土屋文明







伊藤左千夫百首選

近藤芳美著「土屋文明:土屋文明論」岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。)

『土屋文明序説』(一) 『土屋文明序説』(二) 『土屋文明序説』(三) 『土屋文明序説』(四) 『土屋文明序説』(五) 『土屋文明序説』(六) 『土屋文明序説』(七) 『土屋文明序説』(八)

土屋文明私論(一) 土屋文明私論(ニ) 土屋文明私論(三) 土屋文明先生のこと 文化勲章受賞をお祝いして 文明・その思想性に至るまで 土屋文明における戦争 老年と「詩」と…『青南集』以後の世界 土屋文明先生の死を悲しむ 追憶として 人間愛情の歌


土屋文明私論

(三)「川戸雑詠」の年月(1)

昭和二十年八月十五日、日本の敗戦の日を土屋文明は疎開地である群馬県吾妻郡原町大字川戸で迎える。現在は吾妻町となっている。それより先、五月二十五日の東京空襲で青山南町五丁目の家が焼かれ、一家を連れて逃げた。川戸は利根川の支流、吾妻川の渓谷に添う小村落であり、榛名山の裏側の山麓に位置する素封家である某氏の二階家の、階下の座敷三間を借り、周囲の、山の傾斜地に畑を耕して生きた。

同じように、斉藤茂吉もまたその郷里である山形県南村山郡金瓶村、現在上山市に疎開し敗戦を迎える。妹の嫁ぎ先、斉藤十右衛門宅であり、文明よりやや早く、単身、身を寄せた後に五月の空襲で青山の自宅と病院とを焼かれる。空襲の数日後、ようやく復旧した環状線に乗りなお焼跡の壕舎に住んでいる文明を見舞ったわたしは、彼に伴われ彼に伴われて一面の焦土の中を青山脳病院のあったところまで行き、白く、うずたかく敷きつめられたような灰の堆積を、あれが斎藤さんの蔵書だったのだよといって示された記憶を持つ。茂吉は敗戦の翌年、昭和二十一年にさらに大石田に移り住み、病臥し、二十二年十一月まで病苦と孤独の疎開者の生活を送る。

その敗戦への経過を、文明、ないし茂吉はどう見ていたのか。もしくはどう内面に受けとめていたのか。茂吉の場合は明瞭であり、祖国の「聖戦」への狂熱的な賛美と、戦局の推移と共にしだいに影をます焦燥と失望として作品の上にたどることが出来るが、文明の場合ややわかりにくい。少なくとも、作られた作品を通すかぎり知り難い。たとえば、敗戦の前年、昭和十九年夏からその年の終りにかけて彼は陸軍省報道部臨時嘱託の資格で中国戦場の視察の旅をつづけているが、もし戦争を侵略戦とし、それが破局をうかえる直前であるという明確な現実認識を持っていたらラバ、たとえどのような理由であろうとそうした旅行はなし得なかったであろう。

しかも、その旅の間に次のような作品が生まれる。

君が家もいまだ焚かねば外套著て日本と支那のこと語り合ふ

北京滞留中の一首であるが、うたわれている事柄を通し、その韻律の間に、或る切迫感として推移する時局を予見する作者の心の中のものの投影を読み取らないわけにはいかない。そうであればその日以後の敗戦への歴史の過程は、戦争という過程のすべてを含めて土屋文明にとって必ずしも無知なだけではなかったのであろう。

では、家を焼かれ、山深く逃れ住んだ一疎開者として知った敗戦はどのようにうたわれたか。歌集『山下水』はその直前、原町大字川戸に仮寓を求め得たころから、敗戦をはさみ昭和二十一年にかけての作品を収録するものであるが、敗戦は、巻頭から次のような幾首かの音信の歌をたどってうたわれていく。

朝よひに真清水に採み養ふ命は来む時のため

打ちつづくる海の上の砲に目ざめても月没りしかば起くることなし

仙台の笹気印刷所も焼け亡せぬ待ちしにもあらず待たざりしもあらず

疎開地の山中にも敵軍艦の艦砲射撃の音が聞え、関東平野一帯本土決戦場となる事態が迫ろうとしていた。最後の歌はその日にも続けようとした「アララギ」発行のことであった。

そうして、

新しき常に照る日の広き心吾等かならず立たざらめやも

など「新しき日本」の一連を置いて「川戸雑詠」と題する相次ぐ戦後作品の時期がはじまる。この場合求められて作ったと思われる「新しき日本」の、今から見ればやや形骸的な五首は読みすごすこととする。

ここから先はこちらをご覧ください土屋文明NO.6へつづく

(つづく)


(ニ)「国ありて始めての時」まで

その唯一の青春歌集でもある第一歌集『ふゆくさ』の、浪漫性、ないし西欧的リリシズムとも呼ぶべき世界の自己否定の上に、土屋文明が、壮年の都市生活者知識人として実人生に立ち対う、あらあらしい現実主義短歌を模索し確立し展開していく時期が、それにつづく第二歌集以後、すなわち『往還集』『山谷集』『六月風』、さらに『少安集』の相次ぐ刊行の間であったとするなら、その期間は同時に大正末年から昭和十六年太平洋戦争開戦に至る、日本の近代史の、激動と、暗澹とした悲劇下の一時代でもあったと言い得る。

そうであればそこでうたわれるべき作品は、もし土屋文明が真正の詩人であるならばその生きる現実から逃れてあるはずはなく、その生きる歴史と関わらずしてあるはずもなかった。みずからの文学の自己否定といい、模索、確立。展開といいすべて同様である『ふゆくさ』の世界を脱し『往還集』以後『少安集』にかけての制作の経路は当然経路は当然屈折し、作品自体もまた多様であるが、それらの間を縫い、それらの間を通してうたわれていったものが何かを把え出すことが、土屋文明という一現代歌人の意味を考えることともなろう。

『往還集』が刊行されたのは昭和五年であるが、作品は大正十四年に文明は長野県の中学校長の職を捨て上京、法政大学予科教授となる。三十五歳。以後、都市生活者としての人生がつづくはずだが、それはどういう日であったのか。

年表によれば、大正が昭和と改元された翌年、金融恐慌が発生、さらに昭和四年にはアメリカのニューヨーク株式市場暴落に起因する世界恐慌がこの国に波及する。日本に経済不況がひろがり、農村は貧困にあえぐ。そうして、その中から兆されていくものを恐れる国家権力による、三・一五事件、さらに四・一六事件などという陰惨な思想弾圧がつづく。治安維持法が大正十四年に公布されている事実もこの時点で象徴的なのであろうか。

しかも、そのような間において「日本無産者芸術聯盟」が生まれ「プロレタリア作家同盟」が結成され、弾圧による共産主義思想の退潮に一見逆流するかのようにプロレタリア文学運動が隆盛する。短歌の場合も同じである。「プロレタリア歌人同盟」が生じたのは昭和四年、当時青年歌人が競って参加した。昭和初年、生き方を求め苦悶する日本知識階級にとって、いわゆるマルキシズムは良心の問題であったという歴史を見過ごしてはならない。

繰り返せば、その時期が『往還集』の作品の日々であった。

休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす

巻頭の一首であり、それに始まる、感傷を断った、表面無感動ともいえる歌集の日常生活詠その他の作品の世界を、何のゆえにという問いと共に絶えずそうした歴史背景と重ねて見ていかなければならないのであろう。

かぜひきて食欲のなき夕食に塩鮭を買ひ焼くをたのしむ

蕨汁に鰊を入れて食ふことを妻も子供もよろこびとせず

父死ぬる家にははらから集りておそ午時に塩鮭を焼く

日常生活詠、あるいは小市民生活詠ともいえよう。都会の一隅に、その生活を守って生きる小市民ちしての思いが乾いた感情としてうたわれているが、それはそのまま、次の『山谷集』或いはそれ以後の歌集にもつづく。

(つづく)

争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ

三月の尽くらむ今日を感じ居り学校教師となりて長きかな

わが妻は蚊帳と布団と買ひて来ぬ今日夏物のやすくなれりと

宮益坂下り来りて馬肉買ふ並び待つに富める人ありや

塩鮭をやく思い、馬肉を買う列に並ぶ都市生活の中にある思いは次のような一群の作品と交互する。

むれくさき塩引の香のただよひてわが生ひ立ちの日を思はしむ

夜ふかく父母争ふを見たりける蚊帳の眠よ幼かりけり

蚊帳そとにひそひそ風呂敷を包み居りし母を蔑む心今なし

『往還集』中の作品であり、それらは『山谷集』となって、

父の罪に警察に引かれ偽証せし幼き夜の記憶は打ち消しがたし

ひたすらに父はかなしき売りし家に携へかへる夢しばしばにして

などもうたい継がれる。何なのか。故郷回想詠であり、生い立ちの追憶である。そうして、さらにそこに見ている「貧」の記憶であろう。文明が少年の日に祖父が獄死したという一家の秘密と周囲の指弾を知り、それが文学への幼い自覚となったことは『ふゆくさ』後記として記される。彼が関東平野西北部農村であるふるさとを出た後、父とその一家もまた、事業失敗のゆえに都市流出者となってそこを去る。「貧」の事業への思いは出生の記憶と重なって、いくのであろう。

そうして、そのことの上に『往還集』『山谷集』さらにはそれにつづく諸歌集の日常生活詠を読むべきであろう。そこに、つねに見続けられている「貧」の思いである。あるいはその上にある自己凝視、さらには人生凝視、現実凝視といえよう。

