聖  句内村鑑三所感集」(岩波文庫)及び「一日一生」(教文館)より

                 注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)               


二つの美しき名あり、その一つはイエスキリストにして
その二は日本なり...内村鑑三



実験の宗教

神によらないで真のキリスト信者となることは、実は不可能のことなのです。キリスト教は学問や理論ではありません、ですから知識でもって探求出来るものではありません。制度でもありません、ですから儀式でもって入ることは出来ません。キリスト教は、キリストのうえに神自らが顕われたものですので、神が自らの聖霊を顕わされた人でなければ信じる事は出来ません。信仰は実験です、神が自らを顕し給う実験を経験しなければ、いくら書物を読んでも、キリストに顕われた神の真理を受ける事は出来ないのです。

霊妙なる宗教

キリストは神なりとするのは、人なりとするよりキリスト教の真の意味に近いと思います。肉体の復活はあるとするのは、有り得ないとするよりキリスト教の真の意味に近いと思います。キリスト教の外見は、学問や理論よりむしろ迷信に近いかも知れません。しかし、実験に基づく宗教ですので迷信ではありません、合理的なものです。霊妙でない宗教は、宗教と言えないと思います。私は、神秘的な要素を除こうとする近代の、いわゆる「新キリスト教」なるものをほとんど信じておりません。

キリストの裁き  

未来において、神の裁きは必ず有ります。しかし、愛の神は御自身では人を裁かず、審判はすべて子であるキリストに委ねました。恵み深く赦しを好みますキリストに裁かれることは、この上ない神の御恵みです。キリストは、人を裁き給うにあたり、その人の憐れみ深い性質を基準とします。その基準は、正義を唱える人の清廉潔白さではありません、信仰を唱える人の教義や儀式や伝道についての知識ではありません。憐れみです、赦す心です、恵む性質です、愛の行いです。人間の永遠なる運命は、これによって決められるのです。最後の裁判(さばき)は、愛の裁判なのです。愛を施したか、愛を施さなかったのか、それによって限りない刑罰を受けるのか、限りない生命を受けるのかが決定されるのです。

神とともに歩む

「歩む」ということは、「静かに歩む」という意味です。飛ぶ事ではありません、走る事でもありません、文字通り歩むことです。雄飛というような、疾走というような、絶叫というようなことをなさないで、忍耐強く神を頼り、その命にしたがって静かに日々を送ることなのです。あえて大事業をしようとはせず、大伝道を試みるようなこともせず、また大奇跡を行おうともしない事です。ただ神の命を重んじ、み言葉に従い、神を信ずる事だけが務めと信じ、何もしないような生涯を送る事です。信仰の生涯と言うのは、大部分忍耐です、静粛です、待望です、神とともにあって満足する事です。たとえ神から何も受ける事が無くても、自分自身を頂いたことで満足し、他になにも要求しない生涯なのです。

神の救済方法

善を行いましょう、次から次へと善を行いましょう、善の大軍によって悪の小軍を圧倒しましょう。善の量をどんどん増やして悪をほとんど無いくらいまで少量にしましょう。これこそ自然の浄化方法です。世界中の海水をもってすれば五大湖の汚れも容易に浄化できるでしょう。窓を開け放てば、夜中じゅう締切って汚れた空気も消え去るでしょう。死に打ち勝つために生を考え、暗闇には光りを照らし、怨みのこころを愛で満たす。これが、神の救済方法です。わたしたちが神の子となるには、悪に対し悪で対抗し、怨みのために復讐を思い、暗闇の中で暗闇を追い払って光を迎えようとするような愚かなことをしてはならないのです。

神の選択

私たちは、何をもって本当に神に選ばれたと知るのでしょうか。それは、わたしが深い興味をもって聖書を読むことによってもたらされます。キリスト文学としてではなく、また聖書の解釈の研究でもなく、聖書そのものが本当に自分と一体となったように感じられて、はじめて信仰が本物となったことを知ります。聖書は神の書物です。この書物と一体になって、わたしは本当に神に選ばれたことを知ります。聖書と一体となることほど幸いなことはないでしょう。
  諸聖人と教会  

聖ヤコブは、人は善行によって救われると言いました。聖パウロは、人は信仰によって救われると言いました。聖ヨハネは、人は兄弟を愛することによって救われると言いました。そして、ヤコブにしたがって、ロ−マカトリック教会が出来ました。パウロにしたがって、プロテスタントの諸教会が出来ました。しかし、ヨハネにしたがうと教会の必要が無くなるのです。ヨハネの福音書及び手紙(疑わしい第三を除いて)には、一度も教会の文字を用いていないことに注意をしなくてはなりません。

善の報賞

善行をして直ぐ報われるのは、その時点で善行の効力は消えます。善行をして報われない場合は、その効力は後世まで存続します。善行をしてそのために迫害を受けたような場合は、その効力は増大され、後世で尽きることなく、その実を結んで永久に存続します。聖書では「喜べ、躍り上がって喜べ、天においてあなたの報賞は多いいのだから」と書かれています。ですから、最も幸福なことは善行をして報われないばかりか、かえって善行のために迫害されることなのです。

単独の勢力

カ−ライル一人は、イギリス人の中にあってイギリス全聖公会に優る勢力があります。トルストイ一人は、ロシヤのみならず世界中でロシヤ全正教会に優る勢力があります。このことによりましても、人を善に導くことにおきまして、教会あるいは他の団体に頼る必要性のないことを知ることが出来るのです。いかなる人でありましても、神を信じ、自己を頼り、人を愛して、たとえひとりでありましても広く人々を善に導くことは可能なのです。

教会の独立とキリスト

 
ことさら独立について話す必要はありません、キリストについて話しなさい。独立については自分一人の心の中におさめ、自分自身はその信念を貫いても、決して人に勧めるようなことはしてはならないのです。重きを教会の独立においてキリストに置かなければ、独立というのが一つの教派になってしまうでしょう。独立、独立、と言ってなった「独立教会」なるものは、「組合教会」「メソヂスト教会」「監督教会」などと称する教会と何ら異なるところはないのです。他の色々な教会から独立する、真の独立教会を建てようと思うのであれば独立と教会については一切話さず、ひたすらキリストについて話すべきなのです。

新教会の出現

教会は、次々と新しく出現します。ロ−マカトリック教会の次にル−テル、カルビン、ウェスレ−等の教派教会があります。その教派教会の次に、わたしが唱える無教会が出現してもよろしいのではないでしょうか。無教会と言うのは、愛の法則以外なんらの法則をも認めない教会のことです。ですから、このような教会が最高の教会であることは、言うまでもなく明らかです。「God is marching on(神は進みつつあり)」。わたしたちは、新世紀において、詩人と予言者とが理想とする新しい教会の出現に、努力したいと思うのです。

キリスト信者の春

わたしのこころの中に、春はすでに来ています。自然界の春ももうじきやってきます。鳥が囀るようになって、こころのなかの喜びとひとつになるでしょう。花は、霊なる栄をまるで顕(あらわ)すように咲くことでしょう。春の陽がわたしのこころのなかに、あるいは戸外に溢れることでしょう。わたしの跳躍の時が、まさにいま始まろうとしています。

福音の器具としてのわたし  

わたしに、口が備わっていることを感謝します。わたしは、これでもって神の福音を述べようと思います。わたしに、手が備わっていることに感謝します、これでもって神の福音を伝えようと思います。わたしに、足が備わっていることに感謝します、これでもって神の福音を運ぼうと思います。わたしは、福音のために造られました。そして、わたしは福音を伝えるための器具であると思います。

恩恵の代価

神は無償で恩恵を人に下さいます。しかし、わたしたちは代価を払わないで、その恩恵を自分のものとすることは出来ません。結局、多く払う者が多くを得、少ししか払わない人は少ししか得ることが出来ないのです。富者はその所有の万分の一を捧げて恩恵の万分の一を得、貧婦は持っているすべてを分かちて恩恵のすべてを得ました。(ルカ伝二十一章1、2節)これは、宇宙の法則です。福音を恥じとする人は、一生福音を聞いても恩恵にあずからないでしょう。福音のために命を捨てる覚悟があって、はじめて福音の恩恵のすべてを有することが出来るようになるのです。多く払う者が多くを得、少なく払う者は少なくしか得る事が出来ないのです。われわれは、神を怨んではいけません、自分を責めるべきです。自分が多くを欲しなかったのであるから、得る事が出来なかったのだと認めなければいけないのです。

