一日一生(内村鑑三)「一日一生」(教文館)より


注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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年の初めに 二月


一日一生(内村鑑三)

二月(『ロマ書の研究』より)

それゆえに信者の救いは確実なるものである。もしわれらのための救いならば、われらは第一に、これを信ずることができない。第二に、よし救われたりとするも、不安にたえない。自分にさえあきれる者が、神が自分についてあきれたまわずとの理由を発見することができない。しかしながら神ご自身のための救いであると聞いて、われらは安心してこれにあずかることができる。神がその子の救済(すくい)の能力(ちから)を現わさんがために、特別に罪人を選みてその救いにあずからしめたまえりと聞いて、すこしもふしぎでない。またわれらごとき者の救われんがために、万物は外にありて、聖霊は内にありて、うめき歎くと聞いて、われらは驚かない。その聖子の善き臣下を造らんがために神が万物をしてたがいに相働きてわれらの救いを完成(まっとう)したもうと聞いて、すこしも怪(あや)しまない。自分のためにほどこされたる恩恵は頼りがたき恩恵である。されども神ご自身のためにほどこされたる恩恵なるがゆえに、これを失うの危険がないのである。クリスチャンの安心の基礎はここにある。彼は己が救われし理由を、神の変わらざる聖旨(みこころ)において見るからである。「父よ、しかり、かくのごときは聖旨にかなえるなり」である(マタイ伝十一・二十六)

2月28日(水)

また、救いのかぶとをかぶり、御霊(みたま)の剣(つるぎ)、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エペソ書六・十七〜十八)

キリストにおける信仰は余を罪より救うものなり。されども信仰もまた神の賜物なり(エペソ書二・八)。余は信じて救わるるのみならず、また信ぜしめられて救わるる者なり。ここにおいてか余はまったく自身を救う力なきものなるを悟れり。さらば余は何をなさんか。余は余の信仰をも神より求むるのみ。キリスト信徒は絶え間なく祈るべきなり。しかり、彼の生命は祈祷なり。彼なほ不完全なれば祈るべきなり。彼なほ信仰たらざれば祈るべきなり。彼よく祈りあたわざれば祈るべきなり。恵まるるも祈るべし。呪わるるも祈るべし。天の高きに上げらるるも、陰府(よみ)の低きにさげらるるもわれは祈らん。力なきわれ、わが能うことは祈ることのみ。

2月の終りに

金(きん)にもまさり、名誉にもまさり、知識にもまさり、生命(いのち)にもまさる、ああ、なんじ独立よ!

ああ王たちよ、ああ公(きみ)たちよ、ああ監督たちよ、なんじらは圧制家である。

独(ひと)り真理とともにあり、独り良心とともにあり、独り神とともにあり、独りキリストとともにありて、わらは自由である。

2月27日(火)

すなわち、父が死人を起こして命(いのち)をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。父はだれをもさばかない。さばきのことは、すべて子にゆだねられたからである。(ヨハネ伝五・二十一〜二十二)

神がキリストをもってわれらを審(さば)きたもうに至って、審判(さばき)はわられがおもいしごとく怖るべくものでなくなったのである。審判と聞けばはなはだ恐ろしく感ずるなれども、キリストが審きたもうと聞いて、恐怖は去り感謝がくるのである。キリストはたれぞ、神と人との間に立つ一位の中保者(ちゅうほしゃ)、人を神に執(と)りなしたもう者、人の罪の軽減と赦免とをねがう者、柔和なる救い主、罪人の友…神はキリストに審判をゆだねたもうて、罪の軽減と赦免とを期したもうたのである。ここにおいてか、われらは多くの罪を犯ししにかかわらず、われらに無罪放免の希望(のぞみ)が提供されたのである。われらは今はわれらを審く者の何人(なんぴと)であるかを知るがゆえに、臆(おく)せずして彼の台前(みまえ)に立つことができるのである。

2月26日(月)

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしはどんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧(ひん)に処する道を知っており、富(とみ)におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(ピリピ書十一〜十三)

キリストがわが心の中にやどりたもうて、感謝がわが生命となる時に、われのなしえない善とては一つもなくなる。われはその時、いかなる敵のいかなる咎(とが)をも自由にゆるすことができる。その時、我は善の勇者であり、愛の富者であって、けがれたるわが身がいたるところに香気をはなつように感ずる。もしこれが救いでなく、復活でなく、昇天でないならば、われは、救い、復活、昇天の何であるかを知らない。その時、われは詩人の言を借りて歌う、

神はわが足を雌鹿(めじか)の足のごとくし

われをわが高きところにたたせたもう(詩篇十八・三十三)  

2月25日(日)

だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨(みむね)を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない。」しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。(ヘブル書十・三十五〜三十九)

信仰とはしんずべからざることを信ずるにあらざるなり。二と二を合すれば五なりとは、宇宙が消えうするともわれは信ずるあたわざるなり。虚言を吐くは善なりとは、水火の責めにあうともわれは信ずるあたわざるなり、しかして信ずるべからざるなり。虚喝(きゃかつ)手段をもって人を善道に導きうべしとは、いかなる証明ありといえども、われは信ぜざるなり。信仰とは、信ずめきことを、恐れず、躊躇せず信ずるをいうなり。

2月24日(土)

「山は移り、丘(おか)は動いても、わがいくつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約はうごくことがない」とあなたをあわれまれる主は言われる。(イザヤ書五十四・十)

霊魂の要求するものは愛であります。また宏大無辺の愛であります。霊魂は実に莫大なる要求をなすものであります。彼は到底金殿玉楼ぐらいをもっては満足いたしません。美衣美食ぐらいで彼の飢渇(きかつ)は決していやさるるものではありません。彼に侍(じ)せしむるに三千の宮女をもってしても、いたずらに彼の悲哀は増すばあかりであります。幸福なるホームをもってしても、善良なる友人をもってしても、これもまた彼の満腔(まんこう)の欲望を充たすにはたりません。霊魂はじつにその友として、またその父として、その救い主として、宇宙万物の造り主たる独一無二の活(い)ける真の神の愛を要求いたします。これなければ彼は死んだものです。これあれば彼の欲するすべてのものを得たのであります。

2月23日(金)

わたしは主なる神のみわざを携(たずさ)えゆき、ただあなたの義のみを、ほめたたえるでしょう。神よ、あなたはわたしを若い時から教えられました。わたしはなお、あなたのくすしきみわざを宣べ伝えます。神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。(詩篇七十一・十六〜十八)

千九百年前の昔にありて、キリスト教のすべては槽中の嬰児に存せり。その時いまだダンテの神曲あるなく、クロンウェルの英国あるあるなし。これを守るにただマリヤの繊手(せんしゅ)とヨセフの堅忍とありしのみ。しかも神の植えたまいし木はそだちて、レバノンの香柏(こうはく)よりも高きに至れり。われらいまの時にあたり、その一枝をこの地に植えんと欲して、何をか恐れん。いまや全宇宙のわれらの業(わざ)を助くるあり、また幾万の聖徒のわれらの言を証(あかし)するあり。われらにしてもしこの小暗塊(しょうあんかい)を酵化(こうか)しえずんば、後世はわれらを評して何といわん。

