一日一生(内村鑑三)「一日一生」(教文館)より

注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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一日一生(内村鑑三)

10月の終り

このほか、余になお聴かれざる祈祷がのこっている。しかし余は今やその聴かれんことをもって神に迫らない。余はその、彼が余をご自身に引きつけんとて設けたあまいし恩恵(めぐみ)の手段であることを知る。ゆえに聖父(ちち)のこの「愛の詐術(さじゅつ)にあざむかれずして、これによってより大なる恩恵にあずからんとする。余に聴かれざる祈祷のあるは、神が特に余を愛したもうもっとも確かなる証拠である。さいわいなる者とは神にことごとくその祈祷を聴かれたる者ではない。そのもっとも祈求(ねがう)ところのことを聴かれないものである。モーゼはかかる者であった。エレミヤもかかるものであった。パウロもかかる者であった。イエスご自身がかかるものでありたもうた。
 さらばわれ何をか恐れん。わが祈祷の聴かれざるがために神を恨まず、また彼の恩恵を疑わない。かって英国の貴婦人某、一年の間に相次いで五人の子女を失い、苦闘悪戦の後、ついに懐疑の悪魔に打ち勝ち、凱旋(がいせん)の声を挙げて言うた、
  神はやはり愛なり
と。われもまた彼女にならい、われらの祈祷の聴かれざるたびごとに、いよいよ深く神の愛なることを識るべきである。 (「聴かれざる祈祷」)



10月の初め

彼らはいう。わらは罪人(つみびと)なりと。われはまことに罪人なり。われはイエスを仰ぎ望む。
彼らはいう、われは偽善者なりと。あるいはしからん。われはイエスを仰ぎ望む。
彼らはいう、わらは見るに醜し。交(まじわ)るに快(こころよ)からず、無礼なり、傲慢なり、過度に独立なりと。われはしかあるを悲しむ。これことごとくわが過失(あやまち)にあらず。われはイエスを仰ぎ望む。
われはイエスを仰ぎ望む。彼はわれなり。われは彼なり。世人(ひと)と教会とをして、われらについてその言わんと欲するところを言わしめよ。われはもはやわれにあらず。「今われ肉体にありて生けるは、われを愛してわがために己をすてし者、すなわち神の子を信ずるによりて生けるなり」。しかして、われ聖書の言を引いて自己を弁明するがゆえに、教会はわれはまことに偽善者なりと言う。われは面(かお)を教会より背(そむ)けてイエスを仰ぎ望む。

10月31日(火)

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。(テサロニケ第一書五・九〜十)

キリストはわれらの義であり、聖であり、贖(あがない)である。わが道徳であり、宗教であり、救いである。キリストにありて、神に対してわがなすべきことはすべてなされたのである。われらはわが不義のこのまま、キリストを信じて、神の義(ただ)しき者として、彼の前に立つことができるのである。われはわが汚(けが)れのまま、キリストを信じて、神の聖き者として彼の前に立つことができるのである。われはいまだ救われたる者にあらずといえども、キリストを信じて、すでに救われたる者として神に取りあつかわるものである。完全なる救いは神より出でて、信仰によりてわがものとなるのである。これユダヤ人にはつまずくもの、ギリシャ人には愚かなるものである。されど召されたる者には最大の真理、最高の哲学である。

10月30日(月)

もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主は天を造られた。誉と威厳とはその前にあり、力と喜びとはその聖所にある。もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。(歴代志上十六・二十六〜二十八)

神が人より信仰を要求したもう理由はよくわかる。神は己に関する人の穿鑿(せんさく)を恐れて、彼より信仰を要求したもうのではない。至誠なる彼は、人が至誠をもって彼に近づくにあらざれば、その人を恵むことができないからである。神と人との関係は、父と子との関係である。しかして父子の関係は、世のいわゆる研究的態度ではない。相互的信頼である。すなわち子の側よりしては、父に対する信仰である。懐疑という他人行儀をもって己れに対する子に対しては、父は教えんとするも教うることができない。恵まんと欲するも恵むことができない。

10月29日(日)

神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言(みことば)を宣(の)べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それに励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勤めなさい。(テモテ第二書四・一〜二)

救済(すくい)の第一期は自己(おのれ)を救うことであります。その第二期は世を救うことであります。自己を救わずして他人をすくわんとするは、無益の労であることはいうもでもありません。しかしながらいつまでも自己の救済の事のみ心配して、他人を救わんとせざる者は、ついには自己の救済までも危うくするものであります。救済は永久の事業であります。これは万民が救われるまでは止むべきものではありません。われは救われたれば安心なりとて、万民の救済に心を配(くば)らざる者は、彼の救済は半ばにして尽(つ)き、彼はやはり救われざりし時と同じやうに沈淪(ほろび)に行く者であります。わたくしは固(かた)く信じて疑いません。神はわたくしどもだけを救わんがために、わたくしどもにその救済を垂(た)れたまわざりしことを。神はわたくしどもをもって世を救わんがために、わたしどもを救いたもうたのであります。


10月28日(土)

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿がみえなくなった。彼らは互いに言った、「道々お話になったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」。(ルカ伝二十四・三十〜三十二)

余は聖書は神の言(ことば)であると信ずる。これにくらぶべき書は、宇内(うだい)万巻の書中、一もないと信ずる。余は聖書によるにあらざれば、人類はとうてい神の聖旨(みむね)を悟ることができないと信ずる。余は人の救いなるものは、聖書の研究と離るべからざる関係をもつものであると信ずる。余はもし人ありて、余に世界億万の書中ただ一書をえらべというならば、余はキリスト教の聖書をえらぶ者である。聖書はまことに世界唯一の書である。聖書はまことに神の書である。もし人類の有するものの中でもっとも貴いものは書物であるというならば、聖書は書物中でもっとも貴いものである。

10月27日(金)

さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。(ヨハネ第一書五・二0〜二一)

真理は事にあらず、人なり。哲理にあらず、宗教なり。教義にあらず、人格なり。絶対的真理は主イエス・キリストなり。彼に聴き、彼にならい、彼を信じて、われらに真理と生命(いのち)とあり。彼においてこれを求めずして、宇宙においてこれを探らんと欲するがゆえに、世は永久に真理を見出すあたわざるなり(ヨハネ伝十四・六)

10月26日(木)

律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵もまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。(ローマ書五・二十〜二十一)

