一日一生(内村鑑三)「一日一生」(教文館)より


注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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11月の初め 12月の初め 大晦日


一日一生(内村鑑三)

12月の初め

われは善人なるか、または悪人なるか、わらは知らず、われはただイエスキリストを信ず。
われは善事をなしつつあるか、または悪事をなしつつあるか、われは知らず、われはただイエスを信ず。
われは天国に入りうる者なるか、または地獄へ落つべき者なるか、われは知らず、われはただイエスを信ず。
われはイエスを信ず、しかり、ただイエスを信ず。天の高きにあげらるるも、あるいは陰府(よみ)の低きにおとさるるも、われはただイエスを信ず。
われは自己(おのれ)を責めず、責むるも益なければなり、われはただイエスを信ず。

大晦日

静かなる大晦日である。諸勘定はすべて払った。愛の外何人にも、何物も負うことなくして、年を終ることができて感謝である。旧年と別れるのは何となく惜しくある。しかれどもまた一年だけ最後の救拯(すくい)に近づいたと思えば楽しくもある。「信仰のはじめより、さらにわれらの救いは近し」とある(ロマ書十二・十一)。わが生命の終末(おわり)が近づくのではない。わが真(まこと)の生命の初(はじめ)が近づきつつあるのである。信者は過去をかえりみて悲しまない。未来を望みて喜ぶ。


12月31日(日)

わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。わたしが自分の歩んだ道を語ったとき、あなたはわたしに答えられました。あなたの定めをわたしに教えてください。あなたのさとしの道をわたしにわきまえさせてください。わたしはあなたのくすしきわざを深く思います。(詩篇百十九・二十五〜二十七)

余は余の罪深き者なるを感ず。ゆえに余に聖書研究の必要があるのである。「なんじらの罪は緋(ひ)のごとく赤くあるも、雪のごとく白くならん」(イザヤ書一・十八)との言葉を読んで、余は無上の慰藉を感ずるものである。余は無知の者である、ゆえに聖書研究の必要がある。「神の愚(おろか)は人よりも慧(さと)し」とか、または「神は知者を辱(はずか)しめんために世の愚なる者を選びたまえり」などいう聖書の言を読んで、余は余の無知無学について失望せざるに至るのである。余はまた弱き者、富みなく、友なく、世の称する権力とては一として持たざるものである。この時にあたって余は聖書に「これは権勢(いきおい)によらず、能力(ちから)によらず、わが霊によるなり」などいうごとき言を読んで、余の消えんとする希望を回復するものである。

12月30日(土)

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(ヨハネ伝一・九〜十二)

天国とは何人(なんぴと)の入るべきところでありますか。ある人が使途パウロに来たってこのことを聞きました「われら救われんために何をなすべきか」と。その時パウロは何と答えましたか。彼は慈善家になれとは申しませんでした。または青年会の事務に熟練して、その幹事となって奔走せよとは申しませんでした。パウロはかく答えました。「主イエス・キリストを信ぜよ、さらばなんじおよびなんじの家族も救われるべし」と。すなわちすくわれて天国に入るには、ただこの一途あるのみでありまして、他の途(みち)はすべて虚偽の途でございます。

12月29日(金)

それゆえ、産婦の産(う)みおとす時まで、主は彼らを渡しおかれる。その後その兄弟たちの残れる者は、イスラエルの子らのもとに帰る。彼は、主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果(はて)まで及ぶからである。(ミカ書五・三〜四)

葉、落ちて、枝、空(むな)し、されども知る、芽、成らずして、葉、落ちざることを。木を割りて見よ。厳冬の梢のすでにその皮下に春陽の花をかくすを見ん。凋落(ちょうらく)は復興の兆(ちょう)なり。世の日に日に朽ちゆくは、革新の準備すでに成りたるに因(よ)る。

12月28日(木)

あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(コリント第一書十・十三)

われは時どき、夜半ひとり静かに双手をわが胸に当てていう、われもしいま死するならば、われは平和に死につくをうべきかと。しかしてかく独(ひと)り己れに問うて、われはいまだかって一回も満足なる答えをうる能わざりき。されども主はわれに教えていいたもう、なにゆえに死について思いわずろうや、なんじいま死するにあらず、ゆえに死に勝つの力はいまだなんじに与えられざるなり。明日のことを思いわずろうなかれ。明日は明日のことを思いわずらえ。一日の労苦は一日にて足れり。なんじの力はなんじの日の数にしたがわん。なんじが死する時にあたって、死に勝つの力なんじに加えらるべしと。よって知る、死に就(つ)くの準備の、忠実に今日の職に従事することなるを。われは死を恐るるを要せず、われもまた主の恩恵(めぐみ)により平康(やすき)をもって死につくをうべし。

12月27日(水)

あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実(み)を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。(ホセア書十・十二)

米国の詩人ホイットマンのいいました「大なる友人」は、わたくしどもの友人であります。彼はわたくしがひとり杖を曳(ひ)いて散歩するときの唯一の話し相手であります。凋林(ちゅうりん)に葉絶えて、丘陵ために粗色を呈する時に、寒月、梢(こずえ)の上にかかりて、氷のごとき光を送りまする時に、わたくしどもはひとり小川の辺(ほとり)に立ちて、「わが父よ」と呼び、「わが友よ」と叫びます。そして暮色蒼然として独(ひと)りわが家に近づきます頃は、わたくしどもの心の中はまばゆきばかりになりまして、空天に輝く星までが、わたくしどものために賛美歌を唱えてくれます。世にこんな友を持つ者は他にどこにありますか。

12月26日(火)

荒野(あらの)と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。(イザヤ書三十五・一〜二)

呱々(ここ)の声は嬉々(きき)の声なり。そのはじめて響きわたるや、全家は歓喜をもって震(ふる)う。新しき人は希望をもたらしてわれらの中に臨みたればなり。ベツレヘムの夕(ゆうべ)万物の長子が呱々の声を揚げし時に、宇宙は歓喜をもって震えり。「終(おわり)のアダム」は不朽をもたらして人類の中に臨みたればなり。この時、天は地にこたえていえり、男子(おとこのこ)は人の中に生れたりと。この時、造化は声を合せて歌えり、われらの釈放の期(とき)は来たれりと。クリスマスは宇宙の祝日なり。天と地とその中にあるすべてのものとがその釈放、自由、完成を祝する日なり。

12月25日(月)

御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えれれる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼(おさ)な子が布にくるまって飼葉(かいば)おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられたしるしである。」(ルカ伝二・十〜十二)

