土屋文明

 





近藤芳美著「土屋文明:土屋文明論」岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。)

土屋文明私論(一) 土屋文明私論(ニ) 土屋文明私論(三) 土屋文明先生のこと 文化勲章受賞をお祝いして 文明・その思想性に至るまで

土屋文明における戦争 土屋文明論「老年と『詩』と…『青南集』以後の世界」 追憶として 人間愛情の歌

土屋文明先生の死を悲しむ


土屋文明私論

(三)「川戸雑詠」の年月

昭和二十年八月十五日、日本の敗戦の日を土屋文明は疎開地である群馬県吾妻郡原町大字川戸で迎える。現在は吾妻町となっている。それより先、五月二十五日の東京空襲で青山南町五丁目の家が焼かれ、一家を連れて逃げた。川戸は利根川の支流、吾妻川の渓谷に添う小村落であり、榛名山の裏側の山麓に位置する素封家である某氏の二階家の、階下の座敷三間を借り、周囲の、山の傾斜地に畑を耕して生きた。

同じように、斉藤茂吉もまたその郷里である山形県南村山郡金瓶村、現在上山市に疎開し敗戦を迎える。妹の嫁ぎ先、斉藤十右衛門宅であり、文明よりやや早く、単身、身を寄せた後に五月の空襲で青山の自宅と病院とを焼かれる。空襲の数日後、ようやく復旧した環状線に乗りなお焼跡の壕舎に住んでいる文明を見舞ったわたしは、彼に伴われ彼に伴われて一面の焦土の中を青山脳病院のあったところまで行き、白く、うずたかく敷きつめられたような灰の堆積を、あれが斎藤さんの蔵書だったのだよといって示された記憶を持つ。茂吉は敗戦の翌年、昭和二十一年にさらに大石田に移り住み、病臥し、二十二年十一月まで病苦と孤独の疎開者の生活を送る。

その敗戦への経過を、文明、ないし茂吉はどう見ていたのか。もしくはどう内面に受けとめていたのか。茂吉の場合は明瞭であり、祖国の「聖戦」への狂熱的な賛美と、戦局の推移と共にしだいに影をます焦燥と失望として作品の上にたどることが出来るが、文明の場合ややわかりにくい。少なくとも、作られた作品を通すかぎり知り難い。たとえば、敗戦の前年、昭和十九年夏からその年の終りにかけて彼は陸軍省報道部臨時嘱託の資格で中国戦場の視察の旅をつづけているが、もし戦争を侵略戦とし、それが破局をうかえる直前であるという明確な現実認識を持っていたらラバ、たとえどのような理由であろうとそうした旅行はなし得なかったであろう。

しかも、その旅の間に次のような作品が生まれる。

君が家もいまだ焚かねば外套著て日本と支那のこと語り合ふ

北京滞留中の一首であるが、うたわれている事柄を通し、その韻律の間に、或る切迫感として推移する時局を予見する作者の心の中のものの投影を読み取らないわけにはいかない。そうであればその日以後の敗戦への歴史の過程は、戦争という過程のすべてを含めて土屋文明にとって必ずしも無知なだけではなかったのであろう。

では、家を焼かれ、山深く逃れ住んだ一疎開者として知った敗戦はどのようにうたわれたか。歌集『山下水』はその直前、原町大字川戸に仮寓を求め得たころから、敗戦をはさみ昭和二十一年にかけての作品を収録するものであるが、敗戦は、巻頭から次のような幾首かの音信の歌をたどってうたわれていく。

朝よひに真清水に採み養ふ命は来む時のため

打ちつづくる海の上の砲に目ざめても月没りしかば起くることなし

仙台の笹気印刷所も焼け亡せぬ待ちしにもあらず待たざりしもあらず

疎開地の山中にも敵軍艦の艦砲射撃の音が聞え、関東平野一帯本土決戦場となる事態が迫ろうとしていた。最後の歌はその日にも続けようとした「アララギ」発行のことであった。

そうして、

新しき常に照る日の広き心吾等かならず立たざらめやも

など「新しき日本」の一連を置いて「川戸雑詠」と題する相次ぐ戦後作品の時期がはじまる。この場合求められて作ったと思われる「新しき日本」の、今から見ればやや形骸的な五首は読みすごすこととする。

(つづく)

ひねもすに響く筧の水清み稀なる人の飲みて帰るなり

はしばみの青き角より出づる実を噛みつつ帰る今日の山行き

出で入りに踏みし胡桃を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた

思ひいづる西湖のはちすきらきらし然れども日本ほろぶとおもはず

朝よひに馴れつつ採めば園の如し葦?の泉澄みまさるなり

相鬩ぎ互に貶しめ小さなる此のくにつちを如何にせよとか

片よりに野分は吹けり庭草の茎を透きたる日の光もよし

夕かげの早く及べる谷の田よいなごも乏し青きにすがりて

「川戸雑詠一」としての三十二首中その一部を抄出したが、それが文明の戦後作品の出発と見てよいのであろう。さらに、相次いで「川戸雑詠ニ」その他があり、

朝々に霜にうたるる水芥子となりの兎と土屋とが食ふ

夜もすがら?に吹く凩にかへり来て寝るただ一夜のみ

など、うたわれていく世界は変わらない。繰り返せば、そこから土屋文明の戦後はうたわれ出し、そこから彼の戦後の世界は始まった。

そうして、それが何であったかは今また同じ時期の茂吉の作品と対比することであきらかにされよう。茂吉もまた、文明とは別に遠く東北の疎開地にあって虚脱の中から、その祖国の敗北をみずからの敗北として負うかのような悲しみの歌を次のようにうたっていった。

このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南にむかふ雨夜かりがね

くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆうぐれ

こがらしの山をおほひて吹く時ぞわれに聞こゆるこゑとほざかる

仮に、歌集『小園』のうち「金瓶村小吟」より抄出する。昭和二十年の秋から冬にかけてであり、文明の「川戸雑詠」の初めの時期とほぼ対応しよう。茂吉の戦後詠はそのまま次の『白き山』の大石田転住後の作品となってつづく。

彼岸に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は

かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる

そこにあるものは何か。沈痛な悲しみであり、孤独と絶望感であろう。その人間孤独の極限から微光のようにうたわれていったものが茂吉という近代最高の歌人の最晩年の世界だったのであろう。ただし、敗戦の年、肉体と精神の老いは深まっていったが彼はまだ六十四歳でもあった。

同じような境涯の上に生み出された作品である。同じような疎開者としての日常であり、同様に、祖国の敗北と、昨日までの敵であった連合軍の占領ないし支配という異常な事態を眼前にしているという状況も同一である。それはその日のすべての日本人の分け合った絶望と無力感と、さらに食うことをどうづるかというさしせまった飢餓の体験と重なる意味の変わらない。

(つづく)

そのような同一の時期、同一の状況の中にうたわれていった敗戦直後の作品でありながら、両者の間には微妙に隔たるものがある。むしろ隔たり合う世界がある。何か。茂吉の場合、すべてを覆う沈痛な悲しみ、ないし孤独と絶望に対し、文明にはそれがない。否、孤独という境涯では同一かもしれない。「はしばみの青き角より出づる実」とうたわれたものも「出で入りに踏みし胡桃」とうたわれたものも、あるいは「園の如し」とうたっている泉に見出でて採む葦?さえも、それらが山間の一疎開者である彼の飢えの日常と孤独に関わるはずであるのは記すまでもない。それにも拘わらず、ここには共通して或る明るさがある。或る、息づきの明るさとしてうたわれていく何ものかがある。

何ゆえであろうか。茂吉が一身の悲劇として受けとめた敗戦が、文明にとっては悲劇ではなかったのであろうか。

『山下水』をさらに読んでゆけば次のような作品がつづく。

走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日のうち

春の日に白鬚光る流氓一人柳の花を前にしやがんでゐる

にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ

山遠く馬鈴薯植ゑて吾は待つ誰か硫安をくれるかもしれぬ

この場合「流氓」一人柳の花を前にしやがんでいる」は、茂吉の「蛍火をひとつ見いでて目守りしがいざ帰りなむ老の臥処に」の独白に対応しよう。いずれにせようたわれているものは飢餓を逃れるために山畑を耕す疎開者の日常と孤独であるが、そこには茂吉のすべて放心つくしたような悲劇の主人公のかげはない。そうして、そのような作品の間に、

海遠く未だ帰らぬを夢のうちに相見泣きつつ覚めて静けし

答なく倒れしを見しといふ話伝へ伝へて答なく倒れしと伝ふ

戦死せる人の馴らしし斑鳩の声鳴く村に吾は住みつく

遠き島に日本の水を恋ひにきと来り直に頬ぬらし飲む

などが交じり、それらはさらに次の歌集『自流泉』の、

吾老いてさらぼふさまを君は見ず泪水遠く戦ひて死す

はげましていでゆく者にいひし時誰か生きむとかねて知りきや

などにもつづく。遠い戦場であった地の、悲惨な死のうわさがきれぎれに伝えられ、また或るとき、そのような一人が突然にぼろぼろの復員服をまとったまま訪れ来たりする。耕して生きるだけのひそかな山中の生活ではあったが、敗戦の現実はそうした事実として身辺をめぐる。

吾が願ふ時来れりといはなくに残れる命なすこともあれや

この者もかく言ふ術を知れりしか憤るにあらず蔑むにならず

同じ時期の作品であり、ひそかにその日における内面のものを告げる。この場合、「吾が願ふ時来れりといはなくに」という述懐は、昭和初年から二十年の敗戦にかけて、さまざまな屈折の上に見つづけて来た戦争が彼にとって何であったかをいくらか明かす。同じように、そこにはやはり一歩退いて冷厳に見定められている敗戦という現実の中の推移がある。「この者もかく言ふ術を知れりしか」という憤りもそうした推移に向けられるものに他ならない。

(つづく)

昭和二十年八月、敗戦と共に激しい歴史の変換のときが来る。軍の解体と共に天皇制ファシズムが崩れ、占領軍の進駐と共に民主主義新国家が生まれる。新憲法が作られ、農地開放が行われ、戦犯裁判が始まる。国は荒廃と飢餓だけがあったが、民衆はマッカーサー支配のデモクラシーの幻想に酔った。闇市が立ち、烏賊を煮る匂いの立ち込める暗い灯の中をパンパンを抱いた占領軍兵士と、前線から引揚げて来たおびただしい復員兵とが行き交った。

そのデモクラシーの幻想も昭和二十二年、二・一ゼネストの弾圧のころから終る。米ソ両体制の対立の顕在化につれ、それは被占領国である日本にもようやく暗い影を落す。そうして、二十五年の朝鮮戦争勃発を経て二十六年のサンフランシスコ対日講和条約につづく。安保体制が生じたのも同じ時であり、それは今日までに国の運命を支配するものとなる。

土屋文明の、『山下水』ないしその次の『自流泉』の作品のつくられていく日は、その日本の一時期の激動の歴史と重なる。彼の毎日は山中の疎開者の孤独と平安であったかもしれなかったが、接する現実はそれだけではなかったはずである。事実、彼自身「アララギ」発行その他のために上京を繰り返しており、そこでは闇市もパンパンも、街角のどこかに絶えず赤旗のつづくデモの列も見ていたにちがいない。また、或る時期から同じ敗戦の荒廃下の日本各地の旅もつづけられ、それらは、

灯赤く食ひものを売る春の日本の雨のじめじめとふる

泥の如き箱車の中は鯨肉橋にかかり馬の鈴の音ぞする

などの戦後風俗詠としてうたわれている。ただしここで、「日本の雨のじめじめとふる」として告げられているものは単なる風俗ではない。

しかし、いずれにせよそれらを含めて、敗戦以後の文明の作品に、激しく推移する歴史自体、ないしはその刻々の事態、現象に直接に反応してうたうようなものは数少なく、しかも、それも年と共に影を消そうとする。かつて、戦争に至る過程において苦渋をこめて作り重ねられていった一系列の作品といえる。

