今週の短歌

 わたしの歌歴(後藤人徳)
 昭和59年「賀茂短歌会」入会。現在編集発行人。
 平成6年「作風社」入会現在に至る。
 歌集:「母胎」、「祈り」


以下に紹介します作品は、作ったばかりのものをそのまま書いています。推敲の手があまり入っていません。未完成の部分が多々あると思いますが、参考にしてもらえれば幸いです。...作者より


汚れたる体を水に洗ひをり泥はこころのなかに入らぬ



4月28日(日) 4月30日(火) 5月3日(金) 5月5日(日) 5月8日(水) 5月11日(土)短歌鑑賞 正岡子規 5月14日(火) 5月17日(金) 5月18日(土) 5月20日(月) 5月27日(日) 6月2日(日) 6月8日(土) 6月14日(金)啄木のこと 6月22日(土) 6月30日(日) 7月7日(日) 7月11日(木)短歌鑑賞 源 実朝 7月14日(日) 7月20日(土)万葉集 7月27日(土)啄木のこと(二) 8月3日(土) 8月10日(土)山舛忠恕先生 8月16日(金)啄木のこと(三) 8月17日(土) 8月25日(日) 啄木のこと(四) 8月31日(土)啄木のこと(五) 9月1日(日) 9月7日(土) 9月8日(日)啄木のこと(六) 9月14日(土)啄木のこと(七)  9月22日(日) 9月28日(土)
短歌鑑賞 富小路偵子
 10月7日(月)啄木のこと(八) 10月13日(日) 10月19日(土) 10月26日(日) 11月3日(日) 11月11日(月) 11月17日(日)啄木のこと(九) 11月24日(日) 11月30日(土)第22回静岡県短歌大会(一般) 12月7日(日)第22回静岡短歌大会(学生) 12月15日(日) 12月28日(土)啄木のこと(十) 12月31日(火)


4月28日(日)

寿(ことぶき)橋



4月30日(火)

原 昇先生の言葉

  いのちの歌(第二十二巻第五号より抜粋)

 九月の定例歌会の折は私が西行の人生と歌について研究の一部の講話をおこなった。

眺むとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ

きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく

風になびく富士のけぶりの空に消え行方も知らぬわが思ひかな

心なき身にもあわれは知られけり鴫たつ沢の秋のゆうぐれ

 

 この四首について、現代流行の短歌と比較研究してみても直感するように、西行の歌は四首とも、自然を対象としているが、自然そのものの情景をあれこれと言っているのではなく、自然に託して自分の思いを言っている。第三首目の歌は西行が文治二年(一一八六)六十九歳の老体を引っさげ、東大寺再興のため、平泉の藤原秀衡に砂金の寄進を求めるため奥州の旅に出かけ、駿河での富士山を仰いだおりの詠出である。富士を仰いで、西行の把えたものは、白雪でも、白雲でも、天に懸かった雄姿でも…何ものでもなかった。そうした外面的な景観でなく、火口から噴き上り、風のまにまにたなびいて、はろばろと空に消えてゆく煙によって即発された無常の事実であり、胸の内に燃える流転の思いであった。内部から噴き出る生命の炎であり、大自然からの呼び声が、外部の景観を媒体として、西行という個の生命に受け止められ、そこが三十一文字に凝結したのである。単なる叙事歌、叙景歌、抒情歌ではなく、深いふかい生命の歌である。

 私たちも作歌の究極点をそこにおいて努めているが前途に横たわるのは人生を生きる姿勢の問題で、そこから開拓して行かねばならない。歌を作るはからいを捨てて、歌の成る境地に入らねばならぬが、その過程で、時には、生命の歌に近いものがうまれることがある。自分で自分の歌の中にも、それがあるか無いかをふりかえり、検分することは大事なことである。(中略)

 前途は遼遠だ。しかし、近道していては、ほんものは生れない。血まみれになって、正道を歩もう。

5月3日(金)

かなぶん


5月5日(日)

男(を)の子のために


5月8日(水)

渇き


時計


お吉

5月11日(土)

短歌鑑賞                     後藤人徳

瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上にとどかざりけり

                  正岡子規

縁語、掛詞なども、もともとは無意識的に作者の知らないところで、言わば神の恩寵のような形で一首に取込まれたようなことがなかったのでしょうか。名歌のなかの縁語や掛詞というのは、本人が意識しないで自然とそういった言葉に思い到ったのではなかったのでしょうか。そんなことをふと思ったりします。

正岡子規にかぎって縁語や掛詞などを駆使する歌を作るようなことはあり得ないという前提で考えを進めます。

子規のこの歌を読みますと、病床の無念の気持ちをひしひしと感じます。特に「みじかければ」にその気持ちがこもっており、ひとしおあわれを感じます。

 さてこの歌を読んでいるうちに、ふと掛詞のことを思いました。まず、冒頭の「瓶」です。わたしには、鶴は千年亀は万年の「亀」が思えてならないのです。次に「藤」です。これも「不死」に思えてならないのです。「畳の上にとどかざりけり 」は「ただ身の上にとどかざりけり」と思えるのです。「亀は万年という縁起のよい名前をもつ瓶に挿されている死ぬことがないと言う名の藤、その藤の花房なのだが、短いので直接私の身の上には届かないことなのだなあ」と嘆いているとも思えるのです。
 しかし、このように解釈するとこの歌の生命は死んでしまうかも知れません。単なる観念の歌となってしまう危険性があります。生き生きとした子規の感情を伝えるのには、このような解釈はよくないのでしょう。しかし、隠し味としてそんな空想をしても許されるのではないかなと思うのです。
 

5月14日(火)

出発

5月17日(金)

再びお吉

5月18日(土)

再び、再びお吉


5月20日(月)

妻の入院

5月26日(日)

黒船

6月2日(日)

エレベーター

6月8日(土)

伊豆

6月14日(金)
啄木のこと(一)

6月22日(土)
どくだみ

6月30日(日)

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7月7日(日)
ある媼


7月11日(木)

短歌鑑賞                     後藤人徳

 

箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

                  源 実朝

 