今年の春

自然は、なんと美しいのでしょうか。この自然と共に喜べないのは、自然のせいではありません、わたしたちに悲痛のこころがあるためなのです。野原は一面すみれの花が咲き、まるで紫のジュ−タンをひきつめたようです。丘はさくらが満開で、まるで白い宮殿のようです。神の声にこたえて、春は山や野を花で美しく装っています。それなのに、多くの人がこの春の素晴らしさを心から楽しむことが出来ないのです。大変悲しいことです。

不朽の花と浩然の気

春がやって来ますと、花が咲きそして散ってゆきます。一年のうちで春の栄光に満ちた日は、まるで一日のように感じられます。また一日の栄華は、一瞬のように感じられます。これが現世における定めです。ですから、わたしはこのようなはかない栄光、栄華に頼ろうとは思いません。「草は枯れ、その花もなくなってしまいます。しかし、神の言葉は変わることがありません」。花はさくらではなく、聖書です。いかなる世の中となろうと、不朽の聖書です。最も善いものは、宇宙の神の聖い霊です、その次に善いものは地上を払う清い風です。小人閑居して不善をなすと言われるのは、この霊とこの風に触れないためです。わたしたちは、出来るだけ多くこの二つの霊気に触れて、常に喜びをもって働きたいと思います。

成功に至る大道

真理は、純粋の理論において真理であるだけではありません。真理は、実際においても真理です。真理が最後の勝利者となるのは、真理が万物の必然的な到達点であるためです。わたしたちは、常に真理と共に生活し、わたしたちの舟を成功の河流に浮かべなければなりません。その河口に到着するまでは、かなりの妨害もあるでしょうが、水に浮かべさえすれば、水が高いところから低いところに流れるように、繁栄の大海に到達するのは間違いのないところです。わたしたちは、成功の秘訣をあれこれと探し求める必要はありません、真理と共に生活しなさい、そうすれば真理は間違いなく成功の楽園に導いてくれます。

天意の遂行

神と自然とを欺くことは出来ません。威嚇しようと、策術をもってしようと神の意志を曲げる事は出来ませんし、自然の法則も改めることは出来ません。如何なる智恵ある人も、如何なる粗暴な人であっても神と自然に対してはなす術はありません。天意は間違いなく行われます、それに対して人間の浅はかな計画は失敗の終わるでしょう。

わたしたちのプロテスタント主義

神の他に、何物にも頼らない。これが本来のプロテスタント主義です。もし教会に頼る必要があるのであれば、ロ−マカトリック教会に逆戻りします。組織の完全さ、系統の確実さにおいてロ−マカトリック教会に優るものはないでしょう。しかしながら、ル−テルが信仰の自由を唱えて立ち上がってからは、地上の教会は不必要となったのでした。わたしたちプロテスタント主義者も、信仰の養成のために教会を利用する事があるかもしれません。しかし、教会の指導を受けなければわたしたちの救いは完成されないと信じるのは、本来のプロテスタント主義に反します。わたしたちは、忠実なるプロテスタント主義者として、教会の主権にはあくまでも反対します。
真の伝道とは  

伝道と言うのは、単なる言葉の伝達ではありません。精神を傾注する事です、自分自身を空しくして他人を満たす事です。ですから、伝道より辛い仕事はないと思います。伝道と言うのは、まさに犠牲的精神でなさねばなりません。人の霊魂のために身を尽くす事です。(コリント後書12書十二章十五節)、民の罪のために自己を捧げる事です。(ヘブル書七章27節)ですから、伝道こそキリストそのものと言えます。

日本人の宗教心

私たちのこころの友は、ウエスレ−よりも法然ですし、ム−デ−よりも親鸞です。日本人の信念の傾向みたいなものがあって、宗教もそれに沿った形が自然であると思います。私たちが、イエスに祈る心は、法然や親鸞が阿弥陀仏を拝む心に似ているでしょう、必ずしも英米人のキリスト信者がキリストを信じる心と同じではありません。もちろん、イエスを去ってシャカに宗旨替えをするというのではありません。私たちは、神が私たち日本人に賜わった特殊の宗教心をもって、私たちの主イエスキリストを崇めたいと思うのです。

信仰の鼎(かなえ)の足

わたしは聖書と自然と歴史を究めようと思います。そしてこれら三者の上にわたしの信仰の基礎を定めようと思います。神の奥義と自然の事実と人類の足跡、....わたしは、わたしの信仰をこれら三つの足の上に築いて誤りないと思います。科学をもって聖書の上に積ってくる迷信を排します、聖書でもって科学の僭越を矯正します、そして常に歴史が提供してくれる常識に照らして両者のバランスを保ちます。三者は智識の三位(さんみ)です、その一つが欠けてもわたしたちの智識は円満になりません。また、わたしたちの信仰は健全とならないのです。

真のクリスチャン

真のクリスチャンになることは、わたしたちが好んで出来るというものではありません。クリスチャンは神の特別なる創造物なのです。ですから、もしなれたのであれば心から神に感謝するだけです。私たちは努力することによって、いわゆる世に言う義の人となることが出来るでしょう。しかしながら、神にとっての義人であるクリスチャンには、人間の力ではなれません。そしてこのことは、真のクリスチャンになった人しか知ることの出来ないことなのです。

 

キリスト教国  

この世の中にキリスト教国と言うようなものはありませんし、あってはならないと思います。キリストは、「わが国はこの世の国にあらず」と言っております(ヨハネ伝十八章36節)。ですから、キリストの国はこの世に建設されるべきものではありません。その国には、国境も軍備も政府も警察も法律もあってはならないのです。キリストの国は、愛の国です、自由の国です、霊の国です。今は、信者一人一人の心の中に存在する国です、そしていつの日か全世界が一つとなって、キリストの国が出来ることがあるでありましょう。現在、キリスト教国と名乗っている国がありますが、キリストの名に眩惑されてはいけません。

満足な地位

私は、教会を作りません。しかしながら、キリストによる罪の赦しについて広く宣べ伝えたいと思います。私は、自分の教派を作ったり特定の教派に属したりするようなことはしません。しかしながら、慈悲深い神の恩恵によりまして、クリスチャンとして世を去りたいと思います。私には、福音以外に私の注意をひく仕事がありません。また、わたしはクリスチャン以外に、私の名の前に付ける名称を求めません。私は、こころから今の心境に満足しております。現在の地位に満足することを神がお許し下さるのであれば、わたしはなんら心の乱れることはありません。

平和の長短

武力でもって実現させた平和は瞬間的な平和です、政治によって実現した平和も暫定的な平和だけです。そして、キリストの福音をもって実現した平和のみ、永久的な平和となるのです。平和は、その長短にかかわらず貴いものには違いありません。しかし、その長いのは短いのに勝ります。ですから、わたしは軍人や政治家にならず伝道師になることを切に望むのです。


まず聖書を学びなさい

まず聖書によって、キリスト教がどのようなものなのか探りなさい。その後、その真偽を糾明しなさい。その本質を探らないで、その真偽を評価するほど滑稽なことはないではありませんか。しかも、世の中のキリスト教を論じる者の多くの人は、キリスト教について聞いたり読んだりするものの肝心の聖書そのものを深く探求しておらないのです。学問の自由が各人にありますので、とやかく言いませんが、聖書をよく知らないでキリスト教を論ずるようなことは、真に志しを持つ人のする事ではありません。キリスト教は聖書を学ばなければ、到底その本質を知る事が出来ないのです。

天地創造  

「はじめに神、天地を創造(つく)りたまえり」、この一節にキリスト信者の宇宙観と人生観の全てがあります。宇宙がどんなに大きいといっても、全て神が造られたものです。ですから、神が変更したり改造したり、ある場合にはその運行を中止または早めることなど自由自在です。父なる神の造られた園(その)であるので、その中に住んで少しも恐れることはありません。日本を去って他の国に行こうが、そこに神は必ず居ります。地球を去って他の惑星に行こうが、そこに神は必ず居ります。この宇宙を去って遠く別の宇宙に行こうが、そこに神は必ず居ります。神と共にありまた神の子となれば、宇宙は住みやすい楽園となるでしょう。神の偉大さをたたえ、その栄光を唱えながら死の眠りに就くのであれば、神は御手にわたしを受け取り、新しき永遠の地にわたしをいざなって下さるでしょう。

