山桝忠恕先生(経歴) (御顔)    

先生のお宅(昭和43年) ピアノ(昭和40年秋) 読書について(昭和43年夏)                                    
夏を涼しく過す方法(昭和43年夏) あすなろ(昭和37年夏) 教育について
(昭和43年夏)
君達は小学生か(昭和35年春) 会計学と風土(昭和35年)       
逆説的偶感…学費値上反対について(昭和40年春)戦後の会計学の
発展(昭和34年)
 文章のことなど(昭和42年秋)

挽歌      後藤人徳


われわれは、得てして自分の教えを受けた先生を神格化する傾向があるように思う。はたして先生はそれを望んでおられるのであろうか。先生に対する一番の孝行は、先生を乗り越えることではないだろうか。十分消化して、先生の栄養を血とし肉としてより大きな人間に成長することではないだろうか。そんな気持ちを常にもって、山桝忠恕先生の思い出などを書いてみたい。ここに山舛会の発行した「山聲春秋」五巻がある。これを大いに参考して書き進むことになると思う。


先生のお宅(昭和43年) ピアノ(昭和40年秋) 読書について(昭和43年夏) 夏を涼しく過す方法(昭和43年夏) あすなろ(昭和37年夏) 教育について(昭和43年夏) 君達は小学生か(昭和35年春) 会計学と風土(昭和35年) 逆説的偶感…学費値上反対について(昭和40年春) 戦後の会計学の発展(昭和34年) 文章のことなど(昭和42年)



文章のことなど(昭和42年白秋)

 わが親愛なる四年生諸君―、あなたがたが夏期休暇まえに渋々提出してくれたリポート(卒業論文中間報告書)を、ただいま拝読し終えたところです。そして、文章のギコチナサとダラシナサとに呆れました。そこで、きょうは、文章の書きかた?について、いささか口幅ったいことを書き連ねてみようと思います。
 「あの男には文才がある」などと、よく申しますネ。しかし、「文才」などという奇怪な才能は生まれながらに持ち合わせている人は、この世の中に存在しないはずであり、文章というのは、「感受性の涵養」と「慣れ」とによって徐々に上達してゆく性質のものなのです。もっとも、感受性のほうは、お気の毒にも、もはや手おくれですから、あまり多くは望めますまい。しかし、慣れのほうは、いまからでも、けっしておそくないと存じます。
 文章の苦手の人ほど、素晴らしい文章を夢みて妙にリキンだり構えたりなさりがちですが、「ヘタな考え休むに似たり」とは、まさにこのことであり、なにも書かずにウンウンと唸ってばかりいてもラチがあきません。つまらないことを考えるかわりに、とりあえず筆をとってみることです。ただ、その場合に、下書きだけは、どうしても必要であり、自分が訴えたいと思っていることを、単語だけでもよろしいから、下書用紙の中央に、まず大書し、これに形容詞や修飾語をつぎつぎに付け加えていくというのが、じつは最も賢明な方法だろうと思います。
 あなたがたのなかには、「論文というのは内容こそが重要であり、表現の拙さや用語の不統一は気にしない、気にしないなどと、こざかしいこと口走る人が混じっておいでですが、それはまったくの自己弁護というものであり、事実そういう人の論文にかぎって、なにを、おしゃろうとしているのやら、かいもく見当もつきかねるシロモノであるという場合が多いのです。
 もともと論文というのは、自己の思想や主張をひろく不特定多数の第三者に正しく理解してもらうためのものにほかなりません。したがって、むしろふつうの散文以上に達意の文章であることを必要とします。せめて、主語と述語との関係くらいは、ハッキリさせてくださいナ。
 日本文は、英文や独・仏文と違って、主語→目的語→述語の順に綴ることになっているところから、ただでさえも主語と述語とがヒドク離れ去る運命にあります。したがって、いいかげんな書きかたをすると、主語が浮き上がったり、述語が行方不明になったりするばかりか、能動態であるべき箇所が受動態になってしまっていたりして、なにをいったい物語ろうとなすってらっしゃるやら、サッパリつかめないということにもなりがちです。
 また、修飾語をどのように付けるか、句読点をどこに打つかといったことも、おろそかにはできません。「雨ふる天気ではない」とだけ呟いておきさえすれば、天気予報としては百発百中だという笑話がありますが、ご参考までにスクラップ・ブックのなかから、悪文のサンプルを、いくつかお目にかけましょう。ただし、ここには、悪文のなかでは比較的に傷の軽微なものばかりを選びました。
 「女として四十代は、本当に女ではないかしら。」これは、「女というのは、むしろ四十代になって初めて、女性としての真の魅力に富むようになる」ということ、「四十代こそが、むしろ女盛りの年令である」ということこそを指摘しようとしておられるのでしょうが、文章がヘタなために、そそっかしい人の手にかかると、「女の四十代は、やはり女ではないのだろうか、ナサケナイワ」と誤訳されてしまいそうな危険を感じます。
(続く)





先生のお住まい


ある出版社(会計学の分野に進出をくわだてている企業)の社長の話が伝わっている。梅雨時たずね書斎が雨漏りしているのを見て「先生の書斎は冬は冷蔵庫のようで、夏は蒸し風呂、おまけに雨漏りもする。こんな環境ではとても原稿が書けないでしょう。」すると先生「私は生来怠惰な性格なんですよ。良い環境になったらそれこそだらけてしまって、とても原稿を書く気にならないでしょう。ですからわたしにはこの環境が適しているのですよ。」と言ったそうです。後日談としてこの社長、知り合いの工務店に話し強引に先生のお宅を壊し建て替えたとのこと。

同じ話が次のようも伝えられている。
学生「先生の書斎は、冬は冷蔵庫、夏はボイラー室のようだとの批評がありますが…」 

先生「学者にとって書斎は戦場です。暑さ寒さを感じるようでイクサができますか!野次馬根性は御免こうむります。快適な気温の下におけるほうが能率が上がると考えるのは、理屈というものです。それでは快適な条件の下におけるほうが業績があがかと言えば、由来りっぱな業績というのは、えてして逆境のなかでこそ、むしろ生れることが多いのです。暑さ寒さが気になるような人は、かりに快適な条件を与えられたところで、仕事らしい仕事のできぬ人であり、そういう人は、環境よりもなによりも、まずもって精神のほうをたたき直してかかる必要がありましょう。
偉そうなことを申しましたが、この私だとて、実は、世にも意志の薄弱な人間なのです。したがって、冬暖かく夏涼しければ、まっさきにウタタネをしそうです。しかし、人間は、酔生夢死の生涯を送るために生息しておるのではありません。人間のもつ弱さというものを自覚するものだから、懶惰を招きやすい生活環境に身をおくことに躊躇するわけなのです。」


ピアノ(昭和40年秋)


わが家も、ついにピアノという厄介物をかかえこむ破目に陥ってしまった。幼児には、雨だれの音に耳を傾けさせたり、泥んこ遊びをさせたりするほうが情緒の涵養になるというのが、小生の持論であっただけに、こんな嘆かわしいことはない。そもそもピアノなどという楽器は、一年じゅう湿気の少ないヨーロッパの地の産物であり、高温多湿の代表国のようなわが国には、凡そ不向きなシロモノである。
 頭上には陽光が燦燦と降り注ぐ。脇腹には雨しぶきが一面に吹きつける。しかも朝な夕なゴハンの湯気やサンマの煙りが濛々と立ち込める。そんななかにあって、それらをモロに浴びつつ台所の隣りで仁王立ちをしているピアノの英姿…見まいと思っても、つい目に触れ、そのたびに胸が痛んでならないのである。いやに頑丈そうでいて本当は誰だかのような腺病質の独活(うど)の大木、白人を親にもつくせに恐ろしく黒光りする河馬が一頭、ゴミバコのなかにそそり立っているような感じで、どう贔屓目に見ても、これは、いかにも不釣合いな景観であると申さなねばならない。
 しかも、あのように図体が馬鹿でかい上に、200キロ以上も目方があっては、木造の簡易住宅では、とても支えきれるものではない。床下に樫の丸太棒でも五、六本景気よく打ち込まないかぎり、わが家は早晩傾斜することであろう。
 年じゅう薄ぐらいヨーロッパの、床が石でできている建物の、もともとゴハンの湯気などたちこめるはずのない一室に置かれてこそ、ピアノはピアノなのであり、山舛家が無理算段の挙句ピアノを招き入れてみたところで、ピアノがピアノである期間はしれている。だから小生は、こんなものをピアノと呼ぶ気にはなれず、もっぱらビアノと呼ぶことにしている。
 それにしても、雨もりのする家、ヨーロッパの馬小屋にも劣るバラックに住みながら、軒並みピアノを買いこんで幼児たちにキイたたきを強要する日本の親という親たちは、少々おかしいというくらいの段階ではなく、病気で言えば、もはや救いようのない重患に患されてしまっているものと言えよう。諸君たちの世代はこういう狂気じみた真似は、どうか、なさらないで戴きたい。