その上で、うたわれるものは同じようにしだいに身辺の小世界の日常と、日常をめぐる自然に限られていく。否、みずから限定し、みずから閉ざしていくかのようでもある。

わが恋ふる苗場は遠く淡々と煙のごとき雲のまつはる

時代ことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向ふ一つ山脈に

同じもの食ひながら彼はのんきにて我は息づき山の石を踏む

うりかへでやうやく散れる青き木肌ひそかに愛でて山下る父ぞ

己一人のみに足り居れぬ心なら如何なる考方も我うべなはむ

(つづき)

「川戸雑詠十二」といい、敗戦の翌年、二十一年終り近い時期の作品であろう。或る日疎開地の家に都会の学生である吾が子が帰って来る。吾が子の生きる世界はその時代の若者と共に戦後のマルキシズム高揚の波の中にある。それを、「如何なる考え方も我はうべなはむ」とうたう位置に再び自分を見ようとする。うたう現実であり、現実は彼の場合今ひとりの疎開者であり半農生活者である自己と自己の周辺に見ていく事象以外にはない。

「如何なる考え方も我うべなはむ」とここでうたわれている一首がある。わたしはそれを、それ以前のたとえば昭和十三年における「解良富太郎歌集によせて」にある、

病みて死にし助手の君らは数ならず彼等が二年前の物言ひを見よ

あるいはさらに昭和十年、「某日某学園にて」のなかの、

まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに

などと同一系列の作品の上に置いてみることをする。「思想詠」とも呼んでよいものであり、それらは、さらに昭和初年の「あやまたず一世を終へむ願いやし忘れて安く居る日あれかし」その他の一群の当時の小市民生活詠と表裏する苦渋の述懐の間に遡及させ得るはずといえよう。

しかも、そう考える場合、わたしたちは土屋文明の文学の出発の原点であったものを今一度確認しないわけにはいかない。すなわち、その出生であり、出生につながる「貧」の自覚であり、そこに根を据えた現実凝視であることはすでに記した。彼のリアリズムも、リアリズムの上に見定められていく、文学の「思想」であるものも、その意味を置いてはなかった。そうして、その位置から今再び現実であるものをうたっていこうとする。戦後の現実は繰り返せば今彼自身の生きる、疎開者という身辺の小世界以外にはない。

前山をこえて白根の見ゆるまで上り来りぬ炭を負ふべく

ゆふ闇は谷より上るごとくにて雉子につづくむささびのこゑ

寝つつ見る竹の上ふく夕べの風東となれば明日をたのまむ

「続川戸雑詠一」…すなわち昭和二十二年はじめの歌であり、『山下水』につづく歌集『自流泉』の巻頭にある。

雨戸あけて吾は聞き居り月いづる山にかへるらしき狐のこゑを

凍りたる筧あやぶみゴム足袋はく空襲の夜よりはきしゴム足袋

などがそれにつづき、同じ疎開生活詠でありながら一種の寂寥を加えていく。一時期が過ぎ、ようやく疎開地をさらなければならない思いが心中に去来するのか。「いづくにか行きて住まはむ菅原や伏見の里も道とほくして」という歌があり、あるいは「いたづらに老いは来たらむ山いでて万葉私注つづけむか否か」などともそのひそかな焦燥が告げられたりする。戦争中より筆をとり始めた『万葉集私注』著作の仕事があり、そのことが彼の生活と、作品の関心の世界とをさらに限定していったのであろう。

(つづく)

一疋つかみ静子が帰り来ぬ川人足を吾に代りして

蚊帳の中に衰ふる我を襲ひたる虻を刺客の如くに憎む

吾が杖をうづめむとする莠(はぐさ)の穂出水の引くを見にいでて来つ

 仮に、「続川戸雑詠七」より抄出する。昭和二十四年秋のころであり、その年に松川事件、あるいは下山事件、三鷹事件があったりした。激しさを増す労働運動に対し弾圧が加わり、レッドパージが始まろうとする、暗い時代の影が再び迫り寄る。だが、それらの世界からひとり離れるかのように文明の疎開作品はうたわれ、寂寥の上に淡い倦怠感さえ覆おうとする。身辺から疎開者が都会に去っていく歌が作られていく。

草をつみ食らひ堪へつつ生きにしを流氓何に懼れむとする

昭和二十五年であり、すでに朝鮮戦争が始まる。被占領国日本は戦争の基地とされ、警察予備隊が彼らの強要の上に生まれる。戦後の幻想の終る日であり、それからの長い歴史の激動に歩み向かう日でもある。「流氓何に懼れむとする」…「草をつみ食らひ堪へつつ」という日常の彼方に、現実凝視、現実認識としてそのことを冷厳に見定めてうたっている作品であろう。

二十六年、サンフランシスコ講和条約締結。

戦ひて敗れて飢ゑて苦しみて凌ぎて待ちし日と言はむかも

と同じくうたわれているが、得られた独立は安保体制の中に組み込まれ、アメリカ従属と再武装に向かうべき国の運命であった。そうしてその年の終りに六年余にわたった疎開地の生活にピリオドを打ち東京に帰住する。六十二歳であり、『山下水』『自流泉』の二歌集の世界もそこで終了している。

九十歳かに至ってなお制作をつづけている土屋文明の歌人生涯において、その両歌集の六年ほどの期間は必ずしも長いとは言えないが、文学の、転機ということでは大きく意味を持つ。すなわちこの期間を経て彼のうたう世界は外部はの関わりを稀薄にし、身辺と、その周辺に狭められていく。そうしてそれらの上に、深化と共に或る人間的暖かさを加えていったとも見られよう。人生の歌ともいえ、そこに人生凝視者、人生認識者として世界が老年に向かってひらかれていく。老年の境涯詠への展開として、それをその後に見ていかなければならないのであろう。(1983.7〜9「短歌研究」)

 

土屋文明先生のこと

土屋文明先生が今年の文化勲章受章者となられた。九十六歳。これまでの文化勲章受章者中の最高齢者とも新聞は報じている。世俗的な栄誉などに遠く、むしろ潔癖にそれらを退けて長く生きて来れれた。今日、このことをあまりにもおそ過ぎた処遇とも思う。現代歌壇に連らなる一人とし、また一門人として心からお祝い申し上げたい。その上で、わたしにはわたしだけの感慨がないわけではない。

一門人とわたしは記した。遠く短歌を作ることを知っていった少年の日にその作品を知り、やがて出逢いともいうべきものを知った。わたしが地方の一旧制高校を卒えて浪人し、上京し、神田の予備校などに通って鬱々とした日を過していた青春の一時期といえる。おずおずと作品を持参し、面会日の一日、青山五丁目にあった「アララギ」発行所を訪れた。わたしのせっかくの作品は、何だ、君はもっと老人かと思っていたという一言のもとに突き返され、その屈辱感を反芻しながら大岡山の孤独な下宿の部屋に帰っていった日からわたしはこの人を文学の唯一の師と勝手に定めた。勝手に定めたというのは、先生はきっとわたしなど門人と思っていらっしゃらない筈だからである。否、文学には究極に師も弟子もないことを幾度かわたしは先生の直接のことばとして聞いて来た。

そうした日の先生はよほどの老人とも思っていた。面会日に集る会員を前に、小さな経机めいた卓に胡坐を組み、日に焼けた額に眼鏡をずり上げて気短にわたしたちの持参する歌稿に朱筆を入れていった。本当はまだ四十代、精悍な壮年の時期であり、『ふゆくさ』のリリシズムの止揚の上に『往還集』を経て『山谷集』『六月風』『少安集』にかけての冷厳なリアリズムを次々に切り開いていかれるときでもあった。 

そうして、その先生のもとに当時のすぐれた青年らが集った。わたしよりやや先輩の樋口賢治、小暮政次、あるいは中島栄一らがあり、わたしと同時代に杉浦明平、相沢正、高安国世らがいた。斉藤喜博は年長だがわたしたちとほぼ同時に「アララギ」に参加した筈である。多く、その日の最も知的青年層であったと思うが、何のために彼らがそうしたのか。言うまでもない。現実と、現実の人生とをうたう土屋文明の短歌を、わたしたちは生きていく日のみずからのぎりぎりの自己表現として選択しようとしたためである。そうして、同じ時代は日本が戦争とファシズムに一途に向かう日に重なった。戦争の末期の日に、先生にはそのリアリズムの一到達として従軍歌集『韮菁集』がある。

戦後、『山下水』『自流泉』などの作品の展開と共に、「アララギ」に「土屋文明選歌」と呼ばれる一世界を拓かれた。生活即短歌ともいうべき主張のもとに、その時代の、生きいく民衆の思いとしての短歌をそこに集め育てられた。それは「アララギ」の範囲を越え戦後短歌に大きな波及を呼びひろげていったともいえる。

そうして、先生の老年に向かわれる日に『青南集』から最近の『青南後集』につづく一連の歌集と、歌集の背後の作品活動がある。『青南集』のうたい出されるのは昭和二十七年、六十二歳であり、今日まで三十数年の歳月が重なる。九十を越えて今日なおその文学に老いの弛緩を見せないのも人々に語られている通りである。

わたし自身のことを語ろう。わたしもまたようやく老年と呼ばれるべき年齢であり、その年齢の上に、ときとしてうたうことに迷うことがしばしばある。老年の歌とは何かと思う時である。そのような場合、わたしの年齢で先生はどのような作品を作っておられたのであろうかと歌集を読み返すことをひそかに重ねている。ないしは、自らを励ますためにそうすることを繰り返している。少なくとも先生の今日の年齢に至るまで、わたしはわたし自身を励まして人生の老年に向かう日の歌を作ることを先生に学ぶことが出来るであろう。それはかつて、短歌史の上にだれもうたわなかった世界ともいえる。

昨年、せんせいの歌集『青南後集』に現代歌人協会で短歌大賞を差し上げることが決まり、理事長として、受諾のお願いのため久々に青山の御自宅を訪ねた。耳がやや遠く、足もいくらか御不自由のようであったがその他は少しも衰えておらず、張りのある声で次々とお話なされた。ちょうど現代歌人協会の日中友好の旅から帰って来たばかりであり、先生は『韮菁集』の旅の思い出などを語られたが、御記憶は鮮明であった。歌人として最も御長寿を生きられた筈であるが、同時に、つねに現代短歌の指標ともいうべき仕事を各時期になされた。なお長く御健康を祈りたい。(1986・12「短歌」)

文化勲章受賞をお祝いして

土屋文明先生が文化勲章を受章された。九十六歳。文化勲章受章者中最高齢といい、また日本の和歌史の上でも最も高齢の一人として生きられた。受賞式のため皇居に参内されるお姿がテレビに映されるのを見たが、お嬢さんに扶けられ、杖にすがって自動車を降りられる様子に、なお御壮健とはいえ老いを思わないわけにはいかなかった。付き添われるべき奥さんはすでに世にいない。文化勲章の選考がどのような経過でなられるものかをわたしなどは知らないが、一国の文化の上に占めるべき先生の業績の重さに酬いるのに、あまりにも遅過ぎた受賞ともいえないではない。

それは明治、大正、昭和の三代にわたる文学業績ということである。すなわち、先生が十九歳、高崎の中学を出たまま伊藤左千夫を頼って上京、その牛飼いとなろうとした年が明治四十二年、同じ年に「アララギ」の発行が東京に移され、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、ないし島木赤彦ら一群の青年作者らに交って、

この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず

などに始まる処女歌集『ふゆくさ』の清新な抒情歌人としての文学出発をした日から、今日に至る長い近代短歌史をつねに実作者として生きられた。否、正確には、近代短歌史の各時点において、つねに新しい歴史を切り開いていく先駆者として歌人生涯を歩み重ねられた。

たとえば、先生の作品世界は第二歌集『往還集』に至って、

ただひとり吾より貧しい友なりき金のことにて交絶てり

などのように、乾いた、感傷を断った生活リアリズムの上のものとなり、さらに、

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす

降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎむ吾等は

などというあらあらしい現実詠ないし思想作品の作者に次々にみずからを変えていく。昭和初年、日本の歴史が戦争とファシズムに向かってなだれていく日であり、それはそのまま昭和初期歌壇に衝迫を与え、影響を与え、ことにその日に生きる生活者ないし青年歌人層に、短歌をみずからの「生き方」のぎりぎりのことばとなすべき自己表現としての文学の根拠をも与えた。『往還集』に続く『山谷集』『六月風』『少安集』の時期であり、さらに『ゆずる葉の下』『韮菁集』などの戦時歌集に至る。

