって書いて行く事だと思う。

しかしそのために、具体的にはどうすればよいのであろうか、生活を歌うと言うことを、どのようにして作品一首にすればよいのであろうか。問題は作歌技術に移って行く。

吾々の生活には、一見平坦に流れ去る如くにして、実は常に屈曲があるものだ。之は必ずしも生活にかぎらない。吾々の四囲の自然、吾々の共にある人生人事、更に吾々の心の中に生じ消えて行く思惟の如きものの中にすら、凝視すれば必ず或る屈曲を持つ一瞬がある。吾々はこの屈曲の一点を機敏に把えて短歌の素材にして行く。之が作歌の技術なのだ。

成立した一首がどれ程強い感動を持ち得るかと言う鍵は、どれ程の感動を持って対象の屈曲点を鋭く把んだかと言う点にあるのだ。

だがこの言い方はまだ不明確だ。では生活の中に見出すべき屈曲とは例えれば如何なるものであろうか。具体的に考えてみよう。

(五)

僕は或る電信局の短歌の会で、この主題に似たような話をした事があった。会の始まる前少し時間があって局内を見学させてもらったが、あとで幹事の人から、例えば吾々の職場では何処をどのように歌にして把んで行けばよいかと言う質問をうけた。

僕はまるで工場のような電信局の機械の間をつれて歩かれながら無線通信の一劃に立ちどまった。かって大陸や南方との通信を受けもって居た一劃は、今はその主要な活動を停止してしまって、わずか九州あたりからの発信を受けて居るだけであった。そんなふとした感動をもって、よく意味のわからい機械の間を歩いて行った。

行きずりの僕の感動は、もしこの職場で働いて居るものであれば更に深いものであろう。こんな一隅にも吾々は対象の屈曲点と言うべきものを見出し得るのではなかろうか。そうして吾々はこの屈曲を把えることよりこの場合の感動...もしかしたら其の儘で過ぎ去り、消えて行くかもしれないような淡々しい感動を、一応一首として固定する事が出来るのではなかろうか。そうしてこの感動は生活感動として其処だけに終ってしまうのでなく、なにかもっと広い立場を、世界を、生活を象徴して行くものではなかろうか、と僕はこんな事を答えたのであった。

(六)

瓶にさす藤の花房みじかければたたみの上にとどかざりけり

子規の一首は彼の生活の立場からうたはれたから尊いと、かく考えている。つまり趣味性の一片をも止めない清潔さ故にこの一首の高さがあるのだと僕は理解している。又長塚節の歌、

芋がらを壁に吊せば秋の日のかげり又さしこまやかにさす

この抒情も其の生活の裏付け故にしみじみと吾々にしみ透ってくるのだ。彼が日常なじんだ生活の世界であるが故に、この美しさを把え得たのだ。吾々がハイキングか何かで見る農村のスケッチでは、この深さに到り得るものではない。此所には吾々の作歌態度への教えがある。吾々の気持に一点の趣味性、あそびがあるかぎり本当の歌は出来ないのではなかろうか。

しかし吾々は材題を何も先人にまねる事はない。吾々は吾々の、「藤の花」をさがし、吾々の「芋がら」を見出し、把え来たればよいのだ。吾々の生活に、吾々の生活の四囲に、把え来るべき素材はいくらでもある筈だ。

吾々が生活し、生活を愛し生活を考え、誠実に生きて行く事をうちすてないかぎり、吾々は一首に素材にくるしまない筈だ。そして吾々の生活から把み得た素材、生活を歌い上げた一首が如何に美しく真実であるか。この真実の前に、歌壇にまたしても妖気の如く吹き込もうとして居る芸術派乃至浪漫派の作品の如き、いかに薄弱で不潔であるか。この事は実例一首にして証明し得る筈だ。

(七)

「生活を歌え」吾々は一応狭く態度を限定してかかって行けばよいのではなかろうか。

かく狭い態度を、つきつめて行く先に、自ずからに新しい歌境は開けてくるのではなかろうか。そうして、よい作家は、いろいろと自己の態度を説明して居るが結局この立場を実行して来たのではなかろうか。

ともかくも、一応生活詠に集中する事により、吾々は歌を識別する眼だけは持ち得よう。いかなる作品と言えども、生活から浮び上がった美しさなり詠嘆なりが、如何にしらじらしいものかと言う事だ気は分かって来る。

僕ははじめ歌の「作り方」風なもの言いを拒絶しながら、結局又「作り方」を説いてしまった。しかし何か方法はもたなければならない。もし僕の心中一片の宗匠根性があったなら、何よりも自ら鞭うたなければならなぬ。しかし「生活をうたえ」「生活の立場から歌え」は之は僕らの覚悟であり、つづまりは作者としての決意の表明である。自己の生活に迫真し、其処にある自己を摘出しようとする事は僕の決意である。「作り方」かもしれないが同時に又僕自身にとってはぎりぎりの態度である。(1947・5)

『韮菁集』私感

燈火管制下の暗い東京駅をリュックサックを負い国防服を着た先生は一人出発された。

斎藤先生の「土屋君万歳」を乗車口地下道で和した記憶も、あの時たれだれが居合わせたかと記憶をたどるとすでに曖昧だ。東京空襲のうわさがようやく現実味をおびて来た昭和十九年の夏、先生は長安まで行きたい等と言われながら『韮菁集』の旅に立たれた。

『韮菁集』一巻、言わば一貫した郷愁の詩である。絢爛とも見え精力的とも見えるこの作品群の底を、絶えず潜流して居る音の細い旅愁を僕は読む毎に感じる。

この旅愁の情は先ず大陸に向けられる。

万葉集から発しての理解、唐から西域へ、文化の流れを逆に遡って行こうとするある教養のはばを背景にもつ彼の国、彼の民族への愛情。

道のべに水わき流れえび棲めば心は和ぎて綏遠にあり

葱二本味噌は器を汚すほど纏足あやふく道を横ぎる

西域を出でたる駱駝泉伝ひ此の域に来し道も聞きたり

オルドスを来りし駱駝荷をおろし一つ箱舟の渡す時待つ

蘭州より少し減り来る水嵩も流木を見ずといふも心うつ

かく漫然たる抄出をしてゆけばかぎりない。

歌集半ばより郷愁は次第に日本本国にむけられて来る。日本はようやく秋になろうとして居るころ、

南して家の日本に似ることをどの日本人も必ず語る

呼ぶ声は水鶏の如し湖の上に近づく山々こだましてきこゆ

鳰一つ浮藻の上に首を振る大和の池を思ひいでつも

「九月二十一日二十四日杭州」の一連は少しこの感じが出すぎて居るくらいだ。

傾きて又立つ白き帆が一つ風はにごりの海より吹きしきる

吹く風は皀莢の実をならし吹く皀莢もいくらか日本と異なるか

更に次の如く歌う。

古を語らふ時にあひ通ふ心も今の時に少しくけはし

君が家もいまだ焚かねば外套着て日本と支那のこと語り合ふ

もし『韮菁集』の時代投影を云々するものがあればかかる作からのひろがりを理解し得なかったのであろう。

『韮菁集』について言うべき事は多いが、僕としては今少し待ちたい気持である。一つのノートとしていくつかの作品を取りあげた。  
(1947・7)

