土屋文明







近藤芳美著『土屋文明』より
『山の間の霧』の時代 『韮菁集』の旅 『山下水』の時代 『自流泉』の時代 『自流泉』以後 『青南集』『続青南集』『続々青南集』

近藤芳美の本を読みすすめるうちに私の中で土屋文明がだんだん大きくひろがってゆきました。今まであまり足をとめたことのなかった土屋文明。近藤芳美の本を読むうちに、わたしの求めていた短歌はこれだ、土屋文明が唱えた「生活即短歌」の考えに思わず叫びました。

土屋文明NO.1へ 短歌の現在および将来について(昭和二十二年名古屋市の文化祭でおこなった文芸講演)

歌を作るに適せざる人々     


『山の間の霧』の時代

☆昭和17年2月号「アララギ」に掲載された土屋文明の作品。

ラボールは既に廃墟とリスボン告ぐ日の直下(ただした)に旋廻すらむ君は

ハワイ爆撃終へて静かなる君が歌吾に最後の言葉添へ給ふ

目の前に勝ちてつつましき君を見る此の感激は私にせず

たかぶりし吾に応(いら)へも静かにて海のつとめに帰り給ひき

事しあれば先づ閉づる艦の区劃にて君がなすことを君は語りき

恙みなく帰るを待つと送る吾に否(いな)まず肯(うべな)はず行きし君はも

☆土屋文明の戦争歌は一人の人間への関心を通して歌われることが多い。

芝の上に子を抱く兵多くして君若ければこともなく見ゆ

雪のある山より春の時雨来て練兵場に皆傘を立つ

いで行くに思ひ思ひのまどゐせり雨には妻と傘に入りたまへ

挙手をする君を別れて吾等去る廠舎には起る生徒の喇叭

いさぎよき君が歩みを見送りてたらの芽一つ吾はもぐかも

☆若い友人たちは次々に招集され遠い戦場にむかって行く。その中から次々と戦死者も出る。

生徒なりし若き面かげ目に立ちてよすがも知らず南(みんなみ)思う

父や母やうつくし妻の仰ぐ中に永久(とは)なる国の命にぞ入る

波多野土芝いづくの海ぞ十度百度行き来せし海を来ざるか

君が身は国の柱としづけるかまた飄々(へうへう)と帰りきたまへよ

☆波多野土芝というのはやはり「アララギ」の投稿者で船乗りであった。徴用され、南方に兵を送る途中沈められ戦死した。

(つづく)

昭和十七(1942)年六月、ミッドウェーで日本軍は大敗をした。翌十八年二月にガダルカナル島の放棄が伝えられた。このころ、土屋文明の青山の家は隣家からの出火で焼失した。

一年に少し老いしや否を否朝五時に覚め夜十時に眠る

まがつ火は焼くといへども友あれば吾は坐る日に殖(ふ)ゆる本の中

君等あまた国の境に立つ時にただ読む万葉集を少しづつ

重き負ひ朽ちさらばひし老も見き土地せまく苦しむは憤ろしも

けぶり立て飯かしぐ厨(くりや)見えながら家減りてゆく滝畑(たきばた)の村

☆十八(1943)年の末には学徒出陣、女子学生らは「挺身隊」として工場に動員される。

待ち待ちし工場の一日母知らぬバイトなどいふ語も覚え帰りぬ

二三日指にささりし切粉をば抜きすてて清々しく朝いで立つ

☆昭和十九(1944)年七月七日、サイパン島の日本軍が玉砕した。敗戦の日は目の前にせまって来ていた。
土屋文明が陸軍省報道部の命で中国大陸の旅に発ったのはちょうど其のサイパン陥落の前日である。

☆『山の間の霧』は土屋文明の未刊の歌集である。昭和十七年から十九年、中国大陸旅行に出発する日までの作品を含んでいる。

『山の間の霧』の時代はこれで終り次は、『韮菁集』の旅となります。

『韮菁集』の旅

☆昭和十九(1944)年七月六日の夜、土屋文明は中国の戦地視察の旅に出掛けた。サイパンの玉砕は彼が発った翌日、七月七日であった。

日に夜に心にかけしサイパンはかなしかりとも心は勢(いきほ)ふ

つつしみて黙祷捧ぐかなしみの為のみならず最後の勝利の為

☆米軍は相次いでグアム、テニアンの島々を攻略した。そんな日に土屋文明は北京に到着した。

方(ほう)を劃(くわく)す黄(き)なる甍(いらか)の幾百ぞ一団の釉(うはぐすり)熔(と)けて沸(た)ぎらむとす

紫禁城を除きて大方(おほかた)木立しげり青吹く風に楼門(ろうもん)浮ぶ

はてしなき青き国原(くにはら)四方(よも)を限(かぎ)り城門(じやうもん)あり北京(ぺきん)あり

城門より遥(はる)かにしてなびく煙(けぶり)一つ風は通州(つうしう)に到るなるべし

銅鉱なき国にして銅尽きぬこと南酒(なんしゅ)第一品(だいいつぴん)北京(ほくきやう)

浮かびたる一片(ひとひら)の紅(あけ)に及(し)かずとも力を集め雲に入る塔を起す

園(その)二つ荒れたる方に心寄せ泉(いづみ)を掬(すく)ふ日本の吾等

煤(ばい)を挽くうさぎ馬も馬を追ふ者も洗はれて清々し雨後(あめあと)の今朝

伝へ来る東京電報心にしみ旅程によりて蒙疆に入る

☆伝え来る東京電報は、サイパン喪失後のあわただしい戦局と政治の動きを指すのであろうか。(近藤芳美)

(つづき)

乾きたる草野に濁りまはる間(あいだ)列車とどまり減水を待つ

すばやく藁をかへして虫をとる少年白皙(はくせき)の面(おもて)よごれたり

垢づける面(おも)にかがやく目の光民族の聡明(そうめい)を少年に見る

☆内蒙古の地厚和に着いた。

道のべに水わき流れえび棲(す)めば心は和ぎて綏遠にあり

なれて巻く朝の脚絆の整ふを喜びとして遠く至りぬ

立秋の前の日風野分(のわき)だち幼児を毛布に包む婦人等(ら)

☆はるか蒙古まで来た感傷が作品ににじんでいる。

ほこり立て羊群(ひつじむれ)うつる草原(くさはら)あり黄河の方はやや低く見ゆ

ああ白き藻の花の咲く水に逢ふかわける国を長く来にけり

青き国に岸なき水のよどみたり光かすかに夕べの黄河

近く来てゆるやかなる流の音きこゆ瀬波(せなみ)に入りし島のごとき芥(あくた)

