一日一生(内村鑑三)続「一日一生」(教文館)より


注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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一月 二月 三月 四月 五月 


6月の初めに

あるいは出て野を耕し、あるいは入りて筆を執る。わがなすところ小にして人に知られず、されども、われにもし謙遜(へりくだ)りたる祈祷の心あらんか、われは神と共に働きつつあるなり。その時、われは宇宙と共に運転し、万物と共に進化す。その時、「もろもろの星はその軌道にありてわが敵を攻め」(士師記五・二〇)、山と岡とは声を放ちてわれに味方す。われはひとり神と共にありて、大軍を指揮して世に勝ちつつあり。(信七・一四三)

6月30日(金)

正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。(箴言四・一八)

始めは小なるも可なり。終りの大ならんことを欲す。始めは悲しむも可なり。終りに喜ばんことを欲す。始めに羞恥あるも可なり。終りに名誉あらんことを欲す。始めに家なきも可なり。終りに住みかなきをいとう。しかして神はおのれを愛する者を、始めに苦しめたもうといえども、終りにには「笑いをもて彼の口を満たし、喜びを彼のくちびるに置きたまう」(詩篇一二六・二)べし。羞恥に始まって栄光に終り、十字架に始まって復活昇天に終る。「義者の道は旭日のごとし。いよいよ輝きを増して昼の正午(まなか)に至る」。願わくはわれもその恩恵にあずからんことを。(注四・八六)

6月29日(日)

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。(ガラテヤ書六・九〜十)

働けよ。働けよ。報酬を得るあたわずといえども働けよ。もし報酬を得るあたわずば、働いて報酬を得るの権利を得よ。さらば報酬はついに与えらるべし。また、はばからずして報酬を要求し得るに至るべし。報酬の約束せらるるまで待って、事は成らざるべし。報酬は得られざるべし。報酬は労働に伴うものなり。その、いつ、何びとによりて与えらるるかは、われらの干与するところにあらざるなり。(信八・一二七)

6月28日(土)

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれがわたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、かみの右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(ローマ書八・三一〜三四)

キリスト教は情性を過敏ならしむるがゆえに、悲哀を感ぜしむる、また従って強し。されども真理は過敏の情性を練り、無限の苦痛の中より無限の勇気を生むものなり。(信一・一八)

6月27日(金)

よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。(イザヤ書五二・七)

人のために伝道せよ。彼に肉情的の快楽を与えんがためならずして、彼の霊魂を救わんがために、なんじが神に恵まれしごとく彼も神に恵まれんがために、彼に神霊の宿るあれば、神にささぐべきものはこれを彼にささげよ。これ迷信ならざる偶像崇拝なり。これ人情的の一神教なり。この伝道に歓喜と情熱とあり。この伝道に迫害と争乱とあるなし。これ余輩の称してもって真正なる伝道の精神となすものなり。(信一・一九七)

6月26日(木)

試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。そえを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟達よ。思い違いをしてはいけない。(ヤコブ書一・一二〜一六)

試練は人生の付きものである。試練のない人生とてない。主イエスにあった。われら各自にある。試練は意志の選択の試みである。より高きものとより低きもの、肉と霊、来世と現世、神とこの世、キリストとサタン、いずれも明白なる対照物であって、人という人、信者と言う信者は、いつか一度は、しかり、幾度も、二者いずれを選ぶかと試みらるるのである。そして上なるものを選びし時に上り、下なるものを選びし時に下る。人生の成功と失敗はこの選択いかんによりて定まる。かくのごとくに見て、人生は試練の連続である。人生これ試験ある。及第か落第か。試験地獄はこれを人生そのものにおいて見るのである。(注一四・一四三)

6月25日(水)

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれのかなしみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ書五三・四〜五)

最も偉大なる事は、人に勝つ事にあらず、人に負けることなり。彼にわが場所を譲る事なり。その下に立つ事なり。喜んでその侮辱を受くる事なり。つばきせられて十字架につけらるる事なり。かくなし、かくなされて、われは初めて神の心を知るを得るなり。まことに高き者は低くせられ、低き者は高くせられる。われら、神に高くせられんと欲すれば、人にひくくせられざるべからざるなり。(信八・一三三)

6月24日(火)

「主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたにもとめられることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。(ミカ書六・七〜八)

宗教とは寺院ではない。教会でもない。規則でもない。儀式でもない。また経文でもない。聖書でもない。宗教とは永久的生命である。あるいは、この生命を自己に摂(と)ることである。この生命とその摂取がなくして宗教はない。宗教がこれであるとすれば―これでなくてはならい―伝道の何たるかは明白である。伝道は単に道を説くことではない。説教これ伝道なりと思う世間普通の宗教家は、宗教の「いろは」をもしらない者である。伝道とは教勢拡張ではない。社会改良ではない。国家救済ではない。洗礼ではない。晩餐式ではない。伝道とは―その文字がはなはだ人を誤りやすい―霊的生命を他に供することである。その自覚而下的自我を養うことである。宗教とは、政治、経済、医術と同じく、明白なる目的を持ったる明白なる事業である。これは単に歌と弁舌とをもってする老若男女の慰安術ではない。これは曖昧模糊(あいまいもこ)を本領とする夢想家のたわごとではない。これは実物をもって実要に応ずる確実なる事業である。(信一七・一五)

6月23日(月)

そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがパプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。{これにたいして、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、うけてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。}そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にパプテスマを授けた。ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。(使徒行伝八・三五〜三九)

信仰の告白の方法は一つにして足りない。もちろん言葉をもってするのみが唯一の告白でない。行為をもってする告白は言葉以上に強くある。しかも告白の意味を明らかに示す行為たるを要す。何びとが見ても「私は、イエスの弟子たるを恥としない」という意味の行為たるを要す。この意味において、パプテスマはもっとも善き信仰の告白である。パプテスマは不信の世に対す信仰告白の方法と見て甚大の価値がある。これは言葉と行為をもってする信仰の告白である。これを受くるに確信と勇気とがいる。わが国のごとき国柄において、ある種の迫害は、判然たる信仰にともなうが普通である。そしてこの意味からしてパプテスマは、多くの信者の信仰の確立ならびに上達を助けたのである。教会に入るための儀式のパプテスマは断然これを拒否するも、信者相互によって授けらるる信仰告白のためのパプテスマは、これを貴きさだめともとめざるを得ない。(注八・二○八)

6月22日(日)

イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現われた。百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非情に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。(マタイ伝二七・五○〜五四)

人の死は何びとのそれも厳粛である。これに超自然的なる、神秘的なるところがある。人は死に臨んで、ただの動物でない。また知能的機械でない。いかに冷静なる人といえども、死に面しては霊的である。感情的たらざるを得ない。人は死に臨んで無限の世界に直面する。自己は死して死せざる者なるを直感する。人の死ほど、厳粛なる、おそれ多きものはない。われら、愛する者の死の床にはべりて、霊の世界にありて神の前に立てるがごとくに感ずる。「人のまさに死なんとする、そのいうや善し」にとどまらない。そのさまや聖しである。人の息の絶ゆる所に、神はその天使を率いて臨在したもう。浮薄きわまる人の世も、死が見舞う所だけは厳粛である。神聖である。(注一五・二六九)

6月21日(土)

御子を持つ者はいのちを持ち、御子をもたない者はいのちをもっていない。(ヨハネ第一書五・一二)

イエスを信ずるものは幸福なり。イエスを信ぜざるものは不幸なり。生命(すべての幸福の基なる)はイエスにおいてあれば、彼を離れてまことの幸福はないのである。また彼にありてすべての幸福はあるのである。イエスを信ずるを得て、知識あるも幸福である。知識なきものも幸福である。富めるも幸福である。貧しきも幸福である。ひとりあるも幸福である。多くの人とともにあるも幸福である。家庭の楽しきも幸福である。家庭の楽しからざるも幸福である。幸福のもとなる生命をおのれに持つがゆえに、境遇のいかん、所有の有無にかかわらず、すべての場合において幸福である。(注五・一九九)

6月20日(金)

そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え」。「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ伝一五・二九〜三四)

救わるるとは、救われないことである。他人(ひと)を救い得て自分を救い得ないことである。窮迫である。孤独である。社会に排斥せられ、教会に嫌悪(けんお)せらるることである。祭司と監督と、パリサイ人と教会信者とに十字架につけらるることである。イエスと運命を共にすることである。エリ、エリ、レマ、サバクタニの声を発しながら死につくことである。かくて、救わるるとは恐ろしいことである。しかしながら、人たるの栄誉の絶頂である。(信七・二六○)

6月19日(木)

主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。直く歩み、義を行い、心から真実を語る者。(詩篇一五・一〜二)

誤解せられざることは不可能である。この世はもとより誤解の世である。ゆえに、いかなる真理、いかなる人たりといえども誤解せらるるが当然である。主イエス・キリストが誤解せられた。パウロが誤解せられた。ルーテルが誤解せられた。しかして今なお誤解せられつつある。彼らは世人によってのみならず、彼らの弟子と称する者らによって誤解せられた。また今なお誤解せられつつある。われら、よし完全の人たるを得、完全の真理を宣(の)べ伝うるを得るとも、世の誤解をまぬかれないのである。されば誤解を恐れずして進むべきである。時をえるも時を得ざるも、真理と信ずる事を大胆に唱えて進むべきである。社会の誤解、教会の誤解、信者の誤解、不信者の誤解…彼らは人である。ゆえに正当に人を解することができない。「われをさばく者は主なり」(コリント前書四・四)である。世に愚人多しといえども、世の誤解を恐るる者のごときは愚人ではない。しかもかかる愚人ははなはだ多いのである。われ自身がややもすればかかる愚人となるのである。警(いまし)むべきである。(信一八・一六八)

6月18日(水)

あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。(詩篇五五・二二)

われらの身に付随して難問題がたくさんあります。そうして、われら自らこれを解釈せんと欲して、ときには非情に苦しみます。しかし、これ神を離れて解釈さるべきものではありません。これ神の知恵と能力(ちから)とを意識せんためにわれらに供えられた問題でありまするゆえに、私どもは、その私どもに供えられし目的にかない、神にいたり、神の知恵と能力を借りて、その解釈を試みるべきであります。そうすれば、いかなる難問題でも、やさしく解けまして、私どもは困難よりまぬかるると同時に、神を知ることますます深きに至ります。人生の問題は、私どもの信仰を増すために与えられるものであります。それゆえにわたしどもはひとりでこれを解釈しようとしてはなりません。「なんじら、われを離るる時は何事をもなすあたわず」(ヨハネ伝一五・五)とキリストは教えられました。(信八・二三)

6月17日(火)

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅びゆくまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなれれば、決して天国にはいることはできない。(マタイ伝五・一七〜二十)

キリストは破壊者にあらず。完成者なり。完成者なるがゆえに破壊者のごとく見ゆるなり。破壊するための破壊者あり。完成するための破壊者あり。前者は真正の破壊者にして、後者は真正の建設者なり。しかしてキリストはかかる建設者たりしなり。

よくものの精神を発揮するものは、そのものを不要ならしむ。これそのものを廃してにあらず。その目的を達せしめてなり。殻は芽をまもるに要あり。されども幼芽すでに根を地中に張って、殻はおのずから不要に帰す。殻は殻として貴まざるべからず。されども殻は永久にそんすべきものにあらず。芽を殻の破壊者と見るは否なり。芽は殻の破壊者にあらず、その完成者なり。(註八・八七)

6月16日(月)

あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉れとを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。(詩篇八四・一〇〜一一)

神の恩寵を、この世の幸福または成功において見るほど、間違(まちが)いたる見方はない。そう見るがゆえに、われらはたびたび神を疑い、彼を見失わんとうるのである。神が人に賜う最大の賜物(たまもの)は、幸福ではなくして聖霊である。聖霊によって起こる善心である。神と人とを愛し得る心である。いかなる境遇に在(あ)るも満足する心である。人のすべて思うところに過ぐる平安である。そしてこれらは、神が聖霊をもって直ちに人に賜う恩恵の賜物であって、身の幸福または事業の成功を離れて、しかり、多くの場合においてはこれに反して、賜う賜物である。幸福は、有りてもよく、無くてもよきものである。無くてはならぬものは善心である。これさえあれば、他は何が無くともよいのである。人生の目的は善心獲得にありと言うて可なりである。(信一六・一九七)

6月15日(日)

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。(ヨハネ伝一三・三四〜三五)

われら一堂に集まり、食膳を共にしまた祈祷を共にす。主イエスはわれらと共にいましたもう、しかして彼はむかしその弟子たちにいいたまいしごとくに今またわれらにいいたもう、「もしなんじらわれを愛するならば、わが戒めを守れ」(ヨハネ伝一四・一五)と。これ峻厳なる律法の命令ではない。柔和なる福音のさとしである。しかり、愛の懇願である。われらいま肉において主をみることができない。また彼に仕えまつることができない。しかしながら彼の言葉に従いて愛したもうわれらを相互に愛することができる。われら相互に愛して彼を喜ばしまつることができる。主イエスがわれらより要求したもう奉仕にしてこれより大なるものはない。(注一〇・二一九)

6月14日(土)

さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。かれらは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさいあなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐ網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟のなかで網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。(マタイ伝四・一八〜二二)

福音もとより万人に対するものなりといえども、なかんずく特にいかなる人々に適するか。いわく常に人生の事実をもって問題とし、しかも独立の地位を確保せる人々である。頭脳をもって思索研究にふける人々ではない。また他人に使傭せらるるにあらざれば衣食するあたわざる人々ではない。手をもって日々の労働に従事し独立の生業にいそしむの人、かかる人が最も福音の性質に合体するのである。ゆえにもし今日キリストわれらの間に来たりたまいて、彼が福音をゆだぬべきものはたれぞと選びたもうならば、やはり同じことをなしたもうであろう。彼の選定に入るものは必ず独立の地位を維持せる実行的方面の人であろう。キリスト教のgenius(向き)がかしこにあらずしてここにあるのである。ペテロ、ヨハネらをもって代表せられし人々が最もよく福音を受くるに適しているのである。(注九・八九)

6月13日(金)

良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。(ルカ伝八・一五)

日本国のごとき不信国においては、キリスト教の信仰を維持する事だけが、伝道的に見て一大事業である。べつに教会をおこすに及ばない。多数の信者を作るに及ばない。宗教的大著述をなすに及ばない。一たび受けし信仰を勇敢に頑強(がんきょう)に守り通す事だけが大なる伝道事業である。日本国において純福音を信じ通すことは至難の業である。その事は、一たび信仰に入りし者にして、千人はわれらの左に倒れ、万人はわれらの右に倒れ(詩篇九一・七)しによってわかる。ことに教会または外国宣教師等、外来の援助にたよることなくしてキリスト教の信仰を守り通すことについて神に感謝すべきである。あるいは三十年、あるいは四十年、あるいは五十年、この社会の冷淡、嘲笑(ちょうしょう)、反対の中にわが信仰を維持することを得て、われらは善き伝道をなすべく許されたのである。あえて他に伝道事業を企てる必要はない。内にたいして明白に、外に対しては独立に、一生信仰を守り通して、われらはそれでけにて善き伝道師たりえたのである。(信一七・一三三)

6月12日(木)

まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。わたしは、祈りのたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。(ローマ書一・八〜一二)

宗教を公的にのみ見る危険があると同時にまたこれを私的にのみ解するの危険がある。しかしながら宗教は私的に始まって公的に終るべきものである。完全なる信仰は円形ではない。楕円形である。自と他との二点を中心としてえがかれたるものである。自己を中心となさなければならない。しかし自己のみでは足りない。他をもまた中心となさなければならない。キリストによりて救われし自己が同情的に世界的に拡大して、われは初めてキリストの救いを実得することができるのである。(注一一・一四七)

6月11日(水)

さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散し、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。(ヨハネ伝二・十三〜十七)

キリスト教は罪を憎むものであります。その拝する神は愛のかみであると同時に、しかり、愛であるゆえに焼き尽くす火であります。汚穢に堪え得ない神であります。ゆえに正当の理由なくしては、「罰すべきものをば必ずゆるすことをなさざるもの」(ナホム書一・三)

神は自由に人の罪をゆるします。というのは、無条件にてゆするとの謂いではありません。キリストを信ずるものを自由にゆるすとの謂いであります。すなわち信仰を義としてゆるすとの謂いであります。神は罪を問わずしてわれらをゆすしたまいません。キリストの十字架がわれらの罪の極端の問責であります。われらが十字架を認むるとは、われらの罪の極悪を認むることであります。(註一〇・一二四)

6月10日(火)

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益をもとめるべきである。(コリント第一書一○・一三〜二四)

他人の益を求むる、これクリスチャンの生涯である。彼はこれによりておのれをしばるのである。クリスチャンは奴隷の身分よりあがなわれ、もっとも自由の身となりたるものなれば、天下を闊歩し得るとともに、また実はクリスチャンほどしばらるるものはない。彼は一々他人のことを思わざるを得ないのである。人の母となりたるものは、このためにみずから自己をしばることのいかに多きかを実験する。クリスチャンは何事をも神と兄弟との立場より考えうるのである。ここに至って、絶対の自由は絶対の束縛となるのである。律法より脱出して、より高き律法に入るのである。これすなわち愛の律法である。(註一二・九○)

6月9日(月)

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたをやすませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みがあたえられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ伝一一・二八〜三〇)

神を信ずるまでは行路難を歎ずるなかれ。神を信じて人生の行路はいたって易(やす)きものとなるなり。われをわが神にゆだねて、われのなすべき事はわれによりて成り、われを去るべき友は遂(お)わずして去り、われに来たるべきの友は尋ねずして来たり、われの失うべきものは失(う)せ、われの得るべきものは求めずしてわれに来たるに至らん。キリスト信徒の生涯は一種の自動的機械なり。彼はただ神を信ずれば足りる。さらば神は彼のためにすべての事をなしたまわん。頌(ほ)むべきかな。(信八・二○)

6月8日(日)

わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。(エペソ書一・七〜九)

罪のゆるしは、全能の神ならではなすあたわざる事である。人も天使も、罪をゆるすことはできない。人は罪をゆるすというは、暫時これを忘れただけであって、これを無きものとしたのではない。少しの刺激に会えば直ちに復活するものである。キリスト教で言う罪のゆるしは、罪の絶滅である。罪を十字架につけてこれを殺した事である。神が罪てふものを全然その御心より撤去したまえりという事である。そしてキリスト信者はその意味において罪のゆるしを信ずるというのである。驚くべき、信ずるに最も難き事である。されどもこれは事実である。神はキリストにありてこの事をなしたもうたのである。これは説ではない。むりに信ぜねばならぬ信仰箇条でない。実験しえらるる事実である。罪のゆるしは罪のゆるしであって、その説明いかんにかかわらず、あまたの人たちによって的確(たしか)に実験せられし事実である。神のみが人の罪をゆるすことができる。罪のゆるしは最大の奇蹟である。(信一二・七六)

6月7日(土)

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。(ヨハネ伝四・一四)

神の言は日光のごとき、また雨露のごときものである。これは常に照り、絶えず降るものである。これは時を限りて大々的に人に臨むものでない。間断(たえま)なく世を温(あたた)め、また、うるおすものである。そうして伝道はこの方法によって神の言を世に供するものでなくてはならない。すなわち静かに、なるべくは言わず語らずして、時を得るも時を得ざるも、間断なく生命の水を世に注ぎ、生命のパンを人間に与うるものでなくてはならない。そうして、かかる伝道に失望しない。成功は必ずこれに伴う。これは信仰と忍耐とを要する事業である。目前の成功を期して従事すべき事業でない。(信一七・四九)

6月6日(金)

あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現われたのである。あなたがたは、このキリストによって、彼を死人のなかからよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかているのである。(ペテロ第一書一・一八・二一)