2月22日(木)

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂(はつほ)として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(コリント第一書十五・二十〜二十二)

信者が復活するのではない、彼のうちに住(す)みたもうイエスが復活するのである。彼は義によりて生きたもうのである。しかしイエスは信者のうちにありて復活したもうて、信者と共に復活したもうのである。信者はイエスの復活の同伴にあずかるのである。彼と共に挙(あ)げらるるのである。「われ生くればなんじらも生くべし」とかれが言いたまいしはこのことである(ヨハネ伝十四・十九)かくて信者の復活に、あえて不思議なるところはないのである。イエスの復活が当然であり自然であるがごとくに、信者の復活もまた当然であり、自然であるのである。

2月21日(水)

というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。(コリント第一書八・五〜六)

天地は広し、人は多し、されどもそのなかにただ二人あるのみ。神とわれとこれなり。彼、われを愛し、われまた彼を愛し、われは彼の命に聴いてすべてのことをなす。われは彼に誉(ほ)められて喜び、責められて泣く。彼に善とせられんことは、わが終生の目的なり、われ、彼と共に働き、彼と栄光と恥辱とをわかつ。彼、崇(あが)めらるればわれ歓(よろこ)び、彼、?(けが)さるればわれ怒る。われ、彼にわが手をひかれて彼の造りたまいし宇宙を逍遥し、その中のすべての獣と空のすべての鳥とを示され、わが生物に名づけるところはみなその名となる。われはまことに今の世にありて、始(はじめ)のアダムなり。われのほかに人あるなし。ただ神、われとともにあるのみ。神とわれとのみ。ゆえにわれは彼にありて、万人と万物とを愛す。われは神によらずして、何物にもつながらず。また神によりてすべての者につながるなり。

2月20日(火)

見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。多くの人が彼に驚いたように…彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異(こと)なっていたからである…彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。(イザヤ書五十二・十三〜十五)

復活はまことに大いなる奇跡である。しかしながら、品性の純聖はさらに大いなる奇跡である。しかしてこの奇跡があって、かの奇跡は奇跡ではないのである。イエスの在りしことがすでに奇跡中の最大奇跡である。道徳の法廷において一点の指(さ)すところのなき人のありしこと、そのことが最大の奇跡である。しかして復活はこの人にあったことである。これを自然の結果と見てあやまらないのである。イエスは人であって人でないのである。しかして内が外にあらわれんがために、体(からだ)が霊にかなわんがために、彼の場合においては、生は死に勝ちて、彼は死して、より高き形状(ありさま)において復活したのである。

2月19日(月)

その魂は墓に近づき、その命はほろぼす者に近づく。もしそこに彼のためにひとりの天使があり、千のうちのひとりであって、仲保(ちゅうほ)となり、人にその正しい道を示すならば、神は彼をあわれんで言われる、「彼を救って、墓に下ることを免(まぬか)れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た」。(ヨブ記三十三・二十二〜二十四)

人類は神から堕落したのであります。彼が「天の門」において、神の側(かたわら)において、神と共に持つべき位置から堕落したのであります。彼に臨みしすべての悲痛は、この堕落に原因しているのであります。罪の中の罪とは、神をすてさることであります。したがって救いの何であるかがわかりましょう。救いは先ず第一に人を神に連れかえることであります。そうしてキリストの十字架は、神と人との間に立ちて、この独特の用をなすものであります。キリストは道徳を説いてわずかに人の心の改善をはかりたまいませんでした。彼は罪そのものを滅ぼしたまいました。すなわちキリストによって神と人の間にありし離隔は取りさられました。

2月18日(日)

その怒りはただつかのまで、その恵はいのちのちかぎり長いからである。夜はよもすがらなきかなしんでも、朝と共に喜びが来る。(詩篇三十・五)

主は怒りたまわざるにあらず。われらに刑罰の臨まざるにあらず。されどもこれただ暫時のみ。彼の恩恵(めぐみ)は延びて終生にわたるなり、懲罰は例外なり、しかして恩恵は常則なり。涙は時にうかばざるにあらず、されどもこれ単に旅人の一夜をわが家にすごすがごとし。朝来れば彼は去り、しかして歓喜(よろこび)は彼に代わりてとこしえにわれと共にすむなり。苦痛は暫時のみ、歓喜は永久なり。涙は旅人のごとくしに去りて、感謝は家人のごとくにして来り住む。しかり、歓喜は朝とともにきたらん。旭陽、暗黒を拝(はい)して昇る時に、わが唇に賛美の声あがる。

2月17日(土)

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過すようにと、あらかじめ備えてくださったのである。(エペソ書二・八〜十)

われにしてみずから悔い改むるにあらざれば神はわれを救う能(あた)わずとは、偽預言者と偽牧師のしばしばわれらに告げしところなり。しかり、われは悔い改めざれば救わざるべし。されども神は聖霊をもってわれを悔い改めしめたもう。われみずから意志の努力をもって悔い改めしにあらず。これ到底われのなしえざる業(わざ)なり。されども神、われに宿り、わが意志をもって彼の意志となし、しかして彼の意志の能力(ちから)をもってわれが悔い改めしめたもう。われ独力をもって悔い改めしにあらず、しかも神はこれをわが悔い改めとして受けいれたもう。ああ、神秘中の神秘とは神と意志との神秘なり。しかも贖罪(しょくざい)の神秘は、この神秘の中に存す。われらは哲学的にこれを証明しあたわざらん。しかももっとも確実なる事実としてわれらはこのことを知るなり。そはわれらの意志に関する事実は、もっとも確実に知りうればなり。

2月16日(金)

イエスは彼らに近づいて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにパプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。(マタイ伝二十八・十八〜二十)

三位一体の教義は道徳的教義であります。これを信ずるによって、人の人生観はまったく一変します。これをこばみます時に、彼の品性の変化ははじまります。キリスト教のすべての教訓はこの教義と大関係をもっています。これを取っても捨ててもよいと思う人は、いまだキリスト教を了解しない人であります。そうして、キリスト教が世を救うための実際的勢力でありまする以上は、三位の神を信ぜずしてこの勢力を維持することはできません。わたくしはわたくしの聖書を照らしてみまして、またわたくしの理性に訴えてみまして、ことにまたわたくしの実験的生涯に応用してみまして、主の神は三位一体の神でなくてはならないことを信じて疑わないのであります。

2月15日(木)

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル書十一・一)

