聖  句内村鑑三所感集」(岩波文庫)及び「一日一生」(教文館)より

                 注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)               


二つの美しき名あり、その一つはイエスキリストにして
その二は日本なり...内村鑑三

   

「最大幸福」
最大の幸福は金を有することではありません。むしろこれを捨てることです。富は権力ではなく、むしろ束縛です。本当の自由はむしろ富を捨てることによってもたらされます。世の中で神に頼るだけでほかになにもないことほど幸福なことはありません。ですからわたしは不思議でしょうがない、世の中の最大多数の人がこの幸福を求めないで、むしろその逆を求めていることです。

「神の沈黙」

今の時代は、人が神を棄てても神はそれを咎めなさらないようです。人が罪を犯しても神はそれを罰しなさらないようです。そのため、人は言います。「神なんか存在しないんだ」と。しかしながら、私はそのようには信じません。今の時代は、神が沈黙している時です。世の中の罪があまりにも甚だしいので神は、人に好きなように罪を犯させておられる時代なのです。真(まこと)に恐ろしい時代といって、今ほど甚だしい時代はないでしょうす。人は今自分自身のために神の怒りを積み重ねているのです。そのようにして、神の豊厚(ゆたか)な仁愛(めぐみ)と寛容(ゆるし)と忍耐とが尽きて神の震怒(いか)りが人に下るとき、世の中に大きな哀哭(かなしみ)と切歯(はがみ)とが起こるでしょう。それは、台風が襲い来る前に大いなる静謐(しずけさ)があるようなものです。今の時代の神の沈黙はすぐにやってくる恐るべき審判の前兆(まえぶれ)でなくて何でしょうか。ロマ書二章四、五節。

「われかキリストか」

われがなすのではない、キリストがわれにありてなし給うのである。ゆえにわが事業ではない、キリストの事業である。われは死んだ者である、キリストがわれにありて生きかつ働き給うのである。これゆえにわれはキリスト者であるというのである。このことを疑う者はキリスト者ではない。これは世の人から見れば大いなる秘密である、しかしながらキリスト者から見れば何よりも明らかなる事実である。ガラテヤ書二章二十節。

「夏の午後」  

風そよぎ枝おどる、猫のむり子供あそぶ、地は平静なり、わが心また平静なり、われはすでに聖(きよ)き国にあり。

「平人の宗教」

キリスト教は貴族の宗教というより平民の宗教です。金持ちの宗教というより貧しい人の宗教です。僧侶の宗教というより普通の人、平人の宗教です。キリスト教によって社会は転倒されます。すなわち、高慢の人は卑(ひく)き者とされます。また、貴族ぶった人は賎しい者とされます。賢しこさを誇る人は愚かな者とされます。このように、キリスト教によって社会は自然と改革されます。

「自由の貴尊」  

自由は自由のために貴からず、神のために尊し。自由は勝手に我意を行うために貴からず、神をして人の何らの干渉なくしてわれにありて働かしめ給うがために尊し。自由の観念より神を分離して自由は賎しむべくしてかつ危険なるものと化するなり。神を目的とせずして自由はこれを求むべからざるなり。

(つづく)

「密室の奉仕」

金銀財貨をわたしはもっていません。わたしはこうした世間の財貨の力で友に報いようとは思っていません。わたしには、神から与えられた力があるのを信じます。それは、ただ一人部屋に坐って友のために祈ることです。わたしは祈祷をたんなる感情的なものでなく、実際に友を助けることができるものだと信じます。わたしは、祈祷をしているとき著しく力が消耗するのを感じます。それは、わたしの力がわたしの愛する友の上にそそがれて友に力を与えているからです。ですから、世間では軽視されているこの祈祷の力をわたしは信じて、友のために施そうと思うのです。

「福音の勢力」

福音は政治ではありません、しかしながら国家を潔(きよ)めます。福音は美術ではありません、しかしながら美感を喚起します。福音は哲学ではありません、しかしながら思惟を刺激します。福音は産業ではありません、しかしながら富を増進します。福音はこの現実の世界のことではありません、しかしながら人を問題とし、人を活かそうとし、結局すべての方面においてこの現実の世界を啓発する働きをします。この現実の世界以外のことを扱う福音こそが、実はこの現実の世界を救う唯一の勢力なのです。

「自由の衰退」  

今や人は自由を口にせず。かれらは愛国を説き、成功を語る、しかれども古き自由はおいてこれを省みざるなり。しかれでも自由を忘却をし民を見よ、疑獄は続発してその底止めるところを知らず、国家はその根底において壊(くず)れ、事業はその本源において敗れつつあり。古きミルトンの言は今もなお真(まこと)なり、いわく「自由のあるところにのみ道徳は行わる」と。自由を国賊視して国家は亡び、これを異端視して教会は廃(すた)る。自由は今もなお人の生命なり、自由は今もなお盛んにこれを唱道せざるべからざるなり。

「進化の法則」

言う、進化は生存競争にあり、ゆえに援助を要せず、誘導を要せず、ただ競争をして人を進化せしむれば足ると。ここにおいてか無慈悲の教育あり、残忍の商業あり。一人が成功せんがためには千人は失敗し、一人が選抜せられんがためには万人はふり墜(おと)さる。歓ぶ者は少なくして泣く者は多く、起つ者は少数にして斃(たお)るる者は多数なり。しかも言う、これ天然の法則にして進歩の原理なりと、誠にこの世の霊はキリストの霊と敵(もと)る。悪魔を呼んで「この世の主(ぬし)」と称するはあえて怪しむに足らざるなり。(ヨハネ伝十二章三十一節)

「自他の事業」

わが事業がある、また他人の事業がある。われはわが事業をなさなければならぬ、しかしてまた他人の事業を助けねばならぬ。わが事業はもちろんわが主義に反くものではならず、しかれどもわが助くべき他人の事業は必ずしもわが主義にかなうを要せず。われはかれの立場より見て善かつ美なる事業は喜んでこれを助くべきである。われは無教会主義者である、われは終生教会を建てないであろう。しかれでもわれは他人が教会を建(た)てんとするにあたりてわれに援助を乞う者あれば喜んでこれに応ずるのである。「すべて信仰をもってせざるは罪なり」(ロマ書十四章二十三節)。教会信者の教会建設は当然にしてかつ賛成すべきことである。

「われらの祈求」  

「われらはここにありてつねに永続すべき都(みやこ)なし、ただ来たらんとする都を求む」(ヘブル書十三章十四節)。わたしたちキリストの信者はこの世でもって改良された社会を求めません、または強大な国家も求めません、あるいは幸福な家庭を求めません、また純粋な教会を求めません。ただこれからやって来るところの新しいエルサレムである神の国を求めるのです。理想はこの世において求めてはいけません。そうです、賛美と栄光と福祉(さいわい)と歓喜(よろこび)とは、今後まちがいなくやって来るところの神の国、神の家に存在するのです。ですから、わたしたちは神の国に到達するべく一生懸命努力し、働くのです。この世での安泰だとか幸福だとかはわたしたちの求めるものではないのです。

「科学と宗教」

科学は天然界における事実の観察なり、宗教は心霊界における事実の観察なり。二者同じく事実の観察なり、ただ観察の領域を異にするのみ。二者目的をともにし、方法をともにす。事実を知らんと欲す、精確ならんと欲す。科学の敵は宗教にあらず、思弁なり。宗教の敵は科学にあらず、神学なり。科学と宗教とは善き兄弟なり。かれらは手に手を採りて二者の敵なる思弁と神学とに抗すべきなり。

「伝道と自由」

伝道は絶対自由でなければなりません。伝道者を支配するものは神の霊の他に何ものもあってはなりません。教会も妨害です、会社も妨害です、給料も妨害です、恩給も妨害です。かれはひとり平原の中央に立ちて碧空を望んで霊気に充たされる者でなければなりません。かれは誠に野によべる人の声にならなければなりません。かれは祭司または学者またはパリサイの人たちから何の支配をも受けない者にならなければなりません。

「死者の活動」  

キリストを信じて、わたし自身は今や死んだも同然です。キリストとともに生きているわたしは、キリストを離れてはなにも出来ないのです。このようにわたしは、キリストによって殺されたも同然であり、このことを神に感謝する者です。わたし自身は死んでいて、わたしに代わりキリストがわたしのなかで生きており働いてくださるのです。ですから、わたしは人の出来ないことでもなすことが出来る能力をもつのです。奇蹟を行うことができるのです。もちろんそれは、すでに死んだも同然のわたしがなすのではなく、わたしのなかで生きているキリストがなし給うのです。ですから、奇蹟をおこそうとするならば、まず自分自身をキリストにより無にして、そして自分の中にキリストを宿し給いて、なしていただくのです。

「教会の真偽」

教会がもし神の教会であるならば、これはオルガニズムであってオルガニゼーションではないのです。つまり、生命の形成するところの有機体であって人為的に構成するところの体制ではないのです。教会はキリストの体とも言われます、それであるならば、今日世の中で一般的に言われる教会との相違は明らかです。教会は聖霊が組織するところの生物体でなければなりません、宗教家が編制する制度ではないのです。教会の真偽は近世科学の法規に照らして見ても明らかとなります。

「神意と人意」

人は止まらんとし、神は動かんとし給う。人は固結せんとし、神は溶解せんとし給う。人は制定せんとし、神は産出せんとし給う。神、自由の福音を賜えば、人はこれを化して制度の宗教となし、神、愛の兄弟を生み給えば、人はこれを収容して規則の教会を作る。人のなすところは常に神のなし給うところにもとる。かつてバベルの塔を築きて神の震怒を招きし人は、今なお条規の教会を設けて同じく聖意にもとりつつあり。慎まざるべけんや。

「日本国とキリスト教」  

日本国は文明国たるに相違なし、しかれどもそがキリスト教国にあらざるは明らかなり。日本国の社会はその中心においてキリストの福音を嫌い、誠にこれを信ずるものあればこれを排斥してやまず。激烈なるキリスト教の迫害は今なおこの国において行われつつあり。その明白なる社会現象として現れざるは国民が寛容なるによるにあらず、誠実にこれを信ずる者の稀(まれ)なるによるなり。誠(まこと)にキリストに忠実なる者あらんか、日本国の社会はこれを窮迫して止まざるなり。日本国における信仰維持の困難は今も昔となんら異なるところあるなし。

「シナの破壊者」

ロシアは北より暴力でもって中国の国境を侵しこれを破壊しようとしました。イギリス人は南より盛んにインド産のアヘンを輸入して中国人の意気を消耗し清朝崩壊の基礎を作りました。ロシア人は外部よりイギリス人は内部よりわたしたちの隣人である中国を侵害しました。わたしはロシア人の横暴を憤るとともにイギリス人の残虐を責めないわけにはいかないのです。

「大なる小児」

われは大なる小児童なり、父とともに遊ぶ者なり。われかれによりて生き、かれによりて考え、かれによりて行う。われはありてなき者なり。しかれでもわが父わが衷(うち)にありてわれは実(まこと)にある者なり。かくのごとくにしてわれは齢(よわい)百歳に達するも小児なり、永遠の永遠まで小児なり。感謝すべきかな。

「聖霊の証明」  

たとえ不幸は連続せてわが身に臨むとも、そのことはもって神がわれを詛(のろ)い給いしという証明となすに足らず。たとえわれはこの世のすべての人の憎むところのなるも、そのことはもって神がわれを棄て給いしという理由となすに足らず、「聖霊みずからわれらの霊に証(あか)す、われらは神の子なりと」。わが神の子たるは聖霊自らわが霊に証(あかし)するところなり、他人の批評とわが身の境遇との証明するところにあらざるなり。(ロマ書八章十六節)

「パウロとイエス」

パウロはイエスの一面なり、その重要なる一面なり、しかれどもその全面にあらざるなり。パウロを知らずしてイエスを知るあたわず、しかれどもパウロのみによりてイエスを知るあたわず。パウロによらずしてイエスを知らんと欲する者は誤れり、同時にまたパウロによりてのみイエスをことごとく知らんと欲する者もまた誤れり。全体は部分より大なり。イエスを完全に知らんと欲せば、かれのすべての弟子らにより、ことにまたかれ自身につきて学ばざるなり。 

「日本国の救済」

神は日本人をもって日本国を救うようにしてくださるでしょう。神は日本国の救済を日本人以外の者に委ねたりはなされないでしょう。神は日本人の中から日本国を救うことが出来る人間を見つけ出すでしょう。神は日本人の信仰と智識と財力でもって日本国をお救いになるでしょう。神は日本人の愛国心をもって日本国を神の国となさるでしょう。日本国は外国の宣教師の憐れみでもって救われるのではなく、日本人自身の聖化された高貴な愛国心でもって救われるでしょう。

 

「教会と信仰」  

教会を離れて信仰は維持するあたわずという、しかり、ある種の信仰は教会を離れて維持するあたわざるべし。教会的信仰、これ教会を離れて維持するあたわざるなり。しかれども昔在(いま)して今なお在し給うキリストの信仰は人の作りし教会を離れて容易に維持するをうるなり。かれらを世に伝うる教会なきも、シナの聖人は今なお東洋数億万の民を教化しつつあるにあらずや。ダンテを世に伝うる教会はいずこにあるや、しかもかれの感化は日々ますます世界に遍(あまね)きにあらずや。ましてキリストをや。キリストをしてもし教会の手を借りざればその信者の信仰を維持するあたわざらんか。かれは孔子、ダンテに劣る者なり。教会はキリストを庇保せんとしてかえって彼を貶(おとし)めるものなり、われらは確かに今の教会を離れてキリストにおけるわれらの信仰を維持するをうるなり。

