一日一生(内村鑑三)続「一日一生」(教文館)より


注:原文は文語。(口語には人徳の意訳の箇所あり)

平成10年度聖句(内村鑑三所感集等より)平成11年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)

平成11年度聖句NO.2(内村鑑三所感集等より平成11年度聖句NO.3(内村鑑三所感集等より)平成12年度聖句NO.1(内村鑑三所感集等より)                           
「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリスト(JESUS CHRIST)にして、その二は日本(JAPAN)なり」…内村鑑三

   
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。

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これ以後は次の「一日一生」を御覧下さい。

8月28日(木)

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼をしらずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(ヨハネ伝一・九〜一一)

イエスはその道徳が他にすぐれてあまりに高潔なりしがゆえに人に憎まれたのではない。彼が彼の父なる神に忠実ならんとして、人には何人にもくみせざりしがゆえに、それがためにすべての人に憎まれたのである。すなわち彼は無党派、無教会、無国家なりしがゆえに、すべての党派、すべての教会、すべての国人ににくまれたのである。世に孤独なる者とて神とともにある者のごときはない。しかもイエスは神をのみ友としたる者である。世はかかる者をうけいれない。この世はすべての党派である。党派でないものはこの世のものではない。党派はつねにたがいに相い争うといえども、いづれの党派にも属せざる者はすべての党派の斥け(しりぞ)くるところとなる。イエスが全世界の斥くるところとなりしは、半(なか)ばはこの恐怖、半ばはこの嫌悪によるのである。

8月27日(水)

アモスはアマジャに答えた、「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。ところが主は群(む)れに従っている所からわたしを取り、「行って、わが民、イスラエルに預言せよ」と、主はわたしに言われた。(アモス書七・一四〜一五)

世の大宗教家と称するものにして、かえって神学校出身の人に多くあらざるを見る。神の人テシベ人エリヤはギレアデの野人なり。しかしてこの人、その天職と精神とを他に授けんとするや、十二頸木(くびき)の牛を馭(ぎょ)しつつありしシヤパテの子エリシヤを選べり。ダニエルは官人なり。アモスは農夫なり。しかして神がその子をくだした世を救わんとするや、彼をしてヒレル、ガマリエルの門に学ばしめず、かえって彼を僻村ナザレに置き、レバノンの白頂、キションの清流をして彼を教えしめたり。一乾物店の番頭たりしムーデー氏こそ、じつに十九世紀今日の宗教的最大勢力ならずや。神学校は天性の伝道師を発育せしむるも、これを造るところにあらず。神学校の製造にかかわる伝道師こそ、世の不用物にして、危険物なれ。伝道師養成は造物主(つくりぬし)にあらざればなしあたわざることなり。

8月26日(火)

わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧(すす)める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた」。見よ、今は救いの日である。(コリント第二書六・一〜二)

神の教育事業、これをば称して歴史というなり。しかし歴史はエデンの園における人類始祖をもってはじまり、ひいては二十世紀の今日に至れり。歴史に戦争あり、国の興亡あり。悲劇は悲劇につぎ、流血淋漓(りゅうけつりんり)、これを読む者をして酸鼻(さんび)の念にたえざらしむ。されどもこれ救済(すくい)の時期たるなり。多くの聖賢君子はこの時期においてこの世にあらわれ、ついに神の子イエス・キリストはこの世にくだりたまいて、おれら人類に死して死せざるの道を開きたまえり。人類の罪悪は神をしてその独(ひと)り子をくだしたもうほどに彼の心を傷(いた)ましめたり。されども愛の無尽蔵なる神は悪に勝つに足るの善を己れに蔵したまえば、人類の救済は期して待つべきなり。今は恩恵(めぐみ)の時期なり。人の子が神の子となりつつある時なり。

8月25日(月)

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず。正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(ペテロ第一書二・二二〜二四)

畢竟(ひっきょう)するにキリストの死は死ではなかった。これは生をもって死に打ち勝つことであった。死は最も醜悪なる形をもって彼に臨みしに、彼はもっとも善美なる道をもってこれを迎えた。キリストによって死は聖化されて、すぐれて美わしきものとなった。キリストはまことに死を亡(ほろ)ぼしたもうた(テモテ第二書一・一○)。キリストはその死状(しにさま)によって、死なるものをして無からしめたもうた。死は苦痛であり、煩悩であり、悔恨であり、絶望であるのに、ここに苦痛を忘れ、煩悩を忘れ、悔恨を覚えず、絶望を知らない死の模範が供せられた。すなわち愛の絶大の力が示された。愛は人生の最大の敵なる死にさえ勝ちうる力である。死をして死ならざらしむるものは愛である。彼はただ愛した。しかして死に勝った。まことに愛を除いて、他に死に打ち勝つの力はない。

8月24日(日)

だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばありの乳飲(ちの)み子のように、混(ま)じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。(ペテロ第一書二・一〜二)

神はその限りなき恩恵(めぐみ)をもって、神の子にして人類の主なるイエス・キリストによりて、わたくしのために救済(すくい)の道を開かれました。ゆえにわたくしは感謝しつつ、日々その恩恵に沐浴しているものでございます。しかしかく申せばとて、わたくしはすでに完全無欠の人となったというのではありません。罪によりて生れしわたくしのことなれば、わたくしが天使のような純白無垢の人となりうるは、なお永き後のことでありまして、多分わたくしの肉体が腐敗に帰した後のことであろうと思います。しかし快復がすでにわたくしの心の中に始まりしこと、その一事は、わたくしの少しも疑わないところであります。わたくしは確(たし)かにイエス・キリストの医癒(いやし)の力を感じます。

8月23日(土)

その時あなたがたは、どんな実をむすんだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。(ローマ書・六二一〜二三)

永遠の来世が確実となるに至りまして、価値のない今世に真個の価値が付いて来るのであります。先ず第一に、わたくしどもは世を厭(いと)わなくなるのであります。この世の苦痛は来世の希望をもって慰めえて余りあるのであります。今世はまた来世に入る準備の場所として、無上の価値を有するに至ります。そのもの自身のためには何の価値もないこの世は、来世に関連して、必要欠くべからざるものとなるのであります。しかしこれによりて来世獲得の道が開かるるを知って、小事が小事でなくなるのであります。実に来世に存在の根底をおかずして、今世は全然無意味であります。来世をにぎるの特権を賦与(ふよ)せられまして、この無意味の今世が意味深長のものとなるのであります。

8月22日(金)

朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである、父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。(ヨハネ伝六・二七)

神の快楽たる造ることの快楽、これが信者の快楽である。物を作ること、思想を産むこと、霊魂を救うこと、これが信者の娯楽である。この娯楽がありて、他の娯楽はいらない。観劇の娯楽もいらない。旅行の娯楽もいらない。世人の言う娯楽にして、物を作るにまさる娯楽はない。「人生は娯楽なり」との言は、労働製作の快楽を知って初めて味わうことのできる言である。