信仰は人によって迷信のごとくに見える。信仰はたしかに一種の冒険である。これにしたがって、あるいは失敗におわるかも知れない。しかしながら、信ずる者は信仰の迷信でないことを知る。信仰は心にひびく神の声に対する信者の応諾(おうだく)である。彼は形体(かたち)を見ない、また証明を持たない。しかしながら彼はたしかに信ずるのである。しかり、信ぜしめられるのである。彼にとりては、信仰そのものが見ざるところの物の証拠となるのである。彼は言うのである。われに信仰起これり、ゆえにこれに応ずるの実物なかるべからずと。実物をもって信仰を証明するのではない、信仰をもって実物を証明するのである。これが信仰の力である。この力なくして、信仰はこれを信仰と称するにたりない。

2月14日(水)

神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召してくださったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのでなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜っていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。(テモテ第ニ書一・九〜十)

現世はわれらの理想を行うにはあまりに不完全なるところであります。もしこの世が万事をおわるものでありまするならば、人としてここに生まれ来りましたのは最大の不幸であると思います。世に辛いこととて、理想を持って理想を行えないくらい辛いことはありません。しかるにすべての高尚なる人の生涯みなこの「充たされざる理想」の生涯であります。理想にかなう実物の存在するのがこの宇宙の法則でありますのに、現世には吾人の理想にかなうための実物がありません。このことが来世の存在のもっともたしかなる証拠ではありませんか。

 

2月13日

しかし、わたしは今日にいたるまで神の加護を受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーゼが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです。(使徒行伝二十六・二十ニ〜二十三)

信者の復活の希望は自己によるのではない、主イエス・キリストによるのである。信者は人として復活せんと欲するのではない。これ彼が望んであたわざるところである。彼は主イエス・キリストにありて復活するのである。語をかえていえば、キリスト彼にありて復活をくり返したもうのである。信者はキリストの宿りたもうところの者である。しかして「我は復活(よみがえり)なり生命(いのち)なり」といいたまいし彼は、信者の体に宿りてこれを復活したもうのである(ヨハネ伝十一・二十五)。イエスの霊のあるところにはかならず復活がある。イエスの霊を受けて、復活はこれを自然の結果と見ることができる。

2月12日

それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。そこでイエスは十二人の弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ伝六・六十六〜六十九)

キリストは余の道徳的宇宙である。余は精神的には彼にありて生き、動き、またある者である。ゆえに余は彼を離れて何事をもなしえない。あたかも木からおちた猿のごとき者であって、世にキリストをはなれたる余のごとくに憐(あわ)れなる者はない。キリストに従うは余の利徳ではない。これはいまは余の生存上の必要である。かれをはなれんか、すべての恥辱と失敗とは余を待ちつつある。余がほまれある生涯を送らんとほっせば、余はキリストにすがるよりほかに道はない。哀れむべき羨むべき者とは余のことである。

2月11日

見よ、あなたがたは散されて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。(ヨハネ伝十六・三十二)

人類のためにつくさんと欲して、世に交際を求むるの必要は一つもない。われらは単に独りありて人類のためにつくすことができる。人は何人(なにびと)も人類の一部分である。ゆえに己れにつくして人類のためにつくすことができる。ひとり真理を発見することができる。独り神と接することができる。独り霊性を磨きて完全の域にむかって進むことが出来る。われらは人類のよき標本として己れを世に提供することができる。単独は決して無為の境遇ではない。

2月10日(土)

しかも彼を砕くことは主のみ旨(むね)であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。(イザヤ書五十三・十)

キリストの事業は彼の死をもって完成せり。そのごとく、余輩、彼の小なる弟子の事業もまた、余輩の死をもって完成するなり。死は最大の事業なり。生涯の高極なり、人は死せずしていまだその業は就(な)れりというをえず。まことにキリスト信者は生前の成功なるものあることなし。彼の事業は死をもってはじまるなり。彼は肉眼を持って己が事業の成功を見るあたわず。その生命(いのち)を世の罪の供(そな)え物となすをえて、その事業のとこしえに神の手にありて栄ゆるを見るなり。

2月9日(金)

御言(みことば)を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。(テモテ第二書四・二)

世に真正の伝道はど楽しいことはない。これは事業中の事業であって、一たびその快味を味わうて、われらは他の事業に転ずることはできない。人の霊魂を救うことである。彼を心の根底より革(あらた)むることである。ある時は瞬間にして罪人がその罪をすて、神にかえりくるのを目撃することがある。彼の家庭はきよまる、彼の妻子と姉妹とはよろこぶ、彼の生涯の方針はまったく一変する。彼によって新事業がくわだてられ、かつ成就せれれる。一片の福音がかくも深遠なる変化を生ぜしかと思えば、じつに驚くばかりである。

2月8日(木)

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の労苦は、その日一日だけで十分である。(マタイ伝六・三十四)

彼の言語(ことば)は詩歌であった。彼の祈祷は感謝であった。彼の無邪気なる、一日の労をおえたまえば、颶風(ぐふう)吹きすさむ波の上にただよう小舟の?(とも)のかたに枕して寝(い)ねたまえりとのことである(マルコ伝四・三十七〜三十八)。のみならず、彼が敵にわたさるるその夜、恐るべき死は面前にせまりおりしにもかかわらず、彼は弟子らと逾越(すぎこし)の節筵(いわい)をともにし、諄々(じゅんじゅん)としてかれらに教うるところあり、「彼ら歌をうたいてのち橄欖山(かんらんざん)にゆけり」とありて、賛美歌をもって彼らの質素なる聖き筵(むしろ)をにぎわしたる事がわかる(マタイ伝二十六・三十)。じつに悲哀の人なりし彼は、同時にまた歓喜(よろこび)の人であったのである。彼はよく悲鳴を抑制するの道を知りたもうた。彼ご自身が明日のことをおもいわずらいたまわなかった。彼はいまだかって世にありしことなき最大の楽天家であった。

2月7日(水)

心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。(マタイ伝五・八)

神は一つである。ゆえに彼は単純である。一つなるがゆえに、入りくめる、繁雑なる、複雑なる者でないに相違ない。清き心をもってすれば、何人にも解し得らるる者であるに相違ない。あたかも嬰児(おさなご)のごときものであって、天真爛漫、無為正善の者であるに相違ない。神の解しがたきは、彼が複雑なるがゆえではない。単純すぎてあまりに透明なるがゆえである。あたかも英雄の心のごとく、清風霽月、一点の塵(ちり)をとどめざるがゆえに、人は彼を解しえないのである。人は容易に多くの神を信ずる。しかし容易に独一無二の神を信じない。純情は彼らのたえられないところである。ゆえに彼らは多くの不純なる神を作りて、己が不潔をおおわんとする。

2月6日

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下がって来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨(みむね)のままに、生み出して下さったのである。(ヤコブ書一・十七〜十八)