「援助の秘訣」

人を助けんとするにあたって外よりこれを助くるなかれ、衷(うち)より助けよ、かれ自身となりて助けよ。すなわちかれに人をたすけらるる感を起さしめずしてかれを助けよ。これ真正の虚心たるなり。キリストが己を虚(むな)しくし給えりというはこのことをいうなり。かれは聖霊として人を助け給う、すなわちかれを愛する者の意志となりてかれらを助け給う。われらはかれに助けらるるときにかれのわれらを助けつつあり給うを知らず、われら自身己を助けつつありと思い、後にいたり、回顧してかれのわれらを助け給いしを覚るなり。かの援助を口をしこれをもたらして人に臨む者は真に助くる人にあらず。まず自己を人に与うるにあらざれば真正にかれを助くるあたわざるなり。

「伝道の強行」

国のために伝道するあたわず、また人のために伝道するあたわず、また神のために伝道するあたわず、神に強いられて止むをえずして伝道するをうるなり。「われもし福音を宣伝(のべつた)えずば禍(わざわい)なるかな、やむをえざるなり、われ好むも好まざるもわれはその任務を負わせられたり」、パウロはかくのごとくにして伝道に従事せり。われらもまた福音のために捕らえられ、その囚人(めしうど)となるにあらざればよく忍んで終りまでこの業に堪ゆるあたわざるなり。コリント前書九章十六、十七節。

「教会と信仰」  

昔時、ローマ・カトリック教会は唱えていえり、教会なくして信仰あるなし、教会を離れし者は神に棄てられし者なりと。しかるに勇敢なるルーテルはひとり立ちて言えリ、否、しからず、教会なくとも信仰はあり、神は教会に棄てられし者をも取り上げ給うと。ここにおいてかプロテスタント教会は起これり。しかるにルーテル死して四百年後の今日、かれをもって始まりしプロテスタント諸教会は昔時のローマ・カトリック教会にならい教会と信仰を同一視するにいたれり。ここにおいてかルーテルは再び起こらざるべからず。しかり数多(あまた)のルーテルはすでに世に出でたり。神を専有せんとする者はついに神を失う。今のプロテスタント教会もまた、昔時のローマ・カトリック教会のごとくに、その僣妄(せんもう)のゆえをもって活ける真(まこと)の神を失いたり。

「実験のキリスト」

キリストは今なお在(いま)し給う、かれはわが祈祷(いのり)を聴き給う、かれは自己(おのれ)をわれに顕わし給う、かれは神の深事(ふかきこと)をわれに示し給う、かれは実(まこと)にわが牧者なり、わが霊魂の監督なり、われは今かれを見るあたわざるも最も確実にかれの実在を感得す。かれわれとともに在すがゆえにわれはひとりあるも寂寥(さびし)からず。かれわれに代りて戦い給うがゆえに、われは世が挙(こぞ)りてわれに逆(さか)らうも恐れず。かれはいい給えり、「われは生者(いけるもの)なり、まえに死にしことあり、視(み)よ、われは世々窮まりなく生きん」と。またいい給えり、「われは世の末(おわり)までつねになんじらとともにあるなり」と。しかしてわれはわが日常の生涯においてかれのこれらの言の空言にならざるを実験す。黙示録一章十八節。マタイ伝末章末節。

「訴うべきところ」

個人の困難を役所に訴えてもあまり益はありません、それは役所自身大きな問題を有するからです。個人の悲痛を社会に訴えてもあまり益がありません、それは社会自身が大きな悲痛を有するからです。ですから、個人の困難や悲痛は真(まこと)の神に訴えるべきです。神はこれらを除き去ってなおあまりある能力(ちから)を持っております。それに、神は与えるだけで自らは求めることをしません、神は咎(とが)めることもせず、惜しまず全てを人に与え給うだけです。役所や社会にしか訴えるところがない人は憐れむべき人です。それに対して、困難や悲痛の避け所として力を得、悩めるときは常に身近の助けとなる主なる神を有する人は幸いです。(詩篇四十六篇一節)。

 

「嬰児を護れよ」  

 嬰児を護れよ、しかり、ベツレヘムの嬰児を護れよ。かれを護るは自由を護るなり、かれ斃(たお)れて自由あるなし。文士は筆をもって、富者は富をもって、智者は智をもって、勇者は勇をもって、この嬰児を護れよ。自由を憎む者はみなかれを殺さんと欲す、暴虐の君主は剣をもって、阿世の学者は学を以って。貪婪の富者は富をもって幾たびかかれを殺さんとせり。しかして「嬰児の生命を索(もと)むる者」は(マタイ伝二章二十)今なお存す。嬰児を護れよ、しかり、ベツレヘムの嬰児を護れよ。

「事業と信仰」

偉大なことは事業ではなく信仰のほうです。事業はわれわれを疲れさせます、それに対して信仰はわれわれの気持を安らかにさせます。事業は人間を高慢にさせやすい、しかし信仰の方は人間を謙虚にします。事業は人のためであるのにたいし、信仰は神のためなのです。「信仰なくして神を悦ばすことあたわず」です。神が人に下さいます最大の賜物は信仰によって来るのです。平和と満足と、天国と永生とは信仰の報償として賜わるものです。「偉大なるかな信仰!」です。

「全き救い」

わたしはこの世で救われたいとは思いません。むしろこの世より救われたいと思います。この世はすでに呪われた世ともいえます。ですから、早晩亡ぶかもしれない世界です。ですから、この世で救われたとしてもそれはむしろ救われないとおなじです。成功も失敗と変りありません。わたしはこの呪われた、早晩亡ぶであろう、ソドムトゴモラのような今の世の中から救い出されて、真の救いにあずかりたく思います。

「伝道の効果」  

人がこの世をよくしようとするための伝道ではありません。神がキリストによって世の中を治め給う時の準備をするための伝道です。伝道はキリストの再顕と信者の復活とを待って始めて功を奏する事業です。現世において伝道の効果を収めようとすれば必ず失望することでしょう。

「思想の由来」

思想は頭脳から生まれるものではありません、心情より生まれるのです、いや心情というより、行為から生まれてくるのです。実際に行って感動し、感動して想い、想いて思想となって口舌に上り、また筆尖に顕れるのです。思想が生まれるには時間がかかりますが、どのような場合であっても勇壮な行為を伴わないで、高潔な思想が生まれることはないのです。

「平民の友」

もし神より詩人の才能を賜わることができたら、わたしはウォルヅウォスのような平民詩人でありたい。もし神より政治家の才能を賜わることができたら、わたしはフランクリンのような平民政治家となりたい。もし神より美術家の才能を賜わったなら、わたしはレイブラントのごとき平民美術家のようになりたい。もし神より伝道師の天職を賜わったなら、わたしはダビッド・ブレナードのような隠れた平民伝道師となりたい。わたしは、世にいわれる偉人になるのを好みません、巨人となることも好みません。わたしは万民とともに救われるのをのぞみます、もし万民が呪われるのなら共に呪われたいと思います。

「文士と神学者」

生きる神の道を神学者から学ぶことは可能です、しかしそれを伝播する方法は神学者から学べないでしょう。それは、むしろ文士に学んだ方がよいでしょう。たとえば、ブラウニング、カーライル、ホイットマンなどが神の道を伝播する方法を教えるよい教師です。彼らは神を信ずる堅い心と文を書くこと以外に頼るものはなにもない人たちです。それでいて、神の真理を広く世界に伝え多くの人のこころに歓喜を供しました。近世における、昔であれば預言者といわれるような人たちは、教会の勢力を後ろ盾にして高い壇に立って説教をする人たちよりは、神と自分よりほかに頼むところがないような文士のなかにおります。

「教育と平和」

戦うことが巧みであり、和平することが苦手な者を、今日では愛国者などと呼びます。そういう人たちは、憎むことを知っていて、愛することを知りません。また、国を守るのは戦場で命を捨てることだと思っているのです。愛は武器、武力に優る国防の具であることを知りません。人を愛する人間でなければ、永久の平和を結ぶことはできません。愛国を敵愾の精神だと思っている人たちは戦場では敵を破ることが出来ても、国際間での会談で敵と和平をすることが出来ません。ですから、常に人を愛する人間になれるよう修行をすることです。

「福音書と書簡」

マタイ伝、マルコ伝、ヨハネ伝など福音書は救い主の言行を伝えたものです。それに対して、パウロの書簡は救われた者の信仰を述べたものです。救済ということについて、神の側から見て福音書があり、人の側から見て書簡があるのです。ただ、見方を変えただけであって実体は同じです。この二つを相違するように説くのは、キリストに現われた救済の事実を真に理解してない人です。

「われと福音」

われはわれなり、福音は福音なり。われ卑しきがゆえに福音卑しからず、福音貴きがゆえにわれは貴からず。神はときには貴き宝を卑しき器に託し給う。わらはただ他人を教えて自ら棄(す)てられざらんことを努むべきなり。(コリント前書九章二十七節。)

「さまざまなキリスト教」

今や世にさまざまなキリスト教があります。教会を立てようと欲するキリスト教あり、肉体の病を癒さんとするキリスト教あり、社会を改良しようと欲するキリスト教あり、世に権力を振るうことを欲するキリスト教あり、また自己の罪を悔いて霊魂を救わんと欲するキリスト教があります。どれもこれも名前はキリスト教といっていますが、実質は千差万別です。ですから今や、名前がキリスト教というだけではだめなのです、その内容が問題なのです。

「福音の進歩」

ユダヤの国に芽吹いたキリスト教はユダヤ国の滅亡とともに亡びませんでした。ローマに生長したキリスト教はローマの衰亡とともに衰えませんでした。米国に繁茂したキリスト教米国の堕落とともに堕落しませんでした。今此のキリスト教はこの日本に移植されて新しく発展を続けようとしています。それは、日本の国が他の諸国より優れて善良な国であるためではありません。神の国に招かれたのが遅かったぶんほかの人の育ててくれた果実を受けたにすぎません。わたしは謙遜をもって自分の任されたことを全うし、この大事な賜物をさらに完全に近いものとしてわたしの後進者に譲ろうと思います。

「夏と天然」

神を衷(うつ)より視よ、また外より視よ、霊において視よ、また物において視よ、聖書において視よ、また天然において視よ。神を一方より視てかれを誤解するの虞(おそ)れあり。夏は来れり、われらは天然を学んで天然をとおして天然の神に達すべし。

「最大事業」

国の産業を興すのも事業です、善政を布(し)くのも事業です、教育を施すのも事業

大文学を産むのも事業です。しかしながらこれ以外にもう一つ大事業があります。そうです、イエスキリストを世の中に紹介する事業がこれです。イエスは食べ物であり、飲物です。イエスは心霊的天地です。イエスは人生の必要物です。人はイエスによらなければ天なる父に至ることが出来ません。ですから、伝道は真面目で確かなる事業です。そうです、橋を架けるよりも、運河を造るよりも、難しいがたいへん有益な事業なのです。

「われらの敵=全世界」

この世に罪人がおるのではなく、極論すればこの世が罪の世なのです。世のすべての組織が自己を中心とするものならば、自己を虚(むな)しくする神の国とはその根本を異にします。この罪の世にあってわたしの敵とするのは少数の罪人ではなく、この世の中の全体となります。キリストがこの世に勝ち給いしごとく、わたしもキリストの力によりこの世に勝たく思うのです。

「宗教の真偽」

真(まこと)の宗教は一年草のようではありません、つまり今年種をまいて今年実を結ぶようなものではありません。真の宗教は百歳樹あるいは千年樹です。今年まいて百年先千年先にはじめて果実を結ぶようなものです。それを始めた祖師は十字架に釘付けられ、その使徒たちはあるいは焼かれ、あるいは屠(ほふ)られ、その数多(あまた)の弟子は数十百年にわたり、政府に忌み嫌らわれ、教会にも憎まれ、塵芥(ちりあくた)のように世間で扱われて、そうした苦しみの後に初めて世にその基礎を据えることが出来るのです。宗教の尊いのはこのためです。今年はえ、数年で教会として起こり、またたく間に勢力を得て世にむかえられるようなものがありますが、これらは真の宗教と言えないでしょう。偽りの宗教と言ってもよいでしょう。たとえば、野の草のように、あるいは林の潅木のように、今日は野にあると思えば明日は炉に投げ入れられるようなものです。信じてはいけない、注意すべき宗教は成功を急ぐ宗教、または早く成功する宗教と言えるでしょう。

「活ける神」

神は常に働いております。わたしが目覚めているときも、眠っているときも神は常に働いております。わたしが働いているときも休んでいるときも神は常に働いております。神は活ける神でありますから、わたしに関係なく常に働いております。地上は日々歳々正義を摂取しつつあります、また時々刻々不義を吐き出しつつあります。生きている上で大きな責任を感じるわたくしですが、改革と進歩は主として神の事業であると知りわたしは大きな慰安を感じました。神がわたしをもって働いておるのではなく、「かれ今にいたるまで働き給うがゆえに、われもまた働くなり」。(ヨハネ伝五章一七節)

「宗教の改進」

宗教、政治より離れて政治は改まり、宗教もまた革(あらた)まりたり。宗教、教育より離れて教育は進み、宗教もまた前(すす)みたり。宗教、教会より離れてまた大いに益するところなかざらんや。宗教もとこれ無形のものなり、ゆえに形を減ずれば減ずるほどその本性に還(かえ)る者なり。宗教まったく無形なるにいたりてそん絶大の効現れるべし。宗教のために計るにこれを無制度のものたらしむるにしかざるなり。

「国家と国家」

国家ありまた国家あり。理想の国家ありまた現実のこっかあり。神の国家あり、また人の国家あり。前者は敬うべし、服(したが)うべし、後者は憐れむべし、導くべし。前者はこれを神の黙示によりて知る、後者はこれを時の制度、世論、政治において見る。後者は従(じゆう)なり。二者を混同して主従そのところを換(か)えることあり、慎むべし。

「真正の無教会信者」

教会から出るのもよいでしょう。しかしながら、それは教会にいる以上の広い宗教を目指さなければならないのです。まず教会にいるときより謙虚にならなければならないでしょう。また、より多く兄弟を愛さなければならないでしょう。それは、多くの教会を今まで以上に援助することも含まれるのです。それでこそ、わたしたちは真正な無教会信者と言えるのです。

