近藤芳美





近藤芳美著『現代短歌』より(1)
「短歌五十年史ノート――「アララギ」の作家を中心として

近藤芳美著『新しき短歌の規定』よりNO.1 「アララギ昭和初期「現代短歌の本質」 「短歌の用語に就いて」 「把握の眼」 「前線短歌の意味」 「作品評価の規準」 「今日の恋愛詠」 「若き友に答えて」 「『真実』私感」 「生き方とことば――吾が作歌態度」 「『早春歌』以前―扇畑忠雄君に」 歌の表現に就いて――坪野哲久氏に 「初心と本質」 「素材と作品 

近藤芳美著『現代短歌』より(2)


「素材と作品(一)

「文学」二月号にのった一条徹氏の「抒情の変革の系譜について」の一文は明快な短詩型文学論であり、僕なども教えられる部分が多かったが、其の一部分に、之まで日本の近代詩歌の歴史を辿ろうとするものがたれも晶子の『みだれ髪』或いは藤村の『若菜集』について多くの筆を費やして居るにも拘わらず、晶子の『みだれ髪』と同じ時期に、長野諏訪の製糸女工らが、

   米は南京おかずはあらめ何で糸目が出るものか

   製糸工女も人間でござる責めりやあ泣きます病みやねます

等と歌っている事についてふれていない点に一つの疑問を提出している。其処までは問題はないがその先に一条氏は次の如く記している。

「この圧迫され、虐げられ、非人間的境涯に働く女性の人間らしさをもとめる切実な歌ごえは、彼女たちが生きるために歌はずにはいられない詩精神の開花である。そして、これは近代詩歌において、プロレタリアートの台頭を記念する異質の高い抒情であり(中略)この女工の俚謡は、はたして『若菜集』や『みだれ髪』の抒情におとるであろうか。」

生きるために歌わずには居られない所に詩歌の発足があり、又これらの俚謡の間に稚いながら一つの可能性の開花がある事に僕は同意するが、それがそのまま「異質の高い抒情」であり『みだれ髪』『若菜集』の抒情に比較し得る抒情であるとする一条氏の速断に僕は一条の文章のこの一部だけをことさらに切り取ってあげたのは、同じような論法、同じような飛躍と強引によって今日の歌壇と批評家の一部にしばしばくりかえされ、そのために短歌の評価規準に不思議な混乱が生じて居るからなのである。

前掲の製糸女工の歌は、それ自身悲痛なさけびであり、勤労者の人間開放を求めての切実な声ではあっても、それがそのまま高い意味での詩歌であると、ただちにひっつくり返して云うことはできない。そこに新しい抒情の萌芽の可能性があるとしても、それはあくまで可能性であって直ちに高い抒情なのではない。同じような混乱はしばしば繰り返され、例えば短歌に於いても勤労者等の初心な生活詠等がそのまま作品の価値決定の規準とされたり、選歌欄作品の中に含む一つの問題とも云うべきものを、そのまま短歌自身の評価尺度として考えたり論じたりする安易な風潮を一部に作っている。

(つづく)

「素材と本質(二)

一つの可能性が、高い抒情として固定されるためには、制作と云い、あるいは造型とも云うべき精神的営為の過程が必要である事は云うまでもないことで、例えば短歌に於いても素材はどのように重大な意味をもつのであってもそれが作品一首となるためには「作歌する」という重大な労作の過程を経なければならないし、そうして出来上がった作品の評価は、作品一首に蓄積されたこの労作のエネルギーを感知することによってなされるべきであるとさえいえよう。しかも短歌のような小詩型ではこの営為が、ほとんど一瞬の時間に於いてなされるのが普通で、そのために出来た作品の価値の高下は非常に微妙であることもまた云うまでもない。

しかしながら、「高い抒情」とはあくまでこの過程を過ぎて来た物なのであり、「造型」の中に固く蓄積された精神エネルギーの計数的価値なのである。たとえどのような切実な声でも前衛的な思想でも、それはどこまでも作品の素材であって作品の全的価値なのではない。この自明のことを特に進歩的な評論家と短歌作者が無視して短歌を作っていることには僕は焦慮に似た不満を感じる。一条氏の場合にしても、一条氏の見出したものは「作品以前」の価値なのであり、一つの可能性の萌芽の融知なのであり、「高い抒情」と簡単に規定してしまうのは、評論家の論理であっても詩歌を知る者の論理ではない。

同じような混乱と無知とが、今日の局外文芸批評家あるいは文学者の短歌観にしばしば暴露される。今手もとに適当な資料がないので例を上げることが出来ず具合が悪いが、最近次の如き一種の揶揄が何人かの人によってなされている。

すなわち、戦犯の将軍らが死ぬ前に短歌を作り、光クラブの学生アルバイト社長が自殺の前に短歌を作り、帝銀事件の容疑者がやはり短歌を作って新聞記者に心境を示している。このように短歌が簡単に日本人の間に作られて行くことが自ら示す短歌自体の文学上の位置についての軽蔑である。しかしこの事は、今日の日本の文芸批評家の下手なウイットとして面白くも「抒情」が大きな精神営為の後に作られるものである事を見ず、作品と作品以前とを見別ける眼を持たない粗雑な考え方である。

(つづく)
「素材と作品(三)

短歌が作品であるためには、短歌の型式によって何かが語られて居ればよいと云うだけのものではない。作品一首の美しい結晶のためには、それだけの造型への意志の支えが必要であり精神的営為が働かされていなければならぬ。僕らの短歌が結局に於いて僕らの生き方を語っていなければならず、人間成長あるいは社会改革への吾々の意志を、作品の内容として結局は貫かせなければならないということは、短歌といわず文学に於いては当然なことなのであるが、それにも拘わらず、僕らが短歌を作る一瞬においては、僕らの目的は作歌そのことであり、短歌一首を作る造型への意志なのであり、短歌を何に役立たせようとするごとき考慮ではない。

従って僕らが少なくとも作歌する一瞬に於いては専心な短歌作者であるべきであり、僕らの作品が社会にどのような意味をもちどのようにはたらきかけて行くかの考慮は、僕らが社会的人間の自覚の後に止むに止まれないものであったとしても、制作の一瞬に於いては裏に潜んでだけ働くべきものではなかろうか。

プロレタリア短歌から民主主義短歌への長い歴史に於いて、豊富な理論に拘わらずいまだ多力な作者が出ず、今日なほその感があるのは彼らが何か短歌の造型その事に意志的なものを欠き、素材を抒情に高めることが実作者としての苦渋な営為の中にあることを何かきらっているからではなかろうか。そうしてその事は前述の一条氏の速断ともどこか似て、一つの可能性を安易に価値に置き換えて考えて平然とすごしているためなのではなかろうかという疑問を僕は常に感じているのである。(1950・3)

「初心と本質」(一)

    真裸にされたる青年がかなしげに女軍医の前に頭を垂れぬ

    食欲無き患者のために今日ひと日土にかがみてあかざを摘めり

「日本短歌」二月号に発表された笠井正弘の「凍原」二百首は、作品一首一首の希薄さと稚さとかの欠点にも拘わらず、近頃ほとんど不快の感なく読めた僕にはまれな一連であった。この作者はシベリアから還った、あまり作歌の経験もない若い青年である。と云う以上に何も知らない。啄木の作風のよい半面だけを学んだような、素直な、軽いがいやみのない感傷でほとんど作為なく作られた一連である。

このような作品に対して、たとえば同じ「日本短歌」にのった既成歌人、

  ひさかたの隈なき天の青空に顕(た)ちつくる像(かげ)のありて眼を閉づ   太田青丘

黄に濁る大河を移す妄想の中にすだけるこほろぎ一つ            岡部桂一郎

  吠えざればこの畜犬よ凡庸の夜の世界に影を曳くのみ            土屋克夫

等の作品が、其の表現の苦心にも拘わらず、そうした作為とたくらみだけが、いやらしく作品の表に浮き上がってだけ居ると云う事を、僕らはいつものように又考えるのである。

短歌の世界において、一応よい作品と云われるものの多くが、このように無名の作家の中に作られているということを僕らはどのように考えればよいのだろうか。それを吾々短歌作家の潜在意識的な感傷への望郷とだけ指摘し排除すればよいであろうか。

しかしそうした指摘とは別に、僕らは僕らの間にある直感的な評価と云うものをも考えなければならない。僕らがひとの作品に対ふ場合、又は歌会での作品の選択の場合、結果としてはこのようなほとんど不用意とも云えるような初心の作を取り、そうでないものに意図のあとの嫌悪あを感じるのは常のことである。

(つづく)

「初心と本質(二)

あがけばあがくほど作品が見苦しくなって行くと云う事実を、僕らはもう他人事としてでなく、自分の問題として知り、如何に歌うべきかに苦しむ。

例えば前掲の笠井の作品のなかに、含むべき問題――思想性の稀薄を問題にするかもしれない。しかしながら、「短歌研究」二月、

   搾取なき国ひろびろと生まれ出づまさに近代無双の偉業     江口  渙

の如き講談師の物言い、或いは「新日本歌人」一月号に散見する、例えば、

   党員文学者の

   誇りをもちてわれら立つ

   われら人権擁護を叫んで立つ                 渡辺順三

   ぷりぷりと、

   小さなことにおこつてゐる。

   それをあつめて、

   大きな怒りに代えよ。                    赤木健介

等の如き「叫び」に比し、患者のためにだまって食用のあかざをつんで屈んでいる、それだけの素直な善意の姿とことばの方が、どれだけ実質的にヒューマンなものを訴えているか、この論の進めかたは、もはや僕自身にむけてさえ、型通りであり、しかもぬきさしならないものを持っている意地悪い実証方法なのである。

それにも拘わらず、僕らはもう笠井の位置からは歌は作れない、と云う事も事実として考えなければならない。どのように僕らが「初心」の作に貴重なものを見ようと、僕らは再び其処に帰れる筈もなく、本当の文学とは、決してそのように自然発生的なものではないと云う事も僕らはすでに知っている。其処まで論を進めてゆくと、「凍原」の一連のほとんどの作が、造型の過程を経ない、「作品以前」であるとさえ極端にいってしまうことも出来るのである。

ではどうすればよいのであろうか。作歌すると云う、云わば吾々の芸術営為を経た吾々のことばが、営為のない感傷の表白よりは無力だという問題をどのように考えればよいであろうか。

すべての短歌雑誌に於いて、選歌されるものの方が選歌する者の歌より感動的であると云う指摘も、もはやお互いの陳腐な皮肉である。

(つづく)

「初心と本質(三)

この場合吾々は、何故今日の多くの短歌作品が、無表情無感動であるかと云う、作者自身の精神までを考えることと別に、所謂短歌の作法、造型の方法の問題をも考えなければならない。

例えば前掲の太田、土屋、岡部らの作品とその意図とが、今日の作法の常識、素朴な写実主義の方法への反逆でありながら、結局浮き上がった独りよがりに終り、笠井の作と対比して作り物の白々しさしか人にかんじさせないと云うこと、その事とも関連する。そうしてこの同じ問題は、たまたま取り上げた三人にかぎらない。方法と意図との色々の差こそあれ、今日のほとんどあらゆる意欲的な作家に感じられることでもあり、短歌史的にも、大正以後のいろいろな芸術運動のとりいれの、さまざまな試みと失敗のあとからも引き出せる問題である。

結局僕らは短歌と、短歌の作られて居る人間社会の基礎、あるいは作られた作品を受け入れようとするお互いの生活の基盤を考えずに吾々の作品の「ありかた」を考えることは出来ないのである。短歌の造型も作法もすべてそれと関連する。僕らがそれを軽蔑しようと無視しようと短歌も他の芸術と同じように吾々人間生活の間に於いての「生産」にすぎず、吾々の現実の生の世界に於いてしか受容の意味を見出さないのである。

そうすれば、僕らがそれぞれの生活の位置から、互いに受け入れられるだけの自然な発想とことばによってしか、短歌をつくる以外の方法はないのである。短歌の造型の意味も、このようにして考えることが出来よう。吾々の生活基盤のお互いの間でのものの言い方、ものの考えの組み立て方をてだてとしない短歌の発想方法は、結局一人の恣意に終ってしまうのではなかろうか。

僕らが「初心」の作に感じること、其処に常に何か本質的なものを感じる意味も、同じように説明し得るのである。

しかし僕の言い方は、何か其処に安堵して止まっていればよいという風にも誤解されるであろう。そうではないのだ。僕の云うのはあくまでも其の基盤から立ってと云うことなのだ。もっと具体的に云うと、僕らはお互いの間の自然のことばと発想方法を用いることによって、高い美しい詩を作ろうとしなければならない。と言うことなのである。今日多くの歌人はその足場を忘れ、何か皆互いにむだな事をつづけているのではなかろうかと思う。(1950・2)

歌の表現に就いて――坪野哲久氏に(一)

昨夜の会でお会い出来なかったのは残念でした。仔細は例によって山田あき夫人からお聞きになった事と思います。幹事役の加藤克己君が巧みに設定した「短歌と詩をめぐって」の主題を注文通りに廻りめぐって、吾々は又はてない永遠の議論をくりかえしました。

そうして夜の何時間か、僕らはたれも別な生き方を守って居るのではない、二つの大戦のあとの宿命的な同時代人である事を、互いのことばから表情あkら、鏡にうつす己れの顔のように読みとるのでした。或るものは決断のことばをもって、或るものは内攻のことばをもって、一つ一つが喰い違って行く吾々の表現も、実は同じことば、吾々のせっぱ詰まった時代人の生き方を語ろうとして居るのだということを、どうして僕らは知らないでいられよう。しかも同時に火の気のない雪の夜に、互いに黒い外套にくるまって東京の一隅に語り合っている、吾々日本のみずぼらしい歌よみたちのことばが、そのままそっくり、戦争のあとの、世界いたるところの人々、知識人によって語り合われて居る同じことばであるというこを、僕らは切ないまでに実感としました。ぼくらはすでに恣意の許されない一点でしか作る事は出来ない。僕らはそんなことをも語り合いました。そうしてその事は、短歌だけの問題でない、大きな世界の詩、文学の決定づけられた方向でもある。僕らは短歌の今後の方向を語るときもこの実感とも云うべき省察をそらして考えて行けるこのであろうか。そんな事をも考え合ったのでした。

当然の話題は外国の文学、主としてフランスの今日の詩の問題にも及びました。僕らは今日海外の文学がどのように作られて居るかをほとんど知ることができません。今度の戦いの荒廃から生まれて来た文学がどのようなものであるか、ぼくらは之に対しいまだほとんど無知であるともいえます(このことはかえって日本の文学のためにはよい事であったとも言えます。少なくとも海彼の何々イズムをスタイルブックのモードの如く写しとる吾々日本人の得意芸が今度だけははびこらずにすみそうだと云う事は。かっての戦前の前衛芸術が、少なくとも短歌の世界だけではどのくらいお笑い草であったかと云う事は、吾々が知っています)。

しかし、フランスの場合、次のことを僕らはいろいろな人の解説から知ることが出来ます。そなわち、かっての前線芸術派の詩人たちが、戦いのあいだ、彼らの抵抗運動を身をもって戦ってきたあげく、戦後に、ほとんどが一種のリアリスト詩人として詩壇に立ち戻ったと云う事です。(一種だとことわったのは、当然かってのリアリストとは違った姿であるということですが)すなわち、否応ない場に立った彼らが、取りえる詩の方法は、結局一つしかなかったということなのであります。つまり、サロンから一歩現実の社会に出た場合に、そうしてせっぱ詰まった現実の社会に己れのパートと役割とを自覚しなけらばならない日に至った時、結局詩人は日常のことばでもって己れの生き方を語る以外に方法はなかったのだという事であります。

(つづく)

歌の表現に就いて――坪野哲久氏に」(ニ)

この事は同じように並べる例ではないかも知らないけれども、かっての日本の前線詠にも見られる一つの吾々にとっての暗示であります。すなわち、吾々が生死のぎりぎりの場において作る作品は、決して吾々の日常のことば以外の方法で語られた詩ではなかった、兵隊短歌のとった発想は、彼らだけの生き方を追うとき、所謂リアリズム短歌の作法にしか行き得なかったと云う事であります。

この事は今度の戦後芸術の様式の問題であり、同時に吾々短歌の方法の問題でもあります。すなわち、前の大戦の後に生れた芸術様式が、現実への不信を前提とする前衛芸術の様々な開花であったのに対し、今度の大戦のあとに生れた芸術様式が、現実はの不信として身を外す事ではなく、現実への参画として以外に吾々の生きる途のない自覚から生まれるリアリズム芸術の確認又は前進なのだと云えると思います。

この間に僕は二つの戦後芸術――又は文学――の大きな性格的相異があるのだとおもいます。

当然又次のようにも考えられる。すなわち、僕ら作家は、今日もはや一人の芸術家としてだけ生きてはいられない。吾々は何らかの意味で吾々以外の多数に対して責めをもっている。僕らは同時代に対し、すでに発言の責めを負っている。彼らのことばを語るものとしての責めをとって吾々は互いに時代の中に生きようとする。

だからその場合、僕ら詩人のことばは彼らのことば以外であってはならない。少なくとも、同じ平面で通い合うことばによって吾々の作品は綴らなければならない。この事は僕らのリアリズム短歌の形までを決定してしまうのではないかと思います。すなわち、僕らの短歌は、もはやその形、表現方法、云い回しかたまで、恣意を許さないものであるのではないかと思うのであります。

之を所謂口語短歌の主張と混同しないでいただきたい。そこまで僕は安易のことを語っているのではありません。僕はあくまで定型短歌の制作発想の点で物を云っていいるのです。

定型短歌の発想の方法にも、それは全体の調子から一つ一つの用語の問題に至るまで、僕らにはすでに恣意のゆるされない大きな規準のようなものがあるのではないか、そうしてその規準は今日吾々が生きて居る時代において、吾々が歌人として責めを負う同時代大多数の、語られ合う日常のことばと少なくとも同平面上のものなのではなかろうか、と云う事を、僕は考えようとしているのであります。

