近藤芳美






戦後短歌の旗手のお一人で、リーダー的存在でした近藤芳美氏が平成18年6月21日に亡くなられました。思えば昭和61年11月、第一回NHK全国短歌大会のNHKホールの壇上で一度お目にかかりました。氏を偲び色々なことを書いてゆけたらと思っています。(後藤人徳)
(注)「なぜうたうのか」「一番大事なこと」「うたのはじまり」は、NHK学園の短歌講座テキストの近藤芳美氏の文によります。(ところにより抜粋の箇所あり)

「なぜうたうのか」 「一番大事なこと」 「歌のはじまり」 近藤芳美 語録(さいとうなおこ編)新しき短歌の規定
近藤芳美著『土屋文明』「短歌鑑賞篇」 近藤芳美著『土屋文明』 癩園の愛情


近藤芳美(吉田 漱:昭和58年「国文学」2月号)『短歌入門』(昭和53年抜粋)『短歌思考』(昭和54年抜粋)近藤芳美と平和活動家美帆シボさんのこと
近藤芳美 秀歌百首抄  川口美根子(未来) 選 森岡貞香選3首 宮 英子選3首 岩田 正選3首 田井安曇3首 細川謙三3首川口美根子3首 稲葉峯子3首 高野公彦3首 水沢遥子3首 小高 賢3首 大島史洋3首 佐伯裕子3首 永田和宏3首 小池 光3首 小笠原和幸3首 加藤治郎3首 道浦母都子5首 (短歌研究社雑誌「短歌研究」平成18年10月号他より)
『心の内面の世界』NHK 学園「短歌」20号/昭和61年)馬場あき子選12首 大島史洋4首 (以上「短歌」平成18年8月号より)岡井 隆20首選NHK 学園「短歌」100号/平成18年10月)
『生涯の師としての出逢い(特集・土屋文明)』(雑誌「短歌」昭和60年11月号より)私の教授法(短歌研究平成5年7月号)事実と創作のあいだ(短歌研究平成9年5月号)作品「献身」(短歌研究平成17年5月号)作品「希求の上」(「短歌」平成10年1月号)作品「クレタの踊り」(短歌研究平成5年1月号)作品「ウィーンの一日」(短歌研究平成10年1月号)作品「森の舞台」(短歌研究平成16年1月号)作品「落日の窓」(短歌研究平成14年1月号)作品「峡湾(短歌研究平成16年1月号)冬鳥の庭(短歌研究平成5年5月号)作品「ミゼレーレ」(短歌研究平成5年5月号)作品「当為」(短歌研究平成8年5月号)アララギの終刊について(アンケート)(短歌研究平成9年7月号)作品「野鴨」(短歌研究平成14年5月号)近藤芳美の歌の変遷「変化するものとかはらないもの」岡井隆(雑誌「短歌」平成18年6月号)作品「潮路」(短歌研究平成3年1月号)作品「宇宙」(短歌研究平成16年5月号)


短歌研究社雑誌「短歌研究」平成18年10月号より

森岡貞香選3首
  
降り過ぎて又くもる街透きとほる硝子の板を負ひて歩めり           「埃吹く街」

いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ            同

身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ          「静かなる意志」

宮 英子選3首

電車にて朝々通ふ人らの中吾は人よりいくらか背高し              「早春歌」

水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中              「埃吹く街」

街路樹の下に灯を消す乗用車やさしき楽のもれて居たりき           「静かなる意志」

岩田 正選3首

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき               「早春歌」

みづからの行為はすでに逃(のが)る無し行きて名を記す平和宣言に     「歴史」

プラカード伏せて守られて行く列に吾が血は引きて屋上にあり           同

田井安曇3首

昼すぎよりおびただしき天道虫がとび出でて廊下にいくつも踏みつぶされぬ 「早春歌」

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ           「埃吹く街」

愚者の饗宴過ぎて日本に至る冬吾ら一国のときに立ち向かう          「命運」

細川謙三3首

コンパスの針をあやまち折しより心は侘し夕昏るるまで              「埃吹く街」

水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中                 同

ストーブの煙は部屋に吹き入りてdraftsmanと呼ばるる夕べ              同

川口美根子3首

夜ごとひとりマーラーのみを聞き重ぬ知るべき孤立は求め生きしこと      「営為」

アンカサス穂に咲きやまぬ月の明かり吾に過ぎゆく日の平安に           同

マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき           「未来」平18.6 (最後の作品)

稲葉峯子3首


木むらに湧きときなき風の行くとよみ経し生(よ)はありて悔恨とせず      「風のとよみ」

かくのごと父を母をも連れ戻る街の夕あかね今日は弟               「希求」

その先に何をうたうかを問われむを二一世紀人間に残さるる岐路        「岐路」

高野公彦3首
 
たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき                「早春歌」

果物皿かかげふたたび入り来たる靴下はかぬ脚稚(おさな)けれ           同

鴎らがいだける趾(あし)の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる           同
         
水沢遥子3首

その先に展(ひら)くるとせむ表現への孤独の営為いのち知るとせず       「命運」

この世なるたまゆらの生木の間より木の間にかけて落葉降り沈む         「岐路」

人ひとりうちに問うとし返り来る答えなどなき生と死が待つ              「未来」2006年5月

小高 賢3首

吾らならば何をなし得しソ連戦車過ぐる冬日の敷石の影               「喚声」

ぬめぬめと沼の底湧く哀傷を祖国と思え過去も今もまた               「樹々のしぐれ」

怒りをいえ怒りを抒情の契機とせよ今つきつめて「詩」といえる営為        「祈念に」

大島史洋3首

人間が作り出し今人間のものならぬ終末の武器にして暗緑の塔          「祈念に」

人間が人間であることの絶望を昨日に見たり過ぎしというな             「磔刑」

社会主義幻想崩壊の後に来る世界を知らず思想に問わず              「岐路」

佐伯裕子3首

おのづから媚ぶる心は唯笑みて今日も交はり図面を引きぬ             「埃吹く街」

待ち得たる時代とも或いは思へども疲れやすし単純な思考にも              同

ひといろに青みを帯びて咲く桜夕べとなりて見通す街に                   同

永田和宏3首

気弱くて同じ時代に苦しめば高安君の歌にいらだつ                  「静かなる意志」

若き友君を去るとき吾の如しばらく歌を忘れ居たまへ                     同

追ひつめらるる思ひ語りしあくる朝訳詩にむかふ君がひととき            「歴史」

小池 光3首

アルゼリア虐殺の抗議に立たざりしマルタン・デュ・ガールの老年も知る      「喚声」

誰かが語らねばならぬことゆえ吾が語る今日の日文学が負うことの上       「聖夜の列」

怒りをいえ怒りを抒情の契機とせよ今つきつめて「詩」といえる営為         「祈念に」

小笠原和幸3首

人を恋ふる宵々なりきつづけさまに唯物論全書買ひ来て読みぬ           「早春歌」

二人とも傷つき易し子が欲しと言ひし事より小さきいさかひ               「埃吹く街」

シニシズムの驕慢の眼よ単純に吾は戦争を憎み抜かむのみ             「冬の銀河」

加藤治郎3首

昼すぎよりおびただしき天道虫がとび出でて廊下にいくも踏みつぶされぬ

生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも

消ゆる前赤くなりたる蝋燭に吾が組む足のうつる天井

道浦母都子5首

あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと              「早春歌」

水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中                 「埃吹く街」

ただひとり吾の一生(ひとよ)を知れるもの寂しきまでに吾は名を呼ぶ        「冬の銀河」

人間が作り出し今人間のものならぬ終末の武器にして暗緑の塔           「祈念に」

マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき             「未来」2006年6月号

馬場あき子選12首

森くらくからまる網を逃れのがれひとつまぼろしの吾の黒豹              「黒豹」

身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣(あざ)の如く残らむ          「静かなる意志」

かろうじて誤らざりし過ぎしなべて吾に永遠の逃亡者が住む

霧の夜ごと舷にめぐりし稲妻の記憶よ一生の逃亡者われ

二人のみまどろむケビン機雷の海逃れ渡りし日も二人にて

火の色に行き行く旗らまなうらに夜を寝むひとりの脱走の兵

悲劇のとき逃れのがれて生きたりし生を悔恨の中に重ねる

暗緑の戦車暗緑の兵のむれ夢に逃れんと急ぐ街を

ファシズムめぐる炎の眼を言わずその幻影との一生(ひとよ)の歩み

二十年の今に知るものことごとく過ぎ行き歴史と言える幻影

発(あば)きゆくあばかれてゆく神話みな惨々として革命ののち

国の焦燥はてなき犠牲を名指すとき聞く熱狂にまたわが耐えん

大島史洋4首

くり返す放心を無心の思いとし君におさなきときはめぐりつ              「未来」2006年6月号

ながきながき思い心に重ねつつ老年というさびしき時間                   同

君にしばし留まる心を無心とし空にかすみて残る夕映え                   同

マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき                同

岡井 隆20首選(「未来」より)

眩(めくる)めくひかりの中に影立てるさくらの盛り咲ける限りを

伴われ出でてひかりにたじろがむさくらの盛り日のくまもなく

荒々しきひかりと風と肩に分く街にひとつのさくらながらを

新潟を第三の都市とする噂流れ防護に立つ影もなく

取り置きし一瓶のスコッチを分け合えばすることのなし戦争の止む

自ずら戻らむ笑みのなお若く病む妻のためたのむものあれ

表情を失うとする昏れぐれを長く傍に相目守るとも

南極に開くる海の広がりに駝鳥の牧場のなおありとのみ

ここに来て遊びはありし夕雲の名残の空のはるかくれない

遅れ咲く金木犀にあくまでにひかりは澄めり秋空の下

車椅子に道を入り来るひとしきり金木犀の秋さやかにて

ギブス巻かるるままに治療のすべて終うなべて老い人の無口なるなか

号泣止む間地の果ての常のねむり人はそれぞれの生を分けつつ

ひと夜のねむり百年のふかき眠りねむりは人を忘れしめつつ

生と死ともとよりなしと知ることの老いの極みの救済が生る

すでにして「神」としあらむ救済の老いの果てなる静けさが待つ

逃れ得ぬこととして負う重たさの生死の問いの宿命として

人ひとりうちに問うとし返り来る答えなどなき生と死が待つ

くり返す放心を無心の思いとし君におさなきときはめぐりつ

マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき

近藤芳美 秀歌百首抄  川口美根子(未来) 選   (1)        「短歌研究 8月号」より

「早春歌」(昭和23年)