 第一、考えて見給え。ピアノを子供にあてがうほど残忍にして非人道的な仕業は、他にその例を見ないのである。つまり、それは、外国の大人用のサイズの自転車を日本の幼児に買い与え、外国の大人と同じように乗りこますように叱咤するに似ているからだ。幼児には、幼児向きの大きさの茶碗があり、服があり、カバンがあり、靴がある。机にしても、日本の子供には、日本の子供の体格に合った高さの机を買い与えるはずである。それなのに、ピアノだけは、外国の大人用のそれと、寸分同じ大きさのものを、日本の幼児はあてがわれている。大体、指の長さ、掌の大きさが、外国の大人のそれと日本の幼児のそれとでは、八つ手の葉っぱとモミジの葉っぱほどにも違うのだ。それでいて、しかもキイの幅は一緒だということになれば、指と指とのあいだに鋏で大きく切れ目を加えないかぎり、まともに弾けるはずがないではないか。それを、無理に弾かせようとするのだから、こんな残酷な仕打ちはないと言うのだ。

 そういうことが判ってはいても、親というものは、幼稚園のご学友が一人残らずピアノを買ってもらっていて、わが子が馬鹿にされて帰ってきたと聞けば、つい目先きの不憫さが理性を失わせ、なんだかんだと呟きつつも結局は、この、世にも珍しい非人道的な楽器を、わが子にも買ってやることになってしまうのだ。しかし、こういう生活態度では、日本人はかりにどんなに給料水準が向上しようと、永遠に貧困の意識からは解放され得ないであろう。いままで三等肉を食べていた周囲の家が次々に二等肉を食べはじめるようになれば、わが家だけ三等肉を食べつづけることに悲哀をかんじるという傾向が、日本人には極めて強い。大人だけであれば我慢もできるが、子供が彼らの仲間のつき合いで肩身の狭い思いをすることになる。そこで、わが家も二等肉に切り換える。そのうちに今度は、一等肉でなければ、肩身の狭い思いをすることになるのに決まっている。これでは、どれだけ収入が増えようが、貧困の意識は、ついに解消するものでない。そういう意味で、こんな量見では,日本人は永遠に貧しさから脱却できないのではないかと思うし、日本ほど住みにくい国はないとも断言したくなってくるのである

 夏休みが終るや否や、幼稚園再開の初日に、夏休みの旅行談を、先生が一人一人の園児に皆の前で語らせたそうである。軽井沢だの箱根だの一流の避暑地の話が、四歳児、五歳児の口から次々に飛び出すなかにあって、どこにも連れていってもらえず、したがって物語る材料が皆無の園児が、一人だけ居た。山桝家の令嬢であった。
 その日の彼女は、幼稚園から帰るや否や自分の部屋に飛びこみ、画用紙を拡げ、ご学友が得意げに語ったり黒板に書いて見せたりしたらしい旅行さきの模様を、ひとり黙々と泣きべそをかきながら模写これ努めていた。そして随分と長い時間、声をかけても返事さえしてくれなかったのである。

読書について(昭和43年夏)

学生「先生は、われわれが身上調書の趣味の欄に読書と記したり、自己紹介のさいに読書が趣味だと言ったりすると、にがい顔をなさるのは何故ですか」
先生「食事が趣味だと書いたり言ったりしたら滑稽でしょう。それと同じです。人間生きているかぎり食事によって身体を保ち養うことが必要であるのと同じように、否それ以上に、われわれは読書によって精神に糧を与えねばなりません。人間でありつづけるために到底欠かすことのできない性質の事柄を、趣味あつかいにしては、おかしいではありませんか。
 なお、食事において偏食が禁物であるように、読書にあっても偏食はいけません。仕事に関係のある書物だけを、必要に迫られて拾い読みをし、それで読書しているかのよう顔をなさる人々には、読書のなんたるかを弁えない人たちです。そういう人々を見ていると、せっかく人の子に生れつきながら、機械になろうと努めておられるような気なして、あわれになって参ります。」

避暑法(昭和43年夏)

学生「夏を涼しく過す秘訣を教えてください。」

先生「むかし、心頭滅却すれば火もまた涼しと申した僧侶がおりました。しかし、これは甚だ不出来な表現と言えるでしょう。火は絶対に熱く、けっして冷たい存在ではありません。いかに心頭を滅却しようと、熱いものは冷たくならないのです。それと同様に、日本の夏は、もともと蒸し暑くできているのですから、じたばたしたとて、いまさら涼しくありません。諸君、そのことを、まずもって率直に肯定してかかることです。そしてそのうえで、因果の関係から逃れ去るくふうをするわけです。ちなみに、これを解脱(げだつ)と言い、因果の循環つまり輪廻(りんね)からの解脱のことを、仏教では涅槃(ねはん)と申します。わかりやすく言えば、因果のない世界にすむこと…」

学生「ちょっと待ってください。人間この世に生きているかぎり、因果の法則から離れ去るのは不可能と思いますが。死んでしまえばわかりませんが、生きているあいだに離れるなど、非科学ではありませんか。」

先生「あなたがたは、なにかと言えば、科学、科学と、科学の番人でもあるかのような顔をなさるけれども、あなたがたがお持ち合せの科学というのは、もはやその限界がマル見えの西洋科学に過ぎません。…黙って聞きなさい。因果からの解脱とは,自分自身の法則を悟り、因果の法則に溶け込み、因果の法則そのものによって、因果のきずなにしばられることのない心境に達することをさします。禅に、随処に主となるということばがあります。どこか別の空間へと引っ越すのではなく、自分が位置している場所で、自分の精神を自分で転換させるわけです。これこそが、ほんとうの意味の気分転換なのです。」

学生「あきらめですか」

先生「俗にいうあきらめとは、ちょっと違う。あきらめではなく、諦観です。つまりそれは、哲学的に透徹した知性のみが辛うじて会得できる悟りの境地と言ったらいいでしょう。」

学生「先生の話はむずかしくてわかりません。」

先生「わからない、わからないと、自慢するものではありません。たとえて言えば、川を泳いで渡る場合に、流れに直角に泳ぐのをやめ、流れに身をまかせながらゆらりゆらりと向う岸に達しようとする態度とでも言いましょうか…」

学生「ニヒリズムでしょうか?」

先生「ニヒリズムではありません。ニヒリズムは虚無です。わたしが強調しているのは無心であり無我です。人間というのは、自分を意識しているときは必ず不幸な状態にあると見ていいでしょう。その良い例は、病気にかかっているときです。病気になったときには、自分の存在を意識すまいと思っても、意識しないではいられないでしょう。それに反して、なにかに夢中になっているときには、時間も空間も、全然気にならないのです。それは、無我の境地、没我の世界に身を置いているからです。時間とか空間とか、暑さ寒さというものは、そのように、すべて相対的なものなのです。」

学生「なんとなく少し解りかけました。」

先生「それでは、夏はもともと暑い季節だと割り切って、忘我の生活に入ってください。君達の最適な銷夏法は、サマー・タスクや卒論と一刻も速かに一体となることです。」


あすなろ(昭和37年夏)

あすなろ会結成式式辞より
…(前略)…。ところで、いつのころからか、われわれのゼミナールの会報の名前が「あすなろ」となり、また、われわれの集りをもって便宜「あすなろ会」と呼ぶ習慣が芽生えました。もともと、あすなろというのは「あすこそは檜に」と念願しつつも、ついに檜にはなれないという悲しい宿命のもとにある樹のことであります。してみると、この名前自体はけっして縁起のよい名ではないかのようでもあります。しかし、人間というものは、最後まで未完成なものであり、ついに完成を見るということがない。つまり、人間生きているかぎり、いつまでたっても終わりというのはないわけであります。したがって、このあすなろの名には、案外われわれの合言葉とするにふさわしい要素があるのではありますまいか。むしろ、わたくしは、このあすなろのもつその前向きの姿勢こそを、このうえもなく尊いものに思うのであります。いずれにしても全国に散在しつつ、あすなろの営みをつづけつつある会員諸君のご多幸とご健闘とを、ここに心からお祈りしてやみません。

教育について(昭和43年夏)

学生「現在の教育についてのお考えを…」

先生「教育には、よい教育とわるい教育とがあります。教師が学生に合わせるのが、わるい教育、学生が教師に合わせるのが、よい教育です。ところが、現代では、わるい教育がはびこり、教師も学生も、そのことに気がついていないのです。教育する側が、教育される者のレヴェルにまでのこのこと降りてゆき、相手の知能水準でもって簡単に理解しうる内容だけを口うつしにしてやるといった教育では、いけないのです。「そう簡単にわかってたまるか!口惜しければ、ここまで登ってこい、ざまを見ろ」と、啖呵が切れるような教育でなければならないのです。殊に大学というところは、妙な教師がいるものだなあという感慨を学生に対して与えさえすれば足りるのではありますまいか。」

