一日一生(内村鑑三)「一日一生」(教文館)より


注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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 七月 八月 九月


一日一生(内村鑑三)


七月

7月のはじめに

余は日露非戦論者ばかりではない。戦争絶対廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益をおさめ得ようはずはない。

「内村鑑三一日一生きょうのことば」

8月の初めに

余が伝道問題に悩みおる頃に、彼(トマス・カーライル)は余に左の一言を供してくれた。

<誠実、心の真のありのまま、これ常にいかに貴いかな。実際に自己の心の中に存することを語る者は、その方法がいかに拙劣なるも、必ず彼に聴かんと欲する人あるべし。>

余はこの言を彼の『過去と現在』において読んでひとり膝をたたいていうた、「これだ、これだ」と。人を導かんとしたのがそもそも余の誤謬(あやまり)のはじめである。余は余の確信を表白すれば足りるのである。「誠実、心の真のありのまま」。これを語りて人に聴かれない理由(わけ)はない。余は己をかくしておきながら、他人を感化させんと欲したゆえに失敗したのである。よし、今よりは他人のことは思わざるべし。余は余自身の罪、救い、恵みについて語るべしと。余はこう決心した。そうして伝道をやめて、表白を始めた。そうして視よ、余はそれ以来、いまだかって余の伝道事業について失望したことがない。

8月31日(金)

わたしの平安をあなたがたに残して行く。わたしは平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものと異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(ヨハネ伝十四・二十七)

おお来たれよ、来たってキリストの僕(しもべ)となれよ。なにゆえに世の罪悪をののしり憤死せんとするぞ。なにゆえに社会の無情を怒って切歯(せっし)するぞ。なんじはなんじ自身について憤りつつあるなり。なんじ自身の中に調和なにがゆえに、なんじはなんじの不安を木と、岩と、世と、人にむかって発しつつあるなり。来たって主の平安(やすき)を味わい見よ。これすべての思念(おもい)にすぐる平安なり。これをなんじの心に迎えんか、木はなんじに向かって手を拍(う)って歓(よろこ)び、人はすべて来たってなんじの志(こころざし)を賛(たす)くる者とならん。

8月の最後に

言うをやめよ、未来観念によらずして現世においてキリスト教徒の事業をなしとげ得べしと。この観念を有せざるがゆえに、億万の人霊は卑陋なる思想の中に沈みつつあるなり、この思想の確実ならざるゆえに、いくたの教役者の事業に心情なく、推察力なく、その牧する教会に生命なきなり。未来観念を有せざる宗教は宗教にあらざるなり。

8月30日(木)

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨てて、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の生命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう」。(マタイ伝十六・二十四〜二十五)

この美麗なる造化は、われわれがこれをえんがために造られしにあらずして、これを捨てんがために造られしなり。いな、人もしこれをえんと欲せば、まずこれをすてざるべからず(マタイ伝十六・二十五)。まことにまことに、この世は試練の場所なり。われらは意志の深底より世と世のすべてを捨て去りて後、はじめてわれらの心霊も独立し、世もわれらのものとなるなり。死にて活(い)き、捨てて得る。キリスト教のパラドクス(逆説)とはこのことをいうなり。

8月29日()

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下がって来るのを見た。また、御座から大きな声が呼ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ヨハネ黙示録二十一・一〜四)

イエスはヤイロの娘の死より甦(よみが)えらしたまいて、これをその嘆ける父母に還したもうた(マルコ伝五章)。そのごとく末(おわり)の日において、彼はすべて彼を信ずる父母の祈求(ねがい)に応じて、そのかつて失いし娘を復活したもうて、これをふたたび彼らの手に還し、彼らの心を歓(よろこ)ばしたもうのである。すべての真のクリスチャンは、喜ぶべき末の日において、ヤイロが実験せしごときたえがたきほどなる、歓喜を実験するのである。「イエス娘の手をとりてこれに言いけるは、『タリタ、クミ』、これをとけば、娘よ、起きよとの義なり」と。信者はすべて自らいつか一度この喜ばしき声を聴き、能力(ちから)あるこの聖事(みしごと)を拝見するのである。

8月27日(月)

アモスはアジヤに答えた、「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。ところが主は群れに従っている所からわたしを取り、「行って、わが民、イスラエルに預言せよ」と、主はわたしに言われた。」(アモス書七・十四〜十五)

世の大宗教家と称するものにして、かえって神学校出身の人に多くあらざるを見る。神の人テシベ人エリヤはギレアデの野人なり。しかしてこの人、その天職と精神とを他に授けんとするや、十二?(くびき)の牛を馭(ぎょ)しつつありしシヤパテの子エイシヤを選べり。ダニエルは官人なり。アモスは農夫なり。しかして神がその子をくだして世を救わんとするや、彼をしてヒレル、ガマリエルの門に学ばしめず、かえって彼を僻村ナザレに置き、レバノンの白頂、キションの清流をして彼を教えしめたり。一乾物店の番頭たりしムーデー氏こそ、じつに十九世紀今日の宗教的最大勢力ならずや。神学校は天性の伝道師を発育せしむるも、これを造るところにあらず。神学校の製造にかかわる伝道師こそ、世の不用物にして、危険物なれ。伝道師育成は造物主(つくりぬし)にあらざればなしあたわざることなり。

8月26日(日)

わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがた勧(すす)める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。(コリント第二書六・一〜二)

神の教育事業、これをば称して歴史というなり。しかして歴史はエデンの園における人類始祖の試練をもってはじまり、ひいては二十世紀の今日に至れり。歴史に戦争あり、国の興亡あり。悲劇は悲劇につぎ、流血淋漓、これを読む者をして酸鼻(さんび)の念にたえざらしむ。されどもこれ救済(すくい)の時期たるなり。多くの聖賢君子はこの時期においてこの世にあらわれ、ついに神の子イエス・キリストはこの世にくだりたまいて、われら人類に死して死せざるの道を開きたまえり。人類の罪悪は神をしてその独(ひと)り子をくだしたもうほどに彼の心を傷(いた)ましめたり。されども愛の無尽蔵なる神は悪に勝つに足るの善を己れに蔵したまえば、人類の救済は期して待つべきなり。今は恩恵(めぐみ)の時期なり。人の子が神の子となりつつある時期なり。

8月25日(土)

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(ペテロ第一書二・二十ニ〜二十四)