神殿

「神は自分にかたどって人を造れり」と言われます。また、「真正の神殿は人なり」と言います。また、「なんじらは神の殿(みや)にして神の霊なんじらの中にいます」と言われます。ですから人の体は、宇宙にかたどって造られたものなのです。ですから、人は外形でも神をあらわすものなのです。これは、神を人類視しようとするのではなく、人を神が与えてくださった高い位置まで引き上げようとするだけなのです。人は自分自身の肉体を必要以上に卑下する傾向があり、獣などのような単なる肉のかたまりのように考え、いかに貴重な神聖なものであるかを知りません。ですから、みずからの体を汚すことは、神の神殿を汚すことであることを知るべきなのです。わたしたちの体は、聖なる神の像にかたちどられて造られたまさに神殿なのです。

罪より免れる方法

善を神とするならば、悪は神から離れることです。盗んだり、殺したり、姦淫したりするのは神を離れた結果起こることです。ですから、罪そのものとは違います。わたしが、人を殺して罰せられるのは、わたしが犯した殺人罪のためと言うより、わたしが神を捨てたためなのです。神がわたしと共にあって、わたしが神と共にある時、わたしは罪を犯そうとしても犯すことは出来ません。罪そのものがわたしの中にないからです。わたしが不完全であり、他人をいやしめ、自分の欲望のために使役し、傲慢であり、人を愛しないのは、全てわたしが神から離れたためなのです。ですから、今すぐこころを改めて神に帰るのであれば、わたしたちは善人となれるのです。罪より免れる方法は、これしかありません。


特別な宗教  

神の存在を信じるからと言って、必ずしもキリスト教ではありません。キリスト教は特別な神を伝えます。正義を貴ぶからと言って、必ずしもキリスト教ではありません。キリスト教は特別な正義を唱道します。永生(かぎりないいのち)を説くからと言って、必ずしもキリスト教ではありません。キリスト教は特別な永生とこれに入る特別な方法とを教えます。キリスト教は漠然とした理想の宗教ではなくて、特別な教義を伝え、特別な義務を要求する宗教です。そうして、その特別なものが何なのかを教えてくれるのが聖書であるとするものです。キリスト教は聖書によらなければ、どうゆうものであるかを知る事が出来ないのです。

宇宙の精算

宇宙は、正義を行うための精密な機関です。ですから、この宇宙にあって善をなしてその褒賞を受けない事は有り得ません。また、悪をおこなってその刑罰を受けないことは有り得ません。宇宙は広大ですから、善悪の反応は直ちにそれを行った方面から来ないのです。しかしながら、東に向かって行った善行は西より報われ、北に向かって行った悪は南から罰せられるのです。宇宙は大銀行のようです、Aに払うべきものをBに払い、Bより受けるものをCに請求する、しかも必ずバランスされます。私は、この信用すべき宇宙にあって惜しむことなく、出来る限りの善を全ての人に向かってなそうと思います。

有利な取引

受けることには慎重でありなさい、しかし与えることには寛大でありなさい。そうして自分の不足を補うには神の霊の賜物をもってしなさい。もし朽ちてしまうであろうこの世の物でもって、朽ちる事のない人の心を喜ばすことが出来れば、何物かこれに優る有利な取引があるだろうか。キリストの言葉「なんじら不義の財(たから)をもって己が友を得よ」(ルカ伝16章9節)は、このことをわたしたちに教えようとしているのではないだろうか。

金の力によらない

この世の中に、金の要らない一大事業があります。それは、キリスト教の伝道事業です。手に一冊の聖書携え、心に一片の信仰を懐けば、能力は天から降るように与えられます。そして、この世に天国をもたらす事ができるのです。外国の伝道会社に惑わされてはいけません。伝道は商業でも工業でもありません、伝道は霊でもって霊を養う事です。私たちは、キリストにより同胞を救うにあたり、外国人の資金を一切必要と致しません。

神は愛なり  

神は愛です、ですから神のわたしたちへの最大の恩寵は愛です。神は必ずしも私たちに権能(ちから)を賜いません。神はイエスにこれを賜いませんでした。神は愛する子が敵にあざけられ、ののしられる時にあたっても、天から万軍を呼んでほろぼす権能を賜いませんでした。イエスは苦しめられましたが、屠場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前にもだする羊のように、口を開きませんでした。しかし、神はその時著しい愛をお与えになりました。彼は、十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてください、そのなすところを知らないのです」と叫けばしたのでした。十字架上のイエスには、己を救う能力(ちから)はありませんでした。しかし、神の子でした。愛のほかなにも持たざりし、弱い、助けのない者した。

心霊の貧

天国の富者になろうと欲する人は、地上では赤貧の人でなくてはなりません。しかしながら、貧の極限は物質的な、肉体的な貧ではなくて心霊の貧です。赤貧洗うがごとしという人も、時には天地に恥じる事がないと言います。このような人は、赤貧と言っても心霊的にはたいへん富める人です。貧には内なる貧と外なる貧があります。心霊の貧者は、内に何ものも持たない人です。その実例が使徒パウロです。彼は、心霊の貧しい人でした。誇るような智恵もなく、よるべき徳もなく、彼が自白するように「彼は罪人の首(かしら)」でした。そして、神の前に立って謙虚の底にまで引き下げられました。しかし、キリストがその諸徳を認めてくれて、栄光の天にまで引き上げられたのでした。

天国の市民

如何なる人でありましても、自分で望んで天国の市民となることは出来ません。血肉は、神の国を継ぐことは出来ません。人の知識も才能も、財産も地位も、神の子となるには十分でないのです。ただ神が選び給いし人のみが、主なる神の栄光を見る事が出来るのです。天国の建設は神の事業です。人が関与できるのは、ただ労役者としてだけです。その計画、その進行、その完成はすべて神の聖旨(みむね)に従います。神には神のご意志があります。人は、これを変更し、また伸縮したり出来ません。神が召したまいし人だけが、その子と称されることが出来るのです。神のお召しをこうむることなく智恵ある人も、能力(ちから)ある人も、貴い人も、天国の市民となることは出来ないのです。


永久の小児  

私は、固まろうとは思いません、いつまでも伸びようと思います。そして、いつまでも子供のようでありたいのです。私は、祭司になろうと思いません、予言者になりたく思います。神学者になりたくありません、詩人になりたく思います。政治家になりたくはありません、むしろ革命家になりたく思います。私は、永久の小児として神の宇宙に存在したく思います。

私の義であるイエスキリスト

キリストはわたしの全てです、私の義です、命です、救いです、私の洗礼です、聖餐です、教会です。私は、キリスト以外に何の儀式をも制度をも求めません。霊によって始まりました私が、肉体によって完成されるとは思いません。もし、今わたしが何らかの律法や教則または儀文によって完成されるのであれば、私はキリストに属さなくなります。私は、神の恵みを空しくしません。ですから、全ての律法よって死んでも構いません、わたしの義であるイエスキリストと共に生きたいのです。

艱難の解釈

艱難は、消極的に解釈してはなりません。積極的に解釈すべきです。これを、神の刑罰であるかのように解釈してはならないのです。神の恩恵として解釈すべきなのです。神が怒りを表わしたと解釈するのではなく、神の慈愛が顕われたと解釈すべきです。雲も風も神が与えて下された有りがたいものとして解釈すべきです。艱難はすべて肉体にとっての艱難であって、霊的には幸福のもとです。霊の幸福と解釈すれば、すべての艱難は、艱難でなくなってしまいます。

福音の性質

福音は罪人のための福音です、弱い人のための福音です。ですから、私たちは、いつでも福音について語ることが出来るのです。また、どのような人であっても福音を信じてよろしいのです。自分は罪を犯したと言って、福音を信じる資格がないなどと思う必要はありません。また、弱いことはかえって福音を信じる上で助けになります。福音は、人生おける落下防止の神の救い網なのです。罪と弱さを自覚する人でこの神の救いの網から漏れるような人は、ひとりもいないのです。

神の愛  

誠実であられるあなたの神は、宇宙の主宰者であって無限の愛であることを知りなさい。この神に対するあなたの位置は、国王の臣下と言うようなものではなくて、慈母に対する赤子の位置にあることを忘れないようにしなさい。私たちは、神より幾万というものを得ますが、その万分の一も返すことができないのです。自分のもののように思っていた、われらの誠実そのものでさえ神からの賜物であると知って愕然とします。われらの財をも、身をも霊をも神に捧げたとしても、神はただ神のものを受けただけのことなのです。神は与えるものであり、わたしたちはそれを受けるものです。神は恵むものであり、わたしたちは恵まれるものです。神は愛するものであって、わたしたちは愛されるものです。神の愛は愛するだけで、愛されることを必要としません。ですから、神を愛そうと望む人は、神より愛されざるをえないのです。