さらば作らんかな、働かんかなである。あるいは台所において、あるいは工場において、あるいは机に対して働かんかな。あるいは手をもってして、あるいは口をもってして、あるいは脳をもってして作らんかなである。「なんじら、愛せらるる子供のごとく、神になるべし」(エペソ書五・一)。造物主の子供は物を造るをもって愉楽(たのしみ)とする。物の大小、尊卑を問わない。造るのが名誉であって、また快楽である。造らんかな、しかり、造らんかな。(信二○・二六四)

8月21日(木)

その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。(ゼカリヤ書一四・二〇〜二一)

聖俗差別の撤廃である。その事は、階級差別の撤廃の場合において往々見るがごとき、貴族が下落して平民となる事であってはならない。平民が向上してすべての貴族となることでなくてはならぬ。聖が俗化することではない。俗が聖化する事である。聖ならざるものなきに至る事である。人生そのものが伝道事業となる事である。聖職と称して、神に仕うるための特別の階級が撤廃せられて、すべての信者が聖職となる事である。すべての職業が聖業となる事である。われらはこの理想に向かって進むのである。(注七・一八一)

8月20日(水)

さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざしてめされたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、パプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(エペソ書四・一〜六)

われはこの地にありて、ひとり神を愛するにあらず。われは世界許多の聖徒と共に神を愛するなり。わが身辺に同情者なしとて、われ何をか恨まん。わらは同情者を広く世界に有す。真正のキリスト信者はすべて主にありて一体なり。祈祷はわがために地の四方より、天の宝座に向かって上りつつあり。われらは大軍なり。主の指導の下に、同一事をこの世にありてなす者なり。われらはいかなる境遇にあるも、孤独、寂寥(せきりょう)を感ずべからざるなり。(信八・二六)

8月19日(火)

この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。

 

 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこになるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

 

死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利をたまわったのである。(コリント第一書十五・五十四〜五十七)

福音を信ずるの困難は少なくありません。あるいは十年、あるいは二十年、あるいは三十年、その探求に身をゆだねて、得るところはほとんど無きように感ぜられる時があります。それがためには、世にはきらわれ、財は失い、地位は捨て、多くの言いがたき艱難に出会います。しかしながら、その報賞(むくい)は愛する者の死に遭遇して知られます。われらはもちろんその時に歎きは絶望の歎きではありません。再会の希望を有する歎きであります。うるわしう賛美の声であります。そうしてこの時にかかる経験を持つを得まして、数年にわたる信仰維持の苦痛はすべて充分に償われるのであります。恐怖の王なる死を慰むるに足るの慰藉、これを得るためには一生を費やしても惜しくはありません。キリストの福音を信ずるの利益は、特に死に際会したる時にわかります。(信二○・二九三)

8月18日(月)

更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆすしを受けているのである。(コロサイ書一・一一〜一四)

神に罪をゆるされざるべからず。罪をゆすされずして、神の恩恵はくだらない。われらは恩恵の世界に棲息(せいそく)するのである。それにもかかわらず、われらは悲歎憂愁の間に一生を送るのである。何がゆえにしかるかというに、われらの犯せし罪が恩恵下賜を妨げるからである。聖き義(ただ)しき神は、おのが罪を認めずしてその内にひたる人を恵まんと欲するもあたわず。罪をそのままに存して恩恵を施すは、神たるの資格にそむくのである。ゆえに、いかにかして人の罪を除かざるべからず。そして人はおのが罪を除くあたわざるがゆえに、神ご自身がその芟除(せんじょ)の任に当たりたもうたのである。キリスト教他なし、罪の芟除である。わが罪を神にゆるされ、その結果として、人のわれに犯せしすべての罪をゆるす事、この事がなくしてキリスト教はない。キリスト信者たるの証拠はここにある。(注一五・二八五)

8月17日(日)

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずからわたしたちには、神の力である。(コリント第一書一・一八)

イエスを仰ぎみるによりてわれらがおのずと信仰の実(み)を結ぶに至るは言うまでもない。信仰の結果が霊肉の健康であり品性の向上であることは、言わずして明らかである。しかしながら、信仰をその結果と同視してはならない。信仰は信仰だけにて救霊唯一の能力である。われらの目を信仰の結果に注いで、われらは失望せざらんと欲するも得ない。信仰の結果は決して完全なるものではない。もし人の救わるるはその信仰の結果によるならば、彼が救わるるの希望とては全くないということができる。もし信仰そのものが救いの確証でないならば、信者に無碍(むげ)の平和とてはないのである。(信一○・一七二)

8月16日(土)

すべて神を恐れる者よ、来て聞け。神がわたしのためになされたことを告げよう。わたしは声をあげて神に呼ばわり、わが舌をもって神をあがめた。もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。しかし、まことに神はお聞きになり、わが祈りの声にみこころをとめられた。神はほむべきかな。神はわが祈りをしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取りさられなかった。(詩篇六六・一六〜二〇)

真(まこと)の祈祷は預言である。これ必ず成就さるべきものである。信者は聖霊によりて、事実となって現れるべき事を祈求(ねがい)として、あらかじめ神に求むるのである。三つのうめきは三つの大なる預言である。宇宙と信者と聖霊とは、いいがたきうめきをもって、万物の完成、神の子の出現、天国の建設を預言しつつあるのである。しかしてこの三大預言ありてわれら何をか疑わん。よし地は動き海は鳴り山は海原(うなばら)の中に移るとも、われらいかでか恐れん。天地万物と、わが霊魂と、神ご自身とが、わが信仰の証明者である。ハレルーヤー。(注一七・六六)

8月15日(金)

終わりの日に次のことが起きる。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべての国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道を歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。かれはもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎをうちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、

かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(イザヤ書二・二〜四)

戦争の廃止、そのことを実現するための手段はイエス・キリストの福音の宣伝である。主のみ名を揚ぐることである。彼の家の山をもろもろの山の峰に堅く立つることである。イエス・キリストのおん父なる愛の神に、最上の権威と栄光とをたてまつることである…これを除いて他に戦争廃止の実行を見る道はないのである。イエス・キリストの十字架の福音、主ご自身が彼にそむきし人類に提供したまいし和解(やわらぎ)の福音、ギリシャびとには愚かなること、ユダヤびとにはつまずきの石、哲学者があざけり、宗教家が疑いをさしはさむこの単純なる福音こそ、最後に国をして兵備を解かしめ、民をして剣を打ちかえて鋤となし槍をうちかえて鎌となさしむる最大の唯一の勢力である。(注六・五二)

 

8月14日(木)

わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。(ピリピ書一・三〜六)

神は愛である。彼はキリストにありてすでに人類全体を救いたもうた。救済はすでに既成の事業である。ゆえにハレルヤである。蛇の頭は、女の生みし者によってすでに砕かれたのである(創世記三・一五)。あとに残りしはただ些少のこの世の苦痛である。これを除けば、それで万事は成るのである。最も難(かた)き事は、神、キリストにありて、すでに成しとげたもうたのである。人類の罪はすでに除かれたのである。神、キリストにありて、すでに成しとげたもうたのである。人類の罪はすでにのぞかれたのである。神との平和はすでに成ったのである。あとはただ人が人との戦争をやめ、平和をこの地に来たすれば、それで万事は完成するのである。しかして残余のこの小事業がわれらにゆだねられたのである。敵の大将はすでにわれらの手を借りずして倒されたれば、われらは楽戦もって、逃ぐる残余の敵を追いつくさんとするのである。(信五・一三四)

8月13日(水)

このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するたねにほかならない。(テトス書二・一四)

宗教は夢にあらず、現(うつつ)にあらず、空々漠々(ばくばく)として無限を瞑想(めいそう)することにあらず。あるいはまた特種の心理状態に入りて、神を観(み)、霊と交わることにあらず。宗教は魔法なあらず。妖術(ようじゅつ)にあらず。霊感にふれて病を癒やすことにあらず。宗教はいわゆる奇跡にあらず。常識の人が常識をもって解し、感じ、実行し得る事である。本当の宗教は最大の偉人を作った。最大の哲学者、最大の詩人、最大の政治家、最大の実業家はすべて熱心なる宗教家であった。日本人が今日まで唾棄(だき)して顧みざりしキリスト教がなかったならば、今日の立憲政体も、銀行制度も、哲学も、文学も、芸術も、教育もなかたったのである。宗教はこの世の事ではないが、この世に関係の無いことでない。この世にきらわれながら、深く強くこの世を感化するものである。世に実は宗教ほど確実なるものはないのである。(信一四・一七)

 

8月12日(火)

このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝しようではないか、そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。(ヘブル一二・二八)

いかなる人といえども、何ものを与えられないという人は一人もないはずである。あるいは小なる畑であるか、あるいは小なる家屋であるか、あるいは小なる職業であるのか、あるいはもし自己以外に何ものをも持たないとしても、その自己だけはおのがものである。手もある。足もある。眼もある。耳も鼻もある。これまた善く使えば大なる財産である。よしまた身体の自由を失いて、不幸、臥床(ふしど)の人となりしとするも、わが霊魂はなおわがものである。わらはなお、愛し、考え、祈り、賛美することが出来る。英国の名士チャールス・キングスレーという人の言うたことがある。

   心ぞ、われの王国なれ

と。まことに心そのものが大なる所有物である。これありて、人は何ものを欠くとも満足すべきである。(信二一・一五三)

8月11日(月)

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者がすくない。(マタイ伝七・一三〜一四)

信者の患難(なやみ)は信仰と同時に始まる。そして信仰が進めばすすむほど、患難は激烈になる。されども、喜びその内にありである。神の霊がそのうちに働くからである。世に勝つ機会が与えられて、凱旋(がいせん)近きにあるからである。信者に、人のすべて思うところに過ぐる平安ありというは、この信仰の平安である。無為泰平の平安でない。神にたより、世と戦って勝つことができると信ずる信仰(確信)の平安である。ヘブライ語のサローム(平康)は健康の意であると言う。強健にして敵に勝ち得べしと信ずる確信より起こる安心である。勇者が戦に臨んでいだく安心である。懦者(だしゃ)がおのが煩悶を癒(い)やされんと欲して追求する安心でない。(信一八・一八五)

8月10日(日)

神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。(コリント第一書一・九)

実に人の生涯にとり、イエスを知り彼を友とするほど、たいせつなことはない。そうしてこれ、難(かた)いようで、いたって易しいことである。キリスト教を信じ、キリスト教会に入ると言えば、いたってむすかしいようであるが、しかしイエスを友とすることは何人(たれ)にもなし得ることである。そうして彼と友誼(ゆうぎ)を続くるほど、彼について深い事がだんだんとわかって来たり、べつに宗教や神学を研究するというにあらずといえども、人生の奥義がだんだんと彼によりて示さるるのである。すなわち彼がナタナエルにむかいて

  天開けて、神の使たち、人の子の上に上り下りするを見ん(ヨハネ伝一・五一)

と言いたまいしがごとく、われらは、イエスと聖父(ちち)との間に霊的交通の繁(しげ)くして、彼にありて、まことに天が地に接し、神が人の間に現れ、現世と来世との間に強固なる掛け橋の架せられて、人がこれによりて、これよりかしこに達し得るの道の開けしことを見るのである。(信一五・六四)

8月9日(土)

この人による以外に救いはない。わたしたちを救うる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。(使徒行伝四・一二)

 現代人の好むものは二つある。その一が芸術であって、その他のものが倫理である。

そしてキリスト教にありて、芸術を好む者はローマ・カトリック教に行き、倫理を愛する者はプロテスタント教に行く。カトリック教は芸術的崇拝であって、プロテスタント教は倫理的願望である。されども福音すなわち真のキリスト教は、「キリストと、彼が十字架につけられし事」である。キリスト信者の全部は、キリストと彼の十字架においてある。

彼の礼拝も道徳も、すべてここに完成(まっとう)されたのである。ただキリスト、ただ十字架である。そしてただこれを信ずる事である。現代人はその単純なるに堪えない。倫理学者はこれを迷信と同視する。されども信ずる者には、これ神の知恵または能力(ちから)たるなりである。(信一四・七〇)

8月8日(金)

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神になろう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛してくださって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。(エペソ書五・一〜二)

必ずしも大著述をなすに及ばない。小著述にて足る。われはわが見し真理を明瞭簡単なる文字につづりて、これを世に示すべきである。

 必ずしも大事をなすに及ばない。小事にて充分である。われは神に送られ世に来たりし以上は、彼の造りたまいしこの地球を少しなりとも美(よ)くなして、天父(ちち)のもとへと帰り行くべきである。

 必ずしも完全なるを要せず。不完全なるもまた可なりである。われは毎日毎時、わがなし得る最善(ベスト)をなして、患難(なやみ)多きこの世に少しなりとも慰めと喜びとを供すべきである。

 「なんじ、おのれのために大事を求むなかれ」(エレミヤ書四五・五)と、預言者エレミヤ、その弟子バルクを教えて言うた。大事のみをなさんと欲する者はついに何事をもなさず、完全のみを求むる者は何の得るところなくして終わる。何事をもなさざるは悪事をなすのである。まことの偉大なるの一面は小事にいそしむことである。完全なるのは半面は不完全に堪うることである。大なれ小なれ、完全なれ不完全なれ、わが手に堪うる事は力を尽くしてこれをなすべきである。(伝道の書九・一〇)。(信七・三二六)