「国のために憂う」

わたしは、この日本には多くの知恵ある人がいるとおもっています、また多くの勇気のあるひとがいるとも思っています。しかし、たとえばキリストのような、または佐倉惣五郎のような義人が少ないのです。わたしが国のために憂いるのはこのためです。私は日々神に祈っています、神がわが国に多くの義人をくださり給うことを。

「幸福なる家庭」

幸福な家庭を築くはたいへん容易なことです。神の命に従ってしっかり一夫一妻制度を守ることです。そうすれば、夫婦の情が潔められまた強められて、数年を経ずして幸福な家庭となるでしょう。家庭の破壊は夫婦の情の濫費(らんぴ)、無駄づかいによります。慎まなければならないことです。

「労働と報酬」

働きなさい、働きなさい、たとえ報酬がなくても働きなさい。もし報酬がなくても、まず働いて報酬を得る権利を得なさい。そして、いつかは報酬を与えられるでしょう。また、正々堂々報酬を要求できるようになるでしょう。報酬が先で労働が後であれば、いつまで待っても得られないことにもなります。まず労働が先です、報酬は労働のあとについてくるものです。ですから、わたしはまず労働をします、報酬が誰から、何時与えられかは私が関与するところではないのです。

「智識の渋滞」

智識は霊魂にとって食物のようなもので、実行することによって消化されます。しかし、消化されない智識は沈殿して毒素となり霊魂を害するのです。わたしはここ十年聖書の研究をしてきましたが、あまり実行が伴わないことに気づきました。このままですと聖書の智識がかえってわたしの霊魂を殺してしまう危険性を感じました。今まさに春です、虫も這い出して来る啓蟄の時です。私は、願います、同志とともに奮起して困っている人々を助ける行動が出来ますように、そして、それによってわたし自身が助けられますように。

「無政府主義者にあらず」

無教会信者は宗教界の無政府主義者ではありません。わたしたちは別に教会を壊(こわ)そうなどとおもっていません。ただ、教会の汚?(おどく)を知りそれに触れないようにしているだけです。わたしたちは、常に主の戒めに従順であろうとしているだけです。教会信者のみなさん、まず自らの教会内部を見渡してください。そしてわれわれが心配する背信、媚俗、誹謗、嫉忌、忿争などの諸悪が行われていないか調べてください、もし潔白であればわれわれ無教会信者を教会の破壊者等と世間におっしゃっても結構です。

「ヒューマニチーとキリスト教」

ヒューマニチー(人道)はキリスト教ではありません。キリスト教はヒューマニチー以上です。キリスト教はキリストの死とそれによる昇天に顕れた神の公義です。キリスト教は罪は罪としてはっきり認める、「血をながすことあらざれば赦されることなし」とも教えます。(ヘブル書九章二十二節)。神は憐れみ給うだけでなくまた怒り給うのです。正義によってのみ罪人を赦します。ヒューマニチーは人の情ですが、キリスト教は神の義なのです。ですから、わたしたちはこのヒューマニチーとキリスト教を混同して神の恩恵を空(むな)しくしてはなりません。(ガタテヤ書二章末節)

「教会建設の難易」

ある面では、教会を作る事はなんとやさしいことでしょうか。またある面では、教会を作る事はなんと難しいことでしょうか。木と煉瓦との教会、物質的な外見だけの教会を作る事は何とやさしいことでしょうか。人と霊魂との教会、精神的な内面的な教会を作る事はなんと難しいことでしょうか。わたしは残念ながら、資本、財産がありませんので前者の教会を作る事は出来ません。しかしながら、神の援助を得て、小なりといえども後者の精神的な内面的な教会を作ろうと思うのです。

 

「断えず祈るべし」

たえず祈りの状態に自分自身をおき、常に心を虚(むな)しくし、すべての善きものが神より与えられるよう謙虚でありなさい。必ずしも時を定めて祈る必要はありません。高壇に立って天を仰いで叫ぶ必要もありません。ただ、たえず祈りなさい。出る時に祈りなさい、入る時に祈りなさい。友を訪ねる時に友情が深まるように祈りなさい。物を人に贈る時、贈った相手に役立つようにと祈りなさい。われらが日常におこなう小さな善行も神の祝福のもとに善き実を結ぶようにと祈りなさい。轟々とした車中でも祈りなさい、森々とした木々の下でも祈りなさい。筆を執るときに祈りなさい。斧を振るうときに祈りなさい。鋤を手にする時に祈りなさい。そうです、たえず祈りなさい。祈りをもって生きていることを実感しなさい。(テサロニケ前書五章十七節)

「一生の事業」

人の一生は五十年あるいは七十年かもしれませんが、大事をなすのは一瞬の間のことです。その時に、「その通りです」と言い、あるいは「それは違います」と答えて事は成されるのです。それ以前の期間は準備の段階にすぎず、それ以後はその決断の証明の期間です。一人の生涯は真理の一点を護るに過ぎないのです。

「教会と信仰」

教会ははたして正教なのか、あるいは邪教なのか、わたしはそのことについてまったく分かりません。ただ、わたしは一つのことが分かるだけです。それは、わたしが教会に近づくとなぜかわたしの信仰心が冷えてしまうのです。わたしが最も神に近づき、真理をもっとも熱く求める時はなぜか教会から遠ざかるのです。わたしは、自分が好んで教会を棄てたのではありません、不思議な霊魂の必要に迫られて止むをえず教会を去ったのです。ですから、わたしは言ってみれば実験的無教会信者と言えるでしょう。決して論理的無教会信者ではないのです。

「見捨てられたる教会」

キリストを去って教会を去る人がおります。キリストについてかえって教会を去る人がいます。いまや、不信者は教会を去り、また熱心な信者も教会を去るのです。つまり、冷ややかな者が去り、熱き者もまた去るのです。そうして、微温(ぬる)き者だけが教会に残っているのです。神が以前、ラオデキヤ教会で言われました、汝はすでに微温(ぬるく)なってしまった、冷ややかでもなく、熱くもない、だからわたしは汝をわが口から吐き出そうと思う。(黙示録三章十六節)

「事業としての苦痛」

苦しむ事はたいへん大きな事業と言えます。苦痛によりまず自分の罪科を示めされます。また他人の罪を贖(あがな)わされます。と同時にこころにあたらしい同情の区域が増えてゆくでしょう、そしてより多くの人を慰めることが出来るようになるでしょう。わたしは何かを学んで救われるのではありません、苦しむことによって救いが全(まっと)うされるのです。知識を駆使して世を救おうとして救えるものではありません、同情を寄せることによってはじめて人を助けることが出来るのです。福音はまさに苦痛のなかにあるのです。キリストの福音はまさにキリストの受難にほかならないのです。苦痛が深ければ深いほど恩恵の深さを感じることが出来るのです。また、深い恩恵を伝えることが出来るのです。苦痛は決して無駄なことではないのです。

「戦争また戦争」

日本には、日清戦争があった。また、日露戦争もあった。今は日独戦争(第一次大戦)が起こっています。ですから、いまは同盟国である英国とあるいは将来日英戦争がないとは限らない。実に、この世の歴史は戦争の歴史である。ただ神にありてのみ永久の平和があるだけです。神はご自身で人類の罪科を担(にな)って人類をを平和にしようとなさいました。ですから、人は神のこの申出にただ応じさえすればそれだけで永久の平和が得られるのです。敵の罪科を責めようとするから戦争となるのです。われらは神にならって自分自身が敵の罪科を担いてこそ、そこに真個(ほんとうの)平和があるのです。

「伝道者たるべし」

もし一国の伝道者になることが出来なければ、一県の伝道者になりなさい。もし一県の伝道者になることが出来なければ、一町または一村の伝道者になりなさい。もし一村の伝道者になることが出来なければ、一団体または一家の伝道者になりなさい。伝道者になりなさい。伝道者になりなさい。キリストの福音の宣伝者になりなさい。今の時代にあって、これにまさって幸福になり、満足になりかつ必要とされる事業はありません。

「最も偉大なること」

最も偉大なることは人に勝つことではなくむしろ負けることです。人に自分の地位を譲ることです、その人の下に位置することです。あるいは喜んで人の侮辱を受けることです。キリストのように人に唾(つばき)されて十字架に釘(つ)けられることです。このようになし、またなされて、はじめてわたしたちは神の御心を知ることができるのです。聖書にあるように、ほんとうに「高き者は低くせられ、低き者は高くせらる」です。ですから、わたしたちは、神に高くされようと思ったら、人より低くされることを喜んで受け入れるべきなのです。

 

「宗教家の資格」

教会にいる牧師必ずしも宗教家ではありません、神学を講義する人必ずしも宗教家ではありません。伝道を計画し、この世をキリストの国と教化する人が必ずしも宗教家ではありません。宗教家とは親しく神と交わる人です。モーゼのように、友に言うように神に面と向ってものを言う人です。宗教家というのは、また肉体はこの世にあっても霊はつねに天国にある人です。たとえばパウロのように「わたしの希(ねが)うところは身を離れて主とともにおらんことを」と言い得る人です。神と親しまず、天国を慕わず、いかに宗教を論じても宗教家ではありません。(出エジプト記三十三章十一節、コリント後書五章八節)

「領土と霊魂」

国を得た、領土が増えたと喜ぶ国民がいる、国を失った、領土が減ったと悲しむ国民があります。しかし、喜ぶにしろ悲しむにしろそれは一時的なことです。遅かれ早かれ両者共に主の御前に立つことになるのです。そして、自分のなしたことによって裁かれます。「人、もし全世界を獲るともその霊魂(たましい)を喪(うしな)わば何の益あらんや」。もしわが国の領土が膨脹して全世界を手にしたとしても、自分の霊魂を失ったらそれがなんにあろうか。ああ、それがなんであろうか。

鳥と人」

雀は群れになって生活し、地に餌を拾い、たがいに囀りあい、たがいに語っているようです。それに対して、太陽を目指して登る雲雀は、ひとり歌います。また青空を翔(か)けている鷲も独りで飛んでいます。ですから、集会を愛する人たちは雀族(すずめぞく)と言っていいでしょう。義の太陽を目指して登る者はどうしても単独でなければなりません。世に残る名作が何かの委員の集りから生れたという話は聞きませんし、大信仰が信徒の会合から起こったという話もいまだかって聞いたことがありません。強く神の光に触れようと願う人は雲雀や鷲についてまなばなければならないでしょう。

「国のために祈る」

愛国と口で唱えられるだけで、一向に国は愛されておらず。腕力ばかりが強くなるばかりで、意志の力は萎縮するばかりです。外敵を千里の彼方に追い払うが、内敵に自由を奪い去られています。神よこのような日本の国を憐れんでください。われらを外敵に対して強いように己自身に対しても強くなりますように。国として大きく立派であるように人としても同様でありますように。国より優りて神を愛することにより誠の愛国者になれますように。われわれ日本人のなかより優れた義人が数多く出現し、その人たちの堅固な良心の上に日本の国の基礎が築かれますようにお願いいたします。アーメン。

「事業の完成者=死」

キリストの事業はかれの死をもって完成せり。そのごとく、我かれの小なる弟子の事業も我の死をもって完成するなり。死は最大の事業なり生涯の高極なり。人は死せずしていまだその業はなれりと言うをえず。誠にキリスト者に生前の成功なるものあることなし。かれの事業は死をもって始まるなり。かれは肉眼をもって己の事業の成功を見るあたわず、その生命を世の罪の供(そな)えものとなすをえて、その事業の永(とこし)えに神の手にありて栄ゆるを見るなり。(イザヤ書五十三章十節)

「計画の愚」

世に用のないものとして人の計画に比べられるものはありません。それは、何一つ成らないからです。なるのは全て神の計画です。地が創造される前にすでに神によって定められている計画です。人の計画は作れど作れど失敗し、神の計画はその人の失敗のなかから立ち上がります。ですから、賢い人は計画をたてず、ひとえに神の御心を知ろうとします。愚かな人は計画ばかり立てて、神に代わって世を救おうとしては失敗します。あれこれ策をろうする人は愚か者です、それは政治家であったり宗教家であったりさまざまですが。

 

「宗教と教会」

福音は自由なり、ゆえに教会を作らず。福音、宗教と化して始めて教会顕わる。教会は宗教の産物なり。ゆえに宗教廃れて福音がふたたび世に臨むときに教会も廃る。教会衰微は福音復興の兆しなり、賀すべきことである。

「春風到る」

寒い冬が去りて春風が吹いてきました。富者は歓び、貧者もまた喜びます。神の恩恵はこのように万人に及び人を選びません。それどころか貧者が春風の有難さを感じるのは富者よりも大きいのです。春風よ吹いてください、聖霊よ吹いてください、そうして万人の凍りついた心をとかして天恵がの豊かさを感じさせてください。

「神意と人意」

人は止まろうとするのに対して、神は常に前にと進みます。人は固まろうとし、神は熔解してゆきます。人は制度を制定しようとします、神は制定でなく産出すのです。神は、自由の福音をわれらに与え賜うたのに、人はこれを制度の宗教としました。神は、愛の兄弟を生み給えば、人をこれを収容して規則の教会を作りました。人のなすところは常に神のなし給うところにそむく。かってバベルの塔を築いて神の震怒を招いた人は、今なお条規の教会を設けて同じく聖意にそむいています。慎まなければなりません。

「社会主義」

キリスト教に似てしかも最も非なるものは今日のわが国において唱えられている社会主義です。これは聖書のいわゆる「不法の隠れたる者」です。社会主義には敬虔なところがありません、恭順なところがありません、また平和がないのです。社会主義は単に不平不満の聞き分けのない破壊者の精神です。社会主義は僕(しもべ)を主人に叛(そむ)かせ、子を親に叛かせ、弟を兄に叛かせ、弟子を師に叛かせる精神です。ようするに、叛逆者の精神です。服従を絶対的に拒絶させる悪魔の精神です。私は、長い間我慢をしてきましたがどうしてもこのことを皆さんに言わなければならないと決心したのです。(テサロニケ後書二章七節)