七月に雪水到り甘粛(かんしゅく)の雨水(あまみず)は到る九月なかばごろ

こぎ出でていよいよ広き大黄河(だいくわうが)しぶきを立てて瀬を越えむとす

香(か)を立てて青草もやし茶をわかす漢蒙(かんもう)混りあふ渡口(とこう)の昼すぎ

箱舟に袋も豚も投げ入れて落ちたる豚は黄河を泳(およ)ぐ

オルドスを来りし駱駝荷をおろし一つ箱舟の渡す時待つ

蘭州(らんしう)より少し減りくる水嵩(みづかさ)も流木(りゅうぼく)を見ずといふも心うつ

ま近くに黄河見え居る曹達(そうだ)の原(はら)色づく草に今朝はおどろく

(つづき)

☆厚和から大同にもどり、南下して太源にむかった。太源は山西省の首都である。

いくつかの軍の進みし路は見ゆ秋の穂いづる草原(くさはら)の中

一夜まち二十分あひし若き友覚悟を言ひ工場にかへり行く

高粱に粟に一葉の残るなし目の及ばざる涯(はて)につづけり

小さなる布振り或(ある)は畔(あぜ)に踏む国を食ひつくす蝗を追ひて

沙丘あり幾重かの古き堤防をよこぎりて行く黄河渡るべく

☆八月二十八日、文明は南京に着いた。

長江に或る夜ひらめく稲妻(いなづま)の方にし聞(き)こゆ今宵の高射砲

衝陽に進める軍のさまきけば相沢正幸(さき)くあれ真幸(まさき)かれ

長江を夜ゆく船のいかなりとも漢口(かんかお)の友に吾は会ふべし

☆漢口には行けず、南京から蘇州、上海、杭州を回り歩いた。

流言の中を游げる如く来ていくつかの流言を交易し行く

鳰(にほ)一つ浮藻(うきも)の上に首を振る大和(やまと)の池を思ひいでつも

竹生(お)ふる丘にぬるでの花咲けり向へる吾は日本を思ふ

☆南京から北上し、天津に着いたのは十月十六日であった。

泰山の黄より紫に変りゆく夕日の時に泰山をまはり行く

泰山を朝の光に見し時もこの夕時も空はただ澄みに澄む

(つづく)

☆天津に着いて文明は相沢正が病死したという思いがけぬ報を内地より受ける。

思ひつつ朝(あした)渡りし水上にすでになかりしかああ相沢正

南京に或る夜目覚めて胸さわぎ君を思ひきただ会ひたかりき

☆十一月二十四日、東京はB二十九の最初の空襲を受けた。それより先に、米軍はレイテ島に上陸し、日本海軍の壊滅と共にフィリピンの悲劇的な決戦が始まろうとしていた。

文にたつ者の心は鋭(するど)ければはばからず言ひ言ひて理解(りかい)する

英米に勝ちて大東亜文化あり勝つための大東亜文学と言ふ最もよし

☆南京で行われた大東亜文学者大会に出席を要請され、上記のような歌を文明は作った。

黄なる葉にやや沙を吹く風たてる北京(ぺきん)外城にかへりつきたり

君が家もいまだ焚(た)かねば外套(ぐわいたう)著て日本と支那のこと語り合ふ

古(いにしへ)を語らふ時にあひ通ふ心も今の時に少しくけはし

三寒(さんかん)の今日ははじめの沙の風青きももみぢもゑにしの落葉

☆十二月十七日文明は東京に帰った。帰京後、彼は「アララギ」につぎのような「編輯所便」を書いている。
「私は十二月十七日支那旅行から帰着した。私は私の予想よりも遥かに落ちついて居る東京に帰って来って限りない感謝を捧げて居る。会員お互に安否は心に掛かることが多いのであるが、今はそうした個人的な事にかかわって居る時ではない。銘々の心にお互の無事を祈りつつ銘々の職責に邁進しょう。通信など出来るだけ省略したい。吾々すべてが既に戦場に立って居るという感は切実である。ただ一つ戦い勝たむことのみが吾々の念願にあるべきだ…」この「アララギ」十二月号が発刊されたのは翌年の三月で、以後敗戦の日まで雑誌を作る事は出来なかった。

これで『韮菁集』の旅は終り次からは『山下水』の時代になります。

(つづく)

『山下水』の時代

昭和二十年五月から二十一年までの作品七百九十七首を収録。疎開先の群馬県吾妻郡原町川戸での作品です。

打ちつづくる海の上の砲に目ざめても月没りしかば起くることなし

山の上に吾は十坪の新墾(あらき)あり蕪まきて食はむ餓ゑ死ぬる前に

☆八月六日、広島に原子爆弾が落ち、八月十五日戦争の終結の天皇の放送があった。激しい時代の胎動をやや離れて見守るように、土屋文明は山深い疎開地で次のように歌っていた。

ひねもすに響く筧(かけひ)の水清(きよ)み稀(まれ)なる人の飲(の)みて帰るなり

はしばみの青き角(つの)より出(い)づる実を噛(か)みつつ帰る今日の山行き

出で入りに踏みし胡桃を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた

分かちとるもの憤(いきどほ)るこころならず草より拾ふ乏しきはしばみ

夕のかげ早く及べる谷の田よいなごも乏し青きにすがりて

☆戦後昭和二十(1945)年九月号より「アララギ」は再発足した。土屋文明は毎号次のような「編輯所便」を書いていった。

「…作歌は吾々の全生活の表現であって、或る種の文学の如く枠を当てた中だけの人生を取扱うという訳に行かないから、短歌の表現は直ちに作者其の人となり、現在の如く改変の急なる時代には、歌を作る人間は其の作歌に依って直ちに世の批判の的になる事が多く、自らを韜晦するというような事は出来ない。実に臆病では歌も作れないという事になるが、それだけに又、作歌が直ちに全人的活動になるのだから、作歌しつつ此の難局の実践が出来るとも云い得よう…」(昭和二十年十月号)に

「…現在吾々の眼前に迫って居る変革は尋常一様のものではないと思われる。短歌の形式が、またアララギの制作態度が、此の変革をも乗り越えてなお存在の意義を主張し得るや否やは全く今後の諸君の作品の実績にかかって居るといえよう…」(昭和二十年十一月号)