「短歌の救い」

現実主義が今日の短歌の主潮流である見方は常識であるが、最近いろいろな角度からの懐疑と反撥がなされつつある。

なるほど今日ほとんど魅力らしいものを失った短歌に対し、一応其の病根を現実主義的行き方に帰し之を改めることにより短歌にも一度魅力を求めようとする考えは一つの態度であろう。

この事は特に若い作者からよく聞く。戦争を体験し、言わば戦争の中に成長して来たような二十代の歌人らが、今日の現実主義的な短歌に疑問をもち何かもっと違ったもの、もっと何か明るい、もっと浪漫の匂いのあるものを求め、さうしたものを模索して居る気持は吾々には理解出来るような気がする。所謂新風十人時代の発想方法が割合に若い世代に取り入れられ、又、芸術派風な作品が、かなり広く真似られて居る傾向は、学生層の如き若い作家群に接触して居るものの一致した感想である。

しかしこのあたりを模索しようとする行き方はどちらかと言えば積極的な態度の方で、それよりも一時代前の素朴な短歌的世界、田園があり草花が咲きそこでは雲雀の声がするといった大正初期の月並的短歌世界に、止って居ようとする気持、僕らから言えば止って居るのであるが、彼等の気持からすれば何か其のような世界に救われて行こうとするかなり意志的な考えが、広く見られるのである。

歌にもっと明るい世界を、ゆとりを、気持の救いを求めたい気持は吾々でも時にいだく。現実を、現実をと追って行く事が習性化した作歌生活の一ときふと何かすべてが停止したような気持になり、自分の行き方が何かしらじらしく、もっと楽しいものでよかった筈だ、歌と云うものはもっとほのぼのとしたものでよかった筈だと云う疑問をいだく瞬間はたれしもしばしば体験をして居るのではなかろうか。

しかしこの瞬間に吾々はあまり長くとらはれない。なぜならば吾々三十代にもなれば、吾々の現実主義的行き方の強力な支えとしての生活を持っている。生活の基盤を失った詠嘆のはかなさを知って来て居る。

それだけに、言わば生活の地につかない若い作者らの、彼等の言う明るさだとか、たのしさだとか、ほのぼのとしたゆとりある短歌の世界の希求を、同情するものの、だがその気持が作歌生活の落とし穴ではないかと傍らから危ぶまれてならないのだ。

戦争とそれにつづく敗戦の現実にこづきまわされて居るような世代が、現実を正視して行くことは耐え難いと言う気持も理解出来るし、短歌と言うものを、何かそれによって救われようとする如く考えて取って居ることも理解しよう。又もし、短歌、或いは広く芸術が、吾々の気持に何らかの意味で救いをもたらさないなら、吾々は苦しんでそんなものに取り付きはしないだろう。

しかし、短歌に救いを求めようとする気持と、だから救いは現実正視、現実追求の別の所にあると言う考えとは別個である。

吾々は救いを安易な路に求めてはならない。この事を吾々は明治以後の短歌史に見て行かなければならぬ。たれが残りたれが堕ちたかを知らなければあんらぬ。安易に歌のたのしさを希求する態度が、月並みに至った経路を図表の上に知らなければならなぬ。

又この救いは芸術派乃至新風と称する一個の心理のデフォーメーションにもない。芸術のバロック化が歴史の何処で起るかを知れば、自ら知ってバロックに入ることが、自慰的行為にすぎない事は理解出来よう。

しかし僕は美学者でもなく文芸史家でもないので短歌の救いを何に求めるか、之から先を説くためには、短歌作者としての自分の態度、信念を語る他に方法がない。

やはり僕は短歌の現実主義、写実主義を押し進めて行く以外にてだては無いと考えて居る。生活を正視し其の中に立つ自己を追求しつつ、ぎりぎりの処に責めた作品が、たとえ息づまるように苦しかろうと、其の果に何か微光のような発するほのぼのとした美しさがある筈だ。この果に発する微光を短歌の救いと考えたい。現実を正視し、追求して行くそのぎりぎりの所で生じる一種の明るさを何と説明すればいいのか僕は知らない。

それが何か普遍的なものにつながって居て、吾々に生きる事の確信を与えてくれるのだとも説明し得るのか。ともあれ、写実主義に貫いた短歌が、其の果てに見出す救いは、所謂浪漫性などと呼ぶ月並安易な救いとは比較し得ない精神の高さの上に立ち、人間性の深さの中に発して居る事を感じる。

僕はこの事を最近の斎藤茂吉の作品の上に感じる。終戦以後の茂吉作品の中に僕は写実に賭けた果ての一種の浪漫性を感じる。どの作品にも深い吐息がある。これを作者の疲れなどと見る見方は浅はかだと思う。僕らは写実短歌がこれ程迄に作者の肉体を現実し得ることに確信を持とう。

短歌の魅力、短歌の救いが写実の後にある事を僕は自分の覚悟としている。ではなぜ此れ迄の短歌が愚劣であったか。写実主義を凡俗な市井主義としか理解しなかった大多数の歌人を吾々は責めなければならぬ。(1947・8)

短歌の近代性に就いて」

(一)

短歌が近代文学ととして生き得るかと言う疑問は、終戦当時、所謂「大詔を拝して」の作歌態度への批判から始まり、歌人の作家としての思想抵抗の無さへの検討を、更に短歌自体の限界の究明にむける事により、主として評論家、西欧文学者から論議されて来た。 

短歌の植物的な性格、作家が受身であり、一度情緒化してからしかものが受けとれないと言う性格は、其のまま所謂短詩型作者の性格ともなり、歌人は歌人である事により何か物の受け取り方、認識の仕方に限界があるのではなかろうか…この場合定型という問題もからみ合って…積極的な近代自我の確立と言うような事は短歌ではできないのではなかろうか、と言う風に疑問を向けられて来た。

