一日一生(内村鑑三)「一日一生」(教文館)より


注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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一日一生(内村鑑三)


六月

6月のはじめに

宗教は個人的である。全般的ではない。宗教は「われら」でない、「われ」である。複数でない、単数である。第一人称の単数である。人数または人道のことではない、われ自身のことである。「吾神、わが神、何故にわれを棄(すて)たまいしや」とはイエスご自身の宗教であった。「ああわれ困苦(なやめ)る人なるかな、この死の体(からだ)よりわれを救わん者は誰ぞや」とはパウロの宗教であった。神学者らは宗教の全般的真理を探るがゆえに、いつまでも宗教をみいださないのである。神は人の奥底の霊においてのみ発見せらる。自己の宗教の実験物とし提供しあたわざる者は、その説教者たることは決してできない。近代的キリスト教が無意味にして無能なるは、主としてそれが全般的であってまた社交的であり、個人的でなくまた一身的でないからである。天(あま)が下に無用なるものにして世にいわゆる「宗教専門家」のごときがあろうか。彼は宗教を知らずして宗教を語るものである。(『英和独語集』)

「内村鑑三一日一生きょうのことば」

6月30日(土)

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注(そそ)がれているからである。(ローマ書五・三〜五)

忍耐といえば、ふつうつらいことと思われている、我慢することと思われている。キリスト信者の忍耐とはそんなものではない。キリスト信者の忍耐とは、優(ゆう)に耐(た)えるということである。すなわち神によって、希望をもって、歓(よろこ)びつつ、何の苦をも感ずることなく、耐うるということである。大船が波濤に耐うるように、大厦(たいか)が地震に耐うるように、一種の快味をもって世の苦痛に耐うることである。これを忍耐というのは、耐うるという意味からそういうのである。忍ぶという意味からいうのではない。もしキリスト信者の忍耐を意義なりに表(あら)わそうとするならば、これを歓耐(かんたい)というのが適当であると思う。彼の信仰の充実する時には、我慢、辛抱の意味においての忍耐は彼にはないはずである。

6月29日(金)

しかし、わたしはあなたがたに云う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父と子となるためである。(マタイ伝五・四十四〜四十五)

愛、愛、われらのねがい求めるべきものはこれである。権能(ちから)はいらない、あってははなはだ危険である。知恵はいらない、あってはかえってわれらを迷わす。いるものは愛である。敵をたおすための権能ではない。われを倒さんとするわが敵を愛する愛である。これわれらのもっとも要求すべきものである。われらキリスト信者は権能をもってみずから守らんとしない。「愛の中に恐怖(おそれ)あることなし、まったき愛は恐怖を除く」とあれば、われらは愛をもって敵に向かわんとする。われらは権能のたりないのをなげかない。愛のたりないのを悲しむ。愛をもってあふれさすれば、天上天下怖るべきものは一つもない。

6月28日(木)

ユダヤ人はしるしを請(こ)い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。(コリント人第一書一・二十二〜二十四)

パウロいわく、神は愚者をもって知者を辱かしむと。宗教家は神と人との間に立つ取次人なれば、彼は自己の知恵をもってこの地位に立たんと欲すべからずなり。大宗教家の、怜悧(れいり)なる人に少なくして、かえって朴訥(ぼくとつ)なる人に多きゆえんは、けだしこの点に存することと信ずるなり。ある論者のごとく、ルーテルをもって先見博聞の人とみなすがごときは大いなる誤謬(あやまり)なり。彼の事業は神の事業にして、彼の偉大なりしゆえんは、ひとえに彼のみずから力なきをさとり、まったく神に依頼せしによるなり。

6月27日(水)

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民ではなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けが者となっている。(ペテロ第一書二・九〜十)

キリスト信者とはもちろんキリストを信ずる者である。しかし彼はみずから信じて信者となったのではなくして、神に信ぜしめられて信者となったのである。彼の信仰は救済(すくい)の結果であって、信仰が救済の原因であるのではない。「なんじらの信ずるは神の大いなる能(ちから)のはたらきによるなり」とは聖書が力をこめて宣べ伝るところであって、われらは信仰によって救われるというものの、その信仰そのものが神の特別なるたまものであることを、われらは決して忘れてはならぬ。

6月26日(火)

主は言われた、「出て、山の上で主の前に立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた。(列王紀上十九・十一〜十二)

聖霊の充分なる降臨は当人の全生涯にわたる神の聖働である。この不完全なるかつ小なるわれは、一時に聖きかぎりなき神の霊を受くることはできない。初めに苗、次に穂出で、穂の中に熟したる殻を結ぶといい(マルコ伝四・二十八)、誡命(いましめ)に誡命を加え、度(のり)に度を加え、ここにも少しく、かしこにも少しく教うという(イザヤ書二十八・十)。健全なる聖霊の降臨は徐々たる降臨である。われらの願うべきことは、その一時に迅風(じんぷう)の如くにくだらずして、永く軟風(なんぷう)のごとくにそよがんことである。雷火のごとくにのぞまずして、朝の露のごとくにうるおさんことである。万やむをえざる場合のほかは、われに急激の変化を来たさざらんことである。

6月25日(月)

さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれもを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座(みざ)に近づこうではないか。(ヘブル書四・十四〜十六)

余はキリストが余に代わりてなしとげたまいし善行によって救われるのである。余が大胆にも多くの余不相応の要求をもって神に近づきうるは、全くこれがためである。いかに慈愛深き神なればとて、余は余のために余を恵みたまえといいて彼に近づくことはできない。しかしながら、キリストのために余を恵みたまえというのであるならば、余のごとき者といえども、大胆にアバ父よと叫びながら神の宝座(みくらい)に向かって進み行くことが出来る。余はよのために何物をも要求する資格をもたない。しかしながら、キリストのためとならば、万物を父に向かって要求することができる。

6月24日(日)

いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。(テモテ第二書三・一二)

キリスト信者の歓喜にともなうキリスト信者の苦痛があります。迫害、飢餓、裸、危険、刀剣(つるぎ)その他いうにいわれぬ苦痛、教会よりは放逐され、父母兄弟よりは悪人として侮辱され、ほとんど唾(つば)きせられ、されども担(にな)うべきの義務はすべて担わせられ、国人よりは国賊として斥(しりぞ)けられ、友人には偽善者として敵にわたされ、しかもこれに対して一言の怨恨(うらみ)を述べることはできず、ただ小羊のごとくに忍ばなければなりません。その屈辱、その悲痛、とうてい常人の忍びうるところではありません。われらキリスト信者はキリストと共に栄に入る特権のみならず、またキリストと共に十字架に上げられるその苦痛を授けられた者であります。

6月23日(土)

あなたの荷を主にゆだねよ。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。(詩篇五十五・二十二)

「なんじの重荷を主にゆだねよ」、自身これを負(お)わんとするなかれ。みずからこれを担(にな)わんとするがゆえに、なんじにたえ難きの苦痛あるなり。これを主にゆだねよ、彼はたやすくこれを担いうるなり。しかしてなんじの重荷をなんじに代えて担いたもうにとどまらず、これと共になんじ自身をも担いたまいて、なんじの心に代えて担いたもうにとどまらず、これと共になんじ自身をも担いたまいて、なんじの心に平康(やすき)を賜うなり。彼は義人、すなわち彼により頼む者、すなわち彼と義(ただ)しき関係においてある者のうごかさるることを、決して許したまわざるべし。しかり、決して許したまわざるなり。世のいわゆる義人の動くことあり。されども神の義人の動くことなし。

神の義人は信仰の人なり、信頼の人なり、義を神より仰ぐ人なり。われは義人なりという人にあらず。罪人なるわれを憐(あわ)れみたまえといいて、神の慈愛にすがる者なり。しかしてかかる者は決して動かさるることなし。

6月22日(金)

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うパプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは、皆キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ書三・二十六〜二十八)

われは世にわれの讐敵(しゅうてき)のあることを思わずして、われの同情者のあることを思う。われは世にわれの瑕瑾(かきん)をさぐりもとむる批評家のあることを思わずして、われの真意を理解する愛友のあることを思う。それは敵意はわれの意をちぢめ、友情はこれをひろめてわれをして人生を厭(いと)わざらしむればなり。これうぬぼれのごとくに見えてしからず。今日のごとく人々みな「四海讐敵」なりとの念をいだく時に際しては、わが心中に人類に対する温(あたたか)き愛情を保有するの必要あり。

6月21日(木)

そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼等に答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。(ヨハネ伝六・二十八〜二十九)

義務よ、義務よと叫ぶものは、よく義務をはたす人にあらざるなり。義務の念は重荷となり、心志を圧してその活動力を減滅するものなり。いかにもおもしろき学科といえども、学校の課目となりて強いらるる時は、その快味かえって苦味と変ずるがごとく、いかに高尚なる事業なりといえども、義務としてこれにあたる時、乾燥無味の奴隷的事業と変ずるなり。キリスト信者の大事業たりうるは、彼はすでに事業をとげし者なればなり。あたかも億万の富を有して金銭を得るの必要なきものは、つねに商業界において勝利をうるものなるがごとし。

6月20日(水)

それは彼らが、心を励まされ、愛によって結びあわされ、豊かな理解力を十分に与えられ、の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝がいっさい隠されている。(コロサイ書二・二〜三)

キリストは余に自己を賜うた。彼にある生命を賜うた。聖霊を賜うた。神と人とを愛する心を賜うた。しかり、彼は余に神を賜うた。しかして神とともに宇宙万物を賜うた。彼は余の死せる霊魂を活(い)かしたもうて、余をして内に富み、かつかしこき者とならしめたもうた。それゆえにキリストは余のすべてである。余の食物、また衣服、また家屋である。彼はまた余が神の前に立つ時の誇り(勲章)である。彼はまた余の知識である。彼はまた余の「あけぼのの星」であって、余の歌の題目、美術の理想である。彼はまた余の自覚の根底であるから、余の哲学と倫理との基礎である。キリストは余に自己を与えたもうて余に万物を与えたもうた。

6月19日(火)

なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をすなえ、刈入れ(かりい)れの時に、かてを集める。なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。(箴言六・六〜十一)

勤労の報酬は満足されたる良心なり。さらに尽くさんと欲するの決心なり。知能のますます明瞭を加うることなり。欲心の減ずることなり。生存そのものに興味を感ずることなり。未来の恐怖の絶ゆることなり。万物の霊長たる人類は、これより以下の報酬を以って満足すべからざるなり。

6月18日(月)

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔(へだ)ての中垣(なかがき)を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている、戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけてほろぼしてしまったのである。(エペソ書二・十四〜十六)

ここにいかなる手段をもってしても怒らすことのできない唯一人の人があった。棘(いばら)の冠(かんむり)をかぶせても、掌(てのひら)をもって打っても、唾(つば)きしても、十字架につけても、怒らすことのできない一人の人があった。憤怒の颶風(はやて)は吹かば吹け、この愛の巌(いわ)を動かすことはできなかった。憎悪(にくしみ)の潮(うしお)は来たらば来たれ、この愛の堤(つつみ)を崩すことはできなかった。キリストの死は増悪に対する愛の勝利であった。ここに憎悪は非常の勢力をもって愛と衝突して、その撃退するところとなった。いまよりのち、憎悪はその猛威を誇ることはできない。すでに一回、人の子の打ち破るところとなりて、その殲滅(せんめつ)はすでに宣告せられた。キリストの愛の死によって、世界平和の端緒は開かれた。キリストは十字架にのぼりて、愛は最高の位に即(つ)いた。

6月17日(日)

この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めてくださったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜(さが)しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。(使徒行伝十七・二十四〜二十七)

余は神はあると信ずる。そのもっともたしかなる証拠は、余自身が存在することである。余は余の父母をとおして世に生まれ来った者であるが、しかし余には余の父母が生むことのできないものがある。すなわち余には余の霊魂がある。すなはち独(ひと)り断じて行うところの者がある。これは余の父母とは何の関係もない者であって、これはただちに神より出で来たった者である。これがすなわち余自身であって、余の人格である。余の肉体の変遷と同時(とも)に変遷せざるもの、余の責任の存するところ、余の不朽の部分、自我の中心点、余はかかる玄妙なる者の余のうちにあるを知るがゆえに、神の存在を信じて疑わないのである。

6月16日(土)

あなたがたは、終りの時に啓示されるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだ、さまざまな試練で悩まねばならないかもしれないが、あなたがたは大いに喜んでいる。(ペテロ第一書一・五〜六)

神の聖業(みしごと)はいまなおその半途(なかば)においてである。彼はいまその畑に永世の種を播(ま)きたまいつつあるのである。いまより後に復活あり、地の改造あり、大審判ありて、しかる後にかれの救済(すくい)の聖業は終り、しかして最後に新しい天と新しき地との実現を見るのである。言あり、いわく「神の水車はめぐることゆるやかなり、されども挽(ひ)くこと精巧なり」と。神はいそぎたまわない、多く時を取りたもう。彼の眼には千年も一日のごとし、万年も長き時にあらず。しかも彼はその愛するものを忘れたまわない。その始めし善きわざを終らずしてはやみたまわない。人の眼より見て、いまより救済の結末、完成されたる天地の実現を待つはたえがたき忍耐ではあるが、しかし神は人が明日を期すがごとく、そのさいわいなる時を待ちたもうのである。