せんそうの日に「前線詠」と呼ばれる戦場の無名兵士らの一群の作品があった。戦争の時代に生き、その生死に直面する中からうたわれていった無数の作品群といえるが、彼らがうたうものの根拠に一時期土屋文明が切り開いていった生活リアリズム短歌がまぎれなくあったという事実を誰かが正確に歴史として書いておいてくれるとよい。

そうして、同じような冷厳なリアリズムの眼は次に『山下水』『自流泉』の戦後歌集の時期にに継続される。

走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日のうち

草をつみ食らひ堪へつつ生きにしを流氓何に懼れむとする

日本の敗戦の虚脱に、激しい歴史転換が重なり、いわゆる戦後の一時代が始まる。それを山中の一疎開者の眼を通してうたわれた。歴史凝視の眼もといえた。

同じ時期に、戦後「アララギ」にいわゆる「土屋文明選歌欄」とも呼ぶべき一世界を育てられる。多くのその日の無名の生活者らの「うたごえ」といってよいのか。生活をうたえ、ないしは生活即短歌といった先生の文学主張が、当時生きることの選択に苦しむ生活民衆と重なる広い無名作者層に自己表現のことばを与え、短歌自体の広い社会への拡大をもたらしていった意味は、今日になりもっとも重大に考えて見てよいのであろう。

『自流泉』以後、先生はなお『青南集』から最近の『青南後集』に至る作品を精力的に作り続けられる。人生の、老年に歩み向かわれる日といえる。作品にしだいに内面の深さ、思想の部厚さが加わっていく意味はかって指摘した。老年を生きた歌人はれまでも少なくなく、老年を、老いのなげきとしてうたった短歌もまた数多い。そうではなく、それを、人間凝視の上にうたいつづけ、人間と世界との認識の上に問いつづけていった歌人は先生において他になかったのではなかろうか。『青南集』以後の作品を、そのようにはまだ充分には読まれてはいないとわたし自身は思う。

文化勲章受賞のお祝いを申し上げることのために、やや土屋文明先生の業績をたどってみた。近代、ないし現代短歌史の上に残された足跡といってもよい。

今日、歌壇においてそうした業績ないし足跡を疑うものはいない。さらに、むしろ歌壇周辺の広い短歌作者、短歌愛好者の間に、土屋先生の崇拝は絶対的であるようにも思える。

だが、そのような範囲を一歩出て、先生の短歌は必ずしも理解されていず、読まれてもいないのではなかろうか。少なくとも斎藤茂吉などのような世間的な人気はない。九十歳を過ぎて文化勲章を受章しなければならなかった理由の一つもそのことであろう。

作品が地味であるのに加え、つねに時代時代の先駆者であったことが、絶えず誤解と無理解の上に立たなければならなかった。わたし自身は一門人としてその過程を長く見続けて来なければならなかった。或る焦燥とし、悲哀として、と今思い返す。そのことを超えての長い作歌生涯のはての栄誉といえるのであろうか。否、むしろ、文学における栄誉とは何なのか。(1987・1「短歌研究」)

文化勲章受賞をお祝いして 

土屋文明先生が文化勲章を受章された。九十六歳。文化勲章受章者中最高齢といい、また日本の和歌史の上でも最も高齢の一人として生きられた。受賞式のため皇居に参内されるお姿がテレビに映されるのを見たが、お嬢さんに扶けられ、杖にすがって自動車を降りられる様子に、なお御壮健とはいえ老いを思わないわけにはいかなかった。付き添われるべき奥さんはすでに世にいない。文化勲章の選考がどのような経過でなられるものかをわたしなどは知らないが、一国の文化の上に占めるべき先生の業績の重さに酬いるのに、あまりにも遅過ぎた受賞ともいえないではない。

それは明治、大正、昭和の三代にわたる文学業績ということである。すなわち、先生が十九歳、高崎の中

学を出たまま伊藤左千夫を頼って上京、その牛飼いとなろうとした年が明治四十二年、同じ年に「アララギ」の発行が東京に移され、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、ないし島木赤彦ら一群の青年作者らに交って、

この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず

などに始まる処女歌集『ふゆくさ』の清新な抒情歌人としての文学出発をした日から、今日至る長い近代短歌史をつねに実作者として生きられた。否、正確には、近代短歌史の各時点において、つねに新しい歴史を切り開いていく先駆者として歌人生涯を歩み重ねられた。

たとえば、先生の作品世界は第二歌集『往還集』に至って、ただひとり吾より貧しい友なりき金のことにて交絶てりなどのように、乾いた、感傷を断った生活リアリズムの上のものとなり、さらに、

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす

降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎむ吾等は

などというあらあらしい現実詠ないし思想作品の作者に次々にみずからを変えていく。昭和初年、日本の歴史が戦争とファシズムに向かってなだれていく日であり、それはそのまま昭和初期歌壇に衝迫を与え、影響を与え、ことにその日に生きる生活者ないし青年歌人層に、短歌をみずからの「生き方」のぎりぎりのことばとなすべき自己表現としての文学の根拠をも与えた。『往還集』に続く『山谷集』『六月風』『少安集』の時期であり、さらに『ゆずる葉の下』『韮菁集』などの戦時歌集に至る。

せんそうの日に「前線詠」と呼ばれる戦場の無名兵士らの一群の作品があった。戦争の時代に生き、その生死に直面する中からうたわれていった無数の作品群といえるが、彼らがうたうものの根拠に一時期土屋文明が切り開いていった生活リアリズム短歌がまぎれなくあったという事実を誰かが正確に歴史として書いておいてくれるとよい。

そうして、同じような冷厳なリアリズムの眼は次に『山下水』『自流泉』の戦後歌集の時期にに継続される。

走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日のうち

草をつみ食らひ堪へつつ生きにしを流氓何に懼れむとする

日本の敗戦の虚脱に、激しい歴史転換が重なり、いわゆる戦後の一時代が始まる。それを山中の一疎開者の眼を通してうたわれた。歴史凝視の眼もといえた。

同じ時期に、戦後「アララギ」にいわゆる「土屋文明選歌欄」とも呼ぶべき一世界を育てられる。多くのその日の無名の生活者らの「うたごえ」といってよいのか。生活をうたえ、ないしは生活即短歌といった先生の文学主張が、当時生きることの選択に苦しむ生活民衆と重なる広い無名作者層に自己表現のことばを与え、短歌自体の広い社会への拡大をもたらしていった意味は、今日になりもっとも重大に考えて見てよいのであろう。

『自流泉』以後、先生はなお『青南集』から最近の『青南後集』に至る作品を精力的に作り続けられる。

人生の、老年に歩み向かわれる日といえる。作品にしだいに内面の深さ、思想の部厚さが加わっていく意味はかって指摘した。老年を生きた歌人はれまでも少なくなく、老年を、老いのなげきとしてうたった短歌もまた数多い。そうではなく、それを、人間凝視の上にうたいつづけ、人間と世界との認識の上に問いつづけていった歌人は先生において他になかったのではなかろうか。『青南集』以後の作品を、そのようにはまだ充分には読まれてはいないとわたし自身は思う。

文化勲章受賞のお祝いを申し上げることのために、やや土屋文明先生の業績をたどってみた。近代、ないし現代短歌史の上に残された足跡といってもよい。

今日、歌壇においてそうした業績ないし足跡を疑うものはいない。さらに、むしろ歌壇周辺の広い短歌作者、短歌愛好者の間に、土屋先生の崇拝は絶対的であるようにも思える。

だが、そのような範囲を一歩出て、先生の短歌は必ずしも理解されていず、読まれてもいないのではなかろうか。少なくとも斎藤茂吉などのような世間的な人気はない。九十歳を過ぎて文化勲章を受章しなければならなかった理由の一つもそのことであろう。

作品が地味であるのに加え、つねに時代時代の先駆者であったことが、絶えず誤解と無理解の上に立たなければならなかった。わたし自身は一門人としてその過程を長く見続けて来なければならなかった。或る焦燥とし、悲哀として、と今思い返す。そのことを超えての長い作歌生涯のはての栄誉といえるのであろうか。否、むしろ、文学における栄誉とは何なのか。(1987・1「短歌研究」)

文明・その思想性に至るまで

 

土屋文明の作歌生涯の歩み出しを知り得るものとして、彼の最初の歌集『ふゆくさ』の「巻末雑記」に記されている次のような一挿話がある。

すなわち、高崎中学校生だあった文明は新たに赴任して来た村上成之という国語漢文の教師を知り、成之が蚋魚という号で「アカネ」などに歌を出している歌人であるのを知る。それまでに、文明もまた「ホトトギス」をひとり読んだり「アカネ」に短歌を投稿したりする早熟な少年であった。或る日、彼はたまたま病気で欠勤していた成之に奉書の手紙を書き、「自分の考へをのべて学校の生徒といふだけでなしに歌の弟子としてもらひたい」ことを願う。それからその家を訪れた文明は正岡子規の遺歌集『竹の里歌』を借り、「殆んど寝ずに」写したと自ら記す。中学四・五年級の時というから明治四十一年前後である。成之は当時数少なかったに違いない正岡子規の根岸派に連なる俳人ないし歌人のひとりであり、そのことも偶然の出逢いといえる。

同じ子規の『竹の里歌』との出逢いを、斉藤茂吉もまた短歌開眼として同様に次のように追憶している。山形県金瓶村から上京して来た茂吉は、当時、やがて義父となるはずの斉藤紀一の神田和泉町一、帝国脳病院の土蔵の二階に「がらくた荷物の間に三畳敷くらいの空をつくつて」起居、第一高等学校第三部に学んでいた。そうした鬱屈の或る日、神田の貸本屋から『竹の里歌』を借りて読む。「木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ」「人皆の箱根伊香保で遊ぶ日を庵にこもりて蝿殺すわれは」などの歌に逢着し、「留らなくなつて帳面に写し始めた」という。それから子規を読み、左千夫の名を知り、やがて左千夫を訪れる。『竹の里歌』を借りて読んだのが、「旅順が陥ちたか、陥つないかといふ人心の緊張し切つてゐた時」というから、少年文明よりやや早く、明治三十七年の終りから翌年一月にかけての時期なのか。日露戦争の旅順港陥落は明治三十八年一月、その年茂吉は二十四歳、同じ秋に東京帝国大学医学生となっている。

いずれにせよ、後に「アララギ」派のそれぞれの時期を代表することとなる二人の歌人が、共に短歌への出発の最初の日に、それぞれの出逢いとして子規の『竹の里歌』を読み、彼らの感動としている。ないしは、そのことを共通の起点としている意味をも彼らのそれからの文学を考える上に重く見ていかなければならないであろう。

ただし、茂吉が「溜まらなくなつて帳面に写し始めた」と追憶するのに対し、文明は「殆んど寝ずに」と記す。茂吉が神田和泉町の病院の一室に鬱屈している第一高校生であるのに対し、文明はすでに文学を知り始めた早熟で多感な一地方中学生であった。「ホトトギス」なども早くから読み、当然、子規のことも知っていたのであろう。「殆んど寝ずに」と記すあたりに、やや茂吉と違って冷静な気負いともいうべきものがうかがわれないでない。

茂吉の初期作品に「飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ」などというのがある。

 

無論、『竹の里歌』の「象蛇どもの泣き居るところ」を知った感動の上での明けって広げの追従であろう。文明にはそのようなあからさな歌はない。ただ、後年、わたしたち後進に対し彼はしきりに子規に立ち返るべきことを語り繰り返した。ことに『竹の里歌』の初期の「百中十首」を読み直すことをすすめ、そこに短歌のさまざまな可能性が残されているのを機会あるごとに語ったりした。当時、まだ大学生か何かだったわたしたちは必ずしも文明のいう意味を理解はしなかったはずである。