学生「先生の仰ることは、どうも奇矯で…」

先生「現代とは、円満な人格がとかく奇矯に見える時代です。」

苦言(昭和35年春) 

 ガイダンスの当日に高橋君と私の教授就任講演のあったことは、諸君のご承知のところである。
 私は、午前に四年生の諸君を対象に、「会計学と風土」(注1)という題で講演を行った。高度の学問的水準を保ちつつ、しかも講義調ではなしに平易に興味ふかくという難しい条件にできるだけ合致するようにと、あれでも精一杯の心構えをもってこの行事に臨んだつもりであるが、場内の騒々しさは、昼休みの小学校の校庭のそれに次ぐほどのものがあった。熱心に耳を傾けてくれている少数の諸君の胸にだけでも届けとばかり、次第に声を強めれば、場内の話し声もまた、たちまち一段と高まる。まさに、喧噪との喰うか喰われるかの格闘の一幕とでも言うべき、とんだ三十五分間であった。午後の部では、午前中の先例に照らし、予めガイダンス主任から特に猛省を促されていた三年生諸君であったにも拘らず、これまた馬耳東風と軽く聴き流し、その姦しさは午前中のそれより更に上廻る状態でさえあった。これらの空気は、諸君もその中にあって、親しく身をもって味われ、苦々しく思われたはずである。
 もともと就任講演というのは、ヨーロッパの古い大学では最も神聖な行事の一つに数えられており、わが慶応義塾にこの行事があるという一事だけで、さすがは天下の慶応だけのことはあると、外部の人達は、かねがね賛嘆もし羨望もしてくれているのである。
 しかし、商学部百年の礎を築く重責を荷う第一回生、第二回生の諸君が、新学年度早々、競ってあの、ていたらくでは、情けなさを通り越して、もはや言うべき言葉もない。まことに、兄が兄ならば弟も弟であるというほかない当日の両回生諸君であったと思う。
 私は、学期末の試験の採点をしながら、諸君の答案に現れた学問的水準が想像以上に高いのに驚き、かつ喜びの色を禁じ得ず、周囲の人々に口を極めてこのことを謳え、喜びを頒っていた矢先のことであっただけに、落胆もまた甚だ大きかったわけである。
 諸君を学問者として、さらにまた紳士として待遇することは、断念しなければならないのであろうか。イギリスには、馬を水辺にまで誘うことは易しいが、水を飲ませることは誰にも出来ないという有名な諺がある。諸君は、「水飲まぬ馬」であるとでもいうのか。
 否、否、断じてそんな筈はない。わが商学部のため、慶応義塾のために、せめて諸君は同憂良識の士であってほしいと思う。たまたま今年は、商学部にとっては特に大切な完成年度でもあることだ。
    (以上は、談話の要旨である。)
(注1)後日、「会計学と風土」について、山舛先生の著書より詳しく紹介する。


会計学と風土(昭和35年)

(1) 戦後わがくにの会計学界は、実におそるべき勤勉さと迅速さとをもって、ひろく海外の諸学説の吸収に努めてきたといえる。そして、その結果は、もはやわがくにの会計学の水準をして、悠に世界第一流の域にまで達せしめてしまったかのようである。かの言語障害のゆえに世界の学界の知るところとなっていないにしても、われわれとしては、現在のわがくにの会計学の水準に、かなりの自信をいだいてもよいのではないかとさえ思う。
 ただそう申したからと言って、われわれとしても反省しなければならないことが、ないわけではない。めまぐるしいばかりのあけくれのなかにその身をおき続けてきたところから、ともすれば奔命に追われ、あまりにもその表面的な接触にのみ走りすぎていた傾きがあったかにも、見えるからである。かりにただひとりの学者の諸説にせよ、はたしてわれわれは、それれを本当に理解し、これに正しい評価を加えてきたであろうか。
 たとえば、アメリカに、Seidman,N.B.という会計学者がある。かれの姓はセイドマンと呼ぶのが正しいのか、ザイドマンと呼ぶのが本当か、それともあるいはザイトマンと発音すべきなのか…そのようなことに、われわれはまったく無頓着であったわけであるが、最近のわたくしには、このような場合に、どれが正しい呼び方であるかということを確かめることのなかにこそ、実は、その学者の考え方を解く有力な鍵のひとつが秘められているような気がしてきた。
 つまり、アメリカの学者であることに相違はにしても、御本人の代になって同国を訪れたのか、父の代に移住してきたのか、それともかれの家がアメリカに第一歩を印したのは祖父の代であったのか…いつ、それもどこからアメリカ大陸に渡ってきたのかが、極めて重要な点である。もともと、学者の諸説というのは、しょせんそのひとの家系や生活環境や、出身地までをも探ることなくしては、正当にはこれを理解できないのではあるまいか。戦後のわがくにの会計学界は、そのようなことまでをも仔細に穿鑿するほどのゆとりを持ちえなかったのであるが、そのような穿鑿というのは、はたして不必要なことであろうか。
 また、われわれは、会計思考というものが、国民性やその社会の歴史的、伝統的な思考によっていかに影響されがちなものであるか、しかも国民性も、けっきょくはいかに風土に強く支配されがちなものであるかということを、このさい充分に考えてみる必要があろう。真にわがくにの土壌に適する会計学というのは、そのような一見迂遠な思索を経ることによってのみ、はじめて発見できるものであると思うからである。
…続く…

(2)一例を、固定資産の売却損益をめぐる会計処理にとる。ここにいう固定資産売却損益とは、一般の事業会社が、その所有する土地・建物・機械などの、いわゆる固定資産を、その取得原価ないし帳簿価額以上の売価で処分するさいの差額を意味する。

 そして、そのような差額の生じる原因としては、1.当該資産の価値の相対的な変化、2.貨幣価値の一般的な変動、3.ある種のものにあっては自然の成長、4.過去の年度の減価償却の過不足など、一応は、さまざまのものを考えることができる。したがって、この差額の性格を検討するためには、仔細にその構成を分析してみることも必要であるが、そのことは本章の範囲外である。ここでは、それらを、アメリカの多くの会計学者たちが利益の一部と観念するのにたいして、イギリスの多くの会計学者たちは、むしろ資本の一部とみなす傾向にあることに注目したい。 

 もともとイギリスにあっては、固定資産をもって、本来使用のために保有されるものであってふたたび売却することの予定されていないものであると見るだけでなく、その購入にあたってこれにあてた資本というのは、半ば永久的に収益の元本としての価値を持続するものであると見る。つまり固定資産とは、文字どおり耐久的・恒久的な生産設備であると考えるのであり、そのような感覚のゆえにこそ、同国では、かの減価償却会計の発展もまた、きわめて複雑な苦難の道をたどらざるをえなかったわけである。

 それらの場合によく用いられるキャピタル・アセットという表現自体にしても、実は、こんにちの会計用語における固定資産に相当するというよりは、むしろ固定資本に近い含蓄をもつ言葉でさえあり、古来同国では、固定資本と運転資本との分別こそをことのほかに重視し、そのような思考が、かの複会計制度(double account system)を生むに至ったのである。そして、ここに問題にしているそれらの売却差額をもって、資本の一部であると考え、個人事業の場合には資本金勘定自体に、会社企業の場合にはそれに準じる資本積立金勘定にチャージ・ディスチャージするというのも、おそらくは、そのような観念のなかなら派生したものと見ることができよう。

 尤も、他方のアメリカにあっても、1930年ごろまでは、イギリスにおける資本積立勘定にほぼ相当する資本剰余金勘定に、これをチャージ・ディスチャージするのが慣例をなし、しかもそのような処理法が、今世紀初頭のインフレイション時には、財務上かなりの効果をもたらしたもののようである。しかし、その後同国では、これを営業外損益として損益勘定のなかに計上するか、もしくは期間外損益として利益剰余金勘定に直接チャージ・ディスチャージするか、いずれにしてもその利益性こそをむしろ重視し、資本の一部というよりはまさに利益の一部として処理するを至当とするに至ったのである。これは、いったいどうゆうことであろうか。アメリカの会計実務や会計理論は、元をただせばイギリス本国からイギリス人自身の手によってもち込まれたという因縁をもつ。にもかかわらず、なにゆえに、このアメリカに、そのような、いわばこれとはまったく対照的とも言えるほどの考え方が風靡することになったのであろうか。