そうでなければ、やはり同じ時期に作られていく次のような作品の理解は出来ない。

あやまたず一世を終へむ願いやし忘れて安く居る日あれかし

身ひとつを専ら安くと願へるは吾が何時よりのことにかあるらむ

堪へしのび行くを子等に吾はねがふ妻の望は同じからざらむ

力及ばぬ過ぎにし世をばなげき来ぬ吾が父も吾もわが子等はいかに

うつりはげしき思想につきて進めざりし寂しき心言ふ時もあらむ

何を言おうとしているのか。何に対して、あやまたず一世を終えようと言っているのか。あるいは、何にむかって「堪へしのび行く生」を子等にねがっているのか。生きていく日、ないし生きていく時代というべきであろう。うたわれている個々の作品の事実は別として、究極にはそのことなのであろう。そうして、それはさらに具体的には、引例の最後の一首に「うつりはげしき思想」として告げられているものなのであろう。

では、何が「うつりはげしき思想」なのか。引例の作品は「堪へしのび」以下と共に『往還集』の次の歌集『山谷集』な中にあり、「屋上栽草」として昭和六年に作られている。『山谷集』の作品の期間は昭和五年より十年にかけてであり、その初めの時期に位置する。

(つづく)

昭和六年九月十八日、柳条湖満鉄爆破と共に「満州事変」が発生する。不況と農村疲弊とに、相次ぐ思想弾圧のうえにその日の国家権力がもとめようとした打開の道であったが、以後、日本はファシズムと戦争と、さらに戦争のはての破壊にむかっての長い悲劇の歴史をたどることとなる。昭和七年には「満州国」建国、八年には国連脱退、遠いヨーロッパではナチが政権に近付こうとする。同じ八年、プロレタリア作家小林多喜二が虐殺されている。

「屋上栽草」一連の作品が発表されているのは昭和六年十月号の「アララギ」誌上である。そうして、前述の如く「満州事変」の勃発は同年九月である。そうであれば、作品の制作はそれとどう関わるのか。少なくともその不安はひそかに作者である文明の心にあったのではなかろうか。一連の歌が何を素材といて作られているかは別として、「うつりはげしき」とうたう思いの中に影落すのを見ないわけにはいかない。

そうしてされに、「思想」と言っているのは何か。端的には、マルキシズムであろう。あるいは、その日におけるマルキシズム思想なのであろう。昭和初年から昭和十年代はじめにかけて、それが日本知識階級、とりわけて青年層にとって自らを追いつめるかのように逃れ得ない良心の問題とすてあったこともすでに記した。

そうであれば、「あやまたず一世を終へむ願いやし」とうたうもの、「身ひとつを専ら安くと願へるは」とうたうもの、ないしは「堪へしのび行く生」と告げられている呟きも、それら個々の発想の場合の相違に拘わらず、底を流れる思いとして共通する。すなわち、その日のマルキシズムにむけられた作者ひとりの心のことなのであろう。

それを知り、みずから生きる世界は別にあった。ないしは生きなければならない世界であった。何か。生きて守らなければならない日常である。あるいは実人生である。その思いがひそかな屈身となって『往還集』ないし『山谷集』の日常生活詠その他のあいだあいだを縫うようにうたい継がれる。そうして、屈身は同時に、すべての作品の、うたい出す拠って立つ基点ともなる。そこから凝視と認識とのまなこを見据えていく発想の拠点である。

感傷を断った、表面、無感動ともいえる日常詠ということばを用いた。それらに共通する消極的な、あるいは小市民的な作品発想の姿勢にも拘わらず、よく読めば一首一首にうたわれている作者自身の思いは厳しく険しい。むすろ苛酷ともいえ、それが作品の無感傷、無感動の表面的印象を生む。そうではあるまい。そのことを越えてある人間ひとりの内面告白の激しさを必ず読み取らなければならないはずである。

しかも、屈身といえるそれらの発想の基点に、つねに見続けられていくものが「貧」ということへの思いとは言えないだろうか。出生と実人生とを通して、土屋文明という一歌人が文学の根底に見据えて来たものである意味はすでに記した。「思想」ということばでも同様であろう。

(つづく)

『山谷集』にはなお次のような作品がある。

蘭が欲しと病の如くきざすだにあはれ衰ふる吾の意欲か

人よりも忍ぶをただに頼みとすわが生ぞさびし子と歩みつつ

昭和九年のころの歌であり、それらはさらに、以下のようにうたっているものの何かをあらわにしていく。

あはれなる幼き努力押し虐げて来る時代をいかにかも言はむ

貧しき我に関りなき変移ある夜寝むとして恐れて思ひき

「来る時代」であり「世の変移」である。「蘭が欲しと病の如くきざす」屈身の思いの彼方に見ているものは、今、もはやかってのマルキシズムであるものとは違う。

『山谷集』につづく歌集が『六月風』であり、作品は昭和十年に始まって十二年終りに至る。

おそれつつ世にありしかば思ひきり争ひたりしはただ妻とのみ

呪詛が出来るなら吾は幾度も呪詛を用ゐしならむ

などと、どうようの系列の歌があるが、すでにそれらにひそむ切迫感ないし焦燥を見逃し得ない。「呪詛が出来るなら」の一首の乱調は秘められていく怒りでもあろう。

昭和十年、「鎖夏読戦史」として、

背くものは九族をつくして軍の統制を保ちし世さへありにけるもの

など、やがて知る二・二六事件を予感させるかのような重苦しい作品があり、それにすぐつづいて、

語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと

まととめのだだ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに

こころざしつつたふれす少女よ新しき光の中におきておもはむ

などという、「某日某学園にて」と題される一連の小連作があるのに気付く。

うたい方はやや用心深く、作品の背後にある事実をあからさまにはしていないが、それは注意して読めば理解される。かっての教え子のひとりの記憶であり、その純粋な魂ゆえに非合法運動に入り、とらえられて獄死したことをつたえ聞く。ひそかな共感の上にある悲しみと怒りが、今、ぎりぎりの限度において戦争のかげを濃くする一状況下で表白されている。美濃部達吉の「天皇機関説」が右翼狂信者らに攻撃され、同じ日に、日本の軍部はしだいに華北侵略を進めていた。

そうして、翌十一年に二・二六事件が生じる。青年将校らによる軍事クーデターであり、事件の鎮圧に戦時体制は更に厳しさを加える。

降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎむ吾等は

という一庶民の内面の憤りが、韜晦とも思える晦渋の中にうたわれているでけであった。

(つづく)

次いで、十二年。盧溝橋事件発生。戦火は上海に拡大、日中戦争として日本は悲劇の歴史をひたすらに走る。

世の中の用なき歌を玩び居りつつ今に言ふことやある

求められて作った時局歌ではあったが、ここにもひそかな屈身の思い、ないし怒りであるものはまぎれない。

戦争の迫り寄ろうとする日から、土屋文明は幾度となくその戦争ということを歌にしている。そうした早い時期の一つに、

代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき

という昭和5年の作がある。「満州事変」のまだ始まらない日えあり、「涙ぐましき」という、述懐はなお理解されなかったはずである。

戦ひ死なむ時もあるべしと歌ひあぐる吾が友を見るは涙ぐましき

ただに生死のことのみならず戦争をたたへし思想に思ひ及ぶかも

横須賀に戦争機械化見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ

にぎはへる銀座ゆきつつおのづから吾が感情は戦争を肯定す

八月の暁あつき釜山の町馬引く兵の多く裸なりき

こころみに、それにつづく昭和七年、すなわち「満州事変」発生以後から、昭和十三年のころにかけての作品の推移を追って妙出してみた。うたう思いは遅疑し屈折し、或るときは「戦争を肯定す」とさえいう。しかし、すでに最後の一首など、それを逃れ得ない現実として対い合わなければならない日の切迫感が、息詰まるまでに伝わるかのようである。

そうして、その作品はもはや、『六月風』の次の歌集『少安集』の時期のものである。『少安集』の制作の期間は昭和十三年以後十七年までであり、時代は、もはや国家主義狂信と泥沼の大陸侵略戦のさなかである。その中でマルキシズム運動は相次ぐ転向者らを生みつつ壊滅し、思想弾圧は自由主義その他に及ぶ。文化人と呼ばれる作家、評論家らは相競ってカーキ色の国防服に軍刀を吊り、前線視察に出掛け、帰って来ては市民に対って昂然と「聖戦」の完遂を呼号した。昭和十六年には、時局は太平洋戦争開戦という次の段階に向かう。

(つづき)

その『少安集』の初期に「解良富太郎歌集によせて」という一連の小作品がある。「東京帝大新聞」昭和十三年十二月十二日号掲載とされる。

廃れたる思想の中になげけども嘆は永久に移ることなし

病みて死にし助手の君らは数ならず彼等が二年前の物言ひを見よ

説を更へ地位を保たむ苦しみは君知らざらむ助手にて死ねば

それらの最後に、

魯鈍なる或いは病みて起ちがたき来りすがりぬこの短き日本の歌に

の一首が置かれる。

解良富太郎とは、大学助手か何かのまま早死したひとりの若者と想像される。 日本があげて戦争とファシズムの歴史に向かう日に、思想に苦しみ、苦しみを歌として遺した。その若者に対する愛情が、ひそかな怒り、ないしはそのための冷厳な現実認識、人間認識の眼を重ねている。

そうして、ここで「彼等が二年前の物言ひを見よ」とうたっている「彼等」とはだれか。作品の意味のかぎりその大学教授、あるいは一群の文化人らを指すのかもしれないが、それは同時に、戦争とファシズムになだれていく一時代に、土屋文明という一短歌作者が見て生きたこの国の、マルキシズムその他の思想と呼ぶ世界ということではなかったのか。それらは「移りはぎしき思想につきて進めざりし」とうたって来た日から、激しく、脆い変転と崩壊をつづけてその日に至った。

