一日一生(内村鑑三)「一日一生」(教文館)より

注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)
平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より

平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)

平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成18年5月11日(木)からは次ページへ

                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。


一日一生(内村鑑三)

5 月
労働の快楽もまた貧者特有のものであります。世に不幸なるものとて、働かないもの、働かずしてすむ人のごときはありません。労働の快楽は最も確実なる快楽であります。よし適当の報酬のこれにともなわないとしても、労働に「われは今日も何かなしたり」という満足があります。西洋のことわざに「最大の罪悪は何事をもなさざることなり」ということがありますが、実にそのとうりであります。人は労働によって人生の苦痛を忘れるのであります。娯楽機関は一時の鎮痛剤にすぎません。いっしょうけんめいに働く時には、人は何びとも小児のごとくにイノセント(つみなきもの)となるのであります。(『内村鑑三聖書注解全集』第九巻「ルカ」伝)

5月11日(木)からは次ページへ

5月10日(水)

そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。(コリント第一書十二・三)

聖霊は神が人類に賜う最大の賜物(たまもの)である。しかし賜物であるからというて物ではない。触(ふ)れ、量(はか)り、分析することのできるものではない。霊は気である、勇気である、正気である、道徳的感化力である。聖霊をみたまとよんで、瑤玉(ようぎょく)のさらに精化したる者であるかのように解するのは大きなる誤りである。聖霊は霊である。ゆえにしてわれらに臨み、その中に愛を生じ、信仰を起こすのである。聖霊に鳩の形もなければ、焔(ほのお)の熱もない。われらはただこれをわれらの霊の力、光、生(いのち)として感ずるまでである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」


5月9日(火)

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。(ヘルブ書六・四ー六)

神にさからいたればとて、その刑罰としてただちに病にかかり、貧にせまり、または社会の地位を失うものではない。いな、多くの場合においては、身の境遇の改善は神をすて去りし結果として来るものである。神にさからいし覿面(てきめん)の刑罰は、品性の堕落である。すなわち聖きことと高きこととが見えなくなって、卑しきことと低きこととを追求するようになることである。しかしながらこれもっとも恐るべき刑罰であって、人にとってじつはこれよりも重い刑罰はないのである。そうしてこの刑罰のことに重いわけは、これを受けし者がその刑罰たるを解しえないことである。われらは神に祈りて、いかなる他の刑罰を受くるとも、この恐るべき品性堕落の刑罰を受けざるようにつとむべきである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 9 日
助け主、すなわち父が私の名によって使わされる聖霊は、あなたたちにすべての事を教え、また私が話しておいてた事をことごとく思い出させるでしょう。平安を私は残して行きます。世の平安でなく、私の平安をあなたたちに与えます。ですから心を騒がせず、恐れ怖じけないでください。

(ヨハネ 14:26-27)

助け主

 弟子たちの状態は、ただ不安な胸騒ぎと、助けなき(helpless)弱さでした。イエスが世を去られた後、どうやって行きましょうか。言い難い孤独と寂しさが彼らを包んだのです。それに対して、イエスは懇々(こんこん)と教えたのです、「私が去った後、あなたたちは互いに愛しなさい。私はまた父にお願いして別の助け主を送ります。それに、私はあなたたちを置き去りにするのではありません、私自身直ぐにまたあなたたちのもとに来るのです。そんなに心を騒がさなくてもよいのです」。ああ主イエスよ、あなたの愛の配慮はこのように周到を極めます。まことにあなたの愛は母の愛よりも強く、ハチの巣のしたたりよりも甘いです。あなたの言葉に浸る時、私たちは人生のわずらいを忘れます。


5月8日(月)

ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。(イザヤ書四四・二十一ー二十二)

もし救わるるはわが行為(おこない)またはわが信仰によるならんか、わらは今なお危地に立つ者なり。そはわれはいつ罪を犯し、わが信仰はいつ冷却し、またいつ変移するや、期すべからざればなり。されどもわれは聖書によりて、救(すくい)の、わが行為または信仰によるにあらずして、変わりなき神の変わりなき聖旨(みこころ)にもとづくを知りて、われにはじめて真の平安あるなり。その時、われはわが行為の不完全を意とせず、わが信仰の冷却を恐れず、まとえる罪の重荷を脱して、はばからずして神の至聖所に入るをうるなり(ヘブル書十・十九)神もしわが味方ならば、たれかわれに敵せんや。われわが神がその無限の愛をもってわれをあらかじめその救いに定めたまえりと知りて、われは世の反対を恐れず、教会の否認を恐れず、わが罪と不信とを恐れず、ただ「われは信ず」といいて一直線に進むなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 8 日
不信仰な人の勧めに従わず、罪人の道に立たず、あざける人の席につかない人は,さいわいです。そのような人は主の法を喜びとし、昼も夜も主のおきてを思います。

