近藤芳美





近藤芳美著『現代短歌』より(2)
「民の声として」 「守るべきもの――あてのない手紙 「抒情の問題 「短歌への信頼」 「政治と孤独と――高安国世君に答へて」 「一つの「二十代」――五島ひとみの歌 「人間の証しとして――何のために歌を作るか 「批評について」 「実体と言ふ事 「悲歌の時代」 「悲歌を作る日 投稿短歌の意味に就いて「実作と歌論の間 「現代短歌の詠嘆性 批評の誠実について――河村盛明君に答ふ 「巣鴨の歌」 「現代短歌の基盤 「短歌と結社」 「偶感」

近藤芳美著『現代短歌』より(1)へ


「偶感」(一)

コルトーの弾くショパンの曲を今夜ラジオで聞いた。ふかい感銘のあとにこの文章を書いている。

ショパンの曲は清潔でしかも聞くものの心をふかくえぐるような憂愁を常にたたえている。最後の音楽を選べと言われたら僕はショパンのピアノ曲の少数を選ぶであろう。生きて行くいのちのよろこびとかなしみとを最も深いところでえぐっているようなすべての作品である。

ラジオで聞くいらだたしさはあるが、老いたコルトーの淡さも楽しい。

しかし僕らはショパンの曲が、そのの深いかなしみの調べがショパンの一人だけの心のひだから生れただけのものではないと言うことも教えられている。ショパンの曲につねにまつはる憂愁の調べが、ショパンの一生の心のかげであると同時に、ショパンの心にかげするものあ彼の祖国ポーランドの亡国の悲劇であったと言う事をも教えられている。亡命者として愛国者として、占領され分割された母国を思い、悲しみ、そうした悲劇を自らの心に負うことによって数々の美しい曲がつくられて行った、という風にショパンの伝記作者は一様に記していっている。

ショパンははげしい愛国者であった、と伝記作者は説いている。しかしショパンの作品そのものはかならずしも愛国者のはげしい叫びをこめているとは言えない。むしろ憂うつで、重く、暗く、それらを通して秋の大気のような高貴なリリスズムを聞くものに感じさせる静かな曲である。だからと言って吾々はショパンと彼の祖国ポーランドの悲劇とを切り離して彼の作品を考えることは出来ない。一人の愛国者として、心に深い悲しみと苦しみとに耐え、その日々に創られていった美しいピアノ曲であったのであろう。絶呼することをせず、心のうちに耐え、一人の人間の心情を通して民族の悲歌を訴え、民族の一人一人の魂に滲むような悲しみを通してそのはての信頼をうえつけていったと言えるのではなかろうか。

(つづく)

「偶感」(二)

同じような事を僕は斎藤正好の著『独立への苦悶』からも教えられた。これはロシアに国を亡ぼされたフィンランドの苦悶の歴史を書いた本である。一八〇九年、フィンランドはロシア帝国に征服された。独立への苦しい歴史がそれから長くつづくのであるが、かれらフィンランドのロシア治政への抵抗は必ずしも血を流す果敢な戦いでだけなされたのではなかった。ある一人の詩人は祖国の部落部落を訪いあるき、忘れられて行く民族の古い伝承詩を丹念にさがし集めて行った。それが『カレワラ』の完成であった。『カレワラ』の完成は異国の征服下にあるフィンランド人に民族の誇りをよびさまし、悲しみの日に互いに相呼びかけるはげましのことばとなって、彼らの間に浸透して行った。歯を喰いしばるような民族の抵抗の歴史がこの著書にはいくつも書かれてあるが、それらの間にあって一見何ら力のないような一冊の伝承詩集『カレワラ』の完成が、どれだけ深い心の間で滲透し合い呼びかけ合っていたかを著者は吾々に教えてくれる。

僕はこの事を知り、感動し、それを頭においてかって「悲歌の時代」という文章を書いたことがある。その気持はいまも変わらない。日本は独立したのかもしれないが、僕らのうえにはそれと自覚し得ないほどにかんじがらめな縄が張られている。今の日本の状態をかってのポーランド、フィンランドと無論並べて語ることは出来ないが、僕らの負わなければならない悲劇はかってショパンが負わなければならなかった悲劇、『カレワラ』の民族が負わなれればならなかった苦しみ以上のものがあるとだけはだれしも考えるところであろう。

このような日に、吾々がどのように吾々の短歌の問題を考えたらよいかにまどう場合、ショパンの憂愁をたたへた、静かな悲しみの曲を思うことが、一つの力になる。民族の遠い抒情の源流をさぐり出さうとすることによって、互いによるべきものを心の底に呼び覚まして行ったフィンランドの詩人の場合も、吾々に大事なことを教えてくれる。

「偶感」(三)

絶呼するものは絶呼するがよく、行為を信じ得るものは行為を信じて行くがよい。吾々は吾々の美しい民族詩型を愛し、美しい吾々の抒情詩を作り、そうすることによって吾々の民族の心情に互いに呼びかけ合い慰め合って行けばよい。吾々の今の場合が苦しければ苦しいだけ、絶望と無力とにさいなまれるならさいなまれる悲しみのすべてをさらけ合うことによって、吾々の歌を作り、互いに呼び合い訴え合い慰め合って行けばよいのではなかろうか。そうすることにより吾々は常に同じ歴史と同じ文化とをわけ合って行けばよいのではなかろうか。そうすることにより吾々は常に同じ歴史と同じ文化とをわけ合う民族としての連帯をたいかめ合う力となって行けばよいのではなかろうか。吾々歌を作るもののなし得る事は歌を作ることしかなく、そのためには心の深い美しい作品を作る事が、当然ながら第一に立つ事なのではなかろうか。吾々は進軍ラッパをふく人間でもなくふき得る人間でもない。しかし吾々の孤立心、無力に立つ悲しみの心が吾々の生きて居る歴史と離しては考えられないことを自ら知れば、何で吾々の歌が単に孤独者の歌、無力と絶望の歌としてだけに終ろうか。もしそれだけをしか吾々の作品からよみ得ない評者が居たら僕はそのあさはかな理解を軽蔑する。もし僕らが僕らの置かれている現実を少しでもまともに考えたら、どうして今怒りなしに吾々の心情のどのような一こまをも歌うことが出来よう。吾々の歌がどのように弱く、細く、暗くあはれに歌われていようと、そうしてそれらがすべてのはてに吾々の怒りと決意とをひめていないと言えよう。ただ吾々は人の上に叱咤し絶呼することを自ら好まず、むしろ耐えて、静かに己れの悲しみと怒りとを語り、美しい作品一首として歌い、そうした作品による静かな呼びかけの可能を信ずる一人の短歌作者であることを考えるだけである。

今吾々の出来ることは古い吾々の民族詩型を信じ、それによる吾々の心情へのよびかけの可能を信じ、悲劇の日に悲しみに耐えた、吾々の美しい悲歌を作って行くことであると思う。(1952・10)

(つづく)

「短歌と結社」

「五十代歌人の運命」という特集が「短歌研究」八月号に出た。特集というのはたいていくだらないがこの問題のとりあげ方は一つの鍵を把えている。短歌の世界において五十代と呼ばれる一時代の空白は今日までの歌壇といわれる世界の構成、特にいわゆる結社なるものの性格と重大な関係があるからである。

そうして彼らの運命が今からかたられるのは、結社制度と呼ばれる歌壇の組織が、いま急速に崩れて行っており、結社という組織の上に立った歌人の虚名が、いま急速に白日の下にあせつつある事を示すにほかならないからである。ここで五十代という言葉は正確ではない。死んだ啄木、白秋、牧水、赤彦ら、生きて居る茂吉、文明、善麿、超空ら、明治から大正にかけて、とにかく歌壇に大きな足あとを残した作者らのその次の時代の懶惰な今日の大多数の歌人らのことである。結社という変体的な組織が、短歌を特殊世界に追い込んでしまったという事を反省しなければならないとき、それを創り出したのはいわゆる五十代歌人、中老人群ではなかったとしても、少なくともそれを懶惰に利用し、その上にあぐらを組み、善男善女の如き文学少年少女をあつめて虚名とある場合その生計をも維持しようとしたのは彼らであったといえるのではなかろうか。

結社の解体という事は戦後歌壇の一つの大きな事実である。在来の意味での結社組織なるものは正しい意味での今日の歌壇を構成しない。今日では、それがない、とまではいえないが少なくともそれを在来の意味ではだれも信用していない。という風に理解する方が正確である。結社のこのような著しい解体が敗戦後においてはじまっているという事は意味がある。それが一群の戦後新人の輩出と重なり合っているということも重要である。つまり戦後世界の激動と転換の時代の中に、中老歌人群の考える短歌の世界と若い歌人らの考える短歌の意味とは大きな差が出来てしまったこと、短歌が「思いを抒べるものである」等という程度に考え花鳥諷詠とあまり違わない所で呑気な心境短歌を作っていた在来の歌壇的人間のイデオロギーでは間にあわない所に歌人を含めてわれわれ日本人すべてが生きていりという事、そうしたのがれられない現実の直視から新しい作品と作者とが歌の世界でも出て来たという事実、その事から必然的に新しい作者らは、結社の本来の意味の喪失とその上にのっかっている中老級歌人の無業績に対し批判の眼をむけなければならなかったという事実、今それらを考え合わさなければならないのである。

結社組織の崩壊ということは、その中に下らない同人組織とか階級組織があり、宗匠制度がのっかっていたという無意味さ以上に、今日短歌はそのような世界の中でほめたりけなしたり結局は平和な小社会を作っていれば良かった時代よりもっとはげしい時代の現実を一人一人に受けとめなければならない所に来ている、その一点で本当の短歌は作られていっているという所にもっと原因がある。そうした歌人らが結社をつくるというようなものを信用せず、結局は一人一人の位置に立たなければならないことを知り、何かそこで再び新しい発表の場をもたなければならない所に来ているというのが、歌壇の今日の一種の無政府状態の現状なのである。そうしてこの事は俳壇でもおなじなのであろう。

しかし問題は古い結社の崩壊を見送った後に、作品の相互発表の場をどこに持て場よいかという事である。僕らは短歌とか俳句とかが商業ジャーナリズムの世界に市場価値を持つと考えるほど楽天家ではないので、この解決は本当に困難である。それがまた再び新しい結社制度を生んで行くかどうかは、われわれの歌人俳人としての孤独の覚悟の如何によるのではなかろうか。(1952・8)

「現代短歌の基盤

巣鴨拘置所に戦犯として何人ぐらいいまなお服役している日本人がいるか知らないが、彼らの間に白爾短歌会という歌会が作られており、毎月の歌会報と彼らだけの歌集が出版されているということを知っている人も少ないであろう。

『巣鴨』という便せん紙かなにかをとじてプリントした歌集であるが、ここに三百人近い無名の戦犯服役者が短歌を発表している。無論その中にはすでに死刑にされたものもあり、刑を終えたものもいる。しかし、とにかく三百人という数は決して少ない数ではない。全服役者の何割という数であろう。しかもそのほとんどがおそらく巣鴨にいれられるまでは短歌は無論文学などというものに縁のない人たちであったらしい、ということは、その作品をみるとわかる。そうした、本当の素人の人たちが、ある限定された環境に置かれて短歌を作り出し、作られたものが稚拙でありながら素朴であり真実である、読んでとにかく胸にうったえて来るものがある、そいうことは考えてよいことではなかろうか。それと今一つ、彼らは何を思って歌を作りだれに読まれようとして不自由な生活のかなに彼らの歌集などを創ろうとするのであるかということである。

それに関して今一つ思い出すことがある。戦争中、前線詠といっておびただしい作品が戦線の兵卒の間からつくられ故国に送られて来た。すべて無名の兵隊であり、その多くは、いはゆる読み人知らずの作品の作者として消えて行った。それにもかかわらず、前線詠の作品は皆すぐれていた。当時の有名歌人の戦争詠がみにくく忘れ去られようとする今すら、兵士達の前線詠はその真実なことばとヒューマニティの故に消えることはない。長い日本の文学史のうえにたとえ『麦と兵隊』が忘れ去られる日が来ても、これら無名の兵士たちの歌は残されるであろう。何故なら、そこに一片もウソのないわれわれ日本の庶民の心が歌はれていたからだ。

「アララギ」選歌欄の作品ということが今日の歌壇で一つの問題となっている。「アララギ」という大きな結社は、いまでも多くの有力な歌人をようしているが、さうした有力な歌人の作品と、選歌欄という無名の作者層との間に、なにか、質的な作風の差が生じつつあるを、僕らは見逃すことができない。有力歌人が山やら霧やらの声などを歌っている間に、無名作者らはほとんど生活の最低線をその日その日苦しんで生きている、日本の庶民のうめきと、怒りと、かなしみを一様に歌い合っている。それがいわゆる「アララギ」選歌欄というものを今日形成しているという事実である。必然的に、こうした歌が在来の短歌美学などでは割り切れない新しいものを生みつつあるのである。あらあらしく、ほとんど散文と一歩境を接するような歌い方で、しかもそれが今一つの別個の詠嘆であるという点で何か新しい短歌のありかたを期待させる。

短歌が、常にこのように無名の庶民の作者の間に彼らのことばとして作りつづけられて行くかぎり、僕は短歌がわれわれ日本人の民族詩型としてほろびないのではないかと考える。庶民の生活の中にその基盤を持つかぎり、短歌が常に新しい詩型として生きて行くであろう。短歌を作るものは長髪をわけてバーで女を相手に実存主義などを論じている日本人でなく、パイプをくゆらせて洋書をひもどいている日本人ではなく、働き、苦しみ、病み、貧しい日本の大多数の生活者であり庶民であるということを考えるとき、ぼくらは今後の短歌の問題を論ずる場合常にこれらの基盤において作られている作品のありのままのものからわれわれの問題を引き出して来なければならないと考えるのである。(1952・7)

「巣鴨の歌」(一)