だが、例えば文明の出発期の作品に、

楢原の春の若芽に灰ふる日木の間にうすき影をふみつつ

榛の葉のうら葉しらじら吹く風にさすや夕日のともしきものを

などがある。その、大正初期の青春の、西欧風な憂愁を帯びた感傷の世界とは別に、明るく精緻な、何か細密画を思わせるような自然描写の技法は、子規の「百中十首」の「霜防ぐ菜畑の葉竹はや立てぬ筑波嶺おろし雁を吹く頃」などの、多分、彼の俳句革新を通し習熟したはずの新鮮な対象把握の技法、ないしその感動の上にあるものとひそかにわたしは思っている。そうして、そのことを知るのは、生涯の土屋文明の短歌作品の最も基底のところにあるものの一つを解く鍵であろうとも考えている。

ついでに記せば、茂吉が最初に『竹の里歌』を読む感動の上に子規に知っていったものは、それとは異なっていたのであろう。
               *

明治四十二年、群馬県高崎中学を卒業した土屋文明は村上成之の紹介より歌人伊藤左千夫を頼って上京、その牛飼いにやとわれようとする。左千夫は当時、作歌活動のほか東京本所区茅場町で牛乳搾取業を営んでいた。上京の真意が文学への志望であるのはいうまでもない。十九歳の少年文明は左千夫の好意により第一高等学校に進学することとなる。

同じ年に短歌雑誌「アララギ」が東京の左千夫のもとに発行所を移す。なお「阿羅々木」と呼んでいた。「阿羅々木」は前年、千葉県の蕨真によって創刊されている。左千夫によって新たに発刊されることとなる「アララギ」にはすでに石原純、斎藤茂吉、古泉千樫らのすぐれた青年歌人らが集まっていた。その時代の最も知的な青年層ともいえる。同じく、後に「アララギ」の主要同人となる島木赤彦、中村憲吉はなお地方にある。上京したばかりの文明は、おのずから最年少のひとりとしてその中に加わることとなる。

そうして、その一文学流派草創の日に、やがて師である伊藤左千夫とそれをめぐる若い同人との間に文学対立がはらまれていき、それが悲劇的な人間感情の対立ともなっていく経過は、すでに多くの語られている通りである。

すなわちその時期に、左千夫は子規の死後の長い低迷を経て晩年に向かう。人生、ないし人間の根源的なものとしての「生命」をうたう志向をしだいに濃くし、それに対し、茂吉、赤彦ら新鋭の同人らは彼らの未熟で多感な青春にふさわしく感性的なものを早急にうたい求めようとした。

左千夫はそれらを批難し、若い同人らは左千夫のいう人生の「根本問題」を冷笑する。正規の学問を経ていない左千夫の論理はしばしば混迷し、若い同人はそれを頑冥と受け取った。

そのことに重なって、その間の左千夫の実人生もひそかに周囲の不信を生んでいったと記される。「作歌信念としては極めて理想主義的の彼が、実生活でひどく現実的に行動した」と当時身辺にあった土屋文明は回想する。妻子のある一家のあるじであり、その日々すでに老年とも思われていた左千夫は若い女性に恋をし、逃げられ、そのあとを追っていったりした。愚かな女であったとだけわずかに今日明かされている。

草創されたばかりの「アララギ」にはらまれていった文学相克は、大正二年、左千夫の死によって終る。そうしてその上に、赤彦、茂吉らの新しい短歌世界への模索は続く。同じく大正二年、左千夫の死の後に茂吉の歌集『赤光』が世に出で、それは新風の出現として大きな反響を呼んだ。濃厚な西欧象徴詩世界の投影のゆえといえる。

その間、土屋文明は何であったのか。左千夫の庇護によって第一高等学校生となることを得た文明は、大正二年、左千夫の死の年に東京帝国大学哲学学科に進学、芥川竜之介、久米正雄らとの新しい交友を通し第三次「新思潮」に加わったりする。左千夫の最年少の門人であった文明は身辺に見なければならない師と赤彦、茂吉らとの文学的対立を悲しみながら「ただ何も分らない僕は左千夫先生の命をただ奉ずるつもり」であろうとし、同時に、作品自体は周囲の先輩の歌人、とりわけ茂吉の西欧象徴詩世界の強烈な影響を逃れることは出来ない。

すなわち、明治四十四年、上京の翌々年、その「アララギ」一月号に、

ひだまりの赤土がけの崖のもとふゆくさ青き泉にいでぬ

いささかの日和つゞきに萌えいづるみづ辺ふゆ草ふみて遊べり

日のあたる背は汗ばむをふゆ草やみぎはの土の足につめたき

などと、まだ少年らしくみずみずしい、素朴な詩情の作品を掲載していた文明は、三月号に、

まよひ萌え咲かでなえぬる冬草のいたましき骸にのこる青みも

四月号に、

汝れとあれまた遭はむことかたかるをさびしき胸に待ちてたのしむ

としだいに混迷をまじえた変化を続け、翌大正元年十一月号に、

西方にいり日を追ひて行かむとす野の上の道のはるかなるかな

めぐる天めぐりをとゞめ此の道のきはまりたりと君をうべしや

ゆき暮れてとはの夕にわれと立つと遠きくにべに聞かむ君はむ

などとあるような新風の作者に一変する。

たまたま同じ号に左千夫の「おりたちて今朝の寒さに驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く」などの「ほろびの光」の一連が並んでいる。左千夫の晩年の絶唱である。若い門人らの混乱、ないし離反を傍らに見ながら、左千夫もまたこのような文学境地を切り開いていていったといえなくはない。

翌年、大正二年夏、左千夫は五十歳で急死する。「始めて上京してから最后の御別れをするまで四年と四ヶ月には少し足らない」と二十三歳の文明は悲しみに記している。

          *

明治四十五(大正元)年に八十八首の作品を「アララギ」に発表した文明は、大正二年に三十五首、大正三年に四十首、大正四年にはついに一首も作っていない。

大正三年新年号に、

山の上は秋となりぬれ野葡萄の実の酸きにも人を恋ひもこそすれ

夕されば牛の子群れて啼くなれどうれひの水の動かざるも

四方にはざまひらけて夕明し吾が恋人の国のいり日か

があり、四月号に、

白楊の花ひそみ咲く木にゐる鳥の影はさしつゝ鳴かむともせず

ほのかなる影を地の上にゆれ動く花のうれひを踏みぞ吾がする

などがあり、それぞれに、同じ西欧象徴詩的作風とはいいながら、たとえば茂吉ら一世代にはちがった、内省的ともいえる知的憂愁感がここにあり、そのことには大正という時代の到来を思わせる一つの近代が重なっているともいえるが、作品は、やはり一種の完成と共にうたわれることがにわかに少なくなっていく。反面、「短歌小観」などといった歌論が書きかけられ、それも中途に終る。

芥川らとの交友により短歌を小文学と知っていく失望もあった。またそのころから「アララギ」の編集が島木赤彦の手に移り、赤彦自身の歌風が『切火』から『氷魚』の正統的リアリズムに回帰を続けようとする、そうした時期への重なりもあったのかもしれぬ。

しかしそれらすべてより先に、土屋文明みずからうたって来た一時期の青春作品を自分のものではないとする思いを、ひそかに知っていたし、また、その聡明を失ってはいなかった。近代を装った西欧象徴詩的作風といえ、それは所詮装いであり、意匠であり、詩としての内的必然ではなかった。

さらに、文明自身一つの年齢的転機にさしかかる。大正五年、二十六歳で大学を卒業、しばらくの不安定な生活を経て大正七年に恋人であった年長の女性と結婚、長野県諏訪高等女学校教員として上諏訪に赴任する。

(つづく)

歌集『ふゆくさ』に、それら少年期ないし青年期、すなわち「アララギ」初期のころから大正にかけての作品の大部分が自らの手で抹殺されている。そうしてその上に、大正六年以後、作品が制作年度ごとに掲載される。そうした大正六年以後のものを例示する。

船河原橋吾は渡れり夕暮れて忙しき人はあまた渡るも          大正六年

造り岸さむざむ浸しよる潮のかわける道にあふれむとする          大正七年

白砂に清き水引き植ゑならぶわさび茂りて春ふけにけり           大正八年

ゆれ強き電車を憂しと思ひつつ伊那のゆき来も年を越えたり         大正九年

青春の日に彼の作品につねに揺曳していた繊細な知的憂愁感ともいうべきものをなお残しながら、うたう世界にむしろ素朴ともいえる現実性が増してゆく。リアリズムでありながら、淡く清純なリリシズムが相重なるが、そのことを含めて、作品に気息に衰えが生じていくのも否みようはない。

再びの低迷であり、「何かにつき当たって口ごもつたやうに、歌が出来なくなつた」と告白する時期を、大正九年から十年にかけてとする。十二年まで、歌集『ふゆくさ』に作品は極端に少ない。その間、信州の教職にある。大正十一年に松本女学校長に転じている。

教育改革をこころみ、あげくに「実質的には暴力に等しい方法」で職を追われ、東京に戻る。大正十三年から法政大学予科教授となる。三十四歳。すでに中年であった。

旱つづく朝の曇よ病める児を伴ひていづ鶏卵もとめに

その時期の作品であり、それらは次の歌集『往還集』に切り開かれていく次期の世界を用意するものともいえるが、ここでは長くうたい続けられて来た彼自身のリリシズムが影を消し、代って、実人生に生きていくものの生活感情が、一種荒涼としたリアリズムとして表面にあらわれる。少なくとも前掲の一首はそのことを暗示する。

そうしてその世界は、まさにかつて師であった伊藤左千夫が、晩年に門人らの離反を身辺にみながら模索していたものではなかったのか。

裏戸出でて見る物もなし寒む寒むと曇る日傾く枯葦の上に

児をあまた生みたる妻のうらなづみ心ゆく思ひなきにしもあらず

などに、年齢ないし人生体験によう深浅は別としてそのままにつながるものといえないだろうか。繰り返せば彼が少年の日に、師とした左千夫の、実人生を負う孤独な日常と共に、遠いものとして見続けていた世界であった。

いずれにせよ文明はその地点に再び回帰する。そうして、その地点から次の歌集『往還集』ないしそれ以後の出発を始めようとする。冷厳なリアリズムであり、現実の社会に生き向かう生活者の歌といえる。

            *

『往還集』は巻頭の次のような作品に始まる。

休暇となり帰らずに居る下宿屋思はぬところに夕影のさす

冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ

大正十四年であり、上京し、私立大学予科教師となったまましばらく落着かない日をすごす。三十五歳。二児の父でもある。

むずかる児見ぬがごとくに食ひ居る妻に罵をはきかけにけり

ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交絶てり

醜く生きてあはれとあらねども夜ふけて空をゆく鳥のこゑ

父死ぬる家にはらから集りおそ午時に塩鮭を焼く

大正がやがて昭和に変り、日本に、昭和初年という歴史の一時期が来る。すなわち、昭和二年に金融恐慌が生じ、さらにアメリカのウォール街から始まった世界恐慌が昭和四年、世界に波及する。深刻な不景気に失業がひろがり、農村は疲弊、農民の女らは都会に売られる。そうした中で昭和三年の三・一五事件、昭和四年の四・一六事件と一連の凄惨な思想弾圧が続いていく。しかも、その日に文学の世界にプロレタリア文学が猖獗する。歌壇にプロレタリア短歌運動が生まれていくのは同じころ。昭和四年にプロレタリア歌人同盟が結成される。

すなわち『往還集』の如上の作品はこうした時に重なる。その日に、都会の一市民とし、同時にひとりの知識階級の教師として生きていくことの思いが、感傷を断ち、抒情と呼ぶものの既成の概念をも断って索然とした日常の生活の間にうたい出されていく。非詩というなら、それは危うく非詩のぎりぎりの一線でうたわれる非情の詩の世界といえるのであろう。