愛することではない。愛されることである。義たることではない。義とせらるることである。神に愛され義とせられて、おのずから、愛し、義たり得るに至るのである。愛たり義たり、外から見れば同じであるが、内からみれば全然違う。神の義(ロマ書一・一七)は、神より出でて信者に臨む義であって、信者が義務に強(し)いられて自らおこなう義でない。神の愛もまた同じである。信仰の義と愛とである。神を仰いで、これを受けて、他に向って反射する義と愛とである。「神の満ち足れる徳は、ことごとく、かたちをなして、キリストに住めり」(コロサイ書二・九)としるさる。いつくしみと、まことと、義と、平和とは、キリストにありて接吻した(詩篇八五・一〇)。われらはキリストを仰いで、同時に義たり得るのである。(信一六・四三)

6月5日(木)

わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。(エゼキエル書三六・二六〜二七)

自由とは、人より何の束縛をも受くることなくして、わが身を神の自由にゆだぬることなり。独立とは、人に由(よ)らずして、直ちに神と相対して立つことなり。神に使役せられんための自由なり。神と、顔と顔を合わして語らんための独立なり。クリスチャンの自由独立とはかくのごときものなり。(信八・七六)

6月4日(水)

だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ち返りなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。(使徒行伝三・一九〜二○)

「悔い改め」は、新約聖書中の深いことばである。ただに罪をくいてこれを改むることでない。原語のmetanoiaは心意一変の意味である。人生観の一変と解してまちがいなかろう。イエスのおん父なる真(まこと)の神をしらずして、人生観全部が誤っているのである。ゆえに心を変えて福音を信ぜよというは、福音を信じて心を変えよというと同じである。イエスは万物の見方を一変せよと教えたもうた。彼はただに心(ハート)を新たにせよとのみ教えたまわなかった。万物の見方すなわち意(マインド)を変えよと告げたもうた。ここにおいて、いわゆる「悔い改め」は単に情のことでなく、また知識のことであることがわかる。悔い改めは、万物を見る心眼の一新である。「福音を信ぜよ」。神のみ心をあらわしたるそのことばを信ぜよ。神が万物を見たもうそのことばを信ぜよ。神が万物を見たもうその見方をもって見よ。神と心意を共にする者となれよ。(注一五・三三)

 

6月3日(火)

まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう。(アモス書三・七〜八)

すべて真理を語る者は預言者である。預言なくして真理の解得はない。人が人である間は、預言は必要にして欠くべからざるものである。預言は警告である。警告は審判を避くるためにのみ必要でない。審判の臨みし時に、これを神の審判として悟り、これによりて悔い改めて救わるために必要である。預言のなき所には審判は単に災難として解せられて、その内に神の義(ただ)しき善き聖意を認め得ない。ゆえに審判はただ憂いを来たすにとどまり、パウロのいわゆる「悔いなき救いを得るの悔い改め」(コリント第二書七・一○)に至らしめない。それであるから、預言者を持つ国も人もさいわいなのである。(注七・一一八)

6月2日(月)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結はないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。(ヨハネ伝一五・一〜五)

祈祷の人とは、祈祷をする人ではない。祈祷をもって事をなす人である。さらに進んで、祈祷をもってするにあらざれば何事をもなすあたわざる人である。祈祷をもって学ぶ人である。祈祷をもって働く人である。祈祷をもって戦う人である。すなわち自己の力をもってせずして、神の力をもって万事をなす人である。(信一六・二二一)

6月1日(日)

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集っていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同すわっていた家がいっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現われ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒行伝二・一〜四)

5月の初めに

遠き太古のことにあらず。新緑五月の春の野なり。天地は新たに造られて、栄光、全地に満つ。神の霊、こずえを払い、翼を持てる者、みぎわに下る。緑蔭涼しき所に神の声聞こゆ。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主と、セラピム、ケラブムは飛びかけりつつ歌う(イザヤ書六章)。誰か言う、地はすでにのろわれたりと。新緑、山野をおおう時に、余輩はその決して、しかあらざるを知る(創世記二〜三章)。(信八・三〇六)

5月31日(土)

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか、主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることがない。(イザヤ書四〇・二八〜三一)

キリスト教は霊的宗教である。キリストはわが霊魂の救い主である。わが繁栄の城は地でhない。天である。かく言いて、われらはもちろん好んで短命に終るべきではない。使徒ヨハネはよく百歳の寿を保ちて、最も霊的の生涯を送り、最も霊的の福音を伝えた。要は肉に死して霊に生きるにある。地上におけるわが事業の成功を期せざるにある。人の称賛をしりぞくるにある。常に理想を追うにある。終りまで青年の希望をいだくにある。好んで逆境に立つにある。成功に臨んでは、さらに高き理想を求めて生命の固定を避けるにある。この世とその勢力にたいしては常に戦闘的態度に立つにある。生命は流動する。凝縮しない。生命は抵抗す。征服せられない。願わくは恩恵ゆたかにわれらに加わりて、われらもまた永久に老いず、神の若き子供として存せんことを。(信二〇・二六八)

5月の終りに

桶職(おけしょく)

一、 わたしはただ桶を作る事を知る

そのほかの事を知らない

政治を知らない、宗教を知らない

ただ善き桶を作る事を知る

二、 われはわが桶を売らんとて外に行かない

人はわが桶を買わんとて、わがもとに来る

われは人の、われについて知らんことを求めない

われはただ家にありて、強き善き桶を作る

三、 月は満ちて、また欠ける

年は去りて、また来たる

世は変わり行くも、われは変わらない

わらは家にありて、善き桶を作る

四、 われは政治のゆえをもって人と争わない

わが宗教を人に強(し)いんとしない

われはただ善き強き桶を作りて

独り立ちて、はなはだ安泰(やすらか)である  (信二二・三五六)

 

5月30日(金)

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである、しかし、もし死んだら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。(ヨハネ伝一二・二四〜二五)

人を助けんとするにあたって、外よりこれを助くるなかれ。内より助けよ。彼自身となりて助けよ。すなわち彼に、人に助けらるるの感を起こさしめずして、彼を助けよ。これ真正の虚心たるなり。キリストがおのれを虚(むな)しゅうしたまえりというは、この事をいうなり。彼は聖霊として人を助けたもう。すなわち彼を愛する者の意志となりて彼らを助けたもう。われらは彼に助けらるる時に、彼のわれらを助けつつありたもうを知らず。われら自身、おのれを助けつつありと思い、後に至り、回顧して、彼のわれらを助けたまいしを悟るなり。かの、援助を口にし、これをもたらして人に臨む者は、真に助くる人にあらず。まず自己を人に与うるにあらざれば、真正に彼を助くるあたわざるなり。(信八・一二六)

5月29日(木)

主の怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがらなきなかしんでも、朝と共に喜びが来る。(詩篇三○・五)

苦しみは人生になくてはならぬ必要のあるものであります。苦しみによりて人は神と共になるに至ります。肉において死して霊において生くるに至ります。すなわち永生をおのがものとなすに至ります。そしてこのことを知って、苦しみが人生より絶えないわけがわかります。苦しみのない世界…それは実にたえられない世界であります。神をしるは永生(かぎりなきいのち)であります。そして神がそのひとり子をもって私どもと共に苦難を分かってくださって、私どもは神を知りつつ永生に入るのであります。苦しみはこれを除かれんと願わず、これに堪え、また勝つ道を取るべきであります。そしてその道はキリストの福音においてあると信じます。(注六・九七)

5月28日(水)

こうして彼らの足をあらってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、または主と呼んでいる。そう言うのはただしい。わたしはそのとおりである。しかし、主でありまた教師であるわたしが、あなたがたの足をあらったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである。わたしが、あなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手千本をしめしたのだ」。(ヨハネ伝一二〜一五)

国に尽くさんと欲せば、必ずしも政治または軍事に携わるの要はない。社会に仕えんと欲せば、必ずしも社会事業に従事するの要はない。われに賦与されし能力(ちから)に応じ、わがなすべき事を忠実になせば、それ以上の愛国的な行為はない。また社会的事業はない。レンブラントは善き絵を描いて、オランダ国の名を世に揚げた。ワーズワースは善き詩を作りて、英民族の風儀を一変した。奉公の道は一にして足りない。美術も音楽も作詩も説教も、忠実にこれをなせば、国を興し民を化するの事業である。必ずしも議会の壇上に登るに及ばず。ひとり書斎にこもり、考え方を万世に垂(た)るることができる。必ずしも慈善事業に従事するに及ばず。教壇に聖書を講じて、慈善以上の大慈善を施すことができる。わがなすべくこの世におくられし事を忠実になして、われは国家を益し、社会を改め、しかり、全宇宙を動かすことができる。願う、静かにして、運動また宣伝の手段を用いずして、小にして大なる愛国者または改革者たらんことを。(信二四・二四六)

5月27日(火)

神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。(詩篇五一・一〇〜一二)

人、もしキリストに接して、彼の暗き罪を照らされ、堪えがたきほどまでにその苦痛を感じ、彼は永久に滅ぼされるべきものではあるまいかと、みずから疑う時に、その人は幸いにして滅びの子でないことを悟るべきである。彼が罪の苦痛を感ずるのは、罪が彼を去りつつあるの徴候である。

 これに反して、キリストに接して、彼にうたれんとせすして、彼を用いんとし、彼に救われんことを求めずして、彼をもって世を済度せんことを欲し、自己の罪に泣き得ずして、他人の罪をのみ指摘し得るにいたる者は、これ危険なる階級に属する者であって、われらの注意すべき人物である。ひっきょうするに、善人は、自己を悪人と認むる者であって、悪人とは、自己を善人なりと信ずる者である。(信一四・四九)

5月26日(月)

 

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。(ローマ書八・一二〜一四)

キリスト教は禁欲主義にあらず。もちろんその反対に放縦主義にあらず。しかり、死せる主義にあらず。生ける生命である。肉の生命に代うるに霊の生命をもってする道である。肉におらず、その支配を受けず、これをして自己の上に王たらしめざる教えである。しかして肉を殺すに律法の戒めをもってせず、霊の権能(ちから)をもってする。ゆえにいう、「もし霊により体の行為を滅ぼさば生くべし」(ロマ書八・一三)と。患難苦行してではない。「霊によりて」である。

 この道たる、決して曖昧(あいまい)不徹底なるものではない。最もよく常識にかない、有効的にして永続する道である。常に信仰によりてイエスを仰ぎ見て、その報賞として聖霊を賜り、その指導に従って歩む。かくのごとくにして、肉は適宜に支配せられ、一方には禁欲に至らず、他方には放縦にながれない。(注一七・三八)

5月25日(日)

この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。(ヘブル書一三・一四)

われは後ろを見ない。前を見る。過去を顧みない。未来を望む。前へ前へと限りなく進む。ただこの一事を努む、すなわち後ろに在(あ)るものを忘れ、前に在るものを望み、神がキリストによりて上へ召して賜るところの褒美(ほうび)を得んとて、目標(めあて)に向かいて進む(ピリピ書三・一四)。

われは下を見ない。上を見る。地を見ない。天を仰ぐ。われは星を見る者(スター・ゲーザー)である。わが国は天に在る。われは、わが救い主イエス・キリストの、そこより降(くだ)り臨(きた)るを待つ(同三・二〇)。

われは人を見ない。神を見る。われは人の批評に耳を傾けない。われはわが霊魂を、義をもってさばきたもうわが造り主に任せ奉る(ペテロ前書二・二三)。

われは自己(おのれ)に省みない。イエスを仰ぎ見る。自己に生きんとしない。われを愛して、わがためにおのれを捨てし者、すなわち神の子イエスを信ずるによりていきんとする(ガラテヤ書二・二〇)。(信一六・一八七)

5月24日(土)

だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。(マタイ伝一〇・三二〜三三)

恩恵に富みたもう神は、われらの信仰を確実にせんがために、ときどき信仰表白の機会をわれらに供したもう。しかしてわれらこの機会を利用し、人の面をおそるることなく、大胆にわれらの信仰を世の人の前に表白して、われらはわれらの眠らんとする信仰を醒まし、わららの死なんとする霊魂を生かすのである。されどもこの機会を供せらるるや、大難のわが身に臨みしがごとくに感じ、おそれおののき、なにかつまらなき理屈に訴え、口をつむいで語らざらんか、その結果はただちにわれらの品性におよび、熱心は冷え、霊魂は萎え、ついに、ありしわずかばかりの信仰までを失うに至る。じつに信仰の危機とはかかる場合である。この時にあたって「キリストを知る」といのと、「知らず」というのとによって、われらの永遠の運命は定まるのである。(注八・二一三)

5月23日(金)

 エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。(創世記五・二一〜二四)

人生は短くある。しかも完全である。そのもの自体としては完全でない。されども完全なる生涯に達する準備としては最も完全である。大学校としては完全でない。されどもこれに入るための予備校としては完全である。その歓喜と悲哀、成功と失敗、会合と離別、和親と敵対、熱き涙と耐えがたい苦痛、これみなわれらを完成するために必要である。現世のための現世にあらず、来世のための現世なることを示されて、われらは現世に生れ来たりしことを悔いず、また生涯の短きことを悲しまない。われらは詩人ゲーテにならいて、「この歓喜と悲哀とは何のためなるか」と言いて歎かない。われらに臨みし歓喜と悲哀とはことごとくその目的を達した。われらはこれによりて幾分なりとも神を知り得た。幾分なりともキリストの満ち足れる程度にまで達した(エペソ書・一三)。われらは過去を顧みて悔恨はない。ただ感謝あるのみである。すべての事は働きて益をなした。この短き人生は、限りなきキリストの国にわれらを導き入れるためになくてならぬものである。(信二〇・二五九)

5月22日(木)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。(ガラテヤ書五・二二〜二三)

確信欠乏して吾人に気骨なし。寛裕欠乏して吾人に雅量なし。二者は真理の両面なり。反体性のごとくにして、同一物の両性なり。完全な宗教は両面の発達にあり。吾人は、おのれに足りて人を恕(じょ)すべし、真理は宇宙大なり、われ一人のおおうべきにあらず、されども、われも宇宙の一部分なり、われの立つ所はわれの有なり、他人をしてこれを侵さしむべからず。これ實裕の哲理なり。(信二三・六〇)

5月21日(水)

あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが幡祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神のうけられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた心をかろしめられません。(詩篇五一・一六〜一七)

信者は神に何ものをかささげなくてはならない。されども何をささぐべきかは、最大の注意を要する問題である。「神のもとめたもうそなえものは砕けたる霊魂(たましい)なり」である。ゆえにそなえものはこの霊魂を代表するものでなくてはならない。砕けたる霊魂、自己に何の善きことをもみとめずして、「ああ、われなやめる人なるかな。この罪の体よりわれを救わんものは誰ぞや」(ローマ書・七・二四)と叫ぶこころ、この心を代表するものが羊である。焼きつくす正義の前におのが身を投げ出して、そのゆるしを乞うの態度は、もっとも明白に羊の初生の犠牲においてあらわるるのである。アベルにこの心があった。カインにこの心がなかった。カインにあったものは義務の観念、責任の観念、奉仕の観念であった。これももちろん貴き観念であったが、もっとも貴き観念でなかった。神はアベルにおいて自己をむなしゅうするの心、カインにおいておのが義以上に義を求めざるの心を認めたもうた。ゆえにアベルをよろこびてカインをかえりみたまわなかったのである。(注一・七二)

5月20日(火)

 そこで王は人をつかわしユダとエルサレムのちょうろうたちをことごとく集めた。そして王はユダのもろもろの人々と、セルサレムのすべての住民および祭司、預言者ならびに大小のすべての民を従えて主の宮にのぼり、主の宮で見つかった契約の書の言葉をことごとく彼らに読みきかせた。次いで王は柱のかたわらに立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、、心をつくし精神をつくして、主の戒めと、あかしと、定めとを守り、この書物にしるされているこの契約の言葉をおこなうことを誓った。民は皆その契約に加わった。(列王紀下二三.一〜三)

聖書は過去の記録なれども、実は今日の書なり。死せる書のごとくに見ゆれども、実は最も生ける書なり。これは歴史あり。されども、これ過去の出来事を伝えんがためにあらずして、人間の進歩歴史における神の直接の行為をしめさんがためなり。これに科学あり。されどもこれネチュアの配列進化を教えんがためにあらずして、天と地とその中に存するすべてのものに現れたる神の聖旨を伝えんがためになり。その美文は、文のための文にあらずして、神の義と愛とを伝えんがための文なり。ゆえに神のいまさんかぎりは(しかして宇宙は消え失するとも彼のいまさざる時はなきなり)、聖書は、人類の有する最も貴重なる書として存するなり。聖書は神に関する唯一の教科書なり。これを知るは、歴史と天然と文学との泉源に達することなり。(信二〇・一九三)

 

5月19日(月)

地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。さあ、わららは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。(詩篇九五・四〜七)

真理そのもののために真理を攻究せしむる、これ宗教が科学に供する偉大の勢力なり。真理は聖神なり。心に崇拝的態度なくして真理の深奥を探るは難(かた)し。天然は親しき友のごときものなり。われ恭謙もって彼女に対せば、彼女もよろこびてその宝庫をひらきてわれに示す。驕倣(きょうごう)にして、嫉妬深くして、功名心にかられて、利欲の念に眩惑(げんわく)されて、われの観察力は鈍り、天然の秘蔵を開くの鎖?(さやく)はわが手より奪い去らる。宗教を重んぜざる国民より科学的大発見の来たらざるは全くこれがためなり。あに深く思わざるべけんや。(信二二二二八)

5月18日(日)

キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみをともにしてほしい。兵役に服している者は、日常生活のことに煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官をよろこばせようと努める。また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠はえられない。労苦する農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。(テモテ第二書二・三〜六)

神に導かれる生涯はもっとも安全なる生涯である。何びとも、神によるその成功を妨げることはできない。また何びとも、われらの競争者として起(た)つことはできない。永久的成功はわれらに保証せらる。神にたよるがゆえに、完全に独立である。かれが命じたもう事をさえ、なせばよいのである。ゆえに、人に頼む必要なく、媚(こ)び諂(へつら)うの必要は絶対にない。また生活の心配は絶対にない。神に徴発せられし兵卒である。彼が、わが生活を保証したもうはもちろんである。自分の目的を遂げんと欲するがゆえに生活の心配があるのである。神の御用に服役して、神が生存の責任をにないたもうは当然である。

5月17日(土)

 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。(出エジプト記二〇・一二)

近代人、ことに青年は、礼儀であると言えば虚礼であると思い、礼儀を省みざることが誠実であり真摯(しんし)であると思う。礼儀と称せらるるものの内に虚礼のあることは、余輩といえども疑わない。しかしながら、礼儀すべて虚礼であって、無礼がかえって誠実であると思うは大いなるまちがいである。真の礼儀は、人に対する尊敬である。人はすべて神のかたちにかたどられて造られたる者、その資格において、すべての人が吾人の尊敬に値する。ことに吾人の長者に対して、彼らがある意味において神を代表して吾人に対する者であるがゆえに、吾人は神に対する尊敬をもって彼らに対しなければならない。そして実際のところ、礼儀の無いところには誠実はない。適当の礼儀を欠いて、子弟の関係なり、友人の関係なり、そのほか人と人とのすべての正しき関係が永久に持続せられたためしはない。たとえ夫婦の関係といえども、礼なくして、これを正当にすることはできない。礼儀は耐久的関係の必要条件である。(信二二・六一)

5月16日(金)

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役のもたたず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるかだけである、あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることが出来ない。また、あかりをつけて、それを枡の下に於く者は居ない。むしろ燭台のうえにおいて、家の中のすべてのものを照らさせるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ伝五・十三〜十六)

上の天にたいして下の地がある。光明の来世に対して暗黒の現世がある。しかして信者は下の地に対しては塩であり、暗黒の現世に対しては光であるとのことである。塩としてはすでに地にある善きものを保存し、光としては、まだ世にあらざる天の光を加う。旧を保存するをもって満足せず、さらに進んで新を増進す。信者は保守家であると同時に進歩家である。保守にかたよらない。さればとてギリシャ人のごとくにただ新をのみこれ追わない。守るべきを守り、進むべきを進む。地の塩であると同時に世の光である。保守進歩の両主義を一身に体するものである。(注八・一一九)