『巣鴨』と云う歌集がある。和綴の製本だが本文はよみにくい謄写版ずりである。これは巣鴨拘置所の、所謂戦犯服務者だけの歌集である。

出詠者二八八名(内刑死者四十六名)出詠数一一〇〇首、梨岡寿夫、平尾健一、谷口武次氏らの選によって編集されて居る。くだくだしい説明をさけるために、あとがきの一部をそのまま書き抜いて見よう。

「選歌の方針として本歌集は成可く戦犯記録として価値あるものを採り他方短歌として秀作であっても記録的意義小さきもなは割愛の余儀なきに至ってをります。更にこの歌集が完成するまでの企画、選歌編集、刻字、印刷等は労役以外の寸暇を盗んでなされ剰へ資材の不足、印刷の困難等によって不十分な点が多く(中略)幾多の困難に遭いながらも漸く生まれでたものであります。」

どのくらい刷られたのか知らないが、恐らく少ない部数であろう。使用して居る用紙を見ると便箋紙と思われる。

だが、このような歌集がある、と云うことは知られなければならない。作品自体は或いはすべてすぐれたものと云えないとしても、今日の日本の片隅に、こうした短歌制作の集団がありこうした作品群が作られて居る、と云う事は知られなければならない。

三百人近い出詠者の歌を読んで行くと、時々荒木貞夫だとか橋本欣五郎だとか所謂有名戦犯者の歌が交って居る。また山下奉文だとか土肥賢二、東條英機だとかの知名の将軍の辞世の歌などを、ていねいに採集してある。例えば荒木貞夫の歌を見て行くと、

  八紘一宇にせむと法廷をとよもすばかり読みきかせたり

等と、吾々の神経衰弱症を吹きとばすような愉快な歌が出てをり、こうした人達のものだけとりあげて見るのもある意味では興味ある事とも云える。

しかし、今僕がここで考えようと云うのはこうした有名な戦犯受刑者の事なのではない。其の他の大多数の、名もしらなければ何をしたかもしらない、無名の戦犯者と呼ばれる多数の人々の作品なのである。この人たちが何の罪の名で受刑しているかを無論しらない。戦争の残虐の、個々の事実の罪を、其の一人一人が問われて居るのであろう。しかし、もしあの時に軍隊の体験があったものならだれしも、日本の軍隊の残虐なるもの、あるいは戦争と云う事自体の残忍さと云うものが、何であるかは私かに知っているであろう。戦争の其の時其の時の記憶は一生吾々には私かな精神の責め具として負はされて行くであろう。

(つづく)

「巣鴨の歌」(二)

この歌集の無名の作者らは、或る意味では、現われた吾々の間での犠牲者である受刑者であると云えるかもしれない。戦争が吾々に何をさせたかと云うことを知って居るものは、この歌集の作品群、其の中にうつうつとして語られて居る彼らのあらはさない忿怒に対し、うなじをたれずしては読み得ないであろう。

   海岸の真砂に僅か書きとめてマラリヤの友また自決せり     出口太一

   をみな子は自決ときめて白砂の布うち振れる夕づく丘に     渡辺 歛

 こうした兵隊たちには思いがけない混乱と敗戦の日が来たのであろう。

   幾たりか血を吐くおもひにすがりけむ手垢に光るこの被告台   梨岡寿夫

   リンチの果結核の重患に喘ぐわれを木椅子に横たえて裁きつづく 吉田明信

   銃殺と聞きたるときに背向より湧きあがり来し土民の歓声    鍵山鉄樹

敗戦の後に復讐の審判がつづいて行く。「神の御名により裁くと云ひつつ復讐の眼(まなこ)吾は見にけり」と歌われて居る。

   鉄戸開けば水缶提げていち早く厠の長き列に連なる       橋本寿男

   弱き人倒るるときが時間にてこの頃作業早目に終る       安達 孝

彼らと共に、或るものは死刑囚としてそのまま異国に残されて行く。

   味噌汁の白葱しみて香にたてば生きたき心抑へかねつも     冬国堅太郎

   友二人減刑になり去り行くを扉の隙間より見てゐたりけり      同

この作者は処刑を待ってひとり「善の研究」をよんで居た。静かな調子が眼をすむけさすほどである。

   巷には労働争議あひつげる今夜も君は獄に死に就く       幕田  稔

   死につくと気狂ひの友あどけなく夜更けの廊を連れゆかれたり    同

こうした事もあったのであろう。そうして、其れらのことも時代の片隅の怒りとかなしみとの記憶として今わづかに吾々にこの作品により伝えられ残されるのであろう。

死と向き合った数多い作品がこの歌集にていねいに収められて居る。何かそこから言葉には云えない忿怒は一人の人間の強制死にのみむけられて居るのぢはない。もっと先に、戦争と云う人間の引き出した最大の愚劣に、やりきれない気持としてむけられて居るのではなかろうか。

たれが彼らを戦犯者として死刑囚としたかを、其の怒りを「手垢に光るこの被告台」に彼らは見据えて居たのではないか。それを彼らが意識するとしないとに拘わらず、である。

(つづく)

「巣鴨の歌」(三)

作品は「海外」の歌、「死刑囚のうた」等の他、「所内生活」「面会」「所外作業」等々に題材によって色々に分類されて居る。敗戦直後の、或いは、海外の受刑生活での、前記の歌に比べると、之らの巣鴨での作品の方はやや息のつけるようなところがある。

   今日も来てなじみのうすき日本人看守がかたすみに居てほほゑみゐたり 小谷逸路

このようなうたもある。何のかまえもない、美しい人間対人間の心情である。

   夕雲に富士が映ゆると若き囚友は狭き窓辺をゆづりてくれぬ      浜本次郎

   通気孔に巣くふ雀の帰りたるかそけき音に今日も暮れけり       小牟田幸

このような歌もある。諦めなどと云っては言いつくさない、清いヒューマンな心情がこのようにいくつも歌われて居る。しかしそうした気持は無論、

   今朝吾に敵意のまなこ差し向けし兵にこだはり寒き日昏れつ      中庭顕一

   捜検にとり乱されし房の中妻の手紙に黒き靴跡            田中良平

の屈辱とかなしみとも交互して行くのであろう。又、

   勝利者のさばきを信じ離れゆく澄子の心止めむ術もなし        栗山迪夫

   戦犯が離婚の理由になり得るかと民法講義は質疑に入りぬ       毎田一郎

等と云う、ひとりひとりの悲劇を現実に耐えて行かなければならないのであろう。否、それ以上に、己れを時代のかそかな贖罪者とあきらめきれない私かなひとりの心に、も一度戦争が平然とのさばろうとして居る高い塀の外の世界のうごきを、彼らはどのように感じなければならないのか。  

(つづく)

「巣鴨の歌」(四)

   虔しく生きむ希ひの崩れゆき世界動乱のきざしにおびゆ       福岡千代吉

   アトミックボンおとせと言へる海彼の声いまいましくて今夜ねむれず   平尾健一

そうした苦しみ、悲しみ、其の間に交る小さなよろこびと共に長い単調な日はすぎて行く。

   一生かけて求めし幸福は思はねど雨降れば房の壁より冷ゆる     福岡千代吉

   静脈のことさら青く見ゆる日よ何となけれど哀しく思ほゆ      内田利宏

   死棟出で来し人々かあらむ列の中にきはだちて白きその面ざしの   田中 徹

   白茶けて堅くなりたる靴履きて作業の列に今日も並びぬ       高橋円作

結局ひとりだけの心みつめて居なければならない孤独な人間の歌が、このようにかぎりなくこの歌集に拾える。

僕はこのよみずらい歌集を、意外なほどの感動をもってよんだ。作品の技術と云うことを越えて、鬱積された特殊な環境での人間感情の一種の重量感に圧倒された気持である。あらはには云えないことを、この短い詩型に圧入した、精神エネルギーの量感である。しかし、それ以上に大事なことは、之ら無名の作者の(断じて有名戦犯者ではない)、ひとりひとりの、ひそかに耐えた怒り、己れだけに耐えた悲しみの美しさである。彼らの歌に愚痴がないと云うのではない。彼らの個々の歌に怨嗟の声がないと云うのではない。そうしたものすべてをふくめつつ戦犯と云うことばを私かに体に受けとめようとする、耐えた表情の美しさである。そうしたものが之らの歌の芯になって居ると云えるのであろう。

しかし僕の云いかたは誤解されるかもしれない。彼らのあるものは無実のものであり、大多数は或る意味では吾々すべての戦争惨虐の、いはば偶然の不運な引き受け手であったかもしれない。戦争の実体が何であるかは知れ切ったことである。それにも拘らず、吾々は彼らを悲劇の中の英雄と少しでも考えてはならない筈だと云うことである。それは『巣鴨』の作者一人一人の一番言いたいこのなのではなかろうか。其のことに今立ち入らない。ただ、何故彼らがこの歌集を不自由な中から作ろうとしたかの気持を知り得る次の短いことばをここで抄出してだけおこう。「『吾々の存在を再現さしてはならない』の念願のもとに吾々の赤裸々な感情を詠い続けて来た」(『白爾短歌会選集』第三巻一月集後記より)

(1952・6)

 

批評の誠実について――河村盛明君に答ふ(一)

河村盛明君に――

君の「恐怖という神様」につき何か書くようと云う高安国世君の注文ですが、本当のところ君がすべてを云いつくして居るようで、それに加えるべき何もないと思われ、従ってこの文章も又僕には気の進まない文章であります。

君の文章も又高安君の注文の意味も、堀田善衛の『広場の孤独』を問題とし、またそれから吾々の問題を引き出して来る点にあります。それは当然この小説のもつインテリゲンチャのどこかふみ込めない所にたったものの弱味の指摘であり、それを吾々の持つ弱さと並べ行く、一つの批評のすじみちをたどることであり、君の『人間のしるし』などと対比的に一方に置いて論を進められたようですが、そうした考えもそれ自体としてすでに何ら反ばくの余地のないほど明快なものだと僕は思います。

しかし、本当は僕はそうした批評の方法――と云いますか、批評する吾々の態度に何だか自分自身はっきりしないいやなものをこのごろ感じて来てなりません。僕自身あの小説を批評するとなれば同じ方法をとり同じ事を書く以外にしかたがないのですが。

何故いやな感じを持つのか、之もはっきりと説明出来ませんが、僕は批評と云うものが本当はこのごろ大変なものになって来たと云う事を何となく感じるのであります。つまり君が、今日では文学において表現と生活とがかってなかったほど同一線上に立ち交互する所迄来て居ると云う事を云って居ますが、僕は批評も同様であるべきであり、文学が作品をつくるものの生活自身によって責めをとらなければならない所に来ているのと同様に、今日批評も、批評するものの生活――生き方と云いますか、そうした批評のことば以前のものにきびしい人間的責任を要求されるところに来て居るのではないかと考えるのであります。僕が何だかいやな感じと云ったのは、一つは、それでありながら現在行われて居る批評の大半がこのことにほとんど無自覚であり、自分のことばを自分の生活から離して居ると云うことと、も一つは、こっちの方は君自身の文章にも強く感じられますが、今度は吾々が批評するものの位置に立つ場合、吾々が負うべき生活、実践の裏付けに対しすでに自信が持てなくなって来て居ると云うことなのであります。

(つづく)

「批評の誠実について――河村盛明君に答ふ(二)

吾々の場合、特に歌をつくるような場合には、作者と批評者とは常に一人が使い分けて居なければならないのが実際でありますが、其のためにはなおこうした感じは切実なのではありませんか。他の批評をしようとする場合、常に刃先は自分にむいていることを吾々はいつも感じます。堀田善衛の小説にむけるべき注文はそのまま吾々自身にむけられます。そうしてもし、吾々が批評家だけであったのなら、或いはそれを突離してもよい筈なのですが吾々は同時に短歌を作るものですから、それだけではすまないことになります。君は『歴史』を同じ位置に持ち出して居ますが、君の指摘を待つまでもなく僕は先ず自分の作品を思わないでは居られません。

で、君はどうすればよいかと云う次の問題に答えようとし、例えばすでに記した如く『人間のしるし』の場合を上げ、暗示して居ます。くりかえすように僕も純粋に批評の立場ならそうしたでしょう。或いは又、つい数年前までのように(或いは今日すら小説などほとんどがそうであるように)、作品と生活、批評と批評家自身の生活の間に、いくらかでも、うそが置ける時代であったならそうでしょう。だが、今日では、直接の生活の責任なしに、行動の責任なしに、何か一つ語れない所まで、文学も批評も来て居ると云う事を、僕は今痛切に感じて居ます。

そんな事を考えると今僕らはほとんど短歌など作ることの自信を失ってしまいます。僕ら自身の生活は君の指摘を待つ迄もなく『広場の孤独』などの位置と大差ないものであり、いわば行動を持たない大多数の今日の日本の市民の公約数的な範囲を出ていません。君は『人間のしるし』を例示だれますが、ことばではどのように解決しふみ切って行こうと、生活のふみ切りと云うものがそんなに今日のような時簡単なものではないと云う事はお互いに知り過ぎていることであります。この場合かってのように、文学或いは作品がすでにその事が生活ではないかとか批評が行為ではないかなどと云う半端な云いのがれで吾々は

恬然としてはおれません。少なくとも僕自身はそれほどオプティミストになりきれません。

(つづく)

「批評の誠実について――河村盛明君に答う(三)

そんな事を考え考えて、だんだん僕らは袋小路に自らはいりこんで行くだけです。作品の上でどんなに勇ましい事を云おうと或いは毅然たる「レジスタンス」を行おうと、僕らはそんなものを信用するほどお互いに今ではお人好しではありません。作品の上で勇ましい開放運動の闘士が本当は味気ない俗物サラリーマンにすぎない実例等を僕らは知っていますが、過去は知らず、今日ではそんな事で吾々もだまされはしません。そんな作品をだれも信用しません。