 名歌としてなんとなく聞き覚えていた歌が、ある時その一字一句に血が通ったように、生き生きとすることがあります。

 箱根の(険しい山)道を自分(自身で苦労して)越えて来た。すると海が広々と開けていた。供のものに聞くと伊豆の海という。伊豆(お父さんが京都から島流しにあった地、伊豆。蛭が小島。伊豆という言葉に色々なことが思い出される。色々思い出に浸っていると)沖の方に小さな島があった。(ああ、あんな)小さな島にも(荒々しく)波が(打ち)寄せているのが見える。

 苦労して険しい箱根山を越え、ほっとしてひろびろとした海、それも自分にゆかりのある伊豆の海を見る。しかし、思い出に浸るまもなく、沖にある小さな島に思いは注がれてしまう。そして、その小島に激しく打ち寄せる波を見ている、そんな繊細な実朝がわたしには思われました。はたして皆さんにはどのように感じられたでしょうか。

 沖の小島は初島ではないかと言われています。わたしは熱海に住んでいましたので、よく初島を眺めたことを思い出します。しかし、なかなか波までは見えなかったように思います。ですから、波が荒かったのかと思ったのです。あるいは、見ようとする心がなかったからかも知れませんが…。そんなことを思いました。


7月14日(日)

奴隷制度

わたしは推敲をしないと、確か短歌人の高瀬一誌さんだったと思うんですが、書いてあるのを読んだことがある。どういう意味で言ったのかは忘れてしまった。しかし、確かに一つの名歌を作るために無駄にされるだろう時間とか、推敲に費やされるもろもろの努力などがある。どの時間、どの一瞬も平等であるなら、それらの時間は、名歌を作るために費やされた時間は、言ってみれば奴隷のようなものかも知れないな…などとふと思って、なにかもやもやした気持ちになった。また、自分を奴隷と意識しない奴隷は奴隷だろうか、などとそんなことをしばらく考えてしまった。


7月20日(土) 万葉集
「あまり古い時代の短歌は、生活状況も現代とはだいぶ変っているのであまり参考にならない。せいぜい明治時代以降のものを読むようにすると良いでしょう。」ある著名な歌人がなにかに書いてあるのを読んだことがある。確か初心者向けの話だったと記憶している。もっともなことだと思った。千年以上前の人とわれわれは、いろいろな面で違っているにちがいないから。しかし、ちっとさみしくなった。万葉集は化石のようなものなのだろうか。いやそんなことはない…、これは皆の認めるところでしょう。
時代に関わりなく、言葉がよみがえって、読者の肉体をつかって同じ感激、感情を起こさせる。そうでなければ、わたしは短歌を今日にでも止めたい。百年くらいの期間しか通用しないような短歌なら、短歌をやる意味がない…。などと考えたりします。
「別れ」離別、死別…。わたしは単身赴任の経験があります。そのおり長男の死にも直面しました。ですから、「別れ」という言葉を読みますと少なくとも、平均的な人よりは敏感というか、思いが深いというか、そんな感じをもっています。

柿本朝臣人麻呂、石見国より妻に別れて上り来りし時の歌…

ささの葉は、(もちろんのこと、いつも微動だにしないような)お山(でさえ)も(強風に)ざわざわ騒いでいる。(都に無事行くことが出来るだろうか。自分達の身の上に不吉なことが起きないだろうか。などとあれこれ自分のことを思うのではなく)わたしは、(一心に)妻のことを(恋しく)思っている。(都に行くとやむなく妻と)離別してきたのだから。(もう二度と彼女に会うことがないだろうから。)

7月27日(土)

木下(こした)

啄木のこと    (二)   後藤人徳

 私は、啄木の歌集を持っていません。四十過ぎより短歌を始め、いまさら啄木でもないだろうというような理由でした。

… 中略…初めて啄木の詩歌集を借りて…(略)

 我々は学校で色色なことを覚えさせられました。教えというのは理解させることと思うのですが、とにかく分からないことを分からないまま覚えさせられたように感じます。

 これは昔からの教育の仕方なのでしょうか。分からないことをまずは覚える。そして自然に理解するようになるのを待つ。

(略)…「あこがれ」など、詩のほうはさっぱり分かりませんでしたが、…(略)…短歌の方も一部分かりにくいものがありますが、大方理解できたように思います。ただ間違って覚えていたものが何首かありました。

 

たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

 

わたしはこの歌をずっと、 「三歩歩めず」と覚えていました。
母というものは子供にとっては、常に大きい存在(重い存在といったほうがよいかもしれませんが…)です、またそうあってほしい存在です。その母を背負えるほど大きくなった、大人になったということを見せたかったのかも知れません。もうお母さんを背負うことができるよと気負っていたのかも知れません。子供の頭の中では母の存在は知ず知らずのうちにに現実以上に大きくなるようです。それで、甘えすぎるようにもなるのかも知れません。

 頭の中で作り上げていた母親像と現実との格差が余りにも大きかったのでしょう。「泣きて」は非常に複雑な心理のように思えます。親不孝を詫びる涙もあったのではないでしょうか。こんな軽い母にいままで自分はなんと大きな、重い荷を負わせてきたのだろうかというような悔いる気持ちがあったと思います。

 「歩めず」あまりにも哀しくてとても三歩も歩くことが出来なかった。というように私は理解していたのですが、実際は「歩まず」でした。

 「歩めず」とすると感傷に浸っている、まだ甘い、精神的に幼い啄木像となるでしょう。「歩まず」は違います。自分の意志で歩まないのです。もはや単なる感傷家の啄木ではなく、一人の人間としてありのままの母親を見つめる、真の意味で大人となった啄木、一人の精神的にも独立した人間啄木が誕生したと思えるのです。ですからこの歌は啄木にとっても重要な、一人の人間として目ざめた画期的な歌とわたしには思えます。


8月3日(土)

地獄がなんだ


8月10日(土)

