一日一生(内村鑑三)「一日一生」(教文館)より

注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)
平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より

平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)

平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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一日一生(内村鑑三)


9月初め

人は一人もこれを信ぜざるも、わが福音は真理なり。人はことごとくこれを棄却するも、わが福音は真理なり。人はこぞってそのためにわれを排斥するも、わが福音は真理なり。わが福音は人の福音にあらず、神の福音なり。ゆえにわれは彼に拠(よ)り、独(ひと)り終るまでこれを保持せんと欲す。

9月4日(月)

ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。わたしにあるものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起こしてやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩きだした。そして歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。(使徒行伝三・六〜八)

伝道は心霊的事業なり。われに神恩の足るあるがゆえに、われの神に対する報恩として、われの同胞に対する同情心よりして、われはわが心中の無限の慰籍(なぐさめ)を他人に分与せんと欲する。われにもし財貨の分与すべきあらば、われはもちろん喜んでこれを神にささげて世の孤独者を慰めん。されど金銀いまわれにあるなし。われの有するもの、すなわちナザレのイエスの救済力、われはこれを世に供して世の貧苦を医やさざるべからず。ゆえに伝道師たらんと欲する者には、まずこの富裕、歓喜、平和の充満して抑圧しうべからざるものなかるべからず。彼にはまず歓喜のこの無尽蔵あるにおよんで、彼は世の貧者をみたしうべし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月3日(日)

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。「神を愛している」と言いながら、兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神からさずかっている。(ヨハネ第一書四・十九〜二十一)

もっとも善きことは、キリストを信じ、彼にありて善をなすことなり。すなわち彼に善をなさしめらるることなり。そのつぎに善きことは、キリストにならい、彼をまねて善をなすことなり。そのつぎに善きことは、キリストを知らざるも、天然の声を聴きて善をなすことなり。さらに恕(じょ)すべきは、無知無識の結果、善をなしえずしてつねに神の聖旨に戻(もと)ることなり。されども最も悪しくして全然恕すべからざることは、キリストを知り聖書を研究し、神学講じ、キリストの神格を論じながら、兄弟を憎み、その陥擠(かんせい)を計画し、彼らの堕落するを見て心に喜楽を感ずることなり。神が憎みたもう者の中に、信仰篤(あつ)くして(篤しと称して)罪を犯す者のごときはあらず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月2日(土)

知恵ある者に教訓を授けよ、彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、彼は学に進む。主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。(箴言九・九〜十)

秋風至り、勉学の好時期は来たれり。燈火、これより吾人の好伴侶なるべし。今秋今冬、誰とともにか語らん。モットレーにふたたびオランダ勃興史を聞き、パルマの残虐、グランビルの佞姦(ねいかん)を憤(いか)り、エグモンド、オレンジの忠と勇とを賞せんか。あるいは遠く六千年の太古にさかのぼり、セイス、ヒルプレヒトにバビロン文明の淵源を問わんか。ヒッタイト人種の古跡に日本人種の起源をさぐるもまた一興(いっきょう)ならん。英民族の膨張史に対してスペイン民族の衰退史を究(きわ)むるも、道徳的興味はなはだ多かるべし。われに閑静なる時間と、光明なるランプと、字書と、地図と、数巻の書あらしめよ。われに王者の快楽ありて、われは他に求むるところあらざるべし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月1日(金)

主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか。人よ、彼は先によい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共にあゆむことではないか。(ミカ書六・七〜八)

尖塔(せんとう)、天を指して高く、風琴、楽を奏して幽かなるところのみ神の教会にあらざるなり。孝子、家計の貧を補わんがために寒夜に物をひさぐるところ、これ神の教会ならずや。貞婦、良人(おっと)の病を苦慮し、東天いまだ白(しら)まざる前に社壇に願をこむるところ、これ神の教会にあらずや。人あり、世の誤解するところとなり、攻撃四方に起こる時、友人ありて独り立って彼を弁んずるところ、これ神の教会ならずや。ああ、神の教会をもって白壁または赤瓦の内にそんするものと思いし余の愚かさよ。神の教会は宇宙の広きがごとく広く。善人の多きがごとく多し。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月初め

余が伝道問題に悩みおる頃に、彼(トマス・カーライル)は余に下の一元を供してくれた。

  誠実、心の真のありのまま、これ常にいかに貴いかな。実際に自己の心の中に存することを語る者は、その方法のいかに拙劣なるも、必ず彼に聴かんと欲する人あるべし。

余はこの言を彼の『過去と現在』において読んでひとり膝をたたいていうた、「これだ、これだ」と。人を導かんとしたのがそもそも余の誤謬(あやまり)のはじめである。余は余の確信を表白すれば足りるのである。「誠実、心の真のありのまま」。これを語りて人に聴かれない理由(わけ)はない。余は己をかくしておきながら、他人を感化せんと欲したゆえに失敗したのである。よし、今よりは他人のことは思わざるべし。余は余自身の罪、救い、恵みについて語るべしと。余はこう決心した。そうして伝道をやめて、表白をはじめた。そうして視よ、余はそれ以来、いまだかって余の伝道事業について失望したことはない。

8月31日(木)

わたしの平安をあなたがたに残して行く。わたしは平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世があたえるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(ヨハネ伝十四・二十七)

おお来たれよ、来たってキリストの僕(しもべ)となれよ。なにゆえに世の罪悪をののしりて憤死せんとするぞ。なにゆえに社会の無情を怒って切歯(せっし)するぞ。なんじはなんじ自身について憤(いきどお)りつつあるなり。なんじ自身の中に調和なきがゆえに、なんじはなんじの不安を木と、岩と、世と、人にむかってはっしつつあるなり。来たって主の平安(やすらき)を味わい見よ。これすべての恩念(おもい)にすぐる平安なり。これなんじの心に迎えんか、木はなんじにむかって手を拍(う)って歓(よろこ)び、人はすべて来たってなんじの志(こころざし)を賛(たす)くる者とならん。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月30日(水)

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。(マタイ伝十六・二十四〜二十五)

この美麗なる造化は、われらがこれをえんがために造られしにあらずして、これを捨てんがために造られしなり。いな、人もしこれをえんと欲せば、まずこれを捨てざるべからず(マタイ伝十六・二十五)。まことにまことに、この世は試練の場所なり。われら意志の深底より世と世のすべてを捨てさりて後、はじめてわれらの心霊も独立し、世もわれらのものとなるなり。死にて活(い)き、捨てて得る。キリスト教のパラドクス(逆説)とはこのことをいうなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月29日(火)

わたくしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が呼ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人とともに住み、人は神の民となり、神自ら人とともにいまして、人の目から涙をぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ヨハネ黙示録二十一・一〜四)

イエスはヤロイの娘を死より甦らしたまいて、これをその嘆ける父母に還(かえ)したもうた(マルコ伝五章)。そのごとく末(おわり)の日において、彼はすべて彼を信ずる父母の祈求(ねがい)に応じて、そのかって失いし娘を復活したもうて、これをふたたび彼らの手に還し、彼らの心を嬉(よろこ)ばしたもうのである。すべての真のクリスチャンは、喜ぶべき末の日において、ヤイロが実験したごときたえがたきほどなる歓喜を実験するのである。「イエス娘の手をとりてこれに言いけるは、『クリタ、クミ』、これをとけば、娘よ、起きよとの義なり」と。信者はすべて自らいつか一度このよろこばしき声を聴き、能力(ちから)あるこの聖事(みしごと)を拝見するのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月28日(月)

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(ヨハネ伝一・九〜十一)

イエスはその道徳が他にすぐれてあまりに高潔なりしがゆえに人に憎まれたのではない。彼が彼の父なる神に忠実ならんとして、人には何人にもくみせざりしがゆえに、それがためにすべての人に憎まれたのである。すなわち彼は無党派、無教会、無国家なりしがゆれに、すべての党派、すべての教会、すべての国人に憎まれたのである。世に孤独なる者とて神とともにある者のごときはない。しかもイエスは神のみ友としたる者である。世はかかる者をうけいれない。この世はすべて党派である。党派でないものはこの世のものでない。党派はつねにたがいに相い争うといえども、いづれの党派にも属せざる者はすべての党派の斥(しりぞ)くるところとなる。イエスが全世界の斥くるところとなりしは、半(なか)ばはこの恐怖、半ばはこの嫌悪によるのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月27日(日)

アモスはアジャに答えた、「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。ところが主は群(む)れに従っている所からわたしを取り、「行って、わが民、イスラエルに預言せよ」と、主はわたしに言われた。」(アモス書十四〜十五)

世の大宗教家と称するものにして、かえって神学校出身の人多くあらざるを見る。神の人テシベ人エリヤはギレアデの野人なり。しかしてこの人、その天職と精神とを他に授けんとするや、十二頸木(くびき)の牛を馭(ぎょ)しつつありしシャパテの子エリシャを選べり。ダニエルは官人なり。アモスは農夫なり。しかして神がその子をくだして世を救わんとするや、彼をしてヒルル、ガマリエルの門を学ばしめず、かえって彼を僻村ナザレに置き、レバノンの白頂、キションの清流をして彼を教えしめたり。一乾物店の番頭たりしムーデー氏こそ、じつに十九世紀今日の宗教的最大勢力ならずや。神学校は天性の伝道師を発育せすむるも、これを造るところにあらす。神学校の製造にかかわる伝道師こそ、世の不用物にして、危険物なれ。伝道師養成は造物主(つくりぬし)にあらざればなしあたわざることなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月26日(土)

わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧(すす)める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる。「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた」。見よ、今は救いの日である。(コリント第二書六・一〜二)

神の教育事業、これをば称して歴史というなり。しかして歴史はエデンの園における人類始祖の試練をもってはじまり、ひいて二十世紀の今日に至れり。歴史に戦争あり、国の興亡あり。悲劇は悲劇につぎ、流血淋漓、これを読む者をして酸鼻(さんび)の念にたえざらしむ。されどもこれ救済(すくい)の時期たるなり。多くの聖賢君子はこの時期においてこの世にあらわれ、ついに神の子イエス・キリストはこの世にくだりたまいて、われら人類に死して死せざるの道を開きたまえり。人類の罪悪は神をしてその独り子をくだしたもうほどに彼の心を傷(いた)ましめたり。されども愛の無尽蔵なる神は悪に勝に足るの善を己に蔵したまえば、人類の救済は期して待つべきなり。今恩恵(めぐみ)の時期なり。人の子が神の子となりつつある時なり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月25日(金)

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(ペテロ第一書二・二十二〜二十四)

畢竟(ひっきょう)するにキリストの死は死ではなかった。これは生をもって死に打ち勝つことであった。死は最も醜悪なる形をもって彼に臨みしに、彼はもっとも善美なる道をもってこれを迎えた。キリストによって死は聖化されて、すぐれて美わしきものとなった。キリストはまことに死なるものをして無からしめたもうた。死は苦痛であり、煩悶であり、悔恨であり、絶望であるのに、ここに苦痛を忘れ、煩悩を忘れ、悔恨を覚えず、絶望を知らない死の模範が供せられた。すなわち愛の絶大の力が示された。愛は人生の最大の敵なる死にさえ勝ちうる力である。死をして死ならざらしむるものは愛である。彼はただ愛した。しかして死に勝った。まことに愛を除いて、他に死に打ち勝つの力はない。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月24日(木)

だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今うまれたばかりの乳飲(ちの)み子のように、混(ま)じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入るようになるためである。あなたがたは、主が恵深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。(ペテロペテロ第一書二・一〜三)

神はその限りなき恩恵(めぐみ)をもって、神の子にして人類の王なるイエス・キリストによりて、わたくしのために救済(すくい)の道を開かれました。ゆえにわたくしは感謝しつつ、日々その恩恵に沐浴しているものでございます。しかしかく申せばとて、わたくしはすでに完全無欠の人となったというのではありません。罪によりて生まれしわたくしのことなれば、わたくしが天使のような純白無垢の人となりうるは、なお永き後のことでありまして、多分わたくしの肉体が腐敗に帰した後のことであろうと思います。しかし快復がすでにわたくしの心の中に始まりしこと、その一事は、わたくしの少しも疑わないところであります。わたくしには確かにイエス・キリストの医癒(いやし)の力を感じます。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月23日(水)

その時あなたがたは、どんな実を結んだか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。(ローマ書・六二一〜二十二)