「国威と貧困」

わたしは軍港に伝道に行って、大きな軍艦が完成したのを仰ぎ見ながら思いました、わが日本帝国はなんと意気盛んなことだろうと。また、わたしはある地方に伝道に行き、多くの茅葺き屋根の小さな家を見ました。わたしは、この光景をみまして、日本というのはなんと貧しいのだろうかと思いました。このように、ろくに家もないような人たちが大きな軍艦を造っているのです。そして、国威の宣揚は必ずしも国民の幸福にはつながらないと思ったのです。

「内外のわれ」

肉なるわれあり、霊なるわれあり。外(そと)なるわれあり、内なるわれあり。地に属するわれあり、天に属するわれあり。われは二個のわれより成る。内なるわれは歎き悲しむ、霊なるわれは常に歓ぶ。外なるわれは日々に壊(やぶ)れるとも内なるわれは日々に新たなり。地に属するわれは塵に帰るだろう、天に属するわれはキリストとともに挙げられるだろう。見えるわれは見えないわれにあらず。前者に慕う艶色(みばえ)はないが、後者は鷲のように翼を張り天に昇るであろう。(イザヤ書五十三章ニ節。同四十章三十一節)

「孤児の敵」

一方において孤児の養育を唱え、また一方では戦争の利益をいう。かくして一方では孤児を助け育てながらもう一方では盛んに孤児を作っている。まったく笑止千万です、主戦論者の孤児救済事業は。かれらこそ孤児の敵です、決して友ではないのです。

「儀式の単純」

儀式というのは単純であることがよい。単純であればあるほどかえって荘厳になるのです。聖書はキリストの儀式に関して一切記録するところがありません。わたしたちは使徒たちがどのように葬られたかを知りません。神の人モーゼでさえその墓を知る人はいないのです。(申命記三十四章六節)。葬式もそうです、結婚式もそうです。もし必要があるなら洗礼式もそうです。証人は神と天然自然の環境のなかに少数の友人で十分です。世間の注目を惹(ひ)こうとして荘重さを装う必要は全くありません。

「戦争と繁栄」

戦争のあとに繁栄が来ますが、それは悪魔による繁栄です。そういう繁栄は幸福の増進したものではありません。欲深い心が亢進しただけです。神の聖眼からみると、戦争して繁栄するのは戦争と同じくらい罪深いことなのでしょう。

「政治と宗教」

政治が求めるものは勢力であって、かならずしも主義とかいうものではありません。勢力がありさえすれば政治はそれでよいのです。仏教に勢力があれば、政治は仏教を保護しこれを利用するのです。キリスト教に勢力があれば、政治はキリスト教を奨励してこれを利用するのです。ですから、政治の保護を得るのは易しいのです、神を懌(よろこ)ばし奉ることも要せず、正義を実行することも要しません。ただこの世で多数の勢力を得ればよいのです。神の聖眼より見てこの世で政治の保護を得るのは決して貴きことではないのです。

「五月(さつき)の感」

「それ人は草のごとく、その栄えはすべて草の花のごとし、草は枯れ、その花は落つ、されど主の道(ことば)は窮(かぎり)なく存(たも)つなり」(ペテロ前書一章二十四、二十五節)。庭に咲いているオダマキやツツジをみなさい、みなその通りです。歴史上の英雄や国家を思いなさい、みなその通りでしょう。ですから、わたしは自分の全身全霊をかたむけて今活きいきと存在する真の道、神の道(ことば)に委ねようと思うのです。

「宗教と教会」

福音は自由です。ですから、教会を作る必要はありません。福音が宗教と化して初めて教会が顕われました。教会は宗教の産物です。ですから、宗教が廃れて真の福音が再びこの世にあらわれるとき、教会は廃れます。逆に教会の衰微は真の福音の復興の兆しと思って、祝いなさい。

「神のための善」

善というのは、人を感化すつための善ではありません、神をよろこばすための善です。善は人をかえって悪に導く場合があります。キリストの善行はかえってイスカリオテのユダを堕落させる機会となりました。善は善を励ましますが、悪が善に会ってかえって増長することもあります。ですから、善は人を感化させようというようなことでなすのではなく、あくまでも神の御心に適うかどうかを念頭においてなさなければならないのです。

「今昔の敵」

昔は圧制は剣をもって行われました。しかし、今は金でもっておこなわれます。昔の勇者が剣を恐れないように、今の勇者は金を恐れてはいけません。昔は剣に勝って世に勝つことができました。しかし、今は金に勝たないかぎり世には勝つことができません。今のクリスチャンの敵は剣ではなく、金です。わたしたちは、信仰をよりいっそう堅くして、金がわれわれの上にくることを防がなければなりません。

「信者の製作」

信者を作るといいます。しかし、全世界の教会が総がかりになってがんばっても、一人の信者もできないのです。「神はよくこの石をもアブラハムの子とならしめ給うなり」とあります。そうです、それは「神は」です、「人は」ではありません。人は人形を作ることは出来ます、しかし、人を作れるのは神だけです。教会の監督、牧師、伝道師は教会員を作ることはできるでしょう、しかしクリスチャンを作れるのは神だけです。教会員はクリスチャンの人形です。ですから、教会がいままで作っているのは多くの人形のクリシュチャンであって、人間のクリスチャンではないのです。

「行路易し」

信じなさい、信じなさい、そうして信(まか)せなさい信(まか)せなさい、神をこころの中に持ち神に全てをなしてもらうのです。あなたの内にあるものは世の中にあるよりも強いのです。神はあなたに代わりあなたの心を潔めてくれます、あなたの身体を丈夫にし、あなたの行いを完璧にし、なすべきことはどんなことでも簡単にやってくださるのです。信仰こそ世に勝つための力です。信仰と言うのは自分ではいっさい力を入れないで、愛に溢れる父なる神に自分自身をすべてお任せすることなのです。生きてゆくのが難しいと嘆くのはやめなさい。神を信じれば人生行路のどんな難所も、あるいは人の裏切りも、難なく切り抜けられるのです。

「個人性の衰退」

今日(こんにち)は、大きな政府はありますが、ピットにあるいはグラッドストーンにたとえるような人は一人もおりません。多くの美術学校がありますが、ラファエルやレンブラントにたとえられるような人は一人もおりません。多くの音楽学校がありますが、ヘンデルやベートーベンにたとえられるような人は一人もおりません。多くの大学がありますが、ニュートンやカントにたとえられるような人は一人もおりません。今は集合の時代で、独立の時代ではないようです。今、人々は団体を作らなければ何も出来ないような感じです。最も貴ぶべき個性がどんどん衰退している時代、かってこのようなことはどの時代にもなかったことだと思います。

「神を愛するの愛」

あなたは、心をつくし、精神をつくし、力をつくして主なるあなたの神を愛しなさいといわれます。すなわち全身全力を尽くして、いかなるものにも最優先して主なる神を愛しなさいという意味です。自分の職業より、自分の専門分野より、自分の地位より、自分の恩人より、いかなるものよりもまず主なる神を愛しなさいということです。そうでなければ、神は愛されたとは思わないのです。ある意味では、神は非常に嫉妬深いともいえるでしょう。もし、神以上に愛する対象があるなら、神に対する愛は虚偽であり、偽善となるのです。ですから神を愛そうと決心したなら、その覚悟を決めないといけないのです。

「最後の一円」

わたしには、神から賜ったすこしばかりの所有があります。わたしは、これをもって人々を救おうと思うのです。わたしには、後援してもらうような人はおりません、ただその日その日の生活の糧を天の神より頂いておるのです。わたしの敵は強く、わたしの糧は乏しいのです。ですから、何度か敵に降伏しようと思ったか知れません。そんな時、天から神の言葉があります。「最後の一円まで投げ与えなさい、そして休みなさい」と。わたしはこの声を聞いて再び元気が出て、「わたしは神の恩恵を受けた最後の一円まで投げ与えます」と答えます。

「戦時の事業」

戦争で世の中が燃えるような今の時代に燃えやすい木を投じ騒ぎたて、静粛にしない人が多いのを嘆きます。闘争を勧める人が多くて、和睦を促す人が少ないのです。わたしたちは、こういう時代にこそ、主の静粛のもとにおり、そうして熱している同胞にたいして主の清涼をわかち与え、敵愾心を癒すのに主の清水を与え、戦争の喧騒を静めるためには福音の美しい音色を聞かせてあげるのです。平和は地上からは生じません、常に主の天からきます。ですから、天の神を紹介し地上の争いを治め平穏な世の中にしたいと思うのです。

「小なる救い主」

キリストは私たちの罪を負い給いました。ですから、キリスト信者はキリストとともに世の中の罪の幾分かを負わなければならないでしょう。キリストの道を説くだけがキリスト信者の本分ではありません、キリストが経験されたように世の人に苦しめられ、それによって世の中の罪の幾分かを贖うのです。小なる救い主となるためには、自分が救われるだけではなく、キリストとともに世の罪を負わなければならないのです。贖罪はキリスト信者の本分です。キリストとともに苦しめられて小さな救い主となるのです。

 

「成功の期」

伝道の成功はこれを一生の中に望むべきではない。死後にこそそうなるべきである。キリストすらいい給えり。「もしわたしが地より挙げられたら万民がわたしをあがめるようになるだろう。」と。一生は種蒔きの時期です。そして、成熟と収穫はその後に来ます。

「強いて治療を求めず」

病気は癒えるもよいし癒えなくても結構です。癒えるのはいま少しこの世で働きなさいという神のお告げと思い、癒えなければそれはすぐにイエスキリストのところへ行くことが出来ることでそれもまた結構なことなのです。わたしの目的はイエスキリストのもとに行くことであり、それが早いか遅いかは問題ではありません。この世を去る時期はすべて神様にお任せいたしております。(ピリピ書一章二十三、二十四節)

「幸福と十字架」

人類の幸福は学術の進歩を必要とします。学術の進歩は思想の自由を必要とします。思想の自由は政治の改善を必要とします。政治の改善は人の心を洗い清めることを必要とします。人の心を洗い清めるには霊魂の釈放を必要とします。霊魂の釈放はキリストの十字架を必要とします。ですから、キリストの十字架によらなければ人類の幸福もまたこれを地上において見ることはできないのです。

「完成せる救済」

人類はキリストにおいてその罪を裁かれました。そして、キリストによってその罪を赦されました。人類はキリストによって神のもとに帰ることが出来るのです。今や、神はキリストを愛する愛をもって人類に臨み給います。人類はすでに救われているのです、ただ各人がその救済(すくい)を認めるか認めないかによります。わたしたちはすでに神の恩恵(めぐみ)の中におります、わたしたちがこのことを認めれば救われるのです。

「義人たる途」

わたしたちは、まず義人となって神から認められ義となるのではありません。まず、神により義としていただいて初めて義人となるのです。神が先でわたしたちは後です。神がわたしたちの罪をまず贖(あがな)い除いて下さらなければ、どんなに努力しても義人となって神の前に立つことは出来ないのです。

「信条と救済」

信条があって救済に至るのではありません。逆です、救われて初めて信条が出来るのです。信条は救済の事実を述べ表したものにすぎないのです。それなのに、信条をまず信じさせそれでもって救おうとする。今の世の伝道が効果のないのはこのためです。まず、キリストを紹介され、師として仰ぐ気持がおこり、キリストにならって生きて行こうという気持になります。そうした中で、自然とキリストがどういう存在かを知ることが出来、救われてゆくのです。信条は救われた人が各人自分自身の信条を抱くようになるのです。信条と言うのは、救われていない人に、他人が注入するよなものではありません。

「永遠のわれ」

わたしは自分の年齢を数えません。なぜなら、わたしは神とともに永遠に生きるからです。わたしは過去を顧みません。なぜならば、わたしは神とともに永遠に進みからです。神にあっては千年も一日のようです。神は昨日も今日も明日も永遠に変わることはありません。そういう神とともに歩むわたしにはもはや歳月はないのです。わたしには永遠の現在が存在し、過去も未来も存在しません。

「精神と制度」

精神は制度となるとき静止し、死と化します。これは歴史が証明するところです。モーゼの精神はユダヤ教となって死にました。キリストの精神はキリスト教となって死にました。ルーテルの精神はルーテル教会となって死にました。ウエスレーの精神はメソジスト教会となって死にました。その他のこともこれと同様です。ですから、モーゼの敵はエジプト人でも、アマレク人でも、カナン人などでもなく、かれを崇拝したユダヤ人自身なのです。また、キリストを殺したのは、パリサイ人またはローマ人というよりは、主よ主よと呼び奉ったキリスト信者自身であったのです。制度は精神の屍(しかばね)です。イエスを教会の首長として仰ぐ者こそが精神的には彼を十字架につけている者と言わなければなりません。

「社会主義」

キリスト教に似て非なるものの典型は、今日わが国で唱えられているところの社会主義だとわたしは思います。これは、聖書がいうところの「不法の隠れたる者」であります。社会主義には、敬虔なところがありません、恭純なところがありません、平和のこころもありません。ここにあるのは、単なる不平不満と頑固な抵抗、と破壊を好む精神です。これは、僕(しもべ)を主人に叛かせ、子供を親に叛かせ、弟を兄に叛かせ、弟子を師に叛かせる精神です。すなわちひと言で言えば叛逆の精神です。服従を絶対に拒絶する悪魔の精神です。わたしは我慢に我慢を重ねてきましたが、ついに言わなければならないことを非常に悲しみます。(テサロニケ後書二章七節)

 

「単独の歓喜」

ひとり足りてひとり喜び、ひとり喜びて到るところに歓喜の香を放つ、星のごとく、花のごとく、識忍を要せず、奨励を要せず、ひとり輝いてひとり香(かぐ)わし。詩人ホイットマンいわく。