山舛忠恕先生のことが最近懐かしく思い出される。大学二年の時、三年からのゼミナールを選ぶための説明会があった。会計学で著名な先生のゼミと評判がよかった山舛ゼミの説明会を聞くため教室に入った。まだほとんど学生がきていなかったと思う。なにしろ四十年前の話である。教室に入ると一人の学生が、椅子や机の乱れを直していた。別のゼミの説明会が終ったばかりであったのかもしれない。学生はあるいは大学院生のようでもあった、またはいま思う助手(その当時は、そういう教授の卵のような人たちのことを助手と呼ぶことも知らなかった)のようにも思えた。きれいに机を並べ直し、その学生は出て行った。
さて教室が学生で満員になったころ、山舛先生は現れた。わたしはきょとんとして先生を眺めた。あの学生だとばかり思っていた…その人こそ山舛忠恕先生その人であった。教授というようないっさいの、なんというか、飾りのようなものはなにもなかった。ほんとうに学生、文字通り学に生きているだけの人という印象であった。先生は「あすなろう」が好きだと言ったことがあった。

あすなろ


8月16日(金)

啄木のこと    (三)   後藤人徳

 

ふるさとの訛なつかし

 

停車場の人ごみの中に

 

そを聴きにゆく

 

 もう二十年ほど前になりますか、短歌を初めて作り、五首原昇先生に送りました。いま思うとなんとなく啄木のように、いわゆる別ち書きをして送りました。そこで初めて短歌は一行に書くこと、文字を離さず書くことを教えられたのでした。

 啄木の歌集を読んでいて、そんなことを思い出しました。啄木の歌集の特色はまずこの三行の別ち書きでしょう。

 あらためて、一行目の「ふるさとの訛なつかし」を読むと、これだけでいろいろの思いが浮んできます。「ふるさと」それも「訛」がなつかしい。なにか机に頬杖をしていろいろ思いを巡らしている啄木の姿が浮んできます。そして、やおら腰をあげて、以前聞いてなつかしかった思い出のある駅の、しかも雑踏の中にわざわざ出掛けて行くのです。訛を聴くために。

 別ち書きをすると、()が生じ、一行一行に独自の意味合いが自ずと生じるように思われます。逆に一行書きにすると全体がひとつの塊となり、ことばの意味も当然のことに互いに緊密になるように思えます。ですから、一行の方が感情が直接表れるようにも思えます。

 「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と一行書きで読んだ時、まず駅の雑踏を思い浮かべました。まさに駅の雑踏のなかで、「ふるさとの訛なつかし」の思いが浮んだように思われました。実際は机に向っていたとしましても。

 原 昇先生もよく内部衝迫を歌にしなさいと教えられました。この内部衝迫を表すのには一行書きが適しているように思うのです。「歌」の語源が「訴ふ」にあるとすれば、なおさらのこと、一行書きのほうが別ち書きよりも叶っているように思えます。

 別ち書きをすると一行一行のあいだに、いわゆる詩的ふくらみが増すように思います。ですから、より詩的であり、文学的あるいは芸術的になるのかもしれません。しかしながら、一行書きにみられる直線的な力強さ、ストレートに感情表現が出来る利点が失われようにも思います。そして、これこそが日本古来から連綿と続いているこの短詩型を他のものと区別するものかも知れません。

 短歌には文学以前の要素がかなり色濃く反映しており、またそれが第二芸術などと呼ばれた所以かもしれないと思います。

 啄木は、短歌を文学に、より詩的にしたかったのかもしれません。しかし、短歌の不思議な魔力のようなものには勝てなかったのか、別ち書きを継承しているグループなり結社なりを今のところわたしは知りません。

 啄木の歌集を読みながら、別ち書きと一行書きをいまさらのように考えさせられました。


8月17日(土)

一片の雲

8月25日(日)

この道

 

啄木のこと(四)

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり

ぢっと手を見る

 

さて、啄木の歌集を渡辺さんからお借りして、読んでいるのですが、啄木の三行の別ち書きのことが大変気になりました。それと同時に短歌を始めたとき教えられた一行書きについても同様で、なぜ一行書きなのだろうかとの疑問が非常に湧きました。

 短歌革新は明治に始まり、戦後にあっても前衛短歌が一時期風靡しました。しかし、考えて見るといままでこんな肝心なこと、別けて書くのか一行にかくのか、なぜそうなのか、啄木の別ち書きを一般の結社なり、歌人はどうみているのか、などについて明確な見解を残念ながら知りませんし、入門書にもあるいは雑誌等でも読んだことがありません。

 あるいは短歌以前の問題かもしれない、別ち書きや一行書きの問題を考えることは、案外短歌の核心に迫ることであり、短歌の本質に迫ることであり、実はいま一番必要なことのように感じる次第です。

 そうした問題をはっきりさせるためには、唯一(と私は思うのですが)別ち書きをしている歌人啄木を避けては通れないように思います。

 いま少し啄木と関わってみたいとそんな風に思う今日このごろです。

 掲題の歌を、NHKのアナウンサーが朗読するのを聞いた。いいなあとうっとりと聞きほれた。ただ、いま考えると「はたらけど、はたらけどなおわがくらしらくにならざり」「じっとてをみる」と読んでいたように思う。これは何度も読んだので間違いないところです。じつは初句の「はたらけど」で間を置くことに、あるいは啄木の思いがあるかもしれないのです。

 NHKといえば、投稿歌を五行書きにしています。またはがきなどで書く場合そのように指示してあったように記憶しています。これなども、それでいいのであればそのように、いけないのであればいけないとはっきり権威ある歌人なりが言うべきと思います。NHK歌壇をささえているのは、そうそうたるメンバーですので…。

 わたしは、NHKを非難しているのではありません。NHKにはごく親しい友人が勤めていますし、わたくし自体じつはかの有名な紅白歌合戦を行うNHKホールの雛壇に列する栄誉を得た身であるのです(昭和61年度全国短歌大会、佐々木幸綱選にて)。ですから、一行書き、多行書きの問題をはっきりしてもらいたいと思うのです。

 一行書き、多行書きについては、そのうち自分自身の考えを述べたいと思っております。

8月31日(土)

啄木のこと(五)

再び

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり

ぢっと手を見る

NHKのアナウンサーが「はたらけど、はたらけど」と続けて朗読したことは前回話しました。啄木の意図とは別に、そのように読むこと自体わたしはむしろ賛成したいと思います。畳みかけることによって、生活苦が一層強調されると思います。そして、間をおいて「ぢっと手を見る」となるわけです。その手を見る行為が、生活苦と直接的に関係するのか、あるいは人間のある理由の無いように見える行動として「手を見る」のかは作者に聞かなければ、真実ははっきりしません。解釈はかなり読者にゆだねられるように思います。そして、何故そこで行を変えたのかにもかかわってくるように思えます。