永遠の来世が確実となるに至りまして、価値のない今世に真個の価値が付いて来るのであります。まず第一に、わたくしどもは世を厭(いと)わなくなるのであります。この世の苦痛は来世の希望をもって慰めえて余りあるのであります。今世はまた来世に入るの準備の場所として、無上の価値を有するに至ります。そのもの自身のためには何の価値もないこの世は、来世に関連して、必要欠くべからざるものとなるのであります。日々の生活(なりわい)の業(わざ)のごとき、心思を労するほどの価値なきように思われましたが、しかしこれによりて来世獲得の道が開かるるを知って、小事が小事でなくなるのであります。実に来世に存在の根底をおかずして、今世は全然無意味であります。来世をにぎるの特権を賦与(ふよ)せられまして、この無意味の今世が意味深長のものとなるのであります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月22日(火)

ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子(ようす)を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしであって、それは神から来るのである。(ピリビ書一・二十七〜二十八)

もし日本今日のキリスト信者にして一致せんか、天下何者かこれに当たるをえん。されども教派分裂の幣(へい)をきわむる欧米諸国の宣教師によりて道を伝えられしわが国今日のキリスト信徒の一致は、熊と獅子との一致を望むよりもかたし。もし幸いにして神の霊強くわれらの中に働き、彼われらをしてキリストを思うがごとくにわれらの国をおもわしめ、外に頼るの愚と恥と罪とをさとらしめたまわば、一致は芙蓉の嶺(いただき)に臨み、琵琶の湖面にくだりて、東洋の天地に心霊的一生面(しょうめん)の開かるるを見ん。されどもその時の至るまでは、われらは今日の分裂孤立をもって満足せざるべからず。これあるいはわれらが人に頼ることなくして、神にのみ頼ることを学ばんがための神の聖旨(みむね)なるやも知れず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月21日(月)

しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主にたいして罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしの主の正義を見るであろう。(ミカ書七・七〜九)

日に三たびわが身をかえりみる、とは儒教の道徳なり。そのつねに退歩的にして、保守的にして、萎縮的なるは、自抑内省をもってその主(おも)なる教義となすによらずんばあらず。なんじらわれ(神)を仰ぎみよ、さらば救われん、とはキリスト教の道徳なり。そのつねに進歩的にして、革新的にして、膨脹的なるは、信頼迎望をもってその中心的教理となすによらずんばあらず。パウロいわく、善なる者はわれすなわちわが内におらざるを知ると。われら自己(みずから)をかえりみてただ慙愧(ざんき)あるのみ、失望あるのみ。新希望と新決断と前進向上とは反省回顧より来たらざるなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月20日(日)

わたしは神の情熱をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧(わるだく)みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。(コリント第二書十一・二〜三)

「キリストわがうちにあり」。わが側(わき)にあるにあらず。われとともにあるにあらず。また単にわがうちに宿りて、わが心の客たるにあらず。キリストわがうちにありとは、わが存在の中心にありたもうとの意ならざるべからず。すなわち彼、わが意志となり、わがペルソナとなり、われをして彼と我とを判別し能わざらしむるに至る事ならざるべからず。この時における彼と我との和合は、親密なる夫婦の和合にもいやまさりて、彼われんるか、われ彼なるか、これを判別する能わざるものなり。二心同体に宿る、これを友誼(ゆうぎ)というと。されどもキリストとクリスチャンとの一致は二心の抱合なるにとどまらで、二個のペルソナの相流合して一となりしものなり。このゆえに二者は永久に離るべきものにあらず(ローマ書八・三)

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月19日(土)

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をしてくださったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなく、しっかりと持ち続け(ようではないか)。(ヘブル書十・十九〜二十三)

キリストいわく「恐るるなかれ、われすでに世に勝てり」と。道義学者ならびにユニテリアンは何と言うとも、福音的キリスト信者の安心勇気の大源泉は、じつにキリストにおける既存の勝利に存するなり。われのなすべきことは、キリストすでにわがためになしとげたり、われの義は彼においてすでに天にあり、われはすでに彼の血を以って贖(あがな)われたり、われの得べきものはわれすでにこれを得たり、いざ残余の生涯を報恩の戦(たたかい)して楽しまんと。これはじつに真正(まこと)のキリスト信徒がつねに泰然として余裕あり、老いてますます壮(さか)んなるの理由なり。


8月18日(金)

主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである。聖徒を栄光によって喜ばせ、その床の上で喜び歌わせよ。(詩篇百四十九・四〜五)

神はすべての道をもってわれらを恵まんとほっしたもう。心のうちよりは福音をもってし、眼よりは美観をもって、耳よりは音楽をもって、鼻よりは香気をもってわれらを恵まんとほっしたもう。われらは恵の途はいずれもこれをふさぐべからず。神をして衷(うち)よりも外よりもわれらを恵ましめて、ゆたかに恩恵(めぐみ)に沐浴(もくよく)すべきなり。わが机上に聖書あり、野花(のばな)あり、造花あり、絵画あり、香水あり(以上はもちろんいづれも高価なものにあらず)。われはすべてこれを喜ぶ。われはすべてこれらによりてわが神を知る。しかして夜ごとに燈火を残して暗き所に隠れたるにいます彼を拝す。昼は神を見、夜は彼を感ず。わが宗教は理性一方、または感情一方の宗教にあらざるなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月17日(木)

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。(ピリピ書二・六〜九)

罪の価(あたい)は死なりといい、死の刺(とげ)は罪なりといえば、罪に生まれし人の死するは当然であり、自然である。これに反して、死の原因たる罪を知らざりしイエス・キリストが死して、そのまま失せたりというは不当であり、また不自然である。われらは人の死するを聞いて驚かない。そは彼が罪の人であるを知るからである。しかしながら、ここに一回も罪を犯せしことなく、使徒ペテロの語をもっていえば「かれ罪を犯さず、またその口にいつわりなかりき、かれ罵(ののし)られて罵らず、苦しめられて激しきことばを出さず、ただ義をもって審(さば)く者にこれをまかせたり」というがごとき完(まった)き人なるイエスが、死して朽ちはてしと聞いて、われらは大いに怪(あや)しまざるを得ないのである。かかる人は世が始まって以来ただ一人あったのみである。かかる人が死より甦(よみが)えりて昇天したというのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月16日(水)

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が、死人の中から人をよみがえられる力がある、と信じていたのである。だから彼は、イサクを生きかえして渡されたわけである。(ヘブル書十一・十七〜十九)

信仰は書斎にこもり、書籍のうちにうずくまりて獲(え)らるるものではない。教師の説教を聞いて獲らるるものではない。人生の実際問題に遭遇して、血と涙とをもってその解釈を求めてついに獲らるるものである。「復活の信仰」、アブラハムはその一子イサクを献げてこの信仰を獲た。神学者についてではない。哲学書をひもといてではない。その一子を献ぐるの辛(つら)き実験によりて、人生最大の奥義なる復活の信仰に達したのである。貴いかな艱難、貴いかな試練。貴いかな、試練をへてわれに臨む大なる光明。まことに使徒ヤコブのいえるがごとし「わが兄弟よ、もしなんじらさまざまの試練(こころみ)にあわば、これを喜ぶべきこととすべし」と。(ヤコブ書一・二)

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月15日(火)

もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである。主はあなたに報いられる。(箴言二十五・二十一〜二十二)

われらにも敵がある。たくさんある。しかし敵なればとてわれらは彼らを憎まない(キリストの教訓にしたがいて)。われらは友人を憎むことがある。友人とあればわれらは彼らの行為について怒ることがある。われらはわれらの友人を詰問するに躊躇しない。友人の駁論(ばくろん)とあらば、われらは熱心に反駁する。されども敵人に対しては、われらはこれとまったく反対の態度にいずる。敵人がわれらに加うる害については、われらは決して怒らない。その嘲弄侮辱に対しては、われらはただ好意感謝を表するのみである。われらは敵人の攻撃にたいしては、われらの主イエス・キリストの例にならいて、つとめて沈黙を守ろうとする。敵人に殴(なぐ)らるる時には、われらは彼がわれらにむかいて揚(あ)げし手の上に神の祝福の下らんことを祈る。敵人に対しては、われらに寛容と忍耐と宥恕(ゆうじょ)とあるのみである。われらは友人を憎むことあるも、敵人は絶対的にこれを愛するのみである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月14日(月)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地のつくれれる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちにイエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨(みむね)よしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(エペソ書一・三〜五)

人類が救われんがためには、しかり、われわが主キリストの救済(すくい)にあずからんためには、日月星辰は天空(そら)に懸(か)けられ、山は高く地の上に挙(あ)げられ、海は深くその下に堀り下げらるるの必要がたったのである。わが救済は容易のことではなかった。これはわが短き一生をもって成しとげらるることではなかった。わが救済は宇宙の創造をもって始まったのである。このことを思うて、朝瞰(ちょうとん)水を離れ東天ようやく明らかなる時、または夕陽西山に春(うすつ)きて暮雲地をおおう時、または星光万点蛍火(ほたるび)のごとくに蒼穹(そうきゅう)にきらめく時に、われはわが救済の神を頌(ほ)め、彼に感謝の賛美を献ぐべきである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月13日(日)

すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲(こ)らしめたりする。だから、熱心になって悔いあらためなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得るものには、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座(みざ)についたのと同様である。(ヨハネ黙示録三・十九〜二十一)

この世は不完全きわまる世なりという、しかり。身の快楽をえんがためには実に不完全極まる世なり。されど神を知らんためには、しかして愛を完(まっと)うせんがためには、余輩はこれよりも完全なる世について思考するあたわず。忍耐を練らんとして、寛容を増さんとして、しかして愛をその極致において味わわんとして、この世はもっとも完全な世なり。余輩は遊戯所としてこの世を見ず。鍛錬所としてこれを解す。ゆえにその不完全なるを見て驚かず、ひとえにこれによりて余輩の霊性を完成せんとはかる。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月12日(土)

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ書二・六〜七)

「シモン・ペテロ(イエスに)答えけるは、主よ、われらはなんじを去りて誰に往(ゆ)かんや、永生(かぎりなきいのち)の言(ことば)をもてる者はなんじなり」と(ヨハネ伝六・六八)。われらはイエスを去って仏教に入らんか、儒教に帰らんか、スピノーザに往きて哲学者たらんか、ハイネについて詩人たらんか、殖産をもってわが生涯の唯一の目的となさんか、政治にわがすべての満足を求めんか。イエスを信ずるに苦楚(くそ)と辛惨(しんさん)なきにあらず。されども永生の言は彼をおいて他にあるなし。余輩は彼を捨て去りし人にして、彼の恩寵にまさるの幸福を他に発見しえしものあるを知らず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月11日(金)

昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ伝十五・三十三〜三十四)

罪悪の問題の哲理的説明はいまだ供せられません。あるいはこれ永久の未決問題として残るのであるかも知れません。しかしながらその実際的解釈は供せられました。これ罪を知らざる神の独(ひと)り子の十字架上の受難であります。ここに人類の罪は打ち消されました。ここに贖罪(しょくざい)の犠牲(いけにえ)は献げられました。聖なる者の「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の声と共に罪の赦免(ゆるし)の道は人類のために開かれた。「この故に今より後イエス・キリストにある者は罪せらるることなし」、これが罪悪問題の実際的解釈であります。そうしてこの解釈をえて後は、われらは哲理的説明のなきを意に介せざるにいたるのであります。あたかも疾病(やまい)をいやされて後に、病人は薬剤の生理的作用を問わざるに至るようなものであります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月10日(木)

だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。(ナコブ書五・七〜八)

まことに待つことは善きことなり。すべての善きことは待ってきたる。春は待ってきたる。自由は待ってきたる。天国も待ってきたる。とき至れば、すべての悪しきことは去って、これに代わりてすべての善きことは来る。ゆえに善きことをなさんとするにあたって、われらは必ずしも自ら進んで、しいてこれをなすを要せず。静かに待ちてこれをなすをうべし。活(い)ける神の治(おさ)めたもうこの宇宙にありて、待望は休止にあらず。まことに詩人ミルトンの言いしがごとく「待つ者もまた勤(つと)むる者なり」

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月9日(水)

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点。一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイ伝五・十七〜十八)

贖罪(しょくざい)の目的はわれを完全なる人となすにあり。しかしてわがキリストの贖罪にあずかるに至りしは、われはみずからつとめて完全なることあたわざればなり。ゆえに贖罪は道徳の終極なり。道徳の終るところ、これ宗教の始まるところなり。宗教は道徳の上に立てり。道徳の粋(すい)、これを宗教というなり。初めにモーセの律法(おきて)ありて、後にキリストの恩恵(めぐみ)あり。いまだ律法の厳格なる綱をもって己れを縛りしことなき人は、キリストなる放免者の恩恵にあずかりえざる人なり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月8日(火)

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。(伝道の書十二・一〜二)