そうした事を知った末に、ではどうすればよいのかを考える時、結局平凡ではあるけれども、出来るだけの事を、自分自身にとってうそいつわりの無い所でなす以外、しかたがないと云う事になる以外に無いのではないかと思います。つまり例えば僕の歌集『歴史』が、どのようにまどろっこくなまぬるいものであろうと、僕の出来るだけの位置出来るだけの生活に於いて、うそいつわりのない云い得るだけのものを云おう、それだけの事で、僕自身は自分の作品として愛惜いたします。今後も、僕の短歌に対する態度はそれだけであり、それ以上には仕方がないと思います。或いは、僕自身の主観がどうであろうと、今後僕の生活が変ることがないとは云えません。否之まですら、ほとんどの人間はそうだったのではありませんか。与えられた位置に於いて、ぼくらはその時に又どのような歌を作るかわかりません。其の時にもやはり平凡な言い方ですが、出来るだけの事をなすしか仕方がないのではなかろうかと思います。出来るだけと云うのは自分の出来るだけの力と誠実とに於いて、後々の日に、つたないと悔い心弱かったと悔いる事があっても、いつはりとだけは悔いることのない作品を今は作って行こうと云う事であります。そうした気持があるいは少しづつでも吾々の生活を規定し、矛盾に満ちた吾々の生き方をいくらかでも「前進」させて行く支えとなるのではなかろうか、と考えます。(1952・5)

「現代短歌の詠嘆性(一)

往復書簡「詠嘆について」に於いて加藤楸邨氏は僕の作品を例にとられ、僕の作品の「その作者が、何とかして自分の生き方を提げて短歌にぶつかっている人」であり「社会的な意識の濃厚な態度をとって居る人々」のひとりであるにかかはらずまつはる「詠歎的な色調」を問題 にし、短歌の抒情及び詠歎の本質に対し問題の提示を行っている。この事に対し木俣修氏の解答があり、更に加藤氏自身更につっこんだ解明と示唆とを加えている。両氏ともこの場合「作者として」の立場に居て語っている故、解明は更に疑問を先に残す形になって居る。加藤氏の問いかけは大事なことであり、短歌の抒情性及び詠嘆的性格の問題は常に吾々が実作の過程に於いて たしかめていなければならない問題である。たまたま僕の歌が引出されたからと云うのではない。僕自身の問題として、僕だけの解答を考えて見よう。

「詠嘆性」と云うべきものが短歌に於いて本質的なものであることは当然である。このことは木俣氏もはっきりと規定して居る。しかしながら僕らは同時に「詠嘆」と云うことばが含む二次的な意味のすべてをはげしく嫌悪する。そうして吾々はしばしばこの二つを混同して考えがちである。短歌と云うものが本質的には「詠嘆」的なものでありながら、そのためにこそ吾々は「詠嘆」と云うことばから派生して来る二次的な色調を、拒絶してゆかなければならない。このことは矛盾する如くであるがそうではない。

それは、作品一首としての詠嘆はそれだけで独立し其の一首でおわるべきものであるのに対し派生的な「詠嘆」、「詠嘆の色調」は、其の唱和的なくり返しであり、声とみぶりの様式化であり、繰返へされて職業的ないやらしさをしだいに持って行く一種のなれであるからである。

このことはすでに万葉集の中に於いて指摘されて居る。一人の有力作者の作品があり、其のあとに、それにつづくくりかへしが幾重にも行われて行く。作品の民謡化としてこの現象は説明されて居るが、はじめそれが、同一材料の繰り返し、便化として行われて居ただけのものがしだいに素材、内容より、抒情の姿勢自体の習性化になって行く。短歌が万葉集より、素材も、手法もしだいに多様性を加えていきながら、常に其の根本に同一の発想の姿勢がとあられ、詠嘆の類型化が行われて行き、すべての作品が、予定された詠嘆のもとに処理され、繊細に模様化されて行って居る中世以後の短歌の性格を吾々は知りえる。

(つづく)

「実作と歌論の間(二)

 長い日本の詩歌史を見て行くとき、かうした事実に対し、其の時々にくりかえさえれて居る打開の動きをも又吾々は同時に見ることが出来る。俳句の発生もそうした動きの一つなのであろう。しかしながら、そうしたプロテストさえいつかくりかえされて中世的な、姿勢的な詠嘆の中に一様化されて行っていることも又僕らの知って居る。

子規の革新はこの流れの中に於いて理解される。そうした習性的な詠嘆に対し、潔癖に之を拒絶し、予想された姿勢を超えて物自体を見て行き、対象に即して行こうとする。そうして、対象の中に、物自体に其の本来的な抒情を語らせようとする。子規の、このような健康なリアリズムによって、一応うっとおしい中世的な詠嘆の粘膜は払われたとも云える。

しかし、木俣氏は子規における「詠嘆性に対する抵抗らしいもの」を看取して行きつつ、其の二つの傾向、出発と晩年の作風を並行する。

   縁先に玉巻く芭蕉玉解けて五尺のみどり手水鉢を掩ふ

の「即物的写実方法」及び、

   いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春ゆかむとす

の「詠嘆」と云う風に、其の晩年の濃い詠嘆の色調を指摘し、其の後の、白秋にしろ茂吉にしろ其の近代性がすべて結局は「詠嘆的色調の中で奏で」られて居ることを説いている。

木俣氏の云う意味がわからないではない。しかしこの二首を比較して、後者により深いなげきがあり、それが習性的な「詠嘆」で包括されるものかどうかを考えるとき僕はそうではないとはっきり云わなければならない。之は子規の場合一度切りのものなのである。

 中世歌集中の例、

   命あれば多くの春に逢ひぬれどことしばかりの花は見ざりき

   老いぬればことしばかりと思ひこし又秋の夜の月をみるかな

等々と対比するとき、一方がはじめから与えられた姿勢、習性的な詠嘆の前提に立っているのに対し、子規の場合はもっと本質的なところから発して居るかなしみの声と云う風に考えれれるのではなかろうか。今少し云えば、子規の場合には何か人間の生死の直接の問題の中にきびしい悲哀を見、其処から発して居る嘆嗟と云う風には云えないだろうか。そうして之を詠嘆と云う場合(無論之は詠嘆でなくてそれ以外のなんであろう)例示した中世短歌の姿勢的「詠嘆」と吾々ははっきり区別して考えてゆかなければならないのではなかろうか。木俣氏の言も当然このことを含める意味なのであろう。子規の場合、共に同一のリアリズムから発し、対象に即し、予想された抒情的姿態を排し把えた其の先の抒情であると云う意味では、子規の二首は同じ態度に立つと云えるのであろう。

(つづく)

現代短歌と詠嘆性」(三)

要するに、吾々は今、吾々が漠然と使っている短歌の「詠嘆」と云うことばの意味を、その二重の意味の中で分けてはっきりと考えて行かなければならないのであろう。一つは短歌に本質的なものである詠嘆性と、今一つは、それが模様化され、習性化され吾々の間にいつしか姿勢となって行った詠嘆の色合、制作の場合はじめから予定してかかろうとする一種の職業的な精神的ポーズとである。そうして吾々にとって最も恐れ嫌悪し拒否すべきものとして、後者が、しつこく、今なお吾々の内部に巣喰って居ると云うことをも、吾々は常にはっきりと考えて居なければならない。短歌の如き小定型詩に於いて、更にそれが長い伝統を持つ詩型である事と二重に、吾々は安易に伝統と習性との中になれて一つのみぶりをくりかへして行くことがあり得ると云う事は、人ごとでなく僕の問題である。

加藤楸邨氏は僕、又は僕らと同時代の歌人が「自分の生き方を提げて」短歌を作り、「社会的な意味の濃厚な態度」で文学の場に立って居ながら、作品に濃い詠嘆性が現われるのを指摘して居られる。短歌が結局は個人の側からのなげきとし訴えとして歌われて行く抒情詩であるかぎり、このことに本当は問題はない筈である。

僕らが自分の生き方と云うものを考えるとき、結局はいやでも生きて居る時代と社会とを意識しなければならず、更に今ではもはや意識などと云う間接は許されず、否応なく其の中に織り込まれ何らかの責任をとることを決意しなければならないことを知る時代にもはや今日歌人といえども生きて居る。其の意味では僕らとて無数の現代人のひとりとして、逃げ道のないひとつの運命を分け持って居る。僕らの生とかいのちとか云う問題はつきつめて行けば其の運命の中でしか今は語ることが出来ないのである。一つのいのちをみつめ、自分の内奥をみつめて行く、そうした意味さえ、吾々にとっては子規或いは茂吉の時代とは大きく異なって来て居る。それだけに現実と云うものがはげしく吾々の正面に立って来て居る。吾々が、短歌と云う、抒情詩型に吾々の直接な、なまなことばを打ち出そうとするかぎり、吾々の生きて居る位置から眼をそらす事が出来ない。それで居ながら、僕らの短歌は常にどこまでも人間一個の、ひとりの立場からのなげき、訴えである。吾々の詠嘆は、そうしたひとりの生ま身な人間と、それを巻きこみ押し流して行く、時代とか、歴史とか、社会とか、そうした非人間的な運命的な四周とのきびしい競合いの間からいまでは歌われて居ると云えるのではなかろうか。本当の、今日の短歌の抒情とか詠嘆とか云ったものは其のようなものなのではなかろうか。

(つづく)

「現代短歌の詠嘆性(四)

そうして、それ以外の歌は、吾々が吾々の生きて居る位置を敢えて見ず、吾々と吾々を包む現実とを敢えて外して歌っている歌は結局どこかで過去の抒情的習慣にもたれ、弱々しい職業的詠嘆をくりかえして居るにすぎないとも云えるのではなかろうか。

写実とか、現実を見るとか、現実の中から歌うとか、そうしたことばは、今では容易に云えることばではなくなって来たと云うことを僕は恐ろしく思う。

それで居ながら僕には、所謂「抒情的」な歌が多いではないかと人は云うかもしれない。さしあたり加藤氏のあげたいくつかの例はそうした種類のものかもしれない。しかし本当は、そうした分類はあまりに作品とあつかわれた素材面だけにかぎった公式的分類なのであろう。僕の云う意味はすべて素材のことだけを云って居るのではない。

所謂、そうした「抒情的」な歌、あるいは自然詠などにしても今日の歌は、本当はかなり吾々以前の作品とは性質を異にしているのではなかろうか。吾々が陽炎のたつような芝生を歩いて居ようと落葉松の林を歩いて居ようと、吾々自身はすでに茂吉でもなければ立て原道造でもない。吾々の精神のすべてはそうした瞬間ですら外的な今日と云う現実にきびしく規定されて居る筈である。そうでなければ吾々はお芝居をしていることになる。

そのような時に、そのような素材で作られる作品すら、其所から歌われる詠嘆は、もしそれが人間の本当のさけびとしなげきとして歌われるなら、色あいこそ異なれ、同一人のはげしい内奥の詠嘆として本質的には何ら異なった種類のものではない筈である。そうした瞬間すら、吾々ははげしい歴史の転換期に生き、海一つへだてて人間が無惨な血を流し、吾々のいとなみがすべて目に見えない冷酷な政治につながって居る人間であることを逃れ得ない筈だ。子規とか茂吉とかと、彼らが生きて居た時代との関係は、吾々の今の場合とはかなり微妙に其の点が違うのではあるまいか。

加藤氏が例にあげた作品についても、加藤氏は其のことを云ってくれて居るようだ。僕らがこのような日、このような地点に生きて居ればこそそれだけに、ふと僕らがひとりにかえる場合に、人間一人の無力感と孤独感と共に、吾々のかなしみの訴えは深いものではなかろうか。

本当の孤独さと云うものは僕らに於いては、僕らを包み、押し流す時代、歴史との関係を身にしみて知るときに感じるものなのではあるまいか。けはしい峡の底をひとり歩いて居るような思いは吾々が時代と、それに対するひとりの人間の無力感を知るはてに、吾々すべてをとらえるのではあるまいか。そうした時に吾々は何をすればよいのか。

(つづく)

「現代短歌と詠嘆性(五)

 吾々の詠嘆は、この位置に立った者の吐息として今は濃く歌われるものではあるまいか。吾々の作品の中に、吾々が現実に切り入ろうと云う態度をとりながら、それが深ければ深いだけ詠嘆も深くなって行って居る――と、もしそう指摘されるなら、それはこのように説明されるのではなかろうか。

そうしてかかる詠嘆はしだいに、洗われたような清らかさをもっていかなければならないのではないか、と僕は感じる。孤独と云うものが絶望となる代わりに其処をつき抜けて一つの救いとなって行く。そうした方向を僕は今漠然と感じて居る。

無論僕の歌などが今そうだと云うのではない。僕一個の作品に関わりなく、それは僕の願いのようなものであり、吾々の詠嘆性の未来のように感じる思いである。

僕は其のような歌を悲歌と云うことばで云って居る。このような時代に、僕らの歌が不幸の中にいる吾々民族の悲歌となるために、僕らの今日の作品はなお更に清い深い吾々の詠嘆の声を、うちに包んで行かなければならないと云う事を僕は今考えて居る。

短歌は吾々民族抒情詩であり民衆の抒情の中に生きて行く詩型である。そうして、われわれの詩型が、いつまでも民衆の中に愛され生きて来たわけは、其の清純な詠嘆性のためである。それがすでに述べた如く一つの習性となり様式化され、そのはてに粘膜のようないやらしさを今日迄に吾々心の中に残して来たことも事実であるが、其の反面の、もっと本質的な民族詩の意味を抹殺し得ない。

僕たちの仕事は、この詩型の中に、常に新鮮な抒情を歌いつづけて、民衆の心の中に、呼びかけをつづけてゆくことである。民衆と吾々の抒情を分け合い相よびあって行くことである。吾々の歌う位置が今はせつじつであるだけそれだけ、吾々は清い深い短歌の詠嘆性の意味を忘れてはならない――と僕は其のように思うのである。(1952・1)

「実作と歌論の間(一)

 だんだんとこのごろは歌の議論をするのがいやになってきた。書けなくなった、と云うのでもない。だれに書けばよいのか、と云う事を考えるとき、呆然としてさびしくなるようになったのである。