 しかし、「はたらけど、はたらけど…」とつづけて読むのであれば、二行書きでよいではないか、なにも三行書きにする必要はないだろう、という批判がおこるでしょう。

 ここで、いっそのこと一行書きにしたらという意見もあるかもしれません。「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」ただ、一行にするとやはり歌のニュアンスがまた若干異なるでしょう。「ぢっと手を見る」にしても、前述のような生活苦との関係というより、手そのものに視点が移るような感じがします。「荒れ果てた手」、「あかぎれの手」、そういった、いたいたしい手への直接的な思いを感じます。間をおかず、一気に詠みきった作者のせっぱ詰まったような、一直線の思いが強調されるのではないでしょうか。一行書きにすることによって、芸術だとか、文学だとかいうことではなく、泥まみれに働いても、働いても、手から血を出して働いても、例えば一向に借金が返せない、そういった実際の作者自身の絶望感が伝わるように思うのです。ただそれを啄木は避けた。なぜか避けているのです。東北出身の、明治生まれの啄木がかたくなに、茂吉がしたように直接的な思いを表現することを避けた。ここにわたしの啄木にたいする謎を感じるとともに魅力も感じるわけです。

 最後に、三行書きの場合の、「はたらけど」についてちょっとふれましょう。啄木は初句の「はたらけど」で切っています。「はたらけど」は独立の一行です。「働いたけれども」とまずは、言っているのです。遊んでいたわけではない、実際に働いたけれどもと言ったことでしょうか。誰かにぶらぶらしていないで、働きなさいと忠告されたのかもしれません。そして、二行目の「はたらけど…」になります。

この「はたらけど」の繰り返しは、三行書きの場合は、強調というよりは、一行目の働きかたが不十分と思い、あるいは誰かからそう言われ、いっそう熱心に働いたけれども一向に生活は楽にならない、というようなふうに思われます。

9月1日(日)

愛子内親王さま


9月7日(土)

わかりやすい歌(白浜短歌会より)後藤人徳

 

 まず、なんといっても、読者に歌の意味することを理解してもらわなければなりません。

 そこで、単純化すること、具体的に目に浮ぶように歌うことが必要となるでしょう。それから、歌はひとつのセンテンスです、「なにがどうだ」と言った、完結したセンテンスです。百人一首でも、なんでもよいのですが、名歌と言われているものを思い出してください。短歌も踊りやお花やお茶などのように型があると思います。ですから昔のよい歌(もちろん現代のものでもよいのですが)を繰り返し口ずさみ覚えることもよいと思います。

 単純化で言いますと、あれこれ言わないで、一つのことにしぼることがよいと思います。

 具体的に歌うためにはよくものを見ることが必要となるでしょう。写生、写生といわれるのはそのためだと思います。

 今回の藤井さんの歌など「わかりやすい歌」の例としてあげたいと思います。

                  藤井テゴ

 

1.雨毎に色濃くなりしあじさいの大まり小まり風と遊びて

 

2.夕ざればおしろい花に生気満ち相呼ぶごとく花をひらきぬ

 

 1.「風とあそびて」より「風と遊べり」と終止形がよいと思います。梅雨に入りだんだんと色が濃くなってゆく紫陽花、そのまりのようなかたちをした大きな花や小さな花が風に吹かれてまるで遊んでいるよだ…。情景が目に浮びます。

  2.「夕ざれば」は、にごらず「夕されば」でしょう。意味は、「夕方になると」という意味です。「夕方になるとおしろい花に生気が満ちてきて、互いに相手を呼びあっているように花を開いた。」おしろい花がきいている感じがしました。なにかいろいろと連想させます。たとえば若者のこととか。

 かく言うわたし自身二十年近く作歌をして、まだまだ日夜悩んでおります。しかし、すばらしい歌に出会った感激は、他のものでは代えることが出来ません。一日一日あせらず、すこしずつ先に進めたらと思っています。

9月8日(日)

大企業

 

啄木のこと(六)

再び

頬につたふ

なみだのごはず

一握の砂を示しし人をわすれず

会員から啄木の歌集を借りて読んでいます。読み進み行くうちに色々な疑問が湧いてきて、何故なのだろうかと考えているところです。そのひとつは(これが最大の問題だとは思いますが)、別ち書きと一行書きの問題です。

ここに私が書き進めている文章は、遡って修正とかしておりません。これは短歌についても言えます。その場その場で思いついた考えなどを知りうる知識を動員して書いております。その場で文献や書籍を丹念に調べるなどといったことはほとんどしておりません。書いた後から調べることはあります。たとえば、「啄木を別ち書きの唯一の歌人(私はそう思うのだが)…」などと書いております。しかし、これは明らかに間違いでした。啄木に別ち書きの影響を与えたのは、土岐哀果(善麿)でした。与謝野鉄幹も分かち(このほうが正しいのでしょうか)書きをしていたようですから、あるいは鉄幹も影響を与えたかもしれません。

どういう流れからでしょうか、啄木とはおよそ接点のないと思われる釈迢空が分かち書きをしています。おまけに、後年の啄木と同様に句読点を付けております。

釈迢空の流れは、岡野弘彦氏にしっかりと受け継がれております。分かち書きの研究はこの方面を研究するほうが近道かも知れません。

この問題は、ひとまず今日のところはおいておきます。

明治時代のカルチャーショックというのでしょうか。そんなことも時々考えることがあります。江戸より明治のあの変革です。機械文明を中心にした西洋文明を受け入れ自分のものとしていった明治の人々に対し畏敬の念を禁じ得ません。

ところで、啄木です。一握の砂です。この砂です。ここになにか秘密というか、啄木を解く一つのカギのあることは間違いなさそうです。一握の土ではないのです。「頬につたふ なみだのごはず一握の土を示しし人を忘れず」としても、これはこれでまたなかなか深刻な歌になると思います。