われらキリスト教信者は、ある明白なる者を望まずして、この世におけるわれらの戦闘をつづける者ではない。漠(ばく)たる理想は、われらの眠れる眼を醒まし、われらの沈める心を振るい起すにたりない。われらはある確実なる目的物に向けずして、われらの信仰の矢を放つ者ではない。形もない実質もない希望は、希望にして希望でない。われらの信仰の冷える時は、われらの希望の朦朧(もうろう)となる時である。そうして形なき、実質なき、とりとめのなき希望は、ただちに信仰の冷却を来たすものである。物質的ならんことを恐れて、われらの希望を理想化し去らんとする時に、つねにこの信仰の冷却が来たる。キリスト教が世を醇化(じゅんか)するに非常の能力(ちから)を有する理由は、その供する未来の希望の明瞭確然たるにあると思う。

10月25日(水)

主よ、あなたの幕屋(まくや)にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。直(なお)く歩み、義を行い、心から真実を語る者。(詩篇十五・一〜二)

正義は正義なり。正義は事業よりも大なるものなり。いな、正義は大事業にして、正義を守るにまさる大事業あるなし。人生の目的は事業にあらざるなり。事業は正義に達するの道にして、正義は事業の侍女handmaidにあらざるなり。教会も学校も、政治も殖産も、正義を学びこれに達するための道具なり。現世における事業の目的は、事業そのもののためにあらずして、これに従事する者のこれによりてうる経験、鍛錬、忍耐、愛心にあるなり。キリスト教は事業よりも精神を貴ぶものなり。そは精神は死後永遠まで存するものにして、事業は現世とともに消滅するものなればなり。

10月24日(火)

わたしは彼らを陰府(よみ)の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか。死よ、おまえの災(わざわい)はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか。(ホセア書十三・十四)

  七歳の少女を失い、彼女の未来について憂慮をいだける彼女の父に書き送りし書簡の一節
人の来世問題については種々の難問題これ有り候。これを満足に説明しうる者は、世界中ひとりもこれ無きことと存じ候。されどもわれらはこのことを知る、すなわち神は愛なることを。しかして愛なる神は、決してわれらの愛する者を来世においても悪しきに扱いたまわざることを。キリストは万民のために死にたまえりと聖書に記しあれば、キリストの贖罪(しょくざい)の功徳(くどく)にあずかりえざる者とては、宇宙間一人もなきことと存じ候。聖書の教うるところは、詮(せん)ずるところ、これのみと存じ候。すなわち神は愛なりとのことと存じ候。

10月23日(月)

あなたの目は、まっすぎに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪からはなれさせよ。(箴言四・二十五〜二十七)

進め。どこまでも進め。前途を疑懼(ぎぐ)せずして進め。倒るるも退(ひ)くなかれ。明日(あす)は今日より完全なれ。明年は今年よりもさらに一層勇壮にして、快活にして、謙遜にして、独立なれ。進化の宇宙に依存して、退く者は死する者なり。安全は退きて求むべきものにあらずして、進みて達すべきものなり。歓喜(よろこび)と満足とは前にありて、後(うしろ)にあらず。臆病者には平和あるなし。進め、どこまでも進め。 

10月22日(日)

なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。そうしてあなたがたは、多くの艱難の中で、聖霊による喜びをもって御言(みことば)を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、こうして、マケドニヤとアカヤといる信者全体の模範になった。(テサロニケ第一書一・五〜七)

人世に処するクリスチャンの心とは何であるかというに、いうまでもなく、肉に死し、霊に生くることである。すなわち自己なる者を神の聖霊の働きによって消すことである。わが心の中心点にこの歓喜と満足と平和が臨んで、われはわが周囲の人々にまでも暗黒を照らす燈台となり、われ自身が幸福なる者となるのみならず、わが周囲の人々までがわれより幸福を受くるに至るのである。幸福なる家庭も、社会も、かくのごとくにして成るのである。われら各自が幸福の燈火(ともしび)となり、泉源(いずみ)となるまでは、いつまで待っても幸福なる家庭と幸福なる社会とはできない。

10月21日(土)

けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(ヨハネ伝十六・十三)

聖書は神のことを書いた書でありますから、もちろん神以下のものを標準として読むことはできません。しかし神について書いたものですから、神そのものではございません。それゆえに聖書をほんとうに読もうと思えば、われわれは直接神の感化を受けねば成りません。神は聖書より大なるものであります。ゆえに聖書にかいてないことをも、神はわれわれの心に告げたもうことがございます。われわれはまず直接神より聞かねばなりません。われわれの真正(まこと)の教師はイザヤやヨハネやパウロではなくして、天の神、彼ご自身であります。まず祈祷をもってただちに神の言辞(ことば)を心にうけませんならば、われわれは聖書はすなわち神の言(ことば)であるということがわかりませんん。

10月20日(金)

だれでも受ける訓練があなたがたに与えられないとすれば、ほんとうの子ではない。その上肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。(ヘブル書十二・八〜十)

人生の目的は神を識(し)るにある。「ただ一の真の神なるなんじと、そのつかわししイエス・キリストを識ること、これ永生(かぎりないいのち)なり」とイエスは言いたもうた(ヨハネ伝十七・三)。しかして艱難にしてもしこの目的を達するために必要であるとならば、艱難は決して災禍(わざわい)ではない。恩恵(めぐみ)である。しかしてヨブの場合において、艱難はこの祝すべき目的を達したのである。しかしてわれらの場合においても、また艱難によらずしてこの祝すべき目的は達せられないのである。イエスご自身が「苦難をもって完(まっと)うせられ」たのである(ヘルブ書二・十)。われらもまたイエスの苦難を受けずしては、彼のごとくになることができないのである。

10月19日(木)

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光ようになる。(イザヤ書三十・二十六)

宇宙は神の造りたるものである。しかして神はいまなお宇宙の中にありて、造化の活動を続けたもう。宇宙は完成されたるのもではない。ゆえに神の手を離れて独(ひと)りみずから発達することのできるものではない。また未完成の宇宙は、もって完全に神を顕(あら)わすにたりない。神は宇宙の中にありて働きたもう。しかし宇宙をもって尽きるものではない。宇宙は大なりといえども、神は宇宙よりも大である。宇宙はつねに神より力の注入をうけて、その成長発達を続くるものである。神は宇宙を綜合したるものではない。彼はそれ以上である。神は人類の友であると同時に、またその父である。ゆえに親しむべくして、また崇(あが)むべきものである。自然宗教の誤謬は、神を厳父として見てこれを遠ざくるにある。万有神教の誤謬は、神を兄弟と見てこれに狎(な)るるにある。されど唯一神教の長所は、彼を父と見、たた友と見て、彼を完全に解するにある。

10月18日(水)

初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。またイスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者はみな恥じをかき、あなたを離れる者は土に名をしるされます。それは生ける水の源である主を捨てたからです。(エレミヤ書十七・十二〜十三)