つまり短歌と言うような情緒的な認識によって、人間の開放とか自我の確立とかをなすことは出来ない、作品として固定することは出来ない。問題は更に日本文学にある短歌的なものへの清算の要求に迄移って行った。

之に対し歌人俳人の側からの解答がなされたが、其の解答はかなり提出された問題と喰い違って居たようだ。それは、批評家と俳人歌人との思考の習慣の相違、表現の方法の相違と言うより、もっと根本的なものだあったのではないかと思う。僕はこの事を一概に作家側の不勉強、論理力不足とは言い捨てられないと思う。

つまり、批評家が図式的に進めて行く言い方に作家の方は一つ一つ体験的なてらし合わせをしてか物が言えない。答え出してはいけないと言う、そのためにぴしぴしと結論を作って行くと言うよりは、具体的に問題を考えて行き自分の場合の問題として考えて行くと言 う事の方が多く、批評家の結論に対して大体不信な態度を取って行く場合が多いのである。

それと評論家が全体の場合として概論的に説明して行く時に作者は自分の場合としてやや感情的に答弁をして行く事が多く、この喰い違いもしばしば見られた。

例えば短歌的認識と言うものがあるのか。之は作家の側から言えば有るとも言えるし無いとも言えるのだ。

評論家が短歌と言うものを考える場合、常に何か中世的な短歌への漠然とした概念をもって掛かっている。否、更に積極的な理解を持とうとして居る人の場合でも、吾々の短歌の実行とはいつも数年乃至十数年のずれがある。そうしてそのずれに対しかなり頑迷な固執をもっている。

ところが吾々作家は短歌の概念を常に作品によって拡張させて行って居る。少なくとも之は意欲的な作家の意志である。この場合所謂短歌的なものと言う考え方はむしろ反逆して行くものとして吾々の問題になる。同じように短歌的認識と言うようなものも、それは吾々の今の仕事で常に拡大し変化して行って居ると言う意味で、有るとも言えるのだ。

短歌的認識の一つの特長として情緒化による認識、詠嘆化しての物のうけとり方を考えた場合、吾々はここに一つの限界を感じとると同時に、この限界から逆に外して行く事を常に作者の積極的な行為として居る。之に一方的に固定することを月並みとし古さとして軽蔑している。

このようなずれが常に作者と批評家との間に介在する。

(二)

そこで問題はもどる。短歌が近代文学たり得るか。短歌の中に近代自我が確立出来るかと言う事は、短歌が近代人的な意識を内容とし得るかと言う風に具体的に言い変えてはじめて吾々の課題となり得る。

つまり吾々が実作者として問題を見て行く場合には、近代と言う問題も、それを素材として作品の中に消化し得るか、一首の内容とし得るかと言う風に考えることになり、一首が出来るか否かと言う、技術的可能性の問題に変えてこそ吾々当面の問題となるのだ。

もっと簡単に言うと短歌の近代性と言う事も、吾々は最終的には素材と技術の問題としてしか考えない。

この場合素材とは吾々作者自身の近代人としての現代への生き方である。日本の今の位置で、吾々が生き、考え、行為して行く個々の場合である。

吾々は西欧に生きて居る訳ではないから西欧的な意味での完全な近代が吾々の間にある筈がない。だから、日本の近代は、日本の近代として、たとえそれがかなり歪曲されて居るものであろうとも、其の歪曲なりに吾々の生きて居る事実の中にこそ見て行くべき筈で、吾々の生き方の中以外に少なくとも作品の素材としての近代の取上げようはない。歌人が別に異なった人間でないとすれば、吾々は自分の生き方の中に、あるだけの近代を見て行く他にしかたが無い。

短歌の素材は吾々作者自身の生活の個々の場合一つひとつである。近代の確立、自我の確立と言うような事も、それが作者の生活内容として一度素材の中に溶けて行って居ないかぎり、純粋に制作過程中に見出すことは出来ない。少なくとも短歌ではそうである。

(三)

近代と言う事も短歌では吾々の生活の具体として、個々の場合としてしか取り上げる事は出来ない。だがこの事は与えられた問題に対し逆に短歌の可能性を答えることでもある。吾々の生活を素材とする事によって、吾々が近代人としての誠実な生き方をとってをれば短歌は近代性を素材として持ち得ると、一応素材に言い得るのではなかろうか。

従ってあとは技術の問題として解決される。

吾々の生活内容となって溶けた近代意識は、今は具体的な作者の生活の場合場合として吾々の短歌行為の前に立つことになり、吾々の普通の技術で作品として形作られる。

同じ事を繰り返すようでくどいが、短歌では―短歌の技術では、人間自我確立と言うようなものを純粋に内容に持ち込むことほとんど不可能であるが、それを作者自身の生活に具現する事により、言い変えれば作者を一個の近代人として生活させる事によって、近代を素材とし、作品内容とする事が出来るのだ。

この場合短歌的認識と言う事がどのように関わってくるのであろうか。

(四)

吾々歌人に短歌的認識と言うものがあって、何かそれが吾々を近代人として生かす事の障害となって居るのであろうか。はじめにも書いたように、批評家は短歌と言うものを、無意識的に中世短歌の概念で決めて行こうとして居る独断がある。中世短歌への郷愁が、無意識に彼等の独断の出発となって居る。なるほど中世的な短歌の概念を吾々は、今日かなり受けついで居る。短歌が伝統の古さを持つ文芸型式だからこの事は当然考えられる。だが、短歌の歴史に於いて、短歌の革新はいつも其の中世的なものへの反逆の形でなされて居る事も考えなければならぬ。つまり今日吾々の持って居る短歌概念は、中世的な短歌に対し、むしろ反逆して居るような内容の概念である。

吾々が作品批評に対しよく月並みとか古さとか言う言葉を使うが、之は短歌の中世的の要素に対して向けられる場合が多い。批評家が考えるような短歌の情緒化的認識方法も吾々は之を一応短歌の本質的なものとして認めるが、この場合彼らのように中世的情緒の類型を漠然と意識に固定して考えて来られると当然吾々の自認の仕方と喰い違って来るのである。