もしキリストにして生まれざりせばこの世はいかん。シーザー、アレキサンダーの輩はなお陸続として世に顕(あら)われしならん。君一人のために屍をその馬前にさらすの忠臣義士は出でしならん。されども下民(かみん)のために剣をぬきしクロムウェル、ワシントンの如き武人は出でざしりならん。ホレス、ヴァージルのごとき宮廷に媚(こび)を呈する詩人は出でしならん。されどダンテ、ミルトンのごとき平民的詩人は出でざりしならん。キリストの生まれざる世界は、貴族帝王の世界なり。人を崇(あが)めてこれを神として仰ぎ、一人の栄光を致さんがために万民の枯死する世界なり。キリストによりて、筆も剣も脳も腕も、貴族の用をなさずして平民の用をなすに至れり。

12月24日(日)

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(コリント第二書五・一七)

イエスが処女より生まれたまいしは、神が普通の出産法を賎(いや)しめたもうたからではない。人類以上の生命をこの世に持ちきたすために必要であったからである。贖罪(しょくざい)はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これ罪の世に現れたまいし、第二の人におのづとかかりし職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。余輩は聖書の記事によるのみならず、宇宙の進化の順序よりして、また吾人人類の切なる要求よりして、この大なる事実を信ずるものである。

12月23日(土)

しかしベツレヘムエフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスレエルを治(おさ)める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。(ミカ書五・二)

神はこの世にくだりたまえり。ああわれも行いて彼に仕えん。彼は王宮においてあらず。彼はまた金冠を戴(いただ)かず、彼はいまなお襤褸(らんる)につつまれてあり。億万の貧児はみな彼なり。余は余の黄金、乳香、没薬(もつやく)を彼らに捧げん。痛き棘(いばら)の冕(かんむり)をかむり、貴族の弾圧に泣く無辜(むこ)数千万の民はすべて彼なり。余は余の救い主にならいて、余の生命を彼らのためにすてん。わが主イエスは天の宝座(みくらい)を去って我らの間にくだりたまえり。彼の価値なき僕(しもべ)の一人なる余も、余の幸福なるホームを去っても世の憐れなるものを救わん。ああ余は何をもって神の降臨の佳節を祝せんか。歌をもってか、宝をもってか。いないな新しき決心をもってなり。彼の心をもって世の難事に臨むの決心をもってなり。彼に代わってこの罪の世と戦うの決心をもってなり。ナザレのイエスよ、今年今日、ふたたび余の心にくだりて、余のこの決心を堅(かた)くせよ。

12月22日(金)

ちょうどモーゼが荒野(あらの)でへびを上げたように、人の子もまた、上げられなければならない。それは、彼を信じる者がすべて永遠の命を得るためである。(ヨハネ伝三・十四〜十五)

もしキリストにして世にくだりたまわざりせばいかん。もし世に孔子あり、荘子あり、釈迦あり、モハメットあり、プラトンあり、アレキサンダーあり、シーザーありしも、もしキリストがなかりせばいかん。ああイエスなきわれは勇士たるをえて戦場に屍をさらすをえしならん。壮士たるをえて国賊を刺すをえしならん。あるいは慈善家たるをえて貧者のためにわが身を与うるをえしならん。されども罪を贖(あがな)われしの感謝、神の子たるをえしの歓喜、自己に死して神に生けるの快楽、復活の希望、永世(かぎりなきいのち)の約束、ああこれイエスなくしてわが受くるをえし天のたまものにあらず。

12月21日(木)

一つの玉座がいつくしみによって堅(かた)くたてられ、ダビデの幕屋(まくや)にあって、さばきをなし、公平を求め、正義を行うに、すみやかなる者が、真実をもってその上に座する。(イザヤ書十六・五)

国、興(おこ)るもキリストを信じ、国、衰(おと)うるもまた彼を信ず。時、可(か)なるもキリストを信じ、時、非なるもまた彼を信ず。業、栄ゆるもキリストを信じ、業、衰うるもキリストを信ず。キリストを信ぜんのみ、キリストを信ぜんのみ。

12月20日(水)

わたしたちは、父が御子(みこ)を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。(ヨハネ書第一書四・十四)

花は消え、鳥は去り、森はその衣(ころも)をはがれて、天然は裸体となれり。ただ見る、夜ごとに参宿(しんしゅく)の剣(つるぎ)を帯びて粛然として頭上に輝くを。これ神の子が世に臨むの期節(とき)なり。世は冷淡を極め、心に虚飾絶え、ただ威力のわれらの頭上に剣をふるうの時、キリストはわれらの心に望みたもう。今は救拯(すくい)の時期(とき)なり。世界の人、心を静かにして彼を迎えよ。

12月19日(火)

主は新しい歌をわたしたちの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。(詩篇四十・三)

わたしどものいう祈祷なるものは祈願ではありません。これはなにも祈らなくてはいられないから祈るのではありません。神は愛の父でありますから、わたしどもが彼に要求せずとも、わたくしどもに必要のある時には、わたくしどもの祈祷をまたずして、すべての物をわたくしどもに賜うものでございます。そもそもわたくしどもの心の中にたえ切れぬ感謝の情が発して、言語となりて現れたものでございます。またある時には包み切れぬ憂悶の情溢れて涙となりしものであります。もしこれを祈祷と申すのがつまずきの石となりまするならば、これを詩歌と申してよろしゅうございます。すなわちキリスト信者の祈祷とは神の前に演ずる詩文であるというも、決して不都合ではありません。


12月18日(月)

神はわたしたちの罪のために、罪をしらないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。(コリント第二書五・二十一)

生命(いのち)の父なる神は人類の全滅に至るを好みたまわざるをもって、たえず高潔の人を世にくだしてその腐敗を癒(いや)し、その不浄を排(はら)いたまえり。人類社会の生存には、実に絶間なき精気の注入を要す。義人アベルが兄カインの毒手に倒れてより以来、社会の腐敗はつねに義人の宝血をもってのみ抑止せられたり。しかして神が人類全体の大傷を癒し、地球とこれに棲息(せいそく)する人をその定めおきたまいし幸福の位置にまで引き上げんと期したもうや、神みずから肉体を取りてこの濁世にくだり、無窮の徳源をこのところに開きたまいしとのおとずれは、愛なる神の存在と、人と神との関係と了知する者にとりては、決して信じ難き音信(おとずれ)にあらざるなり。