啄木は砂について、次のようにも歌っています。「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」

砂と土の違いは色々あろうかと思うのですが、わたしは啄木ではないですが、砂には命がなく土には命があるのではないかと思うのです。

いのちなきもの、機械なども当然そのなかに入るでしょう。啄木はいのちのないものをかなしんでいます、つまり、それらにこころを寄せているとも言えるのではないでしょうか。個人主義などというのも砂のようなものかもしれない、などとふいに思ったりします。

わたしの、この行き当たりばったりというか、文献などで学者などの説を調べず話す癖は、実は遠く学生時代に遡ります。このわたしと正反対の人と思ったのですが(今もそのようにおもっていますが)、会計学のゼミの先生である山桝忠恕先生です。

卒論の中間発表のときでした、あの温厚な先生をして、「後藤君、君の言っていることはさっぱり分からない。」と言わしめました。私は友人が学者の諸説を丹念に調べて発表するのに非常に疑問をもったのでした。私の卒論のテーマは「低下主義」です。これは資産の評価の問題です。最近時価で評価をすることが盛んに議論されました。会計学もいまあまり私は勉強していませんが、まだ原価主義が主流なのでしょうか。われわれのころは原価主義オンリーの状況でした。ただ、時価が下がった場合は低下主義が認められたのでした。つまり、原価より時価が下がった場合は時価で、例えば株券などを評価することが認められたのです。
 さて、だいぶ横道に入りこんでいます。私は卒論の中間発表のとき、尊敬するところのゼミの教授である山桝先生を怒らせてしまいました。めったに怒ったりすることのなかった先生ですので、私はすっかり自信を失ったようなしだいです。

「人間の本能は、自己保存本能と種族保存本能です。しかるに…。」これが私の会計学の卒論の中間発表の出だしでした。

会計学の理論を人間の根源的な本能から解きほごそうとしたのでした。
 後年、会社を転々とし、ある会社の経理部長(長く住友財閥の会社に席を置いておりました人で、大変勉強熱心な方でした。もう何年も前に故人となられました。当時はあまり意識しておりませんでしたが、よく考えますと、彦根高商ご出身で山桝先生と同じでした。不思議な縁でしたが、私は最近まで山桝先生が彦根高商にも通われたことに気が付かなかったのです。てっきりいまの神戸大学出身とばかり思っていました。年齢的に山桝先生と同年代ですので、あるいは山桝先生を知っておられたかもしれません。今思うと非常に残念で仕方ありません。)より見せていただいたドイツのかの有名な会計学者であるシュマーレンバッハの「動的貸借対照表論」(この本などは現代の病める銀行家にバイブルとして読んで頂きたい。貸借対照表をあまりにも静的に捉え過ぎていました。企業は利益を増殖するシステムが重要であって、土地にしろなににしろ、いま売ったらどれだけの価値があるかなどは、二の次三の次のはずです。しかし、現実はまるで不動産屋のようではなかったでしょうか。銀行家も一般の企業家も、特に零細企業になればなるほど、担保財産を増やそうとやっきになっているのではないでしょうか。銀行がそうでなければ金を貸してくれないものですから…。)を読んで感激した覚えがあります。その第一章、第一節 「経済の本質」の出だしは、「凡そ地上の生物Organismenは夫自身並びにその種族の維持の為に諸々の力Krafteと材物Stoffeとを必要とする。…」というようなものでした。この書物は、わたしがさも自分の大発見のように、自分独自の意見のように得々として(自分はそんな気持ちはなかったのですが…)話したときより30年から40年前にドイツで発表されているのです。私は学生時代この著名な会計学者であるシュマーレンバッハの名前すら知らないで過ごしてしまったのでした。(その書物を見るまで知らなかったのです。会計学を学んでいながらです。非常に恥ずかしく感じます。)

話はまた変わりますが、日本におけるキリスト教について考えたことがありました。五十歳を過ぎてからですが、初めて聖書を自分の金で買い求め、読んだのです。明治時代にあれほど西洋文明を学んでいながら、なぜキリスト教についても仏教や儒教などのように学ばなかったのだろうか…。何か現代のわれわれも真剣に考えなければならない問題があるように思ったのです。このようなことについても、3、4年前ひょんなことから太宰治の本を読むようになり(その前に、聖書を読む以前には思ってもみなかった内村鑑三のことを知ったのですが、それが不思議に太宰治に結びつくのです。このことは、別の機会に書くことにします。)、(太宰治の本も若いときいっさい読んでおりませんでしたが、最近急に読みたくなりまして、初めて彼のほぼすべての小説を読んでみました…。)たしか「パンドラの函」のなかに出ていました。そして、その本は、昭和20年頃書かれたものでした。(太宰治三十代のときです。)すこし長くなりますが引用しましょう。「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真剣に追求して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩うな、空の鳥を見よ、播かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのはすばらしい自由思想じゃないか。わたしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いはそれを卑近にし、あるいはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物理界に於いても、化学界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事のできない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。わたしは別に、クリスチャンではないが、しかし、日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」まさに、このとうりと思います。

私はあまり本を読むのが得意ではないので、本などで読んだのではなく、自分が思ったことを言っているのですが、ほとんど、とっくに誰かが言っていることが多いのです。そういうことを言いたいばかりにながながと横道にそれてしまいました。

ですから、啄木のこと、分かち書きや一行書きのことなどについての説というか意見はすでに色々誰かが書いてあるのかもしれません。

山桝先生は文献や資料を徹底的に調べるように、そこから自分の考えなりが自然にまとまてくると言うように教えられたようです。(このようなことも後年、先生が亡くなられて知ったのでした。)わたしはその貴重な教えに未だに従わず、自業自得の生活を送っているわけですが、まことに山桝先生には申し訳なく思っています。そして、今、それも、会計学ではなくて、全然知識も無い短歌などについて、あるいは啄木について考えようとしているのです。

意識的か無意識的かは分かりませんが、啄木が「土」ではなくて「砂」に注目したことは大変重要なことのように思われます。このことが一行書きから三行書きへと啄木を導いたようにさえ私には思えます。

啄木は現在のわれわれのような考え方だったのではないだろうか、あるいはそれを理想としていたのではないだろうかとふと思ったりします。いわゆる個人主義的な考え方です。

それはすべて、啄木の「砂」からのわたしの連想です。

9月14日(土)