落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に

聖書が欲しとふと思ひたるはずみよりとめどなく泪出でて来にけり

ほしいままに生きしジュリアンソレルを憎みしは吾が体質の故もあるべし

連行されし友の一人は郷里にて西鶴の伏字おこし居るとぞ

若かりし父の書棚にベルグソンのありたる事も吾は記憶す

国論の統制されて行くさまが水際立てりと語り合ふのみ

いつとなく涙ぐましき地の中に二つの虫の鳴き交し居て

電車にて朝々通ふ人らの中吾は人よりいくらか背高し

自慰と言ふべし人一人意識してあはれ若き時過ぎ行かむ

軍歌集かこみて歌ひ居るそばを大学の転落かと呟きて過ぎにし一人

バルコンに二人なりにきおのづから会話は或るものを警戒しつつ

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき

鍵かけて一人し思ふつづまりに額の硝子にくちぶるを押す

あはれ君はよき人妻となりたまへ夜を徹さむ今日の作図に

果物皿かかげふたたび入り来たる靴下はかぬ脚稚(おさな)けれ

近々とまなこ閉ぢ居し汝の顔何の光に明るかりしか

すなほにし眼(なまこ)閉ぢ居きへなへなと紙片の如き幾重の意識よ

肉厚く敷布の上にひらきをり女(をみな)にはてのひらにも表情あり

傍(かたはら)にねむりたるとき頸筋にはかなきまでに脈うちて居き

果てしなき彼方(かなた)に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも

三十年の生涯に大学も出でき重ねし懐疑も今日あるために

「吾ら兵なりし日に」(「早春歌」補遺)

吾は吾一人の行きつきし解釈にこの戦ひの中に死ぬべし

澱(をり)の如なほまとふもの兵の中に「眼鏡」と吾の名指さるるとき

「埃吹く街」(昭和23年)

いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ

世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ

夕ぐれは焼けたる階に人ありて硝子の屑を捨て落すかな

水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中

生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも

ひといろに青みを帯びて咲く桜夕べとなりて見通す街に

支那留学生一人帰国しまた帰国す深く思はざりき昭和十二年

黄色き柵は日本人を入らしめず表情固き女士官たち

在るままにあらき時代(とき)も受け行かむ其の限りを吾が良心とせむ

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

「静かなる意志」(昭和24年)

かって無き武器とし言へば又おびえ今の平和の日に生きむとす

近藤芳美 秀歌百首抄  川口美根子(未来) 選   (2)             「短歌研究」9月号より

街路樹の下に灯を消す乗用車やさしき楽のもれて居たりき               

すでにして寝ねたる妻よいだくとき少年に似てあはれなるかな

つづまりは小さき吾のエゴの中生くる愛(かな)しさを汝に見むとす

屋上の柵にむらがり来るかもめまなこ鋭く互ひに憩ふ

「歴史」(昭和26年)

みづからの行為はすでに逃(のが)る無し行くて名を記す平和宣言に

赤旗上げ湧く喚声に涙ぐみ君は用なき空想家なり

いづくにか聞えはてなき革命歌とまり久しき夜の列車に

プラカード伏せて守られて行く列に吾が血は引きて屋上にあり

物言はぬ寂しき愛撫の後にしてまなこ冴えぬとつぶやく妻は

「冬の銀河」(昭和29年)

寡黙をば守り行かむ日読みつげる旧約の世界を独り愛して

ビラ投げて捕はれて行く学生らかなしきまでに皆争はず

シニシズムの驕慢の眼よ単純に吾は戦争を憎み抜かむのみ

死をきめて一夜酔ひつつ皆征きぬ清しかりきや今思ふより

「喚声」(昭和35年)

いくたびか激しきしぐれ降り過ぎてかかる日によむエレミヤの哀歌

グレゴリオ聖歌の中に澄む鐘に二人居る夜を涙ぐむ妻

「黒豹」(昭和43年)

森くらくからまる網を逃れのがれひとつまぼろしの吾の黒豹

「異邦者」(昭和44年)

解体船灯ともる夕日の草の岬ここをソ連と思うたかぶり

くれないのひとつの大地波打ちてあかときは寄す向日葵の原

兵として別れしときに見せしまなこ吾ら愛情のいつの日にさえ

「遠く夏めぐりて」(昭和49年)

ここに来て無援の生と知る世界荒野の明けに歩みむかうべく

累々と吾ら背後に負い生くる戦場の死者夏はめぐれば

まなぶたを寄せいしねむり深ければ老い残るべきはては思うな

「アカンサス月光」(昭和51年)

北爆飛行告げて殺戮のとき過ぐる地の叫喚を吾らきかねば

人の死をまた伝えつつ相支うこの寂しさは老いと思うな

「樹々のしぐれ」(昭和56年)

エフェソスの廃墟を草野にはるか指す羊か陽炎か昼闌(た)くる下

「聖夜の列」(昭和57年)

パルテノン空にくきやかに岩に立ちひかりに揺らぐ罌粟はいずくにも

「祈念に」(昭和60年)

百億光年のさなかひかりなき一微塵劫初も人間の終末もなく

ただ妻とある日々にして咲きさかるさくらの木むら春夕月に

ついに人間が支配し得ぬものの静謐に核ミサイルの空指し並ぶ

大量殺戮の数字が新たなる数字を生むひそけさは今ある日常の上

「詩」が思想が単純なることばであるべき日滅びたはならぬ人間の祈念

「磔刑」(昭和63年)

国隔つる思いかたみに詩をいえり彼ら革命を生きし詩人ら

使徒パウロ磔刑のその人を見しというや冴えて眠り待つ霜夜のねむり

磔刑のその人を見しもののいのち誰さえ一生(ひとよ)負うことの上

生きて見し日を歴史とし「思想」とす書き継ぎて老いの寂寥ならず

近藤芳美 秀歌百首抄  川口美根子(未来) 選   (3)             「短歌研究」10月号より

「営為」(平成2年)

夜ごとひとりマーラーのみを聞き重ね知るべき孤立は求め生きしこと

アカンサス穂に咲きやまぬ月の明かり吾に過ぎゆく日の平安に

「風のとよみ」(平成4年)

湧くごとき若葉となりてひるがえるひかりは一と日風吹き荒るる

平安門広場埋め尽くす数を聞くこの学生群の意志幾たびか

なだれを呼ぶ時のなだれのまぼろしの虚空をわたる風のとよみに

「希求」(平成6年」

バグダードの未明といえり空の爆撃つたえて街なお灯りつつ

ことばを断ちまぎれなき戦争が過ぎゆくを息呑めば吾ら日常の彼方

ピン・ポイント爆撃と告げ語ること白きは町か地に茫々と

「メタセコイアの庭」(平成8年)

今に読み返すものとして遠き一冊の「共産党宣言」いう誰もなく

杖に来る戦没者苑の春今年咲き澄むさくら散る前にして

王維をばようやく愛する思い同じ吾ら分けにしときと告げざらむ

「未明」(平成11年)

戦争も戦後もなしとして聞くを今に驕慢の若さはめぐれ

老いて得し平安にしてまとうもの背を立てよこころ屈してならず

「命運」(平成12年)

陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に兵ら発ちにき記憶をば継げ

父に従い町と町とを住み移る遥か幼くありし金泉

「岐路」(平成16年)

すべてのいのち始まる原初クールベの「波」の背後の海の暗緑

人間として人類のことともして残さるる岐路の問い告げて昂れば

社会主義幻想崩壊の後に来る世界を知らず思想に問わず

「聞けわだつみの声」の集いまた平和集会と今日に継がるるつねに一隅

砂のいずくのモスクひとつの爆破ともまぎれなしゲリラ戦争として

歌誌「未来」最近号より

自ずから戻らむ笑みのなお若く病む妻のためたのむものあれ

車椅子に道を入り来(きた)るひとしきり金木犀の秋さやかにて

行くままに金木犀のひかり降る道の下陰のよろこびの浄土

生と死ともとよりなしと知ることの老いの極みの救済が生る

すでにして「神」としあらむ救済の老いの果てなる静けさが待つ

逃れ得ぬこととして負う重たさの生死の問いの宿命として

くり返す放心を無心の思いとし君におさなきときはめぐりつ

絶対の「無」を救済に思うとし一切の人間の限界に立つ

君にしばし留まる心を無心とし空にかすみて残る夕映

マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき


「なぜうたうのか」        

 

 人はなぜ歌をよむのか、というのがわたしに課せられたテーマですが、わたしの場合、わたしがなぜ短歌を作るのか、ないしは、なぜ短歌を作ってきたかをお話するのが一番よい答えになるのではないかと思います。それにはまず、わたしがいつ、どのようにして短歌などを作りはじめていったかを思い出さなければなりません。

 多くのわたしたちの世代と同様、わたしもまた遠く昭和初年、ひとりの旧制中学の少年だった日に、その稚い魂の自己表現の手だてとして、初めて短歌というものを知っていきました。中学の一教師に文学好きの人がいて、その国語の一時間、たまたま教材としてあった近代短歌の幾首かを情熱的に語り、最後に、短歌をそれぞれに作ってくることを宿題として生徒らに課したのがきっかけでもありました。

 先生にいわれた宿題のため、わたしはたどたどと指を折って言葉を数えながら、たぶん生れて最初の短歌…むしろ短歌らしいもの…を作ったはずでした。その場合、わたしの短歌の知識は、先生に習った教科書の教材の幾首のほか、なんとなく記憶にあった石川啄木の感傷的な作品のいくつかだけだったのでしょう。

 しかし、そうすることにより、わたしは同じく生れて初めて人間の自己表現の一世界としての短歌に出会いました。それまでひとりの心の中にかたくなに閉ざしていた思いともいうべきものを、かたちあるものとして他に告げ伝える、文芸、ないし芸術というべきものの意味を、まず、短歌として知り、稚いよろこびとして知っていきました。

 わたし自身は早くから両親と離れ、ふるさとの町の母方の祖母の家に寄宿して中学に通っていました。友人もなく、ひとり胴乱を下げて植物を集めて野を歩いたり、祖母の老眼鏡のこわれたのをもらってレンズを組み立て、手製の天体望遠鏡で星を見るのを日常とする孤独な少年でした。短歌はそのような少年にふさわしい最初の文学といえるのでしょう。

 いずれにせよ、そうした、いわばありふれきっかけでわたしは短歌を作りだしました。

   

 繰り返せばそれはわたしの周囲のやや心の繊細な少年たち、むしろ同世代の当時の多くの若者らと同じ人生遍歴の出発期の一経路だったのでしょう。そうして、それら周囲の少年らが短歌を作ることをやめて、他の、もっと広い世界に向けて生きていこうとする日に、わたしだけがなぜかそれを捨て切れず、それを作りつづけていきました。この不自由な小さな文芸形式を、ともいえます。

 なぜか、をお答えする先に、それが、どのような日だったかをお話しましょう。中学を出たわたしはそのまま旧制高校に学び、やがて、社会に生きようとします。青春といってよいでしょう。そうしてその青春は、日本が、満州事変を起こし、大陸侵略を始め、しだいに戦争に向かおうとする暗い重苦しい一時代とも重なりました。ファッシズムの狂信が国を覆い、凄惨な思想弾圧が続きました。

