聖  句内村鑑三所感集」(岩波文庫)及び「一日一生」(教文館)より

                 注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)               

二つの美しき名あり、その一つはイエスキリストにして
その二は日本なり...内村鑑三


恥じなさい

恥じなさい、そうです外国の宣教師に隷属するキリスト教について恥じなさい。そうです音だけするけれども実のないキリスト教について恥じなさい。そうです貴族と富者に阿(おもね)るだけのキリスト教について恥じなさい。しかしながらキリストの真のキリスト教について恥じてはいけません。霊を救うことが出来る唯一の大能のある真のキリスト教について恥じてはいけません。また平民の友である真のキリスト教について恥じてはいけません。真のキリスト教は神の福音です、天よりそそぐ光明です、人類を慰藉(いしゃ)できる唯一のものです。もし真のキリスト教に恥じるのであれば、天上に輝く星を恥じることになるでしょう、秋の空に懸かる芙蓉の峯すなはち富士山を恥じることになるでしょう。

伝道の唯一の方法

伝道の方法をあれこれ講ずる人が多いが、わたしはその思慮の浅さに驚かざるを得ません。伝道の唯一の方法は、福音をありのままに確信してこれを渇望している社会の人々に提供することだけです。しかし確信がなく伝道しようとする人は、弾薬が乏しいのにあれこれ戦略を講じる人と同じで、失敗するのです。

最も貴いもの  

富と権力より優って貴いものは知識です、知識より優って貴いものは道徳です、道徳より優って貴いものは信仰です、信仰より優って貴いものは愛する心です。愛する心が強固であれば、信仰は確実となり、道徳もけだかくなり、知識は広く通じ、かくして富も権力も愛する心の命ずるままになります。万物をその中心で把握しょうとするならば豊富な愛を持たなければなりません。

懐疑の精神

「...おおよそ事信じ(コリント前書十三章7節)」と言うのは、「すべての事実これを信じる」と言う意味です。愛は公平で受容的ですので確実な事実であれば直ちに喜んで信じます。これは科学的な精神であると同時に宗教の精神もこのようでなければなりません。その理論をひとつひとつ究めなければ、すべてのことを信じない人はなんと不幸なのでしょうか。そのような人は、常に懐疑の中で悩み苦しむ人です。そのような人は永久に、確信の快楽と歓喜を、楽しむことが出来ません。世の中で、自分の感覚を信じることの出来ない人ほど、憐れな人はないでしょう。懐疑者の多くは、この心理的不能に苦しむ者です。


福音と社会

福音は社会のためにあるのではなく、社会が福音のためにあると言えるのです。神は世を救うために福音を下し給もうたのではなく、福音に顕われた神の聖い趣旨を実現するために世をお造りになったのです。福音が目的であって社会はその手段です。社会改良を目的とするのは、真のキリスト教の本旨ではありません。

激戦

前後、左右、他人と自分の区別も分からない。そんな心理状態におちいりました。ただ何者かが来てわたしの心を奪い、わたしの手を取り、わたしの感情を激しくして、思わぬことをわたしにさせたのでした。この時、わたしの全身は燃え、知覚はあるのに、まるでないようにも思えました。わたしは何をしたか、何を書いたのかさっぱり分かりませんでした。ただ、何者かが去った後、わたしは、とうてい出来ないことを成し遂げたことを知ったのでした。

秋は来れり 

秋となりました。わたしは聖書にまい戻ろうと思います。秋の夜長を、地の書ではなく天の書である聖書をじっくり読もうと思います。肉の書ではなくて霊の書である聖書をじっくりと読もうと思います。単なる教会の書ではなくて人類の書である聖書をじっくりと読もうと思います。何かに束縛されてではなく、自由の精神でもってこれを読もうと思います。何かを学ぼうとする態度でもってこれを読もうと思います。そうすれば、神と自由と永生について今まで以上に知るところがあると思います。

福音の宣伝

わたしたちは世の中を救おうと思ってはなりません。福音を宣伝することに努めなければならないのです。福音に努めても思うように世の中を救うことが出来ないかも知れません。あるいは、道理が分からないためにかえって福音に接して滅亡を早めるかも知れません。しかしながら、福音の宣伝を怠ってはいけません。われわれは福音そのものに注目して世の中の盛衰興亡を思うべきではないのです。われわれはひたすら神を信じ、神の福音を信じ神の聖旨が世の中に成ることを祈るべきなのです。天が地よりも高いように神の智恵は人の智恵よりも深いのです。福音によって滅亡するのはかえって神の大きな救済なのかもしれません。

独のわたし

わたしはわたしの使命をはたすために富豪の寄付仰ごうとは思いません。わたしのおつかえする天の父は天地万物の造り主なのです。わたしがわたしの志を伸ばすにあたって社会の賛同を得ることを必要としません。わたしの友である天使は神のお側でわたしのために祈ってくれます。わたしには十分な糧があります、聖書があります。わたしには力があります、祈祷があります。わたしは単独でもって世界と戦うことも可能なのです。

世の中の要求(1)

世の中の要求に応じてはなりません、世の中は快楽を要求するものだからです。わたしたちは世の中にたいして真理の苦味を供するべきです、わたしたちは世の中にたいし真理のために苦闘すべきです。そうすれば世の中はわたしたちを厭うかもしれませんが、同時に自らの過ちに気づき改めるようになるでしょう。


世の中の要求(2)

わたしたちがこれこそ真に世の中が要求しているものと認められるものについては、世の中の要求に応じるべきです。世の中が絶叫して要求するものの多くは、真に世の中の要求するものではありません。私たちは、賢い医者のように、患者の要求以外に重大な要求があることを知るべきです。同様に、世の中の病を癒そうとして、世の中の意向にばかりに応じるべきではないのです。

大クリスチャン

わたしはある時は大著述家になろうと欲します。またある時は大慈善家になろうと欲します、さらにある時は大説教家になろうと欲します。しかしながら、大クリスチャンになろうと欲することは大変まれなのです。大クリスチャンとはいささかも野心を持たない人です、神の聖旨をなしとげる計画しか持たない人です、無心無欲で神に従うだけで求めることを知らない人です。このように神に服従する人になるならば、わたしは神のみ前で大なる人と認められ、大なることが出来る人となるでしょう。

世論の勢力

わたしは世論を恐れていました。わたし一人でとても太刀打ち出来ないと思っていました。わたしはその威力に圧倒され、わたしの全ての発達はこのために妨げられました。しかしながら、人類を造り給いし神を知ることにより世論に勝つことが出来ました。わたしは神が全人類よりも大きいことを知り、神に頼りて世論以上の者になることが出来たのです。そうですわたしは救い主によって、世論に勝つことが出来たのです。来れ世論よ!来れ迷信に沈滞する社会よ!なんじの古き習慣と浅き道徳は神のひと言にも抵抗出来ない。われ神により世論の枠外にあり。

知識の霊

「聖霊、一名これを智恵聡明の霊、才能の霊、知識の霊と称す」(イザヤ書十一章二節)。私は、聖霊により自分の罪悪を認め、心を潔め、救いを全うすることが出来るだけではなく、聖霊により万事(すべてのこと)を究(たずね)知るようになり、神の深事(ふかいこと)を究(たずね)知るようになりました。そして、聖霊は宗教の精神であるのみならず科学、哲学の精神であると言うことを知ったのです。神を畏れるのは知識の根本です。真理の探究は、そのすべての方面において聖霊の優れた援助を必要とするのです。

聖霊降臨の準備

私は、自ら求めても聖霊を獲ることは出来ません。しかしながら、自ら進んで聖霊の降臨に接する時の準備をすることが出来ます。深く聖書を究めて、神の聖語に心の耳を慣らしておくことが出来ます。常に行為を正しくし感情を潔くして、聖霊降臨がいつ来てもいいように神殿となるわが肉体を潔めておくことが出来きます。このように、常に自分でやるべきことやって待っていなさい。そうすれば、神も必ず神がなそうと望むことを私のうえになし給うでしょう。

キリスト信者のしるし

苦痛の最大のものは、善をしようと努力に努力をかさねている時に人から悪く思われることです。しかしながら、これはキリストの信者なればこそ受ける苦痛です。わたしたちはこの苦痛を味わうことなくしては、キリストとともに天の王国に入ることが出来ないのです。キリストの受け給いし十字架の苦痛とは、このような苦痛を指していいます。この苦痛はキリスト信者のしるしです。このしるしがなければ天の国の市民になることは出来ません。

艱難と恩恵 

艱難は恩恵を離れては考えるられません。と言いますのは、艱難は恩恵の一部分だからです。からみを和らげることが出来なければ、甘味は甘味と言えないでしょう。同じように、艱難がなければ、恩恵は恩恵とならないのです。食べ物に薬味が必要のように、人生には艱難が必要なのです。艱難があってはじめて人生に香しい味わいが生まれるのです。

手段と目的             

艱難をもたらすための恩恵ではなく、勿論恩恵をもための艱難です。艱難はあくまでも手段であって、恩恵が目的です。ですから艱難をもって始まり恩恵をもって終わるのです。一つの艱難が百の恩恵をもたらします、この短い艱難に耐えれば永遠無窮の恩恵がもたらされるのです。ですから、常に艱難を望みなさい。というのは、神の造化において艱難は最も小さい部分に過ぎないからです。