12月17日(日)

主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏(おだ)やかにして信頼しているならば力を得る」。(イザヤ書三十・十五)

平穏にして、すなわち沈黙を守りてより頼まば、すなわちみずから努(つと)めずして神の行動(はたらき)を待たば、なんじ力を得べし。すなわち強くなるべし。すなわちなんじの敵に勝つをうべし。すなわち救われるべし。嫉妬(ねたみ)の毒矢に身をさらす時、国人こぞりてわれを迫害する時、われ一人、羊が狼の群中
にあるがごとき地位に立つとき、わらはただ静寂を守り、すべての救済(すくい)を神より望み、彼をしてわが城砦(じょうさい)たり、守衛たり、武器たらしむべきなり。われは弱けれども、彼は強し。われ彼と共にありて、われ一人は全世界よりも強し。救いは主にあり。願わくは恩恵(めぐみ)なんじの民の上にあらんことを、アーメン。


12月16日(土)

キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きるのである。あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。(コリント第二書十三・四〜五)

贖罪(あがない)とはカルバリー山上、キリストの十字架上の死をもって完成されしものにあらず。これわずかに贖罪の端緒なりしのみ。その完成は今日われらの心において遂行せられつつあり。聖父と聖子とがその聖霊をもってわれらの心にくだり、ここにわれらのために苦しみ、ここにわれらに代りて(すなわちわれらとなりて)悔い改めのじつを挙(あ)げ、ついにわれらをして罪なき者となりて神に受け納(い)れられしめたもうにいたって、贖罪の実は挙りしなり。贖罪は二千年前の過去においてありしことにあらず。贖罪は今日われらの心のうちにおいてなされつつあることなり。贖罪は神学説にあらず。贖罪はわが目前の事業なり。わが心中の実験なり。

12月15日(金)

聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。(ペテロ第二書一・二十〜二十一)

聖書は神について書いた書であります。すなはち神の本性、神の意志、神の権能、神の慈愛というような事柄は、聖書がもっとも明白に、またもっとも真実にわれわれに教えてくれるところのものであります。もちろん他にもこれらの事項について記載したる書がないではありません。しかしすこしの曖昧模糊(あいまいもこ)たるところなく、あたかも天日を仰ぎみるがごとく明瞭に神を吾人に伝うる書は、ほかには決してありません。聖書はその冒頭に「如是我聞(にょぜがもん)」とは言わずに「神いいたもう」と申します。聖書は神の存在を証拠立てんとはせずに「原始(はじめ)に神あり」と申します。聖書はその文体において直感的なるばかりではございません、その伝うる真理においても、決して推理的や想像的ではありません。人として面(ま)のあたり神を見た者はありませんが、聖書の記者はみな心に直接に神を感じた者であります。それゆえに神を知らんと欲するならば、この書に頼るほかはございません。

12月14日(木)

主よ、わたしはあなたに呼ばわります。すみやかにわたしをお助けください。わたしがあなたに呼ばわるとき、わが声に耳を傾けてください。わたしの祈を、み前にささげる薫香(くんこう)のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください。(詩篇一四一・一〜二)

祈祷の聴かれないことがその真に聴かれたことである。神が人にくだしたもう最大の恩賜(たまもの)は、神ご自身である。彼を識ることが永生(かぎりなきいのち)である。造り主は被造物よりも貴くある。宇宙とその中にある万物を獲(う)るとも、もし神をわがものとすることができないならば、われらは真に貧しき者である。しかして神はこの最大の恩賜をその子に与えんとなしたまいつつある。しかしてこの恩賜は苦痛と共に与えられつつある。しかして信者の最大の幸福は聴かれざる祈祷である。しかしてよくこの苦痛にたえうる者に、神は、ご自身なる彼の最大の恩賜をくだしたもうのである。

12月13日(水)

そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。(ルカ伝十八・六〜七)

信仰の生涯は外面の無事平穏なるに対して、内部は多事動揺の生涯である。神を信じ、彼の黙示に接し、彼の約束に与り、しかもその約束の速やかに実行せられざるより、ある時は彼をうたがい、時にあるいは全く彼と離絶せんとする。ここに忍耐の必要が起こり、信じがたきを信じ、望みがたきを望む。時には聴かれざる祈祷に信仰の根底を挫(くじ)かれ、時には懐疑の雲に希望の空を蔽(おお)わる。ひとり泣き、ひとり叫び、ひとり祈る。かくしてわれは数年、または数十年を経過せざるをえず。されども見よ、時いたれば天開け、わが眼はそこにわが故郷を見るに至る。神はわが父となりて、われは彼の子と称せらる。世は外に拡張しつつありし間に、われは内に穿(うが)ちつつあったのである。われはついに生命(いのち)の水に堀りあてた。流れて永生(かぎりなきいのち)に至るの泉は、わがうちよりほとばしるに至ったのである。


12月12日(火)

しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤(いきどお)り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき営業を、捨ててしまいなさい。互いにうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱(ぬ)ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。(コロサイ書三・八〜十) 

人は生まれながらにして神の子であるのではない。彼はキリストを信ずるによって神の子とせられたのである(ヨハネ伝一・十二)人はもとより不滅であるのではない。彼はキリストより永生(かぎりなきいのち)を受けて不滅となるのである。「われ生くればなんじらも生きん」と言いたもうた(同十四・十九)。人は無である。神は有である。しかし人の無限に貴きは、彼は自己の無なるをさとりて、神にありて有たることをうるからである。

12月11日(月)

世には友らしい見せかけの友がある。しかし兄弟よりもたのもしい友もある。(箴言十八・二十四)

われは孤独である。しかし孤独ではない。われにもわれの友がある。しかし、われは孤独であらばこそ、かくも多くの友を持つのである。孤独とはなんであるか。孤独とは心を友とすることである。そして心を友とする者は、天下宇内(うだい)すべて心を友とする者を友とする者である。世の交際場裡に友を求むるものは、会場に容(い)るるに足るだけの人を友とするに過ぎない。しかし心に友を探(さぐ)る者は、これを広き宇宙に探る者である。すべてわれとともに悲しむ者、われと理想を共にする者、わが神を拝する者、わらの救い主に救われし者、これみなわれの友である。未来の交友は心霊的でなくてはならない。主に救われし者、これみなわれの友である。未来の交友は心霊的でなくてはならない。「いまより後、われら肉体によって人を識(し)るまじ」とパウロは言うた。面(ま)のあたり談じたり、語りたりしなければ友でないように思うのは、いまだキリストにおける友の何たるかを知らないからである。