同平面上などと云う曖昧な言葉をもっと具体的に言わなければならないとしたら、僕はかっての兵隊作品と同じように、今日所謂専門歌人以外の大多数の無名歌人によって作られている短歌の中にある一つの類型的な発想の語法をれいとしてとりあげたいと思います。それが、「アララギ」であろうと「人民短歌」であろうとその他の歌誌であろうと、云うところの選歌欄中にあるおびただしい無名の作品は、その用語の駆使に原則的に共通なものがある、と云う事、つまりそこには、何か自然とも云うべき発想方法の規準があると云う事、之を僕らは僕らのことばとして受け取らなければならない、と云う事であります。

(つづく)

生き方とことば――吾が作歌態度」(三)

つまりそのような吾々の間の自然な短歌発想にいつも、今日の短歌は規準のようなものを持っていなければならないと云うことを僕は主張したいのであり、その先に、僕らの短歌の方向のコースを見定めていなければならないということを考えたいのであります。そうして、あくまで其の規準を外さないと云う一点から、之からの戦後短歌は新しいリアリズムの態度を取って進んで行かなければならないと云う僕の主張なのであります。そのうえでの僕らの作品の発展は、僕らの生き方、現実に参画して行くべき今日の詩人としての生き方にだけ関連するものであり、もはや形の上の人為的意図や芸術様式などでどうすべきものではないと思うのであります。

これを書簡の形式で貴兄にむけた僕の意図が何であるかを、俊敏な貴兄はすでに御見抜きになっていることと思います。戦後の芸術型式がリアリズムの前進であるという事に一応御異議がないとしても(ここでそれは未来型の浪漫主義を含む事をも僕は否定しません)、その発想なり用語までに僕が規準を考える事に、貴兄は僕の批判の意図を御見抜きになったと思います。

しかし僕は単に貴兄の作品に、世で難解と称する部分があると云う事をくりかえそうとするものではありません。貴兄を含めて、僕らより一世代前の作家に、大なり小なり残っている芸術派的な発想の残渣に対し感じている疑問を明らかにしたいのが僕の考えなのであります。一時代前に、『新風十人』として一括された同時代の作家の傾向が、今日に於いてとっている位置と意義であります。

「歌の表現に於いて――坪野哲久氏に(四)

手もとにある「短歌研究」二月号の次の二つの例で、僕はてっとり早い説明が出来ると思います。たまたま二人の女性の作が並んでいます。

   草培ふ一途なる妻とし生きなむか君一人をわが全世界とし            真下清子

   絶端に支柱なく生きてつひに墜つ地上のかかる法則の身に及ぶとき      館山一子

ご承知と思いますが前の作者はいくらか僕の知っている、まだ歌をはじめたばかりの二十代の少女であり、館山氏はたしか貴君らと共に「新風十人」として歌を並べられた、云わば一つの時代を持った作家だったと思います。僕はこれらの歌のよしあしを今云おうとするのではないし、また館山一子の作を貴兄の作とごっちゃにして考えようなどと云うのでもありません。

だが、このたまたま並んだ二人の作風の間に、僕がくだくだと書いた文の意味が明らかにされていると思います。「 絶端に支柱(ささへ)なく生きてつひに墜つ」と「君一人わが全世界とし」の短歌発想の差異であります。

で、僕の云おうとする事は、貴兄、又は貴兄と同時時代の作家が持つこのような、僕らから見れば古い詩人的な恣意の発想を、僕らが大多数の同時代人の中の歌人として、その同じ言葉を持って生きかつ歌って行かなければならない今後の使命の自覚の中に、どのように説明して行かれるかなのであります。

僕ははじめ僕らの昨夜の会合の事を話し、例によっていつか自分だけの感想に文章を飛躍させてしまいました。貴兄があの会合出ていられたら当然吾々の話の一部になったであろうと思われる感想を、僕は勝手に自分一人の感想として綴りました。

本当は二人とも一粁と離れない所に住んでおり、僕らは今互いの疑問も返事もたいていは知り合っています。しかしやはりこのように公けの場で一応相互の問題を開き合って見る事も無意義でないと思います。(1950・2)

「『早春歌』以前―扇畑忠雄君に」

金石淳彦君の文章を読んでいると、僕もついでに何か書いて見たいと云う衝動にいつもかられるから不思議です。今度の「群山」二月号の文章、「短歌的成長」の場合もそうです。金石君が病身だからなのかもしれない。たいてい一種の青春回想で文学論が書かれていて、僕ら共通のあまずっぱい悔悟なような変な気分に引き入れられてしまうようです。

たとえば今度の文章も中村憲吉先生が出てきます。原子爆弾で死んだ新延誉一さんも出て来るし、山口市で雌伏しているのかもしれない友広保一氏も出て来ます。貴兄はいくらか気取った広島高校の秀才で登場して来るし、おまけに僕まで中学生の文学少年として、中島周介さんといっしょに引き出されて来ます。舞台はまだ戦争のない時代のデルタの都市広島です。このようにすべてが道具立てられて僕らを一つの雰囲気に引き入れてしまう。ちょうど、ぼつぼつ頭のはげた連中も交わる高校の同窓会で、少し葡萄酒の酔いがまはれば吾先に何かつまらない思い出を語り出したくなってくる、あのような浮いた気持になる時です。何を書くというあてもない僕の文章み、これと同じ気分にとりつかれた時の産物と思ってお読みすごしください。

高校にはいると、中学校の旧師を訪うということに何か感傷的な気取りを感じるかもしれない、そのようにして僕も数人の仲間と中島周介さんを訪ねました。そうして中島さんの「今もまだ歌や詩を作っていますか」という、中学時代のうすぎたない皮膚をも一度なでられたような(今から思えば)ことばに、結局僕は歌をつくり始めたのです。も一つ恥をいうと僕も広島の短歌雑誌「山脈」に啄木めいた歌を送った中学時代の記憶があります。きっとあれは、そのころ編集をしていた貴兄らが選をして落としてしまったのかもしれない。店頭でおどおどと「山脈」を立ち読みした記憶を持っています。

そのようなはずみで僕は初めて広島の「アララギ」歌会に出ました。半田町の土井寿夫さんの家でした。僕と和田義人が広高一年生、いっしょにびくびくと出掛けました。人数は少なかったが、一人、中学生の帽子をかぶった少年が鋭く多弁な批評をやって座をさらっていました。広陵中学の帽子をかぶっていたから僕は反射的に「少し不良」という印象を受けました。少年の言っている事はどうも良く解りませんでした。そのくらい僕は稚い文学少年であったのです。この中学生が他ならぬ金石君であったことを金石君も覚えていないでしょう。

中村先生にはじめてお会いしたのはそれから半年ぐらいあとだったと思いますが、その時の気持は金石君の文章通り、「初めて見る「有名な歌人」であったばかりでなく、初めて見る「有名な人」だったわけです。そうして金石君のうけた「平凡人」という印象までは同じでしたが、僕には金石君よりはいくらか予備知識があった。つまり見ない先から先生門下の先輩たちからいろいろと先生の姿を教えられていた。その中に先生の「平凡人」の姿も解説されてあったのです。

その時に僕は先生から「生活のある歌」と言うことを教えられました。たしかに写生の「生」ということに関してのお話のはずみであったと思います。「このころの文学論で言うことも同じことだ」といったような意味がありました。「生命とも生活ともいえる」ともお聞きしたように記憶しています。

とにかく僕にはこの「生活」ということばが先生から聞いただけに意外でもあり、非常に強く新鮮でありました。それは少なくともその当時、広島の歌会の吾々の周囲で聞くことのなかったことばでありました。そのような地方歌会の印象に、いち早く反撥した金石君はたしかに鋭かったに違いないと思います。だが同時に、中村先生にそういった「歌論」がある事に気づかない、弟子の方が貧しかったのかも知れない。少なくとも僕ら憲吉門下では『しがらみ』の地味で真実な生活の中から歌を学ぼず、土間に雪が落ちたり、かけひに水が凍ったりした所ばかりを感心して真似ていたとは云えます。そうして、先生の「生活」という用語に新鮮に感動した僕からして、こまっちゃくれてすすけた田舎歌ばかりを作っており、一時は「お寺」の歌ばかり作ると、先輩からひやかされたりしたしまつでした。

その僕の歌をたたき直すには、たしかにブラシひげの土屋文明先生の一喝が必要でした。広高を卒業すると浪人して東京に出、一日発行所を訪ねました。土屋先生の面会日でありました。焼けた洋館の発行所に、まだ発行所が移らないとき、近所に鳥居か何かがあった二階家で、それでなくても人見知りしてぎこちない僕の姿は、Sの字の襟章を外した高校浪人姿で、ますますおどおどとした無細工なものであったろうと思います。(今でも僕は初めて歌会等に出てくる学生らに往年の自分の姿を見出します。顔色悪く、猫背で。そのような姿に微笑を感じる年齢に僕もなりました)。

土屋先生は僕の歌稿を「どうれ」と云って手にとると、しばらくながめて破顔一笑、「何だ、僕は君をもっと老人かと思っていたよ」と、いきなりつっかえされました。(中村先生死後、僕は土屋先生に歌を送っていました)。

先生のことばは僕にはきびしい頭からの冷水でありました。だが同時に、僕は何だか少しばかり歌の作り方が分かったような気がしました。

僕の歌集『早春歌』の初めのころの歌はそのあとから始まっています。土屋先生はすっかり山中の翁になられ、当時はしつこい青年社員であった小暮政次も、今では三越の奥の間の大きな机にどっしりとかまえているような年になりました。僕も「短歌と政治性」などという杉浦明平の向うを張るような文章など書いているより、ほんとうはこんな駄文(どっちにしても駄文ですが)を、旧い友人の数人だけを意識して書いて居る方がたのしい年齢になってきたようです。どうもこんな調子にいやに回顧じみて来るのも、金石君の文章のへんな魅力のためです。貴兄との思ひ出等も書かと思っていたのでしたが、疲れましたから止めます。

扇畑への私信に代えて――                (1950・2)

生き方とことば――吾が作歌態度(一)

十首なり十五首なりまとまった数の歌を作ったあとは僕は本当に疲れ切ってしまう。虚脱したような感じである。そうしてすべてを出しつくした気持、もう之から先に何もないのではなかろうかと云う不安にとらわれてしまう。

己れの詩と才能を出し尽くした感じ、再び歌が出来るであろうかと云う不安、しかし、そのような気持を繰り返しつつ僕は十何年か歌を作ってきた。ぎりぎりのうたなどという気負いたったことを云うのではない。もっと僕の場合は体力的な疲労の問題である。

「現歌壇の問題」という座談会であったか、長谷川さん坪野さんらとの座談会の機会に、僕の歌が行き詰まっているかどうかという話が出た。

「僕はいつも行き詰まっていますよ。」

しかしそのことばを取りあげて土岐善麿さんが何か好意的に論じていられたのをよんだとき全く恥ずかしい思いであった。これだけ取り出して見るとかざなことばである。しかし、僕は自分で自分の行き詰まりを「自覚」したり「打開」したるすると云うのと少し意味が違うのだ。僕の場合もっと体力的な問題、再び歌を作るエネルギーを回復し蓄積し得るだろうかと云うそんな反省以前の不安の方が多いのである。

だがそう思いながら僕は長いこと歌を作ってきた。戦後三冊の歌集はやはり僕のたどって来た足跡、僕のかちとった戦いのあとである。今後とも僕は同じ事、同じ気持をくりかえしてゆくであろう。  

僕は歌を巧みではならないと云う事を己のいましめとしている。歌に「巧み」はない。あればそこだけがうそであり空白であると云うことを今のきもちとしている。

僕はそれを自分だけのこれまでの短歌制作の生活から抽き出した己れへの教訓としている。

そうして更に、僕は自分だけの「生き方」を歌っていればよいとも考えている。自分だけの「生き方」の問題を、自分のことばで、つぶやくように歌っていればよいとも考えている。

もしじぶんだけの「問題」、自分だけの「ことば」が、何らかの意味で普遍なものであれば、そうして、何らかの広さである共感を持てば、僕はそれで一応文学は成り立つのだと考えている。

もう一つ云うと、僕は僕のもっとも巧まないことばが、普遍して行かないわけはないのだと云う一種の自信をもっている。せっぱつまった僕のことばが、理解されないわけはなく、僕の生きゆくための自分の問題が、人の問題でないわけは無いはずだという、やや一方的な自信ももっている。

自信というのは、僕のことばなり「問題」が、万人の上に立ち万人を指向さすほどのものだという自信なのではない。反対に、僕が万人の中にたっているという自信、僕のことばと問題とが、万人の中に語られているものに過ぎないと云う自信なのだ。

(つづく)

生き方とことば――吾が作歌態度」(ニ)

ただ、万人と云え、僕はたれの生をも生きると云う程の自信も幅もない。僕は所謂「昭和の代のインテリゲンチャ」に過ぎず、それを生きて来た己れの宿命として居る。僕は一人のインテリゲンチャとして育ち、戦い、戦いの中に守るものを守り、戦後にも生きて来ている。そうして、日本のインテリゲンチャが持つ限界と、持ちえる「物の本質」を見別け得る眼とを持っている。戦争の中に飾られた虚偽を見逃さなかったように、今の美名の下の虚偽、美名のもとの人間抹殺に耐えられないだけである。

僕はその耐えられないことばを語りつづけて行くだけである。そうして、その上に、もっとよい生き方がある事を、自分の狭い生の範囲にたしかめ、たしかめて行く己れの生き方を作品に語って行くだけである。

だが之が吾々の問題でなくてなんであろうか。

少なくとも吾々日本のインテリゲンチャの問題でなくて何であろうか。

そうして、吾々のお互いの問題を一つの造型とし固定して行く事を、僕らの文学と考えて居るのだ。

僕はすでに自ら自分の短歌の限界を語ってしまった。僕の作品の限界は日本の今日のインテリゲンチャの限界である。更に云えば戦後の貧しい生活基盤の上に立つインテリゲンチャの一層である。灰色の髪を乱し、朝の省線に交じりつつ自分の生活を支え自分の知性を守って行かなければならない少なくとも僕の生きて居る範囲にとっては最多数の層のことである。

僕の歌は彼らのことばであり思想であり生活の詩であるにすぎないし、僕はその事を誇る。

僕の歌は彼らに語られ合う言葉であり共感されあうもっともぢかな詩でありたい。僕は彼らの間の詩人として同じ苦しみと同じ怒りと夢とを代弁者として語って居たい。

そうして僕らが弱い階級でありながら、一度も非人間の力に魂を売らなかったお互いのひそかな誇りを歌いたいと思う。

だが、今日の知識階級が、歴史の中に一つの過渡的な階級にすぎないと云う事もすでに語り古されて来た。そうして彼らの行く方向が知ると知らないとに拘わらずプロレタリア化の一路である事を今日たれが否定し得よう。僕らには小さな誇りとつつましい孤独癖以外に何も残って居ない事をも知って居る。

この図式化された運命が僕自らの短歌の運命であり限界でもある事はことごとしく指摘されるまでもなく知っている。

しかし、僕は自分の生の基盤を離れて自分の文学の成立を信じない。そうして、僕の生きている基盤が昭和二十年代の日本のインテリゲンチャの階層であると云う現実を自らめかくししようとはおもわない。

(つづく)

生き方とことば――吾が作歌態度」(三)

どのような飛躍も、言葉の上では出来よう。理論の操作の上でも出来よう。また、そう思い込むような自己欺瞞も自己陶酔も出来ようし、吾々お互い、その程度の軽薄さと人の好さとは持っている。否そうでないまでも、僕らは前のめりしなければならい時の流れの中に生きている。

しかし、文学だけはそのような甘さの上には築かれないことを、僕は頑迷に主張する。吾々が何を知っていようと、僕らの文学は僕らの体のある位置、ぼくらの生きて居る現実の生活基盤以外には成立しない。どのように所謂自己革命がなされたとて、吾々の体はやはり日本のインテリゲンチャの宿命の上に生きて居る事を僕はどうしても簡単に処理し切れない。

僕らは自ら持つ宿命を宿命とし、その上に立ち、その時々の矛盾にも眼をそらさず、今日の大多数の一人として生き、生きて行くための問題を作品として行きたいと思う。

僕は自分の歌の限界をインテリゲンチャの階層の限界として考えた。しかし、インテリゲンチャと云う階層がどうなろうと、その階層自身は成長し新しく生きて行くであろう。僕の歌も同じことだと僕は私かには思っている。

「生活あり、言葉あり、短歌あり。」と土屋文明は云っている。

歌は巧んではならないと云う己れへのいましめも僕は同じだと思う。自分の生活から浮動して文学は成立しないし、同時に、現実から浮き上がっても文学は出来ないと思う。僕は自分の息のような歌を作ってゆかうと思う。

僕は本当に時々疲れ切ってしまう。もう歌は出来ないのかと云う不安に、そのたびたびに捕われる。しかしその時に思う。僕の生きて居るかぎり、自分の息はとまらない。その自分の息のような歌を作ろう。そうして僕が、今日の日本の中に、一人の人間としてまともから生きているかぎり、止まる筈のないような自らな歌を作りたい。

それが今の僕の作歌態度を語ることでもある。(1949・12)


『真実』(高安国世歌集)私感(一)

   面やつれたる人らおのもおのも銃負ひていづくにぞ行く続き行きたり

   一国の人等相打つ現実をば我ら見て出づ冷房の外

スペイン内乱のころの作品であった。「アララギ」文明選歌のうちに、僕が高安国世の名を注目し出したのも、この作品の発表される前後からであった。やがて吾々青年のすべてが引き込まれて行く宿命の戦争を、僕らはまだそのころ冷房の匂う映画館の中にニュウス映画として見ていた。

又同じころ高安君は次のような作品をも作っていた。

   このままに歩み行きたき思ひかな朝なかぞらに消ゆる雲見つ

   ほそぼそと明るく降れる雨の中に飛び交ふ虫をしぶきかと思ふ

高安君の歌は、アララギ三段組の選歌欄に出はじめたころから、すでに破錠のない一応の技巧と、つつましい、若々しい抒情とをもっていた。昭和十一年十二月のころであった。まだ当時学生であった僕は、この、何か詩歌の育つべき環境の中にめぐまれすくすく育ったような同年代の未知の作者に少年らしい羨望と尊敬を感じつつ、私かに彼の作品だけ書きとる小さなノートを作ったりしていた。

