土屋文明


土屋文明百首選

『生涯の師としての土屋文明との出逢い』 近藤芳美

南青山六十年

近藤芳美「土屋文明」より 『ふゆくさ』以前(一) 『ふゆくさ』以前(二) 『ふゆくさ』の時代(一) 『ふゆくさ』の時代(二) 『往還集』の時代 『山谷集』の時代 『六月風』の時代 『少安集』の時代 『山の間の霧』の時代からはNO.2 へ

近藤芳美の本を読みすすめるうちに私の中で土屋文明がだんだん大きくひろがってゆきました。今まであまり足をとめたことのなかった土屋文明。近藤芳美の本を読むうちに、わたしの求めていた短歌はこれだ、土屋文明が唱えた「生活即短歌」の考えに思わず叫びました。

土屋文明NO.2へ 短歌の現在および将来について(昭和22年11月名古屋市講演) 近藤芳美著『土屋文明「鑑賞篇」』


近藤芳美「土屋文明」より

岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明」より、文明の言葉を短歌とともに抜書きしてゆきます。「」書きは文明の言葉です。

『ふゆくさ』以前(一)

「村は山麓と平野の境とも云うべきところに位置して居た。水田よりは畠の方が多かったが山林には遠かった。祠やお堂を包んで居た杉森雑木林も次から次と伐り払われて跡地は桑畑などになってゆく時代であった。」
「農民たちは死火山のなだらかなふもとの村に、先祖代々の山畑を耕し、麦と陸稲を作り、桑を植え蚕を飼って貧しく生きていた。養蚕は遠い奈良朝の時代から、上毛野といわれていたその地方の百姓らの大切な副業であり、貢調のためのはてない労働でもあった。水田が乏しいため、米は貴重な穀物であった。」

毛の国はいつもかわける冬の原あからさまにも吾が村のみゆ      『往還集』

しらじらと亜鉛(とたん)の葺ける寺の屋根立ちそふ木さへなきがさぶしさ

「父は生糸や繭の仲買が本業で、耕作の方は自家の食料程度といくらか養蚕をやるための桑畑を作るだけであった。もっとも秋とれた米は小作料に大部分とられた残りさえ、一時に金にかえて、食米は小買することが多かった。農作には全く興味がなく、田を作るのも、この一時的金ぐりが目的であったらしい。」
「父は子供に対して愛情があるのかないのか分らないような人間だった。」
「母は、父に嫁ぐまで、すでに不幸な人生を知って生きてきた農民の女だったのであろう。母方の祖父がひとり、後添いの女と共に、村の街道端に駄菓子屋をいとなんで人にうとまれながら孤独に暮らしていた。」

年若き父を三人目の夫として来たりしことを吾は知るのみ        『少安集』

幼くて育ちし如くぼろの上に老いて安らかにあらむ日もがな       『山谷集』

夜々の梟も今思ひがなしあらはなる臥所に育ちたりけり         『少安集』

「一時隣り部落の伯父夫婦の家に預けられた。弟らが生まれ、糸繰りにいそがしい母の手を省くためであった。酒好きな伯父は夜ごと高等小学読本を読んでくれた。暗い三分芯のランプの下で、伯父の朗読する太平記の阿新丸の物語などに涙した。」

桑畑に芥くさりて吾が村に吾が育ちたる頃の思ほゆ            『山谷集』

桑の下に細々茄子をつくれるは吾がむらのごと此所も貧しき       『山谷集』

夕日して藷堀り陸稲こく人の何か故郷のあはれがなしき          『山谷集』

むれくさき塩引の香のただよひてわが生ひ立ちの日を思はしむ      『往還集』

紫の花の馬鈴薯のまづかりし幼き記憶おもひいでつも            『山谷集』

耕して大根の葉も捨てざりし農の生ひ立ちを子等に訓へつ         『少安集』

手の見ゆる間いそしむ夕方の農の心をわれもすこし知る          『山の間の霧』

麦ののぎの汗にまじりて肌をさす苦しさもなつかし思出となれば      『山の間の霧』

馬鈴薯が村に入りし頃の記憶あり真珠(またま)なす新しさ堀り飽かざりき   『山の間の霧』

 ☆幼い頃の両親についての歌

夜ふかく父母争ふを見たりける蚊帳(かや)の眠(ねむり)よ幼かりけり  『往還集』

蚊帳そとにひそひそ風呂敷を包み居し母を蔑む心今なし           『往還集』 

父の罪に警察に引かれ偽証せし幼き夜の記憶は打ち消しがたし      『山谷集』

吾が父が石灰やきて損したる青倉山に夕日かがよふ            『往還集』

ひたすらに父はかなしき売りし家に携へかへる夢しばしばにして      『山谷集』

父の代よりいりくめる金のいきさつに帰る日なけむあはれ故さと      『山谷集』 

大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな        『自流泉』

柳の皮はがして蕨結ぶことも幼くて遊びし吾のみ知れり           『山下水』

鎌とぎて鉛筆けづるナイフ持たぬ少年の日にかく習ひたりき        『山下水』

一生(ひとよ)の喜びに中学校に入り日よ其の時の靴屋あり吾は立ち止る      『少安集』

いま一つ古りしみ墓に幼(いとけな)き感動帰る二〇三高地に戦死せり        『少安集』

日露役すぎて幾年か年みのらず吾が家は食ひき西貢(サイゴン)の米        『少安集』

西貢の米食ふと互に言はざりき貧をかくし合ふ村に育ちて                『少安集』

 ☆文明の祖父は身を持ち崩し、博徒の群れに加わったはてに、強盗の罪で徒刑囚として北海道の監獄で牢死した。

三代(みよ)に消えぬつみある家に来りつつ吾を生みたる母を思ふ    『山谷集』

妻も子もなき生(よ)を経むと思ひけり友とあそばぬ少年なりき       『山谷集』

この母を母として来(きた)るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして     『少安集』

(つづく)

『ふゆくさ』以前(二)

 ☆伊藤左千夫をたより、そこに住み込むことが出来た。そして、第一高等学校に入学し得る思いがけない幸運にめぐまれた。

あはれあはれ吾の一生のみちびきにこのよき先生にあひまつりけり    『山谷集』

「私は明治四十二年四月十日に上京して、本所茅場町三丁目十八番地の左千夫先生の家に到着した。先生の牛舎で働くためであった。翌十一日は日曜であった。先生は、午前中子どもさん達をつれて、上野に花見をすることになって居る。お前も一所にゆけ、午後には歌会があるから、それにも一所につれてゆくということであった。お弁当の重箱をさげて摺鉢山から東照宮の方まで、一通り花を見て遊んだ。東照宮の前の手洗水で、先生がお賽銭の釣りを貰ったのは、この時である。午後、子どもさん達は山下から電車に乗り、つづいて私も、先生の後について電車に乗った。その歌会は、小石川茗荷谷の民部里静氏の宅で開かれる事になっていた。多分、広小路から江戸川行の電車に乗ったのであろう。石切橋で下りたと思うが、先生は「ああ又一つ来過ぎた、来るたびに間違う」と云われた。四五軒町で下車すげきであったろう…」
「…私は上京して心侘しい最中であったので、その数日が実に思い出深く、忘れられない…」
「それ以後は伊藤先生を中心として集った稀にしか遇い難い人々を近くに見て、甚だ幸運な半生を送ることが出来た」