 そこで探ってみなければならないのは、両国の会計人たちの資本観・利益観自体に異同の事実がないかどうかということである。

…続く…

(3)結論的に言えば、おしなべてイギリスの会計人たちは、資本をもって利益を産むことに利用されるもの、つまり果樹のようなものであるとみるとともに、他方の利益については、元本を傷めずにそれから分離できるものであるとして、それを果実にたとえようとする。これにたいして、アメリカの会計人たちは、資本をもってそれ自体増大するものであるとし、しかもその増大というのは、その原因のいかんにかかわらず、すべてそれを利益であると解釈しがちな傾向にある。

 また前者は、資本とは物そのものであるとし、その尺度としての貨幣価値をあまり重視しない。したがってそのように貨幣価値を捨象するところから、かりにその処分時の貨幣価額が取得価額を超過することがあったとしても、その差額をもって利益とは観念できないわけである。ところが後者は、資本とは富であるとし、しかも富はたえずドルの量によって測定されるものであると考える。したがって、そこには、貨幣価額の増加分をもって利益と見る考え方が成立することになる。要するに、イギリス人とアメリカ人とのあいだには、いわば、実物資本観と貨幣資本観との顕著な対立がうかがわれるわけである。

 さらに、もうひとつ申し添えておこう。イギリス人は、ひろくひとの貧富の度合を判定する場合に、年々規則的に確保することのできる年収、つまり収入の恒久的な流れこそを問題にするのにたいして、アメリカ人は、つねにそのひとの所有ないしは支配下にあるドルの量こそを重視しようとするのである。

 ところで、これでもう問題が解決したかと言えば、つぎにまだ考慮しなければならないことが残っている。つまり、なにゆえに両国民のあいだに、そのような資本観なり利益観なりの差が現れるに至ったかということ、実はそのことこそが、むしろたいせつなわけである。そして、これについては、両国の経済社会の発展の態様の差、ないしはそのポジションの差ということもまた、あるいは影響しているかもしれない。

 つまり、こんにちのイギリスにあっては、経済発展の速度が緩慢であり、企業の必要とする資本もまた相対的にみてかなりの程度まで蓄積されている。同国の場合、再投資や資本の所有面における変化というのは、アメリカよりは少ないと言えよう。そこで、同国の企業では、得ることのできた利益を配当によって株主たちおを引き渡すことよりも、その一部は手をつけられないものとして初めから棚上げし、むしろ既存の経営の維持を図ることにこそ重点をおく。

 これに反して、アメリカというのは、資本主義がいまなおかなりの速度を保ちながら進行しつつある国であり、そこにあっては、実現した配当可能利益であるかぎりは、むしろこれを配当に回すことによって株主たちの所得の増進を図り、そのことを通じて再投資を誘発するという道こそ選ぶことになろう。したがって、そのような財務上の配慮こそが、ひいては企業会計のうえにも影響をおよぼしているのだと、そのようなことも多少は言えるかもしれない。

 しかし、それではたして充分な解答になるかと言えば、まだまだ、かなりの疑問が残るものと申さねばならない。というのは、イギリス流の資本観や利益観というのは、なにも最近になってはじめてその確立を見たわけではなく、同国がまだ農業国にすぎなかった十五世紀において、すでにはやくもこの大英帝国に瀰漫していたものであり、その後もそれは同国の産業社会の勃興のあいだじゅう堅持され、じつに過去数世紀の長きにわたってイギリス大衆のうちに深く滲透してしまっている考え方でさえあるからである。

 そうだとすると、もはやこのわたくしに残された解釈としては、やはりこれを「風土」自体の差にもとめるほかなくなる。

…続く…

(4)さきに述べたように、イギリス流の実物資本観の台頭は、封建末期のイギリス経済社会にその端を発す。もともとそのような農業中心の社会にあっては、土地こそが最大の資本であった。こんにちにあっても、この土地こそは、固定資産中の固定資産とも言うべきであり、これにかんするかぎりは、少なくとも会計上は減耗にたいする考慮もまた、一応は不要であるとされている。まさにキャピタル・アセットの名に最もふさわしいものが、この土地にほかならない。しかも、このような観念というのが、本国の国土の狭少なところにあっては、ひとしお民衆の実感を得るに至ったであろうことは、容易に想像できるところでもある。たとえば、わがくにの各地ちにあって展開された基地問題や湖底に沈むダム村の問題などにしても、それらが、あながち政治闘争や思想闘争とばかりは断定しきれないほどに切実なものをもっていたことは、われわれの記憶に新しいところである。

 そして、イギリスでは、そのような、土地そのものを資本とみる感覚に端をはっした実物資本観が、農業中心の経済社会から工業中心の経済社会へと移行したのちにあってもそのまま堅持され、やがては建物のうえに、さらにまた機械のうえへと、ひろく固定資産全般にわたって適用され続けてきたわけであった。同様に、利益をもって、元本をそこなわずにこれから分離できる果実であるとみる思考や、所得の循環性をことのほかに重視しないではおかない感覚などというのも、まさしくこの農業中心の経済社会において芽生え出したものと見てよい。つまり、そこには、所得と言えば、季節の周期に伴い規則的に得られ収穫こそが、まさしくそれであったはずだからである。
 これに反して、他方アメリカはと言えば、まだまだ半世紀前までは広大な未開の原野にすぎなかった。アメリカ人の場合には、過去においてもこんにちにおいても、土地への執着はきわめて少ないものと言うことができる。しかも、人口の増加、自然の開発、交通網の発達は、土地の価額をたえず騰貴させ続けてきた。したがって同国の場合には、土地を保有するにしても、それを元本として規則的な収入を得ることよりは、むしろそれらの転売によって投機利潤を獲得することにこそ、その関心が向けられいるという場合が少なくないのであり、工場の処分や移転にしても、それはけっして例外的なことでもないわけである。とするならば、これらの差こそが、実は非常に大きな意味をもっているのではなかろうか。

 わたくしは、このように、風土の会計思考に及ぼす影響をことのほか重視しようとするものであるが、最後に一言、ねんのために申し添えておかなければならないことがある。それは、風土とか伝統とか国民性とかを錦の御旗のようにふりかざし、初めからある国の学問と他の国のそれとは違うのだというように、形式的・観念的に識別して議論をすすめることは、これまた著しく危険であるということである。
 そのような態度なり議論の進め方なりは、特殊性・個別性をことさらに強調することによって、普遍的・一般的な歴史的発展の必然の姿から目を伏せさせ、単にその後進性のしからしめるところにすぎない不完全性・非合理性を擁護するという弊風を招くことにもなるからである。このことは、「日本会計学」の建設を考える場合にあっても、とくに戒心を要する点であり、われわれは、つねに一般のなかに特殊を、そしてまた特殊を通じてしかも一般をも感じとるところがなくてはならないわけである。

 わたくしは、本章で、固定資産の売却損益にかんする会計処理を例にとり、イギリスとアメリカとのあいだに対照的とも言えるほどの大きな差のあることを指摘するとともに、その原因の根元を追求しょうとしたのであった。しかし、この場合にも、なお両国の会計思考のなかには、著しく共通する要素もあることを見落としてはならない。それは、ほかでもない、「資本と利益との峻別」という要請であり、これこそは、すべての国の会計思考の基礎にある共通の中心命題にほかならないのである。

(5)「会計学と風土」のタイトルのもとに、ここで述べてきたことがらというのは、いわばそれ自体は、しょせん「会計学以前」のことに属するかもしれない。しかし、もともと人間の学、社会の学のひとつであるはずの会計学にいまや必要なことは、さきにも申し添えておいたとおり、実にこれらの局面にまでさかのぼりつつ思索をかさねてみることであろう。

 とくに、会計学とは簿記の単なる延長にすぎないかのような、素朴にして皮相な受け取りかたをしておられる向きが、いまだにけっして少なくないことをも思い合わせるとき、この種の考察は、なおのことだれかがそれを行う必要がある。本章は、しょせん一片の「散文」にすぎず、もともと論文としてしたためたものではない。しかし、いつの日にか、わたくし自身、ふたたびこの同じ題名のもとに、あらためて一編の著述をまとめ上げたいものと思っている。

                      (「三色旗」昭和35年8月)

逆説的偶感…学費値上反対について(昭和40年春)

 前略 最初はその表情にも、どこか余裕めいたものを汲み取ることもできましたし、大事そうにかついでおられたプラカードの文句にしても、「子供ダイガク、親コジキ」だの「大学やめてハワイに行こう」だのと、どちらかと言えばユーモラスなものが多かった君たちでしたのに、一週間たち十日を過ぎるうちに、日に日に疲れの色が目立ちはじめ、遂には、カミツキそうなトゲトゲしい顔つきに変わってしまわれました。ほとんどの諸君の言動にイライラの症状が如実に現れておりました。

 そして、二月三、四日ごろの君たちの間の雲行きでは、あのような状態のままで、もしも八日からの卒業試験を強行するならば、試験を受けようとする者とそれを阻止しようとする者との間に、流血の乱闘さわぎさえも生ずるのではないかと、心から憂慮せざるを得ないものがありました。事実、鉄条網でピケを張るのだと、意気まいた者もありましたし、ピケ隊を断乎実力でもって次々にゴボウぬきしてやろうぞと、武者ぶるいしていた勢力もあったようです。