吾々の場合で言えばこの情緒化的性格を逆に取って武器として、中世的情緒、類型的情緒に反対の方向、もっと何か生々しい人間的なものの中に短歌的詠嘆をためし、拡張してゆこうとして居る。そうした常にタッチされて居ない世界に向かって行き、短歌的なものを拡大し、きたえ上げて行く、其の事を同時に内容としてなら吾々の歌人的宿命、吾々の認識の限度の説をもうなずこう(短歌には漠然とした素材の限度がある。之を知らなければならぬ)。客観的になお吾々歌人に中世的なものが見られるなら、それはこうした実作の苦しみをしない月並み歌人か、さもなければせいぜい歌人の一種の国文学的教育の偏重のためで、僕は本質的なものとは考えない。

この事を僕らは実作で証明して行って居る。唯批評家はいつの時代も一番活動して居る成長細胞を見ようといしないので、彼らの理解と僕らの仕事との間に数年乃至十数年のずれがある事は止むを得ぬ。この現象は最近の朝日評論に出た臼井吉見氏の文章における僕の歌への感想にも見られる。ともあれ、短歌的認識と言うものが狭い固定したものである、常に作者によって対象を得ては拡張されて行って居るものであれば、所謂近代、吾々の近代人としての生き方を短歌に認識して取る事が、吾々が歌人であるためにそれ程の困難とは思えず、また其のために吾々の生き方までが本質的に制約されるとは考えられない。

(五)

だが、かく言う事により一体吾々は安心し切って居られるのであろうか。「短歌と近代」との問題は、それが可能だあると言う立論より、果たしてそれがなされて来たか、一体今日迄の短歌に近代があったのかと言う質問に答えなければならない事の方が、吾々には切実である。

「大詔を拝して」の古傷に今ふれる事は止そう。一体僕は、僕の文章を説明するために、具体的に今ここにたれの名前とたれの作品をあげたらよいであろうか。

時代を大正と昭和とかに限定して見て、一体其の時代時代を直視し誠実に生きその時代の知識人として身を以って苦しみ、其の苦しみと生き方とを作品に誠実に残して来てくれた吾々の先輩歌人を具体的にたれと言えばよいのであろうか。皆無では無い。僕はその稀な例として歌集『春山』の著者柴生田稔の名前をあげてもよいと思って居る。

だが、其の他の大多数は趣味的な花鳥諷詠かさもなくば、日常詠と称する市井日常茶飯事の不平作品を事として居ただけであった。

一人の歌人が其の時代に対処して、「如何にいきるべきか」の問題に苦しんだかの痕跡を過去の作品群中に見出そうとする事は殆んど無駄な努力とも言えるくらいだ。

たれも其の時その時のはかない感慨に生き、はかなく死んで行った。作者一個の生き方を其の時代に如何に打立てて行ったか、少なくとも其の作者のモラルとも言うべきものが彼の作品、彼の作歌生活中にあったのか、かく考えるとき僕らは一体歌人と言うものを如何に考え、短歌と言うものをどのように文芸として受け取ってよいかわからなくなっても来る。

こうして過去の事実より短歌と言うものをきめてかかり、歌人と言うものの概念を作り、短歌的認識と言うような考え方を出して来られると、短歌の近代性の問題も、否定的な取扱いしか出来ないであろう。

(六)

しかし無論僕は、そのために短歌が如何なるものかを決めかかれないと思う。むしろ、短歌を其の程度にしか考え得なかった歌人の安易さ、歌人の個人的な―或いは習性的な職人的小成と考えたい。事実この習性だけは中世近世を通って吾々に迄受けつがれて居る。これこそ歌人の性格を限界づける中世的宿命と言えようか。

むしろ吾々は今如何になすべきかを考えるときであると思う。過去の作品がほとんど吾々に答えを出してくれなかった、其の事に思いをひそませ、如何なる錯誤があったかを率直に考えるべきだと思う。

徒に短歌の特殊性の側を誇張し、ことさらに己れのうちに閉じこもって居るべきではない。僕らはもっと積極的な態度をとり、短歌ん限定があると言うなら自ら其の限界にまで身を挺して行く事によって短歌の可能性を試みるべきではないか。

言う事が次第に文の主旨からはずれてしまったが、「短歌と近代性」との問題も結局は作品例から論じて行くべき問題であれば、短歌に近代があるのかの問いに対し答えるだけの作品を今後吾々が作って行く以外、仕方がない事になる。僕は近代性云々と言えども、之が作品一首となるためには、吾々の前に素材と技術の関係として問題にあるだけと言う事を前に書いた。そうしてこの場合素材とは作者の近代人としての生き方、生活の個々だと言った。

問題は作者―歌人が一個の知識人として現代に如何に生きるかに移って居る。流行語を用いればそれが近代の確立であるか、その超克であるか、歌人が誠実に生きようとした場合、一人特殊な世界に住み得る筈がない。(1947・8)

「歌のわからなさ…局外批評に答えて」

「短歌研究」で、新歌人集団のメンバーの作品を中心として歌壇以外、文壇画壇批評家等に感想を求めたものを特輯し色々な意味で関心をあつめた。

それに対する感想回答のようなものと言う編輯者の意向であったが、僕はとにかくあの時の企画の一員と言う形であり、又僕自身の作品も引例にされた事でもあるし、ここでは一般論として書くことにした。

あの回答にかぎらず、局外批評でよく出る問題は短歌のわからなさと言う事である。

このごろの短歌がわからない、難解で一読意味がとれないと云う批評、更に意味はとれてもそれが何を訴えようとして居るのか、作者の感動が今度は解らないと言う問題がしばしば局外者から提出される。

短歌はわかるものでなければならぬ。だれにも理解出来るものでなければならぬ、と言う事を痛感して居るだけに、あの解らない解らないと云う感想の解答は、吾々をかなり憂鬱にさせる。 

吾々は何も特殊な感動を訴えようとして居るのではない。ごく普通の感動を、言わば今日時代を同じくして生きて居るものが共通に感じとるものを、更に言えば世代を同じくするものが例えばふとしてもらした一語だけで理解し得る筈の、吾々の間だけのためいきのような感慨を、少なくとも僕だけはさう思って作っている。

歌よみは今日知識階級の特殊な部類ではない。吾々は良心的な市民として同じことに苦しみ、同じ日々の現象を見、同じ思想の波の中に生きて居る。吾々の短歌は決してそれ以外に題材と詠嘆を求めて居るわけがないとすれば、何故吾々の作品が理解されないのか。否、何故それを敢えて理解しないのか。

