聖  句内村鑑三所感集」(岩波文庫)及び「一日一生」(教文館)より

                 注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)               


二つの美しき名あり、その一つはイエスキリストにして
その二は日本なり...内村鑑三



正義と慈悲

正義、正義と言います。確かに、正義は貴い。しかし正義の道はかならずしも困難ではないのです、不義を罰すれば良いからです。難しいのは慈悲の道です。いかにして不義を赦すか、これが仁者のこころを悩ます問題です。そこで神はキリストによってこの問題を解決したのでした。もし神が正義のみにてわたしたちに臨まれたとしましたら、わたしたちは粉々に砕け散るでしょう。ですからわたしたちは、わたしたちを神が憐れみ給うところの憐れみをもって隣人に接するべきでしょう。

さらに良いこと

悪を矯正するのは良いことです、しかし善を勧めるのはさらに良いことです。壊すのも良いでしょう、しかし築くことはさらに良いことです。ののしることも良いでしょう、しかし教えることはさらに良いことです。憎むことも良いでしょう、しかし愛することはさらに良いことです。「なんじ悪に勝たるるなかれ、善をもって悪に勝つべし」との教えのように、キリスト信者は常に積極的に世の中の改善を計るべきです。

恥じてはいけません

パウロは「われは福音をもって恥とせず、そはこの福音はユダヤ人を始めギリシャ人、すべて信ずる者を救わんとの神の大能なればなり。」(ロマ書1章16節)と言っています。声だけ高々しくてそのじつ想いは低い哲学者の前に、多く約束はするがそのじつ実行は少ない政治家の前に、倫理を説いてそのじつその無能を誰よりも知っている教育者の前に、富を積んでも積んでも窮迫感から脱することの出来ぬ実業家の前に、文を綴っても思想の乏しさを歎いている文学者の前に、わたしたちキリストを信じその教えを実験している者は少しも恥じるところはありません。わたしたちの羞恥は無益です、わたしたちはかれらより幸福であり、健全な人間なのです。


活きるキリストと聖書

聖書は偉大な書物です。しかし活(い)きるキリストはもっと偉大です。活きるキリストを実感しなければ聖書を学んでも、まだ道半ばの段階でしょう。聖書は過去において活きるキリストの行動の記録です。われわれは今日キリストの霊を受けて、自分の身をもって実験し奇跡を示さなければなりません。新たに聖書の1ペ−ジを造る事です。古い聖書を読んで新しい聖書を造らない者は、聖書を正しく理解したと言えません。聖書は、いまだ未完の書なのです。

愛、愛、愛、

愛、愛、愛、わたしが求めるものはこれです。力はいりません、あってはかえって危険です。智恵もいりりません、かえって迷います。愛、愛、愛、わたしが必要とするのは愛です。敵を倒す力ではありません。敵をも愛する愛なのです。

読書と知識


本を読んで物事を本当に知る事は出来ません。本は物事を紹介し想像させるに過ぎないのです。物事を実際に行ってみて、はじめて知るのです。知識とは実験です。いわゆる博学と言う人で何も分からないような人が多いいのです。読書家を識者と見てはいけません。わたしの知る限り最も無知な人は、本を読む事のほか何もしない人です。百聞は一見にしかず、千読一行に及ばずと言うでは有りませんか。


読書と苦痛

人々はわたしのことを多くの書物を読んでいるから、多くのことを話す事が出来るのだと言います。しかしながら、わたしは自分の事を言う時には、「少しばかり他のひとより苦労したので、少しばかり話しをする事が出来るのですよ」と言います。目で読んだ事をただ書くのは易しい事です。しかし、心に苦しんで、それを言葉に顕すことは難しい事です。しかしながら、わたしは神に感謝をささげます。「わたしは少しばかり苦しむことが出来たおかげで、人生の事実を話す事が出来るようになりました」と。

神とは


実は、わたしは神のことを全て知っているわけではないのです。しかし、神はわたしの悪を憎む以上にわたしの善を愛して下さることは、疑いない事です。いわゆる最後の審判の日に、神の前に立ったわたしは、いかに自分の悪行が多くそれに引き換え善行が少ない事かと嘆き悲しみます。しかし愛なる神は、わたしの悪行は忘れて、ただわたしが行ったわずかな善をのみ記憶し発見して下さるのです。怒りの神とのみ思い恐れるのは、誤りです。神は恩恵の神であり、赦免(ゆるし)の神なのです。

死について

死は人生最大の問題です。しかし、キリストの信者は安心して死に対処すべきです。必ずしも生を求めず、また死をも願わずと言う生き方です。つまり生きるもキリストのため、死ぬもキリストのためです。死ぬべき時に死ぬのは大いなる恩恵(めぐみ)です。いたずらに生きることを願って、死ぬべき時に死なないのは最も大きな不幸と思います。死ぬべき時に死ぬことは、光明に入る入り口です。死が最大の不幸と、少なくともキリストの信者は軽々しく言ってはいけません。わたしはただ死ぬべき時に死ぬことを願うのです。その時より早くもなく、その時より遅くもなく。

神の愛

 あなたは、「自分のような罪深い人間が、どうして無限の愛を受ける事が出来ましょうか。自分を清くして、そして神の愛に充たされよう。」と言います。ああ、誰があなたを清く出来るのですか。あなた自身は自分を清く出来ません。神しか出来ないのです。自分自身の清くなるのを待って、神におすがりするなら永遠に待っても出来ないでしょう。母の手を離れて泥の中に落ちた子は、自分が洗浄されるまで母のもとに帰らないでしょうか。泥の衣服のまま母のもとに行くのではないですか。母は母で、何でもっと早く来なかったのかと怒って新しい洋服に取り替えてくれるのではないですか。永遠の慈母である神もその通りなのです。



 はじめにもどる
救済(すくい)

救済は徹頭徹尾神の聖業(みわざ)です。人が出来る事では有りません。神の恩恵をもって、信仰によりわたしたちは救われるのです。自分の力では有りません、神の賜物です。神がわれわれに臨む時には恩恵をもってなさいます。わたしたちはただ神を信仰するだけで、恩恵に浴し救われるのです。


聖書の研究

聖書の研究は、キリストの研究です。それは神の研究でも有り、人の研究でも有り、宇宙の研究でも有り、人生の研究でも有り、科学の研究でも有り、歴史の研究でも有り、詩歌と美術の研究でも有り、神と万有とにかかわるすべての研究でも有ります。聖書の研究が上記のようでないなら、今日直ちにわたしは聖書を捨て去ります。聖書の研究は、たんに信者を増やすなどの教勢拡大を目的にするためではないのです。

キリストと聖書

キリストがいて聖書があるのです、聖書があってキリストがいるのではありません。キリストが実在されないのであれば、聖書を百万回読んでもキリストを現実に見ることは出来ません。キリストは想像物ではありません、実在者です。キリストは聖書を離れてもなお存在し給うのです。聖書は確かに貴いのですが、活きている救い主を旧い文字の中に発見しょうと思ってはいけません。

キリスト信者

キリスト信者とは、もちろんキリストを信ずる人の事です。しかし彼は自分みずから信じて信者になったのではなくて、神に信じせしめられて信者になったのです。彼の信仰は神の救いの結果であって、信仰したから救済されたのでは有りません。「なんじらが信ずるのは、神の大きな力の働きによるなり。」と聖書は力を込めて述べ伝えております。われらは、信仰によって救われると言われるが、その信仰そのものが神からの特別のたまものであることを決して忘れてはいけません。

栄光

栄光は、恥辱の後に来ます。人に嘲(あざけ)られ、踏みつけられ、面前にて卑しめられ、悪人としてまたは偽善者として、蔑視され、そうした後にわたしに栄光は来るのです。そうです、恥辱は栄光の先駈けです、開拓者です。春が夏に先立つように、月が欠けてその後に満つるように、恥ずかしい思いをしてかえってわたしは、栄光を受ける希望を持ちます。わたしは喜んで人の辱めを受けたいと思います。

必要な物

われわれに必要な物は、神より必ず与えられます。しかし、前もっては与えられません。本当に必要な時に、与えられるのです。ですから、わたしたちは必要でない物を要のない時に求めて主なる神を試みてはなりません。「神はいと近き助けなり」と有ります。必要ならば一声ですぐ助けてくれるのです。天なる父の物を、自分の為にあらかじめ貯えるようなことをしないのであれば、不安に思うような事は、天なる父の子として採るべき道では有りません。


損失の利益(テモテ前書六の6)

肉において足るのは霊において満足する途ではなく、霊の健全さは肉の減殺で維持される。肉において飽きるのは、霊において死ぬ事なり。だから、欲望は達せられないのを良しとする。天国の門は地上の失望によって開かれる。肉によって失うだけ、それだけ霊によって得るところ有り。そうかといって、われわれは強いて損失を求めてはならない。常に損失の利益であることを知って、足らなくとも満足すべきなのである。



四大使徒の信仰

ヤコブの信仰は律法の信仰です。ペテロの信仰は訓練の信仰です。パウロの信仰は信仰の信仰です。そして、ヨハネの信仰は愛の信仰です。四大使徒はキリスト教の四大主義を代表しています。そして、わたしは特に使徒ヨハネの主義を選ぶ者です。

一般の人の書としての聖書

聖書を教会のための書物と思ってはなりません。聖書は神の書物であるとともに、一般の人の為の書物でも有ります。農夫によって茅屋の中で読まれ、商人によって店先で読まれてかまわない書物なのです。聖書は神が人類に直接たまいし書物で、まず僧侶が受けそれを一般の者に伝えるというような書物ではないのです。われら神の子は、自然に接するように自由に、臆せず、恐れず、「わが書」としてこれを読んで、その光を浴びなさい。

事実の信仰

事実の子になりなさい、理論の奴隷になってはいけません。事実はことごとく信じなさい。時に、相衝突するように見える事があっても、あえて心を痛めたりしてはなりません。事実はついには相調和するのです。それが宗教的であろうが科学的であろうが、哲学的であろうが実際的であろうが、すべての事実はただ一大事実として現れるのです。われわれが理論の奴隷であると、しばしば懐疑の魔鬼に犯される事となります。神の言葉である事実のみ頼りて、われらの信仰は盤石のうえに立って微動だにしません。