 まったく気が気ではなく、私は三日から四日にかけて、洟をすすりつつ、立ったり座ったりしながら、「一人の怪我人も出さぬよう。そして警察力の介入を招くような事態だけは絶対に避けるよう。このことさえ充たされるならば、その他のことは、全部失っても、あとで取り返しがつく。普段なんでもない時に独立自尊を口にすることは、いとも易しい。肝腎なのは、正にこのような時に外部の力の介入なしに事態を収拾することにある。値上げ案の再検討と話し合いの再開を。」と、会議の席で叫びつづけておりました。そして紛争の解決の兆しの見えはじめた五日の朝から、疲れと風邪とのために、このように寝込んでしまったのです。

 危ないところでした。まったく一触即発、義塾崩壊の危機寸前だったと思います。あのまま一、二日収拾がおくれていたら、もののはずみにせよ、きっとなんらかの不祥事が生じていたことでしょう。誰も起こそうとは思っていなくても、なにかが起こったに違いありません。そして今頃は、一瞬にして泥まみれとなってしまった独立自尊の金看板を前にして、共に、泣いても泣いても泣ききれぬ痛恨にひたらざるを得ないことになっていたに相違ないのです。また、幸いにしてそれまでは好意的・同情的であったかに見えた世論にしても、「学校も学校なら学生も学生だ」と掌を返すごとくに一挙に硬化していたことでしょう。

 「終わり良ければ総てよし」とか、申します。問題は、まだ、一向に解決してないわけですから、目出度し目出度しとまでは、申し兼ねますものの、良かった良かった本当に良かったという晴々とした気持ちで、いまの私の胸は一杯なのです。私学の危機、社会の矛盾を、かくも強力に、かくも見事に、しかも始終純粋な形で普く啓蒙しつくして下すった君たちの素晴らしい功績を、お世辞や迎合ではなく本当に心から讚えたいと思います。しかし、諸君、くれぐれも怒ることなく、こころ静かに聞いていただきたい。「まだわかってやがらねえの?頭にきちゃう。」などと、愛想づかしをしないで、冷静に聞きわけてほしい。

…続く…

あの値上げの発表は、手続きや時期や方法などの面にこそ遺憾な点や非常識な面が少なくなかったものの、学費の改訂ということそれ自体は、やはりやむを得ない措置だったのだとも、私には思えるのです。

 学費の値上げということは、なるほど、常識的には望ましいことではないかも知れません。しかし、去年あのように断水でわれわれ都民を苦しめた東京都の水道局までもが、臆目もなく六割四分増の料金値上げを宣言してはばからないほどに、物価の上昇の甚だしい昨今のことなのです。

 五割増、六割増くらいなら、まだしも我慢もできようが、問題は値上げの幅にある。一挙に二倍三倍の値上げを行うなど、なんぼなんでも非常識すぎると仰言(おっしゃる)るかもしれません。しかし、考えても見たまえ。電車やバスの料金の上がるときなどは、一夜明ければ、手持ちの使い残りの回数券までもが、そのままでは使えなくなってしまうほどにドライなのに、大学というところは、万事まことに鷹揚にできていて、由来、在学生にたいしては、どんなことがあっても値上げを行わないという慣習法の下にある。私には、だいたい、このこと自体が奇妙きわまることに思えてなりません。正にこれは「契約」ということに関する重大な解釈上の誤りを示す一例ではありますまいか。

 大学としては、在学生の諸経費についても、紙代からチョーク代まで一律に物価騰貴のあおりを蒙っておるのです。かりにあなたがた在学生の学費をそのまま据置くとすれば、新入生に、あなたがたの分までを負担していただかないことには、計算が合わなくなるとも言えます。大学は、不幸にも、四年制(医学部は六年制)です。もしも一年生だけにその大半をカバーしていただくという方法を選ぶとすれば、一年生に関する限りは五割の物価騰貴が三倍、四倍の値上げという形で現れたとしても、そのこと自体、必ずしも不思議ではありますまい。
 その場合、それが不合理だと仰言(おっしゃる)のであれば、在学生も一律に按分の上、平等に負担なさるべきでしょうし、今回御卒業になる四年生の諸君などは、せめて初任給の一か月分くらいは、大学に御送金になってはとさえ、思えてくるのですが…。
 この私に言わせますならば、君たちが、いま真剣に危惧している学力水準の低下なるものの原因の一つは、むしろ過去において、大学が、今回のような反対運動の生ずるのを恐れるあまり、学費の充分な改訂を、いつも回避し、中途半端なツジツマの合わせかたをくりかえしてきた点にこそある。物価の上昇に見合うだけの充分な値上げを表面上避けようとするかぎり、トウフヤにしてもマンジュウヤにしても、質を落としたり、手を抜いたり、形を小さくしたりして、なんとかツジツマを合わせようと苦肉の策をろうするではありませんか。しかし、そのような形でのツジツマの合せ方というのは、言うまでもなく、殊に教育や学問にとっては、邪道中の邪道であります。

…続く…

言いにくいことを申し上げます。君たちは、学力水準の低下低下とまるで他人事のように仰言るが、授業中に五回も六回も、静粛にと、注意をしなければならないような情けない現象というのは、五、六年前には全然無かったことなのです。やれ、マスプロ、マスプロと、二言目には口幅ったいことをとなえられるけれども、そのマスプロの緩和のために、わざわざ、こちらが二倍三倍の犠牲をも顧みずクラスわけにして講義を行なおうとしても、一時間目のクラスは悲しいまでにガラガラで、その一時間目に出てくるべき連中が三時間目のクラスに合流をして、まるで銭湯さながらに湧きかえりながら聴講なさるという実情では、言動に些か首尾一貫性を欠く点があるのではないでしょうか。また、「僕のような者が及第をしたり卒業したりしては、本塾の名声を汚すことになる。なぜ落第をさせてくれなかったのか」というような抗議を試みる学生諸君が平素ただの一人も存在しないというのは、どうしたことですか。

 もう破れかぶれです。更に更に非常識なことを敢えて申し上げましょう。君たちは、値上げをすれば金持ちの子弟しか入学できないようになるとして、そのことを非常に御心配になる。しかし、大学というところは、学費が廉ければ良質子弟が集まり、高ければ馬鹿息子しか入れないというものでは、ありません。いままででも、慶応のそれよりも学費が廉くてすむ大学というのは、無数に存在しています。しかし、それらの大学の学生たちよりも、現在の慶応の君たちのほうが、その質において見劣りがするとでも、内心卑下しておられるのでしょうか。また、かりに金持ちの子弟だとて、たまたま金持ちの子弟だということだけで、そのすべてが素質に欠ける連中だと初めから決めてかかるというには、少し飛躍がありすぎるようにも思うのです。

 国立大学の不合格者のためのスベリドメの役割に利用されたり、そのような連中にお座なりの教育を施すための機関に堕し去ってしまったりするよりは、むしろ、「良いものは高いのだ」しかも「教育とは、もともと金のかかるものなのだ」という堂々たる信念でもって、高い学費のもとに高い教育を完うする良心的な大学が、この日本に一つくらいあったとて、そのこと自体、なにが教育の機会均等に反しましょう。ちなみに、日本の大学の授業料の廉さは、国際的にも有名であり、「日本では大学教育にまでダンピングが行われているのかい」と揶揄する外人さえあるほどです。

 私は、英才であって、経済上の理由から入学や修学のできかねる痛ましい子弟には、月二千五百円だの三千円だのという涙金を、しかも「貸与」はするが返済を必要とするなどという浅ましくもミミッチイ似非奨学制度で徒らにお茶をにごしつづけることなく、存分に彼等に楽学させてあげられるだけの画期的な育英措置を、授業料の値上げ問題とは無関係に一日も速やかに講じるべきだと、心から切望してやみません。しかし、こと卑しくも大学の授業料自体については、高いだの廉いだのという低俗な表現を用いることだけは、どうも感心を致しかねる次第です。一体全体、なにに比べて、なにを理由に高い廉いと仰言るのでしょうか。

…続く…

また、君たちは、頭のわるい子弟、頭のわるい子弟と、ソレコソ人聞きわるいことを口にし、眼のカタキになさるが、うわべの良し悪しだけで人間の評価を行うことができないのと同様に、本当は、頭脳の良し悪し、それも、いわば暗記量の多寡の集計的なものだけで人間の価値を単純に即断できるものでもないでしょう。もともと大学の使命というのは、あの一回かぎりの入試でもって頭の良し悪しなるものを最終的に判断し去ることそれ自体にあるのではなく、能力を秘めている者、素質に恵まれている者を的確に探りあてて、これを徹底的に鍛えぬき育てあげるところにこそ、あるのではないでしょうか。