 ☆二十歳の青年文明がはじめて接した時、左千夫四十六歳、茂吉二十八歳、千樫二十四歳、赤彦三十四歳であった。
 ☆明治四十年九月装いをあらたにした「アララギ」第二巻第一号が発刊され、一高生土屋文明は次のような作品を発表した。

この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず

日に恥ぢてしぼめる花の紅(くれなゐ)は消(き)え失するがに色沈(しづ)まれり

あくがれの色とみし間も束の間の淡淡しかり睡蓮の花

(つづく)

『ふゆくさ』の時代(一)

明治四十四年(1911)年作

日だまりの赤土がけの崖の下(した)ふゆくさ青き泉にいでぬ

翌年大正元年(1912)年には急に変貌する。

いたづらの此のエピソウドの鳥のやうにいたまし思ひの人のあるかや

おぢもだしひとり滅(ほろび)の闇を行く君とあるなら泣かましものを

西方にいり日を追ひて行かむとす野の上の道のはるかなるかな

☆左千夫と茂吉や赤彦らとの対立が表面化してきた。明治四十三年頃から生じ、四十四年頃からは悲劇的な対立が起きるようになった。

「いつの日のことだったか。…会はてて先生と茂吉氏千樫氏に僕も後について大川端を帰ったことがあった。千樫氏茂吉氏は非常に興奮して会の余波を持って歩いて居て『もうとても一緒にはやれない別々の道をゆく方がよい』というような事を言いあって居た。先生は少し離れて例のごとく太い杖を持って前こごみにいそいでゆかれる。何も分らない僕はあの位淋しい思いをしたことは少なかった。憧れて居た人々の仲間に近づいて、まだ半年も経たないのにそこには甚だ急なる潮流の騒いで居るのを知ったのである。勿論少年の僕にはそれまで芸術の道にそんな真剣の問題があることは分らなかったのである。ただ何も分らない僕は左千夫先生の命をただ奉ずるつもりにして、二人の話を悲しく聞きながら俯いて歩いた…」

☆文明は茂吉よりもむしろ千樫に親近の感情をいだいていた。次のような歌がある。

左千夫先生のことを話せば心かよひき先生のよき所君は教へき      『六月風』

☆伊藤左千夫は大正二(1913)年7月30日脳溢血で突然死んだ。五十歳の生涯だった。その時文明は一高を終え、東京帝大の哲学科の学生となっていた。二十四歳。「左千夫先生逝去」の三首がある。

畳まざる洗ひ衣きるをまがごとと家人(いへびと)にいはれいそぎいでたり

あるがままの蚊取線香を上げたれば落ちてたまれる虫のかなしさ

夜の風はしげく吹き入り先生はかけ衣(ぎぬ)の下に動(うご)くがにみゆ

(つづく)

『ふゆくさ』の時代(二)

☆大正三(1914)年島木赤彦が上京して、左千夫なきあとの「アララギ」の経営を引き受ける事となった。
その前年斎藤茂吉の『赤光』、北原白秋の『桐の花』が発行された。

☆その時期の文科大学生土屋文明も次のような作品を「アララギ」に発表している

大正二年

ひよどりは赤き木の実を食ひしかば煉瓦の壁は言葉なかりき

日に入らずや彼の森かげに日入らずや又来ぬ此の日入りてゆかずや

大正三年

夕されば牛の子群れて啼くなれどうれひの水の動かざるかも

白楊(どろ)の花ひそみ咲く木にゐる鳥の影はさしつゝ鳴かむともせず

☆大正三年から四年、文明の「アララギ」に発表する歌の数が激減してきた。この当時の文明について斎藤茂吉は次のような思い出を語っている。

「中学校の少年で蛇床子と号して新鮮な抒情歌を発表して居た土屋君は、高等学校に入ってからも、大学にいた頃も、時折「短歌は所詮小芸術に過ぎない」「短歌では到底近代人の心を盛ることは出来ん」などと唱えて、当時にあっては何も彼も短歌で片付けてしまおうしている僕などを驚かしたものであった。ある時は僕も赤くなってそういう土屋君の説に対抗したこともある。」

☆大正六(1917)年のころから、島木赤彦の影響で「アララギ」の転換期が到来していた。そのころ土屋文明も次のような短歌を作り出す。

後れ起きて枸杞(くこ)味噌汁をひとり食ふ硬きところあり春もたけしか

山椒の木に山椒の実は少くて末葉(うらは)すがれとなりにけるかも

霧あめのしぶく軒うちに妻に別る森林の吏は木箱負ひ居り

☆茂吉がこの時期の作品を「ここに来ると前の単純なほのぼのとした抒情歌から離れて、写し方が克明になり、調べが渋味を帯びてやや佶屈になって来ている。」と評している。

☆明治四十二(1909)年から大正五(1916)年に至る七年間の作品を文明はほとんど捨て去った。残された作品のうち彼の大学の時期…大正二年以後のもののほとんどが、恋愛歌や、恋愛感情を背後にした平明な抒情歌である。

大正二年

久方のうすき光に匂ふ葉のひそかに人を思はしめつつ

山の上は秋となりぬれ野葡萄(えび)の実の酸きにも人を恋ひもこそすれ

紅葉する谷にひそかに澄む水の吾が恋ならずつつましきかな

大正三年

西方に峡(はざま)ひらけて夕あかし吾が恋ふる人の国の入り日か

白楊(どろ)の花ほのかに房のゆるるとき遠くはるかに人をこそ思へ

大正五年

夕べ食(を)すはうれん草は茎(くく)立てり淋しさを遠くつげてやらまし

春といへど今宵わが戸に風寒しわがこころづまさはりあるなよ

秋ざるる夕べなれや人の影恋(かげこひ)しこひしき人に追(お)ひ及(し)かむかも

大正六年

夏ながら落葉の散りて乱るれば待つにかひなき人のたよりか

遠き人心にもてばかつがつにかへる帆目守りゆふとなりけり

秋されば青める潮にかづく鵜の間遠に人を恋ふといはめや

(つづく)