天罰

もし神の刑罰が有るとするならば、それは事業の失敗では有りません。生活の困難でも、肉体の病いでも、家庭の不和でも有りません。そうです、死そのものでもないのです。これらのものは、艱難、不幸、天罰に数えらるべきものでは有りません。もし神の刑罰があるとするならば、それは神を知る事が出来ない事です。未来と天国が見えない事です。聖書を読んでもその意味が分からない事です。感謝の心がない事です。俗人のように万事万物を見る事です。これが真の災難です。最も重い刑罰です。

神のなせる業

暗黒をもって始まり、光明をもって終わる。絶望をもって始まり、希望をもって終わる。神の行為はすべてこの順序です。希望を約束して、失望に終わったり、栄光の冠を頂いた後に恥辱の死を遂げるような、平和と繁栄とを宣言して戦乱と貧困を来すような事は、神は決して致しません。戦闘の暗夜去りて平和な昼来たり、若年を貧苦に過ごし老年を喜楽のなかに送り、夕をもって始まり朝をもって終わる。これが善人の生涯であり、神の事業の順序なのです。夜は長からん、その戦闘は激しからん。されど歓喜は朝とともに来る...です。

テサロニケ第一書五の16〜18

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべて事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたに求めている事である。


はじめにもどる


キリストの奇跡と不思議

キリストは実に人を救う為には奇跡を行いましたが、自分自身を救う為にはこれを行いませんでした。人を助ける為の特殊な能力を備えていたイエス・キリストは自分を救う事に関しては無能でした。弱き者を助けようとして風を叱り止めましたが、自分の敵に対しては、小指一本さえ挙げませんでした。キリストの奇跡以上に不思議なのは、この無私の心です。しかしながらこの不思議な心があってこそ、はじめてキリストのさまざまな不思議な業が行われたのだと思うのです。

ヨハネ伝十七の3

永遠の命と言うのは、唯一の、まことの神でありますところのあなた様と、また、あなた様がつかわされたイエス・キリストとを知る事であります。


神とともに

神とともに生きる事は、なんとすばらしい事でしょう。そこには平和が有り、正義が有り、仁愛が有り、思想が有り、感情が有ります。円満と完全とは神に備わっている物です。わたしはキリストを信じ、またキリストにあらわれている神を信じます。わたしは希望を達成しようとする場合、天然を必要としません、また人類の社会をも必要としないくらいです。わたしは常に神とともにいて、これ以上の満足は有りません。


静かなる宗教

神は「平安の神」です。キリストは「平安の主」です。そして、福音は「平安の福音」です。ですからこれを信ずる者は、平安の人でなくてはなりません。信仰も大河のように静かでなければならないのです、声を潜(ひそ)めて粛々(しゅくしゅく)として神の懐(ふところ)に臨むものでなくてはなりません。誰かのように、街で絶叫して、俗衆の喝采をはくするのを喜ぶような事は、平安の神の道より程遠い事です。森の木々を紅葉が彩り、秋の水は碧(みどり)いろをして静かにながれている、わたしは静かにそれを眺めつつ真正(ほんとうの)信仰について考えるのです。

事業の選択


事業の選択について苦慮する人が多い、しかしこれは無益な事です。われわれはどんな事業にも従事する事が出来ます。われわれは、ただキリストを信じるだけで十分満足なのです。事業はわれわれを潔めません、キリストのみがわれわれを潔めることが出来るだけです。今や聖潔の事業は世の中にまれにしかありません。われわれは清浄を事業においてみつけるのは、非常に難しい。ですから、キリストにもとめなさい、キリストによって従事する事業を潔めるべきです。

わたしの職責


人を信者とする事はわたしの出来ることではありません。しかしながら、一日一日聖書の言葉を実験して、それにもとづき福音を証明することは出来ます。わたしの職責は信者を作ることではありません。福音を証明することです。人がわたしの証明を受けて信者になるか、ならないかはわたしの関することではありません。


人の欠乏 

今日の日本に政治家はおります、しかし頼れる人物がおりません。実業家がおります、しかし頼れる実業家がおりません。教育家がおります、しかし頼れる教育家がおりません。学者がおります、しかし頼れる学者がおりません。芸術家がおります、しかし頼れる芸術家がおりません。すべての人物と才能はあります、しかし神と交わり永遠に生きる、隣人を愛し真理を喜ぶ神の子としての資格をそなえた、頼りになる人がいないのです。日本の最も欠けているものは、頼りになる人です。そのことをわたしは、切に祈らないわけにはいきません。


迷路に立っての祈り

わたしがなそうとおもうことは成りません、また他人が私をもってなそうと欲する事も成りません、ただ貴神(あなた)が私をもってなそうと欲し給うことのみが成るのです。神様、どうぞ貴神が私をもって何をなそうと欲し給うか、そのことを教えて下さい。そうして、そのことが私にわかった以上は私が私に力があるとかないとか関係なく、また他人(ひと)に何ら遠慮する事なく、ただ大胆にそのことが出来ますように私をお助け下さい。ア−メン。

神の独立

神はわたしの神経では有りません。わたしの精力でも有りません。わたしが頭の中で描く影でも有りません。神はわたしになんら関係なく実在します。神はわたしと強弱をともにするものでも有りません。わたしが弱い時も神は強いのです。そうです、わたしが弱ければますます神の強さが分かるのです。神の栄光のみを常に求めていれば、わたしがたとえ弱くとも決して悲しむことはないのです。

神人合体の事実

神はキリストによって人に臨むことが出来、人はキリストによって神に近づくことが出来ます。神人合体は詩人の夢想では有りません。人はキリストによらなければ神に至ることが出来ないのです。神もまたキリストにおいてのみ自己を顕し給うのです。キリストは天と地の接触点であり、神と人との仲立ち者なのです。キリストは道です、罪深き人が聖き神にいたる道です。キリストによって、われわれは神の子となることが出来るのです。天にいますわれらの完全(まった)き父のごとく、われらも完全くなれるのです。

信仰と労働

信仰は信仰によって維持することは出来ません。信仰は労働によってのみ維持できるのです。信仰は根であり労働は枝です。前者が養分を供給し、後者がこれを消化します。労働がない信仰は堕落と懐疑を生じます。信仰の維持に必要なのはより多くの信仰ではなく、手と脳を使う労働なのです。

困難について

恩恵はただちに来るものでは有りません。困難を通してきます。困難は恵みを呼ぶための中間物と言えます。燃料がなければ火を燃やす事が出来ないと同じように、困難がなければ信仰も喜びも有りません。火に先立つ煙のように、信仰に先立つものは恐れであり、煩悶であります。これによって、天より火がうつって、はじめて天よりの平安と歓喜とがわたしたちのこころに来るのです。困難を経ないで深い信仰をえようとするのは、煙をみないで火と暖かさをえようとするようなものです。


わたしの福音

誰一人信じなくてもわたしの福音(ふくいん)は真理です。人がことごとくこれを棄てても、わたしの福音は真理です。このために人がみなわたしを排斥するようなことがあっても、わたしの福音は真理です。わたしの福音は人の福音ではありません、神の福音です。わたしはつねに神におすがりしています。わたし一人となっても終わりの日までこの福音をおまもりします。


われとキリスト

キリストのようになるのではなく、キリストそのものとなることをわたしは願います。キリストの手となり、足となるのです。自分自身をなくしてわたしの中で、キリストに活きてもらうのです。そうすれば、望もうが望むまいがキリストのようにならざるを得ません。わたしとキリストとの関係は道徳的なつながりではなく、わたしはキリストの生命そのものとなります。キリストはわたしの教師ではなく、救い主であり、わたしの生命であり、わたしの復活となります。

はじめにもどる


救済の希望

わたしがもしこの世から滅亡すべき運命にある者であるなら、とっくに滅亡しているはずです。しかし神は全ての危険からわたしを救いあげてくれております。わたしの過去を振り返る時、神の恩恵がいかに深いものであったかしみじみ思います。そのような神でありますから、わたしの将来も必ずや深い恩恵で守って下さる事を確信します。わたしの希望はすべて神のこの深い恩恵にもとづいています。

信者より見た不信者

不信者より見るとき、信者とはなんと奇妙な人間と思うでしょう。しかしわれわれ信者から見ると、不信者はなんと奇妙な人間なのだろうかと思います。百年足らずの生涯であるのに、金、金とこれこそ万能の力と信じ、階位勲章が実質的な栄誉と喜び、聖書を浅薄な書物と嘲り、成功というのは、楽に面白く一生を送ることと信じる。こういう考えは、わたしにはあまりにも子供じみたことに思えてならないのです。

小学者と小商人

大学を卒業して少し知識を得たからといって宗教など必要ないと言い、商売にて少し金が出来たからといって宗教など必要ないと言います。みな小学者となり小商人となって、神より賢く、神より富めると信じます。「希望は青年にあり」と言われますが、わたしは今の青年達に失望ばかりしています。

キリストと人生

もし神も霊魂も来世も天の裁きもないのであれば、キリストを信じなくてもなんら不幸なことはありません。しかしもし誠にあるのであれば、キリストを信じないことは最大の不幸となるでしょう。科学と哲学、美術と文学いずれも人生の悲痛をことごとく癒す事は出来ません。キリストの十字架のみがよくその信頼に応える事が出来ると確信します。わたしは人生に一度はキリストを信じなければ、経過する事が出来ない時期があるように思います。

軟弱な信者に告ぐ

キリストの教えを研究しなさい、キリスト教について聞こうとしてはいけません。聖書を学びなさい、宗教文学を楽しもうとしてはいけません。神そのものを信じなさい、教会と牧師とにすぐ頼ろうとしてはいけません。自分の弱さを訴えることを止めなさい、もっと強くなりなさい、いつまでも教会の乳で養われる赤ん坊のこころを捨てなさい。聖書の堅い食べ物を自分の力でかみ砕き、神に信頼されるような人間になりなさい。

内外の自由

外面的自由を求めてはいけません、内面的自由を求めなさい。神は必ずしもその愛する子に外面的自由を与えません。しかしこころの中のきずなを解き、たとえ鎖につながれていても、歓喜に溢れて神を賛美する事が出来る心を与えます。

ほんとうの理想

キリストの教えは理想では有りません。理想が現実となってあらわれたものです。これがほんとうの理想です。「...なすべき」はキリストの教えでは有りません、「...なしうる」がキリストの教えです。キリストは道徳的最大なる事実です。よってわれわれは、キリストによりテコの原理で機関車を簡単に持ち上げることが出来るように、善をやすやすと行う事が出来るのです。