 そのような一時代に生きようとして、わたしたちはどのように生きるかに迷い、苦しまなければなりませんでした。そうして、その心の中のものを何らかの方法で告げ出したい思いに駆られました。自己の表現の思い、ないし内部衝迫ともいえます。

 そうしてその場合、わたしの自己表現の方法は短歌を作ることであるはずでした。わたしはわたし自身の内部衝迫として、その日に生きる思いを懸命に短歌として作りつづけていきました。しかも短歌は、それをするために最もふさわしい自己表現の形式であったとも、いまになって思い返し得ます。なぜんら、わたしたちの生きていく日々に、その一刻一刻に心の中に抱かれていく思いなり感情なりを、そのまま、飾らず、うそいつわりなく、直接に表現としていく文学だったからです。それを直接表現といいます。短歌は直接表現の最も端的な意味のうえに立つ詩歌の一形式でもあります。

 そうしてそのような日に、わたしたちの作る短歌以外の世界は、すべてうそいつわりだけのものだったといってよいでしょう。小説家は戦争を賛美する小説を書き、画家は戦勝を飾る絵だけを画きました。どこのも空疎な「聖戦」という言葉だけが語られていた日に、わたしたちは短歌を作ることによって自分の真実を表現することを守ってきました。あるいは、それができることをわたしのひそかな短歌への信頼としてきました。わたし自身はやがてその戦争の一兵士となり、戦場に出ます。戦場で、否応なく戦争という現実のなかで生きなければならないのと同時に、人間の生死の事実とも向き合います。そこで生きることを思うなら、それはぎりぎりの自己表現のための内部衝迫といわずして何でしょう。短歌もまた、ただ一つそのためのものでなくて他の何ものでもありませんでした。

 しかも、その後にくる「戦後」もまた同じような日々だったはずです。わたしたちが向い合ったものは今度はもっと大きな人間の歴史の激動であったはずであり、そこで生き方を思い、自己表現に駆りたてられていくことがそのままわたしたちの短歌であったはずです。少なくともわたしはそのように思い、その日から今日に至るまでを生き、長く、短歌を作りつづけてきました。

 「一番大事なこと」

 

 短歌はわたしのための自己表現の一形式であり、自己表現とするものはわたしたちの心に抱かれていく内部衝迫であるほかにはありません。しかも、その内部衝迫は何によって抱かれるのか。究極にはわたしたちが生きていく日々に、生きていく思いのうえに、といってよいはずです。わたしはそれを「生き方」という言葉でも語りました。

 それをまた、わたしたちの生きていくことのうえでの、最も切実な思い、と言いかえてもよいでしょう。みなさんは一体何のために歌を作るか、ということは、何を歌にするか、ということでもあり、それを、みなさんが生きていく日々のうえに、いま一番切実とし、いま一番うたいたいこととして心の中に抱いているものを歌にしていく、と思ってよいでしょう。わたしはよく短歌を作りはじめたばかりの人から同じことを問われます。一体、何をうたえばよいでしょう、という質問です。それに対し、いつも一つの答えを繰り返すことにしています。あなたがいま、うたいたいと思う一番大事んなことは何ですか。まず、それから先にうたいなさい、というおすすめです。

 あなたにいま、一番大事なことは何なのか。ないしは、一番自己表現したいものは何なのか、すなわちいま、どうしても表現とし、人に向って告げ出したい思いは何なのか。もしあなたが現在恋をしている若い人であるなら、それは恋の思いだと答えられるでしょう。もし、田を作り、畑を耕し、そのことに日々をいそしんでいる農民であるなら、田を作り畑を耕すその生活と必ず思われるでしょうし、そうして生きる人生とも考えられるでしょう。人はさまざまに生き、さまざまな生活と人生とをそれぞれに負っています。わたしたちはそれら生活と人生とのうえに、常に生きることを思い、生きることのよろこび悲しみを重ねていきます。もちろんみなさんが、いま心に一番大事な思い、と問われるなら、必ずそのことのうえにあるとお考えになるはずです。ないしは、いま一番何かに向って告げ伝えたいものがあるとするなら、まず、それであるにちがいありません。

 短歌は、それを告げ伝えることであり、それを自己表現とするものであると、何よりも最初に心に知って作り出されるのがよいのです。繰り返せば、みなさんがいま心に一番大事であり切実であるものから短歌をお作りください、とわたしは必ず初心の人におすすめすることにしています。無論、短歌は何もそれだけをうたうものと限ってはいません。何をうたうかは本来自由であるべきであり、本当は、何をうたってもかまわないわけです。  


 先にも話しましたように、歌は本来自由であるべきで、何をうたってもかまいません。ただその出発に、わたしが言いました「いま心に一番大事であり切実であるものから短歌をお作りなさい」という言葉をしっかりこころにたたみ込んでおかないと、大切なものを見失ったまま生涯、短歌を作りつづけることになります。

 わたしが短歌を作り出した日の最初に、わたしは先生とする一人の歌人から、生活をうたえということを教えられました。そうしてやがて、教えられた生活の意味が、毎日働いていたり暮らしたりすることだけのことではなく、人間の人生と呼び「生き方」ともいえるもっと深い事実を指すのも知っていきました。

  

 わたしが今日まで何のため短歌を作ってきたかを初めに記しましたが、それをわたし自身の人生の思いのため、「生き方」の思いのためといってよかったのでしょう。そうして、みなさんもまた、わたしとは違った人生のうえに生き、違った「生き方」を負って生きています。そうであれば、みなさんはそのことをみなさんの内部衝迫とし、そのことを自己表現として短歌を作られるはずです。では、そのことはどのようにして作品一首としてつくられていくのか。みなさんの人生といい「生き方」というものは、一体どこにあるのか。みなさんの生きていく日常の、生活の個々の中にあり、生活の事実のひとつひとつのうえにあるといえます。すなわち、みなさんがそれら個々の事実をみなさんの心の中の思いとし感情としてうたうことから、おのずからに告げ出されていくともいえます。そうであれば、みなさんはまず自分の生活をうたい、自分の生活のなかからうたうという短歌の作り方の基本のようなものをしっかりと知り、そこから短歌を作り出していくことです。

「歌のはじまり」        

和歌より短歌へ

 

 わたしたち短歌を作ろうとするものに、短歌、ないし和歌という定型抒情詩の形式は初めからあるもののように思いがちですが、それが成立したのは七世紀から八世紀、すなわち古事記とか日本書記とかのわが国の最初の歴史書に記載されている古代歌謡―記紀歌謡から、万葉集成立にかけての時期と一応考えてよいのでしょう。それはまた大和を中心とした日本古代国家が生じていくころとも重なります。

 たとえば、古事記に次のような古代歌謡があります。

  大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山 こもれる 大和しうるはし

 景行天皇の国褒めの歌とされていますが、本当は無名の歌謡なのでしょう。そうしてそれは万葉集の定型詩型―和歌に移り変るに、一歩手前といえましょう。

 短歌を作りだして間もないみなさんに、よく問われることがあります。短歌と、和歌とはどう違うのでしょうか―その人たちは、きっとわたしらが短歌といっているものを、何となく和歌と呼び慣れ、またそのように思ってきていらっしゃったのでしょう。わたしの手元にある「広辞苑」で「和歌」は次のような二つ意味として説明されています。

 第一に、漢詩に対して、上代からわが国に行われた定型の歌。長歌・短歌・旋頭歌・片歌などの総称(ここで長歌・短歌・旋頭歌・片歌とは、万葉集など上代詩歌の各種の詩型をいいます。)

 第二に、和する歌。かえしうた(反歌とかきます。同じく万葉集など上代詩歌において、長歌のあとにうたい添えられた短歌形式のことを指します)。

 それはもともと、中国から伝えられてきた漢詩に対し、日本古来の詩歌であり、その総称でした。倭歌ともいいました。「倭」は古代の日本のことであり、「やまと」とも読まれていました。そうしてさらに、反歌という、長歌に添えて作られるならわしのあった短歌形式をも、同じ和歌といってきました。そうした上代詩歌のうち、短歌を除いて他の形式のものはしだいに作られなくなっていきました。短歌だけが愛好され、栄え、いつからかその短歌を和歌ということばで呼ぶようになっていきました。

 ここでついでに、「短歌」というのを同じ辞書で引いてみましょう。それには次のような説明があります。

 和歌の一体。長歌に対して、五・七・五・七・七の五句体の歌。記紀歌謡末期、万葉集初期の作品に成立、古今を通じ最も広く行われ、普通、和歌といえば短歌をさすに至った…

 五・七・五・七・七の音数を重ねた上の、三十一音節の定型詩型ということです。みそひともじ…三十一文字と普通呼んでいますが、それは文字ではなく、音節、すなわち英語でいうsyllableであるはずです。わたしたちは「拍」ということばをも用います。

 このような、音節の数、ないしは「拍」の一定の数の上に定められていく詩のかたち、すなわち定型詩型のことを「音数律」とも呼んでいます。短歌は、三十一音節よりなる「音数律」の定型詩のひとつの詩型のことと考えればよいでしょう。

 世界にはさまざまな言語があり、その言語の上にさまざまな詩がうたわれ、また詩型が生みだされてきました。あるものは滅び、あるものはなお作られています。和歌、さらに短歌もまた、日本語というわたしたちの言語伝統の上に自ずから生れ、受けつがれてきた詩であり、詩のかたちであるにほかなりません。

 短歌、すなわち和歌は万葉集以後も人々に愛好され、長く作りつづけられ、その間、やがて形骸化し、遊びに堕し、文学の意味を失い、因習世界のものとなって近代にいたります。

 明治維新をへて、日本は西洋文明に接し、西洋にある文学といい詩というものを知っていきます。そうしてその中から、日本古来の詩であるはずだった和歌を、西洋でいう文学ないし詩としてよみがえらせようという運動が生れました。

 明治十年から二十年代にかけてであり、それは和歌革新と呼ばれました。革新を推進する落合直文、佐々木信綱、正岡子規また与謝野鉄幹ら若い当時の歌人らは自ら作る新しい歌を新派和歌とし、従来の旧派和歌はなお長く、宮廷を中心に強い勢力をもっていたのでしょう。

 そおしてやがて、彼らは和歌を、短歌と呼び変えるようにもなってきます。和歌と短歌を、遠く万葉集のころにそうであったように、当初の意味に戻そうという主張でした。本当は和歌ということばにまつわる古臭さを嫌ったのでしょう。その後の新派和歌の文学運動としての輝かしさの歴史とともに、短歌という言葉は和歌にとって代わり、わたしたちの普通用いるものとなっていきました。そして、敗戦の後、一時短歌否定論が言い出され、文学の戦争責任とともにその根底にわだかまる和歌抒情と、それにかかわるわたしたち日本の精神文化の中の思想性の欠落が語られたことがありました。それにもかかわらず、短歌は滅びず、それどころか今日の隆盛に至っています。多分、今日ほど短歌が多くの人々によってつくられ、民族の詩歌として享受されているときはかってなかったでしょう。