しかも、そのようにうたう場合、土屋文明はみずからのうたって立つ位置を「魯鈍なる或るは病みて起ちがたき」ものらの共感の中に置く。最後の一首に告げられている意味はそうであろう。すなわち、それらは弱者であり、無名の無力の庶民であり、早死にした一学究の青年を含めて彼をめぐる短歌作者でもあった。繰り返せばその位置から身を屈してうたう現実凝視の上に、『往還集』以後『少安集』に至る生活者の歌、ないしリアリズム作品群があったと言えるのではなかろうか。

その『少安集』に、

幾年ぶりか歌を作りていで立ちき敵前上陸にはやく戦死す

やさしかりし青年君もいで立ちて永久なる国の命をぞ生く

などと、すでに身辺のものとなった戦争の現実がうたわれ、それらはついに、

国ありて始めての時とこしへの言葉を持ちて吾等は立たむ

に行き着く。昭和十六年十二月八日太平洋戦争開戦の日の賛歌であり、一首は引き締まったひびきを伝える。『少安集』末尾にある。

日本のすべての文学が一つの言葉を言葉とする他なかった日であったが、ここまでに至る苦渋の経過を知った上に、一種の苦さを思わないわけにはいかない。

明日より『三、「川戸雑詠」の年月』になります。


(一)「擬輓一連」をめぐって

土屋文明に「擬輓一連」と題される一連の小連作がある。

この母を母として来るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして

年若き父を三人目の夫として来りしことを吾は知るのみ

父の後寛かに十年ながらへて父をいひいづることも稀なりき

この母ありて吾ぞありたりし亢ぶり思ふべきことにもあらじ

吾を待ち待ちつつ言に言はざれば待ち得て次の夜にむなしも

葡萄をばよろこびとりて惜しみつつ西瓜おきたるを長くと思ひき

枕なほれば歌をえらみて夜を通す弟三人酔ふにもあらず

今日のため乞食一躯敬ひて鉦のこゑあり吾はぬかふす

意地悪と卑下をこの母に遺伝して一族ひそかに拾ひあへるかも

すすみ寄りその白きをば吾が抱く清らに今はなり給ひたり

歌集『少安集』の中にあり、昭和十五年の発表作品とされる。昭和十五年の『短歌研究』一月号掲載とされているから、制作はその前年、昭和十四年末と想定される。すなわち、作者四十九歳のときの作品である。

一連はいうまでもなく、その母の死のために作られた挽歌である。年譜によれば昭和十四年十一月七日、生母ヒデ、七十九歳で東京深川の弟筆司の家で没している。

わたしは土屋文明の短歌について語らなければならない場合、しばしば、この「擬輓一連」の作品を、同じように生母の死を悲しんで作られた斎藤茂吉の「死にたまふ母」を想起し、対比することから始めていくのを例とする。なぜなら土屋文明の文学、ないし文学生涯ともいうべきものを確認する一方法として、わたしはつねに彼の先進者であった茂吉の存在を一方に置いて考えることが有益であり、必要でもあると知って来ているためである。

茂吉の「死にたまふ母」がどのような作品であるかは記すまでもない。それがまた、詩人茂吉の出発にどのような意味を持ったかは語るまでもない。ただ、考察の必要のため一部だけを引例しておく。

はるばると薬をもち来しわれを目守りたまへりわれは子なれば

寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば

長押なる丹ぬりの槍に塵は見ゆ母の辺の我が朝日には見ゆ

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

さらに、ぶんめいの一連のうちの「意地悪と卑下をこの母に遺伝して」ないし「すすみ寄りその白きをば吾が抱く」に対比させるために次の二首も付記しよう。

火を守りてさ夜ふけぬれば弟は現身のうたかなしく歌ふ

灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり

何が言えるのであろうか。土屋文明の場合、母の死に集るものは「弟三人酔ふにもあらず」とうたわれる肉親らであり、彼らは「意地悪と卑下をこの母に遺伝して」と詠まれる作者と共にひそかにその骨を寄って拾い合う。その場面は無論、都会の片隅の火葬場か何かなのであろう。一連を通して、血縁の死への悲しみは人生の日常の中に冷え冷えとした自己凝視を置いてうたわれている。

それに対し、茂吉の弟は「現身のうたかなしく歌ふ」弟であり、「朝日子ののぼるがなかに」遺骨を拾う感傷である。母の死の時間の中には「遠田のかはづ」の声が天に満ち、「のど赤き玄鳥ふたつ」がその屋梁から見守っている。

すなわち、繰り返せば一方が日常現実の間における血縁の死という事実の冷厳な凝視であるのに対し、他はそのことを「詩」という別次元に置いてうたった詠嘆なのであろう。「遠田のかはづ」も「のど赤き玄鳥」も、ここではすでに、現実のものでありながら同時に現実だけの世界ではない。あるいは、前者にあるものがリアリズムとするなら、後者を覆うのはそれを包んだ豊な詩的浪漫性と言えよう。

(つづく)

ただし、これら二つの挽歌を対比させるためには、素材の共通という一点を別にしていくつかの留保条件を置かなければならない。一つは、茂吉の「死にたまふ母」

の制作が大正二年であるのに対し、「擬輓一連」が作られたのが昭和十四年、その間二十六年という歳月の経過があり、しかもそれは単に歳月の経過という意味だけではないということである。言い替えれば、大正初年がまだひとりの青年の詩的陶酔を許した時代であったとすれば、昭和十四年はもはや日本が戦争の苛酷な歴史に向う日である。その間の時間を、わたしたちは見ずして二つ連作の世界の違いを考えることは出来ない。

同様に、「死にたまふ母」を作ったときに茂吉は三十代に入って間もない青春の年齢であったのに対し、「「擬輓一連」の文明はやがて五十歳に至ろうとする。あるいは、五十歳の壮年に至るまでの人生遍歴を重ねている。生母の死という事実に向けて抱かれていく悲しみの内容はすでに同一平面のものではない。

しかも、それらの留保の上に両作品の間には隔絶し合う世界がある。むしろ、対極として立つ何かがある。何なのか。文学の、質の違いであり、そのことは、その作者相互の文学質の相違として捉えていかなければならないはずのものなのであろう。

「「擬輓一連」は昭和十四年の作品であるが、それに先行して、たとえば、『往還集』に「六月二十六日」として、

酔ひしれてかへり来りし暁に仏のふみよむ何故となく

父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く

あるいはその直前に、

親しからぬ父と子にして過ぎて来ぬ白き胸毛を今日は手ふれぬ

遠々と来て診たまへる君がまへにくどくど病を云ふ父を聞く

などがある。昭和三年から四年にかけて、同じく血縁である父の病、ないし死を素材としてうたわれており、その父は「彼はただ貧困の中に自らの物欲をあふりあふり生を終へたと言ふべき種類の人間であった」と作者みずからによって後年に回想されていることにより作品の輪郭を明らかになし得る。ついでに例示すれば、やはり昭和三年、「祖母を悲しむ」として、

たてまつる枕花は損料といふかなや長き一生は足りし日なしに

仏づくりかがまる骸ををさめまつる棺に虫くひの孔をさびしむ

があり、死の悲しみでありながら、そこに詠嘆を介在させない現実凝視は「「擬輓一連」へそのままにつづく。ここでは血縁ということを越えて、さびさびとして人間の事実が突き離した眼で見定められている。

そうして、そのことを理解する一つの鍵として、同じく「「擬輓一連」のなかに次の作品があるのをわたしたちは知る。すなわち「この母を母として来るところを疑ひき」から「自然主義渡来の少年にして」とうたいつづく最初の少年回想詠の一首の意味である。生母の死の事実に向かいながら、土屋文明はそのみずからの出生を疑った少年の日の追憶と共に、それが日本の「自然主義渡来」の時期と重なったという感慨を告白として告げる。

文明が、自身の出生ないし少年期をやや語っているものとして第一歌集『ふゆくさ』の巻末雑記の文章がある。さらに、それは後年にわたり、たとえば次のような回想作品として幾度にもうたい繰り返されている。

年若き父を三人目の夫として来りしことを吾は知るのみ           『少安集』

夜ふかく父母争ふを見たりける蚊帳の眠よ幼かりけり            『往還集』

父の罪に警察に偽証せし幼き夜の記憶打ち消しがたし            『山谷集』

大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな         『白流泉』

彼の生地は群馬県榛名山麓の農村、生家は「生糸や繭の仲買」を兼ねた小農であった。父はやがて石灰焼きなどの事業に手を出し、没落して都市流出者となって死ぬ。そうして、その少年期に、祖父である人が、「博徒に身を持ち崩した揚句、強盗の群れに投じ徒刑囚として北海道の監獄で牢死した」と同じく『ふゆくさ』の後記に記される一家の秘密をも知る。無言の周囲の指弾でもあったはずである。

日本の、「自然主義渡来の日」がもし明治三十年後半、日露開戦前後にかけてとするなら、同じ時期に文明はそうした出生を負ったまま小学校から高崎中学生となり、その文学覚醒へとつづく。すなわち、彼が最初の覚醒とした文学とは、明星浪漫主義退潮の後に波のごとく海彼から押し寄せ、渡来して来た自然主義思潮であり、繰り返せば歌人としての出発はその日に重なる。負って生きる出生ゆえに、それは体ごと浴びた波だったとも言える。

そうして、そのことを文明は作歌生涯の原点とし、茂吉はしなかったともまた言い得る。たとえば『赤光』に、

書よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭呉れたまひたり

はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に

などがある。日露戦争を背景とする初期の作品ではあるが、茂吉の場合、将来された自然主義は真正面からあびる波ではなかった。

(つづく)

茂吉と文明の間に八歳の年齢差がある。だが、明治から大正初年にかけて、彼ら二人の少年期、ないしは精神形成期を生きた時代の推移は急である。自然主義を内面体験として経過したかしなかったかは、両者の文学の根底であるものを分けることになる。

