聖  句内村鑑三所感集」(岩波文庫)及び「一日一生」(教文館)より

                 注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)               


二つの美しき名あり、その一つはイエスキリストにして
その二は日本なり...内村鑑三

  

信仰の目的物

平和を望むのではなくて、キリストを望みなさい。神との一致を望むのではなくて、キリストを望みなさい。熱心さを望むのではなくて、キリストを望みなさい。平和の心、一致する心、熱心すべてはキリストのなかに存在します。キリストは信仰の目的物です、すべての善き物をキリストは所有しています。私たちは、いかなる苦難にも耐えキリストのもとに行かなければなりません。そうすれば、すべての善き物を得ることが出来るのです。

信仰とは

信仰とは、自分自身を信じるのではなく神を信じることです。世の中で言われるところの確信ではなく、ただ神に頼ることです。ですから、信仰とは依頼の精神です、もちろん人に依頼するのではなく全知全能の神に依頼する精神です。世の中を根本的に変えて来たのはこの精神です。そして、今の世の中をさらに改めることが出来るのはこの精神なのです。神にお縋りする依頼心があって、はじめて人間は真の独立を得て、威厳と自尊心を持つのです。

万民を救済できる希望

わたしほど罪深い人間はいないと思っています。そのわたしでさえ神の愛によって救われたのです。ですから、神の愛によって救えない人間を考えることは出来ません。神が、まず罪深いわたしを救って下さったのは、神はいかなる人であっても救うことが出来ることを世の中の人に伝えるためのように思います。神が万民を救済できるという希望は、わたし自分が救済された事実によって揺るぎ無いものとなりました。

救済とは

人を救うと言うのは、単に衣食を満たしてやることではありません。また、単に欲望を満たしてやることではありません。人を救うと言うことは、天におられる父なる神に導くことです。「われらに父なる神を示し給え、さすれば足れり」と言われる通りです。天なる父がわたしの祈祷をすべて受け入れてくれることで、わたしのすべての希望は満たされます。わたしに、天なる父を示してくれる人こそ、わたしの師であり、わたしの恩人です。

神を信じるだけ

わたしのすることは、神を信じることだけです。どんな境遇になっても、金持ちになっても貧乏になっても、成功しても失敗しても、徳を建てても罪に陥っても、世に迎えられても友に捨てられても、生きても死んでも、天に昇っても地獄に落ちても、わたしはひたすら神を信じるだけです。ですから、わたしには未来はなく、過去もなく、悲哀もなく、失望もなく、時というのは常に現在です。また、すべての事が歓喜となります。わたしの生涯は、信じ、望み、愛することの連続となります、こんな素晴らしいことがあるでしょうか。

キリストに至る道

キリストは広大無辺です、どのような人であってもキリストを救い主として仰ぐことが出来ます。キリストに至る道は限定されません、教会によってキリストに至るのも一つの道です、もちろん教会によらならいのもキリストに至る道の一つです。世の中に、キリストを独占するような教会もなければ、僧侶もおりません。ただし、キリストに至る条件はただ一つあるだけです。砕けたこころがそれです。絶望に打ちひしがれたこころがあれば、どのような人であってもすぐさまキリストのふところに入ることが出来るのです。

幸福になる秘訣

この世の中にて幸福になろうと思わないこと、これが幸福になる秘訣です。幸福は、この世の不幸こそわたしたちの幸福だと思うことよりきます。この世ではむしろ憎まれなさい、誤解されなさい、迫害されなさい、そうすればわたしたちは幸福になります。そして、神とともに永久の平和を楽しむことが出来るのです。


恥辱の原因

神に頼る、神に頼ると言う人が人に頼るから恥辱を受けるのです。神を頼ると決心したのであれば、神以外の如何なる者にも頼るべきではないのです。神に頼る、神に頼ると言って人に頼ることこそ偽善です。神は人より離れて存在しますので、人を頼ることは必要ないのです。神を頼りなさい、この天地をお造りになった神に頼りなさい、人間のいかなる権威と能力から離れて神に頼りなさい。「聖書は神を信ずる者は辱められないと言っている」(ロマ書十章十一節)

偉業

わたしが事をなしとげるのではありません、成し遂げさせられるのです。わたしは、言ってみれば神の奴隷です、機械です。ですから、自分の求めることはなすことが出来ず、求めないことでもなすようにされるのです。ですから、神はわたしを使ってわたし以上の思想を語らせ、わたし以上のことを成し遂げさせるのです。神に頼るわたしは、小さいと言えども神の力を反映してたいへん大きなる者とも言えます。

事業

注意を事業にばかり注いでいるから、成功しないのです。自分の目を常に神に注ぎなさい。神というのは事業の神でもあるのです、ですからわれわれは神を信じてさえいれば、おのずから事業は成功せざるをえないのです。

忍耐

神は、永遠に存在されます。神は、天地と万物を造りました。そして、これを常に支えられ、決して疲労や倦怠を感じたことはありませんでした。神は、御自身の広大なる理想を常に実行なさいまして、今日まで少しの弛みもありませんでした。忍耐こそ神の特性のひとつなのです。そのような神を常に信じて、わたしたちは走っても疲れず、歩いても倦まない者となります。

最も正統(オーソドックス)な教え

最もオーソドックスな教えは、キリストのこころをもって兄弟(同胞)を愛することです。キリストの慈愛がなく、またキリストの認容と従順がなければ、どんなに教義を固く信じようとも、ほんとうの教徒と言うことは出来ないでしょう。もし自分が信奉している教義でもってキリストのようになれないのなら、わたしたちは自分自身の信仰について疑問を持つべきです。私たちは、強固な信仰心を持つ前にキリストのようにこころを温和にする必要があります。

意志の作用

神に導かれ思い、神に導かれ動き、神に導かれて安らぐこれがほんとうのキリスト信者の生涯です。わたしの意志は、ただ神の意志に従うためのみに使い尽くします。神の大きな意志のままに活動出来きますように、わたしの小さな意志を使い尽くします。そうすれば、わたしは自分の弱い意志を気にしなくなります、わたしの意志が神の意志となり、神の意志が自由にわたしを使用してくれます。

わたしの目指すキリスト教

キリスト教は慈善事業だと言う人は誤りです、キリスト教は慈善事業ではありません、キリスト教は神の大きな力です。キリスト教は労働だと言う人は誤りです、キリスト教は労働ではありません、キリスト教は神と神の独り子イエスキリストを信じることです。キリスト教は神学だと言う人は誤りです、キリスト教は神学ではありません、キリスト教はキリストのこころをもって人を愛することです。キリスト教は活きている信仰です、ですから必ず実を結びます。果実だけではなく、実ってますます大きくなる信仰です。これが、わたしたちの本当に求めるキリスト教です。