キリストの愛

相手がどのような悪人であっても、キリストの教えが自分の心にあれば、愛することは難しくないのです。悪人の心にキリストを顕わし、かれをキリストのもとに連れてくるためにはかれの如何なる罵倒をも忍ぶことが出来るでしょう。わたしたちはキリストを離れて自分自身の力で悪人を愛そうとして、自分の愛の不足を感じ、自分の弱さを責めるようになります。神は人間のようにわたしたちに無理な要求をしません。例えば、「汝の敵を愛せよ」とお命じるになるときは、その前にすでに敵を愛するに十分な愛をわたしたちにお与え下さるのです。

ただ今の救済

救済(すくい)は事実によって示されます。意識にではなく、また信仰にでもありません。神を識ることによって救われるのではなく、神を信じると信じて救われるのでもはありません。今この場に生きておられるキリストに、今救われて救われるのです。過去のキリストを回想して救われるのではありません。すでにこの世から消え去ったキリストを瞑想して救われるのではありません。前に死んだこともあるが、世々かぎりなく生き給うキリストに今救われて救われるのです。

聖書は神のことば  

聖書は道徳の本ではありません。聖書は人間が道徳の本源である神に至る道を示す書物です。ですからその人の道徳の程度にしたがって、神の聖意(みこころ)をその人に伝えます。聖書に奴隷を廃止せよとは書いてありません。しかし聖書は人間が神の子であることを教えて、奴隷制度の土台をこわしました。聖書は戦争の廃止を強いてはいません。しかし聖書は人命の貴重なる理由を教えて、戦争はあってはならないものとなしつつあります。聖書は道徳の原理を教えます、その形式を教えるのではありません。そのことそれ自身が聖書が神の言(ことば)である証拠となるのではないでしょうか。


日本を救う道

 日本人によって日本国を救おうと思ってはなりません、神によって日本国を救おうと欲するべきです。日本人の多くの者は詐欺師です、偽善者です、収賄者です、神の聖名をよごす者です。わたしたちはそのような人によって何らの善いことを日本国にもたらすことは出来ません。しかしながら神はそのような日本人全体より強いのです、そうして神は日本国をこよなく愛し給うのです。ですからわたしたちは神に頼って、日本人多数の意向に反して、わたしたちの愛するこの日本国を救うことが出来るのです。わたしたちは腐敗した日本人によって日本国を救おうとしたので失望したのです。しかしながら今やわれらの目を日本人より転じて、宇宙の主宰であり日本国の造り主である神を望みみて、わたしたちは希望に満ち溢れて、この死滅しそうな日本国を救済することが出来るのです。

社会改良

 わたしにキリストを説かずに、キリスト教的社会改良策を説きなさいと要求する人がいます。しかしながらそれはわたしに無理難題を要求することです。キリストを離れてキリスト教的政治もなく、キリスト教的社会改良策もないのです。そうです、キリストを説くことがキリスト教的政治であり、キリスト教的社会改良策なのです。わたしはかれらの要求に応じるために、かれらが要求しないキリストその人を説こうと思うのです。

 福音宣伝の方法 
 
 あくまで福音を説きなさい、神学を説こうとしてはいけません。あくまでも聖書を伝えなさい、聖書論を伝えようとしてはいけません。われわれの私論を差しはさまず、なるべくキリストと使徒のことばを多く引用しなさい。なるべく多く聖書そのものの言(ことば)を伝えるようにしなさい。そうすれば聖霊は聖霊によって伝えられた聖書の言によって、罪に沈んでいる多くの霊魂を救い給うでありましょう。

日本の最も必要とする物

 「鉄道を作れよ、そうすれば鉄道は国家を作るであろう。」これは十九世紀の中頃におけるイギリス人の標語でした。 「キリストの福音を説きなさい、そうすれば福音は国家を作るであろう。」これを二十一世紀のわたしたち日本人の標語にしましょう。今日および今後の日本の最も必要とする物は、実に純粋なるキリストの福音なのです。

花を見て感じること

 花に歓喜を感じます、また悲哀も感じます。その艶麗なさまに喜びを感じますが、それが一時的なものであるので悲しい気になります。この世の中は夢まぼろしのようであると言われます。ですから、美しいものには悲哀の色があるのです。そのような時、次の言葉を思いだしなさい。「しかし主の言葉は永遠に変わることがない」(ペテロ前書一章25節)


 浅薄な証拠

 深く学びなさい、そうすればあなたは批評家などにならないでしょう。深く感じなさい、そうすればあなたは不平家などにならないでしょう。真理というのは謙遜なものです、沈黙を愛するのです。宇宙とは調和なものです、喧騒を憎むのです。深く真理を学び、いってみればその泉の水を飲み、間近に調和する宇宙の琴線に触れるならば、わたしたちは軽々しくなろうとしてもなれるものではありません。批評家だったり不平家だったりするのは、その人間がいかに浅薄であるかの証拠なのです。

 水の洗礼は迷信です  

水の洗礼を受けなさい、そうすれば聖霊があなたの上に降りてあなたは救われるでしょうと、教える宣教師が多い。しかしながら見なさい、水の洗礼を受けた多くの人がキリストの聖名を汚しておるのを。水の洗礼は人を救いません、神の霊だけが人を救うことが出来るのです。わたしは水の洗礼を受けずに救われた多くの人を知っています。また水の洗礼を受けたのにいまだに救われない多くの人を知っています。わたしの長年の実験と常識とわたしのこころに宿られる神の霊とはわたしに告げて言います、「水の洗礼を救いの必要条件とするのは迷信である」と。

正義実行の信仰

世の中の人は正義は善いことと知っているが、これは到底行われないことだと信じてます。わたしたちキリストを信じる者は、正義は善いことであると同時に、実際に実行できることでだと信じているのです。世の中の人の信じることが出来ないこの事を、信じることが出来るのは、自分の力を頼まないで、宇宙を造り支える力に頼むからです。社会の改良といい、国家の改造と言っても、天地の造り主を信じないで成し遂げることの出来る事はないのです。

さらに良いこと

悪を矯正することはよいことです、しかしながら善を勧めることはさらに良い事です。古いものをこわすのもよいでしょう、しかし新たに築くことはさらに良い事です。無知をののしるのもよいでしょう、しかし教えるほうがさらに良い事です。悪人を憎むのもよいでしょう、しかしながら愛することはさらに良い事です。キリストは言います、「なんじら悪に勝たるるなかれ、善をもって悪に勝つべし」と。キリストを信じる人は積極的な人です、かれは常に積極的に世の中を改善しょうと計るはずです。

日本の国の将来

 今や、日本の国を政治的に救う希望はあまりないように思います。社会的に救う希望もあまりないでしょう。しかし宗教的に救うという希望は充分あると思います。そして宗教的に救える希望のある国は、ついには社会的にも政治的にも救える希望のある国と言えます。宗教家の立場より日本の国を見ますと、将来非常に希望がもてる国であると思うのです。

神の事業

他の人の補助を仰がなければ成り立たない事業は、神がお命じになった事業ではありません。他の人に少しも頼らず、神のみに頼ってする事が出来る事業こそ神のお命じになった事業です。このような事業に従事することが出来て、わたしたちは始めて独立の人となるのです。それまでは、わたしたちは乞食のようであり、奴隷のようであります。浮ついた虚栄と恥辱を汗水だして収穫する者のようです。

わたしの救済

自分自身を反省してみて、わたしの心の汚れ、悪欲、よこしまな感情、貪りなどに唖然とします。このような心を取り除くのでなければ神に近づき得ないとするならば、わたしは到底神に近づくことは出来ないでしょう。しかし、神はわたしの罪より偉大なのです。神はわたしに罪があるにもかかわらずわたしを救うことが出来るのです。わたしが救われる唯一の道は、神の恩恵に浴する事です。神がわたしを恵み給うのでなければ、わたしの救われる希望は一つもないのです。

秋に思う

「それ人はすべて草のごとく。その栄は、すべての草の花のごとし。草は枯れ、その花は落ちる。しかれど、主の道は限りなくつづくなり。」と言われる。秋風が起こって草木は枯れ、偉人も逝きたり。しかしながら大地は限りない神の大能の御手に抱かれています。次から次へと恩恵が加えられていきます。わたしたちはこの神の御力を信じて、秋の声を聞いて、うろたえることなく、希望をしっかり持たなければなりません。

福音の神髄
 
「イエスキリストの血はすべての罪からわれらを潔める」(ヨハネ第一書一章7節)福音の神髄はここにあります、もしこれがないのであれば、福音は福音に値しません。「東が西より遠いように、神はわたしたちの咎(とが)をわたしたちより遠ざけ給えり」(詩編百三編12節)、わたしにはその説明が出来きません、けれどもそれが事実であることを信んじます。わたしの救いはわたしの罪が赦されることより始まります、そして罪が赦されたと言う理由は、神の独子(ひとりご)であるイエスキリストが十字架の上で犠牲となったと言うことによって分かります。この事実を仰ぎ見る事によって、始めてわたしたちは新しい人間に生まれ変わる事が出来るのです。

伝道師

わたしは、政治家になる志を持ち一生懸命努力すれば、政治家になる事が出来るでしょう、同様に、科学者、詩人、社会改良家となることが出来るでしょう。しかしながら、わたしは好んでキリスト教の真の伝道師となることは出来ません。そのためには、まず偉大なる奇跡を事実として信じなければなりません。そして、信じるためには、その偉大なる奇跡を自分自身で体験することが必要です。それでなくては、信じることが出来ないでしょう。神の特別の使命によるのでなければ、誰であろうと福音の伝道者となることは出来ません。そして、この伝道者の使命を神から授けられた人は人類のなかで最も恵まれた人と言えます。