高安君が「アララギ」に出詠し出したはじめから相当の技倆を持っていた理由を、僕は彼の未刊歌集(『真実』に先行すべき歌集であり、彼はそれに『若き日の歌』と仮題して、原稿を僕にあずけて行った)の後記によってはじめて了解する事が出来た。長文の未刊の後記はそれだけでも、ある時期の青春を語る創作のようなリリカルな文章であるが、その中に高安君が、めぐまれた文学の環境に育ち、すでに大正十五年のころから作歌を試み、牧水の選歌に投稿したり、加納暁などに歌稿を見てもらったりしていることが記されている。

そうしたはじめからの或る程度の技巧の素地と、環境的な詩歌文学の教養とは高安君の歌を乱すことなく、『若き日の歌』から『真実』に、ほとんど同じトーンでつづいている。

(つづく)

『真実』(高安国世歌集)私感」(ニ)

試みに前記の歌につづく彼の作品を、大雑把に年代順に並べて見よう。

   生きゆきてやさしき事に我あひぬ妻いたはりて父の言ふ声           (昭和十四年)

   陣痛をこらふる妻とふたり居り世の片隅の如きしづけさ             (昭和十五年)

   戦はいづちと思へばせきあへぬ心となりて空を仰ぎつ              (昭和十六年)

   生れし日雪ふみて見に来給へる父母が今日の汝も見給ひぬ          (昭和十八年)

   又更に友をば送り戻り来る月落ちし夜空ただに仰ぎて              (昭和十九年)

そうして『真実』の時期に移り、『真実』のはじめには、

   仮住みの部屋とりみだし居給ふをいたき心に今日も偲びつ

   夜よひに並びて眠る子なれども夢のうちにてその子と遊ぶ

   みどり児といへど女子(をみなご)の並び寝て寝床はやさし我らと子らと

のごとき作品が並んでいる。変化したのは「このままに歩み行きたき思ひかな」の甘美な抒情から「夜の床はやさし我らと子らと」の、作者の年齢的な経過経過、そうして、年齢とともに負つて行く生活の重たいかげ、直接作品に表れただけについて云えば、陰影的な、何か弱気な調子に作風あ変つて来たことなのであろう。

しかし、それにしても、とにかくどの作品を取って見ても、アララギの技巧の伝統を危うげなく受けついで居り、目立たないけれど西洋詩の感じ方が素地となって居り、地味な歌風でありながらやはりどこかアララギの一つ前の年代の作者の地味と云う意味とは違ったものを持っている。

高安君の歌が着実で地味であろうとする一つの評価のてだてとして、彼の取材の狭さを人は指摘する。彼の歌集をよむとほとんどが身辺詠であり、殊に妻を子を両親を歌った作品が多いのに気づく。それ以外に学生が出て来り少女が出て来り姉が出て来たりする。すべて彼の生活の周囲、くすんだ、憂鬱なしかしどこかしら貴族的な、書斎と教壇との生活の周囲である。彼の作品はその中で、弱気な、しかし彼のせい一杯の反抗と脱出の身もだえをつづけている。しかしその身もだえも人は知識人的な姿態とするであろう。そのことばをも高安君は受けなければならない。「高槻」十一月号において、五味保義氏が「体臭的でなくいつも神経による反応であり」という評語をのべているのは、高安君のある場合の身辺詠を評する時に手痛いことばである。

(つづく)

『真実』(高安国世歌集)私感」(三)

しかし『真実』の歌にはそれだけではないものがある。そうして、神経的なものからしだいにのっぴきならない作者の生活自体として、彼は彼の生活と、生活の業苦の如きものを、作品の中に正視しようとする(後半に至って著しい)。

   苦しき息つきて積木をつみてゐ幼き者にかなしみは無く

   思ひ出す限りの我に息せまり暁待ちて泣きし記憶あり

よむものはこれではまだあきたらない。

   智慧ぢきて小さき弟をいぢめ暮らす文哉の心理が解らぬでもなし

   舌もつるる義母が呼ぶとき二階より寝つつ我が呼ぶ畠する妻を

   かたみの孤独目守りて行かむとぞ思ひ極めしも常の時なりき

の如きになると、すでに生活感傷とだけ云ってしまえない生活の業苦のようなものを感じていたいしくさえある。さくしゃはいつもそれを独語的に、少し冴えないことばで歌っている。冴えの不足は時に作品の一種のかげりともなり、時に作品の案外常識性ともなる。高安君の歌は時々読者を一種の常識で突離することがある。

彼の作品の一つの特長として、対人的な素材に一種の心理の切り込みがあり、多くの作者が一歩立ち入った内容の形で気持なり場面なりを把えていることにきづく。

   口ごたへ我がして居れどかくまでに寂しき妻の言葉知らざりき

   男として仕事したしと言ふさへにいたいたしき迄に妻を傷つく

   かなしみを言ふに慣れざる父と我が妻病む朝を並び家出づ

   政治にかかはる限り此の友も我の孤独を知りつつ避くる

このような作風は無論かれだけのものではなく、一つの共同作業として「アララギ」の内部で拓かれて行ったものであるが、高安君の作品になるとやはり高安君らしい知的な陰影となって彼の歌を性格づける。幾重にもからみあったような心理は短歌の一つの近代性であろう。高安君の場合にはその裏にやはり近代文学の教養が伏線となっていることも自然なのであろう。このような作品はだれにでも出来るのではない。このような場合を歌一首にするという微妙な契機は、あるいは年代的な資質的に解る解らぬの大きな差があるのではないかと僕は思う。解らないものにとっては何かすっきりしない、気持をもってまわったような歌としか思わないであろう。

(つづく)

『真実』(高安国世歌集)私感」(四)

制作の時日の順序に僕はこの批評を書くつもりではなかったが、僕の文章はいつかしらそのようになってきた。このへんの歌はすでに歌集の後半である。

彼の作風は『真実』の後半に至って、精彩を放ってくるのではなかろうか。否、ほとんど『真実』の巻末に至って、彼は何か本質的な方向をさぐりあてて居るのではなかろうか。

本当は僕の言いたいのはその事である。僕はすでにいくつかの高安君の歌集および作風の長所を云々した。しかし、僕は『真実』のもつ一番大事な意味を今まで言わずにきたのである。

   いさぎよく刑に堪へたる彼の日よりためらひもなき友の幾たり

   我はただやみがたき心の呼声に従ひ行くと言ひ切らむのみ

「理論」と題する一連である。

   歴史的必然新しき倫理それもあれど様々の掛引に堪へがたくなる

   ニューヨークのホテルにて早く自殺せしエルンスト・トラー余生静けきトーマス・マン

   我はユダヤ人なりと静かに夫人言ひたれば図らず心ゆらぎたり

僕はこのような作があるために今迄高安君の作風を云々したのである。高安君はこのような作品を作り得ることによって一つのからを脱したのだと僕は思う。自分の世界、内にだけ閉鎖して行こうとする彼の詩を、も一つ広い世界に拡張している。僕の云うことは取材がどうかと云う意味なのではない。それなら次のような例もある。

   ビール飲む我にはればれと言ふ妻を蔑む心吾が持たねども

   我儘も又小心に終るゆゑ妻に煙草をのます灯の下

このような生活歌すら、もはや『真実』初期のものとは別個のものとさえ言えよう。何か屈伸の後に自在の場に出た感がある。やはり僕は平凡なことばであるが彼の作品の中の「生き方」の追求、その営為のあとを説明する他にない。

(つづく)

『真実』(高安国世歌集)私感」(五)

誠実なるインテリゲンチャの告白と聞く間に席を立つ大学生女子学生

壇上に苦しき告白に陥ちて行くありありと孤独なる文学者の声

誠実に自らを追ひ詰むる告白の幾何が若き胸に伝はる

野間宏の事を歌った「誠実の声」の一連、『真実』の中でも最も注目すべき作品であろう。僕はこの一連があるためにのみ『真実』が従来の多くの歌集と別個のものとして取り上げる意味を持つものと考える。この作品で作者はとにかく自分の問題を語って居る。僕らはこの作品をよむことにより、作者と共に物を考えることが出来る。これを詩歌の批判精神とも何とも説明することが出来よう。しかしそんな事を僕は今言うのではない。このような歌が僕らのあいだで大事な歌だと云う事を、高安君の歌をかりて僕は云いたいのである。そうしても一つ付け加えたい事は、もしかしたらこのような歌の意味は年代的に解る解らないの線が漠然とあるのではないかと云う疑問なのである。僕は最近切実にこの気持をもってきたのである。

おしい事に『真実』にはほとんどここで終っている。この後にこそつづいてもらいたかったのだが、高安君の歌風が『真実』の後にどのようになって行っているかは今の僕の範囲ではない。

人は僕のこの批評文を少し甘すぎると見るかもしれません。『真実』に対してはもっと高安君はつめたい批判を受けるべきであるかもしれない。僕が少しばかりふれてそのままにした作品の「常識性」の問題も、本当はもっときびしく追及されるべき高安君自身の問題であろう。

しかしとにかく、『真実』は僕ら相互の問題を語っているという点で、僕はやはり大切な歌集だと思うし、くりかえす如く、従来の多くの歌集と質的に別なものを持った歌集の一つであると云う事を結論することをためらはない。

批評者になって云々する事は容易であるが実作者として、例えば『真実』の後半に打開された方向を、固定化さすことなしに実際にどのように発展させて行ったらよいのかという問題の如き、その困難さはむしろ僕自身のことばとして、高安国世君に聞いてもらいたいくらいである。それと、僕はさきに僕らの生活の業苦と云ったが、生活人として負わなければ荷と時代人として分たなければならない責とを、どのように結びつけて行くのか、そのような場合、僕は同じ基盤で語り合うことの出来る今日の少数の作家として、高安君に、高安君の誠実な作歌に、本当に期待することが多いのである。(1949・11)

「若き友に答えて」

「わが指向する短歌」というテーマであなた方がお書きになるそうですから、便乗して僕も何か書いて見たいと思います。

第一に云えることは指向したって吾々の短歌と云うものはたちどころに変貌出来るような軽便な文学ではないと云うことであります。その証拠に、現代自らレッテルをはった短歌に本物は一つもないと云う事でわかります。

そう思うと、時々ぼくらは、自ら宣言し自ら文章を書くことを止めようかと思うようにさえなることがあります。

実作者にとって、歌論は常に作品のあとについて行くべきものだと考えています。つまり作品の言い訳であり弱気な解説であるにすぎないし、また本当はそうあるべきものだとさえ思います。吾々はそのくらいに自分の実作の位置を知っていなければならない。僕らは弁論大会に出ているわけではない。

何故僕がこんな弱気なことを書くかというと、月々ぼくのところへ送られてくる短歌雑誌に本当は目をおおいたい嫌悪をかんじるからであります。たれも大学生の如くしゃべり小学生の如き作品を作っている。人は作品を論ぜず、議論のことばかりを論じて躍気になっています。これが歌壇を作っている。

たれかが僕のところへ今年の歌壇に問題がなかったと云ってくる。その人たちは作品に問題をさがしているのか議論に問題をさがしているのかわからない。

だから、僕が指向することは、唯よい作品をつくることであり、そのためには、眼と腕とを高めるだけなのであります。芸術の一番の秘密は、本当は制作のアトリエの中にあります。その事は実作者の最後のことばであります。

ただ、僕らは生きて居る人間として、その上に止むに止まれない言葉をもっている。生きて行くために、内からさけばなければならない問題を持っている。

僕らは、結局どこかでこれに組まずして最後の作品を作ることは出来ない。しかしそれも技術と結びつかないときは本当は永遠の無精卵にすぎないのであります。

僕が今言えることは、僕の今の作品がせい一杯の努力であり、僕の文章は、歌に関するかぎり、あくまで自らの作品に遅れず進まずでありたいと念々していると云うことであります。そうしてその上で、まるで意地悪な象を引っぱっているような前進を、一歩でも自らの作品に加えたいと云うことだけであります。(1949・9)

「今日の恋愛詠」(一)

今の時代にどのような恋愛詠が作られて居るかを考えて見ようと思う。その場合吾々は無名の作者の作品をさがさなければならない。恋愛詠の多くのよい作品いつの時代にもそのように読み人知らずとして片隅の位置に作り残されている場合が多いのである。

だがそのためにこそ恋愛詠の純粋さの魅力、純粋の美しさがあるとも云える。恋愛詠の作者はいつも自分と相手に語るだけのために作品を作っている。その清さが短歌のような詩型の美しさを長く支えつづけて来たのだとも考えられよう。

だが、では今日之ら無名の恋愛歌の歌人たちはどのような作品を作っているのであろうか。すべて二十代と云われる、未知の世代が一体どのような恋愛をして居るのであろうか。今日彼らが最も敏感に身にまとって居る時代のかげを作品は具体的にはどの程度に陰影として居るであろうか。

   切子硝子の如き夕空よ憎まれつつ短き逢ひを続け行くべし       真下清子

   何時よりか知り給ふらしわが思慕が君の負い目となるは切なく

作者は都会の教養を身につけた知識階級の一人の少女である。思慕をよせる男性に憎まれて居ることをしりつつ、あがくような逢う瀬をつづけて行かなければならない。そうして自分の思慕はすでに相手の気持の負い目となって行くことを知る。それをどうすることも出来ない片輪の車のようにせつない恋愛である。僕はこのせつなさをやりきれなくも思う。そうして、今日の恋愛歌の多くが、女性のがわから男性の側にこのように歌われて行っていると云うことに、僕は一つの類型をさえ感じるのである。

しかしながらこの作品は美しい。この心理の屈曲の先に今日の時代に生きて行く若い人々の恋愛が象徴的に把えられている。街角の霧の中に澱むような近代人の恋愛の心理の姿である。

   はげしく言ふ吾にさからはず君あれば尚たのめなく焦立ちて来る    富田良子

   理性なきは醜しとためらはず君云ひしたまゆらより又吾の苦しみ      同

一読して前者より幼い作者であることが知れよう。むしろあどけない恋愛の作である。それで居ながらなおここでは求めて求めきれないものへのいらだちが訴えられている。同じところに屈んで居る少女のように、屈んでつちをいじる孤独な少女のように、この作品は歌われている。前者が心理的であるのに対し、これは生理的なにおいさえある。しかもそれが例えば晶子などの作品に見るような圧倒的なものではなく、何か合致しないものへのもどかしさとして歌われているところに、前者と同じく戦後の相聞歌の一つの典型を感じる。

(つづく)

「今日の恋愛詠」(ニ)

   共に帰る夕べを待ちて並びゆくに髭ののび給ひしを吾言ひしのみ   三宅千代子

これは都会に働く少女の作品である。働き合うもの同志の恋愛である。切ない、夢のない一つの恋愛の場面だと人は云うだろう、だが何と云うあわれな美しさをこの作品はもっているのか。ここには前の少女らの作品のような心理も生理もない。だが重く水面に引いて行く街川の水脈のように、曳かれて行く近代生活者の生活のかげがある。地味な、夢のない、だが夢のない故にこそ本当は美しい、一つの恋愛がえがかれている。

三人の例により、僕は今日の時代の恋愛が、女性の側から作品としてどのように把えられているかを先ず見た。総じて女性のほうが真実であり大人びており、そのためにともすれば喰い違ってゆく恋愛がいくらか悲劇めいて歌われているのは、著しい今の相聞歌の特長どようである。

   吾が為に傷つく稚き心知る知りてほのぼのとなりくるは何故     鈴木定雄

考え方によれば何かもってまわったような気持でもある。しかし同時に淡い切ない恋愛の一つの場合である。「君が為に傷つく稚き心知る」とはなかなか渋い甘美な把え方である。傷つく心を見ながらなぜ自分の心はこのように淡くあこがれて行くのであろうか。このような幾重にも入り組んだ恋愛感情の甘さは、作品としてはこれまでにはあまりなかったのではなかろうか。そうした意味でも今日の恋愛の一つの資料として面白いと思う。

   愛さるる事にも慣れて過ぎ行かむ汝が寂しさを吾は知るなり     太宰瑠維

この作品は従来の相聞歌に比べると何かまっすぐでないものがある。それで居ながらどこかしら甘美である。何か常ににえきらない物の云い方をしながら、底に常に甘美な感情がある。このことはすでにあげた女性の作品と対比的である。女性の作品の方にはもっとせっぱつまった所に自ら身動き出来なくした悲劇めいた所がある。男性の作品はそれに比べて、にえ切らないような甘美だがある。

(つづく)

「今日の恋愛詠」(三)

   泥の如き苦しみだけが吾に残り「美しい自由のために」彼女は生きると云ふ 細川謙三

この作品なども今日の一つの恋愛詠の典型であろう。こんな無技巧な暗さが、一種の稚い甘さと相ともなっている。

   病にたへわが生きなむに寺田和子死ぬことなかれ毒のむなかれ    出崎哲朗

このような作品もある。このような作品が二十代の作家により今日歌壇の一隅に歌壇と関わりなく作られていることを吾々は知らなければならない。

僕は手近かなところに便宜的に例歌をさがした。すでに結論は出されていると思う。

二十代が分裂の世代であるとか創痍の世代であるとか云うことばより直接に、作品は彼らの生き方をかたっている。

これらと対比させるために明治から大正にかけての古典的な恋愛歌を少し記して見よう。

   なんとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな      晶子

   ふくらなる羽毛襟巻(ボア)のにほひを新しむ十一月の朝のあいびき  白秋

   やすらかに汝の夫を愛せよといひやりしより二秋をへぬ        夕暮

   水のべの花の小花の散りどころ盲目になりて抱かれて呉れよ      茂吉

   山の上は秋になりぬれ野葡萄(えび)の実の酸きにも人を恋ひもこそすれ 文明

こうした作品と、今日の無名作家の相聞歌とを比べて人はどのような感想をもつであろうか。無論今日の之等の作品が単独に生じたものではない。今日までには自らな変遷と、その間の作家と作品とを埋めて考えなければならない。

だがとにかく、作品一首一首の優劣とは別に、僕は短歌がとにかく今日までに実質的になり、人生と人間心理とに切り込んで来たという深化のあとだけは感じる。これを簡単に作品の進歩だとは言い切ってしまえないかもしれないが、短歌というものが、どのような概論的否定にも拘わらず、この程度にまで作品の屈折と深さとを持って来た遷移のあとを、やはり僕は貴重なものに感じている。(1949・8)