「…なお又吾々は会員諸君から標準語めいた新思想を聞こうとは思わない。むしろこの新しい事態を諸君がいかに実践して居るか、その生活の真実の表現をこそ吾々は聞かむと欲して居るのである。そうしてそこにはまだまだ短歌として開拓されない、ひろい分野が在るように私は思う。また思想以上の情意の世界が吾々の表現を待って居るのだと思う。思想以上の強力な生活が在る筈だ…」(昭和十一年一月号)

また土屋文明は次のようにもいう。

「…左千夫先生は政治的関心の深い人で、早くから内地雑居を論じたり租税問題を論じたりした投書が、新聞日本子規の歌よみに与うる書と相前後して載せられていることは、諸君御承知の如くである。先生のこの指向は晩年まで変わることなく、吾々も先生の政治論の聞手に選ばれて若干当惑した記憶もある。其の後は余りそうした方面に興味を示すものはなくなって今日に及んで居ると言えようか。しかし吾々が政治運動をしたり、政治論をしてりする心持ちから遠ざかって居るということは、世の中の動きに無関心で居るという意味ではない。実は運動や討論よりももっと根本的な所に関わろうとするからである…」(昭和二十一年二月号)

☆「政治と文学」の問題を自己の切実な問題として考え、解答を出そうとしていた。

(つづき)

☆敗戦後数年を山深い農村の疎開者として過した。「川戸雑詠」と題する多くの作品は、そうした疎開者の孤独な生活のなかで作られた。

相鬩(あいせめ)ぎ互に貶(おと)しめ小さなる此のくにつちを如何にせよとか

谷せまく食ひたらふなき村を成し米運びし一人を指弾す

この者もかく言ふ術を知れりしか憤るにあらず蔑(さげす)むにあらず

この谷や幾代の餓(うゑ)に痩せ痩せて道に小さなる媼(おうな)行かしむ

めぐらせる雪の山々もかくろひて吾が住む狭き谷に帰り来

海遠く未(いま)だ帰らぬを夢のうちに相見泣きつつ覚めて静けし

走井に小石を並(なら)べ流(なが)れ道(みち)を移すことなども一日のうち

北支那より帰りし君を伴へど雪の下には採(つ)むべきもなく

吾が言葉にはあらはし難(がた)く動く世になほしたづさはる此の小詩形(せうしけい)

風なぎて谷にゆふべの霞あり月をむかふる泉々(いづみいづみ)のこゑ

にんじんは明日蒔けばよし帰らんよ東一華(あづまいちげ)の花も閉ざしぬ

この言葉も亡(ほろ)びるのかと嘆(なげ)かひしこともひそかに吾は思はむ

「吾妻郡は山地で平地は吾妻川を挟んだ両側に僅かに帯の如く、水田となり畑地となっている。しかしこれは何処でも見る通りの景色で別に珍らしくもない。川は清流の相を備えて居るものの実際は流れて居るのは白根火山の硫黄水で目高一疋棲まないそうだ。私は川原の石を赤く染めて増減する水嵩や、時に乳色になる流れに反って感興を覚えてこの川に愛着を増している。…」

「水があれば田を植える。寒い山水を引いて植えた棚田は今年の冷気ではただ穂を出したのみで一粒の米をも稔らせぬ所もあった。恐らく三年か五年に一度の稔りを頼みにして植えられるのであろう。私は一日たりとも足を留めた吾妻郡を愛する。私は働く人の目をはばかって、私の散歩のために用意された如き広い畔を伝わりながら思う。何とか日本農法の改良法はないものだろうかと…」

☆敗戦後数年を山深い農村の疎開者として過した。「川戸雑詠」と題する多くの作品は、そうした疎開者の孤独な生活のなかで作られた。

相鬩(あいせめ)ぎ互に貶(おと)しめ小さなる此のくにつちを如何にせよとか

谷せまく食ひたらふなき村を成し米運びし一人を指弾す

この者もかく言ふ術を知れりしか憤るにあらず蔑(さげす)むにあらず

この谷や幾代の餓(うゑ)に痩せ痩せて道に小さなる媼(おうな)行かしむ

めぐらせる雪の山々もかくろひて吾が住む狭き谷に帰り来

海遠く未(いま)だ帰らぬを夢のうちに相見泣きつつ覚めて静けし

走井に小石を並(なら)べ流(なが)れ道(みち)を移すことなども一日のうち

北支那より帰りし君を伴へど雪の下には採(つ)むべきもなく

吾が言葉にはあらはし難(がた)く動く世になほしたづさはる此の小詩形(せうしけい)

風なぎて谷にゆふべの霞あり月をむかふる泉々(いづみいづみ)のこゑ

にんじんは明日蒔けばよし帰らんよ東一華(あづまいちげ)の花も閉ざしぬ

この言葉も亡(ほろ)びるのかと嘆(なげ)かひしこともひそかに吾は思はむ

「吾妻郡は山地で平地は吾妻川を挟んだ両側に僅かに帯の如く、水田となり畑地となっている。しかしこれは何処でも見る通りの景色で別に珍らしくもない。川は清流の相を備えて居るものの実際は流れて居るのは白根火山の硫黄水で目高一疋棲まないそうだ。私は川原の石を赤く染めて増減する水嵩や、時に乳色になる流れに反って感興を覚えてこの川に愛着を増している。…」

「水があれば田を植える。寒い山水を引いて植えた棚田は今年の冷気ではただ穂を出したのみで一粒の米をも稔らせぬ所もあった。恐らく三年か五年に一度の稔りを頼みにして植えられるのであろう。私は一日たりとも足を留めた吾妻郡を愛する。私は働く人の目をはばかって、私の散歩のために用意された如き広い畔を伝わりながら思う。何とか日本農法の改良法はないものだろうかと…」

☆彼の関心は貧しい峡村の農民らの生活に絶えずむけられる。

(つづき)

☆土屋文明の作品に「日本語」の運命という事が繰返し歌われる。

聞え来る友等のたより多く悲し吾が命あるはかなしまむため

春の日に白髭(しらひげ)光る流氓(りゅうばう)一人柳の花を前にしゃがんでゐる

☆流氓(りゅうばう)というのは、東京に帰る家のない老歌人、土屋文明自信なのであろう。

戦死せる人らの馴らしし斑鳩(いかるが)の声鳴く村に吾は住みつく

鳥籠に寄り立つ人の父を見る万の戦死者の親かくありや

君が為放ちし飼ひ鳥帰りぬといふをし聞けば吾も嘆かむ

今日もかも春日に歩む父を見る南遠く子を戦死せしめたり

☆或る日疎開の文明のもとに息子が帰って来る。かって、『ふゆくさ』の中で、「子は子として生くるべかるらししかすがに遊べるみればあはれなりけり」と歌い、『山谷集』の中で「堪へしのび行く生を子等に吾はねがふ妻の望は同じからざらむ」と歌った吾が子である。