 

8月7日(木)

こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。(ヘブル書四・九〜一一)

安息日はわれらがしばらく労働を休みて神と交わり神のわれらを作りたまいし目的に添わんことを期すべき日である。われらの舟はいずこを目指して海に出て、現に今いずこを走りつつありや。われらはしばしばかじ取る手を止め、大空の星を窺うて自己の進路を考うべきである。神の天地万物を創造したまいしその大目的に従って航路を取り直すべきである。これを怠りてただひたすらに航海を続くるも、舟は思わざる港に着いて、人生は全然失敗に帰する。その実例は数えつくしがたきほど多くある。安息日はかかる危険よりわれらを救わんがため神の賜いし恩恵の日である。天地を創造したまいし神ご自身すら、一日の創造終るごとにこれを回顧して「良しと見たまい」、しかる後、次の創造に移りたもうた。ましてわれら造られしものにおいてをやである。(注二・九六)

8月6日(水)

そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずからら働きなさい。(テサロニケ第一書四・一一)

パウロはキリストの福音と同時に労働の福音を伝えたり。しかり、キリストの福音は労働の福音なりき。主ご自身が労働者なりき。ゆえに愛せざる者は神を知らざるがごとくに、労せざる者はキリストを知るあたわざるなり。最も価値なき神学は書斎のみの神学なり。アクラとプリスカの家に天幕を作りパウロは、ここに、ラビ、ガマリエルの膝下においてよりも善き神学を学びたり。キリスト教は僧侶の宗教にあらず。平人の宗教なり。手をもってする労働を解せざる者の探求し得ざる宗教なり。(注一三・一九○)

8月5日(火)

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイ伝六・一九〜二一)

貧は自由の伴侶(とも)である。束縛は富に伴うものである。富は人の作ったものである。ゆえに、富んで、人世の束縛より離るることははなはだ難(かた)い。貧者の一つの幸福は、世が彼の交際を要求しないことである。貧せざれば、精神の独立なるものを得るははなはだ難い。(信二○・一四九)

8月4日(月)

どうか、望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、のぞみにあふれさせてくださるように。(ローマ書一五・一三)

了解(わか)ってしんずるのではない。信じて了解るのである。了解って信ずるのは信仰ではない。信ぜざるを得ざるがゆえに信ずる、その事が信仰である。イエス、その弟子トマスに言いたまいけりは、「なんじ、われを見しによりて信ず。見ずして信ずる者はさいわいなり」(ヨハネ伝二〇・二五)と。そうして、了解るのは見るのである。了解って信ずるのは、見て信ずるのである。そうして了解らずして信じ得る者がさいわいなる者である。神とその聖業(みしごと)とに関する事は、これ、とうてい人間に了解る事でない。了解るのを待って、人はとうてい神を信ずることができない。ゆえに信ずるのである。神の聖語(みことば)なるがゆえに、疑わずして、ただ信ずるのである。これ決して迷信ではない。子が父の言を疑わずして信ずるのは決して迷信ではない。これ、まさに信ずべきことである。了解らざればとて、父の言といえども遅疑してこれを信ぜざるのは、これ頑迷(がんめい)である。(信一六・七二)

8月3日(日)

主の言葉がわたしに臨んで言う、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。誰にでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。(エレミヤ書一・四〜八)

責任は人をまじめにします。大人(おとな)らしくします。神と人に対し敬虔(けいけん)の態度をとらせます。責任は決して苦痛でありません。人生の真の幸福は、責任を担(にな)わずしてこれを楽しむことはできません。責任にあたらずして、自分の内にある能力の程度を知ることができません。自分はいかほど強い者であるかは、責任を負わされて初めて知るのであります。ことの伝道上の責任は感謝してあたるべきであります。永遠の福音をゆだねられて初めて自分に永遠の生命の臨みしを感じます。この責任にあたらずして、福音の真個の価値はわかりません。人生実は責任ほど貴きものはありません。責任を避くるのは愚の極であります。偉人とは別人ではありません。喜んで重き責任を担うた者であります。われら感謝して責任に当たって、他を益すると同時に自身の最大幸福を計るべきであります。(信一七・一二七)

8月2日(土)

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記一・二六・二八)

自分は自分である。他人は他人である。自分をもって他人を律してはならない。他人の権利、自由を重んぜねばならぬ。

 他人は他人である。自分は自分である。自分は他人をして自分を検束せしめてはならない。自分には自分の権利と天職とがある。自分は他人をして自分の本領を侵さしめてはならない。自分は自分が他人の権利、自由を尊重すぐがごとくに、他人をして自分の権利、自由を尊重せしめねばならぬ。

 おのれ、人にせられんとする事は、また人にもそのごとくなせ(ルカ伝六・三一)。しかり、おのれ、人になす事は、また人をして、これを、おのれになさしめよ。自己を守るは他人を守るだけ、それだけ大切である。自己の本分を守るにあたって、自分は全然無抵抗主義者たることはできない。(信二三・二〇六)

8月の初めに

「神、アブラハムを外に携え出だして言いたまいけるは、天を望みて星を数え得るかを見よと」(創世記一五・五)と。しかり、一等星二十一、二等星七十三、三等星二百三十、四等星七百三十六、五等星二千四百七十六、六等星七千六百四十七、以上は肉眼に映ずるものなり。第九等星に至るまでのすべての星を数うれば六十三万余、第十等星を合すれば総数二百三十一万一千に達すべし。しかしていまだ全宇宙の一隅をうかがいしにすぎず。小事に齷齪(あくせく)して常に頭(こうべ)をたるる者よ、時にアブラハムのごとくに神に携えられて郊外に出て、天を望みて星を数え得るかを見よ。(信八・三○三)

8月1日(金)

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をすくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ伝二二・三五〜四○)

 

キリスト教は道徳ではない。福音である。道徳ではないが、しかし、その中に、単純にして確乎(かくこ)たる道徳がある。それはこれである。すなわち「なんじ、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるなんじの神を愛すべし。また、おのれのごとく、なんじの隣を愛すべし」(マタイ伝二二・三七)。キリスト教道徳はこれにつきているのである。ゆえにイエスは言いたもうた、「すべての律法と預言者とは、この二つの戒めによれり」(同二二・四○)と。すなわち旧約の総体(すべて)、新約の総体はこれにて尽きているとのことである。「神を愛すべし、人を愛すべし」、キリスト教道徳を約(つづ)めて言えば、これだけである。簡単これにまさるはない。しかし同時にまあ高遠これにまさるはない。深淵これにまさるはない。これは道徳の両極である。すべての道徳はこの間に介在するのである。(信二二・一七)