畢竟(ひつきょう)するにキリストの死は死ではなかった。これは生をもって死に打ち勝つことであった。死は最も醜悪なる形をもって彼に臨みしに、彼はもっとも善美なる道をもってこれを迎えた。キリストによって死は聖化されて、すぐれて美わしきものとなった。キリストはまことに死を亡ぼしたもうた(テモテ書一・十)。キリストはその死状(しにさま)によって、死なるものをして無からしめたもうた。死は苦痛であり、煩悶であり、悔恨であり、絶望であるのに、ここに苦痛を忘れ、煩悶を忘れ、悔恨を覚えず、絶望を知らない死の模範が供せられた。すなわち愛の絶大の力が示された。愛は人生の最大の敵なる死にさえ勝ちうる力である。死をしてしなざらしむるものは愛である。彼はただ愛した。しかして死に勝った。まことに愛を除いて、他に死に打ち勝つ力はない。

8月24日(金)

だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今うまれたばかりの乳飲み(ちの)み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わいしったはずである。(ペテロ第一書二・一〜三)

神はその限りなき恩恵(めぐみ)をもって、神の子にして人類の王なるイエス・キリストによりて、わたくしのために救済(すくい)の道を開かれました。ゆえにわたくしは感謝しつつ、日々その恩恵に沐浴しているものでございます。しかしかく申せばとて、わたくしはすで完全無欠の人となったというのではありません。罪によりて生まれしわたくしのことなれば、わたくしが天使のような純白無垢の人となりうるは、なお永き後のことでありまして、多分わたくしの肉体が腐敗に帰した後のことであろうかと思います。しかし快復がすでにわたくしの心の中に始まりましたこと、その一事は、わたくしの少しも疑わないところであります。わたくしは確かにイエス・キリストの医癒(いやし)の力を感じます。

8月23日(木)

そのときあなたがたは、どんな実を結んだのだ。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。(ローマ書・六ニ一〜二三)

永遠の来世が確実となるに至りまして、価値のない今世に真個の価値が付いて来るのであります。先ず第一に、わたくしどもは世を厭(いと)わなくなるのであります。この世の苦痛は来世の希望をもって慰めて余りあるのであります。今世はまた来世に入るの準備の場所として、無上の価値を有するに至ります。そのもの自身のためには何の価値もないこの世は、来世に関連して、必要欠くべからざるものとなるのであります。日々の生活(なりわい)の業(わざ)のごとき、心思を労するほどの価値なきように思われますが、しかしこれによりて来世獲得の道が開かるるを知って、小事が小事でなくなるのであります。実に来世に存在の根底をおかずして、今世は全然無意味であります。来世を握るのは特権を賦与(ふよ)せられまして、この無意味の今世が意味深長のものとなるのであります。

8月22日(水)

ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子(ようす)を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしであって、それは神から来るものである。(ピリピ書一・二十七〜二十八)

もし日本今日のキリスト信者にして一致せんか、天下何者かこれに当(あた)るをえん。されども教派分裂の弊(へい)をきわむる欧米諸国の宣教師によりて道を伝えられしわが国今日のキリスト教徒の一致は、熊と獅子との一致を望むよりもかたし。もし幸いにして神の霊強くわれらの中に働き、彼われらをしてキリストを思うがごとくにわれらの国を思わしめ、外に頼るの愚と恥と罪とをさとらしめたまわば、一致は芙蓉(ふよう)の嶺(いただき)に望み、琵琶の湖面にくだりて、東洋の天地に心霊的一生面(しょうめん)の開かるるを見ん。されどもその時の至るまでは、われらは今日の分裂孤立をもって満足せざるべからず。これあるいはわれらが人に頼ることなくして、神にのみ頼ることを学ばんがための神の聖旨(みむね)なるやも知れず。

8月21日(火)

しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願を聞かれる。わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。(ミカ書七・七〜九)

日に三たびわが身をかえりむる、とは儒教の道徳なり。そのつねに退歩的にして、保守的にして、萎縮的なるは、自抑内省をもってその主なる教義となすによらずんばあらず。なんじらわれ(神)を仰ぎみよ、さらば救われん、とはキリスト教の道徳なり。そのつねに進歩的にして、革新的にして、膨脹的なるは、信頼仰望をもってその中心的教理となすによらずんばあらず。パウロいわく、善なる者はわれすなわちわが内におらざるを知ると。われら自己(みずから)をかえりみてただ慙愧(ざんき)あるのみ、失望あるのみ。新希望と新決断と前進向上とは反省回顧より来たらざるなり。

8月20日(月)

わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧(わるだく)みで誘惑されるように、あなたがたの思いがよごされて、キリストに対する純情と貞操とをうしないはしかいかということである。(コリント第二書十一・二〜三)

「キリストわがうちにあり」。わが側(わき)にあるにあらず。われとともにあるにあらず。また単にわたうちに宿りて、わが心の客たるにあらず。キリストがわが内にありとは、わが存在の中心にありたもうとの意ならざるべからず。すなわち彼、わが意志となり、わがペルソナとなり、われをして彼と我とを判別し能わざらしむるに至る事ならざるべからず。この時における彼と我との和合は、親密なる夫婦の和合にもいやまさりて、彼われなるか、われ彼なるか、これを判別する能わざるものなり。二心同体に宿る、これを友誼(ゆうぎ)というと。されどもキリストとクリスチャンとの一致は二心の抱合なるにとどまらで、二個のペルソナの相流合して一となりしものなり。このゆえに二者は永久に離るべきものにあならず。(ローマ書八・三)。

8月19日(日)

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、入って行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごごろをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をしてくださったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなく、しっかりと持ち続け(ようではないか)。(ヘブル書十・十九〜二十三)

キリストいわく「恐るるなかれ、われすでに世に勝てり」と。道義学者ならびにユニテリアンは何と言うとも、福音的キリスト信者の安心勇気の大源泉は、じつにキリストにおける既得の勝利に存するなり。われのなすべきことは、キリストすでにわがためになしとげたり、われの義は彼においてすでに天にあり、われすでに彼の血を以って贖(あがな)われたり、われの得るべきものはわれすでにこれを得たり、いざ残余の生涯を報恩の戦(たたかい)して楽しまんと。これじつに真正(まこと)のキリスト信徒がつねに泰然として余裕あり、老いてますます壮(さか)んなるの理由なり。

8月18日(土)

主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである。聖徒を栄光によって喜ばせ、その床(とこ)の上で喜び歌わせよ。(詩篇百四十九・四〜五)