はじめにもどる


平和のもと

平和のために戦うと言う人がおります。田畑を潤(うるおす)ために火を燃やすようにわたしには思えるのです。火で田畑を潤すことが出来るのでしたら、戦いによって平和は来るでしょう。しかし西と東が離れているように、炭と氷とが相容れないように、平和は戦争からは来ないと思います。平和は平和から来るのです。人類の罪を自分ですべて負って、キリストは世界平和の基を築きました。世の中を平和にしょうと思う人は、すべてキリストに倣(なら)う必要が有るでしょう。

多読の害

多くの書物を読みすぎるのは、本をあまり読まない事に劣らず害が有ります。多読はえてして人を著者の奴隷にしかねません。多読の人に案外独立の思想が乏しいのです。ウォルズウォス、スペンサ−等、独創の天才たちは多く寡読の人と聞いています。人間は、消化出来るだけの食物を必要とするように、同化しうるだけの思想で十分なのです。多見多聞、必ずしも学者を作りません。われわれは自我の主権を侵されない範囲で他人の著書に目を通すべきです。

わたしの生涯の事業  

神の子イエスキリストは人をかれとともに神の子になそうと世に降られました。わたしもイエスキリストにより人間を神の子とするためにこの世で働こうと思います。信者を作るためでは有りません、同志を集めるためでも有りません。人間を神の子とするために働きます。わたしはわたしの短き、しかも貴重なこの生涯を、これ以外のことに費やす気持ちは有りません。

信仰と感情              

信仰は意志の事です、感情の事では有りません。わたしは道理に従い神はいますと信じ、またたとえ感じないときでも信じます。感情は日光のように、わたしを照らすときもあり、雲に遮られて照らさない時もあります。しかし照らそうが照らすまいが太陽の存在を信じて疑わないのです。善はわたしが感じなくとも善なのです。神はこれを感じる事が出来なくても神です。わたしはわたしの信仰を感情の上ではなく、道理の上に築いて、神に対するわたしの信仰はいささかも揺るぐ事は有りません。

神を信じて得たこと

キリストを信じても、なんら得たものがないように人には見えるでしょう。権力のある友人を得たわけでもなく、世の中で認められたわけでもなく、属すべき気に入った教会すら発見出来ません。しかしわたしは神の愛をいくらか知る事が出来きたり、万物の精気に触れることが出来たり、宇宙の中心を窺がう事も出来ました。キリストを信じることによってえたものは偉大です。わたしは思いもかけない多くのものを得た気持ちでいっぱいです。

キリストの神

異邦人は神は勢力と言い、ギリシャ人は神は智識と言い、ユダヤ人は神は聖と言います。そしてキリストは神は愛なりと言いました。神は勢力以上の存在です。神は智識以上の存在です。神は聖であって罪を憎むにとどまらず、愛であって恩恵を施すのです。愛は神の精気です、神御自身です。われらは神の愛に接して始めて神の何たるかを知るのです。

わたしの福音  

人がだれ一人信じなくても、わたしの福音は真理です。人がことごとくこれを破棄しても、わたしの福音は真理です。人がみんなしてこのために排斥しても、わたしの福音は真理です。わたしの福音は人の福音ではありません、神の福音です。ですからわたしは神にすがって、ひとり終わりの日までこれを保持しようと思います。

神の造りし世界

この世は神の造りたまいし世界です。悪人の思うままになると思ってはいけません。神には神の計画があります。その計画は完璧に実行されなければ止みません。わたしが悪人の成功を見て憤(いきどお)ったり怨(うら)んだりするのは、まだまだ神を信じる力がすくないからです。

完全なホ−ム(家庭)

完全なホ−ムを造るのは、完全な人を造るように難しいのです。格言に、「身、修まりて、しかして後、家、ととのう」とあります。ホ−ムというのは平安を求めるところではなくて、平安を与えるところなのです。ホ−ムというのは幸福の貯蔵所であって、幸福の採掘所ではないのです。幸福を求めて作ったホ−ムは、必ず破れるでしょう。幸福を与えようとして作ったホ−ムは、幸福なホ−ムとなります。ホ−ム、ホ−ム、マイホ−ム。多くの青年男女がその幻影にあざむかれて、失望することでしょう。

神と共に  

わたしに慈悲の心がないのは、神が心にいないからです。わたしが恐れるのは、神がわたしと共にいないからです。わたしが美を感じず、宇宙と人生を楽しむことが出来ないのは、わたしの心が閉ざされていて、神を見る事が出来ないからです。歓喜がなく、勇気がなく、常に重荷を負うように思うのは、わたしが神から離れて独りで歩くからです。

祈るとき

祈りをするときは、偽善者のように祈ってはいけません。偽善者は、人々に見てもらおうと、会堂や大通りの角のように目立つところで祈りたがる。それによって、かれらはすでに人に誉められています。ですから、神に誉められたければ、奥まった自分の部屋で戸を閉め、隠れたところにいます父なる神に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父なる神が報いて下さるのです。

批評家

批評される人にむしろなりなさい。批評する人になってはいけません。前者は何かを社会に提供したために批評されたのです。後者は何も提供することが出来ないので、他人の提供したものを批評するだけなのです。


わたしの祈ること

わたしが祈るものは、富か、権力か、知恵か、天才か、幸福か、安全か、または山を動かすほどの信仰か。そうではありません。人を愛する心、軽々しく怒らない心、ぶたれても赦す心、どこでも温良な香をはなつ心。そうゆう心を求めて、わたしは祈るのです。

テモテ第一書六の6〜9 

信心があり満足を知る事は、大きな利得です。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきました。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行きます。ただ衣食が有れば、それで満足すべきです。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなに陥る危険が有ります。また、人間を滅びと破壊に沈ませる無分別な恐ろしいさまざまな情欲に陥る危険が有ります。



破壊と言う事

釈迦はバラモン教の破壊者でした。キリストとパウロはユダヤ教の破壊者でした。ダンテとル−テルとはロ−マ.カトリック教会を破壊しました。破壊する事は、時と場所によっては決して悪い事ではなく、むしろ必要な事です。破壊を恐れるのは老人根性です。進歩を愛するなら、正当な破壊を歓迎すべきです。

真のキリスト信者(3)

キリストと同化した者。キリストの体の一部となった者。キリストの苦しみと喜びと、辱めと栄光と、死と復活とをキリストの中にあってキリストとともに父なる神から分け与えられた者。これが真のキリスト信者です。「信ずる」とはこの場合においては知識的に認める事でも、感情的に信頼することでも有りません。キリストを信ずるとは、キリストの神格の中に自分の人格を投入する事です。自分を無き者にして、自分に代わってキリストが自分の中に住むようにする事です。これが信じることの最高の境地であり、真の信者にはここまでになるよう要求されるのです。キリストは神であり、霊の宇宙です。信者がその霊界の一部分になる事によって、はじめてキリストの光が信者をとうして世に顕われるようになるのです。

宗教とは(1)  

宗教は個人的です。全般的では有りません。宗教は「われら」ではなく、「われ」です。複数でなく、単数です。第一人称の単数です。人類または人道の事ではなく、わたくし自身の事です。「わが神、わが神、何故にわれを棄てたまいしや。」これはイエス御自身の苦痛の言葉であり、ここからイエスの宗教は始まるのです。

宗教とは(2)

ああわれはなんと困苦(なやめる)ひとなるか、この死の体よりわれを救わん者は誰ぞや」とはパウロ自身の言葉であり、ここからパウロの宗教は始まるのです。神学者たちは、自分自身をかえりみず宗教の全般的真理を探ろうとするために、いつまでたっても真の宗教を見出せないのです。神は人の奥底の霊の、魂の叫びにおいてはじめて発見されるのです。

宗教とは(3)

自分を宗教の実験台に提供できない者は、説教者になることは出来ません。近代のキリスト教(他の宗教も)が無意味で、無能であるのは、個人的でなくまた一身的でなく、ただ全般的であり、社交的であったりするからです。地球上でもっとも無用と思うものは、世の中でいはゆる「専門宗教家」といわれる人々です。彼らは自分自身の真の宗教を持たず、よって真の宗教を知らず、それでいて宗教を語るからです。

詩編三十七の25

わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を乞食してあるくのを見た事は有りません。

イエス・キリスト 

キリストは法王、監督、牧師、宣教師、神学博士の類では有りません。キリストはかって頭に僧冠をいただいたこともなく、また身に僧衣を着けたこともありません。キリストは、今日世間が言うところのいわゆる宗教家では有りません。キリストは宗教によって金を得たことは有りません。キリストはナザレの一平民であり、父の仕事をついて大工となりました。キリストは直感的に神を知った者で、神学校や大学の哲学科などで宗教的知識を得た者では有りません。わたしがキリストを尊敬するのは、キリストが大平民であるからなのです。


式また式また式

人に見られようとするこの世の人は、式をもってしなければ何も出来ません。式でもって信者となり、式でもって信仰を続け、ついには式で墓に葬られる。式、式、式と。牧師と呼ばれる者は主として式を司る者で、式がなくなればいらなくなるのではないだろうか。式は外の事です、心には関係ありません。式は事を決めることも出来ず、心を潔めることも出来ません。人間の意志が事を決定し、神の霊が心を潔めるのです。

神の命令

神の命ずるのを待ちなさい。そうすれば何事か行われるでしょう。あなたの身を神に任せなさい、そうすれば力があなたに与えられるでしょう。あなたが全て神のものとなり、あなたの事業が神のものとなるのです。ですからあなたの計画というのはなくなります。そして、あなたには苛立ちや憂いなどいっさいなくなるのです。神は神ご自身が計画し活動しますので、わたしは全身を神にささげるだけよいのです。わたし自身で計画し、行いたいとすると神はわたしから離れておしまいになります。神にまかせることにより、わたしは偉大なことを成し遂げることが出来きます。もしわたしが他人に対して活動的に振る舞いたいと思うなら、神に対して完全に受動的にならなければなりません。

キリスト信者のたのみ

道徳家は自分の意志にたより苦痛をやわらげようとします。芸術家は芸術に没頭して苦痛を忘れようとします。キリストの信者は聖霊にたのみて苦痛に克とうとします。キリスト信者は道徳家ではないので、強い意志の力で自分に打ち克とうとはしません。また美術家ではないので、美わしい思想や技芸でもって自分を慰めようとはしません。自分をより高い、より強い聖霊にお任せして生きてゆこうと考えるのです。