意志の刷新

境遇を改善することではありません、意志を刷新しなければならないのです。境遇を改善することは人でも出来ますが、意志の刷新は神でなければなすことが出来ないでしょう。「神は言い給う、われは新しき心と、新しき霊魂を起こすであろう」と(エゼキエル書十八章31節)。わたしはわたしの心が新しく造られることを必要とします。そこで、神はキリストにより、その聖霊でもってこの奇跡をわたしの心に起こすのです。

愛の順序

第一に神を愛すべきです。そして、第二に世界と人類を愛すべきです。第三は国と国民を愛すべきです。そして、第四に自分と家族を愛すべきです。愛をこの順序に従って施すなら、わたしたちはすべての人と平和を結ぶことが出来ます。そうすれば、事業は栄え、わたしのこころは常に平安となるでしょう。しかし、この順序を逆さまにするなら、わたしたちはカインのように、人がみな敵となりまた自分自身も他の人の敵となるでしょう。

キリスト信者の善行

キリストの教えは、人に善をしなさいと押し付けません、善をなす人間になりなさいと言います。または、善をなすような人間にして下さいと神に祈りなさいと言います。善を行わないのは、キリストの信者ではありません。好んで善を行うような人でなければ、キリスト信者ではありません。善行が自然であるような人でなければ、キリストの信者ではありません。そうして、キリストの霊が宿るようになって、わたしたちは今言ったような人間になることが出来るのです。

罪を犯さない方法

わたしは、罪を犯さないように、犯さないようにと思い、かえって罪を犯してしまいます。しかし、わたしはキリストを信じることによって罪を犯さなくなりました。ですから、罪を犯さない方法は、罪を犯さないようにと努めることではないのです。ただ、キリストを信じることです。「キリストはわれらを愛し、その血でもってわれらの罪を洗い清め給えり」(黙示録一章5節)、これは単なる信仰の記述ではありません、実験された事実です。私たちは、キリストに頼って、キリストとともに生きることによって自分の罪が洗い清められていることに気が付きます。

わたしの求めるもの

わたしは神より、よい物より、よいこころを頂きたいと思います。また、神はよい物を願っても下さらないことがありますが、よいこころを願って下さらないことはありませんでした。清い心、柔和な心、憐れみ深い心、飢え乾くように義を求める心。このような心は、金銀、宝石、土地、家屋よりはるかによい賜物です。そして、わたしは何度もこのようなよい賜物を頂いておりますので、神は存在しないと言われてもそれを信じることが出来ないのです。

キリストの勝利

すべてのよいものは、主であらせられるイエスキリストよりもたらされます。愛、望み、信はもちろんのこと、知識も、美術も、労働も、労働の結果である富も、すべて主イエスキリストよりもたらされます。今やキリストによらなければ、人も国も永久によくかつ強くなることは出来ません。「もしなんじら信ぜずば必ず立つことをえじ」と言う預言者の宣言は、いまや着着と歴史上の事実となって現れつつあります。世界歴史は地上における主イエスキリストの勝利の記録です(イザヤ書七章9節)。

読書の目的

わたしが本を読むのは、読書によって智者、学者になろうとするためではありません。わたしが本を読むのは、それによって人生の奥義を知り、罵られても祝福し、苦しめられても忍び、謗られても進む神のような心に達したいためです。もしわたしが読む本が、わたしに永久に忍ぶ方法を教えてくれないのであれば、どんなに素晴らしいことが書かれていようと、その本はわたしに何も教えてくれないのと同じです。


善行の忍耐

この宇宙は神が造り給うた宇宙です。ですから、この宇宙で善を行ってその報酬がわたしたちに巡って来ない理由(わけ)はありません。ただ、宇宙は広大ですので原因が結果となってわたしたちに還(かえ)ってくるまでには多くの日時を要することがあります。「あなたの必要とする食べ物を困っている人に与えなさい、多くの日の後あなたは再びこれを得ます」(伝道の書十一章1節)。わたしたちはただ善い種を蒔いて置けばよいのです。善は、人の無情によって消えるものではありません。蒔いた善を百倍にしてその人に還えすのがこの宇宙の特性です。ですから聖書は教えて言います、「人々よ善を行うことに飽きることのないように」と(テサロニケ後書三章13節)。

救いの実際

キリストの救いは、救われたと、こころで感じることではありません。また、そのように頭で信じることでも無いのです。実際に救われることです。悪いこころにかわって善いこころが入れ替わり、古い自分が脱け殻となって新しい人間に脱皮する。これによって、キリストの救いが完了するのです。キリスト教は神学でもなければ、単なる行動でも思想でもありません。キリスト教は心霊上の事実であり、霊魂の改造であり、最も驚くべき奇跡なのです。


悲痛と歓喜

わたしたちには悲痛と歓喜があります。キリストと共に生きる人にとっての悲痛は身体上のことになります、そして歓喜は霊魂の歓喜となります。霊魂の歓喜は身体の悲痛に比べてはるかに広大です。ですから、キリストと共に生きる人は歓喜の人となって悲痛の人ではなくなります。キリストと共に生きる人の歓喜はすべての悲痛を呑み込んで余りあるのです。神は、私たちの悲痛を減じるようなことは致しません、しかしながら歓喜を増大し悲痛があたかも無いようになってしまうのです。

神に愛される人

神は、神を愛する人に神自らをお与えるになります。しかし、世界と富みを与えることではありません、世の中とその名誉を与えることでもありません。聖霊をお与えになるのです。神に愛される人間は、人に憎まれ、身内の者や友人にさえ疎まれ、世間で汚らしい者のように見られるかもしれません。しかし、その間中神に愛されて聖霊の恩恵にあずかるのです。ですから、イエスキリストは言い給う「責められる人は幸いなり、天国はすなわちその人のものなればなり」と。

霊を救う奇跡

正しい道について、数年または数十年教わり、キリスト教の真意はことごとく理解できたと思っている人であっても、聖霊の閃光に接するやいなや叫びます、わたしは間違っていました、わたしは罪人です、どうぞキリストの十字架のお力でわたしを救って下さいと。そうして後はじめて、かれは全身にやすらぎを実感します。そして、つくづく聖霊の伴わない伝道はまったく効力がないことを知るのです。わたしたちは、弾薬を準備するだけです、それに点火するのは神なのです。そして、聖霊に点火されないのであれば、いかなる聖書の知識も一人の迷える魂を神の救済に導くことは出来ません。魂を救うことは、神の行給う奇跡です。この神の奇跡が無いならば、いかにしても人の魂を救うことは出来ないのです。