☆相聞の相手の女性、塚越てる子と大正七(1918)年結婚。長野県上諏訪の温泉町で新しい生活が始まった。

水落ちて野菜の屑のくさり居る湖(うみ)みぎはに歩み来にけり

湯ある家求めうつれり湯室ばたの楓まがりて衰へはやし

寒き国に移りて秋の早ければ温泉(いでゆ)の幸をたのむ妻かも

☆大正五年中村憲吉は広島に帰り、大正六年斎藤茂吉は長崎医専教授に。東京に残った島木赤彦と古泉千樫は感情的疎隔が生じ、古泉千樫は「アララギ」
を去る。

☆「アララギ」は島木赤彦の厳格な統制下に強固な結社となってゆく。そのころ土屋文明は信州の一教師として孤独な生活、孤独な口重い一人の制作を続けていた。

大正八年

しらじらとわさびの花の咲くなれが寂しとぞ思ふおのが往き来の

大正九年

ゆれ強き電車を憂しと思ひつつ伊那のゆき来も年を越えたり

岸にあるわさび畑の水尻はことに目にたつ冬草のいろ

そして、大正十年から十一年文明はまた歌が出来なくなった。

「…九年の十一月には関西から九州の旅行をした。まだ長崎に居られた斎藤茂吉氏を訪ねそこで一週間許り留まった。吉利支丹寺をみたり、支那寺の棺房に這入ったりした。或る日には、平福画伯のシーボルト屋敷を写生される後について行ったりした。旅行中の出来事は何もかも甚だ感興をひいたのであったが、歌は出来なかった。十年にも亦九州へ行った。梅雨後の一日日向青島で忙しい日程のうちからことさらゆっくりしてみた。しかし歌は出来なかった。殊にこの時は、裁くべからざる人の行為を裁くべき立場に置かれて重苦しい心で、一人、軌道のみしかれて未だ汽車の通わぬ日向の東沿岸を美々津から細島まで馬車に乗ったりした。梅雨晴れの強い日のあたる家からは、信州辺では思い及ばぬ黴臭いにおいの吹き出る前を通ったりして行った。夜行車での労れを一眠りした後、暗くなるまで帆影もない日向灘をみて居た青島の半日は、殊にその時の心をしめて居た煩瑣なる世間事は、今もまざまざと動いて居るように思われるが、焦慮すればする程歌は出来なかった。…」

☆大正十一(1922)年諏訪女学校校長から松本女学校校長に転じ、十三年木曾中学校長に遷されたのを期に辞表を出し、東京に帰った。六年の信州生活であった。

短冊をはたり忘れぬ人ゆゑに忙しきひと日籠もり墨する

をさな児はたぬしかるかもいそがしき造り荷の間(あひ)をめぐり遊べり

文明三十五歳『ふゆくさ』を出す決心をする。『ふゆくさ』は、明治四十二(1909)年の「睡蓮」の一連から始まり、前半は青春抒情歌の一群からなっているが、後半には後年の文明短歌の原型的作品が作られている。

旱(ひでり)つづく朝の曇よ病める児を伴(ともな)ひていづ鶏卵(たまご)もとめに

子は子とて生くべかるらししかすがに遊べるみればあはれなりけり

(つづく)

『往還集』の時代

☆松本から上京した文明。家族を栃木県足利に置き、東京で下宿生活をしていた。『往還集』巻頭の作品はそのような生活でつくれれた。大正13年作。

休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす

冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ

☆この一年前大正12年に関東大震災があった。 

やからたち或は離れ失せにけむ八千代は母とあれかしと願ふ      (注)八千代は妹の名前

人去れる震災バラックの軒下にまける青菜もかじかみてあり

☆大正14年文明は家族を足利から呼び寄せた。彼は私立大学の教師として生活をしていた。

家かりてうから睦(むつま)じく住まうため語らむとして帰り来にしを

むづかる児見ぬがごとくに食ひ居る妻に罵(ののしり)をはきかけにけり

罵らるればふくるる妻も老いにけりかくして吾もすぎはてむとす

ただひとりわれより貧しき友なりき金のことにて交(まじはり)絶てり

吾がもてる貧しきものの卑しさを是(こ)の人に見て堪へがたかりき

かにかくにその日に足れる今となり君をしばしば吾れ思ふなり

☆大正14年当時の「アララギ」は島木赤彦の「鍛錬道」とか「寂寥相」などといった精神主義的色合いが濃くなっていた。

☆大正15年島木赤彦が死んだ。彼は文明の指導者であり、庇護者であった。翌年昭和2年に古泉千樫が死に、友人の芥川竜之介が死んだ。その衝撃は大きかった。彼の作品に、しきりに人の死が歌われる一時期がこのころから始まった。

友死にて夜半にきこゆる鳥がねは子供の時の如くに寂しき

死ぬとふことを思へば夜ふけて幼児の如くわれはおそれ居き

今日もまた昼寝つづけつ午後となり人とぶらひに出でゆかんとす

事しあれば浅草寺に来るなり君がみ葬(はふり)はてて来にけり

醜(みにく)く生きてあはれとあらねども夜ふけて空をゆく鳥のこゑ

(つづく)

☆土屋文明にとって、「死」は斎藤茂吉などと違って、無表情な冷厳な事実に過ぎなかった。
「自分の幼時から母よりも親しく自分を育ててくれたのは祖母だった。」と文明は記す。

たつまつる枕花(まくらばな)は損料といふかなや長き一生(ひとよ)は足りし日のなしに

仏づくりかがまる骸(から)ををさめまつる棺に虫くひの孔をさびしむ

☆祖母の死の年に父も同じ震災バラックで病に伏すようになる。

親しからぬ父と子にして過ぎて来ぬ白き胸毛を今日は手(た)ふれぬ

遠々と来て診たまへる君がまへにくどくどと病(やまひ)を云ふ父を聞く

病む父がさしのべし手はよごれたり鍍金(めっき)指輪ぞ吾が目にはつく

☆父について文明は「百姓を嫌い早く農作をやめた父は生糸や繭の仲買をしながら、少しでも儲かりそうなことは何によらず手を出しては失敗した。そしてその失敗が父の一生の晩年を貧困に追い込むこととなった。ふるさとを逃れ、東京の震災バラックで死を迎えた。彼はただ貧困の中に自らの物欲をあおりあおり生を終えたと言うべき種類の人間だった。」と突き離すように記す。だが、つぎのような挽歌が残っている。

酔ひしれてかへり来りし暁に仏のふみよむ何故(なにゆゑ)となく

父死ぬる家にはらから集りておそ午時(ひるどき)の塩鮭を焼く

(つづく)

☆昭和にはいり、金融恐慌などにより、不景気、不安な時代の幕開けとなった。

☆昭和三(1928)年から昭和四年にかけて、土屋文明は次のような作品を作っている。

地震すぎ衢(ちまた)の上にありきとふ醜き死(しに)を思ひつつ寝る

蚊帳つらぬ夜頃となりて念仏集枕辺におけばただ寝つきよし

罪なはるるうからを放(はな)ち己が身をもはら守れるは夢にてありしか

あやまたず一世を終へむ願(ねがひ)いやし忘れて安く居る日あれかし

「この集をなす五年間は自分にとって甚だ平穏無事な五年間であった」と歌集後記に土屋文明みずから記している。

(つづく)