わが恋ふる苗場(なへば)は遠く淡々と煙のごとき雲のまつはる

時代ことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向ふ一つ山脈(やまなみ)に

同じもの食ひながら彼はのんきにて我は息づき山の石を踏む

白砂の朝の白雪午後の日に少しのこりてあをく澄む天

うりかへでやうやく散れる青き木肌ひそかに愛(め)でて山下(くだ)る父ぞ

己(おのれ)一人のみに足り居れぬ心なら如何なる考方も我うべなはむ

☆自分をみつめ、自分だけの世界を守ってきた生涯であった父である文明。息子は「己(おのれ)一人のみ」に関わり生きる事に安んじてはいない。その考えの相違を父として理解しようと思う。枯山に腰をおろしながら吾が子の語る激しい言葉を文明は今黙って聞いている。

☆昭和二十二年の新年詠である。

こゑあるものは声あげよここにあたらしき国のさかえむ

光来るおそき山かげに我ありて遠くあくがるる天のあけぼの

失ふものはや今はなしと思ふとき吾があたり皆新しく見ゆ

これで『山下水』の時代は終り、つぎは『自流泉』の時代となります。

(つづき)

『自流泉』の時代

☆『自流泉』は昭和二十二年から昭和二十六年まで五年間の作品千二百四十首を収録する。

☆昭和二十二年の夏、土屋文明は次のような歌を作った。

いたづらに老は来らむ山いでて万葉私注つづけむか否か

「…伊藤左千夫先生についてたどたどしく万葉集を読み習った期間も長くなかったが、先生の歿後も、時に断続はあっても歌を作ることと万葉集を読むことはとにかく今まで続けて来たことになる。左千夫先生が懸命の志を以て従われた万葉集新釈は巻第一が完結せぬままに先生の命終となったのであるが、私は先生からの恩頼にこたえるために、せめて新釈の補注をつくりたい念願であった。先生は学者ではなく座右に置かれたものも古義と考の程度で其の後の研究の結果は利用することがなかったから、私の補注はそうしたものを一通りつけ加えて新釈をよみやすくし、学問的進歩に左右されない先生の達識を明らかにしたいと考えたのであった…」

「…其の後この原稿も私の巻第二以下の仕事も放置されたのであったが、此の度筑摩書房の熱心な慫慂によって、此の残焼物も世に出ることになり、私も老躯をかって第二以下の稿をつづけるつもりになった。之は今では日に嵩まる私の日常生活費を得る目的も大に加わったので始めに取りかかった時の如く、きれい仕事ではなくなってしまったのも事実である…」

問の字の部類(ぶるい)も知らず字引(じびき)引きたどたどとして夕暮れの時

貧と窮と分ち読むべく悟(さと)り得しも乏(とも)しき我が一生(ひとよ)なりしため

民族に関はりなき字訓と人のいふ歴史を無みする民族ありや

前山(まへやま)をこえて白根の見ゆるまで上り来りぬ炭を負ふべく

ゆふ闇は谷より上(のぼ)るごとくにて雉子(きぎし)につづくむささびのこゑ

凍りたる筧(かけひ)あやぶみゴム足袋はく空襲の夜よりはきしゴム足袋

今日の夕べの食(しょく)をあつむとのぼり来ぬ郭公(くわこう)のなく所まで

明日は必ず立ちゆかむ燕巣にありて一つ灯の下に我とわが妻

蚊帳の中に衰ふる我を襲ひたる虻(あぶ)を刺客(せきかく)の如くに憎む

草をつみ食らひ湛へつつ生きにしを流氓(りゅうばう)何に懼(おそ)れむとする

☆山深い疎開地、時代に取り残されたような生活の中で、文明は懸命に万葉の注釈を書きつづけた。

(つづく)