 一体何故歌人はあのように歌の議論ばかりしているのであろうか。議論をよんで居るとたいがいは他の何かを否定してかかって居るようである。否定されるものは、やはり一つの立場か或いは作品である。

 そうすると、書いて居る人間は否定して行く作品なり議論に対し、自分の作品なり議論に何か一方的な肯定をいだいて居るのに違いない。何百何千か今日の歌人が、議論し、作品し、其のことによってゆるぎない自己肯定を持して居る、と考えるとき、僕は少しうそさむい気持がして来るのである。

 本当にそれだけでよいのであろうか。少なくとも人は、己れの立論と、己れの作品との間に、何ら空白を感じないのであろうか。足もとが崖であるような慄然とした感じを、本当にたれも持たずにあのような物を云って居るのであろうか。

 君たちは大学生の如く論じ小学生の如き作品を作って居る、と僕はある若いグループに告げたことがあった。若いグループは素直に僕のことばを聞いてくれた。本当は僕は今日の歌壇に云うべきであったし、又、云うことの空しい意味も知って居た。

 足もとを見よ、己れの作品を見よ、と、僕はいつも人の文章に忿怒してはひとりつぶやいて慰んで居る。しかし作品の評価も結局は主観であり一人ぎめである、と彼らさえ考えて居るのなら、僕のこの忿怒も空しいとも云える。

 しかし又こう云った意見もある。作品は作品であり歌論は歌論である。自分の作品を顧慮して居て人の作品を論じることは出来ない。

 そもそもその通りである。しかし本心からそう知って居るのだとすれば、そうしたタフな精神に対し僕はひとり又やり切れなさを感じるだけなのである。

(つづく)

実作と歌論の間」(二)

歌論などと云うものは、本当は自分の作品の言いわけであり、説明であり、知ってほしいあまりの願いであってよいのではなかろうか。そのかぎりに於いての自己弁護にすぎないものではなかろうか。そうして何かそれが、結果に於いて文学史とか短歌史とか云うものに積極的ないみがあったのだとするなら、本当はそれによって説明さるるべき己れの作品にそうした積極的な意味があったのであり、裏付けられた作品がそれだけのことをして居たと云うだけなのではなかろうか。

茂吉の写生論と云うものも、もしあれが茂吉以外の論者によって立論され、精緻にされて居たと云うのであったら何の意味もなかったのではなかろうか。「写生」の字義をいまだに人は論議する。空しいではないか。「写生」とは茂吉の作家としての胸底からのことばであり、そのためにはあれだけの彼の作品業績が背後にひしめいてこのことばを支えて居るのを考えればよいのではなかろうか。

だれが茂吉との論争史を書くと面白いと思う。茂吉の「写生」の語に、一体どれだけの反論者が立ち向かって行ったかを、一人一人其の名をも一度思い出すとよい。そうして茂吉にあびせた反論の果敢さと対比して、反論者のひとりひとりがどのようにみじめに吾々の短歌史の早い流れの中から消え去ってしまったかを、だれか書き記して見ると面白い。そうして其のたびたびの、彼らの敢然たる立論のボキャブラリーを集めて見るとよい。茂吉ひとりを、孤独に追い、偉大にしたと云う以外に彼らは何を残して歌壇から消滅して行ったのであろうか。

又僕は赤彦の鍛錬道と云うことばと、それに投げつけられた、いまだに断たない否定のつぶてを考える。己れの精神を苛薄なはてに追って行こうとすることは、きびしい詩人の決意であり態度でもあるべきである。なまなかな遊戯三昧で本当の詩歌などが作られるべきものではない。鍛錬道とは其のような赤彦の切ない、作家としての覚悟の言葉である。赤彦にこの孤独なことばを吐かせたのは当時の歌壇の汚れた空気でもあったと云うことも、いくらかは考えてよいのであろう。

歌壇の論者は一せいに「鍛錬道」の否定にかかった。其の大半は消滅し、或るものは今日残されて居る。しかしどのように美事に否定しようと、今日赤彦の「鍛錬道」のことばは消去されない。何故なら、赤彦の作品がすべて之を間然するところなく支えて居るからである。

歌論とはそうしたものである。歌論とは何も歌壇で相交えるために切りむすび、投げ交すための論争の具ではない。ましてやそのための小またすくひでもなく、暗打ちでもない。無論一人の才能を嫉妬しての、底意のことばである筈がない。

本当は自分の作歌のくるしみのはてのつびやきのようなものなのである。ふと顔をあげて、聞きてを求めようとする、そうしたときの言葉のようなものなのである。そうした言葉は、歌人の一生にしばしば語られるものではない。片々として常に左右すべきものでもない。短いことばの裏面には、苦渋な作品がぎっしりとつづいて居るようなものである筈だと思う。

今日そのようなことばはほとんど聞かれない。そのような苦渋の中に作品を作るほどの歌人がまれだと云う事も一つである。しかし、そうしてたまたま書かれたことばは、たちまちのうちに俗物の手に渡され、軽薄な口舌にもてあそばれ、泥の中に引き落とされ、裏返えされ、みるかげもない形にされた上ではてしないつるし上げの対象になって行く。そうするのが今日の歌論の大半の実体ではないか。

しかし僕はこうした否定と憤怒の言葉だけを書いて、この文章を終えようとするのではない。茂吉赤彦、其の他明治から昭和初頭にかけての、吾々のすぐれた先進の業績時代は過ぎたかもしれないが、彼らの切拓いた以上のものを切拓かねばならないところに、僕らは来ているのだと思う。僕はそれを今日の歌壇などに期待すると云うのではない。黙々とした作品のつみ重ねを、僕らの仕事としたいだけである。その中から時々だれたが孤独な己れだけのことばをもらしている。或る時は歌論の形として、ある時は歌評の形として。僕は作品と共に其の心底のことばをも読んで行こうと思うのである。(1951・12)

投稿短歌の意味に就いて

このごろ色々と雑誌新聞などの投稿の選歌をする機会を持つようになった。思はない時間をとれれるのは苦痛であるが其の反面、教えられ考えさせられることが多い。

たとえば僕の関係している新聞の一つは、どちらかと云えば保守的と考えられて居るものである。そのためか投稿者のほとんどが農村生活者である。或いは逆に一つの新聞の性格を支持する深い基盤がそのような所にあるのだともいえよう。いづれにしろ、僕のところに送られてくるおびただしい葉書の作歌から、僕はいつも一つの圧力を感じないではおられない。誤字が多く、方言がややぎこちなく文語化され、よみづらい変体がなが交じり、特にいとえとの入れ代わりはしばしばである。しかしこうしたいくらかたどたどしい投稿に一貫した性格は、うめき声とも云えるくらい重苦しい日本の「民の声」の表白だと云う点で一致する。

無論この「民の声」が性急の一部批評家の気に入るような一方的なものである筈が無く、むしろ僕などにもおもいがけない型をとることが多い。又今一つ、「民の声」であると云うことが短歌のすべてであると云える筈もなく、短歌の価値判断をその角度からのみなす事は警戒すべき事である。

僕の云う意味は、事実として、短歌が投稿と云う広い根づよい、民衆の中の「表現手段」によって現実におびただしい歌が作られて居、そのようにして作られて行く投稿短歌の対多数が技巧などと云う問題をおしのけて、重圧的な「民の声」を、個々の作品の総計の底に一貫してひめて居ると云う事などである。

こうした短歌の思いがけない一つの条件は、僕を驚かせると共に、何か信頼出来るたしかなものに突き当たったと云う安らぎを感じさせた。

それはこの夏、日本の運命をめぐって講和の問題が悲劇的に論議されて居たときであった。一歩一歩、何か目に見えない力によって形成されて行く世論と事実とを、僕らはかっての日のくりかえしとして怖れ、予感し、再び自分をさいなもうとする無力感にくるしんだ。

はじめは気がつかなかったが、そのうち不思議に思われて来たのは、毎週毎週やや苦痛を感じつつ選り分けて行く新聞選歌に、ほとんど一つとして僕らがこれほど思い迷って居ると思われた講和の問題にふれたものがなかったということなのであった。

くりかえして云うように投稿者の大多数は農民であり、特に農家の主婦であり、それにつづくのは療養者であり、工場労働者であり、坑山労働者であり、また多数の農村の小学校の教師であった。

それでは、彼等の作品にあらわれ、彼等が互いに訴えようとして居るものは何であったか。彼等の作品のほとんどが一様に「雨が降らないから陸稲が枯れる」と云うことばを、一時期、様々な表情と様々な角度から、ほとんど申し合わせたように重苦しく葉書一枚一枚にくりかえして居たと云うことであった。

そうして、都会の、新聞と雑誌があれほど騒ぎ立て、ラジオがせんどうし、吾々都市生活者が思いくるしんだ講和の問題が、誇張すれば、ほとんど一首としてとりあげられなく、そのかげさえここでは落とされて居ない、と云うことは僕の異様な感動であった。

(つづく)

「投稿短歌の意味に就いて」(二)

それは完全な無視であった。むしろこの場合何か民衆のもつ本能的な叡智が教えた無視なのか。彼らにとり彼らの生活にとり、吾々の悲劇的な運命の問題が、陸稲を枯らすひでりほどにも彼らの心に影を落さなかったと云うことを、きびしい民衆の叡智だとするのは、僕のあまさであり、僕の感傷だけなのであろうか。

しかしとにかく、都会のバチンコ小屋のシンボライズする無関心とは相似て別な無視が少なくとも短歌に歌われた彼らの心の中にあったのだと僕は思う。

講和が成立すると投稿歌にぽつぽつと其のような作品も現われて来た。久しぶりで国旗を立ててうれしいと云う歌であったり、吉田大臣が笑顔をして米国土に降りたと云う歌だったりする。僕は若い農夫がセルの単衣をとり出して着て皇居清掃にゆく場面を歌った作品を見て、其の素朴な気持の表白に吾々の性急な観念先行を恥じた経験があるが、僕たちはこうした作品に接する場合、早急な成否の判断とは別にことばの真実をうけとりたい。そうした単純さも僕にはこのごろ尊いものに思われてならなくなって来た。しかしそうしたすべての相をふくめ、何か僕には、僕にとってこのような稚い投稿短歌が教えてくれる意味の前に、うなだれなければならないと云うことを痛切に思うようになった。日本民衆のおくれだとか無知だとか云う思い上がった判断よりももっと深く、僕らには学ぶべく聞くべき叡智が民衆の魂として重苦しく流れ、歌われて居るのではなかろうか。

そうして短歌の場合、それが一番切実な生活の中のことばとして歌われてをり、もし為政者ならその中に「民の声」を聞くべきであるかも知れないが、吾々短歌の実作者は、「民の声」としての短歌の中に、相つながってゆく吾々自身の作歌の血縁を求め、吾々自身の短歌「ありかた」をたしかめて行くべきなのであろう。

短歌と云う文学は、相聞の形で発想されて行くものであることを一つの性格とすると僕は思う。この場合相聞とは対者一人をこえ、もっと広い共感の場を求めて行く。短歌は吾々の相よび求め合うことばとしての文学である。そうして、短歌と云う古典型式が今なお吾々の間に生きている意味は、吾々の間に相互共感の場がいまだ存在し、吾々日本の民衆の間に、短歌をコミュニケーションの方法とする伝統的な習性がいまだに生きつづけて居ると云うことあなのである。作られた短歌一首が、もし生き続けて行く場があるとするなら、それは日本の庶民の中にあり、民衆の中のたましいの間でなくてどこであろう。吾々歌を作るものは切実にこのことを考え、うけとって居るか、と同時に、どのような短歌が待たれて居るのかと云うことも、吾々は抒情の意味と共に深く考えなければならないのであろう。

僕たちの歌はこうした庶民の歌、投稿歌の作られて行く世界に常に根を置いて作り、考え、論じ、或る場合飛躍して行かなければならないと思う。之は今僕自身への戒律でもある。

(1951・11)

「悲歌を作る日

僕たちの出して居る小さな同人雑誌に「悲歌の時代」と云う小さな文章を書いた。作品に接する機会の多い若い世代の作者が、僕等にはない透明な感性をもち、作品に一種の鮮麗さをそなへて居る事を、吾々には無いものとしてともしみはするものの、その透明さには何か悲劇的なうつろさとも云えるものがあり、結局は明るいようで居て新しい一つの悲歌を作って行って居るにすぎないと云うことを、吾々の時代の作品の、重苦しくふき切れない一種の暗さと思い合わせて、感じ、書き記して見たのであった。

そうしてこのような吾々、或いは吾々のあとの時代の根底的な悲哀の表情は、今しばらくこびりついたように吾々の作品の中につづけられて行くのであろう。何故なら、僕たちの歌が真実の歌であるかぎり、僕たちはますます時代の現実の中にみうごき出来ない己れの制作をつづけてゆかなければならない事になり、吾々の時代の悲劇的な様相は何らかの形で吾々の歌の根底の表情を決定してしまって行く故であろう。

短歌と云うものが悲劇的であり常に苦渋な表情をして居ると云うことを、僕らはあたりまえのようにしてうけつがれて来た。吾々が何故くらい貧しい悲劇的なものにのみ材題をとり、恋愛歌すらが多く否定的な面で歌はれて居るのかと云う疑問は、時々歌会の席などで出される。短歌であるが故に吾々は知らず知らず対象に蒼白の光線をあて、悲哀のかげのもとにものを見ようとするのであろうか。そのような習性も吾々にはあるのではなかろうか。

しかしそれだからと云って、短歌が本質的に悲劇的なものであり悲劇的なものであると云う事は無論出来ない。遠い万葉集を引例する迄もなく、吾々の時代のつい先まで、短歌は甘美さと相表裏する悲哀感を内容とし得てもそれ自体が悲歌であった事はほとんどなかったとさへ云えよう。