霊魂(たましい)とは神を食物とする生物であります。ちょうど蚕(かいこ)が桑の葉によりてのみ生活するように、霊魂は神によりてのみ生育することのできるものであります。桑の葉でなければ蚕はじきに死ぬように、神でなければ霊魂もじきに餓死してしまいます。ダビデの詩篇に書いてあるとおりであります。「鹿の渓水(たにがわ)を慕いあえぐがごとく、わが霊魂もなんじを慕いあえぐなり」。霊魂があっても神がなければ、禽獣あってその渇きをいやす水のなきようなものでございまして、もしはたしてそうならば、天然とはじつに残酷無慈悲なものといわなければなりません。しかしここに霊魂なる、生命のもっとも進化発達したるものがあります。またこれを養うための神の愛とがあります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月7日(月)

第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同時に、また天にぞくしている形をとるであろう。(コリント第一書十五・四十七〜四十九)

イエスの義がありて彼に臨みし栄光があったのである。人は生まれながらにして復活しうる者ではない。義の結果として、あるいはその報償(むくい)として復活するのである。イエスが復活したまいしは、彼が義を完(まっと)うしたもうたからである。しかしてわれらは信仰によりてイエスの完全なる義をわが義となすをえて、イエスに臨みし復活永生の栄光がまたわれらにも臨むのである。ああ大(だい)なるかな、神の愛。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月6日(日)

わたしたちは、あなたがたがどんな悪をもおこなわないようにと、神に祈る。それは、自分たちがほんとうの者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためである。わたしたちは、真理に逆らって何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。(コリント第二書十三・七〜八)

戦いに勝って勝つのではない。真理に従いて勝つのである。戦いに負けて負けるのではない。真理に背いて負けるのである。真理を究(きわ)むるのは、剣(つるぎ)をみがくよりも大切である。真理は永久に勝つための武器であって、剣はわずかに一時の利を制するための機械にすぎない。われらは最後の勝利をえんがために、剣をもってするよりも、むしろペンをもって戦わんと欲す。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月5日(土)

見よ、良きおとずれを伝える者の足は山の上にある。彼は平安を宣べている。ユダよ、あなたの祭を行い、あなたの祈願をはたせ。よこしまな者は重ねて、あなたに向って攻めてこないからである。彼は全く断たれる。(ナホム書一・十五)

キリスト教の伝道は感謝の祭事であります。われらの伝道はキリストの愛に励まされてであります。われらは沈黙を守らんと欲して守りきれないからであります。われがごとき罪びとを救いたもう神の恩恵を考えて、いても起(た)ってもいられなくなるからであります。キリスト教の伝道は義務ではありません。特権であります。快楽であります。敵人の口調をかりていえば「道楽」であります。「もしわれ福音を宣べ伝えずばまことにわざわいなるかな」(コリント第一書九・十六)これはパウロの言(ことば)でありまして、すべて言いつくされ歓喜をもってキリスト教の福音の宣伝に従事する者の声であります。この歓喜がなくて、このおさえきれぬ感謝がなくして、キリスト教の伝道はかならず失敗であります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月4日(金)

しかし、キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋(まくや)をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。(ヘブル書九・十一〜十二)

神の子イエス・キリストのみが完全なる供え物である。彼のみがまことに「世の罪を負う神の小羊」である。彼はまた完全に己を聖父(ちち)に献げたもうた。しかして人は信仰をもって彼の犠牲を己が犠牲(いけにえ)となして、神に対し完全なる犠牲を献げることができるのである。イエス・キリストはわれらの完全なる燔祭(はんさい)、完全なる素祭(そさい)、完全なる報恩祭(しゅうおんさい)、完全なる罪祭(ざいさい)、完全なる愆祭(けんさい)、である。ガリバリ山に彼が完全に自己を聖父に献げたまいてより、ここに牛や羊や鳩や小麦や橄覧油(かんらんゆ)や乳香を以ってする祭事の必要はまったく絶えたのである。今や彼を信ずる者に礼典の必要はまたくないのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月3日(木)

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。(エペソ書一・十三〜十四)

悪を避けよ、さらばなんじは神を信ずるをえんというは異端(いたん)なり。真正(まこと)のキリスト教はいう。神を信ぜよ、さらばなんじは善をなすをうべしと。心を潔(きよ)くせよ、さらばなんじは神の聖霊の恩賜にあずかるをえんというは異端なり。聖書は明らかにわれらに教えていう、神の聖霊をうけてなんじの心を潔められよと。行いを先にして信を後にするは異端なり。キリスト教は信を先にして行いを後にするものなり。しかも人、その神の恩恵を信ずる薄きや、彼らは自らの行為の報償(むくい)として天の恩寵にあずからんと欲す。天の地よりも高きがごとく、神の意(おもい)は人の意よりも高し。神がわれらの不信を怒りたもうは、われらがわれらの行為をもって神の恩恵(めぐみ)を買わんと欲すればなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月2日(水)

正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏(こうはく)のように育ちます。彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭(おおにわ)に栄えます。彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。(詩篇九二・十二〜十五)

日本語に訳しがたき英語の一つはノーブル(noble)なる語なり。高貴、高尚、壮大の文字は一つとしてその意を通ずるにたらず。ノーブルとは理想を抱懐してこれを実行せんとするの勇気をいうなり。すなわち世人のもってなしがたしと信ずることをあえてなさんとする気品をいうなり。時の学説に反対し、彼の確信を固守して、ついに西のかた暗黒大洋を横断して新大陸を発見せしコロンブスはノーブルなりき。時流の政治論を排し、英国の社会を堅固なる自由の土台の上にすえしクロンウェルはノーブルなりき。不可能と信ぜられし教育策をしてついに可能ならしめしペスロッジはノーブルなりき。すなわちノーブルなることは、平凡なることすなわち俗なることの反対にして、理想を信じて大胆にころえを事実ならしむることをいうなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

8月1日(火)

神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。(ガラテヤ書四・八〜九)

第二の宗教改革は第一の宗教改革に同じ。すなはち行いに対する信仰の勃興なり。第一の場合においては、行いはイタリア国によりて代表されたり。第二の場合においては、米国によりて代表さる。第一の場合においては、改革の任はドイツに下れり。第二の場合においては、そのわが日本にゆだれられんことを願う。われらは手にパウロの書簡をにぎるにあらずや。われらはこれをもって、弱き賎しき事業の小学を打破すべきなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月初め

余は日露非開戦論者であるばかりではない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益をおいろいろなさめ得ようがない。

7月結び

余は働かない、ただ信ずる。余は祈らない、ただ信ずる。余は自己(おのれ)を潔(きよ)めんとしない、ただ信ずる。余はみずから天国に入らんと欲して準備をなさない、ただ信ずる。神の慈愛とその聖子の代贖(だいしょく)の死を信ずる信仰……その信仰は余をして働かしめ、祈らしめ、身を潔めしめ、天国に入るの準備をなさしめる。余の宗教の全部が信仰である。その内に努力はない。もしあるとすれば、信ずるの努力があるのみである。主イエス・キリストは神より来るわが知恵、また義、また聖(きよめ)また贖(あがない)である。彼は余の万事(すべて)である。まことに余にとりては、生くるはキリストである。余は余の信仰をもって、彼をして余の衷(うち)にありて生きかつ働かしめ、余自身は信仰的自動機となりて彼の手にありて義を行うの善き器(うつわ)となりて働く。かくて万事ははなはだ簡単であって、かつはなはだ善くある。(コリント第一書一・三十)

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月31日(月)

わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。(ヨブ記十九・二十五〜二十七)

死とこれに伴うすべての苦痛をまぬかれんとするが、この世の宗教の目的である。死は単にこれを凶事と認め、苦痛はすべての神の刑罰であると思い、これをまぬかるるを祈祷の第一の目的となす者は、すべて異教の信者である。彼らは哀哭(あいこく)流涕(りゅうてい)懇求(こんきゅう)していう「願う、死より救えよ」と。されどもクリスチャンは、しかり、真正(まこと)のクリスチャンは、そうは祈らないのである。彼らは、彼らの主にならい「父よ、死を下したもうも可なり、ただ、願う、その中より救い出したまえ、われらをして死に勝たしめたまえ、死を通過して不死の生命(いのち)に達せしめたまえ」と祈るである。また死に限らない、すべての艱難に対してもそうである。真のクリスチャンは艱難より救われんとしない。艱難の中より救われんとする。火を避けんとしない。火の中に投ぜられてその中にありて潔(きよ)められんとする。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月30日(日)

すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅くもって、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(ピリピ書二・十四〜十五)

偉大なる事業は著述にあらず。政治にあらず。実業にあらず。陸海軍の殺伐的事業にあらざるはもちろんなり。偉大なる事業は純潔なる生涯なり。他人の利益を先にして、自己(みずから)の利益を後にする生涯なり。己に足(た)るを知りて、外(ほか)に求めざるの生涯なり。ソロモンいわく「おのれの心を治むる者は城を攻め取る者にまさる」と。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月29日(土)

すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎(つつし)み深く、正しく、信心ふかくこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救世主キリスト・イエスの出現を待ち望むようにと、教えている。(テスト書二・十一・〜十三)

聖書は人類の救済に関する神の行動とその順序とをのべた書であります。前にものべましたとおり、人類全体は神を離れて罪悪の中に沈淪(ちんりん)しつつあるものでありますから、神は原始(はじめ)よりその救済の道を設けられました。元来この道と申すものは、世の初めをもって始まり、また世の終わりをもって終るものでございますから、聖書の記事は人類の歴史と並行しております。神はいかにして人類を救いたもうか、またわれわれ人類は神が聖書において示された方法に則(のっと)りて、いかにして同胞を救わんかというような事柄については、聖書はもっとも明瞭にわれわれに教えていると思います。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月28日(金)

たといあなたがたは燔祭(はんさい)や素祭(そさい)をささげても、わたしはこれを受けいれない。あなたがたの肥えた獣(けもの)の酬恩祭(しゅうおんさい)はわたしはこれを顧みない。あなたがたの歌の騒がしい音をわたしの前から断(た)て。あなたがたの琴の音は、わたしはこれを聞かない。公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。(アモス書五・二十二〜二十四)

儀式は単純なるをよしとす。儀式は単純なるだけそれだけ荘厳なり。聖書はキリストの葬式についてしるすところなし。われらはまた、使徒らはいかにして葬られしかを知らず。神の人モーセ死して「エホバ、ベテペオルに対するモアブの谷にこれを葬りたまえり、今日までその墓を知る人なし」といふ。葬式しかり。結婚式またしかり。証人(あかしびと)は神と天然と少数の友人にて足れり。俗衆の注目を惹(ひ)いて荘厳を装うの要は断じてあるなし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月27日(木)

すべて神から生まれた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生まれたかたが彼を守っていてくださるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。(ヨハネ第一書五・十八)

信者は神につながれ、その生命(いのち)をことごとく彼より仰ぐに対して、世はこぞりて悪しき者にありて生活するのである。すなわちキリストとサタンの間に介在して、信者は神に属(つ)き、世は悪魔に属くというのである。しかしながら事実はそのとおりである。世はその科学と文学と哲学と芸術とをもって、こぞりて悪魔に属くのである。世の大体の方針は悪である。その中に多少の善がないではない。多少の善人(よきひと)がおらないではない。しかしながら慨(がい)するに、世は悪魔のものである。キリスト教は決して人類多数の信受する教ではない。信者はつねに少数である。しかして多数は常に悪魔の従属である。われは世の多数の賛成を得たりとて悦(よろこ)ぶ信者(?)は、自分で何を言うているかを知らないのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月26日(水)

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。(ローマ書八・十九〜二十一)

信者の復活と共に「万物の復興」がある(使徒行伝三・二十一)。すなわち人類と共に呪われし地とその中にある万物とが元始の完全に帰るをいう。キリストの救済は人類を以て止まらない。すべての受造物(つくられしもの)にまでおよぶのである。地をして今日のごとくに流血のちまた、荒敗の土たらしめしものは人類の罪である。その罪がのぞかれ、信者をもって代表せらるる人類が元始の自由に還(かえ)りし時に、地もまた人類と共に自由の栄光を頒(わか)つのであるという。何ものかこれにまさるの栄光あらんやである。人は復活し、地は改造され、二者ともに罪の結果たる詛(のろ)いをのがれて完全なる発達をとぐるという、そのことが預言者らが預言せる天国の建設である。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月25日(火)

あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして彼らに穀物を与えられる。あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、またその恵みをもって年の冠(かんむり)とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。(詩篇六十五・九〜十一)