人は善悪を知るにいたって(すなわち知ると自ら信ずるにいたって)神のごとくなれり。すなわち神に依(よ)ることなくして万事を処理するにいたれり。しかして自立と同時に、彼は天与の自由を失えり。彼はいまは生命の樹に触るるあたわざるにいたれり。されど彼は彼の失いし自由を慕うてやまず。しばしば手を伸(の)べてこれを取って食わんとせり。あるいは彼の哲学をもって、あるいは彼の発明にかかる宗教をもって、彼は生命の樹の果実(み)を獲(え)んとせり。されども神の恩賜(たまもの)なるこの果実を、彼はいかなる手段をつくすも獲(う)るあたわず。彼の熱心、天を焦(こが)がすも、彼の深慮、地を穿つも、彼らは自らつとめて限りなく生くることあたわず。永生(かぎりなきいのち)は神の賜物なり。人のこれをぬすみ取らざるがために、神はまわる焔の剣をもって、これに達する道をふさぎたまえり。

10月17日(火)

妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかもしれないから。(コロサイ書三・十八〜二十一)

完全なるホームを作るは、完全なる人を造るがごとく難(かた)し。われまず完全ならざれば、わがホームの完全なる理由あるなし。「身、修まりて、しかして後、家、斉(ととの)う」。ホームはわれの平安をもとむるところにあらずして、平安を与うるところなり。ホームは幸福の貯蔵所にして、その採掘所にあらず。求めんと欲して成れるホームは、かならず破れん。与えんとして成れるホームのみ、幸福なるホームなり。ホーム、ホーム。いくたの青年男女がその幻影にあざむかれて、失望島海岸に破船せしや。詩人ヴァージルの牧者は「愛」と相い識(し)って、その岩石なるを知れりと。世に理想的ホームを造りえずして失望するもの多きは、ホームをもって客観的楽園とみますもの多ければなり。

10月16日(月)

彼は人々の前に歌って言う。『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。しかしわたしに報復がなかった。彼はわたしの魂をあがなって、墓に下らせられなかった。わたしの命は光を見ることができる』と。見よ、神はこれらすべての事をふたたび、みたび人に行い、その魂を墓から引き返し、彼に命の光を見させられる。(ヨブ記三十三・二十七〜三十)

信者は自身で豁然と彼の死期を定むることはできない。彼ははたして彼の天職をなしとげしや、いなや。また彼ははたして天国に入るの準備を完成せしやいなやを確定することはできない。しかしながら彼は神は愛なりと信ずる。彼は彼の神が、死すべき時に彼をして死なしめたもうことを信ず。すなわち恩恵(めぐみ)の手のうちに導かれ来たりし彼は、死すべき時なれでは死せず、またかれの死する時は彼の死すべき時であることを信ず。神により頼む彼は、万事を彼に任(まか)し奉るのである。まして人生の最大事たる死においておや。彼の生涯の指導において誤りたまわざりし彼の神は、彼の生涯の最大事件なる死の時期をえらぶにおいて、決して誤りたまわないのである。

10月15日(日)

また杯(さかずき)を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」。(マルコ伝十四・二十三〜二十四)

なんじなおわれに問うていわん「何故に神はみずから苦しまざれば人を救うことあたわざるか」と。余はなんじに問わん「何故にハワードは彼の英国の寓居を安居して、欧州の監獄を改良しあたわざりしか。何故にリビングストンは彼の故国において、黒人のために熱心なる祈祷をささぐるのみにて、アフリカを救いざりしか」と。罪を贖(あがな)わずして罪を救わんとするものは、貧者に食と衣とを与えずして、なんじ、安然なれというものなり(ヤコブ書二・十五〜十六)。行(おこない)なき信仰は死せる信仰なるがごとく、贖わざる罪の赦(ゆる)しは虚言なり。キリストの十字架は神愛の実証なり。

10月14日(土)

エレミヤがなお監視の庭に閉じ込められている時、主の言葉はふたたび彼に臨んだ、「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる。わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。(エレミヤ書三三・一〜三)

預言は歴史観である。世はいかに成り行くものであるか、神はいかに人類を処分したもうか、その事を語るのが預言である。しかして聖書に特別の歴史観があるのである。まことにこの歴史観があればこそ、聖書はできたのである。聖書は歴史である。しかも単に過去を語る歴史ではない。過去、現世、未来をとおして、一貫する宇宙人類にかかわる神の聖謨(せいぼ)の実現について語る歴史である。もっとも興味ある歴史である。しかも普通の歴史と全然趣を異(こと)にする歴史である。信仰の眼をもってするにあらざれば解する能わざる歴史である。ゆえにその正解は神の指導を要するのである。しかしてこの指導の任にあたりし者が神の預言者である。

10月13日(金)

愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。(ヨハネ第三書二)

奇跡を信じて、わたくしどもは大胆に大事にあることができます。これによって、わたくしどもは自己の能力(ちから)を計らず、もし正義であり大道であると信じますれば、臆せず恐れず、その実行をもって自ら任ずることができます。奇跡の神を信じて、不可能事はわたしどもの念頭に全くなくなります。わたしどもはまず神意のあるところを探れば、それで問題は尽(つ)きるのであります。あとは能力の問題であります。そうして能力は、わたくしどもはこれを奇跡の神に仰ぎます。世界の偉人とは、みなこの一種の「迷信」を持った者であります。彼らはみな「神もし我とともにあらば、われ何をかなし得ざらんや」との奇跡の信仰をもって、彼らの大任を担うたものであります。

10月12日(木)

わたしたちは、御子(みこ)にあって、神の豊な恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟(さと)りとをわたしたちに賜り、御旨(みむね)の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。(エペソ書一・七〜九)

わたくしども自身の実験に照らして見ましても、また他人の実験について考えてみましても、またキリスト教全体の歴史より推して見ましても、霊魂救済のことは、これは天然以上、人力以上の事業であります。われら人間はこのことの前に立ちて、ただ口をつむいで驚くのみであります。わたくしどもはもちろん、予定の論理を充分に攻究することはできません。しかしながらここに述べしような自他の実験によって、その決して拠(と)るところのない教義ではないことを悟(さと)るのであります。

10月11日(水)

一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。神がその中におられるので、都は揺るがない。神は朝はやく、これを助けられる。(詩篇四六・四〜五)

すなわち知る、神は大風を使いたもうも、大風の如きものにあらざることを。裂きて砕くは彼の喜びたもうこころにあらず。彼はまた地震のごときものにあらず。震(ふる)いて恐れしむるは彼の好みたもうところにあらず。主はまた火の如き者にあらず。焼きて尽くすは彼の求めたもうところにあず。彼は静粛を愛したもう。彼の玉座(くらい)は万有静寂の中にあり。彼の声は洪波(こうは)のごとくならず、細流の如し。彼はほえたまわず。ささやきたもう。静寂の中に細き声を聞きて、われらはそのまことに神の声なるを知るなり。