真のクリスチャンとは

敵を愛すると言うのは、つとめて敵のために善い事をすると言う事ではありません。敵を愛するというのは、読んで字のごとくに敵を愛すると言う事です。すなわち少しの悪意もなく、純粋に好意を持って、その人の善き人生を念じまたその人のために尽くす事です。これは、罪びとであるわたしたち人間が、努力してなれると言うものではありません。聖霊を身に受けて、キリストの救いにあずかってはじめて可能なのです。私たちは、敵に好意を持つ事が出来るようになって、はじめて自分が真のクリスチャンになったと自覚できるのです。

弁解するなかれ

 世の中の人の私たちに関する誤解を、いちいち解こうとしてはいけません。かれらは、始めからわたしたちを誤解しようとしているのです。ですから、誤解を解こうとする事は彼らの意志に反するため、反発されるだけです。わたしたちは、わたしたちの善を信じている、少数の友人の誤解だけを解くようにすべきです。なぜなら、かれらはわたしたちを正しく理解しょうと、願っているからです。ピラトと祭司長の前でキリストが沈黙したのは、敵の前での弁解がいかに不要であり、無効なものであることを教えて居られるのではないでしょうか。

利益ある取引

神は、誠の仁者であります。ですから、神は求めるよりも多くのものを与えます。神は、一を与えて十を要求するような事はしません。逆に十の約束をして一しか求めません。赦免、復活、天国、永生などが神の約束です。それに対して、神はわたしたちに、わずかな短いこの世において、忍耐と克己と仁愛とを要求し給うのみなのです。どうです、このような利益のある取引に応じる人はいませんか。

アルファ(始)とオメガ(終)

一番目に信仰、二番目に善行、三番目に知識、四番目に礼節、五番目か、六番目か、七番目か、あるいは八番目か、ようするに信者の統治ための制度である教会は最後のものなのです。キリスト教は心霊の宗教です、このような宗教においては、制度などは最後のものです。キリスト教と言えばすぐ教会について話をする人は、まだキリスト教の真の精神を理解していない人です。

信者の統一

信者の統一は、キリストの愛を通してのみ実現されます。信仰の分類や教会制度においてではありません。人の霊魂を縛るものは、キリストの愛をおいてほかにないからです。愛以外のもので信者を統一しょうと計るくらい、無謀なことはありません。

前進の声  

 神が、モ−ゼによってイスラエルの子孫にお命じになったことは、「なんじら前に進め」と言うことでした。それを受けて、モ−ゼがエジプトを去ってカンナに向かったように、パウロがユダヤ教を去ってキリストの福音を唱えたように、ル−テルがカトリックを去って新教を始めたように、ウエスレ−がメソヂスト教会を建てたように、わたしも現在の半死半生のような諸教会を去って、もっと新鮮な自由なものに向かって進みたいと思います。前に進むだけです。餓死も恐れず、単独も恐れず、失敗も恐れず、破滅も恐れず、前に、前に、ただ進むのみなのです。


大悪人

全ての人に悪人と見える悪人は、まだ大悪人とは呼べません。大悪人が大悪人と言われる最大の特徴は、その人間が善人と見えるところにあります。言葉づかいが丁寧で、身なりも立派です。紳士のようですし、真のキリスト信者のようにも見えます。とげとげしいところがなく、ものやわらかな言い方をします。かれは多くの人に愛されます。もしかれのことを悪魔だと言ったら、世の中のすべての人から排斥されるでしょう。かれが真に悪人であることを見破る事の出来る人は、聖霊による智恵と悟りを持つ人だけです。世の中で発見することが難しい最大のものは、このような大悪人です。

神の御心に近い生涯

キリスト教を信じなさい。しかし、外国より来た、外国の資金による宣教師のパンを食べるような真似はしてはなりません。日本の国を愛しなさい。しかし、特定の人の利害だけを考えるような政治家や政府からもらった米を食べてはなりません。このようなパンの伴わないキリスト教を信じ、また米の伴わない愛国心を心に持って、われわれは、初めて、ややキリストに近い生涯を送ることが出来るのです。

忠誠と孝行

わたしの国に対する忠誠心を罵る人は、わたしより忠誠心がない人でしょう。わたしが親に孝行をしないと責める人は、わたしより孝行でない人でしょう。わたしを偽善者と言って苦しめる人は、わたしより誠実ではない人でしょう。キリストにおすがりしているわたしは、確かに完全にはほど遠い人間です。しかしながら、世の中の人よりは、忠誠心があり、親に孝行し、善行を積んでいると思います。これはわたしが人よりも忠誠心があるのではなく、わたしのなかにおいでになるキリストが忠誠心を持つためです、また孝行においても同じことです。よくよく感謝をすべきです。

宗教と道徳と経済

宗教は道徳の上に位置します。経済は道徳の下に位置します。上と言い下と言っても、二つのものはともに道徳を助けるものです。道徳は、宗教や経済と関係なく存在することは出来ません。道徳は、宗教によって上に引き上げられ、経済によって下から支えられることによって始めて完全なかたちとなるのです。

わたしの問題

わたしが研究している問題は、世の中の移り変わりと少しも関係しません。ソヴィエット連邦が崩壊したとか、山一証券が倒産したとかそうした問題に少しも関係しません。わたしの問題は神とキリストと永遠の霊魂とに関する問題なのです。天上に輝く星が地上の移り変わりとともに少しもその色と光りを変えないように、わたしの問題は、世の中とともに移らず、時とともに変わらない問題です。わたしは移り変わってゆくこの世の中にあって、移り変わらない天国のことを研究している人間です。

秋の稲田の福音

死者の復活だけが神の奇跡の証明ではありません。五穀が豊かに稔ることも神の偉大なる御力のしるしなのです。いま、田には稲が稔り黄金の波をうっています。玉のような大粒の稲穂が香しく垂れています。このようなすばらしい景色に接して、思わず自分の罪を悔い、天なる父のもとに還ろうと思うのです。

最大の能力 

確信して、活動する力のことではありません。信じて、依頼する心の力のことです。これが世界を動かした力です。まず、わたしたちは自分自身の無力を知らなければなりません、そして神の偉大なる力に頼るのです。そうすれば、無力な自分がなくなり、偉大なる力の神がわたしたちの中に生きることになるのです。それで、始めてわたしたちは真の勇者となれるのです。自分自身の修行や鍛練が足りないのではないのです、自分の中にまだ無力な自分がいるためなのです。無力な自分を、自分自身の中から一掃することこそが最高の道徳と言えます。座禅や何かで自分自身を無理に無にする必要はありません、神に祈ってすべてを神の愛にささげ尽くせば良いのです。自分自身が弱いと感じるのは、いまだ無力の自分が自分の中で強く、自分自身を神に任せきっていないからです。


わたしの救い

わたしが救われたのは、わたしが望んだからではないのです。むしろ、自分の意志に逆らって救われました。わたしは現世を愛しました、しかしながら神は現世におけるわたしの計画をすべて破棄され、来世を望まざるを得なくされました。わたしは人に愛されることを望みました、しかし神は多くの敵をわたしに送って、人間に対しての望みを奪い、神に頼らざるを得ないようにされました。もしわたしの生涯が思い通りにいっておったら、わたしは神も来世も信じない普通の人間であったと思います。わたしはどうしようもない状態に陥って、神に救われた人間です。ですから、わたしの救われたことに関しましては、いっさいわたしの誇るところはありません。

乱の中の静けさ

国民に興亡があります。たとえ戦闘となりその音が国中に響き渡り、国民の動揺がはなはだしくとも、わたしの霊は主にお任せして静かです。聖書には、世の始めから終わりまですべて書かれています。そして、「主は己に属するものを知り給う」(テモテ後書二書19節)ということを知ります。神が天地を震いなさるのは、捨てるものと残すものを選ぶためです。世の中が右往左往乱れるのは、神が人間を選抜するためなのです。ですから、わたしたちは神に頼って決して動揺してはいけません。

名と実 

名実...という言葉があります。わたしは、名についてはとやかく言いませんが、実について争うこともあるかもしれません。「仏陀」だからと言って、斥けるような事はしません。同じく「キリスト」と言うだけで、歓迎する事もありません。わたしは万物のなかに満ち溢れる愛のこころを遵奉したいのです。「神は愛なり、愛なき者は神を知らぬ」と言います。わたしも同感です。愛のあるところにわたしは神を認め、その名の違いによって取捨選択したり、賛否を決定したりはしません。

神のおるところ

教会の内部にいるからと言って、神を知るとは限りません。教会の外部にいるからと言って、神について知らないとは限らないのです。本当に神を知る人は教会の内部にも、外部にもいるのです。神の教会と言うのは、全宇宙の事です。ペテロが神は偏らない存在であって、どこの国の人であっても神を敬い、義を行う人はキリストのみ心に適う人なりと言っています。わたしも、意外なところで神の忠実な僕(しもべ)を発見し、たいへん驚く事があります。

信仰の道

信仰の道は、なんと容易な道なのでしょうか。ただ、神にお任せするだけです。そうすれば、光輝き、力が湧き、汚れは去り、聖霊に満たされます。信仰は、完全に達する道です。知識の小道を辿る必要はなく、修養の山をよじ登る必要もありません。信仰は、鷲のように大きな翼でもって、直ちに神の懐(ふところ)に達する事が出来るのです。学問は暗闇を照らす燈(ともしび)です、徳は暗い夜道を探って歩くための杖です、しかし信仰はそれ自体太陽のようなものです。われはれは、太陽の恩恵を受け、正しい道を胸を張って歩く事が出来ます。こころで、常に神を讃美しながら楽しく人生の旅を終了する事が出来るのです。