(詩篇 1: 1-2)

聖書暗唱の必要

 聖書を学ばないで信仰を求めるのは、釣り針を用いずに魚を釣ろうとするに等しいです。その釣り上げたと思う信仰はワラくずのように、風が吹けば消えて跡形もなくなるでしょう。

 聖書はただ読むのみでなく暗唱して置くのがよいです。もちろん聖書全部を暗唱することは不可能ですが、所々愛読の箇所を暗記すれば、事に当たっての力となります。そして平生繰り返して聖書を学んでいれば、強いて暗唱しようとしなくても、自然に暗記されます。

 戦場において、病床において、留置場の中において、平生暗唱している聖書の言葉を食べて生き、これを現実の力として身を支えたことは、私たちの兄弟姉妹たちの報告する実験です。各自自分のために準備しなさい。

5月7日(日)

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると王は、答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらのもっとも小さい者のひとりにしたのは、すなはち、わたしにしたのである』。(マタイ伝二十五・三十七ー四十)

聖クリソストムいわく「真正なる神殿は人なり」と。北斗、参宿(しんしゃく)、昴宿(ほうしょく)の密室、これ神の宿りたもうところにあらず。雷霆奔鳴(らいていほんめい)して山河揺撼(さんがようかん)する時、これ神が吾人語りたもう時にあらず。みどり児(ご)うまぶねに臥するところ、これまことの神が世に臨みたまいしところなり。神は人にあり。彼は人において吾人の敬愛と信従とを要求したもう。人に仕うることにして、人を離れて神に仕うることあたわず。


参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 8 日

不信仰な人の勧めに従わず、罪人の道に立たず、あざける人の席につかない人は,さいわいです。そのような人は主の法を喜びとし、昼も夜も主のおきてを思います。

(詩篇 1: 1-2)

聖書暗唱の必要

 聖書を学ばないで信仰を求めるのは、釣り針を用いずに魚を釣ろうとするに等しいです。その釣り上げたと思う信仰はワラくずのように、風が吹けば消えて跡形もなくなるでしょう。

 聖書はただ読むのみでなく暗唱して置くのがよいです。もちろん聖書全部を暗唱することは不可能ですが、所々愛読の箇所を暗記すれば、事に当たっての力となります。そして平生繰り返して聖書を学んでいれば、強いて暗唱しようとしなくても、自然に暗記されます。

 戦場において、病床において、留置場の中において、平生暗唱している聖書の言葉を食べて生き、これを現実の力として身を支えたことは、私たちの兄弟姉妹たちの報告する実験です。各自自分のために準備しなさい。


5 月 7 日
主は霊です。そして主の霊のあるところには自由があります。

(第二コリント 3:17)

伝道の強要

 人の心は自由です。信仰を伝える上においても、また信じる上においても、自由でなければなりません。たとえいかに善いものであっても、これを強要することは人の自由に対する強迫であり、伝道者の取るべき態度ではありません。

 伝道者はただ自己に示された真理を静かに自由に宣べるに留まるべきであり、人が聞くことを欲しなければ、これを強いるべきでなく、聞いた人の心における言葉の成育は父なる神に委ねるべきであり、伝道者が立ち入って干渉すべき事柄ではありません。伝道者が神の権威を笠(かさ)に着て、弱い信者に異なる福音を強要することは、人間の自由に対する最大の圧迫であり、神の憎まれるところです。



5月6日(土)

わがしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向ってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(ピリピ書三・十二ー十四)

キリスト教は人を善の器となすものにして、先哲がもって詩人の夢想とみとめし最大の希望を、われらにおいて充(み)たすべしと宣言するものなり。われもしキリスト教によりていまだこの完全に達する道をえざれば、われはいまだキリスト教を解せざるものなり。キリスト信者は大望をいだかざるべからず。在印度宣教師ウィリアム・ケリーいわく『神のために大事を計画し、神より大事を望め」』と。われは人力のおよばざる大変化をわが身に来たらさんと欲するものなり。