 なぜなのか。わたしは詩歌の型式というものが、それによって作られた多数の作品の記憶を別にしてあり得ないものと思っています。短歌もそうです。そこには万葉集、ないしは代々の勅撰和歌集などによりうたい残された無数のすぐれた作品の累積があり、わたしたちはその記憶とともに和歌…短歌形式というものを思っているはずなのです。詩歌の定型とは、単にそのかたちだけのこととしては考えられないはずのものなのです。

 

 伝統ということばがあります。伝統というのはそのようなことです。そうであればわたしたちが短歌を作ろうとするとき、必ずその詩型の背後にあるはずの、伝統としての作品の累積のことを知り、また作品一首作ることは、その伝統であるものの上につくるのだということをひそかに自覚としていなければなりません。

 よく西欧の美術館に行きますと、無名の画家と思われる人が、陳列されている古典絵画の前にカンバスを据え、黙々と描写しているのに出合うことがあります。古典に学ぶという敬虔さはわたしたちにも通じることです。

 

表現における凝視と把握

 

 わたしたちは短歌を作る最初に、よくものを見るように、と教えられます。「凝視」ということです。

「凝視」…目をこらして、じっと見詰めること、と辞書には説明されています。

 斎藤茂吉に、

  たえまなくみづうみの浪よするとき浪をかぶりて雪消のこれり

という作品があります。昭和八年の作、「伊香保」と題されていますから、きっと伊香保の旅の間、山上の榛名湖を訪れたときの歌だったのでしょう。そうして、それはまだ湖畔などに残雪を見る早春の季節でもあったのでしょうか。

 風が荒れ、湖水の岸には沖から絶えず波が打ち寄せてきます。そうして、その寒々しい波をかぶりながら、岸の渚には雪が消え残っています。

 「浪をかぶりて雪消のこれり」…とだけ、作品はうたっています。あるいはそこだけレンズの焦点をあてるように作品はうたわれ、それ以外の周囲のものは消しさられています。

 しかし、それだけのことから、波の打ち寄せる渚の残雪の周囲にしだいに広がっていく山上の湖水の荒涼とした大自然の世界が、読者の心の中にみえてこないでしょうか。当時、榛名湖は今のような観光地ではなく、湖水の周囲には一面すすきの原がつづいていたように思います。

 すなわち、ここで作者が見ているのは山の湖水全般ではなく、その岸辺の、残雪を洗う波という一点なのです。言い換えるなら、「凝視」ということはただその一点だけにあるのです。そうしてその「凝視」の一点の背後に、自ずから広がっていく早春の榛名湖の荒涼とした大自然と、その中に住む茂吉ひとりのこころの世界とがあるんでしょう。

 そうであれば、「把握」というのもそういうことです。歌の対象のなかにうたうべき一点を「凝視」し、それを捉え出していくことが「把握」なのでしょう。茂吉は若い日の歌論書に「短歌写生の説」というのがあり、その中で彼は明治初年の日本語訳の聖書にある「なくてかなふまじきもの」という一句を見出だし、自らの短歌の考え方の説明をしようとしています。すなわち、わたしたちが今何かをうたおうとして、うたうべき対象の中には必ず「なくてかなふまじきもの」の一点があり、「凝視」といい「把握」といい、その一点を対象の中に見出し、捉え出すのにほかならないということでしょう。そうであれば、「浪をかぶりて雪消のこれり」も、その「なくてかなふまじきもの」のことでしょうか。


『心の内面の世界』

 人の作品を読むことがある。なかなか面白いものをうたっているとか、あるいは、なかなか巧みにうたっているなどと思って読むことがある。だが、そうした読み方はそれで終ってしまう。それでそのまま次に移ってしまってもよい程度の読み方である。
 だが、みなさんは、それだけのものを求めようとして人の作品を読むのであろうか。そのことは、短歌一首の享受ということを、他の場合に置き変えて考えてみるとよい。みなさんは、たとえばすぐれた小説を読むときにその程度の読み方をするのか。あるいは、すぐれた音楽を聞こうとするときにその程度の聞き方をするであろうか。
 そうではないはずである。もっと大切な何かを求めて、読んだり聞いたりするはずである。大切な何かとは何か。心のよろこびといってもよい。内面の浄化ともいえるものかもしれない。
 短歌もまた同様なのであろう。人の短歌を本当に読むことは、そうした何かを求めることと究極にはいえるのであろう。
 もしそうであれば、短歌を作ることもまた同様に、そうした何かを作品一首としていく意味なのであろう。読む人の心を打ち、心を洗うような何ものかを短歌にうたっていくことなのであろう。そうして、そのことが詩といえるものなのであろう。
 それは大変なことともいえる。大変なことかもしれないが、わたしたちは短歌を作ろうとするものはやはり心のどこかに見詰めていなければならないものなのであろう。
 そうして、そのような作品を作るためには、やはり作者自身が心の内面にそのような世界をもっていなければならないし、少なくともそれを求めていかなければならないのであろう。 
 何なのか、今一度くり返せば、人間ひとりの心の内面の世界の深さであり、厚さであり、高さなのであろう。

『生涯の師としての出逢い(特集・土屋文明)』

 わたしの書庫にある『アララギ』の最も古いのが昭和七年二月号であるから、そのころに『アララギ』に入会したのであろう。わたしは十九歳、広島の旧制高校生であった。
 わたしの『アララギ』入会を知った高校の歌会の先輩らは、君はついに決意したのかといってそれを羨望した。一結社に参加することとは、当時の地方旧制高校生にとり、一つの文学生涯の選択をも意味していた。
 同じころわたしは『アララギ』の歌人中村憲吉に出逢った。出逢いのことはわたしの『青春の碑』に書いてある。それもまた逃れられない一生涯の選択となったのであろう。
 『アララギ』に加わり、その歌の歌会にも出席するようになった。そこでは憲吉が「先生」として語られた。そうした中でただ一人、憲吉の自然観照の世界に疑問をかくさない少年がいた。鋭い、鷹のような眼をして歌会の作品の一首一首を批判するその一中学生歌人に対し、「あしたは文明じゃけんな」と周囲の先輩らは辟易して言った。少年は金石淳彦だった。『アララギ』に入会しながら、わたしはまだその時期に土屋文明の名も、作品のこともよくは知らなかった。
 ただし、その文明に間もなく逢う機会があった。来広した文明を迎えて町の『アララギ』歌会があったが、翌、昭和八年の夏のことではなかったか。十人足らずの小さな会であり、一高校生のわたしも一隅に交わった。初めて逢う文明はわたしの想像していた新鋭歌人とは違って口髭の濃い、日に焼けた土木監督か何かのような風采であった。文法と語法だけのような、そっけないその日の歌会の作品批評にわたしはひそかな失望を知ったのかもしれない。文明よりむしろ、彼が同行して来た竹尾忠吉の小太りの印象の方が今でも鮮明である。
 わたしが広島市郊外五日市浜の憲吉の寓居を初めて訪れたとき、憲吉はすでに病んでいた。病気のためやがて憲吉選歌を文明が代行した。わたしの投稿する作品もいつからか文明が見ていた筈だったが、作品自体は憲吉風の自然観照詠に終始し、そのことに、短歌という世界へのあき足らなさもみずからは感じていたのであろう。そうしながらわたしは怠惰な一地方の少年作者の域を出ることはなかった。
 憲吉が死に、布野の葬儀に参列したとき再び文明に会っている。昭和九年である。広島駅で町の会員らと共に東京から来る茂吉らを出迎えた。茂吉は関西の会員に囲まれ、岡麓、今井邦子らとにこにこと二等車から下車した。文明も来る筈だとだれかが言い列車の後尾を見渡した。文明はそのはるか後尾の三等車から別の一団と共に土木監督のような姿をあらわした。
 その年に大学を受験して失敗し、秋になって出京した。神田の予備校に通い、屈託した日を送っていたとき、偶然、専修大学の門前で茂吉と文明とその文芸講演会の看板を見出し、会場に入った。そうして、それがきっかけで青山南町の『アララギ』発行所の面会日に土屋文明を訪れることを思い立った。憲吉の死後、わたしはいつからか短歌を作らなくなっていた。
 面会日というのに初め出席した。発行所の洋室の広間に柔道場か何かのような畳が敷かれ、中央に文明がひとり小机を前に坐っていた。会員が壁に添って並び、順に、歌稿をさし出しては彼の前にかしこまった。文明は気忙しくそれら歌稿に眼を通し、朱筆で丸をつけていく。丸をつけられた作品だけが雑誌にのるわけである。おでこに眼鏡をずり上げて次々に面会者を捌いていくその精悍な歌人を浪人学生のわたしは身を固くして片隅で見ていた。
 次は君か、と彼はせっかちに呼んだ。わたしも周囲の面会者…ほとんど中年の婦人たちを真似て、おずおずと進み出て持参した歌稿を呈出した。
 しかしその歌稿に、文明は一首も朱筆の丸をつけなかった。そうして、気短によんだあと二つに折り、パッパッと掌の甲ではたくとそのままわたしに突き返した。何だ、君はもっと老人かと思っていた、と一口言っただけで、彼は次の面会者を招いた。
 眼がくらむような思いで引き下がり、その場から去るきっかけを待っただけであった。わたしの作品が老人の歌と思もわれていたのはどういうことであったか。そうであれば、老人の歌でない短歌とは何なのか。ないしはその日の、若者の歌とは何なのか。わたしはそのあたりからみずからの作品を問い直すことを、面会日のひとりの屈辱の思いから改めて始めていかなければならなかった。
 そうしてそれが、土屋文明という一歌人を生涯の師と定めたきっかけでもあった。生涯の、唯一の文学の師といってよい。わたしの後年の『早春歌』の作品は、そうした、初めての面会日の記憶の二年後、昭和十一年から始まっている。

私の教授法(一筆加筆として)