必ず聴かれる祈り

自分の祈りが聴かれないと言う時には、神はもっと大切なことを聴いているのです。わたしが物質的なことを祈れば、神はもっとそれ以上に霊的なことまでを聴いているのです。この世でのことを祈れば、来世のことまで聴いて下さるのです。そこで神は、今わたしに一番大切だと思えることをなさるのです。常に感謝すべきです。

主は避けどころ

詩編九十一の4....主はその大きな羽でもって、あなたをおおわれる。あなたは雛どりのようにその翼のしたに避けどころをえるでしよう。主はあなたにとって大盾(おおだて)、また小盾(こだて)なのです。

奴隷よりの脱出

わたしたちは以前には、無分別で、不従順な、迷いある、さまざまな情欲と快楽との奴隷でした。悪意とねたみとで日を過し、人に憎まれ、互いに憎み合っていました。ところが、わたしたちの救い主である神の慈悲と博愛が現われ、わたしたちの義い行いによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生のきよめをうけ、聖霊により新たにされ、わたしたちは救われたのです。この聖霊は、イエス・キリストをとうして、わたしたちの上に豊かに注がれました。(テスト書三の3〜6)

この世について  

この世はまったく不完全だ、と言う人がいる。確かに、身の快楽を得ようとすると実に不完全だと思います。しかし、神を知るためには、そうして神の愛を完成させるためには完全な世の中と思います。忍耐力を付けるため、寛容の心を養うため、愛の極致を知るため、この世は最も完全な世とさえ思えます。わたしは遊技場としてこの世を見ることはしません。この世は、鍛練をするところと考えます。ですから不完全は望むところです、そのお陰によってわたしの霊性は完成をみるのです。

平安に来なさい

さあどうぞどうぞ来なさい、来てキリストの僕(しもべ)となりなさい。どうして世の中の罪悪をののしり憤死するようなことをするのですか。どうして社会の無常を怒って歯ぎしりするのですか。あなたは自分自身に憤(いきどお)っているのです。自分自身のこころに調和がないために、その不安を木や、岩や、世の中や、人に向かってぶつけているのです。さあこちらに来て、神の平安を味わいなさい。しかしいこの平安は、考えて思い付くようなものではないのです。もし心が変わりこの平安を受け入れるならば、木々はあなたを祝福するように感じ、人々もあなたの志(こころざし)を助けてくれるでしょう。


求めるものは

求めるものは成功ではなくて正義です。避けなければならないのは失敗ではなくて罪悪です。正しくしようと計画するなら、たとえ失敗してもいつかは成功するでしょう。功績をあげることを求めるのは、自分自身を汚辱の淵に沈めるような危険に常に身をさらすことになります。ですからもしなにかを計画するのであれば、正義を計画しなさい、成功を計画してはなりません。

神の有無

ある人は神は存在すると言い、またある人は神は存在しないと言います。存在すると言う証拠もないけれども存在しないと言う証拠もまたないのです。わたしは神は存在すると信じて行動し、存在するという実証を得るのです。神の存在は科学的にみれば仮説の一つです。しかしながら、もっとも実現性のある、またもっとも多くの事実を説明する事の出来る仮説と思います。
無教会

わたしは主イエスキリストにならって、教会を建てることはしません。教会は真理を制限するものと思います、ですから真理を多くの人に伝える事が難しくなります。わたしは真理そのものを伝えたいのです。真理を隔離し、保存し、形式化しょうとは思いません。わたしは単純な真理の伝道者で十分です。

遠大な事業

わたしは今生きている人のみを救おうとするものではありません。わたしの死後に生きる人をも救おうとするものです。わたしは日本人のみ救おうと思いません。全人類を救おうと思います。わたしの今の事業は小さいけれども夢は永久的で、宇宙的広がりを目指します。わたしは生きている今のみを目的として働いているのではありません。

伝道の真義

伝道は単に教えを説くことではありません。愛をもって自分自身を与えることです。自分を虚(むな)しくしなければ、山のような教義も、川ほどの言語も、無駄です。一人の人も救うことは出来ないでしょう。貧困、疲労、挫折、これが人を救う力となるのです。世の中は雄弁でもって良くすることは出来ないでしょう、また議論でもって変えることも出来ないと思います。ただ自分の生命を棄てる覚悟をもってはじめて、この世を理想の神の国へと、導くことが出来ると思います。

わたしの大野心  

聖なる父よ、わたしを伝道者にして下さい。神の福音を広めることをわたしの一生の仕事にして下さい。見せ掛けに人を救う小慈善家ではなく、根本的に人を助ける大慈善家にして下さい。人々のために、命を捧げるのは人々の国家のためでも、人々の社会のためでも、人々の肉体のためでもなく人々の霊魂のために捧げさせて下さい。父よ、あなたの福音でもって罪人をあなたの懐(ふところ)に召し還らせる仕事をさせて下さい。



ああ神の愛よ!!

「キリストはわれらのなお罪人たるとき、われらのために死にたまえり、神はこれによりてその愛をあらわし給う」(ロマ書5章8節)神の愛というのは実にこのようなものです。正しい人を救うのは神の愛ではありません。神を憎み、神に叛く者を救う道を設け給うのが神の愛です。天が地よりたかいように神の愛は人より偉大です。人はキリストに顕われた神の愛をしることが出来ないなら、愛がどういうものかを知ることは出来ません。神こそ愛そのものであり、愛こそ神そのものなのです。天空が地上の汚れた空気を吸収して消し去るように、われわれの罪を愛の無限の大気の中に吸収し、消し去るのは神の愛です。ああ、神の愛よ!

進みなさい

進みなさい、真っ直ぐ正面を見てどこまでも進みなさい。たとえ倒れることがあっても、退いてはいけません。明日は今日より完全になるよう努めなさい。来年は今年よりもさらに一層雄々しく、快活でありなさい。謙遜を忘れず、独立心を持ちなさい。宇宙はどんどん進化してゆきます、退くことは死を意味します。安全は退いては得られません、進むことによって達成されるのです。歓喜と満足は常に前にあります、後にはありません。臆病者に平和はありません、進みなさい、どこまでも進みなさい。

教会と信仰  

教会自体は信仰を作りません。信仰が教会を作るのです。教会自体を良くしょうと焦る者の教会は衰えます。信仰を説くのに夢中で教会のことを省みる暇のない者の教会は栄えます。これが真理であり、事実です。

無辺の愛

わたしの罪は非常に大きい、しかし神の愛はわたしの罪よりも計り知れないほど大きい。わたしの罪がいかに大きいといえど神はわたしを救って下さる。いかにわたしが逃れようとしても神の恩恵の手より逃れることは出来ません。たとえわたしが奈落の底に落ちたとしても、神はそこまで手を広げてわたしを支え、わたしを救って下さるのです。

戦争がなくなる時

戦争をとどめるのに、二つの道があります。進んで敵意を晴らす方法が一つです。もう一方は退いて自分自身を正すことです。神の方法は常に第二の方法です。しかしながら人間は常に罪を他人に帰して自分自身は義名のもとに死ぬことを望みます。そのために戦争があるのです。名誉心、傲慢心のために流血となります。人類が自分自身を反省することに敏感となり、他人を責めるのに鈍感となるなら戦争はまったく無くなるのではないでしょうか。

わたしの幸福の時


神は物を下さっても智識を下さらないことがあります。また物と智識は下さるけれども、信仰を賜わないことがあります。わたしの最も幸福の時は物と智識が欠乏して信仰に充ちあふれる時です。わたしは今、天上での栄光を眺めて希望と喜びに浸っています。ですから現在の境遇の暗夜をむしろ神の賜物として愛しているのです。


わたしの幸福の時


神は物を下さっても智識を下さらないことがあります。また物と智識は下さるけれども、信仰を賜わないことがあります。わたしの最も幸福の時は物と智識が欠乏して信仰に充ちあふれる時です。わたしは今、天上での栄光を眺めて希望と喜びに浸っています。ですから現在の境遇の暗夜をむしろ神の賜物として愛しているのです。

神の子の特徴  

キリストの神は肯定の神です。否定の神ではありません。建てる者であって破する者ではありません。奨励する者であって批難する者ではありません。すべて否定する者は悪魔です。冷笑する人、嘲罵する人、人の堕落を聞いて喜ぶ人これらの人はみな悪魔の霊によって働く人です。わたしたちは創造できる人間になるまでは神の子と称することは出来ません。

修養と祈祷

修養は神によらないで自分自身を高くしょうとする方法です。祈りは神によって直ちに潔めるられる方法です。修養は人の法により、祈りは神の途によります。わたしはプラトン、孔子、王陽明にならって聖人君子になろうとは思いません。わたしはパウロ、ル−テル、コロムウエルにならってクリスチャンになることを願います。

伝道の真意

伝道は道を伝えることではありません。自分自身を空しくして他の人を充たすことです。自分自身の霊魂を傾注して他の人の霊魂に注入することです。すなわち自分を殺して他の人を活かすことです。伝道というのは、単に言葉を伝えることではなくて、生命を交付することです。伝道が難しいのはこのためです。そして伝道の貴いのもこのためです。

忍耐の業=伝道

伝道は忍耐の業です、福音の種を蒔いてその生育をじっと待つことです、それ以外のことはありません。雄弁ではありません、交際ではありません、学識でもありません、忍耐です、忍耐をもって待つことです。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(ガラテヤ書六章9節)。全ての才能において欠けるところがないといっても、忍耐のない人は聖業に入ることは出来ないでしょう。

 真の信仰をみわける

社会学者は労働は賃金を得るための苦業だと言います。宗教家もそれに同調して、労働は心身が疲労するので、休養を多く取らなければならないと言います。しかしながら、キリストは労働は手で神の真理を実得することで、直ちに神の宇宙と接することで、神とともに働くもっとも気高い快楽だとおっしゃりました。人の信仰はその人の労働に対する考え方によって判断できます。労働を忌み、卑しみ、避ける人は不信仰の人です。労働を好み、尊み、楽しむ人こそ真の信者です。わたしの半生の実験により確信します。