6月15日(金)

あなたの大庭(おおにわ)にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守(かどもり)となることを願います。主なる神は日です。盾(たて)です。主は恵みと誉(ほま)れとを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。(詩篇八十四・十〜十二)

地に属するものが余の眼よりかくされし時、はじめて天のものが見えはじまりぬ。人生終局の目的とはいかん。罪人がその罪を洗い去るの道ありや。いかにして純清に達しうべきか。これらの問題は今は余の全心を奪い去れり。栄光の王は神の右に坐して、ソクラテス、パウロ、クロンウェルの輩、数(かず)知れぬほど御位(みくらい)の周囲に坐するあり。荊棘(いばら)の冠(かんむり)をいただきながら十字架にのぼりしイエス・キリスト、来世存在を論じつつ従容(しゅうよう)として毒を飲みしソクラテス、異郷ラベナに放逐されしダンテ、その他あまたの英霊はいまは余の親友となり、詩人リヒテルと共に天の使に導かれつつ、球(きゅう)より球まで、星より星まで、心霊界の広大さをさぐり、この地に咲かざる花、この土に見ざる宝玉、聞かざる音楽、味わわざる美味……余はじつに思わぬ国に入りぬ。

6月14日(木)

わたしたちは、あなた方が一人残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。(ヘブル書六・十一〜十二)

「すべてのことこれ信じ」(コリント第一書十三・七)とは、何事によらずこれを信ずとの意にあらず。すべてのことこれ信じとは、すべての善きことこれ信ずとの意なり。余輩は天に愛の父いますを信ず。余輩は罪の赦免(ゆるし)を信じ、霊魂の不滅と肉体の復活とを信ず。余輩はまた万物の復興と天国の来臨とを信ず。余輩の信ずべからざることは、悪がついに世に勝たんとのことなり。この世が全滅に帰して、混沌のふたたび宇宙を掩(おお)うに至らんとのことなり。信仰は希望なり。善を望まざる信仰は信仰にして信仰にあらざるなり。

6月13日(水)

むしこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」。しかし父は言いつけた、「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えたこ牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうであはないか」。(ルカ伝一五・二一〜二三)

なんじはいわんとす「われのごとき罪人(つみびと)、いかで無限の愛を受くべけんや。われまずおのれを清くして、しかる後、神の愛をもって充(み)たさるべきなり」と。ああ、たれかなんじを清くしえんや。なんじは己れを清めざりき。なんじを清めうるものはただ神のみ。なんじ清まるを待って神に来たらんとせば、永遠に待つもなんじは神に来たらざるべし。母の手より離れて泥中におちいりし小児は、おのれを洗浄するまでは母のもとに帰らざるか。泥衣のまま泣いて母に来るにあらずや。しかして母はその子が早く来たらざりしを怒り、ただちに新衣を取って無知の小児おを装(よそお)うにあらずや。永遠の慈母もまたしかぜざらんや。

6月12日(火)

主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中に悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠(かんむり)を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂(うれ)いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。(イザヤ書六十一・一〜三)

われはわれに口あるを感謝す、われはこれをもって神の福音を宣べん。われはわれに手あるを感謝す、われはこれをもって神の福音を伝えん。われはわれに足あるを感謝す、われはこれをもって神の福音を運搬(はこ)ばん。われは福音のために造らる。われはその伝播の器具たるべし。

6月11日(月)

天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜るいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。父がその子供をあわれむように、主はおのれをおそれる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるかれである。(詩篇103・11〜14)

余はいまだよく神の何者たるかを知らず。されどもその余の悪を憎みたもうにまさりて余の善を愛したもう者なるや、あえて疑うべきにあらず。余が終末(おわり)の裁判(さばき)の日において神の前に立つや、余の悲歎は余の悪の多きことにあらずして、余の善のすくなきことならん。しかして余はその時余の予想に反して、愛なる神が余の犯せしすべての悪をわすれたまいて、ただ余のなせし些少(さしょう)の善をのみ記憶したもうを発見して、驚愕の念にたえざるべし。「神の恩恵(めぐみ)の広きは海の広きがごとく広し」。われら神の怒りについてのみ念ずるはあやまれり。神は怒りの神にあらず、恩恵の神なり、すなわち赦免(ゆるし)の神なり。

6月10日(日)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中よりよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。(ペテロ第一書一・三〜四)

信者は安心して死に対すべきである。かならずしも生を求めず、またかならずしも死を願わず。生くるも主のため、死するも主のためである。死すべき時に死するは大いなる恩恵(めぐみ)である。もしいたずらに生を希(ねが)うて、死すばき時に死なざれば、不幸これより大なるはない。死すべき時に死するの死は、光明に入るの門である。死は最大の不幸なりというは、信者のいうべきことではない。彼はただ死すべき時に死なんことを願うのである。その時よりも早からず、その時よりもおそからず。

6月9日(土)

その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠(かく)されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神はかれらに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼等がキリストにあって全き者として立つようになるためである。(コロサイ書一・二十六〜二十八)

聖書は大なり。されども活(い)けるキリストは聖書よりも大なり。われらもし聖書を学んで彼に接せざれば、われらの目的を達せりというあたわず。聖書は過去における活けるキリストの行動の記録なり。しかしてわれらは今日彼の霊を受けて、新たに聖書を造らざるべからず。古き聖書を読んで新しき聖書を造らざる者は、聖書を正当に解釈せし者にあらず。聖書は未完の書なり。しかしてわれらはこれにその末章を作る材料を供せざるべからず。 

6月8日(金)

ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。イエスは答えて言われた「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。(ルカ伝五・三十〜三十二)

キリストは罪人(つみびと)の友であるという、まことにそのとおりである。キリストは税吏(みつぎとり)罪ある者の友であった。しかしながら罪人の友であるというのは悪人の友であるということではない。キリストは悪人の友ではない。人は悪をなしてキリストの敵となるのである。キリストが罪人の友であるというなは、彼は世が称してもって罪人となす者の友であるというのである。すなわち自ら罪を悔いて神に赦されし者、あるいは身に罪を犯せしことなきも、世の慣例習俗に従わざるのゆえをもって罪人として世に目せらるる者、あるいは人のねたむところとなりて、罪なきに罪ありとよばるる者……キリストはかかる罪人の友であるということである。すなわちパリサイ人が称してもって罪人とみなす者の友であるということである。

6月7日(木)

このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過すためである。(ペテロ第一書四・一〜二)

死は犠牲である、同時にまた贖罪(しょくざい)である。何人といえどもおのれ一人のために生き、またおのれ一人のために死す者はない。人は死して幾分か世の罪を贖(あがな)い、その犠牲となりて神の祭壇の上に献げらるるのである。これじつに感謝すべきことである。死の苦痛は決して無益の苦痛ではない。これによりておのれの罪が洗われるのみならず、また世の罪が幾分なりとも除(のぞ)かるるのである。しかしていうまでもなく、死の贖罪力は死者の品性如何によりて増減するのである。義(ただ)しき者の死は多くの罪を贖(あがな)い、悪しき者の死は自己の罪のほか贖うところははなはだわずかである。人は聖(きよ)くなれば聖くなるだけ、その死をもってこの世の罪を贖うことができるのである。あるいは家の罪を、あるいは社会の罪を、あるいは国の罪を、あるいは世界の罪を、人は彼の品位如何によりて担(にな)いかつ贖うことができるのである。死はじつに人がこの世においてなすをうる最大事業である。

6月6日(水)

何事も党派や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。(ピリピ書二・三〜五)

キリストのような生涯は、悪人に殺さるれば、それで終りになるものでございましょうか。もしキリストが復活しないで、彼の生命も空しくユダの山地の塵(ちり)となって消え失せてしもうたものならば、この宇宙とはなんと頼みすくなきところではありませんか。しかしこれはそうではございません。謙遜なることキリストのごとき者の生涯は、永遠にまで存在する価値のあるものでございます。そうしてわれわれの生涯といえども、彼の生涯にならえば、同じく永久の性を帯(お)ぶることができます。すなわて永生とはじつに謙下(へりくだり)の結果であります。キリストのように謙遜なるをうれば、われわれも永生に入ることができます。

6月5日(火)

主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼(つばさ)の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾(おおだて)、また小盾(こだて)である。(詩篇九十一・四)

神の命を待てよ、さらば何事も行われん。身を神にまかせよ、さらばすべての力は汝に加えられん。なんじは神のものにして、なんじの事業は神の事業ならざるべからず。このゆえになんじに計画なるものあるべからず。なんじに焦心憂慮(しょうしんゆうりょ)の要あるなし。神は彼自身にて活動する者なれば、吾人は神より離絶する者なり。しかしてかくなして、偉大なる行為の吾人の手によって成らざるはもちろんなり。吾人もし人に対し活動的たらんと欲せば、神に対しては全然受動的たらざるべからず。

6月4日(月)

わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過し、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊んは、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。(テスト書三・三〜六)

余は余が好んで救われたのではない。余は余の意に逆らって救われたのである。余は現世を愛した。しかるに神は現世における余のすべての企図を破壊したまいて、余をして来世を望まざるをえざらしめたもうた。余は人に愛せられんことをねごうた。しかるに神は多くの敵人を余に送って、余をして人類について失望せしめて、神に頼らざるをえざらしめたもうた。もし余の生涯が余の望みし通りのものであったならば、余はいまは神もなき来世もなき、ふつうの俗人であったであろう。余は神に余儀なくせられて、神の救済(すくい)にあずかったものである。ゆえに余は、余の救われしことに関して何の誇るところのない者である。

6月3日(日)

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言場で造られたのであり、したがって見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。(ヘブル書十一・三)

神を信ずることは、読んで字の如く神を信ずることなり。彼の存在を信じ、摂理を信じ、保護と指導とを信ずる、あたかも吾人肉体の父のそれを信ずるごとくに信ずるをいうなり。信ずると口にいうにあらず、まことに信ずるなり。しかして吾人処世の方針を全くこの信仰にもとずきて定むるをいうなり。詩人コレリッヂ、時の宗教家を評していわく、彼らは信ずると信ずる者にして、信ずる者にあらずと。信神のこと、決して容易のことにあらず。

6月2日(土)

イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのか、どうしてか。この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコ伝六・一〜三)

彼は法王、監督、宣教師、神学者の類にあらざりき。彼はかって頭に僧冠をいただきしことなく、また身に僧衣をつけしことなし。すなわち彼は、今日世に称する宗教家にあらず。彼はかって彼の信仰のために俸給を受けしことなし。彼はナザレの一平民にして、彼の父の業をついで大工を職とせしものなり。ゆえに彼は直感的に神を知りし者にして、神学校または哲学館に彼の宗教的知識を養いし者にあらず。余輩が彼を尊敬するは、彼が大平民なりしがゆえなり。

6月1日(金)

わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。(詩篇三十七・二十五)

キリスト教は貧者をなぐさむるに、仏教のいわゆる「万物皆空」なる麻酔的教義をもってするものにあらず。キリスト教は世をあきらめしめずして、世に勝たしむるものなり。富めると貧なるとは前世の定めにあらずして、今世における個人的境遇なり。貧は身体の疾病と同じく、これを治(じ)するにあたわずんば喜んで忍ぶべきものなり。われの貧なる、もしわれの怠惰放蕩より出でしものならば、わらは今より勤勉節倹をこととし、浪費せし富を回復すべきなり。天はみずから助くるものを助く。いかなる放蕩児といえども、いかなる怠け者といえども、ひとたび翻(ひるがえ)りて宇宙の大道にしたがい、手足を労し額(ひたい)に汗(あせ)せば、天は彼をも見捨てざるなり。貧は運命にあらざれば、われら手をつかねてこれに甘(あま)んずべきにあらず。働けよ、働けよ。正直なる仕事は、いかに下等なりといえども、これを軽んずるなかれ。

五月

5月のはじめ

労働の快楽もまた貧者特有のものであります。世に不幸なるものとて、働かないもの、はたらかずしてすむ人のごときはありません。労働の快楽は最も確実なる快楽であります。よし適当の報酬のこれにともなわないとしても、労働に「われ今日も何かなしたり」という満足があります。西洋のことわざに「最大の罪悪は何事をもなさざることなり」ということがありますが、実にそのとおりであります。人は労働によって人生の苦痛を忘れるのであります。娯楽機関は一時の鎮痛剤にすぎません。いっしょうけんめいに働く時には、人は何びとも小児のごとくにイノセント(つみなきもの)となるのであります。

5月31日(木)

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるパプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるパプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえられたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様(さま)にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。(ローマ書六・三〜五)