☆昭和二十五(1950)年六月、朝鮮戦争が発生した。昭和二十六年の新年詠には次のような作品がある。

誰も願ふ平和の年のはじめにて誰もただ呆然と見送りてゐる

☆四月十一日、彼はふるさとを訪れた。追われるようにして一家の去ったふるさとであるがすでに長い歳月が過ぎている。

道の上の古里人(るるさとびと)に恐れむや老いて行く我を人かへりみず

老いし木は腐れ入りうつろの口をあく数へつつ思ふ三十五年

夢に見るさまより少し豊かにて代り住む人清(すが)しくありけり

今日めぐる墓は三(み)ところ吾がとぶらふ跡に一つのしるしだに無し

心太(ところてん)売りたる祖父(おほぢ)の店の跡あの畦(あぜ)にゆすら梅はまだあるかも知れぬ

この谷(やつ)に入りなばゑぐの残るらむ雨のふる田を見て引きかへす

☆昭和二十六(1951)年九月八日、講和条約が調印された。

よろこびを知らざる国の八年(はちねん)にかにかくにして今日の日到る

戦ひて敗れて飢ゑて苦しみて凌(しの)ぎて待ちし日と言はむかも

日本に帰らむと食を断つといふ島をこぞりて悲しみに居る

幼子の語調も変り来るといふ如何にか守らむ此の日本語を

☆この昭和二十六年十一月、土屋文明は足掛け七年の疎開生活を終え東京に帰った。

てんぽなし此の一本(ひともと)の成る年も成らざる年も待ちにしものを

杖おきて石に下り立つ谷水(たにみづ)に沈める一つ拾はむとして

なほ深く逃ぐる場合も考へて移り来しより七年になる

☆川戸の生活以来書きつづけていた彼の『万葉集私注』の二十巻が完成したのは更に五年後、昭和三十一年である。

「…私は今、この私注の最終巻の後記を記すにあたって、事が終ったというよりは、寧ろこれから出発が始まるような心持で居る…」第二十巻の後記に記された一節である。

これで『自流泉』の時代は終ります。次は『自流泉』以後となります。

『自流泉』以後

昭和二十八(1953)年二月、斎藤茂吉が七十二歳で死んだ。戦争中疎開していた山形県から引上げ東京に移り住んだのが二十二年、老い衰えた容貌に敗戦の苦悩はいたましいまでにかざまれていた。
紺絣の袷に小倉の袴、羽織を着ず角帽をかぶった、はじめて会った日の長身の大学生茂吉の面影を知っているのはもはや文明だけである。左千夫を頼って上京した数日目に、彼は茂吉の家に伴われて行き、女中の「おくに」に韮の卵とじのご馳走になった記憶もある。築地本願寺で行われた告別式で弔辞を読みながら、六十四歳の土屋文明は声をあげて嗚咽していた。
敗戦後の「アララギ」の編集に不満をいだいていた茂吉は、「土屋君は徳川家康だ」などという憤怒を周囲にもらしていたという。だが、茂吉に対する文明の傾倒は最後まで変わらなかった。そうしてその傾倒と同時に、眼前に険しくそびえはばむような作品を常に意識して、彼の文学の模索は生涯つづけられてきていた、という事も間違いない。文明の非情冷徹なリアリズムは、茂吉の麻薬の匂いに似た深い詩の息吹から逃れるために、ことさらに守られ、きびしさを加えられていった、ともいえよう。その茂吉は今は居ない。

死後のことなど語り合ひたる記憶なく漠々として相さかりゆく

慰めむ味噌汁を吾が煮たりしも口がかわくと嘆きつづけき

あひともに老いの涙もふるひにき寄る潮沫の人の子のゆゑ

ただまねび従ひて来し四十年一つほのほを目守るごとくに

近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして

☆昭和二十八年十月号の「アララギ」に発表された追悼歌の一連である。

しかし、山頂の巨木の朽ちて倒れるような茂吉の死以前に、文明はすでに「アララギ」の指導者であり、同時に戦後歌壇の指導的作家の一人であった。戦後の短歌は文明の文学を中心軸として、大きな転回をつづけようとしていた。「第二芸術論」其他の否定論のとなえられ出して行く日である。
そうして、その転回の起動力となって行くものに、彼の文学理念があり、その具現としての、いわゆる「アララギ選歌欄」の意味があった事も無視することは出来ない。
文明はすでに「アララギ」初期に短歌の理論的研究をこころざし、昭和七年には改造社版『短歌講座』に「短歌概論」を書いた。「短歌概論」は、それまでの歌人の手になる啓蒙書的入門書の域を出た、系統的な短歌理論のほとんど最初の業績の一つといえよう。
しかし彼が自己の制作体験を通じ、彼だけの文学理念を語り出して行くのはもっと後からであり、特に敗戦後からである。その一応の結論とも見られるべきものが、「短歌の現在及び将来に就て」の一文であろう。角川文庫版『新編短歌入門』に収録されているこの文章は、昭和二十二年十一月、彼が名古屋市の文化祭で行った文芸講演の速記にもとづいたものである。

(つづく)

その中で、型式とか用語の問題に一通り触れた後に、土屋文明は、短歌がどのような文学であり、たれによって作られ、たれを受用者として作られるべきかという事を端的に論じている。
彼は次のようにいっている。

「…短歌の吾々に歴史的にも教えること、また現在でもそうであることは、それが生活の文学であり、生活即文学である。生活の表現ということは先程申しましてそれでも足りないということを申しましたが、実際短歌は生活の表現というのでは私共はもう足りないと思っている。生活そのものであるというのが短歌の特長であり、吾々の目指している道であるように私は感じます。恐らくその生活と文学の関係というものは、社会機構の変動というようなものに影響を受けない関係ではあるまいか…」

短歌が作られて行くのは生活の中であり、生活者の中である。短歌は「生活の文学」である。しかしそれは「生活の表現」などといったなまぬるいものではない。吾々はもはや表現などという言葉で足っておれない地点に来ている。短歌が生活そのものであり、作歌はわれわれにって血みどろに生きて行く事なのである。生きて行く中で叫ばれ、語られて行く生活者の声なのである。彼がいおうとしているのはその意味なのであろう。
さらに彼は短歌がたれのものであり、たれのために作られるべきものであるかを次のように語る。
短歌は「選ばれた少数者の文学」である。しかしその少数は「少数有閑者」の事であはない。又そうであってはならない。それは少数の真剣な生活者の文学だという意味であります。では誰が少数の真剣な生活者なのか。それを文明は「広い意味」での勤労者だという風に規定する。
それに関連して短歌の受用の世界ということも次のように説明される。

「…短歌というものは、決して一つの英雄を作り出す文学ではなく、一つの天才をめぐる文学ではなくて、同じ立場に立ち、同じ生活の基盤に立つ勤労者同志の叫びの交換である…」

そうした意味の上で、「吾々の民族生活の展開の足場」としての伝統を背後にしたものが短歌であり、特に今後短歌が民族詩として生き得べき「行くべき道」である事を彼は最後にいっている。

「…わたしは今後の短歌の行くべき道としては、その現実に直面して、お互同志同じ生活の基盤に立ってこの生活を声に発しなくてはおれない少数者、即ち先程申しました少数者、この現実の生活というものを声に発しなくてはおれない少数者がお互に取り交わす叫びの声、そういうもの以外はあり得ないんじゃないかと思います。…」

昭和二十二年という、敗戦間もない時代である事の歴史的背景を考慮した上で、やはりこの言葉は土屋文明が自分の文学生涯のはてに苦しんで見出した彼自身の文学理念であるという事は理解してよいであろう。そうして彼がいっている意味は、その後歌壇で流行した「民衆短歌」などという甘ったれた議論とも異なるものであることを、かれの繰り返す「少数者」という言葉から受取るべきなのであろう。
しかし彼は短歌が地上の詩であり、人間の生活の中の詩である事を明らかにした。『ふゆくさ』の後半期以後苦しんで来た文学を背景にして、「短歌の行くべき道」をこのように文明は規定した。

(つづく)

戦後数年間彼が「アララギ選歌」に注いだことに激しい熱意は、この「行くべき道」を「勤労者同志の叫びの交換」の中に求めようとした、彼だけの懸命な願いだったかもしれない。そうして、彼の指導下に育った「アララギ」選歌欄の無名作者らの作品群は、戦後歌壇に、戦前の短歌と確然と性格を分った一つの典型を創り出した行った、とも今ではいえよう。
『自流泉』以後土屋文明はいまだ(昭和三十六年)歌集を出して居ない。上京した後明治大学の文学部教授をつとめ、昭和三十一年(1956)年には念願の『万葉集私注』二十巻を完成した。