結局短歌がリアリズムの道をたどり、悲哀性とも云うものを冷酷にしりぞけて行こうとした日からはじめて、吾々の作る短歌がそのまま今は悲歌とならなければならないと云う事を知って行ったのではなかろうか。

(つづく)

「悲歌を作る日(二)

 何故なら、吾々が現実ととり組もうとすることは、そのまま現実の中に吾々が組みこまれて行くことであり、現実の中に組みこまれた事を自覚するときに、吾々はすでにみうごきならない、人間と、その外的な現実――歴史とか、社会とか言ったものとの相からみあいを吾々の運命として感じ歌ってゆかなければならなかったからである。

吾々はそうした外的な現実の中に織り込まれて生きてゆかなければならないと云う事から、すでにのがれられない。吾々の短歌はすでに其の地点に追い込まれて作られようとして居る。それは何も短歌にかぎられた事でなく、今あらゆる人間の告白形式について云えることであるが、この場合短歌と云うものが極端に人間一個人の感情告白に執する小詩型であると云う事実が、更に吾々の作品を矛盾と苦渋にみちたものにして行くのであろう。

今日のように、生きて行く現実、吾々の生きて行く歴史が、長い一つの転換期に立ち、冷酷にそれ自身で動いて居るような場合、吾々の生ま身な人間一人としての感情告白が、悲劇的な性格を帯びて行くことは当然のことである。

と同時に僕は、次のようなことを考えたい。

このような所から語られる人間のことばが、人間一人の孤独感の表白として語られると云うことからしだいに遷移して、一つの呼びかけとなって行く筈だと云う事である。結局そうしたひとりの孤独のことばが、相求め合うようにコミュニケーションの世界を作って行くと云うことである。短歌は独白の詩から代わって再び相聞の歌の性格を持ってゆくのではなかろうか。同じ時代に生きて行くものが、同じ時代の苦しみを感じるときに、その苦しみと其の中に生きて行く孤独感とを分け合うために、相よびかけ、相求め合う言葉として、吾々の短歌は作られて行くのではなかろうか。

僕は今日作られて行く短歌の、悲歌としての意味を、このように考える。「どのように未来がひらけて居ようと」と、僕は自分のちいさな文章の中に書いた。今は僕らは互いに悲歌を歌って、相守って行かなければならない時代なのではあるまいか、と言う事を結論として僕は書いたのであった。

僕は現実とか、歴史とか云う言葉を、くりかえし用いた。このそれぞれのことばの上に「二本の」と云う意味を、一々に加えてほしい。今日吾々が作らなければならない短歌がどのようなものであるかは明らかにされるであろう。民族として吾々が頽(すた)れないためにも、吾々は吾々の歌壇を超えて、民衆の一人一人の魂に迄よびかけ、このような苦渋の日に相はげまし得るような歌を作ろうとしなければならない。その場合、空虚な呼号でも絶呼でもなく、悲劇に生き耐えてゆくものの真実のことばとしての、悲歌が、吾々の間から更に幾年か幾十年か、なお作られつづけられて行かなければならないと云うことを僕は思うのである。(1951・11)

「悲歌の時代」

「未来」の若い人達の歌と僕らの歌との間には、やはり何かしら一つの段差があることを感じる。それは、例えば高安君の歌とか、小暮さんの「花」などについても感じることである。少なくとも僕らの作品の、重苦しい澱んだ表情は、若い人達の作品の間には見られない。それは、僕らとしてはまねてもらひたくはない、旧い吾々の歪みのあとなのであろう。そう思って若い人達の作品に対うとき、僕はいつも何か清いいさぎよいものを感じる。僕らには無い明るい別な世界を羨ましく思う。しかしそれで居ながら、僕には何故か澄んだ空の色を見て居るような、ある悲しさを感じるのはどうしてであろうか。澄んで清潔でありながら、やはりこうした若い世代の人達の歌も、結局お互いに悲歌を歌わなければならない時代に生きて行く宿命の下にあるのだと思う。

どのように未来がひらけて居ようと、今はやはり吾々の悲歌をうたって生きて行く時代なのであろう。そうして其のようなお互いの歌につながりながら、吾々は一つの信頼を吾々のあひだに据え、燈のように守って行くべき時だと思う。「未来」の如きはかない小同人雑誌の持つ意味も、そのような所にあるのだと思う。(1951・10)

「実体と言ふ事

理想的に言えば、短歌作品はそれ自身一つの小宇宙として、自己完結して居なけらばならない。截然とその周辺から独立した自己の世界をことばの結晶体として保持して居なければならない。作品はあたかも小さな彫刻品の如く、己れの形を持ち、一つの立体として、しょうと思えばその裏側にも手をまはす事が出来るように、強い、崩れない、ぬきさしならない要約の後の己れの形をもって居なければならない。短いこの言葉言葉の間に、その唯一つしかあり得ない所でのことばの結晶と、意味の完結とを持って居なければならない。このような事はたれも感じるであろう。だが、ではどのようにして吾々はかかる作品をえようとするかに苦しむ。

作品一首として吾々のことばが結晶して行く、其のために、何に対って結晶して行くか、何をめぐって吾々の雑然とした日常のことばが美しい結晶の形をとってゆくかが問題となって来る。

之を感動と云っただけでは不完全であろう。感動の実体に対って、と云えばいくらか正確に近づく。吾々ことばは、ある感動の実体に対って、ほとんど瞬時とも云うべき間に、その時その時の、ぬきさしならない形での結晶を形作って行く。それが吾々の作歌なのではなかろうか。

であれば、吾々はこの「実体」を逃さないこと、実体を正しく吾々の手でおさへ、把えることが制作と云うことの大事なモーメントとなって来る。作品の主題と云うことは、あいまいなことばであるが、一応この実体と云うことばで置換して見てもよいであろう。

「実体と云う事(二)

 吾々の感動はほとんど把えがたい形で吾々の間に生滅して行く。人間の芸術活動の意味は、其の把えがたいものをこの手にたしかに把え、生滅し止まないものをとにかく形あるものとして固定し永遠化しようとするいとなみのことなのであろう。とすれば、吾々は感動のも一つ先に立ち入り、感動の実体を把え、其れを形あるものとして作品化する意味を知り、更に、其の方法を学ばなければならない。歌に作り方と云うものがもしありとすれば、其の意味と方法との事なのであろう。

「写生」と云う事を云った。其の「生」の意味も、この実体とも云ってよいのではなかろうか。

短歌作品はそれ自身、完結し独立したものでなければならない、と云う事は、独立した意味を持ち、独立した一つの主題を一首の中に保持し、主張して居なければならないと云う事である。そうして其の場合「ことば」は、それを云い現す最小限に結晶化したものである、と考えなければならぬ。

吾々が短歌を作るとき、実体をするどく把えて居なければならない、と同時に吾々が他の作品に学ぶとき、其の一首の中に把えられた実体が何であるかを、見逃さない事も大切である。

そうでない、感動の周辺に漂う気分だけをことばとした作品と、実体ある、実質感のある、一種の質量を感じないではをれない作品との、二つの行き方の差を吾々は具体的な作品の一々のうちに学ばなければならない。それを理解することが短歌史の大きな流れの中に交代しつづけた二つの文学態度、アイデアリズムとリアリズムとの意味、従って今日のその評価の方法を学ぶことでもなかろうか。

だが、実体とは何か。理解だけで洗って行けば、それは事実だとも云えようし又「物」とも云えよう。ただ、それを無限の生起消滅の間から唯一のものとして選択し把握して来る時に吾々の詩心とも云うべきものはすでに止みがたいものとそて働いて居るであろうし、「物」を把えようとする吾々の心の動き自体が、高まった詩の感動の一瞬においてなされていなければならないであろう。事実の羅列にすぎない、或いは現象の切り取りにすぎない作品と、そうでない、一見冷たく「物」だけを提示しつつ、其の提示の一点からにじむように放射して来るもののある真実の作品との差は、表現技術をこえた、もっと根本の問題がこのようにあるのではなかろうか。

この場合、作歌の態度には、単に受身な、偶然的な感動の受け取り方と云うよりもっと意志的なものが加わって行く。其の事も短歌の歴史の流れの上に理解して行く事が出来る。吾々の間に作られて行く今度の短歌がどのようなものであるべきかと云うことは、この点からも考えて行く事が出来る。  (1951・4)

「批評について」(一)

歌の批評の態度について何か書こうという気持はずっと前からあり。何かのたびに友人らとも語り合った。しかしいざ書いて行こうとする場合、いつも何とも云い得ぬ憤怒に囚われ其のたびに何も書けなかった。憤怒と云う言葉以外に、現在歌壇で取り交わされて居る批評に僕の抱く感じを表白しようがない。

何か文学批評、作品批評について大きな間違いを歌壇はおかして居るのではなかろうか。根本に、何か違ったものを批評と考えているのではないだろうか。であるなら、僕は見出しを「批評無用論」と書けばよかったのだが、歌壇は言葉の意味を全然聞こうとしないから、こうような反語も、又いつまでもいつまでも田舎同人雑誌の隅っこの活字をしつこく繰り返されるであろうと考えると、更に不快な気持に囚われだけである。

では一体何を僕は不快に感じ、根本的な間違いと感じているのであろうか。僕は、批評家――歌壇の――が一体何のために批評など書いているのであろうか、と立ち入って考えざるを得ない。義理でいやいや筆を取って居るのが、まざまざと見てわかる文章を除いて、一体人々は何のために批評などを書こうとするのか。その気持の根本にあるものは何か。僕には今の歌壇の批評の大半について、それが見え透いていて仕方がないのである。

人は何のために批評を書くのか。己のためにか相手のためにか、又は第三者――この場合短歌の世界と言った方が手近であろう――それとも批評という独立した世界のためにか。無論結局はこのすべてのためであり、そのためにこの一応の意味の拡張の順序をも内に含んでいる筈である。本当の批評は、対象の中に一つの意味、一つの世界を見出し、それを抽出し整理し体系化し、そうする作業の中に評者自体の世界の形成を行って行き、ある文学の世界の中に一度のものを普遍とすると共に、批評という作業そのものも独立させ完成させて行く事なのであろう。

しかし事歌壇にかぎり、人々はそのような意味を感じているのか。何のために彼らは批評の筆をとっているのかを、彼らのために考えるとき、本当はもっと低い低い意味しか持っていないのではないかと思われないでは居られない。

「批評について」(二)

それは彼等がどのように考えようと、彼等に筆を執らせるものは、もっと卑しい人間の本能、嫉妬と憎悪でしかないと云う事である。この言葉に彼等は一斉に憤怒するであろう。少なくとも己れの関わらざるところとするであろう。しかしながら、もし彼等がそうではないと云うのなら何故彼等の語調が一様に「厭らしさ」と云うより他にない似たり寄ったりな調子で貫かれているのであろうか。更に、すべて相手のうちに否定の意味ばかりを見出して行こうとするシニカルな眼附きをしているだけなのであろうか。実例を挙げる要はないであろう。手許にある短歌雑誌の一つをより出すだけでよい。中でも歌壇時評などと称するものを読めば手っ取り早い。否定のための否定、其のために対者を人間全体として考えることをはじめから拒んだ暴力的な一方的な証拠がため、さながら嘗てのどこかの国の検事局ではないか。

言葉には幾つもの意味がある。それが生きた人間により語られた時はさらに様々なニュアンスを伴う。短歌一首についても同様であり、更に一人の作家を考える場合、其の一首一首が複雑に照応し合って、最後的に一つの世界を作って行く。本当の批評とは、それを理解し感受し概括して行くことである。そのためには愛情が何よりも先に必要である。文学批評とはこのような理解と愛情の上に立って始めて成り立つものである筈である。

それが歌壇の批評には殆どないのである。少なくとも今日の大半の批評がそうなのである。初めから犬の如く鼻をびくつかせ、彼等は相手の中から相手に切り込む隙を探し出そうとし、そのために自らの本能的ないやらしさを恥じない。

そうしたはてに彼等は定義づける。分類し概論しレッテルを貼り付ける。曰く孤独派、曰くフクション短歌、曰く肉体短歌、曰く政治短歌、曰く反動、曰く何々。すべて何と云う人間のセンスの一片だに見出しえない不快な言葉の羅列なのであろうか。これが言葉と、言葉の発する様々な意味とニュアンスとを誰よりも知り、愛する筈の歌人の世界の、少なくとも批評に現われた面である。  

「批評について(三)

 赤彦は鍛錬道と云うことを云った。詩人が自ら律する厳しい覚悟の語である。歌壇は忽ち之を坊主主義の総括で片付けた。どのような赤彦の深い気持から吐かれた言葉かを誰も聞こうとしなかった。茂吉は写生と云う己れの言葉を執拗に繰り返し語った。歌壇は其のたびに茂吉の云わない意味ばかりを反芻して行こうとした。すべてこの如くである。

何故なのか。批評家は、或いは歌壇は、犬の如くあるからなのである。あわよくばという卑しいものを、彼等は隠す事すらしないからなのである。少なくとも、そのような卑しさを批評の本質と錯覚しているからなのである。

片々とした今日の批評を見給え。あの厭らしさの中で、己れも一つの役を持とうとする気持は、少なくとも僅かな感受性をもった人間に出来ることではない。己れの中に本当はこの醜さの一片を持っていることを私(ひそ)かに知るものには尚更である(僕自身さえ歌壇の中にいる。それを云い逃れようとするのではない)。

「批評無用論」を書こうとする僕の気持はここにある。今歌壇に沼気の如く現われては消える一切の批評文は否定すべきものである。何故ならそれは根本に於いて、作家と作品への愛情であるべきものを嫉妬として居るからである。其の上で僕は本当の批評を書きたいと思う。それを何人かの少数の、今日の本当の短歌作者にも望みたい。

作る者は指さされるものである。石を投げられるものである事は始めから覚悟すべきであるとも云えよう。石を投げられたもののみが、歴史の上に勝ち残れるものだとも知っていよう。だが混同してはならない事は、投げ交される石がそのまま「批評」と同じものではないと云う事である。本当の「批評」はそれとは別なものである。かかる卑しさとは別の意味をもって、いつの時にも必要なものである。そのような批評が、今日の歌壇に殆ど無いと云うだけの事なのである。(1950・9)