原作
 

余剰なる福祉のオムツ持てあます梅雨の前触れ冷えびえすなり             落合郁子

素直なる力湧きつつ読む硬き語彙前文くらい暗記せよ君                  加登聡子

ものに読む知識の淡し迫り来る持主のなき眼鏡の山の                   五月女澄子

添削例

あり余る福祉のオムツ持てあます梅雨の先触れ冷え冷えとして             同上

素直なる力湧きつつ読む硬き語彙「前文くらい暗記せよ」と君             同上

ものに読む知識の淡く迫り来るアウシュビィッツ収容所眼鏡の山の           同上

 文学の世界において師も弟子もないことをわたしは土屋文明によって教えられたと思っている。従ってわたしは、わたし自身を短歌の先生などと思ったことはなく、人を弟子と考えたこともない。もしわたしに何らかを求め集るものがあったととしても、それは友人としての関わりであり、一つの世界の先達と行進のことに過ぎない。
 同じく、そうであればわたしにはとりわけて人を指導などという意識はなく、育成などといった覚えもない。文学の世界における一才能の出現は、本来育てたり育てられたりするものと無関係と思っているからである。
 それでありながら、長く短歌作者として生き、その間に一文学結社の経営に関わって来たし、そのことを含めての選歌とか歌会を通して、批評とか、添削として、わたしに助言をもとめようとする多くの人とも接して来た。
 ことに、或る時期からいくらかのカルチャー教室とも関連しなければならなくなって来ているのはわたしだけではないはずである。はじめ、そのようなものに疑問を抱くこともあったが、今ではそうではないと思っている。小さな教室という、かたちの上で生じる一対一での人間関係と呼ぶべきものは、わたしは文学の世界では大事なものかとも考えてきている。
 いずれにせよそうした場で、多くの初心である人らの作品に対し、批評、添削、もしくは助言ともいうかたちで関わる機会が増して来ている。ついでに記せば、批評などというものは、それを信頼してくれる相手以外になすべきではないことも知っている。わたしを歌人として信頼してくれる人たちは、多分そうしたことを指導として受けとってもおられるのであろうか。
 そうした場合、指導ということの、一つの体験というべきものを心のどこかに置いているのかもしれぬ。それはかつて大学の建築科学生として学んでいた日の、一教師との出会いともいうべきものである。当時、建築科に学ぶものには、正課として絵画の時間があり、南薫造という洋画家が講師をされていた。大正から昭和初期にかけての著名な人である。
 その時間、校庭に出て水彩画の風景を画いていた。そこには校舎とか、桜並木とか絶好の画材があった。そうしてわたし自身、少年の日に画家を夢見たこともあり、絵画は必ずしも不得意な課目ではなかった。
 画用紙に向う背後に、いつからかその講師である画家は立っていた。彼は黙ってわたしの手から筆をとりあげると、一杯に絵具と水とを含ませ、わたしの描きかけの画面に、いきなり一筆か二筆、素早い線を画き加えたまま行き去った。彼の筆のあとには絵具と水がなおしたたるようであった。
 彼の去ったあと、わたしはそこに加えられた一筆か二筆かの線により全く変わったものとなってしまったわたし自身の水彩画に対し息を呑んだ。それは思いもよらない生動とし、その拙い、校舎と桜並木の風景画をよみがえられていった。
 そのことを、わたしは自伝小説「青春の碑」としてすでに書いて来た。そうして、そこで愕然として教えられたものを「表現」の意味としても記したはずである。それは短歌一首の製作についても同じくいえるものであるし、さらに、批評、添削、ないしは助言ということに対しても同様であろう。
 わたしはここで、そうしたことの若干の実例を示さなければならないのを苦痛に思う。なぜなら、設題者の要請なのである。取敢えず手元にある、わたしの関わる「朝日カルチャースクール」新宿教室のプリントの、みなさんの作品を借用することにした。無断借用をお許し願いたい。

事実と創作のあいだ(短歌研究平成9年5月号) 

母子像

版画幾点画廊の未だ春の冷えに足をとむ「リープクネヒト追悼」の前

見て戻るケーテ・コルヴィッツ尋ねあてし君の画廊のめぐるほどもなく

告知に怯ゆるマリヤも相抱くエリサベツも市民の女いのち妊れる

母子像のひとつの叫び戦争へ死へ奪わるるものをひしと抱く

母子像の敢えて木版の寡黙とし母なる永遠の戦争の呪詛

遠くカイゼン帝政下より吾が子喪う大戦よりひとりの老残のナチのときまで

退廃芸術の名に製作を拒まるる老いの果てナチ崩壊を見ず

 ケーテ・コルヴィッツの画展があるのを教えられ、銀座に近いその画廊をたずね歩いた。
 一部屋だけのその小さな画廊の壁に、素描と版画とだけ、二十五点足らず飾られていたのであろうか。それでも数組の若者の男女が、熱心に見てめぐっていた。
 ケーテ・コルヴィッツはドイツ近代の女流画家。むしろ版画家であることを自ら選び、カイゼル帝政下から二つの大戦にかけて生き、農民と労働者から民衆の生活を描き、それらを通して戦争への怒り悲しみを訴えた。第一次大戦で二男を、第二次大戦で孫を死なせ、晩年、ナチによりその絵は退廃芸術として美術館から排除させられた。老残のひとりの女として、絵筆を奪われ、1945年、ナチ敗退を目前にして世を去った。コルヴィッツの版画、とりわけ木版の激しい訴えを中国の作家魯迅が注目、それによりその国の民衆の版画運動を興そうとしたことは知られている。その、久々の小画展をわたしも心の印象とし、一連の作品を作ろうとした。すなわち、今回の「母子像」7首である。戦争に奪われてはならないものとして吾が子を抱きしめる「母子像」のテーマは、コルヴィッツの世界に繰り返されるひとつのパターンでもあった。 
 だが、作った後に、わたしが見たその小画展に、もしかしたなら「母子像」の木版ものは無かったのではないかとも気付いた。多分、製作の段階で、他の記憶が交じり入ったのであろう。それでありながら、その一首を敢えて残しておくことにした。一連構成の上である。ないしは一連のリアリティのためである。そうして、作品のリアリティとは、素材の事実とは別次元であるはずだからである。

「献身」(短歌研究平成17年5月号)
 

ひとつまた自爆のありて遠き世界知らぬイスラムの信教として

車体一台燃えて砂漠の街の入り日自爆といえりいのちひとりの

いのちひとり過ぎて戦争の何も変えず人の死という重たさの後

悲しみに彼らゲリラを選びゆくゲリラの他に選択はなく

それぞれのいのちの底の絶望がゲリラの死との献身を待つ

絶望とその果てのゲリラへの献身と今日の無数の死の忘却に

絶望と献身と早く忘れられ地をばさまよえ死者らの慟哭

「希求の上」(「短歌」昭和10年1月号)

一集団の歳月に自ずからなる剥落も知りていわむに今年誰が亡き

幾たりかが聞きとめくるるかとも思え壇に語りて来り旅の街

山の迫り霧に灯れば街暑く眠れりことばに悔いを重ぬる

ひとつを告げつねに自らに返る問い今の日ことばを寂寥として

生くるものに生くる日の問いようやくに吾ら久しき「思想」の放擲

かって生き四囲に火群の如かりし一世界の問いまたあともなく

九十年代一コミュニズム世界自壊以後を早く過ぐるになおの拘泥

二十世紀ユートピア希求とし初めありしコミュニズムのときその忘却に

見失うユートピア希求とし未来とし感傷ありき何を喪う

しかも見む人間の未来取り戻すべき希求のうえに分くるよろこび

      *

戦後ありきひと度吾ら見しものを「思想」と思え崩れ崩れ次ぐ

思想とし問いとする「知」の放棄とし哀傷にこの国に継がれ来しを承く

そこへ戻るな今また哀傷の甘美には戻りてならぬ峻厳に立て

すべての理解を拒み立つ峻厳を隔絶を知ることとして自らの老い

「クレタの踊り」(短歌研究平成5年1月号)

シルタキの踊りの島に今宵のみ壁白く寄る村連れられて

踊りの輪つなげば妻も誘わるる卓をめぐりて止むとしもなく

踊りの輪更けてブズキに倦むころを葡萄酒の酔い身に冷ゆるまで

夕べルナを出でて思わぬ山深しひろがる闇に星もあらざる

谷に墜ちし車体のライト灯るままイラクリオンへの道なおいずち

「ウィーンの一日」(短歌研究平成10年1月号)

ウィーンのただ一と日ゆえ中央墓地訪ねて菩提樹の落葉する道

ベートーヴェンの墓碑とて小さき花輪捧げ明るきまでに落葉降りそそぐ

夕日してしばらく過ぐる葬列を森に見送る旅にときありて

夜はホイリゲのいずくの町を連れらるる伝う石畳冷えまさるまま

日本のDichterとして呼ばるるを来り酔うジプシーの楽の一夜を

「森の舞台」(短歌研究平成16年1月号)

森深きいずくか草を敷くのみの舞台のありて月の幻

誰も誰も指差さぬば更くるままの森の舞台の終るともなく

笑いなき喜劇の幕のいつまでを舞台を回る人の眠りに

人間が人間を演じ立ち代わる喜劇の続き幕の相似て

いずくかの遠き戦争人間が人間獣であることの喜劇に

「落日の窓」(短歌研究平成14年1月号)

残る世と互みに知らむ過ぐる日を稀に誘い合う落日の窓

世に二人と思え来て凭る高層の窓の夕雲の移るしばらく

富士の影くきやかなりし夕映えのようやく遥かくれないに澄む

傍らにかの真処女のままありしたましいひちりつねに目守りて

初めより逢いてかく在る他になき一生なりしを生きて忽ち

「峡湾」(短歌研究平成14年1月号)

岩尾根をさながら氷河の抉れるをミルフォード・サウンド人寄せざりし

峡湾を船に出ずるに相迫る岸のま氷河を残す尾根ひかる

船のデッキ近付く滝のしぶき浴び峡湾深し日のありながら

海豹の寄る岩ありて海峡の開くる外海の沖行方なく

峡湾よりをただにタスマン海といえ息呑む寂しさは風の凪ぐまま

冬鳥の庭(短歌研究平成5年5月号)

 いつか苗木を植えたままの花水木が、ややわずらわしいまでに枝を張り、その枝に二つ、小鳥の餌のひまわりの種をつめたフィーダーを吊るしておくと、絶えず、四十雀と河原鶸とが代る代るに訪れてくる。フィーダーは中の透く褐色のプラスチックの筒、一つは立川敏子さんにいただいた。ちょうどわたしの家の居間のソファーの正面、南側の窓ガラスの外、庭は今、にわかに紅梅が咲きさかろうとする。
 四十雀はフィーダーのひまわりの種をついばむと素早く離れた他の木の枝に飛び去り、片肢でそれを押さえ、嘴で器用に割っては中の実だけを食べているが、河原鶸の方は、群れて来て、一たんフィーダーの口の止木にすがると長くそこを動かない。その間、四十雀は離れた枝にとまり、辛抱強く順の来るのを待っている。
 フィーダーの下には同じプラスチックの餌台があり、パン屑や果物の切れを置いておくと鵯が来、鵯がいないときは目白の番いが可憐な姿をどこからともなく見せたりする。今年はなぜか一羽の鵯が朴の木の梢に居付き、ときどき飛び下りて来てはフィーダーに集まり寄る河原鶸を威嚇しようとする。わたしの庭のボスとでも思っているらしい。いつの年か、四十雀や河原鶸などよりやや大型の鳥が、冬のあいだ毎日のように庭にやって来た。体が大きいためにフィーダーにはとまれず、その下の、庭土の落葉の間をかさこそと這いずり、四十雀たちの食み落すひまわりの種だけを専ら拾いあさるのが愚直げであり、寂しげでもあった。鳥の名はシメ。北海道と本州北部高地に繁殖する冬鳥という。