神はすべての道をもってわれらを恵まんとほっしたもう。心のうちより福音をもってし、眼よりは美観をもって、耳よりは音楽をもって、鼻よりは香気をもってわれらを恵まんとほっしたもう。われらは恵の途はいずれもこれふさぐべからず。神をして衷(うち)よりも外よりもわれらを恵ましめて、ゆたかに恩恵(めぐみ)に沐浴(もくよく)すべきなり。わが机上に聖書あり、野花(のばな)あえい、造花あり、絵画あり、香水あり(以上もちろんいづれも高価のものにあらず)。われはすべてこれを喜ぶ。わらはすべてこれらによりてわが神を知る。しかして夜毎に燈火を滅して暗きところに隠(かく)れたるにいます彼を排す。昼は神を見、夜は彼を感ず。わが宗教は理性一方、または感情一方の宗教にあらざるなり。

8月17日(金)

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、己を低くして、死にいたるまで、しかも十字架に至るまで従順であられた。それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。(ピリピ書二・六〜九)

罪の価(あたい)は死なりといい、死の刺(とげ)は罪なりといえば、罪に生まれし人の死するは当然であり、自然である。これに反して、死の原因たる罪を知らざりしイエス・キリストが死して、そのまま失せたりというは不当であり、また不自然である。われらは人の死するを聞いて驚かない。それは彼が罪の人であるを知るからである。しかしながら、ここに一回も罪を犯せしことなく、使徒ペテロの語をもっていえば「かれ罪を犯さず、またその口にいつわりなかりき、かれ罵られて罵(ののし)らず、苦しめられて激しきことばを出さず、ただ義をもって審(さば)く者にこれまかせたり」というがごとき完(まった)き人なるイエスが、死して朽ちはてしと聞いて、われらは大いに怪(あや)しまざるを得ないのである。かかる人は世が始まって以来ただ一人あったのみである。かかる人が死より甦(よみが)えりて昇天したというのである。

8月16日(木)

彼は、神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから。(マタイ伝二十七・四十三)

余輩はこの世の善人にして、よく己れを忘れて他人のために尽くせし人の、己れのために計ってははなはだ拙(せつ)、自家のために行ってははなはだ無能なるを見た。善人の善人たる所以(ゆえん)はここにある。すなわち、自己(おのれ)を他人のために消費つくして、自己のためには何のあますところなきにある。ましてイエスにおいておやである。善人中の善人なるイエスが、人を救いて己れを救いあたわざりしはあえて怪しむにたりない。もし彼が他をも己れをも救いえたならば、彼は神の子ではなかった。愛の化身(けしん)たりし彼は、他のために自己の能力(ちから)を使いつくして、自己のためにあますところがなかった。彼が大能なりしは、他を救う時においてのみであった。

8月15日(水)

もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与え飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。(箴言二十五・二十一〜二十二)

われらにも敵がある。たくさんある。しかし敵なればとてわれらは彼らを憎まない(キリストの教訓にしたがいて)。われらは友人を憎むことがある。友人とあらばわれらは彼らの行為について怒ることがある。われらはわれらの友人を詰責するに躊躇しない。友人の駁論(ばくろん)とあらば、われらは熱心に反駁する。されども敵人に対しては、われらはこれとまったく反対の態度にいずる。敵人がわれらに加うる害については、われらは決して怒らない。その嘲弄侮辱に対しては、われらはただ好意感謝を表するのみである。われらは敵人の攻撃に対しては、われらの主イエス・キリストの例にならいて、つとめて沈黙を守ろうとする。敵人に殴らるる時には、われらは彼がわれらにむかいて揚げし手の上に神の祝福の下らんことを祈る。敵人に対しては、われらに寛裕と忍耐と宥恕(ゆうじょ)とあるのみである。われらは友人を憎むことあるも、敵人は絶対的にこれを愛するのみである。

8月14日(火)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちにイエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、見旨(みむね)のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めてくださったのである。(エペソ書一・三〜五)

人類が救われんがためには、しかり、われわが主キリストの救済(すくい)にあずからんためには、日月星晨は天空(そら)に懸(か)けられ、山は高く地の上に挙(あ)げられ、海は深くその下に堀り下げらるるの必要があったのである。わが救済は容易のことではなかった。これはわが短き一生をもって成しとげらるることではなかった。わが救済は宇宙の創造をもって始まったのである。このことを思うて、朝瞰(ちょうとん)水を離れて東天ようやくあきらかなる時、または夕陽西山に春(うすつ)きて暮雲地をおおう時、または星光万点蛍火(ほたるび)のごとくに蒼穹(そうきゅう)にきらめく時に、われはわが救済の神を頌(ほ)め、彼に感謝の賛美を献ぐべきである。

8月13日(月)

すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲(こ)らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座(みざ)についたのと同様である。(ヨハネ黙示録三・十九〜二十一)

この世は不完全きわまる世なりという、しかり。身の快楽をえんがためには実に不完全極まる世なり。されども神を知らんがためには、しかして愛を完(まっと)うせんがためには、余輩はこれよりも完全なる世について思考するあたわず。忍耐に練らんとして、寛容を増さんとして、しかして愛をその極致において味わわんとして、この世はもっとも完全なる世なり。余輩は遊戯所としてこの世を見ず。鍛錬所としてこれを解す。ゆえにその不完全なるを見て驚かず、ひとえにこれによりて余輩の霊性を完成せんとはかる。

8月12日(日)

このように、あなたがたは主イエス・キリストを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ書二・六〜七)

「シモン・ペテロ(イエスに)答えけるは、主よ、われらはなんじを去りて誰に往(ゆ)かんや、永生(かぎりなきいのち)の言(ことば)をもてる者はなんじなり」と(ヨハネ伝六・六八)。われらはイエスを去って仏教に入らんか、儒教に帰らんか、スピノーザに往きて哲学者たらんか、ハイネについて詩人たらんか、殖産をもってわが生涯の唯一の目的となさんか、政治にわがすべての満足を求めんか。イエスを信ずるに苦楚(くそ)と辛酸(しんさん)なきにあらず。されども永生の言は彼をおいて他にあるなし。余輩は彼を捨て去りし人にして、彼の恩寵にまさるの幸福を他に発見しえしものあるを知らず。

8月11日(土)

昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ伝十五・三十三〜三十四)

罪悪問題の哲理的説明はいまだ供せられません。あるいはこれ永久の未決問題として残るのであるかも知れません。しかしながらその実際的解釈は供せられました。これ罪を知らざる神の独り子の十字架上の受難であります。ここに人類の罪は打ち消されました。ここに贖罪の犠牲(いけにえ)は献げられました。聖なる者の「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の声と共に罪の赦免(ゆるし)の道は人類のために開かれました。「この故に今より後イエス・キリストにある者は罪せらるることなし」(ローマ書八・一)、これが罪悪問題の実際的解釈であります。そうしてこの解釈をえて後は、われらは哲理的説明のなきを意に介せざるに至るのであります。あたかも疾病(やまい)をいやされて後に、病人は薬剤の生理的作用を問わざるに至るようなものであります。