5月15日(木)

「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。見よ、彼は山を造り、風を創造し、人にその思いのいかなるかを示し、また、あけぼのを変えて暗やみとなし、地の高い所を踏まれる者、その名を万軍の神、主と言う。(アモス書四・一二〜一三)

平静数月にわたりて奇跡はやみ歌は絶ゆ。わらは思う、われは神なくしてよく存在するをえるなりと。しかるに青天霹靂(へきれき)として雷霆(らいてい)のわが心思を打つありて、わが眼は覚め、わが祈祷は揚がる。しかしてわが声に応じて奇跡のわがためにおこなわれ、援助のおもわざるあたりよりわれに臨むや、歌は再びわがくちびるに浮かび、詩は再びわが筆より走る。平和の神はまた擾乱(じょうらん)の神なり。彼は新たに自己(おのれ)をわれらに示さんがため、しばしば雷霆をもってわれらに臨みたもう。ベテスダの池に水の動くは、天使のその中に下りてなり。われらの平和のみださるるは、われらに恩恵の望みしによる(ヨハネ伝五・一〜四)。(信七・三八)

5月14日(水)

弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らにいわれた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上がるのをみたら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。(ヨハネ伝六・六〇〜六三)

 まことに信仰の相違はやむを得ない。しかしながら信仰の混同は極力これを避けねばならぬ。私はカトリック、聖公会、メゾジストを忌むが、徹底的の彼らに深甚の敬意を表せざるを得ない。要は弁別にある。明白なる識別にある。人の知るごとく、私自身は仏教徒にあらずしてキリスト信徒である。ローマ・カトリック教徒にあらずしてプロテスタント主義者である。教会信者にあらずして無教会信者である。私は、人が、この明白なる理由のために私を憎むならば、憎んでもらいたい。愛するならば、愛してもらいたい。敵に愛せらるるは、味方に憎まるる以上の不幸である。ギリシャ語のdiakrisis,英語のdiscernment,clear thinking,弁別、信仰上、こんなに大切なるものはないのである。(信一五・二〇九)

5月13日(火)

御国がきますように。みこころが天におこなわれるとおり、地にも行われますように。(マタイ伝六・一0)

人はいかに努力するも、神の事業を成すことはできない。神のみ、よく神の事業を成したもう。人はただ神の命(めい)に従うのみである。神の命に従って語り神の命に従って働くのみである。しかして事業は神によっておのずから成るのである。モーセとアロンがイスラエルの人々をエジプトより救い出したのではない。彼らはただ神の命をエジプト王パロに伝えたにすぎなかった。しかして神はその大能の聖手(みて)を伸べて、その選民を救い出したもうたのである。その他、イザヤの予言、パウロの伝道、みなそのとおりであった。かれらはただ神の命に従って行動したのである。しかして大なる事業は彼らにとって成ったのである。神のしもべに事業の計画なるものはないのである。彼はただ語るのである。たた働くのである。多くの場合において人の顔を恐れずして語るのである。社会の嫌悪(けんお)を排して働くのである。しかして彼の思わざりし大事業は彼の弱き行動によって成るのである。要(い)るものは知恵と先見とではない。信仰と勇気である。弱き彼は神の器具(うつわ)となりて大なる事業をなすのである。(信九・一〇六)

5月12日(月)

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。(イザヤ書三〇・二六)

キリストは彼の敵をゆるし、また彼に、七度を七十倍する宥恕がありました。怨恨復讐(ふくしゅう)の念は、彼の弟子たる者の決していだくべきものではありません。われらはキリストの愛をもって、われらに罪を犯せる者をすべてゆるすべきものであります。愆(とが)なきキリストにして、かれを十字架につけし者をゆるされましたならば、ましてわれら愆ある者においてをやです。われらはいかなる敵といえども喜んでゆるすべきであります。神のそんざいを知るも、敵人をゆるすことのできない者は、キリストの信者ではありません。いかほどキリスト教の薀奥(うんおう)を究め、その教理において一も知らざるところなきに至るも、心に長く怨恨の念を貯うる者のごときは、キリスト信者ではありません。神とは永久の宥恕でありまして、キリスト教とはこの宥恕を教えた宗教であります。人の罪をゆるさない者、ゆるし得ない者は、キリストの信者ではありません。(信一五・一四一)

5月11日(日)

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。(エペソ書一.二〇)

神の造られた宇宙であります。天然であります。これが、私ども無教会信者のこの世における教会であるます。その天井(てんじょう)は蒼穹(あおぞら)であります。その板に星がちりばめてあります。その床(ゆか)は青い野であります。そのたたみはいろいろの花であります。その楽器は松のこずえであります。その楽人は森の小鳥であります。その高壇は山の高根でありまして、その説教師は神様ご自身であります。これが私ども無教会堂でも、この私どもの大教会に及びません。無教会これ有教会であります。教会を持たない者のみが実は一番善い教会を持つ者であります。(信一八・八七) 

5月10日(土)

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。(ガラテヤ書六・一四〜一五)

キリストの十字架にキリスト教はある。十字架の道、これキリスト教である。キリスト教に他に何があっても、もしキリストの十字架がないならば、キリスト教はないのである。キリスト教は道徳の道にあらずして贖罪の道である。そして贖罪は十字架の上におこなわれたのである。キリストは人に人道または天道を教えんために世に来たりたまいしにあらず。人類の罪を負いてこれを除かんために来たりたもうのである。キリストの十字架に、この深い普遍的の意味がある。この意味において十字架を解して、聖書と人生とを解し得るのである。(注一五・一八一)

5月9日(金)

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてパプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」。(マルコ伝一六・一五〜一六)

われらは何ゆえに福音を宣べ伝うるのであるか。もちろん教勢拡張のためではない。われらの弟子を作らんためではない。さればとて、いわゆる信者を作らんためでもない。伝道師の伝道によって、すべての人が救われるべしとは、聖書のドコにも書いてない。伝道は宣明である。キリストの福音のデクラレーションである。これによって、多くの人は滅ぶべし、また多くの人は興るべし(ルカ伝二・三四)。滅ぶは、もちろん、われらの歎くところであって、興るは、もちろん、われらの喜ぶところであるが、しかし滅ぶと興るとは、これ全く神の聖旨に存するところであって、われらの関するところではない。「天国のこの福音は、万国の民に証(あかし)せんために、あまねく全世界に宣べ伝えらるべし」(マタイ伝一四・一四)。神がこれをもって万国の民をさばきたまわんがために、われらに福音をあまねく全世界に宣べ伝うるのである。(信二二・二二)

5月8日(木)

ただ、こころの中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。(ペテロ第一書三・一五)

感覚にのみよる宗教は迷信に走りやすし。これを矯(た)むるに冷静なる論証なかるべからず。われらの宗教の乾燥無味にして情けなき涙なきものにあらざるは言を待たず。されども理論をことごとく反対者に譲りて、われらはおのれを守るにただ単純なる感覚のみをもってするがごときは、われらのなすべきことにあらず。キリストを信じて理性の発達を来たさざるがごときは、その信仰のいまだはなはだ薄弱なる証なり。キリスト信者は大いなる理論家ならざるべからず。霊を解放されし者はまた知能をも開発されし者なり。われらの信仰を深き形而上学と博き天然学との上に築かしめよ。(注一四・一七一)

5月7日(水)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ヨハネ伝一五・七)

祈りて必ず聞かるる祈祷がある。それは神のみこころの成らんことを祈る祈祷である。神のみこころは必ず成る。そのみこころを願いとしてわれらのささぐる祈祷は聞かれざるはない。ここにおいてか人はいう、神のみこころは必ず成るとならば人がこれを祈るの必要はない、人は祈らずとも神はそのみこころを成したもうと。そうでない。神は人と共に働かんことを願いたもう。彼は彼のみこころを人の願いとして成さんと欲したもう。父は子を措いてひとりみずから事をなさんと願わない。子をして父の事業に携わらんことを願う。しかして子と栄光を分かたんことを願う。天父もまた同じである。彼は彼のみこころが人の祈りとして彼に達し、これを成して、人をして神と栄光を分かたんことを欲したもう。まことに愛の神としてさもあるべきである。ゆえに祈るはわが名誉である。神のみこころをわが祈りとしてささぐるを得て名誉この上なしである。しかしてわがこころの神のみこころと一致しわが祈りは神のご計画と一致して、成就せられるを得ないのである。(注一〇・二二六)

5月6日(火)

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(ピリピ書四・一一〜一三)

満足の人とは独立の人である。不平の人とは依頼の人である。神と自己(おのれ)とにたよって生存する人には、この世ははなはだ愉快なる所である。しかるにこの明白なる原理を知らないで、他人に恩恵を求めて、その与えられざるを怒り、常に世の無常を憤りながら憂き日月を送る者は、実に愚かなる者である。幸福は常にわが胸と心にある。これを他人の手に求めて、われらに来たるものはただ失望と恥辱と不平のみである。(信八・六六)

   

5月5日(月)

また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとこのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。(テサロニケ第二書三・一〇〜一二)

信仰は信仰によって維持するあたわず。信仰は労働によってのみ、よく維持するを得べし。信仰は根にして労働は技なり。前者は養汁を供し、後者はこれを消化す。枝葉なくして、汁液は腐敗して毒素をかもす。労働なくして、信仰は堕落して懐疑を生ず。信仰維持に必要なるものは、より多くの信仰にあらず。手と脳をもってする労働なり。労働なくして、肉体は飢え霊魂は死す。労働は肉体維持のためのみ必要なるものにあらざるなり。(信七・一三七)

5月4日(日)

世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。(箴言一八・二四)

友誼(ゆうぎ)は貴くある。友誼はたのしくもある。ゆえに友誼は高価である。そして友誼の価値(ねうち)は友誼そのものである。われらは時と場合においては友誼を犠牲に供するの覚悟がなけらば、これを受け、これを楽しむことはできない。わがための友誼ではない。友のための友誼である。ゆえに友の永久の(霊魂の)利益を計りて、時には友に捨てらるるの覚悟をもって、彼のために尽くさなければならない。彼の恨みを買い、彼の怒りを買い、彼の擯斥(ひんせき)を買うといえども、彼のために真理を語り、彼の永久の利益を計らなければならない。友誼は貴くある。友誼は楽しくある。しかし、その代価ははなはだ高くある。(信二三・二二六)

5月3日(土)

アモスはアマジャに答えた、「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。ところが主は群れに従っている所からわたしを取り、『行って、わが民イスレエルに予言せよ』と、主はわたしに言われた」。(アモス書七・一四〜一五)

異端、異端と言う。しかし実は世に異端ほど貴いものはないのである。世に異端があればこそ、進歩があるのである。預言者は異端であった。イエスも異端であった。パウロも異端であった。ルーテルも異端であった。ウェスレーも異端であった。異端であったからこそ、彼らは今日なお世に勢力があるのである。

 異端は独創の思想である。真理を探究するにあたって、人のオーソリティーにたよらないことである。異端は真理の直参(じきさん)である。その陪臣(ばいしん)でない。人にはかまわず一直線に、真理と真理の神とに向って進むことである。

 ゆえに異端は常に新鮮である。陳腐なるは異端であない。異端は多くの誤りにおちいる。しかしながら常に進む。異端を恐れる者は沈静の危険を冒す者である。老人はことごとく正教に帰依(きえ)すべきである。しかし青年と壮年とは異端を試むべきである。(信一四・二二〇)

   

5月2日(金)

涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(詩篇一二六・五〜六)

神の報いは充分に来世において来たりまするが、しかしその一部は現世においても来たります。われらがわれらの種まきの事業において失望せざらんがために、われらが終末の収穫のいかに喜ばしいものなるかを知らんがために、神はこの世においても、われらの労働の結果を与えたまいて、われらの絶えなんとする望みを生きかえらしたまいます。世によろこばしきこととて、霊の結びし実を目撃するがごときはありません。あるいは十年、あるいは二十年、血と涙とをそそいでまいた結果として、一人のほんとうのクリスチャンのできしを見ては、わが霊魂は天にも昇らんかと思うばかりに喜ばしくあります。一人の同胞が、宇宙万物の造り主なる父なる神を発見したのであります。そうしてわれがこの発見をうながすたねの機関となったとのことであります。歓喜の極、満足の極とは人をその造り主に導いたことを知った時の感であります。(注一二・二四五)

5月1日(木)

朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教えを宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教を宣べ伝え、また悪霊を追いだされた。(マルコ伝一・三五〜三九)

「夜明け前にイエス早く起き、人なき所に行き、そこにて祈りせり」とある。早起きはたぶんイエスの習慣であったろう。しかしこの場合に特にその必要があったであろう。神の子といえども能力の消尽なくしてふしぎなるわざをおこなうことはできない。しかり、伝道は最大の努力を要する。これは自己を他(ひと)に与うることである。単に筋肉または脳髄の疲労を感ずるにとどまらず、自己中心の消耗を覚ゆる。しかしてこれを癒やしまた満たす者はただ神のみである。かかる場合において祈祷は祈求(ねがい)でない。霊の交通である。わが霊、神の霊に接して、わがむなしきを神の満ち足れるをもってみたさるることである。イエスの場合においても常にこの霊の再充実(リーフィリング)の必要があった。朝早く起きて人なき所に行きて祈る。人に能力を奪われて神にこれを補わる。神の人はかくのごとくにしてその事業を継続するんである。(注一五・四二)

四月のはじめに

われがわが目を、造化と聖書とに現れたる神の栄光を見るために用いんかな。われはわが耳を、わが同胞の悲痛の声を聞くために用いんかな。われはわが手を、神の慈愛をわが隣人に分つために用いんかな。われはわが足を、神の喜ばしき音信(おとずれ)を広くこの土(ど)に伝うるために用いんかな。かくてわが全体はうるわしき神の器となりて、真理と歓喜とは永久にわがものとなるに至らむ。(信八・一八)

4月30日(水)

わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが教えとなられたことを。家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜びたのしむであろう。(詩篇一一八・二一〜二四)

信ずるは疑うよろも良し。されども疑わずして、深く信ずるあたわず。懐疑は信仰のために必要なり。

 建つるは壊(こぼ)つよりも良し。されども壊たずして、堅く建つるあたわず。破壊は建設のために必要なり。

 されば恐れずしてうたがわんかな。大胆に壊たんかな。しかして深遠に信じ、永久に築かんかな。(信八・一二三)

4月29日(火)

わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしいたげによって悲しみあるくのですか」と。わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり、ひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言う。わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。(詩篇四二・九〜一一)

キリスト信者は軽々しく怒らない。また怒って罪をおかさざるように努める。しかしながら怒らないのではない。彼は聖く怒るべく、彼の神に許されるのである。パウロは言うた、「誰か、つまづきて、わが心熱せざらんや」(コリント後書一一・二九)と。「心熱す」るとは、この場合においては、聖く憤るの意味であると思う。ダビデの歌いわく、「主よ、われ、なんじを憎む者を憎むにあらずや」(詩篇一三九・二一)と。ここにもまた確かに信者の聖憤がある。「主はその愛する者を懲らしめ、またすべてその受くるところの子をむち打てり」(ヘブル書一二・六)とある。真の愛に怒りが伴う。怒らざるは、偽りの愛にあらざれば浅き愛である。神がしばしばその民を怒りたもうは、彼がふかく強く彼らを愛したもうからである。(信二二・一八八)

4月28日(月)

主よ、わが心はおごらず、わが目はたかぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と、くすしきわざに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。(詩篇一三一・一〜二)

まことに神は公平でいましたもう。彼は天才を少数に賜いて、多数を顧みたまわないのではない。かえって、より善きものを多数凡人に賜いて、彼らを祝福したもうのである。なし得る事をなすのである。神の造りたまいし宇宙において、平凡は決して平凡でない。凡人もまた神に似て造られし者である。そして神を現わす点において、凡人は天才以上である。われら何びとも、持続せる忍耐と勤勉とをもって、「偉大なる凡人」たるべく努むべきである。(信二二・五九)

4月27日(日)

わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにはおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。(詩篇一三九・七〜一〇)

神のいまさざる所はない。しかしながら、その神は今は赦免の神である。神はどこどこまでもその赦免の霊をもってその子のあとを追いたもう。彼の忍耐はまた無窮である。彼は人がこの世で悔い改めないとて、これを捨てたまわない。彼は未来永劫(えいごう)までそのあとを追いたまいて、その悔い改めを促したもう。天にのぼるも、陰府にくだるも、海の端に住むも、人は神の愛を離れその恵みより遠ざかることはできない。(信五・一二九)

4月26日(土)

もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生き返してくださるであろう。(ローマ書八・十〜十一)

キリストは復活したもうた。しかし復活は彼に限るわけではない。彼の生命のあるところにはまた復活があるのである。「もしイエスをよみがえらしし者の霊、なんじらに住まば、キリストを死よりよみがえらしし者は、そのなんじらに住むところの霊をもて、なんじらが死ぬべき身体をも生かすべし」とある。よって知る、キリストの復活のさまはわが復活のさまなることを。われ、彼を信じ、彼と共に苦しみを受けなば、また彼と共に栄えを受けて、彼のごとくに復活するのである(ロマ書八・一七)。信者は単に霊的に永遠に生きるのではない。体的にも生きるのである。彼の来世における生命は今世における生命の連続である。ただし後者における敗壊はないのである。彼は死なざる体をもって永遠に生きるのである。かくて彼は来世において、今世において持ちし性格を持続するのである。十字架につけられし釘の痕(あと)は、キリストに残りしように彼にも残るのである。そうしてこれ彼にとりて大いなる名誉の傷痕である。彼はこれをもって天使の前に誇るのである。(信一三・一五六)

4月25日(金)

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、パプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」。(使徒行法伝二・三八)

かくてキリスト教は自力教にあらず、また他力教にあらず、聖霊教である。人に努力を要求すると同時に、上よりの援助を約束するものである。「救いを全うせんとして努めよ。神、なんじを助けたまえばなり」と教うるものである。ゆえに信者はおのが努力において神の援助を認むるのである。私が神を求め、私の罪に泣き、神の前に聖からんと欲し、私の努力の足らざるを歎くは、これ私がなすことであて、実は神が私にありてなしたもうことである。「聖霊みずから、言いがたき慨歎(なげき)をもて、われらのために祈りぬ」(ロマ書八・二六)とあるがごとし。聖霊の慨歎が私の慨歎として神に達するのである。ゆえにかかる場合において、私は、私に言いがたきの慨歎あるを感謝すべきである。多くの場合において、私が私自身について不満をいだくその事が、神が聖霊をもって私の内に働きたまいつつある証拠である。

自力でもよい。他力でもよい。あるいはみずから努め、あるいは神に助けられて、とにもかくにも救われて、死にたる者のよみがえりにあずからんことを(ピリビ書三・一一)。(信一五・一三七)

4月24日(木)

 それだから、あなたがたに言っておいく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。(マタイ伝六・二五〜二六)

まことに簡易生活は偉大の特徴の一つである。人は内に足りて外に簡略ならざるを得ない。大思想にならざれば大希望、これありて、その余の事はどうでもよいのである。文明の進歩と唱えて生活のますます複雑になるは決して真の進歩ではない。複雑なる近代生活の内に、恐るべき革命と、これに伴う破滅がはらまれている。単に生存競争の立場より見るも、簡易生活の民が常に複雑生活の民に勝ち、これに代わり来たったのである。もしわれらの信仰がわれらの生活を簡易にしないならば、これは偽りの信仰であるといいてまちがいはない。(注一五・九四)

4月23日(水)

見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。(ヨハネ伝一六・三二)