青年となった土屋文明は出京、伊藤左千夫を頼ってその牛舎で働こうとし、翌日、すでに東京帝大医科大学生となっていた茂吉と出逢う。「アララギ」の先進とし、新鋭の歌人とし、文明はその奔放な詩才の前に最初に立たなければならないこととなる。文明の上京は明治四十二年、後に『赤光』として世にむかえられることとなる茂吉の青春作品がようやく絢爛とした開花に向かおうとしていた時期であった。

そうして、その茂吉の文学の上に文明が見たものは何か。ないしは眩惑としたものは何か。いうまでもない。そこにあった西洋世界の香気であろう。茂吉の場合、わたしはそれまでの日本詩歌にはうたわれようとはしなかった人間の内面的なもの…内面性と端的に考える。あるいは、茂吉自身、後年「写生」の「生」ということばで語ろうとしたものであったかもしれなぬ。

そうであれば、文明もまたそこから歩み出さなければならぬ。その、未知であったものの眩惑を全面的に受けて、といえる。

楢原の春の若芽に灰ふる日木の間にうすき影をふみつつ

などの初期の作品から、

鼻をよせ口をゆがむる汝がくせの幼きにしては淋しきものを

のごとき後期作品に兆されていくものへの第一歌集『ふゆくさ』の歌風の遷移の過程も、それを、茂吉の影響と、そこからの脱出の苦渋の経過として見ていくことが出来よう。

『ふゆくさ』に、

ひとすぢに南に向ふ白道をわれは歩めりゆふべといふに

という一首がある。大正八年の作であるが、それに対比させて茂吉の『あらたま』の中の歌を引例する。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

たまたま、「道」という素材が一致するだけで、それ以上に意味はないが、ここからも両者に共有されるものと、相反し、隔絶していくはずのものとが見出し得る。

茂吉の、具象というよりはむしろ抽象に近い、描線を消してしまったような表現を通してうたわれる内面性、むしろ瞑想性ともなすべきものに対し、文明の場合、あまりにも明晰であり、理知がまとう。茂吉に近付こうとしながら、茂吉の全身的な詩の陶酔とついに無援のところで文明はついに迷い歩まなければならなかったのであろう。

そうして、その脱出、ないし脱皮が『ふゆくさ』から『往還集』への転化だった。第二歌集『往還集』は大正十四年の次のような作品に始まり、それはそのまま、たとえば「擬輓一連」などを含む世界につづく。

休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす

冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ

脱皮を現実主義、自然主義的なものへの転化というなら、むしろ、それらにつづく以上の諸作品を例示した方がわかりやすい。

ただひとり吾より貧しい友なりき金のことにて交絶てり

今日もまた昼寝つづけつ午後となり人とぶらひに出でゆかんとす

幾度も記すように、文明は「自然主義渡来の日」に少年として最初に文学に出逢ったという。それはひそかに、生涯に逃げられないものであったはずである。だが、その自然主義とは何か。むしろ明治日本の知った自然主義文学とは何だったのか。

田山花袋は「露骨なる描写」ということばでその日を説明する。あるいは、幻想を入れない現実認識、ないし表現といってよいのであろう。そこに立ち帰り、『往還集』以来の文明の短歌はその現実認識、表現をなすものとしての自己追及を重ねる。

それが険しい道であるのは、幻想と呼ぶものが「詩」と何らかの意味で重なり合う、その二律背反を負う選択であることからも明らかである。あるいはまた、「非詩」とあやうく接する地点に「詩」を求めていく歩みともいえる。そこから先にひろがるのはあらあらしい散文の荒野だけである。

しかも、土屋文明がその地点に立ち返って『往還集』以後の作品をうたい出したとき、日本は大正末年から昭和初めにかけての一時代に向っていた。世界不況からはらまれていく時代は悲惨な農村の貧困を踏みつけるように、ようやくファシズムと戦争の歴史になだれようとする。そこに生きる人間ひとりの生き方をうたうものとして、その日に耐え得た短歌とは、現実を現実のものとして幻想を見ない、冷厳なリアリズムの他にあり得なかったともいえる。

それでありながら、後年、昭和二十八年に斎藤茂吉が世を去ったときに文明は次のようにうたう。

近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして

文明六十三歳。巨木のように朽ち倒れた一代の詩人の死を悲しむ歌である。それにしても、「近づけぬ近づき難き」思いはわたしたち後進の知り得ない内面のものとしてついに彼の生涯についてまわったともいえるのか。

『土屋文明序説』(八)より

土屋文明という、明治、大正、昭和の三代にわたって短歌と関わった歌人を概観するために、その文学を、生きた生涯と共に時の経過の上にたどってみた。推移するものと、推移の間に重ねられていくものと、さらにそれらを通して一人の文学に本質として流れつらぬかれたものを知るために、それが一番ふさわしい方法と思ったからである。その過程において文学と呼び思想となすものに出来るだけ接近して見ることがこの概説的作家論の目的であった。

明治の終りが大正へと替わる日に文明は知的憂愁をたたえた一少年リリシズム歌人として出発した。発足したばかりの「アララギ」一同人でもあった。それにはこの国の短歌史の歩みの上に「近代」と呼ぶ西欧文芸思想の世界が初めて淡い影をおとしていた、といえよう。だがその大正が昭和に移るとき、文明はリリシズムの少年詩人でなく、冷厳の眼を現実にむけるリアリズムの作者に推移する。すでに生活者である文明は、生活を通し、生きる現実即物的な表現の中に歌う。昭和になり日本は経済恐慌とそれに重なるマルキシズム思想の嵐の時期を通過し、そのあとに戦争とファシズムの時代が迫り寄る。そうした日に文明は一人の生き方であるべきものを文学として問い求め、その思いを重く、あらあらしく、苦渋の作品として歌い重ねる。

それは戦争の時代にもぎりぎり守り抜かれる。求められては戦争賛歌を作ったという事実を逃れられないが、文明の戦争詠の多くはその時に生き、その戦争をたたかう日本の無名の市民の「個」の運命の関心の上にだけ抒情として作りつがれた。

そうして、戦後の時代に彼は同じように戦後の荒廃に生きる思いを歌う。敗戦を歴史の中に凝視し、一人の疎開者である位置から日本に推移するものを歌った。その視野の中につねに民衆があり、民衆の呼び交う歌があった。「生活即短歌」という言葉が自らの文学主張を明らかにするものとし、歌論としてこの日に語られる。

(つづく)

そのあとに、今日に至る長い老年がつづく。文明の歌に内面性ともいうべきものが深く増し、老年の心境を述懐する。それが日本の詩歌伝統のトータルの上の「詩」の美しさにおのずから連なるとき、至りついた一つの世界がある…八十幾年かの生と、文学とをこのように概括してみた。

そうした生涯の文学において歌いつづけられて来たものは何だったのか。さまざまな作品に拘わらず、生きていく日に、その生きていく思いをみずからのうちに問いつづけ、語り出すことばだったと文明の場合に言えよう。その生きていく日は繰り返せば明治末年から今日に至る歴史の激動の時代であり、あらあらしい音を立てて何かが崩れていく時期でもあった。その中に、ことに戦前と戦争と戦後との三つの時があり、文明もまた苦しんでそれらの時を潜って来た。彼の短歌はそうした歴史の時を、「如何に生きるか」との問いに生きることばであるべき「詩」として歌われた、とわたしは大きな筋として思う。

さらにそのような日に、彼は日本の知識階級者であった。それは同時に生活を曳きずる貧しい都会の一小市民の人生であることを意味する。問いつづける「生き方」の思いであり「詩」であるものはその二重の「生」を負うことでもあった。

文明がリアリズムの歌人であったという意味はいまそのことの上にのみいえる。そのことの上にのみ厳しい現実凝視があり、現実凝視の上に表現があった。文明にとり短歌であるべきものである。

そのような作者にとって、表現とは認識であることを意味する。表現者である文明は当然認識者であった。何の認識者なのか。いうまでもなく、わたしたちの生きていく「生」を含めた、現実と呼ぶ「歴史」の意味であろう。文明の作品の中に、ことに戦争から戦後にかけて冷厳に見据えられていた「歴史」があったとすれば、そのことを「思想」とすでにいい代えてよいのであろう。

(1976・12『土屋文明論考』より)

『土屋文明序説』(七)より

昭和二十六年、文明は疎開地の川戸から東京に帰り住む。六十二歳である。やがて明治大学教授として教壇に戻る。その間、『万葉集私注』二十巻の仕事をつづけている。そうしてその日から今日に至るまで四半世紀の歳月が経過した。『青南集』『続青南集』『続々青南集

』の各歌集がある。それが彼の文学生涯の、長い、老年と呼ばれるべき時期であろう。昭和二十八年には同じように茂吉が疎開先から帰京した後に死ぬ。眼前の巨峰の死を見て文明の晩年は始まると言える。

文明の歌はしだいに身辺のこととなり、それに覊旅詠が相次いで作られていく。老年にむかい、彼はしきりに万葉に歌われた地をたずねての旅を重ねる。そうしてそれら身辺詠あるいは覊旅詠は、これまでに増して重厚と沈潜とを加え、また時としてしばしば「軽み」とも言える諧謔をまじえるようになる。技巧の巧緻さは表現の自在ともなり、老年とは思えない眼をみはるような作品の新鮮を生むことがある。

そうしてその中に「白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか」「旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或いは行かむ」等と、鋭い批判をこめた思想詠ともいうべきものが歌い出されていく。核兵器開発の狂奔のはて地を覆う放射能に人間が亡んだあと、幾億の蝸牛がいきて這いめぐる幻想を、文明は愚かさが作りなす歴史の彼方に冷酷に見据えている。

(つづく)