キリストのようになる

 キリストのようになりたいと思う時は、まだわたしの中に自我が存在しています。自分自身の無能を知って、キリストにすべてを委ねる時始めてわたしの自我は消滅し、わたしの中にキリストが生きてくるのです。キリストのようになろうと思うのであれば、まずキリストのようになようとする欲をすてなければなりません。われわれの最後の敵は、キリストのようになろうとする道徳的な欲望です。

天国を見る

わたしたちがほんとうに見たいのは、ロンドンでもパリでもありません。わたしたちの見たいのは、天国のはずです。天国は簡単に見る事が出来ません、しかし天国が見えた人は、いままでの宇宙観も人生観も一変します。その時には、道の雑草までがわたしたちのために讃美歌を歌っているように感じます。その時には、いままで流した涙がすべて拭われます。その時には、いままで疑問であった事がすべて解けます、この世は直ちに楽園となります、勇気が湧き怨みが消えます。天国を見る事は、まるで魔術に掛かったように、どんなに煩雑な世界であっても、一瞬にして整えられます。どのような環境であろうと、神に祈りさえすればこの恩恵にあずかることが出来ます。


清らかな思想

清らかな思想は、本を読んだだけでは得られません。多くの辛い経験をして、すべての乞食根性を捨て、多く祈り、多くの悪と戦い、そうして始めて神より与えられるのです。これを天才の産物と思うのは、大変な間違いです。天才は、名文を作るかもしれません。しかし、人の霊魂を感動させる思想を生み出すことは出来ません。このような思想は血と涙の結晶です。心臓の一部です、ナイフで切れば生きた血が流れます。ですから血のにじむような努力をした人でないと分からないでしょう。文は、単なる文字の羅列ではないのです、思想そのものです。このような思想は血液です、生命そのものです。このことを軽く見る人は、生命自体を軽蔑する人と言えるでしょう。

キリスト信者の統一

もし、日本中のキリスト信者を統一出来たなら、この世で恐れるものはないでしょう。しかしながら、現実は多くの教派に分裂しています。それは、欧米諸国から来た宣教師自身の分裂が、そのまま日本に持ち込まれているためです。ですから、今日のキリスト信者の統一は、熊とライオンを一緒にするようなものです。もし幸いにして、神の霊が日本国民に強く働いて、日本人が固有の霊をおびキリストと同じくらいに日本国を愛して、外国に頼ることは愚かな事であり、恥ずべき事であると覚って国民が一致するなら。その時こそ、日本中のキリスト信者の統一がなされる時なのです。その時が来るまで、わたしたちは、現在の日本のキリスト信者がめいめい分裂して孤立している状態に、満足しなければならないでしょう。

キリストと武士

わたしは、人類の理想をキリストにおきます、そして日本人の理想を武士におきます。主君に対して死をも恐れず仕える武士の魂、その魂のを失わないでキリストを信じる者がわたしの理想です。キリストを信じない武士は単なる野蛮人であるし、損得ばかり考える町人根性でもってキリストを信じる者は真の信者とは言えないでしょう。ああ、武士の魂をもったキリスト信者のなんと少ない事よ。

世の中の動揺

世の中の動揺を見て、世間で識者と言われる人は、これは国の滅びる兆候と言います。しかし、わたしたちキリストを信じるものは、いまこそ神の救いが臨む時なりと言います。聖書にあるように、一羽の雀も天の父の許しがなく地に落ちるような事はありません、いわんや国民や国が天のお許しがなく動揺するはずがありません。これは神の声なのです。「神の道は渦巻のなかに、大風のなかにあり。雲は神の足の塵である」(ナホム書一章3節)。風雲暗澹たるなかに神の恩恵は包まれているのです。

クリスチャンとは

クリスチャンとは思想家ではない、だからと言って何も考えずに実行するだけの人でもない。クリスチャンは聖霊の宿った人、聖霊によって神の智恵と能力を実際に得た人です。詩人や哲学者のような純思想的な人ではありません。しかし、商人や実業家とも違います。聖霊により神の深きを知り、聖霊によって神の能力を得て行動する人です。クリスチャンは神の人です。つまり、キリストにすべて捧げて自分を殺し、神とともに生きる人です。

悪評の幸福

人に善く思われるのは、危険な事です。悪く思われる時が来るからです。人に悪く思われるのは、安全です。わたしは、善く成る事が出来るからです。「すべての人なんじを言いはやすは、なんじの禍なるかな」(ルカ伝六章24節)。最も安全であり、最も幸福な事はすべての人の悪評の下に、謙虚な一生を送る事であると思います。

世に勝つ 

キリストは言いました。「恐れてはいけません、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っています。」(ヨハネ伝十六章33節)道義学者やユニテリアンが何と言っても、キリスト信者の安心と勇気のみなもとは、このキリストが既に世の中のすべてのものに勝利していると言う御言葉にあります。「わたしがなすべきことは、キリストがすでになしとげており、わたしの義はキリストによりすでに天にあります。わたしの罪は、すべてキリストの血によって贖(あがな)われました、わたしは得るべきものを既に得ているのです。」そう思う時、ありがたく、これからの残りの人生はただ感謝あるのみと感じるのです。ここに、キリスト信者が常に泰然として余裕があり、年取ってますます盛んになる理由があります。



わたしの宗教
神は、あらゆる方法でもって、恵みを与えようとしております。心の中には福音を、目には美観を、耳には音楽を、鼻には香をもって、わたしたちに恵みを与えようとしています。わたしたちは、その神の恵みの道を塞いではなりません。内より、外より、神のゆたかな恵みを沐浴しなさい。机の上には、野の花、造花、絵画、香水があります。もちろん、高価なものではありません。わたしはこれらによって、常にこころが豊かになると同時に、神の存在を知ります。そして、電燈を消した後、見えないところにおられる神に感謝を捧げるのです。昼は、眼に見えるものに神を感じ、夜は目に見えない神を感じます。わたしの宗教は、理性と感情がよくバランスされた宗教です。

天国の市民

キリストを信じると言う事は、信仰により、キリストに現れた神の生命を自分自身のものとした人達です。自然とその人の精神や行いはキリストに似てきます。 キリストを天国の王とすれば、その市民は小キリストと言えるでしょう。そして、天国の市民は赦された罪人です。天国の市民は、君子でもなく、道徳家でもなく、慈善家でもなく、神学者でもありません。もちろん、富豪でも貴族でもないのです。自分の罪を悔い、罪を神の前に白状し、ついには神の救いにあずかった新しい人達です。キリスト教の伝える天国の市民とは、このような人達を指します。

コロサイ書三章8〜10節

今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそを付いてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着(つ)け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

神の子

 人間は生まれながらに神の子、と言うわけにはいきません。キリストを信じる事によって、神の子とさせてもらったのです。(ヨハネ伝1章12節) 人間は、勿論のことですが、不滅ではありません。キリストによって永生(かぎりないいのち)を受け、不滅となれるのです。神は、「われ生きれば、なんじも生きん」と仰せになりました。人間は無です。それに対して、神は有です。しかし、人間が無限に貴いのは、自分の無を覚って、神にすべてを捧げ、有となることが出来るからです。

国を愛する心

わたしは、まず日本の国を救おうと決心しましたが、救う事は出来ませんでした。しかし、その日本の国をなんとか救おうとするまごころが、神に目覚めさせたのでした。そして、霊魂の救済へと導いたのでした。愛国心は大変素晴らしいものです。たとえ国を救うに至らなくとも、自分自身を救う事となるでしょう。ですから、誰でも熱意を持って、まごころをもって国を愛するこころを養うべきだと思います。

落ち葉の希望

葉が落ちて、木の枝には何もなくなってしまいました。しかし、わたしは知っています、発芽の準備が整っていなければ葉は落ちない事を。木を割ってみなさい、厳冬の梢にはすでに皮の下に、春の太陽を受けて花を咲かせる芽が出ています。凋落は復興の兆しです。世の中が日に日に落ち込むように見えるのは、その下に革新の準備がすでに出来ているのです。

わたしの宇宙  

キリストはわたしのすべてです、わたしの友です、わたしの兄弟です、わたしの教会です、そしてわたしの国家です。キリストに、すべてをお任せして満足しております。キリストは、わたしの霊的宇宙です。キリストに任せると言う事は、キリストと共に十字架に付けられ、この世の中で死に、キリストと共に復活する事です。わたしの思惟、わたしの企画、わたしの事業、わたしの生命、今やすべてキリストと共にあります。たとえ世の中が消え失せるような事があっても、キリストは不滅です。またキリストと一体であるわたしも消える事は、ありません。

戦争の起こる理由

命を惜しまず戦う事を、勇敢なことだと誉めがちです。また、人間は思いどうりにいかない事が多く、つい命をそまつにすることが多いのです。人生に絶望したと言っては、死ぬ事を考えがちなのです。自分の命をそまつにするくらいですから、他人の命も当然のことながら軽視します。このような理由から、戦争をすることを多くの人が認めるのです。本当に、生命の尊さを知るのであれば、人類は直ぐにも戦争を止めるでありましょう。世の中に絶望家がなくならない限り、戦争もなくならないのでしょうか。