「人間の証しとして――何のために歌を作るか

 いかなる意図に立とうと、狂信がどのような悲惨を地に残して行くか、吾々はこの数ヶ月、再びこの事実と対わなければならなかった。流血を前提とするいかなる正義も、それは人間への不正であり不信である事を、僕らは今日の悲劇から、痛い迄に知らなければならない。それでは何がいつわりであり何が真実であったのか。僕らは最後の切り札として、あらゆる芸術、あらゆる文学の最後の切札として、「人間」を、「人間」ならざる物すべてに、その一つ一つに対し切ってゆかなければならない時だと思う。憎悪に対して寛容を、悪意に対して善意を、狂信に対して叡智を、そのすべを含めて、あらゆる非人間的なものに対して人間的なものを、僕らは最後の札と信じ最後の真実として語り続けて行かなければならないと思う。僕らはそれが今いかにむなしい時であるかも又知り過ぎている。あらゆる政治のことばにかざられて、どれほど冷笑的な人間不信が、吾々の四囲に満ち、横行しつづけて居るか、吾々のわずかな善意、わずかな愛情すら、どれほど現実の世界にむなしいエコーとなって返って来るのか、吾々はあまりにも知り過ぎている。本当はそのような日に生きて居る。

「人間」と云い「ヒューマニズム」と云うそのことばすら、僕らはほとんど羞恥なく語る事の出来ないような日に生きているのだ。

 ゲオルギウの『二十五』は恐ろしい小説である。戦争の後に唯一書かれたような小説である。僕らのすべての言葉を収斂させてしまうような小説である。『二十五時』は若い学生層に非常に広く読まれていると云う。五年間の間すべてに裏切られてきた若い無数の青年らが、今は何も語らないでこの小説を読んでいる有様を人は恐れなく考え得るであろうか。『二十五時』はあらゆる非人間に対する人間の抗議と抵抗と敗退の小説である。ゲオルギウは「カテゴリー」と云う言葉で語って居る。人間一人の心情が、カテゴリーと其の分類カードの中に、どのように無視され引きさかれて行くか。それはそのまま僕ら今日のすべての人間の不安のことばなのではなかろうか。其のような時つぶやかれる吾々の「人間」の声「ヒューマンニズム」の言葉が、何とみじめな弱気なうじうじしたことばに見えるのであろうか。吾々文学するものの最後の切札が本当は其のようにはじめから敗北を予感したものなのであろうか。

だが、其処まで行くともう理屈ではない。ヒューマニズムは思想でも主義でもないのだ。それは一つの心情に過ぎないものなのだ。僕らは一人一人が、少なくとも芸術を愛し文学を愛する事を知って居る人間が、何らかの形で己れの中に触れる事の出来る、心情の如きものなのだ。

それを僕らは最後的に語って行こうと云うのだ。生起する現実の一つ一つに対して、なお云えば人間冷笑、人間抹殺の其の一つ一つの場合に対して、たとへ虚しいと知って居ても切札として切りつづけて行こうというのだ。その地点まで文学は追いつめられているのではなかろうか。否、その地点にのみ文学の位置が今日、照らし出されて居るのではあるまいか。そうして吾々は「言葉」として「人間」の札を切って行くものとして、何か見えない無数の眼に照明の中に見守られて居るのではあるまいか。「短歌」とは何であろうか。この場合短歌は僕ら歌人の「ことば」に過ぎないものだ。切札を切って行く、手にすぎないのだと思う。非人間的なもの一つ一つに対し、その一々に切って行く人間的なものの証しなのだ。そのため僕らの最も端的な、裁断なのだ。ふるくさくって、小さくって狭い文学の一隅にしか通用しない詩型かも知れないが、僕には今唯一つ「人間」の「証し」の手段なのだ。

僕のこのまわりくどい文章を読まれた方は是非渡辺一夫の『フランスルネッサンス断章』を読んでください。この小さな書冊の中に、ほとんど祈りのようにくりかえし語りつづけれれているヒューマニズムが、現実に対してはかなく苦しく、しかも最後的に吾々に確信を与えてくれるか「後しざりしながら未来に這い入って行く」人間の進化の歴史の中に教えてくれるかをぼくは人に告げたい。人間とかヒューマニズム等のことばに羞恥するなどとぬけぬけと語る半端な甘さに、この書はきびしい鉄の鞭である。(1950・9)

「一つの「二十代」――五島ひとみの歌

  北陸に旅行しようとして居るあわただしい前夜に、五島茂氏がすり上がったばかりの「立春、五島ひとみ追悼号」を持参された。僕は北陸線の夜汽車の中で遺歌稿と追悼文集とをよみ、それから宇奈月温泉、富山市中の宿々で、仕事のあと、自分の感想をまとめようとした。終戦後僕のもっとも関心を持ったのは戦いを通って来た若い人たちの生き方であった。僕ははじめこの人たちと一緒に生きようと考え、後、この人たちの生き方をじっと見守っていたいと考えるようになった。みんなが悲劇を負って生きているとき、僕たちの一番たしかな愛情は、遠くからじっとその人の悲しみを見守り、その人なりに切り抜け生きぬいて行く一つの人生を、だまって見て居ることなのではなかろうかと思った。僕はそれ以上の力もうぬぼれもなかった。

五島ひとみさんの場合も、その一人であった。二十代などと云われ、自分で解決して行く以外たれにも教えられる筈のない不幸な時代の生き方を、ひとみさんはあまり信用もしていないらしい「短歌」作り、今の時代これ以上めぐまれた環境がありそうにもない家庭と、ひかげで歪んで育った植物のような「世代」の世界である教室との間に、宙乗りのようにどちらからも孤独に生きて居るのではなかろうか、など僕なりに無責任とも云える愛情を、この若い一人の少女に感じ見守っていたのだといえる。

遺歌稿をよんで感じたことは、やはり僕はこの荒涼とした日の下の露頭だけを見ていたと云うことであった。二十何年かこの人の生涯は、其処に至るまでに、彼女なりに豊かな一つの魂の成長の歴史を地の下に重ねている。当然の事ながら、僕は一人の生命の貴さを、わずかの遺歌稿の中によみ、感じたのであった。

ひとみ歌集は、昭和九年八歳の時の、

お日様きらきら光つて 病院にゐるマミイはスイスの景色を思い出す

にはじまる。何という美しい童画の世界であろう。そうして、何と云うめぐまれた揺籃の色と匂いの世界であろうか。一人の一生を、このように出発すると云うことさえ、僕らの時代には稀な事だと言えるのではなかろうか。

スプーンはベビーのつばにぬらされてしつとり朝日に輝いてゐる

母上はベビーに夢中にないたまい朝夕みつめておあきにならぬ

十二歳のころの作である。「ベビーのつばにぬらされて」などと云う大胆な可憐な把握に微笑を感じる。このような幼年期の作に流れているものは、一様なミルク色の明るい光線の世界である。そうしてくりかえすように、このような思い出は、吾々の場合たれでも許されて居るものではない稀なものだと云うことである。五島ひとみの作品が生涯が、このおような幼い日からはじまって居ると云うことは、うらやまれてよい事だ、そうしてこのような日々が、母五島美千代の『暖流』から『丘の上』世界に、例えば次のような作品世界に、も一つやわらかに包まれて居ると云う事も、僕には美しすぎると思うのである。

(つづく)

一つの「二十代」――五島ひとみの歌」(二)

   ま夜中にかく母と二人あそびしこと大きくなりては思ひ出でざらむ

   母われと一夜眠りてききたきことありとひそかに娘いひに来し

   ある日より魂わかれなむ母と娘の道ひそひそと見えくる如し

しかし、ひとみさんの歌は昭和十五年十六年のころからだんだん歌らしくなって行き、一方この無心な面白さと構図とを失って行く。

これは無論当然なことである。このころから川田順氏に添削をうけたり、もっと後になると尾上柴舟氏に見てもらっている如く「解説」に記されているが、所謂女学生の早熟なとりすましと、かたちとが、云わば、やや類型的な女学生短歌となって多数残されている。

   色あせし藤の花房一つ二つほこりの中にぶらさがりをり

   何となくそこらのものがいやになり本なげすてて母の寝顔みる

   寒き朝グラウンドにひかれし白線のするどくわれの目にしみて来る

このような歌らしい歌の間に交わって、例えば、

   新しき銀笛ときどきさはりつつ立春の夕べに桃色の袋縫ふ

等の作になると、この稚さなさの中に、もはや作者がミルク色の光線の部屋の中にのみ生きているのではない成長を感じる。この歌と並んで「鼓笛隊の練習終へて友と二人赤き顔みあはせむずかしさいひ合ふ」等の歌があるが、時代と、時代の中に独立した生命として成長して行こうとする一人の少女像が今から見ると少し悲しいようにくっきり浮かうとする。

女学生らは出征兵らを送迎し包帯をまき、鼓笛隊として凛々しい痛々しい行進をしていた目であった。「冬日宙少女鼓隊の母となる日」と云うのは波郷の句であったのだろうか。なにか清潔で、悲劇的な句だと思ったのだが、ひとみさんの少女の日がちょうどその時期であったのだ。

   太鼓のひびき蒼濤こえてひろがれと小林長官の顔みつつ力一杯いたたく

   あめふれば敏捷になるといふ蛇のすむジャングルこえて戦ひきましし

作品が稚いと云う以上に心情が稚いと云うべきであろう。しかしその稚さなりにこの一心な気持ちはやはり独立した美しさをもつ。かたい冬の芽のような美しさである。更に「雨ふれが敏捷になるといふ」或いはもっと前の、「白線のするどくわれの目にしみて来る」等の直感的把握は、このころのややぎこちない作品群にいくつか交わって見られ、この眼はやはり詩を作るものの「資質」であると云うことを僕は感じる。

(つづく)

「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」(三)

   何となくはしやぎたくなる気持おさへ早く大人になりたしなどと思ふ

   よどみきつた様な空気おそろし鏡に向ひ思ひきり濃く口紅をぬつて見る

十六歳、十七歳のころの歌である。昭和十七年、十八年のころである。多くの、女学生らしい戦争詠と共にこのような歌も作られて居る。身をくねらせくねらせ、成長して行かうとする一人の少女の姿勢と心理とであろう。前者のいはば一種の育ちのよい稚さと共に後者のどこかしんの強い野性めいた反逆も、この作者の、いまだ自覚にまで至らない内面の真実なのであろう。何かこのような不逞なものが、この少女の内深く、云わば生理としてひめられてあったのではなかろうか。そのことは後日の作品を見て更に僕の感じる事なのである。

   すべてみなわりきれし如き瞳の光姿勢を正し挙の礼したまふ

同じく十八年の作品。素直な、時局の中の女学生としての作品の中に、この歌のおのづからなうたがひと批判とを、作者はどの程度自覚して居たのであろうか。「すべてみなわりきれし如き瞳」とわりきれない作者との心理の差が、本当はこの歌ではほとんど偶然に提示されたのではなかろうか。しかし、「学徒出陣」をこのように見て行く自然な知性の成長を、この環境と時代に於いて、僕は興味深く感じるのである。

周囲あら同世代の男性を戦場に送り、少女らは学徒動員として工場に働いて居る。空襲ななげしくなり敗戦は色濃くなって行こうとする。所謂今日の「二十代」の知性がこのような間に、僕らののしらない陰影を印しつつ成長して行ったのであろうか。

   この叢かくもくらき色なりしかとけふの心におどろきみなほす

昭和十九年十八歳の時の、何と云う痛々しい少女の心情なのであろう。ここにはもはやこれを守る何者もない事を知った、すでに少女ではない、孤独な一人の人間の成長がみられるのではなかろうか。終戦後のひとみさんを僕は知っている。美しい、それで居ながらどこかすでに独立した知性を身につけた少女として僕の眼にうつって居たが、それだけにこの人は何か幸せを指の間から落としてしまう人ではなかろうかとの危懼を感じた。無論そのころ僕はこの少女がどのような心の成長の歴史をたどって来たかを知るはずもなかった。酔ったとき僕は、「恋愛をしてごらんなさい」と軽薄な忠告をこころみたことがあったが、ひとみさんは「恋愛をしたら性質がかわりますでしょうか」と笑って淋しそうであった。ひとみさんはお母さんの過剰な情感が心の重荷のようでもあった。そのような自己疎外をこのころ次のように歌っている。

   およびがたくしづかな面を眺めつつ己の空虚さをうめたくあせる

   どの人もどの人も何かもつてゐるといふ事に一日おされてゐる

   ついて行けないとわかりきつてゐながらせいいつぱいかりものの論ふりまく

   結局は妥協にすぎないのに 背水の陣とひとりぎめしてゐる

   浮上りそうな足ふみしめふみしめ全身で風雨にぶつかつてゆく

   風の圧力に抗し夜道いそぎ身内一ぱいざわざわ血の流れを体感す

昭和二十三年、二十二歳の作である。

(つづく)

「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」(四)

 格を外した作品はすでに作品としても独立し得る。言はば一人前の作品である。戦争中のどこかぎこちない女学生の短歌ではなくなって居る。自分を含めてすべてをつきのけようとする孤独な生き方である。そのむかうになにか信じえる人生の本物を手さぐりしようとしたのかそれに早く疲れてしまったのか。

   どうしようもないくらさじりじりせばまりくるにまだ自分のものと信じ切れない

   何方にゆくか態度決定のとき迫れり感情にまけまいとせい一ぱいな自分

   貧血のやうなうごき身内に感じ じつとしてゐられぬはじめてあの真剣な表情

之がこの少女の生きて行こうとする時代であった。「くらさ」と「態度決定のとき」と「感情にまけまい」とする己れと「左右勢力のうづまくアーケード」と、このめまぐるしい混乱の中に自分が何であるかを自分の指で把まうとする。