そうした作品はさらに内面化し「或る夜の槐のうれの星屑の落ちて空しき一生とおもへや」「暁に眼をひらくあたり人のなしかくの如きか墓壙の目ざめ」等と、しだいに事象を絶った瞑想ないし観念の世界に入る。それらはすでに蒼古とも言える古典的格調を持つ。このような歌が「目の前の谷の紅葉のおそ早もさびしかりけり命それぞれ」「老い朽ちしさくらはしだれ匂はむも此の淋しさは永久のさびしさ」等と並ぶとき、長い作歌生涯のはてに至りついた世界ということと共に、この国の千数百年にわたる和歌…詩歌伝統のトータルの上に達した「詩」ともいうべきものの達成の意味を改めて思わずにはおれない。

ほとんど平坦と見えた老年の境涯の或る日、昭和四十九年、土屋文明はその長子に思いがけず先立たれる。八十四歳である。寂寥は翌年に至りようやく「思ひ出でよ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて」等と歌われる。「病みあとの汝をかにかくつれて」は『ふゆくさ』等の遠い記憶につながる回想であろう。老いて残されたものの深い哀傷が告げられているが、作品はなお雄勁であり、調べ高く、表現に寸分のゆるぎを見せない。

(つづき)

『土屋文明序説』(六)より

東京青山の自宅を空襲で焼け出された土屋文明は家族を連れて群馬県吾妻郡原町大字川戸に疎開し、その地で敗戦をむかえた。川戸は榛名山の裏、吾妻川の渓谷に添う小村である。同じ群馬県…上州ではあるが、榛名山を隔てて故郷の西群馬郡上郊村とは反対に位置する。

文明と同様茂吉もその故郷山形県に疎開し、敗戦を知り、「このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね」「くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ」と、敗戦に打ちひしがれた悲しみの歌をうたい重ねる。だが、土屋文明はそれとは違ったかたちで同じ日をむかえる。

「出で入りにふみし胡桃を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた」「分ちとるものに憤るこころならず草より拾ふ乏しきはしばみ」と歌われる日々である。その、鍬を振り、畑を拓く峡村の貧しい疎開者の生活の思いから彼の戦後作品は始まる。孤独は歌われているが、そこには敗残者である茂吉の悲哀はない。

そうしてその孤独な疎開の生活の中から静かに見据える眼が戦後と呼ぶ日本の歴史の一時期にむけられる。「この者もかく言ふ術を知れりしか憤るにあらず蔑むにあらず」「北支那より帰りし君を伴へど雪の下には採るべきもなく」と歌うものを通して再び表現者としてのことばが語られ出す。

敗戦は茂吉にとっては敗戦であり悲劇であった、文明にとては違った。歴史である。今はその凝視の眼が、戦後の虚脱と混乱とその中に生きひしめく民衆の上に、疎開者であるみずからの日常の位置を通して歌われていく。敗戦から昭和二十六年講和条約締結に至る『山下水』『自流泉』の二つの歌集の時期である。この間峡村の疎開者の生活をつづけた。そうした生活の作品の上に、老いの自覚がしだいに加わっていく日ともいえる。

(つづく)

だがその日に、同じように作品に俄に加わっていくものに「思想」と呼ぶ内面の世界があったとわたしは考える。生活と、生活を通して歌う時への凝視の作品に、その表現の多様な屈折と共に歌い込められていくものである。再びいうならそれは過ぎ移る戦後という歴史の視野の中に、静かに見定められていく、国と、社会と、生きて苦しむ民衆への「思い」である。歌人である文明はこのころからようやく思想者としての「思い」を作品に籠めていく。そうした時期と重なって例えば、「短歌は生活の表現といふのでは私共はもう足りないと思ってゐる。生活そのものである」(「短歌の現在及び将来に就いて」)等という言葉が語り出される。「生活即文学」の思想である。この場合「生活」は「生」ないし「生き方」とも言い替えるべきであろう。その場合もまた「生活」は「生き方」でもなければならない。「文明選歌欄」の仕事を通して、文明の眼は深い愛情を民衆と呼ぶものの上に向けつづけられていく。

昭和二十五年、すなわち『自流泉』の終りに近い時期に「道の上の古里人に恐れむや老い行く我を人かへりみず」「この谷に入りなばゑぐの残るらむ雨のふる田を見て引きかへす」の一連があり、少年の日に離れ去った故郷を久々に訪れる老年の感傷が告げられる。だがその感傷には「道の上の古里人に恐れむや」という思いがつねにともなう。そこは彼と共に、彼の父と一家とが追われるように捨て去った地である。故郷に対していだく感情は長く懐かしさだけではなかった筈である。

彼の故郷再訪、もしくはその追憶の作品はもっと早く、例えば『少安集』に「亜炭の煙より食物を錯覚せし少年の空腹を語ることなし」、『山の間の霧』に「馬鈴薯が村に入りし頃の記憶あり真珠なす新しさ堀り飽かざりき」等、ことに戦時にかけて随所にみられるが、それらに少年時回想として歌われているものは貧の記憶であり屈辱を込めた農村への共感が覆いかぶさっていく経過を、わたしたちは疎開者の日々の作品にかけてしだいにたどっていくことが出来る。老年につれて歌われていく愛情、共感は都会の知識階級として生きた文明が生涯心の底に持ちつづけたものであり、彼の生き方を含めて文学ないし思想というべきものを根底に規定するものだったのであろう。

(つづく)

『土屋文明序説』(五)より

国をあげて聖戦と呼ぶ戦争に狂奔した歴史の一時期をわたしたちはようやく忘れようとしている。文学が何をしたかということも同様であり、それを問うことも又忘れられていった。だが、その日に生きた一人の文学を考える場合、避けて通ってはならないものといえる。

盧溝橋事件以後中国本土に拡大した侵略戦争は、翌十三年武漢三鎮の占領をもって一つの限界に行きあたる。その武漢陥落を斎藤茂吉は「漢口は陥りにけり罪のほろぶる砲の火のなか」「捧げ銃の号令きこゆつぎつぎに鋭きこゑは涙をつたふ」と熱狂的な愛国の情熱をもって歌う。今、彼は一人の国民詩人として、聖戦を信じ、その賛歌を全身的に作りつづけていく。

そうしてその同じ時期に文明は「帰順兵君になつきてただ一つ持ちたる箸をくれたりといふ」「この行くは君の部隊ぞ雨しなふ一樹の下の橋を渡りて」等の作品を残し、それは「幾年ぶりか歌を作りていで立ちき敵前上陸にはやく戦死す」という、身辺から戦場に出された一人の市民の運命を悲しむ歌につらなる。

同じく戦争の時に生き、戦争を歌おうとして彼ら二人の間にひそかな相違ともいうべきものが生じ、それはしだいに茂吉と文明との同時代歌人の文学の基底をなすもの…「思想」であり「生き方」の乖離を明らかにしていく。

すなわち、茂吉にとっては戦争は感動の総体であったのに対し、文明にとっては「個」の運命の問題だった、と言い得る。文明の場合、求められて作らなければならなかった小数の例を除き、戦争詠と呼ぶ大部分は彼自身の日常を含めて、身辺から戦場にむかうもの、あるいは戦場で戦うものへの関心として歌われ、その一人一人の負っていく運命への悲哀の思いとして作られつづけている。

それは昭和十六年十二月八日以後、太平洋戦争の時期に至っても変わらない。「事しあれば先づ閉づる艦の区劃にて君がなすことを君は語りき」「恙みなく帰るを待つと送る吾に否まず肯はず行きし君はも」の真珠湾奇襲作戦初期のころから「生徒なりし若き面かげ目にたちてよすがも知らず南思ふ」「波多野士芝いづくの海ぞ十度百度行き来せし海を帰り来ざるか」の戦争末期に近い日に至る、歌集『少安集』から『山の間の霧』にわたる数多い戦争作品が、つねに多くこのうような人間一人の運命への関心からのみ歌い重ねられているということをわたしはひそかに知る。

そうして、その戦争末期に至り茂吉の作品が「悲しさもかへりみすれば或る宵の蛍のごとき光とぞおもふ」と早くも敗戦の晩年を思わせる悲哀を濃くしていく日に、文明は「待ち待ちし工場の一日母の知らぬバイトなどいふ語も覚え帰りぬ」等と、空襲下の街に、いそいそと学徒動員の職場か何かにむかう青春の一つの場合を歌う。そこにはどのような日にも生きていく無名の市民の世界を見詰める愛情と共に、一種の明るささえも漂う。

それをヒューマニズムと呼べばよいのであろうか。或いはその関心を通して歌いつづけられてくものをヒューマニズムの短歌といえばよいのか。文明の作品はその姿勢をわずかに守り貫くことにより熾烈な戦争の時代に作られた。その時代に声を合わせた知識人文学者の一人であったという逃れられない事実の上に、それが文明のぎりぎりの文学良心であったということも今になって思ってよいであろう。

戦争の末期、文明は陸軍省報道部嘱託で中国大陸に戦線視察の旅にむかう。そうして、その作品が『韮菁集』に結実する。「オルドスを来り駱駝荷をおろし一つ箱舟の渡す時待つ」「南京に或る夜目覚めて胸さわぎ君を思ひきただ会ひたかりき」等と『韮菁集』に歌われているものも又大陸で戦われている戦争の事実ではなく、そこに生きる民衆、ないし戦う兵らの運命への関心であり、その背後をなす巨大な国と歴史への感動であったといい得よう。

『韮菁集』の旅は昭和十九年、七月から十二月にかけ半年足らずに過ぎなかったが、興に乗った作品の厖大な収穫があった。そうしてそれは従来に増して破調の度を加え、漢音を混えた佶屈さを著しくする。歌われている内容も同様であり、表現の屈曲が目立つと共に作品自身に彫りともいうべきものを目立たせていく。その上に一首に生みだされる新しい韻律がある。中国大陸詠にふさわしい、中国古典詩をふまえたともいえる荘重と雄勁のしらべといえよう。