草取り

啄木のこと(七)

大神何某という人物が詐欺容疑で逮捕されたことを報道していました。こういう詐欺まがいのいわゆるマルチ商法があとをたちません。それと同時に常にわたしは、一種の恥ずかしさを覚えます。わたしのこころにも彼らに似た何かがあるからかもしれません。

ところで、啄木です。知人を騙し、だいぶ借金を重ねたことなど断片的な知識を持っています。借金のみならずその素行の悪さについてのこれまた至極断片的な知識を持っています。つまり啄木の作品ではなく、人間性について初めから拒否され、作品を読まない人々のおるのも承知しています。
 さて、ここで作品かまたはその作者自身の人物かという問題が発生します。わたしに短歌を教えて下さった、原昇先生は口癖のように「歌は人(その人の人となり)だ、人(その人の人となり)が歌だ。」と言っていました。

啄木の素行についても、その現象面だけにとらわれていると真の啄木を見失う恐れもあるかも知れません。しかし、断片的な知識しか持たない私はどうも人間的に啄木が好きになれず、そして作品もやはり最初から拒否した面もあったかもしれません。

よく俳優の素顔に接してスクリーン上とまったく変わらず好感を持ちましたなどと言います。または、素顔の彼は別人のようでしたなどとも言います。

短歌の鑑賞に、作者を知り尽くしているような鑑賞があります。「この作品は、作者の生まれ故郷の××川で…」といった感じです。確かに的確な鑑賞が、微に入り細に入った鑑賞が出来るでしょう。しかし、あくまでその一首の独立性を尊重した場合、その三十一音のみの鑑賞、もっと言えば作者が誰であるなど考慮にいれない鑑賞があってもいいし、あるのだろうと思います。

最近の私の短歌鑑賞はまさに後者の態度をとるようになりました。ですから、啄木の短歌も、一首一首そういった態度で読んでいます。たとえば、「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」なども、初句で切ると「遊んでいてはいけないと忠告され、働いたけれども さらに前にもまして働ているけれども一向に借金が減らない ただわけもなくじっと手を見ている」といった解釈も成り立つのではないかとさえ思うのです。

 啄木の頭のなかでは、一行書きと分かち書きは、単なる形式的な問題ではなく、もっと内面的といいますか、思想的といいますか、はっきり区別されていたのではないでしょうか。「土」と「砂」が違うように、啄木は「土」ではなく「砂」を選んだのではないでしょうか。「土」は過去から継承されているもの、因習的なもの、日本の特有な土俗的なものの象徴として、それが一行書きにつながったのではないでしょうか。万葉集あたりまではまだ一行書きの世界と思われますが、その後とくに貴族化した和歌の世界は必ずしも私がいま問題にしている一行書きの世界とは区別したいと思っていますが。

 啄木は、「土」=「一行書き」=「原始的なるあるいは封建的なる日本」、「砂」=「三行書き」=「近代的なるあるいは自由主義的なる西欧」という意識をもっていたのではないでしょうか。

 「一行書き」と「分かち書き」の問題は単なる形式上のことではなくて、短歌を考えるうえで根本的な問題を孕んでいるように思えてなりません。現在「一行書き」の人のなかに「分かち書き」の考えの人が多くいるように思います。現に「一行書き」の人で一文字空かす人はかなりいます。読む場合の区切りかたに異常に神経質な人もいます。それならいっそのこと分けて書いたらと言いたくなるくらいです。この考えの違いは、今後の短歌の行く道を二つにわける重要な問題のように思います。

9月22日(日)

9.11

9月28日(土)

啄木

短歌鑑賞                    後藤人徳

 

自動エレベーターのボタン押す手がふと迷ふ真実ゆきたき階などあらず                   

                 富小路禎子

 

 手動エレベーターがあるのか知りませんが、作者は自動エレベーターと「自動に」こだわりを持っているのかもしれません。普通、エレベーターは自動と思うのですが。しかし、自動的に昇るのにこだわりを持っているのかも知れません。

デパートでしょうか、ホテルでしょうか、あるいはマンションでしょうか。高層ビルのようです。心から行きたいと思わなくとも、エレベーターは階の番号を押しさえすれば自動的に運んでくれる。こんな便利なものはないわけです。しかし、作者にはほんとに行きたい階などないのです。それでどの階のボタンを押そうか迷っているのです。ほんとうに行きたい階があったらどんなによいのだろ、難なく自動的に運んでくれるのに、という思いもあるのでしょう。真実という観念語を使い、単なるエレベーターだけのことでもないような含みを感じます。なにか、目的とするものがない、心から求めるものがない、というような哀しみも感じられます。

10月7日(月)

松ぽっくり

 

啄木のこと(八)

ひと晩に咲かせてみむと、

梅の鉢を火に焙りしが、

咲かざりしかな。

なんとも、馬鹿馬鹿しい話です。馬鹿馬鹿しい歌です。そんな馬鹿なと言いたくなる話です。そんな馬鹿なと言いたくなる歌です。なんともやりきれない思いのする歌です。しかし、偽らざる人間の歌であると思います。正直な気持ちを歌った歌だと思います。人間は、かくのごとく愚かな生き物なのかもしれません。咲くわけはないと思っていても、梅の鉢を火に焙ってみなければ治まらない衝動があるのです。そして、やっぱり咲かなかったなあと納得するのです。

平均年齢七十何歳かの、それもあまり短歌を作ったことの無い人たち七人くらいと最近勉強会をしています。それで思うのですが、けっこう難しい言葉を使ったりして、閉口することがあります。もっと素直な気持ちで歌えばいいのにとよく思います。

啄木の歌は、ほんとうに平易な言葉で歌っています。それでいて、なかなか味わいの深い歌が多いのに感心します。私たちはもっともっと啄木に学ばなければならないように思うのです。

やれ自然主義だ、写生だ、生活の歌だといろいろ唱えた人たちがいましたが、啄木の歌にそのすべてがあるように思われます。買いかぶりでしょうか。

目的のためには手段を選ばないような、あるいは短絡的なものの考え方は、犯罪者だけのものではなく、われわれ人間共通の欠点のようにも思えるのです。

一晩で梅を咲かせてみようと鉢を火に焙ったが、結局咲かなかったと嘆いている人間を馬鹿だなあと思う、とともになにかむしょうに哀れな感じに襲われます。それは、自分にも多かれ少なかれそういった性質が備わっているためだと思われます。それが、人間ではないのでしょうか。啄木は、偽らざる、神ではない人間を歌いたかったのかもしれません。そこに、わたしは共鳴するとともに感動を覚えるのです。