山をも動かす信仰とは

この場合の信とは、霊の能力のことです。これは人が万物の霊長として、神より授かる特権を与えられたものです。この能力をもってすれば、人が自然界の上でほどこそうと願って、ほどこすことが出来ないことはないのです。そうでありますのに、人類は神を離れると同時に、この能力も失ってしまいました。人は、自然を支配するのではなくて、自然の束縛の中で苦しんでいます。そして、キリストが降世した一つの大きな目的は、人類にこの最初の特権を再び与えるためなのです。キリスト御自身が、常に自然の上に超越してその束縛を受けられなかったように、キリストを信じ、キリストを愛する人にもまた、この能力が与えられるためなのです。

善事とは

善事とは、神を信じることです。悪事とは、神よりはなれて人と自己に頼ることです。このほかに、善事も悪事もないのです。ですから、病気は必ずしも悪事でありません。もしわれらを神に導いてくれるなら、病気もまた善事です。健康は必ずしも善事ではありません。もし人を自分に頼らせ、自分を素晴らしいとうぬぼれさせるのであれば、健康はかえって悪事となります。貧困も、その逆の富貴も同様です。キリストは言います。「なんじ、なにゆえに善についてわたしに問うのか、善は、ひとつのほかにありません、それは神です。」善は、神と離れて他にあるものではありません。神と、神に向かうこと、これが善です。神より遠ざかる、神に逆らうこと、これが悪です。善悪の区別はこれだけです、またこれが生死の区別にも当てはまります。


善事とは

善事とは、神を信じることです。悪事とは、神よりはなれて人と自己に頼ることです。このほかに、善事も悪事もないのです。ですから、病気は必ずしも悪事でありません。もしわれらを神に導いてくれるなら、病気もまた善事です。健康は必ずしも善事ではありません。もし人を自分に頼らせ、自分を素晴らしいとうぬぼれさせるのであれば、健康はかえって悪事となります。貧困も、その逆の富貴も同様です。キリストは言います。「なんじ、なにゆえに善についてわたしに問うのか、善は、ひとつのほかにありません、それは神です。」善は、神と離れて他にあるものではありません。神と、神に向かうこと、これが善です。神より遠ざかる、神に逆らうこと、これが悪です。善悪の区別はこれだけです、またこれが生死の区別にも当てはまります。


生涯の決勝点  

生き生きとした生は美しい、しかし死はもっと美しいのです。生のための死ではなく、死のための生です。美しく死んだ人が、生をまっとうしたと言えます。競走におけるように、生涯の勝敗は最後の一分間によって決定されるのです。この一分間に後れをとるとあなたの生涯は失敗に終わるのです。生涯の決勝点において、神より特別の力を賜わり、走るべき道程を走り尽した人は福(さいわい)です。

健康以上の幸福

生命と健康とは大きな恩恵です。しかしながら、死に勝つ能力はさらに大きな恩恵です。私たちは、祈って健康を回復することが出来ないかもしれません、しかしながら神は健康回復よりさらに優れた死に打ち勝つ能力を与えて下さるのです。私たちは、いかなる人間であろうと、一度は必ず死ななければなりません。この必ず死ななければならない私たちにとって、死に打ち勝つ能力は神が与えて下さる最大の恩恵と言わなければならないでしょう。幸いなるとは、キリストによって死に打ち勝つことです。
死の歓迎

死は信者にも来ますし、不信者にも来ます。義者にも臨み、悪者にも臨みます。しかしながら、義者に臨んで死は彼を完成させ、悪者に臨んで彼を破滅させます。呪うべきは、死ではなく罪です。罪を除かれた者には、死はなにもなすことが出来ません。かえって、その人を清め、磨き、そして神の前に完全(まった)き人として立たせるのです。神を信じ罪を赦されて、わたしたちは死さえ歓迎することが出来るようになるのです。

自己の引き渡し

イエスに自分自身を引き渡して、わたしたちの務めは終わるのです。そうです、何かしようにも何も出来ないのです。わたしは自己としては死んだ人間です、「われ」という人間が存在しないのです。しかしながら不思議なことに、わたしが自己として死ぬ時、その時わたしは直ちに生き返るのです。その時、自己と異なる者がわたしの内側より起こって、わたしを活かし、わたしを働かせるのです。その時、わたしの思想は新しくなり、わたしの心の目が開かれ、わたしの霊魂が活気づいて、わたしの疲れた肉体までもが生き返ったように感じるのです。

神と制度 

精神は、制度となることによって死にます。これは歴史の法則です。モ−ゼの精神はユダヤ教となることによって死に、キリストの精神はキリスト教となることによって死に、ル−テルの精神はル−テル教会となって死に、ウエスレ−の精神はメソジスト教会となって死にました。その他すべてこのようなことです。ですから、モ−ゼの敵はエジプト人、アマレク人、カナン人等ではなく、かれの同胞で彼を崇拝したユダヤ人であったことを知るのです。また、キリストを殺したのは、パリサイ人またはロ−マ人ではなくて、かれを主よ主よと呼んでいたキリスト信者自身であることを知ります。制度は精神の屍です。イエスを教会の首長として仰ぐ人間こそ真にかれを十字架に付けた人間なのです。

神の救い

自分自身反省することは、自分の中にはなんら善いものが見つけられないと言うことです。こころの中は、汚れ、悪念、邪欲、貪婪(どんらん)などです。このような悪しきものを自分自身で取り払わなければ、神にちかづくことが出来ないのであれば、わたしは到底神に近づくことは出来ないでしょう。しかしながら、神はわたしの罪よりも大きな存在です。神はわたしが罪のある人間であるにもかかわらず、わたしを救って下さるのです。神はわたしのためにわたしの中の罪を殺して、わたしを神の従者にして下さるのです。わたしが救われることの唯一の希望は、ひとえに神の御恵みにかかっておるのです。もし神がわたしに御恵みを下さらないのであれば、わたしの救われる希望はまったくなくなってしまいます。

霊魂の救い

「ああ!神よ、いかにしたらわたしの霊魂を救うことができるのでしょうか!!」このような、こころの叫びを持たない人には、とうていキリスト教は理解出来ないでしょう。キリスト教は、ある人が言うような、仏教のような哲学の一種ではありません。また禅宗のように、胆力を鍛練するものでもありません。キリスト教は、霊魂を救うための、神の大きな力のことです。キリストの降臨と言い、十字架上の罪の贖(あがな)いと言い、すべて霊魂を救おうとする神の行為です。ですから、これらの出来事を霊魂以外のことにあてはめては、その真意を理解することが出来ないのです。

善事とは

善事とは、神を信じることです。悪事とは、神よりはなれて人と自己に頼ることです。このほかに、善事も悪事もないのです。ですから、病気は必ずしも悪事でありません。もしわれらを神に導いてくれるなら、病気もまた善事です。健康は必ずしも善事ではありません。もし人を自分に頼らせ、自分を素晴らしいとうぬぼれさせるのであれば、健康はかえって悪事となります。貧困も、その逆の富貴も同様です。キリストは言います。「なんじ、なにゆえに善についてわたしに問うのか、善は、ひとつのほかにありません、それは神です。」善は、神と離れて他にあるものではありません。神と、神に向かうこと、これが善です。神より遠ざかる、神に逆らうこと、これが悪です。善悪の区別はこれだけです、またこれが生死の区別にも当てはまります。



生涯の決勝点  

生き生きとした生は美しい、しかし死はもっと美しいのです。生のための死ではなく、死のための生です。美しく死んだ人が、生をまっとうしたと言えます。競走におけるように、生涯の勝敗は最後の一分間によって決定されるのです。この一分間に後れをとるとあなたの生涯は失敗に終わるのです。生涯の決勝点において、神より特別の力を賜わり、走るべき道程を走り尽した人は福(さいわい)です。

健康以上の幸福

生命と健康とは大きな恩恵です。しかしながら、死に勝つ能力はさらに大きな恩恵です。私たちは、祈って健康を回復することが出来ないかもしれません、しかしながら神は健康回復よりさらに優れた死に打ち勝つ能力を与えて下さるのです。私たちは、いかなる人間であろうと、一度は必ず死ななければなりません。この必ず死ななければならない私たちにとって、死に打ち勝つ能力は神が与えて下さる最大の恩恵と言わなければならないでしょう。幸いなるとは、キリストによって死に打ち勝つことです。