荷を解きし芥の灰を韮苗の上に覆ひて春待たむとす

なほ一人の土屋が山に残り居て落葉の坂を行くかともまどふ

昭和二十六(1951)年の年末、疎開地を去った直後のころの作品なのであろう。

細き萱穂に出づる下のをみなへし相共にして年こそあれ       昭和二十七年

たのみ来し方竹に見る蔭もなしひと夜塩ある風吹きしかば      昭和二十八年

いつはりの囲める中のまことにて寂しきまこと過ぎてゆきにけり   昭和二十九年

滅びたるものの幾つか忘るるにあさつくきの秋茂なよなよし     昭和三十年

年々に足の立たなくなる二月恐れて冬のひよこを飼はず       昭和三十一年

声立たず老いしカナリヤを友として呟く時に呟きて起く         昭和三十二年

よろこぶは栄ゆるは心をどるもの何にかたくなの我が五十年     昭和三十三年

夢にあふも大方は亡き人の中に稀に生きたる何のうとみぞ     昭和三十四年

国狭く一日に尽きてめぐりあふ魚はこぶ浜のふゆ葵の苗       昭和三十五年

昭和二十七(1952)年以後の「アララギ」掲載歌をやや無作為に抄出して見た。どの歌にも、さすがに老年の感慨がにじむ事は否めない。述懐風な身辺詠の多くなって来ていることも争えない。しかし昭和三十五年「アララギ」二月号に彼は次のような歌を作りしめしている。

旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或は行かむ

旗を立て「愚かに」道に伏しているというのは、新安保条約の締結に国民の反対を押し切って米国にむかおうとする日本の首相の一行を阻止するために、羽田空港の道に集まる学生たち、労働者たちの事なんであろう。自分が若かったなら、彼らと共に或いは阻止に向ったであろう文明は歌う。

かの時に憎みし面どもはやく亡び新たなる面新たににくむ

というのもそれに関連した作品なのであろう。敗戦後十五年、日本は再び苦しい歴史の道を歩み出そうとしている。このような歌を作る七十一歳の土屋文明の中には、私はいまだ衰えない日本の民衆歌人、民族詩人の、陽に焼けた、老農のようなたくましい面魂を感じる。

これで『自流泉』以後を終ります。次は『青南集』『続青南集』『続々青南集』です。

(つづき)

『青南集』『続青南集』『続々青南集』

旧版『土屋文明』(近代短歌・人と作品)の執筆が昭和三十六年であり、以後、二十年になろうとする歳月がある。そうしてその間、土屋文明は『自流泉』の後の、 『青南集』『続青南集』ならびに『続々青南集』の三冊の歌集を出している。しかも、今日、九十歳を越えようとして、なお彼は現役歌人としての作歌活動をつづけており、三冊の歌集を含めてそこには膨大な作品の累積があることを知らなければならぬ。
さらに、それはまた次のようにも言える。すあんわち『青南集』の前の歌集、『自流泉』の作品採録は昭和二十六年までであり、文明が六十二歳の年でである。その年に彼は疎開地から東京に帰住し、同じように、敗戦国日本に講和条約が結ばれた。同時に締結された日米安全保障条約により日本の運命が否応なくアメリカの軍事体制下に従属させられていく年でもあった。
そうして、その日から三十年の時の経過があり、私たちの生きて来た戦後の歴史があった。それはまた土屋文明にとり、六十歳代の初めから九十歳の今日に至る、ひとりの人生の、老年と呼ぶべき年齢の歳月であった。文学について言えば、老年の到達に至る間であろう。
旧稿である私の土屋文明論を補うためにも、当然そうした歳月の期間と、その間の膨大な制作とを追って文学自体の推移ないし到達を見ていかなければならないことは言うまでもない。繰り返せば、それは土屋文明という一個の作家の老年の到達に至る歩みと、その背景をなす日本の戦後史を考える作業として簡単にはすませない課題であるはずである。
ただ、今回の場合それが出来ない事情は序文でも触れた。旧版の補足に止めなければならない、シリーズとしての制約のためである。その範囲で、 『青南集』『続青南集』『続々青南集』の三冊の歌集の作品の世界を概括して見ていきたい。
『青南集』は昭和四十二年に出版されており、作品の制作は昭和二十七年から三十六年にわたる。しまわち文明の、六十三歳から七十二歳に至る間である。彼がその前年、昭和二十六年の終りに疎開地の群馬県吾妻郡原町川戸を引揚げ、旧居住地である東京の青山五丁目に帰住したことはすでに記した。

うから六人五ところより集り七年ぶりの暮しを始む

吾が部屋を一つもらひて電灯の明るき下にわびしくぞ居る

なほ一人土屋が山に残り居て落葉の坂を行くかともまどふ

霜消ゆれば出でて焼けたる瓦拾ふ東京第二層に何時までか住む

(つづく)

などという「青山南町に帰り住む」一連から『青南集』は始まり、同じように彼の東京帰住後の生活も始まる。朝鮮戦争の勃発は昭和二十五年、二十六年に講和条約が結ばれ敗戦を経た日本の歴史が再び大きく転回しようとする。二十八年にスターリンの死が伝えられ、それはやがてソ連のスターリン批判につづく。ついでに記せば、戦争末期に彼が見て来た中国は朝鮮戦争の前年、昭和二十四年に中華人民共和国として生れ変る。私たちの日本でもたとえばメーデーとか、内灘や砂川の、漁民、農民らの基地闘争が繰り返された。文明自身は帰住の翌年から明治大学文学部教授となり、三十五年まで教壇にたった。戦後日本の激動の一時期と、その中に一知識人としての日常が『青南集』の約十年間の作品累積の背後煮あると言える。

だがそうした一首一首は、しだいに彼の狭い身辺にのみ限ってうたわれていこうとする。

みやこ草芝にかくるる芽を見れば奈良の佐紀野に堀りて来しもの

韮の葉の霜枯るるさまもおもむろにて冬至に近き日の沈みゆく

みぎりにて憎み憎みしかたばみに夕日のこりて此の冬の花

たとえば、これらの歌をやや任意に抄出してみた。焼け跡に建てた新居の庭に草木を植え、その日常詠は草木への深い愛着とつねに交互する。文明作品の初期以来の一側面ではあるが、それがしだいに作歌関心の大きな部分をしめようとする。
そうして彼の日常もまた狭い生活の周辺に限られることもすでに記した。昭和二十四年に始まる『万葉集私注』二十巻の著述は、三十一年に一応完結するが、その後も補正の仕事はつづけられ、老年の今日い至るまで営々として倦まないとも言える。それは当然彼の作歌の主題ともされ、うたい繰り返されていくのであろう。同じように、その間しきりに小旅行が重ねられ、たとえば、