神に愛される人

神は、神を愛する人のためには、神ご自身をも与え下さるのです。それは、全世界とか、富とか、名誉とかいうものではありません。聖霊を与えて下さるのです。しかし、神に愛される人は人に憎まれ、肉親や親友に疎まれ、世の中に塵あくたのように思われるかもしれません。しかし、そうした間に、神は限りない恩恵を与えて下さるのです。聖書のなかでイエスは言っておられます「責められる人は幸いなり、天国はすなわちその人のものなればなり」と。

信じない人より劣る人

この世の中で、もっとも憐れな人は、キリスト信者と言う名ばかりで、真に神の霊を受けることが出来ない人です。その人は、この世にも受け入れられず、勿論天国にも入れないのです。広い宇宙の中で、頼るものがないのです。世の中から卑しまれるだけで、それに打ち克つ力はありません。清浄な人でもありません。天に昇る事も、地に降りる事も出来ないのです。宙ぶらりんの形で、苦しみ悩むだけです。神にすべてをお任せして、聖霊を受けるしかないのです、そうでなければ神を信じない人間より劣る人間として一生を終えることになるでしょう。

律法と福音

律法と福音の違いは、たとえれば、律法は殺すためもの、福音は活かすためものとでも言えるでしょうか。ですから、律法でもって福音を律するのは、圧制でもって自由を制するようなものです。律法の法則と福音の法則は、まるで違います。福音の法則は、すべてが自由であり、すべてが恩恵的です。規則ずくめの律法でもって福音を伝えようとするのは、死によって生を伝えようとするようなものです。キリスト教にもっともふさわしくないものは、死んでいる、冷たい、機械的な規則条令類です。

神の不公平

神は不公平かも知れません。この世の中とともに朽ちてゆくもの、金銀、土地、家屋などの分配においては、たいへん不公平かもしれません。しかし、神が人間に与える事が出来る最も善いもの、聖霊を人間に注ぐことに関しては、公平です。いや、かえって貧しい人に手厚く、富んでいる人には薄いようにも見えます。ですから、決して憂い悲しむべきではないのです。喜びなさい、身は卑しくても、位がなくても、立派に全能の神の子供となることが出来るのです。

神に救われるということ

神に救われると言う事は、救われたと心で思うことではありません。または、神に救われたと信じることでもありません。本当に、ただ、ただ、救われることなのです。キリストのようになることでもあり、またキリストに達するための道を歩み始めることでもあります。生命を失って、かえって真の生命を得ることでもあります。すべてを棄てて、かえってすべてのものを得ることでもあります。以上のほかに、別の救いがあるわけではありません。もしあると信じて、それを頼りにして生きるようなことをするならば、必ずたいへん恥かしい思いをすることとなるでしょう。

わたしの新年

人は新年を迎えて新しい装いを誇ります、わたしは新しく年が生まれ変わったことを喜びます。人は戦いを計画するかも知れません、わたしは今年こそ一層の伝道を企てます。人は暗闇にいて彼方の勝利の功名を望みます、わたしは光のなかで平和な春を楽しみます。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利をたまわる神に、感謝しよう。」(コリント前書十五章57節)


教会の信者

聖書に出てくるパリサイ人とはどのような人なのでしょうか。わたしは、現在のいわゆる教会信者を思い浮かべます。彼らは、自由であるべき福音を束縛するための縄のようにする人たちのように思えます。彼らには、生き生きとした信仰がありません。いわば死せる信仰をもって福音にかえようとするのです。彼らは、責めることのみで恵むことを知りません。罰することのみで赦すことを知りません。恩恵の和やかな気持ちに触れて頑ななこころを開いたことがないので、こころは石のようになり、それで相手の閉ざしたこころを砕こうとしているように思えるのです。なんと冷たいのでしょうか、彼らの心は。なんと堅いのでしょうか、彼らの心は。彼らは教会を外部から遮断するための城壁を築く石のようです、神の聖殿を造るための「貴い活(い)ける石」とはとても言えません。

梅の花のような信仰

君子はどこにおるのでしょうか。義人はどこにおるのでしょうか。真心(まごころ)をもってキリストを信じる人はどこにおるのでしょうか。世の中は凋落を極めています、正義が利益と混同されています。真にキリストを信じる人はほんの僅かしかおらず、しかも隠れて信じております。そこで、わたしはキリストへの信仰を話し合う友を見出すことが出来ないのです。いかなる迫害にあっても馥郁(ふくいく)たる香をさせる信者はどこにおるのでしょうか。わたしは切に望みます、信仰の梅の花のような人たちを。わたしはどんなに遠い道のりをも厭いません、どんなに坂が険しくとも恐れません。梅の花のような人たちに遭って、わたしの心がどんなに慰められるかを語り、いまだ凍る寒さの中でじきに来るであろう和やかな春のことを語り合いたく思うのです。

真理は自存します  

キリストの教えは真理です。真理は、真理自身が証明者であり、真理自体の拡大者であり、真理自体の保存者でもあります。ですからわたしはキリストの単純な真理を伝えるだけです。わたしの伝える真理が衰退するのではないかとか、消えてなくなってしまうのではないだろうかとか恐れる必要は一切ないのです。真理はそのもののちからで生きてゆきます。わたしは真理を天の雨と地の風にまかせて、その成長と発育についていささかも疑いません。


破壊者

真理は一種の破壊者にたとえることが出来ます。真理の破壊性を恐れてはそれを伝える仕事に従事することは出来ないでしょう。真理とはよく壊しまたよく建てるものでもあるのです。世の中にものを焼かない火を求める人はいないでしょう。しかし、壊さない真理を求める人は多いのです。

わたしの幸運

神はわたしに素晴らしい職業を授けて下さいました。泣く人の涙を拭いてやり、乏しいひとの心を満たしてやり、失う事によってかえって喜びを得る秘術を教える事の出来る職を授けられました。伝道の仕事は犠牲的な仕事と言う人は誤りです。わたしはどんなに高い位に就くより現在の伝道の仕事をして死にたいと思います。

完全な仕事

完全な仕事とは、他人を喜ばし自分自身も喜ぶ職業と言われます。ですから、詩歌や美術は完全に近い業だと言われます。しかし、人に頼らない伝道に比べたら、それらも非常に不完全です。この世で一番の歓喜は福音の仕事によって得られます。始めも終わりもただ歓喜です。その方法も目的もただ歓喜です。喜んで種を蒔き、喜んでその収穫をするのです。すべてが終った後、自分自身もまた主の歓喜に救い取らるのです。どうです、羨ましくは思いませんか。

あるドイツの愛国詩人の歌

冷たき大理石の中においてあらず
苔むす死せる教会においてあらず
常に新鮮なる樫の小森の中に
ドイツ人の神は居ましかつ動き給う。
そうです、わたしたち日本を護り給う神も、俗人が金でもって造った石や木の会堂には居りません。常に新鮮な欅や樅の林に、または真っ直ぐに天を突く杉の小森の中に居られ活動されるのです。私たちは、そのような場所に行って拝むべきなのです。

生と死

キリストのようになろうと思う時、わたしの中には、まだわたし自身の欲望が生きています。自分自身の無能を認めてすべてをキリストに委ねる時、はじめてわたし自身がなくなりキリストがわたしの中で生きるのです。キリストのようになりたいのであれば、キリストのようになりたいというその欲望をなくさなければなりません。道徳的こころよりもキリストにすべて委ねることを優先するのでなければ、キリストと共に生きることは出来ないでしょう。わたしたちが対決する最後の敵は、聖徒になろうクリスチャンになろうと求める道徳的な欲望です。

わたしの救い

わたしの救いは、イエス・キリストです。わたしは、キリストを見習って救われるのではありません。わたしは、キリストを見習う能力など、とてもありません。わたしは自分自身を脱ぎ捨て、新しくキリストを着せてもらって救われます。救いはキリストを除いては、考えられません。私たちは、キリストの肢体となってはじめて救われるのです。わたしとキリストは相対するものではなく、一体とならなければならないのです。キリストがわたしの中で生き、キリストが生きることによってはじめてわたしが生きるのです。キリストとわたしの関係は、師弟ではなく、主従でもありません。枝と幹との関係、一人の人間における、頭と手足の関係であります。

キリストそのものであれ

わたしたちは、キリスト信者であることで満足してはいけません。キリストそのものでなくてはならないのです。それは、自分自身が神になろうとすることではなく、キリストと同化することによって成し遂げられるのです。英語のクリスチャンもドイツ語のクリストもキリスト信者と訳するのは誤りです。クリスチャンはキリストの意味です。「われはかれの身の枝なり、かれの肉より出で、かれの骨より出でしなり」(エペソ書五章30節)クリスチャンはキリスト以外の者ではないのです。二者が同体であることを理解できないのであれば、キリスト教のほんとうの教えをさとる事は出来ないでしょう。

真のパプテスマ

一般に、パプテスマを洗礼と言います。しかし、わたしは葬式と呼びます、肉体と自分自身を葬って、霊と神とに生まれ変わる式なのです。ですから、パプテスマは一回だけでなく、日々必要なことです。とくに、年の始めにおいては必要な事です。わたしたちは、教会において牧師のてから、水でもって授かります。しかし、わたしたちは、パウロがロ−マ人への手紙六章3節以下に書いてあるように、心の中に、聖霊によって、神から直にパプテスマを施されるべきなのです。

神につかえる時期

神にささげるものは、最善最美が望ましいのです。生涯での最も善い時期をもってすべきでしょう、老衰しきった時期ではなく、失敗を重ね余命いくばくもない時期ではなく。神御自身は、人間がいつでも自分のところへ帰ってくるのを待っておりますが。神御自身は、人間の生気旺盛な時期を必要としておるのです。しかし、人間は青年時代を肉欲放縦に費やし、壮年時代は野心遂行のために濫用し、老い朽ちようとする時になって神のもとに帰って来るのです。これは、本当は神の喜び給わないことなのです。

失敗の恩恵

教会のキリスト教は、成功した時に神の恩恵を認めます。これに反して、キリストの福音は、失敗した時に神の限りなき愛が示されます。人間にとっての最大の恩恵は、キリストを識(し)ることです。ですから、失敗の苦しい十字架を味わなければ、十字架のキリストを識(し)ることは出来ないのです。.