12月10日(日)

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物(まきもの)を受けとり、封印を解くにふさわしい方であります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国(みくに)の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。(ヨハネ黙示録五・九〜十)

キリストを信ずるものとは、信仰をもって、キリストに現れたる神の生命をわがものとなした者でございます。少なくともその精神や行為が、よくキリストの精神行為に似た者であります。キリストは天国の主でありまして、その市民は小キリストであります。一言もってこれを言いますれば、天国の市民は赦(ゆる)されし罪人であります。決して君子ではありません。道徳家ではありません。慈善家、神学者の類ではありません。もちろん富豪でも貴族でもありません。自己の罪を悔いて、これを神の前に白状し、ついに神の救済(すくい)にあずかって、新しき人となったものであります。キリスト教の伝うる天国の市民とは、じつにかくのごとき者を指して申すのでございます。

12月9日(土)

このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解(と)き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。(使徒行伝二・二十三〜二十四)

されども見よ、一婦人のイエスの復活を告ぐる者があった。逃げ去りし彼の弟子たちは、ふたたびエルサレムに帰り来たった。ここにこの世の理論をもってしては、とうてい解(と)くことのできない不思議なる大運動が始まった。しかして半百年をへざるに、イエスを殺した者はことごとく亡(ほろ)ぼされて、殺されしイエスの福音は全地に宣伝さるるに至った。イエスの生涯は失敗に終った。しかしその終極は死ではなくして、死の反対の生であった。イエスは世に棄(す)てられた。しかしイエスは世を棄てずして、徐々としてこれを自己(おのれ)に収(おさ)めたまいつつある。現世にありては大失敗、後世にありては大成功。世に憎まれて世に勝つ。これが聖書がわれらに教うるイエスの生涯の貴き教訓である。

12月8日(金)

「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩(わずら)いのために心が鈍(にぶ)っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕らええることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前にたつことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい。」(ルカ伝二十一・三十四〜三十六)

彼ら(初代信者ら)がイエスを救い主として仰いだのは、この世の救い主、すなわち社会の改良者、家庭の清洗者、思想の向上者として仰いだのではない。ことに来たらんとする神の震怒(しんど)の日におけるかれらの仲保者(ちゅうほしゃ)また救出者として仰いだのである。方伯(つかさ)ペリクス、その妻デルシラとともに、一日パウロを召してキリストを信ずるの道を聴く。時に「パウロ、公義と節制と来たらんとする審判とを論ぜしかば、ペリクス恐れて答えけるは、『なんじしばらく退け、われよき時をえばふたたびなんじを召さん』」とある(使徒行伝)。しかして今の説教師、その新神学者、高等批評家、その他政治的監督、牧師、伝道師らに無きものは、方伯らをして恐れしむるにたる来たらんとする審判についての説教である。

12月7日(木)

「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。(エレミヤ書三十一・一)

女の胎内より出でし者の中で、ナザレのイエスのみが人類の崇拝を受くる値あるものであります。彼を神として拝するも、われらの良心はすこしも品性の堕落を感じません。のみならず帝王を崇拝して自由を失い、富豪を崇拝して威厳を落とせし国民も、イエスを神として崇(あが)め奉りて、その失いし自由と独立を回復した例は人類の歴史にいくつもあります。イエスはまことに栄光の君でありまして、人類の崇拝を要求するものであります。

12月6日(水)

イスカリオテでない方のユダがイエスに言った。「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか。」イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。(ヨハネ伝十四・二十二〜二十三)

神が在るというのは、なにも哲学的にそう説明していうのではありません。彼の在ることが実験的に証明せられるからであります。われらの意識の中心において、何よりも明白に、何よりも確実に、彼は顕(あら)われたもうからであります。キリストの神性とても同じことであります。これは教義ではありません。これもまた実験であります。議論の証明によってではなく、能力の供給によって彼の神秘力がわれらに伝えらるるによってわかることであります。

12月5日(火)

また、ほかの譬えを彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中で、いちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。(マタイ伝十三・三十一〜三十二)

真理は芥種(からしだね)のごとくにして、永遠にまで生長するものなり。キリストの救いということは真理なり。ルーテルこれを聞いて起ち、バンヤンこれを開いてはじめて安し。されどもルーテルをしてルーテルたらしめたるは、単に師父スタピッツの一言によるにあらずして、なお三、四年間の寺院内における単独の思考と祈祷とを要せり。感情的のパンヤンにおいてすら、かれ赦罪の大真理を悟りしより、なお十二年間ベットフォド監獄内の鍛錬を要せり。大真理をえしときは、これを感ずると感ぜざるとに関せず、余輩が一大進歩をなせし時なり。これに反して、いかほど感情を起すとも、いかほど涙を流すとも、余輩の理性を動かさざる変動は、遠からずして消えて跡(あと)なきに至らん。

12月4日(月)

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるしてくださったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。(コロサイ書三・十二〜十四)

われらの罪は赦(ゆる)されたり。われいかで隣人(となりびと)の罪を赦さざるをえんや。神われを愛せり、神の愛わが心にあふれて、われはわれの隣人を愛せざるをえず。人は神より赦されざる間は、心より他人を赦さざるなり。富たりて徳たるの理由、けだしここに存するなるべし。有限なる人の霊が無限の博愛を衆(すべて)におよばさんとすることは、望むべくして行わるべきことにあらず。われの盃(さかずき)あふれて後、われは隣人にわれの歓喜(よろこび)の温味(あたたかみ)を伝えうるなり。愛の泉源(いずみ)は神なり。われ神に接して後、愛われを充(み)たし、しかして後またわれより流れ出ずるなり。


12月3日(日)

そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は、今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。(ヨハネ伝五・十七)

他の宗教が一定の時期を経過すればかららず死にゆくに、キリスト教のみが年ごとに新たなるはなにゆえなるか。なにゆえに古き聖書は歳と共に古びざるか。これは哲学的真理が完全無欠であるからであるか。そうとは思えない。キリスト教の不朽なるは、神の不朽なるによるのである。しかしながら神がいましたもう間は…そうして神がいましたまわない時とては、未来永劫(みらいえいごう)決してない…聖書の真理がその活力を失う時はない。われらは神を信じつつキリスト教の真理をきわめて、その救済(すくい)にあずかるべきである。

12月2日(土)