キリストに同化されし者、キリストの活(い)ける体の一部分となりし者、その困苦(くるしみ)と歓喜(よろこび)と、その恥辱(はずかしめ)と栄光(さかえ)と、その死と復活とを、彼の中にありて彼とともに父なる神より分与されし者、これがキリスト信者である。「信ずる」とはこの場合においては知識的に是認することではない。また感情的に信頼することでもない。キリストを信ずるとは、彼の神格の中にわが人格を投入することである。そうしてわれを無き者として、彼をしてわれに代わってわがうちにあらしむることである。これがすなわち信の極であって、キリストはわれらよりかかる信仰を要求したもうのである。キリストが神であり、霊の宇宙であり、われらがその霊界の一部分となるをえて、はじめてわれらの聖化も満足に行われ、またキリストの光はわれらをとおして世に顕(あら)われるのである。

5月の終りに

イエスは偉大な人であるという。彼はまことに偉大なる人である。偉大なるひとであるゆえの小さくある。彼は今にいたるまで世に認められないほど小さくある。

人はいう、イエスの名は今や全世界にとどろき、彼の名を知らない者とては一人もいない、彼の偉大なるは彼の世界的名声によって知られることができると。

しかれでも事実はそうでないのである。イエスは今なお依然として人に知られらないのである。世が称揚するイエスはイエスではないのである。これ世の想像にイエスの名をつけた者であって、イエスご自身とは全く違った者である。世にとどろくイエスはいわゆる「教会の首長」である。大いなる宗教家である。信徒の大軍を率いて世界征服の途上にある者である。いわゆる「偉大なる人物」、神がカイゼルとしてあらわれし者、貴顕紳士までが敬仰(けいこう)する者である。

しかしながらイエスは、かくのごくにして世にあらわれたもう者ではない。いまさざる所なき彼は、きわめて少数の人のみ自己(みずから)をあらわしたもうのである。世に実は、イエスほど人にしられない者はないのである。もし人の大(だい)は彼を知る世人(ひと)の多少によって定めらるる者であるならば、イエスは小人中の小人であるということができる。(『内村鑑三全集第八巻』)

5月30日(水)

ところが会堂司(かいどうづかさ)は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない。」主はこれに答えていわれた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解(と)いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。(ルカ伝十三・十四〜十六)

釈迦(しゃか)は婆羅門(ばらもん)の破壊者であって、キリストとパウロとはユダヤ教の破壊者であった。ダンテとサポナローラとルーテルとはローマ・カトリック教会を破壊し、ブラウンとウェスレーとヂョーヂ・フォックスとは英国の監督教会を破壊した。破壊することは、時と場合とによっては決して悪い事ではないのみならず、はなはな必要なることである。もし西郷南州や大久保甲東が旧幕時代の日本の社会を破壊しなかったらどうであったろう。われら日本人はこんにちこの頃もなお中古時代の混夢のうちに昏睡していたではあるまいか。破壊を恐れるのは老人根性である。進歩を愛する者は正当なる破壊を歓迎すべきである。

10月29日(火)

さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂(さ)かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日にわたしたちを立たせられる。わつぃたちはみ前で生きる。(ホセア書六・一〜二)

キリストの愛神主義は利他利己両主義の上に超越して、もっと多く他を利して、もっとも多く己れを利する道をわれに教えたり。われは罪を自覚してこれを避くるをうべし。われはわれに付与されし赦免(しゃめん)は神の公義にもとらざるものなるがゆえに、わが全体の応諾(おうだく)をもってこれにあずるをうべし。われの求めんと欲するところのものにして、天のわれに付与せざるものなし。造化はじつに失敗ならざりしなり。インマヌエル、神われらと共にあり。人生はひとたび通過するの価値あるものなり。

5月28日(月)

よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。(ヨハネ伝十四・十二)

前あるを知らず、後ろあるを知らず、右あるを知らず、左あるを知らず、他あるを知らず、己れあるをしらず、ただ何者かが来てわが心志を奪(うば)い、わが手を取り、わが情を激して、われをしてわれのおもわざることをなさしむ。この時われの全身は燃え、われに知覚あってなきがごとし。われは何をなし、何を書きつつあるやを知らず。ただ知る、彼、われを去りし後に、われは彼の手にありてわれ以上の事をなせしことを。

5月27日(日)

しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつもたないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊に沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。(テモテ第一書六・六〜九)

なんじの今日の業(わざ)に安んぜよ。まず大事業をなすの念を放棄せよ。エリミヤ、その弟子バルクをいましめていわく「なんじ、己れのために大なることを求むるか、これをもとむるなかれ」と。われらおのおの社会の教導者たらんことを欲するがゆえに、われらの革新事業は挙らざるなり。われら各自に革新すべき区域の供せられしにあらずや。なんじすでに安心立命の位置に立ちしとせんか、さらばまずなんじの家族のおよぼし、なんじの友人を教化せよ。なんじの隣人に慰藉(なぐさめ)の清水一杯を与えよ。なんじにいたる貧者をして、なんじより善をほどこされずしてなんじの門前を立ち去らざらしめよ。われに勤めんとするの精神あらんか、われの今日の位置において、なすべきの業は積んで山をなせり。

5月26日(土)

よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救いを告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。(イザヤ書52・7)

詩人、地主にいうていわく「土地はなんじのものなり、されども風景はわがものなり」と。神の天然を楽しむに、山林田野をわがものにする要なきなり。詩人、政治家にいうていわく「政権はなんじにあり、教権はわれに存す」と。人の心を支配するに軍隊、警察、法律、威力に拠る要なきなり。詩人、宗教家にいうていわく、「寺院と教会とはなんじに属す、されど霊魂はわれに帰す」と。人に神の愛を示し、救拯(すくい)の恩恵(めぐみ)を伝え、聖霊の歓喜(よろこび)を供するに、僧侶、神官、監督、牧師、伝道師たるの要なきなり。

5月25日(金)

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。(エペソ書六・十一〜十三)

われらキリストの福音をもってこの世に立つ以上は、戦闘は全然これを避けんと欲するもあたわない。われらはもちろん他を苦しめんがために戦わない。またわが怨恨(うらみ)を晴らさんがために闘わない。われらはもちろん何よりも静粛を愛する。もしわが好愛をいわんには、われらは終生聖書と天然とを友として、賛美と詩歌の生涯を送りたくねがう。されども、これご自身十字架を負いてわれらを罪より救いだしたまいしところの主が、われに許したまわざるところである。われらは悪魔と奮闘せざるをえない。しかしてその悪魔は単に裡(うち)なる霊の悪魔ではない。外なる肉の悪魔である、佞人(ねいじん)である、奸物(かんぶつ)である、酒である、賄賂(わいろ)である、淫猥(いんわい)である、残忍である。われらは時には彼らの怒れる顔を恐れずして「主はなんじを憎みたもう」といいて、彼らを詰責(きっせき)しなけらばならない。

5月24日(木)

では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。(ローマ書10・8〜11)

信、信、信と、安心も立命も信をおいて他にないのである。信仰の結果ではない、信仰そのものである。信仰によって疾病がなおるかもしれない、またなおらないかもしれない。しかしなおらないとて、信仰はその救霊の価値を失わないのである。信仰によって、必ずしも人は道徳的に完全になるとは定(きま)らない。しかし彼にははなお旧時の多くの欠点が残りおるとも、それがゆえに信仰は救霊唯一の能力(ちから)たるを失わないのである。人が信仰によって救われるというは、信仰の結果によって救わるというのではない。信仰そのものがすでに彼の完全なる救拯(すくい)であるというのである。

5月23日(水)

善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。万軍の神、主は、あるいはヨセフの残り者をあわれまれるであろう。(アモス書五・十四〜十五)

キリスト信者は柔和で慈悲深き者でありますが、さりとて無主義、無節操、骨のないくらげのような者ではありません。彼は愛すべき者を愛すと同時に、憎むべき者をば憎みます。彼は東洋流の君子英雄とはまったくちがい、善も悪も美も醜もみなこれを容(い)れてわがものとなす政治家的度量は有しません。彼は罪を黙許し、悪を友とすることはできません。彼は罪人をあわれみます。しかし罪に対しては彼の満腔の憎悪の情を発表し、少しなりとも悪を賛するがごとき挙動を示しません。彼はまた何よりも偽善を憎みます。ことに神の名を利用して悪事を働く者の上には、彼は彼の満身満腹の憎悪をそそぎます。彼はよし自分の身を引き裂かるるとも怒りはいたしますまいが、しかし偽善者の跋扈(ばっこ)を見ては彼は憤怒にたえません。彼は決して怒らない者ではありません。神のため正義のためには、燃やしつくすが如き熱火をもって怒ります。

5月22日(火)

トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるのでしょう」。いえすは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらなけでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがわたしを知っていたならば、わたしの父も知ったであろう。しかし、今は父をしっており、またすでに父を見たのである」。(ヨハネ伝十四・五〜七)

イエスの垂訓に組織だちたる順序あるなし。彼は学者の如く熟思して真理を発見したまわざりき。彼は世の創始(はじめ)よりこれを彼自身において持ちたまえり。熟せる果実が枝より落つるごとくに、真理は彼の口より落ちたり。彼は真理そのものなれば、彼、口を聞きたまえば、教訓は自然と彼より流れ出でたり。しかして真理とはじつにかくのごときものならざるべからず。野の百合花(ゆり)の、つとめず紡(つむ)がずして色を呈し、香を放つがごとくに、イエスは学ばず究(きわ)めずして深き真理を世に供したまえり。雪山(せつざん)十二年の苦業の結果にあらず、ナザレ三十年の曇りなき成育の余韻なり。これに清流の香気あり、また山を走るかもしかの自由あり。

5月21日(月)

わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人(つみびと)ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは律法の行いによるのではなく、キリスト・イエスを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。(ガテラヤ書二・十五〜十六)

キリストの死によりて、神は身を神に託する―すなわち信ずる―ものを赦(ゆる)すをうるにいたれり。神は赦したきものを赦しうるにいたれり。(神は何事をもなしうべしといえども、正義に合(あ)わざることはなすあたわず)。ゆえにキリストは人のためにのみ生命を捨てずして、神のためにも死にたまいしなり。キリストは血の流るる手をひろげて人類に悔い改めを勧(すす)めたもうと同時に、神が人類の悔い改めを納(い)れて彼らを赦す道を開きたまえり。キリストの十字架はじつに恩恵(めぐみ)の新源泉を開きたり。神はキリストによりてなお一層の神愛を自現したまえり。

5月20日(日)

大ぜいの群集がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」。(ルカ伝十四・二十五〜二十六)

憎むとは情実のきずなをたつことである。すなわちもっとも乾燥せる眼をもって彼らの利害を見ることである。すなわち彼らの欲望の成されんことをねがわずして、彼らに関する神の聖意(みこころ)の成らんことを欲することである。かくならなくては真正(まこと)の孝子となることはできない。かくならなくて真正の父でもなければ、夫でも、兄弟でも、姉妹でもない。君父の命とならば何事にても従わんと欲する支那的の忠孝は、はなはだ不実なる忠孝である。もし東洋人の忠孝なるものが国と家とを興(おこ)したることがありとすれば、同じ忠孝によりて滅びたる国と家とはたくさんあると思う。毒物と知りつつ老父の欲する酒をすすめて、彼を死にいたらしめし孝子もあろう。毒婦と知りつつ主君の愛する妾婢を彼にゆるして、彼と彼の家と?覆(てんぷく)せしめし忠臣もあろう。時によっては君に鞭うつぐらいの臣でなければ、真正の忠臣ということはできない。

5月19日(土)

全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。(詩篇100・1〜3)

わたくしの祈りの大部分は祈願ではありません。わたくしはまず満腔(まんこう)の感謝をもってわたくしの祈りを始めます。わたくしはかくもうるわしき宇宙に生をたまいしことについて、わたくしの神に感謝いたします。わたくしはわたくしに良き友人をたまいしことについて、わたくしに身をゆだぬべき事業を与えたまいし事について、わたくしに是非善悪を判別して正義の神を求むる心を与えたまいしことについて、ことにわたくしが神より離れて私利私欲を追求せし時に当って、わたくしの心に主イエス・キリストを現したまいて、わたくしの霊魂をその救済の道につかしめたまいし絶大無限の恩恵(めぐみ)について、深く感謝いたします。そうして感謝の念がわたくしの心にあふれまする時には、わたくしは路傍に咲くすみれのために感謝いたします。わたくしの面(おもて)を吹く風のために感謝いたします。また朝早く起き出でて東天に黄金色(こがねいろ)のみなぎる時などは、思わず感謝の賛美歌を唱えることもございます。

5月18日(金)

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。(ヨカネ伝五・三十九)

聖書は一名これをイエス・キリストの伝記というてもよいと思います。その旧約聖書なるものは、キリストがこの世に生まれ来るまでの準備をのべたものであって、新約聖書は、キリストのこの世における行動や、あるいは直接にキリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書のなかからキリストという人物を取り除いてみるならば、ちょうど弓形の石橋より枢石(かなめいす)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形像(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書の解し難いのは、文字のゆえんではなく、また理論のこみ入っているわけでもなくて、じつにキリストがその枢石である事がわからないからでございます。それゆえに、ひとたびキリストと彼の真意とがわかりさえすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたとなく、またこれほど読みやすい書はないようになります。