参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 6 日
私たちは確信します、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのです。

(ローマ 3:28)

行為と信仰

 正しい行為を誤りなくしようと思えば、心に苦痛が絶えず、かえって判断が出来なくなります。これに対し、正しい信仰をもっていようと努めると、心に平安があり喜びがあります。心に平安があれば自由となり、何でも喜んで出来ます。私たちの正しく生きる道は、自己の行為の適否(てきひ)をせんさくすることではなく、常にイエスを見上げていることです。信仰によってした行為は、すべての事が善で、すべて正しいです。人の義とされるのは律法の行為によらず、信仰によるということを、常に忘れてはならないのです。



5月5日(金)

愛する君たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。(ペテロ第一書四・十二―十三)

 

恩恵(めぐみ)とは身の幸福ではない、霊の光明である。財貨(たから)とは全世界ではない、眼に見えざる真の神である。唯一(ただひとつ)の真の神である。唯一の真の神と、そのつかわしたまいしキリストを知ること、これが永生である、最大幸福である、最大賜物である。しかしてこの至大至高の恩恵にあずからんがためには、貧も可(か)なりである。世と友人とに棄てらるるも可なりである。疾病(やまい)も可なりである。しかり、死そのものも可なりである。余輩はイエスありて、死そのものにおいてすら神の笑顔を拝し奉るのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 5 日

よく聞きなさい、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この女性のしたことは賞賛され、語り伝えられるでしょう。

(マルコ 14: 9)

ベタニアのマリア

ああ、ベタニアのマリア!
あなたは永遠のナルドの香り、
女性の中の女性です。
祝福が女性にありますように。
混じりない直観をもって
人の子の孤独を知り、
出来る限りをつくして、
彼の死を助けた
不朽の愛よ。
しかしあなたの名を福音とともに
不朽なものとしたイエスの愛は
あなたの愛よりもさらに大でした。



5月4日(木)

あなたの心を教訓に用い、あなたの耳を知識の言葉に傾けよ。(箴言二十三・十二)
聖書は何がゆえに神の言辞(ことば)であるかというに、もちろんその中に神にあらざればとうてい語ることのできないことが書いて あるからである。その文章の優劣はわれらの論ずるところではない。歴史的事実の錯誤のごとき、科学的証明の不足のごとき、もって 神の聖旨(みこころ)のいかんを示すにあたっては、さほど大切なる事柄ではない。われらは人生に関し、宇宙に関する神の真理を知 りたくねがうものである。そうして、聖書はもっとも明白にわれらの要求するこの説明を与えてくれるのである。すなわち聖書の完全 なるは、その辞句文章等の外形にあるのではなくして、これを一徹する神の聖旨に存するのである。聖書が神の言辞であるというのは、 その中に神の心が充(み)ちあふれているからである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より
5 月 4 日

「善き師よ、永遠の生命を得るために私は何をすべきでしょうか」。するとイエスは答えました、「なぜ私を善と呼ぶのですか、善なる方はただ一人神のみです。もし生命に入りたい思うのなら、いましめを守りなさい」。

(マタイ 19:16-17)

善き師

 教師中の教師は神御自身です。 ・・・ 

 神は世界と人生を教室とし、天然と歴史とを教材とし、聖書を教科書として、人を教えられます。神は夕日に輝く白雪の連峰を指して人に『荘厳(そうげん)』を教え、天に星座の掛図(かけず)をかけて『悠久(しゅうきゅう)』を教え、また国家興亡(こうぼう)の跡を歴史に示して『正義』を教えられます。そして世界と人生の現実に起こり来る諸般の出来事を通して、私たちが正しく判断し正しく行動した時には『よくやりました』と賞めて下さり、誤った時には『それはいけません』と言って罰して下さる。そして私たちに書を開かせて神の言葉を指し示し、ある時は親切に、ある時は厳しく、私たちの必要に応じて真理を教えられるのです。こうして私たちは日毎の経験を通して神の真理を学び、神の指導に信頼して人生を歩みます。ある時は険しい坂を登るでしょう。ある時は砂漠を引っ張って行かれる事もあるでしょう。しかし神が導かれるのですから、神の導きに信頼して、死のかげの谷をも怖れなく歩みます。神の導きに信頼して歩むことは、生徒が教師の後について遠足し、又は兵卒が指揮官の後に従って行軍するように、安らかで自由な服従の生涯なのです。