『山谷集』の時代

昭和五(1930)年「八月十六日)

目覚めたる暁がたの光にはほそほそ虧けて月の寂けき

暑き夜をふかして一人ありにしか板縁の上に吾は目覚めぬ

ふるさとの盆も今夜(こよひ)はすみぬらむあはれ様々に人は過ぎにし

暁の月の光に思ひいづるいとはし人も死にて恋しき

有りありて吾は思はざりき暁の月しづかにて父のこと祖父のこと

空白らみ屋根の下なる月かげや死の安けさも思ふ日あらむ

たはやすく吾が目の前に死にゆきし自動車事故も心ゆくらし

安らかに月光させる吾が体おのづから感ず屍のごと

争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ

☆島木赤彦門下の高田浪吉の上記一連の歌に対する否定意見。

例:争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ

「妻が、吾より先に死ぬという作者の作歌態度には、人間本来の道を見出し得ない。作者はこの万人共有の心理過程に一種の興味を有って歌われたのであろうが、そういう所には歌の大道はあり得ないと看ていい」

☆高田浪吉に対する文明の反駁「『人間本来の道』とか『万人共有の心理過程』とか高田氏はたいした言葉を使っている。がこの批評に対しては僕は高田氏とはただ人生の見方が全然異なって居ると云えば足りる。憎悪の何ものかに就いてさえ内面的に入り得ない高田氏にはこの歌の批評は無理であろう」

☆この論争は、赤彦の静的、観照的な自然詠の世界から、土屋文明の生活詠…人生の詩への脱皮の時期を明きらかにした論争であった。

(つづき)

☆旧赤彦門の高田浪吉等の文学的停滞と共に、新しい世代が「アララギ」に進出してきた。それは、吉田政俊、落合京太郎、柴生田稔、佐藤佐太郎たちだった。
そして、彼等の数年あとに中島栄一、相沢正、樋口賢治、杉浦明平、小暮政次、金石淳彦、高安国世、近藤芳美らが文明選歌欄の投稿者として「アララギ」に加わってきた。
☆昭和初期から十年にかけ土屋文明の短歌は、若いアララギの作家にとって、常に行手に立ちつづいてゆく道標であり心のよりどころであった。

身ひとつを専ら安くと願へるは吾が何時よりのことにかあらむ

堪へしのび行く生を子等に吾はねがふ妻の望は同じからざらむ

力及ばぬ過ぎにし世をばなげき来ぬ吾が父も吾もわが子等はいかに

☆昭和四(1929)年の終りに始まった大恐慌、昭和六年の満州事変、昭和七年上海事変、五・一五事件発生と軍国ファシズムの時代となった。

子供つれて君上海をのがれきぬ恙なくしていたく痩せたり

目の前に亡ぶる興る国は見ぬ人の命のあまたはかなき

新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな

新しき国の主(あるじ)にゆく人の紅(べに)よそほしく立つといふラヂオ

若き友二人軍艦に乗り行きぬいたく朗らかに行きしをぞ思ふ

ラヂオには涙して聞く戦死者のみ名の許多(ここだく)早く忘るる

戦(たたかひ)のいさましきニュース終りたり今ぞよぶなる戦死者の名を

世の人は早く忘れて永久(とことは)に忘れえぬ名や母や妻等に

☆土屋文明の戦争詠は一人一人の人間のいのちを歌うことから始まる。

(つづき)

☆昭和七年に東京市が二十三区の大都会となった。その記念の競詠に土屋文明は「城東区」と題する連作を作くった。

木場すぎて荒き道路は踏み切りゆく貨物専用線又城東電車

夕靄は唯とどろきてうなり立つ蒸気ハンマーの音単調に

松のある江戸川区より暮れゆきて白々広し放水路口

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならんとす

☆素材だけを無表情に投げ出したような一連の作品は、当時の歌壇に一つの問題を投げかけた。そして、次のような作品が作られていった。

吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は

横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ

無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ

☆こうした一連の作品は、作者の内部に破調を生み出させる切実な内部衝動があったというべきであろう。それは満州事変の勃発を中心とする、時代の激しい動揺と、その中にいだかれて行く不安な精神がおのずから歌い出す発想であったのだろう。(近藤芳美)

☆『山谷集』は昭和五(1930)年から昭和九年、満州事変を中心にした四年間の作品があつめられている土屋文明の第三歌集。

ただに生死のことのみならず戦争をたたへし思想に思ひ及ぶかも

わが前の若き士官の友のうへに海行く生(いのち)吾は思はむ

代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき

☆こうした戦争にかんする作品のなかに次のような作品がある。

蘭が欲しと病の如くきざすだにあはれ衰ふる吾の意欲か

気力なきわが利己心はいつよりかささやかにしのび身を守り来し

人よりも忍ぶをだに頼みとすわが生(よ)ぞさびし子と歩みつつ

☆文明のひそかな時流の中の保身の思い、それに対する自嘲の自意識。これらが常に貧しさの意識と二重写しに重なり歌われてゆく、ここに文明の発想の一つの典型を見る。

貧しき我に関りなき世の変移(うつり)ある夜寝(いね)むとして恐れて思ひき

☆こうした重苦し作品群のなかに、わずかにみずみずしい息づきの思いを与えてくれるものは、前後二回の北海道旅行を素材にした、抒情的大作の二編のあることである。

(つづき)

☆土屋文明が最初に北海道を訪れたのは昭和五(1930)年。次の作品から始まる『北蝦夷』一連はその時のもの。

罪ありて吾はゆかなくに海原にかがやく雪の蝦夷島は見よ

☆北海道は文明にとって特別の意味がある。彼の祖父が博奕に身を持ち崩し盗賊の群に投じ、北海道で徒刑囚として牢獄で牢死している。

長き年の心足らひか夜行車を暁降りて樺戸の道をきく

吹きしまく一ときの風くらくなりて霰はみだる樺戸道路に

石狩の渡の桂くれなゐに芽ぐめる下に自動車とまる

雪代の水落ちゆきし川岸にたくましき物の芽はひしがれぬ

笹原を押しなびけたる残り雪取りて捧げむ遠きみ魂に

うららかに照れる春日は雪の原芽立つ胡桃に人や偲ばむ

獄舎のあと柳のこむら今ぞ萌ゆる時のうつりは心和ましむ

悲しまむ人々さへに亡くなりて久しき時に吾は来にけり

うららなる野道を自転車にて来る僧に此所にはてにし人の名をいふ

☆祖父の回向のためにまねいた僧は、うららかな春の野を自転車に乗って町からやって来る。広茫とした北海道の自然を背景に、美しい短編を読むようなこの一連の抒情作品には、他の肉親のたれの死に対するよりもあたたかな、土屋文明の感情が流れ漂っている。

(『山谷集』の時代はこれで終了、次は『六月風』の時代となる)

(つづき)