そこと思ふ海も海のうえの島山も月の光はただほのかにて

一つ歩む千鳥を襲う烏あり深江の浦の朝なぎの時

あるいは、

足袋を買ふ妻につれ立つ港の夜路地には鰯を割き鯵を割く

南の国いまだ蚊の飛ぶ十月に売る白菜は信濃より来るといふ

などの羈旅詠がしきりにうたわれる。
後者は「日向油津」と題されるが、その中にはまた次のような歌が交じる。

どの部屋かさわがしき声聞けば分る喜んで居る椎屋宗一郎

「椎屋宗一郎」は文明に師事する一「アララギ」会員の名。旅をして来た彼を慕って宿を訪れたのか。似た例を示せばこのようなものもある。

韮の畝半ばおそく出で来ぬは西山岱作逆さに植ゑたり

日常詠、羈旅詠を通じて、身辺の人間がうたわれ、それらはときとして一種の諧謔を交えたほのぼのとして人間愛情が告げられることで共通する。

(つづく)

土屋文明のそうした日常詠、ないし羈旅詠の間に次の種類の作品をも見出し得る。

白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか

一ついのち億のいのちに代るとも涙はながる我も親なれば

前者は昭和二十九年「庭草むら」とある中の一首、後者は三十五年「ルーマニアアルバ」とされる一連の中のものである。二十九年にビキニ島で世界最初の水爆実験が行われた。三十五年は安保闘争の年であり、議事堂を包囲する激しい市民デモの中で樺美智子という一少女が死んだ。それぞれに、背景のある歴史を凝視した上での思想詠とも言い得るが、全体を通して、このような歌は数少なく、むしろ例外的になろうとする。『青南集』以後の推移として、それも見ておかなければならないのであろう。
『青南集』に続く歌集として、『続青南集』は同じ昭和四十二年、同時に発刊されている。集められた作品は『青南集』の後、昭和三十六年の終りから四十一年にわたる。年齢的には七十一歳より七十六歳に至る間である。
この間、すでに明治大学教授の職は去り、また、三十七年、心筋梗塞を病んで入院したりする。

髭白き妹のやしなふ箸を待つ母の哺育を受くる思ひに

牛の子の如くにからびしくそつけて臥(こ)やる一日侘しかりけり

などの病床詠がつくられているが、その他は『青南集』の期間につづいちほとんど生活周辺に変化なく、『万葉集私注』補正を中心とする執筆と、それらの間の小旅行だけが重ねられていくのも同様である。従って、うたわれる世界も身辺詠とその間の羈旅詠が大部分である意味も変わらない。
昭和三十五年の安保闘争を中心とする熱狂的な市民運動の退潮の後、日本はいわゆる高度成長の時代に向う。戦後は終ったと言われ、繁栄と平安と呼ぶ日々が生活の四囲につづくかに見えたが、海を隔ててようやくベトナム戦争は激化し、安保条約の絆の上に私たちはそのあくなき人間殺戮に加わった。日本が戦争の後方基地だった事実はまぎれもない。
だが、そうした時の中に生きる思いは『続青南集』を通してもはや正面からはうたわれない。あるいは、

ニュース聞くとつけしラジオをすぐに消す優等生弁論の声を憎みて

などと、むしろしれは逆の発想となっていくのか。そのような屈折した怒りさえ歌集にはあまり見出し得なくなっている。

ゆたゆたにうるほひ満てる石の文字昭和五年の君が心に

彫らしめし石の前に立ち自らもここに入るべく言ひにしものを

寺を出でて冬の日しづかに歩みゆく妬みも無けむ生きてゐることは

仮に、昭和三十七年の「浅草懐旧」の中の作品と、昭和四十年の「上総安房」と題する、

仄かなる三日月立ちて夕紅九十九里の方をまたかへりみる

昨日見て今日また来たる九十九里折り畳む波かはることなく

など引例する。前者は「童馬山房主人十年忌の為」として斎藤茂吉に対する作者一人の追憶を内容とし、後の一連は旧師伊藤左千夫への遠い懐旧の感情を底に揺曳させる。同じく、古泉千樫がうたわれたり、森田草平のことが素材となったりする。そのような故人回想の多くの作品を交え、告げ出されるものがようやく老年の述懐となっていこうとしていると言えるのであろうか。
それは静かな、しかも部厚い情感となって一首一首に沈潜する。的確な写実と、その上での巧緻な技法と相変わらず駆使してはいるが、一面に、表現に或る「軽み」ともいうべきものを帯びさせていく。「自在」と言ってよい。

(つづく)

神の馬面ながく時雨るる夕べ哉熊野五日に別れむとする

地対空ミサイルの如き志満夫人抗議あり碧麗しき目隠は成る

諧謔、ないし哄笑に通じる「軽み」は早くからあったとも言えるが、それもやはり「老い」の作品に加わる一側面と見ていってよいのであろう。
『続青南集』の終りに近く、

生あるも無きもことごと滅ぼすといふ火は天の何方より来る

山ひびき砲を試む守るのかほろぼすのかは其の時が知る

などがある。後の歌は「山中日々」とあり、或いは避暑地にあって聞こえて来る自衛隊演習の砲の音をうたったのであろうか。「守るのかほろぼすのか」というあたりにこもるひそかな、冷徹な批判は、その年齢に至って文明だけのものと言える。呟きのことばのように巻末においてふとうたわれているこれらの歌を、わたしもまたあやうく見逃そうとしていたのかもしれぬ。
『続々青南集』は昭和四十八年に発行される。『続青南集』の後、昭和四十二年から四十八年にかけての作品が収められる。四十二年に七十七歳、四十八年にはすでに八十三歳となる。それはもはや一人の文学者としての老境の時期と思ってよい。師の左千夫よりも、また越え難い先進とした茂吉よりもはるかに長く世に生きたのである。

目の前の谷の紅葉のおそ早もさびしかりけり命それぞれ

という歌がある。昭和四十三年、「布野また湯抱」とする連作の一首であり、直接にうたわれているのはそれらの地名に拘わる旧友中村憲吉、ないし斎藤茂吉の追憶であろうが、「命それぞれ」として抱かれていく思いは今それだけではあるまい。
類似する「老年」の感慨は次のようにもうたい繰る返される。