天国の宗教

キリスト教は西洋の宗教でも東洋の宗教でもありません。キリスト教はこの世の宗教ではなく、天国の宗教です。キリストの教えを正しく理解出来ないのはギリシャ哲学でもって、あるいはドイツ哲学でもって、あるいはインド哲学でもって理解しようとするからです。キリストの教えはこの世の哲学でもって理解することは出来ないでしょう。「イエスいいけるは、人もし新たに生まれざれば神の国を見ることあたわず」と。新生の恩恵にあずからなければ、東洋の儒者も西洋の哲学者もキリストの教えを真に理解することは出来ないでしょう。

外を見なさい  

外を見なさい、内を省みてはいけません。一日三回神を仰ぎ見て自分を省みてはいけません。健康は蒼い空にあり、清い空気にあり、広やかな神の恩恵にあります。狭い室内に臭気がこもっています。狭い心の中には善いものは何もないでしょう。清風を入れて臭気を払いなさい。聖霊により邪欲を斥(しりぞ)けなさい、さあ戸を開いて外気を入れなさい。室内に縮こまっていないで、神の正義を胸いっぱい吸い込んで聖い宇宙人となりなさい。


救済

人を救うというのはかれに衣食を提供する意味ではありません。かれの欲望を充たして一時の快楽を与える意味でもありません。人を救うといううのはかれを天なる父に導くことです。天なる父がわたしの祈祷をすべて受け入れてくださることを知って、わたしのすべての希望は充たされました。わたしにわが天なる父を示す人、この人こそわたしの師であり、わたしの恩人です。


謙遜と意気地なし

謙遜でありなさい、柔和でありなさい、しかしながら意気地なしであってはなりません。謙遜は勇気です、しかしながら意気地なしは卑怯です。ふたりは外見は似ていますが内容はまったく異質な人間です。世の中でキリスト教的謙遜と言われるものの中に、卑怯の結果の意気地なしが多いいのです。有り余る力を持つがゆえの謙遜でなければなりません。世の中の圧迫を恐れて、萎縮しているような謙遜にはゆめゆめなってはなりません。

永生

永生とはただ神とともにあることです、その他のことではありません。天国というのは神のおいでになるところです、その他のところではありません。神の霊がこころに宿り、神のつくり給いし宇宙に生きているということは、すでに永生をうけていることであり神の天国にいるということなのです。


わたしの祈願

わたしに財貨を賜わなくても結構です。わたしは地位も名誉も求めません。ただインスピレ−ションを降して下さい。宇宙と万物に神を認め、この世にて死後の永久不滅の栄光を感じさせるインスピレ−ションを降して下さい。

平安を得る道

吾は平安を得る道を知れり。されども道を知るは必ずしも道に入るにあらず。キリストにおける信仰は吾を罪より救うものなり。されども信仰自体もまた神のたまものなり。吾は信じて救われるのみならず、また神に信ぜしめられて救わるる者なり。ここにおいて吾自身は全く吾自身を救う力なき者なるを悟れり。吾は吾の信仰をも神より求むるのみ。だからキリスト信者は絶え間なく祈るべきなり。彼なお不完全なれば祈るべきなり。彼なお信足らざれば祈るべきなり。彼よく祈りあたわざれば祈りあたわざれば祈るべきなり。恵まれるるも祈るべし。天の高きに上げらるるも、陰府(よみ)の低きに下げらるるも、われは祈らん。力なきわれ、わが出来ることは祈ることのみ。
キリストを招く方法

キリストは聖霊です。聖霊はキリストです。ですから聖霊を受けるということはキリストを迎えることです。わたしたちは聖霊を受けようと欲して雲をつかもうと欲するのではありません。わたしたちはある確実な目的を達せようとしているのです。わたしたちはキリストをわたしたちの心に請(しょう)ぜんとするのです。これには適当の方法があります。準備はへりくだることです。絶えず祈ることです。この準備をなし、この方法をつくせば、キリストの入来は確実でなのです。

狭い門(マタイ伝七の13,14)

狭い門から入りなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです。そして、そこからはいって行く者が実に多いのです。命に至る門は狭く、その道は細いのです。そして、それを見出す者がはなはだ少ないのです。

天国の法律  

聖書の道徳は天国の法律です。ですから天国に対する希望がない人には守ることが出来ないと思います。天国の住む希望を与えないで道徳だけ行わせるのは、強制的に無理難題をさせるのと同じことです。たとえば貧乏の人に金持ちの人に対する税金を払うように求めるのと同じことです。しかし、こんのような明らかに無理なことを求める宗教家が少なくないのです。

信仰の試験石

衣食を得るために働く、これは罪悪の世に住む人がすることです。天の定めた労働を求め、衣食は労働に伴うものと知り感謝する人。この人こそキリストによって霊魂を救われた人です。衣食は目的ではありません、また、方法でもありません。衣食は天職の遂行に伴って当然付いてくるものです。その人の信仰と人生観は、その人が衣食の問題をどのように考えるかによって分かります。

戦闘が止む時

勝つこと必ずしも勝つことになりません、負けること必ずしも負けることになりません。愛することこれこそ勝つことであり、憎むことこれこそ負けることなのです。愛をもって勝つことのみ永遠の勝利です。愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、永久に忍ぶことです。そして永久に勝つことであり、これ以外永久に勝つと言うことはありません。世の中で戦闘が止む時は愛が勝利を占めたときだけです。

罪の発見

罪を犯すことに関して、信者も不信者も異なるところはありません。しかし罪を発見してこれを改める点において二者は天地の差があります。不信者は罪を犯してもこれを発見することが出来きず、改めることも出来ません。これに反して信者は罪に陥ってもキリストによってこれを発見し、これを憎み、これを悔い、ついにはこれを自分自身より切り離すことが出来ます。キリスト信者の幸福のひとつは罪を犯しても罪のまま死なないことです。

歓喜の由来

真の歓喜は勝っても負けても来ません。歓喜は神が遣わし給いし独り子キリストを信じることによって来ます。キリストの福音は戦時に必要であり、また平和な時も必要です。世の中から死と涙がなくならない限り必要がなくなることはないでしょう。ですから「御言葉をのべ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、いましめ、励ましなさい。忍耐強く、十分教えるのです。」(テモテ後書四章2節)。

驚くべき平凡の理

悪人の成功はかえって彼を滅亡に導き、善人の失敗はかえって彼を救済に導きます。これは平凡の理であって、いまさら繰り返す必要がないと言う人がいると思いますが、しかし歳を重ねるごとにこの理が着々とわたしの生涯に事実として顕われ来るのを見て実に感謝に堪えません。成功とは何でしょうか、これは善心を懐くことです。失敗とは何でしょうか、これは悪意を蓄えながら、計策をもってわずかに表面の美を飾り、眼を人生の大局に注がないで局部においてのみ、暫時的な小勝利をおさめようとすることです。正義こそ最終的な勝利者です。驚くべきことです。感謝すべきことです。

孤立の種類

孤立に二種類があります。人を離れてひとり立つ孤立、これがひとつです。人を離れて神とともに立つ孤立、これがその二つです。人を離れる点において二者は同じです。しかしながら神とともにあるのとないのではまったく根底から異なります。ひとり立つ孤立は傲慢の孤立です。神とともに立つ孤立は謙虚の孤立です。前者は俗人、不平家、絶望家の孤立です、後者は神に恵まれたキリスト信者の孤立です。

天国に入る道

天国とはどのような人が入るべきところでしょうか...。ある人が使徒パウロのところに来て聞きました「救われるためには何をすべきでしょうか」と。その時パウロは何と答えたのでしょうか。彼は慈善家になりなさいとは言いませんでした。または青年会の幹事となって走り回りなさいとも言いませんでした。パウロはこう言いました、「主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われるでしょう」と。ですから救われて天国に入るには、この道があるだけです。その他の道はすべて虚偽の道なのです。

ペンと剣

戦いに勝って勝つのではありません。真理に従って勝つのです。戦いに負けて負けるのではありません。真理にそむいて負けるのです。真理を究(きわ)めるのは、剣をみがくよりも大切です。真理は永久に勝つための武器であって、剣はわずかいっときの利を制するための機械に過ぎません。わたしは最後の勝利を得るために、剣をもってするよりも、むしろペンをもって戦おうと思います。

人間の価値(ねうち)


人間の価値は今現在のその人の価値です。かれの過去の価値ではありません。その人が過去において善人であったとしても、今現在悪人であるならば悪人です。それと同じように、その人が過去において悪人であったとしても、今現在善人であるならば善人です。永遠の現在である神を信ずるわたしたちは人の過去を尋ねて現在の価値を定めません。人間の価値はその人の現在の価値です。わたしたちはその人の過去によってその人の価値を定めません。

迷信と信仰  

道徳に関係のないもの、または道徳に違反するもの...これは迷信です。道徳と常に離れないもの、または道徳を助けるもの...これは信仰です。利益を祈ること...これは迷信です。正義を一心に求めること...これは信仰です。迷信か信仰か...は知識ではなくて道徳が基準となります。

キリストとパウロ


キリストはわたしたちの主です、パウロはわたしたちの友でしょう。わたしたちはキリストに服従しなければなりません、パウロにたいしてはその意見に賛成します。キリストはわたしたちが崇めるものです、パウロについてはわたしたちの愛するものです。わたしたちはキリストのなかに完全無欠の神を見ます。パウロのなかには、わたしたちと同様な弱さに苦しむ肉体をもった兄弟を認めます。パウロがいかに素晴らしくても師と仰ぐのはどうでしょうか。われわれの師は、イエス・キリストお一人なのです。

わたしの社会改良法

人は直ちに社会を改良しようとします、わたしは人間を改良して社会を改良しようと思うのです。人は直ちに人間を改良しようとします。しかし、わたしはキリストを通おして人間を改良しようと思うのです。わたしの社会改造法は大変遠回りのように思われますが、過去二千年間の人類の歴史を振り返って、わたしの方法は最も確実なまた迅速な改良法であることを知ります。

扇動と救い

会は扇動によって改まるものではありません。扇動は塵を飛ばし、泥を揚げるだけです。扇動の効果は汚濁の存在を明らかに示すことにあります、その他の効果はありません。社会は人が愛する心を持つようになれば改まります。人の罪を赦し、その罪をわが身に担うことによって潔まります。贖罪は社会改良の唯一の方法です。これによってキリストはわたしを潔め給いし、わたしもこれによって社会を潔めたいと思います。