    われはわがあるままに存在す、それにて足る、

    もしよに何人のわれを認めるなきもわれは満足しひとり座す

と。しかしてキリストにありてわれもまたかくありうるを感謝す。

「福音とキリスト教」

わたしは、キリストの福音が世間と無理やり和合したものをキリスト教と呼びます。その制度となりて現れたものをキリスト教会と呼び、学問となって修められたものをキリスト教神学と呼びます。キリスト教とキリスト教会が非常に煩雑なのは、そもそも和合すべきでないものを無理やり和合したことによります。福音は透明で水晶のように澄んでいます、一方世の中は非常に汚れ濁っています。そのために、教会と神学の必要が起こったのです。福音本来の単純にもどれば教会も神学も必要なくなるでしょう。エレミヤは次のように預言しています。「そのとき、人、各自、その隣人とその兄弟に教えて、なんじ、主を識れとまた言わじ、そは小より大にいたるまでことごとくわれを識るべければなりと、主言い給う」(エレミヤ記三十一章三十四節)

「公平なる批評」

人をして神を評せしむなかれ。神をして人を評せしめよ。哲学をもって聖書を評するなかれ、聖書をもって哲学を評すべし。神は人よりも高し、聖書は哲学よりも深し。聖書により、神の立場に立ちて、われらは最も公平に人と万物とを評するをうるなり。

 

「神学の要」

神学というのは信仰のためには要りません。それでは、何故神学があるのでしょうか。神学は神学のために必要なのです。つまり、神学を壊すために必要なのです。つまり、新神学が旧神学を壊すために必要となるのです。ですから、神学があるかぎり神学が必要となります。そうして、人が信仰に頼って神学に頼らなくなる時、そのときこそ神学はいらなくなるのです。わたしは、神学が要らなくなる時の一日も早く来るように待ち望みます。

「サツキの花」

春が過ぎようとして庭には花がなくなったとき、サツキがつつましく咲いています。桜のように高々と咲き誇ることもなく、ツツジのように情熱的に燃えるように咲くこともない。それは、地上低く葉にかくれるようにして咲く。謙遜な花なのだろう。わたしはそういうサツキを愛する。サツキは桜と競ったり、ツツジと競ったりはしない、春の多くの花に遅れてひっそりと咲く。わたしも、このサツキのように、低く遅く咲き、晩春の憂いの庭を少しでも明るくできたらと願うのです。

「無教会主義の証明者」

なぜ、無教会主義を唱えるのかその理由を知りたいと思うのですか。それは、むしろ現在の教会を見たらいいと思います。教会同士が嫉妬心が強く、お互いに反目しあい、排斥しあい、その信者を取り合うさまを見ることです。また、教会員の不義、不正、不実および不信仰を見ればどうしてわたしが無教会主義を唱えるかがお判りになると思います。無教会の良さを証明するのは実は教会そのものであると私は考えています。

 

「神学を厭う」

自由な神学があります。保守的な神学があります。高等な学問的研究があります。福音的な神学があります。しかし、神学はしょせん神学であって、多くは教職者の神学であります。ですから、平民や平の信者には神学が必要ありません。なぜなら、かれらは神を直覚し、神を愛し、神に従うのです。ですから、平民が神学の毒に侵されないようにわたしは希望するのです。神学は少数の神学者には必要でしょう、しかし一般の億兆の人々にはそれはむしろ必要ないのです。

「教権の所在」

教権、宗教上の強く権力は教会にあるのではありません。また聖書にあるのでもありません。もちろん私自身にあるのではありません。それは、いつの時代においても活きて教え下さるキリスト自身にあります。教権は活きているキリストにあって、制度や書籍のような死せる「もの」にあるのではないのです。

「信じがたい理由」

福音が信じがたいというのを聞きます。それは、福音があまりにすばらしいため、善いためです。「東の西よりも遠きがごとく、かれはわれより愆(とが)を遠ざけ給えり」(詩篇百三篇十二節)。「キリストはわれらのなお罪人たりしときに、われらのために死にたまえり、神はこれによりてその愛を彰(あらわ)し給う」(ロマ書五章八節)。福音は道徳のごとくに「なんじ、己を潔くせよ、さらばわれなんじを救わん」と、言わず、「われすでになんじを救いたれば、なんじ、わがすくいを受けよ」と言うなり。道徳の結果の救いではなく、救いの結果の道徳です。福音の信じがたいのはここにあります。天が地よりも高いように、神の説くことは、人智ではとてもおよぶことの出来ないほどすぐれているためです。

「神の忠僕」

わたしは、わたし自身のものではありません、わたしの家族のものでもなく、もちろん親戚のものでもありません。わたしは、神のものです。ですから、神の聖旨(みこころ)をなしとげるためには誰とも相談をせずなすのです。誰に対しても絶対的な独立した者でなければ神の忠実なる僕とは呼べません。

「わが信ずる福音」

キリストわが犯せし罪をすべて購(あがな)い給えり、キリストわがなすべき善をわれに代わりてすべてなし給えり。キリストわがために永生を供(そな)えわれを聖父(ちち)の国に迎え給う、わらはただキリストを信ずれば足ると。わが信ずるはこれなり。その信じ難きは余りに善きにすぐるゆえなり、しかれども神の福音はこれ以下のものたるべからず。誠に「主を畏(おそ)るる者に主の賜うその矜恤(あわれみ)は大にして天の地よりも高きがごとし」。(詩篇百三篇十一節)

「キリストの三敵」

人間の世界にはいつの時代でもピラトがおり、サドカイ派が存在し、パリサイ派が存在します。ピラトというのは、政権あるいは権力のことです、サドカイというのは学閥のことです、そしてパリサイというのは教会、あるいは形式的な組織体と言えるでしょう。そしてこの三者が団結してキリストを十字架にするのです。ピラトはキリストの不忠を責め、サドカイはきりすとの無学を嘲(あざけ)り、パリサイはキリストが信仰心がないといって呪うのです。この三者に共通するのは愛のないところです。ですから、神の愛する子キリストを迫害するのです。われらも常に彼らから迫害されることを善しとしましよう。それは、われらがキリストの弟子であるという証明でもあるからです。

「聖書と他の書物」

ブラウニングの詩は深くすばらしいが聖書のほうが遥かに深い。ダンテは大きいが聖書は遥かに大きい。ゲーテは偉大であるが聖書ははるかに偉大です。いろいろなところに智識はありますが、その本源は聖書です。いろいろな自由がありますが、その根底をなすものは聖書です。方々に天才がおりますが、聖書の中には神と聖霊がおります。例えれば聖書は枝にたいする幹です、注解にたいする本文です、人の書にたいする神の本です。この世のもろもろを人類は超越してゆくでしょう、しかし聖書が超越されることは永久にありません。

「天然の愛」

天然、自然を愛しなさいしかしあこがれを持ってはいけません。天然自然を愛するのはいいけれどそれによって神のこと神への崇拝を忘れてはいけません。天然自然の力を何かをなしとげるために用いなさい、かれらの誘惑に迷うようなことがないようにしなさい。たとえばギリシャ人のように天然自然を愛してはいけないでしょう。天然自然は神に達するためのステップにすべきであって、それ自体を神を祭る神殿としてはいけないのです。そのようなことになれば、われわれは偶像崇拝の罪問われるでしょう。(列王紀略上十一章三十三節参考。)

「イエスにおける友人」

イエスにおける友人とは世間でいうところの必ずしもキリストの信者ではありません。かれらの中に仲間意識の強い人もいれば、悪人もいれば、心の良くない人もいます。イエスにおける友人とはイエスに似た生涯を送る人であり、また送った人です。日本で言えば佐倉惣五郎のような人がそうです。哲学者のスペンサーもそうでしょう。利害を捨てて人のために尽くす、義のために闘い、愛のために苦しみ、真理のために努力する人はイエスにおける友人です。たとえイエスの名を知らなくとも、イエスの名を唱えたことがなくっても、わたしはそんなことを問題にしません。イエスのような生涯を送った人はキリストの友人であるとともに、私の友人でもあり、私の兄弟または姉妹なのであります。(マタイ伝十二章五十節)。

「十字架の仰膽(ぎょうせん)」

「なんじらわれを仰ぎ膽(み)よ、されば救われん」(イザヤ書四十五章二十二節)。十字架上のキリストを仰ぎ視なさい、そうすれば救われます。キリストのながした血はあなたがたがいかに罪深いかの証明であると認めなさい。そうすれば、救われるでしょう。キリストの受けたことばでは言い尽くせない苦しみは、あなたがたの罪に対する神の怒りの表れと認めなさい。そうすれば、救われます。キリストの十字架上の死を、古いあなた自身の死と認めなさい。そうすれば救われます。十字架上のキリストを単に眺めるのではなく、仰ぎ視ることによってあなた方は救われるのです。誤った、罪深い自分自身をキリストと共に十字架に釘で打ち付けられ死ぬことによって、わたしたちは新しく生まれ変わり救われるのです。(ガラテヤ書二章二十節)。

「進歩の子たれよ」

進歩の子になりなさい、保守、受け身ばかりの人間にはならないように。アブラハムがカルデヤの地を去ったように、腐敗の巣窟からは断乎として去りなさい。預言者が時の制度を排斥したように、陳腐な古くさくなった制度を排斥することに躊躇してはいけません。キリストが祭司、学者、パリサイ人以上の義をお求めになったように、法王、監督、宣教師以上の義を求めさい。パウロがペテロを目の前で問い詰めたように、自由の福音を維持しようとするためには高僧や碩学の人にも従わないくらいの覚悟を持ちなさい。常に前を向き、前向きに生きる、進歩の人になりなさい。そうして、アブラハム、多くの預言者、キリスト、パウロなどとおなじレベルの人間になるように努力しなさい。

「伝道の真相」

伝道は広く世の中に出て伝道をすることよりもむしろ犠牲者の覚悟をもって生活することです。公に教えを説くことよりもむしろ秘かに人の罪を担ったり、九度の苦しみをもってはじめて一つを語るくらいがよいのです。多くの涙をながした苦しみを一篇の詩をもって語るのです。ですから伝道を成功させるためにはなるべく公的な運動は避け、隠れたところにおられる神とともにめだたぬように生活するのがよいのです。

「教会を要せざる信仰」

宇宙の働きによって真理を築き、わたしの信仰を確かなものとしていますので、かならずしも教会をわたしは必要としません。風がわたしのために色々弁護してくれます。波がわたしのために証明してくれます。私の信仰の基礎はなにかと問われたらわたしは山を指差します。そのどっしりとしたゆるぎない山山。復活の希望を問われたらわたしは群生をする植物を指差します。冬には枯れ春に再び青々と葉を伸ばしてゆく。わたしの父なる神は夜空に星座をちりばめ、全ての人を照らす真実の光です。わたしは神学を学んでわたしの信仰を維持しようとは思いません。かえって、すべての科学者と哲学者がわたしの希望していることの正しさを証明してくれるでありましょう。

 

「来世と向上」

来世に希望を託すのは迷信ではありません、また間違った欲望でもありません。来世への希望は人間の飽くなき向上心による希望です。人類が滅びることなく続くために当然いだくべき希望です。もしこの来世への希望が人類よりなくなってしまったら、われわれは鳥や獣と少しも変わらなくなるでしょう。「人の魂は上に昇り、獣の魂は下に降る」。人は、永久なる向上心があるかぎり永生を望んでやみません。人に永世などないんだと説くのは、人に自殺を勧めているのに等しいことです。来世の希望を懐いてはじめて人は、人間らしくなるのです。

「現世の楽しきゆえん」

現世そのものは必ずしも楽しいものではないのです、来世に対する希望があるから楽しいのです。たとえば、富を得る希望があれば貧(ひん)していることが苦にならないのといっしょです。現世は修羅(しゅら)の街(ちまた)のようなものです、しかし平和な来世が待っているという思いによって、現世で苦闘することは歓楽のようになるのです。「われらは希望によりて救わるるなり」、すなわち来世の希望の快楽によって現世の苦痛より免れることが出来るのです。(ロマ書八章二十四節)。

「道徳と経済」

道徳の結果は間違いなく経済に現れます。徳は国を富まし、罪は結局国を貧しくするのです。ですから、その国の経済状態でもって道徳を推量(はか)ることが出来るのです。ただ口で忠愛を唱える国民が必ずしも忠愛の国民ではありません。富んで安泰な国民が真の忠愛の心が厚い国民です。あなたの家計簿なり金銭出納帳を見せてください、そうすればあなたの道徳心をわたしは知ることが出来ます。神がモーゼにその選ばれた国民に次のように告げさせました。「あなたがたは多くの国々の国民に金を貸すようになるでしょう、そして借りることはないでしょう」(申命記二十二節)と。色々な国からか借りるだけで貸すことをしない国民は道徳心のある国民ではありません。

「樹とその果」

わたしは、事業の結果についてあれこれ思い悩まない、その事業の性質について思います。この事業は独立して成り立つ事業であろうか、これは信仰にかなう事業であろうか、これは神がわたしに与えてくださった事業であろうかと思いをめぐらします。その事業の性質が聖いものであれば結果はまちがいなく善いのです。聖書に書いてあります。樹を善くしなさい、そうすればその果実も善くなります。もし樹が悪いのであれば、果実もかならず悪くなります。そう聖書に書かれています。人にばかり頼り、悪知恵を働かせて、何かを企て成功したかに見えてもそれは本当の成功ではないのです。まず自分自身を潔めなさい、そうすれば万人にあなたの徳が知れわたってゆくでしょう。(マタイ伝十二章三十三節)

「一人となりて立つの覚悟」

われらはキリストの僕(しもべ)となって、ただ一人で世に立つ決心をしなければなりません。世の中の人は神を棄て、神の僕(しもべ)を棄ててきましたし、今後も棄てるでしょう。ですから、わたしたちもキリストのように一人十字架に上る決心がなくてはなりません。友人や親戚や弟子に棄てられ、ひとり「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」(「神よ、神よ、なぜわたしを見捨て給いしか」)と叫びながら息絶える決心がなくてはならないのです。(マタイ伝二七章)