悪しき者の得る報いはむなしく、正義を播(ま)く者は確かな報いを得る。正義を堅く保つ者は命に至り、悪を追い求める者は、死を招く。心のねじけた者は主に憎まれ、まっすぐに道を歩む者は彼に喜ばれる。確かに、悪人は罰を免れない。しかし正しい人は救を得る。(箴言十一・十八〜二十一)

正義は敗れて興(おこ)り、不義は勝ちて亡(ほろ)ぶ。これ歴史の恆則(こうそく)にして、過去六千年の人類の実現に徴して明らかなり。暴者一時の勝利は彼の一段の衰滅と堕落とを招き、義者一時の蹉跌(さてつ)はその一層の興起と上進とをうながす。ソクラテス毒に死して、彼の教旨は時の文明世界にあまねく、キリスト十字架につけられて、十九世紀末期の今日、彼は王の王として秦西億兆の崇敬をつなぐ。倒れて香を放つものは栴檀(せんだん)なり、死して光を揚ぐるものは正義なり。吾人あに務(つと)めざるべけんや。


12月1日(金)

そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者または大祭司なるイエスを、思い見るべきである。彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。(ヘブル書三・一〜二)

われらが神に対してなしうることはただ一つである。すなわち、神がキリストをもってわれらにくだしたまいし赦免(ゆるし)の事実を信じ、罪の身のまま、不信の心このままを彼に捧げまつることである。しかして一たび彼に捧げまつりし以上は、ふたたび自分のことについて苦慮することなく、ただ神の小羊なるイエスを仰ぎ見てわれらの一生を終るべきである。われ罪の勢力の復興してわが心霊を襲いきたるを見んか、われらはイエスを仰ぎ見るべきである。われ不信の悪魔の、わが主に対する熱心をこぼたんとてわれに迫るを感ぜんか、われはイエスを仰ぎ見るべきである。

11月の初め

しかり、偉大なるイエス、世がその偉大を認むるあたわざるがゆえに偉大なるイエス、自己を知者(かしこきもの)と達者(さときもの)とにかくし、赤子にあらわしたもうがゆえに偉大なるイエス(マタイ伝十一・二十五)、偉大なるをこのまずして、かえって微小なるを愛したもうがゆえに偉大なるイエス。余はこの小なるがゆえに大なる、あらわれたるがごとくに見えて実は隠れたるこのイエスの弟子の一人たらんことを欲する者である。

11月30日(木)

この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨(いかり)であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。その幕の内に、イエスは、永遠にメルキセデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがてとなって、はいられたのである。(ヘブル書六・十九〜二十)

イエスが奇跡を行いえざりしとならば、彼が救い主たるの資格は消滅するのである。彼は生命の源であって、永生(かぎりなきいのち)の供給者であることのことである。信者は彼より復活を要望し、霊魂(たましい)を彼にゆだねて死につくのである。しかるにもしこのイエスが奇跡を行う能力(ちから)をもたないというならば、信者の希望はまったく空しくなるのである。信者は終の日に彼より最大の奇跡をほどこされんことを望みて死につくのである。信者が主にありて眠るというはこのことである。しかして最大の奇跡なる復活を行う者は、地上にありて、より小なる奇跡を行いえざる理由はないのである。このより小なる奇跡を易々(やすやす)と行いえし者であるがゆえに、信者はイエスを崇(あが)めて救い主となし、彼に霊魂をゆだねまつり、彼の復活の約束を信じ、彼にありて安き眠りにつくのである。

11月29日(水)

「背信の子供たちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす。」「見よわれわれはあなたのもとに帰ります。あなたはわれわれの神、主であらせられます。まことに、もろもろの丘(おか)は迷いであり、山の上の騒ぎも同じです。まことに、イスレエルの救いはわれわれの神、主にあるのです」。(エレミヤ書三・二十二〜二十三)

日本はアジアの試験場なり。あたかもギリシャがヨーロッパの試験場なりしがごとし。ヨーロッパの未来がギリシャによりて決せられしがごとく、アジアの未来は日本によりて決せらるるなり。日本人の採用する制度と、その開発する宗教と哲学と芸術とが、ついに東亜全体に普及し、永くその模範となりて、人類半数以上の運命を支配するに至るは、ソロン、フィジアス、プラトーらの事業が西洋文明の基礎をさだめしごとくなるべし。よって知る、吾人日本人の責任はわずかに同胞四千万の安全幸福にのみ止まらずして、ヒマラヤ山以東に住する蒼生(そうせい)五億余りの将来に関するものなることを。この重大の責任あるを知る者にして、いかでか軽佻(けいちょう)浮薄なるをえんや。

11月28日(火)

あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。むかし神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。(ペテロ第一書三・三〜五)

われいまだわが眼をもって天使をみしことない。されどもわらの愛せしものが病院にありしとき、大理石のごとき容貌、鈴虫の音のごとき声、朝露の如き涙…彼もし天使にあらざれば何をもって天使を描かんや。われはかくのごときものが終生病より起つあたわずしてわが傍らにあるとも、決して苦痛を感ぜざるべし。彼は日々われの慰籍なり。われを清め、われを高め、われをして天使がわれを守るの感あらしむるものなり。なんじもし天使を拝せんとならば、往きて病に臥する貞淑の婦人を見よ。彼は今生(こんじょう)において、すでに霊化して天使となりしものなり。

11月27日(月)

わたしはよい羊飼(ひつじかい)であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。(ヨハネ伝十・十四〜十五)

信じてしかして真理ますます明瞭なるをうる、これを信仰といい、ますます闇黒(くらき)を加うるに至る、これを迷信という。真理はわれわれの自然性と調和するものなれば、これを信ずればわが全性の歓喜(よろこび)と賛成あり。誤謬はわれ自身の和合を破るものなれば、これを信ずるにはわが全性の全部あるいは幾分かを圧せざるべからず。充分なる満足は真理を了得せし微候なり。われ真理を会得(えとく)する時は、われの理性も情性もアーメンとこたえ、山と岡とは声を放って前に歌い、野にある樹はみな手をうたん(イザヤ書五二・十二)。迷信、信仰の区別かくのごとし。しかり、われはわが牧者の声を知るなり。キリストはこ心霊の新郎(はなむこ)にして、新婦(はなよめ)の本能性は問わずしてただちに、彼が真の夫たるを知る。真理を探るにあたって、この種の本能は決して軽んずべからざるなり。

11月26日(日)

わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。(ヨハネ伝十四・十三〜十四)