擾乱に対処する道

さわぎ乱れるのは、地上での常の状態です。ちょうど、海に波が常にあるのと同じです。この世の中で、擾乱を避けようとするのは、海上に浮かんで波に揺られないようにするのと同じように不可能です。もし波に揺られないようにするには、巌に縋り付くしか方法がありません。世の中を救うには世の中のものでは不可能なのです。世の中とはかけ離れた「永遠の静粛」によるしかありません。世の中の内からではなく、天上あるいは世の中とはかけ離れたものによって救うしか方法がないのです。そこで、聖書は言います「なんじら、それらの中より出て来なさい」と(コリント後書六章17節)。

平和の基礎

平和のために戦うという人がいます。それは、ちょうど水で潤すのに火を付けるようなものです。もし火が水の役割をするのであれば、戦うことによって平和がもたらされるでしょう。氷と炭が相容れないものである間は、平和は戦争によってもたらされません。平和は、平和から来ます。人類の罪を自分一人で負って、キリストは世界平和の基礎を据えました。平和を世の中にもたらそうと願う人は、皆キリストに倣わなければなりません。


安楽の道  

人に親切にされるのは楽しいことです、しかしながら人に親切にするほうがもっと楽しいことです。人から親切を受けるのは難しいことです、しかし人に親切を施すのはやさしいことです。わたしたちはよりやさしい道を取って、より多く楽しもうではありませんか。

われらの祈り

私は、神よ、私と私の家とを幸福にしてください、とは祈りません。私をあなたのものとして使って下さい、と祈ります。私たちに善い物を与えてくださいとは祈りません。私たちの持っているものをすべてあなたに捧げさせてください、と祈ります。神が私たちに与えてくださる最大の賜物は謙りくだる心と要求しない心です。そうして、神はイエス・キリストによってこの心をわたしたちに下さる事を感謝いたします。

裁くなかれ

人は大きなものを知ることが出来ます、小さなものを知ることが出来ます。虫を知ることが出来ます、海と陸とにあるすべての物を知ろうと努力すれば何時かは知ることも可能でしょう。しかし人間は人間を完全に知ることが出来ません。特に人の心を知ることが出来ないのです。神のみが人間と人間の心を知ることが出来るのです。人類の知識が極限まで進歩して人の心を知ることが出来るようになったら、どんな人間であっても神の前では罪人であることが知れるでしょう。しかし、人間は自分ではこのことさえも知ることが出来ないのです。かろうじて、神の啓示によって知ることが出来るような状態です。人間が自分の力で人間について知ることは零に近いのです、ですから人間はお互いに許しあって裁くべきではないのです。

徳と義

徳は、得です。利得を目的にする人の道です。義は義です、利益を眼中に置かない神の道です。徳は計算的であり、義は確信的です。徳は政治家によって唱えられ、そして義はキリストによって伝えられるのです。わたしたちキリストの弟子である者は幸福を計ったり、徳を講ずる必要はありません。神の前に聖(きよ)く有りますようにと祈って、ただひたすら義を求めるべきなのです。

三個の駄目  

キリスト教でなければ駄目なのです。しかし、外国から伝わった教会によるキリスト教では駄目なのです。神御自身が、日本人の手によってお造りになるキリスト教でなければ駄目なのです。そうして神は、いま日本の国をお恵みになって、この国に自然に生まれる、多くのイエスの弟子の目を覚まさせつつあるのです。本当に、このことは感謝すべきことなのです。

確実なる三つの事

人生というのは、万事がことごとく不安なものです。その中にあって、ただ三つの確実なことがあるのです。その一つは、わたしたちは一度は必ず死ぬという事です。その二つは、イエス・キリストが死より甦(よにがえ)り給いし事です。その三は、イエス・キリストを信ずる事によって、わたしたちもまた死より甦ることが出来るという事です。地が移ろうと、海が鳴ろうと、山が動こうとも構いません、三つの確実な事があるのでわたしの心は動く事が無いのです。

善事としての困難

善をなすことだけが、善い事ではありません、困難に耐えること、これもまた非常に善い事です。わたしたちは、自分自身も困難に耐えてこそ、困難にある多くの人を慰める事が出来るのです。人を慰める言葉として、「わたしもあなたと同じように苦しんでいます」と言う言葉ほど、効力のある慰めの言葉はありません。一ヶ月たてば自然と給料が入り、夏の暑さを避け、冬の寒さを恐れ暖かい所に移り、飢餓も知らず、寒さ暑さを忘れたような生活をしていて、たとえ百回聖書を読み、千回福音を説いても、人は慰められません。霊魂は救われません。幸福なことは、貧しさと戦い、夏の暑い真昼も、冬の寒い夜も、常に主イエス・キリストとともに働く事であるのです。


死以上の災難 

死は恐そろしいことです、しかしながら、もっと恐そろしいことが他にあります。それは、神を棄てることです、俗人としておわることです、罪を罪とも思わないで平気でいることです、不正に味方することです、善人を嘲(あざけ)ることです。これらのことは、死よりもはるかに恐るべきことです。ですから、わたしはいつも祈ります、このような不信不義の災害を我が身に起こさないで下さいと、もし起こるくらいなら死を与えて下さいと。

  自由独立

わたしは政府の付属物ではありません、また教会の付属物でもありません、また会社の付属物でもありません、そして自分自身の付属物でもないのです。わたしは、神のものなのです。ですから、わたしは神に使われる者であって、人に使われる者ではないのです。わたしは神の忠実な僕(しもべ)ですから、神以外のいっさいのものから自由で、独立した人間にならざるを得ないのです。

悔恨の幸福

罪を犯してこれを悔いない、不幸と言ってこれ以上の不幸はありません。罪を犯してこれを悔いる、幸福と言ってこれ以上の幸福はないのです。罪を犯してわたしはつくづく自分の弱さを知りました、と同時に神の強さとその恵みの深さをも知る事が出来ました。罪はわたしを柔和にしてくれました、謙遜にしてくれました、砕けた悔いた心の人(神の最も好む人)にしてくれました。罪は容易に人の罪を赦すこころを育ててくれました。神の目に、この世の中でうるわしくまた愛すべき人間は、罪を深く悔いている人であることを、わたしは知りました。