善事とは神を信ずることである。悪事とは神よりはなれて人と自己とに頼ることである。その他に善事もなければ悪事もない。病気かならずしも悪事ではない。もしわれらを善なる神に導くならあば、病気もまた善事である。健康かならずしも善事ではない。もし健康が人をして自己にたよらしめ、自己をもって慧(さと)しと思わしむるに至るならば、健康かえって悪事である。貧困も同じことである。その反対の富貴もおなじことである。キリストいいたまわく、なんじなにゆえに善についてわれに問うや、一つのほかに善あるなし、すなわち神なりと。善とは神を離れて別にあるものではない。神と神に向かうこと、これが善である。神より遠ざかり、神にさからうこと、これが悪である。善悪の差別はこれだけである、しかしこれ生死の差別である。

2月5日(月)

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(みこ)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。(ヨハネ伝三・十六〜十七)

キリストはなんのために世にくだりたまいしかと問うに、新約聖書がこのことに関していうところは明白である。すなわち彼の血(死)をもって人類の罪を贖うためである。そうして死して後に昇天し、天の門戸をひらいて、人の子に神の子となるための機能を与えんがためである。これがキリストの降世の最大の目的であって、その他のことはこの目的に副(そ)うた余光である。人類の罪を贖い、彼の聖霊を罪に沈みし人の子の上に注がんための道をひらかんためには、彼の愛子をつかわして、世をしてこれを十字架につけしむるの必要があった。キリストの生涯を贖罪の生涯と見てのみ、新約聖書はもっとも満足に解釈せらるるのである。

2月4日(日)

それだから、あなたがたに言っておく。何をたべようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。(マタイ伝六・二十五から二十六)

世より独立するに容易なるがゆえに、貧者は天然とまじわるますます深いのである。貧はもちろん貧窮の意味ではない。貧とは人の造った富に依(よ)らずして、神の与えたもう恩恵(めぐみ)に依(よ)ることである。ゆえに貧とは空の鳥や野の百合の花のようになることである。すなわち日光に楽しみ、清風に浴し、つとめず、憂いわずらわざるようになることである。天然の快楽なるものは、貧せざればえられないものである。詩人ウォルズオスのように「高き思想」を楽しまんと欲すれば、また彼のごとくに「低き生涯」に甘んじなければならない。

2月3日(土)

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け、あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いにかえよ。主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くしてくださるであろう。(ヤコブ書四・八〜十)

得(う)るの快楽あり、失うの快楽あり、生(うま)るるの快楽あり、死するの快楽あり。愛さるるの快楽あり、憎(にく)まるるの快楽あり。しかしてもし快楽の性質よりいわんには、失うの快楽は得るの快楽より高く、死するの快楽は生るるの快楽よりも清く、憎まるるの快楽は愛さるるの快楽より深し。神を信じて、いかなる境遇に処するも、われらに快楽なきあたわず。ただ悲痛の快楽の、快楽の快楽にまさる数層なるを知るのみ。

2月2日(金)

わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。(コロサイ書一・三〜四)

信、望、愛とは三つであって、じつは一つである。信なくして望は起こらないが、しかし望なくして信を維持することはできない。愛はまた望よりその活動の動機をあおぐものであるが、望たえし後の愛は、油のたえし燈火のごとくに、熱と光とをうしなって、ついにまたもとの暗黒にかえるものである。望を供せずして愛を強(し)うるは無慈悲である。望のたらざる信は頑固であって冷酷である。望は三人姉妹の中でもっとも女らしい者である。彼女の側にはべるがゆえに、愛は義務の羇絆(きはん)を脱して自由なるものとなる。彼女のやさしき感化をうけて、信は頑強たるをやめて温雅なものとなる。望は天の和気をよんで地の渋苦を融く。望に温かき涙がある。彼女は天の扉を開いてその中におるわれらのしたう聖き姿をあらわすものである。

2月1日(木)

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅(かた)く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。(ガラテヤ書五・一)

自由は吾人の固有性にあらず。ゆえに完全に自由ならんと欲せば、吾人は完全に自由を有する神に至らざるべからず、すなわち吾人は神によりてのみ真正に自由なるをうるなり。詩人テニソンいわく「われらの意志は、そをなんじ(神)にささげんがために、われらに与えられしものなり」と。吾人の意志は吾人の意志を持ってこれを神にささぐべきものならざるべからず。もちろん人は不可割的個体なるがゆえに、いかなる場合においても他体に吸収さるべきものにあらず。されども人、その自由を国家の使用に供してかえって国家大の自由を獲得するがごとく、これを無限の神の使用に供して、無限大の自由、すなわち真正の自由を享有するにいたる。

年の初めに

主は永久に「在らんとするもの」である。今日の主は明日の主ではない。明日は今日よりもさらに大にして貴く、明年は今年よりもさらに大にして貴く、かくして十年また百年、永遠にわたり、かぎりなき真理と恩寵とを人類に現示したもうのである。換言すれば、彼は永遠に約束して、しかしてこれを実行したもう神である。I will be that I will be.在らんとして在らんとするもの、かく在らんと言いて、最後にこれを実現したもうもの、かくのごときものが主なる神である。『モーゼ十戒』

1月31日(水)

あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。(エペソ書四・二十一〜二十四)

イエスは平民である。余は平民の模範として彼を仰ぎまつる。かくいいて、余はイエスはいまのいわゆる平民であるというのではない。平民とはその持つところの位の有無、富の多少によって定めらるべきものでない。貴族の中にも平民あれば、平民の中にも貴族がある。自己を貴とばざる者、これが平民である。自己になにか貴い者であるように思う者、これが貴族である。ゆえにイエスは平民であると言わんよりは、むしろ平民とはイエスのごとき者であるというべきである。すべてイエスを主としてあおぐ者、彼に罪をあがなわれんとする者、これみな平民である。すなわち神の子としての貴尊をみとむるほか、その他の貴尊をことごとく拒否する者、これが真正の平民である。

「内村鑑三全集」第十三巻『感想』より

なんじの財産を神に献(ささ)げよ、さらばかみは己が有(もの)としてこれを守り、いかに紊乱(びんらん)せるものなりといえどもこれを整理し、ふたたびこれをなんじに委(ゆだ)ねて、己が(神の)ものとしてこれを使用したもうべし。

なんじの身体を神に献げよ、さらば神は己がものとしてこれを養い、疾病(やまい)の重きにかかわらずよくこれを癒し、ふたたびこれをなんじに与えて、己が(神の)ものとしてこれを使用したもうべし。

なんじの霊魂を神に献げよ、さらば神は己がものとしてこれを聖(きよ)め、なんじの罪は緋(ひ)のごとくあるも雪のごとく白くなし、ふたたびこれをなんじに還(かえ)し、己が(神の)ものとしてこれを使用したもうべし。