『六月風』の時代

☆昭和十(1938)年相次ぐ弾圧に共産主義がほとんど壊滅したあと、ファシストらの憎悪は自由主義者にむけられようとしていた。
そんな昭和十年、土屋文明は「某日某学園にて」という一連の作品を作っている。

語らへば眼(まなこ)かがやく処女(おとめ)等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと

芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(おとめ)あれこそ

まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに

こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきておもはむ

高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき

☆ファシズムの憎悪が自由主義にさえ及ぼそうとしている戦争前夜の日に作られた作品であるに拘わらず、明るいさわやかな感動が、少女の死と思想に対するひそかな共感を背景にして、一連の中に漂い流れているといえよう。
☆土屋文明のマルキシズムに対して抱いていたものは、一定の距離感だった。

うつりはげしき思想につきて進めざりし寂しき心言ふ時もあらむ

吾が一生(ひとよ)悔ゆといはなくに子供のため或いは思ふ異れる道を

☆自由主義者としての土屋文明の「思想」の底にあるものは、生活と事実以外を信じない貧しい日本の農民のその執拗な「根性」というべきものではなかろうか。ここに昭和十一(1936)年二・二六事件のとき作られた作品がある。

降る雪を鋼条をもて守りたり清(すが)しとを見むただに見てすぎむ吾等は

暴力をゆるし来し国よこの野蛮をなほたたへむとするか

よろふなき翁(おきな)を一人刺さむとし勢(せい)をひきゐて横行せり

一つの邪教ほろぶるは見つなほ幾つかのほろぶべきものの滅ぶる時またむ

先日の新聞の写真の下等なるあの面は梟雄といふなるべし

話すみし電話にはげしく聞え来ぬ今日をいきどほり言へる君が息(いき)

☆ファシズム暴力革命を目の前に見た無力な一市民の忿怒の感情が、かなりあらっぽい、字余り、字足らずの表現となってこの幾首かの歌の中に語られている。だが、その時でさえ「清しとを見むただに見てすぎむ吾等は」としかつぶやき得ないひそかな姿勢が文明の文学にひそんでいる。しかしそれは怒りを深く込めた反語であった。

☆反乱は鎮圧されたが、そのあとに来たものは戦争突入のための露骨な軍部独裁政治であった。

交りはいよいよ狭くなり来りこもりて怒る家人(いへびと)のまへに

大陸主義民族主義みな語調よかりき呆然として昨夜(きぞ)は聞きたり

言直(ことなほ)き古(いにしへ)の代も時の力をあからさあまに罵りし言(ことば)は伝へず

勢(せい)を揃(そろ)へ京(みやこ)に向ふ時すらに直き古(いにしへ)は畏るること知りき

心よわき少年の日よみづからを守り来りしことをぞ思ふ

おそれつつ世にありしかば思ひきり争ひたりしはただ妻とのみ

一年にほろびしものは何々ぞ吾は時間給若干を失ひぬ

呪詛が出来るなら吾は幾度も呪詛を用ゐしならむ

☆『六月風』の巻尾に、「歌調の乱雑なのが自分からも気になるが、これはこうした一時期と思うより致し方がない」と自ら記す。暗黒の時代の焦燥と不安がこの乱調の歌を作らせたのであろう。

☆昭和十二年朝鮮金剛山で歌会が開かれた。この年盧溝橋事件が起こっている。

八月の暁あつき釜山の町馬引く兵の多く裸なりき

冷々と温突(をんどる)にからだ伸ばすかな昼になれば汗のいづる暑さに

棗(なつめ)あり花さく青たごの一木(ひとき)あり集(あつま)るは僧ともただの人とも見ゆ

光つよく薬園に葉をしひたげて照り高きへを白雲のゆく

岩は岩を閉づると見ゆる山の間を落ち来る水に一日そひてゆく

尼の精舎そば立つ岩にひたとよりてまける青菜に露かわく時

☆ホテルのロビーで上海事変のはじまりを告げていた。

上海を気づかふ吾等のラヂオの前柔毛(にこげ)汗あゆる西洋婦人

異国(ことくに)の人は眠のまどかにて或る部屋は扉(ドア)ひらき白きベッドのみゆ

外人の避暑客は、ラジオの告げる戦争の放送とは無縁な平和な明るい雰囲気であった。

『六月風』の時代はこれで終り次は『少安集』の時代となります

(つづき)

『少安集』の時代

☆三ヶ月にわたる激しい市街戦ののちに上海は占領された。そして、首都南京を目指して進撃をつづけた。南京が陥落したのは、その年の末、昭和十二(1937)年十二月十三日であった。
☆斉藤茂吉が上海戦から南京陥落にかけ、『寒雲』で相次ぐ戦争賛歌を作り重ねている間、土屋文明は時局に関する歌をまったく作らなかった。次のような歌が数首あるだけである。

世の中に用なき歌を玩(もてあそ)び居りつつ今に言ふことやある

そして、次のような歌が並んでいる。

時代の終(をはり)に生れあひたりと繰りかへしいく人(にん)かに話しつ

冬よわき草木(くさき)のかぎりもちこみて中にこもらふ見たまふなかれ

たなごころの此の梅の木よ花さきて吾をかくさむ枝とはやなれ

学(がく)を論(ろん)じ時を論じて告げ来(きた)る学の立場もやすからなくに

☆南京陥落を一途な感激で歌った斎藤茂吉。南京陥落には一言も触れず、同じ日の「人民戦線」弾圧につぶやくような忿怒と不安の作品を残した土屋文明。
二人の「アララギ」歌人の文学の立場の相違は互いにへだたりながらつづいて行く。

☆武漢陥落を斎藤茂吉は

漢口は陥りにけり穢れたる罪のほろぶる砲(ほう)に火のなか

捧(ささげ)げ銃(つつ)の号令きこゆつぎつぎに鋭きこゑは涙をつたふ

揚子江ふく風強きけふの日に六千の霊(たま)を呼びて止まずも

だが、文明は沈黙する。

(つづく)