「作品評価の規準」(一)

すべての事が今語られており、短歌はあらゆる主張によって装われている。そうしたことばが作品とどのような風に関り合ってゆくのであろうか。僕は作られて行く作品と並置して見よという程に意地悪になろうとするのではない。どのような言説にも拘わらずよい作品はよく愚劣な作品は愚劣だという、どうにもならない規準を見逃しては居はしないか。否、も一度その素朴な問題に立ち返って見る必要はないであろうか。そんな事を僕は考えているだけである。夏期短歌講座のあとに綜合歌会があり、その席には多くの作家が出席した。土岐さん、長谷川さんらの年輩の作家から僕とか宮君とかの若い作家まで、十数人、年齢的にも差があり制作の立場もそれぞれに多様であった。

歌会のあと土岐さんが立って短い感想を述べた。それはこういう意味であった。いろいろな立場、いろいろな主張の人が集っていながら、作品に対する評価がいざとなるとほとんど一致していることを興味深く思った。このことは今日作品とその評価が、かなり高い共通のレベルの上に立って行われていることを意味するものではなかろうか。そのようなことばであったと思う。僕は土岐さんの指摘を大変面白く思うと同時に、次のような平常の僕の疑問をもついでにといてもらったような気がした。

それはこういう事である。

今日色々な同人雑誌がさまざまな主張と作風によって発行されている。ある意味ではすべての芸術論が短歌の世界で縮冊版を出している。そうしてその雑誌にはたいがい選歌欄の頁があり、感動する作品というものがほとんど其処だけにのみ見られるという現象、更にも一つ面白いことは、これらの感動する作品が主張を異にするA雑誌B雑誌の間に、ほとんど性格的な差を持つことなく、何か共通のものをもって通い合っているということである。僕は皮肉を言っているのでも何でもない。吾々は共通の眼を持ち規準を持っている。装われた吾々の歌論の奥に、吾々はも一つ、もっと根元的なものを持って短歌を見ているのではなかろうか。そうだとすると、その根本的な作品評価の規準とは一体何なのであろうか。僕はそのようなことを今しばらく考えて見たいだけである。

そうして、それらを知った上で、歌壇はしばらく意味のない饒舌のやりとりをやめるべきではないかと思う。吾々は作家として作品だけを作ってをればよいと、今さららしく言おうとするのではない。だが少なくとも作品を離れてゆくだけの吾々の口舌の空しさを、吾々は吾々のことばの表か裏かのどこかで互いに知った上で物を言い合っていたいと思うのである。

「作品評価の規準」(ニ)

僕は短歌作品の根本的な評価の規準を、三つの事に今は要約して考えている。

その第一は、作品が何よりも先に詩であるべきだということである。しかし何故このような事を今さら言わなければならないのだろうか。このような反問に僕は赤面しなければならない。

だが、続けて僕は次のように言わなければならぬ。短歌の作者は、何よりも先に詩人でなければならない。生得の詩人でなければならないと云う事なのである。

之は決定的なことである。僕らは其処まで帰って制作をあきらめるか始めるかしなければならない。短歌はあまりにこの点をあいまいにしすぎていた。歌人はあまりにお互いにその手前で物を云いあって居た。

僕はかって「詩魂」ということばを使った。詩とは一人の人間のほとんど生理現象とも云うべきものである。其の生理を持たないものに短歌の真実は知るすべもないものである。

僕らはこの点を今もっと明らかにしなければならぬ。短歌とは万人の唱和の方式でやたらに作られて行くべきものではない。短歌はだれでも作れますなどという大道山師めいた俗論は止めなければならぬ。

そのために僕は歌壇はもっと衰微してもよいとさえ考えている。

だが僕は第二の規定に移ろう。

第二に、詩は作品として造型されて居なければならない。短歌として、定型詩の形として、造型されて居なければならぬことである。之も当然の条件である。

しかしながら、今日の短歌がこの点でどのようにあやふやなものであるかを僕は今云いたいのである。例をあげると八つ当たりになるだけである。人はどのように造型の意味を解して居るのであろう。

僕はよく歌をはじめたばかりの若い人に、今の歌には何を云っているのかさっぱり解らないのがあるが、あれを解らなければならないのかと問はれることがある。そんなものは解らなくてもよいのだと答える事にしているが、そうした作者にしろ、人の作品の評価は割りにあやまらないものなのである。そうするとこの作者の作品評価と自分の方法との間のギャップがどう云う事になるのか。

定型詩に於ける造型の意味とは、あくまで定型に自然であるべきことなのではなかろうか。そのために必要なのはことばを組合せて行く工夫、つみ上げて行く工夫でなく、むしろ逆に溶け合せて行く工夫なのではなかろうか。ことばとことばが一首のなかに相平衝し、互いに無理なく一つの意味を作って行くことなのではなかろうか。

定型詩の造型の苦労とは、本当は作品を意味の上では平明にして行く苦労なのである。作品はあたかも風のように、定型とされた完全なことばの姿で、人の耳に口に、自然に伝い伝わり合って行くことを僕は一つの理想と考える。

僕らは本当は始めから短歌とはこのようなものだと云う漠然とした輪郭を知ってかかって居るのではなかろうか。無論この輪郭は常に時代と共に遷移し、拡張して行くものなのであろうが、それにも拘わらずやはり一つの輪郭が予めあることは云えよう。そうして、それを最も素直に受け取って居るのが初心の作品なのである。僕が初心者の歌には何かしら規準的なものがあると云ったのはこの意味である。

人はだからこそ其の先験的なうけとり方から身を外すばきだと反駁するであろう。当然である。吾々はお互いにこんなことをいつまで云い合っていればよいのか。すべてを自分の問題として吾々は考えて居ればよいのである。

(つづく)

「作品評価の規準」(三)

こうして僕らは一応の作品を得る。その上で第三の規定を考える。

それは、このようにして作られた作品が、どこかで、何らかの意味で作者のモラルによって貫かれていなければならないということである。作品にはどこかで作者のモラルがかたられていなければならないと云う事である。

生き方といえばよいだろうか。吾々は作品のどこかで、吾々の「如何に生きるか」の問題を提示していなければならぬ。

意地悪く一首一首を外して行けばそんな問題を一人の作者から見出すことは困難であろう。そのようにして一人の作者を否定することは容易である。それにも拘わらず本当の作者はどこかで自分の「生の営為」の問題を語って居ることを事実とするだけである。

だからこそここで最後の批評が短歌の上にも成り立つのだ。作者が如何に生き如何に思想しているか、作品はここで本当に批評と血を流し合わなければならぬ。唯、そのためには作品は先ずあくまで第一第二の条件を具えていなければならない其の上での事なのである。詩作品でないものの如何なる問題を論じ合っても、それは文学に用のない範囲でだけのことである。

だが、問題を少しもどそう。

第三の条件、作品の思想性の問題、この条件がはたして過去の短歌作品にどの程度に見られたであろうか。僕はこの点を戦後短歌の一つの成就であるとだけは云い得ると思っている。そうして簡単に今日の短歌の新しさが何であるかと反問された場合に、一応の答えとして用意している。現代の短歌作品が、とにかく今日の切実な吾々の生き方を端的に語ろうとして来たこと、このことを短歌の新旧を分つひとつの規準として僕は考える。

だがすでに述べたようにこの条件はあくまで、出来上がった作品が語る問題なのである。一つの詩作品として出来上がった短歌が、結果として語っている作者のモラルなのである。

批評はよくこの点をまちがえて行われている。作品になってもいない作者の思想なりを論じていることに、僕はどうも疑問をもってならないのだ。僕の方がまちがって居るのか。僕は文学の場では文学の語る問題だけをかたればよく、文学を通しての作者だけを論じればよいのだとかたく考えている。

「作品評価の規準」(四)

作品評価の規準として之等の三つの条件は単純のようであって本当は決して容易なことではない。

たとえば、すでに僕は新しい短歌の方向として第三の条件の強調をあげた。ことばとしてはそれで一応つくし得よう。しかし、作品一首の新旧はそれだけで説明し得ない点にまだ大切な問題があるのだ。作品の近代性などと云う問題を各々実作者は批評家のように簡単に解説しきれないのだ。作品が告げてくれるイデオロギーだけでは単純に分類し得るものではないのだ。

もっと作品にあらわれない面に根をはった問題があるのだ。新しさと云うことは議論の如何に拘わらず触知し得るものがある。それは作品のモラルだけで説明されるだけのものではない。それが一つの大きな条件だとしても、作品の造型の面にも、その奥の詩の質にも、直に触知し得る新しさと古さと云う事が別個にあるのである。

そうすると僕はすでに記して来た第一の条件、第二の条件に出来上がった理解だけで安心してだけは居られない事になる。作品が常に新しくなければならないと云うことは、評価の決定のための大事な要件なのであるから。

作品は常に独自であり清新でなければならないことは論を要しない(芸術では清新さの問題はほとんど作品自身の致命の問題である)。

しかし作品が新しくあること、清新であることは、作品一個のどこに関って来るのであろうか。どこに現れて来るのであろうか。

それはすでに記した三つの条件にそれぞれに具体的に現れて来る筈だ。そうして作品のモラルの問題はこの場合説明が簡単であるが、他の要件の面、詩と造型性の場合には中々簡単に説明が出来ないのである。

例えば詩の新しさとは何であろうか。それが単に素材の新しさ、独自さだけでないとしたら、どのように説明すればよいのであろう。

この場合やはり僕らは作者の詩人としてのセンスの新旧にまで考えを持って行かなければならぬ。詩のセンスが作者の生き方――モラルだけで規定しつくされないところにも、今日の多くの進歩的な作品に問題は残されて居ると僕は考えているのだ。

では新しい詩のセンスとはどのようなものであろうか。僕はそのすべての説明のてだてを今知らない。だが少なくともそれは、旧いものにくらべて明快であり簡潔であり、ほとんど理知と切線をなすようなきわどい鋭い触れかたをなして居る詩の感覚だと云うことは出来る。

そうして又あるときは、詩をねぢふせるような形で詩を把える感覚だとさえ考えることが出来るのだ。

このことは、作者が新しい人間として持つ「生き方」によっても、本当は説明して行く事が出来るのであろう。それは僕等の「生き方」は、すでにかっての詩人たちのように無方向なものではない、とにかく一つの科学的な世界観に立っている、そのどこか数字的な明快さが、詩の角度の鋭さとして関連して来ることが、一応の説明として云い得られるのだ。僕らはこのような詩の感覚の面をかたるとき、簡単に近代主義などと分類する暴力的な言説に幾度も出会って来た。本当はそのようなものではない。

更に、此の感覚の新しい質は、作品の造型の問題にも関わって来る。作品は鋭角的に、即物的なものになって行き、感傷と表情の過剰を嫌って行く。

だが、そのような場合でさえ、本当の作品には、一線、清冽な詩感がつらぬいて居るのだと云う事を吾々は忘れてはならない。そうして、作品はあくまで短歌作品として、不壊の結晶をつづけて居ると云うことを、作品評価に見逃してはならない。作品の新しさは当然、作品の詩と造型の質を変えて行くであろう。しかしそのいつの場合にも詩と造型の本質は評価にあたって見失ってはならないと云うことを僕は語りたいのだ。

(つづく)

作品評価の規準」(五)

すでに僕は結論を云ったようだ。

短歌が定型詩であることはどんな作品をも定型であるがために一応は柵の中に入れてしまふと云うとんでもない滑稽を吾々にさせる。

しかも歌壇と云うところは、まづしゃべってから作品を持ち出して来ると云う習俗がある。そうして吾々はどんなことばをもしゃべる方法を知っている。

どれが本物でありどれがにせものであるか。あらゆる作品がごったがへして居る中に、吾々は何を評価の規準として作品の真偽を見分けるか。

評価の規準は決して奇矯なものではない。その最も根本的な尺度を吾々は持っていなければならない。作られて居るものが詩であるか否か、そうしてそれが短歌作品としてすぐれたものであるか否かを見分ける眼なのである。

僕は「詩魂」と云うことばを使った。本当はそれですべてをつくして居る。「詩魂」と云うことばは作者には恥部のようなことばであり本当は実作者がむやむに口にすべきことばなのではない。素面で持ち出して来ることばではない。それにも拘わらず僕は今、このことばを「歌壇」の真ん中にどうあっても叩きつけなければならない気持なのである。(1949・8)

(つづく)

「前線短歌の意味」(一)

   路地ゆけば吾が兵服に吠え立つる犬をしづめて支那人居りぬ   浅見幸三

悪夢のような戦争であったが、それを戦った吾々であった。『支那事変歌集』『大東亜戦争歌集』等、再び今よみかへし惻々と又胸にせまるものがある。追いやられた戦争であった。追いやられた兵隊であった。しかしとにかく前線で生きて行くためには吾々は何かことばにすがらなくてはならない。よい兵隊として生きよう、一人の日本人として死のう、それが結局は帝国主義侵略戦争の一つの駒として加わることであると知っていても、洪水のような時代の中に他にどのように生きてゆけばよかったのであろうか。今からならどのようにも批判が出来よう。しかしとにかく、吾々日本人が、日本の庶民が、カーキ色の服を着せられ三八式の手あかに汚れた銃を持たされ、異境の民と対峙させられた時のすべての声、すべての思想を、吾々は簡単にいま抹殺してしまうことは出来ない。

兵隊の歌は、とにかく過去十年の間の吾々の歌なのであり、今日の吾々の歌が、決して彼の戦争詠、戦地詠と断絶した別個のものだということは出来ないのである。

否、彼の日の戦地詠こそが、今日吾々の歌、戦後短歌への潜流の姿であったということはすでに他の箇所でも述べてきた。僕はそのためには過去の歌壇的短歌に対して「断層」ということばをも用いた。今日の短歌の主潮流は、その作家らがかって一兵隊作家として、所謂戦地詠なるものを歌壇と拘わりなく戦火の下に作ってきたという事実を抜きにしては考えられないのである。

異境の地に、生と死に、人間的なものと人間を否定するべき運命的なものとに、いやでも体面せずにはおれなかった兵隊の歌が、今ではほとんど想像も出来ないほどの検閲とのあみのめをくぐりつつ、どれほど彼らの本当のことばを伝えてきたか。それを具体的に見つけ出すには、かなりな困難と努力とを感じる。

なぜなら、彼らの歌は、とにかく表面てきには「打ちてし止まむ」のことばにおほはれているからである。それをしも否定し去ることは出来ない。またその事実をいま曲げて語ることは出来ない。散兵に伏せ、敵の銃の正面に立たされた時、兵隊は自分の銃の引金をもひかなければならない。そうしてそのぎりぎりの思いを、兵隊たちは、国のためだとか天皇のためだとかいう既製のことばでいい表すことを知っているだけである。とにかくそう思わなければあの時代の隊伍の中には生きてゆけなかった。

しかし大事なことは、逸れにも拘らず、兵隊たちの歌にはその底に何か一人の人間としての、一筋の本当の声があったということである。それをどのように表現すればもっとも適切であろうか。僕はそれを兵隊が一人の人間としての、非人間的なものへの抵抗という風に考えている。

(つづく)

「前線短歌の意味」(ニ)

「打ちてし止まむ」と口々にさけびながら、戦陣訓を誦しながら兵隊作家らはそれだけえはない、も一つその奥の声を前線作品によってひそかに語っていた。銃後の大家らが空虚な声をはり上げているときに、前線の無名の歌人らはとにかく一筋の清冽な人間の声をあの時代に残してきた。最後の線のヒューマニズムが、あの悪夢の時代に於いて、短歌の、前線作品に一貫してあったという事を、僕はこれからもくりかえし強調して行くであろう。

例えばはじめに記した浅見幸三の歌を見よう。僕らは戦火のあとのまだ硝煙の匂う街を想像する。巡邏して路地を行く兵隊、吠え立てる犬、それをじっと静めて見つめている敵地の民の眼。それは敵意だとも云えない。無論人間愛とも云えない。何か眼に見えないうつうつとした圧力に対抗して行く、息苦しい一人の兵士の思想を人はこの作品の奥によみ取るであろう。しかしこのような歌が、何もかも忘れて阿修羅のように銃の引金を引いている彼らの姿と常に並んでいる、否、そのような前線作品の間にふとしたように交わっているのだということをも吾々は知っていなければならない。

   樺枯れし丘に夥しき墓標ありここに悲惨な攻防が続けられき    渡辺直己

   逼り来る戦の幻影に悩みつついつしか吾も兇暴になりぬ

   壕の中に坐せしめ撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま

   涙拭ひて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき

人はこの悽惨なことばの間々になにかやりきれないまでに作者が己れにむけたはげしい刃をも感じるであろう。僕はそれを今ことばで説明する方法を知らない。それは悪鬼のようにならなければならない戦争の中の、悽烈な人間の肉声の声である。それは従来のようにあまったれたヒューマニズムなどという言葉でいい下すことは出来ない。涙拭きつつ逆襲し来る学生軍に対し、作者も涙を拭って戦わなければならない。ここにはすでに現実へのたくましい正視があるだけである。そうしてその先にこそはじめて解決がある。このことは今日の吾々の態度ともなる。吾々はその先に悪夢のさめたような戦争否定の思想を引き出すことが出来のである。そこまでを語って迫ろうとする前線作品の本当の言葉を、作品の奥に吾々は決して聞き逃してはならぬ。

(つづく)

「前線短歌の意味」(三)

渡辺直己の歌とは又別な意味で、吾々は次の如き作品をも忘れてはならない。

   稲青き水田見ゆとふささやきが潮となりて後尾へ伝ふ       宮 柊二

   山くだるこころさびしさ肩寒く互いに二丁の銃かつぐなり

   ソビエトに野火ひろごりて思はざる所に爆発する地雷あり     池田邦基

   構内に入れ替へを為す気缶車があな寂々と鳴らす鐘の音      川根小石

   大陸に渡りて日浅き若き兵砲身馬ひきて実戦に出づ        三好 浩

   戦はすでに終れり吾も捕虜も小さき井戸の水くみ争ふ      山上源治郎

   雪炎をあげれ過ぎゆく縦隊はすでに夕べのいろに紛れぬ     吉田福太郎

これらは直接には何も語らない。だが人はその底にたたへた水のような清いさけびを見逃さないだろう。戦争詠は多くこのような形で作られた。血みどろな野戦の、ふとした時のためいきのようにつぶやかれて。