10月10日(火)

わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売り物にせず、真心(まごころ)をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。(コリント第二書二・十五〜十七)

キリスト教の伝道は表白であります。これは「なんじ、罪を悔い改めよ」というのではなくして、「われらわが神の恩恵(めぐみ)によりてかく成るをえたり、われらはなんじにこのことを知らせんと欲す」ということであります。そうして有力なる伝道は常にかかる伝道であります。パウロの伝道がかかる伝道であったことは、彼が幾回となく彼の改信の実歴を彼の聴衆の前に述べたことが聖書に記してあるのでわかります。そうしてこのことはまた、彼の書簡が訓誠的でなくして、自己発表的であるのでもよくわかります。神学研究はいかにその蘊奥(うんおう)に達するとも、キリスト教の伝道師を作りません。世に示すべき心霊的実験の事実を持たないものは、伝道師として世に出てはならないと思います。

10月9日(月)

イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣(ころも)を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(使徒行伝一・十〜十一)

再来は再顕の意あり。ギリシャ語のアポカリプシスも、英語のレベレーションも共にこの意を示す。キリストいまは天の高きにいまして、後に天の万軍を率いてふたたびわれらの間にくだり来たりたもうにあらず。キリストはいますでにわれらとともにありたまいて、後の日に至りその体を顕したもう。「われは世の終りまでつねになんじらとともにあるなり」と彼は言いたまえり。キリストの再臨は世の終局の出来事なり。しかして万事万物は、すべてことごとくこの喜ぶべき最終の出来事に向いて進みつつあるなり。われらが日々キリストの再顕を待ち望は、その時々刻々とわれらに迫りつつあるを知ればなり。われらすでにキリストのものとなりて、全世界の出来事はこぞってわれらを希望の域に向け進みつつあるなり。


10月8日(日)

神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。(ヘブル書四・十二)

聖書は道徳の書ではありません。聖書は人が本源なる神に至るの道を示す書であります。ゆえにその人の道徳の程度にしたがって神の聖意(みこころ)を彼に伝うるものであります。聖書に奴隷を廃止せよとは書いてありませいん。しかし聖書は人が神の子たることを教えて、奴隷制度の土台をこわしました。聖書は戦争の廃止を強(し)いません。しかしながら聖書は人命の貴重なる理由を教えて、戦争をして有るべからざるものとなしつつあります。聖書は道徳の原理を教えます。その形式を教えません。そのことそれ自身が聖書が神の言(ことば)たる証拠となるではありませんか。

10月7日(土)

助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。(ヨハネ伝一四・二六)

キリスト教をただ学んだとて、それでその教理より力をうることはできない。哲学的にいくら深く研究しても、キリスト教は仏教、儒教と多く異なるところはない。キリスト教をしてその大功を奏せしめんと欲せば、これをその創造者なる神によって学ばなければならない。すなわちキリスト教の真理と共に、神の聖霊を仰がねばならない。キリスト教を活かすのも、殺すのも、全く聖霊の力によるのである。


10月6日(金)

イスラエルは、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。(出エジプト記十四・三十一)

歴史家はいう、昔時のエジプトにすべての文物はそなわっておった、ただ一つ無いものがあった、それは個人の自由だったと。まことにそうであった。エジプトのみならず、バビロンにおいて、アッシリアにおいて、印度において、支那において、しかり、東洋全体において、すべての文物はそなわってあったが、個人の自由のみなかった。しかして自由はエジプトにおいて、イスラエルをもって始まったのである。ここにはじめて神政は創(はじ)まり、まことにモーゼは世界最初の立憲的政治家である。彼によって、イスラエルの子孫のみならず、人類ははじめて自由の首途(かどで)についたのである。

10月5日(木)

まちがってはいけない。神は侮(あなど)られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈りとることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。(ガテラヤ書六・七〜九)

求むべきものは成功にあらずして正義なり。避くべきものは失敗にあらずして罪悪なり。正からんと計るものは、敗(やぶ)るるも成らん。功を遂げんと欲するものは、身を汚辱の淵に沈むるの危険はなはだ多し。ゆえにもし計画すべくんば正義を計画せよ、成功を計画するなかれ。

10月4日(水)

わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。(詩篇一二一・一〜二)

われ時にわが眼を挙(あ)げて援助(たすけ)を求む。ひとり心に問うていう、わが援助は何処(いずこ)より来るかと。しかし、わが援助は政府より来たらず。教会より来たらず。はたまたわが修養よりも、信仰よりも来たらず。わが援助は主より来る。宇宙を造りたまえる主より来る。わが援助は人より来たらず。また自己(おのれ)より来たらず。外より来たらず。衷(うち)より来る。しかもわれならざる衷より来る。天地(あめつち)を造りたまいて、しかもわが霊に宿りたもう神より来たる。ゆえにわれは人に対して独立なり。されども自己によらずして他者に頼るわれは強し。されども誇るをえず。わが援助を主に仰いで、われは謙(へ)りくだりて強健なるをうるなり。

10月3日(火)

「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。(マタイ伝九・一三)

人の救わるるは行為(おこない)によるにあらず、信仰によるなり。信じ難き神の絶大の愛を信ずるによるなり。神が義人(ただしきひと)を救いたもうとは、何人を信ずるに難しとせざるところなり。されども彼がみずから進んで罪人と和(やわ)らぎ、その罪を除き、これを彼の子となしたまえりと聞きて、われらはその愛の、人すべて思うところに過ぎて、信ずるにもっとも難きを覚ゆるなり。まことに信じがたきは、水を酒に化し、死者を甦(よみがえ)らする物理的の奇跡にあらず。罪人の罪を除き、これを罪として認め給わず、これに代えて聖(きよき)心を与えたもうとの愛の奇跡...信じ難きはまことにこの奇跡なり。しかも神の愛とはかかる愛なり。しかしてわれらはこの愛を信じて救われるなり。福音はこの愛を伝うるものなり。信者はこの愛を信ずるものなり。わが平安はここにあるなり。わが安全はここにあるなり。われは世が評してもって厚かましいと称するまでに神の愛を信じ、神の子たるの資格をわれに獲得せんとするものなり。


10月2日(月)

ああ、わたしの幼(おさ)な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産(うみ)の苦しみをする。(ガラテヤ書四・十九)