そのような日の『往還集』の出現が、そのような日本の歴史の一時代の抜き差しならない意味を持った。そうした時代に市民とし知識階級として生きていくためのことばが文学であり短歌であるとするならば、今短歌は土屋文明が『往還集』でうたい続けようとしている方法のほか、他の道はなかった。

散文化とも呼ばれたりする。それに対する批難ないし無理解は当時も、さらに遠く過ぎた今も変わらない。だが、その日以後、日本の近代短歌ないし現代短歌が、『往還集』もしくは『往還集』に継ぐ土屋文明の一連の歌集の影響を大きく受けていった事実は否めない。むしろそこに、次々の作品によって開かれていった方法ともいえる。

『往還集』の後に『山谷集』『六月風』『少安集』が続く。

堪へしのび行く生を子等に吾はねがふ妻の望は同じからざらむ      『山谷集』

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす

まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに   『六月風』

降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎむ吾等は

説を更へ地位を保たむ苦しみは君知らざらむ助手にて死ねば       『少安集』

幾年ぶりか歌を作りていで立ちき敵前上陸にはやく戦死す

昭和五年から昭和十七年初頭までの間であり、その間、昭和六年の満州事変発生、昭和十二年の日中戦争開始を経て昭和十六年十二月八日太平洋戦争へ突入までの日本の歴史はあわただしい推移を続ける。国家主義の狂信と軍ファシズムと、大陸侵略戦争のはての絶望的な第二次世界大戦への突入といえる。そうして土屋文明の作品は、その日に生きる思いを、都会の一生活者、一知識階級人の低い地点から、苦渋をこめてみずからのことばとしてうたっていく。「生き方」の意味であることは繰り返して記す通りである。

それをひとりの人間の「個」といってもよい。ファシズムといい戦争といい、すべて非人間的なものへなだれていく歴史の一時点において、その歴史と、歴史の中の人間とを冷厳なリアリズムの眼を通して凝視し、短歌一首に表現することとして守り抜かれていく「個」であるはずのものといえよう。

生きる思いともいった。たとえば前掲の「まをとめのただ素直にて行きにしを」の作品背景をなしているものは、昭和初年の一連の思想弾圧の中の、かつて教え子であった一少女の死である。それを通して作者の時代への怒りが秘め伝えられる。また「ふる雪を鋼条をもて守りたり」にうたわれるものは二・二六事件であり、そこにもひとりの認識者の眼が「今」と呼ぶときに向けられる。そうであればこれらにおいて、思いとは、すでに「思想」といい替え得るはずである。すなわち「思想詠」と呼ぶべき作品であり、土屋文明の短歌の一側面をなす思想性ともいうべきものも、この間においてしだいに色濃くなって来ていることをも指摘出来る。

その日の、そうした彼の作品群が近代短歌史、現代短歌史の上に残した影響の意味はすでに記した。新即物主義などともいわれ、短歌の方法自体に一つの転回点をもたらしたともいえるが、大事なのはそのことではなかった。そこには日本の近代史のうち昭和初期という歴史の一激動期に、文学の「思想」としてあるべきはずのものがその中に生きる人間の「個」と共に、短歌という一小詩型にさながらに具現されたということであった。そのことを措いて近代短歌史、現代短歌史に土屋文明を鮮明に位置づける意味はない。

文明の作歌生涯はその後になお長く今日に続き、作品の完成度、思想性を考えるならむしろ後期をこそ重視すべきかもしれない。それにも拘わらず、焦点を『少安集』に至る時期に限った。理由は自明でもある。(1987・3「短歌現代」)

土屋文明における戦争茂吉との対比として

 

歌集『六月風』に、話すみし電話にはげしく聞え来ぬ今日をいきどほり言へる君が息

と一首がある。「五十首」と題し一括された作品であり、昭和十二年のものとされているが、前後に、降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎむ吾等はなどがあり、それらが前年、昭和十一年に生じた二・二六事件を背後にした一連であることは推定出来

る。二・二六事件は一群の陸軍青年将校らによる重臣殺害を含む軍事クーデターであり、それを一つのはずみとして戦前の日本が軍ファシズムの道を一途にたどることとなる。

そうしてこの歌にうたわれている「君」である人が斉藤茂吉を指すのであろうことは、わたしは最初から感じていたし、わたしの周囲でも同様に語られていた。当時、わたしは東京青山の「アララギ」発行所に出入りする無名の一大学生であり、歌会や校正の機会に、土屋文明と共に、まだ五十代の壮年であった茂吉にも、「君が息」とうたわれているその気息にもしばしば接していた。この場合、それが、二人の歌人が共に時を憤り、時の推移を恐れる「息」でなくて何か。

しかも、その二人の歌人に、二・二六事件以後の歴史の現実はそれぞれに迫る。日本はすでに昭和六年の柳条湖鉄道爆破以来大陸侵略線を進めている。昭和十二年に盧溝橋事件発生、戦争は上海に波及、さらに中国奥地に拡大する。

八月の暁釜山の町馬引く兵の多く裸なりき                 文明

盧溝橋事件直後の歌であり、文明は朝鮮金剛山歌会出席の途上にある。眼にするのは軍馬を引く、戦場に向かう半裸の兵の群れである。或いは、うたわれているのはその無名の兵らの運命の思いともいえる。

あな清し敵前渡河の写真みれば皆死を決して犢鼻褌ひとつ          茂吉

同じ日の茂吉の歌であり、盧溝橋の戦火に続く上海市街戦の中である。同様に裸となり戦う兵であるが、茂吉は戦争そのものへの全身の興奮を隠さない。

宋美齢夫人よ汝が閨房の手管と国際の大事とを混同するな          茂吉

などが続く。戦争の事実への国民的興奮というのなら、それはあまりにも事実への無知と表裏するものと今になっていえる。

しかしながら戦争とは、一部を除く人々の多くをその興奮と無知とに捲き込んでいくものともいえる。短歌だけではない。すべての文芸芸術が、自分のことばを失い、聖戦賛歌だけをいたずらに声高く叫び、繰り返そうとする。

その中で文明の歌は何だったのか。

幾年ぶりか歌をつくりていで立ちき敵前上陸にはやく戦死す

身辺のひとりの青年である。召集を受け、幾年ぶりかで歌を作って戦場に向かい、やがて戦死の報を知る。「敵前上陸にはやく戦死す」というさりげない表現の中に込められていくものを作品の中に読まなければならないのであろう。

昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦。

国ありて始めての時とこしへの言葉を持ちて吾等は立たむ            文明

たたかひは始まりたりといふこゑを聞けばすなはち勝のとどろき         茂吉

ここではすでに同列である。求められた讃歌であろうが、それ以上に、時代はもはや人ひとりの「個」のことばなど許さなかったはずである。

そうして、その後に、彼らはそれに続く作品が作られていく。文明はどうか。

事しあれば先づ閉づる艦の区劃にて君がなすことを君は語りき          文明

君が身は国の柱としづけかるまた飄々と帰りたまへよ

前者は緒戦から帰り、再び戦場に発っていく一海軍士官、後者は輸送船として徴用された船と共に戻らなかった船員、共に身辺の短歌作者である若者のことなのであろう。戦争の日の文明の歌が、ほぼこのように、兵であり船員である彼らのひとりひとりへの悲しみとし人間共感としてだけ作りつづけられていった、とわたしはひとつの筋の上に思っている。その意味は、たとえば「事しあれば」の歌に対比し、茂吉の次の作品を置いてみるとよい。多分同時期の、同一対象のものだからである。

絶対に勇猛捨身の攻撃を感謝するとき吾はひれ伏す               茂吉

戦争が終ろうとする直前、文明は大陸に旅をし、北京で一人の文学者を訪れる。

君が家もいまだ焚かねば外套著て日本と支那のこと語り合ふ           文明

彼がその日に敗戦をどの程度予感していたか否かは知らぬ。ただしこの重い一首の調べを通した作品には、一つの時を、終末として見据えている曇らない何かがある。知性の眼なのか、或いはかろうじて自らの内に守られて来たそれなのか。或いは作品だけが作者の意図とは別に告げ出していく内面の世界のことなのか。

かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌をみづから洗ふ          茂吉

それより後れ、茂吉は東北の疎開地に住む。うたわれているものは同じく作品だけが予感として知る国の敗北を自らの敗北とする放心と孤独なのであろう。(1990・8「短歌研究」) 

土屋文明論「老年と『詩』と…『青南集』以後の世界」

もしひとりの詩人が、「詩」の思想というべきものを自らの作品生涯にうたい出していくとするなら、それはその生涯の熟成ともいえる時期、すなわち晩年に歩みかけるころからなのであろう。そうであれば土屋文明の場合、歌集『青南集』ないしそれ以降をどのように考えたらよいのであろうか。歌集『青南集』は『ふゆくさ』以後九冊目の歌集、昭和二十七年から三十七年にかけての作品を収録する。昭和二十七年に文明六十二歳、ほぼ六十代といえる間に重なる。『青南集』以後、『続青南集』『続々青南集』『青南後集』の三冊の既刊の歌集がなお後に続いている。

その『青南集』より早く昭和二十六年十一月、文明は群馬県吾妻郡原町大字川戸の疎開地を去り、東京都港区山南町、かって戦災に遭ったあとの新居に帰住する。昭和二十年五月の大空襲で焼け出されて以後、六年半にわたる疎開者の生活の後である。

榛名山山麓の吾妻川渓谷の小村落、二階家の階下三間を借りて一家が住み、山の傾面を切り拓いてわずかな畑を耕し、飢えをしのぐ。その孤独な日々に日本の敗戦を知り、さらに戦後の歴史の激動を見守って来た。歌集『山下水』『自流泉』の間である。

昭和二十六年、帰京する直前にサンフランシスコ講和条約と共に日米安保保障条約が調印される。朝鮮戦争は前年、昭和二十五年に始まっている。

うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮らしを始む

吾が部屋を一つもらひて電灯の明るき下にわびしくぞ居る

六年耕すくぬが下の菜畑にかれ葉のこして移り来にけり

なほ一人の土屋が山に残り居て落葉の坂を行くかともまどふ

霜消ゆれば出でて焼けたる瓦拾ふ東京第二層に何時までか住む

新居の庭の、「東京第二層」と彼自らが呼ぶ空襲の焦土の瓦礫を掘り起こし、疎開地の山からたずさえて来た草木を移し植え、さらに小さな畑ともする。

山寒くたへざるまでに老いぬれば友のまにまに帰り来て住む

平らめてここに十坪の畑ありあしたあしたの霜高くして

このようにして、一見山の生活と変わらないような、しかも飢えることのない東京の日々が彼に始まっていく。

(明日につづく)

昭和二十七年から明治大学文学部教授となる。同じ大学に勤めていた柴生田稔の斡旋である。

死後のことなど語り合ひたる記憶なく漠々として相さかりゆく

近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして

昭和二十八年、茂吉の死に遭う。長く眼前に仰ぎ歌を作って来た大樹のような存在であった。老いの孤独の思いをさらにまた一つ加えていったのであろう。

白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか

昭和二十九年の歌。白人たちまず自らが滅び、さらに地上からすべての人類が消え去った後、幾億の蝸牛がその廃墟の上に栄え、這いひろがっていくのであろうという暗いイメージであり、背後にはなおやまない米ソ両大国による核兵器開発の競合と戦争の危機の予感があるのか。すなわち前年二十八年、朝鮮戦争休戦の後ソ連は水爆実験に成功、また二十九年、アメリカのビキニ環礁の水爆実験により第五福竜丸の犠牲者を出す。作品の怒りはあくこともない人間の愚行に向けられる。

旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或は行かむ

三十五年。安保条約改定を前にし、学生らは赤旗を立て、道に伏して日本の首相の渡米を阻止しようとする。

一ついのち億のいのちに代るとも涙はながる我も親なれば

という歌がある。同じく六十年安保闘争の中の、樺美智子という一女子学生の犠牲死を悲しんでうたわれているのだろう。

ただし、このような、時代とか社会とかいう、いわば外部の世界に眼を向けて作られていく作品は全体としては少なく、しかもしだいに稀なものとなろうとする。

西欧高踏文化の中に学び日本の現実に命絶つまで

それらより時を隔て、昭和四十七年、『続々青南集』の中に交る一首であるが、何の事実を背後にしてうたっているのであろうか。いずれにせよここには彼の「日本の現実」に向けるぎりぎりの思いが、一抹の絶望としていい出されているのではなかろうか。