異端と真の道

「悪を避けなさい、そうすれば神を信じることが出来るでしょう」と言うのは、異端です。真のキリスト教の道は、「まず神を信じなさい、そうすれば善をなすようになるでしょう」と言います。「心を潔くしなさい、そうすれば神の聖霊の恩恵にあずかるでしょう」と言うのは、異端です。聖書は明らかに教えていいます。「神の聖霊を受けて、心を潔くされなさい」と。行いを先にして、信じることを後にするのは、異端です。キリスト教は、信じることを先にして、行いを後にする人です。神の恵みを信じることが薄い人ほど、自分の行いの報酬として天の恩恵にあずかろうとするのです。天空が地上より高いように、神の思いは人の思いより遥かに高いのです。神が人間の不信を怒り給うのは、人間が行いでもって神の恩寵を買おうとするからです。

生と死

キリストのようになろうと思う時、わたしの中には、まだわたし自身の欲望が生きています。自分自身の無能を認めてすべてをキリストに委ねる時、はじめてわたし自身がなくなりキリストがわたしの中で生きるのです。キリストのようになりたいのであれば、キリストのようになりたいというその欲望をなくさなければなりません。道徳的こころよりもキリストにすべて委ねることを優先するのでなければ、キリストと共に生きることは出来ないでしょう。わたしたちが対決する最後の敵は、聖徒になろうクリスチャンになろうと求める道徳的な欲望です。

 わたしの救い

わたしの救いは、イエス・キリストです。わたしは、キリストを見習って救われるのではありません。わたしは、キリストを見習う能力など、とてもありません。わたしは自分自身を脱ぎ捨て、新しくキリストを着せてもらって救われます。救いはキリストを除いては、考えられません。私たちは、キリストの肢体となってはじめて救われるのです。わたしとキリストは相対するものではなく、一体とならなければならないのです。キリストがわたしの中で生き、キリストが生きることによってはじめてわたしが生きるのです。キリストとわたしの関係は、師弟ではなく、主従でもありません。枝と幹との関係、一人の人間における、頭と手足の関係であります。

キリストそのものであれ  

わたしたちは、キリスト信者であることで満足してはいけません。キリストそのものでなくてはならないのです。それは、自分自身が神になろうとすることではなく、キリストと同化することによって成し遂げられるのです。英語のクリスチャンもドイツ語のクリストもキリスト信者と訳するのは誤りです。クリスチャンはキリストの意味です。「われはかれの身の枝なり、かれの肉より出で、かれの骨より出でしなり」(エペソ書五章30節)クリスチャンはキリスト以外の者ではないのです。二者が同体であることを理解できないのであれば、キリスト教のほんとうの教えをさとる事は出来ないでしょう。

 真のパプテスマ

一般に、パプテスマを洗礼と言います。しかし、わたしは葬式と呼びます、肉体と自分自身を葬って、霊と神とに生まれ変わる式なのです。ですから、パプテスマは一回だけでなく、日々必要なことです。とくに、年の始めにおいては必要な事です。わたしたちは、教会において牧師のてから、水でもって授かります。しかし、わたしたちは、パウロがロ−マ人への手紙六章3節以下に書いてあるように、心の中に、聖霊によって、神から直にパプテスマを施されるべきなのです。

神につかえる時期

神にささげるものは、最善最美が望ましいのです。生涯での最も善い時期をもってすべきでしょう、老衰しきった時期ではなく、失敗を重ね余命いくばくもない時期ではなく。神御自身は、人間がいつでも自分のところへ帰ってくるのを待っておりますが。神御自身は、人間の生気旺盛な時期を必要としておるのです。しかし、人間は青年時代を肉欲放縦に費やし、壮年時代は野心遂行のために濫用し、老い朽ちようとする時になって神のもとに帰って来るのです。これは、本当は神の喜び給わないことなのです。

 失敗の恩恵

教会のキリスト教は、成功した時に神の恩恵を認めます。これに反して、キリストの福音は、失敗した時に神の限りなき愛が示されます。人間にとっての最大の恩恵は、キリストを識(し)ることです。ですから、失敗の苦しい十字架を味わなければ、十字架のキリストを識(し)ることは出来ないのです。

 異端と真の道

「悪を避けなさい、そうすれば神を信じることが出来るでしょう」と言うのは、異端です。真のキリスト教の道は、「まず神を信じなさい、そうすれば善をなすようになるでしょう」と言います。「心を潔くしなさい、そうすれば神の聖霊の恩恵にあずかるでしょう」と言うのは、異端です。聖書は明らかに教えていいます。「神の聖霊を受けて、心を潔くされなさい」と。行いを先にして、信じることを後にするのは、異端です。キリスト教は、信じることを先にして、行いを後にする人です。神の恵みを信じることが薄い人ほど、自分の行いの報酬として天の恩恵にあずかろうとするのです。天空が地上より高いように、神の思いは人の思いより遥かに高いのです。神が人間の不信を怒り給うのは、人間が行いでもって神の恩寵を買おうとするからです。

最も恐ろしい刑罰

神に逆らったと言って、直ぐに刑罰として、病気になったり、貧困になったり、社会的な地位を失ったりするものではありません。いや、神を捨てた結果として境遇の改善がなされることの方が多いのです。神に逆らった、てきめんの刑罰は品性が堕落する事です。すなわち、聖よいこと崇高なことが見えなくなり、卑しい事、低俗なことを追い求めるようになる事です。これは、最も恐ろしい刑罰であり、人間にとってこれ以上の刑罰はありません。この刑罰の重い理由は、これを受けた人間が刑罰であることを理解できない点にあります。わたしたちは、神に祈りをささげ、他のいかなる刑罰を受けても、この品性堕落の刑罰だけは受けないよう努めるべきです。

復活の信仰

春の陽が再び巡ってきました。この春の光を浴びながら、わたしはキリストの復活を思います。キリストは甦り給いて、永遠の救い主となりました。復活して後、キリストは言いました。「見なさい、わたしはこの世の終わりまで、あなたたちと共に居ります。」と。もし、キリストの甦りがなかったならば、わたしたちの信仰は空しいものとなるでしょう。なぜなら、過去の人であるのなら、今のわたしたちを救う事が出来ないからです。キリストは甦り給いて永久に生きる者となったのです。わたしたちは自らが救われるために、どうしてもキリストの復活を信じないわけにはいかないのです。

春を迎える  

人生の貴いのは、春があるためです。多くの春を楽しんだ人、これを長寿と言います、少なく春を味わった人、これを短命と言います。春は生命そのものです、また復活でもあります。春は天国の降臨です。聖書の祈りに、「み国を臨(きた)らせたまえ」と言う言葉があります。そうです、春を臨(きた)らせたまえです、そうしてひろやかな春の恩恵に浴して、聖書の真の意味を覚らせ給えと祈るのです。

わたしの祈願

わたしは詩人でありたい、神学者にはなりたくありません。わたしは予言者でありたい、祭司にはなりたくありません。わたしは労働者でありたい、使役する人になりたくありません。わたしは自由の人でありたい、規則の人になりたくありません。わたしは自分と自分のなかに宿り給う神の他の力を求めません。わたしは、常に神の命に従い、神と対立する場合は、人と人の定めた制度に依らないでありましょう。わたしは神に使われるのです、人にまたは人をとおして使われたくないのです。わたしは神の恩恵により、このように行動すると共に、このように行動したいと願うのです。

反応ということ

わたしを非難する人のいるのを知っています。わたしも、時には人を非難する事があります。わたしは今わが主により、わたしのこころの奥より、わたしを非難する人を赦す事が出来ます。わたしを非難した人も、わたしがわたしを非難した人になしたように、わたしになすようになるでしょう。わたしは他の人より、より善き人間と言うわけではありません、他の人もわたしより、より悪い人間と言うわけではないのです。結局、わたしたちは、わたしたちが裁くように裁かれるのです。ですから、他人に対して常に善意をいだいておれば、全世界の人をも友にすることが出来るのです。

神の聖意(みこころ)

病気になっても構いません、わたしはただ神の聖意を知りたいのです。貧しくても構いません、わたしはただ神の聖意を知りたいのです。人に憎まれても構いません、わたしはただ神の聖意を知りたいのです。わたしの最大の不幸は神の聖意を知る事が出来ないことです。わたしは、病気も、貧困も、孤独も恐れません。わたしは、ただ神に捨てられ、その聖意が伝わらなくなることを恐れます。神よ、どうぞわたしとの間の霊の交通を絶えさせないで下さい。

完全とは

「天にいますなんじらの父の完全なるがごとく、なんじらも完全なるべし」(マタイ伝五章48節)の意味は、神のように絶対的な完全さに達しなさいと言うのではありません。神が神として完全なように、人も人として完全になりなさいと言う意味です。完全な馬と言うのは、人のように言葉を話し、人のように考える馬のことではありません、馬としての用を完全になす馬のことです。ですから、人に罪があると言うのは、人が人としての完全さを欠くことです。神がわたしを責めるのは、わたしが雨を降らしたり、日を輝かしたり出来ないからではありません。わたしが、人を愛すべきであるのに憎み、怒るべきではないのに怒るからなのです。