四十雀のこぼすひまわりの実をあさる愚かのシメの庭去らずいて

冬鳥に交じりてシメの一羽のみ遅れ遅れて落葉の遊び

わたしの最新歌集の『かぜのとよみ』の中の一連。去年今年と、シメは庭に姿を見せない。

「ミゼレーレ」(短歌研究平成5年5月号)

金星をすでに離れてひかり澄む夕月の下球根を埋む

昏るるまで百合の球根を妻の植ういそしむことをなおも喜びに

いつさえや面かがやきて傍らにいのちの過ぐる共にある生(よ)を

やさしかる魂ひとつおみなとしついに目守(まも)り生く生(せい)の一たび

たまわりし静けさを老いを今といえ幾夜吾らのためのミゼレーレ

ミゼレーレかの小聖堂に声満つる無垢なるものの歌恋いて思えば

存在の底ひより呼ぶ歌として聞くミゼレーレ寂寥とせず

「当為」(短歌研究平成8年5月号)

かの崩壊の後に来る精神のニヒリズムようやく久し浸し寄りつつ

ことばとしことばの綺羅となし瀰漫するニヒリズムのとき人は優しさに

当為としありし何見て生きし何すべて声止むときの過去として

流血に次ぐ流血に見し世紀逝かしめむとし問う思想なく

ことごとく逝きて去るものをなお追うを読みて泥めば眼(まなこ)の衰え

たずたずと今日に読むためヘーゲルの「歴史哲学」齢知るといえ

年越えて机上の書とする晦渋の「歴史哲学」一生みな隔つ

アララギの終刊について(アンケート)(短歌研究平成9年7月号)

好きな作品

白銀の鍼うつごとききりぎりす幾夜はへなば涼しかるらむ         長塚 節

みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ         島木赤彦

(1)アララギの史的役割

 明治の和歌革新の先駆者のひとり、正岡子規の文学理念を継承する一文学集団として、伊藤左千夫を初めとし、長塚節、島木赤彦、斎藤茂吉、中村憲吉ないしは土屋文明らと、大正から昭和にかけて、日本の近代短歌史のそれぞれの時期を代表し、或る場合は主動する多くの優れた歌人を輩出させ、つねにその中軸の位置にあったことは歪めない歴史的事実であろう。
 しかもその間、リアリズムという基本的理念は受け継がれながら、それぞれの歌人のあいだに文学的相克が絶えず孕まれつづけ、それがついに「アララギ」派という大きな流れともなっていった、ということも知っていなければならない。その相克が失われたとき、文学集団は歴史の使命を自らおえていくのであろう。

(2)一歌人としてアララギから受けた影響

昭和初年、まだ十代の終りの一旧制高校生ていしてわたしは「アララギ」に入会、短歌作成者としての生涯を歩み出す。そうしてそこには、赤彦はすでに亡かったが憲吉がおり、茂吉、文明らが最も精力的な文学活動をしている時期でもあった。わたしは自ずから彼らに接し、短歌が何か、文学が何かを最初に知っていったのであろう。そしてそのことの一つが、ついに「生」といい「写生」といい、存在ともいうべきものの、その根源の何かを問うこととしての、全人間的な営為…文学営為の意味であったのか。しかも、私の場合、それから続く戦争と戦後との長い歴史激動の日の上に、「生」であり根源であろうとするものは当然、茂吉や文明ら先進の見ていたそれらとは異ならなければならなかったし、うたわなければならないとするものも同様であったのだろう。

(3)アララギ的なるものとは何か

文学におけるエコールということばを思うなら、わたしにとり「アララギ」とはそれであったのであろう。すなわち、そこにおいて、いつのときにも激しい対立、相克、ときとして人間憎悪さえ孕まれながら、次の時代への必然のものを生み出していく。

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも       斉藤茂吉『白き山』

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす      土屋文明『山谷集』

 それが文学における継承であり伝統の意味であるとするなら、今、一雑誌「アララギ」の終刊とは別にして考えることなのであろう。

「野鴨」(短歌研究平成14年5月号)

蝋梅の咲き過ぐる岸足励まし出でて歩むに未だ風の冷え

蝋梅の咲き散るままに拾い溜め後れ付き来れば佇みて待つ

一と冬野鴨の来り集う流れ街川ながら二人よろこびに

野鴨らにせきれいもしきりに走り交じり声上げて添うつねに傍ら

野鴨らに離れ或るときは川鵜あり荒々しき野性のかげを寂しむ

野鴨のうちかの真鴨らの一日を渡りて去るに春ようやくを

真鴨のあと残る軽鴨を数えむに青む柳の昨日より今日

「変化するものとかはらないもの」岡井隆(短歌のみ掲載する)(雑誌「短歌」平成18年6月号)  (注)文章は省略した

ポケットがふくれてあはれなるかなと思ひたりしが又出でて行く      『早春歌』

くももなくベッドの上に月させば鍵を閉(とざ)ざしてしばらくを居む     『早春歌』

立ち上る汝(なれ)の帽子の羽根鳴りてものうかりけりこの木下道    『早春歌』
  
鴎らがいだける趾(あし)の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる     『早春歌』

降り過ぎて又くもる街透きとほる硝子の板を負ひて歩めり          『埃吹く街』

おのづから媚ぶる心は唯笑みて今日も交はり図面を引きぬ        『埃吹く街』       

ことば解らず一日交りて働けばストーブの湯に手を洗ひ合ふ        『埃吹く街』 

言葉知らず働き合へばはかなきに出でて共産党宣言を買ふ        『埃吹く街』

たてに見えて遠き舗道ようつうつと独立祭の祝砲の音            『埃吹く街』

黄色き柵は日本人を入らしめず表情固き女士官たち             『埃吹く街』

押され合ふ吾ら一瞬しづまれば何かさけべる鋭き英語            『埃吹く街』

交差路にたちまちにして白き雪君との道も別れ行くべし           『埃吹く街』

漠然と恐怖の彼方にあるものを或ひは素直に未来とも言ふ         『埃吹く街』

嵐めき波立つ沖に出でむとす岬みさきに白き桜は               『歴史』

影の如人の汲み去る井戸ありき麦のみのりに道深く入る           『歴史』

汚れつつねむれる蝶のかぎりなく木立の中に降り移る雨           『歴史』

待つものを寂しき悔(くい)と知りながら又吾が行かむ否(いな)と言へねば 『冬の銀河』

海底に生(あ)れひろがりて貝を喰ふ冬のひとでの群れと告げ居き      『冬の銀河』

ただひちり吾の一生(ひとよ)を知れるもの寂しきまでに吾は名を呼ぶ    『冬の銀河』

落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に      『早春歌』

聖書が欲しとふと思ひたるはずみよりとめどなく泪出でて来にけり       『早春歌』

戻る笑みありて知るべき寂寥のひとりの眠りの夜を早くして           『未来』2005年12月

妻の鬱なおいつまでか黙し合うのみの一と日の昏れなずむころ        『未来』2005年12月

少女へと返る怜悧の面影の米寿に近し齢をいわず                『未来』2005年12月

生と死ともとよりなしと知ることの老いの極みの救済が来る           『未来』2006年4月

ひと夜のねむり百年ふかき眠りねむりは人を忘れしめつつ           『未来』2005年12月
 

近藤芳美(吉田 漱:昭和58年2月号「国文学」より)『短歌入門』(昭和54年抜粋)『短歌思考』(昭和54年抜粋)

近藤芳美は歴史と実存とを問い続ける(吉田漱)

代表歌

一生吾に死者との対話かかる夜を雨の軍靴のまごろしが行く         『黒豹』

たましいは峨々たれ風の夜のしじまかわきて芥子の緋に咲きさかる     『アカンサス月光』

視野のかぎり日にみなぎれる長江に生きてまた佇てば沖波もなく      『聖夜の列』

短歌入門』(昭和54年抜粋)

短歌が「生」と呼ぶものの「表現」であるならば、それは「生き方」を一首制作にうたい込めていくことでもありあます(略)みずからの「生」を問うことを短歌とするなら、それは「現代」と呼ぶ今の危機の日にいかに生きるかという「生き方」の問いとなり、他に見ていく世界はもはやないとも言えます。(略)わたしたちはすでに、花の美しさだとか人の愛とか、ないしは日常に過ぎ去るさまざまな哀歓のことだけをうたってはおれないとも言えます。わたしたちのうたうのが「生」であり「生き方」であるなら、それはいまや「現代」という危機の意味を避けて通ることは出来ず、その思いを直接とするなら、それをも「表現」とする他はない。

短歌思考』(昭和54年抜粋)

作歌の第一はうたうべき「もの」の「凝視」であり「把握」であろう。「生」はその「もの」の奥にある「本質」、「根源」としてある(略)わたしたちはその詩人的直感の背後に部厚い論理的認識を重ね、用意していなければならないし、論理的認識の方法を持っていなけrばならない。

         ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

現代短歌の作家、その歌と論と(近藤芳美について)         吉田 漱:昭和58年2月号「国文学」より 

 近藤芳美がはじめて中村憲吉に会った日のことはこれまで繰返し語られている。
まだ広島高校二年に在学中であった。昭和七年二月、憲吉は県北の布野から病気療養のため、瀬戸内海に面した広島市外の五日市古浜に転居して来た。その同じ月、友人とともに憲吉宅を訪れる。そのとき憲吉は「写生」というこを「生」を「写す」という意味として教えた。「生」の表現であり表出である。そうして「生」は「いのち」である…そう言ったあとしばらく置いて、それを「生活」と言ってもよいと憲吉は言い足した。病室の炬燵に身をもたせ、たどたどと空中から何かをまさぐるようなことばで告げたという。アララギに入って三ヶ月になるかならぬかの芳美にとって、はじめてぶつかった短歌の命題であった。
 憲吉が斉藤茂吉の歌論を身にひきつけて年若い学生に語ったことも興味ぶかいが、さらに「生活」とつけくわえたこと、…それなら土屋文明の理論をつけ加えたのであろうか。が、この憲吉の言葉は、ジャーナリズムに身をおいた時の、また故里にこもって家の経営にあたっていた時の、自らの体験からなる言葉であったろう。 
 「写生」の論は理論として若い学生に告げたものの、つづく「生活」という語は、彼自身のよどんだ重苦しいものから出た言葉ゆえに相手にとどくかをも考えながら告げたのであろう。当時、土屋文明は軽々しく「写生」も「生活」も話題に置くことはなかったと思う。しかし憲吉没後、芳美は真直ぐ文明に師事した。茂吉はなお傷心が深く、それゆえ人麻呂論に打ち込んでいた時期であった。
 憲吉が芳美の前においた「命題」は若いかれにとって必ずしもすぐとどくものでなかった。むしろ不透明に幾度となく問いなおされてゆく。それがどのように展開し深められて行ったかは、そのまま歌人近藤芳美の歩みに重なる。
 第一歌集の『早春歌』前半はアララギの先輩や友人に恵まれていた環境をうかがわせる。その中で影響をうけながらもいち早く若々しく清新な抒情とまた思想性をみせている。
   