5月17日(木)

あなたはいにしえ、地の基をすえられました。天もまたあなたのみ手のわざです。これらは滅びるでしょう。しかしあなたは長らえられます。これらはみな衣(ころも)のように古びるでしょう。あなたがこれらを上着のように替(か)えられると、これらは過ぎ去ります。しかしあなたは変わることなく、あなたのよわいは終ることがありません。(詩篇百二・二十五〜二十七)

いわゆる現世的宗教は宗教ではありません。来世を明らかにするゆえに宗教はことに人生に必要なのであります。ことにこのことを明らかにするがゆえに、キリスト教はことに必要なのであります。「キリスト死を廃(ほろ)ぼし、福音を以って(永遠の)生命と朽ちざることを明らかにせり」とあります。(テモテ第二書一・十)。キリストによりて来世はあきらかになったのであります。彼によってわたくしども彼の弟子らは、いまこの世にあってなお希望の中にわたくしどもの戦いをつづけておるのであります。しかもキリストは決してわたくしどもより遠く離れていますのではありません、ただ幕一枚であります。彼は幕の彼方(かなた)にありてわたくしどもの祈りをきき、いと近き援助(たすけ)としていましたもうのであります。

5月16日(水)

人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲(こら)らしめられているようであるが殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、すべての物を持っている。(コリント第二書六・九〜十)

「何も持たざるに似たれどもすべてのものを持てり」とはキリスト信者のことである。われらに土地一寸もなけれども、宇宙万物はすべてわれらのものである。われらの家は雨をもらし風にもろきも、われらは千代経(ちよへ)し岩を隠れ家(が)となす者である。われらを養うに美味はなけれども、われらは天の霊を呼吸して生くる者である。世にじつはわれらにまさる富者はないのである。

5月15日(火)

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(ローマ書一・十六〜十七)

わたくしはたしかに信じます。キリスト教は奇跡をはなれて論ぜらるべきものではありません。奇跡を引き抜いて後に残ったキリストの教訓がキリスト教であるならば、キリスト教とはじつに微弱なる宗教であります。キリスト教の能力(ちから)あるゆえんは、もっとも高尚なる道徳を奇跡をもって強(し)うるからであります。もしその教訓が光(ライト)でありまするならば、その奇跡は実に力(パワー)であります。力なき光は、個人と社会と国家とを全然改造しうる光ではありません。

5月14日(月)

彼はまたわたしに言われた、「これからの骨に預言して、言え。枯れた骨よ。主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息(いき)を入れてあなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋(すじ)を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。(エゼキエル書三十七・四〜六)

「その子どもの無きが故に慰めを得ず」という(マタイ伝二・十八)。しかしただ一つ慰めをうるの道があるのである。もし何かの方法により愛する者がふたたび活くるをうるならば、もしいまは眼をふさぎ唇をとじるものが、なにかの能力(ちから)により、活きてふたたびわが前に立ち、われとともに語り、わが愛を受け、わたわれに愛を供するならば、一言もってこれをいわば、彼がもし復活するならば、その時はわれはまことに慰めをえて、わが悲歎は完全にいやされるのである。人は復活と聞いて笑うなれども、されども、復活は死別の苦痛になやむ者に、何人(なにびと)にも起る希望である。永久の離別はわれらのしのぶあたわざるところである。復活の希望なくして、再会の期待なくして、死は「慰めをえざる苦痛」である。

5月13日(日)

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人(たびびと)であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(ヘブル書十一・十三〜十六)

地は人類の住所なりという、しからざるなり。地は人類の墓地なり。彼の住所は他にあり、「手にて造らざるきわまりなくたもつところの家なり。」地の花は彼の墓を飾るによし。その山は彼の遺骸を託するに適す。されども地そのものは彼の住所となすにたらず。地について争う者はたれぞや。政治は墓地の整理ならずや。戦争は墓地の争奪ならずや。永久の住所を有するわれらは、喜んで地はこれを他人にゆずるべきなり。

5月12日(土)

また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物(まきもの)を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るにふさわしい者が見当たらないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。(ヨハネ黙示録五・二〜五)

もし人の力によってこの罪悪世界が救われるものならば、そんな人はどこにいますか。病人は病人を救うことはできません。不義の人が他人の不義を治(なお)すことができようはずがございません。社会全体が腐敗している時に、その一分子たる人が立ってこれを救いえようはずがありません。もし救いうるならば、彼は社会の力によって救うのではありません。社会以上の力、すなわち神の力によって救うのであります。ゆえに社会を救うに社会そのものに頼らなければならぬとならば、社会救済事業などということは、とうていできないことでございます。

5月11日(金)

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにはどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。(創世記二・十九)

人は神にかたどりて造られし者なり。ゆえに彼は神の意匠を究(きわ)むるの理解力を有す。神が天然物を造りたまいし目的の一つは、人知を発達鍛錬せんとするにありたり。神の造りたまいし物を究めて吾人の知能を研磨するは、吾人のまさになすべきことなり。神はその造りたまいし獣と鳥を率(ひき)い来たりて、これをアダムに示し、彼をしてこれを学ばしめたまいしとなり。よって知る、博物学の研究は人類が創造の初めにおいて、神よりただちに示されしものなることを。神の造りたまいしものを直接に神より受けてこれを学ぶ。神を知り、真理を究める方法にして、何ものかこれにまさるものあらんや。博物学は人類最初の学門なり。獣を分類すること、鳥を説明すること、これアダムの受けし教育なりき。美わしきかな天然学、害なくして益多く、天然をとおしてただちに天然の神に達す。来れ、人よ、来りて森に禽鳥の声をきき、出でて山に野獣の常性を学べよ。

5月10日(木)

そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。(コリント第一書十二・三)

聖霊は神が人類に賜う最大の賜物(たまもの)である。しかし賜物であるからというて物ではない。触(ふ)れ、量(はか)り、分析することのできるものではない。霊は気である、勇気である、正気である、道徳的感化力である。聖霊をみたまとよんで、瑤玉(ようぎょく)のさらに精化したる者であるかのように解するのは大なる誤りである。聖霊は霊である、ゆえに気である、精神である、生命(いのち)である、心である、情である。ゆえに道徳的感化力としてわれらに臨み、その中に愛を生じ、信仰を起すものである。聖霊に鳩(はと)の形もなければ、焔(ほのお)の熱もない。われらはただこれをわれらの霊の力、光、生(いのち)として感ずるまでである。 

5月9日(水)

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。(ヘブル書六・四〜六)

神にさからいたればとて、その刑罰としてただちに病にかかり、貧にせまり、または社会の地位を失うものではない。いな、多くの場合においては、身の境遇の改善は神を捨て去りし結果としてくるものである。神にさからいし覿面(てきめん)の刑罰は、品性の堕落である。すなわち聖きこと高きことが見えなくなって、卑しいことと低きこととを追求するようになることである。しかしながらこれもっとも恐ろしき刑罰であって、人にとってじつはこれよりも重い刑罰はないのである。そうしてこの刑罰のことに重いわけは、こんれを受けし者がその刑罰たるを解しえないことである。われらは神に祈りて、いかなる他の刑罰を受くるとも、この恐ろしき品性堕落の刑罰を受けざるようつとむべきである。

5月8日(火)

ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。(イザヤ書四十四・二十一〜二十二)

もし救わるるはわが行為(おこない)またはわが信仰によるならんか、われは今なお危地に立つ者なり。そはわれはいつ罪を犯し、わが信仰はいつ冷却し、またいつ変移するや、期すべからざればなり。されどもわれは聖書によりて、救拯(すくい)の、わが行為または信仰によるにあらずして、変わりなき神の変わりなき聖旨(みこころ)にもとづくを知りて、われにはじめて真の平安あるなり。その時、われはわが行為の不完全を意とせず、わが信仰の冷却を恐れず、まとえる罪の重荷を脱して、はばからずして神の至聖所に入るをうるなり(ヘブル書十・十九)。神もしわが味方たらば、たれかわれに敵せんや。われわが神がその無限の愛をもってわれをあらかじめその救拯に定めたまえりと知りて、われは世の反対を恐れず、教会の否認を恐れず、わが罪と不信とを恐れず、ただ「われは信ず」といいて一直線に進むなり。

5月7日(月)

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なるのを見着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると王は、答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(マタイ伝二十五・三十七〜四十)

聖クリソスムいわく「真正なる神殿は人なり」と。北斗、参宿(しんしゅく)、昴宿(ぼうしゅく)の密室、これ神の宿りたもうとこにあらず。雷霆奔鳴(らいていほんめい)して山河揺撼(ようかん)する時、これが神が吾人に語りたもう時にあらず。みどり児(ご)うまぶねに臥するところ、これまことの神が世に臨みたまいしところなり。神は人にあり。彼は人において吾人の敬愛と信従とを要求したもう。人に仕(つか)うるは神につかうるにして、人を離れて神に仕うることあたわず。

5月6日(日)

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(ピリピ書三・十二〜十四)

キリスト教は人を善の器(うつわ)となすものにして、先哲がもって詩人の夢想とみとめし最大希望を、われらにおいて充(み)たすべしと宣言するものなり。われもしキリスト教によりていまだこの完全に達する道をえざれば、われはいまだキリスト教を解せざるものなり。キリスト信者は大望をいだかざるべからず。在印度宣教師ウィリアム・ケリーいわく『神のために大事を計画し、神より大事を望め』と。われは人力のおよばざる大変化をわが身に来たさんと欲するものなり。

5月5日(土)

愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。(ペテロ第一書四・十二〜十三)

恩恵(めぐみ)とは身の幸福ではない、霊の光明である。財貨(たから)とは全世界ではない、眼に見えざる真の神である。唯一(ただひとつ)の真の神である。唯一の真の神と、そのつかわしたまいしキリストを知ること、これが永生である、最大幸福である、最大の賜物である。しかしてこの至大至高の恩恵にあずからんがためには、貧も可(か)なりである。世と友人とに棄てらるるも可なりである。疾病(やまい)も可なりである。しかり、死そのものも可なりである。余輩はイエスにありて、死そのものにおいてすら神の笑顔(えがお)を拝し奉るのである。

5月4日(金)

あなたの心を教訓に用い、あなたの耳を知識の言葉に傾けよ。(箴言二十三・十二)

聖書は何がゆえに神の言辞(ことば)であるかというに、もちろんその中に神にあらざればとうてい語ることの出来ないことが書いてあるからである。その文章の優劣はわれらの論ずるところではない。歴史的事実の錯誤のごとき、科学的証明の不足のごとき、もって神の聖旨(みこころ)のいかんを示すにあたっては、さほど大切なる事柄ではない。われらは人生に関し、宇宙に関する神の真理を知りたくねがうものである。そうして、聖書はもっとも明白にわれらの要求するこの説明を与えてくれるのである。すなわち聖書の完全なるは、その辞句文章等の外形にあるのではなくして、これを一徹する神の聖旨に存するのである。聖書が神の言辞であるというのは、その中に神の心が充(み)ちあふれているからである。

5月3日(木)

あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいあたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しにいくのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネ伝十四・一〜三)

この世における余の生涯はどうでもよい。憎まるるもよい、誤解せらるるもよい、貧しきもよい、裸なるもよい。世の永久の運命はこの世における余の境遇によって定められるものでない。余の運命を定める者は、余のために自己(おのれ)を捨てたまいし余の救い主イエス・キリストである。彼は余のためにところを備えんために、父のもとに往きたもうた。彼はまた来りてなんじらをわれにうくべしと約束したもうた。余はこの世にありては遠人(たびびと)である。暫時の滞留者である。余は一時天幕をこの地に張る者である。永久の住家(すみか)を築く者ではない。神が余を呼びたもう時には、ただちに天幕の綱を絶ち、これをたたんで彼の国へといそぐ者である。

5月2日(水)

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人人のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出してくださるであろう。(テサロニケ第一書四・十三〜十四)

死は大事である。しかし最大事ではない。死はとり返しのつかぬ災厄(わざわい)ではない。死は肉体の死である、霊魂の死ではない。形体の消失である。生命の湮滅(いんめつ)ではない。われらは死して永久に別れるのではない、われらは後にまた再び会うのである。人生の大事は死ではない、罪である。天地の主なる神に背(そむ)き、生命(いのち)の泉より離るることである。ゆえに神は人を死よりまぬかれしめとて、その道を取りたまわなかった。しかしながら彼らを罪より救わんとして、その独(ひと)り子をおくりたもうた。死の刺(とげ)は罪である、罪がのぞかれて、死は死ではなくなるのである。

5月1日(火)

そして少し進んで、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、「アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」(マルコ伝十四・三十五〜三十六)

アア神よ、われらをしてなんじを偉大なる神として解せしめよ。われらの切望とあれば何事によらずこれを聴きいれたもうがごとき、われらに肖(に)たる小なる神としてなんじをさとらしむるなかれ。われらをしてなんじの前に平伏せしめよ。なんじがなんじの聖顔(みかお)をわれらよりそむけたもう時に、われらをして、なんじはわれらの聖父(ちち)なることを認めしめよ。なんじにわれらの祈りをことごとく聴きいれらるるは善し。されどもなんじの聖旨(みむね)のままに導かるるはさらに善し。われらをしてなんじに何事をも注文するところあらしむるなかれ。われらをしてみずから善悪を定めしむるなかれ。なんじのなしたもうところ疾病(やまい)にあれ、飢餓(うえ)にあれ、裸にあれ…これ善なりと称せしめよ、アーメン。