☆戦争にたいする彼の関心は、召集令状をうけ、周囲から一人一人前線に連れ出されて行く若い友人らの事にかぎられている。

帰順兵君になつきてただ一つ持ちたる箸をくれたりといふ

この行くは君が部隊ぞ雨にしなふ一樹(いちじゅ)の下(もと)の橋を渡りて

「解良富太郎歌集によせて」の一連の作品

廃れたる思想の中になげけども嘆は永久(とは)に移ることなし

病みて死にし助手の君らは数ならず彼等が二年前の物言ひを見よ

説(せつ)を更(か)へ地位を保たむ苦しみは君知らざらむ助手にて死なば

魯鈍(ろどん)なる或は病みて起ちがたき来りすがりぬこの短き日本の歌に

歌よみが幇間(ほうかん)の如く成る場合場合を思ひみながらしばらく休む

夜おそく糯米(もちごめ)五合くばり来ぬ歓声あげて小豆を求む

☆昭和十四年に彼の母が死ぬ。

この母を母として来(きた)るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして

年若き父を三人目の夫として来りしことを吾は知るのみ

父の後寛(ゆた)かに十年(じゅうねん)ながらへて父をいひいづることも稀(まれ)なりき

この母あり父ありて吾ぞありたりし亢(たか)ぶり思ふべきことにもあらじ

吾を待ち待ちつつ言(こと)に言はざれば待ち得て次の夜(よる)にむなしも

葡萄をばよろこびとりて惜しみつつ西瓜おきたるを長くと思ひき

枕なほれば歌をえらみて夜(よ)を通す弟三人(さんにん)酔ふにもあらず

今日のため乞食(こつじき)一躯(いつく)敬(ゐやま)ひて鉦(かね)のこゑあり吾はぬかふす

意地悪(いぢわる)と卑下(ひげ)をこの母に遺伝して一族ひそかに拾ひあへるかも

すすみ寄りその白きをば吾が抱く清(きよ)らに今はなり給ひたり

☆祖母が死に、父が死に、今彼の最後の一人の母が死ぬ。父や祖母の死を歌った作品に比し、落着いた、静かな情感の流れていることが感じられる。

(つづく)

☆土屋文明の歌に、万葉集の作品に歌われた地名をたずねる歩く旅行詠が多くなって行く。彼は戦争のあいだ、憑かれたような情熱で万葉地理の旅をつづけた。

北国の此の小き潟埋め立てて苦しみ来にし幾世代なりや

夕月はまだ白くして波の穂(ほ)のかぎりも知らに越(こし)の雪みゆ

骨多き魚になづみて箸をふるふ燭(しょく)の短くなりゆく時に

磯(いそ)の上(うへ)に鯨屠(ほふ)りてくれなゐに血ぬりしところ潮の近づく

国ひくく沈むが如く海に入るうらがれし草や冬萌ゆる草や

一椀(いちわん)にも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも

母と子といそしむ見れば鰯干しし砂をふるひて砕けを拾ふ

長き長き袋を引きて砂洗ふ僅に残る貝を得むため

☆民衆の生活、民衆の貧しさに対する共感が、このころからしだいに土屋文明の作品の主題となって歌い繰り返えされはじめる。また「ふるさと」の歌も多くなる。

わけなしに涙はあふる吾よりも苦しみ育てし祖母(おほば)父母(ちちはは)

山の間を安蘇の野と住みて幾世代植ゑたる豆のいまだ短し

いよいよの覚悟などあるにあらざれど命を永久と思ふ日のあり

☆「ふるさと」の歌も、「ふるさと」に生きる人々の生活の営みに対する共感が濃い主題となって歌われ始める。

幾年ぶりか歌を作りていで立ちき敵前上陸にはやく戦死す

ただ「まこと」あることを君信ぜよ残る齢(よはひ)を吾もはげまむ

涙たれ昂り幾年をよみつぎし吾が結論なりまごころの説は

☆昭和十六(1941)年日本は真珠湾を奇襲、ついに太平洋戦争に突入した。そして文明も次のように歌った。

国ありて始めての時とこしへの言葉を持ちて吾等は立たむ

言葉あり神の古(いにしへ)を今に見る声たかくあげよ万代のため

国こぞり天地(あめつち)ひびく勝軍(かちいくさ)とこ代に留(とど)めここに歌あり

さすがの文明もこの興奮に「此の国民的大感激を何を以ってあらわそう。大和言葉の言霊の幸を受けて来て居る吾等は何を措いても短歌を以って此の湧き上る衷心の感動を歌いあらわすべきである」という一文を「アララギ」誌上に載せている。

『少安集』の時代はこれで終り次は『山の間の霧』の時代となります

(つづく)

南青山六十年(角川書店 雑誌「短歌」より 掲載年月日不詳)   

えにしあり南青山と呼ぶところ我が世のなかば住みて留まる

家あり来りて住めと言のまにま一族六人ひきつれて来ぬ

狭き家ややひろき家次々に住みて移りき四度にやあらむ

戦の火に滅ぶまでとどまりて焼けたる物を思ふにもあらず

戦の火に焦けし人等横たはる衢を生きて妻子等とありき

本所茅場町伊藤左千夫に寄り行きぬ斎藤茂吉によりてこの青山

仙の如き君の境に遠くとも学び従ひて一生すぎなむ

われ見ても街のうゑ樹のいく変り今茂り立つフランス橡の樹

太々と春の芽立ちに花待つといふにもあらず後の幾年

日毎日毎市の植木の蔭に来る車より買ふトマトサツマイモ

投げつくるアメリカの火にも死なざりし青山墓苑の夜も忘れむ

小此木先生斎藤大人のみ墓にも今日はただ面伏せて過ぐ

歛むるに処あるべしと言ひくるれど生を更へて留る心もあらず

亡き後を言ふにあらねど比企の郡槻の丘には待つ者が有る

土屋文明百首選              小市巳世司選(角川書店 雑誌「短歌」より 掲載年月日不詳)

『ふゆくさ』(明治42年〜大正13年)

この三朝(みあさ)あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず   (睡蓮)

うらぶれて草吹く風に従はば吾は木(こ)の間(ま)にかくろひなむか    (野分)

夕ぐるるちまた行く人もの言はずもの言はぬ顔にまなこ光れり        (船河原橋)

『往還集』(大正14年〜昭和4年)

休暇となり帰らずに居(ゐ)る下宿部屋思はぬところに有影のさす      (冬日閑居)

ただひとり吾より貧しき友なりき金(かね)のことにて交(まじはり)絶てり  (或る友を思ふ)

銭湯(せんたう)に子等つれいでて東京の蝉の静かなる声に気づきぬ   (西国よりかへる)

父死ぬる家にはらから集りておそ午時(ひるどき)に塩鮭を焼く        (六月二十六日)

『山谷集』(昭和5年〜9年)

汗たれて散兵線に伏す兵を朝飯前(あさめしまえ)の吾は見て居(を)り   (夏目労作)

罪(つみ)ありて吾はゆかなくに海原にかがやく雪の蝦夷島(えぞしま)は見よ (北蝦夷)

地下道を上り来りて雨のふる薄明の街に時の感じなし              (三月三十一日)

わが妻は蚊帳と布団と買ひて来(き)ぬ今日夏物のやすくなれりと       (八月一日)

木場すぎて荒き道路は踏み切りゆく貨物専用線又城東電車          (城東区)

夕日落つる葛西の橋に至りつき返り見ぬ靄の中にとどろく東京         ( 同 )

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす           ( 同 )

枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす                 (鶴見臨港鉄道)

たくましき大葉ぎしぎし萌えそろふ葦原に石炭殻の道を作れり         ( 同 )

無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ       ( 同 )
    
『六月風』(昭和10年〜12年)

ひめうづの早き芽集めつつ思ふ一人ぐらゐは仕合せになる人なきか     (稲村が崎)