そうしてこの清冽さを、僕は兵隊のヒューマニズムだといっても人は否定しないだろう。少なくとも自ら火の下にたった人々はうなづいてくれるであろう。

これは一つのプロテストである。みにくい人間殺戮の罪悪の中に、非人間の凍野の中に、とにかくも守って行こうとする人間性のともしびなのである。戦争の時代につぶやかれて行く人間のプロテストの声なのである。

このような美しい人間の詩が前線では作られて居た。再び云う。既製歌壇が空虚な銃後短歌を作って居るときに。

そうしても一度云えば、之は前線作家の、意識したプロテストの精神である。

討伐から黙々と帰って行く隊伍の兵隊は、互みに銃をかつぎあって行く。之は戦友愛などとだけ云うものではない。この孤独の中に作者はもっと広いたしかな愛情にふれようとする。僕らは草木もない大陸の山々を想像しなければならない。又、一人の兵隊は防寒衣につつまれたはてしない広野に歩哨に立って居る。はるかにひろがって行く野火の、この美しさの中にはぜる地雷はほとんど音も聞えないのであろう。ここには語られないヒューマニズムがある。かえってこの日には故国日本の文学であった。

又僕は今次のような歌をも思い出す。

   秋たちて羊歯ひたゆるる峡ふかく野田の醤油を兵負ひゆけり    高木八郎

この歌はすでに戦争が末期に近くなったころの作品ではなかったかと記憶している。戦争がどこに向かいつつあるかを知らず、兵隊は大陸の峡深く己れの陣を守っている。黙々として素直なその運命への服従すらあはれである。兵隊が背負って帰って行く野田の醤油に作者が感じたものは何であろう。このように滲みこんでくる美しい感傷が、前線詠のヒューマニズムだと説明して不当であろうか。僕はこの歌を、秋の午後の日差しのようにあわれだと思って読んだ記憶がある。しみじみといかなる日にも息ずいている、深い人間愛の声である。

(つづく)

「前線短歌の意味」(四)

戦争の憎悪の中に、兵隊たちは自ら生きて行くためには、守って行かなければならない灯が憎悪とは別にある事を知らねばならなかった。それはすべての非人間的なものに対立する人間の精神である。戦争と云う運命的な――少なくとも一兵士にとって――暴力に対して、前線の作家は常に一脈の清冽な抗議をその作品によってつづけて来た。多くの場合は自ら意識することなく。或る場合は美しい心の一隅を守ることにより。

前線のヒューマニズムが、何故一つの反戦的な意識にはっきりと形をとらなかったかと云う今さららしいせんさくは止めよう。僕らは一つの事実として過去の一群の作品に対へばよい。前線に戦ひ作歌したものは、他人ではない、吾々であった事を考えればよい。

僕らは、前線作品が、性格的にそのまま戦後短歌に移転しているということを常に考える。

それは作者が、時代的に相重なっているというだけの事ではない、もっと大事な事を意味する。

兵隊作家たちが前線で、生と死と対峙しつつ見出してきたもの、それを吾々は敗戦の日本の現実の中に、如何に生きるかの苦しみを自らたどりつつ再び同じように見出して言った。あらゆる人間抹殺の暴力に対する、ヒューマニズムの抵抗と一言にして言えよう。その具象の場合の作品として、僕は、前線作品と戦後作品との間に一致する一つの方向線を感じるのである。

そうして僕はかって今後の短歌の方向をきめる一つのてだてとして、戦前の選歌欄作品―前線作品―戦後作品、と言う図表をひいたことを思い出す。この三者の間には同じ一つの血脈が流れて居る。あらゆる非人間的なものに対する人間の抵抗という形に於いてである。そうしてその故に僕は過去の平和な歌壇的作品との間に断層があることをも告げた。

僕の今日の仕事は、とかく忘れられがちであり、又、そっとしておこうと人がしがちであった作品に対し、その本当の意味を解明する事であった。この事は僕のひとつの宿題でもあったのだ。

小文を記しつつ、僕は死んだ小名木綱夫君と、いつかは前線作品の本当の意味を書き記さなければならないと語り合った事を思い出す。小さな私事の記憶を結びとしたい。(1949・6)

「把握の眼」(一)

送られて来る歌誌を一通りよむ。するとその中に時々はっとするような歌に出会う。たいていそれは選歌欄の片隅につつましく組まれた歌である。ほとんどの場合稚拙であり、また僕の好みなのか女性の歌が多く、そうでない場合も多くは病者か何かの、たくまない、それで居て何かしら感覚の細かい歌が多い。

仙台の扇畑忠雄君の送ってくれた歌誌「群山」をばらばらと読むともなく読んで次のような歌に出会った。

   答案に捲き毛を垂れて書く少女(こ)らよ我は手帳に歌書きてたつ  三宅奈緒子

作者について無論なにも知らない。新制中学か高等学校の、きっと若い女の先生なのであろう。歌一首、欠点をあげればいろいろいえよう。第一下の句の事がらなど素朴だがすでに平凡である。稚いといえよう。しかし、それにもかかわらず僕はこのような歌に心をひかれる。水のような清澄なものを感じる。

何故であろう。僕はこれを「答案に捲き毛を垂れて書く」少女の、ほとんど作者の無意識な、だが不動な把握の眼、発見の美しさのためなのであろうと思う。

「捲き毛を垂れて書く」と云う、一見なんでもない無雑作なことばが、どれほどその場合に、作者の愛情の微妙なゆれを、透明に把えているか、恐らくこの作者は、この短い発見の効果をそれほどには知らないであろう。ほとんど無雑作にみつけたものなのであろう。むしろいえば、それは無心な、汚れない稚い詩情の眼なのであろう。今日の歌壇の既製歌人のほとんどがすでに失って居る詩の眼なのであろう。

しかし、も一つ言いたいことは、僕らはこの把握を「写生」だと言っている、ということである。「捲き毛を垂れて」答案にかがんで居るという作者の一瞬の詩の眼をのがさないこと、感動の対象の中にことばを把えることを、吾々は「写生」だと思っている。僕はこの数句をこころみにこの歌から消し去った場合、この歌がどんなに生気のないものになるかを知ることにより写生のよさを思う。

そうして、この歌から受けるような感動は、まだ歌に手ずれのしていない作者の歌に、僕はしばしば感じる。そうしたふとした歌により、僕は常に何かを教えられ、歌の基準のようなものを感じる。僕は常に「歌の作り方」を、このような清純なたくまない稚い、真摯な歌に学んでいる。

(つづく)

「把握の眼」(ニ)

「新泉」の選歌をしていながら僕は次の二人の少女の歌に印をつけて見た。

   西低き入陽の横をわが降りし電車がすでに小さく行くも       河原久美子

   何時よりか知り給ふらしわが思慕が君の負ひ目となるは切なく    真下清子

前者は本当に歌をはじめたばかりの若い病少女であり、後者はすでに数年僕のところに歌を送って来る東大生か何かである。年は同じぐらいだろう。よく知らない。

この二つの歌にはやはりある差があるだろう。例えば歌の新旧という点についても、或いは作品のもっている問題、幅という点からも。

だが僕は今そのことをしばらく措こう。大きな視野からすれば、どちらもまだ歌をはじめたばかりの、稚い少女の歌であるといえる。

そうして、しかも僕は、今降りたばかりの電車が、入陽の横の方にすでに小さくなって走っているという、何か普通な気持でない詩情にうたれ、自分の思慕が相手の青年の負い目になっていると感じるいかにも今日の知識的女性らしい影深い心理の、この美しさにうたれる。「入陽の横を」「わが思慕が君の負ひ目となる」、こうした把握は前の「答案に捲き毛をたれて」と異質なものではない。或いは更に言えば前にあげたことばの、更に複雑な場合、更に心理への把握の深い場合といえよう。

入陽の横を電車が遠ざかっているという感覚は、やはり病者であり、少女である作者だけの、しかも、作者は本当は何も知らないくらい深い把握なのだ。

ぼくらはこの把握を写生だといっている。歌の成否はこの数語がいるかいらないかの問題だとも極言して云ってよい。

そうして、それが、ほとんど歌だとか、歌の理論だとかを知らない初心の人々に於いてしばしばなされているという事実、どんな雑誌の選歌欄にも、いくつかこうした真実の眼を見出すことが出来ると云う事実を、僕らは考えなければならないと思う。こんな歌の前に、歌壇の歌など、汚れて、みぐるしいかぎりとさえ思う。(1949・5)

短歌の用語に就いて(一)

吾々歌人に対し何故吾々がいつまでも文語に執着し定型への愛惜を捨てないかと問いかけてくる、ほとんどきまった皮肉な口調ほど不快なものはない。割り切った素朴な論理に対し吾々の答えはたれが見ても無力であり、その形式的結論にみすみす共に落ちて行く吾々の弱いロジックは、結論の空白さを知り過ぎているだけに不愉快である。

吾々はロジックをもてあそぶ批評家と一緒に舞台に立って惨めな彼らの脇役を演じなければならないのか。何故吾々は彼らと一緒に彼らのことをしゃべらなければならないのか。吾々はだまって吾々の作品を彼らとは別の世界に一つ一つ築いて居ればよいのではなかろうか。このごろ僕はこうした文章を書くときどうにもならない自己嫌悪を感じてならない。

僕らははじめから歌人であった。定型の詩人であった。本当はすべて其処に行ってしまう。吾々はあらゆる芸術型式を点検して、そうして歌人になったのではない。そんな理想的な呑気な出発をしてのではない。吾々が自分を、自分の拠って居る文芸型式を自ら考えようとした時、僕らは皆すでに歌人であったのだ。定型と文語脈の美しさを愛し、短歌型式により吾々の刻々の生をたしかめ、作品として固定させて行く歌人であったのだ。

吾々は、吾々が文語にどのくらい知識があるかなどと計算して文語詩人になった訳ではない。吾々が文語に対する知識は短歌に対する知識と等量であり、吾々の文語の美しさへの愛情は、本当は短歌の文語への愛情と更に限定し注釈して云わなければならない。

だから吾々は歌人以外の人々が文語に対して持っている知識以上のものを特別に持っているわけではない。唯、伝統的詩型としての現代の短歌に生かされた、文語の、美しさ、場合場合を知っているだけだ。

文語そのものへの知識なら国文学者がもっと豊かであろう。僕なんか中学卒業程度の知識しかない。そうして、本当はそれでいいのだと思っている。唯、それが短歌という詩型の中で展開されえる、美しい言葉の建築の場合場合を、之はたれよりも僕らが一番知っているのだ。

(つづく)

新泉」の選歌をしていながら僕は次の二人の少女の歌に印をつけて見た。

   西低き入陽の横をわが降りし電車がすでに小さく行くも       河原久美子

   何時よりか知り給ふらしわが思慕が君の負ひ目となるは切なく    真下清子

前者は本当に歌をはじめたばかりの若い病少女であり、後者はすでに数年僕のところに歌を送って来る東大生か何かである。年は同じぐらいだろう。よく知らない。

この二つの歌にはやはりある差があるだろう。例えば歌の新旧という点についても、或いは作品のもっている問題、幅という点からも。

だが僕は今そのことをしばらく措こう。大きな視野からすれば、どちらもまだ歌をはじめたばかりの、稚い少女の歌であるといえる。

そうして、しかも僕は、今降りたばかりの電車が、入陽の横の方にすでに小さくなって走っているという、何か普通な気持でない詩情にうたれ、自分の思慕が相手の青年の負い目になっていると感じるいかにも今日の知識的女性らしい影深い心理の、この美しさにうたれる。「入陽の横を」「わが思慕が君の負ひ目となる」、こうした把握は前の「答案に捲き毛をたれて」と異質なものではない。或いは更に言えば前にあげたことばの、更に複雑な場合、更に心理への把握の深い場合といえよう。

入陽の横を電車が遠ざかっているという感覚は、やはり病者であり、少女である作者だけの、しかも、作者は本当は何も知らないくらい深い把握なのだ。

ぼくらはこの把握を写生だといっている。歌の成否はこの数語がいるかいらないかの問題だとも極言して云ってよい。

そうして、それが、ほとんど歌だとか、歌の理論だとかを知らない初心の人々に於いてしばしばなされているという事実、どんな雑誌の選歌欄にも、いくつかこうした真実の眼を見出すことが出来ると云う事実を、僕らは考えなければならないと思う。こんな歌の前に、歌壇の歌など、汚れて、みぐるしいかぎりとさえ思う。(1949・5)

「短歌の用語に就いて」(二)

だが、吾々今日の定型歌人が使って居る言葉が、一体本当は文語なのであろうか。いな、どこ迄の程度に所謂文語なのであろうか。

逆説めいた云い方だが――。

   砂高く揚がりて風は疾くなる緑のなかに緑うごきて

   にはたづみ流るる庭をわたり来てなびく緑を仰ぎつつ汲む

   沙ひくく西の光のしづまりて石の上に語り恋ふる日本

小暮正次の歌集『春望』の巻頭三首を例にして見た。本当は何でもよい。

「揚がりて」が口語の場合には「揚がって」であり、「うごきて」は「うごいて」であろう。明らかに之は文語である。しかし、同時に第一首の「疾くなる」の止め方の語感、「石の上に語り恋ふる日本」の語感は、ことば其の物が文語でありながら、本当はすでに文語の語感ではないのだ。少なくとも、吾々が古典なり教科書なりで知る文語的な感覚ではないのだ。

更に次の例を考えよう。同じように僕は成り心なく土屋文明歌集中の愛誦歌「高木今衛君満州にて落命」の一連をあげる。

   何をしても感謝されざる性格を君に淋しみき吾が影として

   わづかなる金のことにて君に対ひ吾は優越を感ぜざりしや

   思ひあまりし赤彦の怒おほよそに聞きすぐす君に吾も怒りき

とにかく現代の歌人で、文語を自由に駆使し得る教養と力量をもったこの作者の歌にして、僕はそのことばことば、特にその活用の部分が明らかに文語でありながら、一首に流れる感覚はすでに古典的文語ではないと云う事を感じる。

無論それは口語ではない。しかし「君に淋しき」と云うような屈折せた、陰影のある語法は古語として軟化してしまった文語とは別種の文語である。僕は今歌が新しいとか古いとかを言っているのではない。歌の新旧とは別個に、ここに何か新鮮なことばの感覚が動いているのである。

省略しきった、それでいて屈曲を持った、陰影をもった表現。きびきびとした、何かさはやかな表現。そんな事が吾々の文語では可能なのではないか。稜角の鋭い立体的な表現、一語一語が時計の歯車のようにふるえて動くメカニカルな表現。それが吾々の短歌の文語ではなされているのではないか。そうして、少し大胆に言い切ってしまえば、今日の口語で不可能な言葉の近代的な駆使が、短歌の上では文語によりなされているのだとも言える。

更に又、

いかづちの音遠くより聞こえくる昼さがりより一たびねむる    斎藤茂吉

の一首にみるような三句より結句へかけての複雑な時間の推移と心理のからみ合いを、このように少ない言葉だけで表現し得る文語的発想の長所は、僕は現代人の心理の細かな動きと共に、まだまだ次第に深化されて行くのではないかと思う。

(つづく)

短歌の用語に就いて」(三)

   わがために夕べの酒をさあさむと坂をゆきにき老い人さびき

   かりそめに吾の言ひたる避難所に家あけて吾等待ちにしものを

   初々しく立ち居するハル子さんに会いましたよ佐保の山べの未亡人宿舎

   世の中の苦楽を超えて君ありとも君の涙がいくらか分る

すべて土屋文明の『山下水』の中の歌である。はじめの二首とあとの二首とはやや時間をおいた別の時処で作られた作であり、前者が完全な文語表現をとられているのに対し後者には口語調が入りこんでいる。

しかし、同時に、この前後の二首づつの間には相当に明らかに劃する断層はないのだと言えよう。口語的な語法が入っていようといまいと、そんな事は一首を流れる語感の本質にはほとんど無関係に、この両系列の歌は同じ息、同じ感覚をもっている。

すなわち、一首を各言葉に分解して見て吾々の知りえる差、「老人さびてき」の文語々法と、「会ひましたよ」の口語々法は、それぞれ作品中に於いては同じ声調に、同じことばの色あいに生かされていることを感じる。前者がいるらか凄然とした感を与えるにに対し、後者がつつむような哀調を感じさせる、そのいくらかの差はあろう。だが全体に吾々はそれほど絶対的なニュアンスの差を見出せない。歯切れのよい、しかも陰影的な一首の調子をそうしたことに関係なく感知することが出来る。そうしてそれは近代人のことばのもつ歯切れのよさと陰影であるともいえよう。

そうすると問題は次のようにも考えられる。たとえ文語を使おうと、吾々はそれによって本質的に無関係の一つの言葉の脈を把えることが出来るのではあるまいか。

そうして之らの歌は、その外見的な文語構成でありながら、流れて居る語脈は本当は一つの口語なのではあるまいか、少なくとも従来の文語脈とは言い切れない、別な語脈なのではあるまいか、ということを感じるのである。そうして今日の短歌は、とにかくその一句一句は文語の姿をとり、その句々の互いの斡旋に文語的語尾をからみ合わせながら、本質的にはすでに文語脈ではなくもっと吾々の言葉に近いもの、広い意味での口語的発想の語脈によっているのではあるまいか、そんな事を今僕は感じているのである。

僕はこれを仮に口語脈の文語発想と呼ぶ。

吾々の短歌はことばの新しい展開にむかって居るのだと思う。

さっきも言った通り内容をつたえるための言葉の省略、時間空間的な飛躍的表現の効果、そうしてきびきびとしながら陰影の富んだ語感、すべてそうした効果を吾々は拓きつつ定型詩の詩語を、吾々のことばで工夫してきたのではあるまいか。

吾々の文語に対する知識は今日すでに広くはないと云う事を云ったが、吾々はその広さを本当に必要としない。吾々のことばは本当は文語的に律動して行く口語にすぎないのだからだ。そうしてそれが今日の短歌の文語なのだから。正体は口語なのであり、吾々はその文語的効果の一種の近代的な知的な美しさと律動をさまざまにこころみて居るにすぎないのだともいえる。