7月の終りに

ペンテコステの歌

明治三十五年(1902年)七月三十一日、講談会開催中、園遊会の日、霖雨(りんう)はれ、久しぶりにて日光を仰ぐ。時に、わが同志中、心に新光明に接せし者多きを想(おも)い、彼れの歓をわが心に移して、左の一詩を賦す。

霖雨の空は霽(は)れにけり

  日の太陽は照りにけり

神はこの日を祝しけり

  義の太陽はのぼりけり

神はこの身を恵みけん

  特にこの身を恵みけん

 

この日、この身を、わが神よ

  生ける犠牲(にえ)とし受けたまえ

われとわれらを恵みてぞ

  ペンテコステの火を降(くだ)せ(信二二・三五一)

7月の初めに

キリストと共に起き、キリストと共に働き、キリストと共に眠りにつく。今われ肉体にありて生けるは、われを愛して、わがためにおのれを捨てし者、すなわち神の子を信ずるによりて生けるなり(ガラテヤ書二・二〇)。(信八・一六)

7月31日(木)

朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。(伝道の書一一・六)

この宇宙は神の造りたもうた宇宙である。ゆえに、この宇宙にあって善をなして、その報酬(むくい)の、われらにめぐり来たらない理由(わけ)はない。ただ宇宙の宏大(こうだい)なるがゆえに、原因が結果となりてわれらに還(かえ)り来るまでに、多くの日時(てま)を取るまでのことである。「なんじのパンを水の上に投げよ。多くの日の後に、なんじ再びこれを得ん」(伝道の書一一・一)われらはただ善をまいておけばよい。善は人の無情によって消えるものではない。まいたる善を百倍にして、その人に還すのが、この宇宙の特性(もちまえ)である。ゆえに聖書は教えて言う、「兄弟よ、善をおこない、倦(う)むことなかれ」(テサロニケ後書三・一三)(信八・一〇一)

7月30日(水)

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいってかれと食を共にし、かれもまたわたしと食をともにするであろう。(ヨハネ黙示録三・二○)

キリストは聖霊である。聖霊はキリストである。ゆえに聖霊を受くるはキリストを迎うるのである。われら聖霊を受けんと欲して雲をつかまんと欲するのではない。われらはある確実なる目的を達せんとするのである。われらはキリストをわが心に請(しょう)ぜんとするのである。これに適当の準備がいる。適当の方法がある。準備はへりくだることである。方法は、絶えず祈ることである。しかしてこの準備をなし、この方法をつくして、彼の入来(じゅうらい)は確かである。(信九・一三一)

7月29日(火)

兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。(ペテロ第二書一・一〇〜一一)

人は希望的動物なり。彼にありては前を望むは自然にして、後を顧みるは不自然なり。希望は健全にして、回顧は不健全なり。「後にあるものを忘れ、前にあるものを望み」(ピリピ書三・一三)と。罪を忘れ、病を忘れ、失敗を忘れ、怨恨(えんこん)を忘れ、神と、生命と、成功と、愛とに向かって進まんのみ。(信七・一六七)

7月28日(月)

 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新くされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。(コリント第二書四・一六〜一八)

しかり、余のすべての善きものは墓のかなたにおいて在る。余の自由も、余の満足も、余の冠も、すべて来たらんとするキリストの王国において在る。余は今は待望の地位に立つ者である。「農夫、地の貴き産をえるを望みて、前と後との雨を得るまで、久しく忍びてこれを待つごとく、忍びて主のきたるを待つ」(ヤコブ書五・七)

 ゆえに、この世における余の生涯はどうでもよい。憎まるるもよい。誤解せらるるもよい。貧しきもよい。裸なるもよい。余の永久の運命は、この世における余の境遇によって定められるものではない。余の運命を定める者は、余のために自己(おのれ)を捨てたまいし、余の救い主イエス・キリストである。彼は余のために所を備えんために父のもとに行きたもうた。彼は「また来たりて、なんじらをわれに受くべし」(ヨハネ伝一四・三)と約束したもうた。余はこの世にありては旅人である。暫時の滞留者である。余は一時、天幕をこの地に張る者である。永久の住み家を築く者ではない。神が余を呼びたもう時には、直ちに天幕の綱を絶ち、これを畳んで、かの国へと急ぐ者である。(信一五・一一九)

7月27日(日)

神よ、しかが、谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。(詩篇四二・一〜二)

余は平安を得るの道を知れり。されども道を知るは必ずしも道に入るにあらず。キリストにおける信仰は余を罪より救うものなり。されども信仰もまた神のたまものなり(エペソ書二・八)。余は信じて救わるるのみならず、また信ぜしめられて救わるる者なり。ここにおいてか余は全く自身を救うの力なき者なるを悟れり。さらば余は何をなさんか。余は余の信仰をも神より求むるのみ。キリスト信徒は絶え間なく祈るべきなり。しかり、彼の生命は祈祷なり。彼なお不完全なれば祈るべきなり。彼なお信足らざれば祈るべきなり。彼よく祈りあたわざれば祈るべきなり。恵まるるも祈るべし。のろわるるも祈るべし。天の高きに上げらるるも、陰府(よみ)の低き下げらるるも、われは祈らん。力なきわれ、わが能(あた)うことは祈ることのみ。(信一・一六五)

7月26日(土)

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ伝三・一六)

目的は人生最大の幸福なる永生の授与。これに達するの道は、人にありては最も容易なる信頼の道、神にありては最も最も困難なるひとり子の下賜。人を無限に恵まんがために、神にありては無限の犠牲、人にありては最も簡易なる方法、これ何びともその恵みに洩れざらんがためなり。すべて信ずるものの救われんためなりという。愛の極、恵みの極、神はかくのごときものなり。神の愛とはかくのごとき愛なり。しかしてキリストの福音とはかくのごとき神のかくのごとき愛をつたうるものなり。(注一○・一二七)

7月25日(金)

 わたしたちは、救われる者にとっても滅びるものにとっても、神に対するキリストのかおりである。後者とっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっておは、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。(コリント第二書二・一五〜一六)

真理を見る。真理の結果を見ない。真理の結果は、これを受けし人によって異なる。真理かならずしも人を善くしない。ある人は真理に接して、かえって前より悪くなる。あたかも蝋(ろう)は日光に接して溶け、粘土(ねばつち)はかえって堅くなると同然である。キリストの福音は国を救わずして、かえってこれを滅ぼすかも知れない。しかしながら、それゆえに福音は真理でないと言うことはできない。福音が世界多数の人に受けられないとて、それゆえに福音は神の真理にあらずと言うことはできない。これに反して、よし一人もこれを受ける者なしとするも、その真理たるは依然として明らかである。信者のふえしことは、信仰の証拠にはならない。多くの場合において、誤謬こそ、社会多数の帰依(きえ)、賛成を博するものである。真理はその結果のいかんによらずして真理である。真理の真価は社会学者の観察をもってはわからない。知恵は知恵の子に義(ただ)しとせらる。真理は真理の子によってのみ、真理なるを証明せらるるのである。(信二二・一五一)