四月

4月のはじめに

あめつちもゆるぐらっぱのひとこえによみがえるらん春のあけぼの    (「復活と来世」)

4月30日(月)

あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。(イザヤ書二・二十ニ)

正義というなかれ、恩恵(めぐみ)といえ。清浄というなかれ、赦免(ゆるし)といえ。正義清浄は人にあるなし。これを彼より要求して、われらは失望せざるを得ず。されども神の恩恵は限りなく存し、その清浄は尽くることなし。神によりて人を救わんと欲すべし、人によりて世を救わんと望むべからず。人を助け世を救うの道は、単(たん)に神の救拯(すくい)の水をして尽きざる河のごとくに流れしむるにあり。

4月29日(日)

また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しく、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(テモテ第二書三・十五〜十七)

著書の判然とせざる聖書は信頼するにたらないかというに、決してそうではない。聖書は聖書そのもののために貴いのであって、その著者のために貴いのではない。真理はそのもの自身の証明者であるからとて貴いのではない、神の真理であるがゆえに貴いのである。われらはダビデやソロモンに教えられんと欲しない、神の聖霊に導かれたくおもう。預言者エレミヤはわれらのごとき弱き人であった、しかし彼の口より神の言葉が出た。われらは預言者自身を尊(とうと)まない、彼をもってわれらを教えたもう神に感謝する。

4月28日(土)

このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(テトス書二・十四)

これは道徳的実験であります。すなわち良心の必然的命令によりて自己を糺(ただ)して見ました結果、自己の、神にそむき、幽暗(くらき)を好むものであることを発見し、この罪人(つみびと)を救うに足るの救い主を求めて、ついにここにキリストに接して、この痛める良心を医すに足るのある者を見出すに至ったのであります。そうしてわたしは、罪とは人に対して犯したものではなくして、神に対して犯したものであることを知りまするゆえに、この罪の苦悶を取り去ってくれた者は必ず神でなくてはならないことを知ったのであります。

4月27日(金)

イエスは苦難を受けたのち、自分のいきていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束をまっているがよい、すなわち、ヨハネは水でパプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、パプテスマを授けられるであろう」。(使徒行伝一・三〜五)

わたくしはもことに奇跡を信じます。奇跡を信ぜずしてキリスト教は信ぜられません。いな、奇跡を信ぜずしていかなる宗教も信ぜられません。わたくしの考えまするに、奇跡を排斥しますならば、それと同時に宗教を排斥すべきであると思います。奇跡を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱えながら健康の幸福を説くの類であると思います。奇跡は宗教の滋養であります。この養汁ありてこそ、宗教なる生物は存在しかつ繁殖するのであります。奇跡を取り除いてごらんなさい、宗教という宗教はみな死んでしまいます。

4月26日(木)

自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまたおるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。(ヨハネ伝十二・二十五〜二十六)

幸福は人生最大の獲物(えもの)ではない、義務は幸福にまさりてさらに貴くある。義務のゆえにわれわれはたびたび幸福をすてざるを得ない。しかして義務のためにわれらのこうむる損失は決して損失ではないのである。エフタは彼の幸福を犠牲に供して彼の国を救うた。しかしてエフタの娘は彼女の生命(いのち)を犠牲に供して、彼女の父の心を聖(きよ)めた。犠牲に犠牲、人生は犠牲である。犠牲なくして人生は無意味である。幸福は人生の目的ではない、犠牲こそ人生の華(はな)なれである。もしイスラエルを救わんがためにエフタの苦痛が必要であり、しかしてエフタ自身を救わんがために彼の娘の死が必要でありしとならば(しかして余は必要でありしと信ずる)、神の聖名(みな)は賛美すべきである。エフタは無益に苦しまず、彼の娘は無益に死ななかった。神はかくのごとくにして人と国とを救いたもうのである。

4月25日(水)

主を恐れることは知恵の教訓である、謙遜は、栄誉に先だつ。(箴言十五・三十三)

謙遜なれ、柔和なれ、されど意気地(いくじ)なしたるなかれ。謙遜は勇気なり、されど意気地なしは卑怯なり。二者その外貌において相い似て、その内容において全く相いことなる。しかして世にいわゆるキリスト的謙遜なるものにして、卑怯の結果なるもの多し。われらの謙遜をしてありあまる能力(ちから)を有する者の謙遜ならしめよ。世の圧迫を怖れて萎縮(いしゅく)するの謙遜(退縮)ならすしむるなかれ。

4月24日(火)

だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって働かせてくださったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうしてわたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。(ローマ書十五・十七〜二十)

われわれが事をなすにあたりて富豪の寄付を仰ぐをもちいず、われの仕うる天の父は天地万有の造り主なり。われわが志(こころざし)を伸(の)ぶるにあたりて社会の賛同をうるを要せず、われの友なる天使は宝座(みくら)に近くわがために祈る。われに糧(かて)あり、聖書にあり。われに力あり、祈祷に存す。われは単純にして世界を相手(あいて)に戦いうるなり。

4月23日(月)

神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の中保者(ちゅうほしゃ)もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。(テモテ第一書二・四〜六)

単純なる信仰、信仰のみの信仰、結果に目をそそがざる信仰、信仰のみをもって満足する信仰...この信仰があって信者に初めて真の平和があるのである。主イエスが「われなんじに平和(やすき)を与えん」(ヨハネ伝十四・二十七)と言いたまいしはこの平和である。「人のすべて思うところにすぐる平和」(ピリピ書四・七)とパウロがいいしはこの平和である。これは深い信仰である。強い信仰である、堅い信仰である。この信仰があってこそ信者は世に勝つことができるのである。律法の行いを離れて顕われたる神の義の信仰、この信仰によりてのみ大なる事業は成しとげらるるのである、大文学は出づるのである、大美術は現わるるのである、大国家は興(おこ)りて大政治は行わるるのである、社会はその根底より改めらるるのである。

4月22日(日)

そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。(ピリピ書一・二十)

わが名は消ゆるとも可(か)なり、ねがわくは神の聖名(みな)の崇(あが)められんことを。わが教会は失(う)するも可なり、ねがわくはわが同胞の救われんことを。われとわれに属するすべてのものは消尽さるるも、わが神の栄光の日々にますます揚らんことを。

4月21日(土)

ひとりのみどりごがわれわれにために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位(くらい)に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。(イザヤ書九・六〜七)

じつに欲しきものはこの信仰である。キリストと彼の十字架のほかに信仰の理由を求めざる信仰である。その証拠をこの世の事業の成功において求めざる信仰である。これを自己の聖(きよみ)において求めざる信仰である。単純なる信仰である。大胆なる信仰である。イエス・キリストと彼の十字架のほかに、社会事業もわが道徳もいらないという信仰である。あたかもコロンブスが、天の星にたよるのほか陸上何物をも標的(めじるし)としてもつことなくして、大洋に乗り出でし時のようなる信仰である。しかしてこの信仰があってこそ、われらは大宇宙に逍遥し、人を恐れず罪を恐れず大声疾呼して、新大陸ならぬ新エルサレムへとわれらの船を乗り出すことができるのである。

4月20日(金)

このイエスこそは「あなたがた家造りらに捨てられたが隅のかしら石となった石」なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。(使徒行伝四・十一〜十二)

新約聖書はある一つの明白なる、確実なることを伝える。それは主イエス・キリストである。彼がその主人公であるのである。彼を世に示さんがためにその二十七書は書かれたのである。彼を種々の方面より見たるその記録が新約聖書である。その見方の異なるは、見る立場と人とが異なるからである。しかして異なりたる方面より異なりたる人が見て、ここに最も完全に彼が世に示されたのである。われらはキリストを知らんと欲して聖書を学ぶのである。しかして人はかならずしもその発せし言辞(ことば)ではない。またかならずしもそのなせし行(わざ)でもない、その言辞と行為とをとおして伝わる精神である、霊である。われらはキリストの精神を知り、その霊を受けんために聖書に行くのである。

4月19日(木)

だから兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実(みの)りを前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐えしのびなさい。心を強くしていなさい。(ヤコブ書五・七〜八)

人をして非俗的ならしめ、無欲ならしめ、非現世的ならしむるものにして、鮮明にして確実なる来世の希望のごときはないのである。この希望を欠いて、この罪の世にありて信者の生涯を送ることは出来ない、この世の不義はあまりに多くある。暗黒の勢力はあまりに強くある。この世のみに意を留めて、不信は当然の結果といわざるをえない。されども目をあげて上を仰がんか、聖書に示されたる神の約束を信ぜんか、完成さるべき造化と救拯(すくい)とを望まんか、ここに懐疑の雲霧は晴れて、正義敢行の勇気は勃然(ぼつぜん)としてわき出るのである。キリスト再臨の希望は信者の歌の源(みなもと)である、愛の動機である、善行の奨励である。それありて、われらはこの涙の谷にありて、歌いつつわが父の家へと進み行くことができるのである。

4月18日(水)

わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けてくださる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知る方は、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。(ローマ書八・二十四〜二十七)

神は聖霊として人の霊にのぞみたもう。聖霊として光を供し、聖霊として能(ちから)を加え、聖霊として万事をとげたもう。聖霊によりてである。信者は聖霊によらずして何事もなすことができない。彼は聖霊によりて祈り、聖霊によりて万事をたずね知る。神の能なる聖霊によりて神にいたり、神の光りなる聖霊によりて神を知る。キリスト信者は元来他動的である、自動的でない。上より求められし者であって、下より求めし者ではない。彼の信仰そのものさえ聖霊によりて起こされしものであって、かれみずから求めて起こりしものでない。聖霊によりてである。

4月17日(火)

そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物(はもの)を執ってその子を殺そうとした時、主の使いが天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使いが言った、「わらべを手にかけたはならい、また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、わなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子こかわりに燔祭(はんさい)としてささぎた(創世記二十・十〜十三)

主は憐憫(あわれみ)の神である。その子を苦しめんと欲して苦しめたもうのではない、その罪の本源たる利己の心を殺(そ)がんがために苦しめたもうのである。すでに犠牲の決心と行為とがあらわれて、主はその余を要求したまわない。天より声あり、アブラハムに告げていうた「なんじの手の童子(われべ)につくるなかれ」と。ああ救い!しかり恩恵(めぐみ)!愛子を一たび神に献げて、彼はふたたび神よりこれを与えられた。アブラハムはここにふたたび犠牲の何たるかをさとった。犠牲は棄てるのではない、さらに得るのである。燔祭(はんさい)の供え物は、神ご自身、べつにこれを備えたもうた。牡羊(おひつじ)は林叢(やぶ)の中につながれてあった。

4月16日(月)

兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたあは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。(ヤコブ書五・十〜十一)

艱難を避けしめたまわない、これに陥(おちい)らしめたもう。しかしてその中より救い出したもう。艱難をして充分にはたらしめたもう、火をして焼きつくすだけを焼きつくさしめたもう。しかしてその中より救い出したもう。艱難を避くるはこれに勝つ道ではない。艱難はこれにあたり、一たびその呑むところとなりてのみ、ついによくこれに勝つことができる。これが真正(ほんとう)の救済(すくい)である。死は死によりてのみこれを滅ぼすことができる(ヘブル書二・十四)。艱難は艱難の中をとおらずして、これに勝つことができない。神は信者を艱難の中より救い出したもう。しかして完全に彼を救いたもう。

4月15日(日)

あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。(コロサイ書二・十三〜十四)

われらは不義の子である。神の子ととなえらるるにたらぬ者である。しかるに神はわれわを憐(あわ)れみたもう。そのかぎりなき憐愍(あわれみ)により、その独(ひと)り子をくだしたまい、彼をしてまったき人たるの生涯を送らしめ、義を完全に行わしめたまい、しかして彼を人類の代表者として受けたまい、彼にありて人類をゆるし、これを義とし、聖(きよ)め、かつ贖(あがな)いたもうた。神はいまやキリストにありて人類を視たもうのである。神の眼中にいまや罪に死にたる人類あるなく、ただ義に生きたる人の子、すなわち人類代表者なるキリスト・イエスあるのみである。ここにおいてか人は、自己の罪に死にたることと、キリストの自己にかわりて義をまっとうしたまいしこととを自覚し、かつ自白すれば、その時ただちに救われるのである。われらはすでに贖(あがな)われて世にあるからである。

4月14日(土)

もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶(と)ける。万軍の主はわれわと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。(詩篇四十六・六〜八)