愛と信

愛が、愛そのものとしてこの世の中に存在する間は、信仰は要らないでしょう。しかしながら、愛が律法として強制されたり、功績として誇るようになるに至って、信仰によってこれを破壊しこれを再建する必要が生じてくるのです。信仰の為の愛ではありません、愛の為の信仰なのです。信仰は愛を強め、潔め、高めるために必要なのです。

恩恵と永生  

神の恩恵は大きくそして広くて、とてもこの地球上でもって限定することは出来ません。延びて万有に至り、引いて永遠に達すべきものです。この地球は大きいといっても、とても神の恩恵をことごとく容れることは出来ないのです。この為、この地球以外になお恩恵を施すところがなくてはならないのです。また、神の無限の恩恵は無限の生命を証明しています。わたしは、短い生涯において、この神の無限の恩恵を受け尽くすことはとうてい出来ません。ですから、わたしのために、必ずこの恩恵を受けるための時と所が別に用意されていると、かたく信じているのです。永生の証明は、神の恩恵が無尽であることによって証明されているのです。


一日一生

一日は、貴い一生と同じです。これを空費してはなりません。そして、有効的に一日を使用する道は、神の言葉を聞いて一日を始めることにあります。一日が素晴らしくなるかならぬかは、朝の心持ちいかんによって定まります。朝起きたら、まず第一に神の言葉を読んで神に祈るのです。このようにして始めた一日は、必ず勝利の日となるでありましょう。たとえ敗北のように見えましても、勝利は疑いないのです。そうして、このような生涯を終生継続することによって、一生は成功をもって終わるのです。

神の国

元始に神は、天地をお創造(つく)りになりました。(創世記一の1)この一節に、キリストの宇宙観と人生観との全部が含まれているのです。宇宙がいかに大きいといっても、全て神により造られたものです。ですから、神がこれを変更したり改造したり、ある場合には運行を中止したり、またはこれを早めたりすることは、勿論自由自在です。すでに父なる神がお造りなされた宇宙です。ですから、これは父の楽園であり、わたしはそのなかに住んで、すこしの恐怖もないのです。わたしがわたしの国を去って他国に行くとしましょう、神はかならずわたしの行くところにおります。たとえ、わたしがこの地球を去って他の星に行くようなことがあっても、神かならずそこにいらしゃるのです。神のお造りになったこの宇宙こそうるわしい楽園であり、天国なのです。


信じること

国が復興する時もキリストを信じ、国が衰える時もキリストを信じます。幸運な時もキリストを信じ、不幸な時もキリストを信じます。仕事が順調な時もキリストを信じ、仕事がうまくいっていない時もキリストを信じます。私は、キリストをただ信じるだけです、信じるだけです、天が失われ地が消えることがありましても、キリストをただ信じるだけです。

福音書の研究

マタイ伝はマタイ伝として独立して研究しなさい、マルコ伝はマルコ伝として独立して研究しなさい、ルカ伝はルカ伝として独立して研究しなさい、ヨハネ伝はヨハネ伝として独立して研究しなさい、無理にこの四つの福音書の記載について調和させようなどとしてはいけません。各々の福音書の大切な目的は、キリストに関する歴史的な事実を伝えようとするのではありません、信者のこころにキリストのイメ−ジを形づくることにあります。福音書は伝道の書です、伝記ではありません。私たちは、そのことを良く理解して読まなければなりません。

聖書と聖霊

聖書の知識だけでは人を救うことは出来ません。聖書の知識に加えて聖霊の能力(ちから)がなければ、人の霊魂を救うことは出来ないのです。聖書そのものは、言ってみれば死んだ文字に過ぎません、しかしながら聖霊は聖書によらなければ働くことが出来ないのです。ですから、聖書を学ぶのは聖書によって救われるためではありません、聖霊を身に招きよせるためなのです。聖霊が聖書の知識に火をつけて、死んでいる魂を復活させるのです。(詩篇十九篇七節

万物ことごとく可なり

夜空に星がまたたき、この世の全てのものは素晴らしいとメッセ−ジを送っています。大地も大声で、すべてのものは素晴らしいと言っています。信仰は一つ一つ実験をつんで、すべてのものは素晴らしいと宣べます。創世記一章31節に、「神はその造る給えるすべてのものを御覧になって、たいへん素晴らしい」とおっしゃった、とあります。ですから、宇宙と人生の事物はいずれもすべて素晴らしいのです。

制度の排斥

わたしが教会に反対するのは、教会内部の腐敗を嫌うためではありません。教会制度そのものを憎むためです。制度は、あくまでも規則であって、愛の自由とは違うからです。制度が、いかに完全であっても神の国を作ることは出来ません。教会の制度が完全になるのを待っていましても、いつまでたっても完全とはならないでしょう。すぐさま制度を廃止して、神の愛に頼ることによって、始めて完全となることが出来るのです。教会が純粋な、わきあいあいとした兄弟的団体となるまでは、キリストの聖旨(みこころ)はこの世に行われないでしょう。

救いうるみ名

イエス・キリスト、この人による以外に救いはありません。わたしたちをすくいうるみ名は、イエス・キリストです。この人をのぞいては、天下のだれにも救いの力を与えられていないからです。(使徒行伝四の12)

永遠の命に至る食べ物

朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これは、人の子イエス・キリストがあなたがたに与え給うものです。父なる神は、人の子イエス・キリストにそれをゆだねられたのです。(ヨハネ伝六の27)

神の御言葉

あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からです。すなわち、神の変わることのない生ける御言葉によったのです。「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ています。草は枯れ、花は散ります。しかし、主の御言葉は、とこしえに残ります」。これが、あなたがたに宣べ伝えられたイエス・キリストからの、神の御言葉であす。(ペテロ第一書一の23〜25)

死と生

肉体的なことに重きを置くことは、死につながります。霊的ことに重きを置くことは、生につながります。同じように、地のことは死であり、天のことが生です。また同じように、利害のことは死であり、正義が生となります。人のことは死であり、神のことが生となります。ヨブは嘆いて言いました。「ああ、わたしは何時になったら肉体を離れてわたしの神を見る事が出来るようになるのだろうか」と。(ヨブ記十九章26節)

神の愛と人の愛

人に憎まれると言って嘆く必要はありません、そのような時は神に愛されているのです。ですから、神に愛されているときは逆に人に憎まれるのです。神と人とは太陽と月のような関係です。人望の光輝が自分に降り注ぐ時は、私たちが神を背にして立っているときなのです。