7月24日(木)

わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。(詩篇一二一・一〜二)

キリスト信者は助けを天に仰ぐ。地に求めない。彼のすべての希望は神につながる。人にかかわらない。ゆえに彼はその常習として、上を見て、下を見ない。人はもともと上を見る動物である。彼の身体の構造が、上を見るようにできている。昔のギリシャ人が人をアンスロポスと呼んだのはそれゆえであるという。そして人が人たるの価値を自覚するに至る時に、彼は目を下に向くることをやめて、上を向くるようになる。彼の肉体は彼の精神に応じて、彼の目はおのずと上を仰ぐに至る。「われらの国は天にあり。われらは、救い主イエス・キリストの、そこより来るを待つ」(ピリピ書三・二○)とは、キリスト信者の常態である。(信二二・四九)

7月23日(水)

だから、あすのことを思いわずらうな、あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ伝六・三四)

思い過ごさざれば足れり。余は神、ことごとくこれをわれらのためになしたまわん。われらは神の造りたまいしこの完備せる宇宙に棲息(せいそく)し、万物ことごとくわれらの善のために働きうつたるにかかわらず、われらは思い煩いて悪のわれらに及ばんことをおそれる。ああ、われらは信仰薄き者なるかな。信仰は神と宇宙とを真正に解するにあり。しかしてその真善真美なるを知らずして戦々兢々として世をわたるがごときは、これ極端の無学なり。不信は罪悪と称せんよりむしろ恥辱なり。われらはわれらの常識に照らしても、神を信じ、心安く喜んで日を送るべきなり。(信七・一二九)

7月22日(土)

 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ伝六・三三)

キリスト信者はその霊魂のみならずまたその肉体をも神に任しまつるべき者であります。ゆえに彼はパン問題に彼の思想の大部分を奪われてはなりません。かく言いて、彼はもちろん遊飲坐食して他人をして自己を養わしめんとはいたしません。彼は常人のとおり商売にも農業にも工業にも従事します。外からみたる彼は世の人と少しも変わりません。しかしながらキリスト信者の農、商、工に従事するのは、世のひととは全く異(ちが)った精神をもってします。彼はいわゆる渡世のわざとしてはこれに従事しません。彼は神の命としてこれに従事します。彼は彼の職業によって自己と自己の家族を養わんとはなしません。その事は、彼はこれを神に任しまつります。彼はただ神の命に従い、神の事業として彼の職業に従事します。(信一七・一五二)

7月21日(月)

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が訪ねたので、イエスは答えていわれた、「神の国は、見られる形で来るものではない。また『見よここにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ伝一七・二○〜二一)

もしわれらに教会ありとせんか、これわれらの家庭なり。われらの書斎なり。われらの事務所なり。われらの田園なり。われらの工場なり。われらの店舗なり。われらはここに神に仕え、彼を賛美し、彼の栄光をあらわさんと欲す。われらに特別に神聖なる所あるなし。われらが座する所、立つ所、すべて神聖なり。神そこに、われらに現れて言いたもう、「なんじが立つ所は聖き地なり」(出エジプト記三・五)と。われらはその時、モーセとひとしく、そこにわれらのくつをぬぎ、そこにわれらの神を拝して、その貴き黙示に接するなり。(信八・二五○)

7月20日(日)

万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、「あなたがたの祖先をエジプトの地から導き出した日に、わたしは燔祭と犠牲とについて彼らに語ったこともなく、また命じたこともないからである。ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、『わたしの声にききしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたがたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい』と」。(エレミヤ書七・二二〜二三)

制度と生命とは両立しない。しかしながら、この世において制度も必要である。生命も必要である。しかして二者は衝突をまぬかれないのである。しかして人世とはかかるものである。人世は大矛盾である。しかしてその大矛盾の底に大調和があるのである。生命は機械力の圧迫対抗によって絶えず進歩発達するのである。造化の目的は、完全なる生命を得さしめ、豊かにこれを得さしめんためなり」(ヨハネ伝一〇・一〇)と。しかしてこの生命は外界の機械力の圧迫なしには得られないのである。圧制のない所に自由のないように、制度のない所に生命はないのである。反抗すべからざるものである。彼をしてわれを殺さしめてわが生命を完成(まっとう)すべきものである。主イエスがピトラとカヤバにおのれを殺さしめて、その生命を完成したまいしように、われらもまた今の世界勢力をしてわが上にその威力をふるわしめて、わが生命を完成すべきである。(信一八・九三)

7月19日(土)

 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ伝六・三三)

キリスト信者はその霊魂のみならずまたその肉体をも神に任しまつるべき者であります。ゆえに彼はパン問題に彼の思想の大部分を奪われてはなりません。かく言いて、彼はもちろん遊飲坐食して他人をして自己を養わしめんとはいたしません。彼は常人のとおり商売にも農業にも工業にも従事します。外からみたる彼は世の人と少しも変わりません。しかしながらキリスト信者の農、商、工に従事するのは、世のひととは全く異(ちが)った精神をもってします。彼はいわゆる渡世のわざとしてはこれに従事しません。彼は神の命としてこれに従事します。彼は彼の職業によって自己と自己の家族を養わんとはなしません。その事は、彼はこれを神に任しまつります。彼はただ神の命に従い、神の事業として彼の職業に従事します。(信一七・一五二)

7月18日(金)

そこで彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。(ヨハネ伝六・二八〜二九)

ある時は無益に一日を送りて、はなはだ済まなく感ずる。その時、「主よ、この無益のしもべをあわれみたまえ」と叫ばざるを得ない。事業なしの一日は、失われし永遠の一部分のごとくに感ぜられる。しかしながら翻りて思う、働くのみが人生ではない。労働に果てしがない。人には労働以上の仕事がある。それは信ずることである。「今われ肉体にありて生けるのは、われを愛して、わがためにおのれを捨てし者、すなわち神の子を信ずるによりて生けるなり」(カラテヤ書二・二○)である。そうして、われらがしばしば信ずることをやめて、ただ単に働かんとのみ欲するがゆえに、神はわれらより労働の機会と能力と精神とを奪いたまいて、われらをして何事をもなすあたわざらしめたもうのである。神はわれらよりまず第一に信頼の心を要求したもう。依(よ)り頼む事は、働くことよりもはるかに善き事である。(信一六・八一)

7月17日(月)