「隠遁者にあらず」

わたしを隠遁者と看做す人がいますが、わたしは隠遁者ではありません。わたしの頭上には空が青い天幕のように張り詰められ、足元にはすみれやおきなぐさの花が咲き、また多くの友人がしばしば訪ねてくれます。また、おなじ信仰の友が全世界に存在してわたしのために祈ってってくれますし、なんといっても神より聖い業をたまわっています。この世の中で私くらい自由で楽しく暮らしている人間はいないことでしょう。神の聖徒の交際がどのようなことか分かぬ者が、罪深い世の中のもろもろのことに身を染めないからといってお前は隠遁者だと言っているのです。神と神の御子たちとの霊的な交流をして、政府の官吏たちや社交界の紳士淑女が尋ねないといって私のことを世捨て人だとか隠遁者というのは間違っています。

「集会と運動」

多くの人を集めて、その勢力を誇ってでなければ人に施すことが出来ないような人は偽りの人です。自分一人だけであっても神の真理を説いて世の中の暗黒を照らすのだという人こそ真のキリストの信者といえます。街頭に立って大声で人々に訴えなければ人を救えないと思う人も間違っています。静かに、深く、心の中に信仰を持つ人こそ真のキリストの信者といえます。さあ、集会だ、さあ街頭での布教だと血眼(ちまなこ)になっている人たちを見ているとわたしは次のようなキリストのことばを思い出します。「神の国は顕われて来るものにあらず、ここに視よ、かしこに視よと人の言うべきものにあらず、それ神の国はなんじらの衷(うち)にあり」と(ルカ伝十七章二十、二十一節)。

「善かつ弱きキリスト」

キリストはこのうえなく善、正しくすぐれた方であった。と同時に弱い方であった。そうです、このうえなく善、正しい方であったがゆえに弱かったと言うべきかもしれません。このうえなく善を愛する心があつかったけれども世の善人に恵みを施す資力はありませんでした。正義の心がこのうえなく強かったけれども悪人を罰する威力はありませんでした。彼はこの世で善をなしただけで力を用いたことはありませんでした。彼はいっさいの力をすてて、純粋に善でもってこの世を救おうとしたのであります。なんと偉大なことよ!イエス・キリストよ!

「五月(さつき)の感」

「それ人は草のごとく、その栄えはすべての草の花のごとし、草は枯れ、その花は落つ、されど主の道(ことば)は窮(かぎり)なく存(たも)つなり」(ペテロ前書一章二十四、二十五節)。庭に咲いているオダマキもそうだ、ツツジもそうだ。歴史上のいかなる英雄だってそうだし、国家だってそうだ。それは草のようにいつかは枯れて、その栄えも草の花のようにいつかは散ってしまう。しかしどんなことがあっても、神の教えだけは不滅です。だから、わたしの全てをこの常に活きている神の教えに委ねるのです。

「平民と平信者」

わたしは、貴族ではありません、たんなる平民です。わたしは特別に天皇陛下に寵愛されようとは思いません、ただ忠実な一臣民として統治されることを希望します。それと同じように、わたしはキリストの使徒でもなければまた法王、監督でもありません。そうです、世間で称するところの牧師伝道師でもありません。わたしは単なる平信者です。わたしは特別人より以上に神に愛されようとは思いません。わたしは、ただ万民を公平に愛し給う神のその愛でもって愛されたいのです。わたしは、社交界で華々しく暮らす貴族になりたいとは思いません、また信仰でも僧侶、神官、祭司、教職などにもなりたいと思いません。わたしは、国民として、平民として、キリスト信者としては単なる平(ひら)の信者として一生をまっとうしたいと思うのです。

実験の宗教」

この世で非常に不可能のことの一つに、神によらなければキリスト信者となることが出来ないことです。キリスト教は学問ではありません。ですから、万巻の書物を読んで得た知識をもってしても出来ないのです。キリスト教は制度ではありません。ですから、儀式でもって信者になることは出来ません。キリスト教は神がキリストにあらわれた、神自身のあらわれですから、神の聖霊が自分自身にあらわれることが必要です。ですから、キリスト教は実験なのです。実際に神が自分にあらわれ給わなければ、キリストにあわわれた神の真理をうけキリストの信者となることは出来ないのです。

「感謝と祈祷」

喜びなさい。そして、感謝しなさい。そうしてさらに大きな恩恵をめざしましょう。感謝は有効な祈祷の要素です。神は感謝のない祈祷には耳を傾けません。聖書に「そしてもつ者にはさらに与えられ、もたない者には今持つているものをも取り上げられる」とあります。感謝は「もてる」を証明するものです。感謝する者には恩恵の上にさらに恩恵を加えられます。わたしたちは、天なる父に自分の貧しさを訴えて哀れみを乞うよりは、むしろ多くのものをもっていることを述べさらに恩恵を増加させるようにすべきです。(マタイ伝十三章十二節)

「我意と神意との衝突」

わたしは、つねに自分の力不足をおそれています。しかし、神はつねにわたしの力が増すことを憂慮しておいでです。わたしは自分が強くないことを知るために弱い人間だと思い、神はわたしが強がって弱さをみせないとき弱いからだと見抜いています。わたしは力を増そうと努力し、神はむしろわたしの力を弱めようとなさいます。わたしの意とするところは常に神のみ心と異なります。わたしが焦り苛立っているときに神はなぜそんなに焦ったり苛立ったりするのかとお笑いになる。わたしは自分自身のことが何もわからず唯ただ思い悩んでいるのです。

「愛の長短」

沙翁(シェークスピア)の言葉に「少しく愛せよ、しかして長く愛せよ」というのがあります。一時に多くを愛する人は長くは愛せない人です。熱烈な愛は賞賛すべきですが、その短いことが欠点です。愛は生命と同じです。その情熱よりむしろ長くつづくことが貴いのです。わが日本人の性質はどちらかといえば情熱的な短い愛が多く、長くつづく愛が少ないと思います。非常に残念なことです。

「神の言辞(ことば)」

神は人の言辞(ことば)をもってはわれわれに語ってくれません。神はわれわれに事実でもって示されます。ある時は災難であったり、ある時は病気であったり、ある時は悪人を近づけたりします。そうして、神の聖意(みこころ)をわれわれに伝え給うのです。事実には深い神の聖意(みこころ)が隠されています。しかし、隠れた神の聖意(みこころ)を理解するのは大変なことです。七転八倒の苦しみを数ヶ月続けても理解できないことがあります。しかしひと度神の聖意(みこころ)を理解することが出来たら、青空に一点の疑いの雲がなく晴れ渡ったような心持となります。ですから、沈黙にまさる雄弁はないのです。事実をもって語り給う神の言辞(ことば)の深遠な意味は計り知れないものがあるのです。

「希望の理由」

「われらは希望の中に救われたり」(ロマ書八章二十四節)。私たちを救えるのは未来です、過去ではありません。過去にはもどれず、過去を修正することはできません。未来に全てがかかっています。わたしは、キリストにわたしの未来をすべてあずけました。今わたしの全身全霊はキリストに刻々と占領されています。キリストがわたしの全てを占領し終えた時わたしはかれに似て完全となるのです。わたしたちは、完全でないことを嘆いたり失望したりする必要はありません。不完全さこそ未来に希望を持たせる神の計らいなのです。

新教会」

私たちが目指す、無教会という新教会には、まず監督がおりません。牧師もおりません。伝道師もおりません。憲法もありません、洗礼もありません、聖餐式もありません、楽器も教壇もありません。あるのは、ただ神だけです、イエス・キリストだけです、神と人とを愛する心だけです。その教会堂は上に蒼穹(青空)を張り、下に青草の布をひいた天然自然です。その礼拝式は日々の労働であり、その音楽は聖霊を感じた時の感謝の祈りです、そしてその憲法は聖書です。監督といわれる人はキリストです、そしてその会員は霊と真(まこと)をもって神を礼拝する世界中の兄弟姉妹です。わたしは永久にこの教会の忠実な会員でありたいと思います。

「最新の教会」

最初にユダヤ教がありました。次にローマ教会(カトリック教会)が出来、そして新教会(プロテスタント教会)が出来ました。そして最後に無教会が出来きたのだと私は考えます。無教会は新教会(プロテスタント教会)のさらに進歩したものだと思っています。キリスト教は、ついにすべての外見的なものを脱却したのです。いま、世界各国でこの無教会の考えが起こりつつあります。わたしたちこの20世紀の終ろうとするときに遣わされた者は、ルーテルやカルビンやウエスレー等の創設した新教会のいずれの教派にも属さない、いわゆる無教会の考えでキリストの教えを伝えればよいのだと思っています。

「寂寥の快楽」

寂寥は人から離れてひとり神を求める気持です。広大無辺の宇宙にただ一人神と向き合うことです。このときに、私にはまず国家といえるものがありません、社会といえるものもありません、友人といえるものもありません、家族といえるものもありません。わたしには広大な宇宙の大自然と神とがあるだけです。わたしには人間の言葉が届きません、人間のいかなる歓声も遠い雷のような感じです。「われひとりあるにあらず、わが父とともにあればなり」(ヨハネ伝八章十六節)。人が私から離れていく時に神はますます私に接近します。私がただ一人となったとき神は私の力となるのです。秋風がさみしく心を吹きぬけるような寂寥感に陥ったときこそ、わたしには人の知らない神との快楽が生れるのです。

「親切の取り戻し」

わたしは、自分自身力不足とは思いつつ人に親切にするのが大好きです。親切はわたしにとっては快楽なのです。親切をしないと逆に大変苦痛なのです。しかし、わたしの親切によって私が信念の軟弱な人間と誤解されたり、何か人の歓心を買おうとして行っているとか、人を騙そうとして行っているとか誤解される場合は、自分のした親切を返してもらわなければいけないと思っています。聖書には神は善人にも悪人にも等しく雨を降らし給うと書いてありますが、また一方ではあなたたちは豚に真珠を投げ与えてはならないとも書いてあります。人がした親切を濫用するような罪深いことはないと思います。また、自分の親切を濫用されたほど不愉快なこともありません。ですから、人から受けた親切を絶対濫用しないことです。それと同時にわたしたちもむやみに人に親切の押し売りのようなことはすべきではないのです。

「永生の貴尊」

永生という言葉の永いということにとらわれてはならないのです。「永生」はむしろ「永聖」の意味であって、いつまでもかわらぬ聖(きよ)さが尊いのです。「永生」の「永い」ことを求めても真の「永生」を得ることはできないでしょう。「永生」というのは、神の生命であるので「永」にならざるをえないのです。この永いことのみを「永生」と思い込む人は不幸になるでしょう。繰り返しますが、「永生」の貴いのは量的なものではなくて、質的なものだということです。

「新しき伝道」

農夫が農業をやめないで農夫のままで伝道する、商人が商売をやめないで商人のままで伝道をする、医師が肉体をなおしながら霊魂も救ってゆく、官吏はその職に留まって大胆にキリストの教えを表白する。神学者になる必要はありません、現在の職のままで立派な伝道者になれるのです。これからやってくる二十世紀の時代は、まさにそういう新しい伝道が必要とされるでしょう。

「わが唯一の武器」

「万軍の主宣べ給う、権力によらず、能力によらず、わが霊によるなり」と(ゼカリヤ書四章六節)。政権によらず、武力によらず、ただ神の霊によってわたしは生きます。教会を必ずしも必要としません、神学も必ずしも必要としません、ただ神の聖霊を必要とします。わたしの武器はただ一つこれです。わたしはこれによって、自分自身に勝ち、世の中のいかなる者にも勝ち、そうです死さえ克服しようと思うのです。

「社会主義とキリストの教え」

社会主義というのは結局は肉の問題、物質の問題です。それに対してキリストの教えは霊の問題、精神、霊魂の問題です。社会主義は地上での問題を議論し、キリストの教えは天上での、永久の幸せについて問題にしているのです。われわれが空腹に苦しむとき食べ物を下さいと訴えるのが社会主義です。「鹿が渓水(たにみず)を慕い喘(あえぐ)ごとくわが霊魂は主の神を慕い喘ぐなり」(詩篇四十二篇一節)、これがキリストの教えです。社会主義とキリストの教えとは天地雲泥の差があります。いかなるときも、決してこの二つのことを混同しないよう十分注意をしなさい。

 

「聖徒の交際」

わたしはこの地上で一人神を愛しているのではありません。わたしは、わたしと同じような心をもった世界中の人、そう聖徒とともに神を愛しているのです。たとえ身近におなじ心を持つ人が居ないからといって恨みごとを言ったりしてはいけません。わたしと同じ心の人は世界中にはたくさんおります。正しいキリスト信者は主のもとに一体です。その人たちの祈りは世界の方々から天の神に向って上ってゆくのです。そして、わたしたち聖徒はたとえ世界中に散らばっていても、主の指導のもとに同じように行動しているのです。ですから、どんな境遇におかれても孤独な心を持つ必要がないのです。

「新生命と新事業」

新しい事業を何かしようとあれこれ考えるよりは、新しい生き方を求めなさいと言いたいのです。新しい事業を始めるからといって必ずしも新しい生き方、新しい生命力を得たとは言えないでしょう。しかし、新しい生き方、新しい生命力を求めて得れば必ず新しい事業が伴ってくるのです。成功の秘訣を自分の外に求めるのは誤りです、自分自身の内に求めるべきなのです。そして、自分自身の内より発生した事業は常に健全です、また常に永続します。わたしが人に新しい生き方、新しい生命力を説くのはなにも宗教のためだけでなく、みなさんが事業に成功するためでもあるのです。

「キリストによる神政の特質」

キリストによる政治は王政ではありません。ですから、王侯貴族は存在しません。キリストによる政治は共和制ではありません。ですから多数を頼む必要はありません。キリストによる政治は神政と呼んでいいでしょう。無形の神による政治、無形の神を信頼する政治です。キリストの政治は国民一人一人が真に独立をすることを奨励します。一人一人が神とともにたとえ全世界を相手にしてもひるまない人間を作る政治です。一人一人が国を支えることができるようにする政治、国の土台、基礎をしっかりするような政治を目指します。