 ××大学にさえ入学をしていしまえば占めたものと、一生の打算を唯一一回のかりそめの暗記競争に賭け、要領本位に立身出世への道に憂き身をやつしてアクセクとし、やがては人に迷惑をかけ国を誤るのに一役を買うというようなこ賢しい人材を、われわれの大学は収容をし保護するための機関ではないはずです。

 一旗組を招き入れこれにハクをつけて出世街道に送り出すための自動販売機であってはいけないとすれば、大学は入学させた学生を徹底的に鍛え上げるのに事欠かないだけの豊かな力を常に備え貯えていなければならず、そのためには、学校財政の面に、いささかの不安もあってはならないのです。

 人件費だけ取り上げてみても、教員の給与水準が国公私立全大学の中で最低の水準にあり、ボーナスの要求額もまた最低であるにも拘わらず、その最低額の要求額の捻出さえもが困難で、年が明け今や二月だというのに未だに労組が「去年ノ年末手当ヲヨコセ」と、呼びつづけていることからもおわかりのように、それこそ君たちの言葉を借りるならば、金持ちだけしか教員として勤まらないという実に憂慮すべき事態が、すでにこの学園では、かなり古くから続いているようです。こんな財政状態のままで、果たして君たちの念願する質の向上が末永く期待できるでしょうか。

 申すまでもなく、この問題の正しい解決は、君たちが鋭く御指摘になり、その鉾先をその方角にむけておられますように、まさしく国の文教政策や大学の経営計画の是正如何にこそ、かかっているものと考えてよく、かく申す私自身もまた、実は、なんとか授業料その他の値上げというような容易な姿勢と感覚によってではなしに、門戸を広く拡げたままで私学が豊かな教育と研究とを行うことのできるような抜本的な形での解決をと、それこそ真剣に願いつづけている次第です。だから、文中の言葉のハシハシをとらえて喰ってかかられては、それこそ迷惑を致します。また、それでは、実に心外千万であり、立つ瀬がないと申し上げたい。要するにこのとりあえずの手紙では、故意にそのことまでは言及することなく、むしろ今回の紛争中に味わわざるを得なかった一種名状しがたいモヤモヤのかずかずを、あくまでも逆説的な表現でぶちまけて見ようとしただけのことですから。

…続く…

いずれにしても、あのような紛争の渦中にあっては、ともすれば、錦の御旗の下に、異説や少数意見が頭から無視されたり葬られたりしてしまうどころか、許しがたい反動的意見なりとして敵視さえされ、なかなかに「物の道理」ということが、そのままには受取られにくいものです。そして、挙句の果てには「このまま金持だけの大学になり下がるよりは、むしろなり下がってしまう前に、われわれの力で学校をつぶしてしまったほうがましだ」などという、まったくもって思い上っていらっしゃるとしか申上げようのないような、とんでもない暴言さえもが、実は却って拍手喝采を博するという結果になってしまうのでした。

 今以上に官尊民卑の思想が充満していた嘗ての社会風潮の中にあって、自分たちの力で、ここまでこの塾を築き上げてこられた創設者ならびに塾員のひとたちをさし置いて、どちらかと言えば歴史の恩恵に過分に浴しつつあるはずの在学生諸君が、たまたま現在学園内に学生として在籍しているというだけの理由でそのような不遜な言辞を弄するというのは、いかに塾の将来を思い、後輩の身を案ずるのあまりのこととは申せ、少々納得のゆきかねるものを感じるのです。また、学校当局に遺憾な点があるにしても、そのことから直ちに学園の秩序を無視しても構わないのだという結論は生じて参りません。

 ひろく、これにかぎらず、重要なことは、大勢にさからわず周囲の空気に巧みに調子を合わせ、皆が皆、常識的に無難と思える発言をして済ますというようなことであっては、いけないということとまた反対説にバリ雑言を浴びせかけその発言を封じたり多数決の強行でもってこれを抹殺しさったりしては、ならないということです。

 言論の自由が尊重される筋合にあるのは、あまねく少数説、反対説の発掘につとめ、これに敬意を払うことにより、さもなければ、勢いの赴くところ、ついその所説が一本調子なものになってしまいがちな多数説のもつ盲点に気づき、できるだけ多数説自体の入念な仕上げを図る必要があるからです。そして、その意味で、私共は、どんな少数説にしても、それ相当な社会的な効用を見出すことができましょうし、また積極的に見出さなければならないのです。われわれは「舌禍」を恐れてはならないと思います。最近は、皆、申し合せたように賢くなってしまわれて、実に歯がゆいことです。 

 では、今夜はこれで。ごきげんよう。

                                    敬具

戦後わがくににおける会計学の発展(昭和34年)

戦後十年あまりのあいだ、めまぐるしいばかりのあけくれを送り続けてきたわがくにの会計学界も、さすがにここ二、三年来、ひとつの転期にさしかかったようである。

 ここしばらくのあいだは、これといった論争も、目をみはらせるほどの動きも、おもてだってあらわれてきていないところから、これを沈滞と評し、行き詰まりの到来とみる向きもある。

 しかし、この十年間営々と積みあげたくわえ続けてきたおびただしい成果の集積を顧みつつ、今後これをどのように反芻し、いかに血肉化するか、なにを採りなにを残すべきか、ひとりひとりが、いま誠実に悩みつつあるはずである。企業会計のもつ内面的な要請に真に即応し合致する思考方法の発見と、それによる統一的・総合的な理論体系の構築とが、いまこそ、真剣に考えられているはずである。

 この時期をとらえ、われわれは、ここに戦後のわがくににおける会計学の発展の跡を、できるだけ公正に記録し描写することによって、会計学界のたゆみなき努力のさまをひろく伝えるとともに、われわれ自身また、問題の所在を探るよすがともしたいと思う。

 戦後のわがくにの会計学界がまず第一に遭遇しなければならなかったのは、企業の再建・整備にかんする政府の声明であった。とくに、企業再建整備法が戦時補償の打切り問題を中心にしており、しかもそこには、それに基づく特別損失の填補と整備計画の達成とのための一助として、会社財産の評価換えが予定されていたところから、それは激しい評価論争をまき起こさずにはおかなかった。それが、たまたま、インフレイションの進行過程のことででもあったために、この問題は、一面インフレイション期における評価自体はもともとどういう考え方のものでなければならないかというかたちで取り上げられ、やがてそれは、インフレイションの高進に伴い、ひろくインフレイション会計の研究へと拡大されていった。その場合、このインフレイション会計の本質が仮装利益の排除のための修正計算ないしは純利益の過大表示の防止にあるという認識、つまりインフレイション期における評価問題の中心が、財産の評価にあるのではなく損益の算定にあるのだという見解こそがそこに支配的であったということは。いまでこそ自明のことにすぎないにしても、長く記憶にとどめられてよい。

 ただ、このインフレーション会計の問題は、実は、後日すなわち二十九〜三十年ごろのインフレ停滞期にもまた、ふたたびむしかえされるに至った経緯をもつ。そしてそのことは、会計学者のせっかくの警告にもかかわらず、仮装利益の排除というかんじんの課題が、その後も充分には解決されないままに放置されていたことを裏書する。わがくにの企業が他方で税制の改正ないし税率の引き下げを叫びつつ、しかも公表利益のなかにかなりの仮装利益部分を包含し続けてきたという事実に接するとき、われわれはある種の感慨を催さざるをえないことを、ここに率直につけ加えておきたい。

 さて、企業再建整備法と過度経済力集中排除法とに基づく各企業の整備計画ないし再編成計画がその緒につくにつれ、やがてわがくにでは経済再建の当面の課題である外資の導入、企業の合理化、課税の公正化、証券投資の民主化、産業金融の適正化などの合理的な解決の一手段として、企業の会計を公明にし、財務諸表の真実性を保全する必要が痛感されるようになっていった。

…続く…

 二四年七月には、当時経済安定本部に設けられていた企業会計制度対策調査会(現大蔵省企業会計審議会)から、中間報告のかたちで「企業会計原則」と「財務諸表準則」とが公表された。そして、新しく発表をみたこの「企業会計原則」は、財務諸表の技術的改善のためのものであるというよりは、企業会計そのもののよるべき基準を示そうとしたものであり、それは会計の真実性の回復という崇高な理念に根ざし、会計処理の根本基準を明らかにすることを通じて公表財務諸表の統一を促そうとしたものであった。

 ついで、二五年三月には、証券取引法の一部改正によって、「証券取引所に上場されている株式会社の発行会社その他で、証券取引委員会規則で定めるものが、この法律の規定により提出する貸借対照表、損益計算書、その他の財務計算に関する書類には、その者と特別の利害関係のない公認会計士の監査証明をうけなければならない。」という第一九三条の二が新たに設けられたところから、公認会計士による外部監査に法的根拠が正式に与えられ、まもなく一定範囲の会社に会計監査の実地されることが、いよいよ確実になった。