   国論の統制されて行くさまが水際立てりと語り合ふのみ
  
   たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき
 
 戦後、記念碑的な歌集『埃吹く街』では把握も一層鋭くなる。

   降り過ぎて又くもる街透きとほる硝子の板を負ひて歩めり

   漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

 この時期はまたアララギ内部批判から戦後歌壇へ果敢な発言が多く、この積極的な姿勢が一冊の歌論集『新しき短歌の既定』にまとめられる。「新しい歌とは何であろうか。それは今日有用の歌のことである。今日有用の歌とは何か。それは今日この現実に生きて居る人間自体を、そのままに打出し得るうたのことである。現実に生き、現実に対決して居る吾々自体を、対決の姿のまま、なまなまと打出し得る短歌こそ有用の詩であり吾々の新しとする歌である」とたたみかけ、また断定的に告げてゆく言葉も、そのまま解放感のあった時代をバックに、開拓者的な使命感ともいうべき決意をひびかせる。
 そして年譜は二十五年合同歌集『自生地』刊、第三歌集『静かなる意志』刊、二十六年「未来」創刊等を教えるが、すでに朝鮮戦争は始まっていた。近藤芳美のいう「悲歌の時代」への突入である。こうして「朝鮮」と「戦争」の文字はあらためて浮上してくる。
 近藤芳美は大正二年、馬山に生まれ幼少年期を朝鮮の風土で過ごした。第一歌集から歌われている大陸の風土と、兵としての体験の意味も深く問いなおすこと、戦争の体験はさらに「原爆の広島」(芳美の本籍地は広島県である)を見つめることになる。芳美のうちの歴史意識はこれに密接する。
 以後の歌集もこの意識を軸として展開し、例えばソビエット、アメリカ旅行の作品はあかたも戦争の傷痕をさがしてゆくような旅にめてくる。
 
   さし出すはゲリラの過去の指なき掌「平和」を告ぐる君は農民

   町の岡にひと日楽鳴る今日のつどい朝鮮戦争の俘虜の父らの

 あるいはそれらに続く歌集『遠く夏めぐりて』の歌、

   貧しとは言わず弾痕の街行くかげ彼らのたれとたれと兵の過去

等、その例をさがすのはたやすいが、ただ、

  傍らにねむりたるとき頸筋にはかなきまでに脈うちて居き        『早春歌』
 
  眼鏡割り帰り来りし弟は部屋のすみにして早く寝むとす          『埃吹く街』

  窓硝子割れし一瞬又笑ひすでに吾らに表情もなき             『静かなる意志』

  人ひとり叫びみずから崩るるをささやき待てりかぎり無き声        『歴史』

  発(あば)きゆくあばかれてゆく神話みな惨々として革命ののち      『黒豹』

 このような方向の作品もまた今に至るまで続く。人間が孤独な存在であり、ときに心貧しくいやしく、あるいは愚かで諸悪の依存者であるという苦い認識もまたより深まってゆく。それゆえの怒り悲しみ、また危機感、孤独感も歌書、歌論書のなかに滲透しているだろう。

「潮路」(短歌研究平成3年1月号)

青鷺はへさきへさきに身を細め鴎は波止に何をうかがう

青鷺の鴎に交じる舟だまりいつかフェリーの通わぬも聞く

潮にひたる石のほとけのかなしきを海女の漁村の先々にして

潮ぼとけというをたずねて磯つたうとべらの岬沖は波にごる

灘の沖一すじ明かき空ありて雨降り霽るる潮路のかぎり

「宇宙」(短歌研究平成16年5月号)

天にあり冬の無数の星群と宇宙と呼べるその静謐と

すべて今がそこに消滅し去るとして宇宙といえる天の広がり

老い果ての心怖れに佇つとしも宇宙の行方なき漆黒の闇

しかもなお宇宙を有限の時空とする人智の寂寥も生きて知ること

宇宙とするついの有限を生まれ止まぬ現象と物象とわきていのちと

たまゆらに宇宙を過ぐるかぎろいのいのちとも人間存在とも

人間存在に許さるる時間つかのまを宇宙の虚実と虚実とのあわい

近藤芳美と平和活動家美帆シボさんのこと

朝日歌壇の美帆シボさんおよび近藤芳美氏

フランス在住の平和活動家美帆シボさんが短歌をなさることはよく知れれています。そのきっかけは朝日
歌壇での入選です。それも近藤芳美選が最初、初入選でした。ここで彼女の朝日歌壇の記録を掲載しま
す。近藤芳美氏は2004年だったでしょうか、選者を辞めております。この記録も2004年までとします。

1999年 11月7日〜12月19日  (短歌2首と俳句1首)

とりたての野菜をならべる巻毛のジャン歌えば雨の朝市はなやぐ     初入選  近藤芳美選              

ジュネーブの原爆展で鶴折れば吾をよびとめる難民の子は     近藤芳美選                        

街ゆけば黒髪かざる雪の華     初入選   金子兜太選                                    

2000年  1月16日〜12月17日  (短歌18首)

「平和の絵」をかく授業中つぶやく子 コソボに征きし父帰らぬに     近藤芳美選                     

黒々と油に重き砂をあつめ浜を清めに来し移民の子     近藤芳美選
                          

ネオ・ナチの足音高まる欧州を憂い八十路のロジェ証言す     近藤芳美選                         

きつねの道いのししの道と子らがよぶ森の小道に木漏れ陽がふる     近藤芳美選                    

泣き童子おしゃべり童子わらい童子 小馬(ボネ)をみつけて皆はしりだす     馬場あき子選               

被爆者の店で求めし雨傘をなくしてパリの街を濡れゆく     近藤芳美選一席                         

☆花蘇枋あかむらさきに咲く春よコソボの民は廃墟に帰る     馬場あき子選と佐々木幸綱選              

十階の身投げの女(ひと)の窓暗くあけ放たれて虚空に吠える     近藤芳美選                       

いつしかに節分もわすれ我が内の鬼をあやして異国に暮らす     近藤芳美選                        

とにかくも微笑むんだよというロジェの収容所「死別」「生き別れの日々」     近藤芳美選                 

「原爆の子」を語らへば聞く子らの視線はひしと我が身に迫る     近藤芳美選

年々に五重の塔は沈みゆき古都はるかなり高層の駅     島田修二選                            

黒焦げのミシンに小雨が降りしきるナチの残虐オラドゥール村     近藤芳美選                        

約束の時を違えず現れし人レジスタンスの習性という     島田修二選三席                          

帰るたび知らない言葉がふえている行く街角に田舎の駅に     島田修二選三席                      

月桃のお香をたけばたちまちに広がる海と連なる礎     馬場あき子選                            

農薬の深くしみ込む大地にて蜜蜂が死す豊穣の秋     馬場あき子一席                           

闇ふかき谷間を駈ける音ひびき窓の灯に人を恋うロバ   2000年度 朝日歌壇賞 近藤芳美選一席 

空のあお映して青き君の瞳が灰色(グレイ)にかげる巴里の冬来る      馬場あき子一席                 

地中海の海老減少しフラミンゴの紅のいろ消ゆる世紀末なり     馬場あき子一席                     

2001年
  1月21日〜12月24日  (短歌9首俳句4句)

人類はあと五十年存(ながら)えるか 聖夜の街の灯は点滅す     1月21日島田修二選                

月白く凍る夜空の下に病むコソボ帰りの若き兵士ら   2月11日近藤芳美選一席と馬場あき子一席       

シャンピニーの養老院に犬のいて時に笑うと言う人もあり     3月4日馬場あき子一席                  

モナリザといふ芋を売る春の市     4月16日金子兜太選九席                                 

ごぼうの葉なずな葉わさび明日葉をしんと抱けりブーローニュの森     4月23日島田修二選七席            

桐の花エッフェル塔の裾あたり     5月21日金子兜太選七席                                 

新緑の広場に古き貨車ひとつアウシュヴッツの記憶をとどむ     6月25日佐々木幸綱選五席と近藤芳美選九席      

朝まだき「自由の木」というポプラよりわく勝鬨のごときさえずり     7月29日島田修二選六席              

「原爆の子の像」の前に彼の人の来ぬ夏の日よ永遠に来ぬという     8月6日近藤芳美選十席             

風立ちて積み木はくずれ積みなおす平和とはなに平和とは     11月11日佐々木幸綱選一席             

しら菊や万聖節の十字架に     12月9日長谷川櫂選九席                                   

晩秋のミラボー橋こそ悲しけれ流るる河に君を思えば     12月9日島田修二選十席                   

またも来む阿修羅の息の凍るころ     12月24日金子兜太選一席                              

前書きに「奈良にて」と書いてあるが、なくても興福寺の阿修羅像と承知でき、感銘の激しさが伝わる。

厳冬の凛冽たる寒気の中、息づいてそこに御座す御姿に今一度会いたい。

2002年  1月28日〜12月8日  (短歌24首俳句1句)

アデューわがドビュッシーわがセザンヌよ財布より消ゆフランス貨幣     佐々木幸綱選一席              

五十フラン紙幣の「星の王子さま」消えてユーロの年が押しよす     島田修二選一席                  

母国語のひとつ言葉の源をたどりて我は「時」を旅する     島田修二選四席                        

黄昏のアンボワーズの空燃えて慕情のごとく糸をひく雲     馬場あき子選二席                      

椰子の木にのぼる蜥蜴はふと止まり我を見下ろす目で追ふ我を     馬場あき子選十席                 

初しぐれミラボー橋を渡りけり     第二回芦屋国際俳句祭 稲畑汀子選佳作                      

チェ・ゲバラの写真のあふるる街角に笑いさざめく若葉の子らは     島田修二選一席と近藤芳美選九席     

グアンタナモ米軍基地の監獄にタリバンを置く火薬のごとく     佐々木幸綱選二席                    

帰りきて染井吉野を見あぐれば四半世紀の我が生も夢     島田修二選三席                       

軍用機を松脂で飛ばす戦争の傷をいだきて立てる松ノ木     馬場あき子選四席                     

家のなき子らもひととき笑ひけり道化師リュックがリマをゆく春     馬場あき子選二席                  

「自由」とう駅に降り立つ春半ば昏き時代の声たちのぼる     島田修二選九席                      

票のなき若きら集ふ桐のした明日の行方を見極めむとす     馬場あき子二席                      

菜の花は地平を埋めて輝けり取り残されし森の暗がり     島田修二選九席

屋根をふく金雀枝を刈る人絶えて眩しかりけりティンの山肌     近藤芳美選十席

万緑のアルデッシュの谷おりゆけば崩れ屋敷に石の十字架     馬場あき子選五席

この星の終焉ちかしと思う間もくちびるに愛(かな)し三十一文字は     島田修二選三席

菩提樹(リンデン)のうち重なりし葉のみどり我をつつみて遠き人の世     島田修二選十席

その色のただに真白くまどかなる形よろしきドイツの陶器     佐々木幸綱選七席

鴨の子と知らず卵を孵したる鶏のうろたう雛の水浴び     近藤芳美選十席

草叢のなき地下鉄にわき出ずる蟋蟀の音は都市に挑むか     馬場あき子選八席

戦いは不意に起こらず空のあお海のあおにも武器は潜みて     近藤芳美選十席

ある時は「戦わぬ人」と謗らし平和主義者(パシフィスト)らを憶(おも)うこの秋 馬場あき子選二席

原爆を語りはじめし我が前をふいに立ち去る若き同胞     佐々木幸綱選五席

空港に降りて紛るる同胞の群れのさ中に湧く淋しさは     島田修二選四席

(続く)