5月3日(水)

あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネ伝十四・一ー三)

この世における余の生涯はどうでもよい。憎まるるもよい、誤解せらるるもよい、貧しきもよい、裸なるもよい。余の永久の運命はこの世における余の境遇によって定められるものでない。余の運命を定める者は、余のために自己(おのれ)を棄てたまいし余の救い主イエス・キリストである。彼は余のためにところを備えんために、父のもとに往きたもうた。彼はまた来たりてなんじらをわれにうくべしと約束したもうた。余はこの世にありては遠人(たびびと)である。暫時の滞留者である。余は一時天幕をこの地に張る者である。永久の住家(すみか)を築く者ではない。神が余を呼びたもう時には、ただちに天幕の綱を絶ち、これをたたんで彼の国へといそぐ者である。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 3 日
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動による戦争と、武力による圧力又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄(ほうき)します。前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しません。国の交戦権は、これを認めません。

(日本国憲法「第9条」)

戦争の放棄

 日本は、他国の政策に関係なく、一方的に、単独に、交戦権の放棄(ほうき)を国策として宣言したのであり、それは敗戦国としての止むを得ない声である以上に、世界平和確立のための原則を、世界諸国に率先して言明したのです。すなわち神は最も低い国を通して最も高い真理を語られたのであり、世界歴史に類例のない、世界平和のための国家主権の自己制限を世界に率先提唱する器として、神は敗戦日本を選ばれたのです。ここにおいて日本の敗戦は極度のはずかしめから極度の栄光に転化したのです。もしも日本が真に平和国家の意味を学び取り、平和国家の性格を養い、平和国家の実践を行うならば、日本は世界平和の中心となり模範となって、世界の歴史にその存在意義を輝かすでしょう。それは世界に対する日本の永遠的寄与となるでしょう。またそれはギリシャの哲学、ローマの法律に劣らず、永遠的価値をもつ高貴な貢献となるでしょう。



5月2日(火)

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。(テサロニケ第一書四・十三ー十四)

死は大事である。しかし最大事ではない。死はとり返しのつかぬ災厄(わざわい)ではない。死は肉体の死である、霊魂の死ではない。形体の消失である。生命の湮滅(いんめつ)ではない。われらは死して永久に別れるのではない、われらは後にまた再び会うのである。人生の大事は死ではない、罪である。天地の主なる神に背(そむ)き、生命の泉より離るることである。ゆえに神は人を死よりまぬかれしめんとて、その道を取りたまわなかった。しかしながら彼らを罪より救わんとして、その独(ひと)り子をおくりたもうた。死の刺(とげ)は罪である、罪がのぞかれて、死は死でなくなるのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 2 日
ヨハネはイエスを思い止まらせようと言いました、「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私の所に来るとはどういう事ですか」。イエスは答えまた、「今は受けさせてくださいい。それはすべて義しい事が私たちに成就するためです」。それでヨハネはイエスに洗礼を施しました。

(マタイ 3:13-15)

イエスの洗礼

 なぜイエスは洗礼を受けられたのでしょうか。自分自身の罪を感じたためでしょうか。自分の民族の罪を感じたからでしょうか。あるいは人類の罪を感じたからでしょうか。おそらくイエスは何もこんなに分析的に考えられずに洗礼を受けられたのでしょう。彼は決して自分一人を別人扱いにする自覚をもって洗礼を受けられたのではないでしょう。彼はただ人を救い、国を救う真の宗教とは悔い改めて心の向きを変えること、すなわち心のこと、精神のことであって形式のことではないと洗礼者ヨハネが言っているところ、それは真理だと感じて、ヨハネの洗礼を受けられました。すなわち身をもってヨハネの改革運動に賛成を表明されたのです。しかしイエスはいわゆる出藍(しゅつらん)の誉(ほま)れで、洗礼の霊的意味をヨハネ以上に明らかにされました。すなわちヨハネは水をもって洗礼を施しましたが、イエスは聖霊で洗礼を施されました。ヨハネは悔い改めすなわち心の向き直りということを表示するのに、なお水という形式を用いました。しかしイエスは何らの形式を用いず、直接聖霊による悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのであります。



5月1日

そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎさらせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、「アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」(マルコ伝十四・三十五ー三十六)