このような情勢のもとで、さきの「企業会計原則」とこれに準拠して同時に発表された「財務諸表準則」とは、二五年九月に、「証券取引法」の第一九三条に基づいて公布をみた「財務諸表規則」(略称)と「財務諸表規則取扱要領」(略称)とによって法制化されるに至り、わがくにの会計制度は、ここに一段と改善されることになる。しかも同じこの九月には、さきに「企業会計原則」を発表した調査会が、この近く始まる法定監査に実質的・内容的な基礎を与えるために、こんどは「監査基準」と「監査実施基準」とを発表するに至った。そして翌二六年三月には、前記の「証券取引法」の第一九三条の二に基づいて、証券取引委員会から「監査証明規則」(略称)が制定・公布され、これによって銀行・信託銀行業をのぞいた資本金一億円以上の有価証券報告提出会社ならびに取引所上場会社にたいしては、同年七月一日から始まる事業年度の会計書類にたいして強制監査を行うという方向が明確になった。

このような一連の会計制度化の動きというのは、会計が単に私的な用具であるばかりでなく、それはまた同時に社会的な用具としての二重の役割をもつものであることをひろく痛感させずにはおかなかった。そして、おのずから、そこでは、「報告」ということと「監査」ということが、企業会計に不可欠の部分領域として強く要請されるとともに、これが会計行為の内部に含みあげられ、いわばそのゴールないしはフィニッシュ・タッチを形成することになり、それれがなければ、これに先行する「記録」や「計算」もまた、その存在理由をもちえなくなるという事態さえもが訪れはじめたわけである。

しかも、そのことは、それまではもっぱら虚偽・誤謬の検出・予防のための技術的なくふうにその研究上の重点がおかれがちであった監査論を近代会計と有機的に結合させながら解明していこうとする気運、つまり、企業会計の根本理念をたえず念頭におきつつ、会計学思考から監査上の諸問題を統一的に整序し解明していこうとする試みというものを、誘発し助長するという役割をも演じないではおかなかったのである。

さらにまた、ここに特筆しなければならないのは、「企業会計原則」自体の根底に潜む動態論的思考が、この監査論をも含めつつひろく会計理論の研究にたいして強烈な刺激を与えたということであろう。明確にわがくにの会計理論は、静態観から動態観へ、財産計算的見地から損益計算的見地へ、流動性の表示から収益性の表示へ、財産評価から原価配分へ、価値的接近方法から費用的接近方法へ、保守主義の原則から費用・収益対応の原則へと、その中心ないしは重点の大施回を試みることになった。

(注)特に銀行家に言いたいのですが、上記動態理論に基づいていたならば、これほどまでの不景気は起こらなかったのではないでしょうか。今日まで依然として、担保重視等の静態論的考え方が強かったのではなかったのでしょうか。(後藤)

…続く…

たまたまそこでは、企業の大規模化、資産構成の高度化の進行に伴い、財産目録的な静的貸借対照表がその当初からその身にまとい続けていた財産価値表示機能の限界が顕著化するとともに、原初的な意味での財産法的損益計算もまたついに破錠をきたさざるをえなくなってしまっており、そのことゆえに実は企業会計自体が「財産計算か、損益計算か」の、いわば二者択一的な岐路に立たされざるを得ない時期に遭遇するに至っていたことをも思い合わせるならば、会計学が、それまでは外在的な要請のもとにややもすれば見失ないがちであった損益計算の重要性こそをあくまでも体現すべく決意したということも、あながちまちがった道を選んだというわけではなかったのである。いずれにしても、ここに、型にはまってしまっていたかに見えた旧来の会計理論を、この損益計算しかも期間損益計算の立場から、新しく吟味しなおそうとする努力が急速に進められていくことになった。

ところで、ひとたびそのような立場にたつかぎりは、それまで存在していた費用と資産とのあいだの根本的な区別のごときは、もはやそこには認められなくなり、本来あるものは、ただ費用だけということになるわけである。いささか粗雑な言い方をするならば、この動態的思考というのは、発生した原価のなかですでに当期に収益を産んだと認められる部分、すなわち、その費消・流出部分をもって当期の収益に対応せしめるを至当とする部分と考え、これを費用として損益計算書の借方に計上するとともに、ひとしく発生原価のなかでも、まだ収益を産むまでに至っていない部分、すなわちその未費消・未流出部分をもって、次期以降の収益に対応せしめるのを妥当とする部分とみなし、一時それに資産という仮の名称を与えつつこれを貸借対照表の借方に収容するのだという解釈をとることになる。事実、棚卸資産会計の解明にあたっても、設備資産会計の解明にあたっても、ひとしくこの原価配分の原理こそが導入されるに至ったし、しかもその場合、それがはたしてその素姓において動態論自体と必然の関連にあるものなのか、それとも会計がほかならぬ外部監査と結合することによって派生した「証明力ある客観的証拠の確保」という要請にむしろ由来するものであるのかは多分に疑問であるにしても、一応はそこに取得原価主義こそがきびしく打ち出されることにもなった。また、ひいては利益概念自体にかんする理論的探究が開始されたことはいうまでもない。

 …続く…

そして、そのような動態論の立場からする会計理論の研究は、やがてこの動態論自体の最大の悩みともいうべき現金項目の理論的解明に向けられることによって、いわゆる資産本質論争の展開ともなり、さらにやがては、それらが、より根本的な損益計算構造ないし貸借対照表構造そのものの原理的・統一的解明の試みへと発展しつつ、一方に損益計算中心の一元的な会計理論の体系を構築しようとする気運を生むとともに、他方に原価主義ないし収支計算と必然的に結合しなければはたして動的貸借対照表とは言いえないものであるかどうかについての反省をも呼び起こすことになっていったのである。

 ところで、研究の焦点が、上述のように費用と収益との対応による期間損益の算定ということにおかれるという場合には、貸借対照表の貸方にかんする問題というのは、その背景に隠れ見のがされてしまいがちな場合が少なくない。つまり、そこでは、それらをもって未来の支出もしくは収益であると説明するだけでは、各種のエクィティーの性格や利益の帰属関係などの検討がややもすれば閑却されなちな危険がある。しかし、貸方項目のなかでもいわゆる資本の部に属する問題については、二十五年の商法改正によって授権資本制、無額面株式、償還株式、資本準備金、準備金の資本組入、株式分割、株券配当、などの新しい制度が導入された前後から、とりあえずそれらの個別の問題の会計的検討と、それらをめぐる会計処理についての研究が、部分的ではあるが開始されていた。そして、「企業会計原則」によって剰余金の概念が導入されるや、それらにかんする総合的な考察の段階へと進み、さらには、期間損益計算自体の根底にもともと潜在するはずの「資本と利益の峻別」という基本的課題を見落とすことなく、資本会計論体系の樹立と会計学内におけるそれらの位置づけへと進むことに成功したのである。

 また、そこでは、とくに払込資本にかんする会計理論といして、株主の持分を株式種類別に分類処理すべきであるとする発行持分説をとるべきか、それともこれらの株主の持分をむしろ一体として処理すべきであるとする主体持分説をとるべきかの論争も、はなばなしく展開された。しかもこの論争は、それが、技術的な処理法自体の優劣といった単純なかたちにおいてではなく、あるいはひろく会計の基礎理論との首尾一貫性の角度から、あるいはふかく会計主体論との関連から展開されたというところに、そのもつ大きな意義がある。

 したがって、われわれはここでさらに眼を転じ、かの会計主体論争についても言及しておかなければならない。つまり、会計理論や会計原則の探究が進むにつれ、企業会計の主体を企業主ないし株主に求めるべきか、それとも企業自体に求めるべきかにより、会計理論もまた大きく変化する関連にあるということで、この会計主体はだれかという問題をめぐって、すでにかなりはやくから論議が繰り返されていたのである。この論争というのは、なるほどその初期にあってこそ、かなりの混乱を引き起こしつつ展開されていたきらいもないではなかったが、この論争の持つ意義とその貢献もまた、これを無視することはできない。およそこの種の論議というのは戦前の会計学にはついに見られなかったところであり、ここにも戦後における会計学の深化を強く感じとることができるわけである。また、かりにその場合、企業をもって会計の主体とみる企業主体理論に立脚するならば、そこでは負債と資本とを本質的に同一の範疇に属するものと考えることも出来ることになり、負債を資本視するか、逆に資本を負債視するかは別問題としても、いずれにしても会計のなかに負債の会計と資本の会計とをさらに統一した「持分会計」ともいうべき部分領域を構築ことも一応は可能になる。そのようなことから、資本会計論の域をさらにこえた持分会計論の体系もまた考えはじめ、会計学の領域のなかで最後まで片すみに追いやられていたかに見えた負債についても、これを新しい角度からながめなおそうという気運が見られるようになりつつあるわけである。