イエスは単独であった。ゆえに万人の友であった。彼がもし使徒団の師、ヨハネ、ペテロ、アンデレらの友であったならば、彼は単独ではなかったと同時にまた人類の友たり得なかった。彼は少数者の友たり得るにはあまりに神的であってまたあまりに人類的であった。しかしてイエスひとりに限らない。すべて神と人とに対して熱情に燃えし人はイエスのごとく単独であった。詩人ダンテは中古時代の欧州文壇に立ちてただの一人であった。クロンウェルはさびしき人であった。リンコルンは常に自己の孤独を嘆じた。彼らはみな一階級または一教派または一党派を友とするにはあまりに偉大であった。ゆえに単独ならざる得なかった。友多きをもって誇る人は幸福である。しかしながら友なきをもって嘆く人はさらに幸福である。人はただ一人となって万人を友とし得るのである。(注一〇・二三〇)

4月22日(火)

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もしキリストの霊をもたない人がいるなら、その人はキリストのものではない。(ローマ書八・九)

クリスチャンはクリストである。クリストの信者ではない。彼の弟子ではない。彼のしもべではない。クリストご自身である。自己(おのれ)は死して、クリストが代わって生きたもう者である。ゆえに、クリスチャンはすべての点においてクリストのごとき者である。彼のごとく、上より生まれ、彼のごとく、神に導かれ、彼のごとく、世に憎まれ、彼のごとく、十字架を担い、彼のごとく死して、彼のごとく昇天する者である。四福音書にしるしてあるクリストの一代記は、写してもってクリスチャンの一代記となすことができる。

 クリスチャンが神の子であるは、クリストが神の子であるからである。クルスチャンがよみがえるのは、クリストがよいがえりたもうたからである。クリスチャンに永生が有るは、クリストにそれがあるからである。クリストに有るものはすべてクリスチャンに有る。クリストに有りまた有ったもので、クリスチャンに無いものはない。(信一九・二三五)

4月21日(月)

いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである。(コリント第一書二・一一〜一二)

深きかな、霊、霊は容貌にあらず、風采にあらず、学問にあらず、遺伝にあらず、はたまた行為にもあらず、道徳にもあらず。霊は霊にして、人の深き所に存す。「人の内なる思いと心とは深し」(詩篇六四・六)。神の霊のみ、よく人の霊を知りたもう。人は外よりこれを覗(うかが)うて、その何たるを知るあたわず。人が人をさばくあたわざるはこれがためなり。ゆえに彼は言いたまえり、

   「わが見るところは人に異なり、人は外のかたちを見、主は心を見るなり(サムエル前書一六・七)」と(信七・九八)

4月20日(日)

神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。(ヨハネ伝四・二四)

生命は制度よりも善くある。生命は規則をもって働かない。生命は必ずしも信仰個条として現れない。生命に不規則なるところある。生命はある時は気まま勝手のように見える。生命は独(ひと)り働いて、隊を組んでは働かない。生命は制度のなし得る多くの事をなし得ない。されども生命は生命であって、制度以上である。制度は結晶体である。しからざれば機械である。しかして金剛石は結晶体として貴く機関車は機械として有力なりといえども、一茎の草または一尾の魚にはるかに及ばないのである。そのごとく、教会制度はいかに貴く、いかに優勢なりといえども、一人の真信者には遠く及ばないのである。(信一八・八六)

4月19日(土)

あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわちキリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。(コロサイ書二・八−一一)

まことの神よ、願わくばわれらの曲がれる縮める心を癒やし、われらをしてキリストにありて存在し、感謝の空気にひたり、聖霊の生気に接し、知恵と信仰と徳とを増し、単純にして快調、信じて疑わざる人とならしめたまわんことを。われらの心は暗し。われらはキリストにありて万物を見るあたわざるゆえに、われら各自の哲学なるものを編み出して、神より出づるまことの知恵に代えんと努む。願わくはわれらの愚をあわれみ、われらに誠実に神によりたのむの心を与え、われらの盲せる目を開きて、明らかに神の奥義を悟ることを得しめたまわんことを。アーメン。(注一三・一二〇)

4月18日(金)

わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。(ヨハネ第一書一・五〜七)

肉の事については普通の人たれ。霊の事については特別の人たれ。世が見ては普通の農夫たれ。普通の職工たれ。普通の商人たれ。しかり、やむを得ざる場合においては普通の官吏たるも可なり。されども神の眼より見ては、この世の属(もの)たるなかれ。籍を天国に置く聖徒たれ。キリストと共に歩む神の子たれ。外は他の人と異ならんと欲するなかれ。ただ内に神の光を宿して、暗き世にありてその暗黒(くらき)を照らすべし。ナザレのイエスに鑑(かんが)みよ。彼は身は木匠(だいく)にましまして、霊は神のひとり子にましませり。(信八・四二)

4月17日(木)

見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しくたのしいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまでながれくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。(詩篇一三三)

イエスは言いたもうた、「二人三人、わが名によりて集まれる所に、われもまたその中にあるなり」(マタイ伝一八・二〇)と。これは、イエスは大集会よりも小集会を好みたもうということではない。単独よりも会衆を愛したもうということである。ひとり祈りて聞かれざるにあらずといえども、衆人心を合わせて祈る時に、神はことさらにその祈求(ねがい)を受けいれたもう。これ声の多きがゆえにあらず、一致団結を愛(め)でたもうがゆえである。神に仕ふるに愛をもってする必要がある。兄弟相愛するの愛は、人が神にささげ得る最大最善の供え物である。二人三人相和らぎて祈る時に、イエスは和気靄々(あいあい)たるを喜びて、その中にいましたもう。そして和らぐ者が多ければ多きほど、その集会の座を喜びたもう。そして論より証拠である、大衆心を合わせ、愛に燃えて、神に近づきまつる時に、われらはひとりありてとうてい接するあたわざる恩恵にあずかるを覚ゆるのである。(信一八.二八)

4月16日(水)

しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔うものは夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである。(テサロニケ第一書五・四〜九)

 キリスト教の信仰はキリスト再臨の信仰である。彼の来たりたもうを待ち望む信仰である。ゆえに信仰と称するよりもむしろ警戒と称すべきものである。信者に平安はあるが、この世の人の求むる安楽はない。キリスト信者の平安は、キリスト再臨に会うて驚かざる平安である。キリスト教道徳は実は再臨に備えるための道徳である。この世はいつ終るか知らないというその危機を前に見ておこのうべき道徳である。(注一五・二三一)

4月15日(火)

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマ書一二・一五)

愛はねたまざるなり。愛は自己をもって足るものなれば、人の成功をうらやみ、その優秀をねたむ要なし。富者に競争あり、学者と宗教家に嫉妬ありといえども、愛の満足におるものは猜忌、羨望の邪念におかされず。愛は生ける泉なり。与うるを知って受くるを知らず、おのれに充ち満つるがゆえに、人の充溢を聞いて憤ることなし。愛にありて貧者は富者を憤らず、愚者は学者をうらやまず、愛は人生終局の善かつ美なり。愛に達して、人はすべての欲望を断つに至る。金(きん)をもつものは、銅、鉄、または鉛をもつものをうらやまず、そのごとく、愛にあるものは、金銀、宝貨、学識、天才を有するものをねたまず。愛に嫉妬なし。しかり、神の愛に達してのみ、吾人は初めて嫉妬以上の人たるを得るなり。(注一二・一〇八)

4月14日(月)

それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなった、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来たときのように、答えるであろう。(ホセア書二・一四〜一五)

荒野は人なき寂しき所である。ゆえに孤独の状態である。事業の失敗である。名誉の毀損である。肉親の死別である。すなわち人生の砂漠である。しかして神はその愛するものをかかる所に誘いだして、そこに慰めのことばを彼らに語りたもうのである。人は楽園にありて、人の声に耳を傾けて神に聞かんとしない。されども、エリアのごとくにひとりホレブの荒野にさまよいて、あざやかに神の静かなる細き声を聞き取ることができるのである。救いの第一歩は荒野の試みである。そこにわが罪を示され、神に接し、神のことばを聞いて、われらの救いは始まるのである。(注七・七八)

4月13日(日)

ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが主の心を知っていたか。だれが、主の計画をあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。万物は、神からいで、神によって成り、神に属するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。(ローマ書一一・三三〜三六)

イエス・キリストの御父なる真の神は、人にかまわず、その聖旨をおこないたもう。その意味においてかれは独裁君主だる。彼は御自身の御計画に従い万物を造りたまい、人を造りてその御計画を実行せしめたもう。神のための人であって、ひとのための神でない。天と地とその内にある全ての物は、神のために造られたのであって、人のために造られたのでない。ゆえに人の生涯もまた神の御計画を成し遂ぐるために価値があるのであって、幸福を楽しむがためのものではない。私がもしほんとうに私の存在の意義を悟るならば、私が恵まれるとめぐまれざるとは問題でない。私の生涯によって神の聖意が幾分なりと成れば、それが私の世につかわされし目的が達したのである。わたしはどうなってもよいのである。神の御事業が成ればよいのである。そして私の生涯がその御事業達成のために幾分なりとも御役立つならば、私の光栄この上なしである。私に欲があってはならない。あるいは私の欲はただ一つにならねばならぬ。すなわち神の聖意が成って欲しいとの欲、それである。(信一五・九五)

4月12日(土)

神は、あなたがたのすえを地に残すために、また大いなる救いをもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。(創世記四五・七〜八)

主ともいまして、境遇のいかんは問題にならない。すべての境遇が彼の栄光をあらわすに適している。「正しき人は患難多し。されども主はみなその中より助け出だしたもう」とある。そして彼に正直勤勉の霊を与えて彼をたすけ出したもう。境遇そのものに救拯(たすけ)の途が備わっている。別に手段方法を講ずるにおよばない。置かれし地位にありて、勤勉で、正直で、忠実で、彼におのずから救拯の途が開かれるのである。ヨセフの生涯においてとくに注意すべきは、彼が神の愛子でありしにかかわらず、奇跡のこれにあらわざれしことである。彼の立身の道は平凡であった。そして主ともにいまして、平凡な道は奇跡以上の奇跡である。(注一・二三○)

4月11(金)

主はこう言われる、「天はわが位、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家をたてようとするのか。またどんな所がわが休み所となるか」。主はいわれる、「わが手はすべてこれらのものを造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である」。(イザヤ書六六・一〜二)

神と永世、この二大信念なくして、偉大なることとてはない。大なる悲歎もなければ大なる歓喜もない。大いなる煩悶もなければ大いなる平和もない。大いなる悲鳴も揚がらなければ大いなる賛美もおこらない。神と永世とに関する深き確実なる信念なくして、大いなる文学も起こらなければ大なる改革もおこなわれない。この二大信仰なくして、人生は平々坦々、実に味のないものである。アウグスティヌスの神学といい、ダンテの『神曲』といい、ルーテルの宗教改革といい、クロンウェルの自由政治といい、まなこの二大信仰ありて初めて起こったものである。偉人とはほかの者ではない、人を恐れずして神を恐れる者である。希望を現世につながず来世につなぐ者である。単に世界的たるは、真の偉人ではない。神人的、永久的たるに至って、人は初めて真の偉人になるのである。(信一五・一二三)

4月10日(木)

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。(ピリピ書三・一〇〜一一)

苦痛は天罰であると言う者は誰であるか。前世の報いであると言うものは誰であるか。われら信者にとりては苦痛は最大の恩恵である。キリストを知る唯一の道である。彼と同情を交(かわ)す唯一の方法である。苦痛の段階をたどりてこそ、われらは父の聖国(みくに)に入ることができるのである。されば来たれよ、苦痛、われはなんじを歓迎せんである。(信一八・一四七)

4月9日(水)

イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中に入れと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。(マルコ伝一一・二二〜二四)

奇跡は学理の問題ではない。信仰の問題である。奇跡の事定まりて信仰起こるのではない。信仰が起こり奇跡がこれに伴うのである。信仰なくして奇跡はない。神、恵みを施したまわんとするにあたり、われら信仰により勇気をもって神の命に従わば、奇跡はたしておこなわれざるべきか。いうをやめよ、わが力をもってしてはとてもだめであると。神これをなしたもうのである。神はわが信仰と勇気とをもって頑固なる老人の心を砕きたもうのである。ただ臆してこれをなさざるがゆえに事はいつまでも成らない。奇跡のおこなわるる機会多いけれども、信仰と勇気とを欠くがためにむなしくこれを逸するのである。(注ニ・四一)

4月8(火)

主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。どうか悪しき者の悪を絶ち、正しい者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。(詩篇七・八〜一〇)

神は正義である。彼は必ずこれをこの世におこないたもう。しかしながら、いつ、どうした、これをおこないたもうか、これ、われら人間の知るところではない。正義遂行の時と方法とはひとえに神の意中に存している。われら、これを知らんと欲して知るあたわず。また、知らんと焦りて、ただわずかにおのれを悩ますのみである。「それ信仰は望むところを疑わず、いまだ見ざるところを真実(まこと)とするものなり」(ヘブル書一一・一)。篤(あつ)く神の正義を信じて静かにその遂行を待つのが、キリスト信者たる者のよろしきにかなう生涯である。(信七・一三四)

4月7日(月)

あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである。(コリント第一書一〇・一三)

神に行きずまりはない。行きづまりは人のことであって、神のことではない。神が時時、人をして行きづまらしめたもうは、人が彼(神)によりて新たに運命を開かんためである。「神はすべての人をあわれまんために、すべての人を不順(反逆)の中に閉じこめたまえり」(ロマ書一一・三二)とあるがごとし。人が自分で自分を助けなきことを悟り、上を仰いで神の助けを祈り求むれば、恩恵の道は彼の前に開けて、彼は無限の神の園に無限の自由を楽しむに至る。「この苦しむ者、叫びたれば、主これを聞き、そのすべての悩みより救い出したまえり」(詩篇三四・六)とあるがごとし。(信二四・二一一)

 

4月6日(日)

主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか。わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょう。しかしあなたは、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。(詩篇一三〇・一〜五)

罪はこれを見留(みと)めざるべからず。されども、これを見つむべからず。罪を見留めずして、人はこれを脱(さ)るあたわず。これを見つめて、その補うるところとなる。罪を見留めずして、その中に死する者多し。罪を見つめて、その殺すところとなる者少なからず。悔改は悔いなき救いを得しむるの悔改ならざるべからず。死に至らしむるの悔改なるべからず(コリント後書七・一〇)

 罪はこれを見留めざるべからず。しかして直ちにキリストの十字架を見つめざるべからず。彼は、くぎをもってわれらの罪をその十字架につけたまえり(コロサイ書四二・一四)。キリストの十字架を見つめて、罪は罪として存せずして、恩恵と化して、われあらの心に臨む。

キリストの十字架、罪はそこに見留められ、罰せられ、ゆるされ、恩化せられたり。われら、これを仰ぎ見て、罪はその苦しきを脱して、恩恵の蜜と化して、われらを喜ばす。天(あま)が下に罪を満足に処分するものにしてキリストの十字架のごときはあらざるなり。(信一二・七八)

4月5(土)

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地をうけつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、かれらは飽き足りるようになるであろう(マタイ伝五・三〜六)

 偉大なることは謙遜(けんそん)なることなり。無辺の宇宙にたいするわれの適当の位置を悟り、神の完全に対するわれの不完全を自覚し、われの責任の大と、これに伴うわれの力量の小とを認め、天にたよる、ますます篤く、われを待つ、ますます薄く、真理と人類とのためには身を塵埃(じんあい)の軽きに定めて、われは初めて偉大なる人となるなり。(信一九・四八)

4月4日(金)

キリストは、神のかたちであらわれたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ書二・六〜一一)

謙遜は美徳なり。されどもみずから努めてなすの謙遜なるべからず。これ演劇的謙遜なり。外面を飾るための謙遜なり。あるいは謙譲といい、あるいは謙退という。自己の卑しきを自覚してへりくだるにあらず。あるいは自己の欠点をおおわんがため、あるいはその謙遜を誇らんがための謙遜なり。謙遜なる、必ずしも尊きにあらず。神にありて空虚なること、これ尊むべき慕うべき謙遜なり。いわゆるSublime unconsciousnessなるもの、すなわちおのれは知らずしておのずから高貴なること、これ真個の謙遜なり。しかしてこれキリストにありて自己をむなしゅうする者のみ有し得るの謙遜なり。(注一三・一二八)

4月3日(木)

イエスはこれらの善を語り終えてから、そこを立ちさられた。そして郷土に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセン、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったいどこで習ってきたのか」。(マタイ伝一二・五三〜五六)

「彼は木匠にあらずや」、われらの模範は木匠でありました。われらの理想は、貧しき、正直なる、勤勉なる職工でありました。天国はいずれの職業にあっても(不正なるものを除いては)達することのできるところであります。それゆえに、職業選択問題はさほどにたいせつなる問題ではありません。もっともたいせつなる問題は人生問題であります。赦罪問題であります。天国問題であります。われらがこの世にあって何の事業をなそうか、それはわれらにとっては、いたって小なる問題であります。(注八・二六六)

4月2日(水)

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩篇一九・一〜四)

天然を愛すべし。されども天然にあこがれるべからず。天然を愛して神と義務とを忘れるべからず。天然をして、仕うる霊たらしむべし。彼をして、誘う友たらしむべからず。天然はこれをユダヤ人のごとくに観ずべし。ギリシャ人のごとくにこれを愛すべからず。天然は、これを神に達するの足台とすべし。神を祭るの聖殿となすべからず。おそらくは彼、アシタロテのごとくなりて、偶像崇拝の罪にわれらを導かん(列王記上一一・三三参照)。(信八・三)

4月1日(火)

わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らしてくださったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測りしれない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(コリント第二書四・五〜七)

いったん心を定めて神の子供となり、おのれを神の立場に置いて人を見んか、人の美点は多く見えて、その欠点はほとんど眼にとまらざるに至る。神の眼をもって見て、聖人、君子において欠点が見えなくなるばかりではない、つまらない平々凡々の人においてまでに、父なる神の立場より見て、美ならざる人とては一人も見えなくなるに至る。

さらばわれらもまた人には何の遠慮することなく、神に向ってわれらの感謝の花を開かんかな。世をうしろにし、神を前にし、神に見られんために天に向ってわれらの花を開かんかな。(信五・一一二)


三月のはじめに

春の到来

佳(よ)き期(とき)は来たれり

春は来たれり

花は咲かんとす

鳥は歌わんとす

小川の氷は解けて

その辺(ふち)に、すみれ笑う

 

佳き期は来たれり

聖霊(みたま)は降(くだ)れり

栄光(さかえ)はあらわれんとす

賛美は揚がらんとす

心の疑団は釈(と)けて

その内に歓喜あふる

 

佳き期は来たれり

春は来たれり

春は外よりも来たれり

また内よりも来たれり(信二二・三五二)

三月の終りに

無教会主義とは、教会は有ってはならぬということでない。有るも可なり無きも可なりということである。神の生命たるキリスト教が制度でありオルガニゼーション(組織体)であるべきはずがない。生命は時には形態を取って現れ、時には形態なくして生命そのものとして存在する。生命はヘブライ語で言うルーアクである。風である。息である。「風はおのがままに吹く。なんじ、その声を聞けども、いずこより来たり、いずこへ行くを知らず。すべて霊によりて生るる者はかくのごとし」(ヨハネ伝三・八)とあるそれである。この風の吹く所に神の生命がある。そして風に形態のないように、「霊によりて生まるる者」すなわちキリスト信者に形態がない。信者は教会員ではない。彼は神の風に吹かれて霊によりて生まれたる者である。彼が無形たるや言うまでもない。

 生命は形態を取りて現わるるものであるから、神の霊が時に教会の形態をとりて現れるのは少しもふすぎでない。われらはかかる形態を貴び、時におのが身をこれにゆだぬるも、決して悪い事でない。しかしながら神(しん)と形(けい)とが同視せらるる時に弊害は百出する。そして形が神を圧する時に、神は生きんがために形にそむき、これと離れ、これを捨てざるを得ない。無教会主義はかかる場合に起こる主義である。貴むべき、なくてならぬ主義である。(信一八・八八)

3月31日(月)

兄弟たちよ、わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今から妻のある者はないもののように、泣くものは泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。(コリント第一書七・二九〜三一)