死の歓迎

死は信者にも来ますし、不信者にも来ます。義者にも臨み、悪者にも臨みます。しかしながら、義者に臨んで死は彼を完成させ、悪者に臨んで彼を破滅させます。呪うべきは、死ではなく罪です。罪を除かれた者には、死はなにもなすことが出来ません。かえって、その人を清め、磨き、そして神の前に完全(まった)き人として立たせるのです。神を信じ罪を赦されて、わたしたちは死さえ歓迎することが出来るようになるのです。

自己の引き渡し

イエスに自分自身を引き渡して、わたしたちの務めは終わるのです。そうです、何かしようにも何も出来ないのです。わたしは自己としては死んだ人間です、「われ」という人間が存在しないのです。しかしながら不思議なことに、わたしが自己として死ぬ時、その時わたしは直ちに生き返るのです。その時、自己と異なる者がわたしの内側より起こって、わたしを活かし、わたしを働かせるのです。その時、わたしの思想は新しくなり、わたしの心の目が開かれ、わたしの霊魂が活気づいて、わたしの疲れた肉体までもが生き返ったように感じるのです。

神と制度 

精神は、制度となることによって死にます。これは歴史の法則です。モ−ゼの精神はユダヤ教となることによって死に、キリストの精神はキリスト教となることによって死に、ル−テルの精神はル−テル教会となって死に、ウエスレ−の精神はメソジスト教会となって死にました。その他すべてこのようなことです。ですから、モ−ゼの敵はエジプト人、アマレク人、カナン人等ではなく、かれの同胞で彼を崇拝したユダヤ人であったことを知るのです。また、キリストを殺したのは、パリサイ人またはロ−マ人ではなくて、かれを主よ主よと呼んでいたキリスト信者自身であることを知ります。制度は精神の屍です。イエスを教会の首長として仰ぐ人間こそ真にかれを十字架に付けた人間なのです。

神の救い

自分自身反省することは、自分の中にはなんら善いものが見つけられないと言うことです。こころの中は、汚れ、悪念、邪欲、貪婪(どんらん)などです。このような悪しきものを自分自身で取り払わなければ、神にちかづくことが出来ないのであれば、わたしは到底神に近づくことは出来ないでしょう。しかしながら、神はわたしの罪よりも大きな存在です。神はわたしが罪のある人間であるにもかかわらず、わたしを救って下さるのです。神はわたしのためにわたしの中の罪を殺して、わたしを神の従者にして下さるのです。わたしが救われることの唯一の希望は、ひとえに神の御恵みにかかっておるのです。もし神がわたしに御恵みを下さらないのであれば、わたしの救われる希望はまったくなくなってしまいます。

霊魂の救い

「ああ!神よ、いかにしたらわたしの霊魂を救うことができるのでしょうか!!」このような、こころの叫びを持たない人には、とうていキリスト教は理解出来ないでしょう。キリスト教は、ある人が言うような、仏教のような哲学の一種ではありません。また禅宗のように、胆力を鍛練するものでもありません。キリスト教は、霊魂を救うための、神の大きな力のことです。キリストの降臨と言い、十字架上の罪の贖(あがな)いと言い、すべて霊魂を救おうとする神の行為です。ですから、これらの出来事を霊魂以外のことにあてはめては、その真意を理解することが出来ないのです。


個人の救い

一人の霊魂を救うことが出来て、初めて教会を建てることが出来、社会を改めることが出来、国を救うことが出来るのです。個人は教会の根底であり、国の基礎です。神は教会に宿る前にまず個人の霊魂に宿り、国に臨む前にまず個人の霊魂に臨み給うのです。個人なるかな!個人なるかな!個人より始まらない事業で偉大なる事業というのはないのです。一人の少女をその霊魂の奥深いところにおいて動かす力こそ、やがて社会をその根底より改め、国家人類をその本源より聖(きよ)むることが出来る力なのです。

最大の恩恵

最大の恩恵は欲(おも)うことを成就することではありません、また社会または教会より美名を受けることでもありません、また政府または大学より高位高官の贈与にあずかることでもないのです。最大の恩恵は神をしることです、キリストによって顕われた神の奥義を識ることです、知識をもってこれを了解し、また霊魂の深きところにおいてこれを実際に会得することです。人生の恩恵でこれに優る貴きものはありません。この恩恵にあずかるなら、私は他のいっさいの恩恵にあずからなくてもよいのです。人生最大の恩恵はイエスキリストを識(し)ること、これだけです。

文明と福音

文明は汽船を提供し、汽車を提供し、電信電話を提供しました。文明は肉体に関する多くの快楽と便利を提供しました。しかし文明は必ずしも平和を提供しませんでした、安心、天国、永世を提供しなませんでした。文明は霊魂の安全に関して何の貢献もしていません。文明は確かに善いことです、しかし福音より優って善きことではありません。わたしたちは文明の光輝に眩惑されて福音の真理を軽視すべきではないのです。5月11日(火)重荷(志乃ぶ◎、康一郎△)あなたの重荷を主にゆだねなさい。主はあなたをささえられます。主は正しい人の心が動揺するのを決してゆるさないのです。

愛 

ある人が、神の愛に感じ、これに励まされて、わたしをを愛します。わたしも、その人の愛に感じ、これに励まされて、ある他の人を愛します。そうして、その人もわたしの愛に感じ、これに励まされて、さらにある他の人を愛するでしょう。愛は波及します。延びて地の果てに達し、世の終わりに至るのです。ですから、わたしは直ちに神に接し、その愛をわが心に受けて、地に愛の波動を起こそうと思うのです。



多くの友を得ていても、なお寂寥(せきりょう)を嘆く人がおります。一人の友もいないのに、常に嬉々快々としている人がおります。友には無常なる友と久遠(くおん)なる友とがあります。そうして、久遠の友だけが寂寥の憂いを絶つことができるのです。キリストのみが一人久遠の友です。彼を友とすれば、人は一人の友がなくとも、嬉々快々としていることが出来るのです。

再び愛について

愛する人たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではありませんか。愛は、神から出たものなのです。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っています。ですから、愛さない者は、神を知らないのです。神は愛だからです。(ヨハネ第一の手紙四の7〜8)


神と共に  

わたしに慈愛の心のないのは、神がわたしの心に宿っておられないからです。わたしに恐怖の心があるのは、神がわたしと共にいらっしゃらないからです。わたしに、美の観念が乏しく、宇宙と人生とを楽しむことが出来ないのは、わたしの目が閉じて神をみることが出来ないからです。わたしに歓喜がなく、勇気がなく、希望がなく、常に重荷を負って遠い道を歩むように感じるのは、わたしが神から離れて独りで歩いているからです。

神のみわざ

イエスが道を通っておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか。」イエスは答えられた「本人が罪を犯したためでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである。」(ヨハネ伝9−1〜3)

命の値

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になるでしょうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができるでしょうか。

内的生命

人には外的生命のほか内的生命があります。肉体の生命のほかに霊魂の生命があります。この世の何ものをもってしても与えることの出来ない生命があります。そして、これがあるために人は特別に貴いのです。財産を奪われ、名誉を剥がされ、よしんば健康を失いても、なお残るものがあります。それが内的生命であす。そうして、それをあたえるものが宗教です。ですから宗教は、この世に在るものであって、この世のものではないのです。直ちに神より人の霊魂に臨むものですので、国も学校も、教会もお寺も、与えることの出来ないものなのです。

説の進歩 

わたしに定説がないと言う者がおります。その通りです。わたしに固定した説はありません。わたしの説は、つねに生長するのです。わたしはすでに多くの旧説を捨てました、また今の説をも捨てることがあるでしょう。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、生きている者の神と言います。そして生きている者は絶えず生長をするのです。もしわたしの説が岩のごとく変わらないものであるならば、わたしは死んだ者です。そして、死人のわたしを保育する神もまた、死んだ神と言わなければなりません。活きている神に仕える生きている人間は、日と共に新たにならなければなりません。歳と共に前進すべきです。

旧きキリストの時代の福音

「秋は来れり」、わたしは旧きキリストの時代の福音に帰ろう。すべての善きことを、人と天然より離れて、主イエスキリストにおいて見る、この善き旧き福音に帰ろう。これを最高の道徳として見るのではなくて、進化の終局として考えるのでもなく、神の特殊の啓示として認めるところの、わたしの旧き信仰に帰ろう。わたしはこれによってこの世に勝利を得ました。わたしはこれによって永世の希望を得ました。わたしの歓喜はすべてこれによって来ます。わたしはふたたびこのキリストの時代の福音に帰って、わたしの疲れた霊をやすめよう。