10月13日(日)

田中耕一氏

10月19日(土)

日本のすすき

10月26日(日)

茶の実

11月3日(日)

長き旅

11月11日(月)

烈風


11月17日(日)

啄木のこと    (九)   後藤人徳

 短歌(三十一音の形式)の始めは、古今集の仮名序にも書いてありますが、須佐之男命の詠んだ歌ということです。

 

八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を

 

これは、古事記のなかに出てくるわけです。古事記にしろ古今集にしろ、私自身それほど真剣に読んでいるわけではないので断片的な知識です。そんななかで、古事記でまた思い出されるのが、倭建命です。それとともに次のような歌も自然と思い出されるのです。

                   弟橘比売命

さねさし相模(さがむ)の小野に燃ゆる火の()中に立ちて問ひし君はも

 

または、次のような問答形式の片歌です。

 

                   倭建命

新冶(にひはる) 筑紫を過ぎて 幾夜か寝つる

                  老人

日日(かが)()べて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を

 

または、国思歌。

 

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣、 山(ごも)れる 倭し (うるは)し。

  

私は、須佐之男命は勿論のこと倭建命も国を追われた人間としてみているのです。そして啄木が共通項として出てくるのです。そして三人とも人間的というか、なかなかに欠点もあったのでした。

国を追われて流離(さすら)う、ここに歌の秘密が何かあるような気もしてきます。もっともこれは短歌だけのことではなく、こと芸術というか日本的に芸能というかそういったものに流離い人(びと)が寄与していることは歴史が教えている通りです。もっとも私自身断片的な知識しかありませんので、間違ったことを話すかもしれません。ただ、自分では、資料とか書物とかではなくそんなふうに感じたことを感じたままお話しているだけです。詳しく系統的に勉強をしたいとは思っております。

 

石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし

                         石川啄木「一握の砂」より

未年

11月24日(日)

去年(こぞ)今年

11月30日(土)

第二十二回静岡県短歌大会入選作品集(一般の部)  

 

大  賞

昨日けふ多分あしたも捜しものしてゐるだらうつくつくほうし

                前田鐡江(清水町)

 

静岡県歌人協会賞

杖をつき路地ゆくわれに歩をゆるめ静かに追い越しゆける青年

                千原利江(静岡市)

 

静岡新聞社賞

ちちははのくにをともせるほうたるをほうほうよべばやみやはらかし

                牧田恒子(岡部町)

 

SBS静岡放送賞

生きてまたラムネ飲むなり眩しげに一つビー玉の音を転がす

                浦田久治(静岡市)

 

 

秀作賞

 

流木を軍刀置きにと丹念に作りいし父に兄は還らず

                望月キヨ子(由比町)

 

ブルカ脱ぐ目は黒目がち笑うとも笑わざるとも歴史はきざむ

                鵜藤愛子(大東町)

 

シュレッター日射しの中に光りつつ思い出ひとつヒタヒタと食む

                中村恵美子(富士市)

 

藤棚の繁りの下の陶の椅子冷えしるくして夏は終りぬ

                柴田とみ子(大須賀町)

 

立ち寄れる娘と向き合へば六月の居間いきいきと青き風たつ

                伊与田幸子(浜松市)

 

夏解(げなつ)とや暮れて灯のつくあゆみばし白桃灯に導かれ行く

                綾部華苑

やわらかき生麩(なまふ)のような老い姑の乳房持ち上げ軟膏をぬる

                勝田洋子(浜松市)

 

夜業より戻りし夫の掌に囲ふホタル覗けば油の臭ふ

                大林美好(菊川町)

 

穴だらけの黒衣をまとひモデル等が二〇〇二年を足早に来る

                水口洋子(清水町)

 

少しづつ何かが消えてまた生まれこの街並みのやうに老いたし

                船橋剛二(御殿場)

 

わが手足もてあます日を窓ガラス磨いて雲を美しくする

                疋田勝次(新居町)

 

夏樹々のあはひに見えて遺跡めく第二東名の巨き橋脚

                前嶋京子(清水市)

初鰹競るこゑ念佛のごと流れこの港町朝明け早し

                宮崎康枝(焼津市)

 

近付けば居住まひ直す子蛙の小さき魂としばし真対ふ

                石神きぬ江(金谷町)

 

研屋という看板さがる軒下にのびあがりのびあがり朝顔

                信藤洋子(浜北市)

 

裂けし眼おほふ手のなきほとけなりしづかに秋の霧がまつはる

                榑松文子(菊川町)

 

土に生きし母の形見のブラウスを野良着にしようこの藍が好き

                稲森貞子(焼津市)

 

わが(くさめ)受けてたまゆらたぢろける宇宙の中の夕暮れの景

                友井七実子(清水市)

 

待ちに待ち待ちに待ちたる雨音に窓開けはなち雨の香をかぐ

                宮城礼子(菊川町)

 

夜業より戻りし夫の掌に囲ふホタル覗けば油の臭ふ

                大林美好(菊川町)

 

水晶体入れ替へをせし吾の眼に楽しみて朝々新聞を読む

                滝 朝江(清水市)

 

舞茸の採れるところを伝えずに秘密を抱き祖母はねむりぬ

                原 一男(熱海市)

 

猫の餌のフィリピン産と記しあり叔父の戦死も風化の思ひす

                駒井久子(焼津市)

 

 

竹刀もて撃ちあふひまにつと踏みし少女の足のあたたかきかな

                田村英敏(藤枝市)

 

おばあちゃんと日々幼らに連呼され老いは外から容赦なく来る

                岡野谷千里(藤枝市)

 

駅近きコーヒーショップの老マダム土地ころかしの話の迫力

                片山芳江(焼津市)

 

地下鉄も肺魚の如く息をするらむ地上に出でてどっと夏陽浴ぶ

                望月規枝(富士宮市)