神に献げよ、神の有(もの)とせよ、神にして自由にその能力(ちから)をほどこさしめよ。さらば困難としてまぬからざるはなし、疾病として癒されざるはなし、罪として潔(きよ)められざるはなし。

乱れしそのまま、病みしそのまま、汚れしそのまま、今これを神に献げよ、しかして神をしてその大能をもって、なんじにかわりて整理、治療、救済の任にあたらしめよ。

1月30日(火)

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきてくださった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そしてわたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。(テモテ第一書一・十五〜十六)

余輩がもし自身を指してキリスト信者であるというならば、これ決して余輩の高徳をほこっていうのではない。キリスト信者とは名誉の名であるように思うているのが、そもそも真正のキリスト信者でないもっともよい証拠である。キリスト信者は罪人の一種である。自身の罪深きをみとめて、神の赦免(ゆるし)を乞わんがためにキリストの十字架にすがる者である。いまでこそ、パウロが信者でありペテロが信者であったと聞けば、いかにもかれらの名誉でありしように思うなれども、その当時においては、これはかれらにとって社交的には大不名誉のことであったのである。人の前に自分の罪人なるを表白しえない者は、けっしてキリスト信者ではない。しかるを、キリスト信者となりしとて文明的君子となりしように思う人は、いまだキリスト教の初歩をだに知らない人である。

1月29日(月)

イエスは答えて云われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。(マタイ伝二十一・二十一〜二十二)

世に金銭の勢力あり、政権の勢力あり、知識の勢力あり、されどもいまだ祈祷の勢力におよばざるなり。これじつに誠実の勢力にして、山をも透(とお)し岩をも砕くの勢力なり。世の大事業ととなえらるるものは、みな祈祷の力によってなりしものなり。祈祷の力によらずして建てられし国家は虚偽の国家にして、永久的不変の基礎の上にすえられしものにあらず。祈祷の力によらずしてなりし美術に、天の理想を伝うるものあるなし。祈祷は精神的生命をうる唯一の秘訣なり。ゆえに祈祷なきの国民より大政治、大美術、はたまた大文学、大発見、その他大と称すべきものの出できたるべきはずなし。

1月28日(日)

知恵の初めはこれである。知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、さとりを得よ。それを尊べ、そうすれば、それはあなたを高くあげる、もしそれをいだくならば、それはあなたを尊くする。それはあなたの頭に麗しい飾りを置き、栄えの冠(かんむり)をあなたに与える。(箴言四・七〜九)

人は宗教と科学との衝突をいう。されどもわれはいまだそのこれあるを認むるあたわず。宗教は霊界の科学的考究の結果というべく、科学は物界の宗教的観察というも可(か)なり。吾人は宗教を攻究するに科学的方法を応用するを恐れざるのみならず、普通の科学的常識にかなわざる宗教的思想は棄却して採用せず。またこれと相対して、科学的研究法に宗教的精神の用なしと信ずる者は、いまだ科学、宗教ふたつながらを解せざる者といわざるべからず。それは真率なる心、謙遜なる心、すべてのものにまさりて真理を愛するの心は、宗教においても科学においても、最始最終の必要物なればなり。

1月27日(土)

人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好(この)みにまかせて教師たちを集め、そして、真理から耳をそむけて、作り話の方にそれて行く時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務(つと)めを全うしなさい。(テモテ第二書四・三〜五)

宗教なるものは人類と神との間の関係を明らかにするものにして、これを世に伝うるは人類を最も幸福なる地位に立ち帰らしむるものなれば、この教理を世に伝うることはじつに善の善にして、博愛事業中この事業にまさるもの他にあることなし。伝道は仁人君子の職(つとめ)にして、これにまさるの業を余輩は余の思想中に見出すことあたはざるなり。いま伝道を以って人類を神に立ち帰らしむるの事業となさば、その区域はじつに広(こう)かつ大なるものなり。言語をもって教理を説明するはもちろんその方法の一つなり。されども説教または筆硯の業をもって伝道事業の大部分または全部とみなすは、大いなる誤謬といわざるをえず。伝道の要は、すべての方法をもってすべての人を神に立ち帰らしむるにあり。

1月26日(金)

主は知恵をもって地の基(もとい)をすえ、悟りをもって天を定められた。その知識によって海はわきいで、雲は露をそそぐ。わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、それをあなたの目から離してはならない。それはあなたの魂の命となりあなたの首の飾りとなる。(箴言三・十九〜二十二)

詩人テニソンの最も注意せし問題は、霊魂不滅、未来存在の問題なりしという。故グラッドストン氏、またこの問題に彼の終生の思考をそそぎ、死に瀕する際、パトラーの『アナロジー』の評注をくわえ、彼の豊富なる観察と思考との結果を世にのこして逝けり。政治家にあれ、文学者にあれ、あるいは商売人にあれ、職工にあれ、つねにこの世以上の一問題をかれの脳中にたくわえておくことは、彼の品格を高め、かれの悟性(ごせい)を明らかにし、彼をして俗界の汚気にふるるの憂いなからしむるために必要なり。

1月25日(木)

あなたがたは、世の中の光である。山の上にある町は隠されることができない。また、あかりをつけて、それを枡(ます)の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ伝五・十四〜十六)

イエスの弟子は世の光である。文明の先導者である。霊光の供給者である。このことについて疑いをいだく物はいない。世のいわゆるキリスト教に迷信がないではない。いわゆるキリスト教会なるものが頑迷無知の巣窟(そうくつ)と化したることは幾回もある。されど過去千九百年間の人類の歴史において、イエスの弟子が光明の炬火(たいまつ)の把持者(もちて)であったことは、いかなる人といえども疑わんと欲してあたわざるところである。われは世の光なりとイエスはいいたもうた。しかして信者はイエスにかわりて世を照らす者である。もちろんイエスのごとくにみずから光をはなつあたわざるといえども、しかも各自の信仰の量にしたがい、彼の光を反射するのである。

1月24日(水)

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊(みたま)である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないで、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤独とはしない。あなたがたのところに帰って来る。(ヨハネ伝十四・十六〜十八)

われらがキリスト信者となりたりというは、洗礼を受けてキリスト教会に入りたりということではない。またはわれらの知能をもってして、キリスト教の教理を理解したということでもない。われらがクリスチャンとなりたりということは、われらがある「聖者」を友として持つに至ったということである。しかも単にあるふるき記憶において、ある理想の人を発見したというのではない。いま活けるある聖(きよ)き友人を発見して、そのともなうところとなったということである。すなわちわれらは大なるパラクレートス、すなわち「側(そば)にある者」をえたということである。寂寞(せきばく)の世にあって孤独の生涯を送るをやめて、大なる「訓慰師(なぐさむるもの)」を平常の友として持つに至ったということである。

1月23日(火)

モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。主は彼に言われれた、「だれが人に口を授けたのか。おし、耳しい、目あき、目しいに、だれがするのか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。(出エジプト記四・十〜十二)