一つの事 

人生は短いと言っても、もし一つの事を続けて毎日少しずつするならば、死ぬまでには一大事業を成就することが出来でしょう。驚くべきことは、毎日少しづつする仕事の結果です。急に大事業を思い立ってするのではなく、毎日、降っても照っても、タイミングが良くても悪くても、こつこつとすることです。この方法によって、凡才も大学者となることができるのです。毎日、一つずつの事項を暗記して、一生涯に大歴史家と成ることができるのです。毎日、一章ずつ読んで三年と四ヶ月には聖書全部を通読することができるのです。これを生涯続けて、大聖書学者となることが出来るのです。


希望的動物

人は希望的動物です。彼にとっては前を望むことは自然であって、後ろを顧みることは不自然なのです。希望は健全であって、回顧は不健全です。「後ろにあるものを忘れ、前にあるものを望み」(ピリピ書三の十三)と。罪を忘れ、病を忘れ、失敗を忘れ、怨恨を忘れ、神と、生命と、成功と、愛とに向かって進むだけです。


見えないもの

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされてゆきます。なぜなら、このしばらくの軽い艱難が働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからです。私たちは、見えるものにでなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であって、見えないものは永遠に続くのです。(コリント第二書四の16〜18)


大きな愛

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はありません。(ヨハネ伝十五の十三)


悲しき時は 

私の、悲しい時は貧しい時ではありません、人々に見捨てられた時ではありません、孤独感に襲われる時ではありません、無学や無知を人にわらわれる時でもありません。悲しき時は、わたしの心の眼に神の御姿が見えなくなる時なのです。私の霊魂が欣慕する方のお顔が疑いの雲でもって、おおわれる時なのです。その時、私の蔵(くら)が充ちても、われに歓喜はありません。私の名前を世界の人々がほめたたえても、私に満足はありません。私の頭上に太陽は照っても、私ひとり暗夜の道を歩くような心地がします。私は、わたしの神を見失って、死んだも同然の者となるのです。私の愛する者、私の恋い慕う者、わたしの生命よりも貴き者はわたしの神です。


行きずまり              

神に行きずまりはありません。行きずまりは人のことであって、神のことではありません。神が時々、人を行きずまらせるのは、人が彼(神)によって新たらしく運命を開くようにするためです。「神は全ての人をあわれまんがために、すべての人を不順(反逆)の中に閉じ込め給えり。」と聖書にある通りです。人が自分で自分を助けくことが出来ると思う間は、次第次第に窮地へ追いつめられるのです。しかしながら、ひとたび自分に力のないことをを悟って、上を仰いで神の助けを祈り求めるならば、恩恵の道が彼の前に開けて、彼は無限の神の園で無限の自由を楽しむに至るのです。


破壊者

キリストは破壊者ではありません。完成者です。完成者でありますために破壊者のように見えるのです。破壊するための破壊者がおります。完成するための破壊者もおります。前者は真正の破壊者であって、後者は真正の建設者なのです。そしてキリストは後者の建設者なのです。殻は芽をまもるために必要です。しかしながら、幼い芽がすでに根を地中に張るようになると、殻は自然と不必要となります。芽を殻の破壊者と見るのは誤りです。芽は殻の破壊者ではなくて、その完成者なのです。



負債  

人は負債をもって世に誕生し、負債の下に生長し、負債を償却して世を去ります。生きて行くために、彼は国家に負うところがあるでしょう、社会に負うところがあるでしょう、父母に負うところがあるでしょう、教師に負うところがあるでしょう、友人に負うところがあるでしょう。彼はひとりでは生まれることは出来ません、ひとりでは生長することが出来ません、ひとりで死ぬことも出来ないでしょう。彼自身は社会と時代とによって生を受け、「われ何びとにも負うところなし」と言うことはできないのです。そしてこれらの負債のあることを認めて、喜んでその償却をしようとする人、そういう人こそ国を愛する人であり、人のために行う人であり、親孝行であり、良き弟子であり、良き友であるのです。

神のわざ

そこで彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。(ヨハネ伝六の28〜29)

労働以上の仕事

ある時は無益に一日を送って、たいへん申し訳なく感じます。そんな時、「主よ、この無益なるしもべをあわれみたまえ」と叫ばざるを得ません。これという事せず過ごした一日は、失われた永遠の一部分のようにも感ぜられます。しかし、働くばかりが人生ではありません。労働には果てしがないからです。人には、労働以上の仕事があるのです。それは信ずることです。「今われ肉体にありて生けるのは、われを愛して、わがためにおのれを捨てし者、すなわち神の子を信じるによるなり」(ガラテヤ書二の2)です。神は私たちに、なによりも信頼の心を要求します。依(よ)り頼む事は、働く事よりもはるかに善い事なのです。

神の国  

神の国はいつ来るかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られる形で来るものではない。また『見よここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがた自身の心の中にあるのだ」。(ルカ伝十七の20〜21)

教会とは

もしわたしたちに教会があるとするならば、それはわたしたちの家庭です。わたしたちの学校です。わたしたちの事務所です。わたしたちの田園です。わたしたちの工場です。わたしたちの店舗です。わたしたちはそこで神に仕え、神を賛美し、神の栄光をあらわそうと願います。わたしたちにとって、特別に神聖な場所と言うのはありません。わたしたちが座る所、立つ所、すべて神聖です。神はそのような場所に、わたしたちに現れて言いたまいます、「なんじが立つ所は聖き地なり」と。わたしたちはその時、モ−セと同じように、そこにわたしたちの靴をぬぎ、そこでわたしたちの神を拝して、神の貴き黙示に接します。

思いわずらうな

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である。(マタイ伝六の34)

心安き日々

万物は、すべてわたしたちの善のために働いているにもかかわらず、わたしたちは思い煩って、悪がわたしたちに及ぶのではないかと恐れます。ああ、わたしたちはなんと信仰の薄い人間なのでしょうか。信仰というのは神と宇宙とを正しく理解することにあります。ですから、神の真の善、真の美を知らないでただ戦々恐々として世を渡たっているのは、極端な無学と言うものです。神を信じないのは罪悪と言うよりむしろ恥ずべきことです。わたしたちはわたしたちの常識に照らしても、神を信じ、心安く喜んで日々を送るべきなのです。

試練

 あなたがたが会った試練で、この世の中に起こったことのない試練などありません。神はあなたの全てを知っておられるのです。あなたがたが耐えられないような試練に会わせることがないばかりか、試練と同時に、のがれる道も必ず備えて下さるのです。

神の試験

そうです、アブラハムが息子を生け贄にするよう要求されたように、わたしたちもまた神より、わたしたちの持っているもっとも善いものを要求せられるのです。あるいは子であるのか、あるいは妻であるのか、あるいは財貨(たから)であるのか、あるいは位階(くらい)であるのか、あるいはこの世の名声であるのか、あるいは時には技芸学問であるのか、いずれにしましても、わたしたち各人が、自分の生命よりも大切だと思うものを要求せられるのです。その時が信仰の大試験なのです。この試験に及第して、わたしたちは、初めて完全に神のものとなるのです。しかし、この試験に落第して、わたしたちはその時までに得たものまでをことごとく失うに至るのです。人生の大事業と言うのはじつにこの時です。わたしたち各人の永遠の運命が定まるのは、実にこの時です。

キリストの救世

キリストの救世の業は二様あります。一は人類に完全なる生涯を教えることです。二は人類の罪を彼の身に負うてこれを削除することです。前者は救世の最終目的でありまして、後者は前者に導くための必要手段です。完全なる人を作ろうとするのであれば、まず人を不完全にする罪を除かなければならないのです。何故ならば、人その罪より脱却しなければ罪を犯さない人間に至らないからです。

奇跡NO.1  

イエスは答えて言われました、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して海の中にはいれと言い、その言ったことは必ずなると、心に疑わないで信ずるなら、そのとうりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとうりになるであろう。」(マルコ伝十一の22〜24)

奇跡NO.2

奇跡は学問の問題ではありません。信仰の問題です。奇跡の事実が定まって信仰が起こるのではありません。信仰がまず起こって奇跡はこれに伴うのです。信仰がなくして奇跡はないのです。信仰と勇気をもってすれば、どんなことでも為し得るのです。ただ、臆してこれをなさないために、事はいつまでも成らないのです。奇跡のおこなわれる機会は多いけれども、信仰と勇気を欠くためにむなしくこれを逸するのです。