『韮菁集』は今また土屋文明の世界の上にひそかにこれまでにない何かを加えた、そわたしは考えている。内容と韻律とにわたる屈折と部厚さの意味である。わたしはそれを、音楽の用語でいう単音の短歌の世界から複音の短歌の世界への展開と心の中に位置づけている。それが戦前の作品と、『韮菁集』ののちに始まる戦争作品を分けていく一つの違いといえる。

『土屋文明序説』(四)より

昭和五年から六年のころにかけて、「身ひとつを専ら安くと願へるは吾が何時よりのことにかあるらむ」「堪へしのび行く生を子等に吾はねがふ妻の望は同じからざらむ」「力及ばぬ過ぎにし世をばなげき来ぬ吾が父も吾もわが子等はいかに」等という作品がしきりに繰り返されていく。世界恐慌につづく後の時代である。迫り寄るものへの不安が、ひそかな保身の思いと表裏して歌われている。しかし迫り寄るものは市民の生活を脅かす不況だけではない。

三・一五事件と呼ばれる共産党への最初の弾圧があったのは昭和三年である。つづいて四年、四・一六事件が生じる。凄惨な検挙が相次ぎ、その非合法組織は壊滅にむかおうとする。だが、その日にマルキシズム思想自体は日本の知識階級にとり、思想であると共に良心の問題でありつづけたといわねばならぬ。そうして、土屋文明もまたそれを、少なくとも心の中のこととして避けることは出来なかった筈である。

マルキシズムがぶんがくであるとき、文明はしばしば反発もしくはシニックな批判を言葉にして繰り返している。だが、思想とし良心として問われる問題を、彼もまた苦渋として生きていたと当然に考えなければならぬ。それと同時に彼は教師であった。その良心の故に実践運動の世界に突き進み運命の捩じ曲げられていく無数の青春を周囲に見なければならなかった。

その一つの場合が例えば次のようにも歌われる。「まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに」…素直さのはてに実践運動に加わり、悲惨な獄死をとげる「まをとめ」の一人を彼はかつての教え子とした。そのような日に知識階級としていきるためにそれは幾重にも心の内面のこととなって彼にからんで来た筈である。そうして、文明自身の日常は都会の一隅の小市民であり、実人生をすでに重く負う中年の生活者であるに過ぎなかった。そうした日々の思いが前提の作品に、同じように生きることの漠然とした不安もしくは無力感として内面に幾重にも屈折していないわけはない。

(つづく)

しかもその同じ日に、暗い次の時代の影が重苦しく周囲に迫っていた。ファシズムと戦争である。それはマルキシズム増悪の時のあとに必ず来るものであった。満州事変がはじまったのは昭和六年であったが軍ファシズムはその前にひそかに不気味な動きを繰り返している。昭和七年には上海事変が生じ、満州国建国、五・一五事件などがつづく。二・二六事件があったのは昭和十一年である。

昭和八年のころ土屋文明は「小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす」「横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ」等という、定型を破調と呼べるぎりぎりの限界までにひろげた佶屈な抒情作品を作り、時の話題となった。鋭角的な表現は冷厳、対象を突き離すかのように無表情であり、抒情と呼ぶ在来の概念を拒絶するかのようであったが、それぞれの中に、概念とは別に一つの詩の世界をおのずからに伝える。硬質な、金属光沢を思わせる新しい抒情の意味である。それはさらに「赤熱の鉄とりてローラーに送る作業リズムなく深き息づき聞こゆ」などと、これまでにかつて歌われたことのなかった巨大生産の世界に立ち対う作品となり、「降る雪を鋼条をもて守りたり清とを見むただ見てすぎむ吾等は」等という、切迫した息づきをこめた重苦しい時局詠に同時につづく。同じく非情とも言える新しい抒情の世界の開拓であり導入である。

そうしてそのような作品が、しだいに非常時と呼ばれていく戦争前夜の日に作りつづけれれる事実に注目する。例えば前掲の一首「降る雪を鋼条をもて守りたり」は昭和十一年に作られ、その年に生じた二・二六事件当日の嘱目をひそかに素材とする。一首の佶屈する声調は、すでにそれを明らかに口にすることの出来ない日に生きる、憤怒をこめた市民である一人の文明の鬱屈を、そのまま声として伝えるといえる。他の作品も同様である。一見無感動の、硬質の抒情と呼ぶものの中に、わたしは歴史の一時期に生きる不安と予感の怯えの思いを聞かないわけにはいかぬ。

第二歌集『往還集』のあと『山谷集』『六月風』の各歌集がつづく、これら作品が歌われる日々である。日本は破滅の戦争に一歩一歩むかい、狂信がしだいに国のすべてを覆おうとする。『六月風』は「世の中に用なき歌を玩び居りつつ今に言ふことやある」等自嘲の数首で終っているが、歌われている時期は昭和十二年、盧溝橋事件が生じ、新たに戦火が中国本土に拡大しようとする前夜でもある。

『土屋文明序説』(三)より

「アララギに十五年史」において斎藤茂吉は、その大正四年のころの動向として「歌風が素朴地味の方に動いた傾向があり、西洋詩風の趣き、感じ方、言ひぶりより、二たび日本風のいひ方に還元しかかつた」ことを記している。そのころから大正末年にかけて「アララギ」同人自身の作品に現実回帰が見られ始めると共に、しだいに島木赤彦の影響下の自然観照詠が誌面を覆い、同時にそれは歌壇全体の主潮流ともなった。晩年にかけて赤彦は

短歌を「歌道」と呼び「鍛錬道」ということをいい、自然に帰一する厳粛清澄な世界を文学に希求しようとした。

その中にあって土屋文明は違う歩みをたどろうとした。『ふゆくさ』後半にかけて、彼の作品も又茂吉のいう「素朴地味」にむかい、西欧詩風の抒情世界を去って現実回帰の方向をとるが、それは島木赤彦ら『アララギ』と、歌壇全体の主潮流と行手を異にした。

「休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす」「冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ」等の、彼の第二歌集『往還集』の巻頭の作品はそうした方向ともいうべきものを指示する。それは実人生を負うひとりの都市生活者、小市民知識階級の生活詠嘆であり、その索漠とした日常の嘆嗟の詩である。そこにあるのはすでに『ふゆくさ』の観念世界の青春抒情ではない。

そうしてその『往還集』のうたわれ出す時期は大正十四年、文明三十六歳である。それより先、大正五年に彼は東京帝大哲学科を卒業、大正七年より女学校教師として上諏訪に赴任する。そのときに『ふゆくさ』の相聞作品の対象の女性と結婚し、妻として伴う。大正後年にかけて文明は長野県の各地女学校、中学校の教職にある。そうして十三年、木曾中学校校長に任命されたのを機に退職上京する。「足掛け七年の間、兎も角自分の或る力を致して居た仕事が、実質的には暴力に等しい方法で目の前に崩される」ことを見ての行為と告げているが、そのために語られている言葉は少ない。「或る力を致し」たという、信州の教職の日々もまた多く語られず、作品に明らかにされているものも乏しい。それが文明の青年期から壮年期に移る人生の転機の大事な部分であったことをわたしたちはその文学の推移の上にわずかに推察する他はない。

(明日につづく)

上京した文明はやがて法政大学予科教授の職につく。都会の私大教師である。そうして彼自身、すでに幾人かの子の父である。時代は大正から昭和に移ろうとし、時代はしだいに社会不安を孕もうとする。その中からマルキシズム思想がひろがり、プロレタリア文学があらあらしい影を見せ始める。そうした時代の到来を鋭く予感するかのように「ぼんやりした不安」の故に芥川竜之介が自殺する。かっての第三次「新思潮」の同行者であった。やがて、共産主義に対する凄惨な弾圧が繰り返される日、一方でプロレタリア文学思想は短歌の世界にも波及し「新興歌人聯盟」につづく「無産者歌人聯盟」の結成がなされる。文明は彼より若い世代の焦燥をこのような思想として周囲に見なければなららい。昭和四年から五年にかけて世界的経済恐慌が日本にも及び、不況と絶望的な貧窮に民衆は苦しむ。ことに、農村の貧しさは極に達し、子女の身売りが日常とされた。リアリズムがもし現実の凝視と表現の文学であるなら土屋文明の短歌は一体何をどのような方法で歌えばよかったのか。否、その日の短歌が、と言い替えるべきであろう。その問いの答えとして『往還集』の作品は作り重ねられ、人生、実生活として受けとめ、それを肉声によって歌う他はなかった。「病む父がさしのべし手はよごれたり鍍金指輪ぞ吾が目にはつく」「父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く」等とうたわれる作品に影のまつわる索漠とした不安感は、その無感動、無表情ともいえるあらあらしい表現の技法と共に今彼がいきていく現実を、昭和初年という時代との関わりにおいて鋭く具象する。それを文明調といい散文化などと時の歌壇は呼んだ。新現実主義という言葉で分類する批評家もいた。『ふゆくさ』に始まる短歌は『往還集』に至ってこのような変貌を遂げる。青年期の主情的リリシズムから壮年期の生活リアリズムにむかう、転換、ないし展開である。だが、そうした経過の中で変わらないものがある。『ふゆくさ』につづく、作品の表現の配慮…言語と形式にわたる配慮と共に、その結果としての一首一首の古典的完成感である。この時期の作品の一見のあらあらしさに拘わらず、文明の歌にはつねに隅々までに表現の知的配慮が行きわたり、語感にたいする感覚と潔癖とがみなぎる。それはことばのたるみ、遊びを厳しく拒絶したはてのぎりぎりの働きだけを求める。その働きの必要最小限の意味の故の「美」に気付かないなら散文化などという概括的な分類で終ることとなろう。

(つづく)