純粋な愛

愛は、純粋でなければなりません。その中に、少しでも不純なものが混じってはならないのです。愛は怒りません、人を悪く思いません、まず信じます、そしてたいていのことは堪え忍びます。自分を愛してくれる人を愛し、自分を愛してくれない人を憎むようなのは、愛でもなんでもないのです。恋愛などと言っても、すぐに非常な嫉妬と憎悪に変わるようなものは、キリストがおっしゃるところの愛ではないのです。世の中の、たいていの人は愛と言う言葉は知っているけれども、ほんとうの意味の愛を知らないのです。


敵を愛するの結果

わたしを憎む人を愛するのは、たいへん辛い事です。しかし、これは常に主イエスキリストの教えです。ですから、わたしは努めてこれをなすのです。そうしますと、ご覧ください、天の扉がわたしの心の中に開かれて、わたしはそこにありありと主が栄光のなかにおいでになるのが見えるのです。辛い事の背後には、最も喜ばしいことが隠れているのです。ですから、どんなことでも主のお命じになることは勇んで従うべきなのです。

わが唯一の宝

私は、政治家ではありません、ですから時局を解することが出来ません。私は、文学者ではありません、ですから文章をうまく書くことが出来ません。しかしながら、わたしも小さいとはいえキリストの信者です。神によって、霊魂を救われた確かな経験があります。私が、世の中に発表できるのは、このことだけです。私のような憐れな者であっても救われました、ですから私は世の中の全ての人が救われることが出来るし、救われる事を望むのです。

憤怨のゆえん

この世は、神のお造りなさった世界です。悪人の思うままになると思ってはいけません。神がこの世をお造りなさったのには、それなりの神のご計画があり、神はそのご計画を実行され、完了するまでは途中でやめるようなことはなさいません。ですから、わたしたちが、悪人が成功するのを見て憤ったり、怨んだりするのは、わたしたちが神をいまだ信じることがはなはだ薄いと言うことにもなるのです。

愛の世界

人生の第一の目的は、神に愛される事です。この目的を達成するためには、世の中の人から憎まれる事もあるかも知れません、神の義を守ってかえって人から嘲りを受ける事があるかも知れません、神の義を行ってかえって悪人のように思われることがあるかも知れません。しかしながら、そのように、世の中で苦しみを受ける事は、神に愛されるために必要な事なのです。神は愛です、そして宇宙はその神の愛を受けるための機関なのです。



信と学

信仰は人間のこころを深くします、そして学問は人間のこころを広くします。信仰の裏打ちのない学問には、情熱がありません。また、学問の裏打ちのない信仰には、光がありません。信仰をもって荒れ果てた土地を耕し、学問でもってそれを田園とするのです。ただ、信ずるだけの信仰は粗野である事を免れないでしょう、学問でもってこれを研磨することによって信仰は初めて穏やかさを得るのです。学問をする事は、ともすれば驕慢になりがちなのです、しかしだからと言って学問の探求を怠ってはいけないと思うのです。


最大のこと

信んじる人は、伝道する人より偉大な人です。また、神学者になることよりも偉大なことなのです。神を信ずるということは、教会を起こしたり万人を教化することよりも偉大なことなのです。信ずる、信仰する、信頼する。人間がなすことの出来る最大のことは、自分を忘れ、自分は死んだものとして、神を信じ神に頼ってのみに生きることです。

山を動かす力

活かして下さい、教えて下さい、使って下さい、と祈ります。わたしの願いは他にはありません。自分から活動しようとはしません、自分から教え導こうとはしません、自分からことを成し遂げようとはしません。ただわたしの全身全霊を開放して神の恩恵を受ける器となることを願うだけです。進んで取るような事はしないで、待っていて受け取るのです。そのようにして、わたしの待ち望むものはすべて与えられるのです。この信じて待つことを、信じる力は山をも動かすと言うのです。これが、不思議な信仰の秘訣なのです。

わたしの務め

人をキリストの信者にすることは、わたしには出来ません。しかし、福音の誠を体験によって証明することは出来ます。わたしの務めは信者を作る事ではありません、福音を身を持って証明する事です。わたしの証明を見た人が、信者になるかも知れませんし、ならないかも知れません。それに関しましては、わたしにはいっさい関わりのない事なのです。

必要なことはただ一つ

必要なことはただ一つとイエスキリストはおっしゃいました。法律ではありません、軍備ではありません、工業ではありません、商業ではありません、哲学ではありません、科学ではありません、あるいは高い道徳でもありません。それは、神御自身であり、神の福音なのです。これがなければ個人も、家庭も、社会も、国家も、深く固い根底の上に立てられないのです。

善きこと

わたしをイエスキリストに近寄らせるものは、どんなことでも善いことです。貧困であっても、病気であっても、孤独であっても、迫害であっても、そうです死そのものであっても、それによってキリストに近づくことが出来るのであれば、すべてわたしにとっては善いことなのです。ですから、キリストを求めていますと、すべてのことがわたしにとって善いことになるのです。なんと幸福なことなのでしょうか。

希望と信仰

目に見えないことを望む、これを希望と言います。自分の頭で解明できないことを信じる、これを信仰と言います。すでに目に見えるものは、望む必要はないでしょう。すでに解明されていることを信じるのは、知識であって信仰ではないのです。信仰が貴いのは、解明されていないことを信じるところにあります。しかし、理由なくただ信じるのとは違います、愛を感じて信じるのです。愛である神がお示しになったことを、解明出来ないにもかかわらず信じるのです。このことを信仰と言います。わたしたちが救われるのは、このような信仰によるのです。有限の存在でありますわたしたちが、無限の存在であります神に対しまして、幼子のようなこころを抱くことによって救われるのです。そうです赤ん坊となって救われるのです。

10月24日(土) 信仰と無学

もしわたしが信仰をする事によって、新しい知識を得るようにならなかったならば、その信仰は真の信仰と言えないでしょう。信仰は正しく歩むための道であるとともに明るく照らす光でもあるのです。神を信じることによってさらに多くを学ぼうと言う欲求が起こらない人は、まだまだほんとうに神を信じているとは言えない人です。無学で満足する人は偽りの信仰者です。信仰と無学は両立出来ないのです。
信仰と無学

もしわたしが信仰をする事によって、新しい知識を得るようにならなかったならば、その信仰は真の信仰と言えないでしょう。信仰は正しく歩むための道であるとともに明るく照らす光でもあるのです。神を信じることによってさらに多くを学ぼうと言う欲求が起こらない人は、まだまだほんとうに神を信じているとは言えない人です。無学で満足する人は偽りの信仰者です。信仰と無学は両立出来ないのです。