来世によってこの世のすべての苦痛が慰められる。すべての不幸艱難(かんなん)、しかり、死そのものまでが完全に慰められる。この世限りと思うがゆえに、人生に不平が多く、堪えがたき、もだえがあるのである。されど確実なる来世の希望の前に不平煩悶は消えて跡なしである。人は能率増進の必要を説くが、来世の希望ほど能率を増すものはない。口に賛美歌が絶えずして、仕事は常にはかどるのである。人の過失(あやまち)はたやすくゆるすことができ、身の不幸は希望の輝きの前に消散す。もしすべての人に堅き来世の希望があるならば、社会問題は直ちに絶え、平和は世界にみなぎるのである。(信一三・二五三)

3月30日(日)

すなわち、すべての人は罪をおかしたため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とさっるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ書三・二三〜二六)

神のわれらに対しての要求は、全くきよくなれである。すべてをささげて神に仕え、義のしもべたれである。そしてこれ不可能を要求するごとく見ゆれど、この命令を添えて、聖霊をもって実行力を賜るのである。彼はあらゆる道をもってわれらを助けたもうたのである。さればわれらは努むべし、励むべし、努力奮進すべし。神は必ずわれらの志すところを遂げしめたもうのである。

ただ、義たれ義たれと命令するはこの世の道徳である。これはただ命令するのみで、力はすこしも供給しないのである。まず義ならざる人を義とし摂(おさ)め取り、その罪の苦しみを除き、心に喜びをみなぎらしめて、みずから義たらんとの志を起こさせしめ、聖霊を賜うてその実現を助けるというのが福音である。(注一六・二一九)

3月29日(土)

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。(マタイ伝一六・二六)

 人には外的生命のほかに内的生命がある。肉体の生命のほかに霊的の生命がある。この世の何ものをもってしても与うることのできない生命がある。そうして、これあるがゆえに人は特別に貴いのである。財産を奪われ、名誉を剥がれ、よし健康を失いても、なお、のこるものがある。それが内的生命である。そして、それを与うるものが宗教である。ゆえに宗教は、この世に在るものであって、この世の属(もの)でない。直ちに神より人の霊魂に臨むものであって、政府も学府も、しかし、教会も寺院も、与うることのできるものでない。(信一四・一四)

3月28日(金)

主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。(イザヤ書三〇・一五)

シーリー先生は一日、私を呼んで教えてくれた。

  内村、君は君の内をのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。なぜ、おのれに省みることをやめて、十字架の上に君の罪をあがないたまいしイエスを仰ぎ見ないのか。君のなすところは、小児が植えた木を鉢に植えて、その成長を確定(たしか)めんと欲して、毎日その根を抜いて見ると同然である。何ゆえに、これを神と日光とにゆだね奉り、安心して君の成長をまたぬのか。

 先生のこの忠告に私の霊魂は醒めたのである。私はこの時、初めて信仰の何たるかを教えられた。信仰は読んで字のごとく信ずることであって、働くことでない、私は修養または善行によって教わるのでない、神の子を信ずるによって救われるのであるとは、シーリー先生がはっきりと私に教えてくれたことである。(信二三・一一九)

3月27日(木)

見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞こえる。いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ。立って、でてきなさい。(雅歌二・一一〜一三)

心の春はすでにいたれり。今や天地の春は臨まんとす。鳥はさえずりて、わが内なる喜びに和し、花は咲いて、わが霊なる栄えをあらわさんとす。春陽まさに内外よりわれに迫らんとす。わが跳躍の時は来たれり。(信八・三〇〇)

3月26日(水)

もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、かれだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。(ローマ書八・一〇〜一一)

キリストは復活したもうた。しかし復活は彼に限るのではない。彼の生命のあるところにはまた復活があるのである。「もしイエスをよみがえらしし者の霊、なんじらに住まば、キリストを死よりよみがえらしし者は、そのなんじらに住むところの霊をもて、なんじらが死ぬべき身体をも生かすべし」とある。よって知る、キリストの復活のさまはわが復活のさまなることを。われ、彼を信じ、彼と共に苦しみを受けなば、また彼と共に栄えを受けて、彼の如くに復活するのである(ロマ書八・一七)。信者は単に霊的に永遠に生くるのではない。体的にも生きるのである。かれの来世における生命は今世における生命の連続である。ただし後者における敗壊はないのである。彼は死なざる体をもって永遠に生くるのである。かくてかれは来世において、今世において持ちし性格を持続するのである。十字架につけられし釘の痕(あと)は、キリストに残りしように彼にも残るのである。そうしてこれ彼にとりて大いなる名誉の傷痕である。彼はこれをもって天使の前に誇るのである。(信一三・二五六)

3月25日(火)

主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。(哀歌三・二二〜二三)

恩恵は日に日に新たなり。特に朝に朝に新たなり。最も善き思想は朝来たり、最もうるわしき歌は朝わき出づ。小鳥は朝歌い、イエスは朝、復活したまえり。まことに地球は夜ごとに死し、朝ごとによみがえる。神は常時、われらと共にいましたもうといえども、特に朝、われらに教えたもう。ゆえに特に保存すべきは朝の思想である。逸すべからざるは朝のささやきである。「朝ごとに新たなり」。しかり、旧(ふる)き福音も旧き地球と同じく、朝ごとに新たなり。そしてわれらの歓喜(よろこび)は、復活の朝にその極に達するのである。(信八・二一六)

3月24日(月)

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。(ヨハネ伝一三・一)

 愛は自己を与える事、他(ひと)のために自己を捨てる事、あるいは自己を去る事であります。英語のLoveはLeaveと同じ詞であるとのことであります。ラブ(愛)するはリーブ(去る)することである。そして自己を去ることその事がLiveする事、すなわちLife(生きる事)であります。まことにうるわしい三幅対(さんぷくつい)であります。意味の深い 三幅対であります。

3月23日(日)

わが魂はもだしてただ神をまつ。わが教えは神から来る。神こそ岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。(詩篇六二・一〜二)

独立とは必ずしも他の援助を絶つの謂(いい)にあらずして、自己の有するすべての実力を活用するの謂なり。人一人は小宇宙なり。彼の内にほとんど無限の力の貯蔵さるるあり。これをことごとく活用せんか、彼はひとりの希望(正当なる)を充(み)たし得るのみならず、彼は進んで他を助け、もってなお余りあるべき者なり。依頼阿従(あじゆう)はもとこれ自己の実力を知らざるより来たるものなり。吾人各自は一大富源なり。これを開鑿(かいさく)して吾人は欠乏を感ずべき者にあらず。余輩は言う、依頼は弱性にあらずして罪悪なりと。独立は美徳にあらずして硬要的(インペレティブ)義務なりと。(信八・六四)

3月22日(土)

ペテロが言った「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起こしてやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮に入って行った。(使徒行伝三・六〜八)

イエス様、私は貧しい、かつ力の無い者でありまして、アナタと同胞のために何もなすことができません。ただこの事をなそうと思います。すなわちアナタと共に苦しもうと思います。そして苦痛の同情を私の同胞に供して、少しなりと彼らを助けようと思います。アナタが私をたすけたもうにあたっても、金や銀やその他この世の物をもってせずして、苦痛の同情をもってしたもうのを見たてまつりまして、人を助くるの最も良き方法は決して金銀を施すことは出来ない事を知りました。私にとりましたも、アナタの御同情が何よりかの慰めで、また何よりかの能力(ちから)でありますから、他人のとっても同じであろうと思います。ドウゾ私もアナタのような、人の救者(すくいて)となるように、私を助けてください。アァメン。(信七・六九)

3月21日(金)

イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわたいあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたし

 

がきょうあなたに命ずる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。(申命記一〇・一ニ〜一三)

 われに慈悲の心なきは、神がわが心に宿らないかれである。われに恐怖の心あるは、神がわれと共にいまさないからである。われに美の観念乏しく、宇宙と人生とを楽しむことができないのは、われの眼が閉じて神を見ることができないからである。われに歓喜なく、勇気なく、希望なく、常に重荷を負うて遠路を歩むがごとき感あるは、われが神を離れて独りで歩むからである。しかして、ひとりわれのみならず、国民といえども、社会といえども、神を信ぜず神を離れて、これに生ける道徳と燃ゆる希望とのありようはずはない。真の神を知る事は、われ一人にとりても、わが国民にとりても、最も肝要なる事である。(信一七・一一一) 

3月20日(木)

不信仰と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんお関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、

  「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。(コリント第二書六・一四〜一六)

 神の子にしてもしその純潔の性を永久に維持せんと欲せば、彼はよろしく聖なる単独を守りて、みだりに人の子と接触すべからざるなり。かれにしてもし彼の交際の区域を広めんことを求め、縁をこの世の勢力を借り来たりて彼の勢力を増さんことを計り、友を俗人の中に求め、縁をこの世の権者と結ぶにいたらんか、かれはその時すでに神の子たる資格を失い、塩味の去りし塩のごとくなりて、神人の共に忌みきらうところのものとなるなり。聖なる狭隘は神の子たちのつとめて守るべきものなり。人類最始の大堕落もまた広量をよそおいし神の子たちの大失錯より来たりしを知れ。(注一・一五八)

3月19日(水)

わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。(ヨブ記四二・五〜六)

かくて、われらは真正のキリスト教を信じて、真正のキリスト信者とならなくてはなりません。教会信者や、哲学的信者や、あるいは聖書的信者たるをもって満足してはなりません。事実上、神の子供となり、実際的に神の実力を授かり、キリスト教を語る者ではなくして、これを自覚してこれを用うる、ある異能(ふしぎなるちから)がわが心に下り来たり、、人もおのれもなさんと欲してなすあたわざる根本的大変化の、わが全身に施されしを感じ、その結果として、世に恐るべきものとては一つもなくなり、悪魔もわが声を聞いて戦慄(ふる)えるような、そういう人とならなければなりません。すなわちヨブと共に、神にむかって、「われ、なんじの事を耳にて聞きいたりしが、今は目をもて、なんじを見たてまつる」と断言し得るようなキリスト信者とならなくてはなりません。(信者一四・六一)

3月18日(火)

愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしれれるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。しかし、クリスチャンとして苦しみをうけるのであれば、恥じることな。かえって、この名によって神をあがめなさい。(ペテロ第一書四・一二〜一六)

迫害は、忍耐―練達―希望の母であるとともに、また神愛感得の実験を生みおこすところのものである。ここにおいてか艱難迫害の、クリスチャンにとりてますます歓迎すべきものたることを知るのである。そした迫害といえば、昔ありしいわゆる迫害の類に限らず、信仰のために受くるいっさいの不利益、苦痛、損害、犠牲をさすのである。この種の迫害は今もすこぶる多い。いな、信仰のあるとろろ必ずこの迫害が伴う。しかしながら迫害の結果として希望が生ずると共に、また聖霊くだりて、神の愛われに満ち、もってこの希望の恥を来たらせざることを示すのである。されば歓迎すべきかな、迫害苦難!これ、われらの完成せらるるためにぜひとも来たらねばならぬもの、すなわち貴き天の使いである。

 

3月17日(月)

すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生まれた者を愛するのである。神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜならば、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。(ヨハネ第一書五・一〜五)

世に勝つとは、権力をもって世を威圧することではない。また金銭をもってこれを買収することではない。また名望をもってこれを風靡することではない。ひろき、暖かき心をもってこれを容受するこである。すなわち愛をもってこれに勝つことである。世のわれに加うる侮辱、憎悪、迫害を怒らざるのみならず、かえってこれを喜ぶことである。すなわちわが心に怨恨の若きは絶えて宥恕の甘きのみ存し、尽きざる愛の甘泉のそのなかよりわき出でて永生に至ることである。これがほんとうの勝利である。かくのごとくにして世に打ち勝ちて、世は再びわれに勝つことができないのである。(注一〇・二三〇)

3月16日(日)

わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは律法の行いによるものではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。(ガラテヤ書二・一五〜一六)

信仰は単純なるを要する。単純ならざれば明瞭ならず。また単純ならざれば熱心なることあたわず。幾多の問題に思惟(おもい)を奪われ、あまたの教義に注意を分かたれて、信仰は熱心ならんと欲するもあたわないのである。自己を完うする上から見ても、また他人を救う点から考えても、信仰の単純はもっとも求むべきことである。法然上人によりて仏教が南無阿弥陀仏の六字に簡約されしときに、日本における仏教の普遍的感化が始まったのである。日蓮上人もまたよくこのことを解し、彼の信仰を南無妙法蓮華教の七文字につづめて、導化(どうげ)の大功を奏したのである。世に冗漫なる信仰の如く無能なるものはない。一言もってわが信仰をつくし得るに至るまでは、われはわがうちにおいて平らかなるあたはず、また外に向って明瞭にわが信仰をのべることができない。(注一二・四一)

3月15日(土)

わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民のなかに、わたしと事を共にする者はなかった。わたしは怒りによって彼らを踏み、憤りによってかれらを踏みにじったので、彼らの血がわが衣にふりかかり、わが装いをことごとく汚した。(イザヤ書六三・三)

私は何びとをもまねない。アウガスティンをも、ルーテルをも、ノックスをも、ウェスレーをも、ルーデーをも、その他過去現在の何びとをもまねない。私は私自身である。神は私を特別の目的をもって造り、私を特別の位地に置き、私に特別の仕事を当てがいたもうた。私は神の特別の器(うつわ)であるがゆえに、彼はわたしを特別の道に導きたもう。それゆえに私を欧州人または米国人中のこの人またはかの人に比(くら)ぶる者は私を誤表し、また私にかかわる神のご計画を誤解する者である。神は同一に二人の人を造りたまわない。人は各自、神の特別の聖手(みて)の業(わざ)である。私は神に特別に造られたる者であるがゆえに、自由独立の人である。私は日に日に彼の特別の指導にあずからんとて彼の聖顔(みかお)を仰ぎまつる。彼が私のために特別に切り開きたまいし道に私をして歩ませたまわんとて私を導きたもうその聖手に、私はすがりまつる。私は単独である。しかし単独でない。神が私と共に歩んでくださるからである。(信一八・二〇〇)

 

3月14日(金)

願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、予言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。(ローマ書一六・二五〜二六)

「神は一なり」というは、単に神は一位なりということではない。神は一体であって、その内に分離矛盾あるなしということである。単に多神教に対して一神教を唱えたのではない。不完全なる神に対して完全なる神を唱えたのである。私は一人であるが一つでない。私に内心の分離がある。罪の人はすべて二重人格である。されども神は一つである。神は完全に調和せる一体として働きたもう。斉一である。神は一なりという事の内に、われらのすべての希望がこもっている。彼は一なるがゆえに、その唯一の目的、すなわち全世界における義の完全なる実現に達せずしてはやみたまわないのである。(注一五・二〇三)

3月13日(木)

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録二一・一〜四)

クリスチャンにとりては、死は、彼の主のもとに行くことである。これに恐怖がないはもちろん、歓喜がある。肉にありては見えざるに信仰をもて仕えし主に、今は肉を離れて面前(まのあたり)見(まみ)えまつらんとするのである。死に、故郷に帰る感があるはこれがためである。よろこばしくもまた感謝すべきである。

しかして主と相見(まみ)ゆるは、愛する者と再び相会することである。われらは各自死して、ひとり知らざる所へ行くのではない。友の国に行くのである。そこに最も親密なる交際(まじわり)がある。そこに誤解もなければ疑察もない。そこに偽りのなき愛の交換がある。しかして死の川一筋を渡れば、かなたの岸にはこの愛の楽園があるのである。(信二○・二九〇)

3月12日(水)

新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。(詩篇三三・三〜五)

人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、『勇ましい高尚なる生涯』であると思います。これがほんとうの遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。そうして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわち、この世の中はこれは決して悪魔が支配する世の中にあらずして神が支配する世の中であるということを信ずることである。この世の中は悲歎の世のなかでなくして歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物として、この世をさるということであります。(信一・二五〇)

3月11日(火)

地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ書四五・二三)

外を見よ。内を省みるなかれ。日に三たび神を仰ぎ見て、おのれを省みるなかれ。健康は蒼(あお)き空にあり。清き空気にあり。広闊(こうかつ)きわまりなき神の恵みにあり。狭き室内に臭気多し。狭き胸裡(きょうり)に何の善きことあるなし。清風をして臭気を排(はら)わしめよ。聖霊をして邪欲をしりぞけしめよ。戸を開いて外気を入れよ。室内に蟄居してそこに無益の工風を凝らして、小君子たらんと努むるなかれこれに神の正義を入れて、聖き宇宙の人となれよ。(信七・一三二)

3月10日(月)

こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた。「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。(マタイ伝一三・五七)

偉大なれよ。自己の偉大なるを感ぜざるほどに偉大なれよ。また世がなんじの偉大なるを認めず、かえってなんじを不用物またはそれ以下の者とみなすほどに偉大なれよ。偉大なること、太陽のごとくなれよ。太陽はただ照るのみにて声を立てず、その存在はただ照らざる時のみ認められる。北極圏内の冬における、また熱帯国の雨期におけるがごとし。さらにまた神御自身のごとくに偉大なれよ。彼は人類にほとんど全く忘れられたまえり。その存在は今やデカルトまたはカントのごとき哲学者によって辛うじて証明されるほどまでに忘れられたまえり。偉大なれよ。平凡なれよ。平凡なるがゆえに偉大なれよ。空気また日光のごとく平凡なれよ。人に感ぜられず、また認められず、新聞記者に見出されて、その不潔なる紙上において彼らの賞賛の材料にならざるほどに偉大なれよ。しかり、何か価値ある者と成らんがために、何の価値なき者と自ら覚(さと)る者と成れよ。偉大なれよ。しかり、偉大なれよ。(伝二二・一二三)

3月9日(日)

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。(テモテ第二書二・八)

ことにわれらは、学校の試験官が生徒の学力をためすように、人の信仰をためしてはならぬ。「あなたはこの事を信じますか、かの事を信じますか」と。信仰は頭脳のことでない、心情の事である。いかほどキリストを思うか、その事である。キリストに対する情愛の起こった者が信者であって、起こらない者が不信者である。キリスト教を理解した者ではない。キリストを少しなりと愛する者である。その人がキリストにあいせらるる者で、真(まこと)の信者である。(信一〇・一〇四)

3月8日(土)

それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりがいった、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。(使徒行法伝一六・三〇〜三一)

事業ではない。信仰である。事業をなすための信仰ではない。信仰の自然の結果として成る事業である。しかり、信者の事業は信仰である。

   人々、イエスに言いけるは、われら、神の事業をなさんがために何をなすべきやと。イエス答   えて彼らに言いけるは、神のつかわしたまえる者を信ずる事、これ神の事業なりと(ヨハネ伝六・二八〜二九)

イエスを信ずること、その事が信者の唯一の事業である。そうしてもし、彼によって大事業が成るならば、なさんと欲して成るにあらずして、信仰の結ぶおのずからなる結果として成るのである。信仰の生涯はイエスを目的(めあて)に生きるのであって、事業はこれを眼中におかないのである。(信七・三二五)

3月7日(金)

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめてくださるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。(テサロニケ第一書五・二三)

 

人格は霊と体とである。霊のみでない。また体のみではない。霊が体に伴うて、完全なる人格があるのである。そのごとく、霊のみを救われて、救いは完全(まった)からず。霊と共に体が救われて完全き救いがあるのである。ゆえに霊の救いを高調せしパウロはまた「子とならんこと、すなわち、われらの身体(からだ)の救われんことを待つ」と言うた。身体の救いは小事ではない。大事である。身体が救われずして、救いは半途にして終るのである。そうして神はキリストによりて、信者に、新しい霊に適する新しき身体を与えたもうて、その救いを完成したもうのである。そうして霊の救いは今おこなわれて、身体の救いはキリストの再臨の時におこなわれるのである。われら今朽つべきこの身体を持ちて、神に似んと欲するもあたわず。万物をおのれに従わせ得る力を有したもう者に、この卑しき体をその栄光の体にかたどらしめられて、われらは初めて神の子、すなわち神に似たる者となるのである。(信一三・一六七)

3月6日(木)

主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。(詩篇一二七・一〜二)