キリスト教はキリストの教えたもうた道徳ではない。またキリストの建てたもうたる教会でもない。またキリスト教の聖書の中にふくまれてあるところの人生哲学でもない。キリスト教はまた慈善事業ではない。社会改良ではない。伝道、政治、教育ではない。これらはみな外面に顕われたるキリスト教の諸方面であるが、キリスト教そのものではない。キリスト教はキリストである。父の右に坐して宇宙を統(す)べたもう活(い)きたるキリストである。彼の神性、彼の神能、彼の神知そのものである。キリストは霊的宇宙である。かれご自身がキリスト教の本源であって、またその終極である。その外面であって、またその内容である。その祭司であって、またその礼物(ささげもの)である。その律法(おきて)であって、またその実行である。彼にあって完全なる宗教はある。かれご自身が神であって、また神を拝するためのただ一つの神殿である。

10月1日(日)

目の光は心を喜ばせ、よい知らせは骨を潤(うるお)す。ためになる戒めを聞く耳をもつ者は、知恵ある者の中にとどまる。教訓を捨てる者はおのれの命を軽んじ、戒めを重んじる者は悟りをえる。(箴言十五・三十〜三十二)

秋は来たれり。われは聖書に帰らん。地の書にあらずして天の書なる聖書に帰らん。肉の書にあらずして霊の書なる聖書に帰らん。教会の書にあらずして人類の書なる聖書に帰らん。しかも自由の精神をもってこれに帰らん。学者の態度をもってこれに帰らん。しかして神と自由と永生とについてさらにすこしく知るところあらん。

9月初め

人は一人もこれを信ぜざるも、わが福音は真理なり。人はことごとくこれを棄却するも、わが福音は真理なり。人はこぞってそのためにわれを排斥するも、わが福音は真理なり。わが福音は人の福音にあらず、神の福音なり。ゆえにわれは彼に拠(よ)り、独(ひと)り終るまでこれを保持せんと欲す。

9月30日(土)

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておれれるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きているのである。(ガラテヤ書二・二十)

クリスチャンはその信仰的実験によって、聖霊は主イエス・キリストであることを知る。かれらにとりてはキリストは故人(こじん)ではない。すなわち単に歴史的人物ではない。彼はいまなおいましたもう者である。彼はすなわち黙示録記者のいわゆる「今いまし、昔いまし、後います者」である。クリスチャンが他の宗教信者とその信仰を異にする点はまったくここにある。彼らは死せる昔の英雄を慕う者ではない。いま存在する主に仕うる者である。彼はまことにいまある葡萄の樹であって、われらはその枝である。われらは彼を離れて存在する者ではない。キリストと信者とのこの個人的関係、これがキリスト教の特徴である。これなくして、聖書も神学も教会も教義もなんでもない。しかしてこれありて、すべてがあるのである。

9月29日(金)

また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると、岸に引き上げ、そしてすわって良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。世の終りにも、そのとうりになるであろう。すなわち、御使いたちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げ込むであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。(マタイ伝十三・四十七〜五十)

咲く花は多し、実となるはすくなし。実となるは多し、熟するはすくなし。わが霊(たま)、なんじの伝道もまたかくのごとし。聞く者は多し、信ずる者はすくなし。信ずる者は多し、救わるる者すくなし。天然の法則はまた神の聖旨(みむね)なり。なんじは「伝道の失敗」をとなえて、なんじの心を悩ますべからざるなり。

9月28日(木)

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ伝六・三十三)

人の栄誉として、彼はもっとも高きもの、すなわち神をもってするにあらざれば満足するあたわざるなり(ビクトル・ユーゴの語)。しかしてわれはこの最上の食物と飲物とを有す。われはじつに足れるものにあらずや。いかなる珍味といえども、純白なる良心にまさるものあらんや。罪より赦されし安心、神を友として持ちし快楽、永遠(とこしえ)の希望、聖徒の交際...。われは世の富める者に問わん、君の錦衣、君の荘屋(そうおく)、君の膳の物、君のホーム(もしホームなるものを君も有するならば)は、この高尚、無害、健全なる快楽を君に与うるやいなや。医者はいわずや、快楽をもって食すれば粗食も体を養うべけれども、心痛は消化を害し、滋養品もその効を奏するすくなしと。真理(まこと)は心の食物なり。また身体(からだ)の食物なり。われの滋養は天より来るなり。浩然(こうぜん)の気はまことに不死の薬なり。貧しき者よ、喜べ、天国はなんじのものなればなり。

9月27日(水)

主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備(そな)え、もろもろの山に草をはえさせ、食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。主はおのれを恐れる者とそのいつくしみを望む者とをよみせられる。(詩篇百四十七・八〜十一)

死者の復活のみ大能の証明にあらず。五穀の豊熟もまた異能(ふしぎなちから)のしるしなり。バルナバとパウロ、ルカオニヤの人に告げていわく「神はなんじらを恵みて天より雨を降らせ、豊穣(ゆたか)なる時を与え、糧食(しょくもつ)と喜楽(よろこび)をもってなんじらの心を満たしめ、もって己れみずから証したまえり」と。今や金波稲田になびき、玉粒香穂に垂る。なんぞ秋郊に福音に接して、罪を悔いて父に帰らざる。

9月26日(火)

わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかったいることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。(ピリピ書一・三〜六) 

信者は神の僕であると同時に、また神の愛子である。ゆえに神は彼が成熟して天国の市民たるの資格をそなうるまでは、彼をこの世より召したまわないのである。信者はこの世にあるは、瑕(きず)なき汚(しみ)なき者となりて主の台前(みまへ)に立たんとするその準備をなさんがためである。しかしてこの準備の成るまでは、彼はこの世を去らんことを欲せず、しかしてまた神は彼をして世を去らしめたまわないのである。されども準備はすでに成り、彼の新郎(はなむこ)たる小羊を迎うるの修飾(かざり)整(ととの)いし暁(あかつき)には、彼はいつこの世を去りてもよいのである。問題は長寿、短命のそれではない。完備、不備のそれである。新郎を迎うるの準備成りて、新婦(はなよめ)は一刻も早く彼の懐(ふところ)におもむきたくおもうのである。

9月25日(月)

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や収税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、彼は収税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いていわれた「丈夫な人には医師はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪びとを招くためである」。

わがうちに大なるものあり。ヒマラヤ山あり、アマゾン河あり、太陽系あり、オリオン星あり。わがうちに小なるものあり、石竹あり、雛菊あり、おだまきあり、りんどうあり。
我は雄大なるものと繊美(せんび)なるものとを愛す。神と小児とを愛す。キリストと罪を悔やめる罪人(つみびと)とを愛す。その他を愛す。


9月24日(日)