菅相丞(かんしょうじょう)の歌なりといい伝えまする「心だにまことの道にかないなばいのらずとても神や守らん」などの語は、たびたび祈祷反対論のために引き出さるるものでありまして、わたくしどものように祈祷に多くの時間を費やす者は、かえって無益のことをなす者のように思われます。しかし祈祷反対論は多くは、キリスト信者(真正の)の祈祷のいかなるものかをわきまえないで起るものであります。元来われわれキりスト信者は、神の聖旨の成らんことを祈るべき者でございまして、決してわれわれの私意私策の行われんことを祈るべきはずのものであはりません。ゆえにわれわれの祈祷は必ず聴かるべき祈りであります。真正のキリスト信者は、彼の祈祷において神の行為を預言しつつある者でございます。彼は決してなし難きことを神より要求するものではありません。

11月25日(土)

それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、「暴虐、滅亡」と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。もしわたしが、「主のことは、重(かさ)ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押さえるのに疲れはてて、耐えることができません。(エレミヤ書二十・八〜九)

預言者は詩人であり、詩人は預言者である。二者の間の区別を立てることははなはだかたい。預言者は神の旨(むね)を伝うる者であって、詩人は天然の心を語るものであるというても、二者の区別は立たない。なにゆえとなれば、神の旨を解せざれば天然の心はわからず、天然を解せざれば神の旨はわからないからである。ゆえにすべての預言者はよく天然を解し、すべての詩人はよく神の旨を知る。預言者も詩人もひとしくただちに神よりおくられた者であって、人よりにあらずまた人によらず、ただちに神によって立てられたる者である。二者は同階級の人である。儀礼に重きを置く儀式家(リチュアリスト)、文字を争う神学者の正反対に立つ者であって、活(い)きたる神にもっとも近く立つ者である。


11月24日(金)

極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。(ペテロ第二書三・十二〜十四)

脱葉、地を蔽(おお)わんとする頃、吾人の希望はいよいよ大なり。旧世紀は終らんとし、旧制度はすたれんとし、旧(ふる)き天地は去りて新しき天地は吾人の中に臨まんとす。颯々(さつさつ)たる秋風、これ落葉をうながすの声ならずや。粛殺(しゅくさつ)たる世態、これ旧事物の死滅を表すの状(さま)にあらずや。吾人は野色惨然たるを見て、吾人の志(こころざし)を強うするや大なり。

11月23日(木)

あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。(箴言四・二十五〜二十七)

進め。どこまでも進め。前途を疑懼(ぎぐ)せずして進め。倒るるも退(ひ)くなかれ。明日(あす)は今日よりも完全なれ。明年は今年(ことし)よりもさらに一層勇壮にして、快活にして、謙遜にして、独立なれ。進化の宇宙に存在して、退く者は死する者なり。安全は退きて求むべきものにあらずして、進みて達すべきものなり。歓喜(よろこび)と満足とは前にありて、後(うしろ)にあらず。臆病者に平和あるなし。進め、どこまでも進め。

11月22日(水)

地の果(はて)なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ書四十五・二十二)

世の教師はいう「まづ己れを浄(きよ)めてしかる後に世を浄めよ」と。されども神は言いたもう「なんじらわれを仰ぎ望め、さらば救われん」と。われ己れを浄めんと欲して、終世この業(わざ)に従事するもあたわず。されども神の小羊なるイエス・キリストを仰ぎ望んで、われはわが霊魂(たましい)のらい病の即座に潔
めらるるを覚ゆ。往けよ、世の教師よ。なんじはわれに自省を説いて、われに半生の苦闘を供せり。われは今より神に聴いて、仰望(ぎょうぼう)の秘術に従ってあゆまん。

11月21日(火)

わたしのいましめを心にいだいてこれを守るものは、わたしを愛するものである。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。(ヨハネ伝十四・二十一)

聖霊を受けんと欲すれば神の誡命(いましめ)を守らなければならない。聖霊は単に祈っただけではえられない。聖書の研究をしただけではえられない。決心と勇気とをもって神の命令を実行して、ゆたかに与えらるるものである。聖霊は神がその子の善行に報いんがために下したもう最大の恩恵である。われらは信仰の行為によってのみ聖霊の獲得を確実にすることができる。研究によって聖霊を起し、祈祷によってこれを呼び求め、実行によってこれを獲得するのである。実行はまことにもっとも有力なる祈祷である。「働くは益なり」というが、神の最大の賜物たる聖霊を獲んとするにあたって、その殊にしかるを覚ゆるのである。

11月20日(月)

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。(コリント第二書四・十五〜十七)

愛なる父上よ。余は信ず、なんじはわれらを罰せんがために艱難を下したまわざることを。罰なる語(ことば)は、なんじのいかなる者なるかを知る者の字典の中に存すべき語にあらざるなり。罰は法律上の語にして、キリスト教なる律法(おきて)以上の教においては用なき、意味もなき名詞なり。もし強(し)いてこの語を存せんとならば「暗く見ゆる神の恵」なる定義を付して存すべきなり。刑罰なる語をもって、なんじに愛せらるる者をしばしば威嚇するなんじの教役者をして、ふたたびなんじの聖書を探らしめ、彼らの誤謬を改めしめよ。


11月19日(日)

主に感謝し、そのみわざをもろもろの民の中に知らせよ。主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。その聖なるみ名を誇れ、どうか主を求める者の心が喜ぶように。主とそのみ力とを求めよ。つねにそのみ顔をたずねよ。(歴代志略十六・八〜十一)

神にありてもっとも深いものは愛である。人にありてもっとも深いものは信である。神は愛をもって人に臨みたまい、人は信をもってこれに応(こた)えるまつる。ここに神と人との真個の和合が行われる。神の喜び、人の救い、天地の調和、神人の合一とはこのことである。神は永世(かぎりなきいのち)を人に賜わんと欲したもう。しかして人は信仰を以てこれを受く。賜わんと欲するの愛、受けんと欲するの信…宗教といい、永生といい、解するに難いことではない。神の愛と人の信、律法(おきて)も、預言も、福音も、神学も、これをもって尽きているのである。

11月18日(土)

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾(いく)たび許さねばなりませんか。七たびまでですか。」(マタイ伝十八・二十一〜二十二)

われは人の罪を赦(ゆる)すあたわず。されどキリストにありて容易にこのことをなすをうるなり。七度を七十倍する宥恕(ゆるし)は、これわれわれのなしうるところにあらず。われキリストにありてなしうるなり。善をなすは難し、されどキリストにありてこれをなすは易し。「われはわれの力を与うるキリストにありて、すべての事をなしうるなり」(ピリピ書四・十二)。