(つづき)

「短歌の用語に就いて」(四)

口語脈による文語発想という僕のことばに対し、文語脈による口語発想をいう言葉が自然に考えられる。そうした口語の一つの発展方向が考えられる。

その際僕はいつも近い例として三島由紀夫の散文を考えている。三島の小説のよしあしは別として、僕は彼の文章の一つの張りのある調子は注目している。いくらかダンディなあの調子は、新しいように見えて本当は王朝文学の調子だと思う。僕はそれを大変面白く感じている。三島の文学は口語でありながら、その底を一貫して流れているものは伝統的な文語脈のよさ、美しさである。彼が意識しているかいないかは別である。

口語脈による文語発想と、文語脈による口語発想と。僕はこうした二つのことばの流れに対して型通りな結論を今つけようとは思わない。

唯、今日の口語が決して完成したものではない、少なくとも詩のことばとしては不完全な、むしろいやらしいものも多分にふくんでいることばだと思っている。僕は自由詩の口語になした仕事を信じないのではない。ただ、まだ口語は、明治の言文一致体のあのぎこちなさから本当はそれほど発達する時間を通っていない、すくなくともまだ文語の美しさのすべてを凌駕するものになっていないことを何となく感じている。

僕は文学のことばとして文語と口語とが互いにもひとつ高い口語へとけ合うというような場合を漠然と感じている。

僕らの仕事はそのためにも意味のあることだと考えている。短歌はやがて在来の意味での文語は忘れてゆくであろう。しかし吾々のことばを文語の持つ美しさと洗練された多様な駆使でもっと広い律動的なものにして行くであろう。それはこれまでの口語のあのイージーゴーイングな態度と方法によってではない。

だが、ぼくは又自分のロジックに自ら迷って行ってはならない。水平線の彼方を描きながらいつか水平線の彼方に自分がいるような気になっているのが文芸批評家の筆あそびである。僕は結局今一首一首の短歌を作り、一首一首に何をしてゆこうかという事より以上に本当は何も言わなくてもよいのだ。

僕らは短歌という伝統的な詩型に駆使されて行く文語発想の律動と構成の美しさ、潔さを知っている。しかも、僕らが本当は今短歌で使っていることばは古典的な本来の文語ではない、それは口語脈の文語発想にすぎないのだ。吾々のことばの駆使にすぎないのだ。そうして功利的にいえば、吾々の間のことばはそうように吾々に選択されることによって次第に高次のことばとしての美しさを持ち新しい国語へと発展してゆくであろう。そんなことを僕は短歌作者として考えているのだ。(1949・4)

「現代短歌の本質」(一)

現代短歌と云うのを何に対比して考えるかによって問題のあつかい方が変わって来る。例えば万葉集とか王朝時代の短歌とかを考えて現代短歌と言った場合には明治二十年以後、落合直文とか正岡子規以来の短歌を問題にしなければならないし、別に又今日の短歌と云う意味では戦争以前、或いはその継続型としての今日の歌壇の大半に対して新しい動向を問題にしなければならない。

今僕は現代短歌の意味を後者に解釈して、考察を進めて行こうと思う。

今日の新しい歌と云うものを正確に把えるのは非常に困難である。多くの意欲的な作家がそれぞれの態度で作歌をつづけており、当然彼らは一応の理由として自信とを持っている。そのどれが本物でありどれがにせものであるかを見分けるのは、非常に困難である。現在の段階で歴史を把えると云う事は、特にそれが文学のような生き物である場合には、いよいよとなるとむつかしい問題である。

ただこれだけは云える。吾々は今日そんなに皆特殊な生活をして居るわけではない。一人一人の個性、生活、環境により、今日吾々お互いは複雑な生き方をしているが、別な見方をすれば同じ時代に生き、同じ問題に苦しみ、同じ生活感情を持っているとも云える。Aのくるしみは同時にBの苦しみであり、生きて行くためのAのうったえはそのままBのうったえとして相通じあうものを持つ。つまり吾々は今同じ基盤にたって生きている。特殊な階級、特殊な精神状態の人間でないほとんどの吾々が語り合うことばは、そんなに別々なものではないとも云えるのだ。

そうして、短歌というものは――文学と云うものは、この吾々の相通じ合うことばの間から生まれてくるものであり、互いに訴え合いなげき合い、語り合う感情の間から生まれてくるものなのだ。

そうしてこそ文学には意味があるのだ。そうした文学こそ吾々のお互いの精神的資産として、吾々の社会、吾々の時代に意義をもって来るのだ。

短歌と云うものがその例外であるはずはない。いな、本当を云えば短歌こそがその最もふさわしい文学型式である、とさえいえるのだ。

そうするといくらか困難な問題の理解の方法にいちぐちがみつかって来る。新しい歌の正体を正確に把えるのは困難だと云い、新しい元気のよい歌人たちがそれぞれ自信たっぷりに俺こそ本物だと云っている、それを見分ける方法のいとぐちが見つかるわけだ。

すなわちそれは、彼らの歌が吾々の生活のことばであるかどうかと云う事だ。

別の云い方をすればこうだ。吾々は同じ時代、同じ社会に生き、同じ生活基盤に立ち、従って同じ生活感情を持って居ると言った。Aの苦しみはBの苦しみであり、Aの切実な問題は同じように生きるためのBの切実な問題である中に、歌人というものが決してこのAでもBでもない別な人間ではなく別に階級人、別の社会人でないと云うのなら、彼のかたることば、その訴える詩は、当然吾々の同じことば、同じ訴え、同じ切実な問題でなければならない筈なのだ。否、詩人こそ――歌人こそ、もっともするどく吾々の共通の問題を把え共通の悲しみをなげき、最も早く吾々の間での苦しみを苦しんで行く人間であるべきなのだ。

だから、吾々は彼らの作品の中に、吾々の問題をさがせばよい。彼らの歌っている歌が吾々の歌であるか、彼らが作品に於いてかたり合う思想、訴えようとする生活感情がそのまま吾々の間での思想、吾々の間での生活感情であるかを見て行けばよい。

だから、一応の結論をだせば、今日の時代に生きて居る吾々の、お互いの生活感情が歌われて居る歌が、吾々の今日の歌、現代の短歌だと考えてよいのだ。

(つづく)

「現代短歌の本質」(二)

しかし、それだけで問題は終われない。吾々はいくつかその先の問題を考えてゆかなければならぬ。今日の短歌が、これ迄の短歌とどのように違っているかを考えてみよう。僕らはよく、僕らの歌が現れた形の面で、ほとんど在来の短歌と何ら変化がないと言った批評を聞く。

僕はそれも一応そうだと承諾する。なぜなら、ぼくらははじめから定型詩を作っているからだ。定型を作ることを自ら欲して、定型詩を作っているからだ。だから、僕らは無理をして定型の中で、いろいろとこころみることはあまり意味はないと考える。少なくとも形の上では。

むしろ僕は定型に最も素直であるべきだと考えている。最も普通な意味で定型歌であればよいと一応考えている。

今日の新しい歌が在来の、少なくとも戦前の短歌と異なっている点は、もっと内面的な性格に於いてである。

例えば利玄の牡丹の歌を考えて見よう。

利玄は咲きさかった牡丹の花をじっと見つめ、その美しさを把えようとする。ていねいに描いていることばが実は牡丹の花の美しさよりもっと奥の美しさを把えようとしている事も理解出来る。その事は同時に利玄自身の内面把れ、具象して行くことでもある。利玄の内の世界は静かで美しく、その感情は作品のまま直ちに読むものの心に共振を与えて行く。

だが、吾々にはその美しさに不安はないか。利玄と同時に、牡丹の花の美しさに静かに相対していることにわれわれはふと不安になりわれわれの周囲を見廻そうとは思わないか。そこだけが静かな美の世界と思っていた己れ自身の陶酔にふと不安を感じないだろうか。

それが利玄と吾々の時代との差だと云えよう。生活感情の差とも云えよう。吾々はもっと別な美にしか本当は住むことができないのだ。美しさだと云ったが、それは利玄の作品が美しいと云った意味での「美しさ」とはかなり違った意味での美しさなのだ。その意味では美しさとも云えない別な詩の世界なのだ。

も少し考えよう。利玄は牡丹を歌うことにより自分を語ろうとした。抒情詩であれば当然の事る。

読む側から言えば、牡丹により吾々は利玄のことばを聞く。生活感情を聞く。自分がどのように生を考えて居るかを聞く。

だがしかし、吾々は利玄のことば、思想、生活感情を理解し、同情することは出来ても、それがそつくり吾々の間の生活感情、思想だとは思わない。理解はつづまるところ理解だけであり、それがそのまま吾々の血肉につながるものではない。

吾々はもっとじかな、吾々の生活感情を、そのままのことば、思想を求める。吾々が今日生きて行くとき、吾々と同時に生きて行くようなことばを求める。

利玄の歌にそれが無いと同時に、吾々の本当の今日の歌にはそれがあらねばならない。その違いが、過去の歌と今日の歌との差なのだ。

要約すると、今日吾々の生きるための生活感情が、今日の歌になければならない。
(つづく)

「現代短歌の本質」(三)

だが、生活感情とは何であろう。それは生活の中での吾々の喜怒哀楽の感情の事だけなのであろうか。それだけでよいのであろうか。

かって利玄が牡丹の美しさに感動したように、吾々は今日ネオンの夜の美しさ、ナイトクラブの美しさに感動していればよいのか。かって千樫が外来米を喰う生活を自傷した如く、吾々はエジプト米に悲哀を感じていればよいのであろうか。

そうではない。と言い切る実際的にはいくらか危険ではあるが、本質的にはただしい。

僕は生活感情と云うものを、も少し動的に考えなくてはならないと思っている。

それは、唯生きて行く時の感情ではなく、もっと生きて行くもの自体の側から、どのように生きて行くべきかと考え、意欲して行く場合の感情の意味だと考えている。

いいかえれば、今日、吾々は如何に生きなければならないか、その吾々の生の追及のうちに自ら随伴して生じる喜怒哀楽の感情のことなのだ。

利玄には利玄の生活感情があった、ということは、利玄には利玄の、如何に生きて行くべきかの問題があった、ということにもなる。しかし彼の問題は吾々に理解出来ても、吾々の問題自体ではなかったことに、彼の作品の過去性がある。

現代の吾々の短歌は、吾々の問題自体を問題とする作者によって作られていなければならないし、その作者の生活感情、如何に生きるかの問題は、そのまま読む側の問題でなければならないし、それしかないのである。

そうして、も少し飛躍して云えば、吾々は本当はもう今牡丹などの話を聞きたくない、もっとなまな、じかな言葉を聞きたい。何を吾々は考え、苦しんでいるのかを、じかに語りあえるような歌をよみたい。いきなり言葉を思想を、投げ交すような歌を聞きたいとおもっているのだ。そのような間にはさまれた、お互い人間の、悲哀とよろこびに触れ合いたいと考えているのではなかろうか。

現代の短歌は、現代の吾々の問題がじかに語られていなければならない。如何に生きるかという作者だけの生の追及が、そのまま吾々のすべての間での問題となり得るべきものでなければならない。その意味で、詩人は――歌人は、一つの時代、一つの社会の、語り合われている思想、感情の代弁者でなければならないと同時に、ある場合は、たれよりも早く一人語り出すものとして、孤独な予言者としての立場に立たなければならないこともあろう。その場合、ひとり精神の貴族となることが、決して民衆から、社会から離れることではないと云う事も、吾々は理解していなければならぬ。本当の詩人とは、いつも同時にこの二重性格として、いくらか孤独に吾々の間に立って居る存在なのであろう。

(つづく)

「現代短歌の本質」(四)

過去に於いて正しい文学は、常に生の追及と云う形で提出されてきた。僕は利玄の場合にも利玄としてのそれがあると云う事を書いた。

だが、しかし、今ではそれがもっとじかな言葉で語られていなければならないところに、現代短歌の、在来のものに対する相異点が見出される、と云うことも書いたつもりである。

それは、戦後の吾々のおかれている世界が、常に右にするか左にするかというさしせまった問題で吾々を追いつめているからである。

吾々はしばしば思想ということばを使ったが、今、吾々にとって思想とは、もはや抽象的なものでも形而上のものでもない。生きるために今直ちにどうしなければならないのか実際の問題なのである。

しかも、それは吾々の間でのたれか一人だけが考えて居ればよいといったような問題ではなくそれが地上的であるだけに生きて居るもの皆の問題なのである。

吾々の文学における生の追及ということばが、実はもう呑気なものではおれないという理由もそこにある。吾々は牡丹により吾々の問題をかたることが出来るとしても、今の場合吾々はもっとじかな直接なことばで語り合い訴え合わなければならない、吾々の生き方を求めて行かなければならない地上に立たされているのだ。(1949・2)

「アララギ昭和初期」

(一)

大正十五年三月、島木赤彦が死んだ。赤彦は大正後半期の「アララギ」の事実上の主宰者であり当時「アララギ」の歌風はほとんど赤彦の歌風のもとに統一されて居たと云ってよく、ストイックな其の自然詠は、精緻な表現技法と共にそのままあたかも「アララギ」すべての歌風の特長であるかのように考えられた。

  日の光ゆふべとなれば岨のうへ目にたつほどの木の芽にほへり    土田耕平

  明け暮れに火鉢に燠をたもたせてひとり籠り居る冬ふけにけり    藤沢古実

  忙がしき往き来のなかに道を避け夜店の荷物立ちほどく人      竹尾忠吉

  冬日さす入江ふかからむ青潮の水泡うかべて波のさやげる      高田浪吉

かうした大正末期の赤彦影響下の作風は、昭和初期に入ってもしばらく根強くつづいて行った。例えば昭和二、三年ごろの作品を見よう。

  日のありど見えつつ過ぎし雪荒れは谷の檜原をはだらかにせり    竹尾忠吉

  草山の草ふく風や飛びたてる鴉の影を山にうつせり         高田浪吉

  こども等が遊びし庭の白すぢの消えぎえにして朝時雨ふる     鹿児島寿蔵

  夕日照る海原の波しづまりて四国の山は雲にかくりぬ        辻村 直

このような歌は、類型に類型をうみ、末ひろがりに、当時の「アララギ」の隅々に行きわたり作られて居た。そうして同時に、同じような傾向は全歌壇にあたかもそれが短歌の正統派の如く考えられ、無意識にまねられて行って居た。そうした、完成につづく短歌世界の固定化に対し、歌壇内ではいくつかの革新運動が生じ、特に当時のマルキシズム文学勃興の波に乗ったプロレタリア短歌の運動は、所謂「アララギ」なるものを正面の敵とし之に批判を加えて行った。

この批判に対し斎藤茂吉らが正面から受けて立ち、かえってその未成熟な公式主義を指摘して行った。プロレタリア短歌運動自体はいまだ生硬弱体であり、封建主義坊主主義などのことばだけをむやみに残してしばらくは片隅に離合集散をつづけて行くだけであったが、こうしたきうんを歌壇に生まなければならなかった昭和初期の時代的背景は「アララギ」の作風自体に影響を落さない筈はなかった。

  まづしさにありてするどくものを言ふこのたましひをまぐると思ふか

等すぐれた歌を作り、近代人の苦悩から出て新しい意識に立って行こうとした大塚金之助は早く「アララギ」から離れ去ったが、例えば昭和四年ごろの「アララギ」を見れば、その中には、

  外套をはじめて着たるこの朝囚はれの君を思ひ悲しむ       杉原皓三

  上野山くだる群集に反感のときのま湧ける我をぞおもふ      吉田正俊

等の如き歌が投稿歌中に交じり、赤彦以後固定化した自然観照の世界から再び現実の世界に「アララギ」の作風が脱出をなして行こうとする方向を見定めることが出来る。

(つづく) 

(二)

大正十五年三月、島木赤彦が死んだ。赤彦は大正後半期の「アララギ」の事実上の主宰者であり当時「アララギ」の歌風はほとんど赤彦の歌風のもとに統一されて居たと云ってよく、ストイックな其の自然詠は、精緻な表現技法と共にそのままあたかも「アララギ」すべての歌風の特長であるかのように考えられた。

  日の光ゆふべとなれば岨のうへ目にたつほどの木の芽にほへり    土田耕平

  明け暮れに火鉢に燠をたもたせてひとり籠り居る冬ふけにけり    藤沢古実

  忙がしき往き来のなかに道を避け夜店の荷物立ちほどく人      竹尾忠吉

  冬日さす入江ふかからむ青潮の水泡うかべて波のさやげる      高田浪吉

かうした大正末期の赤彦影響下の作風は、昭和初期に入ってもしばらく根強くつづいて行った。例えば昭和二、三年ごろの作品を見よう。

  日のありど見えつつ過ぎし雪荒れは谷の檜原をはだらかにせり    竹尾忠吉

  草山の草ふく風や飛びたてる鴉の影を山にうつせり         高田浪吉

  こども等が遊びし庭の白すぢの消えぎえにして朝時雨ふる     鹿児島寿蔵

  夕日照る海原の波しづまりて四国の山は雲にかくりぬ        辻村 直

このような歌は、類型に類型をうみ、末ひろがりに、当時の「アララギ」の隅々に行きわたり作られて居た。そうして同時に、同じような傾向は全歌壇にあたかもそれが短歌の正統派の如く考えられ、無意識にまねられて行って居た。そうした、完成につづく短歌世界の固定化に対し、歌壇内ではいくつかの革新運動が生じ、特に当時のマルキシズム文学勃興の波に乗ったプロレタリア短歌の運動は、所謂「アララギ」なるものを正面の敵とし之に批判を加えて行った。

この批判に対し斎藤茂吉らが正面から受けて立ち、かえってその未成熟な公式主義を指摘して行った。プロレタリア短歌運動自体はいまだ生硬弱体であり、封建主義坊主主義などのことばだけをむやみに残してしばらくは片隅に離合集散をつづけて行くだけであったが、こうしたきうんを歌壇に生まなければならなかった昭和初期の時代的背景は「アララギ」の作風自体に影響を落さない筈はなかった。

  まづしさにありてするどくものを言ふこのたましひをまぐると思ふか

等すぐれた歌を作り、近代人の苦悩から出て新しい意識に立って行こうとした大塚金之助は早く「アララギ」から離れ去ったが、例えば昭和四年ごろの「アララギ」を見れば、その中には、