 神への祈り

まことの神よ、願わくはわたしたちの曲がった縮んだ心をいやし、キリストとともに存在し、感謝の空気にひたり、聖霊の生気に接し、知恵と信仰と徳を増し、単純にして快調、信じて疑わない人間とならしめたまえ。願わくは、わたしたちの愚さをあわれみ、わたしたちに誠実に神を頼りにする心を与え、わたしたちの真実の見えない目を開いて、明らかに神の奥義を悟ることができますよう。

 信、望、愛

信は贖罪の信仰です、望は復活の希望です、そうして愛はこの信この望より来る神と人とに対する深い広い愛です。この特別の信とこの特別の望とがあって、キリスト者の特別の愛があるのです。わたしたちが信、望、愛を唱えるはただ漠然とした一般的の信、望、愛を唱うるのではないのです。

負債  

人は負債をもって世に誕生し、負債の下に生長し、負債を償却して世を去ります。生きて行くために、彼は国家に負うところがあるでしょう、社会に負うところがあるでしょう、父母に負うところがあるでしょう、教師に負うところがあるでしょう、友人に負うところがあるでしょう。彼はひとりでは生まれることは出来ません、ひとりでは生長することが出来ません、ひとりで死ぬことも出来ないでしょう。彼自身は社会と時代とによって生を受け、「われ何びとにも負うところなし」と言うことはできないのです。そしてこれらの負債のあることを認めて、喜んでその償却をしようとする人、そういう人こそ国を愛する人であり、人のために行う人であり、親孝行であり、良き弟子であり、良き友であるのです。


神のわざ

そこで彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。(ヨハネ伝六の28〜29)

労働以上の仕事

ある時は無益に一日を送って、たいへん申し訳なく感じます。そんな時、「主よ、この無益なるしもべをあわれみたまえ」と叫ばざるを得ません。これという事せず過ごした一日は、失われた永遠の一部分のようにも感ぜられます。しかし、働くばかりが人生ではありません。労働には果てしがないからです。人には、労働以上の仕事があるのです。それは信ずることです。「今われ肉体にありて生けるのは、われを愛して、わがためにおのれを捨てし者、すなわち神の子を信じるによるなり」(ガラテヤ書二の2)です。神は私たちに、なによりも信頼の心を要求します。依(よ)り頼む事は、働く事よりもはるかに善い事なのです。


神の国 

神の国はいつ来るかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られる形で来るものではない。また『見よここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがた自身の心の中にあるのだ」。(ルカ伝十七の20〜21)

教会とは

もしわたしたちに教会があるとするならば、それはわたしたちの家庭です。わたしたちの学校です。わたしたちの事務所です。わたしたちの田園です。わたしたちの工場です。わたしたちの店舗です。わたしたちはそこで神に仕え、神を賛美し、神の栄光をあらわそうと願います。わたしたちにとって、特別に神聖な場所と言うのはありません。わたしたちが座る所、立つ所、すべて神聖です。神はそのような場所に、わたしたちに現れて言いたまいます、「なんじが立つ所は聖き地なり」と。わたしたちはその時、モ−セと同じように、そこにわたしたちの靴をぬぎ、そこでわたしたちの神を拝して、神の貴き黙示に接します。


思いわずらうな

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である。(マタイ伝六の34)

心安き日々

万物は、すべてわたしたちの善のために働いているにもかかわらず、わたしたちは思い煩って、悪がわたしたちに及ぶのではないかと恐れます。ああ、わたしたちはなんと信仰の薄い人間なのでしょうか。信仰というのは神と宇宙とを正しく理解することにあります。ですから、神の真の善、真の美を知らないでただ戦々恐々として世を渡たっているのは、極端な無学と言うものです。神を信じないのは罪悪と言うよりむしろ恥ずべきことです。わたしたちはわたしたちの常識に照らしても、神を信じ、心安く喜んで日々を送るべきなのです。

新旧のわたし 

自分自身のものとしての私の存在は、旧い私と呼びます。神のものとしての私の存在を、新しい私と呼びます。私には変わりがないですが、神のための私と自分自身のための私とでは新旧の別があります。また同時に、それは生死の別でもあります。わたしは、神と共に生きる新たらしい自分に生まれ変わるために、旧いわたしが死ななければならないのです。

わが信仰

わたしの信仰は、単純でとても簡単です。「イエスキリスト、わが罪を救わむために十字架の死を遂げ給えり」と信じることです。その説明を、わたしはよく出来ません。私が、罪人である理由も分かりません、ただ罪人であることは間違いないのです。私は、キリストの死がわたしの罪を救う理由も知りません、ただそのことがわたしの罪を救う唯一の能力(ちから)であることを知るのみです。わたしは罪の事実を知ります、また救いの事実をも知ります。しかしながら、罪の原因と救いの難しい哲学的原理とは、わたしの知るところではないのです。誠にわたしの信仰は事実の信仰です。教理の説明または信条を尊ぶだけのものではないのです。

決心

決心、決心とよく言います。しかし、決心をすると言うことは、決心を破ることに通じます。人は心を決したからと言っても、何事をもなすことあたわずです、事をなすのは神なのです。ただ神に頼るだけです。年が来るも年が去るも、ただ神に頼よるだけです。

天国  

天国は、畑に隠してある宝のようなものです。人がそれを見つけると隠しておいて、喜びのあまり、家に帰って持ち物をみんな売り払い、そしてその畑を買うのです。また天国は、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠一個を見い出すと、家に帰って持ち物をみな売り払い、そしてこれを買うのです。(マタイ伝十三の44〜46)

心ぞわれの王国

自分以外何もないと言う人でも、自己だけは自分のものと言えるでしょう。手もあります。足もあります。目もあります。耳も鼻もあります。これらのものも大いなる財産といえるでしょう。しかし、仮に身体の自由を失って、臥床(ふしど)の人であっても、霊魂はなお自分自身のものです。それで、なお愛したり、考えたり、祈ったり、賛美したりすることができるのです。心そのものが大きな財産なのです。これがあるなら、人間は満足すべきなのです。

幸福

幸とは神に愛される事であって、不幸とは神に捨てられる事です。心の目をもって神を見ることができて、わたしたちは初めて真正(ほんとう)の幸福がどのようなものかを知ることができます。これは、どんな不幸も伴わない幸福であって、貧富、盛衰の変遷のない幸福です。神に愛せられているものは、富めば一層深く神を知り、貧しくとも神の祝福を感じることができるのです。神に愛せらるる事は、実に人生の幸福のすべてであると言えるでしょう。

ゆるしなさい

人を裁かないように。そうすれば、自分も裁ばかれることがないのです。また人を罪に定めてはいけません。すうすれば、自分も罪に定められることがないでしょう。赦しなさい。そうすれば、自分も赦るされるでしょう。(ルカ伝六の37)




表白  

トマス.カ−ライルに次のような言葉があります。「誠実、こころが真にありのままなこと、このことが常に貴いのです。本当に自分のこころにあることを語る人は、どんなに言い方がお粗末であっても、必ず真剣に聞こうとする人がいるでしょう。」本当に、私もそう思います。この言葉に出会ってから、私は人を感化しようあるいは伝道しようと言う考えを捨てました。かわりに、自分自身の罪や救いあるいは恵みについて、こころのなかの表白を始めました。それから、失望することが無くなりました。

神のひとり子イエスキリスト  

神はそのひとり子を賜わったほどに、それほど深くこの世を愛して下さったのです。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためなのです。(ヨハネ伝三の16)


平安を得る道

私は、は平安を得る道を知っています。しかしながら、道を知ることは必ずしも道に入ることではありません。キリストにおける信仰は、わたしを罪より救うものです。しかしながら、信仰自体もまた神のたまものなのです。わたしは信じて救われるのみならず、また神より信じるようにしてもらって救われるのです。ここにおいて、わたし自身は全く自分自身を救う力のないことを知ります。わたしは、わたしの信仰をも神より与えられるだけです。ですから、キリスト信者は絶え間なく祈るべきだと思います。自分は、まだまだ不完全だと祈るべきです。自分は、まだまだ信んじることがが足らないと祈るべきです。自分は、よく祈りが出来ないと祈るべきです。恵まれていても祈るべきです。天の高いところに上げらるようになっても、陰府(よみ)の低いところに下げられるようになっても、祈るべきです。力のないわたしが出来ることは、ただ祈ることだけなのです