11月17日(金)

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにでなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(コリント第二書五・十四〜十五)

キリスト信者の善行の本源は、パウロの言える「キリストはわれらのなお罪人たる時、われらのために死にたまえり、神はこれによりてその愛をあらわしたもう」との事実に存するなり。余輩はもはや道義上の義務として悪を避け善をなすにあらずして、キリストの愛に励まされなすなり。すなわちわが心たりて余裕あれば、われは世に与えざるをえざるに至ればなり。「われ福音を宣べざれば実に禍(わざわ)いなり」われ善業に従事せざればじつに禍(わざわ)いなり。われの心中に存するこの溢るるばかりの恩恵、われもしこれを他に漏らすあらざればわれは歓喜(よろこび)をもって破裂せんとす、われはじつに「愛によりて病みわずらう」ものなり。

11月16日(木)

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これが、いちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣(とな)り人(びと)を愛せよ」。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ伝二十二・三五〜四十)

神を愛し、人を愛することなり。わが礼拝はこれなり。わが信仰はこれなり。わが奉仕はこれなり。これを除きてわれに宗教なるものあるなし。教会何ものぞ。儀式何ものぞ。教義何ものぞ。神学何ものぞ。もしわれに愛なくば、われは無神の徒なり。異端の魁(かしら)なり。われ口と筆とをもってわが信仰を表白したればとて、われは信者にあらず、われは愛するだけ、それだけ信者たるのみ。わが愛以上にわが信仰あるなく、またわが愛以下にわが宗教なるものあらざるなり。


11月15日(水)

金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前でりっぱなあかしをしたのである。(テモテ第一書六・十〜十二)

人はうまれながらにして現世的である。彼は来世のことはこれを思わざらんことを努む。彼に現世的たるをすすむる必要は少しもない。水の低きにつくがごとくに、人は地につくものである。しかして宗教は人を地より天に向って引き上ぐるために必要である。宗教にして明白に来世的ならざらんか、世に来世を示すものは他に何ものもないのである。言うまでもなく宗教の本領は来世である。政治、経済の本領が現世であるがごとくに、宗教の本領は来世である。来世を明白に示さず、これに入るの道を明白に教えない宗教は、宗教と称するにに足らざるものである。宗教は人を現世の外に導き、彼の来世獲得の道を供して、間接にしかも確実に現世を救うのである。

11月14日(火)

正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼(まひる)となる。(箴言四・十八)

英国はキリスト教国にあらず、されどキリスト教は英国にあり。米国はキリスト教国にあらず、されども信者は米国人の中にあり。そのごとく日本もまた永久にキリスト教国とはならざるべし、されども多くのキリスト信者は日本人の中より起こるべし。神は彼のえらみたまいし者を、すべての国民より招きたもうべし。一国を挙げてことごとくその子となすが如きことをなしたまわざるべし。国民はつねに「この世の国民」たるべし。しかしてこの世の国民がことごとく失せし後に、その中よりえらまれし神の子供はのこるべし。地とその中にある物はみな焼き尽くさるべし。されども主を愛する者はいよいよ光輝(かがやき)を増して昼の正午(まなか)に至るべし。

11月13日(月)

恐れるな、小さい群れよ。御国(みくに)を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人(ぬすびと)も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。(ルカ伝十二・三十二〜三十四)

今世はまことに夢の世であります。しかし夢は実体の影であります。しかしてわれらは今世において永遠の来世の射影図を見るのであります。あたかも大洋の深淵の面(おもて)に波と泡とが立つごときものであります。しかして薄き幕一枚が今世を来世よりわかつのであります。幕の彼方に永遠の真実(まこと)の来世があるのであります。此方(こなた)に暫時(しばらく)の仮の今世があるのであります。しかして神はキリストを幕の彼方より此方につかわしたまいて、われらをして希望をことごとく彼方に移して此方に留めざるよう、われらに教えたもうたのであります。

11月12日(日)

たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘(かね)や騒しい鐃鉢(どら)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義と、あらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなれれば、わたしは無に等(ひと)しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(コリント第一書十三・一〜七)

神の神たるは、人の善きを思うて悪しきを思わざるにあり。悪魔たるは、人の悪しきをのみ思いえて人の善きを思いえざるにあり。神は人の善性を喚起(かんき)奨励して世を救い、悪魔は彼の悪性を刺激増長して、ついにこれを亡(ほろ)ぼす。救済(すくい)といい、改良といい、善の奨励にほかならざるなり。

11月11日(土)

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、みたその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座(みざ)の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。(ヘブル書十二・一〜三)

われら救わるるために何をなすべきかと問うに、ただイエスを仰ぎみんのみと答うるまでである。祈祷が聴かるるも聴かれざるも、災禍(わざわい)が臨むも臨まざるも、罪が潔めらるるも潔められざるも、ただイエスを仰ぎみるべきである。クリスチャンの信仰は儒者のそれのごとくに内省的であってはならない。仰膽(ぎょうせん)でなくてはならない。汚れたる自己(おのれ)を日に三度(みたび)なれで百度(ももたび)千度(ちたび)かえりみたればとて、それで自己の潔まりようはずはないのである。


11月10日(金)

天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。(詩篇一二三・一〜二)

信仰の道は易(やす)いかな、ただ任(まか)せまつればたる。さらば光明われにきたり、能力(ちから)われに加わり、汚穢(けがれ)われを去り、聖霊われに宿る。信仰は完全に達する捷路(ちかみち)なり。知識の径(こみち)をたどるが如くならず。修養の山をよずるがごとくならず。信仰は鷲(わし)のごとくに翼(つばさ)を張りて、ただちに神の懐(ふところ)に達す。学は幽暗を照らすための燈(ともしび)なり。徳は暗夜に道を探ぐるための杖なり。されども信仰は義の太陽なり。われらはその照らすところとなりて恩恵(めぐみ)の大道を闊歩(かっぽ)し、心に神を賛美しながらの旅行を終りうるなり。

11月9日(木)

あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。(ローマ書十三・十四)