福音を説くべし

世の中に惨事が多いと嘆く前に、まず福音を説きなさい。世の中に罪悪が多いと嘆く前に、まず福音を説きなさい。社会を改良しようと望む前に、まず福音を説きなさい。福音は世の中を救うための神の力です。福音によって救われたのでなければ、人であろうが国であろいうが真に救われた事になりません。福音によらない救済はすべて偽りの救済です。

完全になるために

わたしたちを憎む人に善をほどこすことが出来て、わたしたちは始めて完全なる者とはどういうものかを知る事になります。わたしたちが喜んでこのことを行うようになるまでは、わたしたちはまだまだ神を知る事が出来たとは言えません。世の中に、わたしたちを憎み、ののしり、ねたむ人間が存在するのは、わたしたちがその人たちによって完全な人間になるために必要なのです。私たちは、そのような彼らをきらってこの完全な人間になるための絶好の機会を逃がしてはならないのです。

勝利の生涯

艱難を避けようとしてはいけません、このことに勝とうとしなさい。しかし、自分ひとりでこれに打ち勝とうとしてはいけません、神によって打ち勝とうとしなさい。神が艱難をわたしたちに下し給うのは、わたしたちによって神が御自身のちから(能力)とめぐみ(恩恵)とをあらわそうとするためなのです。

偉大なる事業

神によってなす事業は、すべて大きな事業となります。神によってなしたコロムウエルの政治は偉大な政治です、神によって画いたラファエルの絵画は偉大な絵画です、神によって彫んだミケランジェロの彫刻は偉大な彫刻です、神によって作ったハイドン、ベ−ト−ベンの楽曲は偉大な楽曲です、神によって施したペスタロッジ、フレ−ベルの教育は偉大な教育です。神によらないないで、偉大なことはなし得ないのです。また神によらなければ、偉大なることも理解出来ないのです。


善きことをする道

悪というのは、神より離れて存在する事です。神とともにあるのであれば、どのような事も、どのような行いも、ひとつとして善でないものはないのです。私たちは、悪を避けようとするよりは、むしろ神とともになることに努めるべきなのです。そうすれば、私たちは、自然と善をするようになって、悔い改める苦痛を感じる必要がなくなるのです。

愛の利殖

人に愛されたいと望むならば、人を愛する事です。私たちは、自分が人に施した愛以上には人から愛をうけることは出来ないからです。ですから、わたしたちは人から自分自身の愛を受けるのにすぎないのです。自分から出た愛が他人に渡って再び自分にかえってくるとき、その愛はもとの形とは違っています。愛も貨幣のように、人の手を経て増殖します。愛の乏しい人は、愛を与えない人です。人に愛を求めるだけで、愛を与える事をしない人は、ついには愛の守銭奴となり、愛の欠乏でもって滅んでしまいます。

成功の秘訣

わたしが世の中の物事に打ち勝った時、わたしのところに神がやって来るのではないのです。わたしは、神に最初から頼り切って世の中の物事に打ち勝つのです。わたしが、義の人になって初めて神に受け入れられるのではないのです、わたしは、神に頼り切って初めて義の人になるのです。同じように、神に頼って智者となり、勇者となるのです。わたしは、なんと考え違いをしていたのでしょうか。わたしは、活き活きとした水の源のような神を捨て、穴のあいた水溜のような自分に頼っていたのでした。

聖書そのもの

聖書そのものを読むようにしなさい。聖書についてだけを多く読んではいけません。生命は聖書そのものにあるのです、聖書論にあるのではありません。聖書についてとかく疑問を持つ人は、たいてい聖書自体を読んでいるのではなくて、聖書について聞いたり読んだりしている人が多いのです。

信仰の綱

わたしは聖人でもないし、義人でもありません。わたしは神の義を慕う人間であり、神のたすけ援助を切に求める人間です。わたしの出来ることは、ひとつしかありません。それは、神がいかに恵み深いかを信じることです。そして、この信仰がわたしをすべての罪より清めることが出来ないなら、わたしが清まる道はほかにひとつもないということです。信仰、キリストにおいて顕われた神の恵みを信じること、これがわたしのすべての徳と言えるものです、誇れるものです。もしこの信仰の綱が切れてしまったならば、わたしは奈落の底まで落ちて行くでしょう。

信仰と境遇

わたしにとって、境遇は信仰を作りません、信仰こそが境遇を作るのです。神は、すべてのよ佳いものごとを信仰の報酬としてわたしにくださいます。「なんじらの信じるごとくなんじになる」と主は言い給えり(マタイ伝九章29節)。わたしは、ますます信仰を強めることによってわたしの境遇を改良する事が出来るのです。

神の教育法

神はわたしの前に敵を送り給いてわたしの身に危害を与えられました。そして、わたしにキリストの義と愛とをお示しなさって、この危害に勝つ道を教えて下さいました。もし、危害がわたしの身に加えられなかったならば、わたしは神の愛を知ることができなかったでしょう。敵の悪意は神の好意を招く機会となったのです。神は、実験的にそのことをわたしに伝えて下さったのです。敵の奸計、憤怒、憎悪を通うして、わたしは神の愛を味わうことが出来たのです。なんと感謝したらよいか分かりません。

わたしの信仰

わたしの信仰は単純で簡単です。イエスキリストが、わたしの罪を救うために十字架の死を遂げ給えりとのこと、これだけです。その説明をすることは、わたしには出来ません。何故、自分は罪人であるかは分かりませんが、罪人であることははっきりしています。何故、キリストが自分の罪を救ってくれるのか分かりませんが、わたしの罪を救ってくれる唯一の力であることははっきりと分かります。わたしは、罪の事実を知っています、また救いの事実を知っています。しかし、罪の原因と救いの哲理は分かりません。わたしの信仰は事実によって得た信仰です、教理の説明や信条による信仰ではありません。

神を知る二つの方法

神を知るのに、二つの方法があります。聖書を学ぶ事がその一つです。神の求めに応じ行動するのが、二つ目です。二つの方法のどちらを欠いても深く完全に神を知る事は出来ないでしょう。そうは言っても、誰でもが聖書学者になれるというわけではありません。しかし、誰であっても、意を決して勇敢な愛の行為を行う事は出来ます。そして、そのように実行することによって、誰でも深くそして確実に神を知る事が出来るのです。


成功と失敗

わたしが行うべきことについては、神は成功という祝福を下さいます。わたしが行ってはならないことについては、神は失敗という呪いを下さいます。成功にしても、失敗にしてもともに神の聖意をわたしたちに伝えるための福音です。わたしは、常に感謝をもって両者に接しようと思います。