青年と老年

思想がすべて実現したと言う事は、終末に達したという事です。思い通りに実現した時、その人は最終に達したのです。常に若くあろうと思うのであれば、常に実現できないような事を考える事です。青年は夢想する人の事です。夢想をやめ、利害を考えるようになった時、その人は老年となったと言えます。常に不可能なことを計画する人、常に大変革を望む人、常に詩人のように夢想する人、常に利害の念にうとい人、常に危険を感じない人、このような人は青年であり、意気壮んな人です。すでに可能な計画を立て、すでに温和主義を主張し、すでに散文的、事務的に物事を処理し、利害の念に鋭く、足元に注意を怠らない人は、年齢を問わず、老年の人であり、すでに廃棄物と言えるでしょう。

真のキリスト信者

わたしが、自分のことをキリスト信者と言う場合、自分を徳のある人間のように思って言うのではありません。キリスト信者を名誉のように思うのが、そもそもの間違いなのです。キリスト信者は罪人の一種です。自分の罪深さを認めて、神の赦しを乞わんためにキリストの十字架にすがる者です。今でこそ、パウロが信者でありペテロが信者であったと聞けば、名誉のように思いますが、当時においては、彼らにとって大変不名誉な事だったのです。人の前で、自分が罪人であることを告白できない人間は、真のキリスト信者ではありません。そうであるのに、自分がキリスト信者である事を、さも文明人のように思うのは、キリスト教の初歩をも知らない人です。

キリストが生まれる時

花は消え、鳥は去り、森はすっかり裸のようになってしまいました。ただ、わたしが見えるのは、夜毎に星星が剣を帯びているように粛然と輝いている事です。この時です、神の御子キリストが誕生する時は。世の中が冷淡を極めるとき、こころの中の虚飾を捨て、頭上に剣を帯び輝く星を仰ぎ、キリストを待望するのです。その時、キリストはわたしたちの心に、お姿をあらわすでしょう。今こそ、救いの時です。私たちは、こころを静かに、キリストをお迎えしましょう。

最終、最善の事業

最初は、国を豊かにしょうとしました。次に、民衆の知識を進めようとしました。そして、とうとう主イエスキリストによって、貧しい人の霊魂を救おうとしました。すなわち、伝道はわたしの最終の事業なのです。わたしは、伝道より優れて善くかつ美しい事業があるとは思えません。

春と霊

春が来ても、もし神の霊がこころに来ないのであれば少しも嬉しくありません。わたしは、主のうるわしさがないのであれば、花のうるわしさを喜びません。わたしは、花の中に主のうるわしさを見ようと望んでいるのです。もし神が春の山野をうるわしくなさるように、わたしのこころをも神の霊で満たして下さらないのであれば、春の山野を見てもただ悲しくなるだけです。来て下さい、聖霊よ、来てわたしの心の中を春の山野の美しさに劣らない歓喜で満たして下さい。

苦しい境遇に感謝

神は、時としてわたしたちを窮地に追い詰め、そしてわたしたちを救って下さいます。それは、わたしたちの無能と神の大能を教えるためです。私たちは、神によって造られたものであるのに思い上がって、運命を変える力があるかのように錯覚し、神に頼らずに事をなそうとします。ですから、神が時にはわたしたちを見捨て給うのは大変良い事です。そうでなければ、常に神が救って下さっているのを忘れて、無神論者となり生涯を送るようになるからです。

利己主義の信仰

キリストに慰めて頂こうとする人間は多い、しかしキリストを慰めて差し上げようと思う人間は大変少ないのです。神を利用しようとする人間は多い、しかし神にお仕えしようとする人間は大変少ないのです。一度に、数千の男女がキリストにパンと魚を施され飢えを凌ぎました、しかし香油を持ってきてイエスの足に注いだのはただ一人の婦人のおるのみでした。そこで、パウロはピリピ人に次のような手紙を書いております。「多くの人は皆自分のことだけ考えて、イエスキリストを真に求めていません」と。わたしも残念ながら、今日のいわゆるキリスト信者に対して同じ事を言わなくてはなりません。


人としてのキリスト

キリストは人です、そうですキリストのみ人と言えるでしょう。キリスト以外の人は、人であっても人に値しないでしょう。キリストのみ完全に人としての本分を尽くしました。もし、キリストが人であるなら、他の人は人とは呼べないでしょう。キリスト以外の人を人と呼ぶのであれば、キリストはまさしく人ではなくて、神でありましょう。わたしたちは、キリストにおすがりして人並みの生き方をしたいと思います。それは、わたしたちが行動において、目的、手段において、人と言うより禽獣に近い者だからです。

想像と実際

わたしは、人間はみな善人であると想像しました。しかし、実際には人はみな悪を持っていることを知りました。わたしは、善をもって人に接すれば、人は必ず善をもって報いてくれると想像していました。しかし、実際には善をもって接すればかえってわたしを侮ることを知りました。わたしは、どうしたらよいか迷ってしまいました。そして、わたしは決心しましました、キリストを信じようと。キリストを信じ、キリストのように人に侮られても善をなそうと。人は、自分の力で人を愛することは出来ないと知りました。人は、キリストの愛に励まされて、はじめて本当に人を愛することが出来るのです。

主義と政略  

オ−ソドックス(正統)を唱えるのも良いでしょう、しかしながら政略のために唱えてはいけません。新しい神学を唱えるのも良いでしょう、しかしながら政略のために唱えてはいけません。憎むべきは、主義ではなくて政略です。教会の崩壞を恐れ、教会における地位の失われることを恐れ、また世間から異端視されることを恐れて、オ−ソドックス主義を唱えるのは罪悪であり、新神学を唱えるのも罪悪です。真理は教会より偉大です。ですから、真理を究めるためには、われわれは絶対的に自由でなくてはなりません。しかし、政略を真理を求める道に混合させないように注意しなくてはならない。

友愛の刺激

キリストは万人のために死にました。しかしながら、直接的には万人のために死んだというのは誤りでしょう。直接的には、身近の少数の友人のために死に給うたのが真実と思います。愛は普遍的というより個別的、集中的です。私たちは、私たちを憎む世の中の人のために死ぬことは出来ません。しかし、私たちを愛する少数の友人のために死ぬことは厭わないでしょう、それで間接的に私たちを憎む世の中のために死ぬ事になるのです。たとえイエスと言えども少数の友の愛に励まされないなら、十字架の凌辱を忍ぶことが出来ないのではないでしょうか。

伝道の妨害

伝道を妨害するものは、異端でも無教会主義でもありません。伝道の障害は、債務を負う事であり、束縛される事であり、人に対して遠慮する事です。これらの事があると、いかに純粋に福音を懐いていても、人のこころを根底から救うことは出来ません。自由は伝道において第一に必要とされるものです。これさえあれば、少しくらいの異端など問題になりません。もし自由がないなら、正しい教えも聖職も人を真の伝道者にする事は出来ないでしょう。

神の器具

「イエスはお答えになった。わたしの父は今ものなお働いておられる。だからわたしも働くのだ。」(ヨハネ伝五章17節)父がわたしの中でお働きにならないのであれば、私は働くことが出来ません。また神がお働きになるのであれば、わたしは働くことを拒否することは出来ません。自分自身をなくした私は、純粋な神の器具なのです。私ほど弱い人間はありません、また私ほど強い人間もないのです。なぜなら、私の自由はすべて神にお返しして、新らたに神の自由を得たからです。

幸福と不幸

この世の中で最も幸福な事は、人に知られないで善行を積む事です。その次に幸福な事は、善行を人に知られ名声を得る事です。第三に幸福の事は、悪行をして成功しない事です。最も不幸な事は、悪をして栄える事です。第一の場合の人は、天国の住人となる希望があります。第二の場合の人は、現世を楽しむ事が出来るでしょう。第三の場合の人は、過去の罪を償うことが出来ます。最後の場合の人は、地獄へ落ちる危険が常に付きまといます。何れにしましても、困窮の方が安全で、繁栄は危険なのです。ですから、決して前者を嫌ってはいけないと同時に、後者を羨ましく思ってはいけないのです。

神の救済を望む

神は必ずわれわれの国を救って下さるでしょう。それは、わが国の政府によってではなく、わがが国の役人によってではなく、わが国の教師または宗教家によってではありません。神がお択びになった人により、神があらかじめお定めになった方法によってお救い下さいます。神はかってこのようにして国を救いました、ですからわが国を同じようにお救いになるでしょう。わが国の現状は、日々腐敗してゆくばかりのようです。わたしは地上の腐敗に目を落とさず、常に天上に望みをかけています。つまり、人を頼りにせず神を仰いでおるのです。

宗派建設の危険

世の人は私について「内村は無宗派と言っているけれども、実は新しい一宗派を建てつつある」と言います。私はこのことを最も恐れるのです。カ−ライルは宗派を建てませんでした、ですから私はカ−ライルをみならおうと思います。ホイットマンは宗派を建てませんでした、ですから私はホイットマンをみならおうと思います。トルストイも宗派を建てませんでした、ですから私はトルストイをみならおうと思います。私は、カルビンをみならおうとは思いません、ウェスレ−をみならおうとは思いません、その他のいわゆる宗教大家と言われる人をみならおうとは思いません。世の中の宗教家の皆さんは、私が宗派を建設していると聞いても安心して下さい。