奇跡とは神の能力(ちから)の発見でありますから、神の存在と活動とを信ずる者の眼には、奇跡と天然の別はありません。彼にとりては、実は天然と称して、神よりまったく離れ、ひとり働いてひとり生ずるものはないのであります。彼にはただ二種の奇跡があるのであります。尋常的奇跡、これが天然であります。非常的奇跡、これが聖書にしめしてあるような奇跡であります。今日まで万物を天然的に解し来りし彼は、いまは意志的に、すなわち奇跡的にこれを解するに至りました。彼の宇宙観は神を信ずるによりて一変しました。

4月13日(金)

そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいいのちをもっていいない。(ヨハネ第一書五・十一〜十二)

新事業を求めんと欲せざれ、新生命を求めよ。新事業はかならずしも新生命をうまず、されども新生命は多くの場合においては新事業を作る。成功の秘訣はこれを外において求むべからず、うちにおいて求むべし。しかしてうちより出でたる新事業は、つねに健全にしてつねに永続す、余輩が人に新生命をすすむるは、あにひとりの宗教道徳のためのみならんや。

4月12日(木)

わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さいものであるわたしにこの恵みが与え

られたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神のなかに世々隠されていた奥義にnる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。(エペソ書三・七〜九)

人のためにする伝道、これ何人も従事しうる伝道なり。これ伝道免許を要せざる伝道なり。教権なるものはいまはまったくわれに用あるなし。真理そのものがわれの証人なり。わが頭上に千百の手の載せらるるありて、われの姓名に冠するに、教師、博士等崇巌なる称号ありあまるほどをもってするも、貧者もしわれによって天の慰藉にあずかるをえずば、われの授かりし按手礼(あんしゅれい)は空式のみ、虚礼のみ。もって厘毫(りんごう)の価値をわれに加うるをえず。愛に律法(おきて)あることなし。伝道の自由は、われに他人に与うべき真善の存する時にあり。

4月11日(水)

ダビデはその子ソロモンに言った、「あなたは心を強くし、勇んでこれを行いなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。主なる神、わたしの神があなたとともにおられるからである。主はあなたを離れず、あなたを捨てず、ついに主の宮の務(つとめ)のすべての工事をなし終えさせられるでしょおう。」(歴代志上二十八・二十)

メソジスト派ジョン・ウェスレー死する前の、彼、友人にむかい、数回繰りかえしていわく「何よりも善きことは、神、われらと共にいますことなり」と。神は万物の霊たる人間の有するものの中にてもっとも善なる、もっとも貴きものなり。神は財産にまさり、身体の健康にまり、妻子にまさりたるわが所有物なり。富は盗まるる恐れと、浪費さるるの心配あり。国も教会も友人もわれをすてん。事業はわれを高ぶらしめ、肉体もまたわれはこれを失わざるをえず。されども永遠に至るまで、われの所有しうべきは神なり。人の尊貴(とうとき)は、彼はいとも高き神より以下のものをもって満足するあたわざるによるなり。

4月10日(火)

愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。(ヨハネ第一書四・七〜八)

最高のオルソドキシー(正統教)とはキリストの心をもって兄弟を愛することなり。キリストの慈愛なく、その忍容と従順となくして、われらいかなる教義を固信するも、いまだもって真個の正教徒をもってみずから任ずるあたわず。もしわれらの奉ずる教義にしてわれらをキリストのごとき者たらしめずば、われらは自身の信仰につきて大いに疑念をいだくべきなり。われらは信仰において蟄固(きょうこ)なるに先立ちて、心情においてキリストのごとく温和なるを要す。

4月9日(月)

その魂は墓に近づき、その命は滅ぼす者に近づく。もしそこに彼のためにひとりの天使があり、千のうちのひとりであって、仲保(ちゅうほ)となり、人にその正しい道を示すならば、神は彼をあわれんで言われる、『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た』。(ヨブ記三十三・二十二〜二十四)

キリスト救世の業は二様なりき。一は人類に完全なる生涯を教うるにあり。二は人類の罪を彼の身に負うてこれを削除するにあり。前者は救世の最終目的にして、後者は前者に導くの必要手段なり(ペテロ第一書二・十二)。完全なる人を作らんと欲せば、まず人を不完全ならしむる罪をのぞかざるべからず。何となれば、人はその罪より脱せざれば罪を犯さざるにいたらざればなり。

4月8日(日)

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれのだ。彼はみずから懲(こ)らしめをうけて、われわれに平安を与え、そのうたれた傷によってわれわれはいやされたのだ。(イザヤ書五十三・四〜五)

死と剣とは生命の樹を守りて今日にいたれり。われらこれに近づかんとすれば、山、鳴り、地、震(ふる)いて、われらの手のこれに触るるを許さず。ああ憐れむべきは楽園をおわれし人類なるかな。されど一人あり、彼はわれらのためにふたたび生命の樹に達する道をひらきたまえり。ナザレのイエス、彼なり。彼はみずから血を流して、ケルビムと焔の剣の間にわれらの歩むべき道を開きたまえり。しかり、血を流すにあらざれば道は開けざりき。されども人が政治的自由をえんがために血をながすがごとくにあらずして、彼はひとりみずからわれらの愆(とが)をにない、われらの罪の供え物として献げられたまえり。彼によりてエデン回復の端緒は開かれたり。われらは失望を去りて可(か)なり。神の愛はついにその律法に勝てり。焔の剣はいまはわれらの身に害を加えざるに至りぬ。

4月7日(土)

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(コリント第二書十二・七〜九)

もっともよき聖書の注解はバーンズにあらず、マイヤーにあらず、クラークにあらず、もっともよき聖書の注解は、人生の実験そのものなり。これなからんか、すべての学識、すべての修養をもってするも、聖書の根本的教義をさぐるあたわず。これあらんか、いろは四十八文字を読みえば、聖書の示す神の奥義を知るにかたからず。教会より放逐され、国人に迫害され、友人の裏切りするところとなりて、吾人は始めてキリスト教の真髄なる十字架の何たるかを知るをうべし。聖書が神の書たるの確証は、それが学識の書にあらずして実験の書たるに存す。

4月6日(金)

イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。(ヨハネ伝四・十三〜十四)

人の復活はイエス独特の事業である。これ彼を離れて行わるることではない。人は天然的に復活するのではない。イエスによって復活せしめらるるのである。ゆえにいう「われ末(おわり)の日にこれを甦(よみが)えらすべし」(ヨハネ伝六・五四)と。「彼に生命あり」といわれし彼イエスが、彼が、甦(よみが)えらすべしとのことである。復活を自然的現象としてこれを解することはできない。復活は生命の新供給である、その新発展である。ゆえに生命(いのち)の源なる神の子イエスによってのみ行われることである。「われ末(おわり)の日に甦えらすべし」という。人の言(ことば)としては妄言(もうげん)の極である。されども生命の源なる神の子の言としては当然の言である。イエスは天よりくだりし生命のパンである。彼を食(くら)いて人は生長し、ついに永生に達するのである。

4月5日(木)

わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨(うら)み、ちり灰の中で悔います。(ヨブ記四十二・五〜六)

純潔なる思想は書を読んだのみでえられるものではない。心に多くのつらい実験をへて、すべての乞食的根性を去って、多く祈って、多く戦って、しかる後に神より与えられるものである。これを天才の出産物と見なすのは、大なる誤謬である。天才は名文を作る、しかも人の霊魂を活かすの思想を出さない。かかる思想は血の涙の凝結体(かたまり)である。心臓の肉の断片である。ゆえに刀をもってこれを断(た)てば、その中より生血(いきち)が流れ出るものである。ゆえにいまだ血をもって争うことのない者の、とうてい判断することのできるものではない。文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である。これを軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である。

4月4日(水)

けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、「主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか、わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたあしの王座、地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか」。(使徒行伝七・四七〜五十)

欧米諸国においてすでに腐敗の兆(ちょう)を示せるキリスト教を取り来たり、これを日本において復活し、これに新生命を供し、もって再びこれを世界に伝布せんとす、これ吾人の天職ならずや。しかるに何を苦しんで彼らの糟糠(そうこう)をなめ、彼らの教会と青年会と共励会とをまねし、もってこの地に英国または米国の宗教そのままを移植せんと試むるや。キリスト教は人類の宗教にして英人または米人の宗教にあらず。吾人はこれを取りて吾人の宗教となすをうべし。外国的宗教は吾人に何の用なきなり。

4月3日(火)

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事をおぼえられることなく、心に思い起すことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫び声は再びその中に聞えることはない。(イザヤ書六五・十七〜十九)

われらに、いま、復活の奇跡の行われないのは、いまは復活の時でないからである。またこの朽つべき肉体の復活は、永久の救済(すくい)でないからである。神はより大なる復活をわれらのために備(そな)えたもうのである。彼が末(おわり)の日に行いたもう復活は、ヤイロの娘やラザロの復活と異なり、ふたたび死なざるの復活である。「また死あらず、悲しみなげき痛みあることなし」という復活である。しかして神はキリストをもって、末の日にこの大なる復活を、われらとわれらの愛する者との上に行いたもうのである。われらの死にたる娘がふたたびわれらにわたさるる時には、われらはふたたびこれを失わないのである。またと死別のない会合、これにまさりて歓(よろこ)ばしきことの、この世にまたとあるべけんや。

4月2日(月)

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまおととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今いきている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。(ヨハネ伝四・二十三〜二十四)

神を信ぜずして神を知ることはできない。はじめより神を疑ってかかっては、神は永久に疑問物である。ことに神は至誠者であることを知って、信仰の、彼を知るために必要かくべからざるものであることがよくわかる。至誠の人が何よりもきらうことは、人が彼について疑いをはさむこである。至誠は至誠を要求する。至誠は至誠をもって接するにあらざれば、その中に存する秘密を授けない。至誠は懐疑に対しては絶対的沈黙をまもり、かたくその門戸をとじて、奥義の外にもれざらんことをつとむ。懐疑の己れに近づくを見れば、至誠は声をはげましていう「ファイ、ここを去れ、われになんじに与うべきものなし」と。疑うて聖人を見れば、聖人は愚人のごとし、懐疑の眼に映ずる至誠は、愚鈍であり、無情であり、無意義である。至誠の人においてそうである。まして神においておやである。

4月1日(日)

見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。(雅歌二・十一〜十三)

わが愛する者よ、わが美わしき者よ、わが希望よ、わが救い主よ、起てよ、起ちてなんじの墓より出で来たれよ。見よ、恥辱の冬はすでに過ぎ、栄光の春は来たりぬ。雨もやみてはや去りぬ。憤怒、猜疑(さいぎ)、嫉妬の寒風の、はやなんじの身におよぶなし。鳥のさえずる時はすでに至れり。山鳩と雲雀(ひばり)と草雀(あおじ)との声、われらの野に聞こゆ。無花果(いちじく)の樹はその芽を赤らめ、桜花の爛漫(らんまん)たるもまさに近きにあらんとす。葡萄の樹は花咲きて、そのかぐわしき香気(におい)をはなち、春林、至るところに綺羅(きら)を装(よそお)わんとす。わが愛する者よ、わが美わしき者よ、わが希望よ、わが救い主よ、起てよ、起ちてなんじの墓より出できたれよ。愛をもってなんじの敵に勝ち、恩恵(めぐみ)をもって忿怒(ふんど)をいやし、野に春色の臨みしと同時に、世に温情の春を来たらしめよ。

三月

三月はじめに(内村鑑三)

春は来りつつある

雪は降りつつある

しかし春は来りつつある

寒さは強くある

しかし春は来りつつある

春は来りつつある

雪の降るにもかかわらず

寒さの強きにもかかわらず

春は来りつつある

慰めよ、苦しめる友よ

なんじの艱難(なやみ)多きにもかかわらず

なんじの苦痛(いたみ)強きにもかかわらず

春はなんじにもまた来たりつつある

(『歓喜と希望』より)

3月31日(土)

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。(コリント第一書十五・五十三〜五十四)

しかり、余の救い主は死より復活したまいしを。義人を殺しその人死せりと信ぜしユダヤ人のあさはかさよ。なんぞヒマラヤ山をたたきて山崩れしと信ぜざる。余が愛するものは死せざりしなり。自然は自己の造化をすてず、神は己れの造りしものを軽んずべけんや。彼の死体を包みし麻の衣は土と化せしならん。されども彼の心、彼の愛、彼の勇、彼の節…ああもしこれらも肉とともに消ゆるならば、万有はわれらに誤謬を説き、聖人は世をあざむきしなり。余はいかにして、いかなる体をもって、いかなるところにふたたび彼を見るやを知らず。ただ

“Love does deam,Faith does trust

Somehow,somewhere we must” Whittier.