アア神よ、わららをしてなんじを偉大なる神として解せしめよ。われらの切望とあれば何事によらずこれを聴きいれたもうがごとき、われらに肖(に)たる小なる神としてなんじをさとらしむるなかれ。われらをしてなんじの前に平伏せしめよ。なんじがなんじの聖顔(みかお)をわれらよりそむけたもう時に、われらをして、なんじはわれらの聖父(ちち)なることを認めしめよ。なんじにわれらの祈りをことごとく聴きいれらるるは善し。されどもなんじの聖旨(みむね)のままに導かるるはさらに善し。われらをしてなんじに何事をも注文するとことあらしむるなかれ。われらをしてみずから善悪をさだめしむるなかれ。なんじのなしたもうところ…疾病(やまい)にあれ、飢饉(うえ)にあれ、裸にあれ…これ善なりと称せしめよ、アーメン。


参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

5 月 1 日
神の言葉を宣べ伝えなさい。時を得ても得なくても、伝道に励み、すべての忍耐と知恵をもって教え、いましめ、勧告しなさい。

(第二テモテ 4: 2)

伝道の必要

 キリストの福音を、人の心の奥に植えなさい。

 キリストの福音を、世間の人々の間にあふれさせなさい。

 キリストの福音を除いて、人の心を救う知恵はなく、世界に平和を来たらせる力はありません。

 それだから、私たちは、時を得ても得なくても、福音を伝えることをおこたってはいけません、春の朝、夏の真昼、秋の夕、冬の夜も。

4月30日(日)

あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。(イザヤ書ニ・ニニ)

 

正義というなかれ、恩恵(めぐみ)といえ。清浄というなかれ、赦免(ゆるし)といえ。正義清浄は人にあるなし。これを彼より要求して、われらは失望せざるを得ず。されども神の恩恵はかぎりなく存し、その清浄は尽くることなし。神によりて人を救わんと欲すべし、人によりて世を救わんと望むべからず。人を助け世を救う道は、単に神の救拯(すくい)の水をして尽きざる河のごとくに流れしむるにあり。

短歌:この風は昨日と違う今日の風笑ってみよう大きな声で

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

4 月 3 0 日

私はひとりで酒ぶねを踏みました。もろもろの民の中に私と事を共にする人はいませんでした。

(イザヤ 63: 3)

私は一人で

 主はひとりで酒ぶねを踏み、イエスはひとりで十字架につきました。人生の最も大事な時は、だれの霊(たましい)でもただ一人になって、神にだけよりすがります。どんなに温かい家庭があっても、どんなに親しい友人があっても、だれもはいってくることのできない私の至聖所があります。私はそこで神とだけ交わり、神からだけ力を受けます。こうして神だけが私と共にいて下さるとき、私は一人でどのような酒ぶねをも踏むことができ、どのような十字架をも負うことができます。いや、何人も私の酒ぶねを共に踏むことはできず、私の十字架を共に負うことはできません。それは私一人でしなければならない事だからです。

 本当に孤独であるとき、人は本当に強くなります。それは、本当に純粋に神にだけよりたのむからです。そして人それぞれが自己の真の孤独に徹するとき、そこに一切の物欲と利害と打算と依頼心と期待心と、また期待にそわない場合の失望との除かれた純粋な霊(たましい)の触れ合い、すなわち完全な愛の交わりの基礎が見出されるのです。


4月29日(土)

また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しく、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(テモテ第二書三・十五―十七)

 

著者の判然せざる聖書は信頼するにたらないかというに、決してそうではない。聖書は聖書そのもののために貴いのであって、その著者のために貴いのではない。真理はそのもの自身の証明者であるから、自身を人に照会するにあたって人の証明を待たない。なにもモーゼの言葉であるからとて貴いのではない、神の真理であるがゆえに貴いのである。われらはダビデやソロモンに教えられんと欲しない、神の聖霊に導かれたくおもう。預言者エレミヤはわれらのごとき弱き人であった、しかし彼の口より神の言葉が出た。われらは預言者自身を尊まない、彼をもってわれらを教えたもう神に感謝する。

短歌:机上には埃かぶれる聖書ありただ静かなり巌のごとく

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

4 月 2 9 日

キリストにあっては割礼も無割礼も共に取るに足りません。大切な事は愛によって働く信仰です。

(ガラテヤ 5: 6)