新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声あげて巧(たく)みに琴をかきならせ。主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。(詩篇三十三・三〜五)

洗礼を受けてのち十数年、種々の馬鹿らしき経験と失敗の後、天賦の体力と脳力とをものにもあらぬもののために消費せし後、余は余の罪のありのままにて、父の慈悲のみを頼みとして父の家に帰り来たり、理屈を述べず、義理を立てず、ただ余の神が余のために世の初めより供えたまいし神の小羊の贖(あがな)いに頼らざるをえざるに至れり。ああ神よ、余は信ぜざるをえざれば信ずるなり。イエス・キリストの十字架のゆえに、赦すべからざる余の罪をゆるせよ。余はいま、なんじに献ぐるに一の善行あるなし。余を義とするために一の善性の誇るべきなし。余の献げ物はこの疲れはてたる身と霊魂となり、この砕けたる心なり。

9月23日(土)

わたしたちにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方が、はるかに
望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。(ピリピ書一・二十一〜二十四)

肉体は一種の牢獄である。その中に宿るは一種の禁錮である。しかして死によって霊は肉の束縛より脱するをえて、その禁錮を解(と)かるるのである。肉にやどる間は人に完全なる自由はない。いかなる憲法の保証をもってしても、彼に完全なる自由を供することはできない。束縛は肉ありてのゆえの束縛である。肉を離るるまでは霊に完全なる自由はないのである。ゆえにいう「生は桎梏(しっこく)にして死は解脱(げだつ)」と。死は最大の解放者である。肉の奴隷は死によってはじめて自由の天地に出づるのである。ゆえに真の自由を愛するものは、ワシントン、マッチニ、リンコルンらが自由を迎えし心をもって死を歓迎するのである。

9月22日(金)

わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧(たく)みな作り話しを用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。イエスは父なる神からほまれと栄光をお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中からつぎのようなみ声がかかったのである。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。わたしたちもイエスと共に山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。(ペテロ第二書一・十六〜十八)

世間一般の人のいうように、奇跡は全くないものとすればいかがですか。これは宗教上の信仰をその根本(もと)より破毀することであると思います。宗教が世に存在する理由は、すなはちわたしどもがこれを要求するの理由は、その中に超自然的、超人間的の勢力があるからでございます。もし自然以上にわたしどもの頼るべき勢力がないとすれば、わたしどもは科学をさえ研究すれば、別に宗教を学ぶの必要はございません。もしまた人よりほかに頼るべき存在がないとするならば、わたくしどもがいかほど人の世の無情を唱えても無益のことであります。人の天性がおのずと宗教を要求する所以は、彼におのずと超自然的の勢力、すなはち奇跡のあることを信ずるの本心があるからではございませんか。



9月21日(木)

知恵ある者はだれか。その人にこれらのことを悟(さと)らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪人はこれにつまずく。(ホセア書十四・九)

世の賎しむべき者として冷脳冷知の哲学者のごときはない。彼は万事を弁(わきま)えるがゆえに、つねに安全の道をとりて危険に臨まない。彼は熱心を賎しみ、極端を嘲る。彼は独り高きに坐して、人類の罪悪に沈むを憐れむ。しかして自ら低きに下りて彼らを助けんとはせず、ただ冷然批評して彼らの愚を笑う。されども主の神は哲学者ではない。彼は時には熱心に駆(か)られたもう者である。彼は全知であると同時に全愛である。しかして愛は知よりも大にして力強きがゆえに、主にありても愛はしばしば知に勝ことがある。そうして神がもっとも貴く、もっとも神々(こうごう)しく顕われたもう時は、彼の愛が彼の知恵に越ゆる時である。神の小なるものが人であるごとく、人の大なるものが神である。神においても人におけるがごとく、情は知恵以上の勢力である。この奥義をよく伝えたものがルカ伝十五章の放蕩息子のたとえである。
ルカ伝十五章
…(略)…
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てなだめた。しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけにも背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた牛を屠っておやりになる。」すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」


9月20日(水)

「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家にかえれ」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐ床をとりあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。(マルコ伝二・十〜十二)

キリストはどういう人でありますか。キリストとは人の罪を赦すためにこの世にくだられた人であります。また罪を赦すとは、前にものべましたとおり、罪の念をわれらの心より取り払うことでございます。これは到底人間の能力(ちから)でできることではありません。もしここに誰か、わたくしが神に対して犯した罪を赦すという人がありますれば、わたくしはその人の僭越(せんえつ)をあざけります。人の罪を赦すうるものは、ただ神のみであります。キリストが神なりとのもっとも確実な証拠は、彼が人の罪を赦しうるとのことであります。ゆえにこの特権を有し居たまいしキリストが奇跡を行うことのできたのはもちろんで、奇跡をなしえないような救い主は、真正の救い主ではありません。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月19日(火)

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ書三・二十五〜二十六)

しかり、人は信仰によりてのみ義とさるるなり。儀式によるにあらず、血肉によるにあらず、位(くらい)によるにあらず、学識によるにあらず、行(おこな)いによるにあらず、ただ十字架の辱しめを受けしナザレのイエスを信ずるによるのみ。これ迷信のごとくに聞こえて、真理中の真理なり。人の経験中のもっとも確実なるものなり。われこの福音を信ずるは、聖書がかくいうがゆえにあらずして、われの全性がこれに応答すればなり。われの経験がこれを証明すればなり。歴史がこれを確(たし)かむればなり。自然がこれを教うればなり。しかり、信仰!信仰によらずして人の救われるべき道あるなし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月18日(月)

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。(詩篇一篇)

これ神の造りたまいし世界なり。悪人の思うままになるものと思うなかれ。神には神の計画あり。彼はこれを実行せざれば止(や)みたまわざるべし。吾人が悪人の成功を見て憤(いきどお)りかつ怨(うら)む所以(ゆえん)のものは、吾人が神を信ずることなおはなはだ薄ければなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月17日(日)

あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである。(コリント第二書一・二十一から二十二)

パウロのいわゆる「霊の質(かた)」とは、信者の復活体の始めであって、その核心とも称すべきものである。信者はこれを受けすでに復活体の元質を受けたのである。「霊の質」の成長発達したるもの、それが復活体である。復活体は死後において奇跡的に上より着せられるものではない。その元質は信者が信仰状態に入りしその時すでに与えられしものであって、死後にその完成に達するものである。かくして信者の復活は半(なか)ば未来の希望に属し、半ば既成の事実である。信者はすでに復活の元質をにぎる者にして、同時にまた主と共にその栄光をもって顕われんことを待つ者である。信者はその肉体においてすでに復活体の種子(たね)とその核心とを持つ者である。彼はいますでに復活されつつある者である。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月16日(土)