  外套をはじめて着たるこの朝囚はれの君を思ひ悲しむ       杉原皓三

  上野山くだる群集に反感のときのま湧ける我をぞおもふ      吉田正俊

等の如き歌が投稿歌中に交じり、赤彦以後固定化した自然観照の世界から再び現実の世界に「アララギ」の作風が脱出をなして行こうとする方向を見定めることが出来る。

(つづく) 

「アララギ昭和初期」(三)

日華事変は昭和十二年にはじまるが、その前後に於いて「アララギ」は何人かの若いすぐれた歌人を生んだ。彼らの処女歌集はも少し後昭和十五、六年ころ相ついで出版された歌壇に色々と影響をあたへたが、その作品の実際に作られた時代は大体昭和六、七年以後の、戦争前夜とも云うべき時代であった。

『歩道』の佐藤佐太郎、『赤土』の山口茂吉、『春山』柴生田稔、『天沼』の吉田正俊、『青峡』の五味保義、それに歌集をいまだ出して居ない落合京太郎らである。

これらの一群の作者の歌風は当然一人ひとり相異なるものであるが、それで居ながらその一時代まえの「アララギ」の作者、土田耕平、藤沢古実、高田浪吉、竹尾忠吉、結城哀草果らの一群とくらべると時代的な性格の段差を感じる。

共通して云える事は、夫々の作風、態度の差に関わらず、何らかの程度に於いて、いづれも戦争前夜の日本知識階級のくるしみを、ひそかに自らのくるしみとしつつ作品化して居ると云うことである。このような特徴は中でも佐太郎、稔、正俊に於いて著しい。

   薄明のわが意識にてきこえくる青杉を焚く音とおもひき         『歩道』

   妻とぬる夜といふともさだまりて喜びありと吾は謂はなく

   国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず        『春山』

   いたく静かに兵載せし汽車は過ぎ行けりこの思ひわが何と言はむかも

   幾人か救われたりし鐘の音のうつつに聞けばひとりさびしゑ       『天沼』

   ただ民はやすけき生を恋ひ恋ふとこの北国に思ひまがなし

更に同時に、

しらじらと峡は咲けるさびしきに昨日も今日もわれは向ひぬ       『春山』

散り透きて明るき山の木立原入り来て石に胡桃を割りつ

の如き、知性を濾過した一種のリリシズムが「アララギ」内部に於いてこのような時代に一つの抵抗として作られて行って居ると云う事も記しておくべきであろう。

これらの作者は、戦争前、昭和六、七年ごろから太平洋戦争前にかけて仕事をした作者であるが、かあkるきびしい時代にかざまれた苦しみと抵抗との表情は、むしろ当時の無名作者の間に於いて著しかったとも云える。すでに戦地に立った作者も交じっている。

   面やつれたる人らおのもおのも銃負ひていづくにぞ行く続き行きたり  高安国世

   一国の人等相打つ現実をば我ら見て出づ冷房の外

   兵送る人中にしらじらとわがをりて声あがる時涙ぐみたり       金石淳彦

   言にあげす貧しき民ら召されゆき戦ふさまを何とか言はむ

このような歌は、さきにあげた一群の作品の歌と、又わずか異ろうとする。前者の歌をい「黙って軍靴を」街上に聞いて居るものの孤独な知性のことばとすれば、後者はすでにそのひびきの音を自らの運命と感じとらなければならない今一つ新しい世代の焦燥の歌とも云えよう。

(四)へつづく

「アララギ昭和初期」(四)

日華事変から太平洋戦争にかけて、茂吉は熱烈な国民詩人として戦争賛歌を作りつづけて行った。そうしてその一途な情熱と相比例する如く『白桃』『暁紅』『寒雲』の、茂吉一生の最高峰をなすべき作品群を、この時代に作りつづけて行った。

  あからさまに敵と云はめや衰ふる国を救はむ聖き焔ぞ

  弾薬を負ひ走れる老兵がいたくきびしき面持せるも

  前方の白色の塁も映りたりこの白色の塁を忘るな

  をとめ等の楽行進をわれは見てこころをどれりをとめ清けく

しかし戦争と云うものの正体は栄光的なものではなく、人間のみにくさを露呈する罪悪の場である。賛歌を作るものは後方にあればよいが、苦難の行軍をつづけ銃をとって殺戮を強いられるものは平和な民衆のひとりひとりである。所謂前線詠はこのような無名の兵士によって、拡大してゆく戦場のはてはてから送られて来た。

前線詠にはすぐれた作品が多く、又作者の数も――「アララギ」だけでもおびただしかった。昭和十二年から十四年の間の、日華事変の間のみの前線詠をあつめた『支那事変歌集』(アララギ年刊歌集別編)を見ても百十六名に及び、後の太平洋戦争のころのものを加えるとその数倍に及ぶ。ほとんどが、庶民の間から赤紙一つで駆り立てられて行った無名の兵士であった。

   永定河かち渉りただに殺入し友等斃れぬ聯隊副官と共に        上 稲吉

   路地ゆけば吾が兵服に吠え立つる犬をしづめて支那人居りぬ      浅見幸三

   寄り来りあかつき谷に友を焼き火の燃えたつを見つつ別るる      青山星三

   水深を計る騎馬ニ騎乗入れし水音をこの夜更け聞きをり        生井武司

数多い無名の前線詠の作者の中から、渡辺直己の名を逸することは出来ない。同じ前線詠でありながら、一召集将校として、帝国主義侵略戦争以外の何物でもないこの戦争と知りつつ自ら戦わなければならなかった一知識人としてのくるしみが、彼の戦死の後に作品として数多く残された。渡辺直己の苦しみは同時に無数の戦時下の日本の知識人の苦しみであり、それをそのままぶっつけ作品化したところに彼の仕事の位置があった。

   ?の中にひそみて最後まで抵抗せしは色白き青年とその親なりき

   涙拭ひて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき

かかる彼の作品の語るものは暗澹とした戦争の行方の予言ではなかったのか。

戦争が悲劇的な終末をつげようとするころ土屋文明は大陸の戦線各地を旅行し、『韮菁集』の作品を作った。

   道のべに水わき流れえび棲めば心は和ぎて綏遠にあり

   オルドスを来りし駱駝荷をおろし一つ箱舟の渡す時待つ

   全体にみなぎる哀調は、戦争の終末とそれを見て居るものの孤独な知性の眼なのであろう。

(つづく)

「アララギ昭和初期」(五)

終戦後「アララギ」は小冊子として再刊された。再刊以後、主として五味保義が編輯にあたった。文字通り、青山の焼跡の瓦礫の間から再出発したとも云えよう。斎藤茂吉は山形にあり、土屋文明は群馬県川戸に疎開して居た。いづれも東京で家を焼いた。岡麓は信州に病んだ。若い会員の多くは戦地にあった。

戦争中数多い戦争歌を作りつづけた茂吉は、それだけに敗戦による精神的敗北がはげしかった。彼は大石田で病み、にはかに年老いた。そうして切々としたかなしみの歌を多く作っていった。

   くやしまむ言も絶えたり炉のなかの炎のあそぶ冬のゆふぐれ

   うつせみの吾が居たりけり雪つもるあがたのまほら冬のはての日

文明も又群馬県の山村にあって敗戦後の日本とその行方とを見て居た。『山下水』はそうした時期に於けるすぐれた作品よりなって居た。

しかし、彼ら老歌人の仕事とは別に、敗戦を一くぎりとして、「アララギ」の中からは又一つの新しい作家層が生まれ出て来た。所謂三十代として、戦争の中に、身をもって生き耐え生き残って来た層である。彼らはすべて、一度は戦場に出で、ある者は戦場から敗戦の日本に苦しんで帰って来た。

終戦後数年、この一群の作者の仕事は、「アララギ」内の更に若い層に著しい影響を与えたのみでなく、歌壇全体にさまざまな問題を提示した。

提示した問題とは何か。短く云えば、戦後の日本の転換期のさ中に人間ひとりとして如何に生きねばならないかの作品的追及の問題であった。そうしてそれが人間一人の生き方の問題から、結局は更に、社会とか、歴史とか、政治とか云ったものとのからみ合いに移って行かなければならない所に彼らの苦しみと新しい抒情の契機とも云えよう。

合同歌集『自生地』は、こうした一群の新人層の作品をあつめている。その一部を抄出する。

   信じ得るもの又己れのみ地下に入る事を期しつつ人は行けども     近藤芳美

   人の命裁き抑揚のなき言葉ちまたちまたに今日一日あり

   君の憎しみ吾らの祖国敗れたるけふぞかなしきわが民族心も      金石淳彦

まち得たる君らのけふに来にしもの待ちたる如く来りしや否や

躇へる心ながらに君を呼ぶ党に孤独の文学者きみを          高安国世

誠実に自らを追ひ詰むる告白の幾何が若き胸に伝はる

入り来り身を寄すただに一途なるに体ひさぐと言ひたる誰か      宮本利男

今日の会に聞きて寂しき君が語(ことば)今を来る時を誰も苦しむ 

昼のごとく照りつつ月の更けゆきぬ人をあばきし心さびしよ      小暮政次

すべもなく寂しき吾の立ちあがる擬態とも見ゆる痴愚の中なり

かかる歌も又すでに批判さるるべき多くのものを持つ。そうしてそれを?めて行くために更に若い作家層が、戦後例えば「フェニキス」とか「ぎしぎし」とか云う小プリント雑誌を作って拠りあった。しかし又、そうした一時期も一区切りがつき、次の展開に移ろうとする時に、「アララギ」の今の位置があるのではなかろうか。そのような方向を見て行く場合土屋文明の所謂短歌の「庶民性」と云う言葉が一つの示唆ではあるまいか。

戦後の「アララギ」の傾向を云々するものがあるが、それを一つの流れとして見て行く場合そのまま戦争中の前線詠につながり、更に戦前の民衆詠の私かな抵抗の歌にもつながっていることを知り得る。そうして、そのすべては結局は子規の健康なリアリズムに遡って行くものであることを知る。「アララギ」の文学運動がリアリズムの線で展開していった半世紀の歴史を考えればその流れの中に何が本流であり、更にそれが今後どこに行かなければならないかも自ら知れて来るのではなかろうか。(1952・2)

 「短歌五十年史ノート――「アララギ」の作家を中心として

二十世紀の前夜、明治三十二年(1899)年三月、正岡子規を中心として根岸短歌会が成立、翌三十三年四月与謝野鉄幹によって文芸誌「明星」が創刊された。五十年の現代短歌の歴史はすべてこの二つの源流から流れ出ており、しかもこの二つの流れが、あらゆる芸術史に於いて取る二つの形、写実主義と浪漫主義とを大きく分けて現代短歌史を形作って今日に至っている事も意義深い事である。

しかしながら、明星を出発点とする短歌の流れ、作家の継承が、単に浪漫主義的とのみ概括し得るものでは当然なく、時代精神と共に複雑な展開をなして来たと同じように、子規以後の「アララギ」系作家の作風の展開が、とにかく方法的にはリアリズム手法を継承し次第に高め合って行きながら、作品自体は決して概論的なものではなく、五十年の間にさまざまな展開と自己革新をとげて来た。この事は更に、過去に於いて「アララギ」の優秀な作家が決して自己の間に自らの世界を閉じていたのではなく、むしろ貪欲に外と交流し自らの作品を高めて行った事実と共に、個々の作家の作品自体に当って実証的な研究をなし、一つの文学史を書いて行くべきだと僕はそう思っているのである。そうしてその手掛かりにとも思ってこのノートを作っているのである。

今日までに多くの短歌史が書かれている。最近のものでは渡辺順三の『近代短歌史』など非常な労作である。それにも拘らず僕は疑問を持つ。一体短歌作品其の物の歴史はどのように記されているのであろうか。或いは作家其の人の作品は相互にどのようにからんで発展してゆくのであろうか。今までのごとき歌壇史でなく、一人の作家の定着した作品を文学史として書いて見たいという、怠惰な僕だけの夢想である。

(つづく)

子規は冴てとぎすまされた理智と、清潔な感覚とを持つ詩人であったが、時代は彼の作品を理解するにはまだ稚すぎた。そうして彼の死後も、根岸派はいつでも正当な評価を受けなかった。同じような運命を左千夫も節も受けて行かなければならなかった。そうしてそのような時、世の批判は、彼ら、真実の作家が自ら四周に於いて批判し克服して行こうとするものを、あたかも彼らの作品であり作風であるかのように衝いてくる。

冷徹な子規はたれにもあきたらず、周囲にはやく凝固して行こうとする根岸派の歌風を見ながら死んで行った。

こころみに彼の晩年『竹の里人選歌』の明治三十四年三十五年の彼の四周の作品を引いて見よう。

蝦夷人は黄糞(きぐそ)饗を横山に置き足らはして朝臣待つらむぞ      格堂

桜花ふふめる妹を何すとかかぐつちの神もぐさやくらむ           蕨真

等一種いやみな擬古的な作風に固定し、左千夫すら

千鯉すむ春の御池にあさよひにいでますらしもうぶすなの神        左千夫

などと云う歌を作っているときに、

若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり

いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

等の三十四年の「しひて筆をとりて」の一連、或いは、三十五年、

  赤羽根のつつみに生ふるつくつくしのびにけらしも摘む人なしに

の如き内に人間の悲哀を静かにたたへた清澄な作品を、真の理解を得る時にいまだ早すぎた一生に残して死んだ。

三十四、五年。与謝野鉄幹の『紫』『埋木』『毒草』の時代、

  かがやかに我が行く方も恋ふる子のある方も指せ黄金向日葵(こがねひぐるま)

の如き作品の時代であり、晶子の『みだれ髪』につぐ時代であり、

  身ひとつは山に入りてもあるぬべし君をいかにせむ親をいかにせむ

の如き作品を残して死んだ直文に先立つ一年前であった。

(つづく)

「子規庵での毎月の歌会に左千夫が出席したのは明治傘寿三年一月十五日であった。其の日は遅れて来て出詠しなかったが、余興の福引に引き当てた物を詠んだのに、蜜柑と銀杏とを受け取った左千夫は、

  ぎんなんはいてふの実なり然れども蜜柑のなる木は何といふぞも

作者はといわれて大真面目で名を答えたので、先生も一同も思いがけない新しい左千夫の歌に笑いが止まらなかった。これが歌会でのはじめての作だったので一同も和やかに年長けた良友をむかえた。」(岡麓の文より)

だが、子規の死後、このいくらか鈍根とも見られていた年長の門人は自ら子規の歌風を継承し、継承することにより子規門より次第に孤絶しつつ写生派の歌風を推し進めて行った。

左千夫の歌風は子規より不透明であり主情的であり、原人のような感動に細かな甘美な抒情がからんで行き、彼の歌論も、幼稚な独断が直観的な鋭い詩論と交互して後年自ら一つの体系を作って行った。

しかしそれにもかかわらず左千夫は当時の歌壇からは理解されなかった。少年牧水から「荒物屋の主人」と評され、「冬のくもり」すらまだ世の文学青年らしい批判に片付けられる時代であった。このことは節においてもにたような運命であった。「明星」は退潮したが、牧水、夕暮が年少にして自然主義短歌の作家として華々しい登場をして来た時代であり、「スバル」の一群が明るい若々しい近代頽唐派を歌壇に形成して行こうとするときであった。

そうして之等年少作家の一群は、今から評価すれば左千夫、節よりはるかに技巧に於いて低く、作品の浅さ――左千夫の言うところの「人間其の物に直接なるべき」人生解釈の作品の根の浅さにも拘わらず、一つの流れとして、すでに止むに止まれない勢いを内に蔵していた。そうして同じ勢いに立つべき同じ流れが、左千夫の晩年に於いて彼の脚もとから流れ出て行った。赤彦、茂吉、千樫、憲吉、文明らの若い「アララギ」作家の一群である。

日本の文学の歴史と同じように、いまだ稚なかったが、一つの近代人間の解放の胎動である。

時期的に云えば明治四十二年から大正二年にかけてである。短歌史で云えば夕暮の『収穫』、牧水の『別離』、啄木の『一握の砂』の刊行から、白秋の『桐の花』、茂吉の『赤光』の世に出た時代である。真の意味での現代短歌の開花期を僕はこの三年と考えている。

そうして、左千夫・節と茂吉・赤彦・千樫・憲吉との年代の差は、理解だけではどうにもなり得ない二つの時代人の断層であった。左千夫の作品、節の作品が新しいとか旧いとか云う問題とは別個に彼らはすでに、啄木、白秋、茂吉、憲吉の世代での近代人ではなかった。

(つづく)

回想的に語られている故に快く美しい。だが左千夫と左千夫をめぐる若き一群との間の文学観の争いは、それが文学の上だけの争いであるだけに孤立して行く左千夫には悲劇的なものがある。

「一時は無性と痛切がった色調が見えたりしたが、今では只新しがりの一調子と相成り候。(中略)其の新しがりの更に浮薄軽佻を極めいるは短歌の現状と存候。試みに今の所謂新しい歌なるものを一瞥致候はば、直ちに目に当る流行語を発見致すべく候。」

左千夫の言である。そうしてこのようなことばが今日にいたる迄しばしばくりかえされて来ていることを今日の若い読者は苦笑しよう。

答えるように温和な千樫すら書いて居る。

「馴れたる眼に映れる馴れたる物のみを以って所謂自然なりとなすが如きは愍むべく候。大自然の意義を完全に味わう者はその時代の法則習慣に反抗する者なり。(中略)吾らは常に経験を打つ砕き行く若さと力とを更に尊ぶものに候。」茂吉の言、赤彦の言、同然であた。「アララギ」廃刊の意志が大正元年に出たりしたことを茂吉は記して居る。

節の場合は左千夫よりさらにつめたい批判と距離とを若い一群に対して持って居た。例えば彼の『赤光』の書入れに於いてもゆるぎない自信がうかがわれる。

更に、「千樫に与ふ」に於いても、「アララギは、斎藤茂吉君の模倣が充満していて殆ど鼻持ちならぬ。しんしんと言う言葉でも実に驚くほど使用されている。悪口をいえば三月号はしんしん号と改めてもいい位です」と云う、はき出すような言葉をもらしている。