「世論と神意」

 世論は神からの声だと思ったら大間違いです。神の声はつねに世論に反対します。昔の預言者はことごとく世論の反抗者と言ってもいいでしょう。人類とはそもそも何者でしょうか。聖書にいわく「主天より人の子を望みて、悟る者、神を研(あず)ぬる者ありやと見給いしに、みな叛き出でてことごとく腐れたり、善をなす者なし、一人もなし」と(詩篇十四篇ニ、三節)。神に叛き神より去った人類の世論は神意をつたえるものではありません。私は、神の言葉であります聖書に耳を傾けて、悪人が多数占める社会の世論なぞには従いません。

「奇異なる現象」

今日、非戦論者は無神論者の中に多く、キリスト教信者は概して主戦論者が多くおります。神などいないという者が平和を唱え、神は愛なりと叫ぶ者が戦争を謳歌しているのです。キリスト教は、もう陳腐なものとなったのでしょうか、あるいはキリスト教信者が堕落してしまったのでしょうか。これを解決するためには、キリスト教を捨てるか、キリスト教信者を退けるかの二つにひとつです。わたしは、キリスト教は捨てることは絶対にしません、ですから、止むを得ないことですが、今日の世の中のキリスト教信者と言っている人たちを排除したいと思うのです。

「天才と聖霊」

天から授かる天才は慕うべきすばらしいものです。しかしながら、天から与えられる聖霊のすばらしさにはとても及びません。天才は一時的な贈り物ですので、使ってしまえばなくなってしまいます。しかし、聖霊は終身年金のようなものです、死ぬまで受けられるのです。天才はごく限られた人にしか与えられませんが、聖霊は誰でも受けることができます。天才はむしろ神を拒否する人に与えられ、聖霊は天の父なる神を信じその愛にすべてをおまかせする人に与えられます。天才は貴族的であるのに対し、聖霊は平民的です。だからわれわれは心を低く保ち、天より恩恵を受けられるよう願うことです。

「新生物学」

キリスト教は道徳を学ぶものではありません、むしろ生物学といえるでしょう。道徳を伝えて人を教えようとするのではありません、イエスキリストの全生命を投げ出して人を教えようとするのです。イエスが次のようなことを言っていますが、言葉の表面的な意味だけで驚いたり拒否したりしてはならないのです。「イエスキリストいいけるは誠に実(まこと)になんじらに告げん、もし人の子(キリスト自身のこと)の肉を食わず、その血を飲まざればなんじらに生命なし」(ヨハネ伝六章五十三節)。キリストは道徳という薬を処方して人の心の病を癒そうとはしません、神自らの生きている命を与えて人の心の病気を追い出すのです。キリストは人間の罪悪を清める血清療法です。神の生命力でもって人間の死に打ち勝つ方法です。しかし、残念ながらキリストの教えをこのように理解出来る人は大変少ないのです。

「改心と変質」

キリストの真似をしてキリストのようになれるものではありません。それは、肉体は霊魂の真似が出来ないからです。それは石が木の真似ができないのと同じことです。われわれは、キリストのように変わることは出来ません。すなわち、うわべだけキリストのようになることはできません。ただ、やみくもに更正するのではなく、実験的に自分を改造するのだ。キリスト信者とは単に心でキリストを信じる人間ではなく、「キリストによって、新しく造り直された人間」で、キリストの性質を身に帯びた人間です。救済は単なる心を改めることでなくて心が変質することです、キリストと同じように永遠に生きながらえるほどの霊魂と体を具える人間になることです。

「思想の所在」

わたしは、思想を得ようと思って手当たり次第多くの本を読み終えました、しかしわたしには思想らしきものは何も得られませんでした。わたしは、ちょっとした人助けをしました、するとわたしの心に新しい思想とよべるものがどっと湧き上がってきました。それによって、わたしは知りました、思想と言うのは知識ではないことを。思想は行動でした、そうです、愛の行動でした。愛の行動がなくて真の思想と呼べるものはないでしょう。ですから、思想を求めるのであれば書籍によるよりはむしろ労働によるほうが確実に得られると思います。

「ただキリストに聴かんのみ」

トルストイ一人の偉大さはロシア一億三千万人の人々より大でありましょう。キリスト一人の偉大さも世界中の十三億人の人々より大でありましょう。今、アメリカのルーズベルトとイギリスのチェンバレンは戦争が世の中に益をもたらすのだと言いますが、そんな説明に耳を貸す必要はありません。今、全世界の新聞記者が戦争による殺伐とした現在の状態を擁護していますが、そんなことに惑わされてはいけません。わたしたちは、ただイエスキリストが語られた数々の言葉に耳を傾ければよいのです。今、世の中がこぞって戦闘の勝利に酔っているとき、わたしたちは天からつかわされたイエスキリストの言葉によって心を鎮めなければならないのです。

「殺人と活人」

戦争で敵を殺す快楽もあるでしょう、しかし人を活かす快楽のほうが人を殺す快楽より遥かに優れています。敵を数万人屠ったと聞いて歓んでも、その快楽はたちまち数日で消えてしまいます。それに比べて、たとえ乞食一人であっても助けた快楽は一生その人の心に残るでしょう。わたしは、人を殺す人間になるのではなく、人を助け活かす人間になりたいのです。

「隷属の民」

武力をもって勝利しても、もし霊魂でもって勝つのでなかったら我々は勝者ではなく、負けて隷属している人民であります。もし信仰でもって独立していないなら、わたしたちの独立は偽りの独立です。わたしたちは欧米の将校を自分達の国の陸海空軍のトップにするだろうか。しないであろう、しかし、自分達の霊魂をわたしたちは欧米人の牧師のもとに置いているではありませんか。恥じるべきことです。日本の多くのキリスト信者たちは、いまだ自立の人民ではなく、欧米人に隷属する人民と言うべきでありましょう。

「効果ある禁酒禁煙」

自分の力の不足を感じる人が刺激物を必要とします、たとえばタバコのようなあるいはアルコールのようなものです。これらは、生きるのに疲れた人によって用いられます。しかし、これらは力の源である主に接してまったく要のないものとなります。わたしたちは、「神に酔う」快楽を知って、酒に酔う快楽を忘れます。わたしたちの禁酒禁煙は義務として強制されるのではなく、不必要となるのです。まったく必要を感じなくあってはじめて、わたしたちは禁酒禁煙をつづけることが出来ます。

「独立教会の建設」

監督より建てられた協会があります。宣教師によって立てられた教会があります。しかしわたしたちは神の聖書を直に学んで神によって教会を建てようと思っているのです。聖書はドイツにルーテル教会を生みました、英国においてはメソヂスト教会を生みました。そういう同じ力が日本においても、純粋な日本独自の教会を生まないわけはありません。わたしたちは、外国の人たちの助けをうけず日本人だけで強固なキリストの教会を建てることが出来ると信じるのです。

「智者いずくにある」

智者はどこにいるのであろうか、学者はどこにいるのであろうか、聖者はどこにいるのであろうか、君子はどこにいるのいるのであろうか。わが国にはいません、かといって外国にもおりません、そうです全世界を探してもどこにもおりません。智者は天にいらっしゃいます、神と共にいらっしゃいます、いや彼が神そのものなのです、イエスキリストその人なのです。イエスキリストこそが智慧であり聡明(さとり)なのです。彼に至らなければ光はないのです。わたしが何をしようと、四方八方探し回わろうと智者を探しえないのです。キリストはわたしたちの天上にいらっしゃるとともにわたしたちの心にもいらっしゃるのです。わたしはイエスキリストにより、自分自身はもちろんのこと全世界をその光で照らそうと決心したのです。

「仰望の秘術」

世の中の教師はいいます、「まず、自分のことを清くしてそして世の中を清くしなさい」と。しかし神はおっしゃいます「なんじらわれを仰ぎ望め、そうすれば救われるだろう」と(イザヤ書四十五章二十二節)。私自身を清めようと一生努力してもそれは不可能でしょう。しかし、神の子羊であるイエスキリストを仰ぎ望んで、即座にわたしたちは自分自身の霊魂を清めることが出来るのです。去れ、世の教師ども、あなたたちは私に自省の心を植え付け、そのため私はいままでの半生を苦しみ悩みました。わたしは、今からは神を仰ぎ望んでそのすばらしい教えによって清められていきます。

宇宙の精算

宇宙は正義の活動のための精算機関のようなものです。ですから、宇宙のなかで善をなしてその報いを受けられないということはありませんし、また悪をなしてその刑罰を蒙らないということはないです。宇宙は広大ですので善悪にたいする反応が直ちにそれを行った方向からこないかもしれません。しかしながら東に向ってなした善が西の方より報われ、北に向かってなした悪が南の方から罰せられたりするのです。宇宙は大銀行のようです、貸借関係の帳尻は一円たりとも違うことはありません。ですから、この信用の置ける宇宙の銀行に善を積むことがよいでしょう。そして、善を積むというのは、惜しみなくすべての人に向って善をなすことなのです。

「信仰と伝道」

信仰は生命です。ですからその生命を維持するためには増殖しなければなりません。増殖を止めれば生命は死にます、同じように伝道を止めれば信仰もなくなります。自分一人清くあればいいのだと思ってその信仰を人に伝えることをしなければその信仰はすでに死んだも同じです。人に伝えることは信仰を存続させるために必要なことなのです。人に広めなければ、その人自身の信仰は死んでしまうでしょう。そう思って世の中をみますと、なんと私の信仰を伝える範囲のひろいことでしょう。わたしは、感謝します、わたしの信仰を伝える範囲の広いことを、これなら自分の家に一人籠もって窒息するようなことにはならないでしょう。さあ、新しい年です、わたしの信仰を多くの人に教え広めたいと思います。

「歳を忘れる方法」

忘年会などの宴会を催し年忘れをする人々がいるが、これは言葉だけであって年をその悔いの多かった年を忘れることは出来ません。本当に年を忘れたいのであればまず善行をしなさい、お金のある人はそのお金を施(ほどこ)しなさい、知恵のある人はその知恵を使って人を助けなさい、力のある人はおしみなくその力でボランティア活動をしなさい、そしてはじめて悔いの多かった年を忘れることが出来るのです。悔いは酒でもってはらすことは出来ません、善行を積むことによってなくなるのです。慈善活動は悔いを忘れる一服の薬に匹敵します。さあ年末に際して大量にこれを服用し元気になりましょう。

歴史の中枢

歴史は国の興亡、民族の盛衰を教えています。そうした歴史のなかで唯一変わらないものを発見しました。それはどんな廃墟のなかでも毅然(きぜん)として天に向かって聳えています。キリストの十字架、これがそれです。どんなに世の中が移り変わり、人の心が移り変わろうと、十字架の光は少しも変わらず輝いています。たとえ万物がこの世からなくなることがあろうとも、この十字架だけは残りこの地上を照らすでしょう。十字架こそ歴史の中枢です、人生で頼りに出来る唯一のものです。十字架によらなければ、万全たる安心は得られないでしょう、十字架によらなければ永生もないでしょう、十字架がなければ世の中はすべて浮遊物の集りです。

キリスト信者の生涯

不孝者と言われながら自分の出来るかぎりのことをして親の面倒をみる。不忠者と呼ばれながら出来るかぎり国を守ろうと力を尽くし、国を愛する。常に異端者と見られていても、出来うるかぎり真理を愛し、しかも恨み言はいっさい言わずに感謝に溢れた一生を終える。これがわたしが求めるキリスト信者の生涯です。わたしは、人間として生れたからにはこういう生涯を送りたいのです。

「犬を慎めよ」

聖書に「なんじら犬を慎めよ」(ピリピ書三章二節)という言葉があります。どういう意味でしょうか。それは、現代の批評家といわれるひとたちを用心しなさいということです。すなわち、批判ばかりしていて、自分自身なんら実力の無い人に用心しなさいということ、ぶち壊すことだけして建設的でない人を用心しなさいということ、相手の欠点を言葉の針でさすことだけで、癒すことの出来ない人を用心しなさいということです。そんな人の真似をしてはいけません、そんな人の言葉をきかないようにしなさい、そんな人が書いたものを読まないようにしなさい。さもないと、彼らはあなたの霊魂までも殺してしまいます。そして、餓えることばかりで満足することの出来ない人間してしまうでしょう。

神と悪魔

神は私たちを助けるために存在し、悪魔は私たちを挫折させるために存在します。神は人の善いところをすばやく発見し、悪魔は人の悪いところをすばやく探り出します。人の善いところを伸ばし、悪いところをつつみ隠してくれるのは神です。人の悪いところを人目に曝(さら)し善いところを追い払うのが悪魔です。神の前に出た時、どんな小さな善も幼い芽が日光を受け成長するように大きくなります。一方悪魔の息に触れるとどんな小さな悪も大悪となって顕われます。神は人間を励まし勇気づけるもので、悪魔は人間を失望させるものです。わたしたちは、神を愛し悪魔を怖れなければなりません。

日本の国とキリスト

日本の国はキリストを必要とします。キリストによらなければ、日本の家庭を潔(きよ)めることができないのです。日本の国はキリストを必要とします。キリストによらなければ、日本の愛国心を高メルコとが出来ないのです。キリストによってはじめて本当の自由と独立が生じるのです。なぜなら、キリストは霊魂に自由を与えることの出来る唯一のものだからです。キリストによらないで大美術も大文学もありません。キリストこそ人類の理想だからです。キリストが生誕されて二千年後の今日、われわれはキリストによらなければ本当の文明というものを深く考えることが出来ないのです。

ドイツ人の無教会歌

下に掲ぐるはドイツ国愛国詩人ウーラントの作の一節です、善く私の意に合(かな)えるっものです。

冷たき大理石の中においてあらず

苔むす死せる教会においてあらず

常に新鮮なる樫(かし)の小森のなかに

ドイツ人の神は在(いま)しかつ動き給う。

そうです、わたしたち東海の島国を護り給う神も、俗人の金をもって造った石や木の会堂にはおられなせん、常に新鮮な欅や樅の林において、または真直ぐに天を突いている杉の小森の中におって動きたまいます。われらは会堂ではなく林や森に行って神を拝むべきです。