愛の行為

 キリトスの愛によって動かされる程度に従って自由に人を愛しなさい。打算的考量と分析的反省とは愛にふさわしくありません。愛が動けば行為になって現れます。愛が動かないのに無理に行為に現そうとすれば、形式となり偽善となって愛としての生命を失います。作為の愛よりも、偽(いつわ)らない正直を神は喜ばれます。

 キリストの律法である愛は自由に自然に行われることが特徴です。それは「こうべに注がれた高価な油が、ひげに流れ、衣のすそにまで流れるように、またヘルモンのつゆが降りてシオンの山に流れるように」(詩篇 133: 2,3)努めなくてもおのづから流れ出る愛です。「愛のおのづから起こる時まで、ことさらに呼び起こしたり、覚ましたりしないでください」(雅歌 8: 4)です。キリストを愛すれば、愛を行うことが自然に出来て来ます。キリストを愛することが深くなるに従い、人に対する愛も自然に深く広くなります。私たちは自分で愛を行おうと努力するのでなく、キリストとの結びつきをかたくすることに努力すればよいのです。これは間接的方法ですが、この間接的方法が私たちに愛の律法を守り行わせる唯一の正当な道です。


4月28日(金)

このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(テトス書ニ・一四) 

これは道徳的実験であります。すなわち良心の必然的命令によりて自己を糺(ただ)して見ました結果、自己の、神にそむき、幽暗(くらき)を好むものであることを発見し、この罪人(つみびと)を救うに足るの救い主を求めて、ついにここにキリストに接して、この痛める良心を医すに足るのある者を見出すに至ったのであります。そうしてわたしは、罪と人に対して犯したものではなくして、神に対して犯したものであることを知りますゆえに、この罪の苦悶を取り去ってくれた者は必ず必ず神でなくてはならないことを知ったのであります。

短歌:生きるためわれの犯せし罪あまた赦しくだされイエスキリスト

  参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

4 月 2 8 日
彼らは信仰によって国々を従え、義を行い、約束のものを受け、ライオンの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、また弱い人は強くされ、戦いの勇士となり、異国の軍を退かせました。女性たちは死の復活を受け、ある人はさらにすぐれた生命によみがえるためごう問に甘んじ釈放を請いませんでした。

(ヘブル 11:33-38)

イエスの勇士

 キリスト教会の歴史は、有名無名の勇士たちの信仰による武勇伝(ぶゆうでん)に満ちています。そのある人は、ダビデの三人衆の一人、ハラリ人アゲの子シャンマが、ペリシテ人の大軍の前にイスラエルの兵が皆逃げていく間にあって、唯一人畑に立って敵を防いだように、一人よく、とうとうたる世の風潮に抗して神の真理を守りました。そのある人はダビデの三勇士がペリシテ人の堅陣(けんじん)を突破してベテヘムの門にある井の水を汲んだように、イエスのためには死をも辞せず、唯物無神論者の陣をつき破って生命の真清水をくみ取り、これをイエスの御前にささげました(第二サムエル 23: 8-22)。 ・・・ 

 すべて神の国のために、信仰の純潔を守る人はイエスの勇士です。無学の農夫も、病床の少女も、すべてイエスに属する兵士の自覚を以てその信仰を堅持するところ、いたるところに信仰の武勇伝があります。その戦いを通じて、イエスと私たちとの心の結びつきはますます強化されます。私たち各自は、イエスの勇士名簿に、「どこどこのだれだれの子なになに」と名を連ねることの栄光を深く思わなければなりません。

4月27日(木)

アモスはアマジャに答えた、「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。ところが主は群れに従っている所からわたしを取り、「行って、わが民、イスラエルに予言せよ」と、主はわたしに言われた。」(アモス書7・14−15)

世の大宗教家と称するものにして、かえって神学校出身の人に多くあらざるを見る。神の人テシベ人エリヤはギレアデの野人なり。しかしてこの人、その天職と精神とを他に授けんとするや、十二くびきの牛を馭(ぎょ)しつつありしシャパテの子エリシャを選べり。ダニエルは官人なり。アモスは農夫なり。しかして神がその子をくだして世を救わんとするや、彼をしてヒレル、ガマリエルの門に学ばしめず、かえって彼を僻村ナザレに置き、レバノンの白頂、キションの清流をして彼を教えしめたり。一乾物店の番頭たりしムーデー氏こそ、じつに十九世紀今日の宗教的最大勢力ならずや。神学校は天性の伝道師を発育せしむるも、これを造るところにあらず。神学校の製造にかかわる伝道師こそ、世の不用物にして、危険物なれ。伝道師養成は造物主(つくりぬし)にあらざればなしあたわざることなり。