 いわゆる伝道事業のみが伝道でない。神を信じてなす、すべての事業が伝道である。神を信じてなす農業が伝道である。神を信じてなす工業が伝道である。神を信じてなす商業が伝道である。しかり、神を信じてなせば政治もまた罪悪ならずして、ある種の伝道である。伝道をおこなわんと欲して、与えられし職業を去りて専門伝道師となる必要は少しもない。パウロは言うた、「兄弟よ、なんじら各自その召されし時にありしところの分にとどまって、神と共におるべし」(コリント前書七・二四)と。

3月5日(水)

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。(詩篇三七・五〜七)

 主は生ける神、彼はただ黙して万事を成り行きにまかせたまわず、なんじに代わり、なんじがなさんと欲することをなしとげたもうべし。神は自己を助くるものを助けたもうというも真理である。されども神は自己を神にゆだぬるものを救いたもうというは、さらに大いなる真理である。信仰は怠慢ではない。おのが道を神にゆだねまつりてその遂行を待ち望むことである。これに不断の祈祷が必要である。警戒を怠りてはならぬ。そしてかく信じかくおこないて、神がわれらのなさんと欲することをなしとげたもうは確実である。「彼これをなしとげたまわん」。信者の平安はこの一言にある。信者が信じて待ち望んで、成らぬこととてはないのである。(注五・八四)

3月4日(火)

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラテヤ書二・二〇)

 わが平和と歓喜とは、事業の成功においてあらず、知識の上進においてあらず、良心の満足においてあらず、キリストと彼の十字架とにおいてあり。彼を待ち望み、これを仰ぎ見て、われに、人のすべて思うところに過ぐる平和と歓喜とはあるなり。われを事業家と思う人、思想家と見る人、道徳家として扱う人は、わが存在の根底たるわがあがない主を知らざる者なり。(信八・二九六)

3月3日(月)

これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っていいる。(コロサイ書一・一六〜一七)

キリスト中心の宇宙なりという。ナザレのイエスは宇宙の中心勢力の顕現なりという。愛は宇宙を動かしこれをささゆるの能力である。そしてイエスの愛は、人が考え得る最高最新至聖の愛である。ゆえに「万物は彼にありて保つことを得るなり」というは決して不合理ではない。昂宿(ぼうしゅく)のくさりを結び参宿(しんしゅく)のつなぎを解くの能力は、これをその源において探(さぐ)れば、イエスに現れたるこの愛たることが判明するであろう。かくして教会の教義としてにあらず、厳正なる哲学的真理として、われらは神の啓示の下に執筆せるこの記者のこの驚くべき言を受けいるることができる。わが救い主であるイエスが宇宙の中心勢力であるという。かくしてまことに無限大そのものがわが小さき心に集中して、そこにその影を映ずるのである。(信一〇・六五)

3月2日(日)

わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行うものだけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあたたの名によって予言したではありあせんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ。行ってしまえ」。(マタイ伝七・二一〜二三)

キリスト信者とはたれぞ。洗礼を受けて教会員となりし者、必ずしも信者ではない。内部的に神のみ旨をおこなう者――事実的にイエスを主として信従する者――それがキリスト信者である。(よし形式上の形と名は何であっても)。真の洗礼は霊(聖霊)の恩化に浴せしことをいうのであって、儀文の形式に従って受けしものではない。ゆえに心の洗礼のみが真の洗礼であって、そのほまれは人によらず、神による。人の判断いかんにかかわらず、神はこれを賞(め)でたもうのである。人は外を見、主は内を見る。外を見る人の軽侮または怪訝(かいが)は数うるに足らず。内に向って与えらるる神の嘉賞のみ、貴いのである。(注一六・一一九)

3月1日(土)

なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたの間では何も知るまいと、決心したからである。(コリント第一書二・二)

神がキリストの十字架をもって施したもう救いは完全の救いである。その内に義があり、聖めがあり、あがいがあり、すべての知恵と知識とがある。ゆえに十字架を仰ぐによりて信者の救いは完成(まっとう)せらるるのである。われら義とせられんと欲するか、十字架を仰ぐのである。聖められんと欲するか、十字架を仰ぐのである。あがなわれんと欲するか、十字架を仰ぐのである。最も有効的に神と人とに仕えんと欲するか、十字架を仰ぐのである。復活につき再臨につき全き知識を得んと欲するか、十字架を仰ぐのである。恩恵はさまじまなれども、これにあずかる道は一つである。(信一二・一六八)

「二月の初めに」

二月中旬

風はまだ寒くある

土はまだ堅く凍る

青きはまだ野を飾らない

清きはまだ空に響かない

冬はまだ、われらを去らない

彼の威力は今なお、われらを圧する

 

されど日はやや長くなった

暖かき風は時に来たる

せりは泉のほとりに生(は)えて

魚は時々、巣を出て遊ぶ

冬の威力はすでに、くじけた

春の到来は遠くはない(信二二・三五三)

2月29日(金)

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。(ヨハネ伝八・三一から三ニ)

 

主義にあらず、性格なり。教理にあらず、生命なり。キリスト教にあらず、キリストなり。主義はいかに高きも、教理はいかに深きも、儀文にして、束縛なり。われらは直ちに生けるキリストにいたり、その生命を受けて、真の自由に入るべきなり。(信八・二三五)

「急がずに、休まずに」   ゲーテ (内村鑑三訳)

「急がずに、休まずに」

これぞ、なんじの胸飾り

こころの奥に留め

波風荒く吹き捲(ま)くも

花咲く小道たどるにも

世をさるまでの旗章(はたじるし)

 

「急がずに」、心して

心の駒(こま)の手綱(たづな)取れ

静かに思い、よく計り

決(き)めるて全力もて進め

急がずに、年を経て

思慮なき行為(わざ)に悔やみすな

 

「休まずに」、よく励め

過ぎ行く年の足早し

何か朽ちざる善き事業

浮き世の旅の記念物

遺(のこ)してわれの身は果つも

世々に長生(ながら)う、その栄誉

 

「急がずに、休まずに」

静かに天の命(めい)を待て

義務はなんじんの指南軍

何はともあれ正を践(ふ)め

急がずに、休まずに

戦闘(たたかい)終えて後の冠(信五・一五二)

2月28日(木)

神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、諸々の世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高きところにいます大能者の右に、座につかれたのである。(ヘブル書一・二〜三)

神はキリストをもって、キリストのために、万物を造りたまえり。神は彼自身にて完全なる者なれば、彼に万物を造るの必要はなかりしなり。彼はすなわち彼の本姓に促されてやむを得ず宇宙万物を造りたまわざりしなり。彼は一つの明白なる目的をもって、一つの明白なる手段によりて、これを造りたまいしなり。彼はすなわちキリストによりて、キリストのために、これを造りたまいしなり。山を築きし力は、おのれをむなしゅうし、しもべのかたちを取り、死に至るまで従い、十字架の死をさえ受けし忍耐力なりし。宇宙の存在する目的は、うまぶねの中に生まれし一貧児に栄えの冠をささげんがためなり。尊きかな、この教義。この教義によりて宇宙を見る時は、旧(ふる)きは去りて万物みな新しくなるなり(コリント後書五・一七)。(注一三・一〇二)

2月27日(水)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キルスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(テサロニケ第一書五・一六〜一八)

 喜べよ。感謝せよ。しかしてさらに大いなる恩恵を仰げよ。感謝は有効なる祈祷の要素なり。神は感謝なき祈祷にその耳を傾けたまわず。「それ持てる者は与えられてなお余りあり。持たぬ者はその持てるものをも奪われるなり」(マタイ伝一三・一二)。感謝は、「持てる」を証明す。感謝する者は、恩恵の上にさらに恩恵を加えらるべし。われは聖父(ちち)の前に貧困を訴えて彼の憐愍(れんびん)を乞(こ)わんと欲すべからず。むしろ富有を述べて、恩恵の加増にあずからんと欲すべし。(信八・二〇六)

2月26日(火)

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(ルカ伝一八・一三〜一四)

人は何びともおそかれ早かれ一度は神に遭遇せざるを得ない。神がわが面前にあらわれて「なんじは何ぞや」との問いをはっしたもうのである。その時答えて「われは特別に悪しきものにあらず」といわば、神は信仰にもとづく恩恵をことごとく撤回したもう。されども神にわが罪を指摘せられて煩悶、懊脳いかにすべきかを知らず、寝食を廃して悲しみ、涙をながし祈り、「神よ、われは罪人のかしらなり、いかにしてこの罪をゆるされるべきか、願わくばわれをあわれみたまえ」といいて神の前にひれ伏さんか、神はすなわちイエス・キリストの十字架を示して「見よ、なんじの永遠の生命はここにあり。これをはなれてなんじの救われる途あるなし」と教えたもうのである。しかしてかく十字架を仰ぎて救いの実験を経たるもののみが、復活を信じ再臨を信ずることを得るのである。福音的信仰の出発点は罪のゆるしの実験においてある。(注八・二八五)

2月25日(月)

そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならなねばならなかった。主ご自身、試練を受けてくるしまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。

祭司、世に貴むべき職にしてこれにまさるものはない。これまことに聖職である。唯一の聖職である。神を人に紹介し、人を神につれ行くの職、これまことに慕うべく懇求(もと)むべき職である。

人はすべて、神が彼を置きたまいしその地位にありて、善き祭司となることができる。まずナザレのイエスに教えられ、神の心の何たるかを知り、その、愛であって、恐怖でないことを知り、その、おのがひとり子をさえ惜しまずして与えたもうほどに、人を愛したもうを知り、そのおのがひとり子をさえ惜しまずして与えたもうほどに、人を愛した悲痛(かなしみ)を知り、艱難(なやみ)を知り、これによりて同情を知り、慰藉の術を知り、平和獲得の秘訣(ひけつ)を知りて、われら何びとも、神と人との間に立ちて、神を人に紹介し、人を神に導きて、祭司の聖職を果すことができる。これまことに人として最もふさわしき職(わざ)である。(信一四・一三七)

月24日(日)

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か。苦悩か。迫害か。飢えか、裸か、危難か、剣か。

 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」

  と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ書八・三五〜三九)

 失敗は失敗にあらず。失敗は成功に達する階段なり。花落ちて実(み)を結ぶがごとく、種死して芽出づるがごとく、失敗を重ねて成功は来るなり。失敗は成功の順路にほかなあらず。全き者来たらんがために、全からざる者廃(すた)るなり。されば失敗せりとて何をか悲しまん。成功の一歩近づきしを喜び、感謝して働くべきなり。(信八・四九)

2月23日(土)

小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せただらうか。またもしほかの人のもつものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。(ルカ伝一六・一〇〜一二)

偉人とは大事をなす人であると思うは大なるまちがいである。偉人とは小事に忠実なる人である。小事に忠実なるがゆえに、その小事が積もりて、彼をして大ならしむるのである。小人他なし、虚偽(いつわり)の人である。万事をごまかす人である。何事をも完全になさんと欲してその事を努めざる人である。ゆえに彼は生涯を費やして一事をも成就(じょうじゅ)し得ないのである。

  偉人たらんと欲するか?はなはだ容易である。すべてなんじの手に来る事は、力を尽くししてこれをなすべしである(伝道の書九・一〇)。誠実その事が偉大である。誠実をもって万事に当たりて、何びとも偉大たらんと欲するも得ない。世にいまだかって誠実ならずして偉大なりし人のあったことはない。(信二三・二二)

小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せただらうか。またもしほかの人のもつものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。(ルカ伝一六・一〇〜一二)

偉人とは大事をなす人であると思うは大なるまちがいである。偉人とは小事に忠実なる人である。小事に忠実なるがゆえに、その小事が積もりて、彼をして大ならしむるのである。小人他なし、虚偽(いつわり)の人である。万事をごまかす人である。何事をも完全になさんと欲してその事を努めざる人である。ゆえに彼は生涯を費やして一事をも成就(じょうじゅ)し得ないのである。

  偉人たらんと欲するか?はなはだ容易である。すべてなんじの手に来る事は、力を尽くししてこれをなすべしである(伝道の書九・一〇)。誠実その事が偉大である。誠実をもって万事に当たりて、何びとも偉大たらんと欲するも得ない。世にいまだかって誠実ならずして偉大なりし人のあったことはない。(信二三・二二)

2月22日(金)

主がわたしに味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか。主はわたしに味方し、わたしを助けられるので、わたしを憎む者についての願いを見るのであろう。主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。主により頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。(詩篇一一八・六〜九)

人に貴賎上下の別なし。彼らはすべてむなしく、また偽りなり。貴族なればとて貴からず、されば平民なればとて信ずるに足らず。貴族も平民もひとしく神にそむきしものにして、彼の目の前には滅びの子なり。これを正義のはかりに掛けんか、小数の貴族も多数の平民も、おもりに対して上にあがり、軽きこと息のごとし。さらばわれらは貴族にも頼らざるべし。平民にも頼らざるべし。帝国主義をも取らざるべし。社会主義をも唱えざるべし。われらは神に頼り、彼の福音を唱道すべし。いわゆる階級闘争に加わりて、上にくみして下を圧せざるべし。また下にくみして上を苦しめざるべし。われらは神にくみして、善はいたるところにこれを助け、悪はいたるところにこれを拝すべし。(注五・九九)

2月21日(木)

どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜るわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。(テサロニケ第二書二・一六〜一七)

そうして永遠の来世が確実になるに至りまして、価値のない今世に真個(ほんとう)の価値が付いてくるのであります。まず第一に、私どもは世をいとわなくなるのであります。この世の苦痛は来世の希望をもって慰め得て余りあるのであります。今世はまた来世に入る準備の場所として無上の価値を有するに至ります。そのもの自身のためには何の価値もないこの世は、来世(つぎのよ)と相関して、必要欠くべからざるものとなるのであります。日々の生計(なりわい)の業のごとき、そのもの自身のためには心思を労するほどの価値なきように思われますが、しかし、これによって来世獲得の道が開かるるを知って、小事が小事でなくなるのであります。しかしながら一たびこれを握るの特権を賦与されれまして、この無意味の今世が意味深長のものとなるのであります。(信一三・二六五)

2月20日(水)

そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使いが天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使いが言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子さえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。(創世記二二・一〇〜一三)

しかり、われらもまたすべて神より、われらの有するもっとも善きものを要求せられるのである。あるいは子であるか、あるいは妻であるか、あるいは財貨であるか、あるいは位階(くらい)であるか、あるいはこの世の名望であるか、あるいは時には技芸学問であるか、いずれにしろ、われら各自、おのが生命よりも大切なりと思うものを要求せられるのである。その時が信仰の大試練である。この試験に及第して、われらは、はじめて完全に神のものとなるのである。しかし、この試験に落第して、われらはその時までに得しものをことごとく失うにいたるのである。人生の大事とは実にこの時である。われら各自の永遠の運命の定まるのは実にこの時である。(注一・二〇五)

2月19日(火)

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ書八・二八)

宇宙はその細目に至るまで、神の支配したもうところのものであります。神の許しなくしては、一羽のすずめら地に落ちません。また私どもの頭の毛までがみな数えられるとのことであります。かかる世にありて、かかる神を信ずることでありますれば、私どもは何事にかかわらず安心しておるべきであります。私どもの兄弟が私どもに逆らって私どもを苦しめましょうが、私どもの友が私どもを売って私どもを死地におとしいれましょうが、私どもの事業に大妨害が起こりましょうが、これみな愛なる天の父の主宰の下になるこでありますれば、私どもに益をなすことであって、決して害をなすことでないに相違ありません。「万事(すべてのこと)は、神の旨によりて召(まね)かれたる神を愛する者のために、ことごとく働き益をなす」とは、実に慰藉(いしゃ)をもって充(み)たされたる言辞(ことば)であります。(信八・一九五)

2月18日(月)

主をほめたたえよ。わが魂よ、主をほめたたえよ。わたしは生けるかぎりは主をほめたたえ、ながらえる間は、わが神をほめうたおう。もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。その息がでていけばかれらは土にかえる。その日にはかれらのもろもろの計画は滅びる。ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。(詩篇一四六・一〜五)

疑問あり煩悩ある時、ただちに解決し得べきものではない。ただ必ず神より解答を賜る時あるべしと信じて、希望を持っていまの痛苦を慰むべきである。いそぐなかれ。あわつるなかれ。神を待ち望め。静かに待望せよ。これ暗中に処する唯一の健全なる道である。(注四・一八八)

2月17日(日)

天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見出すと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。(マタイ伝一三・四四〜四六)

福音を安く売るなかれ。福音を安く買うなかれ。真理の価値は払いし代価によりて定まる。多く払いし者は多くこれを貴び、少なく払い者は少なくこれを貴ぶ。高き代価を払いて福音を求め得し者にして、これを捨てし者あるを聞かない。背教者はたいていは安く福音を買い求めし者である。(注一五・一六四)

2月16日(土)

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であて、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。(エペソ書二・八〜十)

キリスト教の修養!これ座禅でもなければ読書でもありません。キリスト教の修養は、祈祷をもって神と交わることであります。聖書において神の聖旨を探ることであります。そうしてそのあとは畑において、職工場において、また帳場において、神より賜りし能力(ちから)を実行することであります。なんと常識にかのうたる、また、なんと有益なる修養法ではありませんか。(信二二・二九)

2月15日(金)

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なんだからである。(コリント第一書三・十六〜十七)

いかにして聖霊をうけんか。これ問題である。密室の熱烈なる祈り、ひとり山中に分け入りて谷川の調べと鳥の歌に合わせてささげる静かなる祈り、それも貴くもあり、また必要でもある。しかしこれのみにては聖霊の恩賜にあずかることはできない。これのみに訴うるははなはだ不充分である。神の霊は「神の宮」に下る。集会の上に、油と露と炎とは下る。そしてこれが会衆の上にわかれて下るのである。過去において、聖霊はおおむねかくのごとくにしてくだった。ゆえに今においてもしかり。また将来においてもしかあるであろう。集会の必要、祈祷会の必要、共に福音を学び共に父に祈る必要は、ここにおいて起こるのである。孤立は大なるわざわいである。聖霊の下賜を妨ぐることである。われらは相つらなり相結びて、全体において一つの「神の宮」を形造り、この宮の上に一つとしてくだる聖霊を各自が分与せらるるよう努めねばならぬ。(注十六・一七六)

2月14日(木)

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリント第二書十二・十)

私どもの生涯に多くの苦難(くるしみ)と悲哀(かなしみ)とがあります。私どもが臨んで欲しないことが臨み、臨んで欲しい事が臨みません。私どもの祈祷の多分は、充(み)たされない祈祷(ねがい)として消えてしまいます。そのことを思う時に、神の存在が疑われ、私どもは何ゆえにキリスト信者に成ったのであるか、その理由を知るに迷います。しかしながら聖書は明らかに私どもに示します。それは私どもにとり実はどうでもよいことでありますと。神の聖意さえ成れば、それでよいのであります。私どもが世につかわされたのは、幸福を楽しまんためではありません。神の大なる事業に参加せんためであります。そしてそのためには幸、不幸は選ぶところではありません。もし死がそのために必要でありますならば、「アァメン、主を賛美せよ」であります。不幸、患難、辞するに及びません。しかり、最大の幸福、最大の恩恵は、自分のために何の求むるところなくして、ただ神の聖意の成らんことをのみこれ願うそのこころであります。(信一五・九五)

2月13日(水)

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント第一書十三、十三)

世に永存する(つねにあるの意)もの三つあり。信、望、愛これなり。その他すべて一時的のものなり。われらが神を信ずるの要なき時はあるべからず。われらが神の恩恵を待ち望まざる時とてもまたあるべからず。しかして神を愛せずしてわれらは死す。永遠の生命とは信、望、愛の生涯なり。われらの生命がこれら三者に単帰(シンビリファイ)するにおよんで、われらの永遠の生命は始まるなり。