憂うるなかれ、なんじ、朴訥(ぼくとつ)の青年よ、なんじはつねに俊才怜悧(しゅんさいれいり)の人に愚者としてうとんぜられ、なんじの世事に長ぜざるをもって不用人物としてみまさるることあり。しかも全能なる神はかえってなんじがごとき者を求め、なんじをして人間の思想の達しうべからざる知恵と希望と喜悦とを有せしめんと欲す。いうをやめよ、なんじ、俊才怜悧なる青年よ。われ人を統御するの才あれば、われ世の風潮を観察するの卓見あれば、われは伝道師となりて教会を組織し、教理を伝播せんと。なんじはよろしく伝道師たるの念をすてて他の事業につくべきなり。

1月22日(月)

わたしは、更にすすんで、わたしの主キリスト・イエスを知る絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。(ピリピ書三・八)

病むも可(か)なり、余はただ神の聖意(みこころ)を知らんと欲す。貧するも可なり、余はただ神の聖意(みこころ)を知らんと欲す。人に憎まれるも可なり、余はただ神の聖意(みこころ)を知らんと欲す。余の不幸の極みは、聖意を知りえざるにあり。余は疾病をおそれず、貧困をおそれず、孤独をおそれず。余はただ神にすてられて、その聖意の余に伝えられざるに至らんことをおそる。神よ、ねがわくは余にいかなる患苦(なやみ)の臨むことあるも、なんじと余との間に霊の交通のたえざらんことを。


1月21日(日)

「わたしは主、あなたがたの聖者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」。海のなかに大路(おおじ)を設け、大いなる水の中に道をつくり、戦車および馬、軍勢および兵士を出てこさせ、これを倒して起きることができないようにし、絶え滅ぼして、灯心(とうしん)の消えうせるようにされる主はこう言われる。(イザヤ書四十三・十五〜十七)

奇跡とは何であるかというに、奇跡とは神の事跡であるというまででございます。すなわち人を造り、宇宙を造りたまいし神がなしたまう業(わざ)であるというのであります。人間には奇跡はできるものではありません。(特別なる神の援助をうるにあらざれば)。なぜなれば彼自身の位置が自然界の一部分であるのみならず、彼は彼の堕落によって、彼の能力の大部分を失いましたからであります。われらは元来天然以上のものでありましたけれども、われらが神をはなれて自己に頼り出しましてより、われらは天然の奴隷となりさがった者でございます。しかし神は己れの造った天然を自由にすることができます。神が宇宙の運行を早めようが遅らしようが、それは時計が時計の指針を自由にすることと同然で、なにも驚くにはたらないことであります。

1月20日(土)

わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。(ローマ書九・一〜三)

宗教家は愛国家ならざるべからず。博愛主義に則(のっと)ると称して国家の存立すべき理由を解せず、国家の威厳を犠牲に供して外国宣教師の命にただこれ従うがごときは、これいまだ宗教家の大義を解せざるものなり。真正の宗教家はみなことごとく愛国者なりき。国のためにせざる宗教のごときは、これ邪教として排すして可(か)なり。もし天使の形を装うもの、くだりてわれに一宗教を授けんとし、われに告げて「余はなんじに宗教を授与せんとす。なんじの愛国心を去りてこれを受けよ」といわんか、吾はその時彼にむかっていわん、「余はなんじの宗教を要せず。われはむしろわが国を守りて無宗教家として死せん。われの胸中に燃ゆる一片の愛国心、われはこれに換(か)えるべきものを知らず。なんじに用なし。去ってふたたびわれに来るなかれ」と。


1月19日(金)

それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎(つつし)んで行われなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。(申命記五・三十二〜三十三)

聖書にいうところの「天にいますなんじらの父の完全なるがごとくなんじらも完全なるべし」(マタイ伝五・四十八)とは、神の絶対的完全に達しうべしというにあらずして、神が神として完全なるがごとく、人も人として完全なるべしというなり。完全なる馬とは、人のごとく物言い、人のごとく思惟する馬をいうにあらずして、馬の馬たる用を完全になすものをいうなり。ゆえに人に罪ありというは、人が人たるべき完全を欠くというにあり。キリスト教が義人一人もあるなしいうは、このことをいうなり。神がわれを責むるは、われ雨を降らしえず、日を輝かしえざるがゆえにあらずして、われ人を愛すべきに人をにくめばなり、われ怒るべからざるに怒ればなり。


1月18日(木)

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果(はて)の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのような翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることがなく、歩いても弱ることはない。(イザヤ書四十・二十八〜三十一)

思想はすべて実現してその終末に達するものなり。人その思想の実現を見て、彼はすでに彼の最終期に達せしなり。つねに若からんと欲せば、つねに実現せられざる思想をいだかざるべからず。青年は夢想する人なり。夢想つき、利害を知覚するにおよびて、彼は老物と化せしなり。つねにインポシブル(不可能)を計画する人、つねに大改革を望む人、つねに詩人的にして夢想する人、、つねに利害の念にうとき人、つねに危険を感ぜざる人、これが青年なり、壮年なり。すでにパシブル(可能)を計画し、すでに温和主義を主張し、すでに散文的にして実務に着目し、利害の念にするどく、脚下に注意するものは、彼の齢(よわい)をかさぬる幾回なるを問わず、彼は老物にしてすでに廃棄物なり。

1月17日(水)

ああ、わたしはわざわいだ。わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか。全国の人はわたしと争い、わたしを攻める。わたしは人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに、皆わたしをのろう。主よ、もしわたしが彼らの幸福をあなたに祈り求めず、また敵のため、その悩みのときと、災(わざわい)のときに、わたしがあなたにとりなしをしなかったのであれば、彼らののろいも、やむうぃえないでしょう。(エレミヤ書十五・十〜十一)

われはかつてエレミヤと共に嘆じていえり、ああわれは禍(わざわ)いなるかな、人みなわれと争い、われを攻む、みなわれを詛(のろ)うなりと。されどもいまに至りてわれは感謝していう、ああわれは幸いなるかな、人みなわれと争い、われを攻め、われを詛いたれば、われは神にむすばれてその救済にあずかるをえたりと。人にすてらるるは、神にひろわるるなりき。人ににくまるるは、神に愛せらるるなりき。人に絶(た)たるるは、神にむすばるるなりき。いまに至りて思う、わが生涯にありしことにして最も幸福なりしことは、世にあなどられ、嫌われ、辱(はずか)しめられ、斥(しりぞ)けられしことにてありしことを。


1月16日(火)

わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたいたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿(みすがた)を見るからである。(ヨハネ第一書三・一〜二)