『土屋文明序説』(二)より

少年である土屋文明は「ホトトギス」「アカネ」等に俳句、短歌を投稿するを知り、やがて国漢文教師村上成之を通し正岡子規を源流とする写生主義短歌の世界に歩み入ることとなる。ただしこの時期の、たとえば「アカネ」第一巻第五号に蛇床子の名で掲載されている「あづさゆみ榛名の山にあが立てば利根に日てりてとほしろきみゆ」らを見ても、その形式的発想は別として語法自体は完成した骨格をそなえ、一種の老成を感じさせる。早熟ということから文明の歌人としての出発はいくつかの意味を孕む。後述することとなるが、文明の初期作品ないし青春作品はほとんど稚拙と呼ぶ時期を経過しない。

明治四十二年、高崎中学を卒業した土屋文明は同じように師、村上成之の斡旋により上京し、歌人伊藤左千夫を頼る。左千夫が正岡子規の文学の継承者であり、本所茅場町に牛乳搾取業をいとなんでいたことは記すまでもない。左千夫の好意により、やがて第一高等学校入学し、さらに東京帝国大学哲学学科に進む。

そうしてその時期に「アララギ」が新しく左千夫おもとから出版されることとなる。島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉らの俊英を擁する一文学エコールの発足に、出京したばかりの文明はおのずから最年少の同人として参加する。歌人としての歩み出しであると共に、彼はすでに農民の子ではない。

「アララギ」出版における左千夫の意図はいうまでもなく子規のリアリズムの継承であった。しかしやがてその中に師である左千夫と、赤彦、茂吉ら新進同人との世代的対立がきざし、子規から左千夫、節にむかって継がれていく正統リアリズムにむける批判ないし反発の上に新傾向と呼ぶべき新しい作品世界の模索が始まる。それは斎藤茂吉における『赤光』一冊の出現となり、それまで一隅の存在に過ぎなかった「アララギ」という無名集団を大正初期歌壇の主流の位置に押し立てることとなるが、第一高等学校から東京帝大に学ぶ若い土屋文明も、当然そうした動きに追従し、その同じ新風模索の渦流に加わらねばならなかった。

そうして生まれたのが「この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず」の巻頭作品直後につづく「山の上は秋となりぬれ野葡萄の実の酸きにも人を恋ひもこそすれ」「西方に峡ひらけて夕あかし吾が恋ふる人の国の入り日か」等の、第一歌集『ふゆくさ』前半に見られる一群の青春相聞詠であろう。それらは明らかに茂吉らの動きに同調追従するものであり、子規から左千夫、節の世代につづくリアリズムの概念で律し切れないものであった。濃い主情性の故である。あるいは浪漫性と言えよう。

(明日につづく)

(昨日よりつづき)

記すまでもなく『ふゆくさ』初期の作品には『赤光』を主とする茂吉の影響が明らかである。その西欧的詩情の世界の幻惑に、高校から大学に学び始めた文明が共感を見出さない筈はない。茂吉は文明より八歳年長である。身辺にあって強烈な人間的印象を伝える一人であったことはいうまでもない。

だが、その強い影響下にありながら、文明の作品には初めから茂吉と異質の部分があった。茂吉の陶酔的ともいえる激情に対する、文明の理知である。それは『赤光』と『ふゆくさ』

とを対比することで明らかである。文明の作品にはその青春の相聞詠すら発想と表現とにわたり古典的な均斉感ともいうべきものがあり、そのために知的抑制がなされていた。奔放というよりは静謐であった。それでありながら茂吉とはまた異なる西欧的詩情の世界を濃く歌い伝えていた。知的憂愁の世界というべきであろう。茂吉にとっては憂悶と呼ぶべきものであった。

その異質性は無論二人の歌人の資質の隔たりに帰因する。文明が「アカネ」の一投稿者であった初心の日からすでに破綻を見せない古典的短歌の作者であったことはすでに記した。しかしそのことと共に二人が経てきた青春と、青春において出会った文学の世界…文学における西欧の世界のちがいもひそかに介在すると考えなければならないのであろう。一高を経て文明は大正二年に帝国大学哲学科の学生となった。それは文学史における初期の「白樺」の時代と重なる。「白樺」がその文芸運動とともにこの国に紹介した秦西芸術の世界に文明が触れなかった筈はなかろう。さらに、文明は大正三年に芥川竜之介、山本有三、久米正雄、豊島与志雄らの第三次「新思潮」に加わる。その時代から始まる「近代」とも呼ぶべき知的憂愁の世界を、青年の文明は身をもって潜り、壮年の茂吉は潜り得なかったのであろう。

そうした「アララギ」新人らの活躍、ないし文学的離反の中に伊藤左千夫は急死する。被批判者の位置に立つ孤立の死は大正二年であった。だが、左千夫自身もまた本当は師である子規の、少なくとも文学継承の上では批判者でありそのことを自認していた部分があったのではなかろうか。すなわち左千夫は子規のリアリズムにおける「自然」への自己限定にむけ「人生」というべきものを対置させる。左千夫が晩年にかけて目指していたものはその子規にはなかった「人生」の文学であり短歌ではなかったのか。若い茂吉らと悲劇的対立もそれに帰し得よう。そうしてそれを最も身近に見ていたものは晩年の最年少の門人である文明だった筈である。『ふゆくさ』初期の感覚的抒情作品ののち変転する文明の文学がたどる方向は、再びそのかっての師の「人生」のリアリズムであったと図式的には言えよう。

(明日につづく)

『土屋文明序説』(一)より 

土屋文明の経歴、ないし実人生ともいうべきものを、そのみずから記している範囲、あるいは作品の告げる世界以上にわたしは知らない。年譜によれば、彼は明治二十三年(一八九○)年群馬県西群馬郡上郊村(現在群馬郡群馬町)大字保渡田に、農、保太郎長男として生れた。関東平野の西北限、榛名山の麓にすがる村である。火山灰地を耕すわずかな農作のほかは養蚕が行われる。生家は半小作農であったが父は農業をかえりみず、生糸や繭の仲買をし、あげくには石灰焼の事業に手を出したりなどして晩年村を捨てることとなる。後添いである母の入籍がおくれたため出生届が翌二十四年として役場に届けられたことも年譜に記されている。幼年期に一時、隣部落の伯父夫妻に預けられて養育された。「夜々の梟も今思ひがなしあらはなる臥所に育ちたりけり」「夜ふかく父母争ふを見たりける蚊?の眠よ幼かりけり」等と後年に繰り返しうたわれる幼児体験は、彼の生まれ育った明治の関東農村の重苦しい因習世界と貧困とを告げ、それは深く文明自身の文学生涯に関わっていくものだった。

その文明の幼少時における、いわば初めての人生との出会いともいうべき小事件が彼の第一歌集『ふゆくさ』「巻末雑記」において語られている。彼は中学生として高崎中学に学び始めた日に思いがけない一家の秘密を知る。祖父の「牢死」の事実である。そのためにひそかに家に寄せられていた村人の指弾も少年の傷つきやすい心と共に気付く。そのことが少年の心を孤独にし、孤独が文学と呼ぶものの存在を知らせる。稚い、文学との最初の出会いである。それが人生との出会いに相次いでいたことに遠い文明自身の文学の原点ともいうべきものを見る。そうして、その文明が出会ったという文学は何であったか。

日露戦争直後、この国に西欧の自然主義思想が渡来し、主として明治三十九年から四十年にかけ、文学の主流となる。人生に、ありのままに対おうとする主張である。それは日露戦争後の激動と共に紹介され、人々の心を把えた。幻想ではないところに文学があるという覚醒を、日本の文学は初めて知った。

その明治三十年の終りの時期に土屋文明の少年期があった。文明の高崎中学入学は明治三十七年、日露戦争開戦の年であり、前述の如く文学に出会っていく時期はその戦後に重なる。「この母を母として来るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして」と後に追憶として歌われる、その「自然主義渡来の日」が彼の文学開眼の日だったのである。

そのようにして知った文学が一人の文学生涯において何であるかは語るまでもない。自然主義に出会ったという出発は後年の歌人土屋文明を考える場合大事な鍵となる。同時にそれは彼の文学を、一世代前の歌人ら、例えば斎藤茂吉、北原白秋らと大きく分つことになる。近代短歌史において不用意に自然主義歌人などと分類される若山牧水、前田夕暮らとも全く別な出発点に立つことを意味する。ただわずかに、古泉千樫だけが文明より年長のままその青春においてやや自覚して自然主義の波をくぐったと言えようか。文明以後、近代短歌が遂げていく変質の一つの理由が、少なくともその時期を通ったか通らなかったかにあるのではなかろうか。だが文明自身の短歌作者の歩はその最初の出会いに拘わらず、なおさまざまに屈折する。

 (明日につづく)

伊藤左千夫百首選   小市巳世司選

牛飼いが歌読む時に世の中のあたらしき歌大いに起る         (明33・牛飼)

葺きかへし藁の檐端(のきば)の鍬鎌にしめ縄かけて年ほぎにけり   (同・新年雑詠)

かつしかや市川あたり松を多み松の林の中に寺あり             (同・森)

元(げん)の使者既に斬られて鎌倉の山の草木も鳴り震ひけん     (同・鎌倉懐古)

うからやから皆にがしやりて独居(ひとりを)る水(み)づく庵(いほり)に鳴くきりぎりす  (同・水中の蟋蟀)

亀井戸の藤もをはりと雨の日をからかささしてひとり見にこし      (明34・藤)

池水は濁りににごり藤浪の影もうつらず雨ふりしきる           ( 同上 )

ともし火のまおもに立てる紅(くれなゐ)の牡丹のはなに雨かかる見る  (雨夜の牡丹)

ふる雨にしとどぬれたるくれなゐの牡丹の花のおもふすあはれ       ( 同上 )

吾が大人(うし)が病おもへば月も虫もはちすの花もなべて悲しき   (何事につけても正岡大人をおもふ)