この場合この少女がたれを信じようとしたのであろうか。すぐれた知性を身につけ同じ世代の中に生きて居ただけに彼らの中にはげしい孤独を知らなければならなかったのではなかろうか。之らの作につづいて次の如き作品がある。之がひとみさんの場合のほとんど最後の歌であり、しかも荒涼とした一種の相聞歌である事を知る。

   栗の葉をかさかさならし風ふきすぎゆくこの自然の調和を不思議に思ふ

   何故こんなに気に入らぬ言葉のみいふ相手かと気づけばわが心に関りあり

   善良そうに口ゆがめて話しかけるこの人をつきのけたく心底の不満もちたへてゐる

   あてもなくもゆる心もち遠く感ぜられる人々とゐる

作品としてもこのあたりのものはすべてすぐれていると思う。

(つづく)

一つの「二十代」――五島ひとみの歌」(五)

 しかし、風がふきならして行く栗の葉の音、その自然の調和の一瞬に、不思議と思わなければならない、ここまで生き、疲れて来た心情を、僕は二十代の少女としてあまり痛々しすぎると思わないでは居られない。その次の歌もそうである。こんような歌を相聞歌としてほとんど最後に作って居る短い美しい少女の一生を、僕はも一度「マミイはスイスの景色を思い出す」のあたたかい童話的な日ざしの日からふりかえり思わずには居られない。

縁あって五島ひとみさんの歌を、その死後に於いて僕は批評しなければならない事になった。作品として彼女の作がどの程度の評価に耐えるか、作家として五島ひとみが短歌史に如何なる位置を与えられるか、其処まで僕は今考えない。恐らく狭い記憶の中だけに、多くの夭折した作家がそうであったように、五島ひとみさんの名も生きて行くのではなかろうか。作品も少なすぎるし作家としての生涯も本当は之からという所、その第一歩にたったという時に終ったのだとも言える。

しかし、僕には僕だけの感慨があり、わづかな間であったが同じ戦争の後の時代に生き、作品を通して何かかなしい「生」の姿を語りあった、その事だけでも、彼女の或るいくつかの作品は、やはり吾々のもの、今は吾々の間にのこされたものとして、大切にし、たもって行きたいと思う。そうして彼女の作品の中に残されたその命のきれぎれとともに、彼女の作品によって結晶され代弁された、日本の不幸な一つの時期の虚無にさまようような多くの若い「世代」の心の姿、もっとあとの時代にまで受け渡して行きたいと思う。短い一生、特にその死の前に、この鋭い知性と感情をもった一人の少女が手さぐりして居た実体、本当の人生とか幸福とかが何であるかと云うことを、人々はいつかいま少し具体的に知り、実質的に把んで行くであろう。(1950・八)

「政治と孤独と――高安国世君に答へて」(一)

  高安国世君――

「短歌研究」八月号所載の貴兄と手塚富雄氏との往復書簡、「或る不安について」を、僕は感動してよみました。

特に貴兄は僕の歌に多くの筆を費やされ、僕としては面映い思いなのですが、本当のところこの貴兄の文章ほど僕のことばが深い理解によっていたわられた事を知りません。僕のことばはいつも雑駁であり非論理的であり結論的であり、それが歌壇から、「之がお前のことばだ」とばらばらに分解されて返されて来る場合眼もおおいたいほど恥ずかしい思いをいだくのですが、貴兄が僕の「政治」の語を僕以上の深さでいたわり把えて下さったことに深く感謝せずにはおられません。いつかの柴生田氏との論争?以来、僕は「政治」と云うことばそのことが何かさんざんに人にもてあそばれてかえされて来た、うすよごれたものとしか思えなくなっていました。

貴兄の文章は、再びその事を語らねばならない気持に僕を引きもどしました。

「「政治か文学か」と言っているのではなく、政治の中にいる人間の文学を言うのであります。(中略)政治の中に揉まれる孤独な善意の人間こそ問題とするのであります」と貴兄は言っています。僕の文学態度に対しての貴兄の理解のことばであります。それにすぎません。このことばに僕は芝草の日なたのようなあたたかい物を感じ、孤独な理解の中に甘えようと思います。しかし同時に貴兄自身、このことばを不快に思うのではありませんか。早くこの理解に甘えかかろうとする僕の気持を、僕は自らむちうたなければならないと感じます。

僕らは僕ら知識階級の陥落がここにあることをたれよりも先に自ら知っているのではないでしょうか。孤独とか善意とか何故僕らはすぐ口を曲げた弱々しい笑いを互いに交し合わなければならないのか。何故このようなことばにより吾々同志の気弱い頷き合いをつづけていなければならないのでしょうか。

ことに今日のようなせっぱつまった日に、僕らはたれよりも先に己れの弱さと無力さとを知る故に、なおさら僕らの現実に自分をぶっつけ、自分をさらさなければならない事を、切実に感じます。

(つづく)

「政治と孤独と――高安国世君に答へて(二)

 (昨日よりつづく)

僕らは荒涼とした時代に生きて居るとも云えます。僕らの声は四囲の虚しさの中に消え、僕らの行為は喜劇的な影として足元の地面にうつるだけとも気付きます。しかしとにかく、僕らは其処に立ちつづけなれればならない。僕はそのために常に何か追い立てられるものを感じます。

「何か」と言う事を僕は生きて居る事の一種の連帯感だという風に考えます。僕らはとにかく僕以外のものに対し責めを負って居る、と云う風に考えます。

僕らを追い立てて止まないもの、そうでなければぼくらを片時も不安から離さないもの、僕はそれを一種の連帯感と感じます。同じ時代に対し、同じ日に生き苦しむものに対し、いだく責めの感じを、僕らは僕らのうちに常に感じて居るのではないでしょうか。

僕らはこの責めを負って、あらあらしい僕らの現実――「政治」に立たなければならないのだと云う風に理解しています。

この事がそれほど過去の詩人の態度と、或いは詩の本質と隔絶したものなのでしょうか。貴兄の考えるリルケ或いはゲオルゲの詩の態度と別物なのでしょうか。僕はゲオルゲに対しては全く無知であり、リルケの理解と云えばほとんど貴兄の理解の引き写しにすぎませんが、それでも、リルケの所謂「神」と言う漠然として感覚を、「政治」と言う僕らの言葉の感覚に置き換えたことが、それほど僕の独断でしょうか。

形而上のことばで装われ、十九世紀風の装釘で本箱にしまわれようとしている詩をも一度僕らの生活の間のものとすつために、僕らは詩、或いは文学が、吾々の間で、何のために必要であるかを考え、それが「神」と云うことばで考えられ或いは感じられた彼らの「生」の問題を、僕らは僕らの「生」の問題として、装いをとり去り、直截に端的に考えてゆかなければならないのだと思います。

「神」が僕らにとって魂の内部のものならば、今日僕らをがんじがらめにしている「政治」さえ、同じく深いわれわれの内部の問題なのではないでしょうか。

そうして、僕らは時代に対したれよりもきびしい責めを感じ、苛酷な僕らの「神」の問題に対峙してゆかなければならない。少なくとも僕らは自らをそのようにむちうちつづけて行き、無力と弱さとを知る故に、けはしい荒涼とした吾々の現実のなかに己をはげまして居なければならない。もし僕らに孤独と云うことばが許されるならば、そのような世界の中に於いてのみだと云う風に感じて居るのであります。

(つづく)

貴兄は、「近藤が常に孤独な所以は彼が政治以外のものに価値の基準を置いているからに他ならないと思います」と書いています。

そうでもあり、そうでもない、と云う僕の月並みな論法は、全く手塚氏の言うごとく言葉の意味の限界をあいまいなままにしているためでもあります。僕らは政治と云うことばの中に政治以上のものをもたくし、そのために常にこっけいに裏切られているのだということが云えるでしょう。しかし僕らの知識としてふみはずしてならないことは、僕らの「政治以上のもの」は政治の外にあるのではなく、政治を通して、その先にある筈だと云う事、いやらしくしても苛酷であっても、現実の政治を通って、その先に見出すべき筈だと云う事、この知識による理解を僕らと僕ら以前の詩人――歌人の理解の差とします。この知識が僕らの文学に恣意を許さないものとします。そこから、その恣意の許さない一点から立って、僕らの文学――短歌は作られてゆかなければならない。貴兄が価値の基準をこの意味で考えられるなれば、僕のたどたどしいことばもわかっていただけると思います。

高安君。僕らはも少し詩の美しさと云う事を考え、かつ語りたいと思います。どのような僕らのことばにも拘わらずとにかく君のリルケにしろあるいは吾々の想起するかぎりの吾々の先人の詩に、感じる一種の郷愁の如き詩観が何であるかをも少し深く考えたいと思います。君の手塚氏に提示された一番大事な問題も其処にあったのではないかと思います。そうしてその事に関するかぎり手塚氏は何も答えていないように思えました。

僕らが現実に作歌する場合、多くの場合はほとんどこのような「詩の美しさ」と拘わりのないような己れの世界に居ることを感じ、ふと不安を感じることもあります。

しかし同時に次のようにも考えます。リルケにしろ、或いは吾々日本人の場合最も本当の詩人であった芭蕉にしろ、彼らが詩の第一義として居たものが彼らの「詩の美しさ」――吾々が今郷愁の如く彼らの名から直ちに連想する「詩」の世界そのものなのではなく、詩によって、彼らの何かを、彼らの「生」の何かを追及してゆこうとする、その事にあったのではなかろうか。このように感じるのであります。

言語の意匠ではなく心象の造型ではなく、その事により何かの「生」の意味をさぐりあてようと苦しんだ、かれらの営為の中に僕は彼らの本当の詩人の意味を感じるのではないでしょうか。そうしてこの営為のあとに水脈のように引いて行くものを、僕らは彼らの詩の世界と感じ、詩の美しさと感じ、彼らと二流詩人と分つものとして感じているのではないでしょうか。

もっと近い世界を考えると、茂吉と、同時代の歌人群とを並置してもよいでしょう。

このようなわかり切ったことを貴兄に云う意味は、僕の歌人として立って居る事と、その時々の不安と納得とを君に知ってもらいたいためなのであります。徒労かとうたがい、しかし同時にそれ以外にあり得よう筈がないと云うせっぱつまった気持で作っている、今の僕の歌の、之は言訳かどうか、そのへんのところをいつかまた貴兄に教示していただきたいと思うのであります。(1950・8)

「短歌への信頼

寒い、余光のきびしい都市の裏街の、小公園を抜けると迷彩のよごれた小暗い変電所がある。変電所のまわりに戦争後のバラックのままの、従業員の社宅がある。小さなどの家にも、この変電所を守っている若い人たちの、つつましい一組の夫婦が住んでいる。

その一軒に歌会がひらかれる。何組か、同じような若い夫と妻が僕のまわりに輪に坐って、僕の歌の批評を聞こうとする。

遅れて小柄なH君が、黒いジャンバーを着て少年のように赤い頬をして歌会の席に加わる。H君は従業員組合のこの地区の執行委員長をしている快活な青年である。H君が姿を見せると座はちょっと緊張する。「いよいよストライキに決まった。M変電所も吾々の方に寝返ったんだ」そう云って今度は僕の方に、「委員会がすむと、歌会があるからって大急ぎで帰って来たんです」と言訳けをする。「歌会がこんな日にぶつからなければたのしみにして居た出席者がもっとあったんですが。組合で手が抜けない人々も居ますから。」

変電室からは、重たいにぶいひびきがいつも聞えて来る。雨の夜なかに、バラックの社宅から変電室の夜勤に出て行く夫を歌った、少女の声のように美しくあわれな相聞歌をこの人たちの出して居る短歌雑誌に読んだことを思い出した。たれも皆つつましく、働き、生活を愛し、短歌を愛して居る。

このような人たちの間から、どのような短歌が作られるのであろうか。それは決して空虚な人を見下したような怒号、かってのプロレタリア短歌の如きものではない。もっとつつましくナイーブな生活の抒情詩である。このようなひとたちの間になお愛せられて行く短歌とは一体吾々にとってどのような文学なのであろうか。

僕のところに時々作品を送って来るS刑務所の受刑者が居る。世間に無知な僕は刑務所と云う所を知らず、従ってこの人にどのような返事を出せばよいのかにも迷うのだが、しかし、

一きれの沢庵の味恋ひしみて臨終に欲りし友の幾人

等の如き悲しみ深い作品を読んでいると、僕らには刑務所と云うところがだんだんわからなくなって来る。

この一人の受刑者は無論の事、H君らの仲間と云い、毎月のように僕のところへ歌稿の綴りを送ってくる各地の国立療養所の友人らと云い、すべて無名な「読み人知らず」の短歌作家である。そうして今日と云えどこのつつましい貧しい人たちの間に短歌が愛せられ、その生活のよろこびかなしみが無数に歌われて行く。

ここに僕らは短歌への信頼を感じる。同時に、新しい歌はこの日本の庶民の間に基盤をもち彼らの間に愛用され歌い交されて行くのでなければならないと云う事を強く感じる。(1950・6)

「抒情の問題(一)

「短歌研究」四月号に高木市之助氏「短歌変革の論理」と云う一文を書いている。高木氏は短歌の本質を考える時に「珍しく純粋」に守られて来た抒情性と云うことを云い、今日の短歌が歴代の変革を超えて、その抒情性を執拗に護りつづけて来たことを説く。そうしてこの抒情性は日本の文学史に於いて、西洋ののそれと異なり、叙事詩、及びその系統に立つ近代散文と対決することなく、かえって日本文学のあらゆる様式を短歌的世界に引き込む風にして、今日にひきつづいて来ていることを説く。そうしてこのような抒情性を克服するところに短歌変革の道があり、短歌が新しい生命を獲得して行く方法があるのだと云うのが氏の文章の主旨である。