そうして、大多数の作品はそのようなものではなく、出京後の狭い身辺をめぐる日常詠ないし小自然詠に限られようとする。わけても多いのが草木の歌である。書斎の窓外に植えられ、繁茂するさまざまな植物の消長、ひたすらなまでの愛着の上に繰り返しうたわれて飽くことがない。

(明日につづく)

 

わが庭に冬越ゆる草何々ぞ荒地野菊は最もたくまし

なびきあひし薄は何時の日よごれたる今日の時雨に煤のしたたる

韮の葉の霜枯るるさまもおもむろにて冬至に近き日の沈みゆく

みぎりにて憎み憎みしかたばみに夕日のこりて此の冬の花

『青南集』前半にある「草木越年」の一連であり、まだ東京に帰ってあまり歳月を経ない作者六十代の作品であるが、それに二十年ないしはそれ以上を隔てた『青南後集』中の次の数首を対比させて見る。

四五株の草木に野分見てありき今日はなべての木枯しとなる

集めたるむかごを人等喜ばす栗鼠を飼ふにも用なしといふ

或いは、

年々に衰へしるき方竹のやや持ち直す去年より今年

垣の外に出づるもおのづから稀にして今日見るは隣の蕗の花立ち

見ているものを通してうたわれる心の内面世界という意味は共通し、さらにその間に、年齢の老いと共に増す人間寂寥の奥行きも簡単に読み過ごし得ないが、それ以上に、両者を貫く対象把握と表現の深さ、鋭さを今さらながら知る。写実であり、リアリズムの眼ということなのであろう。

今の場合、土屋文明は身辺の小自然の位置に身を低く置き、そらから人間の「生」、ないしはすべての「生」というべきものへの凝視の静けさを守り続けようとしているといえるのか。

同じく、同時期にうたい繰返されるものに小旅行詠がある。それら歌の多くが『万葉集私注』ないしは補正の執筆に関わる、頻繁な踏査ないしはその関心の旅の間のものと思ってよい。

今日の雨芝生のもみぢ降りそそぎ能登の沙丘の限りも知らず

稲を収めしあとにかけたる豆の茎米あり豆ありといふばかりのこと

朝びらき七尾に向ふ船をきけど眠るは安し朝日さすまで

昭和四十年、「能登奈良越中」の諸作品より仮に抄出する。大伴家持のあとをたずねていく幾度かの旅の一つである。作者七十五歳、自在な歌い方に自ずから重厚な感傷が沈む。

麦からを焼く火の赤き道なりき進まぬ馬を打ちやまぬ御者

灯を下げて船に送りしをみなごも記憶となればただに美し

「細島」と題し、ここでは作者ひとりの追憶が重なるか。旅愁が甘美なものとしてうたわれよう。

同じように、身辺詠としてうたい重ねられていくものに家族があり、血縁があり、さらに、日常をめぐる小さな交友の世界がある。交友の範囲は、今また「アララギ」という一短歌結社の中にあり、多くの場合彼を慕って寄る門人らである。

 

(明日につづく)

韮の畝半ばはおそく出ぬは西山岱作逆さに植ゑたり

どの部屋かさわがしき声聞けば分る喜んで居る椎屋宗一郎

わが庭の小さき池をかきまはし金魚追ひて君帰りゆく

ひとり、庭の池の金魚をかきまわし、また遠く帰っていくのは国分津宣子。福島に住む足の不自由な門人の女性であるが、やがて早く世を去る。いずれの作品にも諧謔を交えた愛情と共に、多くが弱者である人間に向ける作者の眼が感じられる。

そうして、作者が長命であるということは、そのような周辺のものの死をも次々と見ていく日常ともなる。斎藤茂吉との死別はすでに記した。その他に、長年の友人、あるいは同世代者の追悼の歌がようやくに続く。

中条百合子まだ処女子の葡萄茶(えびちゃ)着て道にあひ赤くなりし久米正雄ああ

久米正雄は青春を共にした友人であり、売れっ子の小説家であったが昭和二十七年に死ぬ。文明の、帰京後間もない時期である。

老い朽ちし桜はしだれ匂はむも此の淋しさは永久のさびしさ

少き交はりに共に老に入りなほ長き日をたのみしものを

前者は森田草平の死に関わり、後者は山本有三の死を悲しむ。共に彼の生涯につながる数少ない文学交友の中の人々である。ちなみに、後者の歌は昭和四十九年、作者はすでに八十四歳の老年でもある。

そうして、そのような周囲の死は当然作者自身の老いの自覚となって自らに返る。

同じ茂りふたたびは見ぬ木蔭ゆく命のみこそただに長しも

亡き後に残るらむさまあはれみし草木の多く此の寒に枯る

風引きて臥すは独房の如くなれど枕もとには湯と水とあり

雪の後やや温き雨の音一冬越え得しと思ふ安らぎ

試みに、『続々青南集』から抄出した。昭和四十三年から四十七年にかけてのものであり、年齢でいえば八十歳をはさむ数年である。しかも、老いの自覚は死の想念ともつながる。

暁に眼を開くあたり人のなしかくの如きか墓壙の目ざめ

暁に眼を開くあたりに人を見ない。死後の墓穴の中の目覚めもこのようなのであろうかという思いがふと胸をかすめる。同じく『続々青南集』に交わる作品である。宗教のすべてを信じない文明にとり、死は虚無の世界である以外の何ものでもない。そのことを知る内面凝視が凍るような冷厳世界としてうたわれている。

昭和四十九年、長子夏実を失う。八十四歳。

栗をめでまつたけめでつつ此の夕べ老の二人の眼は涙なり

貧は我を病は汝を育てきと思ふ病に汝は倒れぬ

さらに翌五十年、

思ひ出でよ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて

と回想としてうたわれる。医学を専攻し、京都府衛生部長の職にあったが、五十一歳で父に先立った。

(明日につづく)

子は子とて生くべかるらししかすがに遊べるみればあはれなりけり

などと『ふゆくさ』のころからしばしばうたわれ、悲しみは深く秘められていったはずである。

無神論唯物論の親子にて子は亡く親は老い漠漠茫茫

の一首がある。

加えて五十七年、妻の死に遭う。九十二歳のときである。

母の呼吸聞きとりがたしと訴へ来る声におどろく暁の耳に

頑の老はいづくぞ白き額やはらかく七十年前の手の下に似て

そのあけを少し濃くせ頬くつろぐ老を越え来し若き日を見む

終りなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ

二歳年長であり、『ふゆくさ』にその清新な相聞歌がうたい繰り返されていく。

「七十年前の手の下に似て」も「老を越え来し若き日を見む」の悲哀もしれら遠い青春作品に重ねて思うべきであろう。

袷には下着重ねよとうるさく言ふ者もなくなりぬ素直に着よう

妻を失った後の、さらに増す老いの孤独は覆いようもない。六十一年文化勲章受章。遅過ぎる栄誉であった。家人に扶けられて受章式に出掛ける日に、自らいい出し、妻の遺影をひそかに身に秘めた。平成二年、百歳、床につく時間が多い昨今とも聞くが、「アララギ」最近号にはなお次のような心境詠がうたわれる。

思ひ出づる人々家々みなあはれにて青山五丁目に眠らむとする

来り住みてわが世をここに終へむとす青山五丁目何のえにしぞ

しづかなる夜の空気に目をあけぬ長き短き人のあり方

その青山五丁目に帰住、三十九年の歳月が経過する。百歳に向かう老いを重ねる日々であり、自らの作歌生涯のほぼ半ばにもわたる。その間、たとえば朝鮮戦争につづくベトナム戦争があり、核戦争の危機をはらんで世界の緊張があった。日本でも安保闘争、学園紛争の時期があり今日の経済繁栄がある。

そうしてその日に、文明の作品はしだいに日常周辺にだけ限ってうたわれていくようになることはすでに記した。しかも、それら一見平坦な作品反復の間に自らうたい告げられていくものがあった。部厚い、ひとりの人間の「生」であり、まぎれないその存在感といえる。

それはつねに、現実を見据えるため、一片の甘美をも許さない冷厳なリアリズムの眼とし把握し表現されていったものといい得る。

さらにその上に、あまりにも長く生きたがゆえの、人間孤独を見て来た深淵のような眼があるといってよいのか。(1990・9「短歌現代」)

土屋文明先生の死を悲しむ

土屋文明先生の月々の作品が、歌誌「アララギ」の出詠欄の巻頭欄に見られなくなって来ていたのはいつからだったのか。わたしの知るかぎり、営々と作歌にはげまれて来た先生の生涯にそのようなことは一度もなかった。老いを深められ、病院のベットに臥しておられるとも聞いてはいたが、死の報せはやはり突然であった。十二月八日のことという。

先生は今年の九月、満百歳になっておられた。たとえば藤原俊成が九十一歳、近年では土岐善麿が九十五歳で死ぬ。日本の和歌史ないしは短歌史の上で誰よりも長い命を生きられたわけだが、世を去られたことは現代短歌の世界のため、さらにはわたしひとりの心のため大きな空洞をにわかに眼の前に見るかのように悲しい。

先生は年少の日、群馬県の一小村から東京に出られ、歌人伊藤左千夫のもとに牛飼いとして身を寄せられ、同時にそのころ創刊されて間もない「アララギ」に最年少の同人として参加された。そこには同じく若い島木赤彦、斎藤茂吉、中村憲吉がいて相競った。近代短歌におけるリアリズムの出発である。

その中で、若い土屋文明先生は西欧的近代リリシズムの最もみずみずしい作者でもあった。大正十四年に処女歌集『ふゆくさ』がある。だが、その次の歌集『往還集』ないしは『山谷集』にかけて先生の作品世界は大きく変貌する。人間と人生とを冷厳に見据えようとするリアリズムである。その或る種の一面を指して、人は新即物主義と呼んだりした。

それは日本が大正から昭和にかけて思想と歴史とがようやく激動をつづけていく日と相重なる。その中で先生の文学はひとりの生活者であり知識人であるものの負う思いを一切の感傷を拒否するリアリズムとしてうたおうとした。

わたし自身はそのような日に、一少年として、一地方旧制高校生として短歌を作り始め、土屋文明という歌人をただ一人の文学の師として心に選んで来た。ファシズムと戦争に時代が流れていく日にわたしたちもまたいかに生きるかの思いを抱かねばならず、先生の歌をみずからの歌の規範とすることだけが自己表現の方法を持つことでもあった。そのことは、その日から半世紀以上が過ぎようとする今も変わりない。

土屋文明先生は戦後もたゆまない作歌活動をつづけられ、とりわけ斉藤茂吉の死後、現代短歌の世界の頂点に立たれる歌人として長くわたしたちを指導された。今日、そこは多様多彩ともいえるが、最も底のところを流れ貫いているものは先生の思想である生活リアリズムであることはいささかも変わらない。

歌人土屋文明の業績として今一つ忘れてはならないものに万葉集の生涯を通しての研究があり、それらは『万葉集私注』(筑摩書房版、全十巻)として結実している。実作者の眼と実証的方法をもってする研究書、ないし解釈として独自なのであろう。

ついでに思い出を記せば、短歌を作り始めて東京の青山にあった「アララギ」発行所に出入りしていたころ、先生を中心とする小さな万葉集講座があった。『万葉集私注』が書かれるよりははるか前であり、恐らく、そのときの講義が基幹となっていったのであろうか。いつもあつまるのは十人足らず、まだ学生であったわたしにその緻密な実証は退屈でもあった。もっと本気で聞いておればよかったという遠い悔いだけが残る。

悔いはそれだけではない。今、一代の仕事を残されて先生は世を終えられた。さまざまな追憶があとさきなく悲しみを交互するだけである。老年になり師を失う思いが何かを、わたしは改めて知らなければならぬ。(1990・12『東京新聞』)