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりにいう。思うべき限界を越えておもいあがることなく、むしろ、神が各自い分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもっているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれあば奉仕をし、また教えるものであれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附をするものであれば惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。(ローマ書一二・三〜八)

謙遜とは、おのれに適せる働きを認めて、熱心をもってこれに従うとともに、自分に適せざる役目を適するごとく誤認することなく、他人の適任なるは充分にこれを認めて敬意を表し、おのおのの働きが一つ体を肢体として肝要なるものなるゆえ、互に高ぶることなく、同時に、自己に与えられし技能をっ隠さずして用うること―これすなわち謙遜である。心高ぶるなかれである。同時に、自己に与えられし才能につちて公平に思うべしである。そして一つ体の一つの肢体としてその才能を用いよである。半ば消極的にして半ば積極的です、これキリスト教的謙遜の特徴である。普通道徳家のいう謙遜に比してその差のいかに大なるよ!これクリスチャンのおこなうべき謙遜である。(注一七・一三七)

7月16日(水)

預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』と書いておるように、パプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのパブテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからパプテスマを受けた。(マルコ伝一・二〜五)

「むちと戒めとは知恵を与う。心のままになしおかれたる子はその母をはずかしむ」(箴言二九・一五)とある。厳格なる父と母とを持ちたる子は幸いである。自由解放ととなえて、「むちと戒め」とはこれをそのすべての形において排斥する者は、真理の饗筵(ふるまい)にあずかることはできない。近代人のパプテスマのヨハネをきらい、彼を避けかれによらずしてただイエスに至らんと欲して、その目的を達し得ない。まず正義の小学に学ばずして、福音の大学に入ることはできない。アンデレのごとく、まずヨハネの善き弟子でありし者が、イエスの最も善き弟子となったのである(ヨハネ伝一・三五以下)。イエスの地上のご生涯が福音の始めでありしがごとくに、その福音はまたヨハネの峻厳にして犯すべからざる生涯をもってはじまったものである。(注一五・一四) 

7月15日(火)

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マルコ伝一・一四〜一五)

イエスの伝道は福音すなわち神のみことばの宣伝をもって始まった。奇跡をもって始まらなかった。福音の要部はみことばである。奇跡はその付き添えたるにすぎない。イエスはその伝道において決して奇跡を重要視したまわなかった。彼は悪魔の誘いに従い、まず奇跡をおこないて人の注意を引き、後に彼らに道を説きたまわなかった。「時は満てり。神の国は近づけり。なんじら悔い改めて福音を信ぜよ」と。これがイエスの伝道の神髄である。「悔い改めて福音を信ぜよ」。神に対して反逆の罪をつづけ来たりし態度を改めて、天の父はなんじの帰り来るを待ち受けたもうとのことばを信ぜよと。これが福音の神髄である。(注一五・三二)

7月14日(月)

互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。(ローマ書一三・八)

人は負債をもって世に来たり、負債の下に生長し、負債を償却して世を去る。しかり、償却して去るべきである。彼は国家に負うところあり、社会に負うところあり、父母に負うところあり、教師に負うところあり、友人に負うところあり。彼はひとり生まれず、ひとり生長せず、ひとり死せず。彼自身が社会と時代との産であって、自己に顧みて「われ何びとにも負うところなし」ということはできない。しかしてこれらの負債を承認して喜んでその償却の任に当たらんと欲する者、その者が愛国者であり、公人であり、孝子であり、弟子(でし)であり、友人であるのである。(注一七・一九三)

7月13日(木)

主は彼らにその求めるものを与えられたが、彼らのうちに病気を送って、やせ衰えさせられた。(詩篇一〇六・一五)

祈祷の聞かるることは必ずしも善きことではない。それがためにかえって霊魂がやせる場合がある。この世の事業の成功を祈りて、その祈祷の聞かれし結果、信仰はおとろえ、希望は失せ、いとも無意味な生涯を送るに至りし信者はすくなくない。肉とこの世のことに関してはわれらの祈祷のきかれざることこそかえって恵みなれ。われらは肉において肥えて霊においてやせんよりは、むしろその正反対を望むべきである。(注五・一二〇)

7月12日(土)

あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである。(ペテロ第一書一・八〜九)

信仰は第一に誠実なり。第二に信頼なり。第三に実行なり。三者その一を欠いて、信仰は信仰にあらざるなり。人は信仰によって救われるというは、かかる信仰によりて救わるというなり。このほか別に信仰あることなし。また救いあることなし。信仰の道たる、蒼天(そうてん)に輝く太陽のごとくに明らかなり。(信七・一四四)

7月11日(金)

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。…あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。(マタイ伝一八・二一〜二二、三五)

罪は人の神に対する負債である。しかしてこの負債を免除されて、かれは他(ひと)のおのれに対する負債を免除せざるを得ないのである。(マタイ伝六・一二参照)。ゆるすとゆるさるるとは同時におこなわるるのである。ゆるされてゆるすのである。ゆるす心がありてゆるさるるのである。しかしてゆるしまたゆるされて、われらは自身神の聖兵となり、また堅き愛の団体となることを得て、悪魔を戦場より駆逐することができるのである。信者の活動をさまたぐるものにして、相互にゆるさざる罪のごときはないのである。宥恕の徳の欠乏よりして、信者は敵と相対してしばしば見苦しき敗北を取るのである。神にわが罪をゆるされただけでは足りない。われも他の罪をゆるすを得て、われはイスラエルの勇者となりて、一人にて千人を追い、二人にて万人を破ることが出来るのである(申命記三二・三〇)。寛仁大度は勇者の特性である。聖軍の聖兵はこの特性を欠いてはならない。(注九・一八二)

7月10日(木)

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある、神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。(ローマ書八・一五〜一七)

自由は神より来る。ゆえに自由を愛し自由を享有せんと欲する者はかみのごとくならざるべからず。すなわち神のごとく誠実に、神のごとく恭謙に、神のごとく浄潔ならざるべからず。吾人は自由の本源を知りて自由を濫用せざるに至る。自由の神聖なるは、その神の属(もの)なるがゆえなり。(信九・六八)

7月9日(水)

キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。(ガラテヤ書一・四)

国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。キリストの人格にあこがれて彼を信じたる者は終に彼を捨てる。患難(かんなん)苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、なやめる人なるかな」(ローマ書七・二四)の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じたる者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)すとも、永遠より永遠にまで彼をすてない。(信一二・八九)

7月8日(火)

しかし、ついには霊が上からわれわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、よき畑は林のごとく見られるようになる。その時、公平は荒野に住み、正義は良き畑にやどる。正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。わが民は平和の家におり、やすらかなすみかにおり、静かな休み所におる。(イザヤ書三二・一五〜一八)