僕らは実作者として先ず彼らを責めたい気持になる。

第一に感じることは彼らの短歌自体への理解と吾々の実作との間にあるずれである。大体に於いて彼らは一種のリリシズムを短歌に予想してかかって居る。彼らがわからないと言う気持の中に短歌に彼らの予期して居た形でのリリシズムがないと言う不満を見逃せない。リリシズムを求めること其の事は正しい。唯そのリリシズムが既製品であり、更に見て行けば彼らの間にある中世短歌への類型的郷愁であれば別だ。この郷愁が彼らの短歌判断にかなりの固執独断を与えて居る。

わかりやすいものをと言う気持は、わかりやすい抒情をと言う気持と通じて居る。わかりやすい抒情が、類型的抒情、回顧的な、過去に於いてすでに感じ方の型を作ってしまった月並抒情である事をうかつに考え逃して居る。

歌人がいつ迄もそんな物ばかりに拘わって居ない事は当然であり、吾々の短歌が一応彼らの口に合わぬとしても、他の芸術がすでにくぐって来たと同じ芸術思潮の波を短歌とてくぐった後に今日の吾々の作品の主張なり態度なりがある事を理解して居てもらはねばならぬ。

第二に、短歌は俳句と同様暗示の文学であることを知ってかからなければならぬ。

だから、この詩型の中にわずかに表現されて居る言葉なり事実なりが、何を暗示して居るのか、それを理解してかかる気持が無いなら歌は不可解であろう。短い詩型だから其の中で完全に首尾の合った文章が出来るわけがない。言葉だけ意味だけを追って行けば片言の如く不可解である。短歌には思い切った省略がある。必要な言葉と事実を最後の一線で止めた省略の美しさ、簡潔なことばが残す絃のようなひびきを理解しなければ短歌の造型的な美しさを理解し得ない事になろう。

それをわからない解らないと言ってかかる事はいたわりのない見方だと思う。

しかし僕はこうした短歌の特殊面を強調することは止めよう。それは吾々の知った事であり、彼らの知った事でないのかもしれぬ。省略した果で解るものでなければならぬと言う理想論に対し、僕らの言訳は無用に近い。

それはともかく、はじめに於いても述べた如く、他の芸術のすべてを洗った波は、短歌をも一様に洗って行った。短歌は短歌なりに。

短歌にリリシズムを求めようとする人が、かっての白秋、勇、晶子らの時代の、言わば明治大正の素朴なリリスズムを今日の短歌に求めようとするならそれは無理であろう。いろいろな波を、特にレアリズムの波を最もつよくうけた短歌が其の本質である抒情を、かなり色彩のくすんだものに、言わば写実のぎりぎりの果に見出す微光の如きものに変えて行った事は事実だし、又吾々は写実主義を正しい文学の方向とする考えを捨てないかぎり、このまま今の位置で、写実の果にあるべき抒情の微光を求めて、今の態度で作歌を続けて行く他仕方がなく、其の場合局外批評を引離すことを顧慮しては居られない事にもなるのだ。(1947・8)

「人民短歌に就いて」

(一)

「人民短歌」は総合雑誌だと言う。だが無論たれもそれを額面通りには受け取らない。「人民短歌」に打込んで居る作家は「短歌評論」以来の人々であるし、さもない人々も、「評論」的性格に立っている。言わば左翼作家の一群であり其処に立場を持つ。

しかし、「人民短歌」は出発のあたりかなり多くの左翼ならざる作家を採り入れた。庶民性と民主性と言う大きな枠で、かなり無雑作に多くの作家を包容した。このことは「人民短歌」がかって歌壇になかった短歌雑誌の進歩的な型を作ったプラスの反面、今では目立ってどうにもならない弱点になってしまった。

弱点とは何であるか。

第一にパッションの喪失。第二に歌壇のうすぎたなさの模型図である。

パッションの喪失が如何にして「人民短歌」誌上を覆ったか。なぜ広く作家群を包容した事が原因したか。

文学主張を持たない集団、すくなくとも一つの文学情熱を持たない集団は考えられない。「人民短歌」の立つ所は何であろう。彼らは民主主義的短歌だと言う。

だが、民主主義などと言う大きな枠が文学主張として成り立つものかどうかと考える。しかし、僕は今此処で民主主義論などやるのでは無い。

文学の主張として、少なくとも短歌当面の文学主張として短歌の民主性などということは、それがあまり当然であるが故に、同時に把えようもない枠であり、たれをも包み得るが故に、あまりにも無雑作に愚にもつかない歌人らを柵の中に入れてしまった。具体的にたれたれとは言わない。云わば多年歌壇を右往左往して居た三流四流作家を、実にあっけなく―主観的にはそれぞれの理由覚悟があったにせよ―だが客観的にはあっけなく、或いは時流に漂い寄ったものの如く、「人民短歌」の柵の中に立ったものが依然三流作家四流作家である事に変わりはない。うすぎたなく既成歌壇を作って居たものが、情熱なく才能なく、再びここにうすぎたない歌壇模型を作りつつ、新思想と新時代とを、ぎこちない作品として発表して居るにすぎぬ事になった。

この言に怒るものは怒りたまえ。そうして多年身についた「歌壇的うすぎたなさ」をこすり落して本当の意味での人民短歌の作者として立ち現れたまえ。そうした苦渋の後に立った作家のいさぎよい作品が出るのを待とう。

吾々は二つの文学の立場を取れるわけもなく同時に二つの作歌態度を取れるわけもない。出発に於いて「人民短歌」が綜合雑誌であり、今も多分にそうであると知っているが、同時に一つの主張に立つ結社雑誌である立場を明確にすべき時にすでに立ち至って居るし、少なくとも民主主義短歌などの大きな枠では仕方のない時になって居る。この事は彼らとて知って居よう。

もし漂流作家が「人民短歌」を単に作品発表の具として考えて居るなら「人民短歌」の不幸である。

(二)

僕は「人民短歌」が「短歌評論」の後身であると言う独断を変えない。否、少なくとも本質的には其の理論的発展の結果だと言う考えを変えない。

だからこそ先ず漂流作家群のうすぎたなさを第一に指摘した。

だが、では「評論」系の作家として身をもって時の苦渋に生きて来た人々は如何であろう。

「(前略)詩というものは只単に歴史発展の合則性に足場をおき、正しい思想の持主であるということだけでは必ずしも芸術品を創造し得ないものであるということである。われわれは常にこのことを反省してみる必要あるのではなかろうか。この一巻に於いてもわれわれが獄中作によりふかく感動せしめられるということは、氏のぎりぎりけっちゃく感動が表白されているからである。いつわりのない人間の本音だからである。へんに思想をふりまわさして肩ひじをいからせたり、素朴だけのプラカード短歌では、それが如何に立派な内容をふりかざしてゐても、とうてい芸術品とはない得ないということである。われわれはお互いのもつ諸矛盾を正直に打ち出しつつ高きに至るという芸術家としてまっとうな戦いをしたいと思う。」