伝道について

イエスキリストを紹介すること、これが伝道です。これ以外の意味はありません。イエスキリストの人格を紹介することです、イエスキリストの事業を紹介することです、人にイエスキリストのすべての面を知ってもらうことです。福音宣伝と言うのは単に道を伝えると言うような漠然としたことではありません。もちろん、キリスト教勢力拡張というような政治家じみたことでもありません。イエスキリストという明確な人格を明確に紹介することです。わたしは伝道に従事すると言って、ただ漠然と空を打つようなことに従事するのではないのです。


わたしの同志

わたしの同志は、わたしのもとに来てわたしと一緒に働く人のことではありません。わたしの同志は、わたしと同じように神に頼って働く人のことです。政府にも、教会にも、いかなる人にも頼らない人のことです。真に独立の人だけが互いに敬い、互いに愛します。真の聖徒の交際は独立人の交際です。われわれは互いに固く結ばれようと思うのであれば、互いに頼るのを止めて、各人が神のみに頼って独立すべきなのです。

愛の奇跡

神は愛です。愛なるがゆえに神は奇跡を行い給う、愛なるがゆえにこの驚くべき宇宙を造り給えり、愛なるがゆえに神は死者を生き返えらせ給うたのです。愛は全能です、出来ないことはありません。神を愛と理解すれば、神について信じがたいことは一つも無くなります。愛は超自然的力があります。聖書が愛である神についての記事と知れば、聖書とはなんとわかりやすい書物なのだろうと思うでしょう。

聖職と職業  

使徒パウロの職業は使徒ではなくて、タルソの天幕職工でした。天幕職工だったためにキリストの善き使徒になることが出来ました。救い主イエスキリストは自分で救い主とは言いませんでした。イエスはヨセフの子であり、父の職業を継いで木匠(たくみ)でした。そうして木匠(たくみ)であったために人類の完全なる救い主であったのです。聖職は職業として従事するようなものではありません。まずは普通の労働者でなければ善い伝道者であることは出来ないのです。


 依頼と嫉妬心

依頼する人はお互いに嫉妬しあいます。これは必然的な自然の理なのです。宗教家に嫉妬心が強いのは依頼心が強いことによります。宗教家がことごとく独立心が強くなるならば、お互いに助けあうようになるでしょう。また寛容で高気な模範を世の中に示すようになるでしょう。依頼心は嫉妬心を醸(かも)し出してキリストの教会を破壊します。教会が恐れなくてはならないのは、異端者ではなくて依頼心の強い者です。そうであるのに、異端者を恐れる人が多く依頼者を恐れる者が少ないのです。たいへん奇妙なことと思います。

教会と天国

教会は現世の天国ではありません。また天国は来世の教会ではありません。天国は教会の中にもありまた外にもあります。教会が失われても天国は失われません。そうです、多くの場合において教会が失われて後はじめて天国が現れるのです。わたしたちは必ず天国の市民にならなければなりません。しかしながら必ずしも教会の会員になる必要はないのです。神の天国は広いのです、わたしたちは天国に入ろうとして必ずしも教会に入る必要はないのです。

信仰と愛国

信仰は神のために自分を捨て去ることです、愛国は国のために自分を捨て去ることです。自分を捨て去ることにおいて信仰も愛国も同じです。わたしはいままで神を信じる人で国を愛さない人を見たことがありません。また同様に真に国を愛する人で神を信じない人も見たことがありません。

 快楽の生涯

ものを得る快楽はもちろんのこと、善行のためにものを失う快楽もあります。生まれる快楽があり、信念を貫いて死ぬ快楽もあります。愛される快楽、神を信じて憎まれる快楽があります。そして快楽の性質からして、失う快楽は得る快楽より高く、死ぬ快楽は生まれる快楽より清く、憎まれる快楽は愛される快楽より深いことを知ります。神を信じさえすれば、いかなる境遇となるとも常に快楽はあるのです。そして悲痛の快楽が快楽の快楽より数倍優れていることを知るのです。

不信者の実力



たとえいかなる人と言えども、キリストを信じない人の実力をわたしは恐れません。その哲学たるや総合的哲学であり、独創的な意見を世に発表するものではありません。その政治力たるや勢力の拡大のみにとどまり、人民の幸福を増すものではありません。その科学たるや新事実の発見にとどまり、慈愛的応用に至っていません。その美術たるや名誉を博そうとするだけで真の美の発揚に努めていません。その文学たるや、優麗なことにきゅうきゅうとしているだけで、真理を伝えようとしていません。その実業たるや財貨の増殖のみに注目して幸福の普及を考えていません。その慈善すらわずかに名前を後世に残そうとするだけで、深い愛の泉より湧きだすような善行ではありません。かれらの学問たるや深いようでいて浅く、かれらの力は強いように見えて弱いのです。わたしはかれらがいかに高名であっても、そのことだけでかれらを恐れたりはしません。

イエスキリストについての表白

わたしはイエスキリストを表白するときは大胆になります。イエスキリストを世の聖人君子と混同しません。わたしはキリストを孔子、孟子、老子、釈迦、ソクラテスと階級を同じくして論じません。わたしはキリストを人類の王と考えます。わたしはイエスキリストに全身を捧げ謙虚なる僕(しもべ)となることを最高の名誉と考えます。

キリスト者の心  

わたしは仏教信者ではありませんが仏教を援助するのを拒みません。わたしは教会信者ではありませんが教会を援助するのを拒みません。わたしはクリスチャンですので、すべての人をすべての場合に援助することを好みます。わたしのこの心が分からない人は、キリストの心を分からない人であると思います。わたしが仏教者でないため仏教に反対すると言う人、わたしが無教会主義者であると言う理由で教会に反対すべき者と思うのは、いまだキリスト者とはどんな者か知らない人たちです。


真理の贋売(にせう)り

真理というのは語るためにあるのではなく、信じて行うためにあるのです。記者や説教師の犯しやすい危険は、語るための真理を求めて、信じるために探ろうとしないところにあります。真理はひとたびこころにしみ、手より行動に出るのでなければ、いかに語ってもなんの益もありません。世の中には、純粋の真理を提供すると言って、脳にうけたものを直ぐに口からあるいはペンにて外に出すものがいますが、それは真理の贋売りです。真理を探究する場所は書斎ではなく、汗と涙とが流れる実際の生活の場なのです。

興亡の因果関係

経済の背後に政治があり、政治の背後に社会があり、社会の背後に道徳があり、道徳の背後に宗教があるのです。宗教が始めで経済が終わりです。ですから宗教の結果は経済まで波及して顕われます。世の中の興隆もそのとうりです、敗滅もまたそのとうりです。ですからわたしは結果から原因を推察することも、または源からその行く末を卜(うらな)うことも可能です。

所有とは

吾が事業、吾が品性などと言ってはなりません。ことごとく神に献じなさい、自分自身のものは何一つないようにしなさい。すべて神のものとすれば、神はわたし自身となり、自然と神のお導きにより神の所有する万物をもつに到るでありましょう。

懐疑のあるところ

農夫、木こり、職工、正直な商人などに懐疑はありません。懐疑は学生、僧侶、文人などの中にあります。すなわち手をもって直(じか)に自然のものに接することなく、多くは室内にいて、宇宙と人生に関してあれこれ沈思黙考する人に多いのです。懐疑は思想のいわば過食による脳髄の不消化症です。ですからこれを治療する方法は、疑問を解決することではありません。なにもせずただ座るだけで食にありつき、沈思黙考する憐れな人々に手を使って働く仕事を与えることです。わたしは机に寄りかかり宗教問題について煩悶する懐疑者にたいしていささかも同情しません。



不信者の実力

たとえいかなる人と言えども、キリストを信じない人の実力をわたしは恐れません。その哲学たるや総合的哲学であり、独創的な意見を世に発表するものではありません。その政治力たるや勢力の拡大のみにとどまり、人民の幸福を増すものではありません。その科学たるや新事実の発見にとどまり、慈愛的応用に至っていません。その美術たるや名誉を博そうとするだけで真の美の発揚に努めていません。その文学たるや、優麗なことにきゅうきゅうとしているだけで、真理を伝えようとしていません。その実業たるや財貨の増殖のみに注目して幸福の普及を考えていません。その慈善すらわずかに名前を後世に残そうとするだけで、深い愛の泉より湧きだすような善行ではありません。かれらの学問たるや深いようでいて浅く、かれらの力は強いように見えて弱いのです。わたしはかれらがいかに高名であっても、そのことだけでかれらを恐れたりはしません。

イエスキリストについての表白

わたしはイエスキリストを表白するときは大胆になります。イエスキリストを世の聖人君子と混同しません。わたしはキリストを孔子、孟子、老子、釈迦、ソクラテスと階級を同じくして論じません。わたしはキリストを人類の王と考えます。わたしはイエスキリストに全身を捧げ謙虚なる僕(しもべ)となることを最高の名誉と考えます。

キリスト者の心  

わたしは仏教信者ではありませんが仏教を援助するのを拒みません。わたしは教会信者ではありませんが教会を援助するのを拒みません。わたしはクリスチャンですので、すべての人をすべての場合に援助することを好みます。わたしのこの心が分からない人は、キリストの心を分からない人であると思います。わたしが仏教者でないため仏教に反対すると言う人、わたしが無教会主義者であると言う理由で教会に反対すべき者と思うのは、いまだキリスト者とはどんな者か知らない人たちです。

真理の贋売(にせう)り

真理というのは語るためにあるのではなく、信じて行うためにあるのです。記者や説教師の犯しやすい危険は、語るための真理を求めて、信じるために探ろうとしないところにあります。真理はひとたびこころにしみ、手より行動に出るのでなければ、いかに語ってもなんの益もありません。世の中には、純粋の真理を提供すると言って、脳にうけたものを直ぐに口からあるいはペンにて外に出すものがいますが、それは真理の贋売りです。真理を探究する場所は書斎ではなく、汗と涙とが流れる実際の生活の場なのです。



興亡の因果関係

経済の背後に政治があり、政治の背後に社会があり、社会の背後に道徳があり、道徳の背後に宗教があるのです。宗教が始めで経済が終わりです。ですから宗教の結果は経済まで波及して顕われます。世の中の興隆もそのとうりです、敗滅もまたそのとうりです。ですからわたしは結果から原因を推察することも、または源からその行く末を卜(うらな)うことも可能です。