彼は、神に頼っているが、神のおぼしめしがあれば、今救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから。(マタイ伝二十七・四十三)

全輩はこの世の善人にして、よく己れを忘れて他人のために尽くせし人の、己れのために計ってははなはだ拙(せつ)、自家のために行ってははなはだ無能なるを見た。善人の善人たる所以(ゆえん)はここにある。すなわち、自己(おのれ)を他人のために消費しつくして、自己のためには何のあますところなきにある。ましてイエスにおいておやである。善人中の善人なるイエスが、人を救いて己れを救いあたわざるはあえて怪(あや)しむにたりない。もし彼が他をも救い己れをも救いえしならば、彼は神の子ではなかった。愛の化身(けしん)たりし彼は、他のために自己の能力(ちから)を使いつくして、自己のためにあますところがなかった。彼が大能なりしは、他を救う時のみであった。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月15日(金)

もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。(詩篇一四六・三〜五)

神の人モーセの墓を隠してこれを人に知らしめず、預言者エリヤを火の車をもって天に迎えし神は、ペテロ、パウロをも無名の所に無名の死をとげしめたまいしならん。二者ともにキリストの忠実なる僕(しもべ)、彼らのもっとも忌みきらいしところのものは、人に崇拝せらるることであった。神はすべてであって、人は皆無(かいむ)である。神の充実なるにくらぶれば、人は空(くう)の空なるものである。われら神を追い求むる者の眼には、人が大きく見えてはならない。


9月14日(木)

わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。(ガタテヤ書五・五)

信仰は信愛である。また信頼である。また信従である。嬰児(えいじ)の両親に対する態度である。ただまかせまつるのである。あえて自己(みずから)の義(ただ)しきを唱えない。あえて儀礼の正しきを求めない。己れまず潔うして、しかる後に神の受納にあずからんと欲しない。ただ信ずるのである。罪の身このまま無知無学を包まず、父 召したまえば、われは行く、と言いて畏(おそ)れずして彼に近づきまつるの態度である。他人は知らず。彼らは無謬(むびゅう)の教義を神学と、深遠なる聖書知識と、正統的伝説と、瑕(きず)なき制度と儀式とによりて神に近づかんと欲するならんも、われらは、われら同信の輩(やから)は、僧侶、教職,信条、儀礼等に何の関係もなきわれらは、ただ信仰によりてうんぬんとパウロは力説したのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月13日(水)

しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らしてくださったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(コリント第二書四・五〜七)

伝道問題が困難を告ぐるにいたるは、分与すべき霊の欠乏による。あたかも千万の餓鬼を養うにあたって、わずか数石の米麦あるのみの場合においてはこれに無味淡々たる水を加え、一椀の粥(かゆ)もこれを平等に分与するの難きを感ずるがごとし、世に快楽の業と称するものにして、ありあまるの財を貧者に施与するにまさるものあるなし。しかして伝道もし霊の分与ならば、何ものかこの快楽にまさるものあらんや。伝道の困難を訴うる者はよろしく一度これにかえりみて可(か)なり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月12日(火)

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義としれれないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現わされた。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって善とされるのである。(ローマ書三・二十〜二十四)

逆説のごとく見えて真理中の真理なることは、人はみずからつとめて善人たるあたわざるなり。罪によって孕(はら)まれ、罪の中に生長せし人が、自己(みずから)の努力にのみよって罪より脱せんとするは、泉が水源より高く昇らんとするがごとく、水夫が風に頼らずして意志の動作にのみよりて船をやらんとするがごとく、望むべからざることなり。われらの救いはキリストにおいて神につながるるより来るものなり。しかしていかなる理由のその中に存するにもせよ、福音的キリスト教の確信として動かすべからざることは、キリストの生涯と死とは救霊上必要にして、キリストによらざれば人は神と一体なることあたわず、また彼が神に対して犯せし罪の赦さるることなしとのことこれなり。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月11日(月)

しかし、御霊の実(み)は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。(ガラテヤ書五・二十二〜二十五)

クリスチャンの善とはどんなものであるかというに、それは聖霊によってふたたび生まれたる者のみ為(な)しうる善である。すなわち性来の善ではなくして、キリストをとおして聖霊によりてなさるる善である。これは自己(おのれ)の霊より出づる善ではあるが、しかし自己以上の実在者によりて注入せらるる善である。すなわちこれをなす者が「我が善なり」と言いて誇ることのできない善である。すなわち自己は生まれながら悪しき性質のものであるにかかわらずなしうる善である。また世より制裁を加えられずとも、良心に責められずとも、うちなるキリストの愛に励まされてなしうる善である。これじつに一種特別の善である。おのれキリストを知らずしては、知ることのできない善である。

9月10日(日)

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩篇十九・一〜四)

秋は豊熟の期にして謝恩の節なり。盛夏酷熱の鍛錬と苦悶とを終えて、万物ひとしく平安安息につくの時なり。池水の滑らかなる、烟雲の幽かなる、落葉の紅なる、果物の豊満なる、一として平和満足を示さざるはなし。清流に臨みて満腔の感謝を天に捧ぐるの時、樹蔭に逍遥して劫遠(こうえん)の希望を想うの時は、実に寰宇(かんう)秋天の静けさを帯び、万物調和して混乱の跡を留めざる時にあり。我国の歌人が疎柳(そりゅう)蟋蟀にのみ意を留むる多くして、碧空清気に思いを寄する者少なくなきは、日本詩歌の一大欠点といわざるをえず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月9日(土)

しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストのこられるのを、こられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身にしたがわせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(ピリピ書三・二十〜二十一)

誰か彫刻師がいまなお鑿(のみ)をもって大理石を刻みつつある間に、彼の未製品を批評してその欠点をあぐる者あらんや。美術家の理想と伎倆(ぎりょう)とは、その仕上げたる美術品において現れるのである。万物の造り主にしてわれらの救い主なる神においても同じである。宇宙は未製品である。われらも未製品である。われらは神の子ととなえらるるも、いまもなお罪を繰り返してやまざる者である。ゆえに世はわれらの信者たるを疑い、またわれらの信仰を嘲(あざける)るのである。しかしながらわれらは神の子ととなえられて、完全に達するの資格を授けられたのである。しかしてわれらの救い主が栄光をもってふたたび顕われたもう時に、その時に、われらは彼が完全(まった)くあるがごとく、完全くなることができるのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月8日(金)

しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけでなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。(ローマ書四・二三〜二五)