神は真に忠実なる農夫なり。彼は植生の細事にまでたずさわりたもう。彼は種子を護(まも)り、これを煖(あたた)め、これを潤(うるお)し、その萌芽を見て歓んでこれを祝したもう。彼は空の鳥を護りたまいて、その一羽たりとも彼の許可なくして地に落ちることなし(マタイ伝十・二十九)。彼はまた野の百合を愛し、これを飾るにソロモンの栄華の極みの時だにも見るあたわざりし装いをもってしたもう(同七・二十九)。まことに悪魔は都会を作り、神は田舎を造りたまえりという。神は涼しき樹木の陰にいまし、萌え出づる畝(うね)の間を歩みたもう。かれは農夫の心をもって種子の萌芽を祝したもう。祝すべきかな、この神!彼は聖宮(みや)の聖所(きよきところ)にいまして民を審きたもう神にあらずケン畝(ぼ)のあいだをくだりて畦丁(けいてい)とならびたがやしたもう神なり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月24日(月)

わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面にはえ、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。(箴言二十四・三十〜三十二)

イエスは労働者である。余は彼により労働の貴きゆえんを知った。労働は賃金をうるために貴いのではない。心を養うために貴いのである。煩悩と懐疑とは沈思黙考によりても解(と)けない。労働によりて釈(と)ける。労働の人生におけるは、排水溝の沼地におけるがごときものである。これによりて悪水は除かれ膏腴(こうゆ)は残り、地は豊穣(ほうじょう)を供するに至る。煩悩は、思うこと多くして働くこと少なきより起こる。煩悩を除かんために身を噴火口に投ずるに及ばない。通常の労働に従事すれば足る。されば糸のごとく乱れたる心は整理ついて、賛美の声は口よりあがるに至る。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月23日(日)

この御旨に基づきただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全う
されたのである。(ヘブル書十・十〜十四)

キリストの血(彼が死に際して流したもうた血)はすでにわれらの罪を贖(あがな)うた(すなわちわららを義とした)。しかしながらそれがすべての罪よりわれらを潔(きよ)むるのは、これわれら各自にとりては終生の事業である。キリストの血はわれらを潔むるものではあるが、一時に潔むるものではない。神の小羊は世の始めより殺されたまいしものであって(ヨハネ黙示録十三・八)その血は世の終わりまで人の罪を潔むるものである。贖罪(あがない)は既成の事業であるが、その適用は未成の事業に属する。われらは日に日にキリストの血によりて、われらの罪を潔められなければならない。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月22日(土)

彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(イザヤ書二・四)

戦争のやむに二途あり。進んで敵意をはらすにあり、退いて自己(みづから)を正(ただ)すにあり。しかして神は常に第二途をえらびたもう。されども人はつねに罪を他人に帰して、自身は美名を帯(お)びて死せんと欲す。これ戦争のあるゆえんなり。名誉心なり。傲慢心なり。流血をしてあらしむるものはこれなり。人類が自己を省みるに敏にして、他を責むるに鈍なる時において、戦争はまったく廃止さるるに至るなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月21日(金)

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対し死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。(ガラテヤ書六・十四〜十五)

われらは真正(まこと)キリスト教を信じて、真正のキリスト信者とならなくてはなりません。教会信者や、哲学的信者や、あるいは聖書的信者たるをもって満足してはなりません。事実上、神の子供となり、実際的に神の実力を授かり、キリスト教を語る者でなくして、これを自覚してこれを用いる、ある異能(ふしぎなるちから)がわが心にくだり来たり、人も己れもなさんと欲してなすあたわざる根本的大変化のわが全身にほどこされしを感じ、その結果として世に恐るべき者とては一つもなくなり、悪魔もわが声を聞いて慄(ふる)えるような、そういう人とならなければなりません。すなわちヨブと共に神にむかいて、われなんじのことを耳にて聞きいたりしが、今は目をもってなんじを見たてまつると断言しうるようなキリスト信者とならなくてはなりません。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月20日(木)

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あんたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。(ヨハネ伝十七・三)

神とともにあるは楽しきかな。そこに平和あり、活動あり、正義あり、仁義あり、思想あり、感情あり、円満と完全とは神にありて存す。われにキリストに顕(あら)われたる神のあるありて、われはわが希望を充たさんと欲して天然を要せず、また人類の社会を要せず。われはわが神とともにありて、絶対的に満足の人たり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月19日(水)

あなたはわたしを多くの重い悩みにあわされましたが、再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。(詩篇七十一・二十)

人生に悲惨事多し。されどこれを償(つぐな)いてなお余りあるの恩恵事あり。復活これなり。このことありて、しかしてまたこのことを望んで、この涙の谷は歓喜の楽園と化するなり。われもまた多数の人とともに、この世にありて、多くの重き苦難にあいたり。されどもわれは望みまた信ず、わが神の、キリストにありてわれをふたたび活かしたもうを。しかして墓の底よりわれを挙(あ)げたまいて、われをして天の清き所に住ましめたもうを。しかしてこの大希望のわがうちに存するがゆえに、われはこの世のすべての苦難に勝ちえて余りあり。「ああ死よ、汝の刺(はり)はいずくにあるや。ああ陰腑(よみ)よ。なんじの勝利(かち)はいずくにあるや。それわれらが受くるしばらくの軽きくるしみは、きわめて大いなる限りなき重き栄えをわれらにえしむるなり」(コリント第二書四・一七)

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月18日(火)

そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え。」祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない」。(マルコ伝十五・二十九〜三十一)

キリストは実に人を救うためには奇跡を行いえましたが、自己(みずから)を救うためにはこれを行いえませんでした。人をたすけるための異能を備えしイエス・キリストは、自己を救うためには全然無能でありました。弱き者を救わんがためには風をも叱咤(しった)してこれを止めたまいし彼は、自己の敵の前にたちては、これに抗(てむかい)せんとて小指一本さえ挙(あ)げたまいませんでした。キリストの奇跡よりもさらに数層倍ふしぎなるものは、キリストの無私の心であります。しかしながらこのふしぎなる心があってこそ、初めてかのふしぎなる業(わざ)が行なわれたのであります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月17日(月)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(テサロニケ第一書五・十六〜十八)

神のすでに下したまいし恩恵(めぐみ)について感謝せよ。さらば神はさらに新たなる恩恵を下したまわん。旧恩について感謝せずして新恩にあずかるあたわず。かの不平家と称する従(やから)が、終生満足を感じえざるは、彼が感謝の念において欠くるところあればなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月16日(日)

したがって、あなたがたはもはや僕(しもべ)ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。(ガラテヤ書四・七)

いかなる理由によるかは神学上の問題としておきまして、神の子キリストがわれわれのために十字架上に贖罪(しょくざい)の血を流されしということを聞き、かつこれを信ずるにいたりますと、罪なるものは、はじめてわれわれの上には力なきものとなり、われらは罪をにくみ、義を愛し、今日までは何となく遠ざかっていた神を真にわれわれの父として認め得るようになり、生涯が光沢を生じて楽しくなり、死が恐ろしくなり、われらの仇敵までが愛すべきものとなり、非常な変化がわれわれの心中に起こるに至ります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月15日(土)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼(ひる)と名づけ、やみを夜と名づけた。夕となり、また朝となった。第一日である。(創世記一・三〜五)

暗黒をもって始まり、光明をもって終わり、絶望をもって始まり、希望をもって終る。神の行為にすべてこの順序あり。希望を約して失望に終らしむるがごとき、栄光の冠を戴きて後に恥辱の死をとぐるがごとき、平和と繁栄とを宣言して戦乱と貧困とを来たらすがごときは、神の決してなしたまわざるところなり。「歓(よろこ)びは朝きたる」戦闘(たたかい)の暗夜去りて後に平和の昼はくるなり。若年を貧苦の中に過ごして老年を喜楽の中に送る。夕べをもって始まり朝をもって終る。これ善人の生涯にして、また神の事業の順序なり。夕陽西山に没して、暗黒天地に臨む時に、吾人の新紀元は臨(きた)るなる。夜は長からん、その戦闘は激しからん。されど歓喜(よろこび)は朝とともに来る。夕あり朝ありて、宇宙も吾人も歩一歩を進めしなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月14日(金)

彼を信ずる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。(ヨハネ伝三・十八〜十九)

もし神の刑罰なるものがあるとすれば、それは事業の失敗ではない。生活の困難ではない。肉体の疾病(やまい)ではない。家庭の不和ではない。しかり、死そのものでもない。これらはみな艱難、不幸、天罰の中にかぞえられるべきものではない。もし神の刑罰なるものがあるとすれば、それは神を知ることのできないことである。未来と天国とが見えないことである。聖書を読んでもその意味がわからないことである。感謝の心がないことである。俗人のごとく万事万物を見ることである。これが真の災難である。もっとも重い刑罰である。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月13日(木)

兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召し選びとを確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。(ペテロ第二書一・十〜十一)

われわれはこの世界はついにどうなるかを知らない。しかしわれわれは、神は彼を愛する者に聖霊を賜いてこれをその子となしたもうことを知る。すなわちこの移りゆく世にある間に、移らざる世に入る準備をなすことである。われらはこの世界が滅びつつある間に、神の子となりて永生を承(う)けつぐことができる。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月12日(水)

神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。(ヘブル書一・一〜三)

人いまだかって神を見しことなし。されども神の状(かたち)はかって世に顕(あら)われたり。彼(その状を帯びし者)は神の栄えの光輝(かがやき)、その質の真像(かた)なりき。しかして彼の直(じき)弟子の多くは彼を目にて見、ねんごろに観(み)、手にてさわれり。彼を見し者はまことに神を見しなり。彼は歴史的人物なりき。ゆえに彼はその外貌において肉なる人と何の異なるところなかりき。彼は憎まれて人に棄てられ、彼に見るべきのみばえなかりき。われらもし肉体における彼を見しならんか、われらはかならず彼を神として認めざりしならん。彼は労働者なりき。貧しかりき。彼は極悪の罪人として十字架の刑に処せられたりき。しかも彼は神の子なりき。神として人の崇拝を受くべき者なりき。人は彼によるにあらざれば、何人(なにびと)も神を見ることあたわざるなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月11日(火)

あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている。(ピリピ書一・二十九)

艱難はこれを受くる時に決して悦(よろこ)ばしきものにあらず。されどもその忍耐の実(み)を結びて、より高き信仰を吾人に供するに至って、吾人は艱難をわが兄弟なり、わが姉妹なりと呼ぶに至る。神の造りしものにして、じつは艱難にまさるものなけん。そは他のものは吾人に示すに神の力と知恵とをもってすれど、艱難は吾人を導きてただちに神の心に至らしむればなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月10日(月)

だれがあなたのように不義をゆるし、その嗣業(しぎょう)の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、昔からわれわれの祖先たちに誓われたように、事実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。(ミカ書七・十八〜二十)

神よ、われはなんじが富貴をもってわが国民を恵みたまわんことを願わず。彼らはすでにありあまるの富を有せり。富ははなはだしく彼らを堕落せしめたり。しかして愛なる神はなおこの上に罪悪の科(とが)を彼らに課して、堕落の上に堕落を加えたまわざるべし。しかり、神よ、もし聖意(みこころ)ならば彼らの上に饑饉を下したもうも可(か)なり。彼らの茶と生糸とを腐蝕せしむるも可なり。もしやむなくんば新火山を起こして溶岩に田圃(たんぼ)を埋めしむるも可なり。この国民の霊魂を清め給え。その方法のいかんについては、ひとえにこれをなんじの聖旨(みむね)にまかす。ただ願う、神よ、この国に精神的大革命を起こさしめよ。この国をして真正(まこと)の聖人国たらしめよ。日本をして十七世紀の英国のごときものとならしめたまえ。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月9日(日)

試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。(ヤコブ書一・十二)

栄光は恥辱の後に来る。人に嘲(あざ)けられ、踏みつけられ、両面にて卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視(べっし)するところとなりて、しかる後に吾人に栄光は来るなり。しかり、恥辱は栄光の先駆なり、開拓者なり。春の夏に先き立つがごとく、月欠けて後にその満つるがごとく、恥にあうて吾人に栄光の冠(かんむり)をいただくの希望あり。吾人は喜んで人の辱(はずか)しめを受くべきなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月8日(土)

われらはパビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。われらはその中のやなぎにわれらの琴(こと)をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」といった。われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。エルサレムよ。もしわたしがあなたなを忘れるならば、わが右の手を衰えさせて下さい。(詩篇一三七・一〜五)