神はすべての秩序の真元なり。神ありて平和あり、調和あり、美術あり、音楽あり。物質はその本性において戦乱的なり。これをしてその本性のままたらしめんか、整理なるもの、そのうちより来たるなし。神の霊そのうちに注入せらるるだけ、それだけ物質は和合一致するなり。造化がその完全に達する時は、神の霊がこれを透通する時にして、進歩の多寡はこの透通の度いかんによるなり。神の霊がわずかにその表面をおおいし時に、宇宙の混乱をきわめし時にして、同一の霊がその神髄をまで感化せし時が、その新天地となりて、新婦(はなよめ)のごとくその天よりくだる時なり。されどもいかに混乱をきわめし時といえども、神の霊のこれを放棄せし時はあらざりしなり。(注一・九二)

 

7月7日(月)

塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい。(マルコ伝九・五○)

公道をもってみずから持すべし。しかして相互に睦み和らぐべしとのことである。平和の道はこれを除いて他にないのである。すなわち各自が公道の示すところに従って歩むことである。他人の権利を侵さないことである。自己の人権を恪守することである。自個を守るに厳格なることである。いわゆる元始的公義を厳粛に実行することである。永久の平和はかくのごとくにしてきたるのである。平和は公義の黙過によりてきたると思うは大いなる誤りである。平和は妥協ではない。平和は神の平和であって永久の平和である。平和はまた必ずしも戦わないことではない。平和は公義の実現である。ゆえに人々各自がおのが内に塩すなわち公義をいだくまでは、世に完全なる平和はきたらない。イエスのこの一言に平和実現の秘訣が遺憾なく示されてある。(注一○・六一)

7月6日(日)

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。(ヨハネ伝一・九)

私のキリスト教は常識の教えである。常識と言いて、単に人間の知識をさして言うのでない。神が人類全体に賜いし知識ならびに道念をさして言うのである。私は私に起こりし特別の奇跡、または私に臨みし特別の体験によってキリストを信じたのではない。私はいわゆる「見神の実験」を持たない。神は夢または幻影(まぼろし)によって私に現われたまわなかった。私の生涯に特別の事がないではなかったが、それは何びとの生涯にもある特別であった。すなわち人は各自個性であるがゆえに、彼に特別の事あるはもちろんである。神が特別に私を恵みたりと言うは、特別に何びとをも恵みたもうと言うにとどまる。私はかく言いて、私の信仰が特別に貴くないと言わない。神の恵みは特別なるがゆえに貴いのではない。その反対に、普通なるだけそれだけ貴くある。「天の父は、その太陽を善き者にも悪しき者にも照らし、雨を義(ただ)しき者にも義しからざる者にも降らせたもう」(マタイ伝五・四五)と言う。そしてその太陽とその雨とが、人生最大の賜物(たまもの)また恩恵である。「すべての人を照らす真の光」、天上天下これよりも貴いものはない。私は神が何びとにも賜う賜物をいただいて、最大の幸福を感じる者である。(信一五・一〇二)

7月5日(土)

神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ちたらせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書かれてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えてくださるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実をまして下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことが豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るものである。(コリント第二書九・八〜一一)

「受くるよりも与うるはさいわいなり」(使徒行伝二○・三五)。そは人は与えんと欲して与うることあたわざればなり。与うるに、大なる神の能力(ちから)を要す。神より物を受くるのみならず、神より聖き霊(みたま)を賜わりて、われらの欲念を断絶せらるるにあらざれば、われらは与えんと欲して与え得ざる者なり。われらが与うるを得て喜ぶは、われらが神より与うるの心を得たればなり。(信八・一○一)

7月4日(金)

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、父の家を離れ、わたしが示す地にゆきなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。(創世記十二・一〜四)

人が自ら神に求むる時に、彼は芸術的にまたは倫理的に彼に近づかんとする。されども神が人を求めたもう時に、人は信仰をもって神にいたるよりほかに道がない。信仰は、神が備えたまいし救いの道に自己を信(まか)す事である。信仰に手段方法はなにもない。「ただ信ず」である。信仰は美しき儀式でもなければ、うるわしき思想でもない。自己の罪に見覚め、神の恩恵にいかれて、「起(た)ちて、わが父に行かん」(ルカ伝一五・一八)と言いて、彼のふところへ帰り行く事である。「神の恩恵に応ずる人の信仰」、それが真のキリスト教である。(信一四・七○)

7月3日(木)

というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。(ローマ書二・二八〜二九)

われらは人生のたいていの問題は武士道をもって解決する。正直なる事、高潔なる事、寛大なる事、これらの事についてキリスト教を煩わす必要はない。われらは祖先伝来の武士道により、これらの問題を解決して誤らないのである。されど、神の義につき、未来の審判につき、そしてこれに対する道につき、武士道は教えるところが無い。そしてこれらの重要なる問題に逢著(ほうちゃく)して、われらはキリスト教の教示を仰がざるを得ないのである。キリスト信者たる事は、日本武士以下の者たることではない。武士道を捨て、またこれを軽んずる者が、キリストの善き弟子でありようはずが無い。神が日本人より特別に求めたもう者は、武士の霊魂(たましい)にキリストを宿らせまつりし者である。(信二三・一九一)

7月2日(水)

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたを知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない。(申命記八・二〜六)

信仰は内でありまた外である。目に見ゆる外なる物の証明にあわせて、目に見えざる内なる霊の承認ありて、確乎動かざる信仰があるのである。信仰が内に限られて神秘化し、夢のごときものとなり消えやすくある。また外に限られて浅薄になり、政治、経済と類を同じゅうし、この世の勢力と化するのおそれがある。信仰もまた健全なる身体のごとくに二本の足に立たねばならぬ。外なる歴史と天然と、内なる確信と道義の上に立たねばならぬ

。(注六・七)

7月1日(火)

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見だすであろう」(マタイ伝一六・二四〜二五)

キリスト教は元来十字架の宗教である。これはただにキリストの教えではない。十字架につけられたまいしキリストの教えである。その教うるところは、われらがキリストにならって十字架につけらるることではない。キリストがわれらのために十字架につけられたまいしことである。十字架はただにキリスト教の表号(シンボル)ではない。その中心である。キリスト教全構造が依(よ)って立つところの隅(すみ)の首石(おやいし)である。罪は、十字架の上にゆるされ、また消滅され、恩恵は、十字架の成就(なしとげ)られし功徳(いさおし)を信受する条件の下に、約束せられ、また施与せらるるのである。まことに十字架なくしてキリスト教はない。今やキリスト教ならざる多くのものがキリスト教として通用するこのときに際し、われらはキリスト教を呼ぶに新しきに名をもってするの欲求を感ずる。しかして余はこの欲求に応ぜんがために、十字架教なる名を提供する。(信一五・九九)