聖書にいわゆる「罪」とは反逆である。ゆえにそのいわゆる「義」とは何であるかがわかる。罪とは反逆であるがゆえに、義とは帰順である。すべての罪は反逆より来たり、すべての徳は帰順より生ず。義とせらるるとは単に義と宣告せらるることではない。子とせらるることである。ふたたび子として神に受けいれらるることである。人は神にそむいてすべての不義に陥りしがごとくに、神に帰りてすべての徳に復するのである。聖書の示すところによれば、罪も徳も神に対せずしてあるものではない。神を離れて罪があり、神に帰りて徳がある。宗教は本(もと)にして、道徳は末である。人類は罪を犯ししがゆえに神を離れたのではない。神を離れしがゆえに罪を犯すのである。そのごとく、徳を建てて神に帰るのではない。神に帰りて徳を建つることができるのである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月7日(木)

わたしはあなたの額(ひたい)を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。(エゼキエル書三・九)

鉄面皮は悪いことである。鉄面皮はまた善いことである。恥に対する鉄面皮、義と情とに対する鉄面皮は悪いことである。しかし不義にたいする鉄面皮、ことに権力による不義と圧制と暴虐とに対する鉄面皮は、善いことにして、賞すべきことである。そうして神と正義とのためにつくさんと欲する者には、この種の鉄面皮がなくてはならない。正義は美(うる)わしいものである。しかし花のように、美人のように美わしいものではない。正義の美わしいのは山岳のように美わしいのである。これに巍々(ぎぎ)たるところがあり、嵯峨(さが)たるところがあるからうるわしいのである。ゆえにその唱道者たるものにもまた崎嶇(きく)たるところ鬱屈(うっくつ)たるところがなくてはならない。預言者は磐(いわ)でなくてはならない、鉄でなくてはならない。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月6日(水)

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが、神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。(ローマ書八・十五〜十七)

わたくしが復活を信じまするは、わたくしが神の大能を信ずるからであります。宇宙とその中にあるすべての物を造り、また人を造り、人の内に宿る霊魂を造った神は、容易に死者を甦(よみが)えらすることができると信じるからでごさいます。これはかつて使徒パウロがアグリッパ王に向ってのべましたところの、彼が復活を信ずる理由であります。パウロは申しました、「神はすでに死にし者を甦らせたまえりというとも、なんじ何ぞ信じ難しとするか」。すなわちパウロの意(こころ)は、もし人が甦らせたりというなら信じないが、大能の神が甦らしたというならば、決して信じがたいことではないというのでございます。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月5日(火)

正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。(詩篇三十四・十七〜二十)

恩恵はただちに来るものではない、困難をとおして来るものである。困難は恩恵(めぐみ)を身に呼ぶための中間物である。燃料なくしては火がないように、困難がなくして信仰も歓喜(よろこび)もない。火に先き立つものは煙である。信仰に先きだつものは疑懼(おそれ)である。煩悩である。これありて、これに天よりの火がうつり、はじめて天より平安(やすき)と喜楽とがわれらの心にきたるのである。困難を経ずして深き信仰をえんとするは、まず煙を見ずして火と暖とをえんとするがごとくである。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月4日(月)

ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。わたしにあるものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起こしてやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩きだした。そして歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。(使徒行伝三・六〜八)

伝道は心霊的事業なり。われに神恩の足るあるがゆえに、われの神に対する報恩として、われの同胞に対する同情心よりして、われはわが心中の無限の慰籍(なぐさめ)を他人に分与せんと欲する。われにもし財貨の分与すべきあらば、われはもちろん喜んでこれを神にささげて世の孤独者を慰めん。されど金銀いまわれにあるなし。われの有するもの、すなわちナザレのイエスの救済力、われはこれを世に供して世の貧苦を医やさざるべからず。ゆえに伝道師たらんと欲する者には、まずこの富裕、歓喜、平和の充満して抑圧しうべからざるものなかるべからず。彼にはまず歓喜のこの無尽蔵あるにおよんで、彼は世の貧者をみたしうべし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月3日(日)

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。「神を愛している」と言いながら、兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神からさずかっている。(ヨハネ第一書四・十九〜二十一)

もっとも善きことは、キリストを信じ、彼にありて善をなすことなり。すなわち彼に善をなさしめらるることなり。そのつぎに善きことは、キリストにならい、彼をまねて善をなすことなり。そのつぎに善きことは、キリストを知らざるも、天然の声を聴きて善をなすことなり。さらに恕(じょ)すべきは、無知無識の結果、善をなしえずしてつねに神の聖旨に戻(もと)ることなり。されども最も悪しくして全然恕すべからざることは、キリストを知り聖書を研究し、神学講じ、キリストの神格を論じながら、兄弟を憎み、その陥擠(かんせい)を計画し、彼らの堕落するを見て心に喜楽を感ずることなり。神が憎みたもう者の中に、信仰篤(あつ)くして(篤しと称して)罪を犯す者のごときはあらず。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月2日(土)

知恵ある者に教訓を授けよ、彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、彼は学に進む。主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。(箴言九・九〜十)

秋風至り、勉学の好時期は来たれり。燈火、これより吾人の好伴侶なるべし。今秋今冬、誰とともにか語らん。モットレーにふたたびオランダ勃興史を聞き、パルマの残虐、グランビルの佞姦(ねいかん)を憤(いか)り、エグモンド、オレンジの忠と勇とを賞せんか。あるいは遠く六千年の太古にさかのぼり、セイス、ヒルプレヒトにバビロン文明の淵源を問わんか。ヒッタイト人種の古跡に日本人種の起源をさぐるもまた一興(いっきょう)ならん。英民族の膨張史に対してスペイン民族の衰退史を究(きわ)むるも、道徳的興味はなはだ多かるべし。われに閑静なる時間と、光明なるランプと、字書と、地図と、数巻の書あらしめよ。われに王者の快楽ありて、われは他に求むるところあらざるべし。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」

9月1日(金)

主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか。人よ、彼は先によい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共にあゆむことではないか。(ミカ書六・七〜八)

尖塔(せんとう)、天を指して高く、風琴、楽を奏して幽かなるところのみ神の教会にあらざるなり。孝子、家計の貧を補わんがために寒夜に物をひさぐるところ、これ神の教会ならずや。貞婦、良人(おっと)の病を苦慮し、東天いまだ白(しら)まざる前に社壇に願をこむるところ、これ神の教会にあらずや。人あり、世の誤解するところとなり、攻撃四方に起こる時、友人ありて独り立って彼を弁んずるところ、これ神の教会ならずや。ああ、神の教会をもって白壁または赤瓦の内にそんするものと思いし余の愚かさよ。神の教会は宇宙の広きがごとく広く。善人の多きがごとく多し。

参考:矢内原忠雄「日々のかて」