愛国の情、これ吾人の至誠なり。この至情、われこれを分析することあたわずといえども、われの心思(こころ)を捕え、われの生命(いのち)を縛り、われをしてこれがために生き、これがために死するもなおこれに報ゆるの足らざるを感ぜしむ。われのわが国に対するは、人のその母に対するの情なり。われは思わずして彼女を愛し、われを囲ギョウ(いぎょう)する山川に生霊の充満するがごときありて、沈黙微妙の中にわれにこたえ、われにすすむるの感あり。誰かいう、物質に生命なしと。われの身体髪膚(しんたいはっぷ)はその細微の分子に至るまで、わが国土の変化してわれとなりしものならずや。われは国土の一部分にして、われのこの土に付着するは、われ自身がこの土の化現(けげん)なればなり。国を愛せざるものは自己を愛せざるものなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月7日(金)

夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分より弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継(つ)ぐ者として、尊びなさい。(ペテロ第一書三・七)

婦人を遇するの道は観劇の快を供するにあらず。錦綉玉帯(きんしゅうぎょくたい)を給するにあらず。婢(はしため)をしてこれに侍らしめて、高貴の風を装(よそお)わしむるにあらず。婦人を遇するの道は、男子みずから身を潔(きよ)うして、彼女の貞節に酬ゆるにあり。費を節し、家を斉(ととの)えて、彼女の心労(つかれ)を省(はぶ)くにあり。夫にこの心あらば、妻は喜んで貧を忍ぶをうべし。彼と共に義のために迫害にたうるをうべし。婦人を遇するの道は、その高貴なる品性を励ますいあり。その賤劣なる虚栄心に訴うるにあらず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月6日(木)

今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。(コロサイ書一・二十四)

キリストがその死をもって全世界を救いたまえりというは、決して形容的の言(ことば)ではない。事実中の最大事実である。キリストはじつにその死をもって世の罪を負い、これを除きたもうたのである。しかしてわれら彼の弟子たる者もまた、われら相応にわれらの死をもって世の罪を負いてこれを除くことができるのである。これじつに感謝すべきことである。われら生きて何事をもなすをえずといえども、信仰をもって主にありて死して、幾分なりとも世を永久に益することができるのである。人類の救済(すくい)というも、これキリスト一人の苦痛だけでとげらるることではない。われら、彼の弟子たる者が、彼と共に死の苦痛をなめてとげらるることである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月5日(水)

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリント第二書十二・十)

われはつねにわが力の足らざらんことを恐れ、神はつねにわが力の足り過ぎんことをおもんばかりたもう。われはわれ強からざれば弱しと思い、神われ弱からざれば強からざるを知りたもう。われはわが力を増さんと欲し、神はわが力を殺(そ)がんと欲したもう。わが思うところはつねに神の見るところと異なる。われの焦虜(しゅうりょ)する時に、神は笑いたもう。われは己れを知らずして、つねにみずから苦悩(なや)むものなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月4日(火)

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができるでしょうか。(マタイ伝十六・二十六)

個人とは個々の霊魂(たましい)である。これを英語でインディビデュアルという。分(わか)つべからざるものの意である。あたかも理化学で分子のことをアトムというと同じである。分子すなわちアトムは、これ以上分つべからざるものである。そのごとく、個人も霊的実在物としてこれ以上分つべからざる者である。人類はこれを人種に分つことができる。人種はこれを国民に分つことができる。国民はこれを階級に分つことができる。階級はこれを家族に分つことができる。そうして家族はこれを個人に分つことができる。しかしながら分離はこれを個人以下におよぼすことはできない。個人は分つべからざる者である。個人は人そのままである。神の子、永久の存在者、自由独立不滅の固有性を有し、全世界を代価に払うても贖(あがな)うことのできないほど、貴いものである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月3日(月)

声が聞こえる、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんとよばわりましょうか」。「ひとはみな草だ。その麗しさは、すべて野のはなのようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」。(イザヤ書四十・六〜八)

人をして衆人の誹毀(ひき)に対し、自己の尊厳と独立とを維持せしむるにおいて、無比の力を有するものは聖書なり。聖書は孤独者の楯、弱者の城壁、誤解人物の休息所(やすみどころ)なり。これによりてのみ、余は法王にも、大監督にも、神学博士にも、牧師にも、宣教師にも抗することをうるなり。余は聖書を捨てざるべし。他の人は彼らに抗せんために聖書を捨て、聖書を攻撃せり。余は余の弱きを知れば、聖書なる鉄壁のうしろに隠れ、余を無神論者と呼ぶもの、余をおおかみと称するものと戦わんのみ。なんぞこの堅城を彼らにゆずり、野外、防禦なきの地に立ちて、彼らの無情、浅薄、狭量、固執の矢にこの身をさらすべけんや。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月2日(日)

すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。(マタイ伝十九・十六〜十七)

何をか善というとの問題に対して、キリストは「善とは神なり」と答えたまえり。孝も善なり。仁も善なり。されど孝も仁も善の結果にして、善そのものは神なり。神を知るは善人になることなり。善を学ぶは神に近づくことなり。善を求めずして神を知るあたわず。神を知らずして善なるあたわず。宗教と道徳、行いと信仰とは同一物の両面にして、一を去って他を知るあたわざるなり。聖書は善人をもって「神と共に歩む者」(創世記五・二十二)となせり。神を離れて偶像に仕うるは、善を去って悪を行うなり。すなわち悪を行うは真正(まこと)偶像崇拝なり。キリスト教徒にまれ、仏教徒にまれ、義を重んじ正しきを求むるものは、神の子供にしてイスラエルの世嗣(よつぎ)たるなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

7月1日(土)

それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて、下さることを、知っているからである。(コリント第二書四・十四)

余はこの世より救いに入らんと欲する。しかしこの世において救われんとは欲しない。すなわち余の霊も肉も、この世において完全なるものとならんと望まない。体は罪によりすでに死し、肉体はすでに罪のゆえをもって死に定められたるものである。医術がその進歩の極に達するとも、この「死の体」が永久に活くるに至りようはずはない。壊(く)つべき肉体に宿るとその事が、現世の頼るに足らざる最も明白なる証拠である。余は死より救われんと欲するものである。すなわち霊においてはもちろん、体においても死せざるの境に入らんと欲する者である。そうしてかかる境遇はもちろんこの世において求められうべきものでない。「キリスト死を滅ぼし、福音をもって生命と壊(く)ちざることを明らかにせり」。そうしてこの生命と壊ちざることとは、彼がふたたび顕(あら)われたまわん時に、わららに事実」となりて顕わるべきものでる。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6 月
宗教は個人的である。全般的でない。宗教は「われら」でない、「われ」である。複数でない、単数である。第一人称の単数である。人数または人道のことではない、われ自身のことである。「わが神、わが神、何故にわれを棄てたまいしや」(マタイ伝二七・四六)とはイエスご自身の宗教であった。「ああわれ困苦(なやめ)る人なるかな、この死の体(からだ)よりわれを救わん者は誰ぞや」(ロマ書七・二四)とはパウロの宗教であった。神学者らは宗教の全般的真理を探るがゆえに、いつまでも宗教をみいださないのである。神は人の奥底の霊においてのみ発見せらる。自己を宗教の実験物として提供しあたわざる者は、その説教者たることは決してできない。近代的キリスト教が無意味にして無能なるは、主としてそれが全般的であってまた社交的であり、個人的でなくまた一身的でないからである。天(あま)が下に無用なるものにして世にいわゆる「宗教専門家」のごときがあろうか。彼は宗教を知らずして宗教を語るものである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月30日(金)

それだけでなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注(そそ)がれているからである。(ローマ書五・三〜五)

忍耐といえば、ふつうつらいことと思われている、我慢することと思われている。キリスト信者の忍耐とはそんなものではない。キリスト信者の忍耐とは、優(ゆう)に耐(た)えるということである。すなわち神によって、希望をもって、歓(よろこ)びつつ、何の苦をも感ずることなく、耐うるということである。大船が波涛に耐うるように、大厦(たいか)が地震に耐うるように、一種の快味をもって世の苦痛に耐うることである。これを忍耐というのは、耐うるという意味からそういうのである。忍ぶという意味からいうのではない。もしキリスト信者の忍耐を意義なりに表(あら)わそうとするならば、これを感耐というのが適当であると思う。彼の信仰の充実する時には、我慢、辛抱の意味においての忍耐は彼にはないはずである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月29日(木)

しかし、わたしはあなたがたに云う。迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。(マタイ伝五・四十四〜四十五)

愛、愛われらがねがいもとむべきものはこれである。権能(ちから)はいらない、あってははなはだ危険である。知恵はいらない、あってはかえってわれらを迷わす。いるものは愛である。敵をたおすための権能ではない。われを倒さんとするわが敵を愛する愛である。これわれらのもっとも要求すべきものである。われらキリスト信者は権能を持ってみずから守らんとしない。「愛の中に恐怖(おそれ)あることなし、まったき愛は恐怖を除く」とあれば、われらは愛をもって敵に向わんとする。われらは権能の足りないのをなげかない。愛のたりないのを悲しむ。愛をもってあふれさえすれば、天上天下怖るべきものは一つもない。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月28日(水)

ユダヤ人はしるしを請(こ)い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。(コリント第一書一・二十二〜二十四)

パウロいわく、神は愚者をもって知者を辱かしむと。宗教家は神と人との間に立つ取次人なれば、彼は自己の知恵をもってこの地位に立たんと欲するべからざるなり。大宗教家の、怜悧(れいり)なる人に少なくして、かえって朴訥(ぼくとつ)なる人に多きゆえんは、けだしこの点に存することと信ずるなり。ある論者のごとく、ルーテルをもって先見博聞の人とみなすがごときは大いなる誤謬(あやまり)なり。彼の事業は神の事業にして、彼の偉大なりしゆえんは、ひとえに彼のみずから力なきをさとり、まったく神に依頼せしによるなり。(コリント第一書一・二十七)

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月27日(火)

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。(ペテロ第一書二・九〜十)

キリスト信者とはもちろんキリストを信ずる者である。しかし彼はじつにみずから信じて信者となったのではなくして、神に信ぜしめられて信者となったのである。彼の信仰は救済(すくい)の結果であって、信仰が救済の原因であるのではない。「なんじらの信ずるは神の大なる能(ちから)のはたらきによるなり」とは聖書が力をこめて宣べ伝うるところであって、われらは信仰によって救わるというものの、その信仰そのものが神の特別なるたまものであることを、われらは決して忘れてはならぬ。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月26日(月)

主は言われた、「出て、山の上で主の前にたちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった、風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後ろに静かな細い声が聞こえた。(列王紀十九・十一〜十二)

聖霊の充分なる降臨は当人の全生涯にわたる神の聖働である。この不完全なるかつ小さなるわれは、一時に聖きかぎりなき神の霊を受くることはできない。初めに苗、次に穂出で、穂の中に熟したる殻を結ぶといい(マルコ伝四・二十八)、誡命(いましめ)に誡命を加え、度(のり)に度を加え、ここにも少しく、かしこにも少しく教うという(イザヤ書二十八・十)。健全なる聖霊の降臨は徐々たる降臨である。われらの願うべきことは、その一時に迅風(じんぷう)の如くにくだらずして、永く軟風(なんぷう)のごとくにそよがんことである。雷火のごとくにのぞまずして、朝の露のごとくにうるおさんことである。万やむをえざる場合のほかは、われに急激の変化を来たさざらんことである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月25日(日)

さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪はおかされなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座(みざ)に近づこうではないか。(ヘブル書四・十四〜十六)

余はキリストが余に代りてなしとげたまいし善行によって救われるのである。余が大胆にも多くの余不相応の要求をもって神に近づきうるは、全くこれがためである。いかに慈悲深き神なればとて、余は余のために余を恵みたまえといいって彼にちかづくことはできない。しかしながら、キリストのために余を恵みたまえというのであるならば、余のごとき者といえども、大胆にアバ父よと叫びながら神の宝座(みくらい)に向って進み行くことができる。余は余のために何物をも要資格を持たない。しかしながら、キリストのためとならば、万事を父に向って要求することができる。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月24日(土)

いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。(テモテ第二書三・十二)

キリスト信者の歓喜にともなうキリスト信者の苦痛があります。迫害、飢餓、裸、危険、刀剣(つるぎ)その他いうにいわれぬ苦痛、教会よりは放逐され、父母兄弟よりは悪人として侮辱され、ほとんど唾(つば)きせられ、されども担うべきの義務はすべて担わせられ、国人よりは国賊として斥(しりぞ)けられ、友人には偽善者として敵にわたされ、しかもこれに対して一言の怨恨(うらみ)を述べることはできず、ただ小羊のごとくに忍ばなければなりません。その屈辱、その悲痛、とうてい常人の忍びうるところではありません。われらキリスト信者はキリストと共に栄に入るの特権のみならず、またキリストと共に十字架に上げられるその苦痛を授けられた者であります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月23日(金)

あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。(詩篇五十五・二十二)

「なんじの重荷を主にゆだねよ」、自身これを負(お)わんとするなかれ。みずからこれを担(にな)わんとするがゆえに、なんじにたえ難きの苦痛あるなり。これを主にゆだねよ、かれはたやすくこれを担いうるなり。しかしてなんじの重荷をなんじに代えて担いたもうにとどまらず、これと共になんじ自身をも担いたまいて、なんじの心に平康(やすき)を賜うなり。彼は義人、すなわち彼により頼む者、すなわち彼と義(ただ)しき関係においてある者の動かされることを、決して許したまわざるべし。しかり、決して許したまわざるなり。世のいわゆる義人の動くことあり。されど神の義人の動くことなし。神の義人は信仰のひとなり、信頼のひとなり、義を神より仰ぐ人なり。われは義人なりという人にあらず。罪人なるわれを憐(あわ)れみたまえといいて、神の慈愛にすがる者なり。しかしてかかる者は決して動かさるることなし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月22日(木)

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うパプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは、皆キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ書三・二十六〜二十八)

われは世にわれの讐敵(しゅうてき)のあることを思わずして、われの同情者のあることを思う。われは世にわれの瑕瑾(かきん)をさぐりもとむる批評家のあることを思わずして、われの真意を理解する愛友のあることを思う。それは敵意はわれの意をちぢめ、友情はこれをひろめてわれをして人生を厭(いと)わざらしむればなり。これうぬぼれのごとくに見えてしからず。今日のごとく人々みな「四海讐敵」なりとの念をいだく時に際しては、わが心中に人類に対する温かき愛情を保有するの必要あり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月21日(水)

そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。(ヨハネ伝六・二十八〜二十九)

義務よ、義務よと叫ぶものは、よく義務をはたす人にあらざるなり。義務の念は重荷となり、心志を圧してその活動力を減殺するものなり。いかにおもしろき学科といえども、学校の課目となりて強いらるる時は、その快味かえって苦味と変ずるがごとく、いかに高尚なる事業なりといえども、義務としてこれにあたる時は、乾燥無味の奴隷的事業と変ずるなり。キリスト信者の大事業家たりうるは、彼はすでに事業をとげし者なればなり。神の前にすでに義とせられて、人の前に名誉を博する必要なければなり。あたかも億万の富を有して金銭を得る必要なきものは、つねに商業界において勝利をうるものなるがごとし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月20日(火)

それは彼らが、心励まされ、愛によって結び合され、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝がいっさい隠されている。(コロサイ書二・二〜三)

キリストは余に自己を賜うた。彼にある生命を賜うた。聖霊を賜うた。神と人を愛する心を賜うた。忍耐と希望と歓喜を賜うた。しかり、彼は余に神を賜うた。しかして神とともに宇宙万物を賜うた。彼は余の死せる霊魂を活かしたもうて、余をして内に富み、かつかしこき者とならしめたもうた。それゆえにキリストは余のすべてである。余の食物、また衣服、また家屋である。彼はまた余が神の前に立つ時の誇り(勲章)である。彼はまた余の知識である。彼はまた余の「あけぼのの星」であって、余の歌の題目、美術の理想である。彼はまた余の自覚の根柢であるから、余の哲学と倫理との基礎である。キリストは余に自己をあたえたもうて余に万物を与えたもうた。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月19日(月)

なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をそなえ、刈入(かりい)れの時に、かてを集める。なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまねいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来たり、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。(箴言六・六〜十一)

勤労の報酬は満足されたる良心なり。さらに尽くさんと欲するの決心なり。知能のますます明瞭を加うることなり。欲心の減ずることなり。生存そのものに興味を感ずることなり。未来の恐怖の絶ゆることなり。万物の霊長たる人類は、これより以下の報酬を以って満足すべからざるなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月18日(日)

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔(へだ)ての中垣(なかがき)を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。(エペソ書二・十四〜十六)

ここにいかなる手段をもってしても怒らすことのできない唯一の人があった。荊(いばら)の冠(かんむり)をかぶらせても、掌(てのひら)をもって打っても、唾(つば)きしても、十字架につけても、怒らすことのできない一人の人があった。憤怒の颶風(はやち)は吹かば吹け、この愛の巌(いわ)を動かすことはできなかった。憎悪(にくみ)の潮(うしお)は来たらば来たれ、この愛の堤(つつみ)を崩すことはできなかった。キリストの死は憎悪に対する愛の勝利であった。ここに憎悪は非常の勢力をもって愛と衝突して、その撃退するところとなった。いまよりのち、憎悪はその猛威を誇ることはできない。すでに一回、人の子の打ち破るところとなりて、その殲滅(せんめつ)はすでに宣告せられた。キリストの愛の死によって、世界平和の端緒は開かれた。キリストは十字架にのぼりて、愛は最高の位に即(つ)いた。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月17日(土)

この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求め捜(さが)しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。(使徒行伝十七・二十四〜二十七)

余は神はあると信ずる。そのもっともたしかなる証拠は、余自身が存在することである。余は余の父母をとおして世に生まれ来たった者であるが、しかし余には余の父母が生むことのできないものがある。すなはち余には余の霊魂がある。すなはち独(ひと)り断じて行うところの者がある。これは余の父母とは何の関係もない者であって、これはただちに神より出で来たった者である。これがすなはち余自身であって、余の人格である。余の肉体の変遷と同時(とも)に変遷せざるもの、余の責任の存するところ、余の不朽の部分、自我の中心点、余はかかる玄妙なる者の余のうちにあるを知るがゆえに、神のそんざいを信じて疑わないのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月16日(金)

あなたがたは、終わりの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。(ペテロ第一書一・五〜六)

神の聖業(みしごと)はいまなおその半途(なかば)においてあるのである。彼はいまその畑に永世の種を播(ま)きたまいつつあるのである。いまより後に復活あり、地の改造あり、大審判ありて、しかる後に彼の救済(すくい)の聖業は終わり、しかして最後に新しき天と新しき地との実現を見るのである。言あり、いわく「神の水車はめぐることゆるやかなり、されども挽(ひ)くこと精巧なり」と。神はいそぎたまわない、多く時を取りたもう。彼の眼には千年も一日のごとし、万年も長き時にあらず。しかも彼はその愛する者を忘れたまわない。その始めし善きわざを終らずしてはやみたまわない。人の眼より見て、いまより救済の結末、完成されたる天地の実現を待つはたえがたき忍耐ではあるが、しかし神は人が明日を期するがごとく、そのさいわいなる時を待ちたもうのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月15日(木)

あなたの大庭(おおにわ)にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守(かどもり)となることを願います。主なる神は日です。盾(たて)です。主は恵みと誉れとを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。(詩篇八十四・十〜十二)

地に属するものが余の眼よりかくされし時、はじめて天のものがはじまりぬ。人生終局の目的とはいかん。罪人がその罪を洗い去るの道ありや。いかにして純清に達しうべきか。これらの問題は今は余の全心を奪い去れり。栄光の王は神の右に坐して、ソクラテス、パウロ、クロンウェルの輩、数(かず)知れぬほど御位(みくらい)の周囲に坐するあり。荊棘(いばら)の冠(かんむり)をいただきながら十字架にのぼりしイエス・キリスト、来世存在を論じつつ従容(しょうよう)として毒を飲みしソクラテス、異郷ラベナに放逐されしダンテ、その他あまたの英霊はいまは余の親友となり、詩人リテルと共に天の使に導かれつつ、球(きゅう)より球まで、星より星まで、心霊界の広大をさぐり、この地に咲かざる花、この土に見ざる宝玉、聞かざる音楽、味わわざる美味…余はじつに思わぬ国に入りぬ。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月14日(水)

わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、怠ることなく、信仰と忍耐をもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。(ヘブル書六・十一〜十二)

「すべてのことこれ信じ」(コリント第一書十三・七)とは、何事によらずこれを信ずとの意にあらず。すべてのことこれ信じとは、すべての善きことこれ信ずとの意なり。余輩は天に愛の父いますを信ず。余輩は罪の赦免(ゆるし)を信じ、霊魂の不滅と肉体の復活とを信ず。余輩はまた万物の復興と天国の来臨を信ず。余輩の信ずべからざることは、悪がついに世に勝たんとのことなり。この世が全滅に帰して、混沌のふたたび宇宙を掩(おお)うに至らんとのことなり。信仰は希望なり。善を望まざる信仰は信仰にして信仰にあらざるなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月13日(火)

むすこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあたのむすこと呼ばれる資格はありません」。しかし父は僕たちに言いつけた、「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、こえた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか」。(ルカ伝十五・二十一〜二十三)

なんじはいわんとす「われのごとき罪人(つみびと)、いかで無限の愛を受くべけんや。われまずおのれを清くして、しかる後、神の愛をもって充(み)たさるべきなり」と。ああ、たれかなんじを清くしえんや。なんじは己れを清めえざりき。なんじを清めうるものはただ神のみ。なんじの清まるを待ちて神に来たらんとせば、永遠までまつもなんじは神に来たらざるべし。母の手より離れて泥中におちいりし小児は、おのれを洗浄するまで母のもとに帰らざるか。泥衣のまま泣いて母に来るにあらずや。しかして母はその子が早く来たらざりしを怒り、ただちに新衣を取って無知の小児を装(よそお)うにあらずや。永遠の慈母もまたしかせざらんや。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月12日(月)

主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠(かんむり)を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣(ころも)を与えさせるためである。(イザヤ書六十一・一〜三)

われわれに口あるを感謝す、われはこれをもって神の福音を宣べん、われはわれに手あるを感謝す、われはこれをもって神の福音を伝えん。われはわれに足あるを感謝す、わたはこれをもって神の福音を運搬(はこ)ばん。われは福音のために造らる。われはその伝播の器具たるべし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月11日(日)

天が地より高いように、主がおのれを恐れる者に賜るいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれから遠ざけられる。父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。(詩篇103・十一〜十四)

余はいまだよく神の何者たるかを知らず。されどもその余の悪を憎みたもうにまさりて余の善を愛したもう者なるや、余の悲嘆は余の悪の多きことにあらずして、余の善のすくなきことならん。しかして余はその時余の予想に反して、愛なる神が余の犯せしすべての悪をわすれたまいて、ただ余のなせし些少(さしょう)の善のみ記憶したもうを発見して、驚愕の念にたえざるべし。「神の恩恵(めぐみ)の広きは海のごとく広し」。われら神の怒りについてのみ念ずるはあやまれり。神は怒りの神にあらず、恩恵の神なり、すなわち赦免(ゆるし)の神なり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月10日(土)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。(ペテロ第一書一・三〜四)

信者は安心して死に対すべきである。かならずしも生を求めず、またかならずしも死を願わず。生くるも主のため、死するも主のためである。死すべき時に死するは大いなる恩恵(めぐみ)である。もしいたずらに生を希(ねが)うて、死すべき時に死なざれば、不幸これより大なるはない。死すべき時に死するの死は、光明に入るの門である。死は最大の不幸なりというは、信者のいうべきことではない。彼はただ死すべき時に死なんことを願うのである。その時よりも早からず、その時よりもおそからず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月9日(金)

その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。(コロサイ書一・二十六〜二十八)

聖書は大なり。されども活(い)けるキリストは聖書よりも大なり。われらもし聖書を学んで彼に接せざれば、わららの目的を達せりというあたわず。聖書は過去における活けるキリストの行動の記録なり。しかしてわれらは今日彼の霊を受けて、新たに聖書を造らざるべからず。古き聖書を読んで新しき聖書を造らざる者は、聖書を正当に解釈せし者にあらず。聖書はなお未完の書なり。しかしてわれらはこれにその末章を作るの材料を供せざるべからず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月8日(木)

ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは収税人や罪人などと飲食を共にするのか」。イエスは答えて言われた「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。(ルカ伝五・三十〜三十二)

キリストは罪人(つみびと)の友であるという、まことにそのとおりである。キリストは税吏(みつぎとり)罪ある者の友であった。しかしながら罪人の友であるというのは悪人の友であるということではない。キリストは悪人の友ではない。人は悪をなしてキリストの敵となるのである。キリストが罪人の友であるというのは、彼は世が称してもって罪人となす者の友であるというのである。すなわち自ら罪を悔いて神に赦(ゆる)されし者、あるいは身に罪を犯せしことなきも、世の慣例習俗に従わざるのゆえをもって罪人として世に目せらるる者、あるいは人のねたむところとなりて、罪なきに罪ありとよばるる者…キリストはかかる罪人の友であるということである。すなわちパリサイ人が称してもって罪人とみなす者の友であるということである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月7日(水)