信、望、愛の三者はひとしく永存す。されどもそのうちもっとも大なるものは愛なり。三位の神は父にありて合一するがごとく、永遠の三姉妹は愛にありて合体す。信をもって立ち、望によりて進み、愛に至りて足る。愛は人生の終極点なり。ここに至って人は神のふところに入り、神の子となりて永遠に生存す。「そは神はすなわち愛なればなり」(ヨハネ第一書四・八)(注一二・一一五)

2月12日(火)

主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いのこころにかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしらの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。(イザヤ書六一・一〜三)

かくしてわれは神の恩恵の器具となりて、ひとり密室にありて、あるいは田圃(でんぽ)に労して、彼の善き、かつ能(ちから)ある伝道師たることができる。わらは深く篤(あつく)く彼を信じて、一言を発せず一字を書かずして、効力(ちから)ある伝道をおこなうことができる。そうしてかかる有力なる伝導は常に世におこなわれつつある。そうしてかかる伝導がしずかに隠れたるところにおこなわれつつあるがゆえに、ラッパと太鼓とをもってする伝道師らの伝道が多少の功を奏するのである。最も有力なる伝道は無声の伝道である。「語らず言わず、その声聞こえざるに、その音響(ひびき)は全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで及び」とある伝道である。自己を真理の試験物に供し、深く究め、深く苦しみ、深く救われ、深く喜びて、われら何びとも神の善き伝道師たることができる。(信一七・五二)

2月11日(月)

すべて神からうまれた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生まれたかたが彼を守って下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。また、わたしたちは神から出た者であり。全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けてくださったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。(ヨハネ第一書五・十八〜二十)

 しかり、信である。信である。ある時は道理に反して信じ、望みに反して望む。しかして信と望とにおいて平康(やすき)を求むるのである。しかして人のすべて思うところに過ぐる平康はかくのごとくにして獲(え)らるるのである。神、キリストにありて、人の罪を取り除きたまえりという。われはこの事を信ずる。信じて疑わない。しかしてもはやわが罪について心を悩まさない。罪の余勢は今なおわれのこるのである。されどもわが罪そのものはすでにキリストにありて取り除かれたのである。その意味において聖ヨハネの言は真(まこと)である。「われらの罪を除かんが為に主の現われたまいしことはなんじらの知るところなり…おおよそ彼におる者は罪を犯さず…また罪を犯すことあたわず」(ヨハネ第一書三章)と。わがために十字架に挙げられたまいしキリストを信ずるによりて、わが罪の根本は絶たれたのである。(信一二・一六一)

2月10日(日)

あなたは彼らを恐れてはならない。あなたの神、主である大いなる恐るべき神があなたのうちにおられるからである。あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう。あなたはすみやかに彼らを滅ぼしつくしてはならない。そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう。しかし、あなたの神、主は彼らをあなたに渡し、大いなる混乱におとしいれて、ついに滅ばされるであろう。(申命記七・二一〜二三)

遅鈍なるべし。事をなすに、充分に時を取るべし。小事をもって満足すべし。ただ善くなさんことを努むべし。「信ずる者は急がざるべし」(イザヤ書二八・一六)と聖書は言う。神はその聖子をもって、われらがなすべき事を、われらに代わってなしたもうた。今や残るは、われらが此所彼所(ここ、かしこ)において、その苦しみの欠けたるところを補うことのみである(コロサイ書一・二四参照)。クリスチャンは全能なる神の紳士(あるいは淑女)なりという。しかも常に急ぎつつある者は紳士にあらず。救いはすでにわれらのために完成せられた。目的物はすでに獲(え)られた。永世はわれらの前に横たわる。神はわれらと共に働き、わられは神と共に働きつつある。快いかな、快いかな。(信二三・一一三)

2月9日(土)

神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けてくださった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。(コリント第ニ書五・一八〜一九)

金と銀とはわれにあるなし。われはこの世の財をもって人を助くるあたわず。

    われはキリストの福音をもって人を助けん。

われは交際の術を知らず。ゆえに権者の間に友人を有せず。われは権力をもって人を助くるあたわず。

    われはキリストの福音をもって人を助けん。

 われに技芸なし。われは美術と美文とを解せず。われは人を楽しましむるの術を知らず。

    われはキリストの福音をもって人を助けん。

 われに才能なし。われは処世の道に暗し。われは知略をもって人を助くるあたわず。

    われはキリストの福音をもって人を助けん。

われはすべての物とすべての方法とをもってすべての人を助くるあたわざるを悲しむ。

されどもただ少しく、神はその性において愛なるを知れば、われはこの単純なる福音をもって、涙の谷を歩むこのあわれむべき人類を、わずかなりとも助けかつ慰めんと欲す。(信七・二九六)

2月8日(金)

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう。「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませあましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。」すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。(マタイ伝二五・三七〜四〇)

いかに心強きことよ。われらが主の名によりてなす、すべての小なる善行は、多くの場合に認められず、時には突き返さるることありといえど、しかもむなしからず。無用ならず、無効ならず、宇宙の大御心の記憶に存し、受納せられ、嘉賞せられ、そして、ある時、ある所において、ある形をもって報いらるというのである。実に神の宇宙は大銀行であって、これに預けし善行は決して失われず、一方において失われしがごとく見えしものは、他方により帰り来たる。しかも元のままにて帰りきたるにあらず、聖手(みて)にゆだねまつりし信仰の量に従いて、利息を付けられて帰り来たる。されば「われら、善をおこのうて倦(う)むべからず。そは、もし、たゆむことなくば、時に至りて必ず刈り取るべければなり」(ガラテヤ書六・九)。(信二二・一〇二)

2月7日(木)

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。(ローマ書八・二六〜二七)

私は自分自身で祈りません。私は神様に、私に代わって祈っていただきます。霊なる神様が私の内に宿りたまいて、私を通して神様の聖意(みこころ)を祈り求める事、時には言いがたき歎きをもって、それが本当の祈りであります。哲学的には不可解であります。しかし実験的には真理であります。この神様が、その子供の内にありて、かれらを通して神様に祈りたもうというは、それはまことに私の祈りであります。なぜなれば、私が神様に祈って頂くのであるからです。そしてその内容が、私の欲や望みでなくして、神様の聖き聖意であるがゆえに、必ずその聖前に受けられて、きっと聞かるるのであります。自己を無きものとすることは、祈願をもって神にもの言う時にすら必要であります。私どもは神様に、神様が私どもに代わって祈ってくださるように祈らなければなりません。(信一六・二二〇)

2月6日(火)

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。(マルコ伝一・十二〜十三)

聖霊、イエスを荒野に追いやるという。神の霊また度々イエスの弟子を荒野に追いやりたもう。あるいは大責任をかれにになわせ、あるいは大思想を彼に与え、あるいは大疑問を彼の内に起こして、彼をしてやむを得ず寂寞の内に光明を探らしめたもう。荒野は時には深山である。砂漠である。あるいは人の作りし修道院である。しかしてまた山に退かずとも、または寺に隠れずとも、心の内に荒野を作られて、身は都会雑踏のちにあるといえども、霊は荒野をさまよいて悪魔に試みらるるのである。キリスト信者はだれでも一度は必ず荒野に追いやられるのである。

その時、彼はなんとかく不安に感ずる。人生がつまらなくなる。恐れる。おののく。真っ暗になる。その時、いろいろのささやきが心の耳に聞こえる。実に彼にとり人生の危機である。われらはすべて各自一度は荒野に追いやられるのであると知って、孤独寂寞を感ずるといえども、決して失望してはならない。(注一五・二○)

2月5日(火)

わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あたたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。(テモテ第一書六・七〜一ニ)

 金銭の要はこれを有益に消費するにあり。消費すべきものを蓄積すれば腐蝕(ふしょく)するはもちろんなり。他物の腐蝕は、その物自身の腐蝕にとどまれども、金銭の腐蝕はひいて精神に及ぶ。もし憂鬱的(ゆううつてき)思想を去らんと欲せば、もし常に快活にして生命の真意を味わわんと欲せば、吾人は守銭奴を放棄し、銭を捨て想を得るの道を講ぜざるべからず。(信一九・五一)

2月4日(月)

すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。(ガラテヤ書三・五)

宗教にニ種ある。ただ二種あるのみである。すなわち自力宗と他力宗と、これである。儒教、神道、回教、ユダヤ教、みな自力宗である。そして浄土門の仏教は他力宗であるが、絶対的他力宗でない。信仰を救いの条件として要求する宗教は、いまだ絶対的他力宗と称することはできない。信仰そのものを神のたまものと見るに至って、宗教は絶対的他力宗となるのである。そうしてキリストの福音はかかる宗教である。すなわち絶対的他力宗である。いわく、「なんじらの信ずるは、神の大能の感動によるなり」(エペソ書一・一九)と。信者の信仰そのものが神のたまものである。ゆえに誇るの余地が寸毫(すんごう)ないのである。ただ祈るのである。祈り求めるのである。そうして、その祈る心をさえ祈り求めて、これを与えられて、神に感謝するのである。造られし人は、造りし神に対して、絶対的服従に出づるよりほかに、取るべき態度はないのである。信仰の道はつまるところ、祈り求むるの道にほかならないのである。(信一四・六六)

2月3日(日)

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル書一一・一)

冒険の無き人生に興味なく、信仰の無き生涯に意義が無い。万事が科学化せられて、何事も計算的に予知せらるるに至って、人生は機械化せられて、生くるの甲斐(かい)なきに至る。そして生命が生命である間は、その科学化は永久におこなわれない。信仰は生命の必然的付随物である。生命そのものが大なる冒険である。死せる物質界にありて存在を維持せんとするのである。この宇宙に生まれ出でし以上、冒険はまぬかるべからず。信仰は廃すべからず。(信一六・四五)

2月2日(土)

言いつくせない賜物ゆえに、神に感謝する。(コリント第二書九・一五)

われに大いなる歓喜(よろこび)あり。世はこれをわれより奪うあたわず。われはまた好んでこれを人に分つあたわず。そは、これ、神がわれに下したまいし特別の恩賜(たまもの)なればなり。世はもちろん、その何物たるかを知らず。神より同一の恩賜にあずかりし者のみ、その何ものたるかを知る。これ聖霊(みたま)の恩賜なり。これにまさりて貴きもの、全宇宙にあるなし。これを賜りて、われらは他に何の求むるものなきに至る。これありて、われらは足れり。ころを心に受けて、われらはすべての苦痛(くるしみ)を忘る。この恩賜に接して、われらは、神は全然愛なるを知る。この恵みにあずからんためには、われらはいかなる困苦(くるしみ)に会うも可(か)なり。今に至ってわれは初めて知る、天にあるもの、地にあるもの、あるいは高き、あるいは深き、あるいは今にあるもの、あるいは後にあるもの、その他何ものも、われらを、わが主イエス・キリストによれる神の愛より離らすることあたわざるを。(信八・二〇二)

2月1日(金)

アブラハムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた。

   「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国国の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。(創世記一七・三〜八)

神は誠信(まこと)なり。彼は自己を信ずる者を欺きたまわず。彼はまず自己を与えたまいて、しかる後に、彼の造りし物を与えたもう。まず自己をアブラハムに現したまいて、しかる後に、彼の数多き子孫にカナンの土地をあたえたまえり。信仰の報償は、先に、霊にして、後に物なり。約束の「物」は人を導いて、約束の「霊」にいたらしむ。われら、神を信じて、物を得ざればとて悲しむべからず。そは、まず霊を与えられて後にまた物をも豊かに与えらるべければなり。(信一六・二八八)

 

年の初めに

一日は、私どもにとりては短き一生涯であります。朝生まれ、昼働き、夜は復活の希望をいだきて眠りの床につきます。かくて私どもには一年三百六十五回の生涯があります。なんと楽しいことではありませんか。

 神の命さえ守ればよろしいのであります。世がいかに成り行こうが、人が私どもについて何と思おうが、これ私どものいかんともすることのできないことであります。私どもは正義ありのままを実行して、他はこれをことごとく神に任すまでであります。幸福なる生涯の秘訣は、単にこの一事にあると思います。(信一九・七六)

「一月の終わりに」

労働を恥とするなかれ。われらの救い主イエス・キリストはご自身労働者なりしなり。最も高尚なる事業は読書にあらず、福音の神髄は読書によらず、労働によりて知るを得るなり。

なるべく他人の労を減ぜんことを努むべし。一人、事をなさずといえども家事は整うべし。されども一人、事をなさざれば、ある他の者が彼に代わってこれをなさざるべからざることを記憶すべし。他人をして自己の責任を負わしむるなかれ。

 物品の浪費を慎むべし。これ、いわゆる倹約のためにあらず、神の造りたまいし物をたいせつに思うてなり。神は無益に何物をも造りたまわず。ゆえに、われらは何物をも浪費するべからざるなり。

清潔を重んずべし。清潔に内外の差別あるべからず。心を清くすると同時に、身とその周囲を清くすべし。清潔は多くの時間を有せず。ただ僅少の注意を要するのみ。心において聖徒なれば身の清潔を顧みずというがごときはこれ不信の言なり。内に清き者は必ず外に清からんことを欲するなり。(信二〇・五四)

1月31日(木)

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助けだされる。(詩篇三四・一八〜一九)

人々に臨む患難は種々さまざまである。しかして各自に臨む患難は、その人にとり必要欠くべからざる患難である。彼をきよめ、彼を錬(きた)え、彼をして神の前に立ちて完全なる者とならしむるために、ぜひとも臨まねばならぬ患難である。かくのごとくにして、ある人は家庭の患難を要し、ある人は病の患難を要し、ある人は失恋の患難を要し、ある人は貧困の患難を要し、ある人は失敗落魄(らくはく)の患難を要するのである。人各自の悩む病にしたがい特殊の薬を要するがごとくに、各自の欠点を補うために特殊の患難を要するのである。患難は前世の報いではない。来世の準備である。刑罰ではない。恩恵である。われはわれに臨む特殊の患難によりて、楽しき神の国に入るべく磨かれ、また飾られ完全(まっと)うせらるるのである。されば人は何びとも彼に臨みし患難を感謝して受くべきである。(信一八・一四九)

1月30日(水)

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(ヨハネ第一書四・九〜一〇)

 わが罪の問題ではない。神の恩恵の問題である。われがいかほど神を愛するかの問題ではない。神がいかほど、われを愛したもうかの問題である。われがまず、おのれに悔いて神と和らぐのではない。神が罪人と和らぎ得る態度におのれを置きたもうによって、われは彼と和らぐことができるのである。

   すべてのもの、神より出づ。彼、キリストによりて、われらをして、おのれと和らがしめたもう(コリント後書五・一八)

とある。まことにすべては神より出づるのである。わが悔改も、信仰も、謙遜(けんそん)も、しかしてその結果としてわれに臨む平和も、希望も、終極の救いも、すべて神より出づるのえある。かくてわれはますます、わが罪の深きを知り、これに対する神の愛の限りなきをさとるのである。(信七・四四)

1月29日(火)

わが思いは、あなたがたの思いとはこと異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると、主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ書五五・八〜九)

キリスト教はいわゆる宗教ではない、神より人への啓示である。宗教は人が神を求むるものであるが、キリスト教は神が人を求むるものである。ゆえに前者は、人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はただ神の恩恵の受納を主眼とするのである。自己が種々の方法をめぐらして神に近より行くのが普通の宗教であった、ただ恩恵を受けて感謝喜悦に入るのがキリスト教である。かく、この世の宗教と、神よりの啓示たる福音は相違している。地の産と天の産との間にある根元の相違があるのである。(注一七・二四五)

1月28日(月)

弟子たちは、イエスが海の上をあるいておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐにかれらに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答え言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとにゆかせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上をあるいてイエスのところへ行った。(マタイ伝一四・二六〜二九)

まことに世の不安なる、こんにちのごときはない。いずれの方面を見ても、底なき泥海のごときありさまである。政治、経済、教育、宗教いずれも不安である。社会はその根底よりくつがえされんとしつつある。もし人は単に社交的動物であって、彼は社会と運命をともにすべきものであるならば、われらは社会ののみ去るところとなりて、しかるのちに、社会とともに永遠の深淵ののみ去るところとならねばならぬ。かく思うて、生くることそのことが、たえがたき苦痛である。されども動揺きわまりな世の荒海の上を、神の子は静かにあゆみたもう。そしてわれら信仰の眼を彼にそそいで、彼とともに海の上をあゆむことができる。彼を仰ぎみるべきである。周囲に目をくばるべきでない。されば千人はわが右にたおれ、万人はわが左にたおれるとも、彼によるわれらは安全である。(注八・二六八)

1月27日(日)

わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。(詩篇二三・六)

主の宮にすむとは神とともに住むの意ならざるべからず。あるいは碧空の下、緑草の上においてするも、あるいは古人を友とする著述家の書室においてするも、あるいはもし神の命となら錦繍の椅子に坐して民の政治をつかさどることあるも、あるいは野にたがやすも、工にはたらくも、わが身心を神にゆだね、神とともにはたらき、神とともに眠りにつかんのみ。われはふたたび神を離れて王公の宮殿に消ゆる栄華を求めんとはせじ。われはふたたび真理をさぐると称して神を有せざる哲理にわれの心をまかせじ。われは神以外に美と真とをたずねざるべし。われは永久に神の宮に住まんと欲す。貧者の茅屋か、獄牢のうちか。神のいます所ならんにはわれはわが住所をえらばざるべし。幸福なるかな、われ。われはわが心において永久に主の宮に住むを得るなり。(注五・四五)

1月26日(土)

わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。(詩篇二三・六)

神は誠信(まこと)なりという。祝うべきかな、この言や。神は誠信なり。ゆえに変わりたまわない。彼はその計画したまいし事を必ず実行したもう。彼がわれらをその子イエス・キリストの交際(まじわり)に召(まね)きたもうたのである。しかり、「彼」である。われら自身ではない。われらの意志または決心または努力ではない。ゆえに、われらは安全である。われらの救いは保証されたのである。「なんじらを召(まね)く者は誠信なり。彼、この事をなしたまわん」(テサロニケ前書五・二四)とあるごとし。しかるがゆえに、人も悪魔も、政府も教会も、帝王も監督も、天の機能も地の勢力も、しかり全宇宙そのものも、われらを神の愛より離らせ、われらの救いにかかわる彼のご計画を失敗無効に終わらしむることはできない。神は誠信である。ゆえにわれらが救わるる希望は確実(たしか)である。わららの不信、誤謬(ごびゅう)、不完全、たびたび犯す罪、おちいる堕落、すべてこれあるにかかわらず、われらが救くわるるは確実である。(信九・九一)

125日(金)

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(コリント第一書一三・一〜七)

勝つこと必ずしも勝つにあらず。負けること必ずしも負けるにあらず。愛すること、これ勝つことなり。憎むこと、これ負けることなり。愛をもって勝つことのみ、これ永久の勝利なり。愛はねたまず、誇らず、たかぶらず。永久に忍ぶなり。しかして永久に勝って、永久の平和を来たす。世に戦闘のやむ時は、愛が勝利を占めし時のみ。(信八・二八〇)

1月24日(木)

あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能の限界を窮めることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか。その量は地よりも長く、海よりも広い。(ヨブ記一一・七〜九)

世に不幸なこと多しといえども、信仰と知識とが分離するがごときことはない。信仰は信仰、知識は知識、二者互いに相関せずと言いなして、二者共に衰萎し、ついに枯死す。知識のない信仰は迷信に走り、信仰のない知識は器械と化す。二十世紀文明のここに至りしは、十八世紀に始まりし信仰と知識との分離の悲しむべき結果なりと言わざるを得ない。「神の合わせたまえる者、人これを離すべからず」(マタイ伝十九・六)である。信仰もし妻なれば知識は夫である。そうして夫婦は二つにあらず、一体である。男を解する者は女、女を解する者は男である。男女を分離して、人生は破壊されざるを得ない。知識を解するものは信仰、信仰を支持するものは知識である。信仰、知識と離れて、文明はその根底より破壊せらる。世に恐るべきものにして、信仰の無い知識と知識の無い信仰のごときはない。(信十六・一〇四)

1月23日(水)

人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。(箴言一九・二一)