六月(ろくぐわつ)の疾風(ときかぜ)は潮を吹き上げてはや黄に枯るる蒲(がま)なびくかも   (木下川梅園跡)

まをとめのただ素直にて行きしを囚(とら)へられ獄(ごく)に死にき五年(いつとせ)がほどに   (某日某学園にて)

高き世をただめざす少女等(をとめら)ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき          ( 同 )

溝(みぞ)清く家に引き入れ住みたれど乏(とぼ)しきかな沈みたる馬鈴薯の             (九月五日三国峠)

露(あら)はれて円(まど)かなる巌の頂に円なる石を置く手にも取るべく                (金剛山数日)

李の木の下に安らに枕置き筵に人のかへることなし                            ( 同 )

霧を吐く清きたぎちの石の上客を送りて礼(らい)する法師                        ( 同 )

『小安集』(昭和13年〜17年)

国の上に光はひくく億劫(おくごふ)に湧き来る波のつひにくらしも       (虎見崎一月三日又十三日)

たまきはる吾が齢(よ)は知らず立ちかヘリひとり声よぶ枯草の崎       ( 同 )

この海を左千夫先生よみたまひ一生(ひとよ)まねびて到りがたしも      ( 同 )

天地(まめつち)のまにまに遊びたまはむに障(さや)り多くしてすぎ給ひける (左千夫先生忌日近し)

この母を母として来(きた)るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年として (擬輓一連)

右乳の下を撫でよと吾に言ふ吾は撫づ五つ頃(ごろ)の心になりて       (伯母のぶ)

一生(ひとよ)の喜びに中学に入りし日よ其の時の靴屋あり吾は立ち止る   (故郷山)

『山の間の霧』(昭和17年〜19年)

唯真(ただまこと)がつひのよりどとなる教いのちの限り吾はまねばむ      (黒姫山麓)

とりよろふ常なる山並の間にして一朝(ひとあさ)の霧過ぎにきと言へ      (遠く行かむとして)

『韮菁集』(昭和19年)

方(はう)を劃す黄なる甍(いらか)の幾百ぞ一団の釉(うはぐすり)熔けて沸(た)ぎらむとす     (北京雑詠)

うさぎ馬煤(ばい)を車(くるま)し来(きた)るなり煤より黒くして眼(まなこ)あるもの           ( 同 )

朝(あした)より鋭きを国の音声(おんじやう)とも壁に住む者のこだもともきく               ( 同 )

横(よこた)はる吾は玉中(ぎょくちゅう)の虫にして琥珀(こはく)の色の長き朝焼け           ( 同 )

高梁(かうりやん)を前にしやがめる全裸人文字(もんじ)発明の朝思ほゆ                 ( 同 )

道のべに水わき流れえび棲めば心は和(な)ぎて綏遠(すいゑん)にあり                 (蒙彊行)

青き国に岸なき水のよどみたり光かすかに夕べの黄河                            ( 同 )

千五百ありし雲水今減りぬ米(こめ)高いですと余君(よくん)説明す                    (九月二十一日二十四日杭州)

北京城はなにに故人(こじん)にあらなくに涙にじみて吾は近づく                      (続北京雑詠)

『山下水』(昭和20年〜21年)

朝よひに真清水に採み山に採み養ふ命は来む時のため                           (六月十一日夏実に寄書)

出で入りに踏みし胡桃(くるみ)を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた                   (川戸雑詠一)

走井(はしりゐ)に小石を並べ流れ道を移すことなども一日(いちにち)のうち                ( 同 )

石一つ腰をおろすに余りあり下ゆく水の声はよろこぶ                              ( 同 )

目の下に釣橋ひとつ見え居りてただ世の中につながりをもつ                         (泉頭釦)

甘草(かんぞう)も未だ飽かぬに挙(こぞ)り立つ浅葱(あさつき)の萌えいづれを食はむ         (川戸雑詠四)

にんじんは明日(あす)蒔けばよし帰らむよ東一華(あずまいちげ)の花も閉ざしぬ             ( 同 )

相抱ける二人海に向き石をなぐ吾より四十米(しじふめーとる)かなたの世界                (熱海にて静臥数日)

時代ことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向ふ一つ山脈(なまなみ)に                   (川戸雑詠六)

『自流泉』(昭和22年〜26年)

雨戸あけて吾は聞き居りいづる山にかへるらしき狐のこゑを                          (山中漫詠)

道草の枯るれば白き石の面(つら)故人(ふるひと)のごとく吾が前にあり                  (川戸雑詠八)

集まりて立つ人間等生きて居り足々みだれ狸横はる                              ( 同 )

大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな                         (川戸雑詠十)

歌の会茶番じみゆくも身につまさる短歌軽蔑論より直接にして                        (川戸雑詠十二)

『青南集』(昭和27年〜36年)

六年(むとせ)耕すくぬぎが下の菜畑にかれ葉のこして移り来にけり                    (青山南町に帰り住む)

死後のことなど語り合ひたる記憶なく漠々(ばくばく)として相さかりゆく                   (追悼斎藤茂吉)

近づけぬ近づき難きあり方も或る日思へばしをしをとして                            ( 同 )

白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか                             (庭草むら)

ああ楽し老の見世物のごとくにて若き君等の写真器の前                           (彦山アララギ歌会)

四つ目通りに地図ひろげ茅場町(かやばちやう)さがしたりき四月の十日五十年前           (故里をおもふ)

旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或は行かむ                          (時のうつり)

朝市の車に並び馳(は)せたりき地下足袋の触感は今に力を与ふ                     (江東七月三十日)

五万分一図右下の四半分わが恋かかる道に流れに                             (五万分一地形図榛名山)

(つづく)

『続青南集』(昭和36年〜41年)

大雲取の道を我等が為に見てかへる処女(をとめ)は花原の中                      ( 熊野 )

大雲取越えて苦しみを残す二人定家四十茂吉四十四                            ( 同 )

蘭が欲しい面(つら)をしてゐれば天降(あも)るごと君が持ちて来る寒蘭二株              ( 同 )

感動をこえし変化を見下して称へみる茅場町三丁目十八番地                       (左千夫先生五十回忌)

手のくぼの庭を宝と網に刺し土屋先生菜を蒔きて食ふ                            (青山南町百首)

阿ると見るらむまでに従ひき生きてるうちから天飛ぶたましひ                        ( 同 )

立ちかへり立ちかへり恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし                        (大和恋)

山も川もうつるといへど言葉あり千年(ちとせ)を結ぶ言葉をぞ思ふ                    ( 同 )

上村君老いていよいよ頑固なれど君ありて我が見得し大和ぞ                       ( 同 )

『続々青南集』(昭和42年〜48年)

青々と藻の伏す磯に来る潮は老いの歩みよりなほ静かなり                        (三河の海)

人体修繕工と歌ひき三十年前今は呼ばむ人間ポンコツ屋                         (心臓移植に記事に)

一人の千分一秒と一人の一年の生命に軽重ありや                             ( 同 )