勝利の生涯

世の中から、逃げようとしてはいけません、世の中のことに勝たなければならないのです。境遇がよくなりますようにと祈ってはいけません、こころが改まりますようにと祈らなければならないのです。苦痛が無くなりますようにと、願ってはいけません。神の恩恵が増しますようにと願うのです。外見的に富んだり、栄えたりすることを求めてはいけません。こころの中で喜んだり、楽しんだりする人となりなさい。

十字架の教え

十字架の教えと言うのは、悪に逆らわないことです、敵の罪を赦すことです、死ぬまで愛し続けることです。このことを信じて行うならば、永遠の生を得るでしょう。勝利や栄光は結果的に来るのです、復活と永世もその報賞です。キリストは、特にこのことを教えるために天よりこの世に降られたのです。人は、力によって勝とうとするために、知識によって生きようとするために、神は愛する一人子のキリストをこの世に遣わし、かれを敵の手に渡して、勝利と生命との道をお示しになったのです。ああ、なんと貴いのでしょうか、この十字架の教えは。

信仰の道

信仰は、第一に誠実でなければなりません。第二に信頼です。そして、第三がその実行です。この三つのどれが無くても、信仰は信仰で無くなります。人が、信仰で救われると言うのは、このような信仰によって救われるのです。このほかに、信仰はありませんし、救いもありません。信仰の道と言うのは、青空に輝く太陽のように明らかです。

わたしの宗教

わたしの宗教は、神を愛し、人を愛することです。わたしの礼拝はこれです、わたしの信仰はこれです、またわたしの奉仕はこれです。これらのことを除いて、わたしの宗教は有り得ません。教会とはなんでしょう、儀式とはなんでしょう、神学とはなんでしょう、もしわたしに愛がないのであればわたしは無神の人間です、異端者の頭領です。わたしが、口で神を唱え、ペンでいかに神を崇めようとも、それだけではわたしは信者と言えないでしょう。わたしは、愛すれば愛するだけそれだけ神を信じることになるのです。わたしの信仰は、わたしの愛以上では有り得ず、またわたしの宗教も、わたしの愛以下ということは無いのです。

自分に勝つ方法

黙々といくら想っても、罪を追い払うことは出来ないでしょう。罪は、逆に善い行いをすることによって、払い清めることが出来るのです。善行というのは、他人を救うためにのみ必要ではないのです、自分自身を清めるためにもまた必要なのです。自分自身に勝つ方法は、人を助けることです。救済には、自分とか他人とか言った区別は無いのです。どんな人であっても、自分ひとりだけ清くなって、天国に入ると言うことは出来ないのです。

わたしのすべて

財産をうしなっても結構です、どうか神のみ顔を失うことがありませんように。人に捨てられても結構です、どうか神のみ心を疑うようなことがありませんように。人に見捨てられても結構です、どうか神に捨てられるようなことがありませんように。死ぬことも結構です、どうか神より離れることがありませんように。神は、わたしの全てです。神を失ったら、わたしは全てを失ってしまいます。わたしの生涯の目的は、ただ神を見ること、神と一体になることです。それ以外、何もありません。

最も難しいこと

最も難しいことは、志を起こして働くことではありません。最も難しいのは、神がお命じになる時まで、静かに待つことです。あるいは一年、あるいは三年、あるいは十年、あるいは二十年、私たちの各々の信仰の程度に応じて、黙って神の命が下るのを待つことです。詩人のミルトンが言っています、「単に待つ者も立派に神に奉仕している」と。従順に父なる神の命を待つことは、神の最も喜び給うことです。私たちは時には、何か大きなことをしようとするのではなく、むしろ何もしないことでこころを楽にして神を喜ばせるべきなのです。

自然主義

自然が、自然であることは勿論自然なことです。しかし、人の自然というのは不自然と思います。自然の自然そのものを描くのは、美しいことです、しかし人の自然を写すのは、醜いことだと思います。わたしは、自然の自然主義はおおいに結構なものと思います、しかし人の自然主義には反対です。なぜなら、人は神にそむきその自然性を失ったからです。

天国とは

天国と言うのは、どこのことでもありません、人が人を愛するところです。ですから、いかなるところであっても、人が人を愛しないところは、天国ではないのです。音楽があろうが、すぐれた説教があろうが、熱心な信仰があろうが、慈善が行われようが、そこは天国ではないのです。ですから、天国を作るのは、大変易しいことです、自分を捨てて人を愛すればそこで天国は即座に出来るのです。特別に教会を組織する必要はありません、特別に神学を闘わす必要はありません。キリストに倣って人を愛すれば、それで天国は出来るのです。

わたしの祈願

わたしが、神に向かって求めるものは。富でも、権力でも、智慧でも、天才でも、幸福でも、安全でも、山を動かすほどの信仰でもありません。そうです、他の人を愛するこころを、軽々しく怒らない心を、打たれても赦す心を、いたるところに温良の香を放つ心を求めておるのです。そうして、わたしのこころは充実し、何も持たないようでありますが、すべてのものを持つ者となるのです。

天国の建設

天国は、自分の外の世界に求めては得られないでしょう、しかしこころの中に建設することが出来ます。キリストの愛をもって自由に人の罪を赦して、わたしはこころから憎悪憤怨の苦がさを取り去り、たちどころにそこに平和の天国を建てることが出来ます。天国は無限の赦しが行われるところです。キリストの愛をもってすれば、今日がいかに罪の世であろうとも、私たちは容易に私たちのこころのうちに天国を建設出来るのです。

キリストにあっては

わたしの力で人の罪を赦すことは出来ません、しかしキリストにとっては容易なことなのです。七度の七十倍する赦しは、とうていわたしには出来ません、しかしキリストならば出来るのです。善も同様に、なすことは難しいことですが、キリストにとっては容易なことなのです。「わたしは、わたしに力を与えて下さるキリストとともにあって、いかなることもなすことが出来る。」(ピリピ書四章13節)。

天国を自分で作る

人に愛されようとしては、なりません。ただ愛しなさい、嫌われても、愛しなさい。憎まれても愛しなさい。たとえ十字架の上であっても愛しなさい。愛することは、愛されることよりも幸福です。私たちは、いくら愛されようとしても愛されないことのほうが多いのです。しかし、愛することは自由です。ですから、私たちは、進んですべての人を愛し、自分自身のために天国をつくるべきです。