所有とは

吾が事業、吾が品性などと言ってはなりません。ことごとく神に献じなさい、自分自身のものは何一つないようにしなさい。すべて神のものとすれば、神はわたし自身となり、自然と神のお導きにより神の所有する万物をもつに到るでありましょう。

懐疑のあるところ

農夫、木こり、職工、正直な商人などに懐疑はありません。懐疑は学生、僧侶、文人などの中にあります。すなわち手をもって直(じか)に自然のものに接することなく、多くは室内にいて、宇宙と人生に関してあれこれ沈思黙考する人に多いのです。懐疑は思想のいわば過食による脳髄の不消化症です。ですからこれを治療する方法は、疑問を解決することではありません。なにもせずただ座るだけで食にありつき、沈思黙考する憐れな人々に手を使って働く仕事を与えることです。わたしは机に寄りかかり宗教問題について煩悶する懐疑者にたいしていささかも同情しません。

わたしを奨励する声


わたしが福音伝道するのにたいし祝福する人は誰もおりません。わたしの肉親も、親友も、社会はもちろん、国も教会も、わたしの孤独な伝道に対してだれも祝福するものはおりません。反対しないものも冷淡なのです。しかし何者かわたしの心の奥底にあってわたしの事業を支持するように思います。その声は「なんじは永遠の存在者とともに立っています、世の中がことごとく失なわれてもなんじの事業は滅びないであろう、ただ心を強くして勇み励みなさい」と。

勇進

悪に染まらぬようにと悪人から遠ざかるのはよいことです、しかし善でもって悪を拭わんとして悪人に近づくことはさらによいことです。わたしにキリストの愛がないのであれば、わたしはただ自分の潔白が穢れないように努めるだけです。しかしわたしはキリストとともにあるのですから、わたしは弱者でなくて強者です。ですからわたしは進んで悪人と交わり、この命を腐蝕の中に投げ入れようと思います、希望でもって失望の闇夜を駆逐しようと思います。

永生とは
永生とは後に来るものではありません。いますでに有るものです。永生は神の生命でありますので時に関係ありません。以前にもあり、今もあり、そして未来永劫にあるものです。いま永生を持たないものはこれからも持つことはないでしょう。わたしが来世を唱えるのは、キリストに顕われた神の生命の不死無窮を信じるためです。わたしは人に不確かな来世を説いて善行を勧めようとは思いません。わたしは確定された永生を伝えて、いまより不朽の人になるよう努めます。永生の獲得は現世においてなさなければなりません。来世においてはなすことが出来ないのです。

改革法

わたしは政治を改めることが出来ません、ですからイエスキリストの福音を説くのです。わたしは社会を改革することが出来ません、ですからイエスキリストの福音を説くのです。そのようにしてわたしの説く福音はついには社会と国家とを根本より改めるのです。わたしは新社会の地盤のもっとも下の石を据えようと努めるものです。

愛の行為

愛情をもってするのでなければ何事もしてはいけません。愛情をもってするのでなければ怒ってはいけません。愛情をもって金品の施しを拒むのでなければ施しをこばんではいけません。愛情は勇気の基です。人の善を念じて後、初めてその人に対し大胆に色々することが出来るのです。

無益の文学

第一に貴いものは精神です。そのつぎに貴いものは知識です。わたしたち執筆の仕事に従事する者は、もし精神を伝えないのであれば知識を供すべきです。ですから精神を伝えられず知識をも供しえないで、ただいたずらに人物評または世間話に筆を弄するごときは無益の文学です。このような文学は印刷する紙の値打さえありません。

信者の死

キリストの信者は自身で劃然と自分の死期を定めることは出来ません。天職をまっとう出来るであろうか。天国に入る準備は完成したであろうか...自身で確定することは出来ません。しかしながら信者は神が愛なりと信じます。神が死すべき時に死なしめ給うことを信じます。すなわち恵みの手のうちに導かれ、死ぬべき時でなければ死なないと信じます。彼が死ぬ時は、死すべき時なのだと信じます。神のみを頼りとするかれは、万事を神に任せ給うのです。人生の最大出来事である死に関しては、言うまでもありません。神は彼の生涯を通して誤りなく指導して下さいます、かれの生涯の最大の事件である死の時期をえらぶことにおきまして、決して誤り給わないのです

 
神についての知識

人が神を知ろうと欲して神を知ることは出来ません。しかし神ご自身が自分を人に示すことを欲することがあります。人は神がご自身を人に示され給うだけしか神を知ることは出来ないのです。それ以上は出来ません。神に関する人の知識は神がご自分をあらわした以上に達することは出来ません。神の不可思議を解明しようとしてもそれは出来ないのです。

理性の真価

わたしは理性を貴ぶ人間です。しかし、理性でもってイエスは主なりと信ずることは出来ません、理性でもって聖書は神の言葉であると信ずることは出来ません、理性でもって罪の贖(あがな)いを信ずることは出来ません、わたしは理性でもってキリストの再顕と肉体の復活を信じることは出来ないのです。理性はわたしに最も求める最も善いことを伝えることが出来きず、わたしはこれを聖霊の直示に待たなければならないのです。理性は貴いものです。しかしわたしは、神より理性以上の恩賜にあずからなくては歓喜の人にも、満足の人にも、霊明の人にもなることは出来ないのです。
強健なる宗教

 宗教は個人的でなくてはなりません、個人的でない宗教は基礎のない、根底のない宗教です。それと同時に、宗教は社会的でなくてはなりません、社会的でない宗教は私人的宗教におちいりやすいのです。根底を深い個人性に据え、幹と枝でもって広く社会の生気に触れるものは、渇くとも枯れず、揺すっても倒れない強健なる宗教です。

死せる宗教

神にたいしてはあくまでも受動的でありなさい。人にたいしてはあくまでも活動的でありなさい。あなたの宗教をもって単にあなたの身を修める要具とのみしてはいけません。宗教は社会的勢力でなくてはなりません、国家的生命にならなければなりません。自分自身より徐々に広がって他の人々に及ばない宗教は死んだ宗教と言わなければなりません


伝道の精神

わたしは、必ずしもわが国の人に聴いてもらうために神の正義を唱えるのではありません。また必ずしもわが国の人を救うために神の正義の宣伝に従事しているのではありません。わたしは神が正義であるがゆえにこれを唱えるのです。神がわたしに対し神の正義の宣伝をお命じになったゆえに従事しているのです。それによって神の正義が現在の昏迷する社会を殺すに至るか、あるいは活かすのかについて、わたしにはいっさいあずかり知らないことなのです。


国家的宗教

キリスト教は政治について語りません、しかしながら世界の偉大なる国家はこの教えの上に建設されました。キリスト教は美術について説きません、しかしながら世界の荘厳なる絵画と彫刻は多くその中から出ました。キリスト教は哲学を講じません。しかしながら真理の探究を促すものでキリスト教にまさるものはありません。名をもってせず実をもって推しはかるならば、世の中にキリスト教より優れた国家宗教はなく、またキリスト教より優れた美術と科学との奨励者はありません。

真理の実力

「なんじのパンを水の上に投げよ、多くの日ののちになんじふたたびこれを得ん」(伝道の書十一章一節)。あなたの真実を社会の中に投げなさい、年月を経てあなたはその偉大な結果を見ることが出来るでしょう。真理の種はこれを蒔いた者がたとえ弱々しい者であったとしても真理の種本来の精気を失うようなことはないのです。天より雨が降り、雪が降りますが、そのままの形で天に帰るようなことはしません。大地を潤し生物を生じさせ、芽をださせ、蒔くものに種を与え、食べるものには食糧を与えるのです。「わが口より出づる言葉は空しく吾に帰らず、わが喜ぶことを成し、わが命じ遺(おく)りしことを果たさん」と主は言い給う。(イザヤ書五十五章10、11節)


二種類の道徳

「日に三たびわが身を省みなさい」これは儒教的道徳です。これはつねに後ろ向きで、保守的で、萎縮した自己抑制的内省を主な教義としております。「なんじらわれ(神)を仰ぎ見よ、さらば救われん」これはキリスト教的道徳です。それはつねに進歩的であり、革命的であり、膨張的で信頼仰望をその中心的教理としています。パウロは言います、「善なる者はわたしの内にはいないことを知ります。わたしは自分を省みてもただただ慙愧(ざんき)があるばかりです、失望があるばかりです。新希望と新決断とは内省回顧からは生まれないことを知りました」と。

秋を迎える

秋よ来てください、あなたの燈火と新しい書物を持って...。他の人たちが活動する時に、わたしはあなたとともに静かに考えにふけりたいと思うのです。わたしはあなたの清い青空でこころを洗おうと思うのです。あなたの涼しげな風でわたしの脳を休めようと思うのです。夏はわたしにとっては労働の時期でもありました。来て下さい、わたしの友である秋よ。来て下さい、そして、がらんとなったわたしのこころを充たしてください。


信仰の性質  

信仰は、まず主観的なものです、そのあと客観的になるのです。その逆ではありません。信仰とは自分自身のこころの中から起こるのです、外から起こるのではありません。神の霊によって起こるのであって、人の証明によって起こるのではありません。わたしは聖書が肉体の復活を言うからと言ってこれを信ずるのではありません。わたしの内部に肉体を復活させるだけの強力なる力を確認することが出来るためにこのことに関する聖書の記載を信じるのです。主観的なのは信仰の特性です。主観的で、客観性がないと言う理由でわたしの信仰を排除する人は信仰そのものを排除する人なのです。

秋の夜長、読書を楽しむ

山の静かなのはよいものです、しかしながら真理の静かなのにはとうてい及びません。海の広いのはよいものです、しかしながら真理の広やかにはとうてい及びません。秋のさわやかな風が肌にこころよく吹き、明かりの下で古(いにしえ)の偉大な書物を読んでいると、わたしのこころは山の中の湖畔をさまよう時よりも静かです、また大海を望むときより広やかなのです。

幸福に入る道

さらに大きな犠牲をなしてさらに大きな幸福に入ろうと思います。幸福は物を得ることによっては来ません、物を捨てることによって来るのです。わたしたちはわたしたちの所有する最も大きい物を捨て最も大きな幸福を得ることが出来ます。


幸福な家庭

夫と妻と一人の子供。秋の夕べの静かなとき、三人燈火を囲んで座り、頭を下げて神に祈る、これこそ幸福な家庭の姿です。その時主は彼らの中に顕われて言い給う、「二三人、わたしの名によって集まれるところには必ずその中にわたしもおるであろう」と。これ以上の神聖なことはないのです、この幸福があるのであれば王侯の宮殿などすこしも羨む必要はありません。