短歌:大それた望みにあらずわが子らにいまを生き行く力与えよ

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

4 月 2 7 日
与えられた神の恩恵によって私は熟練した建築師のように土台をすえました。 ・・・ この土台はイエス・キリストです。

(第一コリント 3:10-11)

結婚と信仰

 結婚は人生の重要な問題であり、その人の生涯の大半を決めてしまいます。軽率に結婚の相手をきめてはならず、また軽率に結婚式を上げてはいけません。軽率な結婚式はその影響を後に長くのこして、その結婚生活に困難と苦痛を与えます。

 これに反し、イエス・キリストを基礎とし、キリストの十字架を中心の柱とし、信仰によって神の前に厳粛(げんしゅく)で真実な結婚の誓いをたてるならば、その力が長く結婚生活を通して残り、信仰によって愛し、信仰によって耐え、外からの妨げによっても乱されず、内からの衝突(しょうとつ)によっても壊されず、よく結婚生活を完成にまで育てて行くことが出来るでしょう。結婚式は形式のことだから、どうでもよいと考えることは間違いです。

 年が若くて思慮(しりょ)が足らず、先輩も適切な指導を与えてくれず、軽率な結婚をし、あるいは軽率な結婚式をしたときは、後で苦しみを経験しますが、それは決して絶望ではありません。信仰にしがみついていれば、神の力は時の間に働いて、すべてを信仰の益とされます。 ・・・ 

 結婚を不幸にするものは不信仰であり、幸福にするものは信仰です。信仰によって働く知恵によって結婚することが、最も正しい態度です。



4月26日(水)

自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまたおるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。(ヨハネ伝12・25−26)

幸福は人生最大の獲物ではない、義務は幸福にまさりてさらに貴くある。義務ゆえにわれらはたびたび幸福を捨てざるを得ない。しかして義務のためにわれらのこうむる損失は決して損失ではないのである。エフタは彼の幸福を犠牲に供して彼の国を救うた。しかしてエフタの娘は彼女の生命(いのち)を犠牲に供して、彼女の父の心を聖(きよ)めた(士師記11章)。犠牲に犠牲、人生は犠牲である。犠牲なくして人生は無意味である。幸福は人生の目的ではない、犠牲こそ人生の華(はな)なれである。もしイスラエルを救わんがためにエフタの苦痛が必要であり、しかしてエフタ自身を救わんがために彼の娘の死が必要でありしとならば(しかして余は必要であると信ずる)、神の聖名(みな)は賛美すべきである。エフタは無益に苦しまず、彼の娘は無益に死ななかった。神はかくのごとくにして人と国とを救いたもうたのである。

短歌:犠牲こそ幸福なりと知りしとき花瓶の花が輝いている

参考:矢内原忠雄「日々のかて」より

4 月 2 6 日
確かにあなたたちの中で本当の信仰が明らかとなるためには、分派もなくてはなりません。

(第一コリント 11:19)

地上の教会

 人は社会生活をするに当たり、各種の団体をつくります。宗教生活についても、教会あるいは集会等、その何であるかを問わず何らかの団体を成します。これは人が社会的生物であることより生じる必然の現象です。 ・・・ 多くの制度教会が分派的に存在することもまた、その事自体はむしろ地上社会生活の必然であり、あえて怪しむ必要はありません。個人がその容姿や思想や生活を異にするように、団体もまた個別的な差異があるのは不思議ではありません。地上社会における教会分立を拒否し、強いて教会合同を計らなければならないと考えることに勝る誤りの認識はありません。地上における制度教会は、互いに愛と寛容を以て相対する限り、むしろ分かれるだけ分かれている方がよいかも知れません。悲しむべきは分立でなく、愛の欠乏です。

 このように制度教会あるいは集会の設立及び分派には社会的根拠があります。しかしながらこれら地上の各教会がそのまま霊的エクレシアの構成員となるのではありません。地上国家の法律では、団体の株主あるいは会員たる団体を認めますが、神の国の法律においては、ある制度教会が団体的にエクレシアに入り込むことはありません。なぜなら神の国の成員はキリストによる新生者だけであり、この新生は必ず個人的になされるからです。