このように、キリストは肉において苦るしまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲望によらず、神の御旨によつて過ごすためである。(ペテロ第一書四・一〜二)

死は犠牲である、同時にまた贖罪(しゅくざい)である。何人といえどもおのれ一人のために生き、またおのれ一人ために死する者はない。人は死して幾分か世の罪を贖(あがな)い、その犠牲となりて神の祭壇の上に献げらるるのである。これじつに感謝すべきことである。死の苦痛は決して無益の苦痛ではない。これによりておのれの罪が洗わるるのみならず、また世の罪が幾分なりとも除(のぞ)かるるのである。しかしていうまでもなく、死の贖い、悪しき者の死は自己の罪のほか贖うところははなはだわずかである。人は聖(きよ)くなれば聖くなるだけ、その死をもってこの世の罪を贖うことができるのである。あるいは家の罪を、あるいは社会の罪を、あるいは国の罪を、あるいは世界の罪を、人は彼の品位如何によりて担いかつ贖うことができるのである。死はじつに人がこの世においてなすをうる最大事業である。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月6日(火)

何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。(ピリピ書二・三〜五)

キリストのような生涯は、悪人に殺さるれば、それで終わりになるものでございましょうか。もしキリストが復活しないで、彼の生命も空しくユダの山地の塵(ちり)となって消え失せてしもうたものならば、この宇宙とはなんと頼みすくなきところではありませんか。しかしこれはそうではございません。謙遜なることキリストのごとき者の生涯は、永遠にまで存在する価値のあるものでございます。そしてわれわれの生涯といえども、彼の生涯にならえば、同じく永久の性を帯(お)ぶることができます。すなわち永生とはじつに謙下(へりくだり)の結果であります。キリストのように謙虚なるをうれば、われわれも永生に入ることができます。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月5日(月)

主はその羽(はね)をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼(つばさ)の下に避け所をえるであろう。そのまことは大盾(おおだて)、また小盾(こだて)である。(詩篇九十一・四)

神の命を待てよ、さらば何事も行われん。身を神にまかせよ、さらばすべての力は汝に加えられん。なんじは神のものにして、なんじの事業は神の事業ならざるべからず。このゆえになんじに計画なるものあるべからず。なんじに焦心憂慮(しょうしんゆうりょ)の要あるなし。神は彼自身にて活動する者なれば、吾人は全身を彼に献ぐればたる。みずから計(はか)り、自ら行わんと欲して、吾人は神より離絶する者なり。しかしてかくなして、偉大なる行為の吾人の手によって成らざるはもちろんなり。吾人もし人に対し活動的たらんと欲せば、神に対しては全然受動的たらざるべからず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月4日(日)

わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷なり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互いに憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。(テスト書三・三〜六)

余は余が好んで救われたのではない。余は余の意志に逆らって救われたのである。余は現世を愛した。しかるに神は現世における余のすべての企図を破壊したまいて、余をして来世を望まざるをえざらしめたもうた。余は人に愛せられんことをねごうた。しかるに神は多くの敵人を余に送って、余をして人類に失望せしめ、神に頼らざるをえざらしめたもうた。もし余の生涯が余の望みしとおりのものであったならば、余はいまは神もなき来世もなき、ふつうの俗人であったであろう。余は神に余儀なくせられて、神の救済(すくい)にあずかったものである。ゆえに余は、余の救われしことに関して何の誇るところのない者である。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月3日(土)

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。(ヘルブ書十一・三)

神を信ずることは、読んで字の如く神を信ずることなり。彼の存在を信じ、摂理を信じ、保護と指導とを信ずる、あたかも吾人肉体の父それを信ずるがごとくに信ずるをいうなり。信ずると口に言うにあらず、まことに信ずるなり。しかして吾人処世の方針を全くこの信仰にもとずきて定むるをいうなり。詩人コレリッヂ、時の宗教家を評していわく、彼らは信ずると信ずる者にして、信ずる者にあらずと。信神のこと、決して容易のことにあらず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月2日(金)

イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたいたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコ伝六・一〜三)

彼は法王、監督、牧師、宣教師、神学博士の類にあらざりき。彼はかって頭に僧冠をいただきしことなく、また身に僧衣をつけしことなし。すなわい彼は、今日世に称する宗教家にあらず。彼はかつて彼の信仰のために俸給を受けしことなし。彼はナザレの一平民にして、彼の父の業をついで大工を職とせしものなり。ゆえに彼は直覚的に神を知りし者にして、神学校または哲学館に彼の宗教的知識を養いし者にあらず。余輩が彼を尊敬するは、彼が大平民なりしがゆえなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

6月1日(木)

わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。(詩篇三七・二五)

キリスト教は貧者をなぐさむるに、仏教のいわゆる「万物皆空」なる麻酔的教義をもってするものにあらず。キリスト教は世をあきらめずして、世に勝たしむるものなり。富めると貧なるとは前世の定めにあらずして、今世における個人的境遇なり。貧は身体の疾病と同じく、これを治(じ)するあたわずんば喜んで忍ぶべきものなり。わらの貧なる、もしわれの怠惰放蕩より出でしものならば、われは今より勤勉節倹をこととし、浪費せし富を回復すべきなり。天はみずから助くるものを助く。いかなる放蕩児といえども、いかなる怠け者といえども、ひとたび翻(ひるがえ)りて宇宙の大道にしたがい、手足を労し額(ひたい)に汗(あせ)せば、天は彼をも見捨てざるなり。貧は運命にあらざれば、われら手をつかねてこれに甘(あま)んずべきにあらず。働けよ、働けよ。正直な仕事は、いかに下等なりといえども、これを軽んずるなかれ。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5 月
労働の快楽もまた貧者特有のものであります。世に不幸なるものとて、働かないもの、働かずしてすむ人のごときはありません。労働の快楽は最も確実なる快楽であります。よし適当の報酬のこれにともなわないとしても、労働に「われは今日も何かなしたり」という満足があります。西洋のことわざに「最大の罪悪は何事をもなさざることなり」ということがありますが、実にそのとうりであります。人は労働によって人生の苦痛を忘れるのであります。娯楽機関は一時の鎮痛剤にすぎません。いっしょうけんめいに働く時には、人は何びとも小児のごとくにイノセント(つみなきもの)となるのであります。(『内村鑑三聖書注解全集』第九巻「ルカ」伝)

イエスは偉大な人であるという。彼はまことに偉大なる人である。偉大なる人であるがゆえに小さくある。彼は今に至るまで世に認められないほど小さくある。
人はいう、イエスの名は今や全世界にとどろき、彼の名を知らない者とては一人もない、彼の偉大なるは彼の世界的名声によって知ることができると。
しかれども事実はそうでないのである。イエスは今なお依然として人に知られないのである。世が称揚するイエスはイエスではないのである。これ世の想像にイエスの名をつけた者であって、イエスご自身とは全くちがった者である。世にとどろくイエスはいわゆる「教会の首長」である。大なる宗教家である。信徒の大軍を率(ひき)いて世界征服の途上にある者である。いわゆる「偉大なる人物」神がカイゼルとしてあらわれし者、貴顕紳士までが敬仰(けいこう)する者である。しかしながらイエスは、かくのごとくにして世にあらわれたもう者ではない。いまさざる所なき彼は、きわめて少数の人にのみ自己(みずから)をあらわしたもうのである。もし人の大(だい)は彼を知る世人(ひと)の多少によって定めらるる者であるならば、イエスは小人中の小人であるということができる。(内村鑑三全集第八巻)

5月31日(水)

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるパプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるパプテスマを受けたのである。すなわち、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしもわたしたちが、彼に結びついてその死の様(さま)にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。(ローマ書六・三〜五)

キリストに同化されし者、キリストの活(い)ける体の一部分となりし者、その困苦(くるしみ)と歓喜(よろこび)と、その恥辱(はずかしめ)と、栄光(さかえ)と、その死と復活を、彼の中にありて彼とともに父なる神より分与せられし者、これがキリスト信者である。「信ずる」とはこの場合においては知識的に是認することではない。また感情的に信頼することでもない。キリストを信ずるとは、彼の神格の中にわが人格を投入することである。そうしてわれを無き者として、彼をしてわれに代わってわがうちにあらしむることである。これがすなわち信の極であって、キリストのわれらよりかかる信仰を要求したもうのである。キリストが神であり、霊の宇宙であり、われらがその霊界の一部分となるをえて、はじめてわれらの聖化も満足に行われ、またキリストの光はわれらをとおして世に顕(あら)われるのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月30日(火)

ところが会堂司(かいどうつかさ)は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群集にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない。」主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよあなたがたはだれでも、安息日であっても、自分のろばを家畜小屋から解(と)いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。(ルカ伝十三・十四〜十六)

釈迦は婆羅門(ばらもん)の破壊者であって、キリストとパウロとはユダヤ教の破壊者であった。ダンテとサポナローラとルーテルとはローマ・カトリック教会を破壊し、ブラウンとウェスレーとヂョーヂ・フォックスとは英国の監督教会を破壊した。破壊することは、時と場とによって決して悪い事でないのみならず、はなはだ必要なることである。もし西郷南州や大久保甲東が旧幕府時代の日本の社会を破壊しなかったならどうであったろう。われわれ日本人は今日この頃もなお中古時代の迷夢のうちに昏睡していたではあるまいか。破壊を恐れるのは老人根性である。進歩を愛するものは者は正当なる破壊を歓迎すべきである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月29日(月)

さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂(さ)かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。(ホセア書六・一〜二)

キリストの愛神主義は利他利己両主義の上に超越して、もっとも多く他を利して、もっとも多く己を利するの道をわれに教えたり。われは罪を自覚してこれを避くるをうべし。われはわれに付与されし赦免(しゃめん)は神の公義にもとらざるものなるがゆえに、わが全体の応諾をもってこれにあずかるをうべし。われの求めんと欲するところのものにして、天のわれに付与せざるものなし。造化はじつに失敗ならざりしなり。インマヌエル、神われらと共にあり。人生はひとたび通過するの価値あるものなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月28日(日)

よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。(ヨハネ伝十四・十二)

前あるを知らず、後ろあるを知らず、右あるを知らず、左あるを知らず、他(ほか)あるを知らず、己れあるを知らず、ただ何者かが来たってわが心志を奪い、わが手を取り、わが情を激して、われをしてわれのおもわざることをなさしむ。この時われの全身は燃え、われに知覚あってなきがごとし。われは何をなし、何を書きつつあるやを知らず。ただ知る、彼、われを去りし後に、われは彼の手にありてわれ以上の事をなせしことを。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月27日(土)

しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。(テモテ第一書六・六〜九)

なんじの今日の業(わざ)に安んぜよ。まず大事業をなすの念を放棄せよ。エレミヤ、その弟子バルクをいましめていわく「なんじ、己のために大なることを求むるか、これを求むるなかれ」と。われらおのおの社会の教導者たらんことを欲するがゆえに、われらの革新事業は挙(あが)らざるなり。われら各自に革新すべく区域の供せられしにあらずや。なんじすでに安心立命の位置に立ちしとせんか、さらばまずなんじの家族におよぼし、なんじの友人を教化せよ。なんじの隣人に慰籍(なぐさめ)の清水一杯を与えよ。なんじにいたる貧者をして、なんじより善をほどこされずしてなんじの門前を立ち去らざらしめよ。われに勤(つと)めんとするの精神あらんか、われの今日の位置において、なすべきの業は積んで山をなせり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月26日(金)

よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救いを告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。(イザヤ書五十二・七)

詩人、地主にいうていわく「土地はなんじのものなり、されども風景はわがものなり」と。神の天然を楽しむに、山林田野をわがものとするの要なきなり。詩人、政治家にいうていわく「政権はなんじにあり、教権はわれに存す」と。ひとの心を支配するに軍隊、警察、法律、威力に拠(よ)るの要なきなり。詩人宗教家にいうていわく「寺院と教会とはなんじに属す、されど霊魂はわれに帰す」と。人の神の愛を示し、救拯(すくい)の恩恵(めぐみ)を伝え、聖霊の歓喜(よろこび)を供するに、僧侶、神官、監督、牧師、伝道者たるの要なきなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月25日(木)

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものでなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の集権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。(エペソ書六・十一〜十三)