之は「人民短歌」三、四月号にのった山田あきの文章の一節であり、「人民短歌」作者の立つ位置を謙譲な筆で、たが正しく記してある。

ただ、この成長が、かられの文学の成長、人間の成長と同時に、何か安住めいた心境に至ったのではあるまいか、一応の荷重が取りのぞかれた後に、すでに反抗すべきものを失ったような安住のなかにあるのではないかを危ぶむ。無論かれらは僕の愚を笑う筈だ。民主革命はようやく道が開かれたばかりの時、ここで反抗すべきものが失われた等と何故言えよう。だが僕はなにも民主革命云々の説をしようと云うのではなく、唯彼らの短歌作品について言うのだ。

おむつ洗う手をやめてうなずいてくれたかみさんもいたと夕めしの時おもいだす  

                                 佐々木妙二

丈高い娘と組んでギクシャクと、ぼくが踊れば、湧く笑ひ声

                                 赤木健介

工場からのもどりここに来てたのしく踊る君達の明るいまなざしが僕をとらへる

                                 渡辺順三

「人民短歌」七月号から抜いた。

いそいそとわが酒料理つくるなり瞼の姉はいつも健やか

                                 宮城謙一

あゝこれは働く人達だけが持つ健康な笑ひ声ださうなんだ

                                 矢代東村

何と云う手ばなしな態度か。否、次の如き歌、

停年までそつとしてほしいと責任あるポストはのぞまず、わびしく口ひげなでる

                                 司代隆三

一体この人々の安易な取材発想に人々はいらいらとしないのか。安易な材料を、安易なシチュエーションでとりあげる態度に、たとへ彼らが歌の健康性、庶民性を主張しようとも、この情熱の喪失―素材としての情熱ではない―作品一首に盛り上げるパッションの不足は、何と説明してくれるのであろうか。一首としての平板な、重量感のない作品結果に、何を吾々は見て行けばよいのか。

「思想をふりまわして肩ひじを怒らせ」なかった事が、こうした生活の平面感情の記述あり、一首に盛り上がる情熱を失うことであるなら困るのではないか。

具体的に言えば、鋭い対象への切込みがない。生活からぐんとえぐり取る気魄、生まな人間の精神をうち出すきびしさが無い。何に対しても作者の側の心理の抵抗が無い。すべてをれから来る作品の陰翳重量感が無い。

僕は彼らの「短歌評論」の頃の伏字多い作品を少なくとも之らより高く買う。抵抗に立ち向かう美しさだ。では彼らは今は抵抗すべきものをうしなってしまったのか。

否。山田あきは「われわれのお互いのもつ諸矛盾」だと明確に言って居る。抵抗すべきものは今吾々自己、一個の人間の内側ではなかろうか。

左翼作家、少なくとも「人民短歌」の中心作家にはこの自己への甘やかしが目立つ(僕はこの場合すぐに例えば坪野哲久のようなむしろ逆な作家を思い浮かべる。すると僕の立論もぐらぐらして困るから、しばらくそうした逆の例はさけて行く)。そのため一寸でも取材を暗い側から明るい側にうつすと、たよりなく、甘さがはたから見て居られないような場合が生じる。

(三)

結論の一つを先に述べるならば、「人民短歌」が正しく発展するために、「人民短歌」内部での未知の作家の成長をまって行かなければならないと言う、やや月並みめいた事になる。そこでこの第三の作家層、未知の人々はどのような傾向にあるのか。

僕は第一にどこで未知既知を分ければよいのか迷う。

だが、しばらく結論を控えつつこのあたりの人々の作を見て行こう(作品はすべて最近号よりとる)。

赤色広場波の様に揺れた、黄色い旗、青い旗、旗、息もつかせず繰込んで来る

                               馬酔木昶

こんなに声をつぶして演説した僕の目にまだ消えやらない、あの少女の顔がひとつ

                               小松力夫

ホロンバイルの草原に今こそ人民共和国の旗はあがる、ホラ見えるかい

                               田中辰夫

僕はかかる一群の傾向の作品のあまさを、いまだしとする。このあまさは多分に観念のあまさである。だが、

馬小屋の馬に与へし刈草に蛍ひそみて光りて居るも

                              大竹好畝

心打ちこめる仕事がしたいひたすらに育てたと思ふ子らはすでに子らの世界にゐる

人夫名簿に登録すべく降りて来し地下室の闇にしばしたたずむ

                              小山智士

抽出にふと見出でたる腕時計労働者となりこの頃使はず

                              福崎定美

ここには稚いがとにかく私の眼があり私の立場がある。とにかく其処から詠嘆の声がもれる作者自己のつつましい根強い生活がある。

僕は先に作者の側の心理の抵抗と言った。何もひねくれた物言いを求めるのではない。このように執拗に生活にくいついた処から生じて来るこの精神のねばっこさの事は言う。

僕はこの種の作品一個の重量感を「人民短歌」作者全般に求めたい。さうして、作者は、人間一個としてつつましければ、自己と、自己の生活にあくまで謙譲であり、誠実であれば必ず作品にこの重量を与え得ることを僕は考えたい。そして、こうなればすでに「人民短歌」論など離れてしまって、僕自身の問題である。

(四)

時に歌論のはし等にかってのようなはげしい精神を見出し得るが、一体に「人民短歌」の作品の平板さ、情熱の喪失は、其の包容して行く巾の広さと比例して眼立って来た。再び「短歌評論」の時代にもどれよう筈もなく、そのような注文が愚劣である事は無論だが、少なくとも作品の発表されて行く面だけは、今少し清潔にならなければならぬ。同時に作品一首一首に芸術としての気魄、パッションを今一度とりもどす事を望む。もっと精神の荷重をもつ作品作品を、生活の深い裏づけのある作品を、もっとしつこい私の立場からの作品を期待したい。

そのためにも、「人民短歌」は今態度を明確にすべき時に至って居ると思う。言わば左翼の立場を一度はっきり認めた上で、其処から一歩一歩自己批判としての理論を進めて行ってもらいたいと思う。僕はかってやはり「人民短歌」論を書こうと思ってそのバックナンバーを見て行ったとき、正面切って今の立脚点、作歌態度を述べた、言わば主張を明らかにした論文がほとんど無いと言っていい事を知った。