2003年  1月6日〜12月8日  (短歌14首)


夜を刻む音こくこくとむらぎもの心を打ちて白む空かも     島田修二選八席1月6日


「一滴の血も捧げるな石油のため」若きら掲ぐパリは雪空     近藤芳美選一席2月17日


☆杖をつく人も身重の人もゆくひとりひとりの反戦の意志     佐々木幸綱選一席と島田修二選三席3月17日


セーヌ河の「自由の女神」はひそやかに見ており大洋(うみ)をめざす水流   朝日歌壇年間優秀歌島田修二選一席


月満たず子を生ましめし母たちの夜を轟きぬイラク空爆     朝日歌壇年間優秀歌近藤芳美選一席5月5日


自裁せし友のメールを消しがたくはやマロニエの影ふかき夏     島田修二選と近藤芳美選7月7日


雨ふらば雨と泣くべし風ふかば風に舞うべし碑の千羽鶴     島田修二選と近藤芳美選8月25日 


車椅子ならべて冬の陽のなかに老いても恋われ恋う二人あり     島田修二選七席9月8日


夏の陽を吸いし葡萄(シャスラ)の実を摘めば密の光を放ちて重し     佐々木幸綱選九席10月12日


生きたまえ巴里を観せなむ秋草の枯れて霜降り木の芽ふくころ     島田修二選三席10月27日


職なくも太陽(ソレイユ)があると南仏にあてなく来たる家族ありけり   朝日歌壇年間優秀作馬場あき子選一席11月3日


渡り鳥海をわたらず牛の背に止まりてあおぐ晩秋の空     島田修二選11月24日


核の世をひと日語りて帰る道マンチェスターの夕闇のなか     島田修二選12月8日


黄に染まる落葉の道の果てにある「詩人の館」という養老院     近藤芳美選十席と佐々木幸綱選五席12月14日    

2004年  1月19日〜12月211日  (短歌12首と俳句6句)


異国より出雲に嫁ぎし人ありて見慣れぬ山の影を恐るる     佐々木幸綱選1月19日


国ふたつ持つ心情の複雑にゆらぎ始めし吾子と夕餉す     島田修二選1月26日


手袋の片手のみありもの思ふ     長谷川展宏選九席2月2日


寒雷や身を起こしたる我の鬼     金子兜太選六席2月8日


いずこより湧きし鳥かな陽がさせば雪のパリにも囀りにけり     島田修二選六席3月1日


象の子は象の形に生まれ落ち100キロの身を地に立たしめたり   馬場あき子選二席と島田修二選三席3月8日


受話器より留守を告げたる汝が声のさやかに聞こゆ逝きし後にも     島田修二選十席3月22日


村が消え小さき町の名も消えて謂われも消ゆる我が母国とや   島田修二選一席と佐々木幸綱選一席4月11日


春雨をくぐりてカフェに現はるる     長谷川櫂選4月11日


むらさきの藤の花房まといたつ人無き家の香に誘われつ     近藤芳美選十選

1882年に礎石して以来、ようやく半分築かれたバルセロナのサグラダ・ファミリア寺院を七年ぶりに訪れる。

われ以前われ以後もまた石を組む聖家族(サグラダ・ファミリア)教会よ未完     島田修二選三席


立ち話子は子に見入るリラの下     金子兜太選と川崎展宏選一席6月7日


一票をパリで投ずるその刹那ぬばたまの夜の祖国(くに)を思へり     島田修二選一席7月1日


子供(モーム)らの「平和の風船」はろばろとノルマンディーのそらにかなしも  馬場あき子選一席と佐々木幸綱選10月4日


鳥わたる風車不動のしじまにて     金子兜太選三席10月11日


赤ちゃん(プチ・ペペ)とたどたどしくも子は云いてさらに幼きみどり児を指す     馬場あき子選一席11月1日


月あかり大きポプラを照らしつつ遥か砂漠にさし渡るかも     佐々木幸綱選九席11月8日


冬銀河またも旅立つ子の上に     金子兜太選五席12月21日


近藤芳美 語録(さいとうなおこ編)(「短歌」平成16年6月号より)

常識

歌会に出よ

もののあわれ

うたわない決意

発見

批評とは

熟成

思想、思想詩


新しき短歌の規定(1947年4月)

新しい歌とは何であろうか。それは今日有用の歌の事である。今日有用な歌とは何か。それは今日この現実に生きて居る人間自体を、そのままに打出し得る

歌の事である。

現実に生き、現実に対決して居る吾々自体を、対決の姿そのまま、なまなまと打出し得る短歌こそ有用の詩であり吾々の新しいとする歌である。

新しい歌は人間を大胆に打ち出したものでなければならない。そうして、打ち出されるべき主体である作者自身は、総ての意味に於いて、最も誠実に今日に

生きて居る人間でなければならない。別な言葉で言えば近代的人間でなければならぬ。

最も誠実に今日に生きて居る人間こそ新しい短歌作者だと言う。誠実に今日に生きるとは何を言うのか。

それは、吾々の今居る現実を直視して眼をそらさない生き方のことである。弱々しく背をむけない、逃避しない生き方である。今ほのぼのとした眼をして天を見

てはいけない。

吾々はこのあらあらしい人間世界の渦流の中に立つて居る事をありのままに認知しなければならぬ。苦しみと、悲しみと、怒りと、よろこびと、この渦流の中か

らそのまま把握し来って、短歌詩型としてうち出さなければならない。

これが誠実な生きかただ。このかぎりに於いて、ほのぼのと天の一角を見るが如き、或いは夢見る如き姿態をとろうとする抒情派の態度は、先ず第一に自己

の生き方に不誠実の焼印を受けなれればならぬ。

人間渦流を正視し、其の中に押し流されて居る吾々自体を認知する。吾々はその中に生きて居る現実自体を機敏に把握し、詩として結晶せしめる。しかももし

其のままで終れば吾々の作品に救いがない。在りの儘をありのままとして受けるだけの現実主義なら吾々の生き方は少しくらすぎると思う。吾々は、「かく在る

」現実を「かく在るべき」現実として同時に見なければならぬ。吾々は吾々を今押し流して居る渦流を何であるかと知る科学を持たなければならない。現実の

渦流に冷厳な科学を見て立つ、之こそ吾々の「在るべき」生き方ではなかろうか。

この吾々の生き方から吾々の作品、「新しき短歌」は規定される。約めていえば、最も誠実に現実に対し得たものが、その現実の中から把え得た短歌である

事。更に誠実に生きることは、現実を正視する事と共に、現実を科学の「必然」として同時に認識し得る生き方の事である。

しかし、そのためには短歌はあくまでも自己表現でありながら人間一個の表現であると言う事から再び遊離して行ってしまってはならぬ。吾々は吾々の今居る

位置からしか物を言えない事を知らなければならぬ。かくあるべき、かくなるべきだと言うところに、吾々は今居るところから作歌しつつ、実作をもって至りつか

なければならぬ。

吾々の肉声をはなれた歌は成立しない。肉体をはなれてしまって「作者自体」などあり得ぬ。吾々はかっての公式左翼文学のレアリズムを吾々の写実主義と

この点で分けなければならぬ。

新しき短歌はレアリズムに立つ。吾々の此の立場は自明な事になった。誠実な現実との対決にこれ以外の態度はない。更にこのレアリズムは在るものを在る

がままにずらりと並べる闇屋の店頭の如き平俗写実主義とは別種である。何故なら、在るものの中に一脈清冽な科学の方向眼を持つからだ。更に、吾々の

短歌は肉声をもつ。常に開放し切った人間の声をもつ。吾々は新しい短歌を以上の如く規定したのだ。

こうした新しい短歌が、作品自体として如何な姿をもつであろうか。無論それは正しいレアリズムにたった他の汎ての芸術作品と共通したものである筈だ。

第一に健康な表現をとる事だ。病的なデフォルマチオン乃至心理のアクロバットを演じない。

第二に簡潔である事だ。葬式自動車の如き剰余装飾を最も嫌悪する。所謂芸術派の短歌表現乃至語法等最も葬式自動車に近きものとして排する。吾々の

美しとするものは近代建築の単純美であり、B二九のもつ科学のぎりぎりの取る姿の美しさである。

その意味で素材派である事をも一つの特長とする。ザッハリッヒに投げ出された素材のもつ、素材自体の表情の美しさを新しい短歌の美しさとする。

従って新しい短歌は自然在来の抒情派のいう抒情とも別種の一つの抒情をもつ。素材的であり、余剰装飾をきらう、いはば、でれでれした表情を嫌悪する。新

しい短歌の抒情は、ちょうど鋼鉄の新しい断面のような美しさをもった抒情だと思う。静かな、知的な、しかも澄んだぎりぎりのところにある抒情だと思う。理知

に移ろうとするあやうい一点にふみ止った抒情の美しさだ。

更に新しい歌の一つの性格は、作品自体の中になまなまとした思惟がある事だ。現実に誠実に対決するところから打出すものが、吾々の肉体の思惟自体で

もあるは当然であり、作品の累積が思惟の過程を自ら取ることも当然である。今吾々は思惟の美しさを考えなければならぬ。思惟の美しさは感性の美しさの

上位にある。新しい短歌の美しさをこの点からも考えるべきだと思う。

新しい歌は真実な意味でのレアリズムに立つ作品である。其の意味で何ら人の意表に出づるものではない。吾々はこのレアリズムを更に深く、強く、高く、す

るどく各自の力量でつき進めて行く以外に作品に新しさを求める手段はない。

吾々はレアリズムによって吾々の人間性を開放し思惟を累積させて行く。正しいレアリズムのみが唯一のてだてである。