鎌倉の大き仏は青空をみかさときつつ万代(よろづよ)までに     (明35・鎌倉なる大仏をろがみて詠める短歌)

みもすそみ手をふりしかば全(また)き身の血汐し澄める心地しにけり   ( 同上 )

敷妙(しきたへ)の枕によりて病伏せる君がおもかげ眼(め)を去らず見ゆ  (子規子百日忌)

軒の端(は)に立てる蚊柱水うてば松のこぬれにたち移るかも   (明36・吾庭の松)

茶を好む歌人(うたびと)左千夫冬ごもり楽焼を造り歌はつくらず   (明37・冬籠)

国こぞり心一つと奮ひたつ軍(いくさ)の前に火も水もなし        (開戦の歌)

大詔(おおみこと)かしこかれどもまぐはしき絵の腕(かひな)ある君を悲しむ  (素明画伯の出征を送る)

出入(いでい)りの瀬戸川橋の両側(ふたがわ)に秋海棠は花多く持てり   (秋海棠)

百草(ももくさ)のなべての上に丈高き秀蓼(ほたで)の花も見るべかりけり (寺島の百花園)

東(ひむがし)に天地(あめつち)開く国力つからは展(の)びて年明けにけり (明38・明治三十八年元寿歌)

天地(あめつち)に神にありとふ否をかもいくさのやまむ時の知らなく (同・喜中有罪)

炉(ろ)に近く梅の鉢置けば釜の煮ゆる煙が掛かる其の梅が枝(え)に   (無一塵庵歌帖)

朝戸出に幼きものを携へて若葉槐(わかばゑんじゅ)の下きよめすも   (草庵の若葉)

秋立つと思ふばかりを吾が宿の垣の野菊は早咲きにけり          (小園秋来)

手弱女(たわやめ)の心の色をにほふらむ野菊はもとな花咲きにけり     ( 同 )

山の手は初霜置くと聞きしより十日を経たり今朝の朝霜          (初冬雑詠)

塵塚の燃ゆる煙の目に立ちて寒しこのごろ朝々の霜             ( 同 )

妻よりも名よりも先に黄金(こがね)つふ大き聖をかくまへ吾が背   (無一塵庵歌帖)

さ夜ふけの空のしらしら霜白き月夜(つくよ)入江を人渡る見ゆ   (静といふ題にて)

世の中の愚(おろか)が一人楽焼の茶碗を見ては涙こぼすも  (明39・無一塵庵歌帖)

久々に家帰り見て故さとの今見る目には岡も河もよし          (成東館即事)

蓼科の山の奥がと思ひしをこは花の原天(あま)つ国原          (蓼科游草)

天の原くしき花のみさはにして吾が知る花に少なかりけり          ( 同 )

朝湯あみて広き尾のへに出でて見れば今日は雲なし立科(たてしな)の山   ( 同 )

牛飼の歌人(うたびと)左千夫がおもなりをじやぼんに似ぬと誰か云ひたる (明40・じゃぼん)         

天然に色は似ずとも君が絵は君が色にて似なくともよし          (勾玉日記)

竪川(たてかは)に牛飼ふ家や楓(かへで)萌え木蓮咲き児牛遊べり     ( 同 )

桜ちる月の上野をゆきかへり恋ひ通ひしも六(む)とせ経にけり       ( 同 )

石踏みてあよむは苦し肉太(ししふと)の吾がゆく道に石なくもがな     ( 同 )

柿若葉ゑんじゅ若葉のゆふやみに鳴くはよしきり声近くして         ( 同 )

玉川の雨の青葉のここにしてくれなゐ濡れたる桃の実を売る        (桃の玉川)

九十九里の磯のたひらはあめ地(つち)の四方(よも)の寄合(よりあひ)に雲たむろせり     (磯の月草)

ひさかたの天(あめ)の八隅(やすみ)に雲しづみ我が居る磯に舟かへり来る ( 同 )

幼きをふたりつれたち月草の磯辺をくれば雲夕焼けす            ( 同 )

水やなほ増すやいなやと軒の戸に目印しつつ胸安からず          (水籠十首)

物皆の動(うごき)をとぢし水の夜やいや寒む寒むに秋の虫鳴く       ( 同 )

冬ごもる明るき庵(いほ)に物も置かず勾玉一つ赤き勾玉       (明41・冬籠)

白玉の憂ひをつつむ恋人がただうやうやし物もいはなく           (玉の歌)

愚(おろか)我が人憎くまむと嘆けども悲しき我れや我(が)を去りがたし (一日なりとも)

松山を幾重さきなる天つへに雪まだらなり黒姫の山             (黒姫山)

風さやぐ槐(ゑんじゅ)の空にうち仰ぎ限りなき星の齢(よはひ)をぞおもふ (心の動き)

天地のなしのまにまに鳴く虫や咲く百草(ももくさ)や弥陀を知るらむ    ( 同 )

うつそみの八十国原(やそくにはら)の夜の上に光乏(とも)しく月傾きぬ  ( 同 )

よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも        (心の動き)

燈火(ともしび)のほやにうづまくねたみ風ねたむことわりなきにしもあらず ( 同 )

汽車のくる重き地響きに家鳴り(やな)りどよもす秋のひるすぎ       ( 同 )

秋の野に花をめでつつ手折(たを)るにも迷ふことあり人といふもの     ( 同 )

差並(さしなみ)のとなりの人の置き去りし猫が子を産む吾が家を家に    ( 同 )

夜深く唐辛子煮る静けさや引窓の空に星の飛ぶ見ゆ             ( 同 )

翁我れ耳の遠けくたける等(ら)が山ゆる声も虻と聞き居り         ( 同 )

秋草のしげき思ひも云ひがてにまつはる露を手に振りおとす         ( 同 )

世にありと思ふ心に負ひ持てる重き荷を置く時近づきぬ        (明42・題詠)

人の住む国辺(くにべ)を出でて白波が大地両分けしはてに来にけり  (二月二十八日九十九里浜に遊びて)

天地(あめつち)の四方(よも)の寄合(よりあひ)を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り    ( 同 )

高山も低山もなき地の果ては見る目の前に天(あま)し垂れたり       ( 同 )

あたたかき心こもれるふみ持ちて人思ひ居(を)れば鶯の鳴く  (三月六日独鶯を聞く)

朝もやに鳴くや鶯人ながら我常世辺(とこよべ)に家居せりけり       ( 同 )

そば湯にし身内あたためて書き物を今一(ひと)いきと筆はげますも  (東京三月歌会)

秋風の浅間のやどり朝露に天(あめ)の門(と)ひらく乗鞍の山      (信州数日)

思ふにし心悲しも夜(よ)を清み月に向へる草の上のつゆ          ( 同 )

朝露のわがこひ来れば山祗(やまつみ)のお花畑は雲垣もなく        ( 同 )

久方の天(あめ)の遥けく朗(ほがら)かに山晴れたり花原の上に      ( 同 )

信濃には八十(やそ)の高山ありと云へど女(め)の神山の蓼科我れは    ( 同 )

吾が庵(いほ)をいづくにせんと思ひつつ見つつもとほる天(あめの花原  (信州数日)

淋しさの極みに堪へて天地に寄する命をつくづくと思ふ           ( 同 )

おくつきの幼なみ魂(たま)を慰めんよすがと植うるけいとぎの花  (吾児のおくつき)

数へ年の三(み)つにありしを飯の蓆(むしろ)身を片よせて姉にゆづりき  ( 同 )

禍(わざわひ)の池はうづめて無しと云へど浮藻のみだれ目を去らずあり(明43・浮藻)

今日の日の夕ぐれ時と思ひくればつめたきからのありありと見ゆ       ( 同 )

水害の疲れを病みて夢もただ其の禍ひの夜の騒ぎはなれず        (水害の疲れ)

水害ののがれを未だ帰り得ず仮住の家に秋寒くなりぬ            ( 同 )

四方(よも)の河溢れ開けばもろもろのさけびは立ちぬ闇の夜の中に     ( 同 )

霜月の冬とふ此のごろただ曇り今日もくもれり思ふこと多し   (明44・冬のくもり)

我がやどの軒の高葦霜枯れてくもりに立てり葉の音もせず          ( 同 )

独居(ひとりゐ)のものこほしきに寒きくもり低く垂れ来て我が家つつめり  ( 同 )

裏戸出でて見る物もなし寒む寒むと曇る日傾く枯葦の上に          ( 同 )

久方の三ヶ月の湖(うみ)ゆう暮れて富士の裾原雲しづまれり     (三ヶ月湖にて)

よわよわしくうすき光の汝(な)がみたま幽(かす)かに物み触れて消(け)にけり    (明45・招魂歌)

おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く     (大1・ほろびの光)

鶏頭のやや立ち乱れ今朝の露のつめたきまでに園さびにけり         ( 同 )

秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花         ( 同 )

鶏頭の紅(べに)古りて来(こ)し秋の末や我れ四十九の年行かんとす    ( 同 )

今朝のあさの露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光  ( 同 )

おとろへし蝿の一つが力なく障子に這ひて日は静かなり       (大2・静なる日)

物忘れしたる思ひに心づきぬ汽車工場は今日休みなり            ( 同 )

民を富ます事を思はぬ人々が国守るちふさかしらを説く          (何の文明)

まづしきに堪へつつ生くるなど思ひ春寒き朝を小庭(さには)掃くなり    (小天地)

世にあらん生きのたづきのひまをもとめ雨の青葉に一(ひ)と日こもれり   (ゆづり葉の若葉)

ゆづり葉の葉ひろ青葉に雨そそぎ栄ゆるみどり庭にたらへり         ( 同 )

みづみづしき茎のくれなゐ葉のみどりゆづり葉汝(な)れは恋のあらはれ   ( 同 )