救い主キリスト

キリストは、今のいわゆる神学者になれましたがなりませんでした。キリストは、今のいわゆる牧師になれましたがなりませんでした。キリストは自ら択(えら)んで救い主となりました、すなわち自分を捨てて他人を救う者となりました、道を説く者とならず生命を与える者となりました、真理を研究する者とはならず真理そのものとなりました。わたしもキリストに倣(なら)って神学者や牧師にならず、名もない小さな存在ではありますが救者(すくいて)となって、自分を捨てて他人を活かそうと思います。


十字架の教え

キリストの教えは十字架の教えだと言います。そのとうりです。しかしながら単に十字架を仰ぐ教えではありません、また単に十字架を唱える教えでもありません、自分の身に十字架を背負う教えです。そうです自分の身に十字架を背負わされる教えです。キリストがそうであったように、キリストを信じる結果としてこの世の人たちまたこの世の教会に非難され唾されることのある教えです。この十字架を背負う覚悟がなくてキリストの教えはありません。十字架を背負わないキリスト教は偽りのキリスト教です。今日の「キリスト教」と称するものの中に真のキリスト教は少ないのです。

キリスト教の特長

キリスト教は善い軍人は作らないでしょう、しかしながらキリスト教は善良な農民と職工とを作ります。キリスト教は善い宮廷は作らないでしょう、しかしながらキリスト教は善い家庭を作ります。キリスト教は外側を飾るのには善くないでしょう、しかしながらキリスト教は内側を固めるためには善いのです。キリスト教は平和の宗教です、隣人を愛し、家族と親しみ、静かに人生を楽しむことの出来る宗教です。

神の論証  

神のことばは言葉ではなく事実です。神の議論も事実をもって論じます、かみの証明も事実をもって証明します。神は声を出して語られるのではなく、黙って事実をもって語られるのです。戦争の非なるを論じられるのに戦争の悲惨な結果をもって示されるのです。論ずるのを止めましょう、ただ見ましょう、見て覚りましょう。そして改めましょう。神は耳より、眼より、鼻より、口より、そうです上より、下より、地の四方より事実をもって私たちに迫り給うのです。

聖書の自証

聖書は神の書です、神によって書かれた書物であるばかりでなく、神ご自身が使用される書物なのです。わたしたちは好むからと言って聖書を正確に解釈することは難しいのです。神ご自身が、聖書の正しい解釈をとうして、わたしたちの霊に語りかけてくださるのです。神学者の機智で簡単に解釈出来るような書物は神の書物とは言えません。聖書は神によってのみ満足に解釈されること出来のであり、そのことによって初めて聖書であることが証明されるのです。

真面目な偽善者

偽善者に不真面目と真面目とがあります。前者は偽善と知りながらこれを行う者です、後者は真理と思ってこれを行う者です。後者はある意味では前者より愛すべき者でありましょう。しかしながらその危険性から言えば後者は前者よりはるかに大きいのです。不真面目な偽善者はまだやり直す機会があります、しかしながら真面目な偽善者には悔い改める機会がないのです。世の中でなにが扱いにくいと言って真面目な偽善者ほど扱いにくい者はないのです。

迷信

聖書の朗読に功徳があると信じて、誤訳があるにもかかわらず訂正しようとせず、ただ神の言葉と称して、読み聞かせるだけで衆俗を救おうとする者がいます。水の洗礼に特別の能力があると信じて、洗礼の深い心霊的意義を理解せず、表面的な礼を施して信者を作ろうとする者があります。両者は別段悪意をもってしているわけではありませんが、憐れむべき迷信と言わなければなりません。真理しか人を救うことは出来ません、聖霊しか人を神の子とすることは出来きないのです。聖書を深く研究し聖霊と親しく交わることなくして人を救う道はないのです。

人の道

人の道は神により定められます、人自身によりません。また、歩く人は自分自身でその歩みを定めることが出来ません。人間は自分の思うままに人生を生きることは出来ないのです。人間は自分の歩みを定めるだけの明らかさも力もないのです。人間は自分の欲しないことをしなければならないでしょう、また自分の欲することを放棄しなくてはならないでしょう。人間は自分自身の運命の支配者ではないのです。人間は迷った羊のような憐れむべき者なのです、ですから人間はわずかに目前のことを探り得るにすぎないのです、とても将来のことなど知りようもありません。どうぞ神よ願わくはわたしに時々刻々あなたさまのご指導を得させて下さい。

捨てられた石

マタイ伝二十一章42節に「工匠(いえつくり)の棄てたる石は家の隅の首石(おやいし)となれり」とあります。父母に棄てられた子がかえって家を支える柱石となったり、国人(くにびと)に棄てられた民がかえって国を救う愛国者となったり、教会に棄てられた信者がかえって信仰復活の動力となったりします。「これ主のなし給えることにしてわれらの目には奇(あや)しとするところなり」とある通りです。舜がそうでした、ダンテも、ル−テル、ウエスレ−皆そのとうりでした。これに反して寵子は父母を悩まし、寵臣は国家を危うくし、教会の愛児は無神論を唱えたりします。わたしは父母と兄弟と国人と教会とに嫌悪されてかえって自分自身の名誉を感じる次第です。

神の器具

神がわたしを罰し給うのはわたしに罪過があるためです。わたしの不浄は神がわたしを使用し給うときの妨げになりません、神は霊火でもってわたしを潔め給うのです。神はわたしの愚を通して神の智を伝え、わたしの弱さを通して神の強さを顕し給うのです。土塊をもって人を創造(つく)り、これに生命を吹き入れ給いし神は、わたしを神の聖霊(みたま)の器となし給うのです。

誰の教えを受けんか 

「...シモンペテロ(イエスに)答えるに、主よわれらはなんじを去りて誰に往(ゆ)かんや、永生の言(かぎりなきいのちのことば)をもてる者なんじなり」(ヨハネ伝六章68節)と。わたしたちはイエスを去って仏教に入りましょうか、儒教に帰りましょうか、スピノザに往きて哲学者になりましょうか、ハイネについて詩人となりましょうか、殖産をわたしの生涯の目的としましょうか、政治にわたしのすべての満足を求めましょうか。イエスを信じると苦しいあるいは辛惨な目に会うかもしれません。しかし永生の言(かぎりなきいのちのことば)はイエス以外からは得られないでしょう。わたしはイエスを捨てた人でイエスの恩寵に優る幸福を得た人を知りません。

警世の任務

主の恩恵を十分味わっている人が、好んで政治と国家とについて語ろうとするでしょうか。わたしがときどきなすのは、神の意向によるのです。わたしは信仰の山上にあって、長久に栄光の神とともにおる、これ以外の望みはありません。警世の任務は、わたしが自分から望むことではないのです。

警世の理由

わたしは国の為に神を信ずるのではありません、神のために国を愛するのです。わたしは現世のために来世を説くのではありません、来世のために現世を警(いまし)めるのです。わたしは肉体のために霊魂を語るのではありません、霊魂のために肉体を潔めるのです。わたしが地上のことを議論するのは天国が地上にもたらされるためです。わたしが政治と社会を論ずるのは神の聖意(みこころ)が天になるごとく地にもならんためです。わたしが時事に嘴(くちばし)をいれるのは、この世の宰相になったり主になろうと思うためではありません。

真の救済

わたしがもしわたしの同胞を救い得ないのであれば、わたし自身をも救い得ないでしょう。わたしの救済と同胞の救済との関係は非常に深いのです。わたし一人天国に昇ろうとして昇れるものではありません。わたしが救われるのは同胞が救われるためです。自分一人だけ救われようと部屋に閉じこもっているような人間は、救済がどのようなものか分かっていないのです。

徒食の人

かれらの望むものは表面的な文明であって、文明を構成している元素ではありません。かれらが求めているのは道徳であって、道徳の基礎ではありません。かれらはあくまでも現世を楽しもうと考える人たちで、来世を継ぐなどと考えてもいません。ですから、かれらの文明は進まず、かれらの道徳は日々廃れてゆき、かれらはいつも現世について不平を言い続けているのです。たとえれば、実を食べるのを欲して樹木を植えようとしない人たちです。かれらは労働をしないで食べることを好む人たちです。

救い主

キリストとは人の罪を赦すためにこの世にくだられた人です。罪を赦すと言うのは、罪の思いを心より取り払うことです。これは到底人間のちからで出来ることではありません。もし誰かが、わたしが神に対して犯した罪を赦すと言う人があれば、わたしはその人の僭越をあざけるでありましょう。人の罪を赦しえるのは、ただ神のみです。キリストが神であるもっとも確実な証拠は、かれが人の罪を赦しうると言うことです。この特権を持ち給いしキリストが、奇跡を行うことが出来たのは当然のことでした。また奇跡をなしえないような救い主は、真の救い主とは言えないのです。

刺激の種類

世の中には様々な刺激があります。外より、内より、下より、上より。世の罪悪を憤って立ち上がる、これは外よりの刺激です。神の愛に励まされ行動する、これは内よりの刺激です。情欲に駆られる、これは下よりの刺激です。純粋なる美しさにひかれる、これは上からの刺激です。私たちはみな刺激を必要とします。そして、外と下からの刺激は私たちを毒し、内と上からの刺激は私たちを益するのです。私たちは、常に内を顧みまた上を仰ぐようにし、決して外の刺激や下の刺激を求めてはならないのです。

聖望  

わたしの望みは、神によりて、わたしの肉体とともに消えない事業をすることです。わたしはたとえ今日の人に聴かれなくとも、後世の人に聴かれる言葉を述べたいと思います。わたしはわたしの事業を神の永遠の上に築いて、短いわたしのこの一生を万世を益するものとしたいのです。キリスト信者である栄誉の一つは、弱い取るに足りない身をもってして、なお大望を懐いてその一部を遂行することが出来ることにあります。

潔めと救い

まず潔められて救われるのではありません。まず救われてそしてその後に潔められるのです。まず律法と道徳との範囲を離れてそうしてその後に聖く義(ただ)しい人間になることが出来るのです。人間が容易に潔められずまた容易に救われないのは、この潔めと救いの関係を良く理解しないからなのです。聖書はこのことを明白に示しています。福音が道徳と違うのは、福音は道徳とはまったく逆で救いが先で潔めを後にするところです。