文壇でかっての左翼理論がかなり自己批判をくりかえし成長をして居る時に、短歌の方はこの方も少し貧しいのではないか。政治と問題、人間性にからんでの問題も、片々たる文章以上に打ち込んだ論文を見出せないとき、僕はここでも彼らにパッションをと望まなければならぬ。(1947・8)

「物」への驚き―『赤光』を読みて

「悲報来」

ひた走るわが道(みち)暗ししんしんと堪へかねたる吾が道くらし

三四句不熟なるべし。

長塚節の「赤光書き入れ」はかく明快な裁断により始まる。

 赤光の中に浮びて棺(かん)ひとつ行き遥(はる)けかり野は涯(はて)はらん

「作者は太陽の光、夕日の光と率直にいふことが出来ないのである」かく言う。

 大正はじめ、『赤光』出版が巻きおこした感動は如何なるものであったのか。アララギ内部に於いて、「殆んど斎藤君の模倣であると断言して憚らぬ」(節『斎藤君と古泉君』)状態であり、文壇では佐藤春夫が出版記念会を申し出たと言う。吾々はそうした残された記録から『赤光』が投じた歌壇文壇の波紋のひろがりを想像し得て、何かこの青春の一時期を羨ましく思う。しかもかうした『赤光』を正面から批評して、『赤光』を太陽の光と「率直」に言い得ぬと断じた長塚節の理知のまなこに今更に驚き尊敬を感じ、結局に於いて節の『赤光』評は今日いささかも古びて居ない事も知る。「例の癖」「例の如く不解」等々、長塚節の批評のことばは、吾々が『赤光』を読んだあとに残る何か感動の渣のようなものを拭い去るごとく清く断定的である。

しかしながら、節が指摘した『赤光』の弊のすべてを一応肯定しながら、なお僕は『赤光』にたいして抱く強い愛情を捨て得ない。大正から昭和の今日にかけて出版された多くの歌集と全く別個の何物かを『赤光』はもって居る。いつ読んでも稚と共に何か一種のエマナチオンを発散する、いつか吾々は一つの精神世界に巻き込まれ、強烈な独自な主観に酔はされて居るような事を感じる。

『赤光』のこの魅惑の力は何に由来するのであろう。そうしてこの源をさぐりあてる事が今日の作家斎藤茂吉の力量の深さを理解し得る一つの鍵穴ともないはすまいか。僕は巨象をさぐる盲人の如きはかない勉強を幾度か試みる。

  汝兄(なえ)よ汝兄(なえ)たまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも

 作者は卵が鳴いたのに唯驚いて居る。手ばなしに全身的に感動して居る。

  猫の舌のうすらに紅き手の触(ふ)りのこの悲しさに目ざめけるかも

 ここでも作者は唯、猫の舌の触覚に感動する。対象に純一に感動する。さうだ、この「物」自体への驚きであり感動なのだ。この「物」自体にうち込んだ全身的な感動と、愛惜なのだ。

 一首一首がこの「物」自体を持ち、作者は之を愛惜しつつ其の四周に自己の世界をかもし出そうとする。「物」への感動の純一さこそ『赤光』を他の歌集と分つ新鮮さではなかろうか。而してこの感動の執拗さこそ、あのもやもやとまつはるような『赤光』の気分ではなかろうか。

  秋づけはらみてあゆむけだものも酸(さん)のみづなれば舌触りかねつ

  満ち足らふ心にあらぬ渓谷(たに)つべに酢をふける木の実を食(は)むこころかな

  斧ふりて木を伐る側(そば)に小夜床(さよどこ)の陰(ほと)のかなしさを歌ひてゐたり

  けだものは食(たべ)ものを恋ひて啼き居たり何(なに)といふやさしさぞこれは

 そうして又何と言う対象への愛情であろう。

  あぶなくも覚束(おぼつか)なけれ黄いろなる円きうぶ毛が歩みてゐたり

 之が明治四十四年の歌であり、

  自動車の光のまへを兎(うさぎ)一つ道よぎりたりあな危(あやふ)あやふ

 昭和八年の作である。この間二十幾年、作者は「物」への愛惜をかく持ち続けて来て居る。吾々の所謂写生と言う事も、この手ばなしの驚きと愛情として理解してよいのではなかろうか。

 『赤光』の作者が見出し来て愛惜し感嘆する「物」はそれまでの歌の世界から見れば非常に独自であり、感嘆のしかたも独自である。時としてこの二つが相伴わず、対象を置きざりにして強烈な主観が押し出されて来る。節の所謂「例の如く不解」なる歌はかかる種類のものか。

 いまの僕らはこの節の批判を知った上で『赤光』を正当評価しなければならぬ。いたずらに感嘆するばかりで批評の理知をくらませてはならぬ。しかも同時にあの一首一首の言い知れぬ魅惑を何としても解かなければならない。

 今日の歌壇はあまりにぢぢむさく表情が無い。同じ対象を同じように詠嘆してあきない退屈な末流どもの世界である。僕らは『赤光』の作者の新鮮な物への驚きにも一度驚く事を今無意味とは考えなぬ。(1947・8)

「虚構の美」―大野誠夫小論

言うまでもなく、実作者の立場からの作品批評は批評さるるべき相手を常に評者自己と対比せしめることにより、結局批評自体を通じて自己の立場乃至自己の決意を表明する事に他ならない。この事は、対象となるべき作品(或いは作者)を最後には自己との相違点に迄追及してゆき、其の一点で彼我の主張をつき合わせる、言わば真剣の立会いとも言うべきで、このため批評家的批評と別種のものであり、時にはかなり一方的主張を高圧的に相手に強いる事になる。

この覚悟は大野君とて知りつくして居る筈で、彼が今さら僕の軽口な賛辞を聞こう等とは思って居まい。

僕は大野君を知って一年そこそこである。彼の作品も「鶏苑」以前は知らない。其の意味では共に一種の戦争被害者であり、敗戦によって相互に知りえた、言わば敗戦作家の類例である。世に三十代と称する戦争以前に一つの知性を受け、一時代最小限の線で其のあわれな火をまもりつづけ、敗戦の虚脱の中にとにかく確信を持っても一度生きようとする、其の意味で僕たちは完全に相通ずるものを持つ。