8月10日(金)

だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。(ヤコブ書五・七〜八)

まことに待つことは善きことなり。すべての善きことは待ってきたる。春は待ってきたる。自由は待ってきたる。平和は待ってきたる。天国もまた待ってきたる。ときいたれば、すべての悪しきことは去って、これに代わってすべての善きことは来る。ゆえに善きことをなさんとするにあたてって、われらは必ずしも自ら進んで、しいてこれをなすを要せず。静かに待ちてこれをなすをうべし。活(い)ける神の治めたもうこの宇宙にありて、待望は休止にあらず。まことに詩人ミルトンの言いしごとく「待つ者もまた勤(つと)むる者なり」。

8月9日(木)

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイ伝五・十七〜十八)

贖罪(しょくざい)の目的はわれを完全な人となすにあり。しかしてわがキリストの贖罪にあずかるにいたりしは、われはみずからつとめて完全なることあたわざればなり。ゆえに贖罪は道徳の終極なり。道徳の終るところ、これ宗教の始まるところなり。宗教は道徳の上に立てり。道徳の粋(すい)、これを宗教というなり。初めにモーセの律法(おきて)ありて、後にキリストの恩恵(めぐみ)あり。いまだ律法の厳格なる綱をもって己れを縛りしことなき人は、キリストなる放免者の恩恵にあずかりえざる人なり。

8月8日(水)

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。(伝道の書十二・一〜二)

霊魂(たましい)とは神を食物とする生物であります。ちょうど蚕(かいこ)が桑の葉によりてのみ生活するように、霊魂は神によりてのみ生育することのできるものであります。桑の葉でなければ蚕はじきに死ぬように、神でなければ霊魂もじきに餓死してしまいます。ダビデの詩篇に書いてあるとおりであります。「鹿の渓水(たにがわ)を慕いあえぐがごとく、わが霊魂もなんじを慕いあえぐなり」(詩篇四十二・一)。霊魂があっても神がなければ、禽獣あってその渇きをいやす水のなきようなものでございまして、もしはたしてそうなれば、天然とはじつに残酷無慈悲なものといわなければなりません。しかしここに霊魂なる、生命の最も進化発達ぢたるものがあります。またこれを養うための神と神の愛とがあります。

8月7日(火)

第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。(コリント第一書十五・四十七〜四十九)

イエスの義がありて彼に望みし栄光があったのである。人は生まれながらにして復活しうる者ではない。義の結果として、あるいはその報償(むくい)として復活するのである。イエスが復活したまいしは、彼が義を完(まっとう)したもうたからである。しかしてわれらは信仰によりてイエスの完全なる義をわが義となすをえて、イエスに臨みし復活永生の栄光がまたわれらにも臨むのである。ああ大(だい)なるかな、神の愛。

8月6日(月)

わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈る。それは、自分たちがほんとうの者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためである。わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。(コンクリ第二書十三・七〜八)

戦いに勝って勝つのではない。真理に従って勝つのである。戦いに負けて負けるのではない。真理にそむいて負けるのである。真理を究むるのは、剣(つるぎ)をみがくよりも大切である。真理は永久に勝つための武器であって、剣はわずかに一時の利を制するための機械にすぎない。われらは最後の勝利をえんがために、剣をもってするよりも、むしろペンをもって戦わんと欲す。

8月5日(日)

見よ、良きおとずれを伝える者の足は山の上にある。彼は平安を宣べている。ユダよ、あなたの祭りを行い、あなたの誓願をはたせ。よこしまな者は重ねて、わなたに向かって攻めてこないからである。彼はまったく断たれる。(ナホム書一・一五)

キリスト教の伝道は感謝の祭事であります。われらの伝道はキリストの愛にはげまされてであります。われらは沈黙を守らんと欲して守りきれないからであります。われがごとき罪人を救いたもう神の恩恵を考えて、いても起(た)ってもいられなくなるからであります。キリスト教の伝道の義務ではありません。特権であります。快楽であります。敵人の口調をかりていえば「道楽」であります。「もしわれ福音を宣べ伝えずばまことに禍いなるかな」(コリント第一書九・十六)。これはパウロの言(ことば)でありまして、すべて言い尽くされ歓喜をもってキリスト教の福音の宣伝に従事する者の声であります。この歓喜がなくて、このおさえきれぬ感謝がなくして、キリスト教の伝道はかならず失敗であります。

8月4日(土)

しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋(まくや)をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。(ヘブル書九・十一〜十二)

神の子イエス・キリストのみが完全なる供え物である。彼のみがまことに「世の罪を負う神の子羊」である。(ヨハネ伝一・二九)。彼はまた完全に己れを聖父(ちち)に献げたもうた。しかして人は信仰をもって彼の犠牲を己が犠牲(いけにえ)となして、神に対し完全なる犠牲を献げることができるのである。イエス・キリストはわれらの完全なる燔祭(はんさい)、完全なる素祭(そさい)、完全なる酬恩祭(しゅうおんさい)、完全なる罪祭(ざいさい)、完全なる愆祭(けんさい)である。ガリバリ山に彼が完全に自己を聖父に献げたまいてより、ここに牛や羊や鳩や小麦や橄欖油(かんらんゆ)や乳香を以てする祭事の必要はまったく絶えたのである。今や彼を信ずる者に礼典の必要はまったくないのである。

8月3日(金)

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。(エポソ書一・十三〜十四)

悪を避けよ、さらばなんじは神を信ずるをえんというは異端(いたん)なり。真正(まこと)のキリスト教はいう。神を信ぜよ、さらばなんじは善をなすをうべしと。心を潔(きよ)くせよ、さらばんなんじは神の聖霊の恩賜にあずかるをえんというは異端なり。聖書は明らかにわれらに教えていう、神の聖霊をうけてなんじの心を潔められよと。行いを先にして信を後にするは異端なり。キリスト教は信を先にして行いを後にするものなり。しかも人、その神の恩恵を信ずる薄きや、かれらは自らの行為の報償(むくい)として天の恩寵にあずからんと欲す。天の地よろも高きがごとく、神の意(おもい)は人の意よりも高し。神がわれらの不信を怒りたもうは、われらがわれらの行為をもって神の恩恵(めぐみ)を買わんと欲すればなり。

8月2日(木)

正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏(こうはく)のように育ちます。彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭(おおにわ)に栄えます。彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。(詩篇九十二・十二〜十五)

日本語に訳しがたき英語の一はノーブル(noble)なる語なり。高貴、高尚、壮大の文字は一つとしてその意を通ずるにたらず。ノーブルとは理想を抱懐してこれを実行せんとする勇気をいうなり、すなわち世人のもってなしがたしと信ずることをあえてなさんとする気品をいうなり。時の学説に反対し、彼の確信を固守して、ついに西のかた暗黒大洋を横断して新大陸を発見せしコロンブスはノーブルなりき。時流の政治を排し、英国の社会を堅固なる自由の土台の上にすえしクロンウェルはノーブルなりき。不可能と信ぜられし教育策をしてついに可能ならしめしペスタロッジはノーブルなりき。すなわちノーブルなることは、平凡なることすなわち俗なることの反対にして、理想を信じて大胆にこれを事実ならしむることをいうなり。

8月1日(水)

神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。(ガラテヤ書四・八〜九)

第二の宗教改革は第一の宗教改革(ルーテルの宗教改革)に同じ。すなわち行いに対する信仰の勃興なり。第一の場合においては、行かないイタリヤ国によりて代表されたり。第二の場合においては、米国によって代表される。第一の場合においては、改革の任はドイツに下れり。第二の場合においては、そのわが日本にゆだねられんことを願う。われらは手にパウロの書簡をにぎるにあらずや。われらはこれをもって、弱き賤(いや)しき事業の小学を打破すべきなり。

7月31日(火)

わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神をみるであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。(ヨブ記十九・二十五〜二十七)

死とこれに伴うすべての苦痛をまぬかれんとするが、この世の宗教の目的である。死は単にこれを凶事と認め、苦痛はすべての神の刑罰であると思い、これをまぬかるるをもって祈祷の第一の目的となす者は、すべて異教の信者である。彼らは哀哭(あいこく)流涕(りゅうてい)懇求(こんきゅう)していう「願う、死より救えよ」と。されどもクリスチャンは、しかり、真正(まこと)のクリスチャンは、そうは祈らないのである。彼らは彼らの主にならない「父よ、死を下したもうも可(か)なり、ただ願う、その中より救い出したまえ、われをして死に勝たしめたまえ、死を通過して不死の生命(いのち)に達せしめたまえ」と祈るのである。また死に限らない、すべての艱難の中より救われんとする。火を避けんとしない。火の中に投ぜられてその中にありて潔(きよ)められんとする。

7月の終りに

余は働かない、ただ信ずる。余は祈らない、ただ信ずる。余は自己(おのれ)を潔(きよ)めんとしない、ただ信ずる。余はみずから天国に入らんと欲して準備をなさない、ただ信ずる。神の慈悲とその聖子の代贖(だいしょく)の死を信ずる信仰…その信仰は余をして働かしめ、祈らしめ、身を潔めしめ、天国に入るの準備をなさしめる。余の宗教の全部が信仰である。その内に努力はない。もしあるとするれば、信ずる努力あるのみである。主イエス・キリストは神より来るわが知恵、また義、また聖(きよめ)また贖(あがな)いである。彼は余の万事(すべて)である。まことに余にとろては、生くるキリストである。余は余の信仰をもって、彼をして余の衷(うち)にありて生きかつ働かしめ、余自身は信仰的自動機となりて彼の手にありて義を行うの善き器(うつわ)となりて働く。かくて万事ははなはだ簡単であって、かつはなはだ善くある(コリント第一書一・三十)

7月30日(月)

すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(ピリピ書二・十四〜十五)

偉大なる事業は著述にあらず。政治にあらず。事業にあらず。陸海軍の殺伐的事業にあらざるものはもちろんなり。偉大なる事業は純潔なる生涯なり。他人の利益を先にして、自己(みずから)の利益を後にする生涯なり。己れに足るを知りて、外(ほか)に求めざるの生涯なり。ソロモンいわく「おのれの心を治(おさ)むる者は城を攻め取る者にまさる」と。

7月29日(日)

すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。(テスト書二・十一〜十三)

聖書は人類の救済に関する神の行動とその順序とをのべた書であります。前にものべました通り、人類全体は神を離れて罪悪の中に沈淪(ちんりん)しつつあるものでありますから、神は原始(はじめ)よりその救済の道を設けられました。元来この道と申すものは、世の初めをもって始まり、また世の終りをもって終るものでございますから、聖書の記事は人類の歴史と並行しております。神はいかにして人類を救いたもうか、またわれわれ人類は神が聖書において示された方法に則りて、いかにして同胞を救わんかというような事柄については、聖書はもっと明確にわれわれに教えていると思います。

7月28日(土)

たといあなたがたは燔祭(はんさい)や素祭(そさい)をささげても、わたしはこれを受けいれない。あなたがたの肥えた獣(けもの)の報恩祭(しゅおんさい)はわたしはこれを顧みない。あなたがたの歌の騒がしい音をわたしの前から断て。あなたがたの琴の音は、わたしはこれを聞かない。公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。(アモス書五・二十ニ〜二十四)

儀式は単純なるをよしとす。儀式は単純なるだけそれだけ荘厳なり。聖書はキリストの儀式についてしるすところなし。われらはまた、使徒らはいかにして葬られしかを知らず。神の人モーセ死して「主、ペテペオルに対するモアブの地の谷にこれを葬りたまえり、今日までその墓を知る人なし」(申命記三十四・六)という。葬式しかり。結婚式またしかり。証人(あかしびと)は神と天然と少数の友人にて足れり。俗衆の注目を惹(ひ)いて荘厳を装(よそお)うの要は断じてあるなし。

7月27日(金)

すべて神から生まれた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生まれたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。(ヨハネ第一書五・十八)

信者は神につながれ、その生命(いのち9をことごとく彼より仰ぐに対して、世はこぞりて悪しき者にありて生活するのである。すなわちキリストとサタンとの間に介在しれ、信者は神に属(つ)き、世は悪魔に属くというのである。しかしながら事実はそのとおりである。世はその科学と文学と哲学と芸術とをもって、こぞりて悪魔に属くのである。世の大体の方針は悪である。その中で多少の善がないではない。多少の善人(よきひと)がおらないではない。しかしながら概(がい)するに、世は悪魔のものである。キリスト教は決して人類多数の信受する教ではない。信者はつねに少数である。しかして多数は常に悪魔の従属である。われは世の多数の賛成を得たりとて悦(よろこ)ぶ信者(?)は、自分で何を言うているかを知らないのである。

7月26日(木)

被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。(ローマ書八・十九から二十一)

信者の復活と共に「万物の復興」がある(使徒行伝三・二十一)。すなわち人類と共に呪われし地とその中にある万物とが元始の完全に帰るをいう。キリストの救済は人類を以って止まらない。すべての受造物(つくられしもの)にまでおよぶのである。地をして今日のごとくに流血のちまた、荒敗の土たらしめるものは人類のつみである。その罪がのぞかれ、信者をもって代表せらるる人類が元始の自由に還りし時に、地もまた共に自由の栄光を頒(わか)つのであるという。何ものかこれにまさる栄光あらんやである。人は復活し、地は改造され、二者ともに罪の結果たる詛(のろ)いをのがれて完全なる発達をとぐるという、そのことが預言者らが預言せる天国の建設である。

7月25日(水)

あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして彼らに穀物を与えられる。あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、またその恵みをもって年の冠(かんむり)とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。(詩篇六十五・九〜十一)

神は忠実なる農夫なり。彼は植生の細事にまでたずさわりたもう。彼は種子を護(まも)り、これを煖(あたた)め、これを潤(うるお)し、その萌芽を見て歓(よろこ)んでこれを祝したもう。彼は空の鳥を護りたまいて、その一羽たりとも彼の許可なくして地に落つることなし(マタイ伝十・二十九)。彼はまた野の百合花(ゆり)を愛し、これを飾るにソロモンの栄華の極みの時だにも見るあたわざりし装いをもってしたもう(同七・二十九)。まことに悪魔は都会を作り、神は田舎を造りたまえりという。神は涼しき樹木(きぎ)の陰にいまし、萌え出づる畝(うね)の間を歩みたもう。彼は農夫の心をもって種子の萌芽を祝したもう。祝すべきかな、この神!彼は聖殿(みや)の聖所(きよきところ)にいまして民を審きたもう神にあらず、?畝(けんぽ)の間にくだりて畦丁(けいてい)とならびたがやしたもう神なり。

7月24日(火)

わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。(箴言二十四・三十〜三十二)

イエスは労働者である。余は彼によりて労働の貴きゆえんを知った。労働は賃銀をうるために貴いのではない。心を養うために貴いのである。煩悶と懐疑とは沈思黙考によりても解けない。労働によりて釈(と)ける。労働の人生におけるは、排水溝の沼地におけるがごときものである。これによりて悪水は除かれ膏腴(こうゆ)は残り、地は豊穣を供するに至る。煩悩は、思うこと多くして働くこと少なきより起こる。煩悩を除かんがために身を噴火口に投ずるに及ばない。通常の労働に従事すれば足りる。されば糸のごとく乱れたる心は整理について、賛美の声は口よりあがるに至る。

7月23日(月)

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささえるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のためにひとつの永遠のいけにえをささげた後、、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。(ヘブル書十・十〜十四)

キリストの血(彼が死に際してながしたもうた血)はすでにわれらの罪を贖(あがな)うた(すなわちわれらを義とした)。しかしながらそれがすべて罪よりわれらを潔(きよ)むのは、これわれら各自にとりては終生の事業である。キリストの血はわれわを潔むるものではあるが、一時的に潔むるものでない。神の小羊は世の始めより殺されたまいしものであって(ヨハネ黙示録十三・八)その血は世の終りまで人の罪を潔むるものである。贖罪(あがない)は既成の事業であるが、その適用は未成の事業にぞくする。われらは日に日にキリストの血によりて、われらの罪を潔められなければならない。

7月22日(日)

彼らはもろもろの国のあいだにさきばを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(イザヤ書二・四)

戦争のやむに二途あり。進んで敵意をはらすにあり、退いて自己(みずから)を正(ただ)すにあり。しかして神は常に第二途をえらびたもう。されども人はつねに罪を他人に帰して、自身は美名を帯びて死せんと欲す。これ戦争があるゆえんなり。名誉心、傲慢心なり。流血をしてあらすむるものはこれなり。人類が自己を省(みるかえり)みるに敏にして、他を責むることに鈍なる時において、戦争はまったく廃止さるるに至なり。

7月21日(土)

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼(かつれい)のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。(ガテラヤ書六・十四〜十五)

わられは真正(まこと)のキリスト教を信じて、真正のキリスト信者とならなくてはなりません。教会信者や、哲学的信者や、あるいは聖書的信者たるをもって満足してはなりません。事実上、神の子供となり、実際的に神の実力を授かり、キリスト教を語る者でなくして、これを自覚してこれを用いる、ある異能(ふしぎなるちから)がわが心にくだり来り、人も己もなさんと欲してなすあたわざる根本的大変化のわが全身にほどこされしを感じ、その結果として世の恐るべき者とて一つもなくなり、悪魔もわが声を聞いて慄(ふる)えるような、そういう人とならなくてはなりません。すなわちヨブとともに神にむかいて、われなんじのことを耳にして聞きいたりしが、今日は目をもってなんじを見たてまつると断言しうるようなキリスト信者とならなくてはなりません。

7月20日(金)

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。(ヨハネ伝十七・三)

神とともにあるはたのしきかな。そこに平和あり、活動あり、正義あり、仁愛あり、思想あり、感情あり、円満と完全とは神にありて存す。われにキリストに顕(あら)われたる神のあるありて、われはわが希望を充たさんと欲して天然を要せず、また人類の社会を要せず、われはわが神とともにありて、絶対的に満足の人たり。

7月19日(木)

あなたはわたしを多くの重い悩みにあわされましたが、再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。(詩篇七十一・二十)

人生に悲惨事多し。されどもこれを償(つぐな)いてなお余りある恩恵事あり。復活これなり。このことありて、しかしてまたこのことを望んで、この涙の谷は歓喜の楽園と化するなり。われもまた多数の人とともに、この世にありて、多くの重き苦難にあいたり。されどもわれは望み又信ず、わが神の、キリストにありてわれをふたたび活かしたもうを。しかして墓の底よりわれを挙(あ)げたまいて、われをして天の清き所に住ましめたもうを。しかしてこの大希望のわがうちに存するがゆえに、われはこの世のすべての苦難にかちえて余りあり。「ああ死よ、汝の刺(はり)はいずくにあるや。ああ陰府(よみ)よ。なんじの勝利(かち)はいずくにあるや。それわれらが受くるしばらくの軽き苦しみは、きわめて大いなる限りなき重き栄をわれらにえしむるなり」(コリント第二書四・十七)             

7月18日(水)

そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え」。祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない」。(マルコ伝十五・二十九〜三十一)

キリストは実に人を救うためには奇跡を行いえましたが、自己(みずから)を救うたにはこれを行いえませんでした。人をたすけるための異能を備えしイエス・キリストは、自己をすくうためには全然無能でありました。弱き者を救わんがあめには風をも叱咤(しった)してこれを止め給いし彼は、自己の敵の前に立ちては、これに抗(てむかい)せんとて小指一本さえ挙(あ)げたまいませんでした。キリストの奇跡よりもさらに数層倍ふしぎなるものは、キリストの無私の心であります。しかしながらこのふしぎなる心があってこそ、初めてかのふしぎなる業(わざ)が行われるのであります。

7月17日(火)

いつでも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(テサロニケ第一書五・十六〜十八)

神のすでに下したまいし恩恵(めぐみ)について感謝せよ。さらば神はさらに新たなる恩恵を下したまわん。旧恩について感謝せずして新恩にあずかるあたわず。かの不平家と称する徒(やから)が、終生満足を感じえざるは、彼が感謝の念をおいて欠くるところあればなり。

7月16日(月)

したがって、あなたがたはもはや僕(しもべ)ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。(ガラテヤ書四・七)

いかなる理由によるかは神学上の問題としておきまして、神の子キリストがわれわれのために十字架上に贖罪(しょくざい)の血を流されしということを聞き、かつこれを信ずるに至りますと、罪なるものは、はじめてわれわれの上には力なきものとなり、われらは罪をにくみ、義を愛し、今日までは何となく遠ざかっていた神を真にわれわれの父として認め得るようになり、生涯が光沢を生じて楽しくなり、死が恐ろしくなり、われらの仇敵までが愛すべきものとなり、非常な変化がわれわれの心中に起こるに至ります。

7月15日(日)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。かみは光を昼(ひる)と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(創世記一・三〜五)

暗黒をもって始まり、光明をもって終り、絶望をもって始まり、希望を持って終る。神の行為にすべてこの順序あり。希望を約して失望に終らしむるがととき、栄光の冠(かんむり)を戴きて後に恥辱の死をとぐるがごとき、平和と繁栄とを宣言して戦乱と貧困とを来たすがごときは、神の決してなしたまわざるところなり。「歓びのは朝来る」Joy cometh in the morning.戦闘(たたかい)の暗闇去りて後に平和の昼は来るなり。若年を貧苦の中に過して老年を喜楽の中に送る。夕をもって始まり朝をもって終る。これ善人の生涯にして、また神の事業の順序なり。夕陽西山に没して、暗黒天地に臨む時に、吾人の新紀元は臨(きた)るなり。夜は長からん、その戦闘は激しからん。されど歓喜(よろこび)は朝とともに来る。夕あり朝ありて、宇宙も吾人も歩一歩を進めしなり。

7月14日(土)

彼を信ずる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりやみの方を愛したことである。(ヨハネ伝三・十八〜十九)

もし神の刑罰なるものがあるとすれば、それは事業の失敗ではない。生活の困難ではない。肉体の疾病(やまい)ではない。家庭の不和ではない。しかり、死そのものでもない。これらはみな艱難、不幸、天罰の中に数えられるべきものではない。もし神の刑罰なるものがあるとすれば、それは神を知ることのできないことである。未来と天国とが見えないことである。聖書を読んでもその意味がわからないことである。感謝の心のないことである。俗人のごとくに万事万物を見ることである。これが真の災難である。もっとも重い刑罰である。

7月13日(金)

兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。(ペテロ第二書一・十〜十一)

われらはこの世界はついにどうなるかを知らない。しかしわれらは、神は彼を愛する者に聖霊を賜うてこれをその子となしたもうことを知る。人生の最大事は政治ではない。また軍事でもない。人生の最大事は宗教である。すなわちこの移りゆく世にある間に、移らざる世に入る準備をなすことである。われらは世界が滅びつつある間に、神の子となりて永生を承(う)けつぐことができる。

7月12日(木)

神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。(ヘブル書一・一〜三)

人いまだかって神を見たことなし。されども神の状(かたち)はかって世に顕(あら)われたり。彼(その状を帯し者)は神の栄えの光輝(かがやき)、その質の真像(かた)なりき。しかして彼の直(じき)弟子の多くは彼を目に見、ねんごろに観(み)、手にてさわれり。彼を見し者はまことに神を見しなり。彼は歴史的人物なりき。ゆえに彼はその外貌において肉なる人と何の異なるところなかりき。彼は憎まれ人に棄てられ、彼に見るべきのみばえなかりき。われらもし肉体における彼を見しならんか、われらはかならず彼を神と認めざりしならん。彼は労働者なりき。貧しかりき。彼は極悪の罪人として十字架の刑に処せられたりき。しかも彼は神の子なりき。神として人の崇拝を受くべき者なりき。人は彼によるにあらざれば、何人(なにびと)も神を見ることあたわざるなり。

7月11日(水)

あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけでなく、彼のために苦しむことをも賜っている。(ピリピ書一・二十九)

艱難はこれを受くる時に決して悦(よろこ)ばしいものにあらず。されどもその忍耐の実(み)を結びて、より高い信仰を吾人に供するに至って、吾人は艱難をわが兄弟なり、わが姉妹なりと呼ぶに至る。神の造りしものにして、じつに艱難にまさるものなけん。そは他のものは吾人に示すに神の力と知恵とをもってすれど、艱難は吾人を導きてただちに神の心に至らしむればなり。

7月10日(火)

だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業(しぎょう)の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、昔からわれわれの祖先たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。(ミカ書七・十八〜二十)

神よ、われはなんじが富貴をもってわが国民を恵みたまわんことを願わず。彼らはすでにありあまるの富を有せり。富ははなはだしく彼らを堕落せしめたり。しかして愛なる神はなおこの上に罪悪の科(とが)を彼らに課して、堕落の上に堕落を加えたまわざるべし。しかり、神よ、もし聖意(みこころ)ならば彼らの上に饑饉を下したもうも可(か)なり。彼らの茶と生糸を腐食せすむるも可なり。もしやむなくんば新火山を起こして溶岩に田圃(たんぼ)を埋めしむるも可なり。この国民の霊魂を清め給え。その方法のいかんについては、ひとえにこれをなんじの聖旨(みむね)にまかす。ただ願う、神よ、この国に精神的大革命を起こさしめよ。この国をして真正(まこと)の聖人国たらしめよ。日本をして十七世紀の英国のごときものとならしめたまえ。

7月9日(月)

試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。(ヤコブ書一・十二)

栄光は恥辱の後に来る。人に嘲(あざ)けられ、踏みつけられ、面前にて卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視(べっし)するところとなりて、しかる後に吾人に栄光は来るなり。しかり、恥辱は栄光の先駆なり、開拓者なり。春の夏に先き立つがごとく、月欠けて後にその満つるがごとく、恥にあうて吾人に栄光の冠(かんむり)をいただくの希望あり。吾人は喜んで人の辱(はずか)しめを受くべきなり。

 

7月8日(日)

われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。われらはその中のやなぎにわれらの琴(こと)をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしょうと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせて下さい。(詩篇十三七・一〜五)

愛国の情、これ吾人の至誠なり。この至誠、われこれを分析することあたわずといえども、われの心思(こころ)捕え、われの生命(いのち)を縛り、われをしてこれがため生き、これがために死すともなおこれに報ゆる足らざるを感ぜしむ。われのわが国に対するは、人その母にたいするの情なり。われは思わずして彼女を愛し、われを囲ギョウする山川に生霊の充満するがとごきありて、沈黙微妙の中にわれにこたえ、われにすすむるの感あり。誰かいう、物質に生命なしと。われの身体髪膚(しんたいはっぷ)はその細微の分子に至るまで、わが国土の変化してわれとなりしものならずや。われは国土の一部分にして、われのこの土に付着するは、われ自身がこの土の化身(けげん)なればなり。国を愛せざるものは自己を愛せざるものなり。

7月7日(土)

夫たる者よ。あなたがたもおなじように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。(ペテロ第一書三・七)

婦人を遇するの道は観劇の快を供にするにあらず。錦綉玉帯(きんしゅうぎょくたい)を給するにあらず。婢(はしため)をしてこれに侍せしめて、高貴の風を装わしむるにあらず。婦人を遇するの道は、男子みずから身を潔(きよ)うして、彼女の貞節に酬ゆるにあり。費を節し、家を斉(ととの)えて、彼女の心労(つかれ)を省(はぶ)くにあり。夫にこの心あらば、妻は喜んで貧を忍ぶをうべし。彼と共に義のために迫害にたうるをうべし。婦人を遇するの道は、その高貴なる品性を励ますにあり。その賎劣なる虚栄心に訴うるにあらず。

7月6日(金)

今わたしは、あなたがたのために苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。(コロサイ書一・二十四)

キリストがその死をもって全世界を救いたまえりというは、決して形容的の言(ことば)ではない。事実中の最大事実である。キリストはじつにその死をもって世の罪を負い、これを除きたもうたのである。しかしてわれら彼の弟子たる者もまた、われら相応にわれらの死をもって世の罪を負いてこれを除くことができるのである。これじつに感謝すべきことである。われら生きて何事をもなすをえずといえども、信仰をもって主にありて死して、幾分なりとも世を永久に益することができるのである。人類の救済(すくい)というも、これキリスト一人の苦痛だけでとげらるることではない。われら、彼の弟子たる者が、彼と共に死の苦痛をなめてとげらるることである。

7月5日(木)

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリント第二書十二・十)

われはつねにわが力の足(た)らざらんことを恐れ、神はつねにわが力の足り過ぎんことをおもんばかりたもう。われはわれ強からざれば弱しと思い、神はわれ弱からざれば強からざるを知りたもう。わらはわが力を増さんと欲し、神はわが力を殺(そ)がんと欲したもう。わが思うところはつねに神の見るところと異なる。われの焦慮(しょうりょ)する時に、神は笑いたもう。われは己を知らずして、つねにみずから苦悩(なや)むものなり。

7月4日(水)

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。(マタイ伝十六・二十六)

個人とは個々の霊魂(たましい)である。これを英語でindividualという。分(わか)つべからざるものの意である。あたかも理化学で分子のことをatomというと同じである。分子すなわちアトムは、これ以上に分つべからざるものである。そのごとく、個人も霊的実在物としてこれ以上に分つべからざる者である。人類はこれを人種にわかつことができる。人種はこれを国民に分つことができる。国民はこれを階級に分つことができる。階級はこれを家族に分つことができる。そうして家族はこれおを個人に分つことができる。しかしながら分離はこれを個人以下におよぼすことはできない。個人は分つべからざる者である。個人は人そのままである。神の子、永久の存在者、自由独立不滅の固有性を有し、全世界を代価に払うても贖(あがな)うことができないほど、貴いものである。

7月3日(火)

声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たぢかに人は草だ。すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」。(イザヤ書四十・六〜八)

人をして衆人の誹毀(ひき)に対し、自己の尊厳と独立とを維持せしむるにおいて、無比の力を有するものは聖書なり。聖書は孤独者の楯、弱者の城壁、誤解人物の休息所(やすみどころ)なり。

これによりてのみ、余は法王にも、大監督にも、神学博士にも、牧師にも、宣教師にも抗することをうるなり。余は余の弱きを知れば、聖書なる鉄壁のうしろに隠れ、余を無神論者と呼ぶもの、余をおおかみと称するものと戦わんのみ。なんぞこの堅城を彼らにゆずり、野外、防禦なきの地に立ちて、彼等の無情、浅薄、狭量、固執の矢にこの身をさらすべけんや。

7月2日(月)

すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。(マタイ伝十九・十六〜十七)

何をか善というとの問題に対して、キリストは「善とは神なり」と答えたまえり。孝も善なり。仁も善なり。せれども孝も仁も善の結果にして、善そのものは神なり。神を知るは善人になることなり。善を学ぶは神に近づくことなり。善を求めずして神を知るあたわず。神を知らずして善なるあたわず。宗教と道徳、行いと信仰とは同一物の両面にして、一を去って他を知るあたわざるなり。聖書は善人をもって「神と共に歩む者」となせり。神を離れて偶像に仕うるは、善を去って悪を行うなり。すなわち悪を行うは真正(まこと)の偶像崇拝なり。キリスト教徒にまれ、仏教徒にまれ、善を重んじ正しきを求むるものは、神の子供にしてイスラエルの世嗣(よつぎ)たるなり。

7月1日(日)

それは、主イエスをよみがえられたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。(コリント第二書四・十四)

 余はこの世より救いに入らんと欲する。しかしこの世において救われんとは欲しない。すなわち余の霊も肉も、この世において完全なるものとならんと望まない。体(からだ)は罪によりてすでに死し、肉体はすでに罪のゆえをもって死に定められたるものである。医術がその進歩の極に達するとも、この「死の体」が永久に活くるに至りようはずはない。壊(く)つべき肉体に宿ることその事が、現世の頼るに足らざる最も明白なる証拠である。余は死より救われんと欲する者である。すなわち霊においてはもちろん、体においても死せざるの境に入らんと欲する者である。そうしてかかる境遇はもちろんこの世において求められうべきものでない。「キリスト死を滅ぼし、福音をもって生命と壊(く)ちざることを明らかにせり」。そうしてこの生命と壊(く)ちざることとは、彼がふたたび顕れたまわん時に、われらに事実となりて顕わるべきものである。