悪い口癖  

弱い、弱いと口癖に言います。そうです、神に対しては、わたしたちは弱い存在です。しかし、人に対しては決して弱くはないのです。わたしたちキリスト信者は、人に対しては強いのです。そうです、わたしたちは人の顔色を窺がったりしません、人との交際をむやみに求めません、人の賛成を得てからでないと行動できない、と言うようなことはありません。私たちは、予言者エレミヤと同じように「堅い城、鉄の柱、銅の築地」になることを求めます。さあ、今から、弱い、弱いと言うのを止めなさい。

わたしを護る者

わたしを護るものは軍隊ではありません、法律ではありません、世論ではありません、教会の同情でもありません。わたしを護る者は、神です。神は、聖霊でもってわたしのこころを護って下さいます、また愛をわたしの友人に降らせわたしを助けるように仕向けてくれます、また敵の意図を砕きわたしに害を与えないようにします。わたしは、いつも神に護られているので安全です。世の中がたとえ無政府状態になって、悪人がほしいままに悪いことを行うようになっても、神がわたしを護ってくれるのでわたしは安全です。
処世の方法

わたしにも、世渡りのための方法があります。それは、いたって簡単な方法です。復活して今も活きておられる神を信じ、その指導を仰ぎ、その霊を吾が霊として罪悪の世と闘う事です。この途には十字架が待っているかもしれません、肉親や友人との反逆があるかもしれません。しかし、最後は天の国に間違いなく達します。危険なように見えて最も安全な方法です。たいへん狭い途ですが真っ直ぐな途です。別に多くの知識を必要とせず、盲人も簡単に辿って行くことが出来ます。世の中の多くの人は、わざわざ曲りくねった偽りの途を探って行くのです。何故真っ直ぐな途を選ばないのでしょうか、わたしには不思議でなりません。

平和を取り戻す困難

平和を破るのは簡単です。しかし、復旧するのは難しいのです。愚者であっても簡単に破ることが出来ます。しかし、賢者であっても復旧させるのは、容易ではありません。平和が貴いのは、その回復が難しいところにあります。衆愚の意見に惑わされてこれを破り、怨恨を千載に遺すようなことがないように注意しなくてはなりません。

憂いてはいけません

憂いてはいけません、朴訥(ぼくとつ)である青年よ。君は常に俊才怜悧(れいり)な人から愚か者と、馬鹿にされ、世間の事にあまり通じていないため不用な人間のように思われます。しかし、全能の神はかえって君のような人間を必要とされ、君に人間では達する事の出来ないような智恵と希望と喜悦をお与えになるのです。逆に、俊才怜悧な青年よ、言うのを止めなさい。自分は、人を統制する能力があるし、世間の風潮を観察する鋭い目も持っているので、伝道師となって教会を組織し、教理を伝播させようと。君のような青年は、伝道師になるのを止めて、早く他の職業を見つけるべきなのです。

神の僕(しもべ)

信者は神の僕です。主人である神より特別な仕事を委ねられた人です。ですから、かれはこの仕事をやり遂げるまでは死んではならないのです。また、かれも委ねられた仕事が終わるまでは決して死なないのです。リビングストンが、「われらは天職を終わるまでは不滅であろう」と言ったのは、まさに信者の確信です。神の僕において、まだ天職の完成しないものがある場合は、かれは死なないのです。しかしながら、かれがすでに果たすべきことを終わったのであれば、かれは死にます。その時、かれはもっと長生きしたいと神に願ってはなりません。すでに用の無い人間は、この世の中にながらえる必要が無いのです。わたしは主人の用を果たしたならすぐにこの世より去ってよいと思っています。ですから、かれは心の中で、「わたしは長く生きることを願わない、ただ神の用をなそうと願うだけだ」と言うべきです。

ただ一つの神

神は一つです。ですから神は非常に単純です。一つですから、入り組んだりせず、繁雑、複雑ではないに決まっています。清いこころであれば、誰でも理解できるに決まっています。ちょうど赤ん坊のよで、天真爛漫、偽りのない善そのものに決まっています。神が理解できないのは、複雑のためではありません。あまりにも単純すぎ、透明すぎるからです。人間は、簡単に多くの神を信じます。しかし、簡単にただ一つの絶対的な神を信じようとはしません。あまりにも純粋なのは耐えられないのです。そこで、多くの不純な神を作って自分の不潔を覆い隠そうとするのです。


現世の価値  

現世は天の国に入るための手段とするならば、偉大な価値があります。しかし、現世を生きる事の目的とするならば、塵(ちり)ほどの価値もありません。現世は最良の学校であり、最善の修行場です。しかし、永住の住居に適さず、静かな休息所でもありません。現世に苦痛の多いのは、わたしたちが現世に安堵しないためです。神は、人類を非常に愛するために、われわれに多くの苦しみを与え、われわれが現世を恋慕することがないようになさっておるのです。天の国への希望が無いならば、わたしはとてもこの現世に生きることは出来ません。

永生の尊さ

永生が尊いのは、永いためではないのです、聖(きよ)いためなのです。ですから、永さを求める人には決して得る事が出来ないのです。永生は神の生命の事です、神の生命ですので永くならざるを得ないのです。ですから、単に永生とのみ考える人は不幸な人です。永生が貴いのは、量にあるのではなくて質にあるからです。
人生の最も重要な事

私たちは、今後世界が、地球がどうなってゆくのかを知る事は出来ません。しかしわたしは、神が神を愛するものを聖霊でもって神の子として下さることを知っています。人生で最も重要な事は、政治ではありません、軍事的なことでもありません。人生で最も重要な事は、移り変ってゆくこの世に生きている間に移り変わらない来世に入る準備をする事、宗教なのです。わたしたちは、この世界が、滅びに向かっている間にも神の子となって永生(かぎりなきいのち)を受け継ぐことが出来るのです。

最後の勝利

わたしの勝利は、戦いに勝って勝つのではありません、真理に従って勝つ事です。わたしの敗北は、戦いに負けて負けるのではありません、真理に背いて負ける事です。真理を探究することは、剣を磨くことより大切です。真理は、永久に勝つための武器ですが、剣は、わずかいっときの利益を得るための機械にすぎません。ですから、わたしたちは、宇宙の最後の勝利者になるためには、剣によるよりはむしろペンをもって戦うべきなのです。

災い

盲目はどこの国でも、天罰のように思われがちであるのに、イエスは「神のみわざが、彼の上に現れるためである」と、むしろ恩恵が顕われる機会だと言われたのでした。このような大胆な意見を、わたしは知りません。これは神の子でなければ、とても言うことは出来ないでしょう。イエスのこの言葉によって、人類の災いに対する考えが一変したのです。そうです、一変すべきなのです。災いではなく、天罰ではなく、神の怒りの表現でもなく、その反対なのです。身に起こる全ての苦しみは、神がわたしたちに与え下さる恩恵なのです。これは、イエスが人類に特別伝えて下された大福音です。ですから、キリスト信者は、みなこの福音に従って、人生の諸問題を解釈すべきなのです。

最後の審判

最後の審判は必ず来ます、しかし恐れることはありません。神は御自身では人を裁かず、審判のすべてを子であるキリストに委ねたからです。わたしたちは、キリストが裁き給うと聞いて、恐怖は去り感謝が湧いてきます。神と人の間に立つ中保者、人を神に執りなしてくれる人、人の罪の軽減と赦免を願う人、柔和な救い主、罪人の友....そのキリストに審判を委ねて、神は罪の軽減と赦免を期待しているのです。ですから、多くの罪を犯したわれわれであっても無罪放免の道が開けたのです。私たちは、裁く人が誰かしっているので何も恐れず台前(みまえ)に立つ事が出来るのです。

神の器具

神がわたしを罰し給うのは、わたしに罪過があるためです。しかし、わたしの不浄は神がわたしを使用し給うときの妨げになりません、神は霊火でもってわたしを潔め給うのです。神はわたしの愚を通して神の智を伝え、わたしの弱さを通して神の強さを顕(あらわ)し給うのです。土塊をもって人を創造(つく)り、これに生命を吹き入れ給いし神は、わたしを神の聖霊(みたま)の器となし給うのです。

科学の嘲笑者 

科学を嘲笑するキリスト教信者(実際は宣教師信者)が多いいのです。彼らは、キリスト教は科学以上で、科学をもって説明できないと言います。キリスト教を超科学的に解釈しますが、かれらは生涯の方針を定める時は、信仰によらないで科学に頼る事が多いいのです。彼らは飢えを恐れて、悪いと知りながら常に宣教師の助けを求めます、また良いと知りながら毅然と立ち独立することが出来ません。彼らが、科学を排する事は一向に構いません、しかし超自然的解釈を聖書にするのであれば、自分自身の生涯の方針も超自然的に定めなければならないでしょう。常に飢えを恐れて独立を躊躇するようであれば、科学を嘲笑する権利などありません。

ナポレオンとキリスト

次のような言葉があります、「ナポレオンは、フランスの、五十万の青年の命を犠牲にして、わずか数年間フランスの皇帝になったに過ぎない。しかし、キリストは、自分一人の命を犠牲にしただけで、世界の数え切れない人の命を救った」と。皇帝の冠と言うのは、なんと高価なものなのでしょうか、それに引き換え神の恩恵と言うのは、なんと廉価なものなのでしょうか。その間に、天地雲泥の差があります。私たちキリスト信者は、ナポレオンを崇めるものではなくて、十字架のイエスキリストを模範にするものであることは、申すまでも無いことです。