イエスはわれらの義である。われらは自分で織り出せし義の衣(ころも)を着(つ)けて王の婚筵(こんえん)の席に出るのではない。イエスをわが義の衣として着て、王の招きに応ずるのである(マタイ伝二十二章)。これこそ潔くして光ある細布(ほそぬの)の衣であって、「この細布は聖徒の義なり」とあるその義の衣である(ヨハネ黙示録十九・八)。これを除いて、他に王の客たるにたうるの礼服はないのである。善き者もこれを着て王の前に出ずるをえ、悪しき者もまたこれを被りて聖筵にあずかることができるのである(マタイ伝二十二・八〜十二)。信者はイエスにありて神に至り、神はイエスにありて信者をうけたもうのである。

11月8日(水)

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について…このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。(ヨハネ第一書一・一〜二)

キリスト教は理論にあらずして事実なり、実験なり。理論のみをもってキリスト教を悟らんとするは、理論のみを以って化学を研究せんとするがごとし。理論のみをもってしては、吾人は到底キリスト教の何ものたるかを了解しあたわざるなり。博士ハックスレーいえるあり、「哲理の聖殿において拝せんとするものは、まず実験室の前殿を通過せざるべからず」と。余輩もまたいわんと欲す、「キリスト教の聖殿(Holy of Holies)において霊なる神に接せんと欲するものは、まづ心情の実験室を通過せざるべからず」と。歴史家ネアンデルのいわゆる「神学の中心は心情なり」との意も、けだしここに基(もとい)するならん。

11月7日(火)

少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。(箴言十五・十六)

無実の名義を廃せよ。われらをして有りのままならしめよ。虚名は相互の不信を招き、確信をして難(かた)からしむ。まづ独立の名義を立ててしかる後に独立の実(じつ)を至(いた)さんとするがごとき、まづ虚勢を張りてしかる後に実権をえんとするがごときは、革新建設の道にあらざるなり。実権は実力に越ゆるをえず、名は実を代表するを要す。一方より力を借りて他方に向って独立を誇るがごとき、外国人に給(きゅう)を仰ぎながら名義上その長となり主となるがごとき、これ懦弱(だじゃく)腐敗の大原因なり。われらのもっとも弱き時は、虚権を握り、虚勢を張るときなり。われらは外見の破壊を恐れざるべし。倒るべきものは倒れざるべからず。堅屋は岩石の上にのみ建つるをうるなり。

11月6日(月)

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題でなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。(ガテラヤ書六・十四〜十五)

キリストのために尽くさんと欲して、教会に属する必要は一つもない。われらはただ独(ひと)りありてキリストのために尽くすことができる。キリストは万民の贖い主である。しかしてわれもまた贖われし者の一人である。われはキリストをわが心に迎えまつりて、彼の光を世に放つことができる。われは巌頭に独り立ちて、暗夜を照らす燈台となることができる。われはまた他の多くの単独者の慰籍者(なぐさめて)となることができる。単独は決して世に稀(ま)れなる境遇ではない。世に単独にたえずして泣き悲しむ者は多くある。かかる者に単独の幸福と神聖とを教うることは大きなる事業である。われはただ独りありて、世界幾百万人の単独者の牧師となることができる。

11月5日(日)

あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい…光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである。(エペソ書五・八〜九)

革新は自己(おのれ)より始まらざるべからず。万斛(ばんこく)の流動体中に結晶体の溶解しあるにもせよ、もし一固形体のその中に投入せらるるにあらざれば凝結の始まるべきなし。これに命ずるも水液の凝固すべきはずなし。これを叱咤するも何の益かある。われをしてまず凝結の基礎たらしめよ。さらばわれより凝結は始まるべし。われをして万有の土台の上に屹立(きつりつ)せしめよ。さらば周囲はおのずから来りてわれより整列するに至るべし。これ革新事業成功の大秘訣なり。

11月4日(土)

主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊で、災いを思いかえされるからである。(ヨエル書二・十二〜十三)

キリスト教は西洋に宗教にあらず。キリスト教はこの世の宗教にあらず。天国の宗教なり。キリスト教を解する困難は、あるいはギリシャ哲学をもって、あるいは印度哲学をもってこれを解せんとするにあり。キリスト教はこの世の哲学をもってしては、到底解しえざるものなり。「イエスいいけるは、人もし新たに生まれずば神の国を見ること能わず」と。新生の恩恵(めぐみ)にあずからずして、東洋の儒者も、西洋の哲学者も、キリスト教の何たるかを会得(えとく)するあたわず。

11月3日(金)

キリストにこそ、満ちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そして、あなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、(コロサイ書二・九〜十)

キリスト教は信仰のことである。しかり、パウロの言に従えば、キリスト教はキリストであるとのことである。ゆえにキリスト教に学ぶに、オクスフォードまたはケンブリッジに学ぶ必要はないのである。またヨークまたはカンタベリーの大僧正についてこれを質(ただ)すの必要はないのである。「イエスは神に立てられて、汝らの知恵、また義、また聖、また贖いとなり給えり」と使徒パウロはいうた。信者の神学はイエスである。彼の潔斎(きよめ)(洗礼)はイエスである。彼の完成はイエスである。しかり、イエスである。教会ではない。監督ではない。長老ではない。またかれらが唱道する神学または教義ではない。イエスを信じて、われら日本人もまた、今日ただちにキリスト教の奥義に達することができるのである。

11月2日(木)

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命(いのち)があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ伝一・一〜五)

犠牲は宇宙の精神なり。しかしてこの精神のもっとも完全に顕(あら)われたる者をイエス・キリストとなす。神はキリストによりて万物を造りたまえりというは、このことをいうなり。すなわち精神はキリストを規範(ノーム)として宇宙を造りたまいしをいうなり。キリストを識(し)る者は神を識り、十字架を解する者は宇宙を解す。われらはキリストにならい、その犠牲の生涯を送りて、哲学者たらずしてよく宇宙を解するをうるなり。

11月1日(水)

わたしとわたしの言葉を恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使(みつかい)との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。(ルカ伝九・二十六)

パウロいわく「われは福音を恥とせず、そはこの福音は、ユダヤ人をはじめ、すべて信ずる者を救わんとの神の大能なればなり」と(ローマ書一・十六)。声、高くして想(おもい)、低き哲学者の前に、多く約束して少なく実行する政治家の前に、倫理を説いてなおその無能を自認する教育者の前に、富を積んでなお窮迫を訴うる実業家の前に、文を綴りて思想の空乏を歎ずる文学者の前に、われらキりストをしんじてその救済(すくい)の実力を実験する者は、何の恥ずるところかあらん。われらの羞恥(しゅうち)は無益なり。われらの彼らにまさりて幸福かつ健全なる者なり。