愛の夢想をわれ疑わじ

何様(どう)か何処(どこ)かで相い見んと。(ホィチャー)

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3月の終りに

国を救わんと欲するか、第一にキリストの福音を伝えよ。第二に植木を植えよ。キリストは生命(いのち)の樹(き)である。(黙示録二・七、二二)。樹木は国の生命である。人のすべて善き事はキリストより来り、国のすべて善き事は樹木より来たる。人の心にキリストが宿りたまい、国の表面(おもて)に樹木が茂(しげ)りて、天国は地上に臨むのである。

3月30日(金)

キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。(ガラテヤ書一・四)

キリストは医者でもなければまた政治家でもございません。彼の天職は霊魂の救い主たることでありまして、彼のなされし仕事の性質から申しましても、彼は人類中に比類のない者でございました。霊魂を救う者とは、人の犯せし罪を赦(ゆる)し、その良心に満足を与える者でございます。こういう人物は、道徳家でもなれればまた哲学者でもありません。いかなる君子、碩徳(せきとく)、鴻儒(こうじゅ)なりとも、人の罪を贖(あがな)うてこれをゆるすことはできません。霊魂の存在とその要求する物の何たるかを知れば、キリストの何人なるかを知るにかたくないと思います。わたくしどもが霊魂を有する以上は、キリストのごとき人物の降世と彼のなされし事業とは、わたくしどもの生存上の大必要であるといわなければなりません。

3月29日(木)

だから、主がこられるまでは、何事についても、先走(さきばし)りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。(コリント第一書四・五)

造化の不完全をいきどおり、信者に欠点多きを怒りて、神をそしり、信者をあざけり、福音をしりぞけまたはこれをすつる者は、神の聖業(みしごと)をその中途において見て、これをその完成において視(み)んと欲せざる者である。救拯(すくい)はすでにはじまったのである。されども救拯はすでに終ったのではない、完成の途上においてあるのである。しかしてその完成するや、目、いまだ見ず、耳、いまだ聞かず、人の心、いまだおもわざるものである(コリント第一書二・九)。さればわれらは待つべきである。信者は己が完成せられんことを待つべきである。不信者もまた神と福音と信者とについて、その最後の断案をくださんと欲するにあたって、その時のいたるまで待つべきである。

3月28日(水)

主はこう言われる、「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか、わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」。(イザヤ書四十二・十八〜十九)

人の世に生まるるや、彼は新たに生まる。彼は祖先の遺伝を受くることはなはだすくなし。悪人の父より善人うまれ、病弱の母より健児うまる。神は各人をもって新たにその聖業(みしごと)をはじめたもう。祖先の悪しきは憂うるをもちいず。人は各自アダムとエバのごとくただちに神に造らるる者なり。嬰児(えいじ)が呱々(ここ)の声を揚(あ)ぐるごとに、革新の声は揚がる。希望は時々刻々のこの世に臨みつつあり。腐敗の累積はあえて恐るるにたらざるなり。  

3月27日(火)

エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。エノクは神とともに歩み、神が彼をとられたので、いなくなった。(創世記五・二十一〜二十四)

「歩む」とは「静かに歩む」の意である。飛ぶにあらず、走るにあらず、歩むのである。雄飛というがごとき、疾走というがごとき、絶叫というがごときことをなさずして、忍耐をもって神により頼み、その命にしたがって静かに日々の生涯を送ることである。あえて大事業を成さんとせず、大伝道を試みんとせず、大奇跡を行わんとせず、ただ神の命これ重んじ、彼の言これにしたがい、神を信ずるこれ事業なりと信じて、無為に類する生涯を送ることである、信仰の生涯の大部分は忍耐である。静粛である、待望である。神にありて自己に足るの生涯である。また神より何物をも受くることなきも、かれご自身を賜わりしがゆえに、その他を要求せざる生涯である。

3月26日(月)

イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まないければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ伝六・五十三〜五十四)

「われ」…能力の充実せるイエス・キリスト、天の中、地の上のすべての権力を賜われりといいたまいし彼、世にありし間に死者を甦(よみが)えらすの実験をもちたまいし彼、その他種々の不思議なる行(わざ)をなしたまいし彼、また人類を向上せしむるにおいて歴史上の最大の力たりし彼、またわれらかれを信ずる者の心霊にありて、何人もなす能わざる道徳的変化を成しとげたまいし彼、神の子、人類の王、われらの救い手たる彼、主イエス・キリストが死者を甦えらしたもうとのことである。ペテロとか、パウロとか、ヨハネとかいう人がこの奇跡を行うというのではない。われは生命なり復活なりといいたまいし神の子イエス・キリストが、この事をなしたもうというのである。何も不思議はないのである。

3月25日(日)

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ書八・二八)

復活を信じて宇宙と人生とを観じてごらんなさい。宇宙とはなんとうるわしいところとなるではありませんか。人生とは何と喜ばしいものになるではありあせんか。「われらことごとく寝むるにはあらず、われらみなおわりのらっぱの鳴らんとき、たちまち瞬間(またたくま)に化せん。そはらっぱ鳴らん時、死にし人、甦(よみが)えりて壊(く)ちず、われらもまた化すべければなり」。この信仰があってこそ、死はその恐怖をさり、世にこわいこと、悲しいことはなくなってしまうのであります。冬が去って春の来ますのも、うぐいすが梅が枝に初春の曲をとなえまするのも、花の朝(あした)も月の夕(ゆうべ)も、すべてみな一点悲惨の分子をまじえざる希望、快楽のもといとありて、われらは天然の美を楽しんで、その悲と惨とを思わざるに至るのであいます。

3月24日(土)

主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者にいつくしみを豊かに施されます。(詩篇八六・三〜五)

未来において神の裁判はある、きっとある。しかし愛の神はご自身、人を裁きたまわずして、審判はすべてこれを子にゆだねたもうた。しかして恵み深くして赦しをこのみたもうキリストに裁かれて、われらはもっとも恩恵的に裁かるるのである。しかしてご自身憐憫(あわれみ)をこのみて祭祀(まつり)をこのみたまわざるキリストは、人を裁きたもうにあたりて、重きをその人の憐憫におきたもうのである。憐憫はキリストが人を裁きたもう時の標準である。いわゆる正義ととなえて清浄潔白なる事ではない。あるいは信仰ととなえて、教義と儀式と伝道のことにおいて欠くるところなきことでない。憐憫である、憐愍である、赦す心である、恵む質(たち)である、愛の行為である。人の永遠の運命はこれによりて決せらるるのである。最後の裁判(さばき)は愛の裁判である。愛せしか愛せざりしか、これによりて限りなき刑罰か、限りなき生命かの別がきまるのである。

3月23日(金)

イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである」。(ヨハネ伝九・一〜三)

ここに災禍(わざわい)が全然恩恵(めぐみ)の立場より解釈されたのである。盲目といえばいずれの国においても特別の天罰として認めらるるにかかわらず、イエスはここに断然と、盲目は天罰にあらず、恩恵(めぐみ)の顕わるるための機会なりといいたもうたのである。じつに大胆なる言にしてかくのごときはない。これは神の子を待たずしてはいうことはできないことである。イエスのこの言によりて、災禍に対する人類の思考(かんがえ)は一変したのである。しかり、一変すべきである。災禍ではない、天罰ではない、神の怒りの表現ではない、その反対である。災禍は神の行為の顕われんがための機会である。ゆえにもし人がこれをその目的をもって用いるならば恩恵である。身の艱難はすべて神のわれらにくだしたもう恩恵であると。これイエスが特別に人に伝えたまいし大福音であって、キリスト信者なる者はすべてこの福音にしたがって人生を解釈すべきである。

3月22日(木)

わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠(かんむり)がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。(テモテ第二書四・六〜八)

信者は神の僕(しもべ)である。主人より特殊の要務をゆだねられたる者である。ゆえにかれはこの要務をはたすまでは死すべきでない。しかして彼はその時までは決して死なないのである。リビングストンのいいし「われらは天職をおわるまでは不滅なるがごとし」との言は信者の確信である。彼にはなほ天職の完成せざるものがあれば、彼は死なないのである。されども彼が、もしすでにはたすべきの事をはたしおわりしならば、彼は死ぬるのである。彼は長寿の祈求(ねがい)をもって神にせまりてはならない。すでに用なき者はこの世にながらえるの必要はないのである。「何ぞいたずらに地をふさがんや」である(ルカ伝十三・七)。僕は主人の用をはたせばそれで去ってよいのである。彼は心にいうべきである、わらは長く生きんことを欲せず、わらはただわが主の用をなさんと欲する。

3月21日(水)

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。(マタイ伝五・十三)

地の生命(いのち)ははなはだ腐(くさ)れやすくある。その新鮮なる時期はみじかく、その?刺たる期間はしばらくである。地上の生命はたちまちにして腐敗し、しばらくにして硬化す。ここにおいてか塩の必要があるのである。既存の善事を保存し、その美を発揚し、これをしてさらに地の涵養(かんよう)を助けしむるある者の必要があるのである。しかして神の生命の言(ことば)を心霊に受けし信者が、地のこの必要に応ずるのであるとのことである。信者によりて福音以外の諸徳、信仰以外の諸善が保存せられ、発揮せられ、流布せらるとのことである。しかしてこのことは世にかくれなき事実である。キリストの福音によりて、旧道徳と旧信仰とは、真正の意味においての復活を見たのである。

3月20日(火)

死者の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。(コリント第一書十五・四十二〜四十四)

復活を迷信というのは祈祷を迷信というのと同一で、畢竟(ひっきょう)その何たるを解しないからであります。キリスト教の教うる復活なるものは、この肉体が肉体のままで甦(よみが)えると申すのではございません。復活の真意は更正でありまして、生命がさらに肉体に加えらるることであります。われたは死してふたたびこの世に帰らんことを望む者ではございません。われらは死してさらに新しき生命を与えられ、新しき世界にいこうと願うのであります。

3月19日(月)

あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。(詩篇七十三・二十四〜二十六)

元来、霊魂と肉体とは一のものでありまして、二者は容易にあいはなるべきものでありません。しかるに罪悪の結果として、人たるものは一度は霊肉そのところを異にせねばならぬ悲運におちいりました。これじつに世の罪人が死刑に処せらるると同然でありまして、じつに悲しむべきのいたりでございます。わたくしどもがただに死を忌(い)むのみならず、またこれを非常におそれますのは、すなわちわたくしども人類たるものは罪の罰として死刑に処せらるるを知るからであります。死の観念に悲惨の情の付随しているのは、まったくこれがためであると思います。ああ、人たれか死を怖れざらんやです。また、人たれか復活を望まざらんやです。罪の結果として一度は死にあわねばならぬならば、罪のゆるしの結果として新しき体の与えられんことは、人の心の奥底にひそんでいる至当の祈願ではございませんか。

3月18日(日)

すると王の主の使いが手にもっていたつえの先を出して、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃えあがって、肉と種入れぬパンを焼きつくした。そして主の使いは去って見えなくなった。ギデオンは、その人が主の使いであったことをさとって言った、「ああ主なる神よ、どうなることでしょう。わたしは顔をあわせて主の使いを見たのですから」。(士師記六・二十一〜二十二)

されどもギデオンは恐るるにおよばず、彼は死せざるべし。主は彼を殺さんとして彼に顕(あら)われたまいしにあらず。彼を救い、彼をもって彼の家と国とを救わんために彼に顕われたまいしなり。神はまた神として彼に顕われたまわず、主として顕われたまえり。主は神なり。されども宇宙の主権者としての神にあらず、人類の救い主としての神なり。彼は万有を主宰したもう。彼の手には権勢と能力あり。されども彼、人を救わんとして世にきたりたもうや、彼は身に謙遜を着、人のごとき形状(ありさま)にて現われたまえり。主は人の見るをうる神なり。さきにモーセに顕われ、主なる名を彼に示したまい、後にイエス・キリストとして世に顕われ、万人の罪を贖(あがな)いたまいし者なり。

3月17日(土)

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。(コリント第一書一・十八)

いかにしてわが霊魂を救わんか…この号叫の声がなくしては、とうていキリスト教はわかるものではありません。キリスト教はある人がいう仏教のような、哲学の一種ではございません。また禅宗のような、胆力鍛錬のための工夫でもありません。キリスト教とは霊魂を救わんための神の大能であります。キリストの降臨といい、十字架上の罪の贖いといい、みな要するに霊魂を救わんための神の行為でありますれば、これらの出来事を霊魂以外のことがらにあてはめては、その真義は少しもわからないのでございます。

3月16日(金)

わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現われるためである。(コリント第二書四・八〜十)

神のためになさんと欲せば、まず自己に死せざるべからず。党派心なり、愛国心なり、いまだ自己のその中に混合するあり。自己に死して後、われははじめて神にいて生く。神に生きてわれに恐怖なし。恐怖去って、われに明通あり。神のためにする伝道に、憂慮、政略、方法(自然の常道を除いて)のわれの事業を混乱せしむるなし。世界はわれに化すべきものにして、われは世界に屈服統合すべきものにあらず。世は同音一斉にかなたに立つも、われは断々乎としてひとりこなたに立つべし。われに松柏の霜雪にしぼまざるあり。われに大嶽の厳として動かざるあり。われの存在は万人を利し、われの一声は波涛をしずむ。神のためにするありて、伝道ははじめて世を益するにいたる。

3月15日(木)

主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回(よまわ)りが暁(あかつき)を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。(詩篇百三十・三〜六)