われらキリストの福音をもってこの世に立つ以上は、戦闘は全然これを避けんと欲するもあたわない。われらはもちろん他を苦しめんがために戦わない。またわが怨恨(うらみ)を晴らさんがために闘わない。われらはもちろん何より静粛を愛する。もしわが好愛をいわんには、われらは終生聖書と天然とを友として、賛美と詩歌の生涯を送りたくねがう。されど、これご自身十字架を負いてわれらを罪より救い出したまいしところの主が、われらに許したまわざるところである。われらは悪魔と奮闘せざるをえない。しかしてその悪魔は単に裡(うち)なる霊の悪魔ではない。そとなる肉の悪魔である、佞人(ねいじん)である、奸物(かんぶつ)である、酒である、賄賂である、淫猥(いんわい)である、残忍である。われらは時には彼らの怒れる顔を恐れずして「主はなんじを憎みたもう」といいて、彼らを詰責(きっせき)しなければならない。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月24日(水)

では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。(ローマ書十・八〜十一)

信、信、信と、安心も立命も信において他にないのである。信仰の結果ではない、信仰そのものである。信仰によって疾病がなおるかもしれない、またなおらないかもしれない。しかしなおらないとて、信仰はその救霊の価値を失わないのである。信仰によって、必ずしも人は道徳的に完全になるとは定(きま)らない。しかし彼にはなお旧時の多くの欠点が残りおるとも、それがゆえに信仰は救霊唯一の能力(ちから)たるを失わないのである。人が信仰によって救われるというは、信仰の結果によって救われるというのではない。信仰そのものがすでに彼の完全なる救拯(すくい)であるというのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月23日(火)

善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。万軍の神、主は、あるいはヨセフの残りの者をあわれまれるであろう。(アモス書五・十四〜十五)

キリスト信者は柔和で慈悲深き者でありますが、さりとて無主義、無節操、骨のないくらげのような者ではありません。彼は愛すべき者を愛すと同時に、憎むべき者をば憎みます。彼は東洋流の君子英雄とはまったくちがい、善も悪も美も醜もみなこれを容(い)れてわがものとなす政治家的度量は有しません。彼は罪を黙許し、悪を友とすることはできません。彼は罪びとをあわれみます。しかし罪に対しては彼の満腔の憎悪の情を発表し、すこしなりとも悪を賛するがごとき挙動を示しません。彼はまた何よりも偽善を憎みます。ことに神の名を利用して悪事を働く者の上には、彼は彼の満身満腹の憎悪をそそぎます。彼はよし自分の身を引き裂かるるとも怒りはいたしますまいが、しかし偽善者の跋扈(ばっこ)を見ては彼は憤怒にたえません。彼は決して怒らない者ではありません。神のため正義のためには、燃やしつくすが如き熱火をもって怒ります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月22日(月)

トマスはイエスに言った、「主よ。どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。(ヨハネ伝十四・五〜七)

イエスの垂訓に組織だちたる順序あるなし。彼は学者の如く熟思して真理を発見したまわざりき。彼は世の創始(はじめ)よりこれを彼自身において持ちたまえり。熟せる果実が枝より落つるがごとく、真理は彼の口よりおちたり。彼は真理そのものなれば、彼、口を開きたまえば、教訓は自然と彼より流れ出でたり。しかして真理とはじつにかくのごときものならざるべからず。野の百合の、つとめず紡(つむ)がずして色を呈し、香を放つがごとくに、イエスは学ばず究(きわ)めずして深き真理を世に供したまえり。雪山(せつざん)十二年の苦業の結果にあらず、ナザレ三十年の曇りなき成長の余韻なり。これに清風の香気あり、また山を走るかもしかの自由あり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月21日(日)

わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人(つみびと)ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは律法のおこないによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。(ガラテヤ書二・十五〜十六)

キリストの死によって、神は身を神に託す…すなわち信ずる…ものを赦(ゆる)すをうるにいたれり。神は赦したきものを赦すにいたれり。(神は何事をもなしうべしといえども、正義に合(あ)わざることはなすあたわず)。ゆえにキリストは人のためにのみ生命を捨てずして、神のためにも死にたまいしなり。キリストは血の流るる手をひろげて人類に悔い改めを勧(すす)めたもうと同時に、神が人類の悔い改めを納(い)れて彼らを赦すの道を開きたまえり。キリストの十字架はじつに恩恵(めぐみ)の新源泉を開きたり。神はキリストによりてなお一層の神愛を自現したまえり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月20日(土)

大ぜいの群集がついてきたので、イエスは彼らの方に向(む)いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」。(ルカ伝十四・二十五〜二十六)

憎むとは情実のきずなをたつことである。すなわちもっとも乾燥せる眼をもってかれらの利害を見ることである。すなわち彼らの欲望の成されんことをねがわずして、彼らに関する神の聖意(みこころ)のならんことを欲することである。かくならなくては真正(まこと)の孝子となることはできない。かくならなくては真正の父でもなければ、夫でも、兄弟でも、姉妹でもない。君父の命とならば何事にても従わんと欲する支那的の忠孝は、はなはだ不実なる忠孝である。もし東洋人の忠孝なるものが国と家とを輿(おこ)したることがありとすれば、同じ忠孝によりて滅びたる国と家とはたくさんあると思う。毒物と知りつつ老父の欲する酒をすすめて、彼を死にいたらしめし孝子もあろう。毒婦と知りつつ主君の愛する妾婢を彼にゆるして、彼と彼の家とを転覆せしめし忠臣もあろう。時によっては君を鞭(むち)うつぐらいの臣でなければ、真正の忠臣ということはできない。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月19日(金)

全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。(詩篇百・一〜三)

わたくしの祈りの大部分は祈願ではありません。わたくしはまず満腔(まんこう)の感謝をもってわたくしの祈りをはじめます。わたくしはかくもうるわしき宇宙に生をたまいしことについて、わたくしの神に感謝いたします。わたくしはわたくしに良き友人をたまいしことについて、わたくしに身をゆだぬべき事業を与えたまいしことのついて、わたくしに是非善悪を判別して正義の神を求むる心を与えたまいしことについて、ことにわたくしが神より離れて私利私欲を追求せし時に当たって、わたくしの心に主イエス・キリストを現したまいて、わたくしの霊魂をその救済の道につかしめたまいし絶大無限の恩恵(めぐみ)について、深く感謝いたします。そして感謝の念がわたくしの心にあふれまする時には、わたくしは路傍に咲くすみれのために感謝いたします。わたくしの面(おもて)を吹く風のために感謝いたします。また朝早く起き出でて東天に黄金(こがねいろ)のみなぎる時などは、思わず感謝の賛美歌を唱えることもございます。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」


5月18日(木)

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。(ヨハネ伝五・三九)

聖書は一名これをイエス・キリストの伝記というてもよいと思います。その旧約聖書なるものは、キリストがこの世に生まれ来るまでの準備をのべたものであって、新約聖書は、キリストのこの世における行動や、あるいは直接にキリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いて見るならば、ちょうど弓形の石橋より枢石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形像(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書の解し難いのは、文字のゆえではなく、また理論のこみ入っているわけでもなくて、じつにキリストがその枢石である事がわからないからでございます。それゆえに、ひとたびキリストと彼の真意とがわかりさえすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたとなく、またこれほど読みやすい書はないようになります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月17日(水)

あなたはいにしえ、地の基をすえられました。天もまたあなたのみ手のわざです。これらは滅びるでしょう。しかしあなたは長らえられます。これらはみな衣(ころも)のように古びるでしょう。あなたがこれらを上着のように替(か)えられると、これらは過ぎ去ります。しかしあなたは変わることなく、あなたのよわいは終わることがありません。(詩篇百二・二十五〜二十七)

いわゆる現世的宗教は宗教ではありません。来世を明らかにするゆえに宗教はことに人生に必要なのであります。ことにこのことを明らかにするがゆえに、キリスト教はことに必要なのであります。「キリスト死を廃(ほろ)ぼし、福音を以って(永遠の)生命と朽ちざることを明らかにせり」とあります(テモテ第二書一・十)。キリストによりて来世はあきらかになったのであります。彼によってわたくしども彼の弟子らは、いまこの世にあってなお希望のなかにわたくしどもの戦いをつづけておるのであります。しかもキリストは決してわたくしどもより遠く離れていますのであはりません、ただ幕一枚であります。彼は幕の彼方にありてわたくしどもの祈りをきき、いと近き援助(たすけ)としていましたもうのであります。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月16日(火)

人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲(こら)しめられているようであるが殺されず、悲しんでいるようであるが、常によろこんでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。(コリント第二書六・九〜十)

「何も持たざるに似たれどもすべてのものを持てり」とはキリスト信者のことである。われらに土地一寸もなけれども、宇宙万物はすべてわれらのものである。われらの家は雨をもらし風にもろきも、われらは千代経(ちよへ)し岩を隠れ家(が)となす者である。われらを養うに美味はなけれども、われらは天の霊を呼吸
して生くる者である。世にじつはわれらにまさる富者はないのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月15日(月)

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(ローマ書一・十六〜十七)

わたくしはたしかに信じます。キリスト教は奇跡をはなれて論ぜらるべきものではありません。奇跡を引き抜いて後に残ったキリストの教訓がキリスト教であるならば、キリスト教とはじつに微弱なる宗教であります。キリスト教の能力(ちから)あるゆえんは、もっとも高尚なる道徳を奇跡をもって強(し)うるからであります。もしその教訓が光(ライト)でありまするならば、その奇跡は実に力(パワー)であります。力なき光は、個人と社会と国家とを全然改造しうる光ではありません。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月14日(日)

彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息(いき)を入れてあなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋(すじ)を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与え生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟(さと)る」。(エゼキエル書三十七・四ー六)

「その子どもの無きが故に慰めを得ず」という(マタイ伝二・十八)。しかしただ一つ慰めをうる道があるのである。もし何かの方法により愛する者がふたたび活くるをうるならば、もしいまは眼をふさぎ唇をとじるものが、なにかの能力(ちから)により、活きてふたたびわが前に立ち、われとともに語り、わが愛を受け、またわれに愛を供するならば、一言もってこれをいわば、彼がもし復活するならば、その時はわれはまことに慰めをえて、わが悲嘆は完全にいやされるのである。人は復活と聞いて笑うなれども、されども、復活は死別の苦痛になやむ者に、何人(なにびと)にも起こる希望である。永久の離別はわれらのしのぶあたわざるところである。復活の希望なくして、再会の期待なくして、死は「慰めをえざる苦痛」である。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月13日(土)


これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示してる。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(ヘブル書十一・十三ー十六)

地は人類の住所なりという、しからざるなり。地は人類の墓地なり。彼の住所は他にあり、「手にて造らざるきわまりなくたもつところの家なり」(コリント第二書五・一)。地の花は彼の墓を飾るによし。その山は彼の遺骨を託するに適す。されども地そのものは彼の住所となすにたらず。地について争う者はたれぞや。政治は墓地の整理ならずや。戦争は墓地の争奪ならずや。永久の住所を有するわれらは、喜んで地はこれを他人にゆずるべきなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月12日(金)

また、ひとりの強い御使いが、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るにふさわしい者が見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝(わかえだ)であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。(ヨハネ黙示録五・二ー五)

もし人の力によってこの罪悪世界が救われるものならば、そんな人はどこにいますか。病人は病人を救うことができません。不義の人が他人の不義を治すことができようはずがございません。社会全体が腐敗している時に、その一分子たる人が立ってこれを救いえようはずがありません。もし救いうるならば、彼は社会の力によって救うのではありません。社会以上の力、すなわち神の力によって救うのであります。ゆえに社会を救うに社会そのものに頼らなければならぬとならば、社会救済事業などということは、とうていできないことでございます。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

5月11日(木)

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。(創世記二・十九)

人は神にかたどりて造られし者なり。ゆえに彼は神の意匠を究むるの理解力を有す。神が天然物を造りたまいし目的の一つは、人知を発達鍛錬せんとするにありたり。神の造りたまいし物を究めて吾人の知能を研磨するは、吾人のまさになすべきことなり。神はその造りたまいし獣と鳥とを率い来たりて、これをアダムに示し、彼をしてこれを学ばしめたまいしとなり。よって知る、博物学の研究は人類が創造の初めにおいて、神よりただちに示されしものなることを。神の造りたまいしものを直接に神より受けてこれを学ぶ。神を知り、真理を究むる方法にして、何ものかこれにまさるものあらんや。博物学は人類最初の学問なり。獣を分類すること、鳥を説明すること、これアダムの受けし教育なりき。美わしきかな天然学、害なくして益多く、天然をとおしてただちに天然の神に達す。来たれ、人よ、来たりて森に禽鳥の声をきき、出でて山に野獣の常性を学べよ。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」