読書と知識

書物を読んだだけで、真に物事を知ることは出来ない。書物は物事を紹介し、想いを起こさせる役割をするにすぎないのです。物事を実際に行ってみて、はじめて良く知ることが出来るのです。知識は、実験です。いわゆる博学と言われる人が、実際は何事も知らない、と言うことが多いのです。読書家を識者と単純に考えるのは、誤りです。わたしの知っているもっとも無知な人は、本を読むこと以外には何もしない人です。ことわざにあるように、百聞は一見にしかず、千読は一行に及ばずです。深く物事を知ろうと万巻の書物を読み漁る必要は、少しもありません。

読書と苦痛

人はわたしについて、多くの書物を読んだので多くのことを語ることが出来るのだと言います。しかしながら、わたしが自分自身について言えることは、他の人より少しばかり苦しんだために少しばかり多く語ることが出来と言うことです。目で読んで、筆に綴るのは容易なことです。こころで苦しみながら文字に表わすことが、難しいのです。しかし、わたしは神に感謝いたします、わたしも少しばかり苦しむことが出来て、そのために少しばかり人生の事実を語ることが出来ることを。

教と力

キリスト教なるものは、さほど貴いとは思いません。キリストの力が貴いのです。キリスト教ならば、神学者も、よくこれを知ることが出来るでしょう。しかしながら、キリストの力となると、神に直ちに接しなければ得られないのです。わたしは、必ずしもキリスト教を学ぼうとは思いません。しかしながら、自分自身にキリストの力を得て自己を救うと同時に世の中をも救いたいと思うのです。

愛情が満ち溢れる


あの人は愛情が少しも無い、などと言ってはいけません。その人に愛情が無いのではなく、自分自身に愛情がないために人に愛情が無いように感んじるのです。自分自身に愛情があれば、この世の中は愛情に満ち溢れているように見えるでしょう。願わくは、神より愛を賜って、世の中を愛によって見つめ、愛が満ち溢れるようになりますように。

神の助け

神はさまざまの方法をもって、わたしたちを助けて下さいます。ある場合は霊によって、ある場合は物によって、ある場合は友人でもって、ある場合は敵でもって、ある場合は日本人でもって、ある場合は外国人でもって、ある場合は知人でもって、ある場合は未知の人でもって、わたしたちの弱さを助け、欠けているものを補って下さります。神の方法は豊富です、それはわたしたちを日々助け給う神の方法の豊かさを見れば分かります。私たちは、多くの困難に直面します、しかしそのつど神はわたしたちを救い出して下さるのです。

悲痛を消す方法

人生に悲痛はつきものです、しかし悲痛を悲痛のままで取り除くことは出来ないのです。悲痛は、希望と歓喜によって取り除くことが出来ます。あたかも、暗黒が光によって駆逐されるように、汚濁が清水によって排出されるように。わたしたちは、この世以外に希望を認めることによってこの世におけるあらゆる悲痛を消し去ることが出来るのです。天の力なくしては、地上の悲痛を排除することは出来ません。そして、天の力でもって排除出来ない地上の悲痛などはありえないのです。一生地上で苦労しても悲痛は去らないでしょう、しかし、ひとたび天を仰ぎ見れば最も重い悲痛であっても春の霜のようにすぐ消えてしまうでしょう。

無私の祈祷

自分に恩恵が下ることを祈ってはいけません、あくまでも神の栄光が顕われるように祈るのです。自分のことを祈りの題目にしないことです、神のために神に祈るのです。神の聖意(みこころ)を成らせ給え、神の聖国(みくに)をきたらせ給えと祈るのです。そうすれば、その無私のこころが神に通じて、人間では考え得ないような神の平安を受けるようになるでしょう。


信仰と希望

全知全能の神に失望ということはありません。ですから、神を信じる人に失望ということは無いのです。失望は不信によってもたらされます。信仰は、無限の希望をもたらします。私たちは、神を信じることによって自分自身においても、他人においても永久に失望することが無いのです。

成功の期待

成功を期待して、物事を行いなさい。失敗を恐れながらしてはいけません。どんなことでも、常に最善のイメージを描きなさい、最悪のイメージを描いてはいけません。神が治め給うこの世の中で神を信じて行えば、何時かは必ず成功します。失敗は一時的な現象です、決して永久の事実では無いのです。「誠に善を行うのに倦んではいけません、倦むことが無ければ必ず刈り入れの時が来るであろう。」(ガラテヤ書6章9節)

神の事業

他人を傷付けなければ目的を達成出来ない人は、禍の人です。他人が墜落するのを期待して、自分の出世を計る人も禍の人です。わたしの望む事業は、万人に利益を与える事業でなければならないのです。一つの邪念をも抱かない事業でなくてはならないのです。神の事業と言うのは、まさしくこのような事業なのです。

感謝の念

神がすでに下し給いし恩恵を感謝しなさい、そうすればさらに大きな恩恵を下さるでしょう。旧恩について感謝しないで、新恩に預るのは難しいでしょう。世に言われるところの不平家と称する人間が、一生満足を感じることが出来ないのは、感謝の気持ちが欠けているからです。

悪に勝つ方法

聖書は、わたしに教えて言います、なんじ悪に勝たれるなかれ、善を持って悪に勝つべしと(ロマ書十二章21節)。しかしながら、悪は強くわたしは弱い存在です。そこで、善一つではとても悪一つに勝てません。もし善で勝とうとするならば、わたしは百の善をもって一つの悪を征服しなければならないでしょう。もし悪が小銃で向ってくるのであれば、わたしは好意の大砲で応じるでしょう。もし、怨みの毒水一杯を注げば、わたしはこれに応えるに愛の洪水をもってします。しかし、わたしが多数で少数を圧倒する場合というのは、善をもって悪を征服する時に限るのです。

成功の秘訣

何事も、怒りに駆られてなしてはいけません。また、競争心からなしてはいけません。物事をなす場合は、必ず愛に励まされてなすべきです。神の栄光をあらわすために、隣人の苦しみを助けるために、常に喜ばしい、そして平穏な心持ちでなしなさい。恩寵と平安、歓喜と感謝、奪うことが出来ない満足、このような気持ちが無くては成功は出来ないでしょう。また、永遠に続く事業も出来ないでしょう。

内外の別

世の人は興奮することを求めます。キリストの信者は、平安を求めます。世の人は、激情して物事をしようとします、キリストの信者は静かに、神からの命が下るのを待ちます。徒党を組んで、強くなったように感じるのは世の人です。人と離れて、静かに力を蓄える人は神の人です。世の人と、神の人との違いは、外と内との違いと言えます。