追憶として

ひとりの巨人が前を歩いていた。わたしたちは安心して、ただその巨大な背の影のあとを追って歩けばよかった。長い、長いあいだともいえる。そうして或る日、影は突然に眼前から消える。追うものを見失ったわたしたちは呆然自失し、これからの自らの歩みをたどらなければならない…。

1990年12月8日、土屋文明先生が死去された。それより先九月、満百歳となられている。いつからか病臥されたままとも聞いていたが、死のことはやはり心の悲しみであった。茂吉の後、歌壇の最長老であり、わたしにとっては少年の日以来、ただひとりの文学の師とも胸に定めて来た人であった。わたしもまた七十七歳、老年にして師を失う思いは日の過ぎるままに増すともいえる。

先生の死の報せを受けた後、電話その他があり、いくつかの追悼の文をを書くことに追われなければならなかった。その上に、さらにNHKのテレビで先生のための番組を入れるとのことで、出演を求められた。十三日、教育テレビの「現代ジャーナル」という時間帯の中で、十二日夜に録画しなければならなかった。あわただし日程であったが、当然わたしは何かを語らなければならなかった。

その録画のときに先生の一冊の歌集をも用意し、持参するようにという話が予めあり、久々に書棚から『ふゆくさ』を選り出した。先生の青春歌集でもある。何となくページを開いていたら、栞に挟んであった一枚の小さな押し葉が舞い落ちた。白楊の葉である。乾いてはいたがまだ濃緑の色は褪せず、白い葉裏には、それがわたしの学んだ広島の旧制高等学校の庭で拾ったことを記す自らのペン文字も残されていた。

遠い一枚の白楊の葉の記憶を、全く忘れていたわけではなかった。だが、咄嗟に思ったことがあった。もし夜のテレビの録画の中で土屋先生への追憶が問われることがあったなら、先ずその栞の葉から語り出そう。それはわたし自身の文学生涯の、最初の師ともいうべき人との出会いを告げることとなるからであった。或いはそのために、わたしは幾度も繰り返した青春回想を今また重ねることになるのかもしれない。

昭和六年にわたしは広島旧制高等学校理科に入学した。国立の旧制高校のうち最後に新設されたものであり、広島市の南郊、宇品港に向かって開ける広い新開地の中に位置していた。校舎の建物群の裏に「薫風寮」と呼ばれる二階木造の寄宿寮があり、入学するとそこに入れられた。そこは初めて知っていく青春感傷の世界でもある。わたしたちは新しい友人らと共に心幼さのままに哲学を語り文学書を読み漁り、多分そのような日の中で、街の古本屋で買い求めたものの一冊に、土屋文明の『ふゆくさ』もあったのであろう。

(明日につづく)

「薫風寮」の部屋のまどの外は宇品港に向かって広い白砂の校庭がひらけ、周囲に、まだ稚木のままの白楊が瀬戸海の沖からの風につねに白い葉裏をひるがえしてはさやいでいた。その木かげが読書の場であり、読みさした『ふゆくさ』に、恐らく知り始めた淡い知的倦怠のままにわたしは一枚の葉を摘み挟んだこともあったかもしれない。『ふゆくさ』の清純な抒情は同じ日に知る啄木や茂吉と共にわたしの共感でもあったのであろう。

ただ、土屋文明の名はもっと早くから知っていた。旧制中学のときの教科書の中に近代歌人らの作品と並んで「この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず」の一首が掲載されていて、それを講義する国語教師が、歌壇で、最も新鋭の「アララギ」歌人の一人であることを若々しい文学情熱として語ってくれた。わたしはその名自体と作品とから繊細で痩身の少年歌人の面影を漠然と心に描いていた。

そうして、その『ふゆくさ』などを読みだしていたころ前後して、友人に誘われて高校の歌会に顔を出し、同じ機縁で広島の町の「アララギ」歌会にも加わるようになっていく。「アララギ」歌会が開かれるのは土井壽夫という一中学教師の自宅であった。

最初の「アララギ」歌会に出席したとき、後れて来たひとりの少年がいて、その日の作品のすべてに対し吐き棄てるような激しい批評をした。座が白け、人は口々に「あんたは文明じゃけんの」といった。当時、広島の郊外五日市に「アララギ」の歌人中村憲吉が病気療養に逗留し、自ずら地元の会員の多くが憲吉門下となっていた。金石淳彦。まだ一私立中学生である。コウ々と鷹のように鋭い眼をし土屋文明だけを讃える少年の言葉を、わたしは恐れながらまだ理解し得なかった。

その土屋文明が、何かの旅の途次広島に立ち寄り、迎えて少歌会が開かれたのは間もないときだったのか。会場は町中の寺の一部屋であり、短歌を作り出したばかりの高校生としてわたしも招かれた。若い作歌志望者を大事にするのは今も昔もおなじである。初めて眼の前にする土屋文明は赭顔の壮年、農夫か漁民のように脂ぎってたくましく、想像していた青年歌人像とは遠かった。印象はむしろ、同行した小肥りの竹尾忠吉の方にある。出席者は十名足らず、幼いその日のわたしの詠草が、席上、惨めな批判にさらされたのに対し、先生のいたわるような弁護があったことだけをわずかに覚えている。

それは京都の旅か何かの歌だったと思う。「アララギ」に入会、中村憲吉の選歌を受けるようになったわたしは憲吉の晩年の自然の世界だけを短歌とし、同時にそれに不安を絶えず抱いていた。昭和六年、わたしが旧制高校に入った年に満州事変が勃発する。それからの日本の、ファシズムと戦争へなだれこんでいく一歴史の始まりである。

(明日につづく)

凄惨な思想弾圧が続き、高校から周囲の友人らが、或いは捕われ、或いは姿を消した。そうして、教室の机の蓋の下に、絶えずどこからともないうす汚い謄写版の反戦ビラが配られ、かくされたいた。そのような中で古風な短歌など作ること自体、ひそかな屈辱でもあった。

『ふゆくさ』の次の『往還集』がすでに、出版それも読んでいたはずであった。『往還集』以後うたわれていく文明の非情のリアリズムがその日になんであるのか、憲吉にただ追従するわたしにはなお知り得なかった。

昭和9年、その憲吉が死に、中国山脈の間の故郷、布野村の葬儀に参列する文明に再び逢うことになる。そうした経過はわたあしの自伝小説『青春の碑』にすべて記してある。高校を卒業して大学受験に失敗、一年浪人して東京に出、神田の予備校に通う。怠りがちであった短歌を、もう作ろうとも思わなかった。

ある日神田の町を歩いていて、一枚の立看板に出会う。文芸講演会であり、講師は斎藤茂吉と土屋文明であった。今の、専修大学の校門であったと思う。何となく入った教室の一隅で二人の歌人の語るのを聞いた。百人前後の聴衆であろうか。茂吉が講演を始めようとしたとき、文明が壇に立って行き、椅子を差し出した。「どうぞ」「やあどうも」そのような会話が交わされ、二人の笑顔と共に会場が和んだ。わたしはそのときに、青山の「アララギ」発行所で月々あることをかねて知っていた面会日というものに出掛けることを思い立ったのかもしれない。斎藤茂吉にもそれまでに、旧制高校生であった日に二度ほどづでに逢っている。遥かに高いところにいる存在でもあった。

山南町五丁目、「アララギ」発行所は後に洋館に変わる前の木造の建物であり、二階の座席で面会日はすでに始まっていた。土屋文明が中央の小机に坐り、人々は、呼ばれてはその前に進み、持参した「アララギ」詠草を提出する。先生はそれに対し気忙しく朱筆で丸印を入れる。シャツをはだけたまま和服。陽に焼けた額に眼鏡をずり上げていた。

出入りするのは中年の女性ばかりである。その中に交じり、部屋隅 にいたわたしに、次は君かと声がかかった。周囲の女性らを真似、にじるように前に出、用意しておいた

歌稿を差しだした。久々に作ったうたといえた。

先生は片手に朱筆を持ち、気難しがに眼を通し、やがてその歌稿を二つに折るとパッパッと手ではたき、わたしに突き返した。そうして、君はもっと老人と思っていたよとだけいった。わたしの歌だけが一首も採られなかったのだった。

眼がくらむような思いで席に戻った。中村憲吉の病状の進むしばらく、憲吉選歌として投稿された作品を代わって目を通し、先生はわたしの作る歌と名とを覚えていたようであった。それが老人と思われていたのは、どういうことだったのか。

(明日へつづく)

席に戻り、居たたまれないようにいたわたしに、先生は再び声をかけた。階下の部屋から何かの辞書を持って来るようにということであった。不馴れな発行所の中である。玄関のとなりの小部屋にうずたかく本が積まれ、その間の、先生に命ぜられた辞書をさがしあぐねていると、どうれといって、突然背後に熱い体温が伝わって来た。待ちかねた先生が自ら立って来て、覆いかぶさるようにして肩越しに一冊の漢和辞典を取り出された。一瞬、わたしは何か大きなものに包まれたような思いを抱いた。

その一日のことも『青春の碑』にすでに書いた。かっての「短歌研究」に後に『青春の碑』となるべき文章を書き出したのは昭和三十二年であるから、それから間もなくのころだろう。当時、「短歌」か何かの編集長をしていた中井英夫君が読んでくれ、あなたの土屋先生に対する気持がわかりましたよといってくれた。それは「父性」ともいうべきものに向ける感情ですね、と告げた。そうだったのかもしれない。そうしてそれはわたしだけでなく、当時土屋文明選歌欄に集まり、発行所に出入りし、ときとして渋谷あたりに繰り出し酒を飲んでいた、若い無名の短歌作者らの共通の思いだったのかもしれない。

わたしが面会日に先生を訪ね、月々の歌会に出、さらに、校正を手伝うようにという、多分樋口賢治さんの字と思われる一枚の葉書に欣喜して青山の発行所に通い出したころ、そこには樋口賢治や相沢正や小暮政次らまだ二十代の青年が集まり、誌上でも作品を相競っていた。同じ世代に京都お高安国世がおり、九州に金石淳彦がおり、群馬の斎藤喜博はまだ無名の一教師であった。早くから穎才をあらわしていた杉浦明平はすでに歌をすてていたが、それでもときとして快活な声で発行所に姿を見せたりした。

わたしたちの一世代、もしくは半世代前の先輩として五味保義、吉田正俊、落合京太郎らがあり、さらに斎藤茂吉門下であったが柴生田稔、佐藤佐太郎、山口茂吉らがいた。特異な才能の歌人として早くから注目されていた関西の中島栄一の名もあげておかなければならぬ。多くがその日の、最もすぐれた知的青年層であったと思い返して今ではいえるのであろう。

そうしてそのような青年らが何を求めていち歌人土屋文明の周囲に集っていたのであろうか。恐らく、わたしと同様に、かれらもまたただ短歌の師としてだけ思って先生のいる発行所に出入りしていたわけではあるまい。

わたしが通っていた大学は東京工業大学建築科。製図を怠り、もっぱら大学新聞の編集に懸命になっていたのは、日本をめぐる危機感が一大学の危機感ともなっていたためであろう。日本はひたすら大陸侵略と戦争への道を歩み、暗い時代の足音は周囲にも迫った。大学の中にも狂信的な右翼組織が生まれ、その無気味な日々に今何かをまもらなければならないという思いが、焦燥となり、大学新聞を出し続ける気持となった。

大学新聞の部屋の隣りが中国人留学生らの集会室となっており、新聞編集をしている夜ごと、そこから声高な議論が叫びを交えて聞こえてきた。彼らが何を叫んでいるのかをあまり理解しようともしなかったのであろうか。「支那留学生一人帰国しまた帰国す深く思はざりき昭和十二年」という歌を後に作っている。一人また一人、帰国して抗日戦に加わるためのつきつめた思いであることをも、その日にどの程度しっていたであろうか。

(明日につづく)

それより先、昭和十一年、二・二六事件が発生する。深い雪の日、新聞部屋に集まり、情報を語り交わした。ファシズムの次に来るものは必ず戦争だとひとりがいい、わたしたちは寡黙となった。しだいに文化人、学者らが狂信の一つだけの言葉を語り出す日がすでに来ていた。