大野君にしろ、吾々は「誰のために」作歌するかを知って居る。「そは、我々人間の幸福のために、である。絶望と虚無と不信にさらされながら、私たちが持つことのできる唯一の拠り所は、人間への信頼以外にはない、人間に対する愛情によって、私たちは抒情の再建のいとぐちを?むことが出来る(大野誠夫「二百一人目の歌人」)。さう、其のためには吾々のめざす所は一つだとも言えよう。このさい、彼をロマンチストとし僕をリアリストだとする、こんな歌壇常識的な通俗な対比は、共に歯牙にかけるにも価ひしない。

「真実がすべて美であるという観念は錯覚である。文学に於ける真実というものは、美を伴わなかったら成り立たない」(大野誠夫「美の飢渇」)に言う「平凡な理論」も、そのかぎり一応僕自身の理解でもある。彼が抒情をと言い僕は写実派の立場を主張する。だが抒情を基底にしない短歌の写実がある筈もなく、又大野君の所謂抒情短歌も事実はすべて一応は写実の型を母体として短歌作品となって居る。かかる概念的理解から大野誠夫と僕との相違はさがし出せない。

又、大野君の短歌を堕落文学、下向きの文学等としてサルトル乃至坂口安吾的類型に分類してしまう事も、実に雑駁な表面的理解であり、文壇の類型をそのまま短歌に移入する事しか出来ない群小批評家の早合点であり、たまたま表面に出された素材を読みとってそれより奥のものを理解出来ない音痴じみた短歌の理解に他ならならぬ。

では僕はどこで大野誠夫と対比さるべきであろうか。批評を以っての対決を大野誠夫の短歌のどこにつきつけて行こうとするのか。

大野誠夫論はここから始まる。

  風荒く草に光りて泪たまる錆びし鉄骨の吠えるかとおもふ

  あかざなど繁りし原に窓低く灯がやさし誰か琴かき鳴らす

  宵々をピアノをたたく未亡人何か罪深く草に零(こぼ)る灯 (「鶏苑」九月号)

  晩春館とひそかに呼びて住みつきしアパートをめぐる若き環境

  孤独なる思に沈み倚りし卓古りし酒場のマダムも老いて

  はたらきてなほ飢えてゆく数知れずぼろすり寄せて集る広場 (「八雲」八月号)

 ここにはそれぞれ一つの世界がある。短歌は一首一首が一つの世界を持たなければならないと言う意味に於いて、それぞれに大野誠夫の描く世界がある。

大体に於いて之らの世界は今迄短歌の世界にはなかったかなり独自なものである。言いかえれば何か一つのストーリーのありそうな小説的な世界である。彼の一首一首が短篇小説的テーマを暗示して居る如く見える点は、著しい特長だと言える。

だが、人は、之が「描きなされた」世界だと言う事に間もなく気がつくであろう。どの作品にも、何かしら不確実とも言うべき個所がある。

 具体的には「吠えるかと思う」の言わば一個の擬人的表現、又「誰か琴かき鳴らす」「何か罪深く」かかる不確実とも言うべき発想が大野誠夫の作品にかなり見出される。つまり、作者が何か一つの世界を描き出そうとする焦慮が常に一歩前のところでこうした不確定性をとるのではないかと思う。

  夜更けし町裏の溝白く光りそこより湧くかこの恐怖感  (「短歌研究」六月号)

  若葉暗く惨めなる日も子の手ひき小学校の桜見に行く  (「鶏苑」六月号)

  ジャズ寒く湧きたつゆふべ堕ち果てしかの天使らも踊りつつあらむ(「新日光」四月号)

 今度はそれぞれに早急な作者の側の解決がある。「そこより湧くかこの恐怖感」と言い「堕ち果てしかの天使ら」と言う。すべて、作者が苦慮し、焦慮しそこに描きなそう、作り上げようとする世界への手早い解釈である。皆何かを漠然と作者の予想する世界へ、言葉と現象とを組み上げて行こうとする苦しい営為のあとである。

僕はいくあびか「描き上げようとする世界」と言う言葉を用いた。大野誠夫の独自の作品の世界も其のために生まれて来ると同時に、やはり之は彼の作品のもつ根本的な弱点ではなかろうかと思う。

独自の作品世界とは再三くりかえした、テーマのある世界、ストーリーの予想出来る世界である。だが、其のために作者は組立てなければならなかった。言葉と、現象と、いつもかなり早急な結論的主観で、この小さな詩型の中に、小人の舞台を作らなければならなかった。

  花のやうにバラックの町に灯がともり今宵あたたかき冬の雨ふる

  小悪魔街に婪(むさぼ)り牙鳴らす飢(ひも)じき犬のともがらといづれ (「新日光」四月号)

  ジャズ寒く湧きたつゆふべ堕ち果てしかの天使らも踊りつつあらむ    (再出)

 浮浪児が小悪魔になり、街の女は天使になる。大野誠夫は世界を「描く」ために現実を一度解体し、組立て直さなければならなかった。其のために、一つの世界、大野誠夫の世界は構成さらて来るかもしれないが、往々にしてバラックの灯は「花のやう」でしかなく、結局構成されるものの限界、作り物の限界、その通俗類型性の限界を知らなければならなかった。

僕の論は結論に近づいて行く。

大野君の短歌の世界は常に彼の予想する或るロマンの世界へ、言葉と、一度解体された現実の各部材で、再び組立てられ、作り成され、美しく画き上げられたものである。そのため、いづれもかなり美しく、何か曰くありげであるが、一面、作り上げられたものの弱点、何か造花めいてもろく頼りなく、表面的で、時に類型的な感じ方が多く、常に作品の小主観通俗的結論がまつわりついて居る。

 僕らはもっと生まのまま、ありのままの現実を見、感動をもろともにこの現実をきりとり把みとろうとする。汚いものは汚いままに、あるままでそのぎりぎりの果てにある微光を見て追及して行こうと考える。彼は「真実がすべて、美であるという観念は錯覚である」と言ったが、僕は一応それを受けいれた上でやはりつきつめられた果ての真実は作られた美しさよりは美しいと言うことを信じよう。

次の挿話的場面がこの大野誠夫の結論になるかどうか、或いはその時の前後のニュアンスを飛ばした言い方に誤解だけをまねくかもしれないが。

或る晩、皆で論じあった後僕らは有楽町のホームで別れた。其の別れ際、「君は最後的にフィクションの美しさを信ずるか、リアルの美しさを信ずるか」との僕の問いに対し大野君は前者だと答えた。僕らは皆前後の関係で少しづつ興奮して居たので、この大野君の答えをそのまま正直に受け取るわけには行くまい。だが一応二人の分岐点を明確にする意味で、この、其の場かぎりで忘るるべきであったかもしれない二人の会話を取り出した。(1947・9)