キリストを招く方法

キリストは聖霊です。また、聖霊はキリストです。ですから、聖霊を受けるはキリストを迎えることです。私たちは、聖霊を受けようと望んで、雲のようなものをつかまえようとするのではありません。私たちは、ある確実な目的を達せようとしているのです。わたしたちは、キリストを自分の心に請(しょう)じせしめようとしているのです。これには適当の方法があります。準備はへりくだることです。また、絶えず祈ることです。そうして、この準備をし、この方法をつくせば、キリストの入来は確実なのです。

狭い門

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。

一番大切なこと  

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問しました、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われました、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣人(今、あなたの近くにいる全ての人)を愛せよ』。これらの二つのいましめに、全てがかかっている」。(マタイ伝二十二の35〜40)

キリストの道徳

キリストの教えは、道徳ではありません、福音(よき便り)です。道徳ではないけれども、しかし、その中に、単純にして確乎(かくこ)たる道徳があるのです。「神を愛すべし、人を愛すべし」、キリストの道徳を約(つづ)めて言えば、これだけです。簡単と言って、これにまさることはありません。しかし同時にまた、高遠と言ってこれにまさることはありません。深淵と言ってこれにまさることはありません。これは道徳の両極です。すべての道徳は、この間に存在するのです。



同胞への愛

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。「神を愛している」と言いながら同胞を憎む人は、偽りの人です。今、目の前にいる同胞を愛さない人は、目にみえない神を愛することも出来ないでしょう。神を愛する人は、同胞をも愛すべきです。この戒めを、わたしたちは神から授かっているのです。(ヨハネ伝第一書四の19〜21)

キリストの信仰             

信仰が足らないと言って、または無いと言って、嘆く信者が多くおります。しかし、このような信者は、キリストの信仰が何であるかを知らないのです。キリストの信仰は、確信であるとか信力であるとかいうような自分自身の力ではないのです。キリストの信仰は信頼です。自分以外のある者に頼ることです。キリストの義、キリストの聖、キリストの贖(しょく)を仰いで、それを自分のものとすることです。ですから、「自分の信仰」というものは有ってはならないのです。「自分の信仰」というようなものは無い方が良いのです。自分自身は無一物、無能力になって、キリストによってのみ生きようと欲して、「わたしはは真(まこと)の信仰の無い」などと言って嘆くべきではないのです。

金について

金を自分で得たもののように考えるのが、そもそもの間違いなのです。金は天才と同じように、やはり天よりの賜物(たまもの)であると考えるのです。わたしたちは金を得ると、同時に大責任を担(にな)うことになるのです。わたしたちはこれを最も有益に、最もよく道理にかなうように使わなければならないのです。金を使うのことは、実は金を得ることよりもむずかしいのです。わたしが節倹し、貯蓄するのは、独立するため、自尊心を保つためです。卑しい人より、卑しい取り扱いを受けないためです。これ以外のためには、わたしは一文の金もほしくないのです。

道徳と信用と富 

道徳が人に認められ信用となり、信用が形となり富となります。道徳がなければ信用はつきません、信用がなければ真正の富は得られません。しかも道徳は簡単には人に認められず、信用は容易に富みとならないのです。道徳が富となるまでには多くの日時と忍耐を必要とします。しかしながら、道徳は富みとなるまではその働きを止めないのです。

人を助ける道

人を助けなさい、しかし助けた為にその人が脆弱になるようではいけません。その人が独立心を起こすように助けなさい、その人が自由となるように助けなさい。ただ単に、その人の負える重荷を取り去ろうとしてはいけません。神が人を助けるように、あなたも人を助けなさい。単に、楽にするためではなく、その人の意志を強めるために助けなさい。

幸福なる生涯

わたしの使命は、何か事を行う事ではありません、神によってなされた事を伝える事にあります。人は自分から望んで、罪より免れることはできません。神が人に代わって罪を除いて下さるのです。私の使命は、人を救うことではありません、神によって救われた多くの人たちを集めることです。神に尽くすことではなく、神に感謝することです。恩寵は世に溢れ、そうして自分自身にも溢れるのです。キリスト者の生涯は、神への賛美と神への感謝、これより他にないのです。

人なるキリスト

「キリストは、人間だ」と言います。その通りです。しかしその場合は、キリストのみが人間と言えるでしょう。その他の人は人間ではあてっも、人間とは呼べないでしょう。キリストのみが完全に人間たるの本分を尽くしました。人をすべて人と呼ぶのであれば、キリストは人ではなくて、神です。わたしたちは、キリストに人と呼んでもらいたいと願うものです。私たちは、怠け者で、その行為にしまして、その目的とこれを達成する手段におきましても、人というよりむしろ動物に近きものと思うからです。


貧と富

キリスト教は、現世をあきらめようとするものではありません。現世で勝者になろうとするものです。富めるも貧しきも前世の定めではありません。現世における個人個人の境遇です。貧しきことが、身体的障害のように治すことが出来ないのであれば、むしろ喜んで忍ぶべきです。しかし、もしわたしたちが怠けたり、浪費したる結果として貧しいのであれば、今よりこころを改め、勤勉、節約に努めなさい。そうしたならば、浪費した富が戻ってくるでしょう。天は、みずから助けるものを助ける、と言います。どのような怠け者であっても、浪費家であっても、こころを入れ替えて宇宙の法則に従って、手足を使い額に汗して働けば、天は必ず助けてくれるでありましょう。貧しさは、運命ではありません。ですから、ただ手をこまねいて何もしないでいてはいけません。働きなさい、働きなさい。正直に仕事をしなさい。そして、どんな仕事であっても、決してこれを軽く見てはいけません。

敵の前の筵(むしろ)

「神はわが敵の前にわがために筵を設け給えり」(詩編二十三編)神は私のために言葉でもって弁護することはなされません。それどころか、わたしを黙々としている羊のように、私の敵の前で口をつむらします。しかしながら、神は恵みを私にお与えになり、わたしを敵の前で義となされます。神の議論は言論ではありません、威力でもありません、静かに末永くつづく恵みです。踏まれた後に栄えを受けるひとは神の人です。上に挙げられた後に恥をかいて落ちる人は罪の人です。神の裁判は長い時をかけます。私たちは、千百年あとの神の裁きを待つべきです。

文を得る方法

文が書けなんことが、悲しいのではありません。むしろ、書き表わすべき想(おも)いのないことが悲しいのです。しかし、想(おも)いのないのを悲しむ必要はありません。むしろ、想いを生むために必要な信ずるこころのないことを悲しみなさい。信ずるこころがあれば、自然と文を書くことが出来るのです。私は文を書こうとする場合、すぐ筆をとるのではなく、しばらく祈ることにしておるのです。

自分と他人

自分は、自分です。それと同じく、他人も他人です。自分の考えでもって、他人を律してはなりません。他人の権利、自由は重んじなければならないでしょう。他人は他人なのです。自分が自分であるように。ですから、大切に守っているものを他人に束縛されてはならないでしょう。自分には自分の権利と天より与えられた職務とがあります。自分というものは、他人に自分の本領を侵させてはいけないでしょう。自分が他人の権利、自由を尊重するように、他人もまた自分の権利、自由を尊重してもらわなければならないのです。

労働の宗教

パウロは、キリストの福音と同時に労働の福音を伝えました。そうです、キリストの福音というのは、労働の福音でもあるのです。主、ご自身が労働者でありました。ですから、愛しない者が神を知らないように、働かない者はキリストを知ることは出来ないでしょう。最も価値のない神学は、書斎でのみ学ぶ神学です。キリストの教えは、僧侶のための宗教ではないのです。ごく普通の働く人の宗教なのです。手をもってする労働の喜びが分からない人には、とうてい探求することが出来ない宗教なのです。

最善の思想

最善の思想は最初の思想です、天真の深い泉から爛漫として湧きいづる思想です。これにあれこれ思考を加えると濁らざるを得ません。いわゆる深慮などと称して、何度も思いをこらしますと天真の思想は人為的なくだらないものとなってしまいます。最上の智慧は義人の本能です、学者の提説ではありません。私が、詩人を尊んで神学者を賤しむのはこのためです。

義とする力

たとえ、私が全世界の人をすべて信者にしても義とはされません。たとえ、私が一人の人も信者に出来なくても罪とされません。私は、神の義であるイエスキリストを信じる事によって義とされるのです。私が義とされるか、されないかは行為によるのではありません、信仰によるのです。私は、主イエスのみ名を口にし、こころからイエスを信じることだけで、何の善い事をしなくても救われるのです。(ロマ書十章9、10節)