そうして、そのような日に、わたしは短歌をようやく自らの自己表現のこととして思おうとしていたのであろうか。その日に、ただ一つ、そこにだけ人間真実を語りえることばがあるものと知り始めていたともすでに幾度も書いた。わたしは暗く重苦しいものとなろうとする日々の思いを、自分の内面のことばのまま歌として書き綴り、それを持って土屋先生のもとに通い、先生もまたその多くを手を入れることもなく採って下さった。

わたしの『早春歌』の、ほぼ前半をなす部分である。そのさい、『往還集』以後、『山谷集』『六月風』にかけて次々に切り開かれていく先の冷厳な、しかも人間の部厚い存在感に満ちたリアリズム作品だけが唯一の拠りどころでもあった。

或るとき、わたしの持参した歌稿に目を通していた先生が、君、このような歌を作っているとそのうち縛り首になるぞ、と突然いわれ、やがて楽しげに哄笑された。一瞬、凍るような思いが身を過ぎ、やがて温かいものに包まれるかのように涙が湧いた。盧溝橋事件があり、侵略戦が中国内陸にひろがり、上海の激戦を経てやがて南京陥落の告げられていく、そのころであったことをわたしの『青春の碑』は記しとどめている。

土屋先生への追悼を書くべきであったのを、その追憶のほとんど筆を費やしてしまった。だがわたしひとりの心にとり、悲しみを語るのに、今それから始めるほかはない。一枚の白楊の葉につながる少年の日の出会いの記憶以来、先生と共に同じ世にあった六十年近い歳月、わたしの心中に抱きつづけられた感情は同一であったのであろう。

後、或る時期から先生に直接お会いすることは少なくなり、またわたしの作品世界もその考え方と共に先生と異なっていった部分があったかもしれない。なぜなら、文学継承とは無批判の随順ではないはずだからである。ただその最も基底のところで、文学とし、文学に関わる生き方とし、つねに先生ひとりを見続けて来たと思うし、今後もそうするほかにないであろうことをもひそかに思っている。

先生の語らえた中に「生活即文学」という言葉がある。それが生活の表現といったような間接なものではないという意味であった。そうしてその文学理念の上に自らの制作を重ねられると共に、いわば、無名の生活者ともいうべき人々、ないしは弱者の作品に光をあてられ、見守られた。たとえば戦後一時期のいわゆる「文明選歌」がそうである。それはさらに広がり流れ、今日、短歌の世界の大きな知底流をもなしている。

一代の歌人として生きた土屋文明の文学と思想を思う場合、今一度そのことを堀り起して見ることも必要であろう。その冷厳なリアリズムと共につねに貫き流れている骨太い人間愛情を知るためである。(1991・1・2「短歌研究」)

人間愛情の歌

昭和二十六十一月、土屋文明は群馬県吾妻川渓谷の疎開地を引き揚げ、再び東京に戻り住む。港区青山町の、二十年五月東京大空襲で焼け出された跡地に新しい家を建てた。戦災の後の瓦礫の重なる庭土を起こし、疎開地から持ち帰った草木を植え、畑を作ろうとする。

韮の畝半ばはおそく出で来ぬは西山岱作逆さに植ゑたり

ひとりの「アララギ」会員が訪れて来て、その畑作りを手伝ってくれたのであろうか。韮を植えた畝の半ばがいつまでも生い出て来ない。見ると、呑気に、みな逆さまに植えて帰っていったらしい。

西山岱作という一会員のことをわたしも記憶している。長く中国大陸に住んでいたが、敗戦により身一つで引き揚げて来た。そうして東京有楽町の駅前の焼跡の闇市の、バラック街の角で小さな煙草屋をいとなんでいた。

戦後、新歌人集団のあつまりなどが同じ有楽町の朝日新聞社屋で開かれていたころであり、またカストリの飲み屋などもその一帯にあり、通りすがりによく立寄った。西山老人、とわたしたちは呼んでいた。毛糸か何かの帽子をかむり、無精髭をはやし、満面に笑みを浮かべながら、次々とあとを絶たない客に放り投げるようにして煙草を売り、かたわら、短歌の話をしてわたしを離さなかった。場所がよく、繁盛していたようである。妻である人が並んで小さな店の番をしていたが、引き揚げた東京でどのように生きているのか、それ以上は知らなかった。「西山岱作逆さに植ゑたり」の一首は、よくその好人物の老歌人の風?を伝えると共に、それを包み込むような人間愛情をフモールをこめてうたっていると思う。『青南集』という、東京帰住直後のものを集めた歌集の中の巻頭に近い作品である。

同じような傾向の作品に、またたとえば次のようなものがある。

どの部屋かさわがしき声聞けば分る喜んで居る椎原宗一郎

警察電話で宿が分る位文明をえらいと思ってゐた椎屋の間抜け

並びたる吾が知らぬ魚は友等知らず椎屋は鯖の区別さへなし

椎屋宗一郎、という固有名詞がここでも出て来る。同じく「アララギ」会員、土屋文明選歌欄の生活詠作者の一人であった。九州のどこかの町の電鉄で働いていたのだろうか。

たまたまその港町に旅して来た土屋文明を囲んで歌会が開かれる。文明の泊まるはずの宿を知ろうとし、彼は警察に電話をかけて聞く。「どの部屋かさわがしき声聞けば分る」というのは、きっとその夜集ったものたちが同じ宿に泊まり、歌会のあと、土屋文明に会ったことのたかぶりにいつまでも寝ないでいることなのであろう。

そうしてここでも、彼らに対する愛情が「椎屋は鯖の区別さへなし」という、揶揄を交えたフモールと共に包むようにあたたかにうたわれている。

(明日につづく)

わが庭の小さき池をかきまはし金魚を追ひて君帰りゆく

同様に『青南集』の中にあり、「国分つぎ子」と題されている一連である。国分つぎ子も又「アララギ」の、当時の土屋文明選歌欄の無名のすぐれた作者の一人であった。福島県の素封家に生まれたが、足が不自由であり、そのために結婚をしないままであった。文明を慕い、松葉杖をついては上京し、しばしばその家を訪れた。無口な、いつまでも少女のような女性であった。訪れて来てその日も所在なく、庭の池の前にしばらく屈み込み、やがて遠く帰っていったのであろうか。「小さい池をかきまはし」さらに「金魚を追ひて」というあたり、孤独なその後かげを見守るような愛情が、やはり一抹のフモールを交えうたわれている。

ついでに記せば東北の山深く生きながら哀愁深い歌を作る彼女は、戦後一時期の「アララギ」青年層のあこがれでもあり、そのために京大生か何かであったわたしの若い友人の一人遠く旅して訪れ、同じ時に会った別の少女歌人の方に恋をし、妻とした。その青年であったものも国分つぎ子も、共に遠く今は世にいない。

雪の上を橇して来り相見にき降り止みて静かなる北の一日に

みね子さんまだひとり身の教師にて高き笑ひもかくすなかりき

わが顔見たしといへば我は立つみどりの眉わいまだ衰へず

うたっている対象は異なるが、それぞれに文明を師として慕い集まり、短歌を作り、最後の一時期、共に早く世を去った女性作者らを悲しむ歌である。「雪の上を橇して来り」とか、「高き笑ひもかくすなかりき」など、ここでも包み込むような優しさと愛情の眼でその薄命のものらへの愛惜として注がれ、心深くうたい出されていく。

いずれも『青南集』より前の『自流泉』より抄出してみた。なお疎開地にある日、五十代後半、周囲の年若い女性らをうたうとき、それに向けられる眼は『ふゆくさ』初期作品に通うリリシズムともいうべきものを遠くとどめよう。

初々しく立ち居するハル子さんに会いましたよ佐保の山べの未亡人宿舎

このような歌がある。歌集『山下水』の中にあり「再訪樋口作太郎君」と題される。前述の作品よりさらに早く、敗戦後間もない、昭和二十一年のころのものである。

佐保は、今、奈良市の地名。佐保川が流れ、北に奈良山丘陵がつらなる。そこに戦前から戦後の一時期にかけて、戦死者の未亡人だけを収容する施設があったのか。授産などのためだったのか。旅の途次、文明はそこに若い一人の戦争寡婦である人を訪ねる。そうしてその近況を、寡婦の舅である友人にしらせようとする。「樋口作太郎」とはやはり旧い「アララギ」会員であり、北海道の農民でもあった。戦争で吾が子を失う。そうして、新婚間もなかったその妻を遠く住まわせる。それにしても、「初々しく立ち居するハル子さんに会いましたよ」とうたい告げようとする口語発想は、やさしく、いたわりかけるような悲しみを伝える。

(明日につづく)

身辺の、人間関係をうたう作品といえ、或るものはフモールの哄笑を交え、或るものはやさしいいたわりをこめながら、共通して作者の体温をそのまま感じさせるような人間愛情を告げているといえる。

そうした、人間関係の上にうたわれる歌がそれまでになかったわけではない。たとえば『ふゆくさ』に、

人うとむ思ひに堪へていでて来し海岸道路に寒さはつよし

の如きがあり、大正末年から昭和初年にかけて、土屋文明の作風に生活詠ないし人生詠としてのリアリズムの転換があったとされる第二歌集『往還集』においても、

ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交絶てり

今日もまた昼寝つづけつ午後となり人とぶらひに出でゆかんとす

などが早くから散見する。二十代から三十代にかけてであり、他者に向ける眼は非情といえ、ときとして厭人的でさえある。

そうしてそのような歌に人間共感ともいうべきものがしだいに重なっていくのが昭和十年代、日本が戦前から戦争の時期へ入る日ともいえるのであろうか。戦前、

まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに

と、暗黒の時代に向かう中に翻弄される一人の少女の運命を悲しみうたう文明は、つづいて戦争の日に、

事しあれば先づ閉づる艦の区劃にて君がなすことを君は語りき

君が身は国の柱としづけるかまた飄々と帰りたまへよ

と、戦場の死に向かっていく若者らをあわれみを込めてうたい送る。うたわれている若者は海軍士官であり船員であり、すべて、文明のもとに集まり寄る「アララギ」文明選歌欄の無名の作者らであった。

そうして、それら一連の作品系列の上に、戦後の一時期における、さきに例示したような一群の歌の世界の展開があったともいえるのであろうか。人間愛情の歌といった。人間共感であり、すべて豊かな人間肯定の上にあるものといえる。繰り返せばそれは戦後において部厚さと暖かさの眼差しを深く加えていった。そうしてそこに至るまでの、文明にとり、年齢による人間成熟と共に、戦争をはさむ激動の一歴史を潜って生きたものの人間観ともいうべきものを当然重ねて思わなければならないのであろう。

さらに、さきの歌で、韮を逆さに植えて帰ったのは引揚げ者である闇市の町の煙草屋の老人であり、警察に電話で問い合わせて逢いに来たのは電鉄の従業員である。ないしは身障者であり戦争寡婦であり、夭折する薄幸の女性らであったりする。すべて、今の世の弱者であり、無名に生きるものたちといえる。土屋文明によってうたわれる人間愛情は、おおむねそれらの人々の上にある。

無論、同列の歌は、たとえば旧友である文学者久米正雄や、同じく恩人である小説家森田草平の死の追憶としてうたわれたりすることもある。そのことすべてを含めて、老年に至ろうとする日の文明の作品展開に、これら無名者への一群の人間愛情の世界が大きく位置していた意味をもっと考えなければならないのではなかろうか。

文明の生前の歌集に『青南後集』があり、たとえば次の一首がある。

知る知らぬ次々に別れあゆみ来し?野かへり見る如きはるけさ

人間の老年は同時に周囲の死を限りなく見ていくことであり、うたわれるのはその寂寥だけとなる。そうした上に、かって人間愛情であったものは思想として沈潜し、人間存在自体を見据える眼とし、文学生涯の晩年にかけ深く底流していくといえるのか。(1991・3「短歌」)

近藤芳美集第七巻 完結