イエスキリストの御父

旧約聖書では、神は万軍の主として顕われました。しかし新約聖書では十字架のキリストとして、世の中を悔い改めようとなさいます。旧約聖書では神は正義の剣をもって軌道をそれる民を懲(こ)らしめました。新約聖書では愛の和合をもって、民の頑(かたく)ななこころを融(と)いてくださいます。旧約では神は外側からわれらを責めました。新約では、内側の心からわたしたちを説いて勧められます。旧約聖書では厳格な主であった神は、新約聖書では柔和な夫として顕われました。わたしたち新約聖書の神は剣を抜いて異教徒を屠(ほふ)ったヨシュア、ギデオン、バラクの神ではなくて、世の中の罪を一身に担って十字架にされてイエスキリストの父なる御神であります。

非戦の論

非戦の理屈を説くのは案外難しいことです。しかし、わたしはイエスキリストを信じて、結果的にすべての争いごとが嫌いになりました。理性で分る前に私の性質がそうなったのです。なぜなのか理由は分りません。しかし、イエスキリストを心から信じてからは、わたしの憤怒の角はことごとく折れてしまって、柔和を愛する人間になってしましました。わたしの非戦論は、キリストを信じた結果起こった私の心の変化によるものです。

静謐(しひつ)の所在

静謐は天然自然にあります、神の造りたまいし天然自然にあります。また、静謐は聖書のなかにあります、神が伝えたまいし聖書にあります。一輪のオダマキが露にぬれうつむくのを見て、あるいは聖書の一節を思い浮かべて私の心の中の苦しみ悶えは消え去ります。怒涛があたりにいちめんに暴れるときも、わたしは草花になぐさめられ、聖書によりこころの安静を得るのです。

日本人とキリスト

もし日蓮上人に法華経でなく聖書(バイブル)を授けたなら、かれは宗教改革者ルーテルのようになったでしょう。もし馬琴にナザレのイエスの心を知ることが可能であったなら、サッカレーまたはディケンズのようになったでしょう。日本人にラファエルのような画才がないのではありません、かれの理想がないだけです。また、クロムウェルの義憤がないのではなく、かれを導いた神の光明がわれらの心を照らさないだけです。わたしたち日本人に人類の生命であるキリストを与えてください、そうすれば欧米の偉人に一歩も引けを取らない人物があらわれるでしょう。

キリスト教の無力の理由

世の中はキリスト教の感化力を求めてキリスト教そのものを求めません。そして、キリストの信徒と称する人もまた世の中のこの要求に応じようとして、キリスト教の感化力を説いてキリスト教そのものを説きません。たとえばキリスト教的政治、たとえばキリスト教的文学、またはキリスト教的社会、キリスト教的家庭といったものです。しかし、感化は枝葉であって根本ではありません、末流であって源流ではありません。これは樹木を植えずに実を提供するようなものです、井戸を掘らないで田に水を注ごうとするようなものです。今のキリスト教といわれるものが他のものを変えることが出来ず、自分自身も涸渇しつつある状態は、キリスト教そのものを世の中に大胆に提供しようとしないためです。

語るべき時

沈黙を守らなければならない時があり、また積極的に話さなければならない時があります。奥深い谷間にひっそりとカタツムリのように潜(ひそ)んでいなければならない時もあり、山の天辺(てっぺん)に大きな城を築かなければならない時もあります。密室に静かにしていなければならない時があり、屋上で大声を発しなければならない時があります。神の言葉が世の中にゆきわたらないで国家が滅んでしまうような事態、それこそわたしが積極的に話をしなければならない時であり、街に出て声の限り訴えなければならない時なのです。

語るべき時

沈黙を守らなければならない時があり、また積極的に話さなければならない時があります。奥深い谷間にひっそりとカタツムリのように潜(ひそ)んでいなければならない時もあり、山の天辺(てっぺん)に大きな城を築かなければならない時もあります。密室に静かにしていなければならない時があり、屋上で大声を発しなければならない時があります。神の言葉が世の中にゆきわたらないで国家が滅んでしまうような事態、それこそわたしが積極的に話をしなければならない時であり、街に出て声の限り訴えなければならない時なのです。



一閃光


わたしは、悩み悩んで暗闇をさ迷うことがあります。そこで、ある学者に助けを求め、また別の学者に助けを求めます。わたしは、自問するようになります、世の中にはたして真理と言えるものはあるのだろうかと。そして、わたしはますます分からなくなってしまいます。波の上に浮かぶ小舟のように翻弄され、何も信じることが出来なくなってしまいます。そのような時、天より稲妻のように一筋の光明が暗闇を照らしたのでした。そして、わたしの悩みは黒雲が去ったように消えてしまいました。わたしは、思わずキリストの名を呼んでいました。「あなた様こそわたしの真理です」と。それからというもの、わたしは盤石の上に立っているように、動揺することがなくなりました。

善心の恩ちょう

境遇が善いから、善い人となるのではないのです。神から、善い心を頂いて善い人となるのです。人間は善いこころを自分で造ることは出来ません。それなのに、ひたすら善い境遇を作って善い人間になろうと努力します。社会主義もまたキリスト教会もそのように努めています。しかしながら、これは無益なことなのです、旧約聖書に載っているバベルの塔の話のように、バベルの塔を築いて天に昇ろうと努めることと同じなのです。わたしたちは、その愚かな行いを真似してはいけません。ただちに神に祈って、神より直に善い心の恩ちょうにあずかるべきなのです。

キリスト信者の本性

キリスト信者の本性は、たんにキリストを「信」じることではありません、キリストとともに存在することです。自分自身を捨てて、キリストとともに存在すること、キリストが自分自身の代わりであるとの認識です。キリスト信者すなわちクリスチャンとはそういう人を言うのです。キリスト自身がその人をとうして顕われ、その人のなかで働くのです。その人は、意志をすべてキリストにゆだね、まるで捕虜のように働く人です、神の捕虜なのです。ある面では、恥かしいことかもしれませんが、この上の無い栄光の身の上とも言えるのです。

釈放の霊

わたしは、罪より人を釈放する霊を必要としています。わたしの肉体は病いに束縛され、活動することが出来ません。わたしのこころは悩み惑い閉鎖され、光を仰ぐことも出来ません。わたしの霊魂は罪に囚われ、清浄になることが出来ません。ナザレのイエスよ、イエスキリストよ、どうかわたしに釈放の霊を授けて下さい。そうして、わたしのすべての束縛を解いて下さい、わたしを神の子のように自由にして下さい。

神の歴史

人間の歴史があると同様に、神に歴史があります。そして、聖書こそ神の行動の記録であって、神の歴史なのです。聖書が理解できないと言う人がいます。それは、聖書を人間の歴史と同じように考え、理解しようとするためです。聖書を神の歴史と考えて理解しようとすれば、少しも難しいことはないのです。神の歴史ですから、もっとも確実な歴史と言えます。人間の歴史には、いろいろ誤ったところがあります、しかし神の歴史はすべて真実です。わたしは、この巌のように動かない、確かな神の経典である聖書に頼ろうと思うのです。

宗教また宗教

ここに、ひとつの宗教があります。そちらに、またひとつの宗教があります。例えば、古典をもてあそぶような宗教があるとおもえば、儀式にばかりこだわる宗教があります。交際をひろめるための宗教であったり、宗教家を批判するだけの宗教があります。また、愛国、愛国と叫ぶ政治活動のような宗教があります。今言ったような宗教は、わたしが求める宗教ではありません。キリストのように自らの血を犠牲にして、ロマ書十四章17節のように「義と平和と聖霊による歓喜」を得るような宗教こそわたしが求める宗教です。これは、虚の宗教に対して実の宗教と言えます。道楽的宗教に対して実践的宗教です。儀式文章的宗教に対して心霊的宗教です。批評的宗教に対して自省的宗教です。交際的宗教に対して黙祷的宗教です。しかしながら、今言ったようなすべての宗教をさして、一般的に宗教と呼んでいます。しかし、その大部分の宗教は誉め貴ぶことの出来る宗教とは呼べないのです。

最も罪の重い人

キリストを敵に渡した人が、最も罪の重い人とは思いません。キリストを十字架にかけた人が、最も罪の重い人とは思いません。人を殺した人、姦淫を犯した人、これらの人も最も罪の重い人とは思いません。真の意味で、最も罪の重い人間は私自身だと思うのです。溢れるばかりの神の恩恵を無駄にしました、善と知っていながら善を行いませんでした。悪いと知りながらそれを避けず、神の聖霊を消し去ったり、神の御心を傷つけるようなことばかりしました。もし滅びるべき人間がいるとしたら真っ先にわたしが滅ぶべき人間と思います。わたしは、神より多くの恩恵を頂いただけ他の人より多くの負債を神に負っているのです。そのような私ですから、もし私が救われるようなことがあれば、この世の中で救われない人間などいないということになります。そこで、私が救われるかどうかが、神の恩恵の深さを知る大きな実験となります。私は、自分自身が救われることによって世の中のすべての人が救われることを確認したいと思うのです。



 パリサイ人とは

パリサイ人とは必ずしも偽善者ばかりとは言えません。模範的な信仰厚いパリサイ人もおるのです。しかしながら、彼らには、愛がないのです。彼らは、神を信じなさい、そうすれば救われますと言います。これに対してイエスは、神を愛しなさいそうすれば救われますと言いました。イエスとパリサイ人との衝突は愛することと信じることの衝突と言えるでしょう。こころ狭いパリサイ人が神への信を主張し、こころの博いイエスの主張する愛を受け入れることが出来ず、結局イエスを十字架にかけたのです。両方とも神に仕えることを主張しているのです。しかし、パリサイ人は信をもって仕えることを、イエスは愛をもって仕えることを主張しました。この違いが、あのような悲劇を生んだのでした。

同一の福音


年が改まりました。しかしながら、わたしの福音は改まりません。わたしの福音はイエスキリストが十字架にて血を流された福音です、罪を贖うための福音です、イエスキリストの肉体が復活なされた福音です。わたしは、今年も来年もそのまた後も、そうです、わたしが世にある限り、この同じ福音を唱えたいと思います。

わたしの信仰の道

キリストはわたしを義としてくれる存在ではありません、わたしの義そのものなのです。わたしの義そのものですから、わたしは義となることが出来るのです。キリストはわたしを救う存在ではありません。わたしの救いそのものです。わたしの救いそのものですから、わたしは救われることが出来るのです。キリストはわたしに代わって、わたしのしなければならないことをすべてして下さいます。わたしのすることは、キリストを信仰し、キリストの存在そのものが自分の存在とするだけです。わたしの信仰の道はこれです。完全になる道もこれです。これ意外にわたしの安心立命の道はありません。

幸福な生涯

神のお命じなされるままに従い、神に導かれ、神に養ってもらう。そんな日々ですから、これといった特別の人生計画があるわけではありません。ですから、重い責任を負うこともありません。飢える恐れも感じません。人に媚び諂うこともないのです。毎日、毎日神にしたがって働き、喜びの日々を送るのです。希望は日々に大きくなってゆきます、そして一日一日が感謝の連続です。このような人生ですので、七度生まれ変わることが出来ても、いまの生活を送りたく思うのです。


わたしの愛国心

わたしは、わたしの愛するこの国を今日直ちに救うことは出来ません。しかしながら、わたしは百年後千年後にこの国を救う基礎を据えようと思うのです。わたしのこの小さい事業が効力を発揮するまで、この国の危機が何度か訪れるかもしれません。しかし、わたしは永久の巌のうえに築ずこうと思うので、時の変遷を恐れません。わたしは、わが国を永久に変わらない巌である神にお任せするのです。世の中の政治家のようではなく、預言者のように、または使徒のように、大詩人のように、大哲学者のように、永遠の真理によって永遠にわが国を救う方法を考えようと思うのです。

事業と慰藉

この世のいかなる高尚な事業であっても、事業によって慰藉されることはないでしょう。使徒パウロであっても、かれの伝道事業によって慰藉されることはなかったし、慰藉を求めることもなかったのです。慰藉は神の愛のなかにあり、キリストの贖罪にあり、キリストの復活にあり、来るであろうキリストのいう天国の栄光の中にあるのです。この慰藉があれば、従事しておる事業や仕事が仮に卑賎なものであろうとも、歓喜し、満足して生活することが出来るのです。

キリスト信者の多少

キリスト信者の数は非常に少ないのです。どこにでもいるというような性質のものではないのです。日本に三万人のキリスト信者がいると言います。信じてはいけません。三万人のキリスト信者がいるのではありません、三万人の教会の洗礼を受けた人がいるにすぎないのです。真のキリストの信者とは、キリストによって新しく聖霊を授けられた人のことです。このような人の数が少ないのは、ダイヤモンドが少ないのと同じです。むやみに、信者を増やそうと考えて後で失望しないように、くれぐれも注意が必要です。

 現世的キリスト教

現世的キリスト教とは、来世の希望を持たず、いや持つとしてもほんの僅かしか持たない。ただ交際の喜びを求めるだけに教会に出席する、このようなキリスト教を言います。彼らは、良い友人が見つかればそれでこの世は天国だとするのです。体面が守られ、紳士淑女として尊敬されれば満足なのです。彼らが求めるのは、音楽であり、いわゆる表面的な「幸福な家庭」であり、表面的な知識を得る教育です。わたしは、今の教会的キリスト教は、いま言ったようなものと思うのです。今の教会に、キリストのように血を流してまで守りぬいた信仰があるでしょうか。身を捨ててまで達せようとする目的物があるでしょうか。このようなキリスト教と教会にたいして、聖書で天使は次のように叫びます。「さあ皆さん、彼らから離れなさい、その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにしなさい。」(黙示録十八章4節)