…続く…

ところで、「企業会計原則」や「監査基準」を公表することによって会計の制度化と会計学の発展との推進力になったさきの審議会は、二十五年末にはさらに「原価計算基準」の起草委員会をも設けるに至った。つまり、「企業会計原則」の完成のためには、損益計算上の売上原価の前提になる製造原価報告書の内容を明らかにすることにより、原価計算をもって、これをいわゆる財務会計と結びつける必要があったわけである。

 しかし、戦後の原価計算は、企業の原価意識の向上とともに、そのころすでに「管理のための原価計算」としての色彩を著しく濃厚にするに至っており、わがくにの会計学界にあっても、いわゆる標準原価本質論争が開始されていたほどであったし、また他方では、損益計算的原価計算では原価計算固有の目的達成には役だちえないことが力説されていた。かくして、この委員会は、生長した原価計算の強調する「管理会計目的」と、それが制度としての原価計算であるために必要な条件と目される「公共会計目的」とをまえにして、それらを両立させうる道、つまりコスト・コントロールへの役だちをも満たしながらしかもこれを組織的な企業会計原則のなかに有機的・一元的に結びつけ、制度の目的とする社会的な利害調整機能を果たすに足るものを見出す必要に迫られるに至った。

 財務会計は期間計算であり、原価計算は対象計算であるというような素朴な見解や、財務会計が外部報告会計であるのにたいして原価計算は内部報告会計であるというような単純な分類というものが再検討されざるをえなくなったのも当然である。原価計算の職能をめぐる議論が、にわかに活発になていったばかりでなく、この原価計算の二面的性格の顕現化は、管理会計論の分野においてただちに管理会計本質論争をまき起こすひとつの有力な動機にもなり、そこでもまた、企業会計を財務会計と管理会計とに二分し単純にこの両者の対比を行う取り上げかたというものが、きびしく反省されることになった。

 さらに、これに類する反省というのは、さきにながめたいわゆる財務会計論の領域においても、絶無であったわけではない。とらわれた単純な技術論的会計学から一歩脱却しなんらかの意味で経営管理に奉仕するものとしての会計学でなければならないとする主張も、現にかなり有力に存在していたわけである。もともと、財務会計に冠せられている財務という言葉自体、元来は資本の準備・調達という語源をもつ言葉であり、企業財務論の課題もまた、たしかに比較的最近までは、むしろそのような認識に基づきつつ財務活動をもって調達―保管―生産―保管―販売というような経営活動の水平的プロセスのひとつと解し、資金調達上の手段としての調達市場の問題、資金調達上の手段としての株式・社債・借入金の問題、資金調達上の計慮と結びつく利益処分の問題など、主として資金ないしは資本の調達の問題のうえに見出されてきたといってよい。そしてそのような財務の認識をもって所与の前提として、それに奉仕するものであったればこそ、財務会計は資金調達の制度と手段との推移につねに歩調を合わせそのときどきの財務の課題に仕えつつ、ある段階には債権者的観点からする会計、またある段階には株主的観点からする会計として大きく生長してきたわけである。しかし、最近においては、財務活動が単に資金調達の面のみでなくその運用面にも及ぶものとされ、しかも財務のもつ経営管理職能が重視され、企業財務論が経営者的観点からするいわゆる財務管理論のかたちで展開されてるようになっている。
 そこで、ひとたび財務についてそのような認識をするならば、経営者が財務管理の手段ないしは用具として必要とする会計もまた、まさしく財務会計と呼ばれてよいことになり、しかもそれがかりに公的役割をも達成するかぎりは、それこそまさに会計そのものでもあるわけである。そしてまた、その意味では、財務会計の領域が、ある程度まで経営計画ないし予算統制へと拡張されて理解されてもなんの不思議もないということになる。そしてそこまでくると、管理会計のもつ財務会計性と財務会計が持つ管理会計性とが交錯し合い、ついには、この財務会計と管理会計とを一度は共通の坩
堝のなかに放り込み、それらの両者の位置付けを振り出しに戻って考え直してみる必要と、ひろく管理会計論をも含めた意味での会計学の可能性とを確かめたくもなってくるわけである。

…続く…

しかも、このことはまた、別の角度からも問題にされている。つまり、管理会計論で取り上げられている予算統制や標準原価計算などにしても、もともと会計自体の始原的機能である財産保全目的に端を発しそれを補完するための計算制度の一形態であるにもかかわらず、管理会計論者がその点を問題にせずいたずらに抹消のみを突っつく傾向にあることを指摘し、企業の会計を財務会計と管理会計とに切り離して論じることをきびしく戒めたひともあったのである。いずれにしても、もともと現実の企業会計が一体的なものであるということは、今後の会計学の発展のためにも充分に省みられてよいことであろう。

 ところで、原価計算が制度化されるという場合に、財務会計との関連上、おのずから問題となるものに、原価差額がある。しかも、この問題は、シャウプ勧告による二十五年の税法改正との関連でもその調整の必要の有無をめぐって、とくに議論の対象になった。そして、この原価差額の性格の解明に端を発して、やがては原価性自体の再検討が行われはじめ、とりわけそれは、ボーダーライン上に位する各種の項目について、それらがはたしてプロダクト・コスト(製造コスト)であるかピリオド・コスト(期間コスト)であるかの議論として発展していった。

 さらに財務会計との関連上大きくクローズ・アップされることになった別の問題に、一般管理費および販売費がある。つまりそれらをピリオド・コストの枠からはずして固定的な製造間接費と同様にプロダクト・コストとして扱うべきであるとする見解が生じたわけである。また、これとはいわば対照的に、固定的な間接費のほうをむしろ一般管理費および販売費についての一般の慣習と同様にピリオド・コストとして取り扱う新しい原価計算、つまり直接原価計算の提唱とその理論的解明も始められるに至った。

 とりあえずここに大雑把に展望を試みておいたさまざまな動きについては、いずれ逐一克明にこれを跡づけるつもりでいる。しかし、単に以上の概観によっても、戦後わがくにの会計学界が、およそなにを目ざして歩み続けてきたかということだけは、すでにある程度まで明らかになったことと思う。そこには、会計学を一個の科学としてのかたちまで整え上げるための、ひたむきな精進があった。とくに、これまであまりにも細分化しすぎていた企業の各部分領域を相互に結びつけ、それらを統一的・全体的に把握しようとする努力には、実に顕著なものがあったのである。

                   (「会計学の展望」昭和三十四年七月)


山桝忠恕先生の経歴

大正11年5月(0歳) 名古屋市に生れる

昭和15年3月(17歳) 愛知県立明倫中学(現明和高)卒

昭和17年9月(20歳) 彦根高商(現滋賀大学)卒

昭和20年9月(23歳) 神戸経済大学(現神戸大学)卒、経営学士第一号

昭和20年10月(23歳) 同大学助手

昭和23年4月(25歳) 同大学講師

昭和25年4月(27歳) 松山商大助教授

昭和28年4月(30歳) 神戸商大助教授

昭和33年4月(35歳) 慶大助教授

昭和35年3月(37歳) 経済博士

   〃  4月(37歳) 慶大教授

昭和38年5月(40歳) 在外研究の為渡欧

   〃 10月(40歳) 義塾賞受賞

昭和39年3月(41歳) 在外研究を終え帰国

   〃  5月(41歳) 日本会計研究学会賞(太田賞)受賞

兼務 企業会計審議会委員(大蔵省) 公認会計士審査試験委員(大蔵省) 

    法人税法通達整備審議会委員(国税庁)など多数   (注) 昭和44年8月現在





















8月10日(土)

山桝忠恕先生のことが最近懐かしく思い出される。大学二年の時、三年からのゼミナールを選ぶための説明会があった。会計学で著名な先生のゼミと評判がよかった山舛ゼミの説明会を聞くため教室に入った。まだほとんど学生がきていなかったと思う。なにしろ四十年前の話である。教室に入ると一人の学生が、椅子や机の乱れを直していた。別のゼミの説明会が終ったばかりであったのかもしれない。学生はあるいは大学院生のようでもあった、またはいま思う助手(その当時は、そういう教授の卵のような人たちのことを助手と呼ぶことも知らなかった)のようにも思えた。きれいに机を並べ直し、その学生は出て行った。
さて教室が学生で満員になったころ、山舛先生は現れた。わたしはきょとんとして先生を眺めた。あの学生だとばかり思っていた…その人こそ山舛忠恕先生その人であった。教授というようないっさいの、なんというか、飾りのようなものはなにもなかった。ほんとうに学生、文字通り学に生きているだけの人という印象であった。先生は「あすなろう」が好きだと言ったことがあった。