 

藍ふかく棚の朝顔咲きそろふ浴衣の母が立ってゐそうな

                平川勝代(菊川町)

 

「おふくろもう頑張らなくていいじゃない」秋の夜子の声素直に聴けり

                塚本和子(清水市)

12月7日(日)

第二十二回静岡県短歌大会入選作品集(学生の部)  

 

大  賞

ぷかりぷかり息苦しくて空を見るたぶん私は溺れるサカナ

                藤田加奈子(湖西高)

 

静岡県歌人協会賞

もうとてもがんばりすぎてる父さんにがんばってねとどうして言える

                長谷川槙子(不二聖心高)

 

静岡新聞社賞

土ふまずに自分の過去を思い出す地面を踏めない不思議なアーチ

                浜辺玲嗣(西奈中)

 

SBS静岡放送賞

鉛筆で書こうとするとすぐ折れて私の心惑いが見えた

                栗田奈奈(湖西高)

 

 

秀作賞

 

けむくさい家のにおいが消えるまで祖父の姿がある気がしてた

                白松明子 (藤枝南高)

 

夏が来た私の生れた夏が来たまぶしいほどの青さをつれて

                藤ヶ谷恵莉(清水第二中)

 

訳もなく紅茶が飲みたい日曜の午後はペップバーンのごとくふるまう

                上野さとみ(静 大)

 

「買う方が安い」と言いつつイソイソと兄の下宿へ米運ぶ父

                大石順也 (吉田中)

 

少しだけ短くなった前がみにあなたは気付いてくれるでしょうか

                勝山 梓 (藁科中)

 

鉄を焼き(たた)きつづける父の腕私と比べるきず一つなし

                平野智世 (清水第二中)

背が伸びて見下ろす僕の眼の下でむなしく落ちる母のカミナリ

                岩本祐貴 (大洲中)

 

まっすぐに空に向って背のびするたちあおいは輝いている

                安本 洵 (玉川中)

 

海鳴りの音が私を追いかける今迫り来る決断の時

                杉本恵美 (沼津商高)

 

夕やけにじいちゃんの影おっかけてちっちゃいもみじおっきいもみじ

                筒井ともか(港 中)

 

夜空へと浮ぶ願いは百通り星は見るたび輝き変えて

                斉藤香子 (清水第四中)

 

お互いにケンカしただけ心中に見えない太い絆生れる

                杉山祐太郎(藁科中)

 

 

                  続く

六十の顔

12月15日(日)

飛行機雲

12月28日(土)

啄木のこと    (十)   後藤人徳

 

いのちなき砂のかなしさよ

さらさらと

握れば指のあひだより落つ

 

 啄木にとって砂は重要なことばであったように思います。それは彼が意識していたか、あるいは無意識であったかは問いません。第一歌集の題はご承知のように「一握の砂」です。

 砂、土でなく砂です。この砂と土が妙にわたしの中で対比されます。明治以降の西洋文明が砂、それ以前が土。自由主義、個人主義が砂、その対極の封建的なものが土と漠然とした考えが浮ぶのです。いのちなきものが砂、いのちあるものが土。三行書きの啄木の短歌が砂、一行書きの短歌が土。等々…。

 目まぐるしき変革の時代、明治時代。また目まぐるしく変革する都会。そこにわたしは砂のイメージを感じます。もちろん江戸時代以前、また故郷は土のイメージです。

 「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」、あれこれ考える必要の無い、平易なことばで意味がよく通る歌です。単純で本質をついているためにかえって色々なイマジネーションを駆り立てるようにも思えます。最初にわたしが色々書きましたように、本質的なものはすべてのものに通じる力があるのでしょう。

 いのちなき砂。いのちなきことば。いのちなき短歌。三行に別ち書きしたとき、砂のようなイメージが浮んだかもしれません。「悲しき玩具」はもっと徹底していて、単に三行に別けるだけでなく、句読点、ダッシュ、感嘆符などで切刻んでいるようです。あるいは料理している感じといったらいいのでしょうか。素材のいのちは完全になくなっているようです。啄木もそんな思いになったことはなかったのでしょうか。

 「頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず」。握れば指のあいだ

より落ちる砂、一握の砂は指から落ちてほとんど手に残っていなかったのではないのでしょうか。そんないのちのない砂のような短歌に命をかけ、ほとんど砂の残っていない握り拳を差し出した人、私の短歌はこれだと言うように、私の人生はこれだというように…。そんな絶望した人を私は忘れない。私にはそんなふうに啄木が言っているようにも思うのです。なにもつかむことが出来なかった人生、そんな自分を愛さずにいられなかった啄木ではなかったのでようか。そういう啄木を私も愛さずにはいられないのです。


今年も無事終わることができました。皆さんにとってどのような年であったでしょうか。ともかく新しい年を迎えることができることを皆さんとともに感謝したいと思います。

 啄木についての連載を今日でひとまず終了します。わたしにとって、今年一年は、啄木を知ることができたことだけでも、充実したように思います。

 西洋文明が激流のように流れ込んだ明治時代、西洋の理の世界が、従来の情の世界に光を当てたような明治時代、その流れは現代も日本の本流となっている感があります。その理の世界こそ啄木の砂のイメージだったのではないでしょうか。

 光は暗闇があって輝きます。私の求める叙情も理知があってますます輝くのではないでしょうか。そんなことをも考えさせられました。

 今年一年ほんとうに有難うございました、来年もよろしくお願いします。

12月31日(火)

烈風

塚本邦雄氏はもっとも私に縁遠い歌人と思っていました。ですので啄木と同様に氏の歌集を持っておりません。知識も至極断片的なものです。歌自体も正直に言って好きではありません。なんでそんな表現をするんですかと言いたいくらいです。もっともそれほど多くの歌を読んでいる訳ではありませんが。そんな塚本邦雄氏が最近ちょっと気になりました。下田市立図書館に行きましたが、氏の歌集は一冊もありませんでした。来年は塚本邦雄氏の歌集を買うことから始めたいと思っております。そして何故気になったのかその理由などから書いてゆきたいと思っています。どの程度のものになりますか、今時点では皆目分かりません。ゼロから塚本邦雄氏を読んで見たいと思っています。