信者は今なお救いの途中においてあるのである。神は彼にありて善きわざをはじめたもうて、これをイエス・キリストの日において全(まっと)うしたもうのである(ピリピ書一・六)。かるがゆえに、われらはいま完全なるあたわずとて、あえて悲しむべきでない。われらはいまは罪の身をもって罪の世にあるのである。われらの外も汚れ、われらの内もまた汚れて、いまや完全は求めてえられざるものである。しかしてかかる状態においてあるがゆえに「聖霊のはじめてむすべる実を持てるわれらも、自ら心の中にながきて(神の)子とならんことを、すなわちわれらの体の救われんことを待つ」のである(ロマ書八・二十三)。しかしてこの待望は空望としておわらないのである。その実現する時はかならず至るのである。キリストの再臨は単に彼の再臨にとどまらないのである。信者の救いのまっとうせらるるもまたその時である。


1月15日(月)

あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。(コロサイ書三・二〜四)

信者は天のことをおもいて地のことをおもうてはならない。そのゆえいかんとなれば、彼は地に対してはすでに死にたる者であって、その生命はキリストと共に神にかくれてあるからである。しかし永久にかくれてあるのではない。キリストがその栄光の復活体をもってあらわるる時に、われらも彼と共に栄光の中にあらわるるのである。そのことをおもうて、彼は地にある肢体の欲、すなわち汚穢、邪情、貪婪(たんらん)等にその思念(おもい)を濁してはならない。天と未来とを有する信者は、地と現世とにとらわれて低き卑しき生涯を送ってはならないとの意である。預言をもって高き思想と清き生涯とをすすめたる貴き言である。


1月14日(日)

しかし、すべてこれらの事は、神からでている。神はキリストによって、わたしたちを自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいての福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧(すすめ)なさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。(コリント第二書五・十八〜二十)

罪とは神をはなるることであり、義とは神に帰ることであることがわかって、救いとは何であるかがわかる。救いとは単に罪を去って義(ただ)しき人となることではない。かかる事はまた実際に人のなしうることではない。救いとは神の側(かわ)より見て、人を己に取りかえすことである。人の側より見て、背(そむ)きし神に帰ることである。しかして神と人との中保者(ちゅうほしゃ)なるキリストの立場より見て、二者の調和をはかることである。しかして神と人との場合においては、ゆずるべきは神においてあらずして人においてのみ存するがゆえに、救いとは人をして神にやわらがしむることである。人を神に対するその元始(はじめ)の関係に引きなおすことである。

1月13日(土)

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。(ローマ書七・二十二から二十四)

人は罪を犯すべからざるものにして、罪を犯すものなり。彼は清浄たるべき義務と力とを有しながら、清浄ならざるものなり。彼は天使となりうるの資格をそなえながら、しばしば禽獣にまで下落するものなり。登っては天上の人となりうべく、くだっては地獄の餓鬼たるべし。無限の栄光、無限の堕落、共に彼の達しうる境遇にして、彼は彼の棲息する地球と同じく、絶頂(Zenith)絶下(Nadir)両極点の中間に存するものなり。くだるはやすくして登るはかたく、くだれば良心の責むるあり、登るに肉欲のさまたぐるあり。わが願うところのもの、われこれをなさず、わがにくむところのもの、われこれを行う。われは二個のわれより成立するものにして、一個のわれは他のわれとつねに戦いつつあり。まことにまことにこの一生は戦争の一生なり。

1月12日(木)

たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起こって、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。わたしはひとつの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。(詩篇十七・三〜四)

産を失うに可なり、願わくは神の聖顔(みかお)を失わざらんことを。病に悩むも可なり、願わくは神の聖旨(みこころ)を疑わざらんことを。人に棄てらるるも可なり、願わくは神に棄てられざらんことを。死するも可なり、ねがわくは神より離れざらんことを。神はわがすべてなり。神を失うてわがすべて失うなり。われらに父を示したまえ、さらばたれり。わが全生涯の目的は、神を見、彼をわがものとなすにあり、その他にあらず。


1月11日(木)

あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭(はんさい)をささげてもあなたは喜ばないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。(詩篇五十一・十六から十七)

事業とはわれらが神にささぐる感謝の献げ物なり。されど神は事業にまさる献げ物をわれらより要求したもうなり。これすなわち砕けたる心、小児のごとき心、ありのままの心なり。なんじ、いま事業を神にささぐるあたわず、ゆえになんじの心をささげよ。神のなんじを病ましむる、多分このためならん。なんじはペタニヤのマルタの心をもってキリストにつかえんと欲し、「もてなしのこと多くして心いりみだれ」(ルカ伝十・四十)たるなるべし。ゆえに神はなんじにマリヤの心を与えんがために、なんじをして働きえざりしめたり。

手にもの持たで 十字架にすがる

とはなんじのつねに歌いしところにして、その深遠なる意義を知らんがために、なんじは今働くことあたわざるなり。


1月10日(水)

いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊(みたま)以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊でなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである。(コリント第一書二・十一〜十二)

余輩はモーセ、イザヤ、エレミヤ、イエス、パウロらによってとなえられしるふるき、ふるき唯一神教に帰らざるをえないものである。これに、元始(はじめ)に天地とその中にある万物を造りたまいし神がある。これにまたインマヌエルととなえられて、人類と共にいましたもう神がある。しかして二者は二つの神ではない、同一の神である。宇宙を造り、その上にあり、その中にくだりてこれを保育したもう神である。この神は自然神教の供するがごとき、高きにおりて、宇宙と人生とにたずさわらざる無情無感の神ではない。さればとて宇宙の中にとじこめられて、天然以前に何事をもなしえざる神ではない。彼は宇宙を造って宇宙よりも大なる神である。宇宙をもって徐々として自己をあらわしたもう神である。彼の意志が人の道である。人は宇宙によって大いに神について知るところがあるが、彼の意志はこれをただちに彼についてのみ知ることができる。


1月9日(火)

わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしはうごかされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。(詩篇十六・八〜九)

この弱き肉体、これ何をかなしえん。この罪悪の社会、これまた何をかなしえん。この身にかえりみ、この社会によりたのみて、われらは失望せざるをえず。わが扶助(たすけ)は天地(あめつち)を造りたまえる主より来る。彼にははかり知れざるの能力(ちから)ありて存す。しかしてわれはまたわが心の門戸を開きて、われをみたすに彼の大能をもってするをうべし。かれまた火と霊とをもって、天の変と地の異とをもってわが業(わざ)を助く。われにこの内外の援助(たすけ)ありて、わらはひとり全世界に当たるといえども、疑懼(ぎく)の念をいだかざるべし。

1月8日(月)

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかいになった。ここに愛がある。(ヨハネ第一書四・九〜十)