氏の文章の要旨は僕らには何ら新しい問題ではない。それはかっての所謂第二芸術論でも一応評論家らによって語られた問題でもあるし、それ以上に僕らだけには、短歌を作る事の一番はじめの問題でもあったのである。氏の云う意味での「変革」の一点は正岡子規に於いてなされ、子規の仕事は、高木氏が云う所の、王朝貴族階層間に醸成された抒情的なものの否定であり、その継承であり新しいよそほひである「明星」の浪漫主義の否定であり、正に氏のことばのままの「リアリスティックな短歌の誕生」でもあったかもしれないのであり、更に、子規の仕事をターニングポイントとして「アララギ」の中に於いて土屋文明に迄うけつがれて行った、ある意味では今日の短歌その物の性格であったとさえ云えるのである。

そう云う風に見て行けば高木氏の一文は何故今ごろ氏がこのような事を持ち出されたか不思議なくらい当然な古い問題の出し方なのである。

ただ、僕が氏の一文をとりあげたのは、この当然の論理にも拘わらず、僕らにはいろいろと考える事がのこされているからなのだ。たとえば高木氏は「試みに、ある有力な実作家に向かってこのような論理を投げかけたとして、彼はよく之を受け入れるであろうか。又受け入れたとしても、彼はよくこれをその実作に反映させるであろうか」と云っているが、僕ら実作者としての場合、このことばも簡単に答えが出せないのである。

馴らされた抒情の否定が新しい抒情を生むことであり、そうした否定と生成とは僕らの場合リアリズムを態度とすることでなされている。少なくともそれは僕らが子規から文明の線に於いて教えられてきている作歌態度である。それにも拘わらず、僕らがこのようにして否定の後に作り出して行く新しい抒情性が、大きな文学の中に「幾度もの変革を超えて頑強に護りつづけられて来た短歌の抒情性」と云う高木氏の意味のものと、どのように対置されるものであるか、その変種にすぎないものであるのか、その点になると不安でもあり、ほとんどかわらないと云う他ないのである。

(つづく)

「抒情の問題(二)

   高木氏は石川啄木の場合を一つの例としてあげている。啄木の作には「自然主義的なと云うよりはむしろ社会主義的な思想の窺われる作が少ない」と氏は云う。しかし「この事実必ずしも彼の短歌の抒情性を拒み」はしなかった。短歌の抒情性は啄木の変革を越えてなお頑強に守りつづけられた。高木氏は啄木の場合の変革性を三行詩と云う型の上に主に考えているが本当はもっとその先の意味を主にかんがえるべきであろう。啄木の自然主義のも一つ次のリアリズムの態度であろう。それにも拘わらず啄木の作品の持つ抒情性は日本の短歌の抒情性の一つの場合、少なくとも新しい一つの変種にすぎなかったと云う事は高木氏の判断を待つまでもない。啄木がソシアリストであり、彼の残した文章歌論等の上では先駆的な現代人であったと云う事とは別だとも云えよう。

このように考えてゆけば、僕らが短歌の抒情性なるものを一度断ち、高木氏の云う如くリアリズムの態度に立ち、リアリズムを身につけ、作ってゆく新しい抒情が、「変革を越えての」抒情をも一つ加えるだけの事だということを如何に考えればよいのであろうか。結局高木氏の指摘する「もののあはれ」の抒情の系列の中に沈んで行ってしまうということを、僕らは今お互いの問題として考える。

そうして、その点の問題をもはや高木氏の文章は明確にしていない。高木氏はただ、「少数の例外者のみが、実作の経験に於いて、よく抒情を否定し、リアリズムを身につけることによって、短歌変革の論理を確認し得る」とか、「少数の天才者によって、歌の実体がリアリズムを獲得した時」とかの表現によって、吾々に大事な問題を、あいまいに残してくれているだけである。高木氏の結論とする短歌変革の、短歌の生命持続の問題は、新しい抒情を結局は伝統的な短歌抒情の変種として、一屈折点として加えてゆくだけではたされるのであるか、その大きな系列の中に沈むことだけでよいのかを吾々の疑問として残し、更に、ではどのように考えればよいのかの新しい問題をも残す。過去的なものである抒情を断った後の新しい短歌とはどのようなものであり、その新しい抒情――高木氏のことばのままに――とはどのような形のものかを僕らは考える。

その異質な抒情性を僕は高木しの如く単にロマンティシズムに対立するリアリズムとか、抒情性に対置される叙事性乃至散文性への中にのみは見ない。むしろなぜ短歌或いは近代詩が、その発生に於いて対立的なものに考えられたリアリズム或いは散文性を「獲得」しなければならなかったかの意味を考える。それは詩歌がすでに今日単なる詠嘆の中に完結しておれなくなったからなのだとも云える。僕らが生きて行く場合、現実の生の中に生きる意味を考えてゆかなければならない、そのとき僕らの感情はすでに思考的なものが入りこんでこなければならない、と云う点に僕は抒情の一つの新しい質を考える。

短歌に変革がもたらされ、新しい生命が獲得されるためには、高木氏の云う如き単なるリアリズムの獲得のみでなされるのではなく、さらにそのリアリズムが何であるかを、も一つ見究めてゆくことによってなされるものと思う。

その場合短歌の抒情は、思考する抒情となることによって新しい異質の抒情になると考える。高木氏の求めるものはこのような短歌として吾々に考えられるものではなかろうか。

高木氏の論はすでに云いふるされたものかもしれないが、それを契機として僕らの実作を考える場合、又僕らの作品とその抒情性を考える場合、いろいろとまだ明確にすべきものが残されているのではあるまいかと云う事を考えて見たのである。(1950・5) 

「守るべきもの――あてのない手紙

また歌が作りにくい時代になったと思います。ノートに歌をしるし、ふと気がついてノートをそっとふせなければならない、周囲から何か眼に見えない重苦しい悪気流が、今又ひそかに流れて来ているのをぼくなど弱虫はどうも必要以上に感じます。

しかし考えて見ると僕らの半生、ほとんどそんな重たい気圧の日に歌を作っていたとも言えます。戦争前、戦争中、それから戦争後。戦争後一時僕はかそかな青空を見たような気持になり、いくらかのびのびと歌を作った記憶がありますがあれは錯覚だったのかとすぐ気がつきました。僕らのうたがくらいと批判されますが、こんな気候の日にはなぜその時代のかげを作品に背負はずに居られましょう。僕はむしろその質問の方がいぶかしいくらいだ。

歌が作りにくいとはじめに書きました。だがも一つ云うと、僕はこのように歌の作りにくい重苦しい日にひそかに生きて、歌をつくり得る小さな才能を持つと云う事、歌を作り得る人間であるということをよろこびとも感じます。すくなくとも、この重苦しい悪気流は、僕らの作品に一つの抵抗となり、抵抗は作品に陰影となってひそかな表情を作って行くと云うことを考えます。人は作品のこの微妙な表情のかげから、逆におほひかぶさった気圧の重さをよみとり、気圧に耐えている作者の心の内の内のひそかな怒りをよみとって行くはずであります。僕らはその期待に力づけられて、小さなつぶやきのような作品を、このような時代、そのときどきに作っているのです。

そのような僕らの作歌の間に、ぼくらはぢっと冴えて澄んだ眼をひらいていたいと思います。体は最小の姿勢に屈していても、常に僕らは光る眼を内と外とに見開いていたいと考えます。そうして重苦しい気流の中に一番大事なものを、何故人間が長いその興亡の歴史の中に、文学などと云うものを考え出したのか、その本当の意味を、考え、まもって行っていたいと思います。

今日は五月一日、メイデーでした。しずかなメイデーでした。長い列が、ほとんど声も聞えず昭和通りをたてにいつまでも過ぎてゆくのを、一人屋上に佇って見ていました。例年血のようにくろずんだ赤い旗の色が、今年は多くの赤と青と二色の色別けで、新しい印象でした。

体が弱いせいか、僕はこのごろ時々ふと「老い」と云ったような恥ずかしい気持を感じるようになりました。そんな年ではないのですが、だが、僕らはまだまだいろいろな日に生きるでしょう。そうしていつの日も、耐えて守るべきものをその時々の作品の中にぢっと守って行きたいと考えます。(1950・5)

「民の声として(一)

戦争前ぼくらはもはや新聞雑誌その他のあらゆる文学を信用し無くなっていた時に、短歌だけが最後まで人間の本当の言葉で、同人雑誌の選歌欄の片すみに、吾々庶民の思想と情念とを語り続けていたと言う事をすでに幾度か書いた。多くは受け身な弱いつぶやきのようなことばであり、しかもそれが常に平凡な人間の平凡な生活の起伏の弾みにふとしたことのように語られているだけであったが、それらを通してこのような作品の中に最後まで守られていたヒューマニズムは、吾々は己れの記憶として忘れられないと共に、常に短歌と言う吾々の間に深い根を持った文学への最後的な信頼とも言うべきものを感じさせた。

同様なことは戦争中の前線詠についても云われ、吾々は戦争のさなかに其処だけに常にうそのない人間の言葉が、非人間的な時代に対し清冽な精神の「抵抗」をつづけて来て居たと云うことを思い出す。

同じような事が又今日言えるのではなかろうか。どのように僕らの生きて居る世界が政治の「言葉」によって飾られようと、そんなものによっては言いくるめられない最後的な人間のことばは、常に短歌によって「民の声」として語られつづけて居るのではなかろうか。そうして「民の声」であるという事が短歌の作品評価のすべてではないという事は当然としても、其の上に築かれていない作品は吾々の間に根強いいのちを持たないものであるという事は、今明らかである。

そのように僕は今日の短歌作品を見て行く。僕らは先ずあるままの今日の短歌作品を見て行かねばならない。僕らは其のために批評家のように理想型を天の一方に置いて、作られている現実の短歌だけをむち打っていることは出来ない。

(つづく)

「民の声として(二)

   衰へて乗りつぐ貨車のま近くにいたぶる湖のしぶき上げつつ

   流氷のただよふ湖がとどろきて閉せる貨車に眠られず居り

   啼きつれて行く雁見れば昼空にあはれ紅の脚見え飛ぶ

これらの作品は「アララギ」三月号に出た木村正雄氏のシベリア抑留詠である。同じ作者は四月号も次の如き作品を作って居る。

   聖壇にパン粉荷ひて苦しむに来りて祷るらしき幾人

   五月一日の装ひあかるき巷には石灰塗れりどの街路樹も

   腹減りて物言はぬ捕虜と囚人と代る代る飲む水栓よりただに

僕は何よりこの透明な抒情に打たれる。腹が減って囚人と一つ水栓を飲み合って居る、事実としては悲惨な場合も、何か清い人間感情が透って居る。僕はそれがかって吾々の間の前線詠と、性格が実に似て居るという事に一種の感動を覚える。

同じようなシベリア抑留詠は、注意して読めば各誌に散見する。ジャーナリズムの取り上げる抑留同胞の問題とは別に、僕はここに吾々日本人の共にになわなければならない重たい時代の荷を感じる。

   歩哨来て数よまれ居る列の前吾が背負ひゆく屍重たく 「国民文学」一月佐藤博

ランプにて面照らさるる不時点呼雪に痺るる足絶えず踏む 「国民文学」二月大内与五郎

海距て憧れわたる背後より絶えず湧き起る赤旗のうた

   作業場の下監督はウズベク人にてすぐに吾等と仲良しになる 「橄欖」三月江波戸醇一

歩哨に数をよまれている捕虜の気持は重苦しく、不時の点呼によび出され、ランプに己れの顔をてらされている無抵抗な人間の姿はすざまじいものがあるとも云える。しかし、これらの歌に共通して云える事は、すべてそのような己れの運命にじっと耐えている心であり、その耐えた生活の中にウズベクの監視人と仲良くなって生きて行こうとする一人の庶民の善意の生き方である。人はかかる作品のほとんど無抵抗とも云うべき善意に不満をいだくかもしれない。少なくとも、吾々が期待するいづれの側からも、ここには未知の国と其処の人間の生活はほとんど語られてなく、その中にとにかく生きて語られて居なければならない作者の批判の眼は読み得ない。

(つづく)

「民の声として(三)

   先着の船の上陸待つひまもデモコーラスの最後のとどろき          「歌と観照」一月添谷武男

作者は上陸の時にデモコーラスを後より聞いて居るだけである。これが短歌作者かもしれない。弱気であり、小心な善意の人の歌だと批評者は云ってしまうであろう。しかし、僕らは早急な判断をさけねばならない。僕の気持は、このような歌を僕らは提出されたデータとして辛抱強く出来るだけ多く集め居なければならないと云うことである。

そうしてそれらの集計のはてに、僕らは自然に一つの声を聞きとるであろう。少なくとも与えられた人間の環境の中に、屈せずまもられて行く吾々の庶民の清冽なヒューマニズムを、吾々は早急な呼号とは別に読みとって行くであろう。

ソ連抑留がどのような意味を持つかは知らない。僕は人間一人の生命と精神とを考えるときに、外から強いられる判断とは別に、もっと根本的な人間が内からつぶやく深いことばを、これらの抑留者の歌から聞くことが出来るはずであり、其のことばを通して何が本当であるか、あたかも戦争のさなかに於いて、決して兵隊が戦争のその物とあからさまには対決せず、あからさまには批判をしていないことにも拘わらず、前線作品の集計において一貫して清冽なヒューマニズムがつらぬき、一つの抵抗が非人間的なものに対して屈することなくつづけられて居たと同じことを、吾々は知ってゆくことが出来る筈である。

それが結局何にもゆがめられていない「民の声」であり、そのように重たく重ねられて行く批判が、短歌の文学として内に包む本当の批判精神なのではなかろうか、ということを僕は云いたいのである。

僕はたまたま手もとにある例として抑留者の歌だけをひいたが、それは同時に今日のあらゆる作品についても云える。吾々の作品は、今日の吾々の置かれた現実に対し弱気であり小心であり善意にすぎるかもしれないが、その集計のはてに一貫して守られてゆくものをみのがして早急な短歌と歌人とへの不信を語ることは出来ないのだ。短歌とは、あるままの人間とその生活とから飛躍しては成り立たない文学であるからである。(1950・3)

(つづく)