同じ茂りふたたびは見ぬ木蔭ゆく命のみこそただに長しも

老い朽ちし桜はしだれ匂はむも此の淋しさ永久のさびしさ

あひ睦びあひ別る人のいきさつは知る如く知らざる如く時は流れぬ

「同じ茂り」の歌は「青山谷通り」と題される中の一首であり、長く住みついた青山の町々に抱かれていく懐旧なのか。老い朽ちたしだれ桜に寄せる思いは「森田草平先生伊那疎開跡二所」とある作品、また最後のものは「小石川牛神下」として、松岡譲や久米正雄らとあった遠い青春の友情を追憶としてうたう。すべてが時とともに過ぎ去るのを見て生きて来た思いは、ようやく作者ひとりの寂寥として胸に抱かれていくのであろ。作品は行きとどいた把握と表現の上にそれぞれに重厚であり、沈痛である。至りついた老いの世界と呼んでよい。
そのことはまた、『青南集』以来一様に反復されているとも見える彼自身の身辺詠、小旅行詠についても言える。

亡き後に残らむさまあはれみし草木の多く此の寒に枯る

暁に眼を開くあたり人のなしかくの如きか墓壙の目ざめ

取り入れて冬凌ぐかと見し草の衰へ早し人間よりも

あるいは、

なびきあふ茅花(つばな)の光る夕日の道雲のつつめる山をこころに

海の上よりさし来る光きらきらし雀をも天の鳥かと見るなり

(つづき)

「越の遊草」「冬葵の岬」としてともに老年の日の旅の歌であるが、それらの感慨はほのぼのとして明るい一種の甘美ささえをまつわらせる。かつて青春の日にうたった「榛の葉のうら葉しらじら吹く風にさすや夕日のともしきものを」「秋されば青める潮にかづく鵜の間遠に人を恋ふといはめや」などに遠く通う浪漫性とも言えるのか。
その意味はまた、

此の見ゆる地平霞むにあくがれて出で行きし日のかへることなし

などの望郷作品としても告げられている。
「道に流れに」として題される、故郷の地を訪れたかと思われるこの最後の作品を含めた一連をほぼ最後に置いて、『続々青南集』は昭和四十八年初頭のころをもって終り、以後、歌集は編まれていない。この、執筆の時点においてである。昭和四十八年に土屋文明は八十三歳であり、それからもなお衰えを見せない作歌活動がつづけられていることはすでに記した。
昭和五十年八十五歳の文明に次の歌がある。

思ひ出でよ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて

山の木群青吹くはあらしの如くなれど蘆の茂りはたをたをと吹く

「白雲一日」としてその年の雑誌「短歌」七月号に発表されたもののうちである。
前年、四十九年に彼は長子を失った。『ふゆくさ』などの初期歌集に「旱つづく朝の曇よ病める児を伴ひていづ鶏卵もとめに」「子は子とて生くべかるらししかすがに遊べるみればあはれなりけり」などの少年としてうたわれている。老年にして知る思いがけない不幸である。
作品は回想の上に沈痛の思いを深く秘めてはいるが、同時に、老練であり、雄勁であり、高い格調を伝える。
さらに、昭和五十五年「アララギ」九月号にこのようにうたわれる。

汝がことも夢に見るまで距たりて或は楽し夢の中の遊び

汝ありて我を招きし黄木の年をかさねて苔のむしたる

同じ追憶と読むことが出来よう。「或は楽し夢の中の遊び」が一見なんでもない述憶のように見えて、しだいに老年の悲哀を繰りひろげていく。高手と言えようか。九十歳に至る日の、長い人生と、同じく文学の長い積み重ねを背後に置いた作品であろう。
『青南集』よりここにつづく、三十年にもなろうとする歳月の間の一短歌作者の歩みを早急に概括しなければならなかった。しかも土屋文明自身、なお現役の歌人である意味は幾度も記した通りである。その推移は今後にも見ていかなければならない。
ただ、私にとって一つの関心がある。それは、文学において、老年とは何かということである。或いは、歌人として、と言ってよい。長い作歌生涯の上に、土屋文明は今そのことを私たちに告げてくれるのであろうか。表現者がついに認識者である意味を、とさらに付け加えよう。

(終了)

歌を作るに適せざる人々     土屋文明

 われわれがもっとも多く遭遇する初心者からの質問の一つは、「私でも上達の見込みがありましょうか」「天才のないものでも歌が作れましょうか」というごときものである。これは実にばかげた質問であるが、しかし実際問題としては歌を作るに適せざる人々は存在すると思う。天才とか見込みのあるなしということは要するに程度の問題で、何人もその限界を示すことはできないが、次にあげた数種の人のごときはむしろはじめから歌を作らないに越したことはない。

(一)  嫌いな人は詠むべからず。

前節においてしばしば述べたごとく、歌の道は易きに似てなかなか困難である。しかし、世間から時代おくれかのごとく見られがちで、けっして歌よみは流行にも伴わなければ、世間的の華々しさもない。好きででもなければ永続きするはずがない。はじめから歌の嫌いな人のごときはけっして手を着くべきでない。ことにある遊芸ならば下手がかえって愛嬌というものもあるが、短歌のごときものでは作品はどうしても作者の全人格と関連して考えられるから、稽古を始める以上はある程度の修行を達成せしめるだけの覚悟はぜひ必要である。

(二)多芸多能の士は詠むべからず。

歌は小詩形であるから手先の器用な者ならば、その形を真似するに手間暇を要せぬ。しかしながら歌はまた緊密一語をゆるがせにせぬ芸術であるから、わずかの欠点も修練を積んだ者から見れば非常に大きく見える。多方面における芸能もこの道においては裏切られることが多い、自らの多芸多能をたのんで歌をよむことは、もっとも危険である。

(三)みずから恃(たの)むところある者は詠むばからず。

良寛の歌に、

 やまかげの石間をつたふ苔水のかすかにわれは住み渡るかも

というのがあるが、歌の道はおよそかくのごときものである。

ゆえに社会的の地位でもあるいはまた精神的の能力でも、その他あらゆる点において自らたのみ、自ら負うところのある者はだいたい歌の道に入るには適しない、ただ謙虚の心をもって人の世に処し、自然に対しうる辛抱づよい少数の者だけがこの道に入るべきであろう。(昭和七年一月「文芸春秋」)