『青南後集』(昭和48年〜58年)

この道にやうやく歩む汝(なれ)なりき立ち変るとも道は行くべく                      (白雲一日)

ひ弱く生れし汝をここに置き病むこと多く生ひたたしめき                           ( 同 )

三度版になるを喜び三度向ふ三度にしてなほ飽き足らぬもの                       (万葉集私注新訂版)

読み下さる読み下さらぬかたじけな買ひ下さるを第一として                         ( 同 )

道の上の笑(ゑ)まひは幻(まぼろし)咲く花は今の現(うつつ)に手のうへにあり            (花に寄せて)

命あり万葉集年表再刊す命なりけり今日の再刊                               (万葉集年表第二版)

乏しきを励まし怠りを耐へ耐へてかすかなる命ここに留(とど)めむ                    ( 同 )

汝(な)がことも夢に見るまで距たりて或は楽し夢の中の遊び                       (亡き者夢に)

おく毒に中(あた)り死にたるゴキブリか後を頼むとわが枕がみ                      (白い部屋にて)

十六秒で飛ばすといふその半分を老いたる足の歩む十一分                       (四百八十米)

十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる                          (九十一新年)

今日はまた昨日の如く腰おろし今日の心を静めむとする                          (香の木の実)

さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝(なれ)を柩に                     (束の間の前後)

そのあけを少し濃くせ頬くつろぐ老を越え来し若き日を見む                        ( 同 )

終りなき時に入らむに束の間の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ                  ( 同 )

この短き坂の来る行き来もともにせぬ衰へを今日は己が身に思ふ                   (なき者をこころに)

新しく生れし者を見むと行きき終(つひ)の短きあゆみとなりぬ                      ( 同 )

愛で愛でし明石方落ちつつしばし匂ふ魂(たましひ)反れ其のしばしだに               ( 同 )

木むら若葉花の紅(くれなゐ)かはるなし亡きを言ふ勿れ春はとこしへ                ( 同 )

九十三の手足はかう重いものなのか思はざりき労(いたは)らざりき過ぎぬ             ( 同 )


『生涯の師としての出逢い(特集・土屋文明)』   近藤芳美  (角川書店 雑誌「短歌」昭和60年11月号より )

 わたしの書庫にある『アララギ』の最も古いのが昭和七年二月号であるから、そのころに『アララギ』に入会したのであろう。わたしは十九歳、広島の旧制高校生であった。
 わたしの『アララギ』入会を知った高校の歌会の先輩らは、君はついに決意したのかといってそれを羨望した。一結社に参加することとは、当時の地方旧制高校生にとり、一つの文学生涯の選択をも意味していた。
 同じころわたしは『アララギ』の歌人中村憲吉に出逢った。出逢いのことはわたしの『青春の碑』に書いてある。それもまた逃れられない一生涯の選択となったのであろう。
 『アララギ』に加わり、その歌の歌会にも出席するようになった。そこでは憲吉が「先生」として語られた。そうした中でただ一人、憲吉の自然観照の世界に疑問をかくさない少年がいた。鋭い、鷹のような眼をして歌会の作品の一首一首を批判するその一中学生歌人に対し、「あしたは文明じゃけんな」と周囲の先輩らは辟易して言った。少年は金石淳彦だった。『アララギ』に入会しながら、わたしはまだその時期に土屋文明の名も、作品のこともよくは知らなかった。
 ただし、その文明に間もなく逢う機会があった。来広した文明を迎えて町の『アララギ』歌会があったが、翌、昭和八年の夏のことではなかったか。十人足らずの小さな会であり、一高校生のわたしも一隅に交わった。初めて逢う文明はわたしの想像していた新鋭歌人とは違って口髭の濃い、日に焼けた土木監督か何かのような風采であった。文法と語法だけのような、そっけないその日の歌会の作品批評にわたしはひそかな失望を知ったのかもしれない。文明よりむしろ、彼が同行して来た竹尾忠吉の小太りの印象の方が今でも鮮明である。
 わたしが広島市郊外五日市浜の憲吉の寓居を初めて訪れたとき、憲吉はすでに病んでいた。病気のためやがて憲吉選歌を文明が代行した。わたしの投稿する作品もいつからか文明が見ていた筈だったが、作品自体は憲吉風の自然観照詠に終始し、そのことに、短歌という世界へのあき足らなさもみずからは感じていたのであろう。そうしながらわたしは怠惰な一地方の少年作者の域を出ることはなかった。
 憲吉が死に、布野の葬儀に参列したとき再び文明に会っている。昭和九年である。広島駅で町の会員らと共に東京から来る茂吉らを出迎えた。茂吉は関西の会員に囲まれ、岡麓、今井邦子らとにこにこと二等車から下車した。文明も来る筈だとだれかが言い列車の後尾を見渡した。文明はそのはるか後尾の三等車から別の一団と共に土木監督のような姿をあらわした。
 その年に大学を受験して失敗し、秋になって出京した。神田の予備校に通い、屈託した日を送っていたとき、偶然、専修大学の門前で茂吉と文明とその文芸講演会の看板を見出し、会場に入った。そうして、それがきっかけで青山南町の『アララギ』発行所の面会日に土屋文明を訪れることを思い立った。憲吉の死後、わたしはいつからか短歌を作らなくなっていた。
 面会日というのに初め出席した。発行所の洋室の広間に柔道場か何かのような畳が敷かれ、中央に文明がひとり小机を前に坐っていた。会員が壁に添って並び、順に、歌稿をさし出しては彼の前にかしこまった。文明は気忙しくそれら歌稿に眼を通し、朱筆で丸をつけていく。丸をつけられた作品だけが雑誌にのるわけである。おでこに眼鏡をずり上げて次々に面会者を捌いていくその精悍な歌人を浪人学生のわたしは身を固くして片隅で見ていた。
 次は君か、と彼はせっかちに呼んだ。わたしも周囲の面会者…ほとんど中年の婦人たちを真似て、おずおずと進み出て持参した歌稿を呈出した。
 しかしその歌稿に、文明は一首も朱筆の丸をつけなかった。そうして、気短によんだあと二つに折り、パッパッと掌の甲ではたくとそのままわたしに突き返した。何だ、君はもっと老人かと思っていた、と一口言っただけで、彼は次の面会者を招いた。
 眼がくらむような思いで引き下がり、その場から去るきっかけを待っただけであった。わたしの作品が老人の歌と思もわれていたのはどういうことであったか。そうであれば、老人の歌でない短歌とは何なのか。ないしはその日の、若者の歌とは何なのか。わたしはそのあたりからみずからの作品を問い直すことを、面会日のひとりの屈辱の思いから改めて始めていかなければならなかった。
 そうしてそれが、土屋文明という一歌人を生涯の師と定めたきっかけでもあった。生涯の、唯一の文学の師といってよい。わたしの後年の『早春歌』の作品は、そうした、初めての面会日の記憶の二年後、昭和十一年から始まっている。