おのが天職を知らんと欲する者多し。言う、われにしてもしわが天職を知るを得んか、われはわが全力を注ぎてこれに当たらんと。

 人よ、なんじはなんじの天職を知るを得るなり。なんじは容易にこれを発見するを得べし。

  なんじの全力を注ぎて、なんじが、今日従事しつつある仕事に当たるべし。さらば遠からずしてなんじはなんじの天職に到達するを得べし。なんじの天職は、天よりの声ありてなんじに示されず。なんじはまた思考を凝らしてこれを発見するあたわず。なんじの天職はなんじが今日従事しつつある職業によってなんじに示されるなり。なんじは今やなんじの天職に達せんとしてその途中にあるなり。なんぞ勇気を鼓舞して進まざる。なんぞ惰想にふけりて天職発見の時期を遅滞せしむるや。知者あり、いわく

    すべて、なんじの手に堪うることは、力を尽くしてこれをなすべし(伝道の書九・一〇)

と。このほか、べつの天職発見の道あるなし。平々坦々たる道なりといえども、その終点は希望の町なり。感謝と歓喜の都なり。(信二〇・一三九)

122日(火)

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエスキリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。(ガタテヤ書三・一三〜一四)

キリスト教に入る唯一の正道は罪の観念である。人が自己の罪に覚め、自己の、永遠に罰せらるべき罪人たるに気づき、いかにしてその無限の呪詛(じゅそ)より脱するを得んかと思い煩いて苦悶し、救拯(たすけ)の道を探し求めてやまざる時に、神の備えたまいし、その聖子が十字架の上に血を流して遂げたまいし罪の消滅の福音に接して、これを信じ、これによりすがりて、ただひとえに天父の恩恵により、生命を授けられんことを祈り求めて、罪の身そのままを聖前(みまえ)に投げ出すに至って、初めてキリスト教の真理の何たるかがわかるのである。この道を取りし者にとりては、キリスト教は単に身の慰安でなく、人生哲学でなく、社会事業でない。わが永遠の安危にかかわる最大重大問題である。そしてこの問題が、キリストの十字架上の死の苦難によって完全に解決せられて、彼は他に何ものをも要求せざるに至る。すなわち彼は自己の罪においやられてキリストにいたり、キリストによりて神を解するに至ったのである。(信一五・一〇八)

1月21日(月)

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。(ヨハネ伝五・二四)

われら、キリストを信ずる者の希望は、死してこの世を去りて直ちに天国へ行く事ではない。その事は善き事であろうかも知れない。しかし最も善き事ではない。われらの希望は、死して再び、よみがえり、聖められたるこの地において、キリストと共に義の生涯を楽しまん事である。この地は元より汚れたる所ではない。人類の犯したる罪のゆえに、のろわれたる所たるにとどまる。その罪にして除かれんか、この地はもことに神の造りたまいし楽園である。悲惨とは、楽園たるべきこの地が涙の谷と化したることである。ゆえに希望とは、この地が元の楽園に化し、聖徒がその中に聖き義(ただ)しき生涯を送らんことである。そうしてキリスト信者の希望とはこの希望であるのである。(信一三・二一七)

1月20日(日)

主に感謝せよ。主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。もろもろの神の神に感謝せよ。そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。もろもろの主の主に感謝せよ。そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。ただひとり大いなるくすしきみわざをなされる者に感謝せよ。そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。(詩篇一三六・一〜四)

感謝は信仰の主要分子である。感謝の心なくて真の信仰はない。また真の信仰のあるところにはかならず感謝あふれる。信仰これ感謝の心であるといいて決していいすぎでない。理解があり、熱心があり、活動があるところにても、感謝のないところに、生きたる、あたたかい、くつろいだる信仰はない。義務に追われる信仰であってはならない。感謝に浮ぶ信仰でなくてはならない。努めざるにおのずから歌となり善行となりて外に現るる信仰でなくてはならない。(注五・一三四)

1月19日(土)

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命(いのち)があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ伝一・一〜五)

私は普遍的真理を探る。これを私の家において、私の書斎において、私の霊魂の内に探る。私はこれを得んがために広く世界を遍歴(めぐ)る必要はない。また大会と称して集合するにあらざれば知者たるあたわざる男女の集合に列するに及ばない。私は何びとにも適合する真理を探る。すべての人を照らす真の光を求む。人種、民族、宗教、教派の差別なく、すべての人に当てはまるべき真理を探る。普遍的真理は、それが広くあるだけ、それだけ、深くある。まことに人生の価値はここにある。すなわち人の生命においてのみ宇宙の中心真理が現れるからである。そして人は、おのが内にこれを発見し、自身、宇宙人物となりて、自己ならびに世界に超越することができる。(信二二・一四七)

1月18日(金)

わが子よ、聞け、わたしの言葉をうけいれよ、そうすれば、あなたの命の年は多くなる。わたしは知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。あなたが歩くとき、その歩みな妨げられず、走る時にも、つまずくことはない。教訓をかたくとらえて、離してはならない。それを守れ、それはあなたの命である。(箴言四・十〜十三)

まず第一に信仰の人たれよ。信仰は人格の骨子なり。信仰なくして、人は道徳的無脊椎(むせきつい)動物と化すなり。

第二に知識の人たれよ。知識は神を見るの能力(ちから)なり。知識によらずして、ひろく深く神を愛するにあたわず。

第三に健康の人たれよ。肉体の健康はもちろん信仰を曲げてまでも保持するの価値あるものにあらず。されども百年に満たざるこの生命もわれらにとりてはまさに永生の一部分なり。これを善のために使用して、でき得るだけ長くこれを楽しむは神の聖旨なり。われは生くる間は勇ましく生きて、勇ましく死するための準備をなさざるべからず。

信仰と知識と健康、この三つのものは常に貴し。しかしてそのうち最も貴きものは信仰なり。(信七・一三六)

1月17日(木)

わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物をもっている。(コリント第二書六・八〜十)

クリスチャンはキリストのしもべである。おのれに死して、キリストが彼に代わりて彼の内に生きたもう者である。かくのごとくにして、クリスチャンは規則の人ではない。意志の人ではない。また思惟(しい)の人ではない。情の人である。しかも聖められたる情の人である。ゆえに彼は、教会者には気ままの人のごとくに見える。道徳家には非倫の人のごとくの見える。哲学者には無学の人のように見える。しかしながら彼は自由の人であると同時にまた束縛の人である。意志の人であると同時にまた情の人である。学究の人であると同時にまた歌の人である。クリスチャンは、生けるキリストがその内に在(あ)りて働きたもう者たるよりほかの者ではないのである。(信一九・二三六)

1月16日(水)

人の歩みは主によって定められる、人はどうして自らその道を、明らかにすることができようか。(箴言二〇・二四)

神様、私がなさんと欲する事は成りません。また他人(ひと)が私をもってなさんと欲する事も成りません。ただ貴神(あなた)が私をもってなさんと欲したもう事のみが成るのであります。神様、ドウゾ貴神が私をもって何をなさんと欲したもうか、その事を教えてください。ソウしてその事の私にわかった以上は、私が、私に力あると、ないとを顧みることなく、また他人に遠慮することなく、ただ大胆にその事に従事することのできるように私を助けてください。アァメン。(信七・三二三)

1月15日(水)

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。(ヨハネ伝一四・六〜八)

人生の目的は神を知るにある。その他にない。金をためるのではない。人にほめられるのではない。哲学と美術とを楽しむのではない。神を知るにある。これが人生の唯一の目的である。この目的を達せずして、人生は全く無意味である。ほんとうの夢である。この目的を幾分なりとも達せずして、最も成功せる生涯も失敗である。われらは年の初めにあたって再びこの事を深く心に留むべきである。(信二〇・二五六)

1月14日(金)

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命をあたえるためである。(マルコ伝十・四十五)

贖罪とは、人に仕うることである。人のために善をなすことである。他人のために尽瘁(じんすい)することである。すなわち自己を他人に与うることである。兄弟の負債に苦しむを見て、これをおのれの関せざることとして見ることなく、みずから進んで彼を負債の束縛より救わんとすることである。しかして罪は最大の負債であれば、神は、キリストにありて、人類のこの負債を除かんとなしたもうのである。神にしてもしこの心をいだきたまわざらんか、彼は神と称するに足りない者である。この心はこれ、われら、罪に沈める人類にすら多少存するものである。まして神においてをやである。神もし神たらば、彼はあがない主でなければならない。彼は進んで人の負債をおのれに負い、これをその苦痛よりまぬかれしめんとなしたもう者であるに相違ない。しかしてキリストは神のこの心を体して世にくだりたもうた者であって、われらは彼によりて、神はまことにわれらの理想にたがわず、われらのあがない主であることを知るのである。(信一二・四七)

1月13日(日)

地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。(詩篇二四・一〜五)

 余は間暇(ひま)さえあれば読書にふけっている。余はもちろん読書は特別の美徳であるとは信じない。読書は余にとりては一つの道楽である。しかり、唯一の道楽である。しかし、読書は道楽であるが、悪い道楽ではないと思う。これによって、多くの無益の書と少なからざる有害の書を読むの害はあるが、しかし時には有利有益の書に接して、心に無限の快楽を感ずることがある。世に快楽の種類は多いが、真理を発見した時にまさるの快楽はない。その時われらは宇宙をわがものになしたるように感ずる。おのれ陋屋(ろうおく)にありて一人の貧生であるにかかわらず、王子か貴公子になったように感ずる。しかしてこの快感がほしさに、毎日毎時、書籍をあさるのである。あたかも墨川(ぼくせん)に釣(つり)を垂るる者のごとく、獲物(えもの)のまれなるは覚悟しつつ、獲(え)た時のうれしさが忘れられずして、真理の漁猟に従事するのである。(信二〇・一二三)

1月12日(土)

ああ、わたしはわざわいだ。わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか。全国の人はわたしと争い、わたしを攻める。わたしは人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに、皆わたしをのろう。主よ、もしわたしが彼らの幸福をあなたに祈り求めず、また敵のため、その悩みのときと、災いのときに、わたしがあなたにとりなしをしなかったのであれば、彼らののろいも、やむをえないでしょう。(エレミヤ書十五・十〜十一)

イエスに高き深き強き愛国心があった。ゆえにわれら、彼の弟子にもまたこれがなくてはならない。われらもまたわれらの国を愛さなくてはならない。すなわちその外敵よりも内敵を憎まなければならない。われわれの中にもまた多く存在する学者とパリサイ人の類を、彼らの面を恐れずして、偽善者よ、まむしのたぐいよと呼ぶの勇気をもたなければならない。すなわち剣をもってせずして義をもってして国を救うの行為に出でなければならない。かくのごとくにわれらの愛国心を使用して、われらもまた、イエスがその国人に憎まれしがごとくにわれらの国人に憎まれるに相違ない。かくなして、ある種の十字架はわれらの上にもまた置かれるに相違ない。しかしながら、国にかくのごときの愛国者が出でずして、その国は長く保つことはできない。われらもしまことにわれらの国を愛するならば、われらは十字架につけらるるも、イエスのごとくにわれらの国を愛さなけらばならない。(信一〇・一七七)

1月11日(金)

主はエリヤに言われた、「わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。(列王紀上十九・十八)

独立Independenceと孤立Isolationとはちがう。独立は神と共に独(ひと)り立つ事であって、孤立とは何者とも共に立つあたわざる事である。神と共に立ちて、人は独りでも立ち得ると同時に、たいていの場合には他(ひと)と共に立つ。そは神と共に立ちて、神の友をわが友とせざるを得ないからである。独立すれば孤立するとは、徹底的に独立を試みたことのない者の言う申し分である。独立すればめったに孤立しない。世に実は独立人ほど多くの同志を持つ者はない。かつてカーライルが言いしがごとくに、人類の共同一致は各人が独立する時に実現する。独立人は独立人を愛する。そして独立人が結合した時に最も強固なる団体が実現する。もちろん結合するための独立でない。独り立つも可なりと決心する独立である。そして人生の逆説(パラドクス)がここにもまた現れて、団結を要求せざるところに最も強固なる団体がなるのである。(信十八・三十五)

1月10日(木)

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしを虜にしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるのだろうか。(ローマ書七・二二〜二四)

 ヨブは言うた、「われ、みずからを嫌(いと)う」(ヨブ記四二・六)と。これが、ほんとうの悔い改めの徴候である。罪悪の世界を嫌うことでない。堕落させる人類を嫌うことでない。この人、かの人を嫌うことでない。まず第一に、主としてわれ自身を嫌うことである。これが、神に受け入れられるための唯一の条件である。罪の所在は自我である。罪とは他の事でない。自己中心である。ゆえに神はなによりも自我を嫌いたもう。そして人がもし神と合致せんと欲すれば、何よりもまず自己を嫌わなければならぬ。願う、新年の初頭にあたりて、私は自己を嫌いて、ちりと灰とをかむりて悔いんことを。そして常にこの状態においてあらんことを。かくして神の恩恵は常に私の内に宿り、嫌うべき私は、私を愛して私のために御自身を捨てたまいし者の愛すべきによりて、おおわれ、神が私を見たもう時に、私を見たまわずして、私をおおいたもう私の救い主を見たまわらんことを。

1月9日(水)

主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(コリント第二書三・十七〜十八)

まず第一に理想がなくてはならぬ。そうしてこれを実現するの力がなくてはならぬ。クリスチャンの理想はキリストである。そうして実現する力は聖霊である。クリスチャンは一意専心にキリストを見つめる。されども、見つめるのみにては彼が神の子とならない。聖霊は彼の内にて働きて、彼が見つめつつある聖善の美をおのがものとならしめたもう。パウロが言えるがごとく、われらクリスチャンは主キリストの姿をわが良心の鏡に映し、これを見つめて、その同じ姿に変る。そうして主なる聖霊はわが内にありてこの事をおこないたもう。われらの前に模範の供せらるるあり、これにかなわんがための霊能の注がるるあり。福音まことに完全である。ただに無益に夢想するのではない。ただに追求するのではない。終局と、これに達するの道と力が同時に供せらるるのである。(信二二・一六八)

1月8日(火)

イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日によみがえらせるであろう」。(ヨハネ伝六・五十三〜五十四)

われに教会がある。それはイエスキリストである。

われに監督がある。それはイエスキリストである。

われに聖餐(せいさん)がある。それはイエスキリストである。

われに祭物がある。それはイエスキリストである。

われに善行がある。それはイエスキリストである。

われに復活がある。それはイエスキリストである。

われに永生がある。それはイエスキリストである。

イエス・キリストである。イエス・キリストである。彼はわがすべてである。彼があるがゆえに、吾はキリスト信者である。彼なくして、われに何があるとも、よし焼かるるためにわが身を与うるの信仰ありといえども、われはキリスト信者でないのである。(信七・八六)

1月7日(月)

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。(ローマ書八・一〜四)

 われは日々に自己(おのれ)を省みず。われは日々にわが主を仰ぎまつる。われはわが内に何の善き事をも発見するあたわず。わが善はすべて「キリストと共に神の中に隠れあるなり」(コロサイ書三・三)われの汚れたるは悲しむに足らず。神はその聖きをもって、われを聖みたもう。われの愚かなるは歎くに足らず。神はその慧(さと)きをもって、われを聖めたもう。おのれに省みて下り、神を仰ぎ見て、のぼる。あたかも日光の、われを天に向けて引き付くるごとし。われ、わが主を仰ぎ見て、わが信仰の翼は張りて、わが身は地を離れ、主の宝庫(みくら)に向って、のぼるがごとくに感ず。

1月6日(日)

夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。(ローマ書一三・一二〜一三)

信者は時を知る。かの特別の時を知る。世がその終わりに達して主が再び現れたもうそのときを知る。そうして、その恐るべくしてまた祝すべき時は年一年と近づきつつあるのである。そうして、ここにまた新年をむかえて、その時のさらに近づきしを知るのである。新年は旧年の繰り返しであはない。新年は新天地の接近である。その到来の予告である。ゆえに厳粛なるべき時である。眠りより覚め、暗黒の行いを去りて光明の武具を着、もって花婿の入来を待つべき時である。万物一変してわれらが完全に救われるべき時は近づきつつある。信者はその意(こころ)をもって新年を祝すべきである。(信一六・一七五)

1月5日(土)

全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。主は恵みふかくそのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。(詩篇100)

星は音信を伝えていわく、万物ことごとく可なりと。地は洪声(こうせい)を放っていわく、万物ことごとく可なりと。歴史はその教訓を伝えていわく、万物ことごとく可なりと。信仰はその実験を宣(の)べていわく、万物ことごとく可なりと。「神、その造りたまえるすべての物を見たまいけるに、はなはだ良かりき」(創世記一・三一)と。宇宙と人生の事物にして、いずれか善かつ可ならざらんや。(信八・三〇五)

1月4日(金)

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言う者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向ってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(ピリビ書三・一二〜一四)

キリスト信者は後(あと)を見ない。前(さき)を見る。彼は最善を過去に探(さぐ)らない。未来に求む。彼が歴史を学ぶは、理想を古人に求めんがためでない。永遠の生命の起源を尋ねんがためである。彼が待ち望む神の国は、最後に来るものである。それまではすべてが準備である。中途である。ゆえに不完全なるをまぬかれない。歴史的イエスといえども、完成されたるキリストではない。「われらの国は天にあり。われらは、救い主すなわちイエス・キリストの、そこより来たるを待つ」(ピリピ書三・二〇)というのがキリスト信者の生涯である。ゆえに彼はおのずから理想家である。夢みる者である。過去現在をもっては満足するあたわざる者である。永久の青年である。前へ前へと進む者である。墓や石碑を嫌うて、天国の歌に酔う者である。(信一九・三七)

1月3日(木)

だれでもキリストにあるならば、その人はあたらしく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(コリント第二書五・十七)

われらにとりては、新年必ずしも新ではない。旧年必ずしも旧ではない。霊これ新である。肉これ旧である。キリストこれ新である。この世これ旧である。キリストは、きのうも、きょうも永久に新である。この世は過去も現在も永遠に旧である。肉を捨てて霊に行き、この世を去ってキリストに至るよりほか、旧より新移る道はない。(信一七・一一三)

1月2日(水)

その時サムエルは一つの石をとってミズパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。(サムエル記上七・一二)

わが今日あるを得しは、主によりてなり。われは主を捨てさらんとせり。されど彼はわれを去らしめたまわざりし。わらはこの世の者とならんとせり。されど主はわが希望をくじきたまいて、強(し)いてわれを彼の聖国(みくに)にひきつけたまえり。主はその笞(しもと)、その杖をもってわれを導き、われを今日、緑の野に伏せさせ、いこいの水辺(みぎわ)に伴いたまえり。わが過去はけわしかりき。されど、けわしかりしは、わがために善かりき。われもまた鞭(むちう)たれて癒(い)やされたり。おろかなる羊のごとくに、杖もて主の牧場に追い込まれたり。われもまた新年の首途(かどで)において、サムエルのごとくに一つの石を立て、これをエベゼル(助けの石)と呼ばんかな。(信八・二〇五)

1月1日(火)

はじめに神は天と地とを創造された。(創世記一・一)

はじめに神天地をつくりたまえりという。宇宙にはじめがあった。これは終末(おわり)がなくてはならぬ。神が宇宙を造りたもうたのである。宇宙はそれ自体で進化して成ったものではない。神は宇宙を造りたもうたのである。これは偶然にしてなったものではない。造化はある的確なる目的をもってなされたる最大努力の事業である。神が宇宙を造りたもうたのである。ゆえにそれが失敗に終わりようはずがない。天界は完全なる機械である。そのごとく、地球もまた義者と真人の住所とならねばならぬ。柔和なる者が地を嗣(つ)ぐであろう。強者と知者とは、今日彼らがなすがごとく永遠にこれを占領せぬであろう。神が造りたまいしものは完全に達しなければならぬ。新しき天と新しき地とが現れて義がそのうちに行わるるにいたらねばならぬ。聖書の劈頭第一の語にそのすべての約束と人類のすべての希望とがふくまれてある。(注一・二一)