わがうちを省(かえり)みてかしこに何の善きものはない。そこにあるものは汚穢、悪念、邪欲、貪婪(どんらん)のみである。もしわれみずからこれを取り払うにあらざれば、われは神に近づくあたわずとなれば、われは到底神に近づくことのできない者である。しかしながら神はわが罪よりも大である。彼はわれの罪あるにかかわらず、われを救いたもう。すなわち彼はわがためにわが罪を殺して、われを彼の属(もの)となしたもう。われの救拯(すくい)の希望は単に神の恩恵(めぐみ)に存している。彼にしてわれを恵みたもうにあらざれば、われの救わるる希望は一つもない。

3月14日(水)

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。さまざまな違った教えによって、迷わされてはならない。(ヘブル書十三・八〜九)

われ史をひもときて、国は興きてまた亡び、民はさかえてまた衰うるを読む。ただ見る一物の、時代の敗壊の中にありて、毅然として天に向かって聳ゆるあるを。キリストの十字架これなり。世に移り人は変わるとも、十字架はその光輝をはなちてやまず。万物ことごとく零砕(れいさい)に帰する時に、これのみはひとりのこりて世を照さん。十字架は歴史の中枢なり。人生のよって立つ磐石(ばんじゃく)なり。これによるにあらざれば蟄固(きょうこ)なることあるなし、永生あるなし。十字架をのぞいて他はみなことごとく蜉蝣(ふゆう)なり。キリストのみがきわまりなくたもつ者なり。

3月13日(火)

主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。(詩篇百十八・八〜九)

たよるべきは神なり、人にあらず。彼によりたのむは侯爵伯爵によりたのむよりも、はるかによし。人によりて失望たえず、侯伯にたのみて恥辱おおし。彼らは憎愛つねならず、褒貶(ほうへん)時にしたがって変ず。主はしからず、彼は永遠に変わらざる磐(いわ)なり。彼は衰うる時のかくればなり。死する時の支柱(ささえ)なり。彼によりたのみて、暗黒はいよいよ光をはなち、衰落は益々慰籍をくわう。彼によりたのみて恥辱あることなし。旭日のいよいよ光輝(かがやき)を増し、昼の正午(まなか)に至るがごとく、彼によりたのみて、われらの生涯は、歳(とし)のいよいよ進むにしたがって栄光を増して天の福祉(さいわい)にちかづくなり。富貴も名誉も、位階も勲章も何の慰籍をわれらに供せざる時に、主はその聖顔(みかお)をわれらにむけたまいて、われらの寂寞(さびしさ)をいやしたもう。

3月12日(月)

するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって「ここからあそこに移れ」と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は何もないであろう。」(マタイ伝十七・二十)

信とはこの場合においては霊の能力(ちから)であります。これは人が万物の霊長として神より授かるの特権を与えられたものでありまして、この能力をもってして、彼が天然界の上にほどこさんと欲してほどこしえざることはないとのことであります。しかるに、人類は神を離るると同時に、この能力を失ったのであります。彼はいまは天然を支配するものではなくして、その束縛の中に苦しむものであります。そうしてキリストの降世の一つの大なる目的は、人類にこの最初の特権をふたたび付与せんがためであります。すなわちキリストご自身がつねに天然の上に超越してその束縛を受けられなかったように、われら彼を信じ、彼を愛する者にもまた、このおなじ能力を与えんがためであります。

3月11日(日)

よくよくあなたがたに言っておく。一粒(ひとつぶ)の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ伝十二・二十四)

死は死ではない、新生である。死をもって新生命は始まるのである。肉にありて障礙(しょうげ)なき霊的生命なるものはない。「肉は霊にさからい霊は肉にさからう、この二つのものたがいにあいもとる」という(ガラテヤ書五・十七)。霊が完全に霊的ならんと欲せば、その敵なる肉の消滅を期せざるをえない。しかして死は霊の障害をのぞいて、ここにその自由の発達をとげしむるのである。肉を離れて霊はおのずから成長し、その活動をさかんにする。霊は肉に宿りて、一人の霊である。されども肉を離れて、多くの霊とともになることができる。「われもし地より挙げられなば、万民を引きてわれにきたらせん」とイエスがいいたまいしはこのことである。(ヨハネ伝十二・三十二)。イエスといえども肉を離れて地より挙げらるるまでは、万民を引きて自己に化することができなかったのである。

3月10日(土)

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を云う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイ伝十〜十二)

キリストいわく、すべてなんじらを殺す者、みずから神につかうるとおもう時至らんと(ヨハネ伝十六・二)。彼らがわれらを責むるは、われらを悪人と信じてなり。ゆえに彼らの迫害に、大いにわれらの同情を寄すべきものあり。彼らは正義のためわれらを殺さんとするなり。社会のために、人道のために、しかり、ある場合においてはわれらの信奉するキリスト教のために、われらの生命を奪わんとするなり。ゆえに彼らの憤怒に、一片の誠実の愛すべきあり。われらは彼らのために祈り、彼らを憎むべからざるなり。

3月9日(金)

わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。(ヨハネ伝六・三十九〜四十)

「主すなわちかの霊なり」とある(コリント第二書三・十七)。主キリストは特別の霊である。「人のうちには霊魂のあるあり」というこの霊ではない、新生命の根源なるその霊である。霊体の精たいたるその霊である。「神の種そのうちにあり」とある新生命の胚珠(はいしゅ)である(ヨハネ第一書三・九)。この種が人のうちに宿りて、ここに霊体のは発育がはじまり、ついに復活昇天の道程をへて永生状態に入るのである。主が「吾は復活なり、生命(永世)なり」といいたまいしはこのことをいいたもたのである(ヨハネ伝十一・二五)信者の復活はイエスを離れてあるのではない。復活はイエスにおいてあるのであった、彼においてのみあるのみである。

3月8日(木)

もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえられたかたの御霊(みたま)が、あなたがたの内にやどっているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえられたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。(ローマ書八・十〜十一)

イエスの宿りたもう信者といえども、その肉体はうまれながらの罪のゆえに死する者である。されどもイエスは信者に宿りたもうにあたってその霊魂に宿りたもうがゆえに、霊魂はイエスの義のゆえに生く。自己の罪のゆえに肉体は死し、イエスの義のゆえに霊魂は生く。信者にありては、復活は彼の霊魂をもって始まるのである。されども信者の復活は彼の霊魂をもってとどまるものではない。イエスの霊の宿るところとなりて、復活は霊魂よりさらに肉体におよぶのである。人は霊魂のみではない、また肉体のみではない、霊魂と肉体とである。霊肉は彼の実在の両方面である。ゆえに霊魂にはじまりし復活は、肉体にまでおよばざるをえないのである。

3月7日(水)

あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代わりにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、よい贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあるだろうか。(ルカ伝十一・十一〜十三)

天才はしたうべし、されども聖霊のすぐれたるにしかず。天才は一時賜金のごとし、吾人これを消尽するの危険あり。聖霊は終身恩給のごとし、なんじの能力(ちから)はなんじがもとむるところにしたがわんと。天才は少数者にのみ与えられ、聖霊は何人もこれを受くるをうべし。天才は神をいなむ者にも与えられ、聖霊は父の愛に沐浴してのみこれを受くるをうべし。天才は貴族的なり、聖霊は平民的なり。われらは心をひくうして万民とともに天のこの恩賜にあずからんと欲す。

3月6日(火)

主はあなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。(詩篇103・3〜五)

誠実なるなんじの神は、宇宙の主宰者(つかさ)にして無限の愛なるを知れ。この神に対するなんじの位置は、君に対する臣の位置にあらずして、慈母に対する赤子の位置なるを記憶せよ。われらは神より万を受けて一を返上するあたわず。われの誠実そのものさえも神の賜物なるをいかんせん。われらの財をも、身をも、霊をも神にささぐるとも、神はただ神のものを受けしのみ。神は与うるものにして、われは受くるものなり。神は恵むものにして、われは恵まるるものなり。神は愛するものにして、われは愛せらるるものなり。無限の愛は愛せんことを要して、愛せらるることを要せず。神を愛せんと欲するものは、神に愛せられざるべからず。

3月5日(月)

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。(ガラテヤ書三・十三)

キリストの肉体上の苦痛は、彼の心霊上の苦痛を表せしのみ。赦罪の恩恵(めぐみ)は彼の神経上の疼痛(いたみ)によりてきたるにあらずして、心霊上の憂愁(ゆうしゅう)によりてきたるなり。カルバリ山にあらずして、ゲッセマネの園こそ人類の罪の贖われしところなれ。キリストにいばらの冠をかむらしめしものはわが罪なり。彼に苦(にが)き盃を飲ましめしものはわれの罪なり。かれを十字架に釘(くぎ)うたしめしものはわれの罪なり。天主教徒がつねに十字架を身にまといてキリストを思い、誠実なる新教徒某がつねに十字架上のイエスの像を机上におき、「なんじの罪がキリストにこの苦痛を与えたり」と独語して己れの罪を責めたりとは迷信邪説としてことごとく排すべからざるなり。

3月4日(日)

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めてくださった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。(ローマ書八・二十九〜三十)

人は何人(なんぴと)もみずから望んで天国の市民たるあたわず。血肉は神の国を嗣(つ)ぐことあたわず。人の知も才も、富も位も、彼を神の子となすにあたらず。ただ神のえらびたまいし者のみ、主をその栄光において見るをうべし。天国の建設は神の事業なり。人のこれに関与するは、ただにその労役者たるにとどまる。その計画、その進行、その完成はすべて神の聖旨(みむね)にしたがう。神には神の意志ありて存す。人は、これを変更し、また伸縮するあたわず。神の召したまいし者のみが、その子と称せらるるをうるなり。彼の召しをこうむることなくして知恵ある者も、能(ちから)ある者も、貴き者も、天国の市民たることあたわず。

3月3日(土)

こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。(マタイ伝五・三)

天国の富者たらんと欲する者は地上に赤貧者たらざるべからず。しかして貧の極は身の貧にあらずして心霊の貧である。赤貧洗うがごとしという者も、時には俯仰(ふぎょう)天地に恥じず天地に恥ずという。かく言う者は、身は貧すれで心霊ははなはだ富める者である。貧に内なると外なるとがある。心霊の貧者は内に何者をも持たない者でる。その実例はパウロである。彼は心霊の貧しいものであった。誇るべきの知恵なく、よるべきの徳なく、かれの自白せるごとく「彼は罪人(つみびと)の首(かしら)」であった。しかして神の前に立ちて謙虚の底まで引きさげられしかれは、キリストにありてその諸徳をみとむるをえて、栄光の天まで引きあげられたのである。

3月4日(日)

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めてくださった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。(ローマ書八・二十九〜三十)

人は何人(なんぴと)もみずから望んで天国の市民たるあたわず。血肉は神の国を嗣(つ)ぐことあたわず。人の知も才も、富も位も、彼を神の子となすにあたらず。ただ神のえらびたまいし者のみ、主をその栄光において見るをうべし。天国の建設は神の事業なり。人のこれに関与するは、ただにその労役者たるにとどまる。その計画、その進行、その完成はすべて神の聖旨(みむね)にしたがう。神には神の意志ありて存す。人は、これを変更し、また伸縮するあたわず。神の召したまいし者のみが、その子と称せらるるをうるなり。彼の召しをこうむることなくして知恵ある者も、能(ちから)ある者も、貴き者も、天国の市民たることあたわず。

3月2日(金)

だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケバも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。(コリント書一書三・二十一〜二十三)

キリスト教がわかって見ますると、世人の生涯は夢の生涯であります。物でないものを物と解いし、地獄に落ち行くのを天堂に昇り行くのであると解するていの生涯であります。いわく戦争、いわく外交と。キリストの心を以ってこれを見ますれば、これ小の小なる問題であります。もし人、全世界をうるとも、その霊魂を失えば何の益あらんや。ロシヤの天子がそのおもうとおりにアジア大陸の全部をえたところが、爆裂弾一発で永遠の死にいかねばならないと思えば、満州問題のごとき、彼にとりては極小の問題でなくてはなりません。取ったところがわずか五千二百五万平方マイルに過ぎないこの地球、無窮の宇宙に永在することのできる権利を授けられたる人は、かかる小なるもののために彼の全力をそそがんとはいたしません。(明治38年9月記)

3月1日(木)

ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。(創世記三十二・二十四〜二十五)

うれしき時は、神にわが罪を指し示された時である。ペニエルにおけるヤコブのごとく、天使に傲慢のもものつがいの巨筋(おおすじ)を絶たれて歩きえぬにいたる時である。またダビデが神より預言者ナタンをつかわされてその罪をただされ、なんじはその人なりといわれし時のごときときである。その時は、われは人と自己とをはなれて神にすがる。その時、十字架はわが眼の前に輝く。その時、われに懐疑は一つもなくなる。自己が罪人のかしらであることを感じた時に、キリスト・イエス罪人(つみびと)を救わんために世にきたれりとは信ずべくまた疑わずして受くべき話である。しかして神にわが傷(罪)を指されずしてこの感は起こらない。われは義人なりと思う時に、われ他人の罪を責めつつある間は、このうれしき美わしき感は起こらない。一言の申しわけなくしてわれが神の前に立つ時に、キリストはその十字架を負いたまいて、わが心の眼の前にあらわれたもう。