神は愛なり、ゆえに神がわれらにたもう最大の恩賜(たまもの)は愛である。神はかならずしもわれらに権能(ちから)を賜わない。彼はイエスにこれを賜わなかった。神はその愛子が敵にあざけられ、ののしらるる時にあたっても、彼に天より万軍をよびてこれをほろぼすの権能を賜わなかった。イエスはくるしめられども自らへりくだりて口を開かず屠場(ほふりば)にひかるる小羊のごとく、毛を切る者の前にもだす羊のごとくにして、その口を開きたまわなかった。しかし神はその時にいちじるしく愛を彼に与えたもうた。彼をして十字架の上より「父よ、彼らをゆるしたまえ、そのなすところをしらざるがゆえなり」と叫ばしめたもうた。十字架につけられしイエスには、己を救うにたるの能力(ちから)さえなかった。しかし彼は神の子であった。愛のほか、なにものをも持ちたまわざりし、弱き、たすけなき者であった。

1月7日(日)

あながたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起こしている。神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。(テサロニケ第一書一・三〜四)

信とは、神の誠信を信ずるの信なり。望とは、復活と永生と来らんとする神の王国とを望むの望なり。愛とは、十字架につけられ死して甦えりしキリストにおいてあらわれたる神の愛なり。世に勝ものはこの三つのものなり。

1月6日(土)

神は、わたしたちをやみの力から救いだして、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子(みこ)によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。(コロサイ書一・十三〜十四)

キリスト教化されんと欲してキリストに来りし者は、かならず彼をすつるに至るべし。新しき思想をえんと欲し、またひろき交際に入らんと欲してかれに来りし者もまた、彼をすつるに至るべし。その罪を贖(あがな)われ、その霊魂を救われんと欲して彼に来りし者のみ、よく永久に彼とともにとどまるをうべし。あるいは審美的に、あるいは哲学的に、あるいは交際的にキリストを求める者は、ついに彼と離れざるをえず。世のいわゆる求道者なる者は深くこの点に注意するを要す。

1月5日(金)

主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕(うで)とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野(あらの)に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上(ひあ)がった所に住み、人の住まない塩地(しおじ)にいる。おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。(ミレミヤ書十七・五〜八)

善とは神なりとせば、悪とはもちろん神をはなるるをいうなり。盗む、殺す、姦淫するは神をはなれし結果にして、罪そのものにはあらざるなり。われ人を殺す時に国法のわれを罰するは、われの犯せし殺人罪そのもののためにあらずして、われわれが神をすてしがゆえなり。神、われと共にあり、われ、神と共にある時、われ罪を犯さんとするも犯しあたわざるのみならず、罪という念はわれに存するなし。われの不完全なる、われの他人をいやしむる、われの欲情のために使役せらるる、われの傲慢なる、われの人を愛せざるは、みなことごとくわれが神を離れしがゆえなり。ゆえにわれにしてもし神に帰るをえば、われは善人となり得るなり。罪よりまぬかるる道ただこの一途あるのみ。

1月4日(木)

エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝(わかえだ)が生えて実(み)を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ書一一・一〜二)

百万の貔貅(ひきゅう)辺塞(へんさい)を守り、シーザーの宮殿に絃声高くして驍勇(ぎょうゆう)恩賞にほこりし時、神はその子をベツレヘムの丘上、牛羊、槽中にその食をさぐるところにくだしたまいて、人類救済の道を開きたまえり。革新の世にのぞむやつねにかくのごとし。世はこぞってこれを帝王と軍隊とに待ち望む時に、神は貧児を茅屋(ぼうおく)のもとにくだして、世に新紀元を開きたもう。今やふたたび革新の声高し。われらをして東方の博士にならい、われらの救い主を求めんがためにロマに行かずしてベツレヘムに詣(いた)らしめよ。

1月3日(水)

おおかみは子羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥たる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、…かれらはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。(イザヤ書十一・六〜九) 

恩恵(めぐみ)の露、富士山頂にくだり、したたりてその麓(ふもと)をうるおし、あふれて東西の二流となり、その西なるものは海をわたり、長白山をあらい、崑崙山(こんろんざん)を浸(ひた)し、天山、ヒマラヤの麓にみずそそぎ、ユダヤの曠野(あれの)に至りてつきぬ。その東なるものは大洋を横断し、ロッキーの麓に黄金崇拝の火を滅(めっ)し、ミシシッピー、ハドソンの岸に神の聖殿をきよめ、大西洋の水に合してきえぬ。アルプスの嶺はこれを見て曙(あけぼの)の星と共に声を放ちてうたい、サハラの砂漠は喜びてさふらんの花のごとくに咲き、かくて水の大洋をおおうがごとく、主を知るの知識全地にみち、この世の王国は化してキリストの王国となれり。われはねむりよりさめ、ひとり大声によばわりていわく、「アーメン、しあかれ、聖旨(みこころ)の天になるごとく地にもならせたまえ」と。

1月2日(火)

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記一・二十六〜二十七) 

「神はその像(かたち)に従って人を造りたまえり」と。また「真正の神殿は人なり」と。また「なんじらは神の殿(みや)にして神の霊なんじらの中にいあます」と。さらば人の体躯は宇宙にかたどって造られしものか。しかして宇宙もし神の体にして、人もし宇宙にかたどって造られしならば、人は彼の外形においてもまた神の像をあらわすものにあらずや。神よ、ねがわくは、わがこの気儘なる想(ワイルドイマジネーション)をゆるしたまえ。われなんじを人類視せんとするにあらず。われは人を、なんじが彼に与えたまいし適当の高位にまで引き上げんとするなり。人は彼自身の肉体を見るに常に卑賤の念をもってし、これを獣類のそれに比し単に肉塊なりと称し、そのいかに貴重にしていかに神聖なるものなるかを知らざるなり。彼は彼の体を汚す時に、神の像を汚すものなることを知らざるなり。聖なるかな、聖なるかな、万軍の主よ。われらの体はじつになんじの像にかたどられて造られし聖き神殿なるにあらずや。

1月1日(月)

はじめに神は天と地とを創造された。(創世記一・一)

「元始(はじめ)に神、天地を創造(つく)りたまえり」、この一節にキリスト信者の宇宙観と人生観との全部あり。宇宙、大なるといえども、これも神によりて造られしもの、ゆえに神がこれを変更しまたは改造し、なたある場合においてはその運行を中止し、またはこれを早めうるはもちろんのことなり。すでに神の造りし宇宙なり。さればこれわが父の園(その)にして、われその中に住して恐怖あるなし。われわが国を去って他国に行かんか、神かならずそこにあり。われこの地球を去って木星または水星に至らんか、彼かならずそこにあり。彼はオライオン星にあり。プライアデス星にあり。しかして遠くこの宇宙をはなれ他の宇宙に至るも、わが父はまたそこにあり。神と和し神の子となりて、宇宙はうるわしき楽園となるなり。われそこに彼の偉業をたたえ、口にかれの栄光をとなえながら死の眠りにつけば、彼はふたたび彼の聖手(みて)にわれを受け、われをして新しき天地と新しきエルサレムとにおいて永久に彼の聖名(みな)をとなうるをえしめたもう。