そうして、左千夫は「冬のくもり」「ほろびの光」の作品の高さに達し、節は「鍼の如く」一連の深さに至り、共に子規以後短歌文学の一つの頂点を作り終えて、騒立つた、若々しい短歌の萌芽の季節に、いくらか寂しく死んでいった。子規の作風は、とにかくこの二人の優れた作家によってうけつがれて展開され、更に赤彦、茂吉らに近代の装いをもってわたされ次の段階にひろげられようとして居る。

(つづく)

観潮楼歌会が左千夫にまして若い千樫、茂吉らに何を刺激したかはすでに人々によって論じられて居る。彼らは次第に啄木、夕暮、牧水、白秋、哀果ら新しい青年との間に若々しい交流を開始する。しかしそれ以上に、木下杢太郎らを通じる詩壇文壇との交流、阿部次郎らを通じて若い哲学者との交流の方が著しく、それらと交互して、後期印象派、西洋近代詩等が、彼らの文学に吸収されて行く。

  雪のなかに日の落つる見ゆほのぼのとさんげの心かなしかれども     茂吉

  谷に入れば俄かに数をみだしたる蛍の渦のなやましきかな        憲吉

  あるものは草苅小屋の草月夜ねぶりて妻をぬすまれにけり       柿の村人

  おとうとも吾れの如くにふるさとをつひに出できつ父ははをおきて    千樫

  いたづらに此のエピソウドの鳥のやうにいたまし思ひの人のあるかや   文明

例えば千樫の作品には、啄木、哀果ら生活派に通じるものがあろう。文明の歌には――彼が最年少であり、或る意味では最も外国文学の教養を身近くうけていただけに、後年の歌壇の芸術派を思わせるものがある。憲吉の作風にも、印象派の絵画の匂い、西洋象徴詩の匂い等が実に濃く、なやましいほどの青春の体臭を帯びている。赤彦の歌には牧歌のような稚拙な匂いがあり後年『切火』から『氷魚』の初期の作品につづいて居る。

すべて――茂吉の言の如く乱調ではあるが――西洋近代文学を知り、近代自我を身につけた大正初期の青年の人間解放の詩であり、横には当時の若い歌壇、白秋、啄木、哀果、夕暮、牧水らと相通い、相つながる「新風」であったのだ。

(つづく)

そうして之らアララギ内部に於ける「新風」は、はじめ、

  子を思ふこころ隈なきたらちねの汝が母はあれど汝が乳はなし

  世に出でず年経るわれを天が下の力とおぼすことのかなしも

等の如き、或いは、

  鍋ぶたに泡吹きあげて青ねぶたうまきにほひの鼻をつくかも    秋圃

  山もとの榎若葉に新しき倉の白かべ日にかがやけり        梨郷

の如き在来の作風と対立しつつ、しだいに次の段階に至ろうとして居るのである。

 

稚く、いまだ社会的人間としての自覚がないままの日本文学に於ける近代自我開放が自然主義を表面的に見過ごし頽唐思潮の形ではじまって居ることは、短歌史でも同様であった。

そうしてそれが、社会的人間として成長して行くにつれて、次の段階として人道主義的なものに変わって行く。文壇的には「白樺」の発刊にはじまり、大正四年ごろに最も風靡し、自然の勢いとしてそれは社会主義的なものに移って行く。大正五年印刷工組合信友会が結成されて居る。

歌壇では大正二年、哀果によって「生活と芸術」が発足、所謂、啄木なきあとの生活派を結集した。そうして、大正五年、哀果の「思想と感情、理論と実践との対立における、矛盾と苦悩」が行きづまり耐えられなくなったと云う限界の良心的告白のことばと共に廃刊となって行くと同じ時代に、「アララギ」は、茂吉のことばによれば、「歌風が素朴地味の方に動いた傾向があり、西洋詩風の趣き、感じ方、言いぶりより、二たび日本風のいい方に還元しかかったといえる」。そうして、「アララギが歌壇の潮流に乗ってしまったのであるから、(中略)大体大正五年を以って歌壇の主潮流をアララギが形成した」時になって居る。

(つづく)

そうしてこのことは、「アララギ」の作家らがそれぞれ社会人として成長し、夫々自分の生活を負わなければならない年齢に至って居ることと共に、歌風が実質的になり、地味になり、生活に足がついた作品になって来た事とも相応し合う。最も著しい例は憲吉であり、彼の帰郷と共に、孤独なすぐれた山村生活詠、『しがらみ』の時代がはじまって居る。

しかしアララギの作家の生活詠は、『しがらみ』の線から更に外に出てゆくことなく、逆に内に沈み、それが一つの人間完成への意志となり、赤彦の鍛錬道的な持論に遷移して行った。人間解放は社会解放の方向に進まず、内部に、狭く人間完成の方向にむかって行った。

「歌壇の主潮流を「アララギ」が形成すると共に、「アララギ」は赤彦の時代に移って行く。そうして赤彦の歌はしだいに沈潜し、内向的になり、自然詠を基調としたかって無い奥行の深い静かなものとなり、そうなることにより自然に所謂歌壇から孤立し、歌壇の憎悪をうけ、自らは孤独の境にこもって行った。

赤彦の鍛錬道は今さえ彼への批判のまととされて居る。しかし、之は赤彦が作品を作る態度として自らに向けたことばであり自己の文学を苛烈のはてに追いこんで行く決意のことばである。自己の詩を寸分も甘やかさない覚悟のことばである。其の態度は詩人としていさぎよい、尊敬さるるべき態度である。しかし赤彦の覚悟は歌壇からは理解されなかった。

彼を孤独の隅に迫った所謂歌壇は、酒をのみ、二流歌人とボスがはびこり合い、集って文壇対抗野球などしている歌壇であった。赤彦からは『青杉』の耕平以外によい門下は育たなかった。門戸を張ったように云われながら、赤彦の歌風はたれにも本当はうけつがれなかった。

(つづく)

悄然と繃帯の手を胸におき友は病院より帰り来にけり

大正八年、知られることなく死んだ職工松倉米吉の歌である。そうして、切実な、生活ぎりぎりの果てからの歌は、目立たなかったがいつの時代にも「アララギ」下層で作られていた。そうして生活派歌人が自由律をつくったり飛行機詠を作ったりしていた時代に、或いは会合し議論し宣言したりしていた時代に、常につくられていたのである。

  豚小屋のやうな二階にちゞこまり

  こじきのやうに

  腹空らしゐる                   安成二郎

 

  此の頃――

  沁々空を見しこともなし

  一日家に働き居れば                渡辺順三

の時代である。

僕は、「アララギ」の歌風は複雑な展開とヴァリエーションを作品の上では見せて居るにも拘わらず、リアリズム手法が技術的に、常に継承され高められて行って居ると云う事を文章のはじめに於いて記した。そうした技術がすでにこの時代に於いてすら、固定した自然詠にだけかぎられたものではなかったことを、米吉の作品から知ることが出来る。

米吉はたまたま取り上げられた作家である。米吉の如き作家と作風は常に「アララギ」の底流をなし、次の新しい作家と作風の潜流をなし今日に至って居る。

(つづく)

赤彦は文学が沈潜し歌壇から孤立して行くと共に、所謂生活詠乃至思想詠的な行き方に対しては白い眼をむけるようになって来た。

例えば『歌道小見』に於いても、思想問題とか社会問題とかを取扱って居る歌が、多く生硬露骨蕪雑だとなし、それは目の新しさであり心の新しさではない。歌をしてもっと思想的にあらしめよという希望は歌の水平をさげよと希望するに近いと断じて居る。

しかし、吾々が生活者として生き行くときに、思想とか社会とか云う問題は、それは取扱ったり取扱わなかったりする等と云った呑気な問題ではなく、もっと生活自体と表裏し、云わば吾々の「生」自体の問題であると云うことを遂に赤彦は理解し得なかった。或いは云いかえればこのような本質的な問題を、赤彦ら「アララギ」作家らは――歌壇の軽薄な生活詠乃至プロレタリア作家と作品との現象的なものと別けて考え得なかった。

しかし、赤彦個人の見解の限界がどのようであろうと、「アララギ」の中にはすでに次の問題が深いところにはらまれて居た。或る意味では、それが子規以来の「アララギ」の伝統でもあるし、或いはまた写実主義文学が、はじめから内部にはらんで居る自己発展の運命的方向でもあるのだ。

赤彦死後、「アララギ」の若いすぐれた一人の進歩的作家遠見一郎(大塚金之助)が除名だれて居る事もそれだけの問題ではなかった。

この間茂吉の位置は、彼が独逸に留学していたことなどともからんで主流になく、又性格的に自由主義的な古泉千樫らは、自然に赤彦と離れて行き、「日光」の同人となった。「日光」自身は、既成作家のクラブ的集体である以上の何らの意味を持つことはなかったが。

(つづく)

しかし赤彦とは別に、今は古い「アララギ」の作家に於いて、注目すべき位置に居たのが土屋文明である。かっての赤彦、茂吉らが近代人であったと云うも一つ次の意味で、文明は近代的なものを身につけた近代人であり、更にも一つの意味で、松倉松吉よりは知的なものを、遠見一郎よりは生活的なものを身に持ち、彼らと同じ基盤で同じ時代に生きた作家であった。

彼の『往還集』は目立つことない歌集であったが、アララギの歌風を大きく転向させる重要な一点となった。

  ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交(まじはり)絶てり

  吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき

この一見投げだしたようなザッハリッヒな表現は、赤彦の作風の周囲に固定して行こうとする形式的自然詠を打破するためにも、又、短歌が一歩直接生活の中に切り込まれて行くためにも意味深いものがあった。

人はこの作風を文明だけのものではないとも云う。そうかもしれない。其の当時のプロレタリア短歌からも生活派からも文明の作品に線を引くことが出来ようし、更に前にあげた米吉らの作品からも同じ匂いをかぐことが出来る。しかしそのことは文明の之らの歌風の必然性を裏付けすることでもある。

赤彦死し、大正は昭和と変わり、日本は世界とともに不況と不安の中に漂い、文学はすでに吾々の生活と、従って吾々の社会と、別個のものとして造花のように咲いていることは出来なかった。大正初期、花々しい進出をした当時の青年歌人すべて、このような時に色あせ硬化した作品を作るだけであった。或るもの、夕暮、善麿(哀果)らは口語歌に打開の方向を求めた。白秋はしだいに東洋的な幽玄の世界を自己の作風として行った。彼らとややおくれて登場し新鮮清潔な歌風を立てた利玄も、其の将来の発展の方向を期すべきものなく早く死んだ。

彼らにつづくもの、すべて天才のない二流作家であった。少しばかりの感傷と詩才と処世とで歌人となり結社を立て弟子をあつめた。退屈な短歌史の一時期である。

「アララギ」も同然であった。赤彦以来、しばらくをりのように澱んだときがつづく。茂吉一人大作家の幅を形成しつつ『寒雲』『白桃』のピークにいまだ行きつかない。

この間にあって文明の仕事は、「アララギ」の歌風を次に起こし次の新人群の進出の方向を拓いた点で大きな意味をもって行く。

(つづく)

昭和三年「新興歌人聯盟」が結成され、歌壇的には一つのエポックメーキングな投石がなされたかに見えた。そうして聯盟は間もなく分裂し、あるものは「無産者歌人聯盟」に集って左翼的な作品を作って行き、あるものは新芸術派となっていった。しかしこの事は、歌壇史には意味を持つことであっても、それと同価値を短歌文学の歴史にもつと考えることは出来ない。僕らは宣言や集会の記録より先に作品と作家とを考えなければならぬからだ。どの様な作品が文学史の上に定着されたかを考えなければならぬとき、彼らの作品は無力であった。新興歌人聯盟のきっかけは、もっと後年に於いて『新風十人』の時代に於いて一応結実したとも云える。

しかしこうした若い作家の間の動きは、澱んでしまった短歌の世界に於いても、又、日本帝国主義の行きずまりとその破局の予感の時代的苦悩からも、止むに止まれないものとして生じて来たものであった。

そうしたころ、斎藤茂吉は、

  心中とふ甘たるき語を発音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす

  抱きつきたる死ぎはの媾合をおもへばむらむらとなりて吾はぶちのめすべし

と云うような作品をつくり、土屋文明は

  堪へしのび行く生を子等に吾はねがふ妻の望(のぞみ)は同じからざるらむ

  力及ばぬ過ぎにし世をばなげき来ぬ吾が父も吾も吾が子等はいかに

という如き作品を作って居る。昭和六年から七年にかけての作品である。満州事変がはじまり、時代は、すでに不安と云うだけのようなものでなかった。

そうしてそのころから、大陸に戦争の拡大して行こうとする時代に於いて、「アララギ」は特長的な一群の歌集と、一団の若い作家を世に送った。

『歩道』の佐藤佐太郎、『天沼』の吉田正俊、『春山』の柴生田稔らである。そうして作風の差、ニュアンスの差はありながら、共通して云えることは彼らの作品の基調をなしているものが重苦しい知的な抒情であり、軍靴の音を一人だまって街頭に聞いている都会のインテリゲンチャの時代に生きようとする、細々しい、誠実な抒情の作品であったと云うことである。

(つづく)

この日ごろ澄みとほりたる冬街に枝はらはれし並木見えをり        佐太郎

  ただ民はやすけき生(いき)を恋ひ恋ふとこの北国に思ひまがなし      正俊

いたく静かに兵載せし汽車は過ぎ行けりこの思ひわが何と言はむかも      稔

中でも柴生田稔の『春山』は戦争前夜の最も誠実な知識人の苦しみをかたって居る歌集であり、そうして其の巻末近く、

  つきつめて今し思へば学と芸と国に殉はむ時は来りぬ

の如き、作品が交じって来て居ることは、今から見て興味深い事と思う。

同じ時代、彼らと同じ世代に属する一群の作家が、『新風十人』として世に送られて居る。仮にこの二つの集団を別けて考えるとき、吾々はいろいろと興味ある問題を対比的に引き出し得る。

  華奢なる葉すでにそぐはずひそめたるいのちの隅の一点の朱(あけ)    斎藤 史

  昼さめてどぎつき寒の青さなる窓よぎりしも黄の蝶ならず        坪野哲久

  りんりんと響きわたれば取りかこむ悲しやな我も群衆のひとり     前川佐美雄

『白桃』『暁紅』『寒雲』の時代は斎藤茂吉の作品の最も高い嶺をなす時代であった。そうして彼は戦争と共に老国民詩人として一心に優れた戦争詠を作った。

  クリークに竹梯子見えたちまちに前のめりして将校わたる

しかし、クリークに苦しんで戦って居る兵隊らも、同じ「アララギ」に同じ時彼らの戦争詠を作って居た。彼らはすべて若い無名の作家であり、彼らの作品も、やがては詠み人知らずとして個々の名はわすれられて行く運命を持つものであろう。しかしながら本当の意味に於ける戦争詠は彼らのみによって作られたと云ってよく、も一つ云えば、戦争下すべて封じられた日本人の人間としての本当の声が、この時代、唯彼らによってだけ語られつぶやかれて来たと云う事が出来るのである。虚飾を去ったはての人間の生き方の声が、今は現地詠としてだけ歌われて来た。地道な、迫真的なリアリズムの方法で。そうしてそれが「アララギ」五十年の残した、一つのすぐれた遺産的伝統であったことを改めて認識させるような作品的定着として。

兵隊作家として最も早くから知られたのは渡辺直己であった。

  激しき血便を堪へて一線の兵は喘ぎつつ進撃をせり

  涙拭ひて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき

このような作品に示される人間感情の高さは、戦争其のものの批判を超えて常に評価されなければならない。

戦争末期、土屋文明は一人中国に旅行して歌集『韮菁集』を作って居る。孤独な旅愁と特異な題材との、異色の小歌集であった。

(つづく)

敗戦後「アララギ」は再刊された。そうして、新しい若い作家の一群が、自ら戦争を戦って来た心の創痍を、戦後の荒廃の中にどのように苦しみながら自己形成して行くかの過程を作品に定着して行くことにより、過去の作品とは異質的とも云える短歌を作り、「アララギ」に、「アララギ」を通して歌壇に問題を投げて行った。

しかし、其の事は僕が論じるべき事ではない。たれかがも少し経て僕等の仕事を語ってくれるのであろう。いつの時代にもそうであったように、相変わらず今も冷たいことばと眼がむけられているけれど。

唯僕等の作品が、もし異質であり異体であるなら、貧しい才能ながらそれも又止むに止まれない勢いであったのだとだけ記しておこう。

最近高安国世の歌集『真実』が出た。僕は戦後の作品の一つの例として、結論的に彼の作品の一部のみをあげて置こう。

  躇へる心ながらに君を呼ぶ党に孤独の文学者きみを

  壇上に苦しき告白に陥ちて行くありありと孤独なる文学者の声

  誠実に自らを追ひ詰むる告白の幾何が若き胸に伝はる

  一語一語声張り上げて区切り言ふ兵たりし苦しみの余韻のごとく

            *

若くして僕は「アララギ」の投稿者となった。昭和七年、「アララギ」二十五周年の出た年である。記念号には大熊信行が「アララギ」の終末を論じていた。大熊のみならず、「アララギ」がすでに用なき結社である宣言と予言とを僕らは何日の日も聞きながら愚直に歌を作って来た。

僕自身、いくらか「アララギ」に異端者的存在と見る人まあろう。結社の罪悪の面は僕は知りすぎるほど知っており、又、歌壇を「アララギ」のみによって論じる独善の風を、僕は不快なまま周囲に感じて来た。

しかし、僕はそれ故にこそ、この、云わばはかない文学結社をたれにもまして愛している。この事は、編集者の命のままにこの小文を、いくらか苦しみながら書き終えることにより、も一度切ない気持になった。

いろいろな錯誤にも関わらず、やはり僕は子規以来の今日迄つづいた文学の血の流れを尊いものと思う。

そうして、それがいつの時代に於いても、新しい作品と血として生きて来た事を思うとつつましい気持になる。

この数年にどうにかならなければ「アララギ」は亡びるであろと云うことばを今や「あららぎ」は内部の声として居る。「アララギ」一つの滅亡などが日本短歌史の重大ではないのかもしらない。しかし其の運命の問題になると僕などはまだなほ半端な感傷家である。

(1949・11)