一日一生(内村鑑三)続「一日一生」(教文館)より


注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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一日一生(内村鑑三)教文館 『続一日一生』(内村鑑三)より

12月のことば

陸中花巻の十二月二十日

外には雪は二尺あまり

寒気は膚(はだえ)をつんざくばかり

北上(きたかみ)の水は浩々(こうこう)と流れ

岩手の峰は遙々(ようよう)とそびゆ

内には同志四十あまり

歓喜は胸にあふるるばかり

賛美の歌は洋々と挙がり

感謝の声は咽々(えつえつ)と聞ゆ

ああ、うるわしきかな、この会合(あつまり)

聖霊(みたま)は奥羽の野に下れり

われらは深雪(みゆき)の中にありて

栄光(さかえ)の天国(みくに)におるかと想(おも)えり(信五・一二六)

12月31日(月)

主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民の中にしらせよ。主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。その聖なるみ名を誇れ。どうか主をもとめる者の心が喜ぶように。(歴代志上一六・八〜十)

年は去らんとす。感謝である。年は来たらんとす。感謝である。今年もまた善き事があった。感謝である。悪しき事があった。感謝である。万事万物が感謝である。何ゆえにしかるか?神の聖旨(みこころ)が成ったからである。彼の栄光(みさかえ)が揚がったからである。「わが」ための生涯ではない。「神」のための一生である。彼の聖旨の成らんがためには、われはどうなってもよいのである。神は主人であって、われはしもべである。しもべは、自分はどうなっても、主人の事業さえ挙(あ)がれば、それで喜びかつ満足するのである。神は年々歳々、その聖業(みしごと)を進めたもう。そうして今年もまた一年だけ聖旨は成り、栄光が挙がった。ゆえに感謝である。わが不幸、わが得失のごとき、問うべきでない。いわんやすくなからざる幸福の、わが身にも臨みしにおいてをや。(信八・六一)

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

今年の最後に

人あるを知らず、神あるを知るのみ。明日あるを知らず、今日あるを知るのみ、何の計画をも立てず、ただ、全力を尽くして、手に来たることをなす。かくして年は始まり、年は終る。われは知る、われはこの世よりしてすでに永生を享楽しつつあるを。(信八・四一)

12月30日(日)

わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしをまっているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けてくださるであろう。わたしばりでなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるだろう。(テモテ第二書四・六〜八)

 信者の生涯は、始めは悪く終りは善くある。終りにちかづくほど、ますます善くある。生命(いのち)の夕暮になればなるほど、彼はなにものか、彼の心の奥深き所に結実しつつあるを感ずる。人あり、彼に、その生涯の中に最も愉快なりし時はいつか?と聞くならば、彼は常に今なりと答うるのである。そうして彼の最後(ラースト)が最善(ベスト)である。あたかも年末のクリスマスが、彼にとり最も喜ばしき期(とき)であるように、彼の生涯の終わりが、彼のとり最も感謝多き時である。そうしてかれが特別に感謝してやまざる事は、かれの生涯の計画がことごとく失敗であって、彼の計画に反せし神の御計画が彼の身において成ったことである。「これゆえに、われ、弱きと凌辱(はずかしめ)と空乏と迫害と患難(なやみい)に会うことを楽しみとせり」(コリント後書十二・十)。信者にはこんな感謝があるのである。(信八・六十)

12月29日(土)

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はる

かにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言い、あらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しあkし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神はかれらのために、都を用意されたのである。(ヘブル書一一・一三〜一六)

そうして信仰の進歩と共に今世はますます軽くなりて来世はますます重くなるのであります。身は今なお幕のこなたに留まりまするが、心はすでにかなたに移りて、その栄光を感ずるのであります。そうしてかなたに厚くなればなるほど、こなたに薄くなるのであります。この栄光の国の、わがために備えられしを知りて、私どもはこの世の欲望(のぞみ)が日々に薄らいでくるのであります。そうして耳にかすかにその音楽を聞き、眼にかすかにその輝きを望みて、私どものこころは飛びたつのであります。しかり、幕一枚であります。そうしてすべての誘惑(こころみ)は終るのであります。すべての涙はぬぐわるるのであります。イエスを面前(まのあたり)拝しまつるのであります。愛する者に再会するのであります。そうして新しき自由の生涯に入るのであります。人は人生が短いと歎きまするが、クリスチャンはその長からざるを感謝するのであります。栄光の国は今や目前に横たわるのであります。喜びてもなお喜ぶべきではありませんか。(信一三・二六四)

12月28日(金)

人をさばくな、そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人に罪を定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。(ルカ伝六・三七)

ゆるし得んがために祈るべきである。また祈りてゆるすべきである。敵をゆるすの最も善き方法は、彼のために祈るにある。「なんじらの敵を愛し、なんじらを迫害する者のために祈祷せよ」と教えたまいて、イエスはわれらに人をゆるすの最も善き道を教えたもうたのである。われ、わが敵のために祈りて、われの彼に対していだける無慈悲と憤りとは除かれ、これに代わりて春風駘蕩(たいとう)、仇恨の堅氷を解かすに足るの温雅はわが心に臨むのである。仇恨の苦しさをいだきて長く不快を感ずるの必要はない。直ちに祈祷の座に近づき、わが最も憎しと思う人のために祝福(さいわい)を祈りて、完全に彼をゆるして、われもまた完全の幸福にあずかるべきである。年まさに暮れんとす。われらの心のうちに一人の敵も存ずべからずである。われらクリスチャンとして罪をゆるす能力(ちから)を神より賜わり、またわれに負債(おいめ)ある者の負債をゆるし、神にゆるされ人をゆるして、貸借なしの心の帳簿をもって新年を迎えるべきである。(信一二・一〇一)

12月27日(木)

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。(ヨハネ伝五・三九)

聖書は尊いものである。世にこれよりも尊いものはない。しかし聖書は永遠に尊いものではない。聖書が不用になる時は必ず来るのである。永遠に尊い者は、神と、そのおくりたまえるそのひとり子である。しかして彼を世に伝うるが、聖書の世にある理由である。しかして彼を伝えおわって聖書は不用になるのである。聖書を尊しといえども、神の家を築くための足場にすぎない。

聖き都なる新しいエルサレム、備え整い、神の所を出でて、天よりくだり

て、地の上に築かれるに至って、尊き聖書もまた、神の造りたまいし他のものとひとしく、用なきに至るのである。その時われらは顔と顔を合わして直ちに父を仰ぎまつり、人とその書きし書によって教えられずして、直ちに彼によって教えられるのである。ゆえに言う

   また都に月日の照ることを要せず。そは神の栄光これを照らし、かつ小羊、城の灯火なればなり(黙示録二一・一三)

と。天国にありては聖書はいらない。神と小羊とは、これによらずして、直ちにわれらを導きたもう。(信一一・一五一)

12月26日(水)

そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」。(ルカ伝六・二〇)

貧は緊張の生涯であります。しかして緊張のうちに信仰も起こり、愛も希望も生じます。貧はことに主イエスの地上の生涯でありました。私ども、貧について彼を最も深く知ることができます。

  彼は富めるものなりしが、なんじらのために貧しきものとなれり。これなんじらがかれの乏しいきによりて富めるものとならんがためなり(コリント後書八・九)

とあります。イエスと共なるを得たことだけが最大の富であります。キリスト信者はこれ以上の富を要求しません。(注九・一一二)

12月25日(火)

ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。(イザヤ書九・六〜七)

キリストはすでに来たりたもうた。彼は再び来たりたもうであろう。彼はマリヤの子として人間に生まれたもうた。彼は神の子として人類を治めたもうであろう。彼は今や地上にいましたまわない。しかしそれは暫時である。彼はじきに帰り来たりて、われらの王たりたもうであろう。「見よ、暗き地をおおい、暗黒(やみ)はもろもろの民をおおわん。されどなんじの上には主が照り出でたまいて、その栄光、なんじの上にあらわるべし」(イザヤ書六〇・二)とある。彼はこの地をその暗黒にゆだねたまわず、彼はその上に輝き、わららに光りを賜うであろう。今や新しきクルスマスは来たりつつある。新しき星がベツレヘムの上空に輝きし時にはるかにまさる栄光のクリスマスである。神の子は地をその正当の持ち主として承継(うけつ)がんがために来たりたまいつつある。今度(このたび)は罪をあがなわんためにあらず、これを滅ぼさんためである。ベツレヘムの星は義の太陽としてのぼらんとしている。楽しきかな、新しきクリスマスよ!(信一二・一三九)

12月24日(月)

その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包みこまれて引き上げられ、空中で主に合い、こして、いつも主と共にいるであろう。(テサロニケ第一書四・十六〜十七)

クリスマスはことに友人を思うの時である。そしてわれらの友人の内の多くはすでに主にありて眠ったのである。われらは地上に残されてクリスマスを守るも、彼らがわれらと共におらざるがゆえに堪えがたき歎きを感ずるのである。われらと共に楽しきクリスマスを守りし者は、今はその愛する姿をわれらの間に見せないのである。そのことを思うて、楽しきクリスマスは楽しくなくなるのである。そして、かかる時にパウロのことばが一層強くわれらの心に響きわたるのである。

   兄弟よ、なんじらの嘆きは他の人(世人)のごとくならざらんことを願う

と。われら愛する者に別れて地上に淋しきクリスマスを守るといえども、

12月23日(日)

わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって、もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって、あなたをほめたたえる。あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。(詩篇六三・五〜七)

信仰は詩である。歌である。音楽である。思索ではない。議論ではない。さればとて思索しがたいものではない。あまり深くして、思索し尽くすことあたわざるものである。ゆえに信仰は、これを表さんと欲して、おのずから断言するのである。いわく、「われ信ず」と。哲学はこれを称して独断的主張(ドグマティズム)と言う。されども信仰は自個を説明せんと欲して、あたわないのである。信仰は生命そのものの声である。ゆえに、おのずから歌い、かつ躍(おど)るのである。その点において、プラトンもパウロもアウグスティヌスも一致している。彼らの哲学または神学と称するものは、近代人のそれとは全く異なり、詩歌の一種であって、組織的思惟(しい)の結果ではない。ルーテルいわく、「神学は音楽の一種なり」と。完全の調和、無限の歓喜、宇宙と人生とが一団となり、理性と霊性とが一致して躍り喜ぶところに本当の神学がある。かくてクリスチャンは各自、その知識の程度にしたがい神学者である。彼は自己を神のひとり子イエス・キリストの立場において見るがゆえに、万事万物を調和的に見るのである。「万物、彼によりてたもつことを得るなり」。(コロサイ書一・一七八)

12月22日(土)

わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にあるはあなとのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。(詩篇七三・二五〜二六)

ひとり神と共に在(あ)ることの楽しさよ。この時、われは受くるのみにして、与うることあるなし。恵まるるのみにして、恵むことあるなし。この時、われは恩恵の中に浴し、わが全身の毛孔(けあな)より、これをわが内に吸収するがごとき感あり。この時、われは変貌(へんぼう)の山におけるペテロの言を借りて言う、「主よ、われら、ここに居るは善し」(マタイ伝十七・四)と。されども主は長くわれらをそこに留めたまわず。われらを世に送りて、われらの受けし恩恵を世にわかたしむ。その時、われらに苦痛あり、心労あり。われらは主に命ぜられて、やむを得ず世と交わるなり。自ら好んで交際を求めざるなり。(信八・二二)

12月21日(金)

もし、罪がないというなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしてちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。(ヨハネ第一書一・八〜十)

罪を犯してこれを悔いざる、不幸これより大なるはなし。罪を犯してこれを悔いる、幸福これより大なるはなし。罪を犯して、われはわが弱きを知り、同時に、神の強きとその恵み深きを知る。つみはわれを柔和たらしめ、また謙遜(けんそん)たらしめ、砕けたる悔いし心の人たらしむ。罪はわれをして容易に人の罪をゆるさしむ。世にうるわしくまた愛すべき者にして、悔いし罪人のごときはあらざるなり。(信七・二〇二)

12月20日(木)

わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなあたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が、さいわいである」といわれた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。(使徒行伝二〇・三三〜三五)

 金をもって、自分で得たもののように考えるのが、まちがいないのである。金は天才と同じように、やはり天よりの賜物(たまもの)である。われらは金を得て、これと同時に大責任を担(にな)う者である。われらはこれを最も有益に、もっとも道理にかなうように使わなければならない。金を使うの道は、実はこれを得る道よりむずかしいのである。

 何ゆえに金がほしいかという問いに答えて、カーライルは、「卑しい人より卑しい取り扱いを受けざらんためである」と言うた。ことに日本のような、金貸しの勢力の非常に強い国にありては、この用意は非常に大切である。節倹、貯蓄の要は全くこのためであって、ちょうど国として兵器、軍艦の必要があると同じである。独立のためである。人たるの威厳を維持するためである。これ以外のためには、われらは金は一文もほしくはない。(信二四・一三七)

12月19日(水)

あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。(コリント第一書一・三〇〜三一)

信仰が足らぬとて、また無いとて、歎く信者が多くある。しかし、かかる信者はキリスト教の信仰の何であるかを知らないのである。キリスト教の信仰は、確信であるとか信力であるとかいう自分の力ではないのである。キリスト教の信仰は信頼である。自分以外のある者にたよることである。彼の義、彼の聖、彼の贖(しょく)を仰いで、もってわがものとなすことである。ゆえに、わが信仰は有ってはならないのである。わが信仰は無い方がよいのである。われは無一物、無能力になりて、彼によりてのみ生きんと欲して、われは真(まこと)の信仰のないのを歎くべきではない。無いのをかえって喜ぶべきである。無いからやむを得ず、たよるのである。そうして、たよって、真の信仰を得るのである。信仰のこの秘訣を知って、われらは信仰の欠乏をすら歎かざるに至るのである。(信一六・六九)

12月18日(火)

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしてちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、かれによって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりでなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。(ローマ書五・八〜十一)

贖罪は余のいただく思想ではない。余の奉ずる教義ではない。余の署名せし信仰個条ではない。余の実験である。余のよって救われし理由である。余の信仰の土台石である。これなくして、余に安心はないのである。余の信仰はむなしくして余はなお罪におるのである。余はもちろん余の善行によって救われるのではない。余の悔い改めによって救われるのではない。また余の信仰によって救われるのでもない。余は、神がキリストにありて成就(なしと)げたまいし罪の消滅によって救われるのである。まことに救いは少しも余が側(がわ)においてあるのではない。まったく彼の側においてあるのである。余の心理的状態によるのではない。彼の代贖的行為によるのである。キリストは、余がなお罪人としてありし時に、余のために死にたもうたのである。余の救いは、余の今だしらざりし時に、余のためにすでに成し就げられたのである。しかして余は単にその救いを認めてこれに入ったにすぎないのである。(信一二・五九)

12月17日(月)

わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。わたしはまた、あなたあたの聖会を喜ばない。たといあなたがたは燔祭や素祭をささげても、わたしはこれを受け入れない。あなたがたの肥えた獣の酬恩祭は、わたしはこれを顧みない。あなたがたの歌の騒がしい音をわたしの前から断て。あなたがたの琴の音は、わたしはこれを聞かない。公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。(アモス書五・二一〜二三)

偉人と称せられ、永久に人類の運命を変えし人は、すべて単一の思想の人なりしと。まことにそのとおりである。自由を世に供せし人は自由一徹の人であった。人を進歩に導きし人は進歩一貫の人であった。自由と同時に束縛を唱えし人にして、かつて世に自由を供したためしはない。進歩と同時に保守を説いた人にして、かつて人を進歩の域に導いた者はない。人は円満を愛して極端をきらうなれども、世に実は円満なる偉人とてはないのである。偉人はすべて極端の人である。単一の思想の人である。(注一四・二八)

12月16日(日)

しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。(ヨハネ伝三・三三〜三六)

神は不公平である。この世の朽ちる物、すなわち金銀、土地、家屋の分配においてははなはだ不公平である。しかし神が人類に与えたもう最も善き賜物(たまもの)、すなわち聖霊の潅漑(そそぎ)においては公平である。否、かえって貧者に厚くして富者に薄いように見える。われらは決して憂うべきではない。われら、身は卑しく、位は無くも、全能の神の王子となることができる。喜ぶべきではないか。(信七・三〇)

12月15日(土)

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ書八・十九〜二十二)

 この世はいわゆる現(うつ)し世である。汚れたる世界である。敗壊と患難との奴隷である。しかしながらこの世はわれらの捨つべきものにあらず、われらの救いの全うせらるる時、この世の救いもまた全うせられ、ここに完全なる宇宙が完全なる神の子に与えらる

るのである。キリスト信者の希望はこれにより以下たることができない。神の造りたまいし驚くべき宇宙万物が、永久に悪人の手中に存し、神をあざける者の所有に帰すべきはずがないのである。世界が彼らの蹂躙に属するはしばしばのことである。時いたらんか、天地万物すべて受造物はたちまち彼らの手により奪われて、真実なる神の子に与えらるるのである。完成せられたる全宇宙、これが神の後嗣の譲り受くべき遺産である。(注一一・二〇九)

12月14日(金)

もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選びだしたのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。わたしがあなたがたに「僕はその主人公にまさるものではない」と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。(ヨハネ伝十五・十八〜二十)

クリスチャンとは誰ぞ?彼は心のむなしきなり。彼のものと称すべき何一つをも持たざる者なり。能なく、知なく、徳なく、信なき者なり。神に恵まれんと欲する意(こころ)のほかに何物をも持たざる者なり。しかしてこの意あるがゆえに、ついにすべての物を持たせらるる者なり。「何も持たざるに似たれど、すべての物を持てり」(コリント後書六・十)とあるは、このことを言うなり。世にクリスチャンのごとく貧しきはなし。されどもまた彼のごとく富めるはなし。彼は奇怪人物なり。しかして神の子なるがゆえに、人の中にありては奇怪人物たるなり。(信八・二九)

12月13日(木)

あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたより見てはならない。また賄賂を取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからである。ただ公義をのみ求めなければならない。そうすればあなたがたは生きながらえて、あなたの神、主が賜わる地を所有するにいたるであろう。(申命記一六・一九〜二〇)

人生の問題を解決するにあたって、第一に考えうべきは正義である。第二が道理である。第三、すなわち最後が人情である。この順に従って解決せんか、万事は容易に解決せらる。義(ただ)しきか、義しからざるか。もし義しくば、骨肉、社会、国家がことごとく反対するも、これに従う。もし義しからずば、全世界がわれに迫るも、これに従わない。問題は簡単明瞭(めいりょう)である。利益、情実、便宜の問題でない。正義の問題である。情に動かされない。道徳によって正義の正道を歩む。よし、その道は十字架を通過するとも。(信二二・九七)

12月12日(水)

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。(ローマ書十二・一)

キリスト信者にも祭礼がある。それは日々の生涯である。しかしてこれは信者当然の祭りであって、また最も合理的な祭りである。真の神を祭るに、いわゆる祭礼によらず、いわゆる供え物をもってせずして、聖き義しき愛の生涯をもってす。キリスト教を迷信と呼ぶ者はたれか。また神を礼拝すると称して日常の生涯は惜(お)いて省みず、ただ儀式儀礼に力をこめて神を喜ばしまつらんと欲する者はたれか。パウロのこの一言は、道徳を宗教化すると同時にまた宗教を実際かするものであって、宗教的道徳と合理的道徳を同時に説くものである。(注十七・一二二)

12月11日(火)

しかし、開いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、あずかしめる者のために祈れ。あなたがたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あたたの上着を奪い取る者には下着も拒むな。あなたに求める者に与えてやり、あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。(ルカ伝六・二十七〜三十一)

憎い人のない人、幸福なる人とはこの人である。全世界にわが敵と思う人の一人も無い人、これは最もうらやむべき人である。かかる人に人生の困しみとては無い。万事が幸福で、万事が愉快である。貧も富みも、寒も暑も、敵も味方も、生も死も、すべてが幸福である。感謝である。神は愛である。ゆえに至上の福祉(さいわい)にいましたもう。われらも神にならいて、愛にありて、この福祉の分与にあずかることができる。「われ、平安をなんじらにのこす」(ヨハネ伝一四・二七)とイエスが言いたまいしはこの平安である。この平安は、世の与うるところとは全く異なる。しかも確実にして、最も強固なる平安である。(信十六・二六四)

12月10日(月)

そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしもはたらくのである」。(ヨハネ伝五・十七)

信仰の人は常に休んで常に働く者であります。自分の能力を消費するのでありませんから、少しも疲れません。しかし実際に自分を通して能力が人に臨むのでありますから、自分は働いていると同然であります。これが理想的生涯ではありませんか。「休まずに急がずに」と、ゲーテの作った有名なる詩にありますが、詩人の理想以上の事をクリスチャンは毎日実験しているのであります。信ずれば新たなる能力が加わり、新たなる能力をもって、じっとしていることができなくなるのであります。ヨハネ伝七章三十八節に、イエスが呼ばわりて、「われを信ずる者は、聖書にしるししごとくに、その腹より、生ける水、川のごとくに流れ出づべし」と言いたまいたりと書いてありますが、事実はそのとおりであります。ほんとうにキリストを信じて、すなわち全身全霊を彼に信(まか)せて、彼は生命の水の貯水池となりて、多くの渇ける霊魂をうるおすのであります。(信十六・二六)

12月9日(日)

だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後ろの雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。(ヤコブ書五・七〜八)

一友人を失うは、さらに他に、より善き友人を得んがためなり。一事業に失敗するは、さらに他に、より貴き事業に成功せんがためなり。壊(く)ちるこの世の物を失うは、壊ちざる天に宝を積まんためなり。失うは、得ることなり。損失なくして利徳あることなし。損失はつねに利徳の前駆なり。損失の、われらに臨む時に、われらは感謝して、希望をもって、これを迎うべきなり。(信八・一六五)

12月8日(土)

この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。(ローマ書一・二〜四)

キリストを最高位に置くキリスト教、聖書の敬虔(けいけん)なる研究を促すキリスト教、人の罪あることを認め、大胆にこれを唱道するキリスト教、キリストの、罪をあがのうの能力を信じ、その宝血に万民の科(とが)を消滅する能力のあることを宣(の)ぶるのキリスト教、肉体の復活を信じ、その信仰の上にすべての希望を築くのキリスト教、これらはすべて聖書にかない、すなわちキリスト教の建設者の意にかのうたるキリスト教であると思います。もし人がこれだけを信じますれば、彼が天主教であろうが、ギリシャ教徒であろうが、あるいはパブチスト(侵礼派)であろうが、メソジストであろうが、「長老」であろうが、「監督」であろうが、われらは深くとがむるに及ばないと思います。また、もし以上の教義を全身全力でもって信じますれば、彼は宗派の人たるをやめて、すなわち真正のカトリック(「広量」の意)信者となるであろうと思います。世に宗教奪いなるものがありますのは、その根本教義に重きを置かないで、その枝葉を重要視するからであります。真正(ほんとう)にキリストを信ずる者は、何びとに対しても寛大であるはずであります。(信十五・二十七)

12月7日(金)

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその息に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(創世記二・七)

信教の自由というは、人がその霊魂の父を認め、これに従いまつるの自由である。霊魂はこの世の属(つ)ける者にあらざるがゆえに、霊魂を支配するの権能の、この世にあるはずがない。人がすべて平等である理由もまたここにある。人はその生命の中心なる霊魂において直ちに神より出たる者であるからである。霊魂不滅の理由もまたここにある。神より出でて神に帰るべき霊魂は、肉体と共に死すべき者でない。かくして、人の不幸にして、霊魂の父を見失うがごときはない。その反対に、人の幸福にして、この父を見出すにまさるものはない。そしてイエスは霊魂の父をわれらに示したもうた。彼はわれらにその父にいたるの道を備えたもうた。福音がその道である。罪が父にいたるの道をふさいだ時に、これを取り除いて、これを十字架につけたもうたのである。(信九・一九五)

12月6日(木)

わたしたちは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。このゆえに、すべての神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも、その身に及ぶことはない。あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。(詩篇三二・五〜七)

罪は罪と認むる時にゆるされる、神が罪に対して加えたもう刑罰を正当と認むる時にゆるされる。罪は、神を恨んで、ゆるされない。彼の慈愛を疑うて、ゆるされない。義の神を認めて、ゆるされる。神はその無限の愛をもってするも、罪を罪と認めざる罪人をゆるすことはできない。ヨブがおのれの無辜(つみなき)を弁護しつつありし間は、艱難(なやみ)は彼より去らなかった。彼が謙下(へりくだ)りて主に向かい、「われはみずから悟らざる事を言い、みずから知らざる測りがたき事を述べたり…ここをもて、われみずから恨み、ちり灰の中に悔ゆ」(ヨブ記四二・三、六)と言いし時に、主はヨブの艱難を解きて、彼を旧(もと)に復(かえ)したもうた。人はいかに義(ただ)しき人なりといえども、神に逆らうことはできない。おのが罪を認めて神のゆるしを求むるまでである。われはわが罪のために罰され、またわが父母、祖先または社会のために罰せられる。われは神を恨むべきでない。正当の刑罰としてこれに当るべきである。しかしてわれにこのほんとうの悔恨の心の起こりし時に、神はそのあわれみを現したもうて、わが罪をゆるし、わが心に喜びの油を注ぎたもう。(信一二・七八)

12月5日(水)

わたしたちは四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。(コリント第二書四・八〜十一)

恐るべかざるものの第一は失敗である。失敗は、方針を転ぜよとの神の命令である。われらは失敗を重ねて、神の定めたまいしわが天職につくのである。

恐るべかざるものの第二は患難である。患難は、われらを神のふところに追いやるための彼のむちである。われらは患難に会うて、神のわれらのために設けたまいし休息(いこい)の牧場(まきば)に入るのである。

恐るべかざるものの第三は死である。死は、聖められし霊魂の純金を、肉の汚物より分離するための最後の手術である。われらは死を経過して、神の、聖者のために備えたまいにし光栄(みさかえ)の聖国(みくに)に行くのである。(信八・一七六)

12月4日(火)

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(コリント第二書一二・七〜九)

われ、わが神に問うて言う、なんじ何ゆえに今日直ちにわれを完全ならしめたまわざるかと。彼、聖書の言をもって、われに答えて言いたもう、「われ、彼ら(なんじの敵)を一年の中になんじの前に追い払らわじ。おそらくは土地荒れ、野に獣増して、なんじを害せん。われ漸漸(ようやく)に彼をなんじの前より追い払わん。なんじはついに増してその地を獲(う)るに至らん」(出エジプト記二三・二九から三十)と。すなわち今日直ちに、わが敵なる罪をことごとくわが内より追い払うは、われにとりてはなはだ危険なればなりと。わが罪の急激の掃攘はわが内に空虚を生じやすし。しかして悪鬼その虚に乗じて、おのれよりもさらに悪しき七つの悪鬼を携え来たり、共に入りてわが内に住まば、わが後のありさまは前よりもさらに悪しかるべし(マタイ伝一二・四四〜四五)。われは漸々にわが全身を浄(きよ)めらるるを要す。(信七・一九五)

12月3日(月)

しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまづきかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。(コリント第一書一・二三〜二四)

キリスト教存在の理由は、ただに存在と言うては足りません、その勢力と限りなき生長の理由は、その言葉にあるのでなくして、その能力(ちから)にあるのであります。神は議論ではなくて実力であります。人生は理屈でなくて実行であります。ゆえに、神を人類に紹介してこれを救う宗教は、大なる能力でなくてはなりあせん。美文は人を救うの能力ではありません。哲学は社会を改むるの爆発薬ではありません。もしキリスト教がその宣伝するがごとく神の真理でありまするならば、これは美文であるとか哲学であるとか言いて、ただに人を楽しましむるものであってはなりません。これは詩篇に言えるごごとく、霊魂を生きかえらしむるもの(詩篇十九篇)であります。これは両刃(もろは)の剣よりも鋭く、精神と霊魂、また関節、骨髄まで刺しとおし、心の思いと志とを見分けくる(ブル書四・一二)ものであります。これはユダヤ人をはじめギリシャ人、その他すべて信ずる者を救わんとの神の力(ローマ書一・一六)であります。キリスト教が「言葉と知恵のすぐれたる」(コリント前書二)であります。キリスト教が「言葉と知恵のすぐれたる。」(コリント前書十一章)であります。キリスト教が「言葉と知恵のすぐれたる」(コリント前書二章)ものでないことは、その宣伝者が始めより宣言しているところであります。(信十五・六十六)

12月2日(日)

しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、わたしは地の果てから、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたの言った、「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あたなを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。(イザヤ書四十一・八〜十)

境遇の強(し)いるところとなりて事をおこなえば、その事必ず成功す。みずから境遇を作りて事をおこなえば、その事必ず失敗に終る。みずから求めずして来る境遇は神の声なり。みずから計画(たくら)みて作りし境遇はおのが声なり。神意は必ず成り、我意は必ず敗る。成功の秘訣は、神に強いられざれば起(た)たざるにあり。(信七・三二〇)

 

12月1日(土)

愛するものたちよ。わたしたちは互いに愛し合おうであないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。(ヨハネ第一書四・七〜八)

ある人、神の愛に感じ、これに励まされて、われを愛せり。われ、その人の愛に感じ、これに励まされて、ある他の人を愛せり。彼またわが愛に感じ、これに励まされて、さらにある他の人を愛せり。愛は波及す。延びて地の果てに達し、世の終りに到る。われも直ちに神に接し、その愛をわが心に受けて、地に愛の波動を起こさんかな。(信七・一七六)

十一月の初めに

わが家の憲法  (内村鑑三)

第一条         神をおそれ人を愛すべし。

第二条         神の前に上下尊卑の別あるなし。われら肉においては夫婦、父子、師弟、君臣たるも、霊においてはすべて兄弟姉妹たるべし。

第三条         虚言は、如何なる場合においても語るべからず。もし悪をなせし場合には、悪をなせしと告ぐべし。

第四条         暴言淫話を謹むべし。これをなす者は神にのろわるべし。

第五条         時間を浪費すべからず。懶惰(らんだ)は大なる罪悪と知るべし。

第六条         労力を惜しむべからず。すべてなんじの手に堪うることは、力を尽くしてこれをなすべし。

第七条         薬用のほかは、酒とたばこの使用を禁ずる。

第八条         万事清潔を守るべし。清浄は心のみ限るべからず。

第九条         みだりに外泊すべからず。家を外にする者は、ついに天下に家なきにいたるべし。

第十条         毎日午後七時をもって祈祷(きとう)の時と定む。一家挙ってこの時を聖守すべし。(信二〇・五三)

11月30日(金)

イエスは答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなけらばならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。」。(ヨハネ伝三・五〜八)

来たれよ、聖霊、来りて再びわが心を俘虜(とりこ)にせよ。わが口に新しき歌を置けよ。わが心の堅き氷を解いて、その中に喜びの花を咲かせよ。わが眼をして、わが主をその栄光において見るを得さしめよ。わが愛心に能力を添えよ。われをして単に学の人たるのみならずまた働きの人たらしめよ。世はなんじの降誕を要する切なり。われをしてまずなんじの光りに撃たれしめよ。「われ、ここにあり。われをつかわしたまえ」(イザヤ書六・八)。

11月29日(木)

それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると突然、海上に激しい暴風が起こって、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起こし、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起き上がって、風と海とをおしかりになると、大きななぎになった。彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。(マタイ伝八・二三〜二七)

世の動揺常なきを称して、「風に動かされて翻る海の波のごとし」(ヤコブ書一・六)と言う。そうしてわれらはわれらの事業をこの世の波に託するのである。不安この上なしである。しかし不安であって不安でない。海を統御する者、われらを守りたもう。神はその聖業(みしごと)を守りたもう。その聖言を守りたもう。世の波いかに荒れ狂うとも、反対の風はいかに激しく吹くとも、聖書は安全である。よし批評、悪口、毒筆の水雷はわれらを社会の水底に打ち沈めるとも、われらにゆだねられし生命(いのち)の聖言は、ノアの箱舟のごとく水のおもてにただよいて、世と共に滅びないのである。「天地は失(う)せん。されどわが言は失せじ」(マタイ伝二四・三五)とイエスは言いたもうた。この世の世論、政治、神学は日に日に変わる。ただ変らざるものは聖言である。波もこれを呑(の)むことあたわず、風もこれを吹き去ることができない。聖言をわが事業となして、世はこれをこぼつことができない。まことにさいわいなることである。(信十七・四十二)

11月28日(水)

主よわたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。(エレミヤ書十・二三)

人の道は自己によらず、かつ歩む人は自らその歩みを定むることあらわず。彼は自身、おのが欲するままに世に処するを得ず。彼に彼の前途を定むるの明と力とあるなし。彼は彼の欲せざることをなさざるべからず。彼は彼の欲することを放棄せざるべからず。彼は彼の運命の支配人にあらず。彼はあわれむべき迷う羊のごとき者、わずかに寸前を探り得て遼遠(りょうえん)を知らず。神よ、願わくはわれをして、時々刻々、なんじの指導に依(よ)らしめよ。(信八・一九)

11月27日(火)

わたしたちは、真理に逆らって何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。(コリント第二書一三・八)

神の愛の福音であるところのイエス・キリストの福音の次に、この世においても、この世以外においても、真理のために真理を愛するところの哲学より大なるものはない。まことに哲学を離れて、福音は福音ならざるものと、はなはだなりやすくある。福音の暖かき血は常に哲学のかわきたる光をもって潔(きよ)めらるるの必要がある。しからざれば、福音は堕落して、いわゆる宗教となるおそれがある。半ば肉的にして半ば律法的なる、主として神秘的なる、純霊的たらず、恩恵に満ちたる福音たらざる、いわゆる宗教に化しやすくある。同様に、福音は哲学に必要である。たぶん、より以上に必要であろう。哲学と福音とは同腹の姉妹である。福音は天よりくだりし天使であって、哲学は地より生まれし淑徳の処女である。(信十二・一九〇)

11月26日(月)

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思わず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。(ヘブル書十二・十一)

余は言う、人生(ライフ)は完全であると。人生そのものは不完全である。しかし、そが達すべく定められし目的に達せんがためには完全である。人生は目的としては不完全である。しかしながら手段としては完全である。ある他の生命に入らしめんがために吾人を完成(まっとう)せんがためには完全である。患難(かんなん)は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず(ロマ書五・三〜四)という。人生はそのあまたの患難をもって、吾人の内に、確実なる栄光の希望を起すのである。正当に用いられて、人生は完全なるものである。吾人が経る日は七十年にすぎず、しかしてその誇るところは勤労と悲痛(かなしみ)とのみ(詩篇九十・十)なりといえども、しかも人生はその短きがゆえに、かえって吾人をして、永久に消えざる福祉(さいわい)を得べく準備せしむるのである。人生のこの意義を解して、何びとも、ヨブにならいて、「ああ、われはうまれざりしものを」と言いて、おのが生まれし日をのろわないのである。(信八・六十)

11月25日(日)

あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。(ヨハネ伝十五・十四〜十五)

多くの友を得てなお寂寥(せきりょう)を歎ずる人あり。一人の友を得ずして常に嬉々快々たる人あり。友に無情なると久遠(くおん)なるとあり。しかして久遠の友のみ、よく寂寥の憂(うれ)いを絶つを得るなり。キリストのみ、ひとり久遠の友なり。彼を友として、人は一人の友をえずとも、独(ひと)り常に嬉々快々たるを得るなり。

11月24日(土)

見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が、あなたがあっと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。(イザヤ書五九・一〜二)

患難のわれらに臨むあらんか、わららはその理学的原因を探ると同時に道徳的原因をきわめざるべからず。われらにありては、失敗は、悔い改めを要求したもう神の声なり。われらは内にのろわれしものを隠しおらざるか。われらは曖昧模糊(あいまいもこ)の中に明白なる公道を埋め置かざるか。われらの中にアカンはおらざるか。われらは不義の金と銀とをふところにして神の怒りをおのが身に招きおらざるか。これわれらが患難に遭遇する時におのれに問うておのれに答ふべき問題なり。

   災いはちりより起こらず、艱難(なやみ)は土より出でず。(ヨブ記五・六)

これに道徳的原因ありて存す。主にむち打たれておのれの罪を発見する者は幸いなり。(注三・十二) 

11月23日(金)

わたしたちは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べるひとは、決して死ぬことはない。わたしは天からさがってきた生きたぱんである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えられるわたしの肉である」。(ヨハネ伝六・四八〜五十一)

キリスト教は神の生命であるから、キリスト教の伝道はこの生命の分配でなくてはならない。伝道とは信者をつくることでもなければまた教会を建つることでもない。はたまた教勢拡張、教権扶植(ふしょく)でないことは言うまでもない。キリスト教とは老人子供の預かり所ではない。信仰とは世の失望家をなだむるための麻睡剤ではない。伝道師とは、世の閑人(ひまびと)の番人ではない。もし伝道師によく似た者がありとすれば、それは医者である。しかし医者は病を癒(い)やすにとどまるなれども、伝道師は健者をさらに健康にする者である。永久不滅の生命を人に供するの職、これが伝道師の職である。「誰かこれに堪えんや」(コリント後書二・一六)。しかしながら、これより以下の者は伝道師ではない。これより以下の者は霊魂のやぶ医者である。伝道師の資格を備えない者である。少しなりとも神の生命を人に注ぐの術と力とを備えざる者は、直ちに伝道の職を廃すべきである。(信十五・十九)

11月22日(木)

アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、あぽろは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足らない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。(コリント第一書三・五〜七)

人は直ちに神によって救われるのである。「人よりにあらず、また人によらず、イエス・キリストと、彼を死よりよみがえらしし父なる神による」(ガラテヤ書一・一)と使徒パウロは言うている。救いの貴きはこれがためである。神が直接に人に施したもう事であるからである。しかるにこの事を忘れて、人なる先生に救ってもらわんと欲するは大なるまちがいである。人は何びともも神の子であれば、他の人を経ずして直ちに父なる神の膝下(しっか)にいたるべきである。神に祈求(もと)むべき事を人に要求(もと)めて、彼は失望せざらんと欲するも得ない。霊魂の満足は、これを神においてのみ得ることができる。これを人において得んと欲して、よしパウロたり、ペテロたり、ヨハネたりといえども、これに応ずることはできない。人物崇拝は信仰上の大妨害である。われらは人にたよるをやめて、直ちに神に依(よ)り頼むべきである。(信二三・二一一)

11月21日(水)

主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである。聖徒を栄光によって喜ばせ、その床の上で喜び歌わせよ。(詩篇一四九・四〜五)

神を愛して神に愛されるのではありません。神に愛されて、すなわち神をして自己(おのれ)を愛せしめまつりて、神を愛し得るに至るのであります。神はこの世の君主とはちがいます。彼は、私どもが彼のために何か功績を立てなければ私どもをほめてくだららないような、そんな者ではありません。彼は私どもの父でありあす。ゆえに私どもが彼を愛するよりも、より深く、より強く、私どもを愛する者であります。私どもはある主義を押し通して彼の賞賛(おほめ)にあずからんと欲してはなりません。彼をして私どもに代わって、私どもが彼のためになすべき事を、私どもにありて彼みずからなさしめまつらなければなりません。彼が私どもについて最も喜びたもう事はこの事であります。すなわち私どもが彼の前に立って純然たる彼の子供となることであります。奮闘奮闘と称して、みずから勇者となりて、あっぱれキリスト信者たるに恥じざる者とならんと欲するも、これ私どもの なし得る事でもなく、また、よしなし得るとするも、信仰の立場から見て決してりっぱなる事ではありません。「神」に私どもに代わって戦っていただく事、その事が、私どもキリスト信者にとり最大最高の功績(てがら)であります。(信九・一一七)

11月20日(火)

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが、あなたの前に喜ばれますように。(詩篇十九・十四)

祈祷はこの事かの事を神に祈願(ねが)うことにあらず。そは「なんじらの天の父は、祈求(ねが)わざる先に、なんじらの必需物(なくてならぬもの)をしりたまえり」(マタイ伝六・八)とあればなり。祈祷は自己を祈祷の態度に置くことなり。神をわが心中の第一位に置き、自己は単に恩恵の受器となりて、その祝福を仰ぐことなり。祈祷は人たる者がその造り主なる神に対して取るべき当然の態度なり。この態度にありて、彼の肉体は健全ならざるを得ず。彼の思想は明瞭ならざるを得ず。彼の行為は勇敢ならざるを得ず。彼の霊魂は高明ならざるを得ず。この祈祷の態度にありて、万物は彼のために働きて善為さざるを得ず。祈祷は信者が神に対して採る服従の態度なり。待命の態度なり。容受の態度なり。彼は一言を発するを要せず、また一事を求むるを要せず。ただ態度を改むれば足るなり。最高の祈祷は無言無求の沈黙にならざるを得ず。(信七・一五三)

11月19日(月)

わたしたちは、こんなに尊い教えをなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救いは、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。(ヘブル書二・三〜四)

まことに奇跡を否定して、キリスト教はないのである。そうしてキリスト教はその古い歴史においてのみ奇跡的であったのではない。今日なお、われらの間にありて奇跡的であるのである。キリスト教は今日なお、その奇跡てきたる性質をかえない。主は今日なお能(ちから)ある手をもて、われらをこの罪の世より導き出したものである。このを事忘れて、愛心のある所にキリスト教ありと称し、神の能(奇跡)を仰がずして、人の手段、方法によってキリスト教をひろめ、霊魂を救わんと欲す、現今(いま)の教会のキリスト教に、見るべき事業の挙がらざるはこれがためである。キリスト教は道徳ではない、贖罪である。教理ではない、奇跡である。説き伏せられて信ずるのではない。神の強い手に捕らえられて、その従者となるのである。「この類(たぐい)は、祈祷と断食とによるにあらざれば、成ることなし」(マタイ伝十七・二十一)とある。人の取る手段としては、ただ熱き祈祷があるのみである。そうしてわれらの祈祷に応(こた)えて、神の奇跡が施され、ここに真(まこと)の伝道がおこなわれ、真の信者が起こるのである。(信十四・一三一)

11月18日(日)

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。(箴言一・七〜九)

聖書と天然と家庭、この三者ありて完全なる教育であり。恩恵のイエスよ、願わくはわれらもなんじになろうて、この三者にわれらの神を求め、ここに彼を探り得て、われらの全性の発育を計らんことを。願わくはわれら、書を読むこと多からざるがゆえに恥ずることなく、また学を講?(こうえん)に聞くこと少なきがゆえにつぶやくことなく、よく神の与えたまいしところに満足し、聖書一巻にすべてなんじの聖意を探り、自由の天然になんじの霊能を読み、日ごとの糧(かて)を得んがためにわれらが日々従事するわれらの卑しき労働に、貴きなんじの恩恵に接して、平凡なるわれらの生涯も、われらをして完全のなんじにいたらしめんことを。(信一〇・二五五)

11月17日(土)

死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、くちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。(コリント第一書十五・四二〜四四)

不死の希望はその内に体の復活の希望を含む。朽ちざる新たなる体を与えらるるの希望なくして、永生不死の希望はむなしき希望である。霊は肉を古き衣のごとくにぬぎ捨てて、欣然去って天上へのぼり行くにあらず、再び霊化されたる体としてこれを賜るの希望をもって、暫時これと別るるのである。この意味において「キリストは死を滅ぼし、福音をもって、生命と朽ちざる事(不死)とを明らかにせり」(テモテ後書一・十)である。キリスト教は唯物論に反対するが、それと同時に唯霊論に反対する。キリストの復活により、人は完全なる霊を賜わると共に、これに相当したる体を賜わりて、永久に生くるを得べしとのことである。霊にとどまらず体までもが救われて、完全なる救いにあずかるのである。(注十五・二八四)

11月16日(金)

最後に兄弟たちよ。すべての真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。(ピロピ書四・八〜九)

ゼントルマンは、人を、その弱きに乗じて苦しめず。

ゼントルマンは、人に悪意を帰(き)せず。

ゼントルマンは、人の劣情に訴えて事をなさず。

ゼントルマンは、友人の秘密を公にせず。

ゼントルマンは、人と利を争わず。

ゼントルマンは、人の深切をないがしろにせず。

ゼントルマンは、殺生を好まず。

ゼントルマンは、自己を広告せず。

ゼントルマンは、自己のなし得ることを他人になさしめず。(信八・一一四)

11月15日(木)

また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。(マタイ伝十・二八)

何はともあれ勇者たれ。否と言わざるべからざる場合には否と言うべし。しかりと言わざるべからざる場合には、しかりと言うべし。人の顔を恐るるなかれ。人は神より強かるあたわず。彼らがもしなんじを圧(お)しつぶすならば、神は彼らを圧しつぶしたもうであろう。最も強き人といえども、すみやかに消えて跡なき影たるにすぎず。なんじが人を恐るるは、幽霊を恐るるのである。ゆえに、人を恐れて、その前に明白なる真理を語るあたわざる者は、まぎれもなき臆病者である。ことに異教徒と不信者との前にイエス・キリストを認(いいあら)わすことを恐るるなかれ。ひっきょうするにイエスは最後の勝利者である。そして彼の敵は、よしそれが学者または政治家または金権者であるにせよ、「主の起(た)ちて地を震い動かしたもう時には、岩の裂け目に隠るる、もぐらもち、または、こうもり」(イザヤ書二・二)の類なることを忘るるなかれ。(信二二・八三) 

11月14日(水)

主人は彼に言った、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。(マタイ伝二十五・二十一)

天国は休息所ではなくして活動場(はたらきば)である。「なんじの主人の休息に入れよ」といいたまわずして、「なんじの主人の喜びに入れよ」といいたもう。神の喜びは、人を助け導くの喜びである。信者はキリストの国に入りて、この聖き喜びに入るのである。愛の働きが無窮におこなわるる所、そこが天国である。そしてこの世において善く働きし褒賞として、父と共に永久に働く愛の国に移さるるというのである。うるわしきものにしてキリスト教の天国観のごときはない。なまけ者の行く所にあらず、活動家の行く所である。さらに大なる責任をにないて神と人とのために働く所である。(注十五・二三五)

11月13日(土)

かくされているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。(ルカ伝八・十七)

万物の原則として、外はかならず内と一致するものである。内が美しくあれば外もこれに応じてかならず美しく、内がみにくくあれば、外もこれに応じてかならずみにくくあるべきである。しかるに現在の場合には、その原理がいまだ充分に実現しないのである。いな、多くの場合においてその正反対が事実である。内のみにくきをつつむに美しき外の形があり、内のうちの美しきをおおうに外のみにくき体がある。内外は一致すべきであるに、いまだ一致しないのである。しかしこれは永久にしかあるべきでない。体は心に合うべきである。心はこれに相応したる体に現われるべきである。かくれたたるにしてあらわれざるはなし。美しき心は美しい体としてあらわれ、悪しきこころは悪しき体としてあらわる。そこになぐさめとおそれとがある。(注八・二〇五)

11月12日(月)

主は言われる。さあ、われわれは互いに論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。(イザヤ書一・一八)

しかり、神のがわにありては罪はすでに取り除かれたのである。彼がキリストを通して世を見たもう時に、彼はその中に罪なるものを認めたまわないのである。くれないのごときキリストの血によりて、われらの緋のごとき罪はすでに雪のごとく白くせられたのである。われらは今は、ひるがえってキリストを通して仰ぎまつれば、その時われらの罪のすでに彼(キリスト)にありてぬぐい去られしことを発見するのである。贖罪は未成のことではない。既成のことである。ただ残るは、人の神に対する態度の転向である。神に対してその背(うしろ)を向けずして、キリストを通してその顔を向けて、われらは神の眼中すでにわれらの罪の無きことを知るのである。(注六・三八)

11月11日(日)

エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ書十一・一〜二)

聖霊を受けし時の感はこれである。すなわち、こんなよいものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。家庭もいらない(もし神の聖意(みこころ)ならば)。事業もいらない。成功もほしくない(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。ただこれ(聖霊)を永久に持っておりたい。これに去られてはたまらない。どうにかしてこれを永久に存しておかなければならない。

ああ、平和、平康、安心、聖書に書いてある「人の思いに過ぐる平和」とはこの事であろう。わが過去はすべて忘れられ、わが未来は希望満々たり。人生の意味はわかり、わとに苦痛問題は見事に解決され、天は晴れ、地は動かず、木も草も、獣も鳥も、日も月も星も、みなわれに同情を寄するように思われる。これがもし天国でないならば何が天国であるか。天よりくだる新しきエルサレムを、われはこの世において見ることができて、感謝する。(信九・一六八)

11月10日(土)

わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。(マタイ伝六・十一)

われらの糧は、みずからのかせぎたつものではない。みな神よりのたまものである。ゆえに感謝なくしてこれを受けることができない。クリスチャンの食事のうるわしさはそこにある。キリストもまた世にあるあいだ、食前にはなからず感謝したもうた。レンブラントの名画に、しっそなる食卓上、パンの幾塊ありて、若き大工が仕事着のまま、父母のそばに天を仰いで立てるがある。これすなわちイエス・キリストの食前感謝をえがきしものである。クリスチャンはかならず感謝をもって食事をすべきである。感謝なくしてこの恩恵を受けるは、はなはだ卑しきことといわざるを得ない。何ゆえぞ。天よりのマナなるがゆえである。「われらの天よりの糧を今日もあたえたまえ」と祈りて、感謝せざらんと欲するもあたわないのである。感謝は信仰の発表である。感謝をおこたるは、信仰減退の徴候である。感謝せよ。はばからず声を発して神の恩恵を感謝せよ。(注八・一五一)

11月9日(金)

割礼を受けようとするすべてのひとたちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を

行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。(ガラチャ書五・三〜六)

キリスト教を信ずるとは、キリストによって神に帰ることである。そうして神に帰ることができて、われらが初めて自由に善をなすことができるようになるのである。神、キリスト、善行、これに達するものがキリスト教の目的である。その他はすべて余計である。洗礼!受けてもよし、受けずともよし。教会!入ってもよし、教会!入ってもよし、入らずともよし。法王、監督、牧師、執事…彼らもしキリスト教を説き、その栄光を現す者ならば、彼らに聞け。されども、もし、しからずんば、かれらに聞かざれ。彼らも同じ人である。かれらに聞け。されども、もし、しからずんば、彼らに聞かざれ。彼らも同じ人である。彼らは罪をゆるすの力を持たない。彼らがその専有権として手に触れる儀式は、そのものそれ自身において何の効力をも持たないものである。われらは彼らに欺かれざるべし。わららはキリストに行きて、かれらにゆかじ。(信十五・六十一)

11月8日(木)

主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。主の救いを静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、独りすわって黙しているがよい。(哀歌三・二十五〜二十八)

人もまた青年時代において苦しむにあらざれば、大人(おとな)おとなりて人生の味を充分に味わうことができないのである。苦は楽の素である。神の恩恵が、生涯のつらき経験を糖化する時に、人生の真の味はあらわれてくるのである。苦痛のない生涯は味のない生涯である。したがって意味のない生涯である。われらは青年時代に苦しめられて、人生の味の素を醸造(つく)りつつあるのである。ゆえに聖書に言う、

人、若き時に、くびきを負うは善し

と。若き時は二度はないといえば、人は若き時に充分に苦しむべきである。誤解のくびき、虐待のくびき、背棄のくびき、貧困のくびき、失敗のくびき、死別のくびき、重きくびきというくびきを、いずれもになうべきである。しかして忍耐その実(み)を結び、人によらずして神によりて自己に勝つを得て、彼は、貴むべき神の子の自由に入ることができるのである。(信二十・九十ニ)

11月7日(水)

主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。(詩篇九十・一〜二)

信者はおのれに神の恵みを充分に実験し、喜びと感謝にあふれて世をしてこれに感染せしむべきである。この世に満ちあふるるものは不平の声である。失望のうめきである。これを打ち消すに、神の民の賛美の声をもってせざるべからず。われらにして喜ばざらんか、たれか喜ばん。「賛美は直きものにふさわしきなり」とあるがごとし(詩篇三三・一)。われらはわが国と全世界とを賛美化するの責任をになうものである。

喜びと感謝はキリスト教の基調(キーネート)である。信者の生涯を通して一貫するものは感謝である。善きことも悪しきものも感謝の種である。人生最大の感謝は、神われとともにいましたもうことである。「なんじ神を有す。また何を必要とせん」とあるごととし。(注五・一一三)

11月6日(火)

しかし、主の日には盗人のように襲ってくる。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなけらばならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。(ペテロ第二書三・十〜十三)

われ聖き者となりて、キリストがわが心に下りたもうのではない。彼、わが汚れたる心に下りて、われを聖き者となしたもうのである。そのごとく、世が光明の域に達して、キリストの再臨があるのではない。彼、暗黒の世に臨みたまいて、光明が世に満つるのである。キリストをわが心にまねくものはわが信仰である。世に彼の再臨を促すものは信者の待望である。法律(おきて)の行為(おこない)によりて聖霊は下らない。信徒の活動によりてキリストは再び世に来りたまわない。「聖国(みくに)を来たらせたまえ」(マタイ伝六・十)、「主イエスよ、来たりたまえ」(黙示録二ニ・二〇)、信仰により、この祈祷があまねく万国の民より揚がる時に、人の子は神の栄光をもって世にきたりたもうのである。(信十六・一七四)

11月5日(月)

しかし、信仰が現われる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じこめられていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現われた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。(ガラテヤ書三・二三〜二五)

道徳は相対的である。ゆえに人を導くにあたって、自分をその人の立場に置いて彼を導くべきである。公式によらず、実際により、彼の能力(ちから)の範囲内において神の律法を実現すべく、彼を助くべきである。われらはパリサイの人のごとくに高きに坐して命令を下してはならない。自ら低きに下り、救わんとする人の立場に立ち、その手をとり、その足を運びて、彼を理想へと導くべきである。そうして、これ、われらの救い主イエス・キリストの取りたまいし道である。彼はサマリヤの女を導くにあたって、彼女の不倫を責めて彼女に不可能を強いたまわなかった。彼は彼女の能力(ちから)に応じて、彼女を生命(いのち)の泉へと誘いたもうた。イエスは最大の道徳家であった。ゆえに、人に応じて道徳を教えて誤らなかった。道徳は、より低きより、より高きに導く道である。これを伝うるに、父の威厳と母の慈悲とを要する。われらは道徳を父の威厳とのみ解してはならない。(信ニ二・一六七)

11月4日(日)

さて、わたしたちには、もろもろの天をとおってゆかれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練にあわされたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル書四・一四〜一六)

同情のキリスト、神の子なればとてひとり天の高きにおりたまいて人の艱難を見下ろしたもう者にはあらで、人の肉を取り、その血を分ち、人の受くべき艱難をすべて受けたまいし者、かかる者は神なるよりもむしろ人なり。主なるよりもむしろ友なり。おそるべき者なるよりもむしろ愛すべき者なり。彼らはみずから誘われて艱難を受けたまいしによりて、誘わるる者の援助を乞う声に応じてただちにそのもとに走りおもむきたもうと。いかなる福音ぞ。しかり、彼は吾人のもとに走り来たるを要せず。吾人はただ彼あるを知れば足る。彼も苦しみたまいたれば、吾人の苦しむは当然なり。彼もこの世の人に憎まれたまいたれば、吾人の憎まるるは当然なり。同情のキリストは同情をもって吾人を助けたもう。吾人はキリストありしを知るのみにてすでに吾人の苦痛のことごとくぬぐわれ去りしを感ず。同情のキリスト、しかり、同情のキリスト!(注十四・九十一)

11月3日(土)

あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、いまから後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう。(ルカ伝十二・五十一〜五十三)

神の恵みに接してわれらに初めて満足あり。すなわち聖書にいわゆる「神より出でて、人のすべての思うところに過ぐる平康」(ピリピ書四・七)あり。これ必ずしも世にいわゆる平和なるものにあらざるなり。信仰の平康は時にあるいは境遇の争乱を起すことあり。これわれらが好んでおこすところの争乱にあらず。不安は神を知らざる者の常態なり。彼らは永遠の岩にたよりて無窮の平康を得し者を見て心やすからず感じ、自己の不安を増すと同時にわれら主にありて安き者の平康を奪わんとするなり。ここにおいてか争乱生ず。キリスト教が時には世に擾乱を引き起すを見て、われらはそのこれを信ずる者に供する平康の実体的(サブスタンシャル)なるを知るなり。(注十一・一六一)

11月2日(金)

主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。(詩篇一三九・一〜五)

寂寥(せきりょう)は、人を離れ独(ひと)り神を求むることなり。無辺の宇宙にありて、神とわれと二者相対して立つことなり。この時、われに国家あるなし。社会あるなし。友人あるなし。家族あるなし。われにただ、われと天然と神とあるのみ、われは人の声を聞かず。その歓呼の叫びは、わずかに遠雷のごとくわが耳に達するのみ。「われ、ひとりあるにあらず。わが父と共にあればなり」(ヨハネ伝八・一六)。人、われより遠ざかる時に、神、われに近し。われ独り立つ時に、神はわが力なり。秋風瀟殺(しょうさつ)、寂寥の念さらにはなはだしき時に、われに人知らざる快楽あり。(信八・六九)

11月1日(月)

主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、峰の巣のしたたりよりも甘い。(詩篇十九・七〜十)

聖書の研究なり。その批評的研究にあらず。また感情的探求にあらず。聖霊により、常識をもってする、深き静かなる研究なり。あらゆる思想に訴え、あらゆく事実に鑑(かんが)み、宇宙と人生とを支配する神の聖意の探求なり。聖書の研究はすべての研究の中に最も広くして最も深き研究なり。実在の中心に達せんとすることなり。愛をもって万有を解せんとすることなり。(信七・一〇七)

10月

10月はじめに

コスモス開き、さざんか咲き、もくせい匂い、菊花かおる。灯前、夜静かにして筆勢急なり。天啓豊かにして秋たけなわなる。(信八・三〇五)

10月31日(水)

料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すのだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ伝二・九〜一一)

たいていの人の生涯は悲劇でも喜劇でもなく、平々淡々水のごとき生涯である。これに詩もなければ歌もない。ただ働いて生くるのみである。まことに無味淡白の生涯であって、時には生くるのかいなきもののごとくに思わる。されども一たびイエスのこれに臨みたもうや、水のごとき生涯は化してぶどう酒のごとき生涯となるのである。日常の労働に深き意味が加わるのである。つまらないものが、おもしろくなるのである。べつに人にほめらるるにあらざれども、また政府また社会また教会に価値を認めらるるにあらざれども、生きていること、そのことが幸福なることとなるのである。そしてイエスのみがこの奇跡をおこないたもうのである。イエスに会いまつりて、農夫は田園にありて満足し、商人は店頭にありて満足し、工人は工場にありて満足するに至るのである。淡味なる平民の生涯に意味と興味とを加うる点においてイエスの感化力は独特である。(注十・一一八)

十月の終りに

われらは四人である(ルツ子逝きて後に)

われらは四人であった

そして今なお四人である

戸籍帳簿に一人の名は消え

四角の食台の一方はむなしく

四部合奏の一部は欠けて

賛美の調子は乱されしといえども

しかもわれらは今なお四人である

 

われらは今なお四人である

地の帳簿に一人の名は消えて

天の記録に一人の名はふえた

三度の食時に空席はできたが

残る三人を縛る愛のきずなとなった

 

しかし、われらはいつまでもかくあるのではない

われらは後にまた前のごとく四人に成るのである

神のラッパの鳴り響く時

眠れる者がみな起き上がる時

主が再びこの地に臨(きた)りたもう時

あたらしきエルサレムが天より降(くだ)る時

われらは再び四人に成るのである(信二二・三五三)

10月30日(火)

これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。…父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」(ヨハネ伝十七・一、五)

神の栄光をあらわすというは、神の栄光を人に認めてもらうことではない。神はその栄光を人に認めてもらうの必要はない。人はまた神の栄を認め得ない。人や社会が認めるような栄光は、虚偽(うそ)の栄光であって、真正(まこと)の栄光ではない。

神の栄光をあらわすというは、これを人の前にあらわすことにあらずして、天使の前にあらわすことである。真正の栄光を認め得る天使の前にあらわすことである。神の栄光は人の侮辱するところとなり社会の排斥するところとなるが当然である。人の栄光とするところは、神の恥辱としたもうところである。われら、イエスの弟子たる者は、人のほめられて神の栄光をあらわすのではない。社会に卑しめられ教会に憎まれ、まことにまことに神の栄光をあらわすのである。

さればわれらもまたイエスのそしりを負いて営所の外に出で、そこに彼と共に苦難を受け、人の前にはずかしめられながら、天使の前に神の栄光をあらわすべきである(ヘブル書一三・一二〜一三)。(信九・一一六)

10月29日(月)

すなわち、あなあがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わないものたちに報復し、そして、かれらは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう―わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。(テサロニケ第二書一・六〜十)

この世は不公平なる世である。しかし、この世が不公平であればこそ、われらは、来たらんとする公平なる世を望むのである。もしこの世が全然公平なる世であるならば、この世にありては常に不如意(ふにょい)の地位にたつわれらには、望むべき世が無いのである。われらの来世の希望なるものは、この世の不公平に基くものである。ゆえに、われらはこの世の不公平に遭遇して、かえってわれらの希望を堅うする者である。(信八・一八〇)

10月28日(日)

父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。(ヨハネ伝六・三七〜三九)

余輩はみずから進んで人に余輩の信仰を勧めない。余輩は人がみずから進んで余輩に到(いた)るを待つ。余輩はまた余輩に到るすべての人を納(う)けない。余輩はまずその人たちにキリストを信ずる困難を説く。ことに余輩を慕うて来たる者あれば、余輩は彼らに、まず余輩の敵についてくわしく余輩について穿鑿(せんさく)せんことを勧む。余輩は真実に霊の要求に強(し)いられて来たる者にあらざれば、これに余輩の信仰を語らんとしない。

余輩は、人がいかほど手段を尽くしても、人、一人をクリスチャンとなすことあたわずと信ず。余輩はまた神がみずから招きたまいし者は、いかなる障害に会うも必ずキリストに来りて永久に彼を離れざるを信ず。余輩は、神の霊は人の手段にまさりてはるかに有効なるを信ず。ゆえに、常に祈りて神の聖業に幾分なりと携わらんことを願うといえども、手段方法を尽くして世に教勢を張らんとしない。(信十七・四十三)

10月27日(土)

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。(だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋にいれるべきである)。(マルコ伝二・二二)

余はプロテスタント主義者である。(プロテスタントは反対者の意である)。ゆえに余はローマ天主教会に反対する。英国監督協会に反対する。ドイツ、ルーテル教会に反対する。スコットランド長老教会に反対する。米国組合教会、メゾジスト教会またパブティ教会に反対する。プロテスタント教会の名のもとに存在するという六百余の教派いずれにも反対する。まことにしかり、余にもし余の主義なるものがあるとならば、余は余自身に反対する。余の信ずる福音はこれなり。すなわち「イエス・キリストと、十字架につけられし彼」。そうして余は、いかなる教義またいかなる教義の組み合わせといえども、このすべての教義中最も簡単な教義を越え、またこれに達せざるものに反対する。余の解するところによれば、プロテスタント主義は、キリスト対人巧主義である。信仰対教会主義である。プロテスタント主義は、複雑に対して戦う簡単である。死せる制度に対して戦う生ける生命である。(信十五・一五四)

10月26日(金)

神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。(ヘブル書一〇・三六)

忍耐とは、ただ一直線に進むことである。時に得るも時を得ざるも、人に善く称(い)わるるも、悪しく称わるるも、社会に賛成せらるるも、反対せらるるも、成功するも、失敗するも、ただ神の命これ重んじ、右顧左眄(さべん)することなく、ただ一直線に進むことである。忍耐は直進を要し、また時間を要す。同一の事を長く継続するを要す。単調無味のそしりはまぬかるべからざるところである。堅き岩に鑿(のみ)を当て、努力もってこれを貫かんとするのである。忍耐は頑固(がんこ)なるを要す。人と協(あ)わんと欲し、世に喜ばれんと欲して、忍耐を全うすることはできない。忍耐の道はとうてい春野を分け行くがごとき快楽の道ではない。(信八・一三三)

10月25日(木)

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。(詩篇九一・一〜四)

病は肉体の病である。ゆえに精神の静養である。病によってわれは静養を余儀なくせらるるのである。この点から見ても、病は確かに大いなる恩恵である。健康の時は言うまでもなく労働の時である。われら、神のしもべにとりては、健康の時は「わが時」ではない。神と同胞との時である。ゆえにわれらは、自己について考えうることいたって少なく、朝起きてより夜ねるまで、他人のことについてのみ思わねばならぬ地位に立つ者である。

しかるに一朝(いっちょう)病に撃たれて床に伏するや、わらはわが責任より免(ゆる)さるるのである。この時、わが時はわがものとなり、われは自己について考え、わが神と特に親しく交わるに至る。足立たず、手動かず、咽喉(のど)鳴らざる時に、わが休息の時はいたる。人は病後の静養を語る。されどもわが静養は病中におこなわる。病癒えて後に、われは立ちて直ちにわが業につく。「静養のための病」、キリストのしもべの病とはかくのごときものである。(信一八・一六〇)

10月24日(水)

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎさらせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。(マタイ伝二六・一五二)

神よ、われはなんじに、われとわが家とを福(さいわい)したまえと祈らず、われをなんじの属(もの)として使いたまえと祈る。われらに善き物を与えよと祈らず、われらをして、われらの有するすべての物をなんじにささげしめたまえと祈る。なんじがわれに下したもう最大のたまものは、へりくだりたる、要求せざる心なり。しかしてなんじはイエス・キリストによりて、この心をわれらに下したもうを感謝す。(信七・一五二)

10月23日(火)

神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ、竪琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国のなかであなたをほめたたえます。あなたのいつくしみは大きく、天にまでおよび、あなたのまことは雲にまで及ぶ。神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。(詩篇一〇八・一〜五)

教会の信条(ドグマ)としての教義はこれを受けない。しかしながら信仰の実験の表明としての教義はこれを唱える。余輩は無教会者であればとて教義を無視しない。外より課せらるる教義(信条)は絶対にこれを拒否するも、内なる実験の表明としての教義はこれを唱道せざるを得ない。

教会の要求する儀式はこれを認めない。しかしながら罪の世に対する信仰発表の機会としての儀式は、進んでこれを実行する。余輩は無教会者であればとて絶対的に儀式を無視しない。余輩は教会の洗礼、晩餐式(ばんさんしき)等に救霊の能力(ちから)があるとは信じない。しかしながら余輩がキリストの弟子たることを世に向かって発表せんがためには、余輩は適当の形式を挙行する。儀式としての儀式は、これを軽んじ、これを拒否するも、確信発表の機会としての儀式は、これを重んじ、これを励行する。(信十四・一八六)

10月22日(月)

あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをしなえた神にかたどってつくられた新しきひとを着るべきである。(エペソ書四・二一〜二四)

キリスト教はいかに見ても道理の宗教である。人に良心があり、彼が罪を犯す間は、キリスト教の必要はやまない。キリスト教が供する罪のゆるしの道がかくして、人に真個の平安はあり得ない。神が、罪人を義として、みずから義たりたもう道は、キリスト教を除いて他にあり得ない。科学と合致し得るや否やの問題ではない。良心を満足し得るや否やの問題である。良心の起源をいかに説明しようとも、良心は良心にして、人はその命令を拒むことはできない。良心をして鋭敏ならしむれば、人は何びとといえどもキリストに至るはずである。そして私もまたこの道を取って、彼を信ずべく余儀なくせられたのである。宇宙の大道が、人キリストに追いやりつつある。哲学者カントのいわゆる「頭上の星と胸中の道徳律」とが、人をしてキリスト信者たらしむるに充分である。道徳の終るところが宗教であって、宗教の終るところが、キリストの十字架の道なるキリスト教である。私はこの経路を踏んでキリスト信者になったのである。(信十五・一〇四)
10月21日(日)

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。世世の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アアメン。(テモテ第一書一・十五〜十七)

キリストの福音を約言すればこれなり。すなわちキリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たれりとの事なり。これ確かに喜びのおとずれたるなり。罪人の信ずべく、またすべての歓迎をもって迎うべき音信なり。その哲学的説明を待つことを要せず。その、罪人が最も渇望する音信なるがゆえに、彼は熱情をもってこれを受くるなり。キリストの福音は罪人のための福音なり。ゆえに罪人ならざる者は、すなわちおのれの罪人たるを認めざる者はこれを信ぜず、またすべての歓迎をもってこれを迎えざるなり。(注十四・四十)

10月20日(土)

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。(ルカ伝六・三八)

慰められんと欲する者は慰められない。慰めんと欲する者のみ慰められる。助けられんと欲する者は助けられない。助けんと欲する者のみ助けられる。教えられんと欲する者は教えられない。教えんと欲する者のみ教えられる。主の言い給えるがごとし。すなわち「なんじら、人に与えよ。さらばなんじも与えられるべし…。なんじらが人が量らるべし」(ルカ伝六・三八)と。自己の弱きをのみ悲しみ、自己の不足をのみ、かこち、自己の痛みのみを感じ、ただひとえに人に慰められんと欲し、助けられんと欲し、導かれんと欲する者は、いつまで待つも、慰められず、助けられず、導かれないのである。慰められんと欲するか、自ら進んで、自己よりも不幸なる人を助けよ。助けられんと欲するか、自己より弱き人を助けよ。教えられんと欲するか、自己よりも愚かなる者を教えよ。まず与えうるにあらざれば得るあたわず。人を量るその量器をもって量らるべし。(信一六・二七九)

10月19日(金)

主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説きふせられたのです。わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。それはわたしが語り、呼ばわるごとに、「暴虐、滅亡」と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じ込められているようで、それを押さえるのに疲れ果てて、耐えることができません。(エレミヤ書二十・七〜九)

患難に会うてキリストに来る人がある。キリストに来りて患難に会う人がある。患難と信仰との間に深き関係のあるのは事実である。しかしながら、患難が後なるは、高き信仰である。そうして事実いかにというに、百中九十九までは、患難に追われて、これをまぬがれんための信仰であって、患難をかもすがごとき信仰とては雨夜の星のごとくに寥々(りょうりょう)たるものである。そうして神の求めたもう信仰の、患難を慰められんための信仰にあらずして、患難をよび起すほどなる信仰なることは、言わずして明らかである。(信八・一七六)

10月18日(木)

わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉れとをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。(詩篇八・三〜六)

われに大いなる矛盾あり。われはその事を自認す。われは自身、円満無欠の人なりと言われざるなり。

しかしてわれはわが矛盾を調和せんと努めざるなり。そは、これ、われ一人に限る矛盾にあらずして、聖書に示され、人生全般にわたる矛盾なるを知ればなり。矛盾は人生の事実なり。しかして事実は事実としてこれを受くべきなり。矛盾を怖れて事実を信ぜらんか、人は何事をも信じ得ざるに至る。詩人ホイットマン言えるあり、「われに大いなる矛盾あり。そは、われは大なればなり」と。人は何びとも神にかたどられて無限大に造られし者なり。ゆえに矛盾は彼において、まぬかるべからず。人はただ悪意的に矛盾ならずして善意的に矛盾ならんのみ。小人的に矛盾ならずして巨人的に矛盾ならんのみ。矛盾はあえて恐るるに足らざるなり。(信二二・一九二)

10月17日(水)

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。(ローマ書五・三〜四)

信者は常に喜ぶ者である。喜ぶべき時に喜ぶにとどまらない、患難(なやみ)の時にも喜ぶ者である。信者は歓喜をもって患難に勝つものである。ただ患難に耐ゆるにとどまらない、患難を喜ぶのである。患難をあきらめるのではない、その由って来たりし深き理由を探りてこれを利用し、これによりて神にちかづきおのれを完成(まっと)うするのである。信者は患難を損害なりとは思わない。大いなる利得なりと思う。患難は信仰をつぶさない。彼を深くする。患難を不幸と称する者は不信者である。信者は患難を喜ぶ。そは神の最大の恩恵は患難によりて彼に臨み、人生最大の幸福は患難によりて彼に来たるからである。(注十一・一七六)

10月16日(火)

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。(伝道の書十二・一〜二)

世に恥ずかしきこととて、時間に裕取(ゆとり)を与えざりしがゆえに汽車に乗り遅れし場合のごときはない。少し早く家を出れば、この恥を取らずして済んだのである。そうして、あに、ただ汽車のみならんや。人生全体がしかりである。死の間際まで、これを迎うる準備をなさずして、急いで準備に取り掛かるも、よし全然無効ならずとも、不完全なるはまぬがれない。「なんじの若き日に、なんじの造り主を覚えよ」とあるはこれがためである。死の準備に充分の裕取りあらんためである。多く遊んで急に働かんとするがゆえに急ぐのである。常に少しづつ働いて、泰然としてすべての責任に応ずることができる。人生は長くして短し。おのれが使命を果すには充分である。されども、使命以外の事をなさんと欲して、生命が百あっても足りない。おのれが使命を自覚して、ゆったりとしたる、充実せる生涯を送ることができる。(信二十二・百一)

10月15日(月)

新しき歌を主にむかってうたえ。主はくすしきみわざをなされたからである。その右の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。(詩篇九十八・一〜二)

日本的キリスト教というは、日本に特別なるキリスト教ではない。日本的キリスト教とは、日本人が、外国の仲人を経ずして、直ちに神よりうけたるキリスト教である。その何たるかは一目瞭然である。この意味において、ドイツ的キリスト教がある。英国的キリスト教がある。蘇国(そこく)的キリスト教がある。米国的キリスト教がある。その他各国のキリスト教がある。そうしてまたこの意味において、日本的キリスト教がなくてはならない。しかり、すでに有るのである。「人の内には霊魂のあるあり。全能者の息、これに悟りを与う」(ヨブ記三十二・八)とある。日本魂が全能者の息に触れるところに、そこに日本的キリスト教がある。このキリスト教は自由である。独立である。独創的である。生産的である。真(まこと)のキリスト教はすべて、かくあらねばならない。日本的キリスト教のみ、よく日本と日本人を救うことができる。(信二十四・二百五)

10月14日(日)

むすこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」。しかし父は僕たちに言いつけた、「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。(ルカ伝十五・二十一〜二十四)

キリスト教は神と人類との当然の関係を教えるものであって、道徳のさらに高き教えの謂(いい)ではない。倫理の根本を説く教えの謂いではない。道徳倫理はいかに良くとも、それに人を救うの何らの力がない。われらが真に神が人類に対して持ちたもうみ心がいかばかり慈悲深きものであるかを知ったならば、われらの生涯は一変せざるを得ないのである。今日までわれらが神のみ心を痛めまつったことはいかばかりであろう。地上に渺(びょう)たるわが一身が悔い改めて神に帰るの時、天においては大祝宴が開かれ、宇宙は喜びの舞楽をもって鳴りひびくのである。これが真の福音であって、これを伝うるのが伝道である。しかしてこの一事を伝うることによりて世界は一変するのである。(注九・二百五)

10月13日(土)

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。(ヨハネ伝一・十二〜十三)

自由の福音なり。ゆえに万民の福音なり。単に信仰をもって神の恩恵に応ぜんと欲す。これに人種、階級、教派の別あるべからざるはもちろんなり。人は何びとも、信仰により、今日直ちに、修養によらず、行為(おこない)によらず、儀式によらず、教会職等の援助を借りずして、神の聖召(みまねき)に応じて、直ちに彼の救いにあずかるを得るなり。

 貴きかな、自由の福音、ほむべきかな、この福音を賜いし神!「この言い尽くされぬ神のたまものによりて、われ、神に感謝するなり」(コリント後書九・十五)である。(信十二・十九五)

10月12日(金)

たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。(詩篇二十七・十)

人は相互をいやがり、また相互にいやがられる。しかし神のみ、ひとり人を愛したもう。しかして人はみな孤独であって、神を侶伴(とも)とし持って初めて孤独でなくなるのである。

われ独りあるにあらず。父われと共にあるなり

とは、イエス一人に限らない、すべて深く人生を味わう者のひとしく発する言である。しかして独りこの大いなる侶伴と共にあるに至って、人は何びとも他をいやがることなく、かえってすべての人を愛するに至るのである。

されば人は何びともまずまことに一人となるべきである。「真正の無教会」となるべきである。しかして独り神と共にあるを得て、すべての人を愛して、神の宇宙の教会に入るべきである。

孤独!余輩に限らない、人はすべて孤独である。しかして孤独は神に達するの恩恵の道である。人は団体をなして神に達することはできない。神にいたる道は個々別々である。人は個々別々、独り死して神の国にいたるように、個々別々、人と離れて、独り神を意識し、彼と深き愛的関係に入るのである。(信十八・二一八)

10月11日(木)

このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行く。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。いとすぎは、いばらに代わって生え、ミルトスの木は、おどろに代わって生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない。(イザヤ書五十五・十一〜十二)

わが衣食の料は神より来る。わらは競争場裡(り)に入りて他人の手よりこれを奪うをもちいず。雨の草木に臨むがごとく、わが衣食の料はわが身に加えられる。われはただ働いて静かに神の恩恵を待てば足りる。

わが思想は神より来たる。われは万巻の書を渉猟して積塵(せきじん)のうちより真理を攫取(かくしゅ)するをもちいず。風の緑葉を払うがごとくに、神の真理はわが心に臨む。われはただ祈って神の声を聞けば足りる。

わが事業は神によりて成る。われは進んでラッパをちまたに吹くをもちいず、果実が日光を受けて、努めずして熟するがごとく、わが事業は求めざるに成る。わらはただ静かに種をまき、これにみずをそそぎ、その成熟を待てば足りる。(信八・三十八)

10月10日(水)

よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一ヶ年滞在し、商売をして一もうけしよう」という者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたはしばしの間あらわれて、たちまち消え行く露にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事もこの事もしよう」と言うべきである。(ヤコブ書四・十三〜十五)

キリスト信者は目的なき者なり。みずから一つの目的を定め、万障を排し、終生一徹、その目的点に達せんと努めるがごときは、余の不信仰時代の行為なりき。主の命に従い、今日は今日の業を成す、これ余の生涯なり。余に計画なるものあることなし。なんと、あわれむべき(うらやむべき)生涯ならずや。(信十七・三十五)

10月9日(火)

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。み姿が見えなくなった。彼らは互いに言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(ルカ伝二十四・三十〜三十二)

聖書を究(きわ)むるは嘉(よ)し。されども、おのれみずから神の聖書たるはさらに嘉し。聖書は過去における神の行動の記録なり。われをして現在における神の行動の実証たらしめよ。われをして聖書の生ける注釈たらしめよ。すなわち贖罪(しょくざい)、表義、求拯(きゅうしょう)の目的物たるを得て、「ゆるされたる罪人」の好標本たらしめよ。われは聖書学者たるの野心を絶たるるも、神の恩恵の受器たるを得て、小なる善きクリスチャンたらんことを欲す。(信七・百七)

10月8日(月)

あなたのみ言葉はわが足もとのともしび、わが道の光りです。(詩篇百十九・百五)

灯火親しむべき秋が来て、第一に読むべき書は聖書である。聖書を読んで、永久の利益がある。聖書を読んで、人は老いて老いない。彼の心に永久の春がある。聖書を読んで、理想が尽きない。詩と歌と音楽とはその必然の結果として、わが口より流れ出る。聖書を読んで知識欲が増す。宇宙人と人生とについて広く深く知らんと欲する欲求がわいて尽きない。もし世に神の言があるならば聖書を惜(お)いてほかにあるとは思えない。人類の所有のうちで最も貴いものは書籍であって、書籍のうち最も貴いものは聖書である。(信十一・二三四)

10月7日(日)

見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。(詩篇一二一・四〜八)

神は働きたもう。われ、さむる時もまた眠る時も働きたもう。われ働く時もまた休む時も働きたもう。われをもって働きたもう。またわれ無くして働きたもう。彼は生ける者なれば、われに関せずして働きたもう。地は日々歳々、正義を摂取しつつあり。時々刻々、不義を吐き出しつつあり。われに責任なきにあらず。されども釐革(りんかく)と進化との主として神の事業なるを知って、われは大なる慰安を感ずるなり。神、われをもって働きたもおうにあらず。彼、今に至るまで働きたもうがゆえに、われもまた働くなり(ヨハネ伝五・十七)。(信七・三九)

10月6日(土)

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏せさせ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。(詩篇二十三・一〜五)

神は「平安の神」(ロマ書十五・三十三)なり。ゆえに、これを信ずる者は平安の人たるべからず。信仰もまた大河のごとく静かなるを要す。声を潜めて粛々(しゅくしゅく)として神のふところに臨むものならざるべからず。かの、街(ちまた)に絶叫し俗衆の喝采(かっさい)を博するを得て喜ぶごときは、平安の神を信ずる道にあらず。紅葉、森をいろどる所に、また秋水みどりなるあたりに、吾人は静かに真正の信仰復興(リバイバル)を計るべきなり。(信七・一三七)

10月5日(金)

そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。(ピリビ書二・一〜四)

真理は伝播的である。ひとりこれを楽しむの真理は真理でない。伝道の熱に燃えざる信者は信者でない。しかしてこの熱に駆られて信者は一致協力するのである。自己を守るためでない。団体の安全と勢力とを計るためではない。神のみこころに従い一人たりとも多くわがあずかりし福音の恩恵にあずからしめんために、その熱心に駆られ、その愛にはげまされて、信者は一致協力するのである。ゆえに伝道心の燃えざる所に信者の堅き一致協力はない。その反対に分離がある。離反がある。時を得るも得ざるも、すべての手段方法を尽くして、一人たりとも多くキリストの福音の恩恵にあずからしめんと焦慮する伝道心の燃ゆる所に、批評はやみ、猜疑は失せ、兄弟相互の欠点はおおわれ、信者は努めずして一団となって動くのである。「福音のためにする一致協力」、求めべきはこの一致である。この協力。信者は福音の旗じるしの下に立ちて堅き強き団体となるのである。

10月4日(木)

各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである。(コリント第一書七・二十〜二十四)

すなわち各人その職にとどまるべし。しいてこれを転ぜんとするなかれ。ただ「神と共におるべし」とのことである。これはいかにも宿命説のように聞えるが、決してそうではない。この世の何たるかを知りて、これに処するの道を示したる言である。この世は理想のおこなわれがたき所、不公平はその特徴である。ゆえに、あえて運命の発展を求めない。もし他人に譲るべきあれば、喜んでこれを譲る。ただ神と共にある。そして彼がわれをあらわしたもう時を待つ。彼は時にわれをこの世においてあらわしたもう。その場合には「むしろこれを受くべし」である。されども彼は彼の聖国(みくに)において必ずわれをあらわしたもう。われ、その事を思うて、あえてこの世においてあらわれんことを欲しない。われはこの世においてはわが置かれし地位に満足する。この世においては、神を知り彼と共におるだけで充分である。その他の事は来世まで待つ。キリストがあらわれて、われをわが定められし地位に置きたもう時まで待つ。

10月3日(日)

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代にいたるであろう。(出エジプト記二十・三〜六)

神は最大の愛なり。ゆえに彼は彼の造りたる人類より専心全力の愛を要求するなり。これ彼の正当の要求にして、吾人神の何ものたるを知るものは、かくのごときの愛をもって吾人に対せざるものをもって神とし認めあたわざるなり。神は万物を吾人に賜いたり。吾人の有するものにして一つとして神のものならざるはなし。この神にして吾人より吾人全身の服従と全心の愛とを要求す。世に何ものかかくのごとくに正当なる要求あらんや。ねたむ神は愛の神の別称にして、吾人は吾人よりかくのごときの愛を要求したもう神の存在を知って偉大の慰藉を感ずるなり。

10月2日(火)

また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るにふさわしい者が見当たらないので、わたしは激しく泣いた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。(ヨハネ黙示録五・一〜五)

わが主イエス・キリストよ、余はなんじによりてすべての事をなす者なり。余はなんじを離れて何事をもなしあたわず。なんじは余の能力(ちから)にしてまた余の生命なり。余の近き者にしてなんじのごときはあらず。余の妻も子も、しかり余自身も、なんじが余に近きがごとく近き者にあらず。余はなんじによりて自己を発見する者、なんじを知らずして、余は余自身さえも知るあたわざる者なり。

ゆえに主よ、われ、いかにして、余の口、余の手をもってなんじを世に紹介するを得んや。余は愚かにもしばしばなんじを余の書斎において見出ださんとせり。またある時は、清涼、人無き所に入りて、余の心のうちになんじをえががんと努めたり。されども理想の実体たるなんじは、余の学んで探り得る者にあらず、余の念じてえがき得る者にあらず。なんじ自身、余のこの汚れたる心にくだりたまいて、なんじを余にあらわしたもうにあらざれば、余はなんじについて何事をも知るあたわざるなり。謙遜なるイエスよ、ここに再び余の心にくだりたまいて、余をしてなんじについて信実を語り得しめよ。

10月1日(月)

天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け。わたしの教えは雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。(申命記三二・一〜二)

静謐(せいひつ)は天然にあり。神の造りし天然にあり。静謐は聖書にあり。神の伝えし聖書にあり。一輪のおだまきの、露に侵されてその首(こうべ)をたるるあれば、一節の聖語の、わが心中の苦悶をなだむるあり。怒涛(どとう)四辺に暴(あ)るる時に、われは草花に慰癒を求め、旧(ふる)き聖書に世の供し得ざる安静を探る。


九月

「内村鑑三一日一生きょうのことば」

9月の初めに

秋の夕べ

秋が来た
涼しき心地よき秋が来た
ああ愛すべき秋よ

老いが来た
静かなる黙示(しめし)に富める老が来た
ああ楽しき老いよ

この後に冬が来る
冷たき死と墓とが来る
しかる後に、復活の春が来る

しかして最後(いやはて)に、永久変わらざる
清き涼しき、神のパラダイスの夏が来る
ああ感謝に充(み)てる生涯よ

9月30日(日)

それゆえ、あなたは、きょう知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神のないことを。あなたは、きょう、わたしが命じる主の定めと命令とを守らなければならない。そうすれば、あなたとあなたの後の子孫はさいわいを得、あなたの神、主が永久にあなたに賜る地において、長く命を保つことができるであろう。(申命記四・三十九〜四十)

人はことごとく福音を進ぜざらんか、われはひとりこれを信ぜんのみ。信者ことごとく福音を捨てんか、われはひとりこれを捨てざらんのみ。信ぜざらんと欲する者は信ずるなかれ。捨てんと欲するものは捨てよ。されども、われは彼らにならわざるべし。わが決心はヨシュアのそれなり。彼はイスラエルの民に告げていわく、

  なんじら、もし主に仕うることを悪しとせば、なんじらの祖先が川のかなたにて仕えし神々にもあれ、またはなんじらが今おる地のアモリ人の神々にもあれ、なんじらの仕うべき者を今日選べ。されど、われとわが家とは共に主につかえん(ヨシュア記二四・十五)

と。名誉の偶像にもあれ、安逸の偶像にもあれ、交際の偶像にもあれ、われ、なんじの選

ぶところにまかせん。されども、われとわが家とは共にイエス・キリストの父なる真の神に仕えん。

9月29日(土)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせ生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。(ペテロ第一書一・三〜五)

誠実なるイエスよ、われらも各自その天職を教えられんことを。われらもなんじにならい、聖書において歴史の真義を解し、われら各自のこの世における本務を悟り、また時代にかんがみ、境遇に照らし見て、なんじが理想的ユダヤ人として千九百年の昔、なんじの聖職をつくしたまいしがごとく、われらも理想的日本人として、二十世紀の今日、われらの本分に忠実ならんことを。われら、もちろん、なんじのごとく罪なき者にあらず。われらはなんじの救いを要する者、われらの素質においてなんじと全く性を異にする者なるは、われらのよく知るところなり。されどもイエスよ、われらにまたわれらのために備えられし天職あり。われらはこれに忠実なれば足れり。われらは光明をなんじに仰ぐ者、もちろんなんじの義の太陽なるがごとく、自身光を放ち得る者にあらず。されどもイエスよ、われら、なんじの光にてらされて、われらも光輝を放ち得るなり。なんじにたよるべきわれらは、この国この民になんじの生命を分ち得るなり。なんじ願わくはわれらを恵みて、われらすべてをして小キリストたるを得さしめよ。

9月28日(金)

主はシオンから大声で叫び、エルサレムから声を出されれ。天も地もふるい動く。しかし主はその民の避け所、イスレエルの人々のとりでである。(ヨエル書三・十六)

キリスト教は歴史的宗教である。すなわち、かって有った事を信ずる宗教である。人が考え出したことを信ずる宗教でない。其の点において、仏教とキリスト教との間に根本的相違がる。仏教は釈迦無牟仏(しゃかむにぶつ)一人の思想教訓に始まっているが、キリスト教はアブラハム以来キリストまで、少なくとも四千年の生ける歴史に根ざしている。生ける神は、言葉をもってするよりも事実をもって教えたもう。理想を説かずしてして実例を示したもう。アブラハムの伝記が、すべて神に導かれる者の生涯の模範である。人類はイスラエルの民が救われしように救われるべしとのことである。かくて神は地理と歴史をもって聖書を書きたもうたのである。それがゆえに聖書は貴く、世界無二の書であるのである。

9月27日(木)

あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(ペテロ第一書二一〜二四)

聖霊はキリストの霊である。その御心である。その精神である。ゆえに、これ、彼にならいまつってのみ、受くることのできる者である。常に彼を仰ぎまつり、そのうるわしき、貴さを知り、ここにかれのごとく全からんと欲するの聖欲を起こし、この欲の満たされんことを神に祈り、その祈祷の聞かれんために喜び勇んで神の命を実行し、もってその恩賜にあずかることのできる者である。これを除いて、他にこの恩恵にあずかるの道はない。聖霊は神より出づる霊である。ゆえに道理の霊である。ゆえに明白なる道理にかなわざる道によって得られるべき者ではない。

9月26日(水)

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネ伝十五・十三)

キリストは万人のために死にたまえり。されども直接に万人のために死にたまいしにあらず。彼は直接に、少数の彼の友人のために死にたまいしなり。愛は普遍的ならず。注集的ななり。われらはわれらを憎むこの世のひとのために死するあたわず。されどもわれらを愛する少数の友人のために死して、間接に、われらを憎む世のために死するを得べし。「イエス、この世を去りて父に帰るべき時にいたれるを知れり。おのれの民を愛して、終わりに至るまで、これを愛したり」(ヨハネ伝十三・一)。たとえイエスといえども、友愛に励まされずして十字架の凌辱(りょうじょく)を忍ぶあたわざりしなり。

9月25日(火)

イエス・キリストは、きのうみ、きょうも、いつまでも変わることがない。(ヘブル書十三・八)

キリスト教が制度ではない。教会ではない。それはまた信仰個条ではない。教義ではない。神学ではない。それはまた書物ではない。聖書ではない。キリストのことばでもない。キリスト教は人である。生きたる人である。きのうも、きょうも、永遠(いつまで)も変わらざる主イエス・キリストである。キリスト教がもしこれでないならば、つねにいます生きたる彼でないならば、これ何でもないものである。余は直ちに彼に行く、教会、法王、監督、その他有象の役僧を通して行かない。「われ、彼らにあり。彼ら、われにあり」と彼はおのが弟子について言いたもうた。キリスト教が歴史たらざるに至る時――そうしてキリスト教は歴史ではない――教権を有する教会なるものは消えてしまうのである。

9月24日(月)

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うパブテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。(ガラテヤ書三・二六〜二十九)

私は師は一人のほかに持ちたくはない。私は彼らがすべて私の友人であってほしい。私は弟子は一人も持ちたくない。私は彼らがすべてわたしの友人であてほしい。最も貴い関係は、師弟の関係にあらずして友人のそれである。キリスト御自身さえ、その弟子たちを友と呼びたもう(ルカ伝十二・四、ヨハネ伝十五・十四)。われらキリストの弟子はすべて相互の友であらねばならぬ。友は対等である。助けまた助けらる。教えまた教えらる。友は相互を愛して、その内の誰をも主と仰がない。東洋流の師弟の関係は貴しといえど、いつかは消え果つべきものである。永久に消えざる者は「キリストにある友」である。

9月23日(日)

神よ、わたしの叫びを聞いてください。わたしの祈り耳を傾けてください。わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いてわたしの及びがたいほどの高い岩に、のぼらせてください。あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです。わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、あなたの翼の陰にのがれさせてください。(詩篇六一・四)

悲しき時は貧する時にあらず、国人に捨てるるる時にあらず、孤独この世に存在する時にあらず、無学をもって人にわらわるる時にあらず。悲しき時はわが心の眼が見えずなる時なり。わが霊魂が欣慕(きんぼ)する者の面(かお)が疑いの雲をもって、おおわるる時なり。その時わが蔵(くら)は充つるも、わらい歓喜なし。わが名は万国の民のほむるところとなるも、われに満足あるなし。わが首(こうべ)の上に太陽は照るも、われはひとり暗夜にたどるがごとき心地するなり。われ、わが神を見失うて、われは死せると同然なる者となるなり。われの愛する者は、わらの恋い慕う者、われの生命よりも貴き者はわが神なり。

9月22日(土)

わたしの宮に食物のあるように、十分の一を全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。(マラキ書三・十)

恵まるるの道はこれであります。まずわれらより、与えられしものを感謝のささげ物としてささぐるのであります。さらば神は天の窓を開いて、容るるに所なきまでに恩恵を注ぎたもうというのであります。そしてこれはすべてクリスチャンの実験するところであります。この上さらに恵まるるまで待たないのであります。生きているだけが恩恵であります。神を知ることを得しだけが大なる恩恵であります。これを感謝し、与えられし物の十分の一をささげて感謝を表すが当然であります。さらば神もまた、これに応じて、恩恵の上に恩恵を注ぎたもうのであります。

9月21日(金)

その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。(ゼカリヤ書十四・二十一)

聖俗差別の撤廃である。その事は、階級差別の撤廃の場合において往々みるがごとき、貴族が下落して平民となる事であってはならない。平民が向上してすべて貴族になる事でなくてはならぬ。聖が俗化する事ではない。俗が聖化する事である。聖ならざるものなきに至る事である。人生そのものが伝道事業となる事である。聖職と称して、神に仕うるための特別の階級が撤廃せられて、すべての信者が聖職となる事である。すべての職業が聖業となる事である。われらはこの理想に向かって進むのである。

9月20日(木)

起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから、見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。(イザヤ書六十・一〜二)

クリスチャンはすべて世の光である。彼らなくして、あるいは彼らがその光を輝かさずして、世は暗黒である。試みに思え、もしすべてのクリスチャンが、多くの信者がなすがごとくに、絶対的沈黙を守りたらば、その結果いかにと。さらば、あなたも私も福音の歓喜を知らずして世を終ったに相違ない。彼らが大胆にその信仰を唱えてくれたればこそ、われらは今日のさいわいにおるのである。何ゆえに、授けられし光をおおいながら世の暗黒を歎くのであるか。

もし全世界のクリスチャンがいっしょになって戦争に反対するならば、戦争はたちどころにやむであろう。もし日本中のクリスチャンが一斉に立ちて福音を唱えるならば、日本国は数年ならずしてキリストの国となるでしょう。

9月19日(水)

イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あんあたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。(ペテロ第二書一・十七〜二十二)

「みっつよりのなわはたやすくきれざるなり」。聖書は三つよりのなわである。歴史(過去)と実験(現在)と預言(未来)との三筋の糸をもってなわれしなわである。ゆえに聖書の注解はつねにこの三方面よりしなければならない。聖書は第一にこれを歴史的に研究すべきである。第二に、これを実験的に信者の日々の霊的生涯に適用して解すべきである。第三に、これを未来の預言として観察すべきである。三者その一に偏せんか、あるいはわれらの心霊の要求に触れず、あるいは事実を無視し、あるいは迷信におちいるであろう。されども歴史、実験預言の三方面を具備して初めて聖書の真理を誤らず看取することができる。

9月18日(火)

そのときあなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであったか。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。(ローマ書六・二十一から二十三)

われらはみな遠からず恐るべき日に会わねばならぬ。遠からず死の見舞いを受けねばならぬ。其の時われわれを慰める者は道徳でもない、品性でもない、善行でもない。その時われらはかくかくの事業をなした、あるいは清き行為を続けた、あるいは善き品性を保った、ひとを救うた、親切を尽くした――と、あらゆる良きものを数え立てて見るもなんらの慰めともならない。いな、キリストにより良心を鋭くせられたものにとっては、過去を顧みて自己の功績の上に安心を求めんとするも、全然不可能である。クロンウェルのごとき偉人すら、その最期には大声を発して、「生ける神の手におちいるは恐るべきことなり」と叫んだのである。まことに今や死せんとする時には考えうる力さえもないのである。その時、ただわがために死したまいしキリストの血がわれを救うのであると思うによりてすべての安心が得られるのである。しかり、これ余の床の平和である。しかしてまた最後の審判に立つ時の余の弁証である。余の救いはキリストの血である。

9月17日(月)

荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。(イザヤ書三五・一〜二)

文学とは高尚なる理想の産なり(なんじのよく知るごとく)。文字を美術的に並べたてたとて文学にはあらざるなり(なんじのよく知るごとく)。大文学は吾人の誇る富士山のごときもの、園芸師の細工(さいく)にはあらざるなり。天の霊来りて吾人の心霊に宿り、これを擾乱(じょうらん)し、これを溶解し、これに形を与え、ついに憂悶苦痛のうちに吾人をしてこれを産出せしむ。内に大魂の動くあり、外に大気の応ずるありて、初めて大文学は産まるるなり。これを出だすのプリンシブルなく、これを受くるの社会なくして、大文学はいかにして産まるるを得んや。

9月16日(日)

エレミヤがなお監視の庭に閉じ込められている時、主の言葉はふたたび彼に臨んだ、「地と造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事をあなたに示す」。(エレミヤ書三十三・一〜三)

神の言辞(ことば)は事実なり。神の議論は事実なり。神の証明は事実なり。神は声を出して語りたまわず。黙して、事実をもって語りたもう。戦争の非なるを論じたもうに、戦争の結果をもってしたもう。教会の非なるを示したもうに教会の実情をもってしたもう。論ずるをやめよ、人よ、ただ見よ。見て覚(さと)れよ。しかして改めよ。神は耳より、眼より、鼻より、口より、しかり、上より、下より、地の四方より、事実をもってなんじに迫りたもう。

9月15日(土)

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。(ヘブル書十一・六)

信仰である。信仰である。神を知る唯一の道は信仰である。その恵みにあずかる唯一の方法は信仰である。そは神は知者であって知者以上、権者であって権者以上であるからである。すなわち彼は愛であるからである。愛を知り愛に近づくの唯一の道は愛である。そうして信仰は愛の一面である。信仰によるにあらざれば救わるることなしということはこの義(こと)である。信仰なくして神を喜ばすことあたわずということはこのゆえである。神の何たるかを知って、彼が何よりまず信仰を要求したもう理由はよくわかる。愛の神を人に紹介する聖書が、信仰に至大の重きを置くは、決して異(あや)しむに足りない。

9月14日(金)

あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くにおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ、そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主はゆたかにゆるしを与えられる。(イザヤ書五十五・六〜七)

さらば伝道は何のためであるか。証明(あかし)のためである。神につき、公儀につき、裁判につき、救いにつき、証明するためである。そうしてこの証明は、神が最後に人類をさばきたもう時に必要になるのである。すなわち「各人の口ふさがり、世のこぞりて神の前に罪あるものとして認められん」(ロマ書三・一九)がために必要なるものである。そうして新しき天と新しき地とが現わるる前に「福音はまず万民に宣べ伝えられざるを得ず」(マルコ伝十三・十)とキリストは宣(のたも)うた。そしてこの日の一日も早く来たれかしと待ち望むがゆえに、吾人はこの世における結果のいかんにかかわらず、「時を得るも時を得ざるも」(テモテ後書四・二)努めて福音を宣べ伝うのである。(信十七・二十三)

9月13日(木)

そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなったことでした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかになく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとする子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」(マタイ伝十一・二十五〜二十七)

神の教えであるキリスト教は、了解(わか)って了解するものでない。信じて了解するものである。了解らないから信ずるのである。了解れば信ずる必要はない。そして了解ってしまって信ずるの必要なき宗教は、真の宗教でないから、了解る必要のないものである。宗教はもとこれ信ずべきものであって、了解るべきものではない。信ずればこそ、宗教に能力があるのである。キリスト教が神の教えである最も明らかなる証拠は、それが了解りそうで了解らないことにおいてある。その点において仏教は違う。仏教は了解る。ゆえに仏教徒は言う、仏教は宗教にあらずして、哲学であると。それゆえに、仏教は解しがたしといえども解し得ざるにあらず。されどもキリスト教は信ぜずしてはとうてい了解らない。我(が)を祈り、わが罪を言い表し、わが無知、無能、不善を認めて、神の前にへりくだりて初めてキリスト教のなんたるかが了解る。キリスト教は傲然(ごうぜん)としてこれをわがものとなすことはできない。嬰児(あかご)のごとき者となりて神の前に平伏して、彼に教えられて、その奥義に達することができる。(信十五・九十ニ)

9月12日(水)

愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである、ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(ペテロ第二書三・八〜九)

われ一たび罪を犯さんか、われは起(た)ちてわが父に行かん。われ再び罪を犯さんか、われは起ちてわが父に行かん。わら七たび罪を犯さんか、われは起ちてわが父に行かん。われ七たびの七十倍するまで罪を犯さんか、われは起ちてわが父に行かん。わが父の愛は無限なり。彼はわれの滅びんことを願いたまわず。彼はわれについて永久に絶望したまわず。ゆえに、われもまた自己について絶望することなく、かれの無限の愛を信じ、はばからずして今日起ちて彼に行かん(ルカ伝二十五・十八)。

9月11日(火)

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。(ガラテヤ書五・一)

ああ、キリスト教の自由よ!水に浸りしライデンの城中に、暗澹(あんたん)たる飢餓とスペイン軍の鋒槍(ほこやり)とに立ち向かいしものよ、スミスフィールドの火刑場に、たきぎの束をあざわらいしものよ、またバンカーヒルの頂に血潮を注ぎたるものよ、なんじはそも幾たびか、なんじの名を、滅亡(ほろび)より生まれサイレンやジュピターの好色の子に貸し与えたことであろう!ああ自由よ、なんじによって律法(おきて)の上に引き上げらるる前に、律法の尊厳を学ぶためにシナイ山に導かれしことなき人々に、なんじの名をみだりに授けることをさしひかえよ。なんじの喜ばしきおとずれは、いたずらに束縛をのがれんとする人々に与えらるるものではなく、おのれを律法に合致させようとひたすら務め、律法をおのれの意志としようとしてなんじの助けにあずかるところの、選ばれし神の子らに与えられるものであることを、われわれは信ずる。

9月10日(金)

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。(ヨハネ第一書四・一九〜二十一)

幸とは神に愛せらるる事であって、不幸とは神に捨てられることである。心の眼をもって神を見ることができて、彼をわが父と呼ぶことができて、われらは初めて真正の幸福の何ものたるかを知ることができる。これは一点の不幸の伴わざる幸福であって、貧福、盛衰の変遷のない幸福である。神に愛せられしわれらは、富んで一層深く彼の愛を知り、貧してまた彼の祝福を感ずることができる。神に愛せらるる事は、実に人生の幸福のすべてである。

9月9日(水)

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(ローマ書・一・一六〜一七)

秋は来たれり。われは旧(ふる)き福音に帰らん。すべての善き事を、人と天然とを離れて主イエス・キリストにおいて見る善き旧き福音に帰らん。これを最高道徳として見ることなく、進化の終局として考えうることなく、神の特殊の啓示として認むるわが旧き信仰に帰らん。われはこれをもってこの世に勝つを得たり。われはこれによって永生の希望を獲(え)たり。わがすべての歓喜はこれより来たれり。われは再びこれに帰りて、わが疲れし霊を息(やす)めん。

9月8日(土)

あなたに選ばれ、あなたがたに近づけられて、あなたの大庭に住む人は幸いである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みによって飽くことができる。(詩篇六十五・四)

信仰は人を無限の神につなぐものである。しかして神は道徳、知識、実力の本源であるがゆえに、彼に連なりて、人は能力の本源につらなるのである。ここにおいてか彼は規則をもっておのれを縛ることなくして道徳を維持するを得、愛の泉をおのが心の中に発見して、しいてみずから努むることなくして生命の水を他に供給し得るに至る。しかして道徳はおのずと彼よりわき出づるにとどまらず、彼の心霊は自由を得て、その結果として彼の知能までが著しく発達する。信仰は単に信仰としてとどまらない。直ちに自由研究の精神として現われ、科学と哲学の発達を促す。殖産これがゆえに起こり、事業これがゆえに挙がる。信仰のつえをもって堅き心の岩をたたいて、その中よりすべての善きものは出で来るのである。

9月7日(金)

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――このいのちが現われたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げしらせる。(ヨハネ第一書一・一〜三)

真理は聞いただけではわからない。実行(実験)して見て初めてわかる。すべての真理においてそうである。ことに信仰の真理において、そうである。「まこと」は事であって言(ことば)でない。最も確かなる真理は手をもって触れたる真理である。聞くのみにしておこなわざる者は、終生真理を解し得ずして終る。カーライルいわく「produce,produce(生産せよ、生産せよ)と。生産せずして、すくなくともまじめに生産せんと努力せずして、真理はわからない。おのが弱気を標榜して実行を避ける者は真理を解しえないまでである。読書または聴講をもって真理把握の唯一の道となす者は、終生真理を把握し得ずして終わる。イエスいいたまわく、「人もしわれをつかわしし者の旨に従わば(おこなわば)、この教えの神より出づるか、またおのれによりていうなるかを知るべし」(ヨハネ伝七・十七)と。キリスト教を自己に証拠立つる唯一の道は、これをおこのうにある。

9月6日(木)

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(ピリピ書四・六〜七)

たぶん祈祷にかかわる教訓にしてこれよりも完全なるものはあるまい。私はこれを最も常識にかなえる教えであるという。心配のことは大小にかかわらず神に告げよ、さらば平安なんじに臨まんというのである。なんじらの祈願ことごとく聞かるべしとはいわない。平安なんじらの心と思いを守らんという。かくして祈祷は祈祷以上に聞かるるのである。かつまた祈りは祈祷と願いと感謝であるという。祈祷は自己をむなしゅうして神にたよる心の状態である。願いは祈願である。そしてこれに過去の恩恵に対する感謝を加える。かくして完全なる祈祷が成立する。

聞かれる聞かれないの問題ではない。ただ神に告げるのである。知らすのである。さらば人のすべて思うところに過ぎる平安はキリストにありて信者の心と思いを守らんという。平安は心を占領して余念のこれを乱すこと無けんとのことである。

9月5日(水)

神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす。(ヨブ記三十三・四)

環境にあらず、聖霊である。環境はいかに完全であるとも信者を作らない。これに対して聖霊は、最も不完全なる環境の中より信者を作る。不信の現代人は、かれらのいわゆるキリスト教的環境を供することによりて、機械的にキリスト信者を作り得ると思う。されども彼らがかくのごとくにして作りし信者は少しも信者ではない。信者の真似事(まねごと)である。あたかも彼らの製造所が産する織物の断片(きれはし)のごときものである。金と設備と教育の方法によりて信者はできない。同時に、神はその聖霊をもって、伝道学校以外において、多くの真の信者を作りたもうた。

   霊はおのがままに吹く。なんじ、その声を聞けども、いずこより来り、いずこへ行くを知らず。すべて霊によりて生まるる者はかくのごとし(ヨハネ伝三・八)

とある。聖霊は環境のいかんにかかわらず信者を作る。そして今なお作りつつある。いわゆる影響、感化なるものは、キリスト信者を作るにあたって、そのなすところ、いたって僅少である。(信九・一五二)

9月4日(火)

イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四ヶ月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる」。(ヨハネ伝四・三十四〜三十七)

ああ、余は神に感謝す、余はたとえ一年なりとも、しかり、一日なりとも、福音宣伝の快事に従事するを許されしを。余の未来は消滅であろうが、あるいは地獄の火であろうが、余がつぶやくべきではない。余はすでに「うるわしき記憶」をいだく者である。福音宣伝の記憶をいだく者である。そうしてこの記憶は余にとりて永久の宝である。天の高さにのぼろうが、地の低きにくだろうが、余の霊魂を離れざる宝である。余はすでに報賞(むくい)を獲(え)たる者である。なおこの上に望むべきではない。伝道そのものが大なる快楽であって大なる報賞である。われはすでに報いを得たる働き人である。

9月3日(月)

そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしがかなしませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。このようなことを書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである。私自身のよろこびはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである。わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、しってもらうためであった。(コリント第二書二・一〜四)

余はかって聞けり、東洋諸邦に文通なるものなしと。文通とは、その文字のとおり単に報告の取りかわしをいうものにあらず。英語のコルレスポンデスに反応の意あり。すなわち、われ彼を愛して彼われに応ずるに同一の愛をもってするの意なり。愛の反応これ文通の意なり。吾人は書簡をもって周囲の出来事を吾人の友人に通ぜんとせず。これ新聞紙のなすところなり。吾人はまた書簡によりて新知識を吾人の友人より得んとせず。これ書籍のなすところなり。吾人は書簡によりて吾人に対する友人の愛情を知らんことを欲す。これ書簡の貴きゆえんなり。愛心のなき所には書簡はあらざるあんり。書簡は愛心のあふれて文字となりしものなり。もし世に愛の福音なるものあらば、これ書簡文を除いて他にあらざるべし。


9月2日(日)

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起こすことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と呼ぶ声は再びその中に聞えることはない。(イザヤ書六十五・十七〜十九)

秋は来た。涼しき秋は来た。

秋の涼しきは、夏の暑かりしがゆえに一層快くある。夏を涼しく暮らした者は、秋の涼しさを感謝すること、いたって少なくある。

そのごとく、天国(みくに)の楽しさ、現世(このよ)の苦しかりしがゆえに一層楽しくあるであろう。現世を楽しく送りし者は、天国の楽しさを感ずること、いたって少なくあるであろう。

9月1日(土)

わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、私に大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束もかれらのもの、また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむげきかな、アーメン。(ローマ書九・一〜五)

私どもにとりましては、愛すべき名とては天上天下ただ二つあるのみであります。その一つはイエスでありまして、その他のものは日本であります。これを英語で申しますれば、その第一はJesusでありまして、その第二はJapanであります。二つのJの字をもって始まっておりますから、私はこれを称してTwo Jsすなわち二つのジェーの字と申します。イエス・キリストのためであります。日本国のためであります。私どもはこの二つの愛すべき名のために